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浸透しんとう戦術せんじゅつ

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オスカー・フォン・ユティエ(1920ねん

浸透しんとう戦術せんじゅつ(しんとうせんじゅつ、英語えいご: Infiltration tactics)とは、一般いっぱんだいいち世界せかい大戦たいせん後半こうはんされ採用さいようされたドイツぐん戦術せんじゅつのことをす。ただし、連合れんごうぐんによる他称たしょうであり、とうのドイツぐんはとくに名称めいしょうけていない[1]

概説がいせつ[ソースを編集へんしゅう]

語源ごげん[ソースを編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん初期しょき西部せいぶ戦線せんせん陣地じんちせんおちいっていた。ドイツにおいては、1915ねんぐん中央ちゅうおう実験じっけん部隊ぶたい編成へんせいされ塹壕ざんごう攻略こうりゃく研究けんきゅうおこなわれた。その基本きほん要素ようそ以下いかのようなものである。

  1. へいせん前進ぜんしんではなく、分隊ぶんたい規模きぼ突撃とつげきたいによる奇襲きしゅう突撃とつげきおこなう。
  2. 攻撃こうげきあいだてき制圧せいあつするため支援しえん兵器へいき機関きかんじゅう歩兵ほへいほう迫撃はくげきほう間接かんせつ射撃しゃげき野戦やせんほう火炎かえん放射ほうしゃ)をもちいる。
  3. 手榴弾しゅりゅうだんったへい塹壕ざんごう掃討そうとうする。[2]

1916ねんヴェルダンのたたか実験じっけん部隊ぶたい、すなわち突撃とつげきたい実戦じっせん投入とうにゅうされた。このとき、てき拠点きょてんをさけて前方ぜんぽう突進とっしんするドイツ歩兵ほへい姿すがたて、フランスがわはこれを浸透しんとう戦術せんじゅつはじめた。ただ、ドイツがわはとくに名称めいしょうけていない[3]

1917ねん9がつリガ攻勢こうせいでは、ドイツぐんのこれまでの防御ぼうぎょ反撃はんげき手法しゅほうだい規模きぼ攻撃こうげき手法しゅほう転用てんようされ、連合れんごうぐん注目ちゅうもくした。「攻勢こうせい直前ちょくぜん歩兵ほへい最前線さいぜんせん集結しゅうけつさせること」「どくガスだんぜた短時間たんじかん強烈きょうれつ砲撃ほうげき」「つよてんをさけて弱点じゃくてん攻撃こうげきする」などが観測かんそくされ、攻撃こうげき司令しれいかんオスカー・フォン・ユティエをとってユティエ戦術せんじゅつ連合れんごうぐんがわんだ[4]。この、いわゆるユティエ戦術せんじゅつは1918ねん春季しゅんきだい攻勢こうせいでさらに発展はってんし、しょう部隊ぶたいにかぎらないひろ意味いみ浸透しんとう戦術せんじゅつばれるようになった。

春季しゅんきだい攻勢こうせい[ソースを編集へんしゅう]

1918ねん春季しゅんきだい攻勢こうせいにおけるドイツぐん攻撃こうげき手法しゅほう、いわゆる浸透しんとう戦術せんじゅつについてジョナサン・ハウスは4つの要素ようそ集約しゅうやくしている[5]

  1. 砲撃ほうげきブルフミュラー代表だいひょうされる砲兵ほうへい将校しょうこうたちは砲撃ほうげき手法しゅほうえた。注意深ちゅういぶか調整ちょうせいされておりみじかいが強烈きょうれつ砲撃ほうげきにより、(てき撲滅ぼくめつではなく)てき混乱こんらんさせ防御ぼうぎょシステムを無力むりょくさせることを目指めざした。
  2. 突撃とつげきたい攻撃こうげき先鋒せんぽうつとめる突撃とつげき大隊だいたいは、てき強固きょうこ陣地じんち攻撃こうげきできるよう訓練くんれんされていた。
  3. てき防御ぼうぎょ拠点きょてん迂回うかい突撃とつげき部隊ぶたいてき抵抗ていこう中心ちゅうしん迂回うかいして突進とっしんするよう教育きょういくされていた。しょう部隊ぶたい指揮しきかん自分じぶん側面そくめんかえりみることなく、てき防御ぼうぎょのすきへと前進ぜんしんする権限けんげんゆうしていた。
  4. てき後方こうほう地域ちいき崩壊ほうかい春季しゅんきだい攻勢こうせい当初とうしょ攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげきにより通信つうしん指揮しきしょ破壊はかいし、浸透しんとうする歩兵ほへいおなじような施設しせつ破壊はかいしながら前進ぜんしんした。これにより、イギリスへい士気しき崩壊ほうかいこし、4日間にちかんで38キロも後退こうたいさせられた。J.F.C.フラーによれば、イギリスぐん後方こうほう部隊ぶたいからさき崩壊ほうかいして敗走はいそうしていったようにえたという。

いうなれば、戦車せんしゃのない電撃でんげきせんである[6]春季しゅんきだい攻勢こうせい最初さいしょにおいて、これまでの西部せいぶ戦線せんせんたたかいとはことなりドイツぐんなんじゅうキロも前進ぜんしんした。しかし、最初さいしょ成功せいこう拡張かくちょうする機動きどうりょくがなかったうえ、作戦さくせん次元じげん目標もくひょう明確めいかくにしていなかったため、ただ突出とっしゅつをつくるだけで作戦さくせん次元じげんひいては戦略せんりゃく次元じげん勝利しょうりにつなげることができなかった[7]

議論ぎろん[ソースを編集へんしゅう]

どう時期じきのイギリスぐん[ソースを編集へんしゅう]

ルプファー、グドマンドソンといった冷戦れいせん中心ちゅうしんとした英語えいごけん著作ちょさくは、だいいち大戦たいせんにおけるドイツぐん戦術せんじゅつ優勢ゆうせい主張しゅちょうしているが、1990年代ねんだい以降いこうイギリスでは論争ろんそうてきなテーマになっている[8]。たとえば、イギリスの軍事ぐんじ史家しかパディ・グリフィス英語えいごばんは、イギリス大陸たいりく派遣はけんぐんによるSS143「小隊しょうたい攻撃こうげき訓練くんれんかんする訓令くんれい」を紹介しょうかいし、しょう部隊ぶたいにおける浸透しんとう戦術せんじゅつがドイツぐん専売せんばい特許とっきょではないことをろんじている。

ドイツぐんとおなじように、イギリスぐんもまた1915ねんにエリート襲撃しゅうげき・擲弾チームを編成へんせいして塹壕ざんごう襲撃しゅうげきおこなっており、かれらにはけい機関きかんじゅう浸透しんとう強烈きょうれつ迫撃はくげきほう弾幕だんまく、そして委任いにんがた指揮しき推奨すいしょうされていた。1916ねんソンムの一連いちれん戦闘せんとうでこれらの技術ぎじゅつ発展はってん精緻せいちされ、1916-17ねんふゆとおして一般いっぱん歩兵ほへい波及はきゅうしていった。それまでのせんくん集約しゅうやくされた1917ねん2がつの「小隊しょうたい攻撃こうげき訓練くんれんかんする訓令くんれい」はドイツ突撃とつげきたいハンドブックとってもいい内容ないようのものだという[9]

どう時期じきのフランスぐん[ソースを編集へんしゅう]

フランスぐんにおいても、てき陣地じんち一挙いっきょ攻略こうりゃくせんとする思想しそう存在そんざいしていた。フランスぐんそう司令しれいが1915ねん4がつ発布はっぷした「攻勢こうせい全般ぜんぱん目的もくてき状況じょうきょうだい5779ごう文書ぶんしょ)」は、ドイツぐん防御ぼうぎょシステムの一挙いっきょ突破とっぱ追求ついきゅうしている。この雄大ゆうだい作戦さくせん構想こうそう完遂かんすい困難こんなんであったが、だい5779ごう文書ぶんしょふたつの要素ようそ大戦たいせん後半こうはんのフランスぐん戦術せんじゅつ基礎きそとなった。

ひとつは砲兵ほうへい戦術せんじゅつである。砲兵ほうへいたん危険きけん地帯ちたいわた歩兵ほへい支援しえん攻撃こうげきするのみという戦前せんぜんかんがえは完全かんぜんられ、攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげき重視じゅうししている。さらに、砲兵ほうへい段階だんかいてき射程しゃてい延長えんちょう歩兵ほへい前進ぜんしんできるよう弾幕だんまく防護ぼうごすべしとべており、移動いどう弾幕だんまく射撃しゃげき萌芽ほうがられる。ふた歩兵ほへい戦術せんじゅつである。敵陣てきじん突撃とつげきさいし、かく歩兵ほへい部隊ぶたい小隊しょうたいはん小隊しょうたい分割ぶんかつされる。突撃とつげきだいいちてき拠点きょてんをさけてとおてき塹壕ざんごうもう突破とっぱする。つづくだい塹壕ざんごう掃討そうとうたいとなって機関きかんじゅう拠点きょてん掃討そうとうすると規定きていされた。この歩兵ほへい戦法せんぽうはドイツぐん浸透しんとう戦術せんじゅつ類似るいじするとジョナサン・クラウスはろんじている。フランスぐんはこれらの変化へんかで、だいアルトワせんやソンムせん一定いってい戦果せんかたという[10]

ブルシーロフ[ソースを編集へんしゅう]

浸透しんとう戦術せんじゅつをはじめてもちいたのはブルシーロフ攻勢こうせいわれることがある。しかし、かえしになるが、そもそも浸透しんとう戦術せんじゅつという名称めいしょうひろまったのはヴェルダンのたたかのときでロシアぐんとは関係かんけいがない。ドイツは1915ねんぐん中央ちゅうおうにおいて突撃とつげきたい編成へんせいし、1916ねん2がつのヴェルダンせん実戦じっせん投入とうにゅうしている。師団しだん連隊れんたい独自どくじ塹壕ざんごう襲撃しゅうげきたいも1915ねんには存在そんざいする[11]。1916ねん以降いこうも、ドイツぐんおも西部せいぶ戦線せんせんからたたかえくんていたとみられている[12]

ブルシーロフの回想かいそうろくても浸透しんとう戦術せんじゅつ嚆矢こうしとするような記述きじゅつはなく、関連かんれん否定ひていされている[13]

ちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ Lupfer, 42.
  2. ^ Gudmundsson, 49.
  3. ^ Gudmundsson, 66; Lupfer, 42.
  4. ^ Wictor, 229-233. オスカー・フォン・ユティエ (Oskar von Hutier) のユグノー家系かけいであるためフランス語ふらんすごみされる。大木たいぼく、309ぺーじ
  5. ^ House, 51-56.
  6. ^ House, 56.
  7. ^ Gudmundsson, 178; House, 55.
  8. ^ くわしくはボンド、7-119ぺーじ
  9. ^ Griffith, 76-79, 193-194.
  10. ^ Krause, 199-214.
  11. ^ Gudmundsson, 80-81.
  12. ^ Stachelbeck, 147-162.
  13. ^ 大木たいぼく、313ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[ソースを編集へんしゅう]

  • 大木おおきあつし『ドイツぐん攻防こうぼう作品社さくひんしゃ、2020ねんISBN 9784861828072 
  • ブライアン・ボンド ちょ川村かわむら康之やすゆき やく『イギリスとだいいち世界せかい大戦たいせん――歴史れきし論争ろんそうをめぐる考察こうさつ芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 9784829503720 
  • Griffith, Paddy (1996). Battle Tactics of the Western Front: The British Army's Art of Attack 1916-18. Yale University Press. ISBN 0300066635 
  • Gudmundsson, Bruce (1989). Stormtroop Tactics: Innovation in the Germany Army1914-1918. Praeger. ISBN 0275954013 
  • House, Jonathan M. (2001). Combined Arms Warfare in the Twentieth Century. Kansas: University Press of Kansas. ISBN 0700610987 
  • Lupfer, Timothy (1981). The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War. Kansas: U.S. Army Command and General Staff College. http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/download/csipubs/lupfer.pdf 2014ねん12月5にち閲覧えつらん. 
  • Wictor, Thomas (2012). German Assault Troops of World War 1. Schiffer. ISBN 9780764340369 
  • Krause, Jonathan (2016). Matthias Strohn. ed. “The Evolution of French Tactics 1914-16”. The Battle of The Somme (Oxford: Osprey): 199-214. ISBN 9781472815569. 
  • Stachelbeck, Christian (2016). Matthias Strohn. ed. “The Road to Modern Combined Arms Warfare”. The Battle of The Somme (Oxford: Osprey): 147-162. ISBN 9781472815569. 

関連かんれん項目こうもく[ソースを編集へんしゅう]