ジョン・ビング (John Byng、1704年 ねん 10月29日 にち - 1757年 ねん 3月14日 にち )は、イギリス の提督 ていとく 。7年 ねん 戦争 せんそう 初期 しょき のミノルカ島 とう の海戦 かいせん で「最善 さいぜん を尽 つ くさなかった」として軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけられ、銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ された。
ジョン・ビングは初代 しょだい トリントン子爵 ししゃく ジョージ・ビング の4男 おとこ としてイングランド のベッドフォードシャー で生 う まれた。
父 ちち のジョージも提督 ていとく で、ウィリアム3世 せい の即位 そくい を支援 しえん し、その後 ご は数々 かずかず の海戦 かいせん に勝利 しょうり して王 おう の信頼 しんらい を勝 か ち取 と った。ジョンが14歳 さい でイギリス海軍 かいぐん に入隊 にゅうたい する1718年 ねん ごろにはジョージは財産 ざいさん と名声 めいせい を積 つ み重 かさ ねた輝 かがや かしい経歴 けいれき を持 も つ提督 ていとく と考 かんが えられていた。彼 かれ は1721年 ねん にジョージ1世 せい によって子爵 ししゃく に叙 じょ せられる。
イギリス貴族 きぞく の財産 ざいさん と爵位 しゃくい は通常 つうじょう 長男 ちょうなん が全 すべ て継承 けいしょう するため、ジョン・ビングには自分 じぶん の領土 りょうど を得 え る必要 ひつよう があった。しかし彼 かれ の海軍 かいぐん での急速 きゅうそく な昇進 しょうしん には父 ちち ジョージの威光 いこう が大 おお きく関 かか わっていたのだろう。最終 さいしゅう 的 てき に、父 ちち と子 こ の人生 じんせい は全 まった く違 ちが った結末 けつまつ を迎 むか えることになる。
当初 とうしょ 、ジョン・ビングは地中海 ちちゅうかい で任務 にんむ に就 つ いた。1723年 ねん に19歳 さい で海 うみ 尉 じょう となり、4年 ねん 後 ご には20門 もん スループ 「ジブラルタ 」の艦長 かんちょう となる。彼 かれ は1739年 ねん まで地中海 ちちゅうかい に配備 はいび されていたが、特筆 とくひつ すべき出来事 できごと はなかった[1] 。
1742年 ねん 、ビングはニューファンドランド 総督 そうとく に任命 にんめい される[1] 。
その後 ご 1745年 ねん に少将 しょうしょう 、1747年 ねん には中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん した。ビングは総 そう じて快適 かいてき な海域 かいいき に配備 はいび されることが多 おお く、海軍 かいぐん のより困難 こんなん な任務 にんむ を体験 たいけん していなかった[2] 。
ミノルカ島 とう の海戦 かいせん [ 編集 へんしゅう ]
英語 えいご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう 中 なか の1708年 ねん にイギリスはミノルカ島 とう を占領 せんりょう し、その後半 こうはん 世紀 せいき の間 あいだ 領有 りょうゆう し続 つづ けた。しかしミノルカはトゥーロン 艦隊 かんたい の脅威 きょうい に晒 さら されており、フランス は1756年 ねん に七 なな 年 ねん 戦争 せんそう が始 はじ まるとミノルカ島 とう に侵攻 しんこう した。
これを受 う けてイギリス政府 せいふ はビングにマオン 港 みなと のセント・フィリップ砦 とりで 救援 きゅうえん を命 めい じる。ビングは遠征 えんせい の準備 じゅんび には資金 しきん も時間 じかん も十分 じゅうぶん ではないと訴 うった えたが、認 みと められることはなかった。さらには出航 しゅっこう 命令 めいれい が何故 なぜ か5日 にち 遅 おく れるという事態 じたい も発生 はっせい し、これは遠征 えんせい の成否 せいひ に決定的 けっていてき な影響 えいきょう を与 あた えた。このため、ビングに与 あた えられたのは10隻 せき の老朽 ろうきゅう 化 か した人員 じんいん 不足 ふそく の戦列 せんれつ 艦 かん でしかなかった。さらに要塞 ようさい 守備 しゅび 隊 たい への増援 ぞうえん として海兵 かいへい 隊 たい を派出 はしゅつ すれば、人員 じんいん 不足 ふそく は危険 きけん なまでに深刻 しんこく 化 か する。ビングは事前 じぜん に残 のこ していた書簡 しょかん でミノルカ島 とう 防衛 ぼうえい を絶望 ぜつぼう 視 し しており、困難 こんなん が明 あき らかになればすぐにジブラルタル に引 ひ き返 かえ すつもりでいると述 の べている。彼 かれ はまたジブラルタルから重要 じゅうよう な報告 ほうこく 書 しょ を海軍 かいぐん 本部 ほんぶ に送 おく った。総督 そうとく がマオン港 みなと への兵力 へいりょく 派遣 はけん を拒否 きょひ したのである。
ビングは5月8日 にち にジブラルタルを出航 しゅっこう した。フランスはイギリス戦隊 せんたい がミノルカに到着 とうちゃく するまでにすでに1万 まん 5千 せん 人 にん を上陸 じょうりく させていた。19日 にち 、ビングはミノルカ西方 せいほう 沖 おき に到着 とうちゃく するが、増援 ぞうえん を揚陸 ようりく する前 まえ にフランス戦隊 せんたい と遭遇 そうぐう する。
ミノルカ島 とう の海戦 かいせん は翌 よく 20日 にち に発生 はっせい した。ビングの戦隊 せんたい は風上 かざかみ に占 うらない 位 い し、ガリソニエール侯爵 こうしゃく のフランス戦隊 せんたい に浅 あさ い角度 かくど で並 なみ 航 こう して接近 せっきん していった。そのためイギリスの先頭 せんとう 艦 かん 「デファイアンス 」が交戦 こうせん をはじめたとき、ビングの旗艦 きかん 「ラミリーズ 」を含 ふく む後続 こうぞく 艦 かん は射程 しゃてい 外 がい にあった。デファイアンスは集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか で酷 ひど く損傷 そんしょう して戦列 せんれつ を離脱 りだつ する。ラミリーズの旗艦 きかん 艦長 かんちょう は戦列 せんれつ を崩 くず してもフランス戦隊 せんたい 中央 ちゅうおう 部 ぶ を攻撃 こうげき することを進言 しんげん したが、ビングは拒否 きょひ する。同様 どうよう の行動 こうどう をとったトマス・マシューズ 提督 ていとく が軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけられたためである。結局 けっきょく フランス戦隊 せんたい は同 どう 規模 きぼ のイギリス戦隊 せんたい から無傷 むきず で逃走 とうそう した。
海戦 かいせん の後 のち ビングは4日間 にちかん ミノルカ周辺 しゅうへん に留 とど まったが、フランス戦隊 せんたい を再 さい 捕捉 ほそく することは出来 でき なかった。そこでビングは一旦 いったん ジブラルタルに引 ひ き返 かえ し、負傷 ふしょう 者 しゃ を上陸 じょうりく させ、艦 かん を修理 しゅうり した後 のち に再度 さいど セント・フィリップ砦 とりで 救援 きゅうえん に向 む かおうと決断 けつだん した。しかしこの計画 けいかく を実行 じっこう に移 うつ す前 まえ に本国 ほんごく からの連絡 れんらく が入 はい り、ビングは解任 かいにん 、そして拘禁 こうきん されてしまう。一方 いっぽう 砦 とりで は6月29日 にち に降伏 ごうぶく し、全 ぜん 将兵 しょうへい はイギリスに送 おく り返 かえ されることとなる。
軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ と処刑 しょけい [ 編集 へんしゅう ]
砦 とりで の失陥 しっかん は最初 さいしょ イギリス国民 こくみん を憤慨 ふんがい させた[3] 。
ビングは本国 ほんごく に送還 そうかん され、戦時 せんじ 服務 ふくむ 規程 きてい 違反 いはん として軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけられる。この規定 きてい は当時 とうじ 敵 てき に対 たい して最善 さいぜん を尽 つ くさなかった士官 しかん を処罰 しょばつ する規定 きてい が改定 かいてい されたばかりであった。これにはオーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう 中 なか の1745年 ねん に、44門 もん フリゲート アングルジーのベイカー・フィリップス[4] という若 わか い海 うみ 尉 じょう が銃殺 じゅうさつ された事件 じけん が関係 かんけい している。アングルジーのエルトン艦長 かんちょう は砲撃 ほうげき により戦死 せんし し、その後 ご 指揮 しき 権 けん を引 ひ き継 つ いだフィリップスはフランスに降伏 ごうぶく せざるを得 え なかったのだが、これが「最善 さいぜん を尽 つ くさなかった」と判断 はんだん されたのである[2] 。
裁判 さいばん ではエルトンの落 お ち度 ど が明 あき らかになったのにもかかわらず、フィリップスの処刑 しょけい は海軍 かいぐん の高官 こうかん たちに承認 しょうにん された。彼 かれ らは同 どう 階級 かいきゅう の士官 しかん たちにはよく見 み せる寛大 かんだい さを若 わか い海 うみ 尉 じょう に対 たい して発揮 はっき しなかったのである。フィリップスの刑 けい はポーツマス 泊地 はくち で執行 しっこう された。この不 ふ 公正 こうせい な審判 しんぱん はイギリス国民 こくみん を激怒 げきど させ、戦時 せんじ 服務 ふくむ 規程 きてい は交戦 こうせん 時 じ に「最善 さいぜん を尽 つ くさなかった」士官 しかん すべてを死刑 しけい にするよう改定 かいてい された。
一方 いっぽう ビングがミノルカで全力 ぜんりょく を尽 つ くさなかったのは否定 ひてい できない。彼 かれ は命 いのち をかけてでもフランス艦隊 かんたい を追撃 ついげき するべきだったのである。ビングの裁判 さいばん では「怯懦 きょうだ 」「不 ふ 忠実 ちゅうじつ 」については無罪 むざい とされ、ただ「最善 さいぜん を尽 つ くさなかった」ために有罪 ゆうざい だと判断 はんだん された[3] 。
軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ に戦時 せんじ 服務 ふくむ 規程 きてい を歪 ゆが める権限 けんげん はないため、ビングは自動的 じどうてき に銃殺 じゅうさつ 刑 けい が確定 かくてい した。しかしながら審議 しんぎ に加 くわ わった士官 しかん たちはビングが国王 こくおう の特赦 とくしゃ を得 え られることを期待 きたい し、海軍 かいぐん 本部 ほんぶ に口利 くちき きを依頼 いらい したのである。
刑罰 けいばつ の重 おも さに加 くわ えて、海軍 かいぐん 本部 ほんぶ はビングにすべての責任 せきにん を負 お わせることで非難 ひなん を逃 のが れようとしているという尤 もっと もな見方 みかた が広 ひろ まったため、当初 とうしょ はビングに厳罰 げんばつ を望 のぞ んでいた海軍 かいぐん 士官 しかん や国民 こくみん はビングに同情 どうじょう 的 てき になっていった。当時 とうじ 庶民 しょみん 院 いん の議長 ぎちょう だったチャタム伯 はく ウィリアム・ピット は王 おう に「陛下 へいか 、庶民 しょみん 院 いん は慈悲 じひ を望 のぞ んでおります 」と訴 うった えたが、ジョージ2世 せい は「あなたは私 わたし に庶民 しょみん 院 いん の感覚 かんかく が国民 こくみん のそれとは違 ちが うことを教 おし えてくれた 」と返答 へんとう した[3] 。
結局 けっきょく 王 おう の赦免 しゃめん は得 え られず、ビングの処刑 しょけい は1757年 ねん 3月 がつ 14日 にち に戦列 せんれつ 艦 かん 「モナーク 」の艦上 かんじょう で執行 しっこう された。
英語 えいご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
フランス語 ふらんすご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
ビングの処刑 しょけい はヴォルテール の小説 しょうせつ 「カンディード 」で風刺 ふうし されている。ポーツマスでカンディードは海軍 かいぐん 士官 しかん の銃殺 じゅうさつ を目撃 もくげき し、こういうのである。「この国 くに では時々 ときどき 提督 ていとく を銃殺 じゅうさつ したほうが後進 こうしん が育 そだ ちやすくなる」(Dans ce pays-ci, il est bon de tuer de temps en temps un amiral pour encourager les autres)。
この時代 じだい の提督 ていとく で処刑 しょけい されたのはビングが最後 さいご である。そして22年 ねん 後 ご に服務 ふくむ 規程 きてい は「死刑 しけい 、または違反 いはん の性質 せいしつ や程度 ていど に応 おう じたほかの望 のぞ ましい刑罰 けいばつ 」と緩和 かんわ された[3] 。
また2007年 ねん にビングの子孫 しそん がイギリス政府 せいふ に名誉 めいよ 回復 かいふく を求 もと めたが、国防省 こくぼうしょう は拒否 きょひ した[5] 。
親族 しんぞく とベッドフォードシャー・サウスヒルにある支援 しえん 者 しゃ 団体 だんたい はこれからも赦免 しゃめん を求 もと め続 つづ けると表明 ひょうめい している。
ビングの処刑 しょけい は「イギリス史上 しじょう 最悪 さいあく の合法 ごうほう 殺人 さつじん 」[3] とも称 しょう されている。しかし一方 いっぽう では海軍 かいぐん 士官 しかん の引 ひ き締 し めに役立 やくだ ったと評価 ひょうか されることもある。処刑 しょけい によって諸 しょ 外国 がいこく 海軍 かいぐん に比 くら べて際立 きわだ って攻撃 こうげき 的 てき な姿勢 しせい が生 う まれ、質的 しつてき な優位 ゆうい へとつながったのである[6] 。
敗戦 はいせん の危険 きけん を冒 おか さなければ、確実 かくじつ に処罰 しょばつ されると知 し った指揮 しき 官 かん たちの奮戦 ふんせん は大 だい 英 えい 帝国 ていこく の形成 けいせい と防衛 ぼうえい に貢献 こうけん した[6] 。
「法律 ほうりつ の殺人 さつじん 」は海軍 かいぐん 士官 しかん には単 たん なる勇気 ゆうき と忠誠 ちゅうせい 以上 いじょう のものが期待 きたい されていると荒 あら っぽいやり方 かた で示 しめ したのである[3] 。
しかし、政策 せいさく としての成功 せいこう は犠牲 ぎせい 者 しゃ の家族 かぞく にとって何 なん の意味 いみ もなかった。サウスヒルのオール・セインツ教会 きょうかい のビング家 か の納骨 のうこつ 堂 どう にある墓碑銘 ぼひめい [7] には「政府 せいふ の公正 こうせい 性 せい に不滅 ふめつ の傷 きず をのこし、青色 あおいろ 艦隊 かんたい 大将 たいしょう ジョン・ビング閣 かく 下 か 、政治 せいじ 迫害 はくがい の殉教者 じゅんきょうしゃ として1757年 ねん 3月 がつ 14日 にち 、勇気 ゆうき と忠誠 ちゅうせい だけでは海軍 かいぐん 士官 しかん の生命 せいめい と名誉 めいよ が保障 ほしょう されない時代 じだい に永眠 えいみん 」と刻 きざ まれており、親族 しんぞく と大 だい 部分 ぶぶん の国民 こくみん の見方 みかた をよく表 あらわ している[3] 。
なお墓碑銘 ぼひめい の原文 げんぶん は以下 いか の通 とお りである。
To the perpetual Disgrace of PUBLICK JUSTICE The Honble. JOHN BYNG Esqr Admiral of the Blue Fell a MARTYR to POLITICAL PERSECUTION March 14th in the year 1757 when BRAVERY and LOYALTY were Insufficient Securities For the Life and Honour of a NAVAL OFFICER [8]
^ a b Godfrey, Michael (2000年 ねん ). “Byng, John ”. Dictionary of Canadian Biography Online . Library and Archives Canada. 2008年 ねん 3月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b 1911 Encyclopædia Britannica/Byng, John , Wikisource 1911 encyclopedia project.
^ a b c d e f g Tute, Warren (1983). The True Glory, The Story of the Royal Navy over a thousand years . London: Macdonald & Co. pp. 81-83. ISBN 0 3561 0403 6
^ Baker Phillips
^ Bates, Stephen; Richard Norton-Taylor (2007年 ねん 3月 がつ ). “No pardon for Admiral Byng. The MoD don't want to encourage any others ”. The Guardian. 2007年 ねん 3月 がつ 15日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Rodger, N.A.M. (2004). The Command of the Ocean : A Naval History of Britain, Volume 2, 1649-1815 (2004 . London: Allen Lane. pp. p272. ISBN 0 7139 9411 8
^ “The Church History and Guide: A Guide ”. All Saints Southill Church Website . All Saints Church. 2007年 ねん 11月28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Memorial: M4085 ”. Maritime Memorials . National Maritime Museum. 2007年 ねん 11月28日 にち 閲覧 えつらん 。
この記事 きじ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 うち で著作 ちょさく 権 けん が消滅 しょうめつ した次 つぎ の百科 ひゃっか 事典 じてん 本文 ほんぶん を含 ふく む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Byng, John ". Encyclopædia Britannica (英語 えいご ) (11th ed.). Cambridge University Press.
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 人物 じんぶつ その他 た