(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ゲーベン追跡戦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ゲーベン追跡ついせきせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲーベン追跡ついせきせん

ゲーベンの逃走とうそうしめした
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねん7がつ28にち - 8がつ10日とおか
場所ばしょ地中海ちちゅうかい
結果けっかゲーベンブレスラウ逃亡とうぼう成功せいこう[注釈ちゅうしゃく 1]
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
アーチボルド・バークレー・ミルン英語えいごばん
アーネスト・トラウブリッジ英語えいごばん
オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール英語えいごばん
ヴィルヘルム・スション英語えいごばん
戦力せんりょく
めぐよう戦艦せんかん3
装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん4
けい巡洋艦じゅんようかん4
駆逐くちくかん14
めぐよう戦艦せんかん1
けい巡洋艦じゅんようかん1
損害そんがい
なし 船員せんいん4にん

ゲーベン追跡ついせきせん(ゲーベンついせきせん)とは、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ直後ちょくごの1914ねん7がつまつから8がつ上旬じょうじゅんにかけて、地中海ちちゅうかい生起せいきした軍事ぐんじ行動こうどうである[注釈ちゅうしゃく 2]地中海ちちゅうかい戦隊せんたい配備はいびされていたドイツ帝国ていこく海軍かいぐんめぐよう戦艦せんかん1せき小型こがた巡洋艦じゅんようかん1せきイギリス海軍かいぐん追跡ついせきけ、中立ちゅうりつこくであったオスマン帝国ていこくコンスタンティノープル入港にゅうこうした[3]ロシア南下なんか政策せいさくたいしてオスマン帝国ていこくしんどく傾向けいこうつよめており[4]、8がつ2にちには同盟どうめい締結ていけつしていた[5][6]。この状況じょうきょうダーダネルス海峡かいきょう通過つうかしてトルコ領海りょうかい辿たどいたドイツかん2せきを、オスマン帝国ていこくはドイツ帝国ていこくかられ、乗組のりくみいんごとオスマン帝国ていこく海軍かいぐん編入へんにゅうした[7][8]。ドイツかん2せき追跡ついせきげき編入へんにゅうによりオスマン帝国ていこくだいえい帝国ていこくロシア同盟どうめいこく)の関係かんけい悪化あっかし、同年どうねん10がつまつにオスマン帝国ていこく中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわとして参戦さんせんする要因よういんとなった[9][10]

概要がいよう[編集へんしゅう]

だいいちバルカン戦争せんそうけて1912ねん11月にドイツ帝国ていこく海軍かいぐん新編しんぺんした地中海ちちゅうかい戦隊せんたい (Mittelmeerdivision) に、モルトケきゅうじゅんよう戦艦せんかん2ばんかんゲーベン (SMS Goeben) と[11]マクデブルクきゅうけい巡洋艦じゅんようかんブレスラウ (SMS Breslau) が配備はいびされた[12][注釈ちゅうしゃく 3]。 1914ねん7がつまつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、イギリス海軍かいぐん地中海ちちゅうかい艦隊かんたい (Mediterranean Fleet) はドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいの2せき(ゲーベン、ブレスラウ)を捕捉ほそくしようとした[15][注釈ちゅうしゃく 4]。 ドイツかん2せきはイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい追跡ついせきからのがれ、ダーダネルス海峡かいきょう通過つうかして、8がつ16にちオスマン帝国ていこくコンスタンティノープル入港にゅうこうする[注釈ちゅうしゃく 5]。 イギリスがわインヴィンシブルきゅうじゅんよう戦艦せんかん主力しゅりょくとする優勢ゆうせい艦隊かんたいでドイツかん2せき追跡ついせきしたが、通信つうしんおくれによる情報じょうほう錯綜さくそう上層じょうそうのあいまいな指示しじなどがわざわいして混乱こんらんし、結局けっきょくドイツ艦隊かんたいのがしてしまった[注釈ちゅうしゃく 6]

当時とうじのオスマン帝国ていこくでは、南下なんか政策せいさくによりバルカン半島ばるかんはんとう介入かいにゅうするロシア帝国ていこく対抗たいこうするため、3B政策せいさくドイツ帝国ていこく接近せっきんしていた[4]オスマン帝国ていこくぐんはドイツぐん軍事ぐんじ顧問こもんだんれていた[19][20]。これにたいオスマン帝国ていこく海軍かいぐんイギリス海軍かいぐん影響えいきょう海軍かいぐんりょく増強ぞうきょうしており、イギリスの民間みんかん企業きぎょう超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん発注はっちゅうする[21]。ところが世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつとも完成かんせい間近まぢか戦艦せんかんを2せきとも接収せっしゅうされ[11]、トルコ国内こくないはんえい感情かんじょうたかまっていた[22][注釈ちゅうしゃく 7]。 まさにそのときに、ドイツ帝国ていこく海軍かいぐん有力ゆうりょく軍艦ぐんかん2せき到着とうちゃくしたことになる[5]かりにゲーベンとブレスラウがイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい追跡ついせきからげられず、オスマン帝国ていこく領土りょうど辿たどりつかなかったら、トルコ戦艦せんかん2せき(エリン、エジンコート)接収せっしゅう事件じけんわすれられたかもしれなかった[9]秘密裏ひみつり軍事ぐんじ同盟どうめい英語えいごばんドイツばんむすんでいたオスマン帝国ていこくはドイツかん2せき退去たいきょさせたり武装ぶそう解除かいじょせず、ドイツ帝国ていこくから購入こうにゅうして将官しょうかん乗組のりくみいんごとオスマン帝国ていこく海軍かいぐん編入へんにゅうした[5][注釈ちゅうしゃく 8]。 ゲーベンは[26]ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) と改名かいめいした[27]。ブレスラウは、ミディッリ (Midilli) と改名かいめいした[28]

一連いちれん事件じけんどく同盟どうめい英国えいこくのトルコ戦艦せんかん接収せっしゅう、トルコのドイツかん編入へんにゅう)は、中東ちゅうとう石油せきゆ利権りけんスエズ運河うんが安定あんていてき支配しはいもとめてオスマン帝国ていこく分割ぶんかつねらイギリスと、しんどく傾向けいこうつよめていたオスマン帝国ていこく関係かんけい悪化あっかさせた[29]同年どうねん10がつ31にちから11がつ初旬しょじゅんにかけてオスマン帝国ていこくさんこく協商きょうしょう各国かっこく(ロシア帝国ていこく、イギリス、フランス)に宣戦せんせん布告ふこくして国交こっこう断絶だんぜつ[30]中央ちゅうおう同盟どうめいこく陣営じんえいとしてだいいち世界せかい大戦たいせん参入さんにゅうした[注釈ちゅうしゃく 9]

背景はいけい[編集へんしゅう]

ゲーベンとブレスラウの写真しゃしん

不凍港ふとうこうもとめて南下なんか政策せいさくロシア帝国ていこく[32]大日本帝国だいにっぽんていこくとのにち戦争せんそう海軍かいぐん主力しゅりょく艦隊かんたいバルチック艦隊かんたい太平洋艦隊たいへいようかんたい)をうしなった[33]極東きょくとう方面ほうめんでの進出しんしゅつをしばらく断念だんねんしたロシアのは、ふたた中央ちゅうおうアジアけられる[34]ロシアの歴史れきしロシアとトルコの関係かんけいロシアとトルコの戦争せんそう)。その戦略せんりゃく目標もくひょうコンスタンティノープルイスタンブール)の占領せんりょうと、ダーダネルス海峡かいきょうおよびボスポラス海峡かいきょう掌握しょうあくである[35]衰退すいたいいちじるしいオスマン帝国ていこく独力どくりょく対抗たいこうできるちからはなく[36]イギリスフランスはロシアの同盟どうめいこくなのでたよりにならず[注釈ちゅうしゃく 10][注釈ちゅうしゃく 11]、オスマン帝国ていこくドイツ帝国ていこく支援しえんあおいだ[38]ドイツ外交がいこう政策せいさく歴史れきし[40]オスマン帝国ていこくぐんドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん協力きょうりょく近代きんだいすすめた[4][41]

陸軍りくぐんしんどく傾向けいこうたいオスマン帝国ていこく海軍かいぐんイギリス海軍かいぐん支援しえん[42]、イギリス海軍かいぐん軍人ぐんじん艦隊かんたい指揮しきかん(コモンドン・ド・ラ・フロット)に任命にんめいしていた[43][注釈ちゅうしゃく 12]。オスマン帝国ていこくはイギリスの民間みんかん軍事ぐんじ企業きぎょうレシャディエきゅう戦艦せんかん英語えいごばんトルコばん建造けんぞう発注はっちゅうする[注釈ちゅうしゃく 13]。 さらにブラジル南米なんべいけんかん競争きょうそうによりイギリスに発注はっちゅうしたが、しょ事情じじょうにより売却ばいきゃくしたいしゆみきゅう戦艦せんかんリオデジャネイロ (Rio de Janeiro) を購入こうにゅうし、スルタン・オスマン1せい (Sultan Osman-ı Evvel) と命名めいめいした[45]ぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん基幹きかんとするロシア帝国ていこく海軍かいぐん黒海こっかい艦隊かんたいにとって、オスマン帝国ていこく海軍かいぐん新型しんがた戦艦せんかんおおきな懸念けねん材料ざいりょうとなった[46]

だいいちバルカン戦争せんそうバルカン戦争せんそう)の勃発ぼっぱつにより、ドイツ帝国ていこくは1912ねん11月に地中海ちちゅうかい戦隊せんたい (Mittelmeerdivision) を新編しんぺん[47]同年どうねん竣工しゅんこうしたばかりのさい新鋭しんえいかん2せきめぐよう戦艦せんかんゲーベン、けい巡洋艦じゅんようかんブレスラウ)を地中海ちちゅうかい配備はいびした[注釈ちゅうしゃく 3]最初さいしょ戦隊せんたい司令しれいかんコンラッド・トラムラードイツばん少将しょうしょうであった。ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいは、地中海ちちゅうかい砲艦ほうかん外交がいこう展開てんかいした[48]。ただしドイツ帝国ていこく地中海ちちゅうかい植民しょくみん自国じこく基地きち保有ほゆうしていないので、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい艦艇かんてい友好国ゆうこうこくイタリア王国おうこくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく)の港湾こうわん施設しせつ造船ぞうせんしょりて補給ほきゅう修理しゅうりをしなくてはならなかった[49]。また本格ほんかくてき修理しゅうりをする場合ばあいは、ドイツ本国ほんごくもどこと検討けんとうされていた[49]

1913ねん6がつだいバルカン戦争せんそう勃発ぼっぱつしたあと、10月に新任しんにん司令しれいかんヴィルヘルム・スション英語えいごばん少将しょうしょう着任ちゃくにんした[注釈ちゅうしゃく 14]戦時せんじにおける役割やくわりは、アルジェリアからフランスへの兵員へいいん輸送ゆそう妨害ぼうがいである[51]イタリア王立おうりつ海軍かいぐん (Regia Marina) とオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん (Császári és Királyi Haditengerészet) がドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい協力きょうりょくし、共同きょうどう作戦さくせん実施じっしする計画けいかく準備じゅんびした[51]

一方いっぽう、イギリスも1914ねんには地中海ちちゅうかい艦隊かんたい改編かいへん戦艦せんかん6せき本国ほんごくもどし、そのかわりじゅんよう戦艦せんかん2せき編入へんにゅうした。これにより地中海ちちゅうかいのイギリスじゅんよう戦艦せんかんは3せきインドミタブルインディファティガブルインフレキシブル)となり[52]、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい(ゲーベン、ブレスラウ)を牽制けんせいした[53]。さらにフランス海軍かいぐん地中海ちちゅうかい艦隊かんたい考慮こうりょれると、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい勝負しょうぶにならないほど劣勢れっせいであった[51]

開戦かいせん直後ちょくご[編集へんしゅう]

1914ねん7がつ28にちオーストリア・ハンガリー帝国ていこくと、ひろしスラヴ主義しゅぎかかげるロシア帝国ていこく影響えいきょうにあったセルビアとのあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつした[54]当時とうじのブレスラウはアルバニア内乱ないらん問題もんだい対処たいしょするため[55]、イギリス海軍かいぐん戦艦せんかんキング・エドワード7せい (HMS King Edward VII) などとともドラッツォ沖合おきあい停泊ていはくしていた[56]。イギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい麾下きか艦艇かんていたいマルタ集結しゅうけつしたれいしており、キング・エドワード7せいもブレスラウに挨拶あいさつすることなく出港しゅっこうしていった[57]。8月1にち、ブレスラウはイタリア半島はんとう南部なんぶブリンディジ急行きゅうこうしてカール・デーニッツ通信つうしんちょう)をろし、石炭せきたんんだ汽船きせん手配てはいさせた[58]。ブレスラウはドラッツォにのこしていた分遣ぶんけんたい収容しゅうようするため、ふたた出港しゅっこうした[58]

当時とうじのゲーベンはボイラー故障こしょうかかえており、姉妹しまいかんモルトケ (SMS Moltke) と交代こうたいしてドイツ本国ほんごくかえ予定よていだった[59]。だが地中海ちちゅうかい情勢じょうせいのため帰国きこくできず、アドリア海あどりあかいポーラ機関きかん修理しゅうりちゅうであった[注釈ちゅうしゃく 15]アドリア海あどりあかいめられないためにスションは修理しゅうりいそがせたが、結局けっきょく修理しゅうり完了かんりょうしていない状態じょうたい出航しゅっこうした。8月1にちにスションはイタリア王国おうこくブリンディジ到着とうちゃくしたが、イタリアは中立ちゅうりつであることを理由りゆうにしてきゅうずみおこなわなかった。ゲーベンは、デーニッツらを回収かいしゅうして出港しゅっこうした[60]。ゲーベンはタラントでブレスラウと合流ごうりゅうメッシーナかい、そこでドイツ商船しょうせんから石炭せきたん補給ほきゅうした[61][注釈ちゅうしゃく 16]

一方いっぽう、7がつ31にちにイギリスのうみしょうウィンストン・チャーチル地中海ちちゅうかい艦隊かんたい指揮しきかんアーチボルド・バークレー・ミルン英語えいごばん中将ちゅうじょうたいし、地中海ちちゅうかい横切よこぎってフランスだい19軍団ぐんだんはこんでいるフランスの船団せんだん護衛ごえいするよう指示しじした。このときえいりょうマルタ拠点きょてんとする地中海ちちゅうかい艦隊かんたいめぐよう戦艦せんかん3せきインフレキシブルインディファティガブルインドミタブル)、装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん4せきけい巡洋艦じゅんようかん4せきおよび14せき駆逐くちくかんからなっていた。次席じせき指揮しきかんアーネスト・トラウブリッジ英語えいごばん少将しょうしょうであった[62]。ミルン中将ちゅうじょうはマルタにとどまり、トラウヴリッジ少将しょうしょう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんオトラント海峡かいきょうでドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいとオーストリア艦隊かんたい合流ごうりゅう阻止そししようという企図きとであったという[63]

8がつ1にち、ミルン提督ていとくはマルタにイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい集結しゅうけつさせた[57]翌日よくじつ、ミルンは、オーストリア海軍かいぐん出撃しゅつげきそなえてアドリア海あどりあかい監視かんしつづける一方いっぽうめぐよう戦艦せんかん2せきでゲーベンを追跡ついせきするよう指示しじけた。ミルンはこれにそむき、インドミタブル、インディファティガブルをトラウブリッジ少将しょうしょう麾下きか巡洋艦じゅんようかん戦隊せんたいともアドリア海あどりあかいかわせ、けい巡洋艦じゅんようかんチャタムメッシーナ海峡かいきょうへゲーベン捜索そうさくかわせた。しかし、8がつ3にちあさ時点じてんすでにドイツ艦隊かんたいはメッシーナをはなれて西にしかっており[64]イギリス海軍かいぐん本部ほんぶはドイツ艦隊かんたい大西洋たいせいよう脱出だっしゅつ阻止そしのため、イギリスじゅんよう戦艦せんかん2せきジブラルタル派遣はけんした[63]

最初さいしょ接触せっしょく[編集へんしゅう]

連合れんごうこく陣営じんえいのイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたいとフランス地中海ちちゅうかい艦隊かんたいたいして、中央ちゅうおう同盟どうめいこく陣営じんえいのドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいめぐよう戦艦せんかん1せきけい巡洋艦じゅんようかん1せきしかなく、ドイツ艦隊かんたい作戦さくせんにはイタリア海軍かいぐんとハンガリー=オーストリア海軍かいぐん協力きょうりょく不可欠ふかけつだった[51]。8月2にち、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいはメッシーナに到着とうちゃくしたが、イタリア艦隊かんたいもオーストリア艦隊かんたい協力きょうりょくてきだった[65]。さらにイタリアはドイツかんきゅうずみ通信つうしん妨害ぼうがいするなど、敵対てきたいこくのようにふるまった[65]。ドイツ本国ほんごくからも明確めいかく命令めいれいく、スション提督ていとく連合れんごうこく機先きせんせいしてアフリカ沿岸えんがんでの作戦さくせん開始かいしすることにした[65]アルジェリアみなとボーヌ(現在げんざいアンナバ)とフィリップヴィル(現在げんざいスキクダ)の攻撃こうげき計画けいかくし、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい(ゲーベン、ブレスラウ)は2にちよるにメッシーナを出撃しゅつげきした[64]。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへかった。

8がつ3にち午後ごご6西にしかって航行こうこうちゅうにスションはドイツ帝国ていこくがフランスに宣戦せんせん布告ふこくしたという報告ほうこくけた。4にちあさはやく、スションは司令しれい長官ちょうかんであるアルフレート・フォン・ティルピッツ提督ていとくから「8がつ3にちトルコと同盟どうめいむすばれたただちにコンスタンティノープルへかえ」という命令めいれいけた[66]機関きかん故障こしょうかかえていたゲーベンは最大さいだい速力そくりょくせず、石炭せきたん消費しょうひりょうおおくなっていたので、アルジェリア沿岸えんがんからコンスタンティノープルに直行ちょっこうできる状態じょうたいではなかった[59]。そこで予定よていどおりアフリカ沿岸えんがんのフランスこう砲撃ほうげきしたあとメッシナで石炭せきたん補給ほきゅうをおこない、コンスタンティノープルにかうことにした[59]。ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい2せきはそれぞれ夜明よあけに砲撃ほうげきおこない、それからきゅうずみのためメッシーナにかった。

戦争せんそうまえのイギリスとの協定きょうていにより大西洋たいせいよう沿岸えんがん防衛ぼうえいをイギリスにまかせていたフランスは、ぜん艦隊かんたい地中海ちちゅうかい集中しゅうちゅうさせることができた。フランス艦隊かんたいの3つの部隊ぶたい(それぞれ大型おおがたかん4~6せき巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかん部隊ぶたい)が輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいたっていた[62]。しかしフランス地中海ちちゅうかい艦隊かんたいは、ドイツかんオランメルス・エル・ケビール)やアルジェをおびやかすことをこわれ、そちらのほう重視じゅうしした[64]。ドイツ艦隊かんたいがさらに西にしかうことも予想よそうされたにもかかわらず、輸送ゆそう船団せんだん防御ぼうぎょ強固きょうことするため、フランスのオーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール英語えいごばん中将ちゅうじょうはゲーベン捜索そうさくに1せき艦艇かんてい派遣はけんしなかった。そのためドイツ艦隊かんたい妨害ぼうがいけずにひがしかうことができた。

8がつ4にち午前ごぜん930ふん~10ごろ、ゲーベン(スション提督ていとく)とブレスラウが会合かいごうした直後ちょくごにイギリス海軍かいぐんじゅんよう戦艦せんかん2せき(インドミタブル、インディファティガブル)が接触せっしょくした[66]えいじゅんせん2せきはドイツ艦隊かんたい大西洋たいせいよう脱出だっしゅつ阻止そしのため、ジブラルタルにむかう途中とちゅうであった[63]。フランスとことなり、このときイギリスはまだドイツと戦争せんそう状態じょうたいになっていなかった。ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい交戦こうせんひかえてひがしにむかい、イギリスじゅんよう戦艦せんかん西にしへむかってすれちが[66]。ところがイギリスじゅんよう戦艦せんかん反転はんてんすると、ドイツ艦隊かんたい追跡ついせき開始かいしした[66]。 このときミルン(イギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)はドイツ艦隊かんたいさわしたことと、その位置いち報告ほうこくしたがひがしかっていることをつたえるのをおこたった。そのため、チャーチルはドイツ艦隊かんたいがまだフランスの輸送ゆそう船団せんだん脅威きょういになるとおもい、ミルンに輸送ゆそう部隊ぶたい攻撃こうげきされた場合ばあい交戦こうせんすることを許可きょかした。この時点じてんでは、チャーチルらはゲーベンが西にしかっているとおもんでおり、その指示しじ影響えいきょうおよぼすこととなる。

追跡ついせき[編集へんしゅう]

イギリスかんからられたドイツ艦隊かんたい左側ひだりがわの2ほん煙突えんとつが「ゲーベン」で右側みぎがわの4ほん煙突えんとつかんが「ブレスラウ」。

ゲーベンはおおやけためしで28.4ノットを発揮はっきしたことがある。だが1912ねん7がつ就役しゅうえき直後ちょくご地中海ちちゅうかい派遣はけんされ、それから本格ほんかくてき整備せいびをおこなったことがなかった[59]。とりあえず24ノットを発揮はっきしたことろ、イギリスじゅんよう戦艦せんかん2せきはドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいはなされてしまった[67]。イギリスじゅんよう戦艦せんかんもボイラーに問題もんだいかかえていたのである。ただし、ゲーベンではフル回転かいてんでボイラーへのきゅうずみつづけたためボイラーしつ船員せんいん4にん過労かろう殉職じゅんしょくしている(かれらはほん戦闘せんとうでの唯一ゆいいつ犠牲ぎせいしゃである)。インドミタブル、インディファティガブルはおくれ、けい巡洋艦じゅんようかんダブリン (HMS Dublin) が接触せっしょくつづけたが、きりおよび日没にちぼつのためシチリアとう北岸ほくがんサン・ヴィトみさきおきでダブリンはドイツ艦隊かんたい見失みうしなった。どう4にち午後ごご、ブレスラウがメッシーナに先行せんこうして石炭せきたん準備じゅんび開始かいし8がつ5にち夜明よあけに到着とうちゃくした[67]。ゲーベンの到着とうちゃく数時間すうじかんだった[67]。またドイツはイギリスと戦争せんそう状態じょうたいになった。

一方いっぽう、イギリス海軍かいぐんしょうはミルンに、イタリアの中立ちゅうりつ尊重そんちょうしイタリアの領海りょうかいない侵入しんにゅうしないようめいじた。これはメッシーナ海峡かいきょう通過つうか不可能ふかのうであることを意味いみした。そのため、ミルンは海峡かいきょう出口でぐち部隊ぶたい配置はいちした。いまだドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい輸送ゆそう船団せんだん攻撃こうげき大西おおにしひろしかうと予想よそうしていたため、ミルンは2せきじゅんよう戦艦せんかん、インフレクシブルとインディファティガブルを海峡かいきょうきた配置はいちし、南側みなみがわけい巡洋艦じゅんようかんグロスター (HMS Gloucester) 1せきのみであった。そのうえ、ミルンはインドミタブルをチュニジアのビゼルトきゅうずみかわせた。メッシナ海峡かいきょう西側にしがわはフランスぐん監視かんししてくれるとしんじ、ミルンじきりつ主力しゅりょく艦隊かんたいはドイツ艦隊かんたい西進せいしんにそなえてシチリアきたアフリカあいだ待機たいきした[68]

ゲーベンとブレスラウにとって、メッシーナは避難ひなんしょとはならなかった[67]。イタリアは中立ちゅうりつこくであることを理由りゆうに、スション提督ていとくに24時間じかん以内いない出港しゅっこう要求ようきゅうし、石炭せきたん陸上りくじょうからの補給ほきゅう拒絶きょぜつした[67]。ドイツの汽船きせんから石炭せきたん手作業てさぎょうあつめられたが、ドイツかん舷側げんそく平底ひらぞこせん横付よこづけできなかったので積載せきさい作業さぎょう手間取てまどった[67]あつまったのは8がつ6にち夕刻ゆうこくまでで1500トンであり、コンスタンティノープルにくのには不十分ふじゅうぶんであった。 スション提督ていとくは、メッシーナからの出港しゅっこう支援しえんのためにオーストリア軍艦ぐんかん出動しゅつどうちゅうウィーンドイツ大使館たいしかんづけ武官ぶかん軍令ぐんれい要請ようせいした[69]。だがハンガリー=オーストリア帝国ていこくは「帝国ていこくはイギリスといま戦争せんそう状態じょうたいはいっておらず、いまだ中立ちゅうりつこくである」として海軍かいぐん協力きょうりょく拒否きょひした[69]。スション提督ていとく自力じりきでコンスタンティノープルにかう決心けっしんかため、8がつ6にち午後ごごのメッシナ出港しゅっこうめた[69]。 ここで、ティルピッツ提督ていとく軍令ぐんれい)から「コンスタンティノープル入港にゅうこうは、政治せいじじょう理由りゆうから目下もっかのところ不可能ふかのう」というあらたなメッセージがさらにとどいた[70]。おそらく戦争せんそうわりまでめられるであろうがポーラに避難ひなんするという選択せんたくもあった。だがスションはドイツ艦隊かんたいがコンスタンティノープルに入港にゅうこうすることの政略せいりゃくてき戦略せんりゃくてき意義いぎ考慮こうりょし、作戦さくせん成功せいこう可能かのうせいひくくてもダーダネルス海峡かいきょう突破とっぱ意志いしかため、予定よていどおりのメッシナ出港しゅっこうしたれいした[70]

8がつ6にち夕刻ゆうこく、ゲーベンとブレスラウは戦闘せんとう覚悟かくごしてメッシーナを出発しゅっぱつしたが、すぐにドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい見張みはっていたイギリス巡洋艦じゅんようかん遭遇そうぐうした[71]。この巡洋艦じゅんようかんはグロスターであり、ドイツ艦隊かんたい追跡ついせき開始かいしした[72]。ブレスラウはグロスターの針路しんろ妨害ぼうがいし、ゲーベンは電波でんぱ妨害ぼうがいをおこなってえいかん通信つうしん遮断しゃだんこころみた[73]

グロスターの通報つうほうけたミルン提督ていとくは、イギリスじゅんよう戦艦せんかんをシチリアとう周辺しゅうへんのこしたまま、マルタからけいじゅんダブリンを派遣はけんしてトラウブリッジの巡洋艦じゅんようかん戦隊せんたいくわえた[72]。ミルンはこれでドイツ艦隊かんたい阻止そしできるとかんがえた。6にち深夜しんやから7にち早朝そうちょうにかけて、ダブリンと随伴ずいはん駆逐くちくかんはドイツ艦隊かんたい接触せっしょくしたが、攻撃こうげきしなかった[72]あらたなイギリス艦隊かんたい視界しかいがいり、グロスターだけが追跡ついせきつづけていた[73]

一方いっぽう、トラウブリッジ戦隊せんたいは4せき装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんディフェンスブラック・プリンスウォーリアデューク・オブ・エジンバラからなっていた。 装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんの9.2インチほうとゲーベンの11インチほうではトラウブリッジ戦隊せんたいはアウトレンジ攻撃こうげきされるため、トラウブリッジは唯一ゆいいつのチャンスは夜明よあけにゲーベンがかれ部隊ぶたいひがし位置いちしているときだとかんがえた。8月7にち午前ごぜん4かれはそのような配置はいち位置いちすることに失敗しっぱいし、有利ゆうり条件じょうけん攻撃こうげきをかけることが不可能ふかのうとなった。優勢ゆうせいてきとの交戦こうせんけろというチャーチルのあいまいな命令めいれいのため、トラウブリッジは退却たいきゃくした。後日ごじつ、トラウブリッジは軍法ぐんぽう会議かいぎで「我々われわれアドリア海あどりあかい入口いりくち配置はいちはなれる権限けんげんはなく、またグロスターを支援しえんせよとの命令めいれいけていない」と陳述ちんじゅつしたという[72]

ミルンはグロスターに交戦こうせんしないようめいじた。ミルンはいまだにスションが西にしかうとかんがえていた。だが、グロスターの艦長かんちょうにとってはゲーベンが逃走とうそうしているのはあきらかであった。7にち正午しょうごすぎ、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいゲ海げかいおおとう利用りようしてグロスターへの攻撃こうげきこころみた[74]。スション提督ていとくはギリシャおき石炭せきたんせん待機たいきさせており[75]合流ごうりゅうするために追跡ついせきしゃ必要ひつようがあったためである。一方いっぽうのグロスターもゲーベンをかえさせようとブレスラウにたい砲火ほうかひらき、1はつ命中めいちゅうさせたが効果こうかはなかった[76]。ブレスラウも反撃はんげきして榴弾りゅうだん2はつ命中めいちゅう確認かくにんしたという[76]最終さいしゅうてきにミルンはマタパンみさき追跡ついせき中止ちゅうしするようグロスターにめいじた。

8がつ7にち夕刻ゆうこく、イギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたいじゅんよう戦艦せんかんはマルタで石炭せきたん補給ほきゅうえ、マタパンみさきけて出向しゅっこうした[77]。8月8にち夜中よなかぎ、ミルンは3せきじゅんよう戦艦せんかんけい巡洋艦じゅんようかんウェイマスひがしかわせた。午後ごご2海軍かいぐんしょうからミルンに、イギリスがオーストリアと戦争せんそうになったというあやまった情報じょうほうとどいた[77]。そして、ゲーベン捜索そうさくよりアドリア海あどりあかい警備けいび選択せんたくした。8月9にち、ミルンはゲーベンを追跡ついせきせよとの明白めいはく命令めいれいけた[77]。ミルンはこの時点じてんでもスションがダーダネルスを目指めざしているとはかんがえておらず、ゲ海げかい出口でぐち警備けいび決心けっしんした。

8がつ9にち午後ごご、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたいデヌーサとうおきでドイツ石炭せきたんせん合流ごうりゅうし、よるてっしてゲーベンとブレスラウに石炭せきたん補給ほきゅうをおこなった[78]。8月10にち午後ごご5かれはダーダネルスに到着とうちゃく通過つうか許可きょかった。国際こくさい信号しんごうはた水先案内みずさきあんないじん要求ようきゅうしたのにたいし、オスマン帝国ていこく水雷すいらいていはこれにおうじたためかれらに先導せんどうされてゲーベンとブレスラウはダーダネルス海峡かいきょう通過つうかした[78][注釈ちゅうしゃく 17]午後ごご830ふんちかくにいたイギリスのふく領事りょうじから、せきがダーダネルスを通過つうかしたためダーダネルスを封鎖ふうさすべき、とイギリスへ打電だでんされたが、ロンドンへは14あいだ、さらにミルンへは6時間じかんかかってようやくとどいたためもはや手遅ておくれだった。よく11にち夕方ゆうがたになってようやくウェイマスがダーダネルスに到着とうちゃくし、通過つうか要求ようきゅうしたがトルコがわから拒絶きょぜつされた。

8がつ10日とおか夕刻ゆうこく、ゲーベンとブレスラウはチャナッカレ沖合おきあい碇泊ていはくした[79]。ドイツ帝国ていこくとオスマン帝国ていこくあいだ交渉こうしょうおこなわれ、8がつ16にち、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着とうちゃくした。正式せいしきにオスマン帝国ていこく海軍かいぐん編入へんにゅうされ、ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリムに、ブレスラウはミディッリと改名かいめいした[79]

その[編集へんしゅう]

1913ねん7がつにオスマン帝国ていこくとイギリスは同盟どうめい締結ていけつしたが、複雑ふくざつ国際こくさい関係かんけいにより批准ひじゅんされなかった。ロシア帝国ていこくはイギリスで建造けんぞうちゅうのオスマン帝国ていこくむけ超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん2せき黒海こっかい重大じゅうだい脅威きょういになることをこわれ、セルゲイ・サゾーノフロシア外務がいむ大臣だいじん)がベンケンドルフちゅうえい大使たいしつうじてイギリスに対応たいおう要請ようせいしていた[80]コンスタンティノープル協定きょうてい)。7がつ危機きき世界せかい大戦たいせん拡大かくだいした直後ちょくごの1914ねん8がつ2にち、オスマン帝国ていこくとドイツ帝国ていこくあいだどく軍事ぐんじ同盟どうめいむすばれる[5][注釈ちゅうしゃく 8]秘密裏ひみつり同盟どうめい締結ていけつしたオスマン帝国ていこく政府せいふたいし、イギリスは完成かんせい間近まぢか超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん譲渡じょうとするよう要請ようせいしたがことわられ、2せき(レシャディエ、スルタン1せい)を接収せっしゅうした[注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 18]。これによりオスマン帝国ていこくないはんえい感情かんじょう一挙いっきょたかまった[81]。 そこにドイツ帝国ていこく海軍かいぐんのゲーベンとブレスラウが到着とうちゃくし、しんどく感情かんじょうたかまりとともしんえい勢力せいりょく発言はつげんけん低下ていかする[9]。 ドイツかん2せき到着とうちゃく、オスマン帝国ていこく中立ちゅうりつ宣言せんげんしていたが武装ぶそう解除かいじょ退去たいきょ要請ようせいもせず[45]りょうかんはオスマン政府せいふげられることとなった[注釈ちゅうしゃく 19]。 イギリスはこの措置そちつよ抗議こうぎし、種々しゅじゅ提案ていあんをして懐柔かいじゅうこころみる[注釈ちゅうしゃく 20]接収せっしゅうしたトルコ戦艦せんかんだいかん提供ていきょうもうたがオスマン帝国ていこく姿勢しせいわらず[25]りょうかん(ゲーベン、ブレスラウ)はオスマン帝国ていこく海軍かいぐん所属しょぞくとなってトルコ国旗こっきかかげた[79]。さらにオスマン帝国ていこく海軍かいぐん派遣はけんされていたえい海軍かいぐん将校しょうこう追放ついほうされる[81]。ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) [16]、ブレスラウはミディッリ (Midilli) と改名かいめいされた[82]乗員じょういんはそのままドイツじんであり、ドイツ地中海ちちゅうかい戦隊せんたい司令しれいかんのスション提督ていとくオスマン帝国ていこく海軍かいぐん司令しれい長官ちょうかん任命にんめいされ[79]、1917ねん9がつ帰国きこくするまでトルコにとどまった[注釈ちゅうしゃく 21]

一方いっぽう、イギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたいひきいたミルンとトールブリッジ[83]、ディフェンスの艦長かんちょうフォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内こくない公然こうぜん非難ひなんされた。軍法ぐんぽう会議かいぎ有罪ゆうざいにこそならなかったものの、以後いご閑職かんしょくまわされて不遇ふぐうをかこつこととなった[77]。 なおイギリスにとっても、オスマン帝国ていこく同盟どうめいこく中立ちゅうりつこくであるよりも、敵国てきこくとして分割ぶんかつ対象たいしょうであるほう都合つごうかった[9]。イギリスの歴史れきし学者がくしゃマイケル・ハワード著書ちょしょ以下いかのような見解けんかいしめしている。

イギリスはこの外交がいこうてき敗北はいぼくなげくことはなかった。そして、たしかに意図いとてきにそれをみずかまねいたのかもしれない。ろう大国たいこくオスマン帝国ていこく従属じゅうぞくてき同盟どうめいこくよりもいけにえとしてイギリスにとってより有益ゆうえきであった。植民しょくみんちょうインド政庁せいちょうはイギリス帝国ていこくにとっての妥当だとう獲物えものとしてオスマン帝国ていこくりょうしょうアジアながいあいだていた。当時とうじ石炭せきたんから石油せきゆ動力どうりょくげんをシフトしはじめていたイギリス海軍かいぐんは、ペルシアわんおくにあるバスラ石油せきゆ精製せいせい施設しせつ注目ちゅうもくしていた。オスマン帝国ていこくてきになったことで、イギリスはいまやエジプトの変則へんそくてき占領せんりょう状態じょうたい完全かんぜん保護ほごこく変更へんこうすることができた。ロンドンは自国じこくあたらしい同盟どうめいこくであるロシアにたいして、過去かこいち〇〇ねんのあいだイギリスの安全あんぜん保障ほしょうの「とりで」となされていたコンスタンチノープルの提供ていきょう約束やくそくする余裕よゆうすらあった。 — マイケル・ハワード『だいいち世界せかい大戦たいせん The First World War』72-73ページ

1914ねん10がつ下旬げじゅんもとドイツかん2せき(ヤウズ・スルタン・セリム、ミディッリ)は黒海こっかい襲撃しゅうげきおこな[注釈ちゅうしゃく 20]開戦かいせん火蓋ひぶたった[30][31]。11月初旬しょじゅんにはイギリスなど連合れんごうこくもオスマン帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくし、中東ちゅうとう戦域せんいき形成けいせいされた[25][84]連合れんごうこくは、ダーダネルス海峡かいきょう突破とっぱして制海権せいかいけんにぎれば首都しゅとコンスタンティノープルあやうくなり、オスマン帝国ていこく簡単かんたん屈服くっぷくするとかんがえていた[29][85]ヨーロッパの病人びょうにんあなどっていたのだが[86]、その見通みとおしはダーダネルス海峡かいきょう作戦さくせん[87]ガリポリ攻防こうぼうせんくだかれる[88][89]。ダーダネルス海峡かいきょう突破とっぱ作戦さくせん主張しゅちょうしていたチャーチル海軍かいぐん大臣だいじん[90][85]作戦さくせん失敗しっぱい責任せきにんをとらされフィッシャーだいいち海軍かいぐんきょうとも辞任じにんまれた[91][注釈ちゅうしゃく 22]

オスマン帝国ていこく海軍かいぐん所属しょぞくとなった2せき黒海こっかいロシア帝国ていこく海軍かいぐんイギリス海軍かいぐん相手あいてたたかった[16]。ミディッリは1918ねん1がつ20日はつかインブロスとう攻撃こうげきさいゲ海げかいさわかみなり沈没ちんぼつした[94]インブロスとうおき海戦かいせん)。 オスマン帝国ていこくムドロス休戦きゅうせん協定きょうていセーヴル条約じょうやくによって連合れんごうこく降伏ごうぶくして分割ぶんかつされたが不平等ふびょうどう条約じょうやく反発はんぱつする国民こくみんぐんはげしい抵抗ていこう運動うんどうきた[95]幾度いくどかの戦争せんそうきたあと[注釈ちゅうしゃく 23]トルコ革命かくめいすえにオスマン帝国ていこく滅亡めつぼうした[96]ローザンヌ条約じょうやく締結ていけつされて列強れっきょうアンカラ政府せいふ承認しょうにんし、ここにトルコ共和きょうわこくはじまる[97]。イギリス海軍かいぐん接収せっしゅうした軍艦ぐんかん代金だいきんふくめ、賠償ばいしょう請求せいきゅう問題もんだい解決かいけつした[注釈ちゅうしゃく 24]。 オスマン帝国ていこく海軍かいぐんトルコ海軍かいぐん再編さいへんされた。ヤウズもトルコ海軍かいぐん所属しょぞくとなり、竣工しゅんこうとほとんどわらないかんよう維持いじしたままだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ在籍ざいせき[16]1971ねん売却ばいきゃくされた[99]

ゲーベンに乗船じょうせんしていたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後せんご回想かいそうろく孤独こどくせき」をあらわし、英訳えいやくもされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 今回こんかい戰爭せんそうちゅう東部とうぶ地中海ちちゅうかい方面ほうめんニ於ケル作戰さくせん梗概こうがい[1](中略ちゅうりゃく)戰爭せんそうはつメニ獨逸どいつ地中海ちちゅうかい艦隊かんたい御座ぎょざリマシタじゅんよう戰艦せんかん「ゲーベン」、巡洋艦じゅんようかん「ブレスロウ」ノせきえいふつ艦隊かんたいヨリ遁レテ「ダーダネルス」海峡かいきょうにゅうリマシテ以来いらい聯合れんごう與國よこく海軍かいぐんニ於キマシテハ地中海ちちゅうかいニ於テモ北海ほっかい方面ほうめん同様どうようてき艦隊かんたいヲ其根據地こんきょち封鎖ふうさスルノさくたてテマシタ(以下いかりゃく)
  2. ^ 世界せかい大戰たいせん經過けいか概要がいよう一覧いちらんひょう 昭和しょうわ5ねん3がつ[2] 海上かいじょう作戰さくせん だいいち(戰爭せんそうはつはし)いちきゅういちよんねん-はちがつ初旬しょじゅん いたりいちきゅういちねん-いちがつ海上かいじょう作戰さくせん 主要しゅようなる出來事できごと(1)8がつ4にち-8がつ11にち 地中海ちちゅうかいけるゲーベン(Goeben)、ブレスロー(Breslau)にたいする作戰さくせん 
  3. ^ a b ブレスラウには、のちにだい世界せかい大戦たいせんドイツ海軍かいぐん (Kriegsmarine) をひきいたカール・デーニッツ新米しんまい将校しょうこうとして配属はいぞくされた[11](1912ねん10がつ1にち乗艦じょうかん[13]役職やくしょく通信つうしんちょうであった[14]
  4. ^ 文献ぶんけんによってはドイツ地中海ちちゅうかい艦隊かんたい表記ひょうきする[16]
  5. ^ 地中海ちちゅうかいおよ黒海こっかいける海戰かいせん[17] 開戰かいせん當初とうしょ獨逸どいつ地中海ちちゅうかいたいぞくするゲーベンおよびブレスラウのかんは、ダーダネル海峡かいきょうに遁入せしが、えいふつ兩國りょうこく抗議こうぎげんしかりしためめ、みみ政府せいふ購入こうにゅう名義めいぎもっみぎかん黒海こっかい艦隊かんたいなかへぬ。此の一事いちじは、あかりかにみみいにしえ獨逸どいつ同盟どうめい關係かんけいるをあかせり。またおう匈國艦隊かんたいは、えいふつ艦隊かんたいためめに、アドリヤうみ封鎖ふうさせられ、えいふつがわは、おう匈國の領海りょうかいたるダルマシヤ海岸かいがん諸島しょとうあいだ水道すいどう機械きかい水雷すいらい布設ふせつせり。のちせんきゅうひゃくじゅうねんがつ下旬げじゅんいたり、こくたいおう開戰かいせんおう匈國艦隊かんたいは、アドリヤかいよりこく海岸かいがん出動しゅつどうせしにぞ、こく艦隊かんたいおよえいかんせきこれ交戰こうせんしててきしょうかんさんせき撃沈げきちんせり、のちおう匈國の潜水せんすいかんは、地中海ちちゅうかい活動かつどうするの形勢けいせいありて、シヽリーとう附近ふきんおいて、じゅうがつろくにちまれ臘の商船しょうせん撃沈げきちんし、また同月どうげつじゅうななにちには、ふつこく汽船きせんいちせき撃沈げきちんせり、ぎに黒海こっかいけるこく艦隊かんたいは、せんきゅうひゃくじゅうよんねんじゅういちがつじゅうはちにち、セバストポールおきおいて、こくさききに獨逸どいつより購入こうにゅうせりとたたえせる巡洋艦じゅんようかんゲーベンおよびブレスラウと交戰こうせんし、ゲーベンは損傷そんしょうけ、火災かさいおこして遁走とんそうせり。せんきゅうひゃくじゅうねんいちがつじゅうはちにちかんがわみみいにしえ商船しょうせんすうせき撃沈げきちんし、さらどう廿にじゅうよんにちには、飛行機ひこうきじゅうろくだいせたる商船しょうせんすうせき撃沈げきちんし、其後またブルガリヤ沿岸えんがん砲撃ほうげきせり。されど、此方こちらめんおいてはつい目覺めざましき海戰かいせんずしておわれり。
  6. ^ 開戰かいせんおいてはえいどく聯合れんごうぐんたいどくおう同盟どうめいぐん對抗たいこうであつたが、えい海軍かいぐん本部ほんぶ作戰さくせん指導しどうならびにミルン大将たいしょう指揮しきよろしきをなかつたため開戰かいせん劈頭へきとうさき劣勢れっせい獨軍どくぐん地中海ちちゅうかい戰隊せんたい戰略せんりゃくてき勝利しょうりもっおわりつた[18]。〔註〕當時とうじイタリー主要しゅよう兵力へいりょく戰艦せんかんタラント(Taranto)さんせきナポリ附近ふきんガエタ(Gaeta)よんせきゆうしてゐた。(エレナきゅうカブールきゅうなど)  すなわちズーホン(Souchon)提督ていとくりつゐる獨軍どくぐん地中海ちちゅうかい戰隊せんたいじゅんせんゲーベン(Goeben)およけいじゅんブレスロウ(Breslau)は10日とおかコンスタンチノープル(Constantinople)到着とうちゃくした、トルコは1856ねんパリ―條約じょうやく無視むししてそのダーダネルス(Dardanelles)通過つうかゆるしたのである。
     はじどくりょうかんおうりょうポーラ(Pola)にあつたが、8がつ1にちブリンディツシ(Brindisi)おいすみし、3にちにはメッシナ(Messina)海峡かいきょう北方ほっぽう通過つうか、4にちふつりょうアルゼリア(Algeria)ボナ(Bona)およフィリップヴィユ(Philippeville)砲撃ほうげき、5にちメッシナにてふたたすみし、6にち1700出港しゅっこう、7にちにはギリシアのマレア(Malea)みさき通過つうかし、8にちデヌサ(Denusa)しますみ10日とおか早朝そうちょうダーダネルスに出發しゅっぱつしたのである。
     このあいだ聯合れんごうこくがわおいてサー・バークレー・ミルン(Sir Bekeley Milne)大将たいしょうりつゐるじゅんせん以下いかえい地中海ちちゅうかい艦隊かんたいは、イタリーの中立ちゅうりつおかすことを本國ほんごく海軍かいぐん本部ほんぶよりきんぜられてゐたので、メッシナ海峡かいきょう自由じゆう出入でいりはばかり、どくかんどう海峡かいきょう通過つうかしたにもかかわらず英國えいこく軍艦ぐんかんこれ通過つうかして追撃ついげきすることをしなかつたためついこれがすにいたりつた。またふつ陸軍りくぐん(アルゼリアだい19軍團ぐんだん)のふつ本國ほんごく渡洋とよう掩護えんご必要ひつようからもえい艦隊かんたい行動こうどう制限せいげんされたのである。/ いずれにするもどくりょうかんがトルコに浸入しんにゅうしたことは大戰たいせん終結しゅうけつまで聯合れんごうがわきわめて不利ふり影響えいきょうおよぼしたのである。ふつこく艦隊かんたいはこのあいだ専心せんしんアルゼリア軍團ぐんだん輸送ゆそう掩護えんごにんじ、どくかん追跡ついせきには全然ぜんぜん援助えんじょあずかへてゐない。/ おう軍艦ぐんかんたいはその兵力へいりょくよりみてイタリーの態度たいど確實かくじつであつたので、アドリア海あどりあかいとま本國ほんごく海軍かいぐん防禦ぼうぎょ専心せんしんしたから、地中海ちちゅうかい作戰さくせんにはほとんあずかふるところはなかつた。/ 1915ねん1がつまでほん海洋かいよう方面ほうめん作戰さくせんはこれ以上いじょう變化へんかはなかつた。
  7. ^ a b トルコ戦艦せんかんレシャディエは、えい戦艦せんかんエリン (HMS Erin) になった[23]。トルコ戦艦せんかんオスマン・スルタン1せいは、えい戦艦せんかんエジンコート (HMS Agincourt) になった[24]
  8. ^ a b トルコはすではちがついちにちおいて、ドイツとの秘密ひみつ同盟どうめい條約じょうやくむすび、ロシヤが戰爭せんそう参加さんかせば、相互そうごあいだ應援おうえん義務ぎむ發生はっせいすべきをさだめたり。同日どうじつ午後ごごロシヤが戰爭せんそうはるにいたり、同盟どうめい條約じょうやく實施じっし條件じょうけんが備はるにいたれり。オースストリヤもまたトルコとの同盟どうめい條約じょうやく加盟かめいせり。該條約じょうやくげん秘密ひみつせられ、トルコの参戰さんせん準備じゅんびるのいたまで、トルコは中立ちゅうりつ維持いじそうふべきこととためせり。』聯合れんごうぐんがわおいて、はちがついちにちのドイツ、トルコあいだ秘密ひみつ同盟どうめい條約じょうやく成立せいりつかくざりしより、トルコにたいして種々しゅじゅ提議ていぎし、これをして中立ちゅうりつ維持いじせしめんとはかれり。』ヨーロッパ大戰たいせん開始かいしころはちがつさんにちおいて、イギリスないかくは、國内こくない造船ぞうせんしょおいてトルコ政府せいふためめに製造せいぞうちゅうなりしせき軍艦ぐんかん徴發ちょうはつくだりひ、トルコ政府せいふ憤怒ふんぬまねけり。ドイツ、イギリスあいだ開戰かいせんあるや、ドイツ軍艦ぐんかんゲーベンごうおよびプレスラウごうせきがボスフォラス海峡かいきょう竄入ざんにゅうし、トルコはとうのドイツ軍艦ぐんかん購入こうにゅうせりとしょうし、イギリス政府せいふは、國際こくさいほう違反いはんゆえもって、これかんして抗議こうぎ提出ていしゅつせり。[25](以下いかりゃく)
  9. ^ 獨逸どいつみみいにしえ籠絡ろうらく[31](中略ちゅうりゃく)ゆえ今次こんじ大戰たいせん開始かいしともに、みみいにしえたいする獨逸どいつ勢力せいりょく一層いっそうはり、地中海ちちゅうかいよりダーダネルスに遁入せるせき獨逸どいつ軍艦ぐんかんは却てみみいにしえ艦隊かんたい指揮しきするにいたり、みかど大權たいけんはコンスタンチノープル駐箚ちゅうさつ獨逸どいつ大使たいしうつれり。されば、獨逸どいつみみいにしえ關係かんけいは、同盟どうめいずして、ただちに属國ぞっこく關係かんけいひとしく、みみ政府せいふ一切いっさいどくみかど奉戴ほうたいし、しん僚大かんらは、人民じんみん膏血こうけつしぼりて一身いっしんとみはかれり。事情じじょう此のごとくなれば、今次こんじ大戰たいせんさいし、えいふつ聯合れんごうぐんがわにては、つとめて寛大かんだい處置しょちし、もっみみいにしえ局外きょくがい中立ちゅうりつ地位ちいかんとせしも、なんこうもなく、みみいにしえは、獨逸どいつ形勢けいせい不利ふりおとしいれるとき突然とつぜんつてこれ應援おうえんすることとなれり。すなわち其はじめ、中立ちゅうりつそうへるみみいにしえが、おう匈軍ガリシヤに大敗たいはいどくおうぐんまたなみらん敗軍はいぐんせるさいきゅうつて獨逸どいつ加勢かせいせる事情じじょうよりて、獨逸どいつ臣從しんじゅうせるの事實じじつるべきなり。
    みみいにしえどくおうがわちて大戰たいせん参加さんか宣言せんげんせるは、開戰かいせんさんヶ月かげつけいすごせるじゅうがつじゅうきゅうにちなりき。おもふに、みみ古人こじんは、逐年ちくねん異教徒いきょうととして白人はくじん聯合れんごう排斥はいせきこうむり、おうしゅうおいては、わずかに南端なんたん關門かんもんいちめんあしとめむるの窮境きゅうきょうり。ゆえ獨逸どいつ強力きょうりょく依賴いらいするにざれば、存在そんざいたもことかたく、財政ざいせいまた窮乏きゅうぼうせり。つて今次こんじ大戰たいせん勃發ぼっぱつともに、獨逸どいつより多額たがく金錢きんせんけて其身かたとなり、せんきゅうひゃくじゅうよんねんじゅうがつじゅうきゅうにち軍艦ぐんかんもってクリミヤ半島はんとう砲撃ほうげきし、またアゾフうみくちおよびコーカサス沿岸えんがんおいて、こく商船しょうせん撃沈げきちんし、これもっ聯合れんごうがわたいする宣戰せんせん表示ひょうじとなせり。此において、コンスタンチノープル駐箚ちゅうさつこく大使たいしは、じゅうがつさんじゅういちにち國旗こっきいて使つかいかん退去たいきょし、よくじゅういちがついちにちえいふつ兩國りょうこく大使たいしとも使つかいかんてっして歸國きこくき、茲に國交こっこう斷絶だんぜつせるなりき。
  10. ^ イギリスは3C政策せいさくかかげ、さんこく協商きょうしょうえい協商きょうしょうふつ同盟どうめいえいふつ協商きょうしょう)を締結ていけつしていた[37]。オスマン帝国ていこくはイギリスやフランスとたいロシア同盟どうめいむすぼうとしたが、拒否きょひされた[38]
  11. ^ イギリスはオスマン帝国ていこくりょうだったエジプト事実じじつじょう植民しょくみんしていた[39]
  12. ^ イギリス海軍かいぐんからギャンブル提督ていとく(1909ねん2がつ~1910ねん3がつ)、ウィリアムズ提督ていとく(1910ねん4がつ~1912ねん4がつ)、リムパス提督ていとく(1912ねん5がつ~1914ねん9がつ)が派遣はけんされ、オスマン帝国ていこく艦隊かんたいそう司令しれいかん任命にんめいされていた。
  13. ^ まれ兩國りょうこく軍備ぐんび現況げんきょう(大正たいしょうさんねんろくがつじゅうきゅうにち報告ほうこく)[44](中略ちゅうりゃく) こく海軍かいぐん こく海軍かいぐんせいかん計畫けいかくまれこく計畫けいかくほどだい規模きぼナラサルモ大艦だいかんク含ムニ於テゆうレルモノアリそくさき最大さいだいきゅう「ドレットノート」がた戰闘せんとうかんさんせきさんないいちせきReshadiehごう客年かくねんきゅうがつ進水しんすいシテ目下めした武装ぶそうちゅうぞくだいそくはく剌西なんじ政府せいふノタメニ英國えいこくニ於テ建造けんぞうシタル前記ぜんきリオ・デジャネロごうニシテ客年かくねんじゅうがつまつヲ以テ購入こうにゅう目下めした武装ぶそうちゅうニシテだいいちども本年ほんねんちゅう竣功しゅんこうスヘシまただいさんきん英國えいこくVickers會社かいしゃ注文ちゅうもんセラルヘシ
    さらせいかん計畫けいかくけい巡洋艦じゅんようかんせき及水かみなり驅逐くちくかんじゅうはちせきヲ含ミない驅逐くちくかんじゅうせきふつこくNormand會社かいしゃ注文ちゅうもんシタルがいなんレモ英國えいこくArmstrong-Vickers「シンジケート」ニ建造けんぞう契約けいやくヲナセリ現在げんざい海軍かいぐんりょく戰闘せんとうかんせき きのえそう巡洋艦じゅんようかんせき 水雷すいらい砲艦ほうかんせき 水雷すいらい驅逐くちくかんはちせき 水雷すいらいていはちせきニシテ詳細しょうさい表示ひょうじスルコトノ如シ(以下いかりゃく)
  14. ^ スウホン提督ていとく表記ひょうきする資料しりょうもある[50]
  15. ^ ブレスラウは1914ねん1がつトリエステ民間みんかん造船ぞうせんしょ本格ほんかくてき修理しゅうり実施じっししていた[49]
  16. ^ デーニッツも、ゲーベンからブレスラウにもどった[60]
  17. ^ このほか、ゲーベンの通信つうしん補助ほじょした客船きゃくせん「ゲネラル」、貨物かもつせん「ロドスト」なども通過つうかしている。
  18. ^ えい國交こっこう斷絶だんぜつ顚末ニせきスル英國えいこく政府せいふ白書はくしょ摘要てきよう(大正たいしょうさんねんじゅういちがつじゅういちにち報告ほうこく)[81] どくふつ開戰かいせんども英國えいこく政府せいふはちがつさんにちちゅう代理だいり大使たいしヲシテこくカ「アームストロンク」會社かいしゃ注文ちゅうもんちゅうナル「オスマン」一世いっせい英國えいこく政府せいふ引取ひきとルヘキむねこく政府せいふ申入もうしいれレシメタルニこく總理そうり大臣だいじんこく戰爭せんそうハラサルニ英國えいこく政府せいふカ此ノ如キ行動こうどうタルハ友好ゆうこうてきナラストテ不滿ふまんおもてシ且ツ今次こんじ戰亂せんらんぎわこく嚴正げんせい中立ちゅうりつもりルヘク動員どういん實行じっこうノコトニ決定けっていシタルトモみぎハ其完成かんせいすう箇月かげつ時日じじつよう将來しょうらいまんいち場合ばあいニ備フルノ必要ひつようやめサルニタルモノナルコトなみ獨逸どいつ軍事ぐんじ顧問こもん在任ざいにん何等なんら政治せいじじょう意味いみナキモノナルコトヲ明言めいげんセリ 英國えいこく政府せいふ國軍こくぐんかん引取ひきとたいシテハ不本意ふほんいトスルしょナルモみぎハ此際ノ危機ききぎわ英國えいこくざい使用しようとくヘキ軍艦ぐんかん保有ほゆうスルノ必要ひつようはさまラレタルニいんルモノニシテこくカ受クル金錢きんせんじょう其他一切いっさい損害そんがいたいシテハえい政府せいふニ於テじゅうぶん考量こうりょうフヘキむねこく政府せいふ申入もうしいれレタルカこく人民じんみん敵愾心てきがいしん本件ほんけんためメ頗ルおきもりトナレリ(以下いかりゃく)
  19. ^ (中略ちゅうりゃく)[81] はちがつじゅういちにちどく國軍こくぐんかん「ゲーベン」「ブレスラウ」ガ「ダーダネルス」ニにゅうルヤ英國えいこく政府せいふちょくこく政府せいふたいどく國軍こくぐんかんヲシテ海峡かいきょう通過つうかセシメサルヘキコト、じゅうよんあいだない立去たちさルカしかラサレハ武装ぶそう解除かいじょセシムヘキコトヲ申入もうしいれルヘキむねちゅう代理だいり大使たいし訓令くんれいシタルニぎょうたがえこく政府せいふ英國えいこく政府せいふたい前記ぜんきかんかいにゅうタルコト其乗組員くみいんそう獨逸どいつ本國ほんごく歸還きかんセシムヘキコトなみみぎかん購買こうばい英國えいこく注文ちゅうもんちゅう軍艦ぐんかんだいハルモノニシテおおとううみ問題もんだいせきまれ折衝せっしょうじょう互角ごかく地歩ちほうらないムルノ必要ひつようテ敢テこく對抗たいこうスルノこうテタルニむね申入もうしいれレタリ 而シテこく海軍かいぐん大臣だいじん英國えいこく海軍かいぐん顧問こもんアドミラル、リムパス」ニみぎかん艤装ぎそうかた依頼いらいシ且之ヲどう提督ていとく麾下きかおけクヘキむね約束やくそくシタルニかかわラス數日すうじつテスシテどう提督ていとく以下いか英國えいこく海軍かいぐん将校しょうこう轉職てんしょくいのちこく将校しょうこうヲ以シだいこれレカ説明せつめいトシテはちがつじゅうろくにち總理そうり大臣だいじん英國えいこく代理だいり大使たいしたいこく中立ちゅうりつ嚴守げんしゅスヘク且「ゲーベン」「ブレスラウ」ハこく将校しょうこうニ於テ操縦そうじゅう不便ふべんかんじスルヨリ若干じゃっかん獨逸どいつ将校しょうこう乗組のりくみマシメおけクノ必要ひつようアリ英國えいこく提督ていとくしもどく兩國りょうこく将校しょうこうおけクハ不便ふべんナルヲ以テ餘儀よぎナク提督ていとく以下いか轉職てんしょくルニいたりリタル次第しだいナリト辯解べんかいセリ(以下いかりゃく)
  20. ^ a b とう事件じけんありたるにかかわはらず、聯合れんごう諸國しょこくはトルコ政府せいふたいして種々しゅじゅ提議ていぎせり。聯合れんごう諸國しょこくさきづ、トルコにして中立ちゅうりつ維持いじし、エジプトが平穏へいおんなるときは、エジプトの政治せいじじょう地位ちい變更へんこうせざるべきをトルコ政府せいふき、つぎに、しトルコが中立ちゅうりつ嚴守げんしゅせば、協商きょうしょうがわ諸國しょこくすべての攻撃こうげきたいしてトルコの獨立どくりつおよ領土りょうど保全ほぜん指示しじすべきをけり。トルコ海軍かいぐん大臣だいじん領事りょうじ裁判さいばん制度せいど即時そくじ撤廢てっぱいもとむるや、イギリス外務がいむ大臣だいじんは、フランスおよびロシヤの承諾しょうだくすることを條件じょうけんとして、現代げんだい状態じょうたいてきする制度せいどがトルコにくだりはるるにいたさい、イギリスが領事りょうじ裁判さいばん制度せいどかんする其権利けんり抛棄ほうきすべきをやくせり。イギリスおう親書しんしょをトルコみかどおくり、曩にイギリスにおいてトルコのため製造せいぞうちゅうなりしせき軍艦ぐんかんを、むをずして徴發ちょうはつせることにつき、遺憾いかんじょうあらわし、戰爭せんそうおわらばこれを囘復すべきをやくせり。 トルコみかどおよびトルコ宰相さいしょうは、外觀がいかんじょう聯合れんごう諸國しょこくたいして慇懃いんぎん禮節れいせつうしなはざりしも、トルコのの態度たいどすでけっし、陸軍りくぐん大臣だいじんエンヴェル「パシャ」戰備せんびせいふるのけんあたり、トルコ軍隊ぐんたい動員どういんくだりはれたり。八月はちがつじゅうろくにちドイツ海軍かいぐん軍人ぐんじん陸路りくろトルコの首都しゅとせり。トルコの戰備せんびるや、じゅうがつじゅうはちにち、ゲーベンごう艦長かんちょうは、ドイツせんおよびトルコせんりつゐて黒海こっかいはいり、セバストポル近海きんかい水雷すいらい浮流ふりゅうせしめ、オデッサおよび其他こう砲撃ほうげきへたり。おいてロシヤはじゅうがつさんじゅういちにちトルコにたいして宣戰せんせんし、十一月じゅういちがつさんにちイギリスおよびフランスもトルコにたいして宣戰せんせんするにいたれり。ドイツみかどはトルコみかどをして、あまね囘々教徒きょうとげきして、神聖しんせい戰爭せんそう宣言せんげんせしめ、もってインド、エジプトにおいてイギリスをめ、アルゼリヤ、チェニス、モロッコにおいてフランスをめんとよくせり。しかれども囘々教徒きょうとは、ドイツみかど豫期よきごとく、トルコみかどげきおうじてつにいたらざりしなり。[25](以下いかりゃく)
  21. ^ 後任こうにん地中海ちちゅうかい戦隊せんたい司令しれいかんパシュウィツドイツばん英語えいごばん提督ていとくであった。
  22. ^ イギリスの思惑おもわく軌道きどう修正しゅうせいされ、サイクス・ピコ協定きょうてい[92]メソポタミア委任いにんパレスチナ委任いにんバルフォア宣言せんげんイギリス委任いにん統治とうちりょうパレスチナ)などで具体ぐたいした。この外交がいこうによりもたらされた混乱こんらんは、現在げんざいつづいている[93]
  23. ^ アルメニア・トルコ戦争せんそうフランス・トルコ戦争せんそう英語えいごばんフランス語ふらんすごばんトルコばんギリシャ・トルコ戦争せんそうなど。
  24. ^ たい協約きょうやく議定ぎていしょ調印ちょういん[98](中略ちゅうりゃく)ぎに、賠償ばいしょう問題もんだいいては、みみいにしえどくおう兩國りょうこく中央ちゅうおう銀行ぎんこう寄託きたくせる五百萬土耳古磅の金貨きんかと、みみいにしえ英國えいこく注文ちゅうもんせる軍艦ぐんかんしゅきんひゃくえい磅の金貨きんかとを聯合れんごうこく提供ていきょうし、これにてこく聯合れんごうこくあいだ一切いっさい損害そんがい相殺そうさいすること一旦いったん協定きょうていせるを、のち英國えいこくは、内政ないせいじょう理由りゆうにより、みぎきん聯合れんごうこくあいだ分配ぶんぱいしがたきこととなりしためめ、かわりとして、軍艦ぐんかん購入こうにゅう資金しきんとして英國えいこくにて募集ぼしゅうせるみみいにしえ國際こくさい證券しょうけん九十三萬土耳古磅に相當そうとうするがく提供ていきょう申出もうしでて、つて、さら聯合れんごうこくあいだ意見いけんまとまり次第しだい賠償ばいしょう分配ぶんぱい協約きょうやく聯合れんごうこくあいだ調印ちょういんせらるべきけつせり。其他經濟けいざいへん交通こうつうへんとうも、別段べつだん難問題なんもんだいなく解決かいけつせられたり。(以下いかりゃく)

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ #地中海ちちゅうかい方面ほうめん作戦さくせん梗概こうがい pp.8-9
  2. ^ 鹿島かしまはぎ麿まろ 1934, p. 36.
  3. ^ 世界せかい戦艦せんかん大艦だいかん巨砲きょほうへん 1998, p. 152aトルコ/じゅんよう戦艦せんかん「ヤウズ・スルタン・セリム」/ドイツから購入こうにゅうした「ヤウズ・スルタン・セリム」
  4. ^ a b c ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 70.
  5. ^ a b c d トルコきん現代げんだい 2001, p. 146.
  6. ^ ふつどく共同きょうどう通史つうしだいいち世界せかい大戦たいせん 2012, pp. 102a-104せんそう地理ちりてき拡大かくだいこころみの膠着こうちゃく
  7. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, pp. 152a-153トルコ/ヤウズ・スルタン・セリス
  8. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 87a-88開戦かいせん準備じゅんび
  9. ^ a b c d ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 72.
  10. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 81–84歴史れきしきざまれた作戦さくせん
  11. ^ a b c 壮烈そうれつ!ドイツ艦隊かんたい 1985, p. 12.
  12. ^ 世界せかい艦船かんせん近代きんだい巡洋艦じゅんようかん 2009, p. 36aドイツ/小型こがた巡洋艦じゅんようかん「マクデブルク」きゅう MAGDEBURG CLASS
  13. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 30–32「ブレスラウ」に配属はいぞくされる
  14. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 32–33通信つうしんちょう任命にんめいされる
  15. ^ 壮烈そうれつ!ドイツ艦隊かんたい 1985, pp. 10–12どくえい海軍かいぐん戦力せんりょくバランス
  16. ^ a b c d まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, pp. 152b-153.
  17. ^ 通俗つうぞくてき世界せかいぜん、16かん 1928, p. 334(原本げんぽん618-619ぺーじ)
  18. ^ 鹿島かしまはぎ麿まろ 1934, pp. 51–53地中海ちちゅうかい
  19. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 71.
  20. ^ ふつどく共同きょうどう通史つうしだいいち世界せかい大戦たいせんじょう 2012, p. 47.
  21. ^ 世界せかい戦艦せんかんいしゆみきゅう戦艦せんかんへん 1999, p. 162aヨーロッパ小国しょうこく海軍かいぐんいしゆみきゅう戦艦せんかん
  22. ^ ふつどく共同きょうどう通史つうしだいいち世界せかい大戦たいせん 2012, p. 102b.
  23. ^ 世界せかい戦艦せんかんいしゆみきゅう戦艦せんかんへん 1999, p. 162bトルコ RESHADVレシャド5せい(えい戦艦せんかんエリン)
  24. ^ 世界せかい戦艦せんかんいしゆみきゅう戦艦せんかんへん 1999, p. 160aブラジル、RIO DE JANEIRO リオデジャネイロ(えい戦艦せんかんエジンコート)
  25. ^ a b c d たて博士はかせ外交がいこう史論しろん文集ぶんしゅう 1946, p. 357原本げんぽんろくきゅう〇-ろくきゅういちぺーじ
  26. ^ 世界せかい戦艦せんかんいしゆみきゅう戦艦せんかんへん 1999, pp. 126–127(めぐよう戦艦せんかんモルトケ)
  27. ^ ジョーダン、戦艦せんかん 1988, pp. 112a-113トルコ/ヤヴースきゅう
  28. ^ 世界せかい艦船かんせん近代きんだい巡洋艦じゅんようかん 2009, p. 72〔戦利せんりかし供与きょうよかん〕トルコ/小型こがた巡洋艦じゅんようかん「ミディリ」MIDILI
  29. ^ a b ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 73.
  30. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 90–91たいロシア開戦かいせん
  31. ^ a b 通俗つうぞくてき世界せかいぜん、16かん 1928, pp. 286–289(原本げんぽん522-525ぺーじ)
  32. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, pp. 54–57クリミア併合へいごうよみがえるロシアの「南下なんか政策せいさく
  33. ^ 世界せかい戦艦せんかんいしゆみきゅう戦艦せんかんへん 1999, pp. 134–135, 138–139.
  34. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, pp. 7–9ロシア
  35. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, pp. 59–62.
  36. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, pp. 62–63「東方とうほう問題もんだい」の発生はっせい
  37. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, pp. 15–20対抗たいこう同盟どうめい
  38. ^ a b トルコきん現代げんだい 2001, p. 145.
  39. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, pp. 30–32.
  40. ^ 夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) 2017, pp. 507–513ボスポラス海峡かいきょうのドイツじん
  41. ^ 夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) 2017, pp. 513–514.
  42. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 88–90トルコの参戦さんせん決定けってい
  43. ^ 夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) 2017, pp. 518–519.
  44. ^ #大正たいしょう3、まれ軍備ぐんび pp.1-2
  45. ^ a b 世界せかい戦艦せんかん大艦だいかん巨砲きょほうへん 1998, p. 152b.
  46. ^ 夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) 2017, pp. 516–517.
  47. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 33–37.
  48. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 54a-57トリエステでドック
  49. ^ a b c ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 54b-57.
  50. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 58–60.
  51. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 69.
  52. ^ 鹿島かしまはぎ麿まろ 1934, p. 47.
  53. ^ 壮烈そうれつ!ドイツ艦隊かんたい 1985, p. 11.
  54. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, pp. 35–42開戦かいせん決定けってい
  55. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 64–65新生しんせいアルバニアの内乱ないらん
  56. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 65–66サラエボ事件じけん勃発ぼっぱつ
  57. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 66.
  58. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 67.
  59. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 73.
  60. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 68.
  61. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 82.
  62. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 84a-85メッシナ出港しゅっこうまでのてきがわ体制たいせい
  63. ^ a b c ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 84b.
  64. ^ a b c ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 71.
  65. ^ a b c ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 70.
  66. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 72.
  67. ^ a b c d e f ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 74.
  68. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 85a-86どくえいこう対照たいしょう指揮しき
  69. ^ a b c ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 75.
  70. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 76.
  71. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 77.
  72. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 85b.
  73. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 78.
  74. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 79a-80えいかんはら
  75. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 80a-81コンスタンチノープル入港にゅうこう
  76. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 79b-80.
  77. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 86.
  78. ^ a b ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 80b-81.
  79. ^ a b c d ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, pp. 87b-88.
  80. ^ 夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) 2017, pp. 722–723.
  81. ^ a b c d #大正たいしょう4、えい国交こっこう断絶だんぜつ p.1
  82. ^ 世界せかい艦船かんせん近代きんだい巡洋艦じゅんようかん 2009, p. 72a〔戦利せんりかし供与きょうよかん〕トルコ/小型こがた巡洋艦じゅんようかん「ミディリ」MIDILI
  83. ^ ドイツ海軍かいぐんたましい 1981, p. 83.
  84. ^ 帝国ていこく落日らくじつ(うえ) 2010, pp. 233–236聖戦せいせんとなえるトルコと対決たいけつ
  85. ^ a b 帝国ていこく落日らくじつ(うえ) 2010, pp. 261–263海軍かいぐんしょうウィンストン・チャーチル
  86. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 76.
  87. ^ 帝国ていこく落日らくじつ(うえ) 2010, pp. 263–269難攻不落なんこうふらく海峡かいきょういどだい艦隊かんたい
  88. ^ キーガン 2015, pp. 94–96.
  89. ^ 帝国ていこく落日らくじつ(うえ) 2010, pp. 288–290米国べいこく独立どくりつ戦争せんそう以来いらい最大さいだい敗北はいぼく
  90. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, p. 74.
  91. ^ キーガン 2015, pp. 96–97.
  92. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, p. 33サイクス=ピコ協定きょうていによるオスマン帝国ていこくりょう分割ぶんかつあん
  93. ^ ハワード、だいいち世界せかい大戦たいせん 2014, pp. 150–154中東ちゅうとう
  94. ^ 世界せかい艦船かんせん近代きんだい巡洋艦じゅんようかん 2009, p. 72b.
  95. ^ 帝国ていこく落日らくじつ(うえ) 2010, pp. 314–318たいトルコ政策せいさく反発はんぱつした白人はくじん自治領じちりょう
  96. ^ 池内いけうち、サイクス=ピコ協定きょうてい 2016, pp. 34–46セーヴル条約じょうやくからローザンヌ条約じょうやく
  97. ^ トルコきん現代げんだい 2001, pp. 180–188ローザンヌ条約じょうやくとトルコ共和きょうわこく成立せいりつ
  98. ^ 通俗つうぞくてき世界せかいぜん、17かん 1928, pp. 355–357(原本げんぽん665-669ぺーじ)
  99. ^ ジョーダン、戦艦せんかん 1988, pp. 112b-113.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 新井あらい正美まさみだいろくしょう だい立憲りっけんせい時代じだい(いちきゅうはちいちきゅういちはちねん)」『トルコきん現代げんだい イスラム国家こっかから国民こくみん国家こっか』みすず書房しょぼう、2001ねん4がつISBN 4-622-03388-7 
  • 池内いけうちめぐみだい2しょう 戦争せんそう東方とうほう問題もんだい時代じだい」『サイクス=ピコ協定きょうてい ひゃくねん呪縛じゅばく ちゅう東大とうだい混迷こんめい新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう選書せんしょ〉、2016ねん6がつISBN 978-4-10-603786-3 
  • ジョン・キーガンだいしょう 中核ちゅうかく時代じだい いちきゅういち〇 ~ いちねん」『チャーチル 不屈ふくつ指導しどうしゃ肖像しょうぞう富山とみやまふとし佳夫よしお 翻訳ほんやく岩波書店いわなみしょてん、2015ねん8がつ原著げんちょ2002ねん)。ISBN 978-4-00-023887-8 
  • クリストファー・クラーク「だいろくしょう 最後さいごのチャンス ― 緊張きんちょう緩和かんわデタント危機きき いちきゅういちいちよん」『夢遊病むゆうびょうしゃたち(2) だいいち世界せかい大戦たいせんはいかにしてはじまったか小原おはらあつし 翻訳ほんやく 、みすず書房しょぼう、2017ねん1がつISBN 978-4-622-08544-7 
  • ジョン・ジョーダン『戦艦せんかん AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS石橋いしばし孝夫たかお(わけ)、株式会社かぶしきがいしゃホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988ねん11月。ISBN 4-938461-35-8 
  • 編集へんしゅうじん 木津きづとおる発行はっこうじん 石渡いしわた長門ながと世界せかい艦船かんせん 2010.No.718 近代きんだい巡洋艦じゅんようかん株式会社かぶしきがいしゃ海人あましゃ〈2010ねん1がつごう増刊ぞうかん通算つうさんだい718ごう)〉、2009ねん12月。 
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかい岡田おかだ幸和ゆきかず谷井たにい建三けんぞう(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界せかい戦艦せんかん 〔 大艦だいかん巨砲きょほうへん 〕 THE BATTLESHIPS OF WORLD WAR II世界文化社せかいぶんかしゃ、1998ねん11月。ISBN 4-418-98140-3 
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかい岡田おかだ幸和ゆきかず瀬名せな堯彦、谷井たにい建三けんぞう(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界せかい戦艦せんかん 〔 いしゆみきゅう戦艦せんかんへん 〕 BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE世界文化社せかいぶんかしゃ、1999ねん3がつISBN 4-418-99101-8 
  • カール・デーニッツ『ドイツ海軍かいぐんたましい デーニッツ元帥げんすい自伝じでん山中やまなかしずさん やくはら書房しょぼう、1981ねん12月。ISBN 4-562-01191-2 
    • だいさんしょう いちきゅういちいちよんねん 巡洋艦じゅんようかん「ブレスラウ」/だいよんしょう 1914ねん大戦たいせん勃発ぼっぱつだいしょう 「ブレスラウ」がトルコかん「ミディリ」となる
  • マイケル・ハワードだいいち世界せかい大戦たいせん馬場ばばゆう法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱん、2014ねん9がつISBN 978-4-588-36607-9 
  • リチャード・ハンブル「1 だいいち大戦たいせんのドイツ艦隊かんたい」『壮烈そうれつ!ドイツ艦隊かんたい 悲劇ひげき戦艦せんかん「ビスマルク」実松さねまつゆずる やく、サンケイ出版しゅっぱんだい世界せかい大戦たいせん文庫ぶんこ(26)〉、1985ねん12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ『ふつどく共通きょうつう通史つうし だいいち世界せかい大戦たいせんうえ)』剣持けんもち久木ひさき西山にしやまあきら やく岩波書店いわなみしょてん、2012ねん3がつISBN 978-4-00-023796-3 
  • ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ『ふつどく共通きょうつう通史つうし だいいち世界せかい大戦たいせんした)』剣持けんもち久木ひさき西山にしやまあきら やく岩波書店いわなみしょてん、2012ねん3がつISBN 978-4-00-023797-0 
  • 月間げっかん雑誌ざっしまる編集へんしゅうへんまる季刊きかん ぜん特集とくしゅう 写真しゃしんしゅう 世界せかい戦艦せんかん ふつソ、ほか10ヶ国かこく戦艦せんかんのすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977株式会社かぶしきがいしゃしお書房しょぼうまる Graphic・Quarterly だい29ごう〉、1977ねん7がつ 
  • ジャン・モリス帝国ていこく落日らくじつ上巻じょうかん〕 パックス・ブリタニカ完結かんけつへんむくでん直子なおこ 翻訳ほんやく株式会社かぶしきがいしゃ講談社こうだんしゃ、2010ねん9がつ原著げんちょ1978ねん)。ISBN 978-4-06-215247-1 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき
    • 外事がいじ彙報いほう 大正たいしょう3年度ねんど(せい-85)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)だいよんごう/○まれ両国りょうこくあいだ葛藤かっとう』。Ref.B02130343500。 
    • 外事がいじ彙報いほう 大正たいしょう3年度ねんど(せい-85)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)だいよんごう/○まれ両国りょうこくあいだ軍備ぐんび現況げんきょう』。Ref.B02130343600。 
    • 外事がいじ彙報いほう 大正たいしょう4年度ねんど(せい-86)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)だいいちごう/○えい国交こっこう断絶だんぜつ顛末てんまつせきスル英国えいこく政府せいふ白書はくしょ摘要てきよう』。Ref.B02130352100。 
    • 各国かっこくヨリ帝国ていこく艦艇かんてい譲受ゆずりうけかた申出もうしで関係かんけい雑件ざっけん(5-1-8-0-31)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)3.こく』。Ref.B07090410500。 
    • 『「本戦ほんせんそう中東ちゅうとう地中海ちちゅうかい方面ほうめんニ於ケル作戦さくせん梗概こうがい(御前ごぜん講演こうえんろくがつじゅうななにち)海軍かいぐん中佐ちゅうさ 森田もりたのぼる」、奏聞そうもん及御ぜん講演こうえん まき3大正たいしょう8ねん3がつ31にち~14ねん9がつ24にち(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)』。Ref.C11081068700。 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]