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メルス・エル・ケビールの要塞 ようさい
1953年 ねん に撮 と られたメルス・エル・ケビール
メルス・エル・ケビール (アラビア語 ご : المرسى الكبير al-marsā al-kabīr , フランス語 ふらんすご : Mers El Kébir )は、アルジェリア の都市 とし 。メルス・エル・ケビール(アル=マルサー・アル=カビール)とはアラビア語 ご で「大 おお きな港 みなと 」を意味 いみ し、その名 な の通 とお り地中海 ちちゅうかい に面 めん する港町 みなとちょう である。オラン 市 し の西 にし 隣 となり に位置 いち し、オラン県 けん に属 ぞく する。
メルス・エル・ケビールはロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい に建設 けんせつ され、12世紀 せいき にはムワッヒド朝 あさ (アルモハード朝 あさ )によって海軍 かいぐん 基地 きち が置 お かれた。15世紀 せいき にはトレムセン のザイヤーン朝 あさ の支配 しはい 下 か に入 はい ったものの、1492年 ねん には海賊 かいぞく の支配 しはい 下 か となった。その後 ご 短期間 たんきかん にオスマン帝国 ていこく やポルトガル の占領 せんりょう 下 か に入 はい ったのち、1505年 ねん にはスペイン のフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス 枢機卿 すうききょう の軍 ぐん によって占領 せんりょう された。
シスネロスはここを拠点 きょてん に隣接 りんせつ するオランの攻略 こうりゃく を目指 めざ したが、1509年 ねん にメルス・エル・ケビールを襲 おそ った災害 さいがい によって断念 だんねん を余儀 よぎ なくされた。スペインは1708年 ねん までこの街 まち を支配 しはい したが、同年 どうねん オスマン帝国 ていこく のベイであるムスタファ・ベン・ユーセフによって追放 ついほう された。スペインは1732年 ねん にモンテマール公爵 こうしゃく の指揮 しき の元 もと メルス・エル・ケビールに再 ふたた び来襲 らいしゅう し、アイン・エッ=トゥルクの戦 たたか いに勝利 しょうり してメルス・エル・ケビールとオランを奪取 だっしゅ した。その後 ご はスペイン領 りょう となったものの、1792年 ねん にカルロス4世 せい はオスマン帝国 ていこく のアルジェ知事 ちじ に両市 りょうし を売却 ばいきゃく した。
1830年 ねん にはフランス 領 りょう となり、市 し 名 めい はサン・タンドレ・ド・メルス・エル・ケビール(Saint André de Mers-el-Kébir)と改称 かいしょう された。1868年 ねん には港湾 こうわん 機能 きのう が強化 きょうか され大 だい 灯台 とうだい が建設 けんせつ された[1] が、灯台 とうだい は第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に破壊 はかい された。
1940年 ねん 7月 がつ 3日 にち にはイギリス海軍 かいぐん とヴィシー・フランス のフランス海軍 かいぐん との間 あいだ で港内 こうない にてメルセルケビール海戦 かいせん が勃発 ぼっぱつ した。第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご もフランス軍 ぐん はこの港 みなと を海軍 かいぐん 基地 きち として使 つか い続 つづ け、1962年 ねん に締結 ていけつ されたアルジェリア独立 どくりつ のためのエビアン協定 きょうてい においても、フランス軍 ぐん は15年間 ねんかん メルス・エル・ケビール港 みなと を使用 しよう し続 つづ ける権利 けんり を獲得 かくとく したが、実際 じっさい には5年 ねん 後 ご にはフランス軍 ぐん はすべて撤退 てったい した。