グロースドイッチュラント師団しだん

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Panzergrenadier Division "Großdeutschland"
師団しだんマーク
活動かつどう期間きかん1942ねん‐1945ねん5がつ
国籍こくせきナチス・ドイツの旗 ドイツ
ぐんしゅ ドイツ国防こくぼうぐん
兵科へいか歩兵ほへい師団しだん 機甲きこう師団しだん
基地きちベルリン コトブス アフトゥイルカ
おも戦歴せんれきだい世界せかい大戦たいせん
どくせん

グロースドイッチュラント師団しだん(グロースドイッチュラントしだん、どく: Division Großdeutschlandだいドイツ師団しだん)は、だい世界せかい大戦たいせんにおけるドイツ国防こくぼうぐん陸軍りくぐんのエリート戦闘せんとう部隊ぶたい

装甲そうこう教導きょうどう師団しだんともに(武装ぶそう親衛隊しんえいたいふくむ)のすべての部隊ぶたいより優先ゆうせんてき最良さいりょう装備そうび支給しきゅうされた。グロースドイッチュラント(GD)師団しだんは、そのほとんどを東部とうぶ戦線せんせん活動かつどうし、1945ねん5月ピラウ近郊きんこう壊滅かいめつした。

部隊ぶたい創設そうせつ初期しょき歴史れきし - ベルリン衛兵えいへい連隊れんたい[編集へんしゅう]

GD師団しだんペナント

ヴェルサイユ条約じょうやく締結ていけつヴァイマル共和きょうわこく国防こくぼうぐん総勢そうぜい10まんにん以下いか制限せいげんされ、国内こくない退役たいえき軍人ぐんじんたちはそれぞれの政治せいじ理念りねんもとづき(たとえばドイツ義勇軍ぎゆうぐんのような)民兵みんぺいたい結成けっせいした。共産きょうさん主義しゅぎしゃファシストのグループは路上ろじょうあらそい、政権せいけん転覆てんぷく危険きけん兆候ちょうこうはじめていた。

そのような革命かくめい危機きき対応たいおうするため、1921ねん初頭しょとうベルリン衛兵えいへい連隊れんたいWachregiment Berlin)が創設そうせつされた。衛兵えいへい連隊れんたいは、まだ創立そうりつあいだもない共和きょうわこく守備しゅびするほかパレードや首都しゅと警備けいびもその任務にんむとした。衛兵えいへい連隊れんたい長続ながつづきせず、同年どうねん6がつ解散かいさんした。しかしまもなく衛兵えいへいたい司令しれいKommando der Wachtruppe)としてさい編成へんせいされ、衛兵えいへい連隊れんたいおな任務にんむについた。1934ねん部隊ぶたいベルリン衛兵えいへいたいWachtruppe Berlin)に改称かいしょうされ、1936ねんには司令しれいおよび管理かんり中隊ちゅうたいくわわり、8中隊ちゅうたいとなった。 1937ねん6がつ部隊ぶたいふたた改称かいしょうされ、今度こんどベルリン衛兵えいへい連隊れんたいWachregiment Berlin)になり、補給ほきゅう中隊ちゅうたい戦闘せんとう序列じょれつくわわった。ベルリン衛兵えいへい連隊れんたい国際こくさい会議かいぎや1936ねんベルリンオリンピックなどで来訪らいほうした貴賓きひんしゃ警護けいごなどもおこなった。

アドルフ・ヒトラーみずからのボディーガードたい創設そうせつしようとしたとき、武装ぶそう親衛隊しんえいたいとともに、ベルリン衛兵えいへい連隊れんたいからも人員じんいんいた。このボディーガードたい総統そうとう警護けいごたいばれ、最終さいしゅうてき師団しだん規模きぼ総統そうとう警護けいご師団しだんドイツばん(Führer-Begleit-Division)となった。

歩兵ほへい連隊れんたいグロースドイッチュラント - フランスおよび低地ていち諸国しょこく[編集へんしゅう]

1939ねんだい1しゅう衛兵えいへい連隊れんたいはヒトラーのいのちにより歩兵ほへい連隊れんたいグロースドイッチュラントInfanterie Regiment Großdeutschland)と改名かいめいされた。部隊ぶたい恒久こうきゅうてき組織そしきとされ、の(かく地域ちいきごとに徴兵ちょうへいされる)陸軍りくぐん連隊れんたいとはことなり、全国ぜんこくからへい徴募ちょうぼできた。1939ねん6月14にち部隊ぶたい正式せいしき発足ほっそくし、ウンター・デン・リンデンとおりをパレードしてそのことをしめした。

1939ねん9月連隊れんたいさい編成へんせいされたが、「しろ場合ばあいFall Weiß作戦さくせん」(ポーランド侵攻しんこう)には参加さんかしなかった。1940ねん5月、連隊れんたいハインツ・グデーリアン指揮しきだい19軍団ぐんだん配属はいぞくされた。どう軍団ぐんだんエヴァルト・フォン・クライストの「クライスト装甲そうこう集団しゅうだん」にぞくし、「場合ばあいFall Gelb作戦さくせん」(低地ていち諸国しょこくおよび北部ほくぶフランス侵攻しんこう)に参加さんかした。

連隊れんたいのうち1個いっこ大隊だいたいヘルマン・ゲーリング元帥げんすい要求ようきゅうによって進撃しんげき背後はいごにあるベルギー南部なんぶウィトリー(バストーニュ南方なんぽう)に空輸くうゆされることになった。

作戦さくせん初日しょにちの5がつ10日とおか連隊れんたい主力しゅりょくだい10装甲そうこう師団しだん付与ふよされ、ベルギー南部なんぶ要塞ようさい側面そくめんから包囲ほういするためルクセンブルク通過つうかする途上とじょうてき交戦こうせんした。そのよる連隊れんたい軍団ぐんだん予備よびとして抽出ちゅうしゅつされた。だい19軍団ぐんだんマースがわを5月13にちにセダン付近ふきんえた。だい3大隊だいたいとお北部ほくぶベルギーの空挺くうてい攻撃こうげきかかわっている合間あいまに、連隊れんたい主力しゅりょくだい1戦車せんしゃ師団しだん併進へいしんして渡河とか作戦さくせんおこなった。6月14にちから15にちにかけて連隊れんたいだい10戦車せんしゃ師団しだんとも戦線せんせんみなみげることに成功せいこうし、フランスぐん反撃はんげきふうじるととも橋頭堡きょうとうほ完全かんぜん確立かくりつした。グデーリアンは西にしへの進撃しんげきだい1・だい2戦車せんしゃ師団しだんのみをともなって再開さいかいし、連隊れんたいだい10戦車せんしゃ師団しだん一時いちじ後続こうぞくだい14軍団ぐんだん移管いかんされ、橋頭堡きょうとうほまもった。やがてだい29自動車じどうしゃ歩兵ほへい師団しだんくわわり、グデーリアンのだい19軍団ぐんだんとラインハルトのだい41軍団ぐんだん先鋒せんぽう部隊ぶたいだい6戦車せんしゃ師団しだん)からなる突破とっぱ部隊ぶたいみなみつばさまもった。5月17にちになるとだい10戦車せんしゃ師団しだん連隊れんたい同地どうち守備しゅび後続こうぞく部隊ぶたい引継ひきつぎ、5月17にちにはふたただい19軍団ぐんだん指揮しきはいった。だが連隊れんたい度々たびたびクライスト装甲そうこう集団しゅうだん予備よびとして抽出ちゅうしゅつされた。ストンヌ付近ふきん連隊れんたいはフランス機甲きこう部隊ぶたい激戦げきせんになり、かれらは善戦ぜんせんした。

連隊れんたいダンケルクけてきた進軍しんぐんしたとき、アラスイギリスぐん反撃はんげきけた。そのふたただい19軍団ぐんだん配属はいぞくされ、新規しんきどう軍団ぐんだん配属はいぞくされたSS歩兵ほへい連隊れんたいアドルフ・ヒトラーともだい2戦車せんしゃ師団しだん付与ふよされ、ダンケルク包囲ほういせん参加さんかした。その、グデーリアンはしん編成へんせいのグデーリアン戦車せんしゃ集団しゅうだんだい1戦車せんしゃ師団しだんおよだい2戦車せんしゃ師団しだんだい29自動車じどうしゃ歩兵ほへい師団しだんからなるだい39軍団ぐんだんおよだい41軍団ぐんだん所属しょぞく)ととも南東なんとうすすむしてスイス国境こっきょうかい、連隊れんたいだい10戦車せんしゃ師団しだんともにクライスト装甲そうこう集団しゅうだん所属しょぞくして南西なんせい進撃しんげきし、セーヌがわ渡河とか攻撃こうげきのちリヨンにいたときフランス降伏ごうぶくした。パリ戦勝せんしょうパレードに参加さんかしたのち連隊れんたいは「アシカ作戦さくせん」の準備じゅんびのためにきたフランスへおくられた。アシカ作戦さくせん中止ちゅうし決定けっていすると、つぎは「フェリックス作戦さくせん」(ジブラルタル侵攻しんこう計画けいかく)の準備じゅんびのためみなみフランスへおくられた。

ユーゴスラビア - バルバロッサ作戦さくせん[編集へんしゅう]

フェリックス作戦さくせん中止ちゅうしになったのち、グロースドイッチュラントはそのとき進行しんこうちゅうだったユーゴスラビア侵攻しんこうくわわるため、ルーマニア移動いどうした。ほん作戦さくせん連隊れんたい任務にんむだい部分ぶぶんは、崩壊ほうかいしたユーゴスラビアぐん追撃ついげきすることだった。だい1大隊だいたいベオグラード占領せんりょう役目やくめにない、その連隊れんたいは「バルバロッサ作戦さくせん」の準備じゅんびのためにポーランドもどった。

ソビエト侵攻しんこうのため、連隊れんたいフェードア・フォン・ボック中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん麾下きかだい2装甲そうこう集団しゅうだん(グデーリアン指揮しき)所属しょぞくだい46軍団ぐんだん(自動車じどうしゃ)に配属はいぞくされた。6月22にちバルバロッサ作戦さくせん発動はつどうしたが、だい46軍団ぐんだんだい2装甲そうこう集団しゅうだん予備よびとして後方こうほう待機たいきし25にち前進ぜんしん開始かいしした。連隊れんたいは27にち深夜しんやブレスト-リトフスクきた国境こっきょうブークがわえ、30にちだい2装甲そうこう集団しゅうだん直轄ちょっかつとなりミンスク西にし包囲ほういしたソ連それんぐん脱出だっしゅつ阻止そしするためバラノヴィチ北東ほくとう展開てんかい防御ぼうぎょ行動こうどう遂行すいこうした。

7がつ3にち連隊れんたい前進ぜんしん命令めいれい移動いどうだい10装甲そうこう師団しだん(だい46軍団ぐんだん)の指揮しきはいり11にちシクロフみなみドニエプルがわわた橋頭堡きょうとうほ確保かくほ後続こうぞく到着とうちゃくする16にちまでモギレフ包囲ほうい一翼いちよくになった。17にち命令めいれい前進ぜんしんし21にちからロスラヴリからのスモレンスク救援きゅうえんソ連それんカチャロフ集団しゅうだん部隊ぶたい阻止そしするためヴァシコヴォ(Васьково)のみなみ防御ぼうぎょせん構築こうちく交戦こうせん、27にちだい18装甲そうこう師団しだん交替こうたいエリニャ移動いどう、30にちにエリニャのきた展開てんかいした。

8がつ6にち休養きゅうようさい編成へんせいのためだい15歩兵ほへい師団しだん交替こうたいしヴァシコヴォに移動いどうしたが9にちスモレンスクひがしのプリドネプロヴスカヤ(Приднепровская)におくられ警戒けいかい任務にんむいた。19にちだい263歩兵ほへい師団しだん交替こうたい再度さいどヴァシコヴォ地区ちく移動いどう休養きゅうようはいった。25にち連隊れんたい最初さいしょ騎士きしじゅうあきらだい4中隊ちゅうたいちょうヘナート中尉ちゅうい受勲じゅくんした。30にちよるだい2装甲そうこう集団しゅうだん側面そくめん防護ぼうご命令めいれいみなみ移動いどう開始かいしした。

9月2にちノヴゴロド-セヴェルスキデスナがわわただい4装甲そうこう師団しだんわって橋頭堡きょうとうほ保持ほじ、4にちよるだい17装甲そうこう師団しだん交替こうたいだい24軍団ぐんだん(自動車じどうしゃ)の左側ひだりがわめん警戒けいかい補給ほきゅう保持ほじのためみなみ移動いどう、7にちフルヒフ占領せんりょうした。 前進ぜんしんつづけ、11にちにプティヴリを制圧せいあつしプティヴリみなみセイムかわわた橋頭堡きょうとうほ構築こうちく、14にちジェイロヴカ(Жиловка)をとしコノトプ東部とうぶのセイム川南かわみなみソ連それんぐん包囲ほういするため西にし変針へんしん、17にちスヴィエチキノ(Свечкино)を占領せんりょうひがし移動いどうし20にちヂャキヴカ(Дякiвка)、22にちクリモヴカの分岐ぶんきえき到達とうたつした。 その連隊れんたいだい46軍団ぐんだんからだい2装甲そうこう集団しゅうだん直轄ちょっかつとなりプティヴリ〜ヂャキヴカ〜バダコフえき〜ヴィル(Вир)かわ防御ぼうぎょせん保持ほじすることになった。

10月3にちだい16自動車じどうしゃ歩兵ほへい師団しだん(だい48軍団ぐんだん(自動車じどうしゃ))と交替こうたいしロスラヴリに移動いどうしたが11にちヒトラーの命令めいれいブリャンスク北東ほくとう包囲ほういしたソ連それんぐん脱出だっしゅつ阻止そしのためロスラヴリからカラチェフ前進ぜんしんだい18装甲そうこう師団しだん(だい47軍団ぐんだん(自動車じどうしゃ))の指揮しきはいりカラチェフ北部ほくぶもり展開てんかい交戦こうせん、14にちにヘナート中尉ちゅうい戦死せんしした。17にちから歩兵ほへい師団しだん交替こうたいオリョール移動いどう、そこで数日すうじつあいだ休養きゅうようあたえられた。 24にちだい24軍団ぐんだんムツェンスク北東ほくとうこう地帯ちたいへの攻撃こうげき参加さんかのためオリョールから移動いどうだい4歩兵ほへい旅団りょだん(4.Schützen-Brigade)の指揮しきはいり228.1高地こうち占領せんりょう、25にちだい3装甲そうこう師団しだんともにチェルニを突破とっぱ、26にちプラヴスク近郊きんこう到達とうたつ、29にちだい5戦車せんしゃ旅団りょだん(5.Panzer-Brigade)に配属はいぞくされトゥーラ占領せんりょう目指めざ攻撃こうげき開始かいししたが失敗しっぱい連隊れんたいは31にちから11がつまつまでトゥーラ郊外こうがい防御ぼうぎょ転換てんかんした。

12月2にちのトゥーラ攻撃こうげきのため連隊れんたいヴェニョーフみなみ移動いどうだい1大隊だいたいだい3装甲そうこう師団しだん配属はいぞくされた。2にちドゥプキを通過つうかしドロフェエヴォに前進ぜんしん、3にちコロデスノエ(Колодезное)に到達とうたつだい17中隊ちゅうたい警戒けいかいのこだい2、だい3大隊だいたいだい3歩兵ほへい連隊れんたい(Schützen-Regiment 3)と交替こうたいするため前進ぜんしんした。4にち深夜しんやコロデスノエを襲撃しゅうげきされだい5大隊だいたい本部ほんぶだい17中隊ちゅうたいだい隊長たいちょうフォン・レントクツェ少佐しょうさふく兵士へいし多数たすうころされ、突撃とつげきほう1りょう多数たすう装備そうびうしなった。 ソ連それんぐん反抗はんこう開始かいしされ7にち連隊れんたいはトゥーラの南東なんとう後退こうたいはじめ、21にちボルホフ地区ちく移動いどうしボルホフきたオカがわ戦線せんせんで3歩兵ほへい師団しだん支援しえん防御ぼうぎょせんおこなった。

ソ連それんぐん冬季とうき攻勢こうせい連隊れんたい非常ひじょうおおきな損耗そんこうこうむり、2がつ1にち損害そんがいおおきかっただい2大隊だいたい解散かいさんさせられ、生存せいぞんしゃ大隊だいたいけられた。19にちには、2歩兵ほへい大隊だいたい1個いっこ大隊だいたい改編かいへんされた。9ヶ月かげつ以上いじょうわた激戦げきせんのち連隊れんたい補充ほじゅうけるため後方こうほう移動いどうした。解散かいさんさせられた大隊だいたい再生さいせいし、連隊れんたいすう週間しゅうかん休暇きゅうかあたえられた。

歩兵ほへい師団しだんグロースドイッチュラント 1942ねん[編集へんしゅう]

オリョール近郊きんこう補充ほじゅうさい装備そうびけた連隊れんたいさい編成へんせい増強ぞうきょうをうけ、自動車じどうしゃ歩兵ほへい師団しだんグロースドイッチュラントInfanterie-Division Großdeutschland)となった。既存きそん連隊れんたいはグロースドイッチュラントだい1歩兵ほへい連隊れんたいとなり、あらたにグロースドイッチュラントだい2歩兵ほへい連隊れんたい、オートバイ狙撃そげきへい大隊だいたいGDがくわわった。そのだい100戦車せんしゃ連隊れんたいだい1大隊だいたい基幹きかんとして戦車せんしゃ大隊だいたいGD、だい192突撃とつげきほう大隊だいたい基幹きかんとして突撃とつげきほう大隊だいたいGD、だい643戦車せんしゃ駆逐くちく大隊だいたい基幹きかんとして戦車せんしゃ駆逐くちく大隊だいたいGD、だい622砲兵ほうへい連隊れんたい本部ほんぶだい400砲兵ほうへい大隊だいたいだい109砲兵ほうへい連隊れんたいだい1大隊だいたいだい646砲兵ほうへい大隊だいたいから砲兵ほうへい連隊れんたいGDが編成へんせいされ、だい285陸軍りくぐんたい空砲くうほう大隊だいたい対空たいくうほう大隊だいたいGD、だい43突撃とつげき工兵こうへい大隊だいたい工兵こうへい大隊だいたいGDとして、それぞれ師団しだん編入へんにゅうされた。

さい編成へんせい師団しだんは「あお場合ばあい(Fall Blau)作戦さくせん」においてだい48装甲そうこう軍団ぐんだん所属しょぞくとなり、スターリングラード攻防こうぼうせん投入とうにゅうされた。師団しだんドンがわ渡河とかおよびヴォロネジ占領せんりょう役目やくめになった。8がつ師団しだんドネツがわ北岸ほくがん後退こうたいし、機動きどう予備よびおよび反撃はんげき部隊ぶたいとしてかれた。赤軍せきぐんの「マーズ作戦さくせん」(ソ連それんぐんルジェフRzhev突出とっしゅつ攻撃こうげき作戦さくせん)により、師団しだんはルジェフ近郊きんこうはげしいゆきちゅうせんひろげた。

ハリコフ[編集へんしゅう]

ルジェフ戦後せんご1943ねん1がつ23にちまでにハリコフ地区ちくおくられた。グロースドイッチュラントとだい48装甲そうこう軍団ぐんだんは、だい2SS装甲そうこう軍団ぐんだんSS装甲そうこう擲弾へい師団しだんLSSAHSS装甲そうこう擲弾へい師団しだんダス・ライヒSS装甲そうこう擲弾へい師団しだんトーテンコプフとともにだいさんハリコフ攻防こうぼうせん参加さんかした。 このあいだ戦車せんしゃ連隊れんたい編成へんせいされ、戦闘せんとう投入とうにゅうされた。このときティーガーI戦車せんしゃ1個いっこ中隊ちゅうたい配備はいびされている。通常つうじょう装甲そうこう師団しだんがティーガー戦車せんしゃつことはなく、また武装ぶそうSS師団しだん以外いがい唯一ゆいいつティーガー戦車せんしゃ配備はいびされた師団しだんだった(通常つうじょうティーガー戦車せんしゃ独立どくりつじゅう戦車せんしゃ大隊だいたい配備はいびされる)。 ハリコフせん終了しゅうりょう師団しだん補充ほじゅうのために後方こうほうがった。

装甲そうこう擲弾へい師団しだんグロースドイッチュラント[編集へんしゅう]

1943ねん、クルスクでのGD師団しだん

1943ねん6がつ装甲そうこう兵員へいいん輸送ゆそうしゃおよびティーガー戦車せんしゃ配備はいびけて、師団しだん装甲そうこう擲弾へい師団しだんグロースドイッチュラントとなった。このとき完全かんぜん装備そうび装甲そうこう師団しだんよりおおくの装甲そうこう車両しゃりょう配備はいびされていた。

クルスク[編集へんしゅう]

あたらしくさい装備そうびされた師団しだんヘルマン・ホトだい4装甲そうこうぐん配属はいぞくされ、SS装甲そうこう軍団ぐんだんとともにクルスクてき突出とっしゅつ分断ぶんだんするチタデレ作戦さくせん主力しゅりょくをつとめた。作戦さくせん期間きかんちゅう新型しんがたパンターDがた戦車せんしゃ編制へんせいされたフォン・ラオハート戦車せんしゃ連隊れんたいがグロースドイッチュラントの作戦さくせん統制とうせいかれた。

作戦さくせん開始かいし師団しだんはクルスク突出とっしゅつ南側みなみがわめんから突入とつにゅう激戦げきせんとなった。新型しんがたのパンター戦車せんしゃ戦闘せんとうはいまえおおくの車両しゃりょうがエンジンの発火はっか停止ていしなど技術ぎじゅつてき問題もんだいなやまされた。師団しだんは1943ねん7がつ18にちトマロフカ(Tomarovka)に撤退てったいするまでたたかった。

防衛ぼうえいせん[編集へんしゅう]

クルスク攻撃こうげき中止ちゅうしとなったのち師団しだんだい51戦車せんしゃ大隊だいたい(パンター)がGD戦車せんしゃ連隊れんたい配属はいぞく中央ちゅうおうぐん集団しゅうだんおくられてカラチョフ周辺しゅうへん激戦げきせんひろげた。8月3にちソ連それんぐんはルミヤンツェフ作戦さくせん開始かいし師団しだん南方なんぽうぐん集団しゅうだんもどされた。GD戦車せんしゃ連隊れんたいだい3大隊だいたいとして編成へんせいされたティーガー大隊だいたい合流ごうりゅうし、アフトゥイルカで防御ぼうぎょ戦闘せんとうおこなう。

9月15にち、ドニエプルがわへの撤退てったい命令めいれいされ、グロースドイッチュラントは後衛こうえい任命にんめいされた。GD戦車せんしゃ連隊れんたいだい1大隊だいたいはパンターで刷新さっしんするためフランスのブールジュ列車れっしゃ輸送ゆそうされた。かれらは44ねん11がつまで師団しだん復帰ふっきすることはなかった。師団しだん遅滞ちたい行動こうどう展開てんかいし、クレメンチュークでドニエプルがわわたった。10月以降いこうミチューリン・ログ近郊きんこうクリヴォイ・ログ東部とうぶ強力きょうりょくてき部隊ぶたいたたかいながらとしえた。この期間きかん師団しだんは“火消ひけ部隊ぶたい”("die Feuerwehr")とばれた。

1944ねん[編集へんしゅう]

1944ねん5がつ戦車せんしゃ破壊はかいした功績こうせきとなえられ、戦車せんしゃ撃破げきはあきらおくられるへい
1944ねん8がつ東部とうぶ戦線せんせんでのGD師団しだん

1944ねん1がつはじめ、グロースドイッチュラントはクリヴォイ・ログ地区ちくからキロヴォグラート移動いどうした。だい26戦車せんしゃ連隊れんたいだい1大隊だいたい(パンター)がだい51戦車せんしゃ大隊だいたいわって配属はいぞくされた。1がつ下旬げじゅん、GD戦車せんしゃ連隊れんたいだい9中隊ちゅうたい(ティーガー)がチェルカースィ包囲ほういせんかかわった。

3月4にちだい2およびだい3ウクライナ方面ほうめんぐんによる南方なんぽうぐん集団しゅうだん中央ちゅうおうおよび南側みなみがわめんたいするだい規模きぼ攻勢こうせいはじまった。キロヴォグラート南西なんせいのグロースドイッチュラントはロヴノイェへ後退こうたいした。3月16にち師団しだん撤退てったい開始かいしし、3月のわりにはドニエストルがわえルーマニアにはいった。

4がつ、グロースドイッチュラントはだい57装甲そうこう軍団ぐんだん配属はいぞくされた。ヤシ近郊きんこう防衛ぼうえいせんおこない、徐々じょじょモルダヴィアトゥルグ・フルモス(Târgu Frumos)へ後退こうたい、ここで1ヶ月かげつ以上いじょう激戦げきせんつづけた。5月2にちソ連それんぐんあらたな攻勢こうせいはじまった。これはグロースドイッチュラント師団しだん突破とっぱし、ルーマニア油田ゆでん進出しんしゅつしようとしたものだった。ここでおこなわれたトゥルグ・フルモスのたたかにおけるグロースドイッチュラントの防御ぼうぎょ戦闘せんとう冷戦れいせん時代じだいNATOでさまざまな研究けんきゅうおこなわれた。

5がつ下旬げじゅん、トゥルグ・フルモスせんのち平穏へいおん数日すうじつおとず陣地じんち改善かいぜんさい編成へんせい休息きゅうそく利用りようされた。けい歩兵ほへい連隊れんたいだい1大隊だいたいSd Kfz 251装備そうびするため帰国きこくし、けい歩兵ほへい連隊れんたいは4大隊だいたいから3大隊だいたい縮小しゅくしょうされ、捜索そうさく大隊だいたい装甲そうこう車両しゃりょう配備はいびされた。6がつはじめ、ヤシにあらたな攻勢こうせい徴候ちょうこうがあり師団しだんはPodul Iloaiei地区ちくでの作戦さくせん投入とうにゅうされた。作戦さくせん終了しゅうりょうバカウ地区ちく移動いどうし7がつ下旬げじゅんまで休養きゅうよう。このあいだけい歩兵ほへい連隊れんたいだい1大隊だいたいもどった。

7がつ下旬げじゅんから師団しだんひがしプロイセン移動いどうし、8がつはじめ、ヴィルカヴィシュキス奪還だっかん作戦さくせん投入とうにゅうされそのバルトさんこく転戦てんせんした。9月はじめ、GD戦車せんしゃ連隊れんたいだい2大隊だいたいさい編成へんせいのためひがしプロイセンにおくられた。大隊だいたいのち総統そうとう護衛ごえい旅団りょだん配属はいぞくされ師団しだんもどらなかった。10月から11がつ下旬げじゅんまで師団しだんメーメル橋頭堡きょうとうほ防御ぼうぎょせんおこなう。一連いちれん戦闘せんとうへいおよび装備そうび多大ただい損耗そんこうこうむった。

11月まつからグロースドイッチュラント師団しだん崩壊ほうかいしつつあったメーメル橋頭堡きょうとうほからフェリーでひがしプロイセンにもどされOKH予備よびとなり、「44ねんがた戦車せんしゃ師団しだん編制へんせい(Gliederung der Panzerdivision 44)」にしたがってさい編成へんせいするよう命令めいれいされた。

装甲そうこう軍団ぐんだんグロースドイッチュラント[編集へんしゅう]

1944ねん12月14にち[1]、グロースドイッチュラント師団しだんと、その戦歴せんれきなかでグロースドイッチュラントとふか関係かんけいブランデンブルク師団しだんの2師団しだん指揮しきするため装甲そうこう軍団ぐんだんグロースドイッチュラントPanzerkorps Großdeutschland)が編成へんせいされた。

12月13にち、グロースドイッチュラント師団しだんから突撃とつげきほう旅団りょだんがブランデンブルク戦車せんしゃ連隊れんたいだい2大隊だいたい編入へんにゅうされ、12月20にちには擲弾へい連隊れんたいだい3大隊だいたいけい歩兵ほへい連隊れんたいだい1大隊だいたい戦車せんしゃ連隊れんたいだい3大隊だいたい(ティーガー)、砲兵ほうへい連隊れんたいだい4大隊だいたい軍団ぐんだん直轄ちょっかつ部隊ぶたいとなり転出てんしゅつした。

1945ねん1がつ12にち、ロシアぐん攻勢こうせいはじまり、ラステンブルク地区ちく師団しだんはプシャスニシ南部なんぶでの反撃はんげき命令めいれい移動いどうだい302戦車せんしゃ大隊だいたい(Fkl)がGD戦車せんしゃ連隊れんたい配属はいぞくされ、だい7装甲そうこう軍団ぐんだん指揮しきたたかう。一方いっぽう総統そうとう命令めいれいにより装甲そうこう軍団ぐんだんグロースドイッチュラント司令しれいとブランデンブルク師団しだんウッチ地区ちく移動いどうした。26にち、グロースドイッチュラント師団しだん戦線せんせん離脱りだつケーニヒスベルク移動いどう降下こうか装甲そうこう軍団ぐんだんヘルマン・ゲーリングの指揮しきはいり、30にち、ケーニヒスベルク南西なんせいのブランデンブルク周辺しゅうへん展開てんかいした。

3月23にちはげしい防御ぼうぎょ戦闘せんとうすえ、バルガ半島はんとうしやられ、29にち海軍かいぐん上陸じょうりくよう舟艇しゅうていにより脱出だっしゅつした。グロースドイッチュラント師団しだん人員じんいんが4,000めい前後ぜんこうまで減少げんしょうしていた。

4がつ師団しだんはザームラントへわた戦闘せんとう続行ぞっこう4がつ25にち師団しだんピラウ周辺しゅうへん戦闘せんとう完全かんぜん壊滅かいめつした。数少かずすくない残余ざんよのうちすうひゃくめいシュレースヴィヒ=ホルシュタインまで海路かいろ撤退てったいし、イギリスぐん投降とうこうした。おおくの兵士へいしりにされ、ソ連それんぐんへの投降とうこう余儀よぎなくされた。かれらはいつともしれないあいだ、たびたび危険きけん直面ちょくめんしながらソ連それん強制きょうせい労働ろうどう収容しゅうようしょグラグ)ではたらかされることになった。

1945ねん初頭しょとう、グロースドイッチュラントの一部いちぶから装甲そうこう擲弾へい師団しだんクーアマーク(Panzergrenadier Division Kurmark)を創設そうせつし、戦争せんそう最後さいごいちヶ月かげつたたかつづけた。ブランデンブルクおよびクーアマークの部隊ぶたいへいはグロースドイッチュラントの部隊ぶたいしょうにつけていた。

グロースドイッチュラント 部隊ぶたいあきら[編集へんしゅう]

グロースドイッチュラント師団しだんのカフタイトル(袖章そでしょう

かれらはエリート部隊ぶたいあかしとして、独自どくじ部隊ぶたいしょうもちいていた。師団しだんめい頭文字かしらもじからった“GD”のくみ文字もじ肩章けんしょうようモノグラムにくわえ、師団しだんめいめいじした(武装ぶそうSSにあたえられるタイプとたスタイルの)カフタイトルくばられた。この袖章そでしょう初期しょきがた後期こうきがた存在そんざいし、1939ねん制定せいていされた初期しょきがたフラクトゥールばれる書体しょたいかれた緑地りょくちのもので、1940ねん制定せいていされた後期こうきがたジュッターリンたいばれる書体しょたいかれた黒地くろじのものだった(画像がぞう参照さんしょう)。訓練くんれん終了しゅうりょうしたすべての師団しだん要員よういんがこの袖章そでしょうをつけることゆるされ、親衛隊しんえいたい袖章そでしょうひだりそでにつけたことから、陸軍りくぐん部隊ぶたいであることをしめすためグロースドイッチュラントではみぎそで袖口そでぐちから15cmの場所ばしょ袖章そでしょうけた。ただし当時とうじ写真しゃしんかぎかならずしも位置いち正確せいかくまもられていたわけではなかった。

戦闘せんとう序列じょれつ[編集へんしゅう]

装甲そうこう擲弾へい師団しだんグロースドイッチュラント 1943ねん9がつ

  • 師団しだん司令しれいおよび司令しれい中隊ちゅうたい
  • 憲兵けんぺいたい(Feldgendarmerie)- 小隊しょうたい規模きぼ
  • 報道ほうどうたい(Kriegsberichter)- 小隊しょうたい規模きぼ[2]
  • GD 装甲そうこう擲弾へい連隊れんたいPanzergrenadier-Regiment “Großdeutschland”
  • GD 装甲そうこうけい歩兵ほへい連隊れんたいPanzerfüsilier-Regiment “Großdeutschland”[3]
  • GD 戦車せんしゃ連隊れんたいPanzer-Regiment “Großdeutschland”
  • GD 装甲そうこう砲兵ほうへい連隊れんたいPanzer-Artillerie-Regiment “Großdeutschland”
  • GD 装甲そうこう捜索そうさく大隊だいたいPanzer-Aufklärungs-Abteilung “Großdeutschland”
  • GD 戦車せんしゃりょうへい大隊だいたいPanzerjäger-Abteilung “Großdeutschland”
  • GD 陸軍りくぐんたい空砲くうほう大隊だいたいHeeres-Flakartillerie-Abteilung “Großdeutschland”
  • GD 突撃とつげき工兵こうへい大隊だいたいSturmpionier-Bataillon “Großdeutschland”
  • GD 突撃とつげきほう大隊だいたいSturmgeschütz Battalion “Großdeutschland”
  • GD 通信つうしん大隊だいたいNachrichten-Abteilung “Großdeutschland”
  • 衛生えいせい大隊だいたい
  • 補給ほきゅう部隊ぶたい

歴代れきだい団長だんちょう[編集へんしゅう]

歩兵ほへい師団しだん GD (1942ねん4がつ1にち - 1943ねん6がつ1にち
装甲そうこう擲弾へい師団しだん GD (1943ねん7がつ - 1945ねん8がつ
ヴァルター・ヘルンライン(Walter Hoernlein)少将しょうしょうこう 中将ちゅうじょう 1942ねん4がつ1にち - 1944ねん1がつ27にち
ヘルマン・バルク装甲そうこう兵科へいか大将たいしょう臨時りんじ 1943ねん4がつ3にち - 1943ねん6がつ30にち
ハッソ・フォン・マントイフェル大将たいしょう 1944ねん1がつ27にち - 1944ねん9がつ1にち
カール・ロレンツ(Karl Lorenz)大佐たいさ 1944ねん9がつ1にち - 1945ねん5がつ

戦争せんそう犯罪はんざい[編集へんしゅう]

Hamburg Institute for Social Researchへん German Army and Genocide (ISBN 1565845250)のなかで、ユーゴスラビア侵攻しんこうこった事件じけんについて言及げんきゅうされている。

パンチェボで一人ひとりのドイツ兵士へいしたれ重傷じゅうしょうったとき、国防こくぼうぐんおよび武装ぶそうSS兵士へいしやく100めい市民しみん無作為むさくいらえた。まちにいた指揮しきかんフリッツ・バンデロー中佐ちゅうさ軍法ぐんぽう会議かいぎ裁判さいばんちょうをつとめ、ルドルフ・ホフマンSS少佐しょうさは36めい死刑しけい宣告せんこくした。

1941ねん4がつ21にち、4めい市民しみん最初さいしょ射殺しゃさつされ、翌日よくじつ以降いこうに18めい犠牲ぎせいしゃ墓地ぼち絞首刑こうしゅけいになり、14めい以上いじょう墓地ぼちかべまえ国防こくぼうぐんグロースドイッチュラント連隊れんたい所属しょぞく死刑しけい執行しっこうたいにより銃殺じゅうさつされた。

— German Army and Genocide 42ページ

写真しゃしん一部いちぶ本書ほんしょ掲載けいさいされており、GDの腕章わんしょうをつけた士官しかん鮮明せんめいうつっている。ヘルムート・シュペーターによる公式こうしきのGD師団しだんには、ベオグラードにおいて「一般いっぱん市民しみん集団しゅうだん略奪りゃくだつめるため、時折ときおりきわめてきびしい措置そちをとる必要ひつようがあった。」とだけべている。この4がつ21にちのパンチェボでの事件じけん直接ちょくせつ審議しんぎされたことはないにもかかわらず、ユーゴスラビアでおこなわれた“治安ちあん維持いじ任務にんむ”として数多かずおおげられている。

グロースドイッチュラントの戦争せんそう犯罪はんざい共謀きょうぼう関係かんけいについて、オマー・バルトフちょ The Eastern Front, 1941-45, German Troops, and the Barbarization of Warfare(1986, ISBN 0-312-22486-9) でべられているが、グロースドイッチュラントと残虐ざんぎゃく行為こうい関連かんれんせいかんしては十分じゅうぶん解明かいめいされていない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ マクシム・コロミーエツちょ小松こまついさおじんやく高橋たかはしけい監修かんしゅう『1945ねんのドイツ国防こくぼうぐん戦車せんしゃ部隊ぶたい』p.29より
  2. ^ 新兵しんぺい徴募ちょうぼおよび宣伝せんでん活動かつどうおこなう。師団しだんがこのよう部隊ぶたいをもつのはきわめてめずらしい。
  3. ^ けい歩兵ほへい連隊れんたい(Füsilier-Regiment)はドイツ国防こくぼうぐんにおいてはだい大戦たいせん中期ちゅうきから使用しようされはじめた兵科へいかで、偵察ていさつ任務にんむ目的もくてきとした歩兵ほへい部隊ぶたいである。ただしこの兵科へいか部隊ぶたいゆうしている師団しだんはごく一部いちぶかぎられた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

出版しゅっぱんぶつ[編集へんしゅう]

  • Jung, Hans Joachim (c1990s). The History of Panzerregiment "Grossdeutschland" (English Translation). Winnipeg, Canada: J.J. Fedorowicz. ISBN 0921991517 
  • de Lannoy, François and Jean-Claude Perrigault. La division Grossdeutschland ("The Grossdeutschland Division from Regiment to Panzerkorps 1939-1945") French edition, Editions Heimdal 
  • Lee, Cyrus A. (1993). Soldat: The World War Two German Army Combat Uniform Collector's Guide (Volume V: Uniforms and Insignia of Panzerkorps Grossdeutschland 1939-1945). Missoula, MT: Pictorial Histories Publishing Company. ISBN 0929521765 
  • Lucas, James (1978). Germany's Elite Panzer Force: Grossdeutschland. London: MacDonald's and Jane's. ISBN 0354011650 
  • McGuirl, Thomas & Remy Spezzano (1997). God, Honor, Fatherland: A photo history of Panzergrenadier Division "Grossdeutschland" on the Eastern Front. 1942 - 1944. Southbury (Connecticut, USA). ISBN 0965758400 
    • 邦訳ほうやく: トーマス・マクギール、レミー・スペツァーノ『“グロースドイッチュランド”師団しだん写真しゃしん東部とうぶ戦線せんせんにおけるGD機甲きこう擲弾へい師団しだん1942‐1944』岡崎おかざき 淳子じゅんこ富岡とみおか 吉勝よしかつだい日本にっぽん絵画かいが、1999ねんISBN 978-4499226974 
  • Novotny, Alfred (2002). THE GOOD SOLDIER: FROM AUSTRIAN SOCIAL DEMOCRACY TO COMMUNIST CAPTIVITY WITH A SOLDIER OF PANZER-GRENADIER DIVISION "GROSSDEUTSCHLAND". The Aberjona Press. ISBN 0966638999 
  • Quarrie, Bruce (1977 (US 1978)). Panzer-Grenadier Division "Grossdeutschland". VANGUARD series book. London, UK (Warren, MI.): Osprey Publishing Group, (US version Squadron/Signal Publications). ISBN 0850450551 
  • Scheibert, Horst (Bruce Culver Editor) (1987). Panzer Grenadier Division Grossdeutschland. Carrollton, TX: English version by Squadron Signal Publications. ISBN 0897470613 
  • Sharpe, Michael and Brian L. Davis (2001). GROSSDEUTSCHLAND: Guderian's Eastern Front Elite. Compendium Publishing Ltd.. ISBN 0-7110-2854-0 
  • Solarz, Jacek (2005). Division/Korps "Großdeutschland" 1943-1945 Vol. I and II. Warsaw: Wydawnictwo "Militaria". ISBN 8372192375 
  • Spaeter, Helmut (c1990s). The History of the Panzerkorps Grossdeutschland Vol I-III (English Translation). Winnipeg, Canada: J.J. Fedorowicz. ISBN 0921991509 
  • Spaeter, Helmut (1990). Panzerkorps Grossdeutschland: A Pictorial History (English Translation). USA: Schiffer Books. ISBN 0887402453 

Webリソース[編集へんしゅう]