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アルビオン作戦さくせん

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アルビオン作戦さくせん
だいいち世界せかい大戦たいせんなか

アルビオン作戦さくせんによる上陸じょうりく作戦さくせん。10月12にちから10がつ20日はつか
とき1917ねん10がつ12にちから10がつ20日はつか
場所ばしょバルト海ばるとかい西にしエストニア諸島しょとう
座標ざひょう: 北緯ほくい5830ふん 東経とうけい230ふん / 北緯ほくい58.500 東経とうけい23.000 / 58.500; 23.000
結果けっか ドイツの勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
ドイツ帝国ていこく ロシア帝国の旗 ロシア臨時りんじ政府せいふ
イギリスの旗 イギリス
指揮しきかん
ドイツ帝国の旗 オスカー・フォン・フーチェル
ドイツ帝国の旗 en:Hugo von Kathen
ドイツ帝国の旗 en:Ludwig von Estorff
ドイツ帝国の旗 Ehrhard Schmidt
ロシアの旗 en:Mikhail Bakhirev
ロシアの旗 Vasily Altvater
戦力せんりょく
めぐよう戦艦せんかん 1
いしゆみきゅう戦艦せんかん 10
けい巡洋艦じゅんようかん 9
機雷きらい巡洋艦じゅんようかん 1
水雷すいらいてい 50
潜水せんすいかん 6
輸送ゆそうせん 19

飛行船ひこうせん 6
戦闘せんとうよう航空機こうくうき 102

兵員へいいん 24,500
馬匹ばひつ 8,500
車両しゃりょう 2,400
機関きかんじゅう 150
ほう 54
臼砲きゅうほう 12
ぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん 2
巡洋艦じゅんようかん 2
防護ぼうご巡洋艦じゅんようかん 1
駆逐くちくかん 21
砲艦ほうかん 3
潜水せんすいかん 3

兵員へいいん 24,000
被害ひがいしゃすう
水雷すいらいてい 1 撃沈げきちん (S 64)
掃海そうかいてい 7 撃破げきは
トロとろル船るせん補助ほじょかん 9 撃破げきは
航空機こうくうき 5 撃墜げきつい
戦死せんし 156
負傷ふしょう 60 (海軍かいぐん)
戦死せんし 54
負傷ふしょう 141 (陸軍りくぐん)
戦艦せんかん 1 撃沈げきちん (スラヴァ)
駆逐くちくかん 1 撃沈げきちん (Grom)
潜水せんすいかん 1 撃破げきは (C32)        
死傷ししょうしゃ不明ふめい

捕虜ほりょ 20,130
ほう 141 喪失そうしつ(重砲じゅうほう 47)
機関きかんじゅう 130 喪失そうしつ

航空機こうくうき 40 喪失そうしつ

アルビオン作戦さくせんドイツ:Unternehmen Albion)は、1917ねんの9がつから10がつにかけてドイツ帝国ていこくロシア臨時りんじ政府せいふ統治とうちにあったサーレマーとうヒーウマーとうムフとうなどの占領せんりょう企図きとしたりくうみ作戦さくせんである。このうち陸上りくじょうでの作戦さくせん行動こうどうは、掃海そうかい実施じっし沿岸えんがんほう制圧せいあつしたのちに10がつ11にちのサーレマーとうへの上陸じょうりくからはじまり、16にちにはサーレマーとうはドイツぐん制圧せいあつするにいたった。またロシアぐんは18にちにムフとう放棄ほうきした。

失敗しっぱいのち、ドイツぐんは10月19にちにヒーウマーとうへの上陸じょうりくたしよく20にちにはしま占領せんりょうした。一方いっぽうロシアのバルト海ばるとかい艦隊かんたいは、17にちムーン海戦かいせんでの敗北はいぼくのちにこの海域かいいきから撤退てったいした。ドイツ帝国ていこくは10月12にちから作戦さくせん終了しゅうりょうまでの期間きかんで2まんにん捕虜ほりょるとともに、100もん火砲かほう鹵獲ろかくした。

前史ぜんし[編集へんしゅう]

バルト海ばるとかいでの海軍かいぐん活動かつどうはあまり派手はでものではなかった。にち戦争せんそうによってツァーリの海軍かいぐんバルト海ばるとかい艦隊かんたい太平洋艦隊たいへいようかんたいのほぼすべてをうしなっており、のこっていたのは時代遅じだいおくれかちいさすぎるかするふねだけだった。つまり、大戦たいせん勃発ぼっぱつまえロシア帝国ていこく海軍かいぐん復興ふっこうだいいち段階だんかいにあった。バルトさんこくにおけるロシア海軍かいぐん非常ひじょう弱体じゃくたいだった。「ピョートル大帝たいていしろ」を意味いみするはずの首都しゅとペトログラードの防御ぼうぎょととのっておらず、フィンランドわん防衛ぼうえい体制たいせい部分ぶぶんてきにしか完成かんせいしていなかった。その防衛ぼうえいたいもっと西にしにあたる部分ぶぶんにバルト諸島しょとうオーランド諸島しょとう位置いちしていた。

一方いっぽう、ロシア海軍かいぐん弱体じゃくたいなことで、ドイツ帝国ていこく海軍かいぐんはなんでもできるようにえたが、戦略せんりゃくてき意味いみでの焦点しょうてんあきらかに北海ほっかいにあり、そこで圧倒的あっとうてきちからイギリス海軍かいぐん対峙たいじする必要ひつようがあった。したがって、この方面ほうめん最高さいこう指揮しきかんであるバルト海ばるとかい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんドイツばん(OdO)のハインリヒ・フォン・プロイセンだい提督ていとくには、だい部分ぶぶん時代遅じだいおくれの少数しょうすう戦力せんりょくしかなかった。主力しゅりょく旧式きゅうしき戦艦せんかん装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんけい巡洋艦じゅんようかん、それに水雷すいらいていもあった。

双方そうほうとも弱体じゃくたいで、さらに冬季とうきなんヶ月かげつかは流氷りゅうひょうのために航行こうこう不能ふのうという状況じょうきょうから、いずれも海軍かいぐんりょくてき領域りょういき侵攻しんこうさせることには消極しょうきょくてきで、たまにきた遭遇そうぐうせんでも普通ふつうけにわっていた。

しかし、戦争せんそうはじめに、ロシアはドイツ海軍かいぐん暗号あんごうしょ捕獲ほかくしていた。それによって、ロシアとイギリスはいずれもドイツぐん無電むでん解読かいどくできるようになった。ロシアはさき戦争せんそう機雷きらい運用うんよう経験けいけんており、浅海せんかいであるバルト海ばるとかい広大こうだい機雷きらいばら設置せっちした。ドイツもまた、機雷きらい使つか用意よういをしていたのでそれにつづき、結果けっかバルト海ばるとかい非常ひじょう危険きけん水域すいいきとなった。双方そうほうとも、潜水せんすいかんによるせをこころみた。

このうみ状況じょうきょう決定的けっていてき変化へんかあたえたのは陸上りくじょう戦況せんきょうだった。戦争せんそう進行しんこうともない、ドイツぐんバルト海ばるとかい沿岸えんがんおおきく前進ぜんしんし、そののロシア海軍かいぐん基地きち占領せんりょうしていったことで、ロシアがわ艦船かんせん行動こうどう範囲はんいせばめられていった。戦線せんせんリガわんにまでたっしたことで、ドイツぐん侵攻しんこうちゅう陸軍りくぐん部隊ぶたい海上かいじょうから支援しえんし、補給ほきゅうしようとした。

ロシアがわもこれを阻止そししようとして、艦隊かんたいをこの方面ほうめん集中しゅうちゅうさせた。これは周辺しゅうへんのロシアがわ拠点きょてんフィンランドわんハンコヘルシンキタリンクロンシュタットなどによってささえられていた。

バルト諸島しょとう[編集へんしゅう]

バルト三島みしまだい北方ほっぽう戦争せんそう以後いご、ロシア帝国ていこくリフリャントけんロシアばん英語えいごばんぞくしていた。土地とち平坦へいたんで、森林しんりん沼沢しょうたく点在てんざいするなかに、開墾かいこんされた農地のうち農場のうじょう、それに131以上いじょうバルト・ドイツじん貴族きぞく邸宅ていたく小村こむらひろがっていた。諸島しょとうではけておおきなまちであるクレサーレ(ドイツではアレンスブルク)には行政府ぎょうせいふかれていた。

人口じんこうは5まんから6まんで、だい部分ぶぶん農民のうみんまたは漁民ぎょみんであり、エストニアじんだった。役人やくにん上流じょうりゅう階級かいきゅう知的ちてき階層かいそうなどは大抵たいていはバルト・ドイツじん少数しょうすうのロシアじん独占どくせんされていた。作戦さくせん期間きかんちゅう住民じゅうみん様子見ようすみしており、どちらかに味方みかたすることはなかった。

作戦さくせん計画けいかく[編集へんしゅう]

序盤じょばんせん[編集へんしゅう]

上陸じょうりくまで[編集へんしゅう]

悪天候あくてんこうによる遅延ちえんのち最終さいしゅうてきに1917ねん10がつ11にち攻撃こうげき開始かいしされた。10月10にち夕刻ゆうこくじゅうそう部隊ぶたいはPutziger Wiekを出発しゅっぱつし、よるあいだにWindauからの部隊ぶたい合流ごうりゅうした。上陸じょうりくぐん司令しれい旗艦きかん「モルトケ」にんでいた。午後ごごあいだ兵員へいいん輸送ゆそうせん攻撃こうげき部隊ぶたいとともに4縦隊じゅうたいをなし、速力そくりょく9ノットできたかった。一方いっぽう掃海そうかい部隊ぶたい機雷きらいばらなか航路こうろつく努力どりょくつづけた。夜間やかん波浪はろうしたことで掃海そうかい部隊ぶたいうごきはさまたげられ、予定よてい時刻じこくまでには機雷きらいばら掃海そうかいわらなかった。奇襲きしゅう効果こうかうしなわれることをおそれたシュミット提督ていとくは、満載まんさい状態じょうたい輸送ゆそうせん価値かちある戦闘せんとうかん危険きけんにさらすことを決断けつだんした。上陸じょうりく船団せんだん掃海そうかいわってない作戦さくせん海域かいいき素早すばや通過つうかした。機雷きらいばらけたにもかかわらず、おおきな損害そんがい発生はっせいしなかった。ただ工兵こうへい輸送ゆそうしていた小型こがた蒸気じょうきせん「コルシカ」が午前ごぜん5ごろ機雷きらいによっておおきく損傷そんしょうした。乗組のりくみいんおよび搭乗とうじょうしていた兵員へいいん水雷すいらいていなどに移乗いじょうし、ふね浅瀬あさせげて修理しゅうりつことになった[1]

上陸じょうりく開始かいし[編集へんしゅう]

1917ねん10がつ12にち

10月13にち戦況せんきょう独軍どくぐん(あお)がサーレマーとう(オーゼルとう)主要しゅよう制圧せいあつし、ぐん(あか)はしま南部なんぶスルヴェ半島はんとう東部とうぶ分断ぶんだんされている
10月15にち戦況せんきょう。サーレマーとうはほぼ制圧せいあつされ、ぐんしま南端なんたんおよび東端ひがしばためられている。独軍どくぐんはヒーウマーとう(ダゲーとう)にも上陸じょうりく

その[編集へんしゅう]

ドイツは1918ねん敗北はいぼくし、そのおも要因よういん西部せいぶ戦線せんせんにあったことから、東部とうぶでの出来事できごとはアルビオンをふくめて無視むしされがちだった。以後いごあつかいは、東西とうざいちがった経緯けいい辿たどった。西部せいぶ戦線せんせん北海ほっかいでの出来事できごとは、西側にしがわ諸国しょこくとドイツの歴史れきしたちがおもあつかった。ソ連それんでは、敗戦はいせんとは帝政ていせいおよび臨時りんじ政府せいふ責任せきにんによるものだったことから、関心かんしんひくかった。

Erich von Tschischwitz将軍しょうぐんは1931ねんにこの作戦さくせんかんする最初さいしょ論文ろんぶん発表はっぴょうし、アメリカぐんによるものをふく注目ちゅうもくた。しかし少々しょうしょう奇妙きみょうなことに、アルビオン作戦さくせん陸軍りくぐん大学だいがくでは講義こうぎ題材だいざいとされたが、アメリカ海軍かいぐんアメリカ海兵かいへいたいからは注目ちゅうもくされなかったようである。

このたたかいをあつかったドイツの公式こうしき戦史せんしである Krieg zur See. 1914–1918だい3かんKrieg in der Ostsee. Von Anfang 1916 bis Kriegsendeだい世界せかい大戦たいせんのため、1964ねんまで刊行かんこうおくれた[2]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Staff, S. 17–20.
  2. ^ Barrett, S. 235

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Michael B. Barrett: Operation Albion. The German Conquest of the Baltic Islands. Indiana University Press, Bloomington IN u. a. 2008, ISBN 978-0-253-34969-9.
  • Lutz Bengelsdorf: Der Seekrieg in der Ostsee. 1914–1918. Hauschild, Bremen 2008, ISBN 978-3-89757-404-5.
  • Gerhard P. Groß: Unternehmen Albion. Die erste „joint operation“ deutscher Streitkräfte. In: Militärgeschichte. Zeitschrift für historische Bildung. Heft 3, 2004, ISSN 0940-4163, S. 4–7.
  • Paul G. Halpern: A Naval History of World War I. Naval Institute Press, Annapolis MD 1994, ISBN 0-87021-266-4, S. 213 ff.
  • Gary Staff: Battle for the Baltic Islands 1917. Triumph of the Imperial German Navy. Pen & Sword Maritime, Barnsley 2008, ISBN 978-1-84415-787-7.