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リヒャルト・ゾルゲ

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リヒャルト・ゾルゲ
Richard Sorge
Рихард Зорге
生誕せいたん (1895-10-04) 1895ねん10月4にち
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこくバクーけんバクーぐんサブンチ
死没しぼつ (1944-11-07) 1944ねん11月7にち(49さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう豊島としま西巣鴨にしすがも東京とうきょう拘置こうちしょ
死因しいん 刑死けいし
墓地ぼち 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう多磨たま霊園れいえん
国籍こくせき ドイツ
別名べつめい ラムゼイ、インソン
民族みんぞく ロシアけいドイツじん
出身しゅっしんこう ハンブルク大学だいがく
職業しょくぎょう ジャーナリスト諜報ちょうほういん
活動かつどう期間きかん 1924ねん - 1941ねん
雇用こようしゃ 労農ろうのう赤軍せきぐん参謀さんぼう本部ほんぶだい4きょく
団体だんたい ゾルゲ諜報ちょうほうだん
肩書かたがフランクフルター・ツァイトゥング東京とうきょう特派とくはいん[注釈ちゅうしゃく 1]
ちゅうにちドイツ大使館たいしかん情報じょうほうかん
政党せいとう 国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
罪名ざいめい 国防こくぼう保安ほあんほうなど
刑罰けいばつ 死刑しけい
配偶はいぐうしゃ クリスティアーネ・ゾルゲ
エカテリーナ・ゾルゲ
こん配偶はいぐうしゃ 石井いしい花子はなこ
親戚しんせき フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ英語えいごばん大叔父おおおじ
受賞じゅしょう ソビエト連邦れんぽう英雄えいゆう
レーニン勲章くんしょう
きゅうてつじゅうあきら
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リヒャルト・ゾルゲドイツ: Richard Sorge, ロシア: Рихард Зорге, 1895ねん10月4にち - 1944ねん11月7にち)は、ソビエト連邦れんぽうスパイ1933ねん昭和しょうわ8ねん)から1941ねん昭和しょうわ16ねん)にかけてゾルゲ諜報ちょうほうだん組織そしきして日本にっぽん諜報ちょうほう活動かつどうをおこない、ドイツ日本にっぽんたい参戦さんせん可能かのうせいなどの調査ちょうさ従事じゅうじしていたが、ゾルゲ事件じけん首謀しゅぼうしゃとして日本にっぽん警察けいさつ機関きかんによって逮捕たいほされ、刑事けいじ裁判さいばん治安ちあん維持いじほうおよび国防こくぼう保安ほあんほう違反いはんにより死刑しけい判決はんけつけ、処刑しょけいされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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石油せきゆ会社かいしゃつとコーカサス仕事しごとをしていたドイツじん鉱山こうざん技師ぎしのヴィルヘルムとロシアじんニーナとのあいだに9にん兄弟きょうだい1人ひとりとして、ロシア帝国ていこくバクーけんサブンチまれる。ヴィルヘルムは石油せきゆ精製せいせい知見ちけんわれてまねかれ、採掘さいくつ機械きかい工場こうじょう設立せつりつしてこのでニーナと結婚けっこんした[1][注釈ちゅうしゃく 2]

父方ちちかた大叔父おおおじフリードリヒ・アドルフ・ゾルゲFriedrich Adolf Sorge)はカール・マルクス秘書ひしょであり、ハーグ大会たいかいだいいちインターナショナルニューヨーク本部ほんぶ書記しょきちょうであった。

3さいときちち工場こうじょう売却ばいきゃくして、ゾルゲをふくめた家族かぞくとともにベルリン移住いじゅうした[2]。ベルリンのリリエンタールギムナジウムドイツばん当時とうじ名称めいしょうはオーバーレアルシューレ)に1902ねんから1914ねんまで在籍ざいせきし、途中とちゅう1ねん留年りゅうねん経験けいけんしている[2][3]自身じしんの「獄中ごくちゅう手記しゅき」では、歴史れきし哲学てつがく文学ぶんがく政治せいじがく得意とくいだったが、教科きょうかは「通常つうじょう以下いか」で、学校がっこう規則きそくまもらずめったにくちをきかない生徒せいとだったとしるしている[2][3]

スパイになるまで[編集へんしゅう]

1914ねん10月にだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、学校がっこう卒業そつぎょうたずにゾルゲはドイツ陸軍りくぐん志願しがんした[3]軍役ぐんえきちゅうにゾルゲは3負傷ふしょうする[2][3]。1916ねん3がつ西部せいぶ戦線せんせん両足りょうあし重傷じゅうしょうう。この負傷ふしょうおもく、野戦やせん病院びょういん入院にゅういん(その除隊じょたい)することとなった[4][3]入院にゅういんしていたときキール大学だいがく社会しゃかいがく専攻せんこうする従軍じゅうぐん看護かんごから社会しゃかい主義しゅぎ理論りろんかされる。向学心こうがくしん芽生めばえたゾルゲにたいし、この看護かんごとその父親ちちおやは、社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい美術びじゅつ歴史れきしなどゾルゲが関心かんしんしめした分野ぶんや文献ぶんけん提供ていきょうしまなかった[3]

1917ねん11月にロシア革命かくめいこり、ゾルゲは衝撃しょうげきける。だいいち世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんまえからベルリン大学だいがく哲学てつがくしょみ、1918ねん1がつ正式せいしきぐん除隊じょたいになるとキール大学だいがく入学にゅうがくした[3]。キール大学だいがく時代じだいドイツ独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう入党にゅうとうする[3]

1919ねんハンブルク大学だいがくうつ[3]同年どうねん10がつドイツ共産党きょうさんとう入党にゅうとうする[5][6]。1920ねん国家こっかがく博士はかせごう取得しゅとくした[6]論文ろんぶんのテーマは賃金ちんぎん問題もんだいだったという[7]

そのアーヘン高等こうとう学校がっこう教員きょういんとなるも、1921ねんまつには政治せいじ論争ろんそうをおこなったことから解職かいしょくされる[6]炭鉱たんこう作業さぎょういんてんじて、職場しょくば共産きょうさん主義しゅぎ組織そしきげる[6]。しかしアーヘンでの就職しゅうしょく困難こんなんとなり、フランクフルト・アム・マインうつってフランクフルト大学だいがく社会学部しゃかいがくぶ助手じょしゅとなった[6]。1922ねんイルメナウひらかれただい1かいマルクス主義まるくすしゅぎ研究けんきゅう集会しゅうかい参加さんかし、記念きねん集合しゅうごう写真しゃしんでは留学りゅうがくちゅうだった福本ふくもと和夫かずお一緒いっしょうつっている[6][8]

1924ねん4がつにフランクフルト・アム・マインで開催かいさいされたドイツ共産党きょうさんとう大会たいかい参加さんかしたさいソ連それんから派遣はけんされたコミンテルン幹部かんぶであるオシップ・ピアトニツキードミトリー・マヌイリスキーソロモン・ロゾフスキーオットー・クーシネン[注釈ちゅうしゃく 3]警護けいご接待せったい担当たんとうした[9][10]かれらはしたしくなったゾルゲにコミンテルンでの勤務きんむ勧誘かんゆうした[9][10]。ゾルゲは同年どうねんまつモスクワうつり、1925ねんからコミンテルンに所属しょぞくした[7][9]。コミンテルン勤務きんむとともに、ピアトニツキーによりゾルゲの党籍とうせきソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう変更へんこうされた[9]

コミンテルンでは各国かっこくとうからおくられてくる情報じょうほうなどをもとにした報告ほうこく分析ぶんせき活動かつどう中心ちゅうしんであった[7][9]。ヨーロッパの現地げんち視察しさつをおこなったほか、作成さくせいした報告ほうこく書籍しょせきとして刊行かんこうもしている[7][9]

1929ねん5月、ゾルゲはコミンテルンをはなれ、軍事ぐんじ諜報ちょうほう部門ぶもんである労農ろうのう赤軍せきぐん参謀さんぼう本部ほんぶだい4きょく所属しょぞく変更へんこうした[11][12]。この所属しょぞく変更へんこう理由りゆうとして、ゾルゲ自身じしん日本にっぽん検察けんさつ訊問じんもん調書ちょうしょにおいて、コミンテルンでは諜報ちょうほう活動かつどうができないこと、世界せかい革命かくめい見通みとおしが裏切うらぎられたこと、ソ連それんにおけるいちこく社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせんへの転換てんかんげている[11]ヨシフ・スターリン政権せいけん掌握しょうあく、コミンテルンはセクト主義しゅぎ傾斜けいしゃし、それに反対はんたいする人員じんいん組織そしきわれたが、ゾルゲもその一人ひとりだったという指摘してきがある[12]

上海しゃんはいでスパイ活動かつどう開始かいし[編集へんしゅう]

尾崎おざき秀実ひでみ

赤軍せきぐんうつったゾルゲは、上司じょうしヤン・ベルジンとのはないにより、中華民国ちゅうかみんこく上海しゃんはいおもむくことになる[13][14]。その使命しめいは、蔣介せき政権せいけん派遣はけんされていたドイツの軍事ぐんじ顧問こもんだん情報じょうほう収集しゅうしゅうのほか、中華民国ちゅうかみんこく内政ないせい外交がいこう中華民国ちゅうかみんこくたいする日本にっぽんイギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外交がいこう政策せいさくなど調査ちょうさ対象たいしょう多岐たきにわたっていた[14][15]。1929ねんまつにモスクワをち、1930ねんより1932ねんまで上海しゃんはい諜報ちょうほう活動かつどうをしながら自分じぶん協力きょうりょくするグループをきずいた[14]

なおこのころ「ラムゼイ」というコードネームあたえられている[注釈ちゅうしゃく 4]

半年はんとし程度ていど現地げんち指導しどうてき立場たちばとなり、中華民国ちゅうかみんこく全土ぜんど情報じょうほうもうつにいたった。活動かつどうかんこう南京なんきん広東かんとん北京ぺきん、そして1932ねん満州まんしゅうこくとして独立どくりつすることとなる満州まんしゅう地方ちほうなどを中心ちゅうしんにしておこなわれている。ゾルゲ自身じしん各地かくちめぐり、中華民国ちゅうかみんこくおよび日本にっぽん政治せいじ歴史れきし文化ぶんかかんする書物しょもつみ、両国りょうこく言葉ことば学習がくしゅうし、アジア問題もんだいつうじるようになった。上海しゃんはいにおけるゾルゲ諜報ちょうほうだん日本人にっぽんじんは、尾崎おざき秀実ひでみ鬼頭おにがしらぎんいち川合かわい貞吉さだきち水野みずのしげる山上やまかみ正義まさよし船越ふなこし寿雄よしおであった[17]

上海しゃんはいでは、仕事しごとつうじて当時とうじ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう毛沢東もうたくとう同行どうこう取材しゅざいするなど活躍かつやくしていたアメリカじん左翼さよくジャーナリストのアグネス・スメドレーう。スメドレーはゾルゲが中華民国ちゅうかみんこくるまでかれのスパイ組織そしき一人ひとりとして活動かつどうした。朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃだった尾崎おざき秀実ひでみとは、アメリカ共産党きょうさんとうから派遣はけんされた鬼頭おにがしらぎんいちから紹介しょうかいけてった[14][注釈ちゅうしゃく 5]水野みずのしげるをゾルゲに紹介しょうかいしたのも、尾崎おざきではなく鬼頭おにがしらである[17]。ゾルゲは、ドイツの軍事ぐんじ顧問こもん団長だんちょうハンス・フォン・ゼークト蔣介せきから軍事ぐんじ情報じょうほう入手にゅうしゅし、蒋介石しょうかいせきぐん飛行機ひこうき爆破ばくはし、武器ぶき略取りゃくしゅするなど、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう支援しえんした[17]。また、オットー・ブラウンゲアハルト・アイスラードイツばんら、コミンテルンから中国共産党ちゅうごくきょうさんとう派遣はけんされたドイツじん顧問こもんとも接点せってんった[18]。のちに核兵器かくへいき情報じょうほうソ連それんにもたらしたことでられる、ウルスラ・クチンスキーはゾルゲの助手じょしゅかつ愛人あいじんであった[よう出典しゅってん]

ゾルゲは1932ねん1がつにはにちちゅうりょうぐん衝突しょうとつしただいいち上海しゃんはい事変じへん報道ほうどうした。同年どうねん12がつにモスクワにもどる。

上海しゃんはい共同きょうどう租界そかいこう部局ぶきょくイギリス警察けいさつは1932ねん1がつごろから、ゾルゲをソ連それんのスパイではないかとうたがはじめ、その捜査そうさすすめた結果けっか1933ねん5月にゾルゲをソ連それんのスパイとほぼ断定だんていした[17]

日本にっぽんでのスパイ活動かつどう[編集へんしゅう]

ゾルゲの外国がいこく通信員つうしんいん身分みぶん証明しょうめいひょう
マックス・クラウゼン

1933ねんつぎにゾルゲにされた指示しじ日本にっぽんでの活動かつどうだった[19]。そのおも内容ないよう日本にっぽんたい政策せいさく軍備ぐんび動向どうこうにちどく関係かんけいナチス政権せいけんにぎったのはこのとし1がつだった)や日本にっぽんたい中国ちゅうごく政策せいさくなどの調査ちょうさだった[20]。ゾルゲはまずドイツにおもむいてからアメリカ経由けいゆ日本にっぽんかった[19][21]。ドイツでゾルゲは地政学ちせいがくしゃカール・ハウスホーファーらからちゅうにちドイツ大使館たいしかんいんへの紹介しょうかいじょう[19]職業しょくぎょうをジャーナリストとしたドイツのパスポートも入手にゅうしゅした[19]

来日らいにちまえに『フランクフルター・ツァイトゥング』の特派とくはいんとなったという記述きじゅつもあるが[19]、1941ねん逮捕たいほ当時とうじ日本にっぽん支局しきょく代表だいひょうしゃがドイツ外務省がいむしょうした書簡しょかんでは、ゾルゲと正式せいしき特派とくはいん契約けいやくわしたことはなく、ゾルゲを寄稿きこうしゃとして利用りようするようになったのも1936ねん2がつにゾルゲからベルリンの本社ほんしゃてたみの手紙てがみってからであるとしている[22]。1933ねん9がつ6にちにゾルゲはバンクーバーはつのカナダ客船きゃくせん横浜よこはまこう到着とうちゃくし、日本にっぽんでの活動かつどう開始かいしする[19]

ゾルゲは寄稿きこう記者きしゃながらジャーナリストとしてちゅうにちドイツ大使館たいしかん信頼しんらいていった[23]来日らいにちあいだもない1933ねんあき東京とうきょうからナチスに入党にゅうとう申請しんせいし、1934ねん10がつ正式せいしきなナチス党員とういんとなった[23]

日本にっぽんにおけるドイツじん社会しゃかいで、日本にっぽんどおりかつナチス党員とういんとしてられるようになっていたゾルゲは、ちゅうにちドイツ大使館たいしかんづけ陸軍りくぐん武官ぶかんオイゲン・オット信頼しんらいた。かれ来日らいにちまえに『テークリッヘ・ルントシャウ』論説ろんせつ委員いいんであるツェラーの紹介しょうかいじょう入手にゅうしゅしていた[24]政治せいじてき逃避とうひのため日本にっぽん派遣はけんされることになった当時とうじのオット中佐ちゅうさ日本にっぽんかんする知識ちしきがほとんどなく、そのため日本にっぽん政治せいじなどにかんして豊富ほうふ知識ちしきとコネクションをったゾルゲとの出会であいをよろこんだ。

一方いっぽう、ゾルゲよりもさき来日らいにちしていたユーゴスラビアひとブランコ・ド・ヴーケリッチ当初とうしょはユーゴスラビアの新聞しんぶんポリティカ特派とくはいん、1935ねんフランスアヴァス通信つうしんしゃ東京とうきょう支局しきょく移籍いせき)、ゾルゲよりすこおくれて帰国きこくしたアメリカ共産党きょうさんとういん洋画ようが宮城みやぎあずかとく接触せっしょくって諜報ちょうほうだんのメンバーとした[25]ソ連それんとの交信こうしんのための無線むせん通信つうしんとしてブルーノ・ヴェントという人物じんぶつがあてがわれたが、ゾルゲはその能力のうりょく性格せいかく問題もんだいがあると判断はんだんし、上海しゃんはいでもともに活動かつどうしたドイツじん無線むせん技士ぎしマックス・クラウゼン派遣はけん要請ようせい、クラウゼンは1935ねん12月に来日らいにちした[26][注釈ちゅうしゃく 6]

だが、ゾルゲは日本にっぽん政府せいふぐん最高さいこうレベルでの決定けってい事項じこうさぐることのできる人材じんざいいていた(ヴーケリッチや宮城みやぎ諜報ちょうほう活動かつどう未熟みじゅく人脈じんみゃくもなかった)[27]。そこでゾルゲは、当時とうじ大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん勤務きんむしていた尾崎おざき秀実ひでみをそのにんてることとし、1934ねんはる奈良なら猿沢さるさわ尾崎おざき再会さいかい尾崎おざきはゾルゲの依頼いらいれた[27]尾崎おざきは1934ねんあき朝日新聞社あさひしんぶんしゃ東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかい勤務きんむとなり、東京とうきょう転勤てんきんする[28]

こうしてゾルゲはすこしずつ諜報ちょうほうもう情報じょうほうげんきずいていったが、来日らいにちから1935ねんまでは「積極せっきょくてき活動かつどうをするための土台どだいつくるのにせいいっぱい」であり、「任務にんむ遂行すいこうするどころのはなしではな」かったとのち手記しゅきしるしている[29]

クラウゼン・尾崎おざき以外いがいのメンバーの役割やくわりは、ヴーケリッチは同盟どうめい通信つうしんしゃ外国がいこく通信つうしん各社かくしゃ[注釈ちゅうしゃく 7] での検閲けんえつまえのニュース収集しゅうしゅうと、あつめた資料しりょう写真しゃしん撮影さつえいマイクロフィルムいた)、宮城みやぎ日本人にっぽんじん協力きょうりょくしゃからの情報じょうほう収集しゅうしゅう資料しりょう英訳えいやく、および尾崎おざきとゾルゲの連絡れんらくだった[30]あつまった資料しりょう分析ぶんせき報告ほうこくはゾルゲいちにんにない、みじかいものはクラウゼンが自作じさくした無線むせんによる無線むせん通信つうしん長文ちょうぶん報告ほうこくしょはマイクロフィルムにしてちゅうにちソ連それん大使館たいしかんクーリエたくされた[30]無線むせん通信つうしん場合ばあいは、文章ぶんしょう数字すうじ置換ちかんうえ、1935年版ねんばん『ドイツ統計とうけい年鑑ねんかん』を乱数らんすうひょうとしてさらに加工かこうした暗号あんごう使用しようされた[30]日本にっぽん官憲かんけんは、あやしい無線むせん電波でんぱ送信そうしんされていることを把握はあくしていたが[注釈ちゅうしゃく 8]、クラウゼンが複数ふくすう拠点きょてん転々てんてんとしながら送信そうしんしたために発信はっしんもと特定とくていできず、また暗号あんごう解読かいどくできなかった[31][32][33]

ゾルゲは1935ねん7がつから9がつまで、モスクワもどった[34]。これがゾルゲにとって最後さいご帰国きこくとなる。その、ゾルゲがソ連それんへの帰任きにん希望きぼうした電報でんぽう複数ふくすうのこされている(1939ねん1がつ20にちづけどう6がつ4にちづけ[35][36]。しかしわりの人員じんいんがいないという理由りゆうでゾルゲの希望きぼうみとめられなかった[36]。その一方いっぽうソ連それん本国ほんごくでは上司じょうしだったベルジンらが粛清しゅくせいされ、「かえれば粛清しゅくせいされる」ことをゾルゲはさっしてもいた[37]どう時期じき日本にっぽん諜報ちょうほう活動かつどうおこなっていたアイノ・クーシネン回想かいそうでは、1937ねん11月にゾルゲから彼女かのじょソ連それんへの帰国きこく命令めいれいつたえられたさいに、ゾルゲは自分じぶんにも命令めいれいているが組織そしき維持いじのためいまかえれないとつたえるようたのんだという[37][注釈ちゅうしゃく 9]

1936ねん二・二六事件ににろくじけんさいにはドイツ大使館たいしかんないにいたことが、大使館たいしかん戒厳かいげん司令しれい連絡れんらく将校しょうこうとして館内かんない出入でいりしていたうま奈木けいしんによって戦後せんご証言しょうげんされている[38]。ゾルゲはこの事件じけん日本にっぽん対外たいがい政策せいさく内部ないぶ構成こうせい理解りかいする好機こうきととらえた。オットや大使たいしヘルベルト・フォン・ディルクセンドイツばんにも協力きょうりょくもとめて情報じょうほう収集しゅうしゅうつとめ、事件じけん分析ぶんせきした報告ほうこくしょをドイツ外務省がいむしょう所属しょぞくさきである赤軍せきぐんだいよん本部ほんぶ、ドイツの雑誌ざっしおくっている(ドイツ外務省がいむしょう雑誌ざっしでは匿名とくめい)。これを契機けいき大使館たいしかんがわのゾルゲにたいする信頼しんらい向上こうじょうした。なおドイツの雑誌ざっし掲載けいさいされた論文ろんぶんは、カール・ラデックがゾルゲのふでとはらずに評価ひょうかしてソ連それん新聞しんぶん転載てんさいした。ゾルゲはこれに抗議こうぎし、以後いごはこうした事態じたいけられた。

うま奈木は陸軍りくぐんの「ドイツどおり」とされ、やはりドイツへの駐在ちゅうざい経験けいけんのある山県やまがた有光ありみつ西郷さいごうしたがえわれ武藤むとうあきららとともに、ゾルゲから手記しゅきで「陸軍りくぐんしょう情報じょうほうげん」としてげられている[39]松崎まつざき昭一しょういちは、にちちゅう戦争せんそう状況じょうきょう打開だかいねらってドイツとの関係かんけい強化きょうかはか陸軍りくぐんがわが、ドイツ大使館たいしかんつうじて(ギブアンドテイクのかたちで)情報じょうほうをゾルゲにあたえていたのではないかと指摘してきしている[40]

1936ねん11月にオットの補佐ほさかんとして駐在ちゅうざい武官ぶかんのショル中佐ちゅうさ着任ちゃくにんだいいち世界せかい大戦たいせんおな戦闘せんとう参加さんかしたこともあり、ゾルゲはショルとも親交しんこうふかめた[41]にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)が1937ねん勃発ぼっぱつすると、ちゅうにちドイツ大使館たいしかんではオット(1938ねん4がつ大使たいし就任しゅうにん)がショル、ゾルゲとの3にんで「ささえ事変じへんかんする日本にっぽんぐん」という調査ちょうさ研究けんきゅうはじめ、これにより収集しゅうしゅうされた資料しりょうをゾルゲは撮影さつえいしてソ連それん本国ほんごくおくった[42]

一見いっけん順調じゅんちょう諜報ちょうほう活動かつどうだったが、ショルは1939ねんはじめに離任りにん[41]前記ぜんき研究けんきゅうかい活発かっぱつになった[43]。ゾルゲは同年どうねん6がつおくった報告ほうこくで、「活動かつどうをつづけるうえでの障害しょうがい増大ぞうだい」をうったえ、その理由りゆうとしてちゅうにちドイツ大使館たいしかん増員ぞういんによってあらたな関係かんけいつくることが困難こんなんになったこと、ふるくからのこっている人物じんぶつがオットのみとなったうえにオットが大使たいし就任しゅうにんしたことで個人こじんてき面談めんだん討議とうぎできる機会きかい激減げきげんしたことをげている[44]。ゾルゲは手記しゅきにおいて、日本にっぽん軍事ぐんじ情報じょうほうかんしては1939ねん - 1940ねんごろさかいちゅうにちドイツ大使館たいしかんよりも尾崎おざき宮城みやぎ収集しゅうしゅうしてくる情報じょうほうほう価値かちたかくなったとしるしている[43]尾崎おざきは1938ねん7がつにはだい1近衛このえないかく嘱託しょくたくとなる(1939ねん1がつまで)とともに、近衛このえ文麿ふみまろのブレーンによる朝飯あさめしかいのメンバーにもくわえられていた[45]

にちどく接近せっきんは、それがたい軍事ぐんじ同盟どうめいにつながるのではないかというてんで、ソ連それん重大じゅうだい関心事かんしんじとなった[46]。1939ねん前半ぜんはんにゾルゲはこのうごきにかんする情報じょうほう複数ふくすう本国ほんごくおくり、イギリスとの関係かんけい悪化あっかけたい日本にっぽん同盟どうめい締結ていけつ消極しょうきょくてきで、ドイツもたいえいせんたいせんより優先ゆうせんしていると分析ぶんせきした[47]。こののちソ連それん同年どうねん8がつどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつ、9月にドイツのポーランド侵攻しんこうによってだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつする[46]

ヨーロッパ戦争せんそうはじまるとオットはゾルゲを大使館たいしかん情報じょうほうかん任命にんめいし、ゾルゲはドイツ大使館たいしかん公的こうてき立場たちばれた。ゾルゲはドイツ大使館たいしかんかれ諜報ちょうほうもう両方りょうほうから日本にっぽん戦争せんそう継続けいぞく能力のうりょく軍事ぐんじ計画けいかくなどを入手にゅうしゅできる立場たちばとなり、1940ねん9月27にちにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめいのちにはよりおおくの情報じょうほうられるようになった。

ゾルゲへのうたが[編集へんしゅう]

一方いっぽうなが活動かつどうあいだにゾルゲにたいして行動こうどう前歴ぜんれき不審ふしんかんじるきがていた。ヴァルター・シェレンベルク当時とうじ国家こっか保安ほあん本部ほんぶ海外かいがい情報じょうほう部長ぶちょう)の回想かいそう秘密ひみつ機関きかんちょう手記しゅき』によると、シェレンベルクはドイツ通信つうしんしゃ総裁そうさいからゾルゲの調査ちょうさ依頼いらいされた[48]。その理由りゆうは、総裁そうさいがナチスとう方面ほうめんからゾルゲの「不可解ふかかいな」政治せいじてき前歴ぜんれき情報じょうほうつたえられたことだった[48]

シェレンベルクは、ゾルゲを共産きょうさん主義しゅぎしゃとは裏付うらづけられなかったが不審ふしん印象いんしょうぬぐえず、保安ほあん警察けいさつ長官ちょうかんラインハルト・ハイドリヒ意向いこうで、ちゅうにち大使館たいしかんづけ警察けいさつ武官ぶかんとして1941ねん5がつ赴任ふにんすることになった国家こっか保安ほあん本部ほんぶヨーゼフ・マイジンガーにゾルゲを監視かんしする任務にんむあたえた[48]。しかしゾルゲはマイジンガーと酒席しゅせきつうじて交友こうゆうむすび、すきせなかった[49]

どくせんかんする諜報ちょうほう活動かつどう[編集へんしゅう]

1940ねん12月29にちにゾルゲがおくった報告ほうこくでは、ドイツが東部とうぶ国境こっきょうに80師団しだん配備はいびしているというドイツ軍人ぐんじんからの情報じょうほうつたえ、ドイツぐんハリコフ・モスクワ・レニングラードせん沿って領土りょうど占領せんりょう可能かのうだとしるした[50]。だが、この情報じょうほうソ連それん本国ほんごくでは疑問ぎもんされた[50]

5月にはいるとゾルゲはドイツのたい開戦かいせん兆候ちょうこうがあるという連絡れんらく複数ふくすうおくり、さらにタイ王国おうこくへの赴任ふにん途中とちゅう東京とうきょうったショル中佐ちゅうさから、「6がつ15にちにドイツがたい開戦かいせんする」とつたえられ、6月1にちづけ送信そうしんした[51][注釈ちゅうしゃく 10]。しかし、この通信つうしんたいしてもソ連それんでは「うたがわしい、挑発ちょうはつのための電報でんぽうのリストにれるよう」というみがなされ、6月20にちづけおくった「オットがたい開戦かいせん不可避ふかひべた」という通信つうしんたいしても重要じゅうよう情報じょうほうとしてあつかわれた形跡けいせきはない[51]ソ連それん侵攻しんこう作戦さくせん開始かいしされると、ソ連それん赤軍せきぐん緒戦しょせん大敗たいはいした[51]

のスパイの情報じょうほうやイギリスからの通報つうほうどく開戦かいせん補強ほきょうしていたにもかかわらず、スターリンはこれらを無視むしした[52]。その理由りゆうについては、諜報ちょうほう機関きかん情報じょうほう自体じたいへの不信ふしん、イギリスによるどく離間りかんさくという疑念ぎねんどく混血こんけつであるゾルゲにたいするじゅうスパイ疑惑ぎわく赤軍せきぐんへの悪感情あくかんじょうとうげられている[52][53][注釈ちゅうしゃく 11]。また、ソ連それん本国ほんごくでゾルゲの通信つうしん翻訳ほんやく担当たんとうしたシロトキンには「日本にっぽんのスパイ」という疑惑ぎわくがかけられており、ゾルゲが所属しょぞくした労農ろうのう赤軍せきぐん参謀さんぼう本部ほんぶだい4きょくのコルガノフ少将しょうしょうは「シロトキンとゾルゲはスパイ」とする報告ほうこくしょ同年どうねん8がつ11にちづけしるしていた[53]

どく開戦かいせんソ連それんからゾルゲには、あらためて日本にっぽん政府せいふたい政策せいさくソ連それん国境こっきょうへの軍隊ぐんたい移動いどうについて情報じょうほうさぐ指示しじされた[16]日本にっぽんたい開戦かいせんおそれたためだった[55]外務がいむ大臣だいじん松岡まつおか洋右ようすけにち中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はきしてもたい開戦かいせんすべきと主張しゅちょうしたことはゾルゲにもつたわったが、ゾルゲは日本にっぽん関心かんしん南方なんぽうだとしてこれを疑問ぎもんした[56]日本にっぽん政府せいふ軍部ぐんぶおおくは、ソ連それんへの侵攻しんこうには消極しょうきょくてきではあったものの、まだ流動的りゅうどうてきであった[57]

諜報ちょうほうだん諜報ちょうほう活動かつどう以外いがい宣伝せんでん謀略ぼうりゃくきんじられていたが、ゾルゲはドイツ大使館たいしかん日本にっぽんたい開戦かいせん期待きたいできないという意見いけんいてまわり、尾崎おざきは「朝飯あさめしかい」でソ連それん崩壊ほうかいせず日本にっぽんソ連それん開戦かいせんするのは無意味むいみだと主張しゅちょうした[58][59]。もっともこれらの効果こうかについては両人りょうにんとも限定げんていてきなものだったとのち訊問じんもん調書ちょうしょべている[58][59]

7がつ2にち御前ごぜん会議かいぎ決定けってい情勢じょうせい推移すいいとも帝国ていこく国策こくさく要綱ようこう)では、南進なんしん[注釈ちゅうしゃく 12]主眼しゅがんとしつつ、どくせん形勢けいせい日本にっぽん有利ゆうりになれば参戦さんせんできるよう準備じゅんびをする[注釈ちゅうしゃく 13] という「りょうかまえ」の方針ほうしんとなる[60]。ゾルゲはオットと尾崎おざき両方りょうほうからこの決定けってい入手にゅうしゅする[61][62]尾崎おざきは、日本にっぽんぐん矛先ほこさき南北なんぼくいずれにかうのかを政権せいけん中枢ちゅうすうちかすじからさぐった(西園寺さいおんじ公一こういち田中たなかまき次郎じろうおも情報じょうほうげんだった)[62]。ゾルゲは、たいせん準備じゅんび重視じゅうしするオットの見解けんかいではなく、南進なんしん主眼しゅがんだとする尾崎おざき分析ぶんせき採用さいようして、7がつ10日とおか本国ほんごくおくった[61][62]

さらに、8がつ以降いこう日本にっぽんたい開戦かいせん可能かのうせい低下ていかしたことがオットや尾崎おざき情報じょうほうによって確認かくにんされ、ゾルゲは9月14にちおくった報告ほうこくで「オット大使たいし意見いけんによると、日本にっぽんたいソビエト攻撃こうげきいまではもはや問題もんだいがいであり、日本にっぽん攻撃こうげき可能かのうなのは、ソビエトが極東きょくとうから軍隊ぐんたいだい規模きぼ移動いどうさせた場合ばあいにだけだろう」としるした[63][64]。このゾルゲの情報じょうほうくわえ、内務ないむ人民じんみん委員いいん(NKVD)のセルゲイ・トルストイらによる日本にっぽん外交がいこう暗号あんごう電報でんぽうパープル暗号あんごう)の傍受ぼうじゅ解読かいどく情報じょうほう、さらに日本にっぽん政府せいふない協力きょうりょくしゃ「エコノミスト」(コードネーム)の情報じょうほうによって日本にっぽんたい開戦かいせんひくいことを確認かくにんしたソ連それんは、ソまん国境こっきょう配備はいびされた部隊ぶたい一部いちぶ抽出ちゅうしゅつしてヨーロッパ方面ほうめん移動いどうさせ、モスクワ前面ぜんめん攻防こうぼうせんでドイツぐんかえすことに成功せいこうした[65][64][注釈ちゅうしゃく 14]

1941ねん10がつ4にちづけ最後さいご諜報ちょうほう報告ほうこく[65][66]たいし、ソ連それん本国ほんごくからは「みなさんのみのりある仕事しごと感謝かんしゃする。あなたとあなたのグループの東京とうきょうでの協力きょうりょく円満えんまんおわったものとかんがえる」との返信へんしんがなされた[65]

逮捕たいほ処刑しょけい[編集へんしゅう]

特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ特高とっこう)はアメリカ共産きょうさん党員とういんである宮城みやぎやその周辺しゅうへん内偵ないていをかけていた。宮城みやぎや、おなじアメリカ共産きょうさん党員とういんで1939ねん帰国きこくした北林きたばやしトモなどがその対象たいしょうであった。満州まんしゅう憲兵けんぺいたいからソ連それん押収おうしゅうしてロシア国内こくない保管ほかんされていた内務省ないむしょう警保きょくの『特高とっこう捜査そうさいん褒賞ほうしょう上申じょうしんしょ』には、ゾルゲ事件じけん捜査そうさ開始かいしは「1940ねん6がつ27にち」であったとしるされている[17]

前出ぜんしゅつのマイジンガーは、ひそかに内偵ないていしていた憲兵けんぺいたいに「信頼しんらいできる人物じんぶつである」と身分みぶん保証ほしょうしてゾルゲにたいする尾行びこう中止ちゅうしするように依頼いらいしている[32][33]。マイジンガーからゾルゲの調査ちょうさ依頼いらいけた警視庁けいしちょう特高とっこう外事がいじも1941ねんなつにゾルゲを内偵ないていしたが、あやしいてんつけることはできなかった[48]

これらにかかわらず、特高とっこう外国がいこく新聞しんぶん特派とくはいんたいする通常つうじょう任務にんむ一環いっかんとして、そのもゾルゲにたいする尾行びこう調査ちょうさつづけ、これがゾルゲ事件じけん摘発てきはつにつながることとなる[67]

1941ねん9がつ27にち[注釈ちゅうしゃく 15]北林きたばやし皮切かわきりに事件じけん関係かんけいしゃ順次じゅんじ拘束こうそく逮捕たいほされた[注釈ちゅうしゃく 16]北林きたばやし供述きょうじゅつから10がつ10日とおか宮城みやぎが、10がつ中旬ちゅうじゅん尾崎おざき逮捕たいほされる(ゾルゲ事件じけん[注釈ちゅうしゃく 17]

ゾルゲは宮城みやぎ尾崎おざき連絡れんらくれなくなったことに不安ふあんいだき、10月17にちよる自宅じたくにクラウゼンとヴーケリッチがあつまったさいにもそれをくちにした[70]。ヴーケリッチの訊問じんもん調書ちょうしょによるとこのよるゾルゲとクラウゼンはドイツに帰国きこくする意思いししめし、ゾルゲは本国ほんごくにその可否かひ本国ほんごく本部ほんぶたずねる電文でんぶん原稿げんこう作成さくせいしていた[70]。だが、よく10がつ18にちあさにゾルゲは自宅じたく特高とっこう外事がいじ検察けんさつによって逮捕たいほされた[71]。ヴーケリッチとクラウゼンも同日どうじつ逮捕たいほされている[71]

これにたいし、ゾルゲをナチス党員とういん記者きしゃだとしんんでいたオット大使たいしやマイジンガーなどが外務省がいむしょうたいして正式せいしき抗議こうぎをおこなったほか、ナチスとう東京とうきょう支部しぶ在日ざいにちドイツじん特派とくはいん一同いちどうもゾルゲの逮捕たいほ容疑ようぎ不当ふとうなものであると抗議こうぎする声明せいめいぶんした[72]。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕たいほにベルリンの国家こっか保安ほあん本部ほんぶたいして「日本にっぽん当局とうきょくによるゾルゲにたいする嫌疑けんぎは、まった信用しんようするにあたいしない」と報告ほうこくしている[73]

逮捕たいほされたゾルゲは当初とうしょ特高とっこう外事がいじ警部補けいぶほだった大橋おおはし秀雄ひでおによって調しらべをけた[74]。ゾルゲは当初とうしょ容疑ようぎ否認ひにんし、ナチス党員とういん大使館たいしかん嘱託しょくたく新聞しんぶん記者きしゃであると主張しゅちょうして、検挙けんきょにちどく関係かんけいがいするとうったえた[74]。だが、大橋おおはし逮捕たいほ家宅かたく捜索そうさく押収おうしゅうしたソ連それんへの離日りにち申請しんせい原稿げんこうや、クラウゼンの自供じきょう発見はっけんされた通信つうしん存在そんざいをゾルゲにげると、ゾルゲはみずからが「たんなる新聞しんぶん記者きしゃではない」ことを自供じきょうした[74]翌日よくじつ逮捕たいほからいち週間しゅうかんの10がつ25にち)、ゾルゲは大橋おおはし検事けんじ吉河よしこ光貞みつさだたいして自分じぶんがスパイであるとついに白状はくじょうし「いままでどこにもけなかったけれど、今度こんどはじめて日本にっぽん警察けいさつけた」とくわえた[74]

オット大使たいしいのちけて外務省がいむしょう折衝せっしょうした大使館たいしかんいんエーリヒ・コルトドイツばんは、「ゾルゲはソ連それんのスパイ」とらされ、オットとコルトは巣鴨すがも拘置こうちしょ所長しょちょうしつでゾルゲに面会めんかいする[74]。そのさいゾルゲはオットに「わたしはあなたにさよならをいます。おくさんやおじょうさんによろしく」とだけべ、沈黙ちんもくしたオットをのこしてゾルゲは退出たいしゅつした[74]

ゾルゲは警察けいさつ検察けんさつ調しらべにたいしてみずからの所属しょぞく明確めいかくにせず、訊問じんもん調書ちょうしょには「モスコウ中央ちゅうおう」(文献ぶんけんによっては「モスコーセンター」)としるされている[75][76]。これについて調しらべを担当たんとうした大橋おおはし秀雄ひでおは「『国際こくさい共産党きょうさんとうのためにはたらいた』とわせる目的もくてきで、ゾルゲと相談そうだんしてつくった架空かくう組織そしきである」と戦後せんご証言しょうげんしている[75]日本にっぽんがわには治安ちあん維持いじほう検挙けんきょするという事情じじょうがあった[75][注釈ちゅうしゃく 18]。ところがゾルゲは公判こうはん段階だんかいはいると労農ろうのう赤軍せきぐん所属しょぞくしていたことをみとめ、「モスコウ中央ちゅうおう」としたのはみずからの策略さくりゃくべ、その理由りゆうとして憲兵けんぺいへのわたしの回避かいひソ連それんにおける複雑ふくざつ組織そしき理解りかいされづらいとかんがえたことなどをげている[76][注釈ちゅうしゃく 19]

ゾルゲら20めい1942ねん国防こくぼう保安ほあんほう治安ちあん維持いじほう違反いはんなどにより起訴きそされ、いちしんによってけい確定かくていし、ゾルゲの死刑しけい判決はんけつくだされた。おなじく死刑しけいまった尾崎おざきとともに巣鴨すがも拘置こうちしょ拘留こうりゅうされ、1944ねん11月7にちのロシア革命かくめい記念きねん巣鴨すがも拘置こうちしょ死刑しけい執行しっこうされた。ゾルゲの死刑しけい執行しっこうった市島いちじましげるいち東京とうきょう拘置こうちしょ所長しょちょう[注釈ちゅうしゃく 20] は、「ゾルゲは死刑しけい執行しっこうまえに、『世界せかい共産党きょうさんとう万歳ばんざい』と一言いちげん、そういってけいふくした。従容しょうようとしておりました」と証言しょうげんしている[77]

処刑しょけいのゾルゲの遺体いたいは、がない無縁仏むえんぼとけとして、巣鴨すがも拘置こうちしょちか雑司ぞうし霊園れいえん共同きょうどう墓地ぼち埋葬まいそうされた[78]戦後せんご、ゾルゲの処刑しょけい埋葬まいそうった石井いしい花子はなこ詳細しょうさい後述こうじゅつ)の奔走ほんそうにより1949ねん11月16にちにゾルゲの遺体いたい白骨はっこつしていた)は発掘はっくつされて火葬かそうされ、やく1ねんの1950ねん11月8にち石井いしいにより東京とうきょう郊外こうがい多磨たま霊園れいえん埋葬まいそうされた[79]当初とうしょ墓碑ぼひがなく、「尾崎おざき・ゾルゲ事件じけん犠牲ぎせいしゃ救援きゅうえんかい」と石井いしい花子はなこにより墓碑ぼひ建立こんりゅうされたのは、1956ねん11がつである[80]

ソ連邦それんぽう英雄えいゆう[編集へんしゅう]

ゾルゲを顕彰けんしょうしたソ連それん切手きって(1965ねん
来日らいにちしたショイグ国防こくぼうしょうロシア連邦れんぽうぐん 将官しょうかんによる墓参ぼさん

ゾルゲは日本にっぽん警察けいさつたいしてソ連それんのスパイであることを自白じはくしてしまったものの、当時とうじ日本にっぽんとのあいだにち中立ちゅうりつ条約じょうやくむすんでいたソ連それん政府せいふは、日本にっぽんとの関係かんけい悪化あっかおそれたこと、ゾルゲの上司じょうしだったヤン・ベルジンだい粛清しゅくせいによって1938ねん処刑しょけいされていたこと、ドイツとのじゅうスパイをうたがったことからゾルゲが自国じこくのスパイであることを否定ひていした。日本にっぽんがわからゾルゲと日本にっぽん将官しょうかんとの交換こうかん釈放しゃくほうちかけられたさいGRUのイリショフ大将たいしょう無視むししたという指摘してきがある[81]

このときに陸軍りくぐん次官じかんであった富永とみなが恭次きょうじによれば、日本にっぽんがわはゾルゲと日本人にっぽんじん捕虜ほりょ交換こうかんなんソ連それん大使館たいしかん要求ようきゅうしているが、ソ連それんがわはその都度つど「リヒャルト・ゾルゲという人物じんぶつらない」と回答かいとうしゾルゲを見捨みすてたとされる[82]富永とみながは、大使館たいしかんづけ武官ぶかん補佐ほさかんとして、ヨーロッパ方面ほうめんにいるしろけいロシアじん支援しえんのためフランスに派遣はけんされたり、関東軍かんとうぐん参謀さんぼう時代じだいにもたいロシア諜報ちょうほう謀略ぼうりゃくたずさわり、参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん部長ぶちょうのときにはたいソ連それん攻撃こうげき計画けいかく関東軍かんとうぐん特別とくべつ演習えんしゅうにもふか関与かんよするなど、たいソビエト連邦れんぽうへの謀略ぼうりゃく最前線さいぜんせんにいることがおおかったため、戦後せんご満州まんしゅう捕虜ほりょとなると6ねんものちょうきにわたって尋問じんもんけていたが[83]、モスクワ近郊きんこうの『ダーチャ』とばれていた監獄かんごく一緒いっしょ尋問じんもんけていたソ連それんのスパイ組織そしきあかいオーケストラ」のレオポルド・トレッペルにゾルゲのはなしをしている。トレッペルは富永とみながはなしくと、足手あしてまといとなるゾルゲをたすけるよりは、そのまま処刑しょけいされたほうがいいという判断はんだんソ連それん中央ちゅうおうくだし、その判断はんだん自分じぶんたち「あかいオーケストラ」やヤン・ベルジンとおなじように、ゾルゲがじゅうスパイだという嫌疑けんぎをかけられていたからであったと推測すいそくしている[82]。このように、いわば見殺みごろしにされるかたち見捨みすてられ、戦後せんごソ連それん諜報ちょうほうからゾルゲの存在そんざいられていた。

1961ねん映画えいがスパイ・ゾルゲ/真珠湾しんじゅわん前夜ぜんや』がにちふつ合作がっさく作成さくせいされ、スターリン批判ひはんをおこなった指導しどうしゃニキータ・フルシチョフ判断はんだんでモスクワで封切ふうきりされたのをきっかけにさい評価ひょうかされる[84][85]。フルシチョフはゾルゲの資料しりょう収集しゅうしゅうする指示しじし、情報じょうほう総局そうきょく設置せっちされた委員いいんかいによって文書ぶんしょやオーラルヒストリーの調査ちょうさがおこなわれた[85]1964ねん9月5にちソ連それん共産党きょうさんとう機関きかんプラウダはじめてゾルゲの記事きじ掲載けいさいされる[85][86]同年どうねん11がつ5にちにゾルゲに「ソ連邦それんぽう英雄えいゆう」の称号しょうごうおくられた[85][注釈ちゅうしゃく 21]。ゾルゲのまれたバクーのまちにゾルゲの銅像どうぞうつなど顕彰けんしょうすすんだ[84]

以後いご、ゾルゲは「ソ連それんにちどく戦争せんそうふせぐためにくした英雄えいゆう」として尊敬そんけいされ、ソ連それんちゅうにち特命とくめい全権ぜんけん大使たいし日本にっぽん赴任ふにんしたさいには多磨たま霊園れいえんにあるゾルゲのはかまいるのが慣行かんこうとなっていた。ソ連それん崩壊ほうかいロシアちゅうにち大使たいしがこれを踏襲とうしゅうしている。また、ロシア連邦れんぽう大統領だいとうりょうであるウラジーミル・プーチンはフランスが製作せいさくしたゾルゲの映画えいが[注釈ちゅうしゃく 22]少年しょうねん時代じだいKGBのスパイをこころざしたとされる[87]。2020ねんちゅうにちロシア大使館たいしかんがゾルゲの墓所はかしょ使用しようけん取得しゅとくしたとほうじられた[88]

2022ねん1がつ26にち、ロシアセルゲイ・ラブロフ外相がいしょうはゾルゲの遺骨いこつサハリンしゅう南部なんぶみなみ樺太からふと)やクリール諸島しょとう南部なんぶ千島ちしま列島れっとう南部なんぶ北方領土ほっぽうりょうど)に改葬かいそうする構想こうそう表明ひょうめい日本にっぽんがわ協議きょうぎしていると発表はっぴょうした[89]。しかし、日本にっぽんがわ松野まつの博一ひろかず官房かんぼう長官ちょうかん翌日よくじつ記者きしゃ会見かいけんでこのような提案ていあんけていないとした[89]

ひがしドイツ陸軍りくぐんだい1自動車じどうしゃ狙撃そげきへい師団しだんぞくするだい1捜索そうさく大隊だいたい偵察ていさつ部隊ぶたい)は、名誉めいよ称号しょうごうとしてリヒャルト・ゾルゲのかんしていた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。またおなじくひがしドイツの国家こっか保安ほあんしょう(MfS)は功労こうろうしょうとして、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定せいていしていた。

GHQの調査ちょうさ[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽんに、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい参謀さんぼうだい2責任せきにんしゃとして駐在ちゅうざいしたアメリカ陸軍りくぐんチャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件じけん注目ちゅうもくし、大掛おおがかりかつ綿密めんみつ調査ちょうさをおこなった[90]。そのなか保釈ほしゃくされたクラウゼンもわれ、翌年よくねんソ連それんからの手助てだすけをけて日本にっぽんはなれることになった。

ただし、実際じっさいにはクラウゼン夫妻ふさい日本にっぽんアメリカ陸軍りくぐん情報じょうほう(MIS)から尋問じんもんけたことが、21世紀せいきになって公開こうかいされたアメリカ国立こくりつ公文こうぶん書記しょきろく管理かんりきょく所蔵しょぞう資料しりょう記録きろくされている[91]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ゾルゲの功績こうせきとなえて発行はっこうされたひがしドイツ切手きって左下ひだりしたには「ソ連邦それんぽう英雄えいゆう」の称号しょうごうかれている。
多磨たま霊園れいえんにあるゾルゲのはか。『ソ連邦それんぽう英雄えいゆう』とロシアきざまれている。

家族かぞく[編集へんしゅう]

生涯しょうがいに2結婚けっこんしている[92]最初さいしょつまであるクリスティアーネとはドイツ時代じだい結婚けっこんしていた[6]

2度目どめつまであるエカテリーナとは1933ねん結婚けっこんした[92][注釈ちゅうしゃく 23]。エカテリーナは工場こうじょう労働ろうどうしゃだったが、ゾルゲらドイツじんにロシアおしえていた[93]結婚けっこんから数カ月すうかげつにゾルゲは諜報ちょうほう活動かつどうのため極東きょくとう旅立たびだち、結婚けっこん生活せいかつ数カ月すうかげつだった[92]。ゾルゲは日本にっぽんからエカテリーナに手紙てがみおくり、そのうち12つうKGB保管ほかんされていた[94]。エカテリーナはゾルゲの宿しゅくすも、水銀すいぎん中毒ちゅうどくにより流産りゅうざんする[92]。さらに1942ねん9がつにはスパイ容疑ようぎ逮捕たいほされ、1943ねん3がつクラスノヤルスク流刑りゅうけいとなり、同年どうねん7がつ同地どうちのうない出血しゅっけつにより死去しきょした[92][95]。この死去しきょはゾルゲにはらされなかった[92]。エカテリーナは調しらべにたいして、ゾルゲとの手紙てがみのやりとりは1938ねんまでだったとべており[95]、KGBにのこっていた1938ねん2がつのゾルゲの手紙てがみには「かならかえる」という言葉ことばつづられていた[96]

来日らいにち東京とうきょう銀座ぎんざドイツ料理りょうりみせ「ラインゴールド」でウェイトレスをしていた石井いしい花子はなこい、1935ねんから逮捕たいほ直前ちょくぜんの1941ねんまでふか関係かんけいった[97][98]石井いしいとは正式せいしき結婚けっこんはしなかった。しかし死後しご石井いしいによっててられ、現在げんざい石井いしいとゾルゲがねむ多磨たま霊園れいえんはかには「つま石井いしい花子はなこ」とられている[99]。ゾルゲは日本にっぽんやとっていた家政かせいには「いち結婚けっこんしたことがない」とはなしており[100]石井いしいもゾルゲは(正式せいしき結婚けっこんをしていないという意味いみで)独身どくしんであるとかんがえていた[101]

石井いしいのほかにも複数ふくすう女性じょせい関係かんけいがあったとされ[99]、その一人ひとり日本人にっぽんじん)とのあいだむすめがいたとの情報じょうほうもあるが真偽しんぎ確認かくにんされていない[81]

その[編集へんしゅう]

日本にっぽん滞在たいざいちゅうの1938ねん5がつ夜間やかんのオートバイ運転うんてんちゅう交通こうつう事故じここして負傷ふしょうひじり病院びょういん入院にゅういん生活せいかつおくった[102]。この負傷ふしょうによりおおくのうしない、以降いこうそう状態じょうたいとなった[103]

石井いしい花子はなこによると、ゾルゲはだいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐん大腿だいたいこつ骨折こっせつし、その後遺症こういしょう左右さゆうあしながさがちがったという[104]

アヴァス通信つうしんしゃ東京とうきょう支局しきょくちょうで、ヴーケリッチの上司じょうしでもあったロベール・ギランは、えいふつがドイツに宣戦せんせん布告ふこくした直後ちょくごの1941ねん9がつ4にち、ゾルゲと偶然ぐうぜん遭遇そうぐうしたさいにドイツがふたたびフランスと戦争せんそうはじめた憤懣ふんまんをぶつけたところ、ゾルゲはギランを食事しょくじさそい、そのせき戦争せんそうきらにくむこと、みずからが平和へいわ主義しゅぎしゃであることを苦悩くのうした姿すがたべた[105][106]。ゾルゲをナチス党員とういんだとおもっていたギランはそれを意外いがいおもいでいたという[105]

著書ちょしょ回想かいそう[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

研究けんきゅうしょについては「ゾルゲ事件じけん」の項目こうもく参照さんしょう

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

ドキュメンタリー[編集へんしゅう]

コミックス[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 新聞しんぶんしゃがわ正式せいしき特派とくはいん契約けいやくむすばなかったとしている(本文ほんぶん参照さんしょう)。
  2. ^ ニーナについては再婚さいこんせつがあり、それによればゾルゲの兄弟きょうだいのうち5にんがニーナのだったという[1]一方いっぽう兄弟きょうだい全員ぜんいん両親りょうしん実子じっしというせつもある[1]
  3. ^ 後述こうじゅつするアイノ・クーシネンおっと
  4. ^ のちに1941ねんごろからは「インソン」というコードに変更へんこうされた[16]
  5. ^ ゾルゲは日本にっぽんでの調しらべの過程かてい尾崎おざきとの接触せっしょくがスメドレーによるものであると供述きょうじゅつ変更へんこう[14]ながらくそれが定説ていせつしていた。
  6. ^ ヴェントは日本にっぽんで「ベルンハルト」という偽名ぎめい活動かつどうしており、ゾルゲらは警察けいさつ検察けんさつでの調しらべでもその使用しようしたため、「ベルンハルト」と記載きさいする文献ぶんけんがある。
  7. ^ これらはいずれも電通銀座でんつうぎんざビル入居にゅうきょしていた。
  8. ^ 1937ねん以降いこう傍受ぼうじゅした記録きろくがある。
  9. ^ 帰国きこくしたクーシネンは、実際じっさい逮捕たいほされて収容しゅうようしょおくられた。
  10. ^ ゾルゲは日本にっぽん訊問じんもん調書ちょうしょではショルから入手にゅうしゅした開戦かいせん予定よていを「6がつ20日はつか」とべているが[41]、ゾルゲが実際じっさいおくった通信つうしんではこの日付ひづけである。
  11. ^ 手嶋てじま龍一りゅういち佐藤さとうゆうらは実際じっさいじゅうスパイであったというせつ主張しゅちょうしている[54]
  12. ^ この時点じてんでは南部なんぶふついんへの進駐しんちゅう
  13. ^ 満州まんしゅうこくソ連それん国境こっきょうに70まんにん動員どういんする関東軍かんとうぐん特種とくしゅ演習えんしゅう実行じっこうされた。
  14. ^ 「エコノミスト」の「年内ねんない日本にっぽんたい開戦かいせんがない」という情報じょうほう情報じょうほうげん左近さこん司政しせいさん)は1941ねん9がつ9にちラヴレンチー・ベリヤからスターリンとヴャチェスラフ・モロトフ報告ほうこくされており、これはゾルゲの報告ほうこくよりも5にちはや[64]
  15. ^ 特高とっこう資料しりょうでは「9がつ28にち」とされているが、上記じょうき褒賞ほうしょう上申じょうしんしょ」や和歌山わかやまけん北林きたばやし逮捕たいほったもと和歌山わかやま県警けんけい刑事けいじ証言しょうげんにより実際じっさい逮捕たいほは9月27にちであることが渡部わたなべとみによって確認かくにんされている [1]
  16. ^ 戦後せんご長期間ちょうきかん、「伊藤いとうただし北林きたばやし供述きょうじゅつしていたことが検挙けんきょ発端ほったんである」という内容ないよう通説つうせつしていたが、現在げんざいはほぼ否定ひていされている。詳細しょうさい伊藤いとう項目こうもく参照さんしょう
  17. ^ 尾崎おざき逮捕たいほについて、尾崎おざき自身じしん手記しゅきや『特高とっこう月報げっぽう』では「10がつ15にち」となっているが、渡部わたなべとみ哉は10月14にちであると主張しゅちょうしている[68][69]
  18. ^ 治安ちあん維持いじほうは「国体こくたい変革へんかくすることを目的もくてき」とした「結社けっしゃ」への関与かんよ対象たいしょうとしており、外国がいこく軍隊ぐんたい国家こっかではなかった。
  19. ^ 公判こうはん先立さきだち、ゾルゲが吉河よしこ光貞みつさだまえ作成さくせいした『手記しゅき』において、その途中とちゅうから労農ろうのう赤軍せきぐんからの指示しじうごいたことを明記めいきしていた[76]
  20. ^ 当時とうじ巣鴨すがも拘置こうちしょ正式せいしき名称めいしょう東京とうきょう拘置こうちしょだった。
  21. ^ フルシチョフはこれに先立さきだつ10がつ失脚しっきゃくした。
  22. ^ 前出ぜんしゅつの『スパイ・ゾルゲ/真珠湾しんじゅわん前夜ぜんや』とみられる。
  23. ^ エカテリーナの旧姓きゅうせいについては「マクシモブナ[13]」「マクシーモワ[92]」と日本語にほんご複数ふくすう表記ひょうきがある。
  24. ^ 益田ますだ豊彦とよひこ筆名ひつめいとされるが、風早かざはやはちじゅうというせつもある[18]
  25. ^ 角川かどかわ文庫ぶんこばん以前いぜんに4刊行かんこうされている。詳細しょうさい石井いしい記事きじ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c NHK取材しゅざいはん & 下斗米しもとめ伸夫のぶお 1995, pp. 34–36.
  2. ^ a b c d NHK取材しゅざいはん & 下斗米しもとめ伸夫のぶお 1995, pp. 36–40.
  3. ^ a b c d e f g h i 三宅みやけ正樹まさき 2010, pp. 60–61.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • たいにち有害ゆうがい活動かつどう
    • ボリス・グジ - たいにち諜報ちょうほうせんもん。1937ねんまでゾルゲ・グループを監督かんとく。1937ねん失脚しっきゃく
  • ニコライ・ブハーリン - ゾルゲが信奉しんぽう心酔しんすいしていたソビエト共産党きょうさんとう幹部かんぶ穏健おんけん戦時せんじ体制たいせい緩和かんわ主張しゅちょう)。ゾルゲ日本にっぽん任地にんちちゅう粛清しゅくせい処刑しょけい
  • 真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき陰謀いんぼうせつ - ゾルゲが日本にっぽん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき情報じょうほう入手にゅうしゅし、ソ連それん本国ほんごくおくっていたとするせつがある。ただし、現在げんざいまでにゾルゲ研究けんきゅうしゃによるほんせつ支持しじ前提ぜんていとする見解けんかいはない。
  • ホテル・ルックス
  • アルブレヒト・フォン・ウラッハ - 東京とうきょう滞在たいざいにゾルゲと親交しんこうがあった。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]