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西部せいぶ戦線せんせん (だいいち世界せかい大戦たいせん)

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西部せいぶ戦線せんせん
西部戦線の塹壕
だいいち世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせんでは塹壕ざんごうせん中心ちゅうしん戦争せんそうひろげられた。
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねんから1918ねん
場所ばしょベルギーおよびフランス北東ほくとう
結果けっか連合れんごうこく勝利しょうり、ドイツ帝国ていこく崩壊ほうかい
交戦こうせん勢力せいりょく
フランスの旗 フランス
イギリスの旗 イギリス
ベルギーの旗 ベルギー
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく (1917-)
イタリア王国の旗イタリア
ポルトガルの旗ポルトガル[1]
ロシア帝国の旗 ロシア[2]
ドイツの旗 ドイツ
オーストリア=ハンガリー帝国ていこく[3]
指導しどうしゃ指揮しきかん
フランスの旗ジョゼフ・ジョフル(1914-1916)
フランスの旗ロベール・ニヴェル(1916-1917)
フランスの旗フィリップ・ペタン(1917)
フランスの旗 フェルディナン・フォッシュ (1917-1918)
イギリスの旗ジョン・フレンチ(1914-1915)
イギリスの旗ダグラス・ヘイグ(1915-1918)
アメリカ合衆国の旗ジョン・パーシング
ベルギーの旗アルベール1せい
ドイツの旗 ヘルムート・フォン・モルトケ (1914)
ドイツの旗 エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン (1914-1916)
ドイツの旗 パウル・フォン・ヒンデンブルク (1916-1918)
損害そんがい
7,493,292にん推定すいてい 5,603,000にん推定すいてい
西部せいぶ戦線せんせん (だいいち世界せかい大戦たいせん)

だいいち世界せかい大戦たいせんにおける西部せいぶ戦線せんせん(せいぶせんせん)は、ドイツとイギリス・フランスをはじめとする連合れんごうこくたたかいであり、ベルギー南部なんぶからフランス北東ほくとうにかけて戦線せんせん構築こうちくされた。

概要がいよう

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1914ねん6月28にち発生はっせいしたサラエボ事件じけんはしはっし、同年どうねん7がつ28にちオーストリア=ハンガリー帝国ていこくセルビア宣戦せんせん布告ふこくした。これをけて、ロシア帝国ていこくは7がつ30にちに、ドイツ帝国ていこくは8がつ1にちに、そしてオーストリアは8がつ4にちに、それぞれ総動員そうどういん発令はつれいした。

ドイツぐんただちにベルギーおよびルクセンブルク侵攻しんこうし、さらにフランス北東ほくとう工業こうぎょう地域ちいき掌握しょうあくしようとこころみた。しかし、緒戦しょせん一連いちれん勝利しょうりによってパリ付近ふきんにまでせたドイツぐん部隊ぶたいだいいちマルヌのたたかにおける敗北はいぼくによって、フランスぐん殲滅せんめつ失敗しっぱいし、戦線せんせん後退こうたい整理せいりさせた。こののちスイスからイギリス海峡かいきょうにいたるまで戦線せんせん構築こうちくされ、前線ぜんせん両側りょうがわでは塹壕ざんごうすすめられた。この戦線せんせんだいいち世界せかい大戦たいせんのほとんどの期間きかんつうじておおきく変化へんかすることはなかった。

1915ねんから1917ねんにかけて、西部せいぶ戦線せんせんにおいてはりょうぐんともだい規模きぼ攻勢こうせいすうかいおこなっているが、巧妙こうみょう構築こうちくされた塹壕ざんごうせん配置はいちされたがわぼう機関きかんじゅう有刺鉄線ゆうしてっせんなどによって防御ぼうぎょがわ優勢ゆうせい確立かくりつしており、攻撃こうげきがわには大量たいりょう犠牲ぎせいしゃ続出ぞくしゅつし、攻勢こうせい失敗しっぱいすることがおおかった。この結果けっかとして攻勢こうせいによる前線ぜんせん位置いち変化へんかはほとんどしょうじなかった。1916ねんには、ヴェルダンのたたかおよソンムのたたかおこなわれたが、りょう陣営じんえい甚大じんだい死者ししゃしたのみで、戦局せんきょく決定的けっていてき転換てんかんにはいたらなかった。

このようなまりを打開だかいしようと、機関きかんほうどくガス戦車せんしゃ飛行機ひこうきなどのおおくのしん兵器へいき導入どうにゅうされたが、これらの兵器へいき決定的けっていてき優位ゆういしょうじさせることはできなかった。

1918ねんにいたると、ドイツぐん春季しゅんきだい攻勢こうせい(カイザーシュラハト)失敗しっぱいアメリカぐん参戦さんせんなどによる連合れんごう国軍こくぐん戦力せんりょくてき優位ゆういにより、ドイツぐん司令しれい敗北はいぼく認識にんしきし、同年どうねん11がつにドイツ政府せいふ休戦きゅうせん協定きょうてい受諾じゅだくするにいたった。

1914ねん - ドイツぐんによるベルギー・フランス侵攻しんこう

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シュリーフェン・プラン

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だいいち世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜん時期じきにおいて、ドイツ陸軍りくぐん西方せいほう諸国しょこく攻勢こうせいにあたって、シュリーフェン・プランばれる計画けいかく作成さくせいしていた。これは戦争せんそう勃発ぼっぱつ直後ちょくごベルギー通過つうかしてフランス北東ほくとうへと侵入しんにゅうし、その南方なんぽうへと方向ほうこう転換てんかんして首都しゅとのパリごとフランスぐんかたつばさ包囲ほういする計画けいかくであった。この計画けいかくしょうモルトケによって一部いちぶ手直てなおしされたものの、おおむね計画けいかくのっと戦争せんそう開始かいしされた。

ドイツぐんによるベルギー侵攻しんこう

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ベルギーにおける関連かんれんちゅう国境こっきょうせん現代げんだいのもの)

ベルギーは各国かっこく総動員そうどういん発令はつれい戦時せんじ体制たいせいをとるなか、8がつ1にち正午しょうご、ベルギー王国おうこくアルベール・ド・バッソンピエール男爵だんしゃくを、ちゅうしろドイツ大使館たいしかん派遣はけん動向どうこうさぐらせたが、クラウス・フォン・ベロウ=ザレスキエドイツばん大使たいしは「なに心配しんぱいいりません」と返答へんとうした[4]。8月2にち、ドイツがルクセンブルク侵攻しんこうするなかジュリアン・ダヴィニョン英語えいごばん外相がいしょう再度さいどちゅうしろドイツ大使館たいしかん訪問ほうもんし、ベロウ大使たいしから「となりいえけても、あなたのいえ大丈夫だいじょうぶだ」と回答かいとうけた[4]。この会談かいだんのち、ベロウは本国ほんごくからの開封かいふう指示しじにより、7がつ29にち時点じてんっていた封書ふうしょ開封かいふうしてドイツぐん通行つうこうけん要求ようきゅうする最後さいご通牒つうちょうをベルギー外務省がいむしょう提出ていしゅつした[4]

8がつ2にち午後ごご7に、上記じょうき最後さいご通牒つうちょうったベルギー国王こくおうアルベール1せいは、同日どうじつ午後ごご9閣議かくぎで「ベルギーはみちではない、くにだ」と発言はつげんし、中立ちゅうりつこくとしてこれを明確めいかく拒絶きょぜつした[5]。ベロウはアーヘン急行きゅうこうし、ベルギー抗戦こうせん意思いしつたえた。また、アルベール1せいリエージュマースがわふつ:ムーズがわ)の橋梁きょうりょうや、ルクセンブルク国境こっきょう橋梁きょうりょうおよ鉄道てつどう破壊はかいさせた[6]

ベルギーの中立ちゅうりつ自体じたい1839ねんロンドン条約じょうやくによってイギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアから保証ほしょうされていた。証文しょうもんではあるが、アルベール1せい局外きょくがい中立ちゅうりつ可能かのうしんじていた。中立ちゅうりつ実質じっしつはイギリスの国益こくえきからしょうじたもので、ベルギーをふくむフランダース地方ちほうとオランダのいわゆる低地ていち諸国しょこくネーデルラント)をいち強国きょうこく支配しはいまかせたくないという意図いとからである。アルベールはしかし中立ちゅうりつ自体じたい価値かちき、どの他国たこく侵犯しんぱんたいしても徹底的てっていてき抗戦こうせんするつもりだった。

しかしながら、国王こくおういさましい発言はつげんとは裏腹うらはら当時とうじベルギーぐん長期間ちょうきかん中立ちゅうりつ勢力せいりょくした社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう軍事ぐんじ軽視けいしないし関心かんしんにより、とても整備せいびされていたとはえない状況じょうきょうであった。参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうしゅとしてフランスで教育きょういくけており、攻撃こうげき精神せいしんばかりにつけ、ベルギーの実状じつじょうとはかけはなれた攻勢こうせい作戦さくせん計画けいかくばかりをっていた。当時とうじ西欧せいおう諸国しょこく経済けいざいりょく見合みあったかたちでの軍事ぐんじ能力のうりょくとしてはおそらく最悪さいあくであり、開戦かいせん現役げんえきへい4まん8000にん予備よびやく10まんにんでスタートしたがこれでは6師団しだん要塞ようさい守備しゅびたい充足じゅうそくできない。装備そうび旧式きゅうしきで、軍服ぐんぷくいたってはナポレオン時代じだいもの使つかいまわしている有様ありさまであった。

ドイツだい1ぐん司令しれいかんクルック)とだい2ぐん司令しれいかんビューロウ)は1914ねん8がつ4にちにベルギーに侵攻しんこうした。

ベルギーにおける最初さいしょ戦闘せんとうリエージュ包囲ほういせんである。リエージュ要塞ようさい周囲しゅういには複数ふくすう堡塁ほうるい構築こうちくされており、予想よそうしなかった抵抗ていこう遭遇そうぐうしたドイツぐんは、8がつ5にちいち撃退げきたいされたため民間みんかんへの殺戮さつりくおこなった[6]。さらに、8がつ6にちにはツェッペリン飛行船ひこうせんによる空爆くうばくおこなって、よく8がつ7にちにリエージュ陥落かんらく成功せいこうした[6]ベルギーぐんアントウェルペンえい:アントワープ)およびナミュールへと後退こうたいした。このたたかいによって、ドイツぐん進撃しんげきが2日間にちかん遅延ちえんし、その結果けっか連合れんごうこくがわ交戦こうせん準備じゅんびととのえることが出来できたとされている[6]

ドイツぐんはアントウェルペンを回避かいひして進撃しんげきしたが、これにより後背こうはい危険きけんのこされることになった。ナミュールは23にち陥落かんらくした[7]ナミュール包囲ほういせん英語えいごばん)。

8がつちゅうにアルベール1せいらはフランスのル・アーヴル亡命ぼうめいし、亡命ぼうめい政府せいふ樹立じゅりつした。ドイツぐんは、10がつまでにアントウェルペン首都しゅとブリュッセルをも陥落かんらくさせた。

ベルギーぐん抵抗ていこう自体じたい軽微けいびものであったが、ドイツぐんにとっては想定そうていがいでありこの遅延ちえんはシュリーフェン・プランにおおきなくるいをしょうじさせはじめていた。シュリーフェン・プランはロシアぐん動員どういんりょくおくれを前提ぜんていつくられており、ロシアぐん動員どういん完了かんりょうさせるまえ迅速じんそく西部せいぶ戦線せんせんえいふつぐん撃破げきはしなければならなかった。そのため、連日れんじつ強行きょうこうぐんにより兵士へいしたちは憔悴しょうすいしきっており、さらにベルギーの軍民ぐんみん国内こくない鉄道てつどうもう破壊はかいしたため、シュリーフェン・プランにもとづいた左翼さよくから右翼うよくへの輸送ゆそう困難こんなんとなった。

戦争せんそうまえフランスぐんにおいては、たいドイツせん予想よそうしてプラン17フランス語ふらんすごばん英語えいごばんしょうされていた。この計画けいかくあんでは戦争せんそう開始かいし同時どうじアルザス=ロレーヌ奪取だっしゅすることとされていた。8月14にち開始かいしされた進撃しんげきではロレーヌのサールブールとアルザスのミュルーズだいいち目標もくひょうとされた。ドイツぐんは、シュリーフェン・プランにしたがい、フランスぐんたいしてより過大かだい損害そんがいあたえながら徐々じょじょ後退こうたいした。フランスぐんはミュルーズを占領せんりょうし、サールブールのいち手前てまえまでせまったが、フランス北東ほくとうでの大敗たいはいにより撤退てったい余儀よぎなくされる[8]

ドイツぐんによるフランス侵攻しんこう

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フランスぐん部隊ぶたい銃剣じゅうけん突撃とつげき
西部せいぶ戦線せんせん形成けいせいと「うみへの競争きょうそう
1914ねん

ルクセンブルクおよびベルギーの抵抗ていこう粉砕ふんさいしつつ、ドイツぐん進撃しんげきつづけていた。8がつ後半こうはんになるとドイツぐん部隊ぶたいはフランス北部ほくぶ到達とうたつし、その地域ちいきけていたジョゼフ・ジョフルひきいるフランスぐんおよびジョン・フレンチひきいるイギリス海外かいがい派遣はけんぐん(BEF)とのあいだフロンティアのたたか英語えいごばんしょうされる戦闘せんとう発生はっせいした。シャルルロワのたたか英語えいごばんおよびモンスのたたか英語えいごばんなどの緒戦しょせん敗北はいぼくした連合れんごうこく後退こうたい余儀よぎなくされた。

さらにル・カトーのたたか英語えいごばんモブージュ包囲ほういせん英語えいごばんギーズのたたかフランス語ふらんすごばん英語えいごばん(サン=カンタンのたたかい)などの戦闘せんとうにおいても多量たりょう死傷ししょうしゃ発生はっせいした。ドイツぐんパリまで70キロの地点ちてんにまで到達とうたつしたが、9月6にちから12にちまでのだいいちマルヌ会戦かいせんにおいて進撃しんげき停止ていしした。莫大ばくだい損害そんがいかえりみず反撃はんげきだいいちエーヌのたたか英語えいごばん)にてんじたフランスぐんによって、ドイツぐんエーヌがわのラインにまで後退こうたいし、その位置いち持久じきゅうをはかるために塹壕ざんごう構築こうちくはじめた。緒戦しょせんにおいて攻撃こうげきがわ不利ふりさとっていたフランスぐんもこれをると進撃しんげき停止ていしした。このようにしてその3年間ねんかん継続けいぞくされる西部せいぶ戦線せんせん構築こうちくされることになった。

てき後背こうはいこうとしてりょうぐんきたへとのべつばさ運動うんどうはじめ、その結果けっかうみへの競争きょうそう」によってスイスからイギリス海峡かいきょういたるまでの塹壕ざんごうせん形成けいせいされた[9]

クリスマス休戦きゅうせん

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1915ねん - 膠着こうちゃく

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西部せいぶ戦線せんせん地図ちず
1915ねんから16ねん

ヴォージュ海岸かいがんせんとのあいだコンピエーニュ付近ふきん前線ぜんせんには、ノワイヨンというまちちかくで突起とっきしょうじていた。1915ねんはいりジョフルはこの突起とっき解消かいしょう目的もくてきとし、りょうはらから進撃しんげきしてドイツぐん包囲ほういしようとこころみた[10]。イギリスぐん北方ほっぽうアルトワを、フランスぐんシャンパーニュ攻撃こうげきすることになった。

5がつ10日とおかのイギリスぐん進撃しんげきではオーベル山稜さんりょう(Aubers Ridge)をめぐヌーヴ=シャペルのたたか英語えいごばん発生はっせいした。3キロの前線ぜんせんに4師団しだんがひしめきって進撃しんげきしたイギリスぐんによる530もん21まんはつ、35分間ふんかんつづはげしい砲撃ほうげきのち歩兵ほへいによる突撃とつげき開始かいしされ、4あいだには目標もくひょうむら占領せんりょうできた。しかしその進撃しんげき糧食りょうしょく通信つうしん不足ふそくによっておもうようにすすまなかった。ドイツぐん予備よび部隊ぶたい投入とうにゅうして反撃はんげきてんじた。イギリスぐん事前じぜん砲撃ほうげき砲弾ほうだん備蓄びちくの3ぶんの1を消費しょうひしてしまっていた[11]のであって、ジョン・フレンチ将軍しょうぐん最初さいしょ攻撃こうげき成功せいこうにもかかわらず作戦さくせん失敗しっぱいした原因げんいんをそのことにかえしている[12]

どくガスせん

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ドイツぐん防御ぼうぎょがわ有利ゆうり自覚じかくして持久じきゅうせん覚悟かくごしていたが、東部とうぶ戦線せんせんにおける攻撃こうげき計画けいかく偽装ぎそうをかねて、ベルギーの小村こむらイーペル付近ふきんでの攻勢こうせい計画けいかくした。このまちは1914ねん11月におこなわれただいいちイーペル会戦かいせん英語えいごばんにおいてイギリスぐん多大ただい犠牲ぎせいはらって占領せんりょうした場所ばしょであった。2日間にちかん砲撃ほうげきのちにドイツぐん陣地じんちから風下かざしも位置いちするイギリスぐん陣地じんちかって塩素えんそガス散布さんぷされた[13]緑色みどりいろのガスにより窒息ちっそく状態じょうたいとなった兵士へいしたちは、パニックおちいって4マイルにわたる前線ぜんせん崩壊ほうかいした。このような成功せいこう予期よきしていなかったドイツぐん目立めだった進撃しんげきをおこなわず、カナダぐん前線ぜんせん到着とうちゃくすることでもと前線ぜんせん回復かいふくされた。だいイーペル会戦かいせん世界せかいはつだい規模きぼどくガスせんとして記録きろくされており、170トンの化学かがく物質ぶっしつ使用しようされ、5000めい兵士へいしすうぶんない死亡しぼうしたと推定すいていされている。どくガスの使用しようは1899ねん制定せいていされたハーグ陸戦りくせん条約じょうやく違反いはんであった。

2にちにもどくガス使用しようかえされ、このときは3マイルのえいふつがわ前線ぜんせん後退こうたいした。こののちえいふつぐんガスマスクなどの防護ぼうご手段しゅだん導入どうにゅうしたため、どくガスの成果せいかはあがらなくなった。1ねんの4がつ27にちにイーペルの40キロみなみ発生はっせいしたユリュックのたたか英語えいごばん(Battle of Hulluch)ではアイルランドだい16師団しだんたいしてだい規模きぼどくガス攻撃こうげきおこなわれたが、攻撃こうげき失敗しっぱいわっている。

連合れんごうこく攻勢こうせい継続けいぞく

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フランスぐんによりさい占領せんりょうされたカロンシー(Carency)の様子ようす

1915ねんはるにおける連合れんごう国軍こくぐん最後さいご攻撃こうげきはヴィミー山稜さんりょう(Vimy Ridge)を目標もくひょうとしただいアルトワ会戦かいせん英語えいごばんである。フランスだい10ぐんが5月9にちに6日間にちかん事前じぜん砲撃ほうげきのち進撃しんげきし5キロの前進ぜんしん成功せいこうした。しかしドイツぐん機関きかんじゅう陣地じんち強化きょうかしたうえ砲撃ほうげきはじめ、これにえかねたフランスぐんは15にちには進撃しんげき停止ていしされた。

1915ねんあきには「フォッカーの懲罰ちょうばつ」としょうされるドイツ空軍くうぐん攻勢こうせい開始かいしされ、連合れんごうこくがわすべての偵察ていさつ前線ぜんせん付近ふきんから駆逐くちくされた。偵察ていさつ砲撃ほうげき評価ひょうか塹壕ざんごう航空こうくう写真しゃしんため利用りようされていたが、プロペラ機関きかんじゅう同調どうちょう英語えいごばんそなえたドイツまった対抗たいこうできなかった[14]

1915ねん9がつ連合れんごう国軍こくぐんだいシャンパーニュ会戦かいせん英語えいごばんしょうされる攻撃こうげき実行じっこうした。なつ間中まなかフランスぐんはこの攻撃こうげき準備じゅんびおこなっており、イギリスぐんではフランスぐんとの共同きょうどう体制たいせい緩和かんわすることで前線ぜんせん主導しゅどうけん掌握しょうあくしようとこころみていた。事前じぜん砲撃ほうげき目標もくひょう航空こうくう写真しゃしんにより決定けっていされた[15]攻撃こうげきは9月22にち開始かいしされた。歩兵ほへいによる突撃とつげきは25にちおこなわれ、ある程度ていど進撃しんげき成功せいこうした。しかしこの攻撃こうげき予想よそうしていたドイツぐん前線ぜんせん後背こうはいに3キロから6キロにもおよぶたてふか陣地じんち構築こうちくしており、月末げつまつになるとフランスぐん進撃しんげき頓挫とんざしてしまった。

25にちにはイギリスぐんルース英語えいごばんにおいてルースのたたか英語えいごばんを、えいふつぐんだいさんアルトワ会戦かいせん英語えいごばん開始かいしした。4日間にちかん事前じぜん砲撃ほうげきによって250,000の砲弾ほうだんと5,100の塩素えんそガスだん消費しょうひされた。攻撃こうげきには2軍団ぐんだん攻撃こうげき正面しょうめんに、さらにべつの2軍団ぐんだんがイーペルでの側面そくめん支援しえんもちいられた。イギリスぐんには機関きかんじゅう攻撃こうげきによる多大ただい死傷ししょうしゃ発生はっせいし、その成果せいかはほとんどられなかった。10月13にち攻撃こうげきにおいては多少たしょう改善かいぜんされたが期待きたいされたほどの結果けっかはなかった。シャンティイでの連合れんごうぐん諸国しょこく会議かいぎ1915ねん12月6にち - 12月8にち12月10にちにイギリスぐん指揮しきかんジョン・フレンチ更迭こうてつされ、ダグラス・ヘイグ後任こうにんとなった。

1916ねん - 砲撃ほうげきせん消耗しょうもう

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フランスにおける関連かんれんちゅう国境こっきょうせん現代げんだいのもの)

ドイツぐんそう司令しれいかんつとめるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは、すで西部せいぶ前線ぜんせん突破とっぱ不可能ふかのうとなったとおもっていた。戦争せんそう勝利しょうりするためには、フランスぐんたいしてえきれないほどの死傷ししょうしゃあたえることが必要ひつようであるとかんがえたかれは、消耗しょうもうせんかんがえにのっとって攻撃こうげき計画けいかくした。

この攻勢こうせい計画けいかくにおいては2つの戦略せんりゃく導入どうにゅうされた。ひとつめは制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん実行じっこうである。これはおもアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくより供給きょうきゅうされていたえいふつぐん糧食りょうしょく遮断しゃだんすることを目的もくてきとしている。もうひとつはフランスぐんたいする「効率こうりつてきな」攻撃こうげきである。地形ちけいてきにフランスぐん不利ふり地区ちくにおいて攻撃こうげき仕掛しかけ、それによっててき死傷ししょうしゃすうたい自軍じぐん損耗そんこう最大さいだいにすることを意図いととした。攻撃こうげき目標もくひょうとしては、フランスぐん戦略せんりゃくじょうおよびプライドの観点かんてんから絶対ぜったい撤退てったいすることのできない箇所かしょ選定せんていした。結果けっかとしてパリへの直線ちょくせん進路しんろにあたるまちヴェルダン選出せんしゅつされ、作戦さくせんめい処刑しょけいじょう」(Gericht)が開始かいしされた。

ファルケンハインは攻撃こうげきおこな前線ぜんせんはばを3キロから4キロに制限せいげんした。これによって火力かりょく集中しゅうちゅう可能かのうになり、さらにフランスぐん反攻はんこうむずかしくなる。予備よび部隊ぶたい前線ぜんせん背後はいごひかえおけし、即座そくざ前線ぜんせんおくれるよう鉄道てつどうもう整備せいびした[16]攻撃こうげきまえには航空機こうくうきをヴェルダン付近ふきん集中しゅうちゅうさせ、フランスぐん偵察ていさつ不可能ふかのうにするために制空権せいくうけん確保かくほしようとこころみた。しかし5がつにフランスぐんにおいて最新さいしんしきニューポール戦闘せんとう導入どうにゅうされたため、りょう空軍くうぐんあいだはげしい消耗しょうもうせん展開てんかいされることになった[17]

ヴェルダンのたたか

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風雪ふうせつによる9日間にちかん遅延ちえんのちヴェルダンのたたかは1916ねん2がつ21にち開始かいしされた。熾烈しれつな8あいだ事前じぜん砲撃ほうげきのちにドイツぐんはヴェルダン要塞ようさい周囲しゅうい配置はいちされている堡塁ほうるいぐん接近せっきんしていった[18]火炎かえん放射ほうしゃなどをもちいたドイツぐんたいしてフランスぐんはげしく抵抗ていこうしたが、ドゥオモン要塞ようさい英語えいごばん占領せんりょうされた。しかしフランスぐん増援ぞうえん到着とうちゃくはじめ、2がつ28にちにはドイツぐん進撃しんげきにぶした。

ドイツぐん目標もくひょうル・モルトンムおかCumières-le-Mort-Homme)に転換てんかんし、5月にはこのおか占領せんりょう成功せいこうした。ドイツぐんジホスゲンガスなどをもちいて6がつ7にちヴォー要塞ようさい英語えいごばん攻略こうりゃくし、ヴェルダンから1キロの位置いちにまでせまったが、ロシアぐん6月4にちブルシーロフ攻勢こうせい)、イギリス(7がつ1にち 、ソンムのたたかい)およびイタリア(8がつ6にちだいろくイゾンツォのたたか)の戦線せんせんでの攻勢こうせいにより攻撃こうげきめた。

なつあいだには移動いどう弾幕だんまく射撃しゃげき習熟しゅうじゅくしたフランスぐんすこしずつ前進ぜんしんし、1916ねん12月にはヴォー要塞ようさい奪還だっかんした。

ソンムのたたか

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ヴェルダンの防衛ぼうえい成功せいこうしたフランスぐんであったが、その人的じんてき損失そんしつ莫大ばくだいりょうにのぼった。そのためによく1917ねんはる計画けいかくされていたソンムがわ付近ふきんでの攻勢こうせい計画けいかくは、イギリスぐん主体しゅたいとなることに変更へんこうされた。フランスぐんおよび東部とうぶ戦線せんせん苦戦くせんつづけるロシアぐん負担ふたん軽減けいげんするために、イギリスぐんによる攻撃こうげき予定よていされていることはてき味方みかたのいずれにもあきらかであった。はげしいあめんだのち7がつ1にちピカルディのイギリス軍師ぐんしだん右翼うよくのフランスだい6ぐんとも前進ぜんしん開始かいしし、ソンムのたたか開始かいしされた。7日間にちかんにもおよぶ砲撃ほうげきおこなわれたが、よく整備せいびされていたドイツぐん陣地じんち塹壕ざんごうはほとんど破壊はかいされず、地下ちか待避たいひごう待機たいきしていたドイツぐん兵士へいし損失そんしつきわめてすくなかった。この攻撃こうげきによってえい陸軍りくぐん史上しじょう最大さいだい損失そんしつ発生はっせいし、いちにち攻撃こうげきで57,000にん死傷ししょうしゃたと記録きろくされている[19]

ヴェルダンにおける空戦くうせん研究けんきゅうしたフランスぐんあらたな戦闘せんとうをソンムでの戦闘せんとう導入どうにゅうした。連合れんごう国軍こくぐんはソンムにおける制空権せいくうけん確保かくほ成功せいこうし、これをけてドイツぐんでは個人こじんてき技量ぎりょうにたよっていた空戦くうせん技術ぎじゅつからチームをんだ集団しゅうだんせんわざへと改革かいかくはじめた[20]

ジンジー(Gingy)付近ふきんでの英軍えいぐん部隊ぶたい前進ぜんしん
プレスじょうにおける独軍どくぐん最高さいこう統帥とうすいひだりから参謀さんぼう総長そうちょうヒンデンブルク、皇帝こうていヴィルヘルム2せい参謀さんぼう次長じちょうルーデンドルフ)

参加さんか師団しだん再編さいへんのち戦闘せんとうは7がつから8がつとおしてつづけられ、ドイツぐん増強ぞうきょうにもかかわらずイギリスぐん多少たしょう成功せいこうた。8月になるとヘイグ将軍しょうぐん突破とっぱ不可能ふかのうとなったと結論けつろんし、戦略せんりゃく少数しょうすう分隊ぶんたいからなる戦術せんじゅつ転換てんかんした。

ソンムのたたかいの終盤しゅうばんにおいて注目ちゅうもくされたのが、世界せかいはつ戦車せんしゃ登場とうじょうである。終盤しゅうばんせんにおいては、13のイギリス軍師ぐんしだんと4フランスぐん軍団ぐんだん参加さんかした。攻撃こうげきにより場所ばしょによっては3.2キロから4.1キロ程度ていど前進ぜんしん成功せいこうしたが、これに戦車せんしゃ寄与きよするところはおおきくなかった。これは用意よういされた戦車せんしゃ絶対ぜったいすう不足ふそくしていたことと、整備せいび不良ふりょうによっている。10月から11がつ上旬じょうじゅんにも戦闘せんとう継続けいぞくされ、多数たすう死傷ししょうしゃつづけた。ソンムのたたか全体ぜんたいると、前線ぜんせんを5マイル程度ていど前進ぜんしんさせた見返みかえりとして60まんにんもの犠牲ぎせいしゃ発生はっせいした。これにたいしてドイツぐん死傷ししょうしゃは46まんにんであった。

ソンムのたたかいが契機けいきとなってあらたな歩兵ほへい戦術せんじゅつ考案こうあんされた。7月1にち発生はっせいしたひどい損害そんがいにもかかわらず、ある師団しだんでは目標もくひょう地点ちてんへの到達とうたつ成功せいこうしていたことに注目ちゅうもくしたイギリスぐん司令しれいでは、すうじゅうにんへいから構成こうせいされる小隊しょうたい戦闘せんとう単位たんいとして有用ゆうようであると結論けつろんづけた。かずじゅうにんからなる兵士へいし集団しゅうだん組織そしきてき運用うんようはドイツぐんおよびフランスぐんにおいてはすで実行じっこうされていることであったが、ソンムのたたかいにおけるイギリスぐん最小さいしょう戦闘せんとう単位たんいは120にん構成こうせいされる中隊ちゅうたいであった。いちねんには10めい程度ていど兵士へいし単位たんいとして運用うんようされることになった[1]

ヒンデンブルクせん

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1916ねんの8がつにはドイツぐん指導しどう交代こうたいし、ファルケンハインが辞任じにんした参謀さんぼう総長そうちょうしょくパウル・フォン・ヒンデンブルク就任しゅうにんした。実際じっさい指揮しきタンネンベルクのたたかからヒンデンブルクのした参謀さんぼうやくつとめたエーリッヒ・ルーデンドルフ参謀さんぼう次長じちょうとしてった。ルーデンドルフはヴェルダンとソンムでの戦闘せんとうによって、ドイツぐん攻撃こうげき能力のうりょく低下ていかしていたことから1917ねん西部せいぶ戦線せんせんでは防御ぼうぎょてき戦略せんりゃくをとり、戦線せんせんにおいて攻勢こうせいをかけることを決定けっていした。

ソンムのたたかいとそのふゆ期間きかん利用りようして、ドイツぐん前線ぜんせんヒンデンブルクせん英語えいごばんしょうされる要塞ようさいぐん建設けんせつおこなっていた。ルーデンドルフの意図いとしたのは、凹凸おうとつしょうじている西部せいぶ戦線せんせん整理せいりし、人的じんてき資源しげんにややおとるドイツぐんでも十分じゅうぶん防御ぼうぎょおこなえるようにすることであった。この要塞ようさいぐんアラスからサン=カンタンまでをつないでおり、1916ねん11月にイギリスぐん偵察ていさつによってはじめて確認かくにんされた。

1917ねん - イギリスぐんによる主導しゅどうけん確保かくほ

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西部せいぶ戦線せんせん地図ちず(1917ねん

ヒンデンブルクせんへの後退こうたい計画けいかくアルベリッヒ作戦さくせん英語えいごばん名付なづけられた[21]よく1917ねん2がつ9にち開始かいしされた撤退てったいは4がつ5にち完結かんけつした。ノワイヨンへの攻撃こうげき意図いとしていたフランスぐん計画けいかくはこれによって空振からぶりにわった。イギリスぐんにおいては、この後退こうたいはソンムでうけた損害そんがいによるものであるとの主張しゅちょうがなされ、ドイツぐん疲弊ひへいしているとの印象いんしょうあたえていた。

一方いっぽうで4がつ6にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連合れんごうこくがわって参戦さんせんした。これはUボートによる制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん再開さいかいや、ツィンメルマン電報でんぽう事件じけん原因げんいんである。一時いちじはイギリスの物資ぶっし補給ほきゅう深刻しんこく影響えいきょうあたえていた潜水艦せんすいかん作戦さくせんも、護送ごそう船団せんだん導入どうにゅうによって被害ひがいすう劇的げきてき減少げんしょうした[22]。 1917ねん4がつにイギリスぐんアラスのたたか英語えいごばん開始かいししたが、ヴィミー山稜さんりょうたたか英語えいごばんにおけるカナダ軍団ぐんだんおよびイギリスぐんだい5歩兵ほへい師団しだん成功せいこうにもかかわらず、戦線せんせん拡大かくだい失敗しっぱいわった。

1917ねんふゆになると、ドイツ空軍くうぐん戦術せんじゅつ改善かいぜん効果こうかはじめた。ヴァランシエンヌ設置せっちされていた飛行ひこう学校がっこうにおける訓練くんれんによって、ロッテ戦術せんじゅつしょうされる2戦闘せんとうもちいた戦術せんじゅつ導入どうにゅうされた。これによってえいふつぐん戦闘せんとうには多大ただい損害そんがいしょうじた。とくにイギリスぐんでは機体きたい更新こうしん時期じきにあたり、新兵しんぺい訓練くんれんとどいていなかったためおおきな損害そんがいしょうじた。アラスのたたかいにおける搭乗とうじょういん損失そんしつは、ドイツぐんの114にんたいしてイギリスぐんでは316にんであった。

フランスぐん戦意せんい消失しょうしつ

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同月どうげつにフランスぐん将軍しょうぐんロベール・ニヴェルあらたな攻勢こうせい計画けいかく指令しれいしている。のちニヴェル攻勢こうせいしょうされることになったこの攻撃こうげき計画けいかくにおいては、いち週間しゅうかん準備じゅんび砲撃ほうげきのちに120まんにん兵士へいし戦車せんしゃとも進撃しんげきすることになっていた。この時点じてんではドイツぐん制空権せいくうけん手中しゅちゅうおさめており、ニヴェルの提唱ていしょうした移動いどう弾幕だんまく射撃しゃげき効果こうかおもったほどあがらなかった。ヒンデンブルクせんにおける堅固けんごなドイツぐん防御ぼうぎょ陣地じんち突撃とつげきした兵士へいしおおくが死傷ししょうした。いち週間しゅうかんうちに10まんにんもの死傷ししょうしゃ事実じじつくわえ、事前じぜんにニヴェルが成功せいこう予告よこくしていたことわざわいし、フランスぐん部隊ぶたいあいだ不穏ふおん空気くうきひろがっていった。

5月3にちにヴェルダンせんたたかったフランスだい2師団しだん一部いちぶあたえられた命令めいれい拒絶きょぜつし、さけ片手かたてにして武器ぶき放棄ほうきはじめた。あまりにおおくの命令めいれい拒否きょひ直面ちょくめんした士官しかんたちへいばっすることができず、きびしい処置しょちはとられなかった。反乱はんらんがフランスぐん全体ぜんたいおそい、合計ごうけい54の師団しだんにおいて同様どうよう事件じけん発生はっせいし、2まんめい兵士へいし脱走だっそうした[23]愛国心あいこくしんうったえ、環境かんきょう改善かいぜんはかことで、兵士へいし塹壕ざんごうもどらせることには成功せいこうしたが、兵士へいしたち攻撃こうげき命令めいれいにはしたがわないであろうことはあきらかであった[24]。5月15にちにニヴェルは解職かいしょくされヴェルダンせん前半ぜんはん指揮しきしたフィリップ・ペタンがその後任こうにん就任しゅうにんした。フランスぐん翌年よくねんになっても防御ぼうぎょてき戦略せんりゃく終始しゅうしし、攻勢こうせい計画けいかくすべてイギリスぐんにゆだねている。

イギリスぐん攻勢こうせい

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6月7にちにイギリスぐん攻勢こうせいがイーペルの南方なんぽうのメシヌにおいて開始かいしされた(メシヌのたたか英語えいごばん)。1914ねんだいいちイーペル会戦かいせんにおいて占領せんりょうされていたこの奪還だっかんするために、1915ねんから工兵こうへいがトンネルをすすめており、ドイツぐん陣地じんち直下ちょっかに455トンもの爆発ばくはつぶつ設置せっちされた。4日間にちかん砲撃ほうげきのちにこの爆発ばくはつぶつ点火てんかされ、1まんにんものドイツへい死亡しぼうした。さらに攻撃こうげきつづけられたが、陣地じんち奪取だっしゅには失敗しっぱいした。おりからのあめによって地面じめんどろにまみれており、双方そうほう兵士へいしひどい消耗しょうもうしょうじた[25]

1917ねん7がつ11にち、ドイツぐんしん兵器へいきとしてガスだん使用しようした。これまでに使用しようされていた塩素えんそガスは砲弾ほうだんにつめることができるほどのりょうでは効果こうかうすかったが、ドイツではマスタードガス開発かいはつし、これを砲弾ほうだん積載せきさいした。マスタードガスは糜爛びらんせいゆうしており使用しようすう日間にちかん地表ちひょうちかくに堆積たいせきしたため、兵士へいしのモラール(士気しき)に影響えいきょうあたえた[26]連合れんごうこくもドイツにつづいてマスタードガスやホスゲンガスなどのどくガスの使用しようおこなった。

6月25にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからはじめての兵士へいし到着とうちゃくし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく遠征えんせいぐん組織そしきされた。しかしべいぐん塹壕ざんごうかうのは10月のだい1歩兵ほへい師団しだんまでたなければならなかった。訓練くんれんけておらず、装備そうび貧弱ひんじゃくであったべいぐん当初とうしょ副次的ふくじてき任務にんむ従事じゅうじしている[25]。しかしアメリカの参戦さんせんによってえいふつぐん士気しき劇的げきてき向上こうじょうしている。

さらにイギリスの同盟どうめいこくである日本にっぽんが、巡洋艦じゅんようかん明石あかし」およびかばがた駆逐くちくかんけい8せきからなるだい特務とくむ艦隊かんたい派遣はけんのちももがた駆逐くちくかんなどを増派ぞうは合計ごうけい18せき派遣はけんし、インド洋いんどよう地中海ちちゅうかいでイギリスやフランスなどが世界せかい各地かくち植民しょくみんからヨーロッパへかう輸送ゆそう船団せんだん連合れんごうこくがわ商船しょうせん787せきけい350かい護衛ごえい救助きゅうじょ活動かつどうおこなった。とくに、1917ねん後半こうはんから開始かいししたアレクサンドリアからマルセイユへ艦船かんせんにより兵員へいいん輸送ゆそうする「だい輸送ゆそう作戦さくせん」の護衛ごえい任務にんむ成功せいこうさせ、連合れんごうこくがわ西部せいぶ戦線せんせんでの劣勢れっせいくつがえすことにおおきく貢献こうけんしたものの、おおくの犠牲ぎせいしゃした。

10月にイーペル付近ふきんおこなわれた戦闘せんとうパッシェンデールのたたかとしてられている。カナダ部隊ぶたいおよび、長年ながねん戦闘せんとう消耗しょうもうしていたアンザック部隊ぶたいは10月30にちパッシェンデール英語えいごばんむら占領せんりょうした。はげしいあめによって土地とちどろまみれとなっており、この戦闘せんとうのちどろたたかいとして記憶きおくされることになる。これまでなんられたように、攻撃こうげきがわ防御ぼうぎょがわくらべてきわめておお損害そんがいしょうじた。軟弱なんじゃく地盤じばん砲弾ほうだんあなによって補給ほきゅうはほぼ不可能ふかのうであり、両者りょうしゃあわせて50まんにんもの兵士へいし死亡しぼうしている。

カンブレーのたたか

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イギリスぐんは11月20にちカンブレーのたたかにおいて、世界せかいはつとなるだい規模きぼ戦車せんしゃ投入とうにゅうおこなった。2師団しだんのドイツぐんたいして合計ごうけい324だいもの戦車せんしゃ使用しようされた。奇襲きしゅう攻撃こうげき重視じゅうししたため、事前じぜん砲撃ほうげきおこなわれず、煙幕えんまくをはって戦車せんしゃ進撃しんげきをカモフラージュした。塹壕ざんごうはば4メートルほどの対戦たいせんしゃごうえるために、戦車せんしゃ上面うわつらには木材もくざいそなえられていた。だい51スコティッシュ・ハイランド師団しだんのぞいた師団しだんによる攻撃こうげき成功せいこうおさめ、4ヶ月かげつあいだのイーペルせん占領せんりょうできなかった地点ちてんまでたった6あいだ到達とうたつした。損害そんがいは4,000めいであり、攻勢こうせい計画けいかくとしてはきわめてすくないものであった[27]

この攻撃こうげきによって形成けいせいされた突起とっきは11月30にちのドイツぐん反撃はんげきうばかえされた。しかし戦車せんしゃ有用ゆうようせいがはっきりと認識にんしきされ、これ以後いご戦闘せんとうでは戦車せんしゃ中心ちゅうしんとした戦術せんじゅつ採用さいようされることになった。一方いっぽうドイツぐんは、この戦闘せんとう西部せいぶ戦線せんせんとしてははじめて突撃とつげき歩兵ほへいによる浸透しんとう戦術せんじゅつ使用しようした。この戦術せんじゅつだい世界せかい大戦たいせん機甲きこう師団しだん登場とうじょうするまで、歩兵ほへい戦術せんじゅつ基本きほんなされていた画期的かっきてきなものである。

1918ねん - ドイツぐん春季しゅんき攻勢こうせい

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ブレスト=リトフスク条約じょうやく

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中央ちゅうおう同盟どうめいこくは、3月3にちブレスト=リトフスク条約じょうやくボリシェヴィキ政府せいふ講和こうわしたことで、東部とうぶ戦線せんせんから西部せいぶ戦線せんせん部隊ぶたい転進てんしんさせることができるようになった。西部せいぶ戦線せんせんおくまれる東部とうぶ戦線せんせん部隊ぶたいと、あたらしく連合れんごう国軍こくぐんくわわるアメリカぐんとのバランスによって、戦争せんそう最終さいしゅう結果けっか西部せいぶ戦線せんせん決定けっていされることになった。中央ちゅうおう同盟どうめいこくは、もはやこれ以上いじょう長期ちょうきする戦争せんそうには勝利しょうりすることはできないこと、到着とうちゃくするアメリカぐんはますますおおくなるのが確実かくじつなことをさとっていた。そのなかで、東部とうぶ戦線せんせんからの増援ぞうえんおよびあたらしい歩兵ほへい戦術せんじゅつ使用しようにより、西部せいぶ戦線せんせん攻勢こうせい実施じっしし、決定的けっていてき勝利しょうりることにおおきなのぞみをけていた。ルーデンドルフはべいぐん存在そんざい致命ちめいてきとなるまえ、1918ねんはる攻勢こうせいをかけてえいふつぐん休戦きゅうせんもうとかんがえた。

皮肉ひにくなことではあるが、講和こうわによって中央ちゅうおう同盟どうめいこく占領せんりょうした領土りょうどちいさかったなら、ドイツぐんはよりおおくの兵力へいりょく西部せいぶ戦線せんせん投入とうにゅうでき、戦争せんそう結末けつまつちがっていたかもしれない。ドイツぐん東部とうぶ戦線せんせんの44師団しだん西部せいぶ移動いどうさせた。これによって連合れんごうこくがわ合計ごうけい173師団しだんたいして、ドイツぐんは192師団しだんかぞ優勢ゆうせい確保かくほした。ドイツぐん兵士へいし浸透しんとう戦術せんじゅつ訓練くんれんけ、攻勢こうせい準備じゅんび着々ちゃくちゃくととのえていたのにたいして、連合れんごうこくいまだに士気しき統一とういつ指揮しきけんめぐって問題もんだい発生はっせいしていた。

ルーデンドルフの戦略せんりゃくは、えいふつりょうぐん中間ちゅうかん攻勢こうせいをかけ、イギリスぐんきた圧迫あっぱくしてドーバー海峡かいきょうへといやることを目標もくひょうとしていた。これまでにられなかったような圧倒的あっとうてき勝利しょうりるために、浸透しんとう戦術せんじゅつ徹底てってい航空機こうくうき活用かつよう詳細しょうさい砲撃ほうげき計画けいかくどくガスのだい規模きぼ使用しようはかられた。

またドイツぐんは1917ねんあきイタリア戦線せんせんカポレット東部とうぶ戦線せんせんリガ突破とっぱ作戦さくせんおこなった。これらの作戦さくせんたるべき西部せいぶだい攻勢こうせい予行よこう演習えんしゅうねたものであり、リガせん司令しれいかんフーチェル参謀さんぼうちょうザウバーツヴァイク、カポレットせん司令しれいかんベロウ参謀さんぼうちょうデルメンジンゲンは西部せいぶ戦線せんせん配置はいちえのうえだい17ぐんだい18ぐん司令しれいかんおよび参謀さんぼうちょうとなった[28]

ミヒャエル作戦さくせん

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ドイツぐん攻勢こうせい(1918ねん

1918ねん3がつ21にち1918ねん春季しゅんき攻勢こうせい(カイザーせん)の緒戦しょせんであるミヒャエル作戦さくせん英語えいごばん[29]発動はつどうされ、アミアン鉄道てつどう結節けっせつてん英軍えいぐんたいして攻撃こうげき開始かいしされた。ルーデンドルフのねらいは英軍えいぐんふつぐんとの分断ぶんだんであった。ドイツはつ戦車せんしゃA7Vはじめて実戦じっせん投入とうにゅうされた。

えいふつぐん塹壕ざんごう浸透しんとう作戦さくせんによってやぶられた。これ以前いぜんは、典型てんけいてき塹壕ざんごうへの攻撃こうげき長距離ちょうきょりほう砲撃ほうげき連続れんぞくてき前線ぜんせん大量たいりょう攻撃こうげきによっておこなわれていた。しかしながら、この攻勢こうせいでは、ドイツぐん短時間たんじかん砲撃ほうげきおこない、弱点じゃくてん歩兵ほへい浸透しんとうさせ、司令しれい兵站へいたんエリアおよび強固きょうこ抵抗ていこう拠点きょてん周囲しゅうい場所ばしょ攻撃こうげきした。こうして孤立こりつした拠点きょてんを、よりじゅう武装ぶそう歩兵ほへいによって破壊はかいした。この攻勢こうせいでドイツぐんは60キロという空前くうぜん前進ぜんしん達成たっせいした。これほどの前進ぜんしんたしたのは1914ねん以来いらいこれがはじめてだった。

前線ぜんせんいまパリの120キロ以内いないまで移動いどうしていた。3もんクルップせいちょう大型おおがた列車れっしゃほうパリほう」がパリに183はつ砲弾ほうだんんだ。このためおおくの市民しみんがパリから脱出だっしゅつした。ヴィルヘルム2せいは3がつ24にち国民こくみん祝日しゅくじつであると宣言せんげんした。おおくのドイツじん勝利しょうりちかいと確信かくしんした。しかしながら、補給ほきゅう欠乏けつぼう消耗しょうもうによりドイツの攻撃こうげきまった。1918ねん3がつから4がつのドイツの死傷ししょうしゃは270,000めいのぼった。

ドイツぐん攻勢こうせいけて、3月26にちドゥラーズ会議かいぎ英語えいごばんにおいてえいふつりょうぐん指揮しき系統けいとう統一とういつ同意どういし、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれい設置せっちされた。そう司令しれいかんにはフェルディナン・フォッシュ任命にんめいされた。イギリスの陸軍りくぐん元帥げんすいダグラス・ヘイグはフォッシュにかれぐん指揮しきゆだねた。フォッシュによるたくみな戦線せんせんさい構築こうちくによって、ルーデンドルフが意図いとしていた突破とっぱ可能かのうせい消滅しょうめつし、従来じゅうらい同様どうよう消耗しょうもうせん様相ようそうていしてきた。

ジョルジェット作戦さくせん

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ミヒャエル作戦さくせんのち、ドイツはきた海峡かいきょうみなとけたジョルジェット作戦さくせんBattle of the Lys)を始動しどうした。 これはそれほど重要じゅうようでない領土りょうど獲得かくとくしただけにわった。

アメリカ遠征えんせいぐん参戦さんせん

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5月にはアメリカ遠征えんせいぐん(AEF)師団しだんはじめて前線ぜんせん投入とうにゅうされ(Battle of Cantigny)、はじめての勝利しょうりおさめた。なつまでには毎月まいつき30まんめいもの兵士へいしがアメリカから輸送ゆそうされている。そう兵力へいりょく210まんにんべいぐん登場とうじょうによって、それまで均衡きんこうたもっていた西部せいぶ戦線せんせん変化へんかしょうじつつあった。

ブルヒャー=ヨーク作戦さくせん

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そのドイツ陸軍りくぐんのブルヒャー=ヨーク作戦さくせんだいさんエーヌのたたか英語えいごばん)が、パリにかってみなみ方向ほうこう実施じっしされた。

1918ねん - 連合れんごうこく最終さいしゅう攻勢こうせい

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ひゃくにち攻勢こうせいによる連合れんごうぐん進撃しんげき(1918ねん

だいマルヌ会戦かいせん

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ドイツぐん攻撃こうげきによってマルヌ付近ふきん形成けいせいされた突起とっきたいしてフォッシュは攻撃こうげき企画きかくし、7がつだいマルヌ会戦かいせん英語えいごばんはじまった。連合れんごう国軍こくぐん攻勢こうせいはこれまでにない成功せいこうおさめ、よく8がつには突起とっき解消かいしょうされた。

アミアンのたたか

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この戦闘せんとう終了しゅうりょうした2にちの8がつ8にちにはアミアンのたたか英語えいごばん開始かいしされた。連合れんごう国軍こくぐんは、マーク4とマーク5タイプの414だい戦車せんしゃと800飛行機ひこうきと120,000めい兵員へいいん動員どういんし、わずか7あいだでドイツぐん占領せんりょうなかに12キロ侵入しんにゅうした。連合れんごう国軍こくぐんはこの戦闘せんとうぜん戦線せんせんにおいて突破とっぱ成功せいこうし、ヒンデンブルクは8がつ8にちをドイツ陸軍りくぐん暗黒あんこくしょうすることになった[30]。しかしながら、数日すうじつのちにその攻勢こうせい速度そくどとしていた。イギリス部隊ぶたいの414だい戦車せんしゃは7だいのぞくすべてに問題もんだいこった。1918ねん8がつ15にちに、ヘイグは攻勢こうせいわりを宣言せんげんし、アルバートでの攻勢こうせい予期よきして計画けいかくはじめた。

だい2ソンムのたたか

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その攻撃こうげきは8がつ21にちはじまった(アルバートのたたか英語えいごばん)。およそ130,000めい米兵べいへいが、えいだい3ぐんだい4ぐん兵士へいしとも前進ぜんしんした(だい2ソンムのたたか英語えいごばん)。その攻撃こうげき圧倒的あっとうてき成功せいこうで、ドイツだい2ぐんは55キロうしろへかえされた。バパウム英語えいごばんまちは8がつ29にち攻略こうりゃくされ(だい2バパウムのたたか英語えいごばん)、9月2にちまでにドイツぐんヒンデンブルクせん英語えいごばんまで後退こうたいさせられていた。

サン・ミッシェルのたたか

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9月になるとジョン・パーシングひきいられたアメリカ遠征えんせいぐんが50まん以上いじょう兵力へいりょく投入とうにゅうしたサン・ミッシェルのたたかフランス語ふらんすごばん英語えいごばん開始かいしされた。

ムーズ・アルゴンヌ攻勢こうせい

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ひだりからペタンヘイグフォッシュパーシング

これにつづいてアメリカ遠征えんせいぐん10師団しだんもちいておこなわれたヒンデンブルクせんうばこころみ(ムーズ・アルゴンヌ攻勢こうせいとしてられる)は9月26にちこった。260,000めいのアメリカへいがヒンデンブルクせんかって突撃とつげきした。アメリカ遠征えんせいぐんだい79師団しだん英語えいごばん以外いがいすべての師団しだんは、当初とうしょ目的もくてき獲得かくとくすることに成功せいこうしていた。だい79師団しだんモンフォコンフランス語ふらんすごばん英語えいごばんはげしい抵抗ていこうって、前進ぜんしんすることが不可能ふかのうであった。この失敗しっぱいが、ドイツぐん回復かいふくさい編成へんせいゆるした。モンフォコンは9月27にちちたが、前日ぜんじつにそれを制圧せいあつできなかった失敗しっぱい作戦さくせん全体ぜんたいもっと高価こうかなミスの1つであった。

10月のはじめまでは、ドイツがわにとって物事ものごと計画けいかくどおりにかなくなったことは明白めいはくであった。おおくの戦車せんしゃが1ならず故障こしょうしており、そして実際じっさい使用しよう可能かのうであった戦車せんしゃも、地形ちけい戦車せんしゃ進入しんにゅうできないとわかると戦車せんしゃ指揮しきかん戦車せんしゃ破棄はきした。これにもかかわらず、ルーデンドルフは10月1にちまでにドイツには2つの出口でぐちがあると決定けっていしていた。すなわち全滅ぜんめつ休戦きゅうせんかである。かれはそのまさにおなにベルギーのスパにおける会談かいだんでヒンデンブルクに後者こうしゃ進言しんげんした。パーシングは、つかったドイツぐんを10月のあいだずっとムーズ・アルゴンヌ前線ぜんせん沿って攻撃こうげきつづけた。

終戦しゅうせん

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犠牲ぎせいしゃ比較ひかく
西部せいぶ戦線せんせんにおける主要しゅよう戦闘せんとう
戦闘せんとう とし 連合れんごうこく ドイツ
マルヌ 1914ねん 263,000にん 250,000にん
ヴェルダン 1916ねん 377,000にん+ 336,000にん+
ソンム 1916ねん 623,907にん 465,000にん+
エーヌ英語えいごばん 1917ねん 187,000にん 168,000にん
ミヒャエル英語えいごばん 1918ねん 255,000にん 239,000にん

ドイツ革命かくめい

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ドイツぐんでは人的じんてき資源しげん枯渇こかつしており、経済けいざいてき社会しゃかいてき混乱こんらん頂点ちょうてんたっしていた。連合れんごう国軍こくぐん攻勢こうせいによってドイツぐん致命ちめいてき敗北はいぼくきっし、大量たいりょう降伏ごうぶくしゃしょうじた。軍事ぐんじてき敗北はいぼく国内こくないでの混乱こんらんによって皇帝こうていヴィルヘルム2せい退位たいい余儀よぎなくされ、ヒンデンブルクとルーデンドルフもしょくした。

休戦きゅうせん協定きょうてい

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ドイツ革命かくめい発生はっせいにより成立せいりつした臨時りんじ政府せいふによって、1918ねん11月11にち休戦きゅうせん成立せいりつした[31]西部せいぶ戦線せんせん崩壊ほうかいによって、戦線せんせんにおいてはドイツぐん勝利しょうりおさつづけていたにもかかわらず、11月11にちにドイツ政府せいふ休戦きゅうせん協定きょうてい受諾じゅだくした。

パリ講和こうわ会議かいぎ

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1919ねんパリ講和こうわ会議かいぎにおいてはフランス・イギリス・アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく会議かいぎ仕切しきり、その結果けっか6がつヴェルサイユ条約じょうやくがドイツがわ提示ていじされた。ドイツには軍事ぐんじてき経済けいざいてききびしい制限せいげんくわえられた。ドイツでははげしい反対はんたいこったが、連合れんごう国軍こくぐん無条件むじょうけんでの受諾じゅだく要求ようきゅうしたため、条約じょうやく調印ちょういん批准ひじゅんされた。

アルザス=ロレーヌ地方ちほうはフランスへと返還へんかんされた。ドイツぐん兵士へいしすうを10まん制限せいげんされ、海軍かいぐんもきわめて限定げんていされたうえに、航空こうくう戦力せんりょくについては保持ほじ禁止きんしされた。艦艇かんていおおくは休戦きゅうせん協定きょうてい発効はっこうのち連合れんごうこくによって接収せっしゅうされていたが、このうちイギリスのスカパ・フロー軍港ぐんこうおくられた艦艇かんていだい部分ぶぶん自沈じちんしている(スカパ・フローでのドイツ艦隊かんたい自沈じちん)。ラインがわ西岸せいがん地区ちくラインラント)は武装ぶそうされ、キール運河うんが国際こくさい河川かせんとして解放かいほうされた。同時どうじロシア帝国ていこく崩壊ほうかいけてひがしヨーロッパ諸国しょこくさい整理せいりおこなわれた。

影響えいきょう

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1919ねんのドイツでは完全かんぜん経済けいざい破綻はたんによってはん飢餓きが発生はっせいした。連合れんごうこくライン沿岸えんがんケルンコブレンツおよびマインツなどを占領せんりょうし、自国じこく復興ふっこう必要ひつよう工業こうぎょう設備せつび資金しきん回収かいしゅうした。このような状況じょうきょうなかでドイツじんあいだには、ドイツぐん戦闘せんとうには勝利しょうりしていたが、裏切うらぎものによる「背後はいごいちとっ」が原因げんいん敗北はいぼくしたのだという神話しんわしょうじた。社会しゃかい主義しゅぎしゃユダヤじん標的ひょうてきにしたこのような言説げんせつは、ヴァイマル共和きょうわこくにおけるナチス隆盛りゅうせいまねことになった。

フランスもまた戦争せんそうによる消耗しょうもうあえいでいた。若年じゃくねんそう喪失そうしつと、戦場せんじょうとなった北東ほくとう荒廃こうはいによって経済けいざい沈滞ちんたいしていた。ドイツぐん撤退てったいにあたって鉱山こうざん破壊はかい指令しれいしている[32]。この被害ひがいはドイツにたいして膨大ぼうだいだいいち世界せかい大戦たいせん賠償ばいしょうもとめさせる動機どうきとなり、ドイツ、そしてフランスをふくめた世界せかい経済けいざいにも多大ただい悪影響あくえいきょうあたえた。ドイツとの再度さいど戦争せんそうおそれたフランスは、のちマジノせんしょうされる長大ちょうだい要塞ようさいぐん国境こっきょうせん付近ふきん建設けんせつすることになる。

あまりの損失そんしつにおののいたえいふつりょう政府せいふは、戦争せんそう忌避きひするようになった。アドルフ・ヒトラーによるドイツ拡張かくちょう政策せいさく1936ねん3月7にちラインラント進駐しんちゅう)にも不十分ふじゅうぶん対応たいおうしかとれず、だい世界せかい大戦たいせん冒頭ぼうとうはドイツがわはいることもせず、まやかし戦争せんそうばれる状態じょうたいした。戦線せんせん各地かくちには現在げんざい不発ふはつだんまっており、処理しょりには700ねん以上いじょうかかると見積みつもられている[33]

世界せかい遺産いさん

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世界遺産 だいいち世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせん)の追悼ついとう記憶きおく場所ばしょ
ベルギーフランス
英名えいめい Funerary and memory sites of the First World War (Western Front)
ふつめい Les sites funéraires et mémoriels de la Première Guerre mondiale (Front Ouest)
面積めんせき 879.91 ha
緩衝かんしょう地帯ちたい 30,061.22 ha)
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (3),(4),(6)
登録とうろくねん 2023ねん
だい45かい世界せかい遺産いさん委員いいんかい
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

ベルギー北部ほくぶからフランス東部とうぶにかけて存在そんざいするネクロポリス墓地ぼち記念きねんなどは2023ねんに「だいいち世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせん)の追悼ついとう記憶きおく場所ばしょ」としてユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[34]

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (3) 現存げんそんするまたは消滅しょうめつした文化ぶんかてき伝統でんとうまたは文明ぶんめいの、唯一ゆいいつのまたはすくなくともまれ証拠しょうこ
  • (4) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする建築けんちく様式ようしき建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせきまたは景観けいかんすぐれたれい
  • (6) 顕著けんちょ普遍ふへんてき意義いぎゆうする出来事できごと現存げんそんする伝統でんとう思想しそう信仰しんこうまたは芸術げいじゅつてき文学ぶんがくてき作品さくひん直接ちょくせつにまたは明白めいはく関連かんれんするもの(この基準きじゅん基準きじゅんわせてもちいるのがのぞましいと世界せかい遺産いさん委員いいんかいかんがえている)。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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英語えいご表記ひょうき翻訳ほんやくもと英語えいごばんにおけるリファレンスである。

  1. ^ Rodrigues, Hugo. “Portugal in World War I”. The First World War. 29 September 2007てんオリジナルよりアーカイブ。26 January 2007閲覧えつらん See also Portugal in World War I
  2. ^ Cockfield 1999, p. ix.
  3. ^ Austria-Hungary Goes to War”. The Great War in a Different Light. 3 January 2009閲覧えつらん
  4. ^ a b c 松尾まつお 2014 p.91
  5. ^ 松尾まつお 2014 p.92
  6. ^ a b c d 松尾まつお 2014 p.93
  7. ^ Thomas E. Griess (Ed.), The Great War, 1986, Avery Publishing Group, ISBN 0-89529-312-9, pp. 22-24,25-26.
  8. ^ Griess, pp. 29-30.
  9. ^ Griess, pp. 31-37.
  10. ^ J. F. C. Fuller, The Conduct of War, 1789-1961, 1992, Da Capo Press, p. 165.
  11. ^ Michael J. Lyons, World War I: A short history, 2000, Prentice Hall, p. 112. ISBN 0-13-020551-6
  12. ^ Fuller, pp. 166-7
  13. ^ Fuller, pp. 172-3
  14. ^ Christopher Campbell, Aces and Aircraft of World War I, Blandford Press Ltd., Dorset, 1981. pg. 26-27.
  15. ^ War correspondent E. Alexander Powell, Battle in the Champagne, "Vive la France", 1916.
  16. ^ S.L.A. Marshall, World War I, 1964, American Heritage, pp 236-7
  17. ^ Campbell, pg. 40.
  18. ^ Lyons, pg. 143.
  19. ^ Griess, pp. 71-72.
  20. ^ Campbell, pg. 42.
  21. ^ Marshall, pp. 288-9.
  22. ^ Griess, pp. 144-5.
  23. ^ Lyons, p. 243.
  24. ^ Marshall, pp. 292
  25. ^ a b Griess, pp. 124.
  26. ^ Fuller, pp. 173-4.
  27. ^ Marshall, pp. 317.
  28. ^ 戦争せんそう概観がいかん』 381ぺーじ
  29. ^ Marshall, pp. 353-7.
  30. ^ Griess, pp. 155-156.
  31. ^ Griess, pp. 163.
  32. ^ Marshall, pp. 460.
  33. ^ だいいち世界せかい大戦たいせん:不発ふはつだんおくはつ処理しょりに700ねん…フランス - 毎日新聞まいにちしんぶん 2014ねん08がつ01にち
  34. ^ Funerary and memory sites of the First World War (Western Front)” (英語えいご). UNESCO World Heritage Centre. 2023ねん12月19にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 四手よつでつなただし講述こうじゅつ戦争せんそう概観がいかん岩波書店いわなみしょてん、1943ねん
  • 松尾まつお秀哉ひでや物語ものがたり ベルギーの歴史れきし中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2014ねん8がつISBN 978-4121022790 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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