軍法ぐんぽう会議かいぎ

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軍法ぐんぽう会議かいぎ(ぐんぽうかいぎ、court martial)とは、しゅとして軍人ぐんじんたい司法しほうけん行使こうしする軍隊ぐんたいうち機関きかん一般いっぱんてきにはぐん刑事けいじ裁判さいばんところとしてられる。軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ軍事ぐんじ法廷ほうていとも。

概要がいよう[編集へんしゅう]

おおくのくににおいては、当該とうがいこく軍隊ぐんたいについて軍法ぐんぽう会議かいぎ設置せっちされている。そのしゅたる目的もくてき軍紀ぐんき軍人ぐんじん軍属ぐんぞく紀律きりつ)を維持いじすることにあるが、近代きんだい以降いこうでは副次的ふくじてき軍人ぐんじん権利けんり擁護ようご目的もくてきとなる。また、軍法ぐんぽう会議かいぎとともに軍紀ぐんき維持いじ達成たっせいするための機関きかんとして、軍隊ぐんたいないには警察けいさつ機関きかん憲兵けんぺい)や検察けんさつ機関きかん法務ほうむ士官しかん)、軍事ぐんじ刑務所けいむしょ矯正きょうせい機関きかんといった一連いちれん刑事けいじ機構きこう司法しほう機関きかんもうけられている。

軍紀ぐんき維持いじする機関きかん古代こだいから存在そんざいしている。たとえば、日本にっぽんでもたたかえ目付めつけにそれをることができる。軍法ぐんぽう会議かいぎについては、イングランドエドワード1せい法律ほうりつ1279ねん)に軍法ぐんぽう会議かいぎ規定きていつけることができる。近代きんだいほうてき軍法ぐんぽう軍法ぐんぽう会議かいぎは、1621ねんスウェーデングスタフ2せいさだめた法典ほうてんはじまりといわれ、諸国しょこく影響えいきょうあたえた。

裁判さいばん管轄かんかつ行使こうしする司法しほうけんその各種かくしゅ制度せいど機構きこうは、くにによりことなる。たとえば、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうした日本にっぽんでは軍事ぐんじ司法しほうけんとして一般いっぱん司法しほう手続てつづきから完全かんぜん独立どくりつしていたが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは独立どくりつしておらず、連邦れんぽう最高裁さいこうさい審査しんさおよぶ。通常つうじょう裁判さいばんくらべると、職業しょくぎょう裁判官さいばんかんではない軍人ぐんじん裁判官さいばんかんやくになう、機密きみつ保持ほじなどの理由りゆうから審理しんり非公開ひこうかい迅速じんそくせい重視じゅうしして上訴じょうそ制限せいげんされるなど手続てつづき保障ほしょうよわ傾向けいこうがある。軍法ぐんぽう会議かいぎ常設じょうせつはしていないくにもある。戦時せんじ軍人ぐんじん以外いがい軍隊ぐんたいさばじゅん司法しほう機関きかんとして軍律ぐんりつ会議かいぎ制度せいどゆうするれいもある。

各国かっこく軍法ぐんぽう会議かいぎ[編集へんしゅう]

日本にっぽん[編集へんしゅう]

大日本帝国だいにっぽんていこく陸海りくかいぐん[編集へんしゅう]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

日本にっぽん軍法ぐんぽう会議かいぎは、1869ねん兵部ひょうぶしょうかれた「糺問きゅうもん(きゅうもんし)」をはじめとする。その1872ねん陸海りくかいぐんに「軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ陸軍りくぐん裁判所さいばんしょ海軍かいぐん裁判所さいばんしょ)」が設置せっちされ、1882ねんには「軍法ぐんぽう会議かいぎ」になった。1883ねんには「りく軍治ぐんじざいほう」(刑事けいじ訴訟そしょうほう相当そうとうする)、1884ねんには「海軍かいぐんざいほう」が制定せいていされ、1921ねん陸海りくかい軍治ぐんじざいほう廃止はいしし、あらたに「陸軍りくぐん軍法ぐんぽう会議かいぎほう」・「海軍かいぐん軍法ぐんぽう会議かいぎほう」を制定せいていした。

1941ねん太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、1944ねん7がつまでに高等こうとう軍法ぐんぽう会議かいぎのぞく、すべての常設じょうせつ軍法ぐんぽう会議かいぎ廃止はいしされ、臨時りんじ軍法ぐんぽう会議かいぎ移行いこうした。戦局せんきょく悪化あっかともに、てきちゅう孤立こりつする部隊ぶたい増加ぞうかし、1945ねんになると法務ほうむかん不在ふざいでも軍法ぐんぽう会議かいぎ開廷かいていできるように処置しょちされた。同年どうねん厚木あつぎ航空こうくうたい事件じけん小園こぞのやすしめいらがさばかれたのが、日本にっぽん海軍かいぐん最後さいご軍法ぐんぽう会議かいぎとなった。内地ないち軍法ぐんぽう会議かいぎは1945ねん12月廃止はいしされ、その記録きろくすべ地方裁判所ちほうさいばんしょ移管いかんされた。外地がいちにおいては1947ねん2がつまで、軍法ぐんぽう会議かいぎ存続そんぞくし、終戦しゅうせんうしろでも、敵前てきぜん逃亡とうぼう上官じょうかん殺傷さっしょうなどで審判しんぱんおこなわれるれいすくなくなかった。

だいいち復員ふくいん裁判所さいばんしょ及第きゅうだい復員ふくいん裁判所さいばんしょれい」(1945ねん11月24にちみことのりれいだい658ごう)により、高雄たかお警備けいび軍法ぐんぽう会議かいぎのぞ軍法ぐんぽう会議かいぎ廃止はいしされ、復員ふくいん裁判所さいばんしょ臨時りんじ設置せっちされた。さらに「昭和しょうわじゅうねんみことのりれいだいひゃくよんじゅうごう「ポツダム」宣言せんげん受諾じゅだくともはつスル命令めいれいせきスルけんもと陸軍りくぐん軍法ぐんぽう会議かいぎほう海軍かいぐん軍法ぐんぽう会議かいぎほう及第きゅうだいいち復員ふくいん裁判所さいばんしょ及第きゅうだい復員ふくいん裁判所さいばんしょれい廃止はいしせきスルけん」(1946ねん5月18にちみことのりれいだい278ごう)が制定せいていされ、1947ねん陸軍りくぐん刑法けいほう廃止はいしにともなうどうほう改正かいせいにより、日本にっぽん軍法ぐんぽう会議かいぎ制度せいど完全かんぜん消滅しょうめつした[1]

制度せいど趣旨しゅし[編集へんしゅう]

軍法ぐんぽう会議かいぎ目的もくてきは、「軍隊ぐんたい指揮しきけん強固きょうこ維持いじし、指揮しき命令めいれい系統けいとうまもる」ことにある。かならずしも真実しんじつ発見はっけん優先ゆうせんされるわけではない。したがって軍隊ぐんたい指揮しきけんしゃと、軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかんとはかなら兼任けんにんされる。大日本帝国だいにっぽんていこくぐん軍法ぐんぽう会議かいぎ場合ばあいおや補職ほしょくにある軍隊ぐんたい指揮しきかん具体ぐたいてきには師団しだんちょう以上いじょう)が軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかんとなり、検察官けんさつかんによる捜査そうさ公訴こうそ指揮しきした。

もっとも、軍法ぐんぽう会議かいぎ天皇てんのう統帥とうすい大権たいけんるものではなく、天皇てんのう司法しほう大権たいけんるものとかんがえられたため、通常つうじょう裁判所さいばんしょ同様どうように、被告人ひこくにん防御ぼうぎょけんにも配慮はいりょはらわれた。具体ぐたいてきには、弁護人べんごにん依頼いらいけん保証ほしょう重罪じゅうざい事件じけんにおける必要ひつようてき弁護べんご制度せいど会議かいぎ公開こうかい原則げんそく上訴じょうそけん保障ほしょうである。

構成こうせい[編集へんしゅう]
軍法ぐんぽう会議かいぎ種類しゅるい[編集へんしゅう]

軍法ぐんぽう会議かいぎ原則げんそくとして、現役げんえき軍人ぐんじん軍属ぐんぞくおよびそれにじゅんじるもの召集しょうしゅうちゅう軍人ぐんじん俘虜ふりょ)を対象たいしょうとし、民間みんかんじん共犯きょうはんである場合ばあいぐん関係かんけいのからむ特定とくてい犯罪はんざい場合ばあいかぎられていたが、戦時せんじおよびそれにじゅんじる場合ばあい事変じへん)であれば、その必要ひつようおうじて管轄かんかつされることがあった(陸軍りくぐん軍法ぐんぽう会議かいぎほうだい6じょう)。常設じょうせつ軍法ぐんぽう会議かいぎとして、陸軍りくぐんでは高等こうとう軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん陸軍りくぐん大臣だいじん)、ぐん軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかんぐん司令しれいかん)、師団しだん軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん師団しだんちょう)があり、海軍かいぐんでは高等こうとう軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん海軍かいぐん大臣だいじん)、東京とうきょう軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん海軍かいぐん大臣だいじん)、鎮守ちんじゅ軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん)、警備けいび軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん警備けいび長官ちょうかん)、艦隊かんたい軍法ぐんぽう会議かいぎ長官ちょうかん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)がかれていた。

それ以外いがい戦時せんじ事変じへんさいして臨時りんじに、一定いってい部隊ぶたい地域ちいき設置せっちされる特設とくせつ軍法ぐんぽう会議かいぎ存在そんざいした。

高等こうとう軍法ぐんぽう会議かいぎ場合ばあい兵科へいか将校しょうこうより任命にんめいされるはん3めいと、法曹ほうそう資格しかく取得しゅとくしてぐん任用にんようされた法務ほうむかん文官ぶんかん、1943ねん以降いこう武官ぶかんたる法務ほうむ将校しょうこう)2めい裁判官さいばんかんとして合議ごうぎたい構成こうせいした。それ以外いがい常設じょうせつ軍法ぐんぽう会議かいぎでは、はん4めい法務ほうむかん1めい定数ていすうである。少将しょうしょう以上いじょう被告ひこくとする事件じけんは、高等こうとう軍法ぐんぽう会議かいぎ所管しょかんであった。

特設とくせつ軍法ぐんぽう会議かいぎおも最前線さいぜんせんなどで簡易かんい処罰しょばつおこなうために設置せっちされたものであり、ぐん少尉しょうい以上いじょう士官しかんが3にんあつまればどのような場所ばしょでも即時そくじ開催かいさい可能かのうであった。対象たいしょうとなる行為こうい敵前てきぜん逃亡とうぼうこういのちなどの重罪じゅうざいである場合ばあいがほとんどであり、弁護べんご公開こうかい上告じょうこくみとめられていなかった。

二・二六事件ににろくじけんでは、軍法ぐんぽう会議かいぎほうではなく、緊急きんきゅうみことのりれいによって設置せっちされた東京とうきょう陸軍りくぐん軍法ぐんぽう会議かいぎ審判しんぱんおこなわれたので、非公開ひこうかいいちしんのみの裁判さいばんとなった。

太平洋戦争たいへいようせんそうでは戦況せんきょう悪化あっかともない、食糧しょくりょう補給ほきゅういので食料しょくりょうさがしに部隊ぶたい無断むだんはなれる兵士へいしおおくなり、上官じょうかん殺傷さっしょう軍紀ぐんきみだれがり、軍法ぐんぽう会議かいぎにかけず処刑しょけいされた兵士へいしおおく、変死へんしひら病死びょうし特攻とっこうとしていやられた。

はん制度せいど[編集へんしゅう]

日本にっぽん軍法ぐんぽう会議かいぎは、法律ほうりつ知識ちしきとぼしい兵科へいか将校しょうこうたるばん裁判官さいばんかんとなっていたことについて、批判ひはんけることがある。はん階級かいきゅうは、「下級かきゅうしゃ上級じょうきゅうしゃ審判しんぱんせず」との原則げんそくによって、被告人ひこくにん同等どうとうか、それ以上いじょう階級かいきゅうのものが選定せんていされた。

法律ほうりつ知識ちしきとぼしいはんのみによる裁判さいばんでは、適正てきせい手続てつづき保障ほしょう十分じゅうぶんではないことから、法曹ほうそう資格しかくゆうする法務ほうむかん検察官けんさつかんとして訴追そついおこなわせ、また法務ほうむかん裁判官さいばんかんくわえることで裁判さいばん適正てきせい担保たんぽしようとしていた。裁判さいばんちょうはんがつとめた。弁護人べんごにん原則げんそくとして弁護士べんごしから選任せんにんされた。

自衛隊じえいたい[編集へんしゅう]

1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ3にち施行しこうされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい76じょうだい2こうにおいて特別とくべつ裁判所さいばんしょ設置せっちきんじられているため、1954ねん昭和しょうわ29ねん)7がつ1にち創設そうせつ以降いこうりくうみそら自衛隊じえいたい軍法ぐんぽう会議かいぎ存在そんざいしない。自衛じえいかん自衛隊じえいたいいんによる犯罪はんざいは、たとえ自衛隊じえいたいほう規定きていされたものであっても、警務けいむかん捜査そうさおこなったうえで、検察官けんさつかん送致そうちし、一般いっぱん日本にっぽん裁判所さいばんしょさばかれる。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく[編集へんしゅう]

グアンタナモまいぐん基地きちうち軍事ぐんじ法廷ほうてい

アメリカぐんにおいては、統一とういつ軍事ぐんじ裁判さいばんほうもとづいて招集しょうしゅうされ、おかしたとされる罪状ざいじょう訴追そついされたもの階級かいきゅうにより、高等こうとう師団しだんちょう少将しょうしょう以上いじょう招集しょうしゅうし、すべてのもの重大じゅうだい犯罪はんざい対象たいしょう)・特別とくべつ旅団りょだんちょう大佐たいさ以上いじょう招集しょうしゅうし、すべてのもの重大じゅうだいではない犯罪はんざい対象たいしょう)・簡易かんい大隊だいたいちょう中佐ちゅうさ以上いじょう招集しょうしゅうし、下士官かしかん以下いかもの重大じゅうだいではない犯罪はんざい対象たいしょう)のみっつにかれる。

一般いっぱんてき刑事けいじ裁判さいばん類似るいじしてはいるが、相違そういてんとして、

  1. 審理しんりは、ぐん判事はんじ単独たんどく、あるいは被告人ひこくにん上官じょうかん複数ふくすうおこなうこと。
  2. 有罪ゆうざい認定にんていされ、会議かいぎ招集しょうしゅうけんしゃがそれを承認しょうにんすることで有罪ゆうざい確定かくていすること。

などがある。

アメリカぐんでは軍法ぐんぽう会議かいぎまえ査問さもん委員いいんかいひらかれて証拠しょうこあつめや調書ちょうしょ作成さくせいなどがおこなわれる[よう出典しゅってん]査問さもん委員いいんかいだいいちしん相当そうとうするが裁判さいばんにはたらないため、陪審ばいしんいん選出せんしゅつされない。査問さもん委員いいんかい軍法ぐんぽう会議かいぎ審議しんぎするほどの重大じゅうだい事件じけんではいと判断はんだんされた場合ばあい通常つうじょう刑法けいほう起訴きそ処分しょぶん該当がいとうする)には統一とういつ軍事ぐんじ裁判さいばんほうだい15じょうもとづいて懲戒ちょうかい処分しょぶんにされる場合ばあいおおい。えひめまる事故じこでは統一とういつ軍事ぐんじ裁判さいばんほうだい15じょうによる減給げんきゅう処分しょぶんのみで軍法ぐんぽう会議かいぎひらかれていない。また、査問さもん委員いいんかいにおいても、原告げんこく被告ひこく司法しほう取引とりひき合意ごういいたれば、査問さもん委員いいんかい決定けっていによらずに処分しょぶん確定かくていする。

査問さもん委員いいんかい軍法ぐんぽう会議かいぎにかけると決定けっていくだされたときに、正式せいしき軍法ぐんぽう会議かいぎひらかれる。軍法ぐんぽう会議かいぎだいしん相当そうとう正式せいしき裁判さいばんたるため、軍人ぐんじん階級かいきゅうわない)から陪審ばいしんいん選出せんしゅつされる(べい国民こくみんは、陪審ばいしんによる裁判さいばんける権利けんり憲法けんぽうによって保証ほしょうされているため)。陪審ばいしんいんは、事実じじつ認定にんていおよび訴因そいんたいする有罪ゆうざい無罪むざい判断はんだんおこなう。なお、軍法ぐんぽう会議かいぎにおいても、原告げんこく被告ひこく司法しほう取引とりひき合意ごういいたれば、判事はんじ判決はんけつによらずに処分しょぶん確定かくていする。上訴じょうそ最終さいしゅうしん)は、軍法ぐんぽう会議かいぎ判決はんけつ憲法けんぽうあるいは法令ほうれい重大じゅうだい判断はんだんあやまりがある場合ばあいや、被告ひこく十分じゅうぶん弁護べんご機会きかいあたえられなかった場合ばあいなどにかぎられる。

ベトナム戦争せんそうなかソンミむら虐殺ぎゃくさつ事件じけんではおおくの乳幼児にゅうようじふくむ504めいベトナム住民じゅうみん惨殺ざんさつされたにもかかわらず、軍法ぐんぽう会議かいぎ指揮しきをとったウィリアム・カリー中尉ちゅうい当初とうしょ終身しゅうしんけい判決はんけつ最終さいしゅうてきには3ねんはん懲役ちょうえき期間きかん仮釈放かりしゃくほうおこなっているなど、戦時せんじにおける殺人さつじんざいたいしてあまいとも批判ひはんされた判決はんけつされている。また、1955ねんべいぐん統治とうち沖縄おきなわ嘉手納かでなむら現在げんざい沖縄おきなわけん中頭なかがみぐん嘉手納かでなまち)で発生はっせいした「由美子ゆみこちゃん事件じけん」では、事件じけん当時とうじ嘉手納かでな基地きち所属しょぞく軍曹ぐんそうだったおとこ軍事ぐんじ法廷ほうてい死刑しけい判決はんけつをいいわたされたが、本国ほんごく送還そうかんアイゼンハワーべい大統領だいとうりょう裁決さいけつによって「仮釈放かりしゃくほうみとめない重労働じゅうろうどうけい45ねん」に減刑げんけいされ、のちに「仮釈放かりしゃくほうみとめない」という条件じょうけん反故ほごにされるかたち仮釈放かりしゃくほうみとめられ、死後しごべい政府せいふから墓石はかいし提供ていきょうけていた[ちゅう 1]ことが判明はんめいしている[3]

1976ねん以降いこう死刑しけい判決はんけつけた軍人ぐんじんが7めいいるが、1961ねん4がつ以来いらい執行しっこうされていないため、この7めいについては事実じじつじょう無期むき禁錮きんこけい同様どうようになっており、現在げんざいのアメリカぐんでは死刑しけい停止ていし状態じょうたいになっている。

だい世界せかい大戦たいせんさい徴兵ちょうへいされて最前線さいぜんせん部隊ぶたい配属はいぞくされたエドワード・スロヴィク後方こうほう部隊ぶたい転属てんぞくねがたものの、上官じょうかん拒否きょひしたため脱走だっそうはかり、軍法ぐんぽう会議かいぎ結果けっか死刑しけいしょされた。これが、南北戦争なんぼくせんそうから現在げんざいまでのアメリカぐんにおける脱走だっそう敵前てきぜん逃亡とうぼう死刑しけい判決はんけつけて、実際じっさい銃殺じゅうさつ執行しっこうされた唯一ゆいいつれいである。

スロバキア[編集へんしゅう]

スロバキアでは民主みんしゅ連邦れんぽう解消かいしょうこう特別とくべつ裁判所さいばんしょ軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ(Vojenský súd)制度せいど維持いじされ、トレンチーン高等こうとう軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ(Vyšší vojenský súd)が、西部せいぶ中部ちゅうぶ東部とうぶかくぐん司令しれいごとにわせて8つの軍事ぐんじ巡回じゅんかい裁判所さいばんしょ(Vojenské obvodové súdy)がかれた。スロバキア共和きょうわこく軍人ぐんじん国内こくない他国たこく軍人ぐんじん戦争せんそう犯罪はんざいひとによる犯罪はんざいのほか、刑事けいじ訴訟そしょうほう規定きていにより、武力ぶりょく保有ほゆう組織そしきである内務省ないむしょう所管しょかん国家こっか警察けいさつたい(Policajný zbor)、刑務けいむ法務ほうむたい(Zboru väzenskej a justičnej stráže)、運輸うんゆ郵政ゆうせい通信つうしんしょう所管しょかん鉄道てつどう警察けいさつ(Železničná polícia)のかく警察けいさつ職員しょくいんと、国家こっか安全あんぜん保障ほしょうきょく職員しょくいんスロバキア情報じょうほうちょう(Slovenská informačneá službá)職員しょくいん税関ぜいかん職員しょくいんによる犯罪はんざい裁判さいばん対象たいしょうとし、ぐん検察けんさつ訴追そついした(武装ぶそう自治体じちたい警察けいさつ対象たいしょうがい)。

社会しゃかい主義しゅぎ時代じだい名残なごりで、欧州おうしゅう連合れんごう加盟かめいこくでは唯一ゆいいつ通常つうじょう裁判所さいばんしょ警察官けいさつかん犯罪はんざいさばくことができない司法しほう制度せいどとなっていたが、2008ねん3がつ刑事けいじ訴訟そしょうほう改正かいせい刑務けいむ法務ほうむたい以外いがい軍人ぐんじん軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ管轄かんかつから除外じょがい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ制度せいど2009ねん4がつ廃止はいしされ、所轄しょかつ通常つうじょう裁判所さいばんしょ統合とうごうされた[4]

オランダ[編集へんしゅう]

オランダでは軍人ぐんじん軍属ぐんぞく犯罪はんざいはアンヘムにある一般いっぱん裁判所さいばんしょ特別とくべつ軍事ぐんじ部門ぶもんによって審理しんりされる。当該とうがい部門ぶもんにおける裁判さいばん軍人ぐんじんはんいちめい文民ぶんみん裁判官さいばんかんめい合議ごうぎたいによっておこなわれる。

敗北はいぼく責任せきにん軍法ぐんぽう会議かいぎ[編集へんしゅう]

くにによっては、軍法ぐんぽうなどにおいて、戦闘せんとう敗北はいぼくしたことを犯罪はんざいとする規定きていいていることがある。その場合ばあい軍法ぐんぽう会議かいぎにおいて敗北はいぼく責任せきにんさばかれることになる。ぎゃくにかかる規定きてい場合ばあい敗北はいぼく責任せきにんについて軍法ぐんぽう会議かいぎさば刑事けいじばつあたえることは、近代きんだいにおいては罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎ観点かんてんから問題もんだいがある。

軍法ぐんぽう会議かいぎ敗北はいぼく責任せきにんわれ銃殺じゅうさつけいになったれいとして、ジョン・ビング提督ていとく(John Byng:イギリス海軍かいぐん)がげられる。

日本にっぽんでは、陸軍りくぐん刑法けいほう海軍かいぐん刑法けいほうには、敗北はいぼくつたな戦術せんじゅつ指揮しきそのものを犯罪はんざいとする規定きていかれなかった。敗北はいぼくにつながるような指揮しきかん行為こうい処罰しょばつする規定きていとしては、てき有利ゆうりにする目的もくてき利敵りてき行為こういばっする規定きていや、部隊ぶたいひきいての降伏ごうぶく守備しゅび位置いち離脱りだつばっするはずかしめしょくざいなどの限定げんていてき規定きていがあった。なお、ノモンハン事件じけんでのおけさかえいち中佐ちゅうさのように自決じけつ強要きょうようされる場合ばあいがあった[よう出典しゅってん]一方いっぽうミッドウェー海戦かいせん敗北はいぼくした山口やまぐち多聞たもん提督ていとく退すさかんせずかん運命うんめいをともにしたように、指揮しきかん自責じせきとして自決じけつする事態じたいもあった。

副産物ふくさんぶつ[編集へんしゅう]

敗北はいぼく責任せきにん軍法ぐんぽう会議かいぎではかく局面きょくめんでの指揮しき命令めいれい妥当だとうせいおよ彼我ひが戦力せんりょく状況じょうきょう装備そうび効果こうかなども軍事ぐんじ専門せんもん構成こうせいされるはんたちにより検討けんとうされる。このため実戦じっせんもとづくせんくんへいそう不具合ふぐあい改良かいりょうてん発見はっけんなどが副産物ふくさんぶつとしてられる場合ばあいもある。

軍法ぐんぽう会議かいぎ問題もんだいてん[編集へんしゅう]

軍法ぐんぽう会議かいぎには以下いかのような問題もんだいてん指摘してきされる。

  1. ぐんというせま組織そしきなかおこなわれるため、どうしても「身内みうち同士どうしのかばいい」や「組織そしき防衛ぼうえい」がこりがちで、外部がいぶからの不信ふしんまねきやすい(ソンミむら虐殺ぎゃくさつ事件じけんえひめまる事故じこ)。ては占領せんりょうちゅう沖縄おきなわで1945ねん軍法ぐんぽう会議かいぎ有罪ゆうざい評決ひょうけつをワシントンの本省ほんしょう破棄はき無罪むざいとした事例じれいがあったこと確認かくにんされた[5]
  2. 下士官かしかんへいなどは厳格げんかくさばかれることがおお一方いっぽう将校しょうこうとく高級こうきゅう将校しょうこうたいする判決はんけつ寛大かんだいであることがおおく、ぐん内部ないぶ上層じょうそうへの反感はんかんまれることがおおい(富永とみなが恭次きょうじなど)。
  3. 政治せいじてき理由りゆうなどにより、ほう量刑りょうけい相場そうばにそぐわない恣意しいてき判決はんけつることがある(チャールズ・ジェンキンス)。このような問題もんだいてんがあるため、現在げんざいドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくのように「ぐん刑法けいほう」のみさだめ、「軍法ぐんぽう会議かいぎ自体じたい廃止はいししているくにもある。

軍法ぐんぽう会議かいぎあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 通常つうじょう軍法ぐんぽう会議かいぎ有罪ゆうざいしょされたり、死刑しけいあたいする重罪じゅうざいないし特定とくていせい犯罪はんざいおかした人物じんぶつは、退役たいえき軍人ぐんじんたいする恩典おんてんの1つである墓石はかいし提供ていきょうけられない[2]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 「ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくともなはっする命令めいれいかんするけんもとづ陸軍りくぐん刑法けいほう廃止はいしするひとし政令せいれい昭和しょうわ22ねん5がつ17にち政令せいれいだい52ごう)」改正かいせい法令ほうれい一覧いちらん- 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん日本法令にほんほうれい索引さくいん
  2. ^ 沖縄おきなわタイムス』2021ねん9がつ26にち朝刊ちょうかんだい1はんだいいち社会しゃかいめん25ぺーじべい政府せいふ 幼女ようじょ暴行ぼうこう殺害さつがい米兵べいへい 墓石はかいし提供ていきょう 資料しりょう収集しゅうしゅうへ」(沖縄おきなわタイムスしゃ
  3. ^ 沖縄おきなわタイムス』2021ねん9がつ23にち朝刊ちょうかんだい1はん総合そうごうめん1ぺーじ「【ジョン・ミッチェル特約とくやく通信員つうしんいん】55ねん嘉手納かでな幼女ようじょ暴行ぼうこう殺害さつがい 死刑しけい米兵べいへい 22ねん仮釈放かりしゃくほう 嘆願たんがんしょに「政治せいじ犠牲ぎせい政府せいふ 墓石はかいし提供ていきょう」(沖縄おきなわタイムスしゃ
  4. ^ "Vojenské súdy od apríla zaniknú" SME電子でんしばん)、2008ねん8がつ27にちづけ(スロバキア
  5. ^ 軍法ぐんぽう会議かいぎ有罪ゆうざいべい破棄はき 沖縄おきなわせん米兵べいへい強姦ごうかん事件じけん 沖縄おきなわタイムス2013ねん6がつ19にち
  6. ^ 戦場せんじょう軍法ぐんぽう会議かいぎ処刑しょけいされた日本にっぽんへい

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • だい東亜とうあ戦争せんそう日本にっぽん陸軍りくぐんにおける犯罪はんざいおよ非行ひこうかんするいち考察こうさつ弓削ゆげ欣也きんや戦史せんし研究けんきゅう年報ねんぽう2007-03 防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ[1][2]
  • 防衛ぼうえい司法しほう制度せいど検討けんとう現代げんだいてき意義いぎ日本にっぽん将来しょうらい方向ほうこうせい―』奥平おくだいら穣治じょうじ防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ[3]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]