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朝食ちょうしょくかい

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朝食ちょうしょくかい(ちょうしょくかい)は、近衛このえ文麿ふみまろ内閣ないかく政策せいさく研究けんきゅうかい政治せいじ勉強べんきょうかい朝食ちょうしょくともにして議論ぎろんわされたのでこのけられた。「朝飯あさめしかいあさめしかい)」とも。内閣ないかく総理そうり大臣だいじん秘書官ひしょかんであるうしじょう友彦ともひこきし道三どうさん、そしてゾルゲ事件じけん死刑しけい宣告せんこくされた内閣ないかく嘱託しょくたく尾崎おざき秀実ひでみ主催しゅさいした。うしじょうてい万平まんぺいホテル西園寺さいおんじ公爵こうしゃくていひらかれ、近衛このえ内閣ないかく政策せいさくおおきな影響えいきょうあたえた。「昭和しょうわ研究けんきゅうかい」とまじわる部分ぶぶんがある。

概要がいよう

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人選じんせんうしじょう信彦のぶひこきし道三どうさんがあたり、当時とうじ逸材いつざいなかからかたよりがないようにひろ採用さいようされた。学者がくしゃ新聞しんぶん記者きしゃ評論ひょうろんから人材じんざいあつめた。参加さんかしゃ内閣ないかく書記官しょきかんちょう風見かざみあきらをはじめ、佐々ささ弘雄ひろお白洲しらす次郎じろう細川ほそかわ嘉六かろくたいら貞蔵ていぞう松方まつかた三郎さぶろう松本まつもと重治しげはるりゅう信太郎しんたろう蠟山政道せいどううしじょう友彦ともひこなどである。またゾルゲ事件じけん関与かんよした、尾崎おざき秀実ひでみ西園寺さいおんじ公一こういちいぬやしなえけんらもふくまれた。 これらのメンバーは、昭和しょうわ研究けんきゅうかい中心ちゅうしん人物じんぶつであり、近衛このえしん体制たいせい運動うんどう推進すいしんしゃでもあった。

経緯けいい

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だい1近衛このえないかく成立せいりつまもなく、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん秘書官ひしょかんうしじょう友彦ともひこきし道三どうさんが、識者しきしゃなかから政治せいじ経済けいざいあかるいもの選別せんべつし、意見いけん情報じょうほうるために夕食ゆうしょく招待しょうたいして懇談こんだんわした。したがって、当初とうしょ夕食ゆうしょくかいであったといえる。はじめに招待しょうたいされたのは、尾崎おざき秀実ひでみ西園寺さいおんじ公一こういち佐々ささ弘雄ひろおたいら貞蔵ていぞうりゅう信太郎しんたろうろうやま政道せいどう渡辺わたなべ佐平さへいであり、内閣ないかく書記官しょきかんちょう風見かざみあきら同席どうせきした。

尾崎おざき秀実ひでみ内閣ないかく嘱託しょくたくとなると、うしじょう友彦ともひこきし道三どうさんとが相談そうだんし、比較的ひかくてき時間じかん融通ゆうずうあさ8ごろに開始かいしすることになった。1940ねん昭和しょうわ15ねん)はじめごろから、うしじょう尾崎おざき西園寺さいおんじろうやまいであった同盟どうめい編集へんしゅう局長きょくちょう松本まつもと重治しげはる参加さんかし、その前後ぜんごいぬやしなえけんも10かいほど、松方まつかた三郎さぶろうは2かいほど参加さんかした。尾崎おざき秀実ひでみはアジア、ロシア、おうべい情報じょうほう提供ていきょうすることで近衛このえないかく南進なんしん政策せいさくおおきな影響えいきょうあたえた。

開催かいさい場所ばしょは、だい1近衛このえないかく時代じだいうしじょう友彦ともひこていすうかい辞職じしょく3ヶ月かげつあいだ万平まんぺいホテルで2、3かい、1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつから1940ねん11がつごろまでは駿河台するがだい西園寺さいおんじ公爵こうしゃくていすうじゅうかい、その首相しゅしょう官邸かんていじゅうすうかいひらかれた[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ゾルゲ事件じけん尾崎おざき秀実ひでみ供述きょうじゅつしょ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 伊藤いとうたかし近衛このえしん体制たいせい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ新版しんぱん・2015ねん
  • 伊藤いとうたかし昭和しょうわ政治せいじ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ

関連かんれん項目こうもく

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