ジョージ1せい (イギリスおう)

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ジョージ1せい
George I
グレートブリテン国王こくおう
ハノーファーせんみかどこう
ジョージ1せい肖像しょうぞうゴドフリー・ネラーさく、1714ねんごろ
在位ざいい グレートブリテンおう1714ねん8がつ1にち - 1727ねん6月11にち
ハノーファーせんみかどこう1698ねん1がつ23にち - 1727ねん6がつ11にち
戴冠たいかんしき 1714ねん10がつ20日はつか(グレートブリテンおう
べつごう ザクセン=ラウエンブルクこう
アイルランド国王こくおう

ぜん ジョージ・ルイス
ドイツ:ゲオルク・ルートヴィヒ)
出生しゅっしょう 1660ねん5月28にち
グレゴリオれき6月7にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
カレンベルクほうりょうハノーファー
死去しきょ (1727-06-11) 1727ねん6月11にち(67さいぼつ
(グレゴリオれき6月22にち[注釈ちゅうしゃく 1]
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ハノーファーせんみかどほうりょうオスナブリュックオスナブリュック宮殿きゅうでんドイツばん
埋葬まいそう 1727ねん8がつ4にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ハノーファーせんみかどほうりょう、ハノーファー、ライネじょう英語えいごばんのちヘレンハウゼン宮殿きゅうでん
配偶はいぐうしゃ ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい ハノーヴァー
王朝おうちょう ハノーヴァーあさ
父親ちちおや ハノーファーせんみかどこうエルンスト・アウグスト
母親ははおや ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
宗教しゅうきょう ルター[1]
サイン
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ジョージ1せい英語えいご: George I1660ねん5月28にち - 1727ねん6月11にち(グレゴリオれき6月22にち[注釈ちゅうしゃく 1]))[2]は、グレートブリテン王国おうこくおよアイルランド王国おうこく国王こくおうで、ハノーヴァーあさ開祖かいそである[3]。また、かみきよしマ帝国まていこくブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)せんみかどこうでもあり、ドイツゲオルク・ルートヴィヒGeorg Ludwig)という。スコットランド女王じょおうメアリーの玄孫げんそん、スコットランドおうジェームズ5せいらいまご、ヘンリー7せいの仍孫であり、ヴィクトリア女王じょおうらいまご、エドワード7せいこんまご、ジョージ5せいは仍孫、ジョージ6せいくもまごである。

ジョージはドイツのハノーファーまれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国こうこく領地りょうちせんみかどこうくらい称号しょうごうちち伯父おじたちから相続そうぞくした[注釈ちゅうしゃく 2]スペイン継承けいしょう戦争せんそうなどヨーロッパにおける一連いちれん戦争せんそうにより、ジョージのドイツ領地りょうちはその治世ちせいちゅう拡大かくだいした。イギリスでまた従妹じゅうまいアン女王じょおう崩御ほうぎょしてステュアートあさ断絶だんぜつすると、ははゾフィーがステュアート血筋ちすじだったことから、54さいでグレートブリテン王国おうこく国王こくおうジョージ1せいとしてむかえられた[注釈ちゅうしゃく 3]

ドイツでまれそだったジョージ1せい英語えいご理解りかいできず、文化ぶんかことなるイギリス国民こくみんからきらわれたとわれている。ジョージ1せい英語えいご知識ちしきがなくまなぶこともなかったとの見解けんかい世間せけんしんじられてきたが、国王こくおう即位そくいかれ英語えいごすこしかじっている程度ていどえていたともなせる記述きじゅつ史料しりょう存在そんざいし、1720年代ねんだいまでに文書ぶんしょフランス語ふらんすごやくされなくなったことは国王こくおう在位ざいいちゅうかれ英語えいご能力のうりょく進歩しんぽしたことをしめすともかんがえられる[4]。イギリスの政務せいむロバート・ウォルポール[注釈ちゅうしゃく 4]まかせ、これがイギリスにおける責任せきにんないかくせい(「国王こくおう君臨くんりんすれども統治とうちせず」)の発達はったつうなが結果けっかになったとされる[3]

ジョージ1せい母国ぼこくハノーファーへもど途中とちゅう卒中そっちゅうこして崩御ほうぎょ、ハノーファーで埋葬まいそうされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねん[編集へんしゅう]

ジョージは1660ねん5がつ28にちかみきよしマ帝国まていこくのハノーファーでまれた[注釈ちゅうしゃく 5]ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子こうしエルンスト・アウグストゾフィー・フォン・デア・プファルツあいだまれ、ゾフィーはははエリザベス・ステュアートつうじて祖父そふのイングランドおうジェームズ1せいいていた[6]

ジョージは、まれた時点じてんで、ちち実子じっしのいない3にん伯父おじのドイツ領地りょうち唯一ゆいいつ相続そうぞくじんとなった。1661ねん、ジョージのおとうとフリードリヒ・アウグストがまれ、2人ふたり家族かぞくあいだでそれぞれゲルゲン(Görgen)とグシェン(Gustchen)とばれ、一緒いっしょそだてられた。ゾフィーが1664ねんから1665ねんあいだ療養りょうようのためにイタリアへ旅行りょこうしていえ留守るすにしていたが、そのあいだ息子むすこたちのおんな家庭かてい教師きょうし定期ていきてき文通ぶんつうし、息子むすこたちの養育よういくをかけた[7]。ゾフィーがたびえたのち彼女かのじょはエルンスト・アウグストとのあいだでさらに4なん1じょをもうけた。ゾフィーは手紙てがみでジョージを責任せきにんかんのある誠実せいじつ子供こども形容けいようおとうといもうとたちの模範もはんとなりうるとべた[8]

1665ねんにはジョージの伯父おじ1人ひとりクリスティアン・ルートヴィヒ子供こどもなく薨去こうきょしたが、のこりの2人ふたり伯父おじが1675ねんまでに結婚けっこんしたため、かれらはジョージの継承けいしょうけん疑問ぎもんていし、2人ふたり子供こどもをもうけた場合ばあいにはジョージが継承けいしょうできない可能かのうせいがあるとした。エルンスト・アウグストはジョージをりや乗馬じょうばれてき、軍事ぐんじについて教育きょういくした。ジョージの将来しょうらい不安定ふあんていであることをあんじたエルンスト・アウグストは当時とうじ15さいのジョージをふつらん戦争せんそう戦役せんえきれてき、戦闘せんとうでジョージを教育きょういくするとともにその能力のうりょくためそうとした[9]

1679ねん、ジョージの伯父おじ1人ひとりヨハン・フリードリヒ男子だんしのないまま薨去こうきょ、エルンスト・アウグストがカレンベルクほうりょうゲッティンゲンこうりょう継承けいしょうし、首都しゅとはハノーファーにいた。いまやジョージの伯父おじのうち唯一ゆいいつ存命ぞんめいなのはゲオルク・ヴィルヘルム1人ひとりとなり、かれ愛妾あいしょうエレオノール・ドルブリューズ正式せいしき結婚けっこんしてむすめゾフィー・ドロテア嫡出ちゃくしゅつにしたが、さらに子供こどもをもうける可能かのうせいはありそうになかった。サリカほうにより領土りょうど継承けいしょう男子だんし限定げんていされたため、ジョージとおとうとたちがちちエルンスト・アウグストや伯父おじたちの領地りょうち相続そうぞくすることはほぼ確実視かくじつしされた。1682ねんにハノーファー長子ちょうし相続そうぞくせい採用さいよう合意ごうい、これによりジョージは領地りょうちおとうとたちと分割ぶんかつすることなくすべ相続そうぞくすることができた[10]

結婚けっこん[編集へんしゅう]

1680ねん、ハノーファー公子こうしだったころのジョージ。ゴドフリー・ネラーさく

同年どうねん、ジョージは従妹じゅうまいゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ結婚けっこん、サリカほう規定きていされなかった収入しゅうにゅう確保かくほした。このねやばつ目的もくてき歳入さいにゅうを(健全けんぜん程度ていどに)やすことと、ハノーファーとツェレの統一とういつ推進すいしんすることにあった。ジョージのははゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身しゅっしん王族おうぞくではなかったうえ庶子しょしだったのを認知にんちされて嫡出ちゃくしゅつとなった経緯けいいがある)を見下みくだして結婚けっこん反対はんたいしたが、結婚けっこんがもたらす利益りえきをもって説得せっとくされた[11]

1683ねん、ジョージはおとうとフリードリヒ・アウグストとともにだいトルコ戦争せんそうだいウィーン包囲ほうい参戦さんせん一方いっぽうのゾフィー・ドロテアは息子むすこゲオルク・アウグスト出産しゅっさんした。翌年よくねん、フリードリヒ・アウグストは長子ちょうし相続そうぞくせい採用さいようらされた。元々もともと予定よていされた、ちち領地りょうち一部いちぶ相続そうぞくすることができなくなったという事実じじつにより、フリードリヒ・アウグストとちち、そしてジョージのあいだ確執かくしつしょうじ、フリードリヒ・アウグストが1690ねん戦死せんしするまでつづいた。ブラウンシュヴァイク=リューネブルクが統一とういつ目前もくぜんであることと、エルンスト・アウグストがだいトルコ戦争せんそう継続けいぞくして貢献こうけんしたことをかんがみて、エルンスト・アウグストは1692ねん神聖しんせいマ帝国まていこくせんみかどこうじょされた。これにより、ジョージの将来しょうらいちちせんみかどこうりょう伯父おじ公国こうこく相続そうぞくと、より一層いっそうあかるくなった[12]

ゾフィー・ドロテアは1687ねん同名どうめいむすめゾフィー・ドロテア出産しゅっさんしたが、それ以降いこう妊娠にんしんすることがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠そえんになり、ジョージは愛妾あいしょうエーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク同伴どうはんすることをこのみ、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵はくしゃく不倫ふりんした。ちのスキャンダルに危機ききかんじたハノーファー宮廷きゅうていではジョージのおもおとうとおもいとどまるよう説得せっとくしたが効果こうかはなかった。ハノーファーの敵国てきこく外交がいこう文書ぶんしょによると、ケーニヒスマルクはくは1694ねん7がつ殺害さつがいされ、遺体いたいいしおもりをつけてライネがわ投棄とうきされた。かれ殺害さつがいしたのはエルンスト・アウグストの宮廷きゅうていにいた4にんとされ、そのうち1人ひとり(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15まんターラーもの大金たいきんあたえられた[注釈ちゅうしゃく 6][13]。その、ケーニヒスマルクはく遺体いたいがバラバラにされ、ハノーファーの宮殿きゅうでん床下ゆかしためられたとするうわさがながれた[14]。しかし、ゾフィーをふくむハノーファー自体じたいでの文献ぶんけんはケーニヒスマルクの行方ゆくえについてまったらなかったとした[13]

ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚けっこん解消かいしょうされたが、その理由りゆう不倫ふりんではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージをてたことであった。ちちエルンスト・アウグストの同意どういたジョージはゾフィー・ドロテアをツェレアールデンじょう英語えいごばん幽閉ゆうへい彼女かのじょは1726ねん死去しきょするまで解放かいほうされなかった。彼女かのじょちち子供こどもとの面会めんかいゆるされず、再婚さいこん禁止きんしされ、他人たにん同伴どうはんなしにあるけるのはしろ中庭なかにわだけであった。しかし、彼女かのじょ年金ねんきん使用人しようにんあたえられ、監視かんしのもと馬車ばしゃってしろがいかけることもゆるされた[15]。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698ねんから死去しきょするまでジョージのおおやけわらわでありつづけ、1692ねん、1693ねん、1701ねんにそれぞれむすめ出産しゅっさんした。

ハノーファーせんみかどこう[編集へんしゅう]

1706ねんハノーファーせんみかどこうだったころのジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマンさく

エルンスト・アウグストは1698ねん1がつ23にち死去しきょのこりょうオスナブリュック司教しきょうりょう英語えいごばんのぞいて[注釈ちゅうしゃく 7]ジョージが継承けいしょうした。これにより、ジョージはかみきよしマ帝国まていこくにおけるブラウンシュヴァイク=リューネブルクおおやけ首都しゅとをとりハノーファーとも)、せんみかどこうおよびはた手長てながになった[16]かれ宮廷きゅうてい哲学てつがくしゃ数学すうがくしゃゴットフリート・ライプニッツ作曲さっきょくゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルアゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。

ジョージがちち公国こうこく継承けいしょうした直後ちょくご、イングランドとスコットランドの王位おうい継承けいしょう順位じゅんい2グロスターこうウィリアム英語えいごばん死去しきょした。イングランドの1701ねん王位おうい継承けいしょうほうにより、ジョージのははゾフィーは当時とうじ王位おういについていたウィリアム3せい義妹ぎまいアン継承けいしょうしゃなく死去しきょした場合ばあい、その継承けいしょうしゃとなることがさだめられていた。この決定けってい理由りゆうは、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家おうけ最近さいきんおやしゃにあたるためだった。近親きんしんしゃのうち継承けいしょう順位じゅんいがゾフィーよりうえにある56にんのカトリック信者しんじゃ排除はいじょされた[17]かれらが王位おうい継承けいしょうするために改宗かいしゅうするというのぞみはうすく、うちすうにんはすでにことわっていた[18]

1701ねん8がつ、ジョージはガーター勲章くんしょう授与じゅよされ、6週間しゅうかんにはもとイングランド国王こくおうでカトリックとしては最近さいきんおやだったジェームズ2せい死去しきょした。翌年よくねん3がつにウィリアム3せい死去しきょ、アンが即位そくいした。ゾフィーは王位おうい推定すいてい相続そうぞくじんとなった。彼女かのじょ当時とうじ71さいで、アン女王じょおうより35さい年上としうえであったが健康けんこうたいであり、彼女かのじょ自身じしん息子むすこによる王位おうい継承けいしょう保証ほしょうするため精力せいりょくてきはたらいた[19]。しかし、イギリスの政治せいじ憲法けんぽう英語えいごばん複雑ふくざつさを理解りかいしていたのはジョージのほうであり、かれは1705ねんゾフィー帰化きかほう英語えいごばんでゾフィーとその継承けいしょうしゃたちをイギリスに帰化きかさせ、また権力けんりょく継承けいしょう摂政せっしょう委員いいんかいつうじておこなうこともさだめた[20]同年どうねん、ジョージの伯父おじ唯一ゆいいつ存命ぞんめいだったゲオルク・ヴィルヘルム死去しきょ、ジョージはツェレ首都しゅととするリューネブルクほうりょうグルベンハーゲンほうりょう英語えいごばん継承けいしょうした[21]

1720ねんごろのハノーファーの地図ちずハノーファーブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルオスナブリュック司教しきょうりょう英語えいごばんしめしている。ジョージの治世ちせいちゅう、ハノーファーはさらにザクセン=ラウエンブルクブレーメン=フェルデン英語えいごばん獲得かくとくした。

ジョージがハノーファーを継承けいしょうした直後ちょくごスペイン継承けいしょう戦争せんそう勃発ぼっぱつした。戦争せんそうにおいて問題もんだいとなったのはフランスおうルイ14せいまごアンジューこうフィリップがスペインおうカルロス2せい遺言ゆいごんしたがいスペイン王位おうい継承けいしょうすることだった。神聖しんせいマ帝国まていこくネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく、イングランド、ハノーファー、そしておおくのドイツ小国しょうこくはフランスのブルボンがスペインまでも支配しはいすると、強力きょうりょくになりすぎることをおそれてフィリップによる継承けいしょう反対はんたいした。ジョージは戦争せんそうじょうじてしんふつブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルほうりょう侵攻しんこう途中とちゅう戦列せんれつならびをみずかいた。侵攻しんこう僅少きんしょう損害そんがい成功せいこう、これによりイングランドとオランダはハノーファーがまえったザクセン=ラウエンブルク併合へいごう承認しょうにんした[22]

1706ねんバイエルンせんみかどこうマクシミリアン2せいエマヌエルはフランスがわについたかどせんみかどこうをはくだつされ、同年どうねんにジョージは帝国ていこく元帥げんすいじょされ、ラインがわ沿岸えんがん帝国ていこくぐん指揮しきした。しかしジョージは同盟どうめいしゃマールバラ公爵こうしゃくジョン・チャーチルだまされて陽動ようどう攻撃こうげきおこない、また皇帝こうていヨーゼフ1せいがジョージの戦役せんえき必要ひつよう軍資金ぐんしきん横領おうりょうしたためおおきな成功せいこうおさめることはなかった。しかしドイツ諸侯しょこうはジョージのはたらきぶりをみとめ、1708ねんにジョージをえらべみかどこうとして正式せいしき承認しょうにんした[23][24]。ジョージは陽動ようどう攻撃こうげきがフランスぐんをそらすための作戦さくせんであるとのちったためマールバラこうにはたなかった[24]

1709ねん、ジョージは元帥げんすいしょくめ、以降いこう軍務ぐんむからいた。1710ねんもとプファルツせんみかどこうゆうした官職かんしょくであった帝国ていこくだい出納すいとうかん就任しゅうにんした[25]。バイエルンせんみかどこう不在ふざいだったため官職かんしょく再編さいへんされたのだった[26]のちにマールバラこう政争せいそう司令しれいかん地位ちいあやうくなるとマールバラこうへの信任しんにん表明ひょうめいした手紙てがみをマールバラこうおくっている。またマールバラこう失脚しっきゃくし、トーリーとう強引ごういん和睦わぼくはかりイギリスぐんげさせたことに反発はんぱつ終戦しゅうせんまでオイゲンのしたそよいた[27]。1711ねんにヨーゼフ1せい死去しきょしたことで勢力せいりょく均衡きんこうぎゃく方向ほうこうくずされる可能かのうせいて、1713ねんユトレヒト条約じょうやく締結ていけつ終戦しゅうせんにつながった。フィリップはフェリペ5せいとしてスペインおう即位そくいしたが、フランスの王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうき、マクシミリアン2せいエマヌエルはバイエルンせんみかどこう復帰ふっきした。

グレートブリテンの王位おうい継承けいしょう[編集へんしゅう]

ジョージ1せい肖像しょうぞうゴドフリー・ネラーさく、1714ねんごろ

イングランドもスコットランドもアンを女王じょおうとして承認しょうにんしたが、ハノーファーせんみかどこうゾフィーを推定すいてい相続そうぞくじんとして承認しょうにんしたのはイングランド議会ぎかい英語えいごばんだけであり、スコットランド議会ぎかい英語えいごばんはスコットランド王位おうい継承けいしょうけん問題もんだい正式せいしきには解決かいけつしていなかった。1703ねん、スコットランド議会ぎかいは、イングランドがスコットランド商人しょうにんにイングランドとその植民しょくみんにおける自由じゆう貿易ぼうえき許可きょかしないかぎり、アン女王じょおうのスコットランド王位おうい継承けいしょうしゃにイングランド王位おうい継承けいしょうしゃおな人物じんぶつえらばないことを決議けつぎした。アン女王じょおうははじめ裁可さいかあたえなかったが、翌年よくねんにはれて裁可さいかあたえ、法案ほうあん1704ねん安全あんぜん保障ほしょうほう英語えいごばんとして成立せいりつした。これにたいし、イングランド議会ぎかいはスコットランド議会ぎかいがハノーファーによるスコットランド王位おうい継承けいしょう承認しょうにんしない場合ばあい、イングランドとスコットランドの貿易ぼうえき制限せいげんし、スコットランド経済けいざい打撃だげきあたえることを決議けつぎした[28][29]。やがてりょう議会ぎかいは1707ねん合同ごうどうほうでイングランドとスコットランドを1つの政治せいじ実体じったい合併がっぺいし、グレートブリテン王国おうこく成立せいりつさせるとともに、1701ねん王位おうい継承けいしょうほうもとづく王位おうい継承けいしょう合意ごういした[30]。この合併がっぺいにより、18世紀せいきのヨーロッパにおける最大さいだい自由じゆう貿易ぼうえきけん成立せいりつした[31]

ホイッグとう政治せいじ議会ぎかい王位おうい継承けいしょう決定けっていする権利けんりち、それをアン女王じょおう最近さいきんおやのプロテスタントにあたえることができたとかんがえた。一方いっぽうおおくのトーリーとう政治せいじステュアートのカトリックがより近親きんしんだったためその継承けいしょうけんみとめるべきとかんがえた。1710ねん、ジョージは王位おうい継承けいしょうけんがステュアートから剥奪はくだつされたがかれ王位おうい継承けいしょうけん保持ほじしたとして、イギリスの王位おうい継承けいしょうすることを宣言せんげんした。「この宣言せんげん目的もくてきはホイッグの議会ぎかい王国おうこくかれあたえたとする主張しゅちょうつぶす[とともに][...]トーリーには王位おうい簒奪さんだつしゃではなかったと納得なっとくさせた」[32]

ジョージのははゾフィーは1714ねん5がつ28にち(ユリウスれき。グレゴリオれきでは6がつ8にち)に83さい死去しきょした。彼女かのじょ雨避あまよけのためにはしったのちヘレンハウゼン庭園ていえんたおれた。アン女王じょおう健康けんこう悪化あっかしていたためイギリスの政治せいじ権力けんりょくうばい、アンの推定すいてい相続そうぞくじんになったジョージはすぐさま摂政せっしょう委員いいんかい委員いいん再編さいへんした[33]。アン女王じょおう卒中そっちゅうをおこしてはなすことができなくなり、1714ねん8がつ1にち死去しきょした。摂政せっしょうのリストが公表こうひょうされ、摂政せっしょうたちは宣誓せんせいし、ジョージはジョージ1せいとしてグレートブリテンおうおよびアイルランドおうとして即位そくいした[34]。しかし、逆風ぎゃくふうのためにデン・ハーグ海峡かいきょう通過つうかたざるを[35]、9月18にちにようやくイギリスりした。ジョージは10がつ20日はつかウェストミンスター寺院じいん戴冠たいかんした[6]。イングランドでは20かしょ以上いじょうまち戴冠たいかんしき暴動ぼうどう英語えいごばんばれた暴動ぼうどうがおこった[36]

ジョージ1せいは1714ねん以降いこうおもにグレートブリテンとうんだが、ハノーファーへは1716ねん、1719ねん、1720ねん、1723ねん、1725ねん、1727ねんすうねんごとに帰国きこく[37]合計ごうけいではイギリスでの治世ちせいやく5ぶんの1をドイツでごした[38]王位おうい継承けいしょうほうには議会ぎかい許可きょかなくイギリスを出国しゅっこくすることをきんじる条項じょうこうがあったが、1716ねんにハノーファーあさ支持しじムードのなかで全会ぜんかい一致いっち廃止はいしされた[39][40]。1かい帰国きこくのぞいて、ジョージ1せい不在ふざいに、権力けんりょくはプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政せっしょう委員いいんかいゆだねられた[41]

戦争せんそう反乱はんらん[編集へんしゅう]

ジョージ1せい肖像しょうぞうジョージ・ヴァーチュー英語えいごばんさく、1718ねん

ジョージ1せい王位おうい継承けいしょうから1ねんたずにおこなわれた1715ねんイギリスそう選挙せんきょはホイッグの大勝たいしょうわった。やぶれたトーリーではすうにんが、アン女王じょおう腹違はらちがいのおとうとでカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート支持しじしゃからは「ジェームズ3せいおよび8せい」、反対はんたいしゃからは「僭称せんしょうしゃ」とよばれた)を王位おういにつけようとしたジャコバイト共感きょうかんした。不平ふへいかんじたトーリーのなかには1715ねんジャコバイト蜂起ほうき加担かたんしたものもいた。スコットランドの不平ふへい貴族きぞくもと国務大臣こくむだいじんマーはくひきいるジェームズの支持しじしゃたちは、ジャコバイトへの共感きょうかんがよりつよいスコットランドで反乱はんらんこした。しかし、のちに「ザ・フィフティーン」(「15ねんらん」)とばれたこの反乱はんらんだい失敗しっぱいわった。マーはく計画けいかく拙劣せつれつなものであり、ジェームズは到着とうちゃくおそかったうえ資金しきん武器ぶきらず、年末ねんまつには失敗しっぱいあきらかになった。1716ねん2がつ、ジェームズとマーはくはフランスへ逃亡とうぼうした。反乱はんらん鎮圧ちんあつされたのち、いくらかの処刑しょけい所領しょりょう没収ぼっしゅうはあったものの、ジョージ1せい寛容かんようしめして政府せいふとの仲介ちゅうかいおこない、没収ぼっしゅうした財産ざいさんをスコットランドの学校がっこう国債こくさい償還しょうかん使つかった[42]

ジョージ1せいがトーリーに不信ふしんかんったため権力けんりょくはホイッグにうつった[43]。ジョージ1せいもとで、ホイッグの支配しはい強力きょうりょくになり、以降いこうはん世紀せいきものあいだトーリーが与党よとうかえくことはなかった。選挙せんきょのち、ホイッグが支配しはいした議会ぎかいななねん議会ぎかいほう英語えいごばん成立せいりつ議会ぎかい会期かいきを(国王こくおうによる解散かいさんのぞき)7ねん延長えんちょうした[44]。そのためすで政権せいけんにぎっていたホイッグは、与党よとうをさらに長期間ちょうきかん保持ほじすることができた[45]

グレートブリテンおう即位そくいしたのちすでわるかったジョージ1せい息子むすこジョージ・オーガスタスの関係かんけいはさらに悪化あっかした。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教しゅうきょう寛容かんよう政策せいさくとハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地りょうち併合へいごうといったちち政策せいさくへの反対はんたいあおった[46]。1717ねん、ジョージ・オーガスタスにまれたことで、ジョージ1せいとジョージ・オーガスタスのあいだ内紛ないふんがおこった。ジョージ1せい慣例かんれいしたが宮内みやうち長官ちょうかん英語えいごばん初代しょだいニューカッスル公爵こうしゃく洗礼せんれいしきでの名親なおや指名しめいしたが、ニューカッスル公爵こうしゃく毛嫌けぎらいしたジョージ・オーガスタスは言葉ことばでニューカッスルこう侮辱ぶじょくした。これをニューカッスルこう勘違かんちがいして決闘けっとうもうみとかんがえたため、ジョージ1せい激怒げきどした。ジョージ1せい命令めいれいによりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿きゅうでん追放ついほうされた[47]。ジョージのあたらしい住居じゅうきょであるレスター・ハウスはジョージ1せい野党やとうのたまりとなった[48]。ジョージ・オーガスタスのつまキャロライン・オブ・アーンズバックおっととともにセント・ジェームズ宮殿きゅうでんはなれたが、ジョージ1せいられた子供こどもたちとの面会めんかい切望せつぼうし、結局けっきょくジョージ1せいとジョージ・オーガスタスはのちロバート・ウォルポールとキャロラインのはたらきかけで和解わかいした。しかし、この洗礼せんれいしきでの事件じけんのち、ジョージ1せいとジョージ・オーガスタスが親身しんみになることはなかった[49]

ジョージ1せい治世ちせい初期しょきにはイギリスの外交がいこう政策せいさくんだ。1717ねんにはフランス、オランダとともにはんスペイン同盟どうめいであるさんこく同盟どうめい締結ていけつ、1718ねんかみきよしマ帝国まていこく加入かにゅうしたことで四国しこく同盟どうめい結成けっせいされた。直後ちょくご四国しこく同盟どうめい戦争せんそうはスペイン継承けいしょう戦争せんそうおな理由りゆう勃発ぼっぱつした。1713ねんユトレヒト条約じょうやくはフランスおうルイ14せいまごフィリップをスペインおうフェリペ5せいとして承認しょうにんしたわりにフランスの王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきさせたが、ルイ14せいが1715ねん死去しきょするとフェリペ5せい条約じょうやく破棄はきしようとした。

スペインは1719ねんにジャコバイトによるスコットランド侵攻しんこう支援しえんしたが、あらしによりスコットランドに上陸じょうりくできたスペインぐんやく300にん程度ていどであった[50]。4月にはスコットランド西海岸にしかいがんエレン・ドナン英語えいごばんしろ基地きち建設けんせつされたが、1かげつイギリス艦隊かんたい破壊はかいされた[51]。ジャコバイトはスコットランドの氏族しぞくから募兵ぼへいしようとしたが兵士へいしやく1せんにんしかあつめられず、装備そうび貧弱ひんじゃくだったためグレン・シールのたたかでイギリス砲兵ほうへい易々いい撃破げきはされた[52]氏族しぞくたちはハイランド地方ちほうらされ、スペインぐん降伏ごうぶくした。そのため、この侵攻しんこうはジョージ1せい政府せいふにとって脅威きょういになることはなかった。フランスがてきがわまわったことでフェリペ5せいぐんはなく、結局けっきょくスペインとフランスの王位おうい分離ぶんりされたままとなった。どう時期じきにはスウェーデンロシアバルト海ばるとかいにおける覇権はけんあらそいにより勃発ぼっぱつしただい北方ほっぽう戦争せんそうがハノーファーに有利ゆうりかたち決着けっちゃくし、スウェーデンりょうブレーメン=フェルデン英語えいごばんは1719ねんにハノーファーに割譲かつじょうされ、そのわりハノーファーは割譲かつじょうたいする賠償金ばいしょうきん支払しはらった[53]

内閣ないかく[編集へんしゅう]

ジョージ1せいギニー金貨きんか、1718ねんめい

ハノーファーにおいて、ジョージ1せい絶対ぜったい君主くんしゅだった。50ターラー(やく12から13ポンド相当そうとう以上いじょう支出ししゅつ士官しかんすべての任命にんめいすべての閣僚かくりょう、ひいては写字しゃじせいより上級じょうきゅうすべての官僚かんりょう任命にんめいはジョージ1せい支配しはいにあった。一方いっぽう、イギリスにおいて、かれ議会ぎかいつうじて統治とうちしなければならなかった[54]

1715ねんにホイッグが権力けんりょくたとき、おも閣僚かくりょうロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵ししゃく(ウォルポールの義弟ぎてい)、ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯爵はくしゃくといった人物じんぶつだった。また大陸たいりくから帰国きこくしたマールバラこうには名誉めいよしょくあたえている[55]。しかし、1717ねんにタウンゼンド子爵ししゃく罷免ひめんされ、ウォルポールが閣僚かくりょうとの意見いけん不一致ふいっち辞任じにんした[56]。その結果けっか、スタンホープは外交がいこうを、サンダーランドはく内政ないせいを、それぞれつかさどることになった[57]

スタンホープとサンダーランドの政権せいけんは1719ねんらぎはじめた。かれらは貴族きぞく法案ほうあん提出ていしゅつしてあたらしい貴族きぞくそう制限せいげんすることで貴族きぞくいん人数にんずう制限せいげんしようとした。法案ほうあん成立せいりつすると、反対はんたい貴族きぞく叙任じょにんふうじられ、政権せいけん将来しょうらい安定あんてい期待きたいできるが、ウォルポールは「政治せいじ人生じんせいもっと素晴すばらしい」とされる演説えんぜつ法案ほうあん反対はんたいし、法案ほうあん最終さいしゅうてきには廃案はいあんとなった[58]翌年よくねん、ウォルポールとタウンゼンドはふたた閣僚かくりょう任命にんめいされ、めい目的もくてきには統一とういつしたホイッグ政府せいふ成立せいりつした[58]

金融きんゆう投機とうき国債こくさいは、よりおおきな問題もんだいとなっていた。国債こくさい一部いちぶ所有しょゆうしゃ同意どういがなければ償還しょうかんできず、利率りりつたか時期じき発行はっこうされたものだった。そのため、国債こくさい償還しょうかんされることはすくなく、イギリスの財政ざいせい長期ちょうきてき圧迫あっぱくした[59]。1719ねん南海なんかい会社かいしゃはイギリスの国債こくさいの5ぶんの3にあたる3,100まんポンドぶん会社かいしゃかぶ交換こうかんけることを提案ていあんした[60]南海なんかい会社かいしゃはサンダーランドはく、ジョージ1せい愛妾あいしょうエーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープはく(スタンホープは1717ねん子爵ししゃくじょされ、1718ねん伯爵はくしゃくのぼり爵した)のいとこで大蔵おおくら書記官しょきかんだったチャールズ・スタンホープ英語えいごばん買収ばいしゅうして計画けいかく推進すいしんした[61]利子りしたかく、償還しょうかんされることのない国債こくさい所有しょゆうしゃてい利子りし売買ばいばい容易ようい株式かぶしきとの交換こうかん同意どういさせる仕組しくみは、交換こうかん一見いっけん財政ざいせいてきとくするようにえたことにあった[62]南海なんかい会社かいしゃ株価かぶかはうなぎのぼりとなり、1720ねん1がつ1にちには128ポンドだった株価かぶか[63]は5月に交換こうかん計画けいかく開始かいししたときには500ポンドになり[64]、さらに5がつまつには890ポンドに[39]、6月24にちにはさい高値たかねの1,050ポンドにたっした[65]会社かいしゃ成功せいこうにより会社かいしゃにも投機とうき目的もくてきとした資金しきん流入りゅうにゅう、そのうち一部いちぶ会社かいしゃうたがわしいものだった[66]。6月、政府せいふはこのような会社かいしゃ投機とうきめようとして、南海なんかい会社かいしゃ支持しじのもと泡沫うたかた会社かいしゃ規制きせいほう英語えいごばん制定せいていしたが[67]株価かぶか上昇じょうしょうまってしまったのち[68]、8がつには無秩序むちつじょりがはじまり、9がつまつには株価かぶかが150ポンドまで暴落ぼうらくした。貴族きぞくふくおおくの人々ひとびと大損おおぞんし、その一部いちぶ完全かんぜん破滅はめつした[69]。ジョージ1せいは6がつ以降いこうハノーファーに滞在たいざいしていたが、内閣ないかく要請ようせいによりはやめに帰国きこく、11月にはロンドンにいた[70]

南海なんかい泡沫うたかた事件じけんとしてられるこの経済けいざい危機ききにより、ジョージとその閣僚かくりょうたちはいちじるしい不人気ふにんきとなった[71]。1721ねん、スタンホープはく無実むじつにもかかわらず[72][73]貴族きぞくいんでの弁論べんろんからの心労しんろうたおれて病死びょうし、サンダーランドはく公職こうしょく辞任じにんした。

サンダーランドはくはその個人こじんてきにジョージ1せいへの影響えいきょうりょく保持ほじしたが、1722ねん急死きゅうししたことでロバート・ウォルポールの台頭たいとうゆるした。ウォルポールは実質じっしつてきには首相しゅしょう立場たちばにあったとえるが、当時とうじ首相しゅしょうという役職やくしょく公式こうしきには存在そんざいせず、かれ任命にんめいされた官職かんしょくだいいち大蔵おおくらきょうおよび財務ざいむ大臣だいじんである。かれ南海なんかい泡沫うたかた事件じけん善後ぜんごさくとして債務さいむ整理せいりやいくらかの賠償ばいしょうおこなって財政ざいせい安定あんていした[74]。ウォルポールが議会ぎかい戦術せんじゅつ駆使くししたことで、南海なんかい会社かいしゃ不当ふとう行為こういおこなったと明示めいじすることはけられた[75]。ジョージ1せい賄賂わいろとして無料むりょう株式かぶしきったとする主張しゅちょう[76]には証拠しょうこがなく、実際じっさい王立おうりつ文書ぶんしょきょく英語えいごばんには株式かぶしき購入こうにゅう伝票でんぴょうのこっており、その伝票でんぴょうはジョージ1せい株価かぶか暴落ぼうらく損害そんがいこうむったことをしめしている[77]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1720年代ねんだいのジョージ1せい肖像しょうぞう、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ(Georg Wilhelm Lafontaineさく

1725ねん、ジョージ1せいはウォルポールの要請ようせいけてバス勲章くんしょう復活ふっかつさせた。これにより、ウォルポールはバス勲章くんしょう利用りようして支持しじしゃへの報奨ほうしょう、または支持しじしゃることができた[78]。ウォルポールの権力けんりょくおおきくし、みずからがえらんだ閣僚かくりょう任命にんめいすることができた。先代せんだいのアン女王じょおうちがい、ジョージ1せい内閣ないかく会議かいぎにめったに臨席りんせきしなかった。かれ通信つうしんはほとんどが私的してきなものであり、かれ影響えいきょうりょく発揮はっきしたのはおもにイギリスの外交がいこう政策せいさくであった。タウンゼンド子爵ししゃくたすけもあり、かれはオーストリアとスペインのあいだウィーン条約じょうやくへの対策たいさく、およびイギリスの貿易ぼうえき保護ほご目的もくてきとしたハノーファー条約じょうやくのグレートブリテン、フランス、プロイセンによる批准ひじゅんにこぎつけることができた[79]

ジョージ1せいはだんだんとウォルポールにたよったが、みずからの叡慮えいりょ意思いし)で閣僚かくりょう任免にんめんすることができた。ジョージ1せい治世ちせい末期まっきにウォルポールはジョージ1せい罷免ひめんされることをおそれたが[80]、ジョージ1せい王位おういについてから6度目どめとなるハノーファー行幸ぎょうこう途中とちゅう崩御ほうぎょした。かれは1727ねん6がつ9にち(ユリウスれき)にデルデン英語えいごばんノルトホルン英語えいごばんあいだ道中どうちゅう卒中そっちゅうこし[81]馬車ばしゃオスナブリュックにある司教しきょう宮殿きゅうでんれていかれたが[注釈ちゅうしゃく 8]、11にち(ユリウスれきあさ死去しきょした。ジョージ1せい息子むすこジョージ・オーガスタスはちちおう崩御ほうぎょをウォルポールかららされたとき、「それはわる冗談じょうだんだ」とってしんじようとしなかったという[82]。ジョージ1せいライネじょう英語えいごばん埋葬まいそうされたが、だい世界せかい大戦たいせんのちヘレンハウゼン宮殿きゅうでん改葬かいそうされた[6]

ジョージ1せい息子むすこジョージ・オーガスタスはジョージ2せいとして即位そくいした。ウォルポール自身じしんふくめ、ジョージ2せいがウォルポールの罷免ひめん計画けいかくしていたとひろかんがえられたが、王妃おうひキャロライン・オブ・アーンズバックにより罷免ひめん阻止そしされた。ウォルポールが議会ぎかい安定あんてい多数たすう確保かくほしたこともあり、ジョージ2せいはウォルポールの留任りゅうにん政情せいじょう不安ふあんえらぶしかなかった[83]。その首相しゅしょう権力けんりょくはだんだんとしていき、国王こくおう権力けんりょく反比例はんぴれいしてよわくなっていった。

崩御ほうぎょ[編集へんしゅう]

家族かぞくかこまれたジョージ1せいジェームズ・ソーンヒルさく
ジョージ1せいぞうハノーファー、カール・ランゲニアー(Carl Rangenierさく

ジョージ1せいはイギリスでの臣下しんか嘲笑ちょうしょうされた[84]メアリー・ウォートリー・モンタギューなどどう時代じだいひとはジョージ1せい公衆こうしゅう無表情むひょうじょうだったためかれ知性ちせいであるとかんがえた[85]英語えいごはなせないとされたためイギリスでは不人気ふにんきだったが、治世ちせい後半こうはん文書ぶんしょではかれ英語えいご理解りかいし、きとはなすこともできることをしめしている[86]かれはドイツフランス語ふらんすご流暢りゅうちょうはなし、ラテン語らてんごもよく、イタリアとオランダすこはなせた[38]かれつまゾフィー・ドロテアへの仕打しうちは一種いっしゅのスキャンダルとしてあつかわれた[87]

イギリスじんかれをドイツじんすぎるとなした。歴史れきしラグンヒルド・ハットン英語えいごばんによると、イギリスじんはジョージ1せいがドイツじん愛人あいじん多数たすうかかえていたと勘違かんちがいした[88]。しかし、大陸たいりくヨーロッパでは進歩しんぽてき啓蒙けいもう思想しそう支持しじした統治とうちしゃとしてみなされた。かれ自身じしん批判ひはんてき文書ぶんしょきびしい検閲けんえつさらせずに出版しゅっぱん許可きょかし、哲学てつがくしゃヴォルテールが1726ねんにパリから追放ついほうされたときにはかれ保護ほごした[84]。イギリスの文献ぶんけん大陸たいりくヨーロッパの文献ぶんけんでは、両方りょうほうともジョージ1せいひかえめでおだやかな人柄ひとがらで、財政ざいせいでは慎重しんちょうであることをしめしている[38]。ジョージ1せい社交しゃこうイベントにおいて注目ちゅうもくまととなることをきらい、オペラ鑑賞かんしょうのときは王家おうけ専用せんようのますせきけ、たびたび匿名とくめい友人ゆうじんいえおとずれてカードあそびをした[40]。いくらかの不人気ふにんきにかかわらず、プロテスタントであるジョージ1せいはその臣下しんかからはカトリックの僭称せんしょうしゃジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートよりいとかんがえられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレーはこの相反あいはんする感情かんじょう下記かきのように記述きじゅつした:

かれしんはハノーファーにあった。[...]かれわたしたちのところにるときには50さい以上いじょうになっていた:わたしたちがかれまねいたのはわたしたちがかれほっし、かれわたしたちのこときにかなっていた。わたしたちはかれのドイツふう不器用ぶきようなやりかたをあざわらった。かれわたしたちの忠誠ちゅうせい価値かちすべてとった。かれれるかねすべった。わたしたちを教皇きょうこうからとおざかることを保証ほしょうした。[...]もしわたしがその日々ひびにいたら、かれがわについたのだろう。かれはシニカルで利己りこてきだったが、サン・ジェルマンよりずるおうよりはかった。[だい僭称せんしょうしゃジェームズ]はフランスおう命令めいれいをポケットにれ、その随行ずいこうしゃにはイエズスかい大勢おおぜいいた。[89]

19世紀せいき作家さっか、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコットマオン子爵ししゃく英語えいごばんなどはたとえばだい2だいハーヴィー男爵だんしゃく回想かいそうろくなどのかたよったいち史料しりょうたよらなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情どうじょうてきなまなざしをけた。かれらはギルバート・ケイス・チェスタートンといった20世紀せいき初期しょきのイギリス作家さっか影響えいきょうあたえ、ジョージ1せい治世ちせいたいする批評ひひょうにさらなるはんドイツ・はんプロテスタントてきかんがえをくわえた。しかし、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつすると、大陸たいりくヨーロッパの公文書こうぶんしょかんは20世紀せいき後期こうき歴史れきし開放かいほうされ、民族みんぞく主義しゅぎてきはんどく感情かんじょう退潮たいちょうした。ジョージ1せい一生いっしょうとその治世ちせいはビーティー、ハットンといった学者がくしゃふたた探索たんさくされ、かれ性格せいかく能力のうりょくなどにたいする批評ひひょうはより寛大かんだいなものとなっていた[90]歴史れきしジョン・ハロルド・プラム英語えいごばん以下いかのように記述きじゅつした:

一部いちぶ歴史れきし国王こくおう[ジョージ1せい]のイギリスの事務じむたいする関心かんしん誇張こちょうし、かれ英語えいごたいする無視むし重要じゅうようせい過大かだい評価ひょうかした。かれフランス語ふらんすご閣僚かくりょうとの対話たいわなんなくこなすことができ、かれすべての事務じむ興味きょうみったことは外交がいこう政策せいさく宮廷きゅうていふか影響えいきょうした。[91]

しかし、ジョージ1せい性格せいかくはわかりにくいままであった。かれむすめへの手紙てがみではやさしく親切しんせつだったが、おおやけでは愚鈍ぐどん不器用ぶきようだった。かれははは「かれ冷淡れいたんでまじめすぎるとかんがえた人々ひとびとかれ陽気ようき振舞ふるまうことができ、かれことしんから真摯しんし感覚かんかくし、表面ひょうめんよりも敏感びんかんであることを説明せつめいした」[8]というが、それがもっと的確てきかくかもしれない。かれ本当ほんとう性格せいかくがどうであれ、かれ不安定ふあんてい王位おうい継承けいしょうした。それが政治せいじたいする知識ちしき悪知恵わるぢえによるか、偶然ぐうぜん関心かんしんによるかにかかわらず、かれ王位おういをハノーヴァ―あさ議会ぎかい手中しゅちゅうおさめた[38]

称号しょうごう紋章もんしょう[編集へんしゅう]

  • 1660ねん5がつ28にち - 1679ねん12月18にち:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵こうしゃく殿下でんか
  • 1679ねん12月18にち - 1692ねん10がつ:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子こうし殿下でんか
  • 1692ねん10がつ - 1698ねん1がつ23にち:ハノーファーせんみかどこう殿下でんか
  • 1698ねん1がつ23にち - 1714ねん8がつ1にち:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下でんかかみきよしマ帝国まていこくだい出納すいとうかんおよせんみかどこう、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクのおおやけ
  • 1714ねん8がつ1にち - 1727ねん6がつ11にち国王こくおう陛下へいか

ジョージ1せいはイギリスにおいて「ジョージ、かみ恩寵おんちょうにより、グレートブリテン、フランス英語えいごばん、アイルランドのおう信仰しんこう擁護ようごしゃなど」の称号しょうごう使用しようした。一部いちぶとく条約じょうやくでは「など」のまえに「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクのおおやけかみきよしマ帝国まていこくだい出納すいとうかんおよびせんみかどこう」が追加ついかされた。

ジョージ1せいおうとしての紋章もんしょうにはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章もんしょうとのインペイルメント)、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、かみきよしマ帝国まていこくだい出納すいとうかん(クォーターIV)の紋章もんしょうふくまれた[92][93][94]

ハノーファーせんみかどこう相続そうぞくじんゲオルク1せいルートヴィヒとしての紋章もんしょう、1689ねん - 1708ねん
ハノーファーせんみかどこうゲオルク1せいルートヴィヒとしての紋章もんしょう、1708ねん - 1714ねん
グレートブリテンおうジョージ1せいとしての紋章もんしょう、1714ねん - 1727ねん

子女しじょ[編集へんしゅう]

つまゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとのあいだ2人ふたり子女しじょをもうけている。

愛妾あいしょうエーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクとのあいだで3にんむすめをもうけている。

家系かけい[編集へんしゅう]

ハノーファーせんみかどこう ( 1698 - 1727 )
リューネブルクこう ( 1705 - 1727 )
グレートブリテンおう ( 1714 - 1727 )
ジョージ1せい(ゲオルク・ルートヴィヒ)(1660 - 1727)の家柄いえがら
(ちち)エルンスト・アウグスト
(1629 - 1698)
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
祖父そふカレンベルクこう(1635-1641)
    ゲオルク(1582 - 1641)
 リューネブルクこう(1559-1592)
 ヴィルヘルム(1535 - 1592)
 デンマーク=ノルウェー王女おうじょ
 ドロテア(1546 - 1617)
祖母そぼ
    アンナ・エレオノーレ(1601 - 1659)
 ヘッセン=ダルムシュタットかたはく(1596-1626)
 ルートヴィヒ5せい(1577 - 1626)
 ブランデンブルクせんみかどこうむすめ
 マグダレーナ(1582 - 1616)
(はは)
ゾフィー
(1630 - 1714)
祖父そふプファルツせんみかどこう(1610-1623)
    フリードリヒ5せい(1596 - 1632)
 プファルツせんみかどこう(1583-1610)
 フリードリヒ4せい(1574 - 1610)
 オラニエおおやけおんな
 ルイーゼ・ユリアナ(1576 - 1644)
祖母そぼイングランド王国おうこく王女おうじょ
    エリザベス(1596 - 1662)
 スコットランドおう(1567-1625)
 イングランドおうアイルランドおう(1603-1625)

 ジェームズ1せい[‡ 1](1566 - 1625)
 デンマーク=ノルウェー王女おうじょ
 アン(1574 - 1619)
兄弟きょうだい姉妹しまい
おとうと:フリードリヒ・アウグスト(1661-1690)
おとうとマクシミリアン・ヴィルヘルム(1666-1726)(かみきよしマ帝国まていこく元帥げんすい
おとうと:カール・フィリップ(1669-1690)、クリスティアン・ハインリヒ(1671-1703)
おとうとエルンスト・アウグスト(1674-1728)(ヨークおよびオールバニこう
いもうとゾフィー・シャルロッテ(1668-1705)(プロイセン王妃おうひ
(そのおも血縁けつえんしゃ
伯母おばゾフィー・アマーリエデンマーク=ノルウェー王妃おうひ
  1. ^ スコットランドおうとしてはジェームズ6せい


Familytree形式けいしき[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
ジェームズ6せいおよび1せい
 
アン・オブ・デンマーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ1せい (イングランドおう)
 
 
 
エリザベス・ステュアート
 
フリードリヒ5せい (プファルツせんみかどこう)
 
 
ゲオルク (ブラウンシュヴァイク=カレンベルクこう)
 
アンナ・エレオノーレ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
 
チャールズ2せい (イングランドおう)
 
ジェームズ2せい (イングランドおう)
 
ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
 
 
 
 
エルンスト・アウグスト (ハノーファーせんみかどこう)
 
ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルクこう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム3せい (イングランドおう)
 
メアリー2せい (イングランド女王じょおう)
 
アン (イギリス女王じょおう)
 
ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
 
ジョージ1せい (イギリスおう)
 
 
 
 
ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム (グロスターこう)英語えいごばん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ジョージ1せい存命ぞんめいちゅう、グレートブリテン王国おうこくユリウスれき使用しようしたが、ハノーファーでは1700ねん3がつ1にち(ユリウスれき。グレゴリオれきでは2がつ19にち)にグレゴリオれき採用さいようした。
  2. ^ ただしちちからいだせんみかどこうのドイツ諸侯しょこうから「正式せいしき」にみとめられるには10ねんようした。
  3. ^ 長子ちょうし相続そうぞくせいにおいて、イギリスの王位おうい継承けいしょう順位じゅんいでは50にん以上いじょうカトリックがジョージよりうえ順位じゅんいにあったが、1701ねん王位おうい継承けいしょうほうによりカトリックがイギリス王位おうい継承けいしょうすることは禁止きんしされ、プロテスタントあいだではジョージがアンのもっとちか近親きんしんしゃであった。これにたいし、ジャコバイトはジョージを廃位はいいして、ジェームズ2せい息子むすこでカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート王位おういにつけようとしたが失敗しっぱいした。
  4. ^ ロバート・ウォルポールは実質じっしつてきにはイギリスの初代しょだい首相しゅしょうとなった。
  5. ^ ジョージがオスナブリュックのとある部屋へやまれ、おな部屋へや死去しきょしたとするいいつたえがあったが(たとえば、1759年版ねんばん歴史れきしだい事典じてん英語えいごばん記載きさいされている)、ははゾフィー・フォン・デア・プファルツ回想かいそうろくMemoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover、A・ケーヒャーへん、1879ねん出版しゅっぱん、pp. 1, 68.)ではうえ2人ふたり男子だんし(ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーでまれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書こうぶんしょかん保存ほぞんされている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷きゅうていはっされた4つう通知つうち文書ぶんしょでの記述きじゅつとも矛盾むじゅんする[5]
  6. ^ 当時とうじ年収ねんしゅうもっとたか官僚かんりょう年収ねんしゅうの100ばいほどであった。
  7. ^ エルンスト・アウグストは1661ねんからオスナブリュック司教しきょうだったが、オスナブリュック教職きょうしょく世襲せしゅうではなく、プロテスタントとカトリックが交互こうご就任しゅうにんした。
  8. ^ ジョージ1せいおとうと、ヨークおよびオールバニこうアーネストは1715ねんから1728ねんまでオスナブリュック司教しきょうだった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Lathbury, Thomas (1858). A History of the Book of Common Prayer and Other Books of Authority. Oxford: John Henry and James Parker. p. 430. https://books.google.com/?id=15E5AAAAMAAJ. "George I. remained a Lutheran as long as he lived, and had his German chaplain; but he conformed on some occasions with the Church of England. George II. was in the same position. Though Lutherans, they exercised acts of supremacy in the Church of England; and the common opinion was, that there was no opposition between the views of the two Churches" 
  2. ^ George I”. Encyclopædia Britannica. 2020ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 英国えいこく王室おうしつ事典じてん』p199-200「ジョージ1せい
  4. ^ Eagles, Robin (2019ねん6がつ6にち). “Ich bin in meinem Herzen Englisch: Could George I speak English?”. History of Parliament blog. 2021ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  5. ^ Huberty, Michel; Giraud, Alain; Magdelaine, F. et B. (1981) (French). L'Allemagne Dynastique, Tome III. Le Perreux: Alain Giraud. p. 85. ISBN 2-901138-03-9 
  6. ^ a b c Weir, Alison (1996). Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition. Random House. pp. 272–276. ISBN 0-7126-7448-9 
  7. ^ Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King. London: Thames and Hudson. pp. 26–28. ISBN 0-500-25060-X 
  8. ^ a b Hatton, p. 29
  9. ^ Hatton, p. 34
  10. ^ Hatton, p. 30
  11. ^ Hatton, pp. 36, 42
  12. ^ Hatton, pp. 43–46
  13. ^ a b Hatton, pp. 51–61
  14. ^ Farquhar, Michael (2001). A Treasury of Royal Scandals. New York: Penguin Books. p. 152. ISBN 978-0-7394-2025-6 
  15. ^ Hatton, pp. 60–64
  16. ^ Schemmel, B. “Hanover”. rulers.org. 2007ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  17. ^ Schama, Simon (2001). A History of Britain – The British Wars 1603–1776. BBC Worldwide Ltd. p. 336. ISBN 0-563-53747-7 
  18. ^ Hatton, p. 74
  19. ^ Hatton, pp. 75–76
  20. ^ Hatton, pp. 77–78
  21. ^ Hatton, p. 90
  22. ^ Hatton, pp. 86–89
  23. ^ 友清ともきよ、P56、P131、P203、P233。
  24. ^ a b Hatton, pp. 101–104, 122
  25. ^ Hatton, p. 104
  26. ^ Velde, François R. (2006ねん9がつ26にち). “Holy Roman Empire”. 2007ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  27. ^ 友清ともきよ、P221、P289 - P290、P348 - P359。
  28. ^ Whatley, Christopher A. (2001). Bought and Sold for English Gold?: Explaining the Union of 1707, Second edition. East Linton, Scotland: Tuckwell Press. ISBN 1-86232-140-X 
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

先代せんだい:
エルンスト・アウグスト
ハノーファーせんみかどこう
1698ねん - 1727ねん
次代じだい:
ジョージ2せい
(ゲオルク2せいアウグスト)
先代せんだい:
ゲオルク・ヴィルヘルム
リューネブルクこう
ザクセン=ラウエンブルクこう

1705ねん - 1727ねん
先代せんだい:
アン
グレートブリテンおう
アイルランドおう
1714ねん - 1727ねん