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リヒャルト・ゾルゲ (ドイツ語 ご : Richard Sorge , ロシア語 ご : Рихард Зорге , 1895年 ねん 10月4日 にち - 1944年 ねん 11月7日 にち )は、ソビエト連邦 れんぽう のスパイ 。1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )から1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )にかけてゾルゲ諜報 ちょうほう 団 だん を組織 そしき して日本 にっぽん で諜報 ちょうほう 活動 かつどう をおこない、ドイツ と日本 にっぽん の対 たい ソ参戦 さんせん の可能 かのう 性 せい などの調査 ちょうさ に従事 じゅうじ していたが、ゾルゲ事件 じけん の首謀 しゅぼう 者 しゃ として日本 にっぽん の警察 けいさつ 機関 きかん によって逮捕 たいほ され、刑事 けいじ 裁判 さいばん で治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう および国防 こくぼう 保安 ほあん 法 ほう 違反 いはん により死刑 しけい 判決 はんけつ を受 う け、処刑 しょけい された。
石油 せきゆ 会社 かいしゃ に勤 つと めコーカサス で仕事 しごと をしていたドイツ人 じん 鉱山 こうざん 技師 ぎし のヴィルヘルムとロシア人 じん ニーナとの間 あいだ に9人 にん 兄弟 きょうだい の1人 ひとり として、ロシア帝国 ていこく バクー県 けん のサブンチ で生 う まれる。ヴィルヘルムは石油 せきゆ 精製 せいせい の知見 ちけん を買 か われて招 まね かれ、採掘 さいくつ 機械 きかい 工場 こうじょう を設立 せつりつ してこの地 ち でニーナと結婚 けっこん した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
父方 ちちかた の大叔父 おおおじ フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ (Friedrich Adolf Sorge )はカール・マルクス の秘書 ひしょ であり、ハーグ 大会 たいかい 後 ご の第 だい 一 いち インターナショナル ・ニューヨーク 本部 ほんぶ の書記 しょき 長 ちょう であった。
3歳 さい の時 とき に父 ちち は工場 こうじょう を売却 ばいきゃく して、ゾルゲを含 ふく めた家族 かぞく とともにベルリン に移住 いじゅう した。ベルリンのリリエンタールギムナジウム (ドイツ語 ご 版 ばん ) (当時 とうじ の名称 めいしょう はオーバーレアルシューレ)に1902年 ねん から1914年 ねん まで在籍 ざいせき し、途中 とちゅう 1年 ねん の留年 りゅうねん を経験 けいけん している。自身 じしん の「獄中 ごくちゅう 手記 しゅき 」では、歴史 れきし や哲学 てつがく 、文学 ぶんがく 、政治 せいじ 学 がく は得意 とくい だったが、他 た の教科 きょうか は「通常 つうじょう 以下 いか 」で、学校 がっこう の規則 きそく を守 まも らずめったに口 くち をきかない生徒 せいと だったと記 しる している。
1914年 ねん 10月に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、学校 がっこう の卒業 そつぎょう を待 ま たずにゾルゲはドイツ陸軍 りくぐん に志願 しがん した。軍役 ぐんえき 中 ちゅう にゾルゲは3度 ど 負傷 ふしょう する。1916年 ねん 3月 がつ に西部 せいぶ 戦線 せんせん で両足 りょうあし に重傷 じゅうしょう を負 お う。この負傷 ふしょう は重 おも く、野戦 やせん 病院 びょういん に入院 にゅういん (その後 ご 除隊 じょたい )することとなった。入院 にゅういん していた時 とき にキール大学 だいがく で社会 しゃかい 学 がく を専攻 せんこう する従軍 じゅうぐん 看護 かんご 婦 ふ から社会 しゃかい 主義 しゅぎ 理論 りろん を聞 き かされる。向学心 こうがくしん が芽生 めば えたゾルゲに対 たい し、この看護 かんご 婦 ふ とその父親 ちちおや は、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、革命 かくめい 、美術 びじゅつ 史 し 、歴史 れきし などゾルゲが関心 かんしん を示 しめ した分野 ぶんや に文献 ぶんけん の提供 ていきょう を惜 お しまなかった。
1917年 ねん 11月にロシア革命 かくめい が起 お こり、ゾルゲは衝撃 しょうげき を受 う ける。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終戦 しゅうせん 前 まえ からベルリン大学 だいがく で哲学 てつがく 書 しょ を読 よ み、1918年 ねん 1月 がつ に正式 せいしき に軍 ぐん を除隊 じょたい になるとキール大学 だいがく に入学 にゅうがく した。キール大学 だいがく 時代 じだい にドイツ独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう に入党 にゅうとう する。
1919年 ねん にハンブルク大学 だいがく に移 うつ る。同年 どうねん 10月 がつ にドイツ共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう する。1920年 ねん に国家 こっか 学 がく の博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく した。論文 ろんぶん のテーマは賃金 ちんぎん 問題 もんだい だったという。
その後 ご 、アーヘン の高等 こうとう 学校 がっこう で教員 きょういん となるも、1921年 ねん 末 まつ には政治 せいじ 論争 ろんそう をおこなったことから解職 かいしょく される。炭鉱 たんこう 作業 さぎょう 員 いん に転 てん じて、職場 しょくば に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 組織 そしき を立 た ち上 あ げる。しかしアーヘンでの就職 しゅうしょく が困難 こんなん となり、フランクフルト・アム・マイン に移 うつ ってフランクフルト大学 だいがく 社会学部 しゃかいがくぶ 助手 じょしゅ となった。1922年 ねん にイルメナウ で開 ひら かれた第 だい 1回 かい マルクス主義 まるくすしゅぎ 研究 けんきゅう 集会 しゅうかい に参加 さんか し、記念 きねん の集合 しゅうごう 写真 しゃしん では留学 りゅうがく 中 ちゅう だった福本 ふくもと 和夫 かずお と一緒 いっしょ に写 うつ っている。
1924年 ねん 4月 がつ にフランクフルト・アム・マインで開催 かいさい されたドイツ共産党 きょうさんとう 大会 たいかい に参加 さんか した際 さい 、ソ連 それん から派遣 はけん されたコミンテルン 幹部 かんぶ であるオシップ・ピアトニツキー 、ドミトリー・マヌイリスキー 、ソロモン・ロゾフスキー 、オットー・クーシネン [注釈 ちゅうしゃく 3] の警護 けいご と接待 せったい を担当 たんとう した。彼 かれ らは親 した しくなったゾルゲにコミンテルンでの勤務 きんむ を勧誘 かんゆう した。ゾルゲは同年 どうねん 末 まつ にモスクワ に移 うつ り、1925年 ねん からコミンテルンに所属 しょぞく した。コミンテルン勤務 きんむ とともに、ピアトニツキーによりゾルゲの党籍 とうせき はソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう に変更 へんこう された。
コミンテルンでは各国 かっこく の党 とう から送 おく られてくる情報 じょうほう などを基 もと にした報告 ほうこく ・分析 ぶんせき 活動 かつどう が中心 ちゅうしん であった。ヨーロッパの現地 げんち 視察 しさつ をおこなったほか、作成 さくせい した報告 ほうこく を書籍 しょせき として刊行 かんこう もしている。
1929年 ねん 5月、ゾルゲはコミンテルンを離 はな れ、軍事 ぐんじ 諜報 ちょうほう 部門 ぶもん である労農 ろうのう 赤軍 せきぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 4局 きょく に所属 しょぞく を変更 へんこう した。この所属 しょぞく 変更 へんこう の理由 りゆう として、ゾルゲ自身 じしん は日本 にっぽん の検察 けんさつ の訊問 じんもん 調書 ちょうしょ において、コミンテルンでは諜報 ちょうほう 活動 かつどう ができないこと、世界 せかい 革命 かくめい の見通 みとお しが裏切 うらぎ られたこと、ソ連 それん における一 いち 国 こく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 路線 ろせん への転換 てんかん を挙 あ げている。ヨシフ・スターリン の政権 せいけん 掌握 しょうあく 後 ご 、コミンテルンはセクト主義 しゅぎ に傾斜 けいしゃ し、それに反対 はんたい する人員 じんいん は組織 そしき を追 お われたが、ゾルゲもその一人 ひとり だったという指摘 してき がある。
上海 しゃんはい でスパイ活動 かつどう 開始 かいし [ 編集 へんしゅう ]
尾崎 おざき 秀実 ひでみ
赤軍 せきぐん に移 うつ ったゾルゲは、上司 じょうし のヤン・ベルジン との話 はな し合 あ いにより、中華民国 ちゅうかみんこく の上海 しゃんはい に赴 おもむ くことになる。その使命 しめい は、蔣介石 せき 政権 せいけん に派遣 はけん されていたドイツの軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん の情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう のほか、中華民国 ちゅうかみんこく の内政 ないせい 外交 がいこう や中華民国 ちゅうかみんこく に対 たい する日本 にっぽん ・イギリス ・アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の外交 がいこう 政策 せいさく など調査 ちょうさ 対象 たいしょう は多岐 たき にわたっていた。1929年 ねん 末 まつ にモスクワを発 た ち、1930年 ねん より1932年 ねん まで上海 しゃんはい で諜報 ちょうほう 活動 かつどう をしながら自分 じぶん に協力 きょうりょく するグループを築 きず いた。
なおこの頃 ころ 「ラムゼイ」というコードネーム を与 あた えられている[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
半年 はんとし 程度 ていど で現地 げんち の指導 しどう 的 てき 立場 たちば となり、中華民国 ちゅうかみんこく 全土 ぜんど に情報 じょうほう 網 もう を持 も つに至 いた った。活動 かつどう は漢 かん 口 こう 、南京 なんきん 、広東 かんとん 、北京 ぺきん 、そして1932年 ねん に満州 まんしゅう 国 こく として独立 どくりつ することとなる満州 まんしゅう 地方 ちほう などを中心 ちゅうしん にして行 おこな われている。ゾルゲ自身 じしん も各地 かくち を巡 めぐ り、中華民国 ちゅうかみんこく および日本 にっぽん の政治 せいじ 、歴史 れきし 、文化 ぶんか に関 かん する書物 しょもつ を読 よ み、両国 りょうこく の言葉 ことば も学習 がくしゅう し、アジア問題 もんだい に通 つう じるようになった。上海 しゃんはい におけるゾルゲ諜報 ちょうほう 団 だん の日本人 にっぽんじん は、尾崎 おざき 秀実 ひでみ 、鬼頭 おにがしら 銀 ぎん 一 いち 、川合 かわい 貞吉 さだきち 、水野 みずの 成 しげる 、山上 やまかみ 正義 まさよし 、船越 ふなこし 寿雄 よしお であった[17] 。
上海 しゃんはい では、仕事 しごと を通 つう じて当時 とうじ 中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の毛沢東 もうたくとう に同行 どうこう 取材 しゅざい するなど活躍 かつやく していたアメリカ人 じん 左翼 さよく ジャーナリストのアグネス・スメドレー と知 し り合 あ う。スメドレーはゾルゲが中華民国 ちゅうかみんこく を去 さ るまで彼 かれ のスパイ組織 そしき の一人 ひとり として活動 かつどう した。朝日新聞 あさひしんぶん 記者 きしゃ だった尾崎 おざき 秀実 ひでみ とは、アメリカ共産党 きょうさんとう から派遣 はけん された鬼頭 おにがしら 銀 ぎん 一 いち から紹介 しょうかい を受 う けて知 し り合 あ った[注釈 ちゅうしゃく 5] 。水野 みずの 成 しげる をゾルゲに紹介 しょうかい したのも、尾崎 おざき ではなく鬼頭 おにがしら である[17] 。ゾルゲは、ドイツの軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団長 だんちょう のハンス・フォン・ゼークト や蔣介石 せき から軍事 ぐんじ 情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ し、蒋介石 しょうかいせき 軍 ぐん の飛行機 ひこうき を爆破 ばくは し、武器 ぶき を略取 りゃくしゅ するなど、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう を支援 しえん した[17] 。また、オットー・ブラウン やゲアハルト・アイスラー (ドイツ語 ご 版 ばん ) ら、コミンテルンから中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう に派遣 はけん されたドイツ人 じん 顧問 こもん とも接点 せってん を持 も った[18] 。のちに核兵器 かくへいき 情報 じょうほう をソ連 それん にもたらしたことで知 し られる、ウルスラ・クチンスキー はゾルゲの助手 じょしゅ かつ愛人 あいじん であった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ゾルゲは1932年 ねん 1月 がつ には日 にち 中 ちゅう 両 りょう 軍 ぐん が衝突 しょうとつ した第 だい 一 いち 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん を報道 ほうどう した。同年 どうねん 12月 がつ にモスクワに戻 もど る。
上海 しゃんはい 共同 きょうどう 租界 そかい の工 こう 部局 ぶきょく イギリス警察 けいさつ は1932年 ねん 1月 がつ 頃 ごろ から、ゾルゲをソ連 それん のスパイではないかと疑 うたが い始 はじ め、その後 ご 捜査 そうさ を進 すす めた結果 けっか 、1933年 ねん 5月にゾルゲをソ連 それん のスパイとほぼ断定 だんてい した[17] 。
日本 にっぽん でのスパイ活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
ゾルゲの外国 がいこく 通信員 つうしんいん 身分 みぶん 証明 しょうめい 票 ひょう
マックス・クラウゼン
1933年 ねん 、次 つぎ にゾルゲに出 だ された指示 しじ は日本 にっぽん での活動 かつどう だった。その主 おも な内容 ないよう は日本 にっぽん の対 たい ソ政策 せいさく や軍備 ぐんび の動向 どうこう 、日 にち 独 どく 関係 かんけい (ナチス が政権 せいけん を握 にぎ ったのはこの年 とし 1月 がつ だった)や日本 にっぽん の対 たい 中国 ちゅうごく 政策 せいさく などの調査 ちょうさ だった。ゾルゲはまずドイツに赴 おもむ いてからアメリカ経由 けいゆ で日本 にっぽん に向 む かった。ドイツでゾルゲは地政学 ちせいがく 者 しゃ のカール・ハウスホーファー らから駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん 員 いん への紹介 しょうかい 状 じょう を得 え る。職業 しょくぎょう をジャーナリストとしたドイツのパスポートも入手 にゅうしゅ した。
来日 らいにち 前 まえ に『フランクフルター・ツァイトゥング 』の特派 とくは 員 いん となったという記述 きじゅつ もあるが、1941年 ねん の逮捕 たいほ 後 ご に当時 とうじ の日本 にっぽん 支局 しきょく 代表 だいひょう 者 しゃ がドイツ外務省 がいむしょう に出 だ した書簡 しょかん では、ゾルゲと正式 せいしき な特派 とくは 員 いん 契約 けいやく を交 か わしたことはなく、ゾルゲを寄稿 きこう 者 しゃ として利用 りよう するようになったのも1936年 ねん 2月 がつ にゾルゲからベルリンの本社 ほんしゃ に宛 あ てた売 う り込 こ みの手紙 てがみ を受 う け取 と ってからであるとしている。1933年 ねん 9月 がつ 6日 にち にゾルゲはバンクーバー 発 はつ のカナダ客船 きゃくせん で横浜 よこはま 港 こう に到着 とうちゃく し、日本 にっぽん での活動 かつどう を開始 かいし する。
ゾルゲは寄稿 きこう 記者 きしゃ ながらジャーナリストとして駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん で信頼 しんらい を得 え ていった。来日 らいにち 間 あいだ もない1933年 ねん 秋 あき に東京 とうきょう からナチスに入党 にゅうとう 申請 しんせい し、1934年 ねん 10月 がつ に正式 せいしき なナチス党員 とういん となった。
日本 にっぽん におけるドイツ人 じん 社会 しゃかい で、日本 にっぽん 通 どおり かつナチス党員 とういん として知 し られるようになっていたゾルゲは、駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん 付 づけ 陸軍 りくぐん 武官 ぶかん 補 ほ のオイゲン・オット の信頼 しんらい を得 え た。彼 かれ は来日 らいにち 前 まえ に『テークリッヘ・ルントシャウ』紙 し 論説 ろんせつ 委員 いいん であるツェラーの紹介 しょうかい 状 じょう を入手 にゅうしゅ していた。政治 せいじ 的 てき 逃避 とうひ のため日本 にっぽん に派遣 はけん されることになった当時 とうじ のオット中佐 ちゅうさ は日本 にっぽん に関 かん する知識 ちしき がほとんどなく、そのため日本 にっぽん の政治 せいじ などに関 かん して豊富 ほうふ な知識 ちしき とコネクションを持 も ったゾルゲとの出会 であ いを喜 よろこ んだ。
一方 いっぽう 、ゾルゲよりも先 さき に来日 らいにち していたユーゴスラビア 人 ひと のブランコ・ド・ヴーケリッチ (当初 とうしょ はユーゴスラビアの新聞 しんぶん 『ポリティカ 』特派 とくは 員 いん 、1935年 ねん にフランス のアヴァス通信 つうしん 社 しゃ 東京 とうきょう 支局 しきょく に移籍 いせき )、ゾルゲより少 すこ し遅 おく れて帰国 きこく したアメリカ共産党 きょうさんとう 員 いん の洋画 ようが 家 か 宮城 みやぎ 与 あずか 徳 とく と接触 せっしょく を持 も って諜報 ちょうほう 団 だん のメンバーとした。ソ連 それん との交信 こうしん のための無線 むせん 通信 つうしん 士 し としてブルーノ・ヴェントという人物 じんぶつ があてがわれたが、ゾルゲはその能力 のうりょく や性格 せいかく に問題 もんだい があると判断 はんだん し、上海 しゃんはい でもともに活動 かつどう したドイツ人 じん 無線 むせん 技士 ぎし のマックス・クラウゼン の派遣 はけん を要請 ようせい 、クラウゼンは1935年 ねん 12月に来日 らいにち した[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
だが、ゾルゲは日本 にっぽん の政府 せいふ や軍 ぐん の最高 さいこう レベルでの決定 けってい 事項 じこう を探 さぐ ることのできる人材 じんざい を欠 か いていた(ヴーケリッチや宮城 みやぎ は諜報 ちょうほう 活動 かつどう に未熟 みじゅく で人脈 じんみゃく もなかった)。そこでゾルゲは、当時 とうじ 大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん に勤務 きんむ していた尾崎 おざき 秀実 ひでみ をその任 にん に充 あ てることとし、1934年 ねん 春 はる に奈良 なら の猿沢 さるさわ 池 ち で尾崎 おざき と再会 さいかい 、尾崎 おざき はゾルゲの依頼 いらい を受 う け入 い れた。尾崎 おざき は1934年 ねん 秋 あき に朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ の東亜 とうあ 問題 もんだい 調査 ちょうさ 会 かい 勤務 きんむ となり、東京 とうきょう に転勤 てんきん する。
こうしてゾルゲは少 すこ しずつ諜報 ちょうほう 網 もう と情報 じょうほう 源 げん を築 きず いていったが、来日 らいにち から1935年 ねん までは「積極 せっきょく 的 てき な活動 かつどう をするための土台 どだい を作 つく るのに精 せい いっぱい」であり、「任務 にんむ を遂行 すいこう するどころの話 はなし ではな」かったと後 のち の手記 しゅき に記 しる している。
クラウゼン・尾崎 おざき 以外 いがい のメンバーの役割 やくわり は、ヴーケリッチは同盟 どうめい 通信 つうしん 社 しゃ や外国 がいこく 通信 つうしん 各社 かくしゃ [注釈 ちゅうしゃく 7] での検閲 けんえつ 前 まえ のニュース収集 しゅうしゅう と、集 あつ めた資料 しりょう の写真 しゃしん 撮影 さつえい (マイクロフィルム に焼 や いた)、宮城 みやぎ は日本人 にっぽんじん 協力 きょうりょく 者 しゃ からの情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 、資料 しりょう の英訳 えいやく 、および尾崎 おざき とゾルゲの連絡 れんらく だった。集 あつ まった資料 しりょう の分析 ぶんせき と報告 ほうこく はゾルゲ一 いち 人 にん が担 にな い、短 みじか いものはクラウゼンが自作 じさく した無線 むせん 機 き による無線 むせん 通信 つうしん 、長文 ちょうぶん の報告 ほうこく 書 しょ はマイクロフィルムにして駐 ちゅう 日 にち ソ連 それん 大使館 たいしかん のクーリエ に託 たく された。無線 むせん 通信 つうしん の場合 ばあい は、文章 ぶんしょう を数字 すうじ に置換 ちかん の上 うえ 、1935年版 ねんばん 『ドイツ統計 とうけい 年鑑 ねんかん 』を乱数 らんすう 表 ひょう としてさらに加工 かこう した暗号 あんごう が使用 しよう された。日本 にっぽん の官憲 かんけん は、怪 あや しい無線 むせん 電波 でんぱ が送信 そうしん されていることを把握 はあく していたが[注釈 ちゅうしゃく 8] 、クラウゼンが複数 ふくすう の拠点 きょてん を転々 てんてん としながら送信 そうしん したために発信 はっしん 元 もと を特定 とくてい できず、また暗号 あんごう も解読 かいどく できなかった[32] [33] 。
ゾルゲは1935年 ねん 7月 がつ から9月 がつ まで、モスクワ に戻 もど った。これがゾルゲにとって最後 さいご の帰国 きこく となる。その後 ご 、ゾルゲがソ連 それん への帰任 きにん を希望 きぼう した電報 でんぽう が複数 ふくすう 残 のこ されている(1939年 ねん 1月 がつ 20日 にち 付 づけ 、同 どう 6月 がつ 4日 にち 付 づけ )。しかし代 か わりの人員 じんいん がいないという理由 りゆう でゾルゲの希望 きぼう は認 みと められなかった。その一方 いっぽう 、ソ連 それん 本国 ほんごく では上司 じょうし だったベルジンらが粛清 しゅくせい され、「帰 かえ れば粛清 しゅくせい される」ことをゾルゲは察 さっ してもいた。同 どう 時期 じき に日本 にっぽん で諜報 ちょうほう 活動 かつどう を行 おこな っていたアイノ・クーシネン の回想 かいそう では、1937年 ねん 11月にゾルゲから彼女 かのじょ にソ連 それん への帰国 きこく 命令 めいれい を伝 つた えられた際 さい に、ゾルゲは自分 じぶん にも命令 めいれい が出 で ているが組織 そしき 維持 いじ のため今 いま は帰 かえ れないと伝 つた えるよう頼 たの んだという[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
1936年 ねん の二・二六事件 ににろくじけん の際 さい にはドイツ大使館 たいしかん 内 ない にいたことが、大使館 たいしかん と戒厳 かいげん 司令 しれい 部 ぶ の連絡 れんらく 将校 しょうこう として館内 かんない に出入 でい りしていた馬 うま 奈木敬 けい 信 しん によって戦後 せんご 証言 しょうげん されている[38] 。ゾルゲはこの事件 じけん を日本 にっぽん の対外 たいがい 政策 せいさく と内部 ないぶ 構成 こうせい を理解 りかい する好機 こうき ととらえた。オットや大使 たいし のヘルベルト・フォン・ディルクセン (ドイツ語 ご 版 ばん ) にも協力 きょうりょく を求 もと めて情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう に努 つと め、事件 じけん を分析 ぶんせき した報告 ほうこく 書 しょ をドイツ外務省 がいむしょう や所属 しょぞく 先 さき である赤軍 せきぐん 第 だい 四 よん 本部 ほんぶ 、ドイツの雑誌 ざっし に送 おく っている(ドイツ外務省 がいむしょう と雑誌 ざっし では匿名 とくめい )。これを契機 けいき に大使館 たいしかん 側 がわ のゾルゲに対 たい する信頼 しんらい は向上 こうじょう した。なおドイツの雑誌 ざっし に掲載 けいさい された論文 ろんぶん は、カール・ラデック がゾルゲの筆 ふで とは知 し らずに評価 ひょうか してソ連 それん の新聞 しんぶん に転載 てんさい した。ゾルゲはこれに抗議 こうぎ し、以後 いご はこうした事態 じたい は避 さ けられた。
馬 うま 奈木は陸軍 りくぐん の「ドイツ通 どおり 」とされ、やはりドイツへの駐在 ちゅうざい 経験 けいけん のある山県 やまがた 有光 ありみつ ・西郷 さいごう 従 したがえ 吾 われ ・武藤 むとう 章 あきら らとともに、ゾルゲから手記 しゅき で「陸軍 りくぐん 省 しょう の情報 じょうほう 源 げん 」として名 な を挙 あ げられている[39] 。松崎 まつざき 昭一 しょういち は、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の状況 じょうきょう 打開 だかい を狙 ねら ってドイツとの関係 かんけい 強化 きょうか を図 はか る陸軍 りくぐん 側 がわ が、ドイツ大使館 たいしかん を通 つう じて(ギブアンドテイクの形 かたち で)情報 じょうほう をゾルゲに与 あた えていたのではないかと指摘 してき している[40] 。
1936年 ねん 11月にオットの補佐 ほさ 官 かん として駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん のショル中佐 ちゅうさ が着任 ちゃくにん 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で同 おな じ戦闘 せんとう に参加 さんか したこともあり、ゾルゲはショルとも親交 しんこう を深 ふか めた。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )が1937年 ねん に勃発 ぼっぱつ すると、駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん ではオット(1938年 ねん 4月 がつ に大使 たいし 就任 しゅうにん )がショル、ゾルゲとの3人 にん で「支 ささえ 那 な 事変 じへん に関 かん する日本 にっぽん 軍 ぐん 」という調査 ちょうさ 研究 けんきゅう を始 はじ め、これにより収集 しゅうしゅう された資料 しりょう をゾルゲは撮影 さつえい してソ連 それん 本国 ほんごく に送 おく った[42] 。
一見 いっけん 順調 じゅんちょう な諜報 ちょうほう 活動 かつどう だったが、ショルは1939年 ねん の始 はじ めに離任 りにん し、前記 ぜんき の研究 けんきゅう 会 かい も不 ふ 活発 かっぱつ になった[43] 。ゾルゲは同年 どうねん 6月 がつ に送 おく った報告 ほうこく で、「活動 かつどう をつづける上 うえ での障害 しょうがい の増大 ぞうだい 」を訴 うった え、その理由 りゆう として駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん の増員 ぞういん によって新 あら たな関係 かんけい を作 つく ることが困難 こんなん になったこと、古 ふる くから残 のこ っている人物 じんぶつ がオットのみとなった上 うえ にオットが大使 たいし に就任 しゅうにん したことで個人 こじん 的 てき に面談 めんだん ・討議 とうぎ できる機会 きかい が激減 げきげん したことを挙 あ げている。ゾルゲは後 ご の手記 しゅき において、日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 情報 じょうほう に関 かん しては1939年 ねん - 1940年 ねん 頃 ごろ を境 さかい に駐 ちゅう 日 にち ドイツ大使館 たいしかん よりも尾崎 おざき や宮城 みやぎ が収集 しゅうしゅう してくる情報 じょうほう の方 ほう が価値 かち が高 たか くなったと記 しる している[43] 。尾崎 おざき は1938年 ねん 7月 がつ には第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく 嘱託 しょくたく となる(1939年 ねん 1月 がつ まで)とともに、近衛 このえ 文麿 ふみまろ のブレーンによる朝飯 あさめし 会 かい のメンバーにも加 くわ えられていた[45] 。
日 にち 独 どく の接近 せっきん は、それが対 たい ソ軍事 ぐんじ 同盟 どうめい につながるのではないかという点 てん で、ソ連 それん の重大 じゅうだい な関心事 かんしんじ となった。1939年 ねん 前半 ぜんはん にゾルゲはこの動 うご きに関 かん する情報 じょうほう を複数 ふくすう 本国 ほんごく に送 おく り、イギリスとの関係 かんけい 悪化 あっか を避 さ けたい日本 にっぽん が同盟 どうめい 締結 ていけつ に消極 しょうきょく 的 てき で、ドイツも対 たい 英 えい 戦 せん を対 たい ソ戦 せん より優先 ゆうせん していると分析 ぶんせき した。この後 のち ソ連 それん は同年 どうねん 8月 がつ に独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ 、9月にドイツのポーランド侵攻 しんこう によって第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ する。
ヨーロッパ で戦争 せんそう が始 はじ まるとオットはゾルゲを大使館 たいしかん 情報 じょうほう 官 かん に任命 にんめい し、ゾルゲはドイツ大使館 たいしかん の公的 こうてき な立場 たちば を手 て に入 い れた。ゾルゲはドイツ大使館 たいしかん と彼 かれ の諜報 ちょうほう 網 もう の両方 りょうほう から日本 にっぽん の戦争 せんそう 継続 けいぞく 能力 のうりょく 、軍事 ぐんじ 計画 けいかく などを入手 にゅうしゅ できる立場 たちば となり、1940年 ねん 9月27日 にち の日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい 後 のち にはより多 おお くの情報 じょうほう が得 え られるようになった。
一方 いっぽう 、長 なが い活動 かつどう の間 あいだ にゾルゲに対 たい して行動 こうどう や前歴 ぜんれき を不審 ふしん と感 かん じる向 む きが出 で ていた。ヴァルター・シェレンベルク (当時 とうじ 国家 こっか 保安 ほあん 本部 ほんぶ 海外 かいがい 情報 じょうほう 部長 ぶちょう )の回想 かいそう 『秘密 ひみつ 機関 きかん 長 ちょう の手記 しゅき 』によると、シェレンベルクはドイツ通信 つうしん 社 しゃ の総裁 そうさい からゾルゲの調査 ちょうさ を依頼 いらい された。その理由 りゆう は、総裁 そうさい がナチス党 とう 方面 ほうめん からゾルゲの「不可解 ふかかい な」政治 せいじ 的 てき 前歴 ぜんれき の情報 じょうほう を伝 つた えられたことだった。
シェレンベルクは、ゾルゲを共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ とは裏付 うらづ けられなかったが不審 ふしん な印象 いんしょう を拭 ぬぐ えず、保安 ほあん 警察 けいさつ 長官 ちょうかん のラインハルト・ハイドリヒ の意向 いこう で、駐 ちゅう 日 にち 大使館 たいしかん 付 づけ 警察 けいさつ 武官 ぶかん として1941年 ねん 5月 がつ に赴任 ふにん することになった国家 こっか 保安 ほあん 本部 ほんぶ のヨーゼフ・マイジンガー にゾルゲを監視 かんし する任務 にんむ を与 あた えた。しかしゾルゲはマイジンガーと酒席 しゅせき も通 つう じて交友 こうゆう を結 むす び、隙 すき を見 み せなかった。
独 どく ソ戦 せん に関 かん する諜報 ちょうほう 活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
1940年 ねん 12月29日 にち にゾルゲが送 おく った報告 ほうこく では、ドイツが東部 とうぶ 国境 こっきょう に80個 こ 師団 しだん を配備 はいび しているというドイツ軍人 ぐんじん からの情報 じょうほう を伝 つた え、ドイツ軍 ぐん がハリコフ ・モスクワ・レニングラード の線 せん に沿 そ って領土 りょうど 占領 せんりょう が可能 かのう だと記 しる した。だが、この情報 じょうほう はソ連 それん 本国 ほんごく では疑問 ぎもん 視 し された。
5月に入 はい るとゾルゲはドイツの対 たい ソ開戦 かいせん の兆候 ちょうこう があるという連絡 れんらく を複数 ふくすう 送 おく り、さらにタイ王国 おうこく への赴任 ふにん の途中 とちゅう 東京 とうきょう に立 た ち寄 よ ったショル中佐 ちゅうさ から、「6月 がつ 15日 にち にドイツが対 たい ソ開戦 かいせん する」と伝 つた えられ、6月1日 にち 付 づけ で送信 そうしん した[注釈 ちゅうしゃく 10] 。しかし、この通信 つうしん に対 たい してもソ連 それん では「疑 うたが わしい、挑発 ちょうはつ のための電報 でんぽう のリストに入 い れるよう」という書 か き込 こ みがなされ、6月20日 にち 付 づけ で送 おく った「オットが対 たい ソ開戦 かいせん 不可避 ふかひ と述 の べた」という通信 つうしん に対 たい しても重要 じゅうよう 情報 じょうほう として扱 あつか われた形跡 けいせき はない。ソ連 それん 侵攻 しんこう 作戦 さくせん が開始 かいし されると、ソ連 それん 赤軍 せきぐん は緒戦 しょせん で大敗 たいはい した。
他 た のスパイの情報 じょうほう やイギリスからの通報 つうほう も独 どく ソ開戦 かいせん を補強 ほきょう していたにもかかわらず、スターリンはこれらを無視 むし した。その理由 りゆう については、諜報 ちょうほう 機関 きかん の情報 じょうほう 自体 じたい への不信 ふしん 、イギリスによる独 どく ソ離間 りかん 策 さく という疑念 ぎねん 、独 どく 露 ろ 混血 こんけつ であるゾルゲに対 たい する二 に 重 じゅう スパイ疑惑 ぎわく 、赤軍 せきぐん への悪感情 あくかんじょう 等 とう が挙 あ げられている[注釈 ちゅうしゃく 11] 。また、ソ連 それん 本国 ほんごく でゾルゲの通信 つうしん の翻訳 ほんやく を担当 たんとう したシロトキンには「日本 にっぽん のスパイ」という疑惑 ぎわく がかけられており、ゾルゲが所属 しょぞく した労農 ろうのう 赤軍 せきぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 4局 きょく のコルガノフ少将 しょうしょう は「シロトキンとゾルゲはスパイ」とする報告 ほうこく 書 しょ を同年 どうねん 8月 がつ 11日 にち 付 づけ で記 しる していた。
独 どく ソ開戦 かいせん 後 ご 、ソ連 それん からゾルゲには、改 あらた めて日本 にっぽん 政府 せいふ の対 たい ソ政策 せいさく やソ連 それん 国境 こっきょう への軍隊 ぐんたい の移動 いどう について情報 じょうほう を探 さぐ る指示 しじ が出 だ された。日本 にっぽん の対 たい ソ開戦 かいせん を恐 おそ れたためだった。外務 がいむ 大臣 だいじん の松岡 まつおか 洋右 ようすけ が日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を破棄 はき しても対 たい ソ開戦 かいせん すべきと主張 しゅちょう したことはゾルゲにも伝 つた わったが、ゾルゲは日本 にっぽん の関心 かんしん は南方 なんぽう だとしてこれを疑問 ぎもん 視 し した。日本 にっぽん 政府 せいふ や軍部 ぐんぶ の多 おお くは、ソ連 それん への侵攻 しんこう には消極 しょうきょく 的 てき ではあったものの、まだ流動的 りゅうどうてき であった。
諜報 ちょうほう 団 だん は諜報 ちょうほう 活動 かつどう 以外 いがい の宣伝 せんでん や謀略 ぼうりゃく を禁 きん じられていたが、ゾルゲはドイツ大使館 たいしかん で日本 にっぽん の対 たい ソ開戦 かいせん は期待 きたい できないという意見 いけん を説 と いて回 まわ り、尾崎 おざき は「朝飯 あさめし 会 かい 」でソ連 それん は崩壊 ほうかい せず日本 にっぽん がソ連 それん に開戦 かいせん するのは無意味 むいみ だと主張 しゅちょう した。もっともこれらの効果 こうか については両人 りょうにん とも限定 げんてい 的 てき なものだったと後 のち の訊問 じんもん 調書 ちょうしょ で述 の べている。
7月 がつ 2日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ 決定 けってい (情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ伴 とも フ帝国 ていこく 国策 こくさく 要綱 ようこう )では、南進 なんしん [注釈 ちゅうしゃく 12] を主眼 しゅがん としつつ、独 どく ソ戦 せん の形勢 けいせい が日本 にっぽん に有利 ゆうり になれば参戦 さんせん できるよう準備 じゅんび をする[注釈 ちゅうしゃく 13] という「両 りょう 構 かま え」の方針 ほうしん となる。ゾルゲはオットと尾崎 おざき の両方 りょうほう からこの決定 けってい を入手 にゅうしゅ する。尾崎 おざき は、日本 にっぽん 軍 ぐん の矛先 ほこさき が南北 なんぼく いずれに向 む かうのかを政権 せいけん 中枢 ちゅうすう に近 ちか い筋 すじ から探 さぐ った(西園寺 さいおんじ 公一 こういち や田中 たなか 慎 まき 次郎 じろう が主 おも な情報 じょうほう 源 げん だった)。ゾルゲは、対 たい ソ戦 せん 準備 じゅんび を重視 じゅうし するオットの見解 けんかい ではなく、南進 なんしん が主眼 しゅがん だとする尾崎 おざき の分析 ぶんせき を採用 さいよう して、7月 がつ 10日 とおか に本国 ほんごく に送 おく った。
さらに、8月 がつ 以降 いこう 、日本 にっぽん の対 たい ソ開戦 かいせん の可能 かのう 性 せい が低下 ていか したことがオットや尾崎 おざき の情報 じょうほう によって確認 かくにん され、ゾルゲは9月14日 にち に送 おく った報告 ほうこく で「オット大使 たいし の意見 いけん によると、日本 にっぽん の対 たい ソビエト攻撃 こうげき は今 いま ではもはや問題 もんだい 外 がい であり、日本 にっぽん が攻撃 こうげき 可能 かのう なのは、ソビエトが極東 きょくとう から軍隊 ぐんたい を大 だい 規模 きぼ に移動 いどう させた場合 ばあい にだけだろう」と記 しる した。このゾルゲの情報 じょうほう に加 くわ え、内務 ないむ 人民 じんみん 委員 いいん 部 ぶ (NKVD)のセルゲイ・トルストイらによる日本 にっぽん の外交 がいこう 暗号 あんごう 電報 でんぽう (パープル暗号 あんごう )の傍受 ぼうじゅ 解読 かいどく 情報 じょうほう 、さらに日本 にっぽん 政府 せいふ 内 ない の協力 きょうりょく 者 しゃ 「エコノミスト」(コードネーム)の情報 じょうほう によって日本 にっぽん の対 たい ソ開戦 かいせん が低 ひく いことを確認 かくにん したソ連 それん は、ソ満 まん 国境 こっきょう に配備 はいび された部隊 ぶたい の一部 いちぶ を抽出 ちゅうしゅつ してヨーロッパ方面 ほうめん へ移動 いどう させ、モスクワ前面 ぜんめん の攻防 こうぼう 戦 せん でドイツ軍 ぐん を押 お し返 かえ すことに成功 せいこう した[注釈 ちゅうしゃく 14] 。
1941年 ねん 10月 がつ 4日 にち 付 づけ の最後 さいご の諜報 ちょうほう 報告 ほうこく に対 たい し、ソ連 それん 本国 ほんごく からは「皆 みな さんの実 みの りある仕事 しごと に感謝 かんしゃ する。あなたとあなたのグループの東京 とうきょう での協力 きょうりょく は円満 えんまん に終 おわ ったものと考 かんが える」との返信 へんしん がなされた。
特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ (特高 とっこう )はアメリカ共産 きょうさん 党員 とういん である宮城 みやぎ やその周辺 しゅうへん に内偵 ないてい をかけていた。宮城 みやぎ や、同 おな じアメリカ共産 きょうさん 党員 とういん で1939年 ねん に帰国 きこく した北林 きたばやし トモなどがその対象 たいしょう であった。満州 まんしゅう の憲兵 けんぺい 隊 たい からソ連 それん が押収 おうしゅう してロシア国内 こくない で保管 ほかん されていた内務省 ないむしょう 警保局 きょく の『特高 とっこう 捜査 そうさ 員 いん 褒賞 ほうしょう 上申 じょうしん 書 しょ 』には、ゾルゲ事件 じけん の捜査 そうさ 開始 かいし は「1940年 ねん 6月 がつ 27日 にち 」であったと記 しる されている[17] 。
前出 ぜんしゅつ のマイジンガーは、密 ひそ かに内偵 ないてい していた憲兵 けんぺい 隊 たい に「信頼 しんらい できる人物 じんぶつ である」と身分 みぶん 保証 ほしょう してゾルゲに対 たい する尾行 びこう を中止 ちゅうし するように依頼 いらい している[32] [33] 。マイジンガーからゾルゲの調査 ちょうさ 依頼 いらい を受 う けた警視庁 けいしちょう 特高 とっこう 部 ぶ 外事 がいじ 課 か も1941年 ねん 夏 なつ にゾルゲを内偵 ないてい したが、怪 あや しい点 てん を見 み つけることはできなかった。
これらにかかわらず、特高 とっこう は外国 がいこく の新聞 しんぶん の特派 とくは 員 いん に対 たい する通常 つうじょう の任務 にんむ の一環 いっかん として、その後 ご もゾルゲに対 たい する尾行 びこう や調査 ちょうさ を続 つづ け、これがゾルゲ事件 じけん の摘発 てきはつ につながることとなる[67] 。
1941年 ねん 9月 がつ 27日 にち [注釈 ちゅうしゃく 15] の北林 きたばやし を皮切 かわき りに事件 じけん 関係 かんけい 者 しゃ が順次 じゅんじ 拘束 こうそく ・逮捕 たいほ された[注釈 ちゅうしゃく 16] 。北林 きたばやし の供述 きょうじゅつ から10月 がつ 10日 とおか に宮城 みやぎ が、10月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に尾崎 おざき が逮捕 たいほ される(ゾルゲ事件 じけん )[注釈 ちゅうしゃく 17] 。
ゾルゲは宮城 みやぎ や尾崎 おざき と連絡 れんらく が取 と れなくなったことに不安 ふあん を抱 いだ き、10月17日 にち の夜 よる 、自宅 じたく にクラウゼンとヴーケリッチが集 あつ まった際 さい にもそれを口 くち にした。ヴーケリッチの訊問 じんもん 調書 ちょうしょ によるとこの夜 よる ゾルゲとクラウゼンはドイツに帰国 きこく する意思 いし を示 しめ し、ゾルゲは本国 ほんごく にその可否 かひ を本国 ほんごく の本部 ほんぶ に尋 たず ねる電文 でんぶん の原稿 げんこう も作成 さくせい していた。だが、翌 よく 10月 がつ 18日 にち 朝 あさ にゾルゲは自宅 じたく で特高 とっこう 外事 がいじ 課 か と検察 けんさつ によって逮捕 たいほ された。ヴーケリッチとクラウゼンも同日 どうじつ 逮捕 たいほ されている。
これに対 たい し、ゾルゲをナチス党員 とういん の記者 きしゃ だと信 しん じ込 こ んでいたオット大使 たいし やマイジンガーなどが外務省 がいむしょう に対 たい して正式 せいしき に抗議 こうぎ をおこなったほか、ナチス党 とう 東京 とうきょう 支部 しぶ 、在日 ざいにち ドイツ人 じん 特派 とくは 員 いん 一同 いちどう もゾルゲの逮捕 たいほ 容疑 ようぎ が不当 ふとう なものであると抗議 こうぎ する声明 せいめい 文 ぶん を出 だ した。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕 たいほ 後 ご にベルリンの国家 こっか 保安 ほあん 本部 ほんぶ に対 たい して「日本 にっぽん 当局 とうきょく によるゾルゲに対 たい する嫌疑 けんぎ は、全 まった く信用 しんよう するに値 あたい しない」と報告 ほうこく している。
逮捕 たいほ されたゾルゲは当初 とうしょ 特高 とっこう 外事 がいじ 課 か の警部補 けいぶほ だった大橋 おおはし 秀雄 ひでお によって取 と り調 しら べを受 う けた。ゾルゲは当初 とうしょ は容疑 ようぎ を否認 ひにん し、ナチス党員 とういん ・大使館 たいしかん 嘱託 しょくたく で新聞 しんぶん 記者 きしゃ であると主張 しゅちょう して、検挙 けんきょ が日 にち 独 どく 関係 かんけい を害 がい すると訴 うった えた。だが、大橋 おおはし が逮捕 たいほ 後 ご の家宅 かたく 捜索 そうさく で押収 おうしゅう したソ連 それん への離日 りにち 申請 しんせい 原稿 げんこう や、クラウゼンの自供 じきょう で発見 はっけん された通信 つうしん 機 き の存在 そんざい をゾルゲに告 つ げると、ゾルゲは自 みずか らが「単 たん なる新聞 しんぶん 記者 きしゃ ではない」ことを自供 じきょう した。翌日 よくじつ (逮捕 たいほ から一 いち 週間 しゅうかん 後 ご の10月 がつ 25日 にち )、ゾルゲは大橋 おおはし や検事 けんじ の吉河 よしこ 光貞 みつさだ に対 たい して自分 じぶん がスパイであるとついに白状 はくじょう し「今 いま までどこにも負 ま けなかったけれど、今度 こんど はじめて日本 にっぽん の警察 けいさつ に負 ま けた」と付 つ け加 くわ えた。
オット大使 たいし の命 いのち を受 う けて外務省 がいむしょう と折衝 せっしょう した大使館 たいしかん 員 いん のエーリヒ・コルト (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、「ゾルゲはソ連 それん のスパイ」と知 し らされ、オットとコルトは巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ の所長 しょちょう 室 しつ でゾルゲに面会 めんかい する。その際 さい ゾルゲはオットに「私 わたし はあなたにさよならを言 い います。奥 おく さんやお嬢 じょう さんによろしく」とだけ述 の べ、沈黙 ちんもく したオットを残 のこ してゾルゲは退出 たいしゅつ した。
ゾルゲは警察 けいさつ や検察 けんさつ の取 と り調 しら べに対 たい して自 みずか らの所属 しょぞく を明確 めいかく にせず、訊問 じんもん 調書 ちょうしょ には「モスコウ中央 ちゅうおう 部 ぶ 」(文献 ぶんけん によっては「モスコーセンター」)と記 しる されている。これについて取 と り調 しら べを担当 たんとう した大橋 おおはし 秀雄 ひでお は「『国際 こくさい 共産党 きょうさんとう のために働 はたら いた』と言 い わせる目的 もくてき で、ゾルゲと相談 そうだん して作 つく った架空 かくう の組織 そしき である」と戦後 せんご に証言 しょうげん している。日本 にっぽん 側 がわ には治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう で検挙 けんきょ するという事情 じじょう があった[注釈 ちゅうしゃく 18] 。ところがゾルゲは公判 こうはん 段階 だんかい に入 はい ると労農 ろうのう 赤軍 せきぐん に所属 しょぞく していたことを認 みと め、「モスコウ中央 ちゅうおう 部 ぶ 」としたのは自 みずか らの策略 さくりゃく と述 の べ、その理由 りゆう として憲兵 けんぺい への引 ひ き渡 わた しの回避 かいひ 、ソ連 それん における複雑 ふくざつ な組織 そしき が理解 りかい されづらいと考 かんが えたことなどを挙 あ げている[注釈 ちゅうしゃく 19] 。
ゾルゲら20名 めい は1942年 ねん に国防 こくぼう 保安 ほあん 法 ほう 、治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう 違反 いはん などにより起訴 きそ され、一 いち 審 しん によって刑 けい が確定 かくてい し、ゾルゲの死刑 しけい 判決 はんけつ が下 くだ された。同 おな じく死刑 しけい が決 き まった尾崎 おざき とともに巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ に拘留 こうりゅう され、1944年 ねん 11月7日 にち のロシア革命 かくめい 記念 きねん 日 び に巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ で死刑 しけい が執行 しっこう された。ゾルゲの死刑 しけい 執行 しっこう に立 た ち会 あ った市島 いちじま 成 しげる 一 いち 東京 とうきょう 拘置 こうち 所 しょ 所長 しょちょう [注釈 ちゅうしゃく 20] は、「ゾルゲは死刑 しけい 執行 しっこう の前 まえ に、『世界 せかい の共産党 きょうさんとう 万歳 ばんざい 』と一言 いちげん 、そういって刑 けい に服 ふく した。従容 しょうよう としておりました」と証言 しょうげん している[77] 。
処刑 しょけい 後 ご のゾルゲの遺体 いたい は、引 ひ き取 と り手 て がない無縁仏 むえんぼとけ として、巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ に近 ちか い雑司 ぞうし が谷 や 霊園 れいえん の共同 きょうどう 墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。戦後 せんご 、ゾルゲの処刑 しょけい と埋葬 まいそう を知 し った石井 いしい 花子 はなこ (詳細 しょうさい は後述 こうじゅつ )の奔走 ほんそう により1949年 ねん 11月16日 にち にゾルゲの遺体 いたい (白骨 はっこつ 化 か していた)は発掘 はっくつ されて火葬 かそう され、約 やく 1年 ねん 後 ご の1950年 ねん 11月8日 にち に石井 いしい の手 て により東京 とうきょう 都 と 郊外 こうがい の多磨 たま 霊園 れいえん に埋葬 まいそう された。当初 とうしょ は墓碑 ぼひ がなく、「尾崎 おざき ・ゾルゲ事件 じけん 犠牲 ぎせい 者 しゃ 救援 きゅうえん 会 かい 」と石井 いしい 花子 はなこ の手 て により墓碑 ぼひ が建立 こんりゅう されたのは、1956年 ねん 11月 がつ である。
ソ連邦 それんぽう 英雄 えいゆう [ 編集 へんしゅう ]
ゾルゲを顕彰 けんしょう したソ連 それん の切手 きって (1965年 ねん )
来日 らいにち したショイグ国防 こくぼう 相 しょう とロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん 将官 しょうかん による墓参 ぼさん
ゾルゲは日本 にっぽん の警察 けいさつ に対 たい してソ連 それん のスパイであることを自白 じはく してしまったものの、当時 とうじ 日本 にっぽん との間 あいだ で日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を結 むす んでいたソ連 それん 政府 せいふ は、日本 にっぽん との関係 かんけい の悪化 あっか を恐 おそ れたこと、ゾルゲの上司 じょうし だったヤン・ベルジン が大 だい 粛清 しゅくせい によって1938年 ねん に処刑 しょけい されていたこと、ドイツとの二 に 重 じゅう スパイを疑 うたが ったことからゾルゲが自国 じこく のスパイであることを否定 ひてい した。日本 にっぽん 側 がわ からゾルゲと日本 にっぽん の将官 しょうかん との交換 こうかん 釈放 しゃくほう を持 も ちかけられた際 さい にGRU のイリショフ大将 たいしょう が無視 むし したという指摘 してき がある[81] 。
このときに陸軍 りくぐん 次官 じかん であった富永 とみなが 恭次 きょうじ によれば、日本 にっぽん 側 がわ はゾルゲと日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ の交換 こうかん を何 なん 度 ど もソ連 それん 大使館 たいしかん に要求 ようきゅう しているが、ソ連 それん 側 がわ はその都度 つど 「リヒャルト・ゾルゲという人物 じんぶつ は知 し らない」と回答 かいとう しゾルゲを見捨 みす てたとされる。富永 とみなが は、大使館 たいしかん 付 づけ の武官 ぶかん 補佐 ほさ 官 かん として、ヨーロッパ方面 ほうめん にいる白 しろ 系 けい ロシア人 じん 支援 しえん のためフランスに派遣 はけん されたり、関東軍 かんとうぐん の参謀 さんぼう 時代 じだい にも対 たい ロシア諜報 ちょうほう や謀略 ぼうりゃく に携 たずさ わり、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の作戦 さくせん 部長 ぶちょう のときには対 たい ソ連 それん 攻撃 こうげき 計画 けいかく 関東軍 かんとうぐん 特別 とくべつ 演習 えんしゅう にも深 ふか く関与 かんよ するなど、対 たい ソビエト連邦 れんぽう への謀略 ぼうりゃく の最前線 さいぜんせん にいることが多 おお かったため、戦後 せんご に満州 まんしゅう で捕虜 ほりょ となると6年 ねん もの長 ちょう きに渡 わた って尋問 じんもん を受 う けていたが[83] 、モスクワ近郊 きんこう の『ダーチャ』と呼 よ ばれていた監獄 かんごく で一緒 いっしょ に尋問 じんもん を受 う けていたソ連 それん のスパイ組織 そしき 「赤 あか いオーケストラ 」のレオポルド・トレッペル にゾルゲの話 はなし をしている。トレッペルは富永 とみなが の話 はなし を聞 き くと、足手 あして まといとなるゾルゲを助 たす けるよりは、そのまま処刑 しょけい された方 ほう がいいという判断 はんだん をソ連 それん 中央 ちゅうおう が下 くだ し、その判断 はんだん は自分 じぶん たち「赤 あか いオーケストラ」やヤン・ベルジンと同 おな じように、ゾルゲが二 に 重 じゅう スパイだという嫌疑 けんぎ をかけられていたからであったと推測 すいそく している。このように、いわば見殺 みごろ しにされる形 かたち で見捨 みす てられ、戦後 せんご もソ連 それん の諜報 ちょうほう 史 し からゾルゲの存在 そんざい は消 け し去 さ られていた。
1961年 ねん 、映画 えいが 『スパイ・ゾルゲ/真珠湾 しんじゅわん 前夜 ぜんや 』が日 にち 仏 ふつ 合作 がっさく で作成 さくせい され、スターリン批判 ひはん をおこなった指導 しどう 者 しゃ のニキータ・フルシチョフ の判断 はんだん でモスクワで封切 ふうき りされたのをきっかけに再 さい 評価 ひょうか される[84] [85] 。フルシチョフはゾルゲの資料 しりょう を収集 しゅうしゅう する指示 しじ を出 だ し、情報 じょうほう 総局 そうきょく に設置 せっち された委員 いいん 会 かい によって文書 ぶんしょ やオーラルヒストリーの調査 ちょうさ がおこなわれた[85] 。1964年 ねん 9月5日 にち 、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 機関 きかん 紙 し プラウダ に初 はじ めてゾルゲの記事 きじ が掲載 けいさい される[85] [86] 。同年 どうねん 11月 がつ 5日 にち にゾルゲに「ソ連邦 それんぽう 英雄 えいゆう 」の称号 しょうごう が贈 おく られた[85] [注釈 ちゅうしゃく 21] 。ゾルゲの生 う まれたバクーの町 まち にゾルゲの銅像 どうぞう が建 た つなど顕彰 けんしょう が進 すす んだ[84] 。
以後 いご 、ゾルゲは「ソ連 それん と日 にち 独 どく の戦争 せんそう を防 ふせ ぐために尽 つ くした英雄 えいゆう 」として尊敬 そんけい され、ソ連 それん の駐 ちゅう 日 にち 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし が日本 にっぽん へ赴任 ふにん した際 さい には多磨 たま 霊園 れいえん にあるゾルゲの墓 はか に参 まい るのが慣行 かんこう となっていた。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご もロシア 駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし がこれを踏襲 とうしゅう している。また、ロシア連邦 れんぽう 大統領 だいとうりょう であるウラジーミル・プーチン はフランスが製作 せいさく したゾルゲの映画 えいが [注釈 ちゅうしゃく 22] を少年 しょうねん 時代 じだい に見 み てKGB のスパイを志 こころざ したとされる[87] 。2020年 ねん 、駐 ちゅう 日 にち ロシア大使館 たいしかん がゾルゲの墓所 はかしょ の使用 しよう 権 けん を取得 しゅとく したと報 ほう じられた[88] 。
2022年 ねん 1月 がつ 26日 にち 、ロシアセルゲイ・ラブロフ 外相 がいしょう はゾルゲの遺骨 いこつ をサハリン州 しゅう 南部 なんぶ (南 みなみ 樺太 からふと )やクリール諸島 しょとう 南部 なんぶ (千島 ちしま 列島 れっとう 南部 なんぶ 、北方領土 ほっぽうりょうど )に改葬 かいそう する構想 こうそう を表明 ひょうめい し日本 にっぽん 側 がわ と協議 きょうぎ していると発表 はっぴょう した[89] 。しかし、日本 にっぽん 側 がわ の松野 まつの 博一 ひろかず 官房 かんぼう 長官 ちょうかん は翌日 よくじつ の記者 きしゃ 会見 かいけん でこのような提案 ていあん は受 う けていないとした[89] 。
東 ひがし ドイツ陸軍 りくぐん の第 だい 1自動車 じどうしゃ 化 か 狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん に属 ぞく する第 だい 1捜索 そうさく 大隊 だいたい (偵察 ていさつ 部隊 ぶたい )は、名誉 めいよ 称号 しょうごう としてリヒャルト・ゾルゲの名 な を冠 かん していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また同 おな じく東 ひがし ドイツの国家 こっか 保安 ほあん 省 しょう (MfS)は功労 こうろう 章 しょう として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定 せいてい していた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の日本 にっぽん に、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の参謀 さんぼう 第 だい 2部 ぶ の責任 せきにん 者 しゃ として駐在 ちゅうざい したアメリカ陸軍 りくぐん のチャールズ・ウィロビー は、ゾルゲ事件 じけん に注目 ちゅうもく し、大掛 おおが かりかつ綿密 めんみつ な調査 ちょうさ をおこなった[90] 。その中 なか で保釈 ほしゃく されたクラウゼンも後 ご を追 お われ、翌年 よくねん にソ連 それん からの手助 てだす けを受 う けて日本 にっぽん を離 はな れることになった。
ただし、実際 じっさい にはクラウゼン夫妻 ふさい が日本 にっぽん でアメリカ陸軍 りくぐん 情報 じょうほう 部 ぶ (MIS)から尋問 じんもん を受 う けたことが、21世紀 せいき になって公開 こうかい されたアメリカ国立 こくりつ 公文 こうぶん 書記 しょき 録 ろく 管理 かんり 局 きょく 所蔵 しょぞう 資料 しりょう に記録 きろく されている[91] 。
ゾルゲの功績 こうせき を称 とな えて発行 はっこう された東 ひがし ドイツ の切手 きって 。左下 ひだりした には「ソ連邦 それんぽう 英雄 えいゆう 」の称号 しょうごう が書 か かれている。
多磨 たま 霊園 れいえん にあるゾルゲの墓 はか 。『ソ連邦 それんぽう 英雄 えいゆう 』とロシア語 ご で刻 きざ まれている。
生涯 しょうがい に2度 ど 結婚 けっこん している[92] 。最初 さいしょ の妻 つま であるクリスティアーネとはドイツ時代 じだい に結婚 けっこん していた。
2度目 どめ の妻 つま であるエカテリーナとは1933年 ねん に結婚 けっこん した[92] [注釈 ちゅうしゃく 23] 。エカテリーナは工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ だったが、ゾルゲらドイツ人 じん にロシア語 ご を教 おし えていた。結婚 けっこん から数カ月 すうかげつ 後 ご にゾルゲは諜報 ちょうほう 活動 かつどう のため極東 きょくとう に旅立 たびだ ち、結婚 けっこん 生活 せいかつ は数カ月 すうかげつ だった[92] 。ゾルゲは日本 にっぽん からエカテリーナに手紙 てがみ を送 おく り、そのうち12通 つう がKGB に保管 ほかん されていた。エカテリーナはゾルゲの子 こ を宿 しゅく すも、水銀 すいぎん 中毒 ちゅうどく により流産 りゅうざん する[92] 。さらに1942年 ねん 9月 がつ にはスパイ容疑 ようぎ で逮捕 たいほ され、1943年 ねん 3月 がつ にクラスノヤルスク に流刑 りゅうけい となり、同年 どうねん 7月 がつ 同地 どうち で脳 のう 内 ない 出血 しゅっけつ により死去 しきょ した[92] 。この死去 しきょ はゾルゲには知 し らされなかった[92] 。エカテリーナは取 と り調 しら べに対 たい して、ゾルゲとの手紙 てがみ のやりとりは1938年 ねん までだったと述 の べており、KGBに残 のこ っていた1938年 ねん 2月 がつ のゾルゲの手紙 てがみ には「必 かなら ず帰 かえ る」という言葉 ことば が綴 つづ られていた。
来日 らいにち 後 ご に東京 とうきょう ・銀座 ぎんざ のドイツ料理 りょうり 店 みせ 「ラインゴールド」でウェイトレスをしていた石井 いしい 花子 はなこ と知 し り合 あ い、1935年 ねん から逮捕 たいほ 直前 ちょくぜん の1941年 ねん まで深 ふか い関係 かんけい を持 も った[97] [98] 。石井 いしい とは正式 せいしき な結婚 けっこん はしなかった。しかし死後 しご 石井 いしい によって建 た てられ、現在 げんざい 石井 いしい とゾルゲが眠 ねむ る多磨 たま 霊園 れいえん の墓 はか には「妻 つま 石井 いしい 花子 はなこ 」と彫 ほ られている[99] 。ゾルゲは日本 にっぽん で雇 やと っていた家政 かせい 婦 ふ には「一 いち 度 ど も結婚 けっこん したことがない」と話 はな しており、石井 いしい もゾルゲは(正式 せいしき な結婚 けっこん をしていないという意味 いみ で)独身 どくしん であると考 かんが えていた。
石井 いしい のほかにも複数 ふくすう の女性 じょせい と関係 かんけい があったとされ[99] 、その一人 ひとり (日本人 にっぽんじん )との間 あいだ に娘 むすめ がいたとの情報 じょうほう もあるが真偽 しんぎ は確認 かくにん されていない[81] 。
日本 にっぽん 滞在 たいざい 中 ちゅう の1938年 ねん 5月 がつ 、夜間 やかん のオートバイ運転 うんてん 中 ちゅう に交通 こうつう 事故 じこ を起 お こして負傷 ふしょう 、聖 ひじり 路 ろ 加 か 病院 びょういん で入院 にゅういん 生活 せいかつ を送 おく った。この負傷 ふしょう により多 おお くの歯 は を失 うしな い、以降 いこう 総 そう 入 い れ歯 ば 状態 じょうたい となった。
石井 いしい 花子 はなこ によると、ゾルゲは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の従軍 じゅうぐん 時 じ に大腿 だいたい 骨 こつ を骨折 こっせつ し、その後遺症 こういしょう で左右 さゆう で脚 あし の長 なが さが違 ちが ったという。
アヴァス通信 つうしん 社 しゃ 東京 とうきょう 支局 しきょく 長 ちょう で、ヴーケリッチの上司 じょうし でもあったロベール・ギラン は、英 えい 仏 ふつ がドイツに宣戦 せんせん を布告 ふこく した直後 ちょくご の1941年 ねん 9月 がつ 4日 にち 、ゾルゲと偶然 ぐうぜん 遭遇 そうぐう した際 さい にドイツが再 ふたた びフランスと戦争 せんそう を始 はじ めた憤懣 ふんまん をぶつけたところ、ゾルゲはギランを食事 しょくじ に誘 さそ い、その席 せき で戦争 せんそう を嫌 きら い憎 にく むこと、自 みずか らが平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ であることを苦悩 くのう した姿 すがた で述 の べた[106] 。ゾルゲをナチス党員 とういん だと思 おも っていたギランはそれを意外 いがい な思 おも いで聞 き いたという。
著書 ちょしょ ・回想 かいそう [ 編集 へんしゅう ]
※研究 けんきゅう 書 しょ については「ゾルゲ事件 じけん 」の項目 こうもく を参照 さんしょう 。
^ 新聞 しんぶん 社 しゃ 側 がわ は正式 せいしき な特派 とくは 員 いん 契約 けいやく を結 むす ばなかったとしている(本文 ほんぶん 参照 さんしょう )。
^ ニーナについては再婚 さいこん 説 せつ があり、それによればゾルゲの兄弟 きょうだい のうち5人 にん がニーナの連 つ れ子 こ だったという。一方 いっぽう で兄弟 きょうだい 全員 ぜんいん が両親 りょうしん の実子 じっし という説 せつ もある。
^ 後述 こうじゅつ するアイノ・クーシネン の夫 おっと 。
^ 後 のち に1941年 ねん 頃 ごろ からは「インソン」というコードに変更 へんこう された。
^ ゾルゲは日本 にっぽん での取 と り調 しら べの過程 かてい で尾崎 おざき との接触 せっしょく がスメドレーによるものであると供述 きょうじゅつ を変更 へんこう し、長 なが らくそれが定説 ていせつ 化 か していた。
^ ヴェントは日本 にっぽん で「ベルンハルト」という偽名 ぎめい で活動 かつどう しており、ゾルゲらは警察 けいさつ や検察 けんさつ での取 と り調 しら べでもその名 な を使用 しよう したため、「ベルンハルト」と記載 きさい する文献 ぶんけん がある。
^ これらはいずれも電通銀座 でんつうぎんざ ビル に入居 にゅうきょ していた。
^ 1937年 ねん 以降 いこう 、傍受 ぼうじゅ した記録 きろく がある。
^ 帰国 きこく したクーシネンは、実際 じっさい に逮捕 たいほ されて収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られた。
^ ゾルゲは日本 にっぽん の訊問 じんもん 調書 ちょうしょ ではショルから入手 にゅうしゅ した開戦 かいせん 予定 よてい を「6月 がつ 20日 はつか 」と述 の べているが、ゾルゲが実際 じっさい に送 おく った通信 つうしん ではこの日付 ひづけ である。
^ 手嶋 てじま 龍一 りゅういち や佐藤 さとう 優 ゆう らは実際 じっさい に二 に 重 じゅう スパイであったという説 せつ を主張 しゅちょう している[54] 。
^ この時点 じてん では南部 なんぶ 仏 ふつ 印 いん への進駐 しんちゅう 。
^ 満州 まんしゅう 国 こく のソ連 それん 国境 こっきょう に70万 まん 人 にん を動員 どういん する関東軍 かんとうぐん 特種 とくしゅ 演習 えんしゅう が実行 じっこう された。
^ 「エコノミスト」の「年内 ねんない に日本 にっぽん の対 たい ソ開戦 かいせん がない」という情報 じょうほう (情報 じょうほう 源 げん は左近 さこん 司政 しせい 三 さん )は1941年 ねん 9月 がつ 9日 にち にラヴレンチー・ベリヤ からスターリンとヴャチェスラフ・モロトフ に報告 ほうこく されており、これはゾルゲの報告 ほうこく よりも5日 にち 早 はや い。
^ 特高 とっこう 資料 しりょう では「9月 がつ 28日 にち 」とされているが、上記 じょうき 「褒賞 ほうしょう 上申 じょうしん 書 しょ 」や和歌山 わかやま 県 けん で北林 きたばやし の逮捕 たいほ に立 た ち会 あ った元 もと 和歌山 わかやま 県警 けんけい 刑事 けいじ の証言 しょうげん により実際 じっさい の逮捕 たいほ 日 び は9月27日 にち であることが渡部 わたなべ 富 とみ 哉 によって確認 かくにん されている [1] 。
^ 戦後 せんご の長期間 ちょうきかん 、「伊藤 いとう 律 ただし が北林 きたばやし の名 な を供述 きょうじゅつ していたことが検挙 けんきょ の発端 ほったん である」という内容 ないよう が通説 つうせつ 化 か していたが、現在 げんざい はほぼ否定 ひてい されている。詳細 しょうさい は伊藤 いとう の項目 こうもく を参照 さんしょう 。
^ 尾崎 おざき の逮捕 たいほ 日 び について、尾崎 おざき 自身 じしん の手記 しゅき や『特高 とっこう 月報 げっぽう 』では「10月 がつ 15日 にち 」となっているが、渡部 わたなべ 富 とみ 哉は10月14日 にち であると主張 しゅちょう している[68] [69] 。
^ 治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう は「国体 こくたい を変革 へんかく することを目的 もくてき 」とした「結社 けっしゃ 」への関与 かんよ を対象 たいしょう としており、外国 がいこく の軍隊 ぐんたい や国家 こっか ではなかった。
^ 公判 こうはん に先立 さきだ ち、ゾルゲが吉河 よしこ 光貞 みつさだ の前 まえ で作成 さくせい した『手記 しゅき 』において、その途中 とちゅう から労農 ろうのう 赤軍 せきぐん からの指示 しじ で動 うご いたことを明記 めいき していた。
^ 当時 とうじ 、巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ の正式 せいしき 名称 めいしょう は東京 とうきょう 拘置 こうち 所 しょ だった。
^ フルシチョフはこれに先立 さきだ つ10月 がつ に失脚 しっきゃく した。
^ 前出 ぜんしゅつ の『スパイ・ゾルゲ/真珠湾 しんじゅわん 前夜 ぜんや 』とみられる。
^ エカテリーナの旧姓 きゅうせい については「マクシモブナ」「マクシーモワ[92] 」と日本語 にほんご で複数 ふくすう の表記 ひょうき がある。
^ 益田 ますだ 豊彦 とよひこ の筆名 ひつめい とされるが、風早 かざはや 八 はち 十 じゅう 二 に という説 せつ もある[18] 。
^ 角川 かどかわ 文庫 ぶんこ 版 ばん 以前 いぜん に4度 ど 刊行 かんこう されている。詳細 しょうさい は石井 いしい の記事 きじ を参照 さんしょう 。
ウィキメディア・コモンズには、
リヒャルト・ゾルゲ に
関連 かんれん する
メディア および
カテゴリ があります。
対 たい 日 にち 有害 ゆうがい 活動 かつどう
ボリス・グジ - 対 たい 日 にち 諜報 ちょうほう を専 せん 門 もん 。1937年 ねん までゾルゲ・グループを監督 かんとく 。1937年 ねん に失脚 しっきゃく 。
ニコライ・ブハーリン - ゾルゲが信奉 しんぽう ・心酔 しんすい していたソビエト共産党 きょうさんとう 幹部 かんぶ (穏健 おんけん 派 は ・戦時 せんじ 体制 たいせい 緩和 かんわ 主張 しゅちょう )。ゾルゲ日本 にっぽん 任地 にんち 中 ちゅう に粛清 しゅくせい ・処刑 しょけい 。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 陰謀 いんぼう 説 せつ - ゾルゲが日本 にっぽん の真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ し、ソ連 それん 本国 ほんごく に送 おく っていたとする説 せつ がある。ただし、現在 げんざい までにゾルゲ研究 けんきゅう 者 しゃ による本 ほん 説 せつ 支持 しじ を前提 ぜんてい とする見解 けんかい はない。
ホテル・ルックス
アルブレヒト・フォン・ウラッハ - 東京 とうきょう 滞在 たいざい 時 じ にゾルゲと親交 しんこう があった。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース人物 じんぶつ その他 た