ジョージ1世 せい (英語 えいご : George I 、1660年 ねん 5月28日 にち - 1727年 ねん 6月11日 にち (グレゴリオ暦 れき 6月22日 にち [注釈 ちゅうしゃく 1] ))[2] は、グレートブリテン王国 おうこく 及 およ びアイルランド王国 おうこく の国王 こくおう で、ハノーヴァー朝 あさ の開祖 かいそ である[3] 。また、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー) 選 せん 帝 みかど 侯 こう でもあり、ドイツ語 ご 名 な をゲオルク・ルートヴィヒ (Georg Ludwig )という。スコットランド女王 じょおう メアリーの玄孫 げんそん 、スコットランド王 おう ジェームズ5世 せい の来 らい 孫 まご 、ヘンリー7世 せい の仍孫であり、ヴィクトリア女王 じょおう は来 らい 孫 まご 、エドワード7世 せい は昆 こん 孫 まご 、ジョージ5世 せい は仍孫、ジョージ6世 せい は雲 くも 孫 まご である。
ジョージはドイツのハノーファー で生 う まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国 こうこく の領地 りょうち や選 せん 帝 みかど 侯 こう 位 くらい 称号 しょうごう を父 ちち や伯父 おじ たちから相続 そうぞく した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう などヨーロッパにおける一連 いちれん の戦争 せんそう により、ジョージのドイツ領地 りょうち はその治世 ちせい 中 ちゅう に拡大 かくだい した。イギリスで又 また 従妹 じゅうまい のアン女王 じょおう が崩御 ほうぎょ してステュアート朝 あさ が断絶 だんぜつ すると、母 はは のゾフィー がステュアート家 か の血筋 ちすじ だったことから、54歳 さい でグレートブリテン王国 おうこく の国王 こくおう ジョージ1世 せい として迎 むか えられた[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
ドイツで生 う まれ育 そだ ったジョージ1世 せい は英語 えいご を理解 りかい できず、文化 ぶんか も異 こと なるイギリス国民 こくみん から嫌 きら われたと言 い われている。ジョージ1世 せい に英語 えいご の知識 ちしき がなく学 まな ぶこともなかったとの見解 けんかい は世間 せけん で信 しん じられてきたが、国王 こくおう 即位 そくい 時 じ に彼 かれ の英語 えいご は少 すこ しかじっている程度 ていど を超 こ えていたとも見 み なせる記述 きじゅつ が史料 しりょう に存在 そんざい し、1720年代 ねんだい までに文書 ぶんしょ がフランス語 ふらんすご に訳 やく されなくなったことは国王 こくおう 在位 ざいい 中 ちゅう に彼 かれ の英語 えいご 能力 のうりょく が進歩 しんぽ したことを示 しめ すとも考 かんが えられる[4] 。イギリスの政務 せいむ をロバート・ウォルポール [注釈 ちゅうしゃく 4] に任 まか せ、これがイギリスにおける責任 せきにん 内 ない 閣 かく 制 せい (「国王 こくおう は君臨 くんりん すれども統治 とうち せず」)の発達 はったつ を促 うなが す結果 けっか になったとされる[3] 。
ジョージ1世 せい は母国 ぼこく ハノーファーへ戻 もど る途中 とちゅう で卒中 そっちゅう を起 お こして崩御 ほうぎょ 、ハノーファーで埋葬 まいそう された。
ジョージは1660年 ねん 5月 がつ 28日 にち に神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のハノーファーで生 う まれた[注釈 ちゅうしゃく 5] 。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 公子 こうし エルンスト・アウグスト とゾフィー・フォン・デア・プファルツ の間 あいだ に生 う まれ、ゾフィーは母 はは エリザベス・ステュアート を通 つう じて祖父 そふ のイングランド王 おう ジェームズ1世 せい の血 ち を引 ひ いていた[6] 。
ジョージは、生 う まれた時点 じてん で、父 ちち と実子 じっし のいない3人 にん の伯父 おじ のドイツ領地 りょうち の唯一 ゆいいつ の相続 そうぞく 人 じん となった。1661年 ねん 、ジョージの弟 おとうと フリードリヒ・アウグストが生 う まれ、2人 ふたり は家族 かぞく の間 あいだ でそれぞれゲルゲン(Görgen )とグシェン(Gustchen )と呼 よ ばれ、一緒 いっしょ に育 そだ てられた。ゾフィーが1664年 ねん から1665年 ねん の間 あいだ 、療養 りょうよう のためにイタリアへ旅行 りょこう して家 いえ を留守 るす にしていたが、その間 あいだ も息子 むすこ たちの女 おんな 家庭 かてい 教師 きょうし と定期 ていき 的 てき に文通 ぶんつう し、息子 むすこ たちの養育 よういく に気 き をかけた[7] 。ゾフィーが旅 たび を終 お えた後 のち 、彼女 かのじょ はエルンスト・アウグストとの間 あいだ でさらに4男 なん 1女 じょ をもうけた。ゾフィーは手紙 てがみ でジョージを責任 せきにん 感 かん のある誠実 せいじつ な子供 こども と形容 けいよう 、弟 おとうと や妹 いもうと たちの模範 もはん となりうると述 の べた[8] 。
1665年 ねん にはジョージの伯父 おじ の1人 ひとり クリスティアン・ルートヴィヒ が子供 こども なく薨去 こうきょ したが、残 のこ りの2人 ふたり の伯父 おじ が1675年 ねん までに結婚 けっこん したため、彼 かれ らはジョージの継承 けいしょう 権 けん に疑問 ぎもん を呈 てい し、2人 ふたり が子供 こども をもうけた場合 ばあい にはジョージが継承 けいしょう できない可能 かのう 性 せい があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩 か りや乗馬 じょうば に連 つ れて行 い き、軍事 ぐんじ について教育 きょういく した。ジョージの将来 しょうらい が不安定 ふあんてい であることを案 あん じたエルンスト・アウグストは当時 とうじ 15歳 さい のジョージを仏 ふつ 蘭 らん 戦争 せんそう の戦役 せんえき に連 つ れて行 い き、戦闘 せんとう でジョージを教育 きょういく するとともにその能力 のうりょく を試 ため そうとした[9] 。
1679年 ねん 、ジョージの伯父 おじ の1人 ひとり ヨハン・フリードリヒ が男子 だんし のないまま薨去 こうきょ 、エルンスト・アウグストがカレンベルク侯 ほう 領 りょう とゲッティンゲン侯 こう 領 りょう を継承 けいしょう し、首都 しゅと はハノーファーに置 お いた。今 いま やジョージの伯父 おじ のうち唯一 ゆいいつ 存命 ぞんめい なのはゲオルク・ヴィルヘルム 1人 ひとり となり、彼 かれ は愛妾 あいしょう エレオノール・ドルブリューズ と正式 せいしき に結婚 けっこん して娘 むすめ ゾフィー・ドロテア を嫡出 ちゃくしゅつ 子 こ にしたが、さらに子供 こども をもうける可能 かのう 性 せい はありそうになかった。サリカ法 ほう により領土 りょうど の継承 けいしょう は男子 だんし に限定 げんてい されたため、ジョージと弟 おとうと たちが父 ちち エルンスト・アウグストや伯父 おじ たちの領地 りょうち を相続 そうぞく することはほぼ確実視 かくじつし された。1682年 ねん にハノーファー家 か は長子 ちょうし 相続 そうぞく 制 せい の採用 さいよう に合意 ごうい 、これによりジョージは領地 りょうち を弟 おとうと たちと分割 ぶんかつ することなく全 すべ て相続 そうぞく することができた[10] 。
1680年 ねん 、ハノーファー公子 こうし だった頃 ころ のジョージ。ゴドフリー・ネラー 作 さく
同年 どうねん 、ジョージは従妹 じゅうまい ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ と結婚 けっこん 、サリカ法 ほう で規定 きてい されなかった収入 しゅうにゅう を確保 かくほ した。この閨 ねや 閥 ばつ の目的 もくてき は歳入 さいにゅう を(健全 けんぜん な程度 ていど に)増 ふ やすことと、ハノーファーとツェレの統一 とういつ を推進 すいしん することにあった。ジョージの母 はは ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身 しゅっしん (王族 おうぞく ではなかった上 うえ 、庶子 しょし だったのを認知 にんち されて嫡出 ちゃくしゅつ となった経緯 けいい がある)を見下 みくだ して結婚 けっこん に反対 はんたい したが、結婚 けっこん がもたらす利益 りえき をもって説得 せっとく された[11] 。
1683年 ねん 、ジョージは弟 おとうと フリードリヒ・アウグストとともに大 だい トルコ戦争 せんそう の第 だい 二 に 次 じ ウィーン包囲 ほうい に参戦 さんせん 、一方 いっぽう のゾフィー・ドロテアは息子 むすこ ゲオルク・アウグスト を出産 しゅっさん した。翌年 よくねん 、フリードリヒ・アウグストは長子 ちょうし 相続 そうぞく 制 せい の採用 さいよう を知 し らされた。元々 もともと 予定 よてい された、父 ちち の領地 りょうち の一部 いちぶ を相続 そうぞく することができなくなったという事実 じじつ により、フリードリヒ・アウグストと父 ちち 、そしてジョージの間 あいだ で確執 かくしつ が生 しょう じ、フリードリヒ・アウグストが1690年 ねん に戦死 せんし するまで続 つづ いた。ブラウンシュヴァイク=リューネブルクが統一 とういつ 目前 もくぜん であることと、エルンスト・アウグストが大 だい トルコ戦争 せんそう に継続 けいぞく して貢献 こうけん したことを鑑 かんが みて、エルンスト・アウグストは1692年 ねん に神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の選 せん 帝 みかど 侯 こう に叙 じょ された。これにより、ジョージの将来 しょうらい は父 ちち の選 せん 帝 みかど 侯 こう 領 りょう と伯父 おじ の公国 こうこく の相続 そうぞく と、より一層 いっそう に明 あか るくなった[12] 。
ゾフィー・ドロテアは1687年 ねん に同名 どうめい の娘 むすめ ゾフィー・ドロテア を出産 しゅっさん したが、それ以降 いこう は妊娠 にんしん することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠 そえん になり、ジョージは愛妾 あいしょう エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク と同伴 どうはん することを好 この み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク 伯爵 はくしゃく と不倫 ふりん した。駆 か け落 お ちのスキャンダルに危機 きき を感 かん じたハノーファー宮廷 きゅうてい ではジョージの母 おも や弟 おとうと が思 おも いとどまるよう説得 せっとく したが効果 こうか はなかった。ハノーファーの敵国 てきこく の外交 がいこう 文書 ぶんしょ によると、ケーニヒスマルク伯 はく は1694年 ねん 7月 がつ に殺害 さつがい され、遺体 いたい は石 いし の錘 おもり をつけてライネ川 がわ に投棄 とうき された。彼 かれ を殺害 さつがい したのはエルンスト・アウグストの宮廷 きゅうてい にいた4人 にん とされ、そのうち1人 ひとり (ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万 まん ターラーもの大金 たいきん を与 あた えられた[注釈 ちゅうしゃく 6] [13] 。その後 ご 、ケーニヒスマルク伯 はく の遺体 いたい がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿 きゅうでん の床下 ゆかした に埋 う められたとするうわさが流 なが れた[14] 。しかし、ゾフィーを含 ふく むハノーファー自体 じたい での文献 ぶんけん はケーニヒスマルクの行方 ゆくえ について全 まった く知 し らなかったとした[13] 。
ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚 けっこん は解消 かいしょう されたが、その理由 りゆう は不倫 ふりん ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨 す てたことであった。父 ちち エルンスト・アウグストの同意 どうい を得 え たジョージはゾフィー・ドロテアをツェレ のアールデン城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) に幽閉 ゆうへい 、彼女 かのじょ は1726年 ねん に死去 しきょ するまで解放 かいほう されなかった。彼女 かのじょ は父 ちち や子供 こども との面会 めんかい を許 ゆる されず、再婚 さいこん も禁止 きんし され、他人 たにん の同伴 どうはん なしに歩 ある けるのは城 しろ の中庭 なかにわ だけであった。しかし、彼女 かのじょ は年金 ねんきん や使用人 しようにん を与 あた えられ、監視 かんし のもと馬車 ばしゃ に乗 の って城 しろ 外 がい へ出 で かけることも許 ゆる された[15] 。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年 ねん から死去 しきょ するまでジョージの公 おおやけ 妾 わらわ であり続 つづ け、1692年 ねん 、1693年 ねん 、1701年 ねん にそれぞれ娘 むすめ を出産 しゅっさん した。
ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう [ 編集 へんしゅう ]
1706年 ねん 、ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう だった頃 ころ のジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマン作 さく
エルンスト・アウグストは1698年 ねん 1月 がつ 23日 にち に死去 しきょ 、遺 のこ 領 りょう はオスナブリュック司教 しきょう 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) を除 のぞ いて[注釈 ちゅうしゃく 7] ジョージが継承 けいしょう した。これにより、ジョージは神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク 公 おおやけ (首都 しゅと の名 な をとりハノーファーとも)、選 せん 帝 みかど 侯 こう および旗 はた 手長 てなが になった[16] 。彼 かれ の宮廷 きゅうてい は哲学 てつがく 者 しゃ 、数学 すうがく 者 しゃ のゴットフリート・ライプニッツ 、作曲 さっきょく 家 か のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル 、アゴスティーノ・ステッファーニ などでにぎわった。
ジョージが父 ちち の公国 こうこく を継承 けいしょう した直後 ちょくご 、イングランドとスコットランドの王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい 2位 い のグロスター公 こう ウィリアム (英語 えいご 版 ばん ) が死去 しきょ した。イングランドの1701年 ねん 王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう により、ジョージの母 はは ゾフィーは当時 とうじ 王位 おうい についていたウィリアム3世 せい と義妹 ぎまい アン が継承 けいしょう 者 しゃ なく死去 しきょ した場合 ばあい 、その継承 けいしょう 者 しゃ となることが定 さだ められていた。この決定 けってい の理由 りゆう は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家 おうけ の最近 さいきん 親 おや 者 しゃ にあたるためだった。近親 きんしん 者 しゃ のうち継承 けいしょう 順位 じゅんい がゾフィーより上 うえ にある56人 にん のカトリック信者 しんじゃ は排除 はいじょ された[17] 。彼 かれ らが王位 おうい を継承 けいしょう するために改宗 かいしゅう するという望 のぞ みは薄 うす く、うち数 すう 人 にん はすでに断 ことわ っていた[18] 。
1701年 ねん 8月 がつ 、ジョージはガーター勲章 くんしょう を授与 じゅよ され、6週間 しゅうかん 後 ご には元 もと イングランド国王 こくおう でカトリックとしては最近 さいきん 親 おや だったジェームズ2世 せい が死去 しきょ した。翌年 よくねん 3月 がつ にウィリアム3世 せい が死去 しきょ 、アンが即位 そくい した。ゾフィーは王位 おうい の推定 すいてい 相続 そうぞく 人 じん となった。彼女 かのじょ は当時 とうじ 71歳 さい で、アン女王 じょおう より35歳 さい 年上 としうえ であったが健康 けんこう 体 たい であり、彼女 かのじょ 自身 じしん か息子 むすこ による王位 おうい 継承 けいしょう を保証 ほしょう するため精力 せいりょく 的 てき に働 はたら いた[19] 。しかし、イギリスの政治 せいじ と憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) の複雑 ふくざつ さを理解 りかい していたのはジョージのほうであり、彼 かれ は1705年 ねん のゾフィー帰化 きか 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) でゾフィーとその継承 けいしょう 者 しゃ たちをイギリスに帰化 きか させ、また権力 けんりょく の継承 けいしょう を摂政 せっしょう 委員 いいん 会 かい を通 つう じて行 おこな うことも定 さだ めた[20] 。同年 どうねん 、ジョージの伯父 おじ で唯一 ゆいいつ 存命 ぞんめい だったゲオルク・ヴィルヘルム が死去 しきょ 、ジョージはツェレ を首都 しゅと とするリューネブルク侯 ほう 領 りょう とグルベンハーゲン侯 ほう 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) を継承 けいしょう した[21] 。
1720年 ねん 頃 ごろ のハノーファーの地図 ちず 。ハノーファー 、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル 、オスナブリュック司教 しきょう 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) を示 しめ している。ジョージの治世 ちせい 中 ちゅう 、ハノーファーはさらにザクセン=ラウエンブルク とブレーメン=フェルデン (英語 えいご 版 ばん ) を獲得 かくとく した。
ジョージがハノーファーを継承 けいしょう した直後 ちょくご 、スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。戦争 せんそう において問題 もんだい となったのはフランス王 おう ルイ14世 せい の孫 まご アンジュー公 こう フィリップ がスペイン王 おう カルロス2世 せい の遺言 ゆいごん に従 したが いスペイン王位 おうい を継承 けいしょう することだった。神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、ネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 、イングランド、ハノーファー、そして多 おお くのドイツ小国 しょうこく はフランスのブルボン家 か がスペインまでも支配 しはい すると、強力 きょうりょく になりすぎることを恐 おそ れてフィリップによる継承 けいしょう に反対 はんたい した。ジョージは戦争 せんそう に乗 じょう じて親 しん 仏 ふつ 派 は のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 ほう 領 りょう に侵攻 しんこう 、途中 とちゅう で戦列 せんれつ の並 なら びを自 みずか ら書 か いた。侵攻 しんこう は僅少 きんしょう な損害 そんがい で成功 せいこう 、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前 まえ に行 い ったザクセン=ラウエンブルク 併合 へいごう を承認 しょうにん した[22] 。
1706年 ねん 、バイエルン選 せん 帝 みかど 侯 こう マクシミリアン2世 せい エマヌエル はフランス側 がわ についた廉 かど で選 せん 帝 みかど 侯 こう 位 い をはく奪 だつ され、同年 どうねん にジョージは帝国 ていこく 元帥 げんすい に叙 じょ され、ライン川 がわ 沿岸 えんがん の帝国 ていこく 軍 ぐん を指揮 しき した。しかしジョージは同盟 どうめい 者 しゃ のマールバラ公爵 こうしゃく ジョン・チャーチル に騙 だま されて陽動 ようどう 攻撃 こうげき を行 おこな い、また皇帝 こうてい ヨーゼフ1世 せい がジョージの戦役 せんえき に必要 ひつよう な軍資金 ぐんしきん を横領 おうりょう したため大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めることはなかった。しかしドイツ諸侯 しょこう はジョージの働 はたら きぶりを認 みと め、1708年 ねん にジョージを選 えらべ 帝 みかど 侯 こう として正式 せいしき に承認 しょうにん した[23] [24] 。ジョージは陽動 ようどう 攻撃 こうげき がフランス軍 ぐん の目 め をそらすための作戦 さくせん であると後 のち に知 し ったためマールバラ公 こう には根 ね を持 も たなかった[24] 。
1709年 ねん 、ジョージは元帥 げんすい 職 しょく を辞 や め、以降 いこう 軍務 ぐんむ から身 み を引 ひ いた。1710年 ねん 、元 もと はプファルツ選 せん 帝 みかど 侯 こう が有 ゆう した官職 かんしょく であった帝国 ていこく の大 だい 出納 すいとう 官 かん に就任 しゅうにん した[25] 。バイエルン選 せん 帝 みかど 侯 こう が不在 ふざい だったため官職 かんしょく が再編 さいへん されたのだった[26] 。後 のち にマールバラ公 こう が政争 せいそう で司令 しれい 官 かん の地位 ちい が危 あや うくなるとマールバラ公 こう への信任 しんにん を表明 ひょうめい した手紙 てがみ をマールバラ公 こう に送 おく っている。またマールバラ公 こう が失脚 しっきゃく し、トーリー党 とう が強引 ごういん に和睦 わぼく を図 はか りイギリス軍 ぐん を引 ひ き上 あ げさせたことに反発 はんぱつ 、終戦 しゅうせん までオイゲンの下 した で戦 そよ い抜 ぬ いた[27] 。1711年 ねん にヨーゼフ1世 せい が死去 しきょ したことで勢力 せいりょく 均衡 きんこう が逆 ぎゃく 方向 ほうこう に崩 くず される可能 かのう 性 せい が出 で て、1713年 ねん のユトレヒト条約 じょうやく 締結 ていけつ と終戦 しゅうせん につながった。フィリップはフェリペ5世 せい としてスペイン王 おう に即位 そくい したが、フランスの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん は放棄 ほうき 、マクシミリアン2世 せい エマヌエルはバイエルン選 せん 帝 みかど 侯 こう に復帰 ふっき した。
グレートブリテンの王位 おうい 継承 けいしょう [ 編集 へんしゅう ]
ジョージ1世 せい の肖像 しょうぞう 画 が 、ゴドフリー・ネラー 作 さく 、1714年 ねん 頃 ごろ
イングランドもスコットランドもアンを女王 じょおう として承認 しょうにん したが、ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう 妃 ひ ゾフィーを推定 すいてい 相続 そうぞく 人 じん として承認 しょうにん したのはイングランド議会 ぎかい (英語 えいご 版 ばん ) だけであり、スコットランド議会 ぎかい (英語 えいご 版 ばん ) はスコットランド王位 おうい の継承 けいしょう 権 けん 問題 もんだい を正式 せいしき には解決 かいけつ していなかった。1703年 ねん 、スコットランド議会 ぎかい は、イングランドがスコットランド商人 しょうにん にイングランドとその植民 しょくみん 地 ち における自由 じゆう 貿易 ぼうえき を許可 きょか しない限 かぎ り、アン女王 じょおう のスコットランド王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ にイングランド王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ と同 おな じ人物 じんぶつ を選 えら ばないことを決議 けつぎ した。アン女王 じょおう ははじめ裁可 さいか を与 あた えなかったが、翌年 よくねん には折 お れて裁可 さいか を与 あた え、法案 ほうあん は1704年 ねん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) として成立 せいりつ した。これに対 たい し、イングランド議会 ぎかい はスコットランド議会 ぎかい がハノーファー家 か によるスコットランド王位 おうい 継承 けいしょう を承認 しょうにん しない場合 ばあい 、イングランドとスコットランドの貿易 ぼうえき を制限 せいげん し、スコットランド経済 けいざい に打撃 だげき を与 あた えることを決議 けつぎ した[28] [29] 。やがて両 りょう 議会 ぎかい は1707年 ねん に合同 ごうどう 法 ほう でイングランドとスコットランドを1つの政治 せいじ 実体 じったい に合併 がっぺい し、グレートブリテン王国 おうこく を成立 せいりつ させるとともに、1701年 ねん 王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう に基 もと づく王位 おうい 継承 けいしょう に合意 ごうい した[30] 。この合併 がっぺい により、18世紀 せいき のヨーロッパにおける最大 さいだい の自由 じゆう 貿易 ぼうえき 圏 けん が成立 せいりつ した[31] 。
ホイッグ党 とう の政治 せいじ 家 か は議会 ぎかい が王位 おうい 継承 けいしょう を決定 けってい する権利 けんり を持 も ち、それをアン女王 じょおう の最近 さいきん 親 おや のプロテスタントに与 あた えることができたと考 かんが えた。一方 いっぽう 多 おお くのトーリー党 とう 政治 せいじ 家 か はステュアート家 か のカトリックがより近親 きんしん だったためその継承 けいしょう 権 けん を認 みと めるべきと考 かんが えた。1710年 ねん 、ジョージは王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん がステュアート家 か から剥奪 はくだつ されたが彼 かれ が王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を保持 ほじ したとして、イギリスの王位 おうい を継承 けいしょう することを宣言 せんげん した。「この宣言 せんげん の目的 もくてき はホイッグの議会 ぎかい が王国 おうこく を彼 かれ に与 あた えたとする主張 しゅちょう を潰 つぶ す[とともに][...]トーリーには王位 おうい の簒奪 さんだつ 者 しゃ ではなかったと納得 なっとく させた」[32] 。
ジョージの母 はは ゾフィーは1714年 ねん 5月 がつ 28日 にち (ユリウス暦 れき 。グレゴリオ暦 れき では6月 がつ 8日 にち )に83歳 さい で死去 しきょ した。彼女 かのじょ は雨避 あまよ けのために走 はし った後 のち ヘレンハウゼン庭園 ていえん で倒 たお れた。アン女王 じょおう の健康 けんこう も悪化 あっか していたためイギリスの政治 せいじ 家 か は権力 けんりょく を奪 うば い合 あ い、アンの推定 すいてい 相続 そうぞく 人 じん になったジョージはすぐさま摂政 せっしょう 委員 いいん 会 かい の委員 いいん を再編 さいへん した[33] 。アン女王 じょおう は卒中 そっちゅう をおこして話 はな すことができなくなり、1714年 ねん 8月 がつ 1日 にち に死去 しきょ した。摂政 せっしょう のリストが公表 こうひょう され、摂政 せっしょう たちは宣誓 せんせい し、ジョージはジョージ1世 せい としてグレートブリテン王 おう およびアイルランド王 おう として即位 そくい した[34] 。しかし、逆風 ぎゃくふう のためにデン・ハーグ で海峡 かいきょう 通過 つうか を待 ま たざるを得 え ず[35] 、9月18日 にち にようやくイギリス入 い りした。ジョージは10月 がつ 20日 はつか にウェストミンスター寺院 じいん で戴冠 たいかん した[6] 。イングランドでは20か所 しょ 以上 いじょう の町 まち で戴冠 たいかん 式 しき 暴動 ぼうどう (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれた暴動 ぼうどう がおこった[36] 。
ジョージ1世 せい は1714年 ねん 以降 いこう 、主 おも にグレートブリテン島 とう に住 す んだが、ハノーファーへは1716年 ねん 、1719年 ねん 、1720年 ねん 、1723年 ねん 、1725年 ねん 、1727年 ねん と数 すう 年 ねん ごとに帰国 きこく [37] 、合計 ごうけい ではイギリスでの治世 ちせい の約 やく 5分 ぶん の1をドイツで過 す ごした[38] 。王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう には議会 ぎかい の許可 きょか なくイギリスを出国 しゅっこく することを禁 きん じる条項 じょうこう があったが、1716年 ねん にハノーファー朝 あさ 支持 しじ ムードのなかで全会 ぜんかい 一致 いっち で廃止 はいし された[39] [40] 。1回 かい 目 め の帰国 きこく を除 のぞ いて、ジョージ1世 せい の不在 ふざい 時 じ に、権力 けんりょく はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタス ではなく摂政 せっしょう 委員 いいん 会 かい に委 ゆだ ねられた[41] 。
戦争 せんそう と反乱 はんらん [ 編集 へんしゅう ]
ジョージ1世 せい の肖像 しょうぞう 画 が 、ジョージ・ヴァーチュー (英語 えいご 版 ばん ) 作 さく 、1718年 ねん
ジョージ1世 せい の王位 おうい 継承 けいしょう から1年 ねん 経 た たずに行 おこな われた1715年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ はホイッグの大勝 たいしょう に終 お わった。敗 やぶ れたトーリーでは数 すう 人 にん が、アン女王 じょおう の腹違 はらちが いの弟 おとうと でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート (支持 しじ 者 しゃ からは「ジェームズ3世 せい および8世 せい 」、反対 はんたい 者 しゃ からは「僭称 せんしょう 者 しゃ 」とよばれた)を王位 おうい につけようとしたジャコバイト に共感 きょうかん した。不平 ふへい を感 かん じたトーリーのなかには1715年 ねん ジャコバイト蜂起 ほうき に加担 かたん した者 もの もいた。スコットランドの不平 ふへい 貴族 きぞく で元 もと 国務大臣 こくむだいじん のマー伯 はく が率 ひき いるジェームズの支持 しじ 者 しゃ たちは、ジャコバイトへの共感 きょうかん がより強 つよ いスコットランドで反乱 はんらん を起 お こした。しかし、後 のち に「ザ・フィフティーン」(「15年 ねん の乱 らん 」)と呼 よ ばれたこの反乱 はんらん は大 だい 失敗 しっぱい に終 お わった。マー伯 はく の計画 けいかく は拙劣 せつれつ なものであり、ジェームズは到着 とうちゃく が遅 おそ かった上 うえ に資金 しきん も武器 ぶき も足 た らず、年末 ねんまつ には失敗 しっぱい が明 あき らかになった。1716年 ねん 2月 がつ 、ジェームズとマー伯 はく はフランスへ逃亡 とうぼう した。反乱 はんらん が鎮圧 ちんあつ された後 のち 、いくらかの処刑 しょけい や所領 しょりょう 没収 ぼっしゅう はあったものの、ジョージ1世 せい が寛容 かんよう を示 しめ して政府 せいふ との仲介 ちゅうかい を行 おこな い、没収 ぼっしゅう した財産 ざいさん をスコットランドの学校 がっこう や国債 こくさい の償還 しょうかん に使 つか った[42] 。
ジョージ1世 せい がトーリーに不信 ふしん 感 かん を持 も ったため権力 けんりょく はホイッグに移 うつ った[43] 。ジョージ1世 せい の下 もと で、ホイッグの支配 しはい が強力 きょうりょく になり、以降 いこう 半 はん 世紀 せいき もの間 あいだ トーリーが与党 よとう に返 かえ り咲 ざ くことはなかった。選挙 せんきょ の後 のち 、ホイッグが支配 しはい した議会 ぎかい で七 なな 年 ねん 議会 ぎかい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) が成立 せいりつ 、議会 ぎかい の会期 かいき を(国王 こくおう による解散 かいさん を除 のぞ き)7年 ねん に延長 えんちょう した[44] 。そのため既 すで に政権 せいけん を握 にぎ っていたホイッグは、与党 よとう の座 ざ をさらに長期間 ちょうきかん 保持 ほじ することができた[45] 。
グレートブリテン王 おう に即位 そくい した後 のち 、既 すで に悪 わる かったジョージ1世 せい と息子 むすこ ジョージ・オーガスタスの関係 かんけい はさらに悪化 あっか した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教 しゅうきょう 寛容 かんよう 政策 せいさく とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地 りょうち の併合 へいごう といった父 ちち の政策 せいさく への反対 はんたい を煽 あお った[46] 。1717年 ねん 、ジョージ・オーガスタスに子 こ が生 う まれたことで、ジョージ1世 せい とジョージ・オーガスタスの間 あいだ で内紛 ないふん がおこった。ジョージ1世 せい は慣例 かんれい に従 したが い宮内 みやうち 長官 ちょうかん (英語 えいご 版 ばん ) の初代 しょだい ニューカッスル公爵 こうしゃく を洗礼 せんれい 式 しき での名親 なおや に指名 しめい したが、ニューカッスル公爵 こうしゃく を毛嫌 けぎら いしたジョージ・オーガスタスは言葉 ことば でニューカッスル公 こう を侮辱 ぶじょく した。これをニューカッスル公 こう は勘違 かんちが いして決闘 けっとう の申 もう し込 こ みと考 かんが えたため、ジョージ1世 せい は激怒 げきど した。ジョージ1世 せい の命令 めいれい によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿 きゅうでん を追放 ついほう された[47] 。ジョージの新 あたら しい住居 じゅうきょ であるレスター・ハウス はジョージ1世 せい の野党 やとう のたまり場 ば となった[48] 。ジョージ・オーガスタスの妻 つま キャロライン・オブ・アーンズバック は夫 おっと とともにセント・ジェームズ宮殿 きゅうでん を離 はな れたが、ジョージ1世 せい に引 ひ き取 と られた子供 こども たちとの面会 めんかい を切望 せつぼう し、結局 けっきょく ジョージ1世 せい とジョージ・オーガスタスは後 のち にロバート・ウォルポール とキャロラインの働 はたら きかけで和解 わかい した。しかし、この洗礼 せんれい 式 しき での事件 じけん の後 のち 、ジョージ1世 せい とジョージ・オーガスタスが親身 しんみ になることはなかった[49] 。
ジョージ1世 せい は治世 ちせい の初期 しょき にはイギリスの外交 がいこう 政策 せいさく に取 と り組 く んだ。1717年 ねん にはフランス、オランダ とともに反 はん スペイン同盟 どうめい である三 さん 国 こく 同盟 どうめい を締結 ていけつ 、1718年 ねん に神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が加入 かにゅう したことで四国 しこく 同盟 どうめい が結成 けっせい された。直後 ちょくご の四国 しこく 同盟 どうめい 戦争 せんそう はスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう と同 おな じ理由 りゆう で勃発 ぼっぱつ した。1713年 ねん のユトレヒト条約 じょうやく はフランス王 おう ルイ14世 せい の孫 まご フィリップをスペイン王 おう フェリペ5世 せい として承認 しょうにん した代 か わりにフランスの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を放棄 ほうき させたが、ルイ14世 せい が1715年 ねん に死去 しきょ するとフェリペ5世 せい は条約 じょうやく を破棄 はき しようとした。
スペインは1719年 ねん にジャコバイトによるスコットランド侵攻 しんこう を支援 しえん したが、嵐 あらし によりスコットランドに上陸 じょうりく できたスペイン軍 ぐん は約 やく 300人 にん 程度 ていど であった[50] 。4月にはスコットランド西海岸 にしかいがん のエレン・ドナン (英語 えいご 版 ばん ) 城 しろ で基地 きち が建設 けんせつ されたが、1か月 げつ 後 ご にイギリス艦隊 かんたい に破壊 はかい された [51] 。ジャコバイトはスコットランドの氏族 しぞく から募兵 ぼへい しようとしたが兵士 へいし 約 やく 1千 せん 人 にん しか集 あつ められず、装備 そうび も貧弱 ひんじゃく だったためグレン・シールの戦 たたか い でイギリス砲兵 ほうへい に易々 いい と撃破 げきは された[52] 。氏族 しぞく たちはハイランド地方 ちほう に追 お い散 ち らされ、スペイン軍 ぐん は降伏 ごうぶく した。そのため、この侵攻 しんこう はジョージ1世 せい の政府 せいふ にとって脅威 きょうい になることはなかった。フランスが敵 てき 側 がわ に回 まわ ったことでフェリペ5世 せい の軍 ぐん に勝 か ち目 め はなく、結局 けっきょく スペインとフランスの王位 おうい は分離 ぶんり されたままとなった。同 どう 時期 じき にはスウェーデン とロシア のバルト海 ばるとかい における覇権 はけん 争 あらそ いにより勃発 ぼっぱつ した大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう がハノーファーに有利 ゆうり な形 かたち で決着 けっちゃく し、スウェーデン領 りょう ブレーメン=フェルデン (英語 えいご 版 ばん ) は1719年 ねん にハノーファーに割譲 かつじょう され、その代 か わりハノーファーは割譲 かつじょう に対 たい する賠償金 ばいしょうきん を支払 しはら った[53] 。
ジョージ1世 せい のギニー 金貨 きんか 、1718年 ねん 銘 めい
ハノーファーにおいて、ジョージ1世 せい は絶対 ぜったい 君主 くんしゅ だった。50ターラー(約 やく 12から13ポンド相当 そうとう )以上 いじょう の支出 ししゅつ 、士官 しかん の全 すべ ての任命 にんめい 、全 すべ ての閣僚 かくりょう 、ひいては写字 しゃじ 生 せい より上級 じょうきゅう の全 すべ ての官僚 かんりょう の任命 にんめい はジョージ1世 せい の支配 しはい 下 か にあった。一方 いっぽう 、イギリスにおいて、彼 かれ は議会 ぎかい を通 つう じて統治 とうち しなければならなかった[54] 。
1715年 ねん にホイッグが権力 けんりょく の座 ざ を得 え たとき、主 おも な閣僚 かくりょう はロバート・ウォルポール 、タウンゼンド子爵 ししゃく (ウォルポールの義弟 ぎてい )、ジェームズ・スタンホープ 、サンダーランド伯爵 はくしゃく といった人物 じんぶつ だった。また大陸 たいりく から帰国 きこく したマールバラ公 こう には名誉 めいよ 職 しょく を与 あた えている[55] 。しかし、1717年 ねん にタウンゼンド子爵 ししゃく が罷免 ひめん され、ウォルポールが他 た の閣僚 かくりょう との意見 いけん 不一致 ふいっち で辞任 じにん した[56] 。その結果 けっか 、スタンホープは外交 がいこう を、サンダーランド伯 はく が内政 ないせい を、それぞれ司 つかさど ることになった[57] 。
スタンホープとサンダーランドの政権 せいけん は1719年 ねん に揺 ゆ らぎ始 はじ めた。彼 かれ らは貴族 きぞく 法案 ほうあん を提出 ていしゅつ して新 あたら しい貴族 きぞく の創 そう 家 か を制限 せいげん することで貴族 きぞく 院 いん の人数 にんずう を制限 せいげん しようとした。法案 ほうあん が成立 せいりつ すると、反対 はんたい 派 は の貴族 きぞく 叙任 じょにん は封 ふう じられ、政権 せいけん の将来 しょうらい に安定 あんてい を期待 きたい できるが、ウォルポールは「政治 せいじ 家 か 人生 じんせい で最 もっと も素晴 すば らしい」とされる演説 えんぜつ で法案 ほうあん に反対 はんたい し、法案 ほうあん は最終 さいしゅう 的 てき には廃案 はいあん となった[58] 。翌年 よくねん 、ウォルポールとタウンゼンドは再 ふたた び閣僚 かくりょう に任命 にんめい され、名 めい 目的 もくてき には統一 とういつ したホイッグ政府 せいふ が成立 せいりつ した[58] 。
金融 きんゆう 投機 とうき と国債 こくさい は、より大 おお きな問題 もんだい となっていた。国債 こくさい の一部 いちぶ は所有 しょゆう 者 しゃ の同意 どうい がなければ償還 しょうかん できず、利率 りりつ が高 たか い時期 じき に発行 はっこう されたものだった。そのため、国債 こくさい が償還 しょうかん されることは少 すく なく、イギリスの財政 ざいせい を長期 ちょうき 的 てき に圧迫 あっぱく した[59] 。1719年 ねん 、南海 なんかい 会社 かいしゃ はイギリスの国債 こくさい の5分 ぶん の3にあたる3,100万 まん ポンド分 ぶん を会社 かいしゃ の株 かぶ と交換 こうかん で引 ひ き受 う けることを提案 ていあん した[60] 。南海 なんかい 会社 かいしゃ はサンダーランド伯 はく 、ジョージ1世 せい の愛妾 あいしょう エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク 、スタンホープ伯 はく (スタンホープは1717年 ねん に子爵 ししゃく に叙 じょ され、1718年 ねん に伯爵 はくしゃく に昇 のぼり 爵した)のいとこで大蔵 おおくら 部 ぶ 書記官 しょきかん だったチャールズ・スタンホープ (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう して計画 けいかく を推進 すいしん した[61] 。利子 りし が高 たか く、償還 しょうかん されることのない国債 こくさい の所有 しょゆう 者 しゃ を低 てい 利子 りし で売買 ばいばい の容易 ようい な株式 かぶしき との交換 こうかん に同意 どうい させる仕組 しく みは、交換 こうかん が一見 いっけん 財政 ざいせい 的 てき に得 とく するように見 み えたことにあった[62] 。南海 なんかい 会社 かいしゃ の株価 かぶか はうなぎ登 のぼ りとなり、1720年 ねん 1月 がつ 1日 にち には128ポンドだった株価 かぶか [63] は5月に交換 こうかん 計画 けいかく が開始 かいし したときには500ポンドになり[64] 、さらに5月 がつ 末 まつ には890ポンドに[39] 、6月24日 にち には最 さい 高値 たかね の1,050ポンドに達 たっ した[65] 。会社 かいしゃ の成功 せいこう により他 た の会社 かいしゃ にも投機 とうき を目的 もくてき とした資金 しきん が流入 りゅうにゅう 、そのうち一部 いちぶ の会社 かいしゃ は疑 うたが わしいものだった[66] 。6月、政府 せいふ はこのような会社 かいしゃ の投機 とうき を止 と めようとして、南海 なんかい 会社 かいしゃ の支持 しじ のもと泡沫 うたかた 会社 かいしゃ 規制 きせい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) を制定 せいてい したが[67] 、株価 かぶか の上昇 じょうしょう が止 と まってしまった後 のち [68] 、8月 がつ には無秩序 むちつじょ な売 う りがはじまり、9月 がつ 末 まつ には株価 かぶか が150ポンドまで暴落 ぼうらく した。貴族 きぞく を含 ふく む多 おお くの人々 ひとびと は大損 おおぞん を出 だ し、その一部 いちぶ は完全 かんぜん に破滅 はめつ した[69] 。ジョージ1世 せい は6月 がつ 以降 いこう ハノーファーに滞在 たいざい していたが、内閣 ないかく の要請 ようせい により早 はや めに帰国 きこく 、11月にはロンドンに着 つ いた[70] 。
南海 なんかい 泡沫 うたかた 事件 じけん として知 し られるこの経済 けいざい 危機 きき により、ジョージとその閣僚 かくりょう たちは著 いちじる しい不人気 ふにんき となった[71] 。1721年 ねん 、スタンホープ伯 はく は無実 むじつ にもかかわらず[72] [73] 貴族 きぞく 院 いん での弁論 べんろん からの心労 しんろう で倒 たお れて病死 びょうし 、サンダーランド伯 はく も公職 こうしょく を辞任 じにん した。
サンダーランド伯 はく はその後 ご も個人 こじん 的 てき にジョージ1世 せい への影響 えいきょう 力 りょく を保持 ほじ したが、1722年 ねん に急死 きゅうし したことでロバート・ウォルポールの台頭 たいとう を許 ゆる した。ウォルポールは実質 じっしつ 的 てき には首相 しゅしょう の立場 たちば にあったと言 い えるが、当時 とうじ は首相 しゅしょう という役職 やくしょく が公式 こうしき には存在 そんざい せず、彼 かれ が任命 にんめい された官職 かんしょく は第 だい 一 いち 大蔵 おおくら 卿 きょう および財務 ざいむ 大臣 だいじん である。彼 かれ は南海 なんかい 泡沫 うたかた 事件 じけん の善後 ぜんご 策 さく として債務 さいむ 整理 せいり やいくらかの賠償 ばいしょう を行 おこな って財政 ざいせい を安定 あんてい 化 か した[74] 。ウォルポールが議会 ぎかい 戦術 せんじゅつ を駆使 くし したことで、南海 なんかい 会社 かいしゃ が不当 ふとう な行為 こうい を行 おこな ったと明示 めいじ することは避 さ けられた[75] 。ジョージ1世 せい が賄賂 わいろ として無料 むりょう で株式 かぶしき を受 う け取 と ったとする主張 しゅちょう [76] には証拠 しょうこ がなく、実際 じっさい 王立 おうりつ 文書 ぶんしょ 局 きょく (英語 えいご 版 ばん ) には株式 かぶしき 購入 こうにゅう の伝票 でんぴょう が残 のこ っており、その伝票 でんぴょう はジョージ1世 せい が株価 かぶか 暴落 ぼうらく で損害 そんがい を被 こうむ ったことを示 しめ している[77] 。
1720年代 ねんだい のジョージ1世 せい の肖像 しょうぞう 画 が 、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ(Georg Wilhelm Lafontaine )作 さく
1725年 ねん 、ジョージ1世 せい はウォルポールの要請 ようせい を受 う けてバス勲章 くんしょう を復活 ふっかつ させた。これにより、ウォルポールはバス勲章 くんしょう を利用 りよう して支持 しじ 者 しゃ への報奨 ほうしょう 、または支持 しじ 者 しゃ を得 え ることができた[78] 。ウォルポールの権力 けんりょく が大 おお きく増 ま し、自 みずか らが選 えら んだ閣僚 かくりょう を任命 にんめい することができた。先代 せんだい のアン女王 じょおう と違 ちが い、ジョージ1世 せい は内閣 ないかく の会議 かいぎ にめったに臨席 りんせき しなかった。彼 かれ の通信 つうしん はほとんどが私的 してき なものであり、彼 かれ が影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき したのは主 おも にイギリスの外交 がいこう 政策 せいさく であった。タウンゼンド子爵 ししゃく の助 たす けもあり、彼 かれ はオーストリアとスペインの間 あいだ のウィーン条約 じょうやく への対策 たいさく 、およびイギリスの貿易 ぼうえき の保護 ほご を目的 もくてき としたハノーファー条約 じょうやく のグレートブリテン、フランス、プロイセン による批准 ひじゅん にこぎつけることができた[79] 。
ジョージ1世 せい はだんだんとウォルポールに頼 たよ ったが、自 みずか らの叡慮 えいりょ (意思 いし )で閣僚 かくりょう を任免 にんめん することができた。ジョージ1世 せい の治世 ちせい 末期 まっき にウォルポールはジョージ1世 せい に罷免 ひめん されることを恐 おそ れたが[80] 、ジョージ1世 せい は王位 おうい についてから6度目 どめ となるハノーファー行幸 ぎょうこう の途中 とちゅう で崩御 ほうぎょ した。彼 かれ は1727年 ねん 6月 がつ 9日 にち (ユリウス暦 れき )にデルデン (英語 えいご 版 ばん ) とノルトホルン (英語 えいご 版 ばん ) の間 あいだ の道中 どうちゅう で卒中 そっちゅう を起 お こし[81] 、馬車 ばしゃ でオスナブリュック にある司教 しきょう の宮殿 きゅうでん に連 つ れていかれたが[注釈 ちゅうしゃく 8] 、11日 にち (ユリウス暦 れき )朝 あさ に死去 しきょ した。ジョージ1世 せい の息子 むすこ ジョージ・オーガスタスは父 ちち 王 おう の崩御 ほうぎょ をウォルポールから知 し らされた時 とき 、「それは悪 わる い冗談 じょうだん だ」と言 い って信 しん じようとしなかったという[82] 。ジョージ1世 せい はライネ城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) に埋葬 まいそう されたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の後 のち にヘレンハウゼン宮殿 きゅうでん に改葬 かいそう された[6] 。
ジョージ1世 せい の息子 むすこ ジョージ・オーガスタスはジョージ2世 せい として即位 そくい した。ウォルポール自身 じしん を含 ふく め、ジョージ2世 せい がウォルポールの罷免 ひめん を計画 けいかく していたと広 ひろ く考 かんが えられたが、王妃 おうひ キャロライン・オブ・アーンズバック により罷免 ひめん は阻止 そし された。ウォルポールが議会 ぎかい で安定 あんてい 多数 たすう を確保 かくほ したこともあり、ジョージ2世 せい はウォルポールの留任 りゅうにん か政情 せいじょう 不安 ふあん を選 えら ぶしかなかった[83] 。その後 ご 、首相 しゅしょう の権力 けんりょく はだんだんと増 ま していき、国王 こくおう の権力 けんりょく は反比例 はんぴれい して弱 よわ くなっていった。
家族 かぞく に囲 かこ まれたジョージ1世 せい 、ジェームズ・ソーンヒル 作 さく
ジョージ1世 せい の像 ぞう 、ハノーファー 、カール・ランゲニアー(Carl Rangenier )作 さく
ジョージ1世 せい はイギリスでの臣下 しんか に嘲笑 ちょうしょう された[84] 。メアリー・ウォートリー・モンタギュー など同 どう 時代 じだい の人 ひと はジョージ1世 せい が公衆 こうしゅう の場 ば で無表情 むひょうじょう だったため彼 かれ が無 む 知性 ちせい であると考 かんが えた[85] 。英語 えいご を話 はな せないとされたためイギリスでは不人気 ふにんき だったが、治世 ちせい の後半 こうはん の文書 ぶんしょ では彼 かれ が英語 えいご を理解 りかい し、読 よ み書 か きと話 はな すこともできることを示 しめ している[86] 。彼 かれ はドイツ語 ご とフランス語 ふらんすご を流暢 りゅうちょう に話 はな し、ラテン語 らてんご もよく、イタリア語 ご とオランダ語 ご は少 すこ し話 はな せた[38] 。彼 かれ の妻 つま ゾフィー・ドロテアへの仕打 しう ちは一種 いっしゅ のスキャンダルとして扱 あつか われた[87] 。
イギリス人 じん は彼 かれ をドイツ人 じん すぎると見 み なした。歴史 れきし 家 か のラグンヒルド・ハットン (英語 えいご 版 ばん ) によると、イギリス人 じん はジョージ1世 せい がドイツ人 じん の愛人 あいじん を多数 たすう 抱 かか えていたと勘違 かんちが いした[88] 。しかし、大陸 たいりく ヨーロッパでは進歩 しんぽ 的 てき で啓蒙 けいもう 思想 しそう を支持 しじ した統治 とうち 者 しゃ としてみなされた。彼 かれ は自身 じしん に批判 ひはん 的 てき な文書 ぶんしょ を厳 きび しい検閲 けんえつ に晒 さら せずに出版 しゅっぱん を許可 きょか し、哲学 てつがく 者 しゃ のヴォルテール が1726年 ねん にパリから追放 ついほう されたときには彼 かれ を保護 ほご した[84] 。イギリスの文献 ぶんけん と大陸 たいりく ヨーロッパの文献 ぶんけん では、両方 りょうほう ともジョージ1世 せい が控 ひか えめで穏 おだ やかな人柄 ひとがら で、財政 ざいせい では慎重 しんちょう であることを示 しめ している[38] 。ジョージ1世 せい は社交 しゃこう イベントにおいて注目 ちゅうもく の的 まと となることを嫌 きら い、オペラ鑑賞 かんしょう のときは王家 おうけ 専用 せんよう のます席 せき を避 さ け、たびたび匿名 とくめい で友人 ゆうじん の家 いえ を訪 おとず れてカード遊 あそ びをした[40] 。いくらかの不人気 ふにんき にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世 せい はその臣下 しんか からはカトリックの僭称 せんしょう 者 しゃ ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート より良 よ いと考 かんが えられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレー はこの相反 あいはん する感情 かんじょう を下記 かき のように記述 きじゅつ した:
彼 かれ の
心 しん はハノーファーにあった。[...]
彼 かれ が
私 わたし たちのところに
来 く るときには50
歳 さい 以上 いじょう になっていた:
私 わたし たちが
彼 かれ を
招 まね いたのは
私 わたし たちが
彼 かれ を
欲 ほっ し、
彼 かれ が
私 わたし たちの
事 こと の
成 な り
行 ゆ きに
適 かな っていた。
私 わたし たちは
彼 かれ のドイツ
風 ふう の
不器用 ぶきよう なやり
方 かた をあざ
笑 わら った。
彼 かれ は
私 わたし たちの
忠誠 ちゅうせい の
価値 かち を
全 すべ てとった。
彼 かれ は
取 と れる
金 かね は
全 すべ て
取 と った。
私 わたし たちを
教皇 きょうこう から
遠 とお ざかることを
保証 ほしょう した。[...]もし
私 わたし がその
日々 ひび にいたら、
彼 かれ の
側 がわ についたのだろう。
彼 かれ はシニカルで
利己 りこ 的 てき だったが、
サン・ジェルマン より
出 で ずる
王 おう よりは
良 よ かった。[
大 だい 僭称 せんしょう 者 しゃ ジェームズ]はフランス
王 おう の
命令 めいれい をポケットに
入 い れ、その
随行 ずいこう 者 しゃ には
イエズス会 かい 士 し が
大勢 おおぜい いた。
[89]
19世紀 せいき の作家 さっか 、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコット 、マオン子爵 ししゃく (英語 えいご 版 ばん ) などは例 たと えば第 だい 2代 だい ハーヴィー男爵 だんしゃく の回想 かいそう 録 ろく などの偏 かたよ った一 いち 次 じ 史料 しりょう に頼 たよ らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情 どうじょう 的 てき なまなざしを向 む けた。彼 かれ らはギルバート・ケイス・チェスタートン といった20世紀 せいき 初期 しょき のイギリス作家 さっか に影響 えいきょう を与 あた え、ジョージ1世 せい の治世 ちせい に対 たい する批評 ひひょう にさらなる反 はん ドイツ・反 はん プロテスタント的 てき な考 かんが えを加 くわ えた。しかし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ すると、大陸 たいりく ヨーロッパの公文書 こうぶんしょ 館 かん は20世紀 せいき 後期 こうき の歴史 れきし 家 か に開放 かいほう され、民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき な反 はん 独 どく 感情 かんじょう が退潮 たいちょう した。ジョージ1世 せい の一生 いっしょう とその治世 ちせい はビーティー、ハットンといった学者 がくしゃ に再 ふたた び探索 たんさく され、彼 かれ の性格 せいかく 、能力 のうりょく などに対 たい する批評 ひひょう はより寛大 かんだい なものとなっていた[90] 。歴史 れきし 家 か のジョン・ハロルド・プラム (英語 えいご 版 ばん ) は以下 いか のように記述 きじゅつ した:
一部 いちぶ の
歴史 れきし 家 か は
国王 こくおう [ジョージ1
世 せい ]のイギリスの
事務 じむ に
対 たい する
無 む 関心 かんしん を
誇張 こちょう し、
彼 かれ の
英語 えいご に
対 たい する
無視 むし の
重要 じゅうよう 性 せい を
過大 かだい 評価 ひょうか した。
彼 かれ は
フランス語 ふらんすご で
閣僚 かくりょう との
対話 たいわ を
難 なん なくこなすことができ、
彼 かれ が
全 すべ ての
事務 じむ に
興味 きょうみ を
持 も ったことは
外交 がいこう 政策 せいさく と
宮廷 きゅうてい を
深 ふか く
影響 えいきょう した。
[91]
しかし、ジョージ1世 せい の性格 せいかく はわかりにくいままであった。彼 かれ は娘 むすめ への手紙 てがみ では優 やさ しく親切 しんせつ だったが、公 おおやけ の場 ば では愚鈍 ぐどん で不器用 ぶきよう だった。彼 かれ の母 はは は「彼 かれ を冷淡 れいたん でまじめすぎると考 かんが えた人々 ひとびと に彼 かれ は陽気 ようき に振舞 ふるま うことができ、彼 かれ は事 こと を心 しん から真摯 しんし に感覚 かんかく し、表面 ひょうめん よりも敏感 びんかん であることを説明 せつめい した」[8] というが、それが最 もっと も的確 てきかく かもしれない。彼 かれ の本当 ほんとう の性格 せいかく がどうであれ、彼 かれ は不安定 ふあんてい な王位 おうい を継承 けいしょう した。それが政治 せいじ に対 たい する知識 ちしき と悪知恵 わるぢえ によるか、偶然 ぐうぜん と無 む 関心 かんしん によるかにかかわらず、彼 かれ は王位 おうい をハノーヴァ―朝 あさ と議会 ぎかい の手中 しゅちゅう に収 おさ めた[38] 。
称号 しょうごう と紋章 もんしょう [ 編集 へんしゅう ]
1660年 ねん 5月 がつ 28日 にち - 1679年 ねん 12月18日 にち :ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵 こうしゃく 殿下 でんか
1679年 ねん 12月18日 にち - 1692年 ねん 10月 がつ :ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子 こうし 殿下 でんか
1692年 ねん 10月 がつ - 1698年 ねん 1月 がつ 23日 にち :ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう 子 こ 殿下 でんか
1698年 ねん 1月 がつ 23日 にち - 1714年 ねん 8月 がつ 1日 にち :ゲオルク・ルートヴィヒ殿下 でんか 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の大 だい 出納 すいとう 官 かん 及 およ び選 せん 帝 みかど 侯 こう 、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公 おおやけ
1714年 ねん 8月 がつ 1日 にち - 1727年 ねん 6月 がつ 11日 にち :国王 こくおう 陛下 へいか
ジョージ1世 せい はイギリスにおいて「ジョージ、神 かみ の恩寵 おんちょう により、グレートブリテン、フランス (英語 えいご 版 ばん ) 、アイルランドの王 おう 、信仰 しんこう の擁護 ようご 者 しゃ など」の称号 しょうごう を使用 しよう した。一部 いちぶ 、特 とく に条約 じょうやく では「など」の前 まえ に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公 おおやけ 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の大 だい 出納 すいとう 官 かん および選 せん 帝 みかど 侯 こう 」が追加 ついか された。
ジョージ1世 せい の王 おう としての紋章 もんしょう にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章 もんしょう とのインペイルメント )、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の大 だい 出納 すいとう 官 かん (クォーターIV)の紋章 もんしょう が含 ふく まれた[92] [93] [94] 。
ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう の相続 そうぞく 人 じん ゲオルク1世 せい ルートヴィヒとしての紋章 もんしょう 、1689年 ねん - 1708年 ねん
ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう ゲオルク1世 せい ルートヴィヒとしての紋章 もんしょう 、1708年 ねん - 1714年 ねん
グレートブリテン王 おう ジョージ1世 せい としての紋章 もんしょう 、1714年 ねん - 1727年 ねん
妻 つま ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ との間 あいだ で2人 ふたり の子女 しじょ をもうけている。
愛妾 あいしょう エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク との間 あいだ で3人 にん の娘 むすめ をもうけている。
^ スコットランド王 おう としてはジェームズ6世 せい
Familytree形式 けいしき [ 編集 へんしゅう ]
^ a b ジョージ1世 せい の存命 ぞんめい 中 ちゅう 、グレートブリテン王国 おうこく はユリウス暦 れき を使用 しよう したが、ハノーファーでは1700年 ねん 3月 がつ 1日 にち (ユリウス暦 れき 。グレゴリオ暦 れき では2月 がつ 19日 にち )にグレゴリオ暦 れき を採用 さいよう した。
^ ただし父 ちち から受 う け継 つ いだ選 せん 帝 みかど 侯 こう 位 い が他 た のドイツ諸侯 しょこう から「正式 せいしき 」に認 みと められるには10年 ねん を要 よう した。
^ 長子 ちょうし 相続 そうぞく 制 せい において、イギリスの王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい では50人 にん 以上 いじょう のカトリック がジョージより上 うえ の順位 じゅんい にあったが、1701年 ねん 王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう によりカトリックがイギリス王位 おうい を継承 けいしょう することは禁止 きんし され、プロテスタント の間 あいだ ではジョージがアンの最 もっと も近 ちか い近親 きんしん 者 しゃ であった。これに対 たい し、ジャコバイト はジョージを廃位 はいい して、ジェームズ2世 せい の息子 むすこ でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート を王位 おうい につけようとしたが失敗 しっぱい した。
^ ロバート・ウォルポールは実質 じっしつ 的 てき にはイギリスの初代 しょだい 首相 しゅしょう となった。
^ ジョージがオスナブリュック のとある部屋 へや で生 う まれ、同 おな じ部屋 へや で死去 しきょ したとするい伝 いつた えがあったが(例 たと えば、1759年版 ねんばん の歴史 れきし 大 だい 事典 じてん (英語 えいご 版 ばん ) で記載 きさい されている)、母 はは ゾフィー・フォン・デア・プファルツ の回想 かいそう 録 ろく (Memoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover 、A・ケーヒャー編 へん 、1879年 ねん 出版 しゅっぱん 、pp. 1, 68.)では上 うえ の2人 ふたり の男子 だんし (ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーで生 う まれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書 こうぶんしょ 館 かん で保存 ほぞん されている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷 きゅうてい に発 はっ された4通 つう の通知 つうち 文書 ぶんしょ での記述 きじゅつ とも矛盾 むじゅん する[5] 。
^ 当時 とうじ 年収 ねんしゅう の最 もっと も高 たか い官僚 かんりょう の年収 ねんしゅう の100倍 ばい ほどであった。
^ エルンスト・アウグストは1661年 ねん からオスナブリュック司教 しきょう だったが、オスナブリュック司 し 教職 きょうしょく は世襲 せしゅう ではなく、プロテスタントとカトリックが交互 こうご に就任 しゅうにん した。
^ ジョージ1世 せい の弟 おとうと 、ヨークおよびオールバニ公 こう アーネスト は1715年 ねん から1728年 ねん までオスナブリュック司教 しきょう だった。
^ Lathbury, Thomas (1858). A History of the Book of Common Prayer and Other Books of Authority . Oxford: John Henry and James Parker. p. 430. https://books.google.com/?id=15E5AAAAMAAJ . "George I. remained a Lutheran as long as he lived, and had his German chaplain; but he conformed on some occasions with the Church of England. George II. was in the same position. Though Lutherans, they exercised acts of supremacy in the Church of England; and the common opinion was, that there was no opposition between the views of the two Churches"
^ “George I ”. Encyclopædia Britannica . 2020年 ねん 7月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b 『英国 えいこく 王室 おうしつ 史 し 事典 じてん 』p199-200「ジョージ1世 せい 」
^ Eagles, Robin (2019年 ねん 6月 がつ 6日 にち ). “Ich bin in meinem Herzen Englisch: Could George I speak English? ”. History of Parliament blog . 2021年 ねん 5月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Huberty, Michel; Giraud, Alain; Magdelaine, F. et B. (1981) (French). L'Allemagne Dynastique, Tome III . Le Perreux: Alain Giraud. p. 85. ISBN 2-901138-03-9
^ a b c Weir, Alison (1996). Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition . Random House. pp. 272–276. ISBN 0-7126-7448-9
^ Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King . London: Thames and Hudson. pp. 26–28. ISBN 0-500-25060-X
^ a b Hatton, p. 29
^ Hatton, p. 34
^ Hatton, p. 30
^ Hatton, pp. 36, 42
^ Hatton, pp. 43–46
^ a b Hatton, pp. 51–61
^ Farquhar, Michael (2001). A Treasury of Royal Scandals . New York: Penguin Books. p. 152. ISBN 978-0-7394-2025-6
^ Hatton, pp. 60–64
^ Schemmel, B. “Hanover ”. rulers.org. 2007年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Schama, Simon (2001). A History of Britain – The British Wars 1603–1776 . BBC Worldwide Ltd. p. 336. ISBN 0-563-53747-7
^ Hatton, p. 74
^ Hatton, pp. 75–76
^ Hatton, pp. 77–78
^ Hatton, p. 90
^ Hatton, pp. 86–89
^ 友清 ともきよ 、P56、P131、P203、P233。
^ a b Hatton, pp. 101–104, 122
^ Hatton, p. 104
^ Velde, François R. (2006年 ねん 9月 がつ 26日 にち ). “Holy Roman Empire ”. 2007年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ 友清 ともきよ 、P221、P289 - P290、P348 - P359。
^ Whatley, Christopher A. (2001). Bought and Sold for English Gold?: Explaining the Union of 1707, Second edition . East Linton, Scotland: Tuckwell Press. ISBN 1-86232-140-X
^ Riley, P.W.J. (1978). The Union of England and Scotland: A Study in Anglo-Scottish Politics of the Eighteenth Century . Totowa, New Jersey: Rowman and Littlefield. ISBN 0-8476-6155-5
^ Text of the Union with Scotland Act 1706 as in force today (including any amendments) within the United Kingdom, from legislation.gov.uk
^ “The Treaty of Union ”. The Scottish Parliament. 2007年 ねん 5月 がつ 18日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2007年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ Hatton, p. 119
^ Hatton, p. 108
^ Hatton, p. 109
^ Hatton, p. 123
^ Monod, Paul Kleber (1993). Jacobitism and the English People, 1688–1788 . Cambridge University Press. pp. 173–178. ISBN 978-0-521-44793-5
^ Hatton, p. 158
^ a b c d Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)" , Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, doi :10.1093/ref:odnb/10538 . Retrieved 30 July 2007(要 よう 購読 こうどく 契約 けいやく )
^ a b 友清 ともきよ 理 り 士 し . “スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう の戦後 せんご 20年 ねん ――ユトレヒト条約 じょうやく 後 ご の国際 こくさい 関係 かんけい とハノーヴァー朝 ちょう 下 か のイギリス―― ”. 2017年 ねん 7月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges
^ “George I ”. Official web site of the British monarchy. 2016年 ねん 4月 がつ 18日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Hatton, pp. 174–79
^ Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition . Revised by C. H. Stuart. Oxford: Oxford University Press. pp. 151–152
^ “Septennial Act 1715 (c.38) ”. The UK Statute Law Database, Ministry of Justice. 2007年 ねん 9月 がつ 30日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2007年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ Lease, Owen C. (1950). “The Septennial Act of 1716”. The Journal of Modern History 22 : 42–47. doi :10.1086/237317 .
^ Hatton, pp. 199–202
^ Hatton, pp. 207–208
^ Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy . London, UK: The English Universities Press. p. 52. ISBN 0-340-11515-7
^ Arkell, R. L. (1937). “George I's Letters to His Daughter”. The English Historical Review 52 : 492–499. doi :10.1093/ehr/LII.CCVII.492 .
^ Hatton, p. 239
^ Lenman, Bruce (1980). The Jacobite Risings in Britain 1689–1746 . London: Eyre Methuen. pp. 192–193. ISBN 0-413-39650-9
^ Szechi, Daniel (1994). The Jacobites: Britain and Europe 1688–1788 . Manchester and New York: Manchester University Press. pp. 109–110. ISBN 0-7190-3774-3
^ Hatton, p. 238
^ Williams, pp. 13–14
^ 今井 いまい 、P277 - P289。
^ Dickinson, p. 49
^ Carswell, John (1960). The South Sea Bubble . London: Cresset Press. p. 72
^ a b Hatton, pp. 244–246
^ Carswell, p. 103
^ Carswell, p. 104; Hatton, p. 249 and Williams, p. 176
^ Carswell, p. 115 and Hatton, p. 251
^ Carswell, pp. 151–152; Dickinson, p. 58; and Hatton, p. 250
^ Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble . Manchester: Peter Davies Ltd. p. 65
^ Erleigh, p. 70
^ Dickinson, p. 58; Erleigh, pp. 77, 104; and Hatton, p. 251
^ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 72, 90–96
^ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 99–100
^ Dickinson, p. 59
^ Erleigh, pp. 112–117
^ Erleigh, p. 125 and Hatton, p. 254
^ Erleigh, pp. 147–155 and Williams, p. 177
^ Erleigh, p. 129; Hatton, p. 255 and Williams, p. 176
^ Black, Jeremy (2001). Walpole in Power . Stroud, Gloucestershire, UK: Sutton Publishing. p. 20. ISBN 0-7509-2523-X
^ Black, pp. 19–20, and Dickinson, pp. 61–62
^ Dickinson, p. 63
^ e.g. Black, pp. 19–20
^ Hatton, pp. 251–253
^ “Order of the Bath ”. Official website of the British monarchy. 2012年 ねん 1月 がつ 2日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2009年 ねん 9月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Hatton, p. 274
^ "George I" (1911). Encyclopædia Britannica , 11th edition. London: Cambridge University Press.
^ Hatton, p. 282
^ 森 もり 、P198 - P204。
^ Black, pp. 29–31, 53, and 61
^ a b Hatton, p. 291
^ Hatton, p. 172
^ Hatton, p. 131
^ Ashley, Mike (1998). The Mammoth Book of British Kings and Queens . London, UK: Robinson. p. 672. ISBN 1-84119-096-9
^ Hatton, pp. 132–136
^ Thackeray, W. M. (1880) [1860]. The Four Georges: Sketches of Manners, Morals, Court and Town Life . London: Smith, Elder. pp. 52–53. https://archive.org/stream/fourgeorge00thac#page/52/mode/2up
^ Smith, Hannah (2006). Georgian Monarchy: Politics and Culture, 1714–1760 . Cambridge, UK: Cambridge University Press. pp. 3–9. ISBN 0-521-82876-7
^ Plumb, J. H. (1967). "George I". Collier's Encyclopedia . Vol. 10. p. 703.
^ Williams, p. 12
^ Louda, Jiří; Maclagan, Michael (1999). Lines of Succession: Heraldry of the Royal Families of Europe . London: Little, Brown. p. 29. ISBN 1-85605-469-1
^ Pinches, John Harvey; Pinches, Rosemary (1974). The Royal Heraldry of England . Heraldry Today. Slough, Buckinghamshire: Hollen Street Press. p. 203. ISBN 0-900455-25-X
^ Hatton, p. 411
^ a b Kilburn, Matthew (2004; online edition January 2008) "Schulenburg, (Ehrengard) Melusine von der, suo jure duchess of Kendal and suo jure duchess of Munster (1667–1743)" , Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, doi :10.1093/ref:odnb/24834 (要 よう 購読 こうどく 、またはイギリス公立 こうりつ 図書館 としょかん への会員 かいいん 加入 かにゅう )
^ Cannon, John (2004; online edition September 2012) "Petronilla Melusina Stanhope, suo jure countess of Walsingham, and countess of Chesterfield (1693–1778)" , Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, doi :10.1093/ref:odnb/24835 (要 よう 購読 こうどく 、またはイギリス公立 こうりつ 図書館 としょかん への会員 かいいん 加入 かにゅう )
Black, Jeremy (2001). Walpole in Power . Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. ISBN 0-7509-2523-X
Carswell, John (1960). The South Sea Bubble . London: Cresset Press
Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy . Introduced by A. L. Rowse. London: The English Universities Press. ISBN 0-340-11515-7
Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble . Manchester: Peter Davies Ltd
Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)" , Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, doi :10.1093/ref:odnb/10538 . Retrieved 30 July 2007(要 よう 購読 こうどく 契約 けいやく )
Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King . London: Thames and Hudson. ISBN 0-500-25060-X
Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges
Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition . Revised by C. H. Stuart. Oxford: Oxford University Press
大類 おおるい 伸 しん 監修 かんしゅう 、林 はやし 健太郎 けんたろう ・堀米 ほりごめ 庸三 ようぞう 編 へん 『世界 せかい の戦史 せんし 第 だい 六 ろく 巻 かん 』人物 じんぶつ 往来 おうらい 社 しゃ 、1966年 ねん 。
森 もり 護 まもる 『英国 えいこく 王妃 おうひ 物語 ものがたり 』三省堂 さんせいどう 選書 せんしょ 、1986年 ねん 。
今井 いまい 宏 ひろし 編 へん 『世界 せかい 歴史 れきし 大系 たいけい イギリス史 し 2 -近世 きんせい -』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1990年 ねん 。
友清 ともきよ 理 り 士 し 『スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう マールバラ公 こう 戦記 せんき とイギリス・ハノーヴァー朝 あさ 誕生 たんじょう 史 し 』彩 いろどり 流 りゅう 社 しゃ 、2007年 ねん 。
森 もり 護 まもる 『英国 えいこく 王室 おうしつ 史 し 事典 じてん 』大修館書店 たいしゅうかんしょてん 、1994年 ねん 。ISBN 4-469-01240-8
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た