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連邦 れんぽう 制 せい 解消 かいしょう を受 う けて高速 こうそく 道路 どうろ D2号 ごう (通称 つうしょう ・ブラチスラヴァ高速 こうそく 、ブルノ-ブラチスラヴァ間 あいだ )のチェコ・スロバキア国境 こっきょう 上 じょう に新設 しんせつ された検問 けんもん 所 しょ の建物 たてもの 。シェンゲン協定 きょうてい に基 もと づき2007年 ねん 末 まつ に廃止 はいし (2009年 ねん 撮影 さつえい )
ビロード離婚 りこん (ビロードりこん、英 えい : velvet divorce )は、チェコ とスロバキア の両 りょう 共和 きょうわ 国 こく によって1993年 ねん 1月 がつ 1日 にち に実施 じっし されたチェコおよびスロバキア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の連邦 れんぽう 制 せい 解消 かいしょう 。チェコおよびスロバキアでは単 たん に「チェコスロバキア解散 かいさん 」(チェコ語 ご : Zánik Československa [1] 、スロバキア語 ご : Zánik Česko-Slovenska )または「チェコスロバキア分離 ぶんり 」(チェコ語 ご : Rozdělení Československa [2] 、スロバキア語 ご : Rozdelenie Česko-Slovenska )と呼 よ ぶ。
「ビロード離婚 りこん 」は主 おも に西側 にしがわ メディア が名付 なづ けた通称 つうしょう である[要 よう 出典 しゅってん ] 。チェコスロバキア共産党 きょうさんとう 政権 せいけん が倒 たお れた1989年 ねん 民主 みんしゅ 化 か 革命 かくめい が、大 だい 規模 きぼ な流血 りゅうけつ に至 いた らなかったことから、ビロード革命 かくめい と呼 よ ばれていた。連邦 れんぽう 解消 かいしょう もユーゴスラビア紛争 ふんそう のような武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ を免 まぬか れたことから、夫婦 ふうふ の協議 きょうぎ 離婚 りこん に見立 みた てて「ビロード離婚 りこん 」と名付 なづ けられた。
チェコスロバキアの連邦 れんぽう 解体 かいたい [ 編集 へんしゅう ]
歴史 れきし 的 てき に工業 こうぎょう 化 か が進 すす んでいたチェコ共和 きょうわ 国 こく (旧 きゅう ・チェコ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )の国内 こくない 総 そう 生産 せいさん は1990年代 ねんだい 初頭 しょとう 、スロバキア共和 きょうわ 国 こく (旧 きゅう ・スロバキア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )に比 くら べ20%上回 うわまわ っていたが、成長 せいちょう 率 りつ の伸 の び悩 なや みが大 おお きな問題 もんだい となっていて、チェコの政界 せいかい ではスロバキアが経済 けいざい 的 てき な重荷 おもに となって経済 けいざい 成長 せいちょう が妨 さまた げられているとの見方 みかた が広 ひろ まっていた。
こうした状況 じょうきょう を背景 はいけい に1991年 ねん 1月 がつ 、チェコ共和 きょうわ 国 こく はスロバキア共和 きょうわ 国 こく に対 たい する経済 けいざい 支援 しえん 資金 しきん の拠出 きょしゅつ を停止 ていし した。当時 とうじ 、多 おお くのチェコ人 じん やスロバキア人 じん は連邦 れんぽう の存続 そんぞく を求 もと めていたが、スロバキアの政界 せいかい では、1990年 ねん のいわゆる「ハイフン戦争 せんそう 」を経 へ て、構成 こうせい 国 こく の自由 じゆう 裁量 さいりょう 権 けん を更 さら に拡大 かくだい した国家 こっか 連合 れんごう 制 せい への移行 いこう や、完全 かんぜん な独立 どくりつ と主権 しゅけん 回復 かいふく を主張 しゅちょう する意見 いけん が台頭 たいとう するなど、連邦 れんぽう 制 せい の廃止 はいし とチェコとの離別 りべつ が声高 こわだか に叫 さけ ばれ始 はじ めた。スロバキアへの分権 ぶんけん 促進 そくしん を巡 めぐ り、連邦 れんぽう 政府 せいふ とスロバキア共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ の間 あいだ では激 はげ しい応酬 おうしゅう が続 つづ いた。
チェコ政界 せいかい の急進 きゅうしん 的 てき な市場 いちば 経済 けいざい 改革 かいかく 論 ろん 者 しゃ で、スロバキアの切 き り離 はな しを主張 しゅちょう していたチェコ市民 しみん 民主党 みんしゅとう のヴァーツラフ・クラウス は、スロバキア政界 せいかい の連邦 れんぽう 解体 かいたい 論 ろん 者 しゃ だった民主 みんしゅ スロバキア運動 うんどう のヴラジミール・メチアル に接近 せっきん し、連邦 れんぽう 解消 かいしょう を提案 ていあん 。同年 どうねん の連邦 れんぽう 議会 ぎかい 人民 じんみん 院 いん 選挙 せんきょ で、チェコ市民 しみん 民主党 みんしゅとう および民主 みんしゅ スロバキア運動 うんどう がそれぞれの共和 きょうわ 国 こく の第 だい 1党 とう に躍進 やくしん したことを受 う け、同年 どうねん 6月 がつ から分離 ぶんり に向 む けた激 はげ しい交渉 こうしょう が始 はじ まった。
しかし7月 がつ 17日 にち にスロバキア国民 こくみん 議会 ぎかい が一方 いっぽう 的 てき にスロバキア共和 きょうわ 国 こく の国家 こっか 主権 しゅけん 宣言 せんげん (チェコ語 ご 版 ばん 、スロバキア語 ご 版 ばん ) を採択 さいたく したため、その6日 にち 後 ご にブラチスラヴァで開 ひら かれた両 りょう 党 とう の協議 きょうぎ で、スロバキア政界 せいかい の動 うご きを追認 ついにん する形 かたち で連邦 れんぽう 解体 かいたい が正式 せいしき に合意 ごうい され、8月 がつ 26日 にち 、ブルノ のトゥーゲントハット邸 てい でクラウスとメチアルがチェコスロバキアの連邦 れんぽう 解体 かいたい の合意 ごうい 文書 ぶんしょ に署名 しょめい した。
この時 とき 、すでにユーゴスラビア では、同様 どうよう の連邦 れんぽう 離脱 りだつ 問題 もんだい を巡 めぐ って内戦 ないせん が始 はじ まっていたが、チェコ、スロバキアの両 りょう 共和 きょうわ 国 こく の交渉 こうしょう は平和 へいわ 的 てき な連邦 れんぽう 解体 かいたい を行 おこな うための行政 ぎょうせい 事務 じむ 手続 てつづ きの協議 きょうぎ に移行 いこう した。
連邦 れんぽう 議会 ぎかい は11月13日 にち にチェコ、スロバキア両国 りょうこく の領土 りょうど 分割 ぶんかつ などを定 さだ めた「チェコおよびスロバキア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 資産 しさん のチェコ共和 きょうわ 国 こく およびスロバキア共和 きょうわ 国 こく への分割 ぶんかつ およびチェコ共和 きょうわ 国 こく およびスロバキア共和 きょうわ 国 こく への移行 いこう に関 かん する基本 きほん 法 ほう 」(Ústavný zákon o delení majetku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky medzi Českou Republikou a Slovenskou Republikou a jeho prechode na Českú Republiku a Slovenskú Republiku, チェコスロバキア連邦 れんぽう 議会 ぎかい 1992年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 541号 ごう )を、11月23日 にち には、連邦 れんぽう の解体 かいたい を1992年 ねん 12月31日 にち に行 おこな うことを定 さだ めた「チェコおよびスロバキア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の終了 しゅうりょう に関 かん する基本 きほん 法 ほう (チェコ語 ご 版 ばん 、スロバキア語 ご 版 ばん ) 」(Ústavný zákon o zániku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky, チェコスロバキア連邦 れんぽう 議会 ぎかい 1992年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 542号 ごう )をそれぞれ採択 さいたく 。これらの基本 きほん 法 ほう に基 もと づいて1993年 ねん 1月 がつ 1日 にち 午前 ごぜん 0時 じ に連邦 れんぽう 制 せい が解消 かいしょう された。
共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ への権限 けんげん 移管 いかん [ 編集 へんしゅう ]
チェコスロバキアでは、すでに1989年 ねん の民主 みんしゅ 化 か 以降 いこう 、連邦 れんぽう を構成 こうせい するチェコ共和 きょうわ 国 こく とスロバキア共和 きょうわ 国 こく に対 たい する連邦 れんぽう 政府 せいふ 権限 けんげん の分離 ぶんり ・移管 いかん が進 すす められていた。社会 しゃかい 主義 しゅぎ 時代 じだい からの通常 つうじょう 警察 けいさつ 機関 きかん である国民 こくみん 保安 ほあん 隊 たい 公安 こうあん 部 ぶ (Veřejná bezpečnost)を1991年 ねん 7月 がつ に改組 かいそ 新設 しんせつ した連邦 れんぽう 警察 けいさつ 機構 きこう が「チェコ共和 きょうわ 国 こく 警察 けいさつ 」(Policie České republiky)と「スロバキア共和 きょうわ 国 こく 警察 けいさつ 隊 たい 」(Policajný zbor Slovenskej republiky)に分離 ぶんり した形 かたち で発足 ほっそく するなど、両 りょう 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ が連邦 れんぽう 政府 せいふ に代 か わって所管 しょかん する行政 ぎょうせい 機構 きこう の整備 せいび が進 すす められていたことも、連邦 れんぽう 制 せい の解消 かいしょう に大 おお きく作用 さよう した。
東欧 とうおう 革命 かくめい 以後 いご 、ソビエト連邦 れんぽう やユーゴスラビアなど旧 きゅう 共産 きょうさん 圏 けん の諸 しょ 連邦 れんぽう 国家 こっか で、連邦 れんぽう を構成 こうせい する「民族 みんぞく 共和 きょうわ 国 こく 」の分離 ぶんり に伴 ともな って武力 ぶりょく による激 はげ しい対立 たいりつ が発生 はっせい したのと対照 たいしょう 的 てき に、チェコスロバキアでは流血 りゅうけつ の事態 じたい を招 まね くことなく、立法 りっぽう ・行政 ぎょうせい 手続 てつづ きに基 もと づいた連邦 れんぽう 解体 かいたい が行 おこな われたことから、外国 がいこく メディアを中心 ちゅうしん に「ビロード離婚 りこん 」と呼 よ ぶようになった。
歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終結 しゅうけつ とオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく の解体 かいたい に伴 ともな い、トマーシュ・マサリク らは1917年 ねん 、スロバキアとチェコが対等 たいとう に共和 きょうわ 国 こく を構成 こうせい することを定 さだ めた「ピッツバーグ協定 きょうてい 」に署名 しょめい し、チェコスロバキア共和 きょうわ 国 こく (第 だい 1共和 きょうわ 国 こく )が成立 せいりつ した。しかしマサリクの後 のち を継 つ いだエドヴァルド・ベネシュ が両国 りょうこく の融合 ゆうごう を目指 めざ して推進 すいしん したいわゆる「チェコスロバキア化 か 」は多 おお くのスロバキア人 じん に受 う け入 い れられず、スロバキアは侵攻 しんこう したナチス・ドイツの力 ちから を借 か りる形 かたち で1939年 ねん 3月 がつ 、スロバキア共和 きょうわ 国 こく (スロバキア第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく ) としていったん分離 ぶんり 独立 どくりつ した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、チェコスロバキアは共和 きょうわ 国 こく として再 さい 統一 とういつ され、1960年 ねん には社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく となったが、スロバキア出身 しゅっしん のアレクサンドル・ドプチェク 共産党 きょうさんとう 第 だい 一 いち 書記 しょき が指導 しどう した「プラハの春 はる 」と呼 よ ばれる改革 かいかく 運動 うんどう の結果 けっか 、1968年 ねん に成立 せいりつ した新 しん 憲法 けんぽう によって翌 よく 1969年 ねん 、スロバキアはチェコと対等 たいとう な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく として連邦 れんぽう 制 せい への移行 いこう を果 は たした。しかしソビエト連邦 れんぽう を中心 ちゅうしん としたワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう の軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう 後 ご の「正常 せいじょう 化 か 」の過程 かてい で中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か が進 すす められた結果 けっか 、政治 せいじ 行政 ぎょうせい の権力 けんりょく は再 ふたた びチェコ側 がわ に集中 しゅうちゅう した。これらの経緯 けいい が、共産党 きょうさんとう 政権 せいけん 崩壊 ほうかい 後 ご の両国 りょうこく の分離 ぶんり を促 うなが す背景 はいけい となった。
連邦 れんぽう 解体 かいたい に伴 ともな う諸 しょ 課題 かだい [ 編集 へんしゅう ]
陸軍 りくぐん 施設 しせつ 、鉄道 てつどう 、空港 くうこう 施設 しせつ などの連邦 れんぽう 資産 しさん は、チェコ人 じん とスロバキア人 じん のおよその人口 じんこう 比率 ひりつ である「チェコ2:スロバキア1」の割合 わりあい で分割 ぶんかつ した。連邦 れんぽう 政府 せいふ 保有 ほゆう の金 かね 準備 じゅんび 金 きん の処分 しょぶん 方法 ほうほう などの若干 じゃっかん の議論 ぎろん が、連邦 れんぽう 解体 かいたい 後 ご もしばらく続 つづ けられた。
連邦 れんぽう 解体 かいたい 直後 ちょくご は引 ひ き続 つづ きチェコスロバキアコルナが両国 りょうこく で使用 しよう された。しかし経済 けいざい 損失 そんしつ を懸念 けねん したチェコ側 がわ によって、1993年 ねん 2月 がつ 8日 にち から独自 どくじ 通貨 つうか に移行 いこう した。チェココルナとスロバキアコルナの為替 かわせ レートは当初 とうしょ 同一 どういつ だったが、その後 ご 両国 りょうこく の経済 けいざい 格差 かくさ を反映 はんえい し、1990年代 ねんだい から2000年代 ねんだい 前半 ぜんはん にかけて、スロバキアコルナがチェココルナを下回 したまわ る状態 じょうたい が続 つづ いた。欧州 おうしゅう 統一 とういつ 通貨 つうか ユーロ に対 たい しては、EU加盟 かめい 当初 とうしょ から導入 どうにゅう に積極 せっきょく 的 てき だったスロバキアが経済 けいざい 改革 かいかく を推 お し進 すす めてマーストリヒト条約 じょうやく の基準 きじゅん を満 み たし、2008年 ねん に移行 いこう を開始 かいし 。2009年 ねん 1月 がつ 1日 にち に予定 よてい 通 どお り切 き り替 か えを完了 かんりょう した。導入 どうにゅう に消極 しょうきょく 的 てき だったチェコは、世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき を契機 けいき に再 さい 検討 けんとう する姿勢 しせい を明 あき らかにしているものの、基準 きじゅん 達成 たっせい への問題 もんだい も多 おお く、まだめどは立 た っていない。
連邦 れんぽう 解体 かいたい 時 じ の協定 きょうてい では、分離 ぶんり 後 ご の両国 りょうこく はともにチェコスロバキア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい の国旗 こっき や紋章 もんしょう を使用 しよう しないと定 さだ めていたが、チェコ側 がわ は分離 ぶんり 後 ご も自国 じこく 国旗 こっき としてチェコスロバキアの国旗 こっき を使用 しよう し続 つづ けた。このため一 いち 時 じ スロバキア側 がわ の反発 はんぱつ を招 まね いた。
分離 ぶんり 翌年 よくねん の1993年 ねん は、両国 りょうこく 経済 けいざい とも連邦 れんぽう 解体 かいたい による一定 いってい の効果 こうか があったが、事前 じぜん の予想 よそう に比 くら べその範囲 はんい は限定 げんてい 的 てき なものにとどまった。スロバキアへの経済 けいざい 的 てき 負担 ふたん がなくなることによる飛躍 ひやく 的 てき な経済 けいざい 成長 せいちょう を見込 みこ んだチェコ側 がわ 、チェコの思惑 おもわく に束縛 そくばく されないスロバキア独自 どくじ の自由 じゆう な経済 けいざい 開拓 かいたく を見込 みこ んだスロバキア側 がわ の、双方 そうほう の思惑 おもわく はいずれも外 はず れる形 かたち となった。
分離 ぶんり 後 ご 、両国 りょうこく 間 あいだ の二 に 重 じゅう 国籍 こくせき は認 みと められなかったが、数 すう 年 ねん 後 ご に裁判所 さいばんしょ の許可 きょか を前提 ぜんてい に一部 いちぶ の国民 こくみん に認 みと められるようになった。現在 げんざい では両国 りょうこく とも欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)に加盟 かめい したことで自由 じゆう な往来 おうらい や就労 しゅうろう が可能 かのう で、まったく問題 もんだい にならなくなった。2004年 ねん からはパスポートなしで両国 りょうこく 間 あいだ を往来 おうらい し、特別 とくべつ な許可 きょか なく就労 しゅうろう することが可能 かのう になったほか、シェンゲン協定 きょうてい に基 もと づいて2007年 ねん 12月31日 にち には国境 こっきょう の検問 けんもん も廃止 はいし されている。
連邦 れんぽう 解体 かいたい に伴 ともな って発生 はっせい した大 おお きな問題 もんだい のひとつが、スロバキア出身 しゅっしん でチェコに住 す むロマ人 じん の国籍 こくせき 問題 もんだい である。連邦 れんぽう 解体 かいたい 後 ご のチェコは1992年 ねん の国籍 こくせき 法 ほう で、自国 じこく 出身 しゅっしん でない者 もの のチェコ国籍 こくせき を認 みと めず、彼 かれ らは長年 ながねん 無 む 国籍 こくせき のまま放置 ほうち された。同 どう 法 ほう の規程 きてい に基 もと づいて彼 かれ らがチェコ国籍 こくせき を取得 しゅとく するには、5年間 ねんかん の継続 けいぞく した居住 きょじゅう と犯罪 はんざい を犯 おか していないことの証明 しょうめい が条件 じょうけん とされ、さらに多額 たがく の手数料 てすうりょう と複雑 ふくざつ な手続 てつづ きが必要 ひつよう だったため、多 おお くのロマ人 じん にとっては事実 じじつ 上 じょう 国籍 こくせき 取得 しゅとく は不可能 ふかのう だった。一方 いっぽう スロバキア側 がわ も、国内 こくない に住 す んでいない彼 かれ らにスロバキア国籍 こくせき を与 あた えることには消極 しょうきょく 的 てき だった。
このため、多数 たすう のロマ人 じん が、法的 ほうてき 地位 ちい が確立 かくりつ されず就労 しゅうろう することも困難 こんなん な状況 じょうきょう におかれていたが、チェコに対 たい するEUの圧 あつ 力 りょく によって1999年 ねん と2003年 ねん にチェコ国籍 こくせき 法 ほう が改正 かいせい され、問題 もんだい は解決 かいけつ された。しかし1992年 ねん 以降 いこう いったん国籍 こくせき を失 うしな った人々 ひとびと に対 たい するチェコ政府 せいふ の補償 ほしょう は現在 げんざい も行 おこな われていない。
チェコスロバキア時代 じだい のテレビ番組 ばんぐみ は、ニュースではチェコ語 ご とスロバキア語 ご が同 おな じ比率 ひりつ で放送 ほうそう されたが、外国 がいこく の映画 えいが やテレビドラマなどの吹 ふ き替 か えはほとんどがチェコ語 ご だけで行 おこな われた。こうした環境 かんきょう のため、両国 りょうこく のほとんどの国民 こくみん は、話 はな すことはできなくても互 たが いの言葉 ことば を理解 りかい することが可能 かのう な水準 すいじゅん の語学 ごがく 能力 のうりょく を身 み につけていた。
チェコでは連邦 れんぽう 解消 かいしょう 後 ご 、大半 たいはん のテレビ番組 ばんぐみ がスロバキア語 ご を使 つか わなくなったため、若 わか いチェコ人 じん はスロバキア語 ご の読解 どっかい 能力 のうりょく が低下 ていか し、スロバキア語 ご の書籍 しょせき や新聞 しんぶん の売 う り上 あ げも激減 げきげん した。しかし近年 きんねん になって、テレビニュースで再 ふたた びスロバキア語 ご を導入 どうにゅう する動 うご きが出 で ている。
一方 いっぽう スロバキアでは、現在 げんざい もほとんどのケーブルテレビ局 てれびきょく でチェコ語 ご のテレビチャンネルを用意 ようい しているほか、チェコ語 ご 版 ばん で吹 ふ き替 か えられた外国 がいこく の映画 えいが や番組 ばんぐみ がスロバキア国内 こくない で放送 ほうそう されることが少 すく なくない。また市場 いちば に出回 でまわ るチェコ語 ご の書籍 しょせき や雑誌 ざっし 類 るい は連邦 れんぽう 解体 かいたい 前 まえ よりもむしろ増 ふ えており、若 わか いスロバキア人 じん のチェコ語 ご の理解 りかい 能力 のうりょく は以前 いぜん と同等 どうとう か、より向上 こうじょう する傾向 けいこう にある。
1993年 ねん 冬 ふゆ シーズンにスウェーデン で開 ひら かれたノルディックスキー国際 こくさい 選手権 せんしゅけん 大会 たいかい に出場 しゅつじょう したスキージャンプ のチェコスロバキア代表 だいひょう チームは、「チェコ共和 きょうわ 国 こく およびスロバキアチーム」として出場 しゅつじょう した。同 どう 時期 じき の世界 せかい ジュニアホッケー選手権 せんしゅけん 大会 たいかい では、大会 たいかい 途中 とちゅう の1992年 ねん 末日 まつじつ にチェコスロバキアが解体 かいたい されたことから、チェコスロバキア代表 だいひょう チームは「チェコおよびスロバキアチーム」と改称 かいしょう した。またサッカーチェコスロバキア代表 だいひょう は、1994年 ねん のFIFAワールドカップ に向 む けた予選 よせん に「チェコおよびスロバキアの代表 だいひょう 」(RČS, Reprezentace Česka a Slovenska)として出場 しゅつじょう 。のちにチェコ代表 だいひょう とスロバキア代表 だいひょう に正式 せいしき に分離 ぶんり した。
連邦 れんぽう 解体 かいたい の結果 けっか [ 編集 へんしゅう ]
チェコとスロバキアにとって、連邦 れんぽう 解体 かいたい は、結果 けっか としてチェコスロバキア時代 じだい よりも良好 りょうこう な両国 りょうこく 関係 かんけい をもたらした。2000年 ねん 以降 いこう の大胆 だいたん な経済 けいざい 改革 かいかく による成長 せいちょう でスロバキアの経済 けいざい 水準 すいじゅん はチェコと同 どう レベルとなり、2004年 ねん にはともに欧州 おうしゅう 連合 れんごう に加盟 かめい したこともあってチェコスロバキアの復活 ふっかつ を求 もと める動 うご きは国民 こくみん レベルでも政党 せいとう レベルでもまったくない。連邦 れんぽう 解体 かいたい にともなって新 あら たに確立 かくりつ された両国 りょうこく 間 あいだ の貿易 ぼうえき 関係 かんけい は安定 あんてい している。
特 とく にチェコスロバキア時代 じだい には、国内 こくない のあらゆる面 めん で指導 しどう 的 てき 地位 ちい を占 し め続 つづ けるチェコ人 じん に対 たい し、多 おお くのスロバキア人 じん が何 なん らかの悪感情 あくかんじょう を抱 だ いていたが、それぞれが対等 たいとう な独立 どくりつ 国 こく となった現在 げんざい は、言語 げんご ・文化 ぶんか ・経済 けいざい の各 かく 分野 ぶんや でもっとも共通 きょうつう 点 てん が多 おお いことから、民族 みんぞく 間 あいだ の関係 かんけい も良好 りょうこう である[3] 。