すめらぎどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

すめらぎどう(こうどうは)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんうち存在そんざいした派閥はばつきた一輝いっきらの影響えいきょうけて、天皇てんのう親政しんせいしたでの国家こっか改造かいぞう昭和しょうわ維新いしん)を目指めざし、対外たいがいてきにはソビエト連邦れんぽうとの対決たいけつ志向しこうした。

名称めいしょう概説がいせつ[編集へんしゅう]

名前なまえ由来ゆらいは、理論りろんてき指導しどうしゃされる荒木あらき貞夫さだお日本にっぽんぐんを「皇軍こうぐん」とび、政財界せいざいかいすめらぎどう理屈りくつでは「君側くんそくの奸」)を排除はいじょして天皇てんのう親政しんせいによる国家こっか改造かいぞういたことによる。

すめらぎどう統制とうせい対立たいりつしていたとされるが、統制とうせい中心ちゅうしん人物じんぶつであった永田ながた鉄山てつざんによれば、陸軍りくぐんには荒木あらき貞夫さだお真崎まさき三郎さぶろう頭首とうしゅとする「すめらぎどう」があるのみで「統制とうせい」なる派閥はばつ存在そんざいしなかった、と主張しゅちょうしている。

  • すめらぎどう全盛期ぜんせいき時代じだい、つまり荒木あらき陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにんしたいぬやしなえ内閣ないかくとき陸軍りくぐんない主導しゅどうけんにぎると、さんがつ事件じけんじゅうがつ事件じけん首謀しゅぼうしゃすめらぎどうはんするものたいして露骨ろこつ派閥はばつ人事じんじおこない、左遷させんされたり疎外そがいされたものらが団結だんけつしたグループははんすめらぎどうとして中央ちゅうおうから退しりぞけられたが、この処置しょち露骨ろこつすめらぎどう優遇ゆうぐう人事じんじとしておおくの中堅ちゅうけん幕僚ばくりょうそう反発はんぱつまねいた。おなじくすめらぎどう敵対てきたいする永田ながたが、みずからの意志いしかかわりなく、周囲しゅうい人間にんげんから勝手かってすめらぎどうたいする統制とうせいなる派閥はばつ頭領とうりょうにさせられていたのである。これらすめらぎどう中堅ちゅうけん幕僚ばくりょうそうは、のち永田ながた東條とうじょう英機ひでき中心ちゅうしん統制とうせいとしてまとまり、陸軍りくぐん中枢ちゅうすうからすめらぎどう排除はいじょされていくことになる。

両派りょうは路線ろせん対立たいりつはこののちつづくが、ぐん中央ちゅうおうさえた統制とうせいたいして、すめらぎどう若手わかて将校しょうこうによる過激かげき暴発ぼうはつ事件じけん相沢あいざわ事件じけん二・二六事件ににろくじけんなど)をこして衰退すいたいしていくことになる。

陸軍りくぐん重鎮じゅうちんであった上原うえはら勇作ゆうさく宇垣うがき一成いっせい対立たいりつし、すめらぎどうのメンバーを支援しえんしていた経緯けいいから[1]きゅう薩摩さつまばつおおかったとされる[2]

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

荒木あらき真崎まさき三郎さぶろうともに、すめらぎどうをつくりあげる基盤きばんは、宇垣うがき一成いっせい陸相りくしょうもとで、いわゆる宇垣うがき軍縮ぐんしゅく実施じっしされた時期じきまれたとえる。

宇垣うがき永田ながた鉄山てつざん陸軍りくぐんしょう動員どういん課長かちょうえ、地上ちじょう兵力へいりょくから4師団しだんやく9まんにん削減さくげんした。そのいた予算よさんで、航空機こうくうき戦車せんしゃ部隊ぶたい新設しんせつし、歩兵ほへいけい機関きかんじゅうじゅう機関きかんじゅう曲射きょくしゃほう装備そうびするなどぐん近代きんだいすすめた。

永田ながたは、だいいち世界せかい大戦たいせん観戦かんせん武官ぶかんとして、ヨーロッパ諸国しょこく軍事ぐんじりょくのありかたや、物資ぶっし生産せいさん資源しげんなどを組織そしきてき戦争せんそう集中しゅうちゅうするそう力戦りきせん体制たいせいたりにし、日本にっぽん軍備ぐんび政治せいじ経済けいざい体制たいせいおくれを痛感つうかんした。宇垣うがき軍縮ぐんしゅく軍事ぐんじ予算よさん縮小しゅくしょうもとめる世論せろんにおされながら、このおくれを挽回ばんかいしようとするものであった。統制とうせいかんがかたはこのながれをくむものである。

一方いっぽう宇垣うがきぐん実権じっけんにぎっているあいだ荒木あらき真崎まさきらは宇垣うがきばつがい人物じんぶつとして冷遇れいぐうされていた。荒木あらき1918ねんシベリア出兵しゅっぺい当時とうじ、シベリア派遣はけんぐん参謀さんぼうであったが、このとき革命かくめい直後ちょくごのロシアの混乱こんらん後進こうしんせい一方いっぽうで、赤軍せきぐんの「てつ規律きりつ」や勇敢ゆうかんさにおどろかされた。そのため荒木あらきはんソ・反共はんきょう思想しそうかためただけでなく、ソヴィエト軍事ぐんじ経済けいざい建設けんせつすすまえにこれとたたかい、シベリア周辺しゅうへんから撃退げきたいし、ここを日本にっぽん支配しはいくべきであるという、たい主戦しゅせんろんしゃとなった。

おりから、佐官さかん尉官いかんクラスの青年せいねん将校しょうこうあいだに『国家こっか改造かいぞう運動うんどうひろがってきた。その動機どうきは、

  • ソビエトが1928ねんにはじまるだいいちカ年かねん計画けいかく成功せいこうさせると、日本にっぽんぐん満州まんしゅう占領せんりょうすることも、たい攻撃こうげき開始かいしすることも不可能ふかのうになるので、一刻いっこくはやたい攻撃こうげき拠点きょてんとして満州まんしゅう確保かくほしようとするあせり。
  • 軍縮ぐんしゅくのため将校しょうこういたる昇進しょうしんおくれ、待遇たいぐう以前いぜんくらべて悪化あっかしそれにたいする不平ふへい不満ふまん激化げきかしたこと。
  • 農村のうそん恐慌きょうこうきょうのため、農民のうみん出身しゅっしんしゃ兵士へいしなか共産きょうさん主義しゅぎ共鳴きょうめいするもの増加ぞうかし、ぐん規律きりつ動揺どうようするのではないかという危機ききかん将校しょうこうたちあたえたこと。
  • 農村のうそん指導しどうそう地主じぬし教師きょうし社家しゃけてらぞく商家しょうかなど)出身しゅっしん青年せいねん将校しょうこうなかには、幼馴染おさななじみ部下ぶかへい実家じっか姉妹しまい零落れいらくしたり「身売みう」されたりするなど、農村のうそん悲惨ひさん実態じったい身近みぢか見聞みききしていたものおおかったため。

などである。

青年せいねん将校しょうこうらは、このような状況じょうきょうつくしているのが、宇垣うがき軍閥ぐんばつはじめ、財閥ざいばつ重臣じゅうしん官僚かんりょうばつであるとかんがえたのである。

1931ねん12月、じゅうがつ事件じけん圧力あつりょく背景はいけいに、いぬやしなえ内閣ないかく荒木あらき陸相りくしょう就任しゅうにんすると、真崎まさきぎらいでられる金谷かなやはんさん参謀さんぼう総長そうちょう軍事ぐんじ参議さんぎかんまわし、後任こうにん閑院みやじん親王しんのうす。ついで1932ねん1がつ台湾たいわんぐん司令しれいかん真崎まさき参謀さんぼう次長じちょうとしてもどし、参謀さんぼう本部ほんぶ実権じっけんにぎらせた。一方いっぽう杉山すぎやまはじめ二宮にのみやおさむじゅうらの宇垣うがき側近そっきん中央ちゅうおうからとおざけ、次官じかん柳川やながわ平助へいすけ軍務ぐんむ局長きょくちょう山岡やまおか重厚しげあつはいするひとし勢力せいりょく拡大かくだいはかった。人事じんじ局長きょくちょう松浦まつうらあつし六郎ろくろう軍事ぐんじ課長かちょう山下やました奉文ともゆきもこの系譜けいふにつながる。荒木あらき尉官いかんクラスに官邸かんてい連日れんじつのようにさけうなど、武力ぶりょくによる「維新いしん」をくわだてる青年せいねん将校しょうこうらを鼓舞こぶし、その支持しじあつめた。

荒木あらき真崎まさきは、にち戦争せんそう時期じき理想りそうし、日本にっぽんをその状態じょうたい復帰ふっきさせることが、ぐん拡大かくだい強化きょうかたいせんはや決行けっこうできる所以ゆえんだとかんがえた。ここから、「君側くんそくの奸」をち、「国体こくたい明徴めいちょう」にし、「天皇てんのう親政しんせい」を実現じつげんすべしという思想しそうされる。このような思想しそういだ荒木あらきらにたいし、青年せいねん将校しょうこうらは「無私むし誠忠せいちゅう人格じんかく」として崇敬すうけいした。これがすめらぎどうである。

行動こうどう[編集へんしゅう]

この荒木あらき真崎まさき代表だいひょうかくとし、前述ぜんじゅつ将官しょうかんほか、1932ねん昭和しょうわ7ねん)2がつ参謀さんぼう本部ほんぶだい課長かちょう作戦さくせん担当たんとう)ついでだいさん部長ぶちょう運輸うんゆ通信つうしん担当たんとう)となった小畑おばたさとし四郎しろう憲兵けんぺい司令しれいかんついでだい師団しだんちょうとなったはたしん小畑おばた後任こうにん作戦さくせん課長かちょうである鈴木すずきりつどうりくだい教官きょうかん満井みつい佐吉さきちらが首脳しゅのうをなしていたが、しょう中堅ちゅうけん将校しょうこうからはほとんど孤立こりつした存在そんざいであった。すめらぎどうが「国家こっか革新かくしん」のふだたの武力ぶりょく発動はつどう計画けいかくたったのは、村中むらなか孝次たかじ磯部いそべあさいち尉官いかんクラスの青年せいねん将校しょうこうだんである。

すめらぎどう青年せいねん将校しょうこうクーデター計画けいかく狂奔きょうほんしたのは、かれらが陸軍りくぐんしょう中央ちゅうおうちか統制とうせいほどに具体ぐたいてき情勢じょうせい判断はんだん方針ほうしんたず、たがいに天皇てんのうへの忠誠ちゅうせいちかい、結果けっかかえりみずに「捨石すていし」たらんとしたという思想しそうてき特質とくしつにもよる。

青年せいねん将校しょうこうらは自分じぶんたちの行動こうどうこしたのちは、「陛下へいかした一切いっさいげておまかせすること」(※2・26事件じけん首謀しゅぼうしゃ一人ひとり栗原くりはら安秀やすひで中尉ちゅうい尋問じんもん調書ちょうしょより)に期待きたいするのみであった。永田ながた鉄山てつざん軍務ぐんむ局長きょくちょう斬殺ざんさつした相沢あいざわ三郎さぶろう中佐ちゅうさは、法廷ほうてい検察官けんさつかん質問しつもんこたえ「国家こっか革新かくしんということは絶対ぜったいにない。いやしくも日本にっぽん国民こくみん革新かくしんはない。だいしんってそのことを翼賛よくさんたてまつることである」とべている。したがって彼等かれらは「革命かくめい」「クーデター」という概念がいねんすら拒絶きょぜつしていた。

また、かれらの信頼しんらいあつめた荒木あらき真崎まさきも、自分じぶんたちが首班しゅはんとなって内閣ないかくをつくることを予期よきするだけで、その計画けいかくく、かく方面ほうめん強力きょうりょく支持しじしゃもいなかった。とくに財閥ざいばつ官僚かんりょうにはすめらぎどう危険きけんする空気くうきつよく、かれらが政権せいけん担当たんとうする条件じょうけんそのものが欠落けつらくしていたのである。

それだけに、成果せいか見込みこみの有無うむわず危険きけん行動こうどうはしるという特徴とくちょう表面ひょうめんあらわれた。その特徴とくちょうこそ、軍部ぐんぶ官僚かんりょう財閥ざいばつのファッショてき支配しはいすすめる露払つゆはらいの役割やくわりたしたのである。もともと荒木あらき陸相りくしょう就任しゅうにんしたこと自体じたいさんがつ事件じけんじゅうがつ事件じけん政党せいとう首脳しゅのう恐怖きょうふかんじた結果けっかであった。

真崎まさき教育きょういく総監そうかん時代じだい天皇てんのう機関きかんせつ排斥はいせき運動うんどう中心ちゅうしんにあった。いち事件じけん相沢あいざわ事件じけん公判こうはんでは、排外はいがい主義しゅぎ国粋こくすい主義しゅぎ国民こくみん意識いしき利用りようして判決はんけつ介入かいにゅうさせ、また政党せいとう政治せいじ事実じじつじょうこのときに崩壊ほうかいした。この直後ちょくごこされた二・二六事件ににろくじけんさらじゅん戦時せんじ体制たいせいへとひらくのである。

凋落ちょうらく[編集へんしゅう]

荒木あらきいぬやしなえ内閣ないかく、さらに齋藤さいとう内閣ないかくにおいて陸相りくしょうをつとめたが、もともと軍令ぐんれい教育きょういくはたけなが政治せいじりょくけるところがあり、高橋たかはし是清これきよ蔵相ぞうしょうとの陸軍りくぐん予算よさん折衝せっしょうでも成果せいかげることが出来できなかった。また側近そっきんおおくも軍政ぐんせい経験けいけんとぼしく、荒木あらき十分じゅうぶん補佐ほさしたとはがたい。このため大臣だいじん末期まっきにはしょう中堅ちゅうけんしんうしない、青年せいねん将校しょうこうからはげをうなど閉塞へいそくじょうきょうおちいった。

参謀さんぼう本部ほんぶにおいても、実務じつむまわ真崎まさき次長じちょうに閑院総長そうちょうみや不快ふかいかんつのらせ、内部ないぶでも小畑おばたさとし四郎しろうだいさん部長ぶちょう永田ながた鉄山てつざんだい部長ぶちょうたいソ・ささえ戦略せんりゃくめぐ対立たいりつすめらぎどう統制とうせい両派りょうはこうそう端緒たんしょとなる。

荒木あらき1934ねん1がつさけぎて風邪かぜをこじらせ、肺炎はいえんとなり陸相りくしょう辞任じにんする。荒木あらき後任こうにん陸相りくしょう真崎まさき推薦すいせんしたが、真崎まさき独断どくだん閉口へいこうしていた閑院みや反対はんたいされ、はやしずくじゅうろう教育きょういく総監そうかん陸相りくしょうとなり、真崎まさきはその後任こうにんまわった。柳川やながわ以下いかすめらぎどう幕僚ばくりょう相次あいついで中央ちゅうおうり、さらに同年どうねん11がつには青年せいねん将校しょうこうらによる士官しかん学校がっこう事件じけんこり、これを契機けいき統制とうせいによる真崎まさき排除はいじょ機運きうんたかまる。1935ねん7がつはやしと閑院みやさん長官ちょうかん会議かいぎにおいて強引ごういん真崎まさき更迭こうてつ後任こうにん渡辺わたなべじょう太郎たろうえた。

荒木あらき辞職じしょく真崎まさき更迭こうてつによってすめらぎどう中央ちゅうおうでの基盤きばんうしない、8がつ相沢あいざわ事件じけんて、1936ねんには青年せいねん将校しょうこう中心ちゅうしんとした二・二六事件ににろくじけん暴発ぼうはつにつながる。その翌年よくねんにかけてのだい規模きぼ粛軍しゅくぐん人事じんじによってすめらぎどうはほぼ壊滅かいめつした。現役げんえきのこったのは山下やました奉文ともゆき鈴木すずきりつみち少数しょうすうものぎなかった。

なお大戦たいせん末期まっき1944ねん昭和しょうわ天皇てんのう木戸きど内大臣ないだいじんつうじて、「戦争せんそう指導しどうまり、経済けいざい社会しゃかい赤化せっかむか東條とうじょうとその側近そっきんえて、予備よびやくすめらぎどう将官しょうかん起用きようすべき」とそうした近衛このえ文麿ふみまろたいし、天皇てんのうつぎのように論駁ろんばくしている。「だいいち真崎まさき参謀さんぼう次長じちょうさい国内こくない改革かいかくあんのごときものを得意とくいになりてしめす。そのなかに国家こっか社会しゃかい主義しゅぎならざるべからずという字句じくがありて、訂正ていせいもとめたることあり。またかれ教育きょういく総監そうかん時代じだい方針ほうしんにより養成ようせいせられししゃが、今日きょう共産きょうさん主義しゅぎてきという中堅ちゅうけん将校しょうこうなり。だい柳川やながわろく直前ちょくぜんまでだい1師団しだんちょうたりしも、幕下まくした将校しょうこう蠢動しゅんどうついそもそもうことあたわざりき。ただかれ参謀さんぼうあれば仕事しごとすをべきも、力量りきりょう方面ほうめんぐん司令しれいかんまで人物じんぶつにあらざるか。だいさん小畑おばた陸軍りくぐん大学だいがく校長こうちょうおり満井みつい佐吉さきちをつかむことをず。作戦さくせんとしてるべきものるも、ぐん司令しれいかん程度ていど人物じんぶつならん。以上いじょうこれらのてんにつき、近衛このえ研究けんきゅうしありやいな」(木戸きど幸一こういち日記にっき)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 田中たなか隆吉りゅうきち日本にっぽん軍閥ぐんばつ暗闘あんとう』(7はん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1992ねん原著げんちょ1947ねん10がつ)、13-18ぺーじISBN 4122015006 
  2. ^ 教科書きょうかしょにはせられない 日本にっぽんぐん秘密ひみつ組織そしきいろどりしゃ p.105

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]