グロースドイッチュラント師団 しだん (グロースドイッチュラントしだん、独 どく : Division Großdeutschland 、大 だい ドイツ師団 しだん )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん におけるドイツ 国防 こくぼう 軍 ぐん 陸軍 りくぐん のエリート戦闘 せんとう 部隊 ぶたい 。
装甲 そうこう 教導 きょうどう 師団 しだん と共 とも に(武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい を含 ふく む)他 た のすべての部隊 ぶたい より優先 ゆうせん 的 てき に最良 さいりょう の装備 そうび を支給 しきゅう された。グロースドイッチュラント(GD)師団 しだん は、そのほとんどを東部 とうぶ 戦線 せんせん で活動 かつどう し、1945年 ねん 5月 、ピラウ 近郊 きんこう で壊滅 かいめつ した。
部隊 ぶたい の創設 そうせつ と初期 しょき の歴史 れきし - ベルリン衛兵 えいへい 連隊 れんたい [ 編集 へんしゅう ]
GD師団 しだん ペナント
ヴェルサイユ条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご 、ヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 国防 こくぼう 軍 ぐん は総勢 そうぜい 10万 まん 人 にん 以下 いか に制限 せいげん され、国内 こくない の退役 たいえき 軍人 ぐんじん 達 たち はそれぞれの政治 せいじ 理念 りねん に基 もと づき(たとえばドイツ義勇軍 ぎゆうぐん のような)民兵 みんぺい 隊 たい を結成 けっせい した。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ とファシスト のグループは路上 ろじょう で争 あらそ い、政権 せいけん 転覆 てんぷく の危険 きけん な兆候 ちょうこう が見 み え始 はじ めていた。
そのような革命 かくめい の危機 きき に対応 たいおう するため、1921年 ねん 初頭 しょとう 、ベルリン衛兵 えいへい 連隊 れんたい (Wachregiment Berlin )が創設 そうせつ された。衛兵 えいへい 連隊 れんたい は、まだ創立 そうりつ 間 あいだ もない共和 きょうわ 国 こく を守備 しゅび するほかパレードや首都 しゅと の警備 けいび もその任務 にんむ とした。衛兵 えいへい 連隊 れんたい は長続 ながつづ きせず、同年 どうねん 6月 がつ に解散 かいさん した。しかしまもなく衛兵 えいへい 隊 たい 司令 しれい 部 ぶ (Kommando der Wachtruppe )として再 さい 編成 へんせい され、衛兵 えいへい 連隊 れんたい 時 じ と同 おな じ任務 にんむ についた。1934年 ねん 、部隊 ぶたい はベルリン衛兵 えいへい 隊 たい (Wachtruppe Berlin )に改称 かいしょう され、1936年 ねん には司令 しれい 部 ぶ および管理 かんり 中隊 ちゅうたい が加 くわ わり、8個 こ 中隊 ちゅうたい となった。 1937年 ねん 6月 がつ 、部隊 ぶたい は再 ふたた び改称 かいしょう され、今度 こんど はベルリン衛兵 えいへい 連隊 れんたい (Wachregiment Berlin )になり、補給 ほきゅう 中隊 ちゅうたい も戦闘 せんとう 序列 じょれつ に加 くわ わった。ベルリン衛兵 えいへい 連隊 れんたい は国際 こくさい 会議 かいぎ や1936年 ねん のベルリンオリンピック などで来訪 らいほう した貴賓 きひん 者 しゃ の警護 けいご なども行 おこな った。
アドルフ・ヒトラー が自 みずか らのボディーガード隊 たい を創設 そうせつ しようとしたとき、武装 ぶそう 親衛隊 しんえいたい とともに、ベルリン衛兵 えいへい 連隊 れんたい からも人員 じんいん を引 ひ き抜 ぬ いた。このボディーガード隊 たい は総統 そうとう 警護 けいご 隊 たい と呼 よ ばれ、最終 さいしゅう 的 てき に師団 しだん 規模 きぼ の総統 そうとう 警護 けいご 師団 しだん (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Führer-Begleit-Division)となった。
歩兵 ほへい 連隊 れんたい グロースドイッチュラント - フランスおよび低地 ていち 諸国 しょこく [ 編集 へんしゅう ]
1939年 ねん 第 だい 1週 しゅう 、衛兵 えいへい 連隊 れんたい はヒトラーの命 いのち により歩兵 ほへい 連隊 れんたい グロースドイッチュラント (Infanterie Regiment Großdeutschland )と改名 かいめい された。部隊 ぶたい は恒久 こうきゅう 的 てき な組織 そしき とされ、他 た の(各 かく 地域 ちいき ごとに徴兵 ちょうへい される)陸軍 りくぐん 連隊 れんたい とは異 こと なり、全国 ぜんこく から兵 へい を徴募 ちょうぼ できた。1939年 ねん 6月14日 にち 、部隊 ぶたい は正式 せいしき に発足 ほっそく し、ウンター・デン・リンデン 通 とお りをパレードしてそのことを示 しめ した。
1939年 ねん 9月 、連隊 れんたい は再 さい 編成 へんせい されたが、「白 しろ の場合 ばあい (Fall Weiß )作戦 さくせん 」(ポーランド侵攻 しんこう )には参加 さんか しなかった。1940年 ねん 5月、連隊 れんたい はハインツ・グデーリアン 指揮 しき 下 か の第 だい 19軍団 ぐんだん に配属 はいぞく された。同 どう 軍団 ぐんだん はエヴァルト・フォン・クライスト の「クライスト装甲 そうこう 集団 しゅうだん 」に属 ぞく し、「黄 き の場合 ばあい (Fall Gelb )作戦 さくせん 」(低地 ていち 諸国 しょこく および北部 ほくぶ フランス侵攻 しんこう )に参加 さんか した。
連隊 れんたい のうち1個 いっこ 大隊 だいたい はヘルマン・ゲーリング 元帥 げんすい の要求 ようきゅう によって進撃 しんげき 路 ろ の背後 はいご にあるベルギー南部 なんぶ ウィトリー(バストーニュ南方 なんぽう )に空輸 くうゆ されることになった。
作戦 さくせん 初日 しょにち の5月 がつ 10日 とおか 、連隊 れんたい の主力 しゅりょく は第 だい 10装甲 そうこう 師団 しだん に付与 ふよ され、ベルギー 南部 なんぶ の要塞 ようさい を側面 そくめん から包囲 ほうい するためルクセンブルク を通過 つうか する途上 とじょう で敵 てき と交戦 こうせん した。その夜 よる に連隊 れんたい は軍団 ぐんだん 予備 よび として抽出 ちゅうしゅつ された。第 だい 19軍団 ぐんだん はマース川 がわ を5月13日 にち にセダン付近 ふきん で越 こ えた。第 だい 3大隊 だいたい が遠 とお く北部 ほくぶ ベルギーの空挺 くうてい 攻撃 こうげき に関 かか わっている合間 あいま に、連隊 れんたい 主力 しゅりょく は第 だい 1戦車 せんしゃ 師団 しだん と併進 へいしん して渡河 とか 作戦 さくせん を行 おこな った。6月14日 にち から15日 にち にかけて連隊 れんたい は第 だい 10戦車 せんしゃ 師団 しだん と共 とも に戦線 せんせん を南 みなみ に押 お し下 さ げることに成功 せいこう し、フランス軍 ぐん の反撃 はんげき を封 ふう じると共 とも に橋頭堡 きょうとうほ を完全 かんぜん に確立 かくりつ した。グデーリアンは西 にし への進撃 しんげき を第 だい 1・第 だい 2戦車 せんしゃ 師団 しだん のみを伴 ともな って再開 さいかい し、連隊 れんたい は第 だい 10戦車 せんしゃ 師団 しだん と一時 いちじ 後続 こうぞく の第 だい 14軍団 ぐんだん に移管 いかん され、橋頭堡 きょうとうほ を守 まも った。やがて第 だい 29自動車 じどうしゃ 化 か 歩兵 ほへい 師団 しだん が加 くわ わり、グデーリアンの第 だい 19軍団 ぐんだん とラインハルトの第 だい 41軍団 ぐんだん の先鋒 せんぽう 部隊 ぶたい (第 だい 6戦車 せんしゃ 師団 しだん )からなる突破 とっぱ 部隊 ぶたい の南 みなみ 翼 つばさ を守 まも った。5月17日 にち になると第 だい 10戦車 せんしゃ 師団 しだん と連隊 れんたい は同地 どうち の守備 しゅび を後続 こうぞく 部隊 ぶたい に引継 ひきつ ぎ、5月17日 にち には再 ふたた び第 だい 19軍団 ぐんだん の指揮 しき 下 か に入 はい った。だが連隊 れんたい は度々 たびたび クライスト装甲 そうこう 集団 しゅうだん の予備 よび として抽出 ちゅうしゅつ された。ストンヌ 付近 ふきん で連隊 れんたい はフランス機甲 きこう 部隊 ぶたい と激戦 げきせん になり、彼 かれ らは善戦 ぜんせん した。
連隊 れんたい はダンケルク へ向 む けて北 きた へ進軍 しんぐん したとき、アラス でイギリス軍 ぐん の反撃 はんげき を受 う けた。その後 ご 、再 ふたた び第 だい 19軍団 ぐんだん に配属 はいぞく され、新規 しんき に同 どう 軍団 ぐんだん に配属 はいぞく されたSS歩兵 ほへい 連隊 れんたい アドルフ・ヒトラー と共 とも に第 だい 2戦車 せんしゃ 師団 しだん に付与 ふよ され、ダンケルク包囲 ほうい 戦 せん に参加 さんか した。その後 ご 、グデーリアンは新 しん 編成 へんせい のグデーリアン戦車 せんしゃ 集団 しゅうだん (第 だい 1戦車 せんしゃ 師団 しだん 及 およ び第 だい 2戦車 せんしゃ 師団 しだん と第 だい 29自動車 じどうしゃ 化 か 歩兵 ほへい 師団 しだん からなる第 だい 39軍団 ぐんだん 及 およ び第 だい 41軍団 ぐんだん が所属 しょぞく )と共 とも に南東 なんとう へ進 すすむ してスイス国境 こっきょう へ向 む かい、連隊 れんたい は第 だい 10戦車 せんしゃ 師団 しだん と共 とも にクライスト装甲 そうこう 集団 しゅうだん に所属 しょぞく して南西 なんせい に進撃 しんげき し、セーヌ川 がわ 渡河 とか 攻撃 こうげき の後 のち 、リヨン にいた時 とき にフランス が降伏 ごうぶく した。パリ に立 た ち寄 よ り戦勝 せんしょう パレードに参加 さんか した後 のち 、連隊 れんたい は「アシカ作戦 さくせん 」の準備 じゅんび のために北 きた フランスへ送 おく られた。アシカ作戦 さくせん 中止 ちゅうし が決定 けってい すると、次 つぎ は「フェリックス作戦 さくせん 」(ジブラルタル 侵攻 しんこう 計画 けいかく )の準備 じゅんび のため南 みなみ フランスへ送 おく られた。
ユーゴスラビア - バルバロッサ作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
フェリックス作戦 さくせん が中止 ちゅうし になった後 のち 、グロースドイッチュラントはその時 とき 進行 しんこう 中 ちゅう だったユーゴスラビア侵攻 しんこう に加 くわ わるため、ルーマニア に移動 いどう した。本 ほん 作戦 さくせん で連隊 れんたい の任務 にんむ の大 だい 部分 ぶぶん は、崩壊 ほうかい したユーゴスラビア軍 ぐん を追撃 ついげき することだった。第 だい 1大隊 だいたい はベオグラード 占領 せんりょう の役目 やくめ を担 にな い、その後 ご 、連隊 れんたい は「バルバロッサ作戦 さくせん 」の準備 じゅんび のためにポーランド へ戻 もど った。
ソビエト侵攻 しんこう のため、連隊 れんたい はフェードア・フォン・ボック の中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 麾下 きか 、第 だい 2装甲 そうこう 集団 しゅうだん (グデーリアン指揮 しき )所属 しょぞく の第 だい 46軍団 ぐんだん (自動車 じどうしゃ 化 か )に配属 はいぞく された。6月22日 にち バルバロッサ作戦 さくせん が発動 はつどう したが、第 だい 46軍団 ぐんだん は第 だい 2装甲 そうこう 集団 しゅうだん の予備 よび として後方 こうほう に待機 たいき し25日 にち に前進 ぜんしん を開始 かいし した。連隊 れんたい は27日 にち 深夜 しんや にブレスト-リトフスク の北 きた で国境 こっきょう のブーク川 がわ を越 こ え、30日 にち に第 だい 2装甲 そうこう 集団 しゅうだん 直轄 ちょっかつ となりミンスク の西 にし で包囲 ほうい したソ連 それん 軍 ぐん の脱出 だっしゅつ を阻止 そし するためバラノヴィチ 北東 ほくとう 部 ぶ に展開 てんかい し防御 ぼうぎょ 行動 こうどう を遂行 すいこう した。
7月 がつ 3日 にち 、連隊 れんたい は前進 ぜんしん 命令 めいれい を受 う け移動 いどう 、第 だい 10装甲 そうこう 師団 しだん (第 だい 46軍団 ぐんだん )の指揮 しき 下 か に入 はい り11日 にち にシクロフ の南 みなみ でドニエプル川 がわ を渡 わた り橋頭堡 きょうとうほ を確保 かくほ 、後続 こうぞく が到着 とうちゃく する16日 にち までモギレフ 包囲 ほうい の一翼 いちよく を担 にな った。17日 にち に命令 めいれい を受 う け前進 ぜんしん し21日 にち からロスラヴリからのスモレンスク 救援 きゅうえん のソ連 それん カチャロフ集団 しゅうだん の部隊 ぶたい を阻止 そし するためヴァシコヴォ(Васьково)の南 みなみ に防御 ぼうぎょ 線 せん を構築 こうちく し交戦 こうせん 、27日 にち 第 だい 18装甲 そうこう 師団 しだん と交替 こうたい しエリニャ に移動 いどう 、30日 にち にエリニャの北 きた に展開 てんかい した。
8月 がつ 6日 にち 、休養 きゅうよう と再 さい 編成 へんせい のため第 だい 15歩兵 ほへい 師団 しだん と交替 こうたい しヴァシコヴォに移動 いどう したが9日 にち スモレンスク東 ひがし のプリドネプロヴスカヤ(Приднепровская)に送 おく られ警戒 けいかい 任務 にんむ に就 つ いた。19日 にち 第 だい 263歩兵 ほへい 師団 しだん と交替 こうたい し再度 さいど ヴァシコヴォ地区 ちく に移動 いどう し休養 きゅうよう に入 はい った。25日 にち に連隊 れんたい 最初 さいしょ の騎士 きし 十 じゅう 字 じ 章 あきら を第 だい 4中隊 ちゅうたい 長 ちょう ヘナート中尉 ちゅうい が受勲 じゅくん した。30日 にち 夜 よる 第 だい 2装甲 そうこう 集団 しゅうだん の側面 そくめん 防護 ぼうご の命令 めいれい を受 う け南 みなみ へ移動 いどう を開始 かいし した。
9月2日 にち 、ノヴゴロド-セヴェルスキ でデスナ川 がわ を渡 わた り第 だい 4装甲 そうこう 師団 しだん と替 か わって橋頭堡 きょうとうほ を保持 ほじ 、4日 にち 夜 よる に第 だい 17装甲 そうこう 師団 しだん と交替 こうたい し第 だい 24軍団 ぐんだん (自動車 じどうしゃ 化 か )の左側 ひだりがわ 面 めん 警戒 けいかい と補給 ほきゅう 路 ろ 保持 ほじ のため南 みなみ へ移動 いどう 、7日 にち フルヒフ を占領 せんりょう した。
前進 ぜんしん を続 つづ け、11日 にち にプティヴリを制圧 せいあつ しプティヴリ南 みなみ でセイム川 かわ を渡 わた り橋頭堡 きょうとうほ を構築 こうちく 、14日 にち ジェイロヴカ(Жиловка)を落 お としコノトプ東部 とうぶ のセイム川南 かわみなみ 部 ぶ のソ連 それん 軍 ぐん を包囲 ほうい するため西 にし に変針 へんしん 、17日 にち スヴィエチキノ(Свечкино)を占領 せんりょう 、東 ひがし に移動 いどう し20日 にち ヂャキヴカ(Дякiвка)、22日 にち クリモヴカの分岐 ぶんき 駅 えき に到達 とうたつ した。
その後 ご 、連隊 れんたい は第 だい 46軍団 ぐんだん から第 だい 2装甲 そうこう 集団 しゅうだん 直轄 ちょっかつ となりプティヴリ〜ヂャキヴカ〜バダコフ駅 えき 〜ヴィル(Вир)川 かわ の防御 ぼうぎょ 線 せん を保持 ほじ することになった。
10月3日 にち 、第 だい 16自動車 じどうしゃ 化 か 歩兵 ほへい 師団 しだん (第 だい 48軍団 ぐんだん (自動車 じどうしゃ 化 か ))と交替 こうたい しロスラヴリに移動 いどう したが11日 にち ヒトラーの命令 めいれい でブリャンスク 北東 ほくとう 部 ぶ で包囲 ほうい したソ連 それん 軍 ぐん の脱出 だっしゅつ 阻止 そし のためロスラヴリからカラチェフ に前進 ぜんしん 、第 だい 18装甲 そうこう 師団 しだん (第 だい 47軍団 ぐんだん (自動車 じどうしゃ 化 か ))の指揮 しき 下 か に入 はい りカラチェフ北部 ほくぶ の森 もり に展開 てんかい し交戦 こうせん 、14日 にち にヘナート中尉 ちゅうい が戦死 せんし した。17日 にち から歩兵 ほへい 師団 しだん と交替 こうたい しオリョール に移動 いどう 、そこで数日 すうじつ 間 あいだ 休養 きゅうよう が与 あた えられた。
24日 にち 第 だい 24軍団 ぐんだん のムツェンスク 北東 ほくとう の高 こう 地帯 ちたい への攻撃 こうげき 参加 さんか のためオリョールから移動 いどう 、第 だい 4歩兵 ほへい 旅団 りょだん (4.Schützen-Brigade)の指揮 しき 下 か に入 はい り228.1高地 こうち を占領 せんりょう 、25日 にち 第 だい 3装甲 そうこう 師団 しだん と共 とも にチェルニを突破 とっぱ 、26日 にち プラヴスク近郊 きんこう に到達 とうたつ 、29日 にち 第 だい 5戦車 せんしゃ 旅団 りょだん (5.Panzer-Brigade)に配属 はいぞく されトゥーラ 占領 せんりょう を目指 めざ し攻撃 こうげき を開始 かいし したが失敗 しっぱい 、連隊 れんたい は31日 にち から11月 がつ 末 まつ までトゥーラ郊外 こうがい で防御 ぼうぎょ に転換 てんかん した。
12月2日 にち のトゥーラ攻撃 こうげき のため連隊 れんたい はヴェニョーフ の南 みなみ に移動 いどう し第 だい 1大隊 だいたい は第 だい 3装甲 そうこう 師団 しだん に配属 はいぞく された。2日 にち ドゥプキを通過 つうか しドロフェエヴォに向 む け前進 ぜんしん 、3日 にち コロデスノエ(Колодезное)に到達 とうたつ し第 だい 17中隊 ちゅうたい が警戒 けいかい に残 のこ り第 だい 2、第 だい 3大隊 だいたい は第 だい 3歩兵 ほへい 連隊 れんたい (Schützen-Regiment 3)と交替 こうたい するため前進 ぜんしん した。4日 にち 深夜 しんや コロデスノエを襲撃 しゅうげき され第 だい 5大隊 だいたい 本部 ほんぶ と第 だい 17中隊 ちゅうたい の大 だい 隊長 たいちょう フォン・レントクツェ少佐 しょうさ を含 ふく む兵士 へいし 多数 たすう が殺 ころ され、突撃 とつげき 砲 ほう 1輌 りょう 他 た 多数 たすう の装備 そうび を失 うしな った。
ソ連 それん 軍 ぐん の反抗 はんこう が開始 かいし され7日 にち 連隊 れんたい はトゥーラの南東 なんとう に後退 こうたい を始 はじ め、21日 にち ボルホフ 地区 ちく に移動 いどう しボルホフ北 きた のオカ川 がわ 戦線 せんせん で3個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん を支援 しえん し防御 ぼうぎょ 戦 せん を行 おこな った。
ソ連 それん 軍 ぐん の冬季 とうき 攻勢 こうせい で連隊 れんたい は非常 ひじょう に大 おお きな損耗 そんこう を被 こうむ り、2月 がつ 1日 にち 損害 そんがい の大 おお きかった第 だい 2大隊 だいたい は解散 かいさん させられ、生存 せいぞん 者 しゃ は他 た の大隊 だいたい に振 ふ り分 わ けられた。19日 にち には、2個 こ 歩兵 ほへい 大隊 だいたい が1個 いっこ 大隊 だいたい に改編 かいへん された。9ヶ月 かげつ 以上 いじょう に渡 わた る激戦 げきせん の後 のち 、連隊 れんたい は補充 ほじゅう を受 う けるため後方 こうほう へ移動 いどう した。解散 かいさん させられた大隊 だいたい を再生 さいせい し、連隊 れんたい は数 すう 週間 しゅうかん の休暇 きゅうか を与 あた えられた。
歩兵 ほへい 師団 しだん グロースドイッチュラント 1942年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
オリョール近郊 きんこう で補充 ほじゅう と再 さい 装備 そうび を受 う けた連隊 れんたい は再 さい 編成 へんせい と増強 ぞうきょう をうけ、自動車 じどうしゃ 化 か 歩兵 ほへい 師団 しだん グロースドイッチュラント (Infanterie-Division Großdeutschland )となった。既存 きそん の連隊 れんたい はグロースドイッチュラント第 だい 1歩兵 ほへい 連隊 れんたい となり、新 あら たにグロースドイッチュラント第 だい 2歩兵 ほへい 連隊 れんたい 、オートバイ狙撃 そげき 兵 へい 大隊 だいたい GDが加 くわ わった。その他 た 、第 だい 100戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい を基幹 きかん として戦車 せんしゃ 大隊 だいたい GD、第 だい 192突撃 とつげき 砲 ほう 大隊 だいたい を基幹 きかん として突撃 とつげき 砲 ほう 大隊 だいたい GD、第 だい 643戦車 せんしゃ 駆逐 くちく 大隊 だいたい を基幹 きかん として戦車 せんしゃ 駆逐 くちく 大隊 だいたい GD、第 だい 622砲兵 ほうへい 連隊 れんたい 本部 ほんぶ ・第 だい 400砲兵 ほうへい 大隊 だいたい ・第 だい 109砲兵 ほうへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい ・第 だい 646砲兵 ほうへい 大隊 だいたい から砲兵 ほうへい 連隊 れんたい GDが編成 へんせい され、第 だい 285陸軍 りくぐん 対 たい 空砲 くうほう 大隊 だいたい が対空 たいくう 砲 ほう 大隊 だいたい GD、第 だい 43突撃 とつげき 工兵 こうへい 大隊 だいたい が工兵 こうへい 大隊 だいたい GDとして、それぞれ師団 しだん に編入 へんにゅう された。
再 さい 編成 へんせい 後 ご 、師団 しだん は「青 あお の場合 ばあい (Fall Blau)作戦 さくせん 」において第 だい 48装甲 そうこう 軍団 ぐんだん 所属 しょぞく となり、スターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん に投入 とうにゅう された。師団 しだん はドン川 がわ 渡河 とか およびヴォロネジ 占領 せんりょう の役目 やくめ を担 にな った。8月 がつ 、師団 しだん はドネツ川 がわ 北岸 ほくがん に後退 こうたい し、機動 きどう 予備 よび および反撃 はんげき 部隊 ぶたい として置 お かれた。赤軍 せきぐん の「マーズ作戦 さくせん 」(ソ連 それん 軍 ぐん のルジェフ (Rzhev )突出 とっしゅつ 部 ぶ 攻撃 こうげき 作戦 さくせん )により、師団 しだん はルジェフ近郊 きんこう で激 はげ しい雪 ゆき 中 ちゅう 戦 せん を繰 く り広 ひろ げた。
ルジェフ戦後 せんご 、1943年 ねん 1月 がつ 23日 にち までにハリコフ 地区 ちく に送 おく られた。グロースドイッチュラントと第 だい 48装甲 そうこう 軍団 ぐんだん は、第 だい 2SS装甲 そうこう 軍団 ぐんだん のSS装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん LSSAH 、SS装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん ダス・ライヒ 、SS装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん トーテンコプフ とともに第 だい 三 さん 次 じ ハリコフ攻防 こうぼう 戦 せん に参加 さんか した。
この間 あいだ に戦車 せんしゃ 連隊 れんたい が編成 へんせい され、戦闘 せんとう に投入 とうにゅう された。この時 とき 、ティーガーI 戦車 せんしゃ 1個 いっこ 中隊 ちゅうたい が配備 はいび されている。通常 つうじょう 、装甲 そうこう 師団 しだん がティーガー戦車 せんしゃ を持 も つことはなく、また武装 ぶそう SS師団 しだん 以外 いがい で唯一 ゆいいつ ティーガー戦車 せんしゃ が配備 はいび された師団 しだん だった(通常 つうじょう ティーガー戦車 せんしゃ は独立 どくりつ 重 じゅう 戦車 せんしゃ 大隊 だいたい に配備 はいび される)。
ハリコフ戦 せん 終了 しゅうりょう 後 ご 、師団 しだん は補充 ほじゅう のために後方 こうほう へ下 さ がった。
装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん グロースドイッチュラント[ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 、クルスクでのGD師団 しだん
1943年 ねん 6月 がつ 、装甲 そうこう 兵員 へいいん 輸送 ゆそう 車 しゃ およびティーガー戦車 せんしゃ の配備 はいび を受 う けて、師団 しだん は装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん グロースドイッチュラント となった。この時 とき 、完全 かんぜん 装備 そうび の装甲 そうこう 師団 しだん より多 おお くの装甲 そうこう 車両 しゃりょう が配備 はいび されていた。
新 あたら しく再 さい 装備 そうび された師団 しだん はヘルマン・ホト の第 だい 4装甲 そうこう 軍 ぐん に配属 はいぞく され、SS装甲 そうこう 軍団 ぐんだん とともにクルスク の敵 てき 突出 とっしゅつ 部 ぶ を分断 ぶんだん するチタデレ作戦 さくせん の主力 しゅりょく をつとめた。作戦 さくせん 期間 きかん 中 ちゅう 、新型 しんがた のパンターD型 がた 戦車 せんしゃ で編制 へんせい されたフォン・ラオハート戦車 せんしゃ 連隊 れんたい がグロースドイッチュラントの作戦 さくせん 統制 とうせい 下 か に置 お かれた。
作戦 さくせん 開始 かいし 後 ご 、師団 しだん はクルスク突出 とっしゅつ 部 ぶ の南側 みなみがわ 面 めん から突入 とつにゅう 、激戦 げきせん となった。新型 しんがた のパンター戦車 せんしゃ は戦闘 せんとう に入 はい る前 まえ に多 おお くの車両 しゃりょう がエンジンの発火 はっか や停止 ていし など技術 ぎじゅつ 的 てき な問題 もんだい に悩 なや まされた。師団 しだん は1943年 ねん 7月 がつ 18日 にち にトマロフカ (Tomarovka)に撤退 てったい するまで戦 たたか った。
クルスク攻撃 こうげき が中止 ちゅうし となった後 のち 、師団 しだん に第 だい 51戦車 せんしゃ 大隊 だいたい (パンター)がGD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい に配属 はいぞく 、中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん に送 おく られてカラチョフ 周辺 しゅうへん で激戦 げきせん を繰 く り広 ひろ げた。8月3日 にち 、ソ連 それん 軍 ぐん はルミヤンツェフ作戦 さくせん を開始 かいし 、師団 しだん は南方 なんぽう 軍 ぐん 集団 しゅうだん に戻 もど された。GD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい として編成 へんせい されたティーガー大隊 だいたい が合流 ごうりゅう し、アフトゥイルカで防御 ぼうぎょ 戦闘 せんとう を行 おこな う。
9月15日 にち 、ドニエプル川 がわ への撤退 てったい 命令 めいれい が出 だ され、グロースドイッチュラントは後衛 こうえい を任命 にんめい された。GD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい はパンターで刷新 さっしん するためフランスのブールジュ へ列車 れっしゃ 輸送 ゆそう された。彼 かれ らは44年 ねん 11月 がつ まで師団 しだん に復帰 ふっき することはなかった。師団 しだん は遅滞 ちたい 行動 こうどう を展開 てんかい し、クレメンチューク でドニエプル川 がわ を渡 わた った。10月以降 いこう 、ミチューリン・ログ 近郊 きんこう 、クリヴォイ・ログ 東部 とうぶ と強力 きょうりょく な敵 てき 部隊 ぶたい と戦 たたか いながら年 とし を終 お えた。この期間 きかん 、師団 しだん は“火消 ひけ し部隊 ぶたい ”("die Feuerwehr" )と呼 よ ばれた。
1944年 ねん 5月 がつ 、戦車 せんしゃ を破壊 はかい した功績 こうせき を称 とな えられ、戦車 せんしゃ 撃破 げきは 章 あきら を贈 おく られる兵 へい 1944年 ねん 8月 がつ 、東部 とうぶ 戦線 せんせん でのGD師団 しだん
1944年 ねん 1月 がつ 初 はじ め、グロースドイッチュラントはクリヴォイ・ログ地区 ちく からキロヴォグラート へ移動 いどう した。第 だい 26戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい (パンター)が第 だい 51戦車 せんしゃ 大隊 だいたい に替 か わって配属 はいぞく された。1月 がつ 下旬 げじゅん 、GD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 9中隊 ちゅうたい (ティーガー)がチェルカースィ包囲 ほうい 戦 せん に関 かか わった。
3月4日 にち 、第 だい 2および第 だい 3ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん による南方 なんぽう 軍 ぐん 集団 しゅうだん の中央 ちゅうおう および南側 みなみがわ 面 めん に対 たい する大 だい 規模 きぼ な攻勢 こうせい が始 はじ まった。キロヴォグラート南西 なんせい のグロースドイッチュラントはロヴノイェへ後退 こうたい した。3月16日 にち 、師団 しだん は撤退 てったい を開始 かいし し、3月の終 お わりにはドニエストル川 がわ を越 こ えルーマニアに入 はい った。
4月 がつ 、グロースドイッチュラントは第 だい 57装甲 そうこう 軍団 ぐんだん に配属 はいぞく された。ヤシ 近郊 きんこう で防衛 ぼうえい 戦 せん を行 おこな い、徐々 じょじょ にモルダヴィア のトゥルグ・フルモス (Târgu Frumos)へ後退 こうたい 、ここで1ヶ月 かげつ 以上 いじょう 激戦 げきせん を続 つづ けた。5月2日 にち 、ソ連 それん 軍 ぐん の新 あら たな攻勢 こうせい が始 はじ まった。これはグロースドイッチュラント師団 しだん を突破 とっぱ し、ルーマニア油田 ゆでん へ進出 しんしゅつ しようとしたものだった。ここで行 おこな われたトゥルグ・フルモスの戦 たたか い におけるグロースドイッチュラントの防御 ぼうぎょ 戦闘 せんとう は冷戦 れいせん 時代 じだい 、NATO でさまざまな研究 けんきゅう が行 おこな われた。
5月 がつ 下旬 げじゅん 、トゥルグ・フルモス戦 せん の後 のち 、平穏 へいおん な日 ひ が数日 すうじつ 訪 おとず れ陣地 じんち の改善 かいぜん 、再 さい 編成 へんせい と休息 きゅうそく に利用 りよう された。軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい がSd Kfz 251 を装備 そうび するため帰国 きこく し、軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい は4個 こ 大隊 だいたい から3個 こ 大隊 だいたい へ縮小 しゅくしょう され、捜索 そうさく 大隊 だいたい に装甲 そうこう 車両 しゃりょう が配備 はいび された。6月 がつ 初 はじ め、ヤシに新 あら たな攻勢 こうせい の徴候 ちょうこう があり師団 しだん はPodul Iloaiei地区 ちく での作戦 さくせん に投入 とうにゅう された。作戦 さくせん 終了 しゅうりょう 後 ご 、バカウ 地区 ちく に移動 いどう し7月 がつ 下旬 げじゅん まで休養 きゅうよう 。この間 あいだ に軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい が戻 もど った。
7月 がつ 下旬 げじゅん から師団 しだん は東 ひがし プロイセン に移動 いどう し、8月 がつ 初 はじ め、ヴィルカヴィシュキス 奪還 だっかん 作戦 さくせん に投入 とうにゅう されその後 ご バルト三 さん 国 こく を転戦 てんせん した。9月初 はじ め、GD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい が再 さい 編成 へんせい のため東 ひがし プロイセンに送 おく られた。大隊 だいたい は後 のち に総統 そうとう 護衛 ごえい 旅団 りょだん に配属 はいぞく され師団 しだん に戻 もど らなかった。10月から11月 がつ 下旬 げじゅん まで師団 しだん はメーメル 橋頭堡 きょうとうほ で防御 ぼうぎょ 戦 せん を行 おこな う。一連 いちれん の戦闘 せんとう で兵 へい および装備 そうび に多大 ただい な損耗 そんこう を被 こうむ った。
11月末 まつ からグロースドイッチュラント師団 しだん は崩壊 ほうかい しつつあったメーメル橋頭堡 きょうとうほ からフェリーで東 ひがし プロイセンに戻 もど されOKH予備 よび となり、「44年 ねん 型 がた 戦車 せんしゃ 師団 しだん 編制 へんせい (Gliederung der Panzerdivision 44)」に従 したが って再 さい 編成 へんせい するよう命令 めいれい された。
装甲 そうこう 軍団 ぐんだん グロースドイッチュラント[ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 12月14日 にち [1] 、グロースドイッチュラント師団 しだん と、その戦歴 せんれき の中 なか でグロースドイッチュラントと深 ふか い関係 かんけい を持 も つブランデンブルク師団 しだん の2個 こ 師団 しだん を指揮 しき する為 ため 、装甲 そうこう 軍団 ぐんだん グロースドイッチュラント (Panzerkorps Großdeutschland )が編成 へんせい された。
12月13日 にち 、グロースドイッチュラント師団 しだん から突撃 とつげき 砲 ほう 旅団 りょだん がブランデンブルク戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい に編入 へんにゅう され、12月20日 にち には擲弾兵 へい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい 、軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい 、戦車 せんしゃ 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい (ティーガー)、砲兵 ほうへい 連隊 れんたい 第 だい 4大隊 だいたい が軍団 ぐんだん 直轄 ちょっかつ 部隊 ぶたい となり転出 てんしゅつ した。
1945年 ねん 1月 がつ 12日 にち 、ロシア軍 ぐん の攻勢 こうせい が始 はじ まり、ラステンブルク 地区 ちく に居 い た師団 しだん はプシャスニシ南部 なんぶ での反撃 はんげき 命令 めいれい を受 う け移動 いどう 、第 だい 302戦車 せんしゃ 大隊 だいたい (Fkl)がGD戦車 せんしゃ 連隊 れんたい に配属 はいぞく され、第 だい 7装甲 そうこう 軍団 ぐんだん の指揮 しき 下 か で戦 たたか う。一方 いっぽう 、総統 そうとう 命令 めいれい により装甲 そうこう 軍団 ぐんだん グロースドイッチュラント司令 しれい 部 ぶ とブランデンブルク師団 しだん はウッチ 地区 ちく に移動 いどう した。26日 にち 、グロースドイッチュラント師団 しだん は戦線 せんせん を離脱 りだつ しケーニヒスベルク に向 む け移動 いどう 、降下 こうか 装甲 そうこう 軍団 ぐんだん ヘルマン・ゲーリングの指揮 しき 下 か に入 はい り、30日 にち 、ケーニヒスベルク南西 なんせい のブランデンブルク周辺 しゅうへん に展開 てんかい した。
3月23日 にち 、激 はげ しい防御 ぼうぎょ 戦闘 せんとう の末 すえ 、バルガ半島 はんとう に押 お しやられ、29日 にち に海軍 かいぐん 上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい により脱出 だっしゅつ した。グロースドイッチュラント師団 しだん は人員 じんいん が4,000名 めい 前後 ぜんこう まで減少 げんしょう していた。
4月 がつ 、師団 しだん はザームラントへ渡 わた り戦闘 せんとう を続行 ぞっこう 。4月 がつ 25日 にち 、師団 しだん はピラウ 周辺 しゅうへん の戦闘 せんとう で完全 かんぜん に壊滅 かいめつ した。数少 かずすく ない残余 ざんよ のうち数 すう 百 ひゃく 名 めい はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン まで海路 かいろ 撤退 てったい し、イギリス軍 ぐん に投降 とうこう した。多 おお くの兵士 へいし は置 お き去 ざ りにされ、ソ連 それん 軍 ぐん への投降 とうこう を余儀 よぎ なくされた。彼 かれ らはいつともしれない間 あいだ 、たびたび死 し の危険 きけん に直面 ちょくめん しながらソ連 それん の強制 きょうせい 労働 ろうどう 収容 しゅうよう 所 しょ (グラグ )で働 はたら かされることになった。
1945年 ねん 初頭 しょとう 、グロースドイッチュラントの一部 いちぶ から装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん クーアマーク(Panzergrenadier Division Kurmark)を創設 そうせつ し、戦争 せんそう の最後 さいご の一 いち ヶ月 かげつ を戦 たたか い続 つづ けた。ブランデンブルクおよびクーアマークの部隊 ぶたい 兵 へい はグロースドイッチュラントの部隊 ぶたい 章 しょう を身 み につけていた。
グロースドイッチュラント 部隊 ぶたい 章 あきら [ 編集 へんしゅう ]
グロースドイッチュラント師団 しだん のカフタイトル(袖章 そでしょう )
彼 かれ らはエリート部隊 ぶたい の証 あかし として、独自 どくじ の部隊 ぶたい 章 しょう を用 もち いていた。師団 しだん 名 めい の頭文字 かしらもじ から採 と った“GD”の組 くみ 文字 もじ の肩章 けんしょう 用 よう モノグラムに加 くわ え、師団 しだん 名 めい を銘 めいじ した(武装 ぶそう SSに与 あた えられるタイプと似 に たスタイルの)カフタイトル が配 くば られた。この袖章 そでしょう は初期 しょき 型 がた と後期 こうき 型 がた が存在 そんざい し、1939年 ねん に制定 せいてい された初期 しょき 型 がた はフラクトゥール と呼 よ ばれる書体 しょたい で書 か かれた緑地 りょくち のもので、1940年 ねん に制定 せいてい された後期 こうき 型 がた はジュッターリン体 たい と呼 よ ばれる書体 しょたい で書 か かれた黒地 くろじ のものだった(画像 がぞう 参照 さんしょう )。訓練 くんれん を終了 しゅうりょう したすべての師団 しだん 要員 よういん がこの袖章 そでしょう をつける事 こと を許 ゆる され、親衛隊 しんえいたい が袖章 そでしょう を左 ひだり 袖 そで につけた事 こと から、陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい であることを示 しめ すためグロースドイッチュラントでは右 みぎ 袖 そで の袖口 そでぐち から15cmの場所 ばしょ に袖章 そでしょう を着 つ けた。ただし当時 とうじ の写真 しゃしん を見 み る限 かぎ り必 かなら ずしも位置 いち は正確 せいかく に守 まも られていたわけではなかった。
装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん グロースドイッチュラント 1943年 ねん 9月 がつ
師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ および司令 しれい 部 ぶ 付 つ き中隊 ちゅうたい
憲兵 けんぺい 隊 たい (Feldgendarmerie)- 小隊 しょうたい 規模 きぼ
報道 ほうどう 隊 たい (Kriegsberichter)- 小隊 しょうたい 規模 きぼ [2]
GD 装甲 そうこう 擲弾兵 へい 連隊 れんたい (Panzergrenadier-Regiment “Großdeutschland” )
GD 装甲 そうこう 軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい (Panzerfüsilier-Regiment “Großdeutschland” )[3]
GD 戦車 せんしゃ 連隊 れんたい (Panzer-Regiment “Großdeutschland” )
GD 装甲 そうこう 砲兵 ほうへい 連隊 れんたい (Panzer-Artillerie-Regiment “Großdeutschland” )
GD 装甲 そうこう 捜索 そうさく 大隊 だいたい (Panzer-Aufklärungs-Abteilung “Großdeutschland” )
GD 戦車 せんしゃ 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Panzerjäger-Abteilung “Großdeutschland” )
GD 陸軍 りくぐん 対 たい 空砲 くうほう 大隊 だいたい (Heeres-Flakartillerie-Abteilung “Großdeutschland” )
GD 突撃 とつげき 工兵 こうへい 大隊 だいたい (Sturmpionier-Bataillon “Großdeutschland” )
GD 突撃 とつげき 砲 ほう 大隊 だいたい (Sturmgeschütz Battalion “Großdeutschland” )
GD 通信 つうしん 大隊 だいたい (Nachrichten-Abteilung “Großdeutschland” )
衛生 えいせい 大隊 だいたい
補給 ほきゅう 部隊 ぶたい
歴代 れきだい 師 し 団長 だんちょう [ 編集 へんしゅう ]
歩兵 ほへい 師団 しだん GD (1942年 ねん 4月 がつ 1日 にち - 1943年 ねん 6月 がつ 1日 にち )装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん GD (1943年 ねん 7月 がつ - 1945年 ねん 8月 がつ )
ヴァルター・ヘルンライン (Walter Hoernlein)少将 しょうしょう (後 こう 中将 ちゅうじょう )
1942年 ねん 4月 がつ 1日 にち - 1944年 ねん 1月 がつ 27日 にち
ヘルマン・バルク 装甲 そうこう 兵科 へいか 大将 たいしょう (臨時 りんじ )
1943年 ねん 4月 がつ 3日 にち - 1943年 ねん 6月 がつ 30日 にち
ハッソ・フォン・マントイフェル 大将 たいしょう
1944年 ねん 1月 がつ 27日 にち - 1944年 ねん 9月 がつ 1日 にち
カール・ロレンツ (Karl Lorenz)大佐 たいさ
1944年 ねん 9月 がつ 1日 にち - 1945年 ねん 5月 がつ
Hamburg Institute for Social Research編 へん German Army and Genocide (ISBN 1565845250 )の中 なか で、ユーゴスラビア侵攻 しんこう 時 じ に起 お こった事件 じけん について言及 げんきゅう されている。
パンチェボで
一人 ひとり のドイツ
兵士 へいし が
撃 う たれ
重傷 じゅうしょう を
負 お ったとき、
国防 こくぼう 軍 ぐん および
武装 ぶそう SS
兵士 へいし は
約 やく 100
名 めい の
市民 しみん を
無作為 むさくい に
捕 と らえた。
街 まち にいた
指揮 しき 官 かん フリッツ・バンデロー
中佐 ちゅうさ は
軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ で
裁判 さいばん 長 ちょう をつとめ、ルドルフ・ホフマンSS
少佐 しょうさ は36
名 めい に
死刑 しけい を
宣告 せんこく した。
1941年 ねん 4月 がつ 21日 にち 、4名 めい の市民 しみん が最初 さいしょ に射殺 しゃさつ され、翌日 よくじつ 以降 いこう に18名 めい の犠牲 ぎせい 者 しゃ が墓地 ぼち で絞首刑 こうしゅけい になり、14名 めい 以上 いじょう が墓地 ぼち の壁 かべ の前 まえ で国防 こくぼう 軍 ぐん グロースドイッチュラント連隊 れんたい 所属 しょぞく の死刑 しけい 執行 しっこう 隊 たい により銃殺 じゅうさつ された。
— German Army and Genocide 42ページ
写真 しゃしん の一部 いちぶ が本書 ほんしょ に掲載 けいさい されており、GDの腕章 わんしょう をつけた士官 しかん が鮮明 せんめい に写 うつ っている。ヘルムート・シュペーターによる公式 こうしき のGD師団 しだん 史 し には、ベオグラードにおいて「一般 いっぱん 市民 しみん の集団 しゅうだん 略奪 りゃくだつ を止 と めるため、時折 ときおり 極 きわ めて厳 きび しい措置 そち をとる必要 ひつよう があった。」とだけ述 の べている。この4月 がつ 21日 にち のパンチェボでの事件 じけん は直接 ちょくせつ 審議 しんぎ されたことはないにもかかわらず、ユーゴスラビアで行 おこな われた“治安 ちあん 維持 いじ 任務 にんむ ”として数多 かずおお く取 と り上 あ げられている。
グロースドイッチュラントの戦争 せんそう 犯罪 はんざい 共謀 きょうぼう 関係 かんけい について、オマー・バルトフ著 ちょ The Eastern Front, 1941-45, German Troops, and the Barbarization of Warfare (1986, ISBN 0-312-22486-9 ) で述 の べられているが、グロースドイッチュラントと残虐 ざんぎゃく 行為 こうい の関連 かんれん 性 せい に関 かん しては十分 じゅうぶん に解明 かいめい されていない。
^ マクシム・コロミーエツ著 ちょ 、小松 こまつ 徳 いさお 仁 じん 訳 やく 、高橋 たかはし 慶 けい 史 し 監修 かんしゅう 『1945年 ねん のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい 』p.29より
^ 新兵 しんぺい 徴募 ちょうぼ および宣伝 せんでん 活動 かつどう を行 おこな う。師団 しだん がこの様 よう な部隊 ぶたい をもつのは極 きわ めて珍 めずら しい。
^ 軽 けい 歩兵 ほへい 連隊 れんたい (Füsilier-Regiment)はドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん においては第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 中期 ちゅうき から使用 しよう され始 はじ めた兵科 へいか で、偵察 ていさつ 任務 にんむ を目的 もくてき とした歩兵 ほへい 部隊 ぶたい である。ただしこの兵科 へいか の部隊 ぶたい を有 ゆう している師団 しだん はごく一部 いちぶ に限 かぎ られた。
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