沢田さわだしげる

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沢田さわだ しげる(さわだ しげる、1887ねん明治めいじ20ねん3月29にち - 1980ねん昭和しょうわ55ねん12月1にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

高知こうちけん高知こうちぐん鴨部かべむらげん高知こうち鴨部かべまち出身しゅっしん農業のうぎょう沢田さわだ栄之助えいのすけ三男さんなんとしてまれる。兄弟きょうだいよんにんのうち、長男ちょうなんのぞさん兄弟きょうだい陸軍りくぐん将校しょうこうとなった。高知こうち県立けんりつ海南かいなん中学校ちゅうがっこう広島ひろしま陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうて、1905ねん明治めいじ38ねん)11月15にち陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうだい18)を卒業そつぎょう翌年よくねん6がつ26にち砲兵ほうへい少尉しょうい任官にんかん野戦やせん砲兵ほうへいだい16連隊れんたいづけとなる。野戦やせん砲兵ほうへいだい22連隊れんたいづけなどをて、1910ねん明治めいじ43ねん)11月26にち陸軍りくぐんほうこう学校がっこう高等こうとう卒業そつぎょう1914ねん大正たいしょう3ねん)11月27にち陸軍りくぐんだい学校がっこうだい26)を卒業そつぎょうした。翌年よくねん8がつ10日とおかから参謀さんぼう本部ほんぶだいよん内国ないこく戦史せんし勤務きんむ以来いらい2ねんはんにち戦史せんし戦術せんじゅつ研究けんきゅう没頭ぼっとうした。

1918ねん大正たいしょう7ねん)1がつシベリア出兵しゅっぺい準備じゅんびのために、参謀さんぼう本部ほんぶだいよんロシアはんかれた。出兵しゅっぺい参謀さんぼう本部ほんぶいんうらしお派遣はけんぐん司令しれいづけ(オムスク機関きかん)、ウラジオ機関きかんづけうらしお派遣はけんぐん参謀さんぼうなどをつとめた。早期そうき撤兵てっぺい推動の途中とちゅう、Aがたパラチフスを1921ねん大正たいしょう10ねん)2がつ帰還きかんした。沢田さわだ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうまでフランス語ふらんすご陸軍りくぐんだい学校がっこうではロシアまなんだが、シベリア出兵しゅっぺい経験けいけんから、以後いごソ連それんどおりとした、しばしばたい関係かんけい業務ぎょうむたずさわることとなった。

1922ねん大正たいしょう11ねん)2がつ8にち砲兵ほうへい少佐しょうさ昇進しょうしん同年どうねん11がつ6にちギリシア公使館こうしかんづけ武官ぶかんとなった。野砲やほうへいだい22連隊れんたいづけどう連隊れんたい大隊だいたいちょうなどをて、1925ねん大正たいしょう14ねん)12月から翌年よくねん11がつまで、りくだい専攻せんこう科学かがくせいとしてまなんだ。1926ねん大正たいしょう15ねん)8がつ6にちにん砲兵ほうへい中佐ちゅうさ同年どうねん12がつ10日とおかりく大兵だいひょうがく教官きょうかん1928ねん昭和しょうわ3ねん)11月22にちハルビン特務とくむ機関きかんちょうなどを歴任れきにんし、1930ねん昭和しょうわ5ねん)8がつ1にち砲兵ほうへい大佐たいさ進級しんきゅう野戦やせん砲兵ほうへいだい24連隊れんたいちょうりくだい教官きょうかん近衛このえ師団しだん参謀さんぼうちょうなどをて、1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ15にち陸軍りくぐん少将しょうしょうすすんだ、じょせい

野戦やせん重砲じゅうほうへいだい1旅団りょだんちょうポーランド公使館こうしかんづけ武官ぶかんて、1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ1にち陸軍りくぐん中将ちゅうじょう昇進しょうしん参謀さんぼう本部ほんぶづけとなる。同年どうねん7がつ15にちだい4師団しだんちょうおやされ満州まんしゅうチャムス駐屯ちゅうとん1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ2にち参謀さんぼう次長じちょう就任しゅうにんノモンハン事件じけんおよびふつしるし進駐しんちゅう後始末あとしまつ責任せきにん処置しょち尽力じんりょく1940ねん昭和しょうわ15ねん)11月15にち参謀さんぼう本部ほんぶづけ次長じちょうしょく塚田つかだおさむ中将ちゅうじょうゆずる、同年どうねん12がつ2にちだい13ぐん司令しれいかんとなり太平洋戦争たいへいようせんそうむかえ、中国ちゅうごく戦線せんせん活動かつどう1942ねん昭和しょうわ17ねん)10がつ8にち参謀さんぼう本部ほんぶづけとなり、翌月よくげつ16にち予備よびやく編入へんにゅうされた。1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ1にち参謀さんぼう本部ほんぶ嘱託しょくたく軍事ぐんじ研究けんきゅうかい)となり、同年どうねん12がつ召集しょうしゅうされ参謀さんぼう本部ほんぶづけとなり、つづ軍事ぐんじ研究けんきゅうかい担当たんとうとなる。

敗戦はいせん1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ召集しょうしゅう解除かいじょとなった。同月どうげつ25にちだい13ぐん司令しれいかん時代じだいこったドゥリットル空襲くうしゅうのアメリカぐん飛行ひこう隊員たいいん捕虜ほりょ処刑しょけい問題もんだい連座れんざし、戦犯せんぱん容疑ようぎ逮捕たいほされた。1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ上海しゃんはいのアメリカ軍事ぐんじ法廷ほうてい重労働じゅうろうどう5ねん判決はんけつけ、巣鴨すがも服役ふくえき1950ねん昭和しょうわ25ねん)1がつ釈放しゃくほうされた。

大佐たいさ時代じだいから緑内障りょくないしょうわずらい、かた摘出てきしゅつ。もう片方かたがただい13ぐん司令しれいかん時代じだい末期まっきごろから次第しだい視力しりょくうしない、晩年ばんねんには完全かんぜん失明しつめいした。しかし、可能かのうかぎ読書どくしょはげみ、テープをき、つね国内外こくないがい政治せいじ軍事ぐんじ情勢じょうせい把握はあくつとめた。また、70さい点字てんじ修得しゅうとくし、NHK番組ばんぐみ出演しゅつえんする程度ていどたっした。

1980ねん昭和しょうわ55ねん)12月1にち死去しきょ享年きょうねん93。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん(4-1-26-2)。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

親族しんぞく[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • もりまつ俊夫としおへん参謀さんぼう次長じちょう 沢田さわだしげる回想かいそうろく芙蓉ふよう書房しょぼう、1982ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい4632ごう 付録ふろく辞令じれい」1942ねん6がつ20日はつか