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一夕いっせきかい

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一夕いっせきかい(いっせきかい)は、1929ねん昭和しょうわ4ねん5月19にち日本にっぽん陸軍りくぐんうち発足ほっそくした[1]佐官さかんきゅう幕僚ばくりょう将校しょうこうらによる会合かいごう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう14期生きせいから25期生きせい中心ちゅうしん組織そしきされた。

概略がいりゃく

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一夕いっせきかい二葉ふたばかい[2]木曜もくようかいのメンバーが合同ごうどうしてできたものとされる。その2つの会合かいごう直接ちょくせつ統合とうごうしたというわけではなく、木曜もくようかい会合かいごうようかい永田ながた鉄山てつざん東條とうじょう英機ひできかおすようになったのを契機けいきとして、それらのかい継続けいぞくされたまま、あらたに一夕いっせきかいという会合かいごうたれたというほうちかい。実際じっさい一夕いっせきかい成立せいりつようかい木曜もくようかい会合かいごうられる。永田ながた鉄山てつざん小畑おばたさとし四郎しろう岡村おかむらやすし主導しゅどうし、永田ながた中心ちゅうしんてき存在そんざいであったとされている。

二葉ふたばかいメンバーのほう年齢ねんれい地位ちいたかく、木曜もくようかい鈴木すずき貞一さだいちがこれらの勢力せいりょくぐんないでの勢力せいりょく拡大かくだい企図きとしたことや、永田ながた地道じみち研究けんきゅう活動かつどうにより改革かいかく実現じつげんするよりも、自身じしん自身じしんふく勢力せいりょく権力けんりょくつことによって目標もくひょう達成たっせいしていく志向しこうったことなどが、一夕いっせきかい成立せいりつ要因よういんとされる。

一夕いっせきかいにはおおくの陸軍りくぐん高級こうきゅうエリートが所属しょぞくしていたが、優等ゆうとう卒業そつぎょうしゃおお参加さんかしていたものの首席しゅせき卒業そつぎょうしゃ鈴木すずきりつどうのみであった。

会員かいいん

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経過けいか

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人事じんじ問題もんだい研究けんきゅうしていた二葉ふたばかい満蒙まもう問題もんだい研究けんきゅうしていた木曜もくようかいながれを組織そしきであるからには、当然とうぜんその2つが中心ちゅうしんてき話題わだいとなる。だい1かい会合かいごうでは以下いかような決議けつぎがされた。

  1. 陸軍りくぐん人事じんじ刷新さっしんしょ政策せいさく強力きょうりょくすすめる
  2. 満蒙まもう問題もんだい解決かいけつ重点じゅうてん
  3. 荒木あらき貞夫さだお真崎まさき三郎さぶろうはやしずくじゅうろうさん将軍しょうぐんりたてる

まず陸軍りくぐん中央ちゅうおう重要じゅうようポスト掌握しょうあくけてうごいた。最初さいしょ会合かいごう直後ちょくごである1929ねん昭和しょうわ4ねん)5がつ21にち岡村おかむらやすしぜん陸軍りくぐん佐官さかんきゅう以下いか人事じんじおおきな権限けんげんをもつ、人事じんじきょく補任ほにん課長かちょう就任しゅうにん辞令じれいけた。岡村おかむら直属ちょくぞく上司じょうし人事じんじきょく局長きょくちょう小磯こいそ國昭くにあき任命にんめいさせるよううごいたがこれには失敗しっぱいする。同年どうねん8がつ人事じんじ異動いどうのち岡村おかむら人事じんじきょく課員かいんなな一郎いちろう加藤かとう守雄もりお北野きたのけんみやつこらを就任しゅうにんさせた。岡村おかむら後任こうにん人事じんじ課長かちょうには磯谷いそがいれんかい就任しゅうにんし、加藤かとう守雄もりお高級こうきゅう課員かいんとなっている。よく1930ねん8がつ永田ながた鉄山てつざん予算よさん配分はいぶんつよ発言はつげんりょくをもち、ぜん陸軍りくぐんにおけるもっとも重要じゅうよう実務じつむポストである軍務ぐんむきょく軍事ぐんじ課長かちょう就任しゅうにんわたり久雄ひさお参謀さんぼう本部ほんぶ欧米おうべい課長かちょう就任しゅうにん

これよりまえ1928ねん昭和しょうわ3ねん)には関東軍かんとうぐん高級こうきゅう参謀さんぼうであった河本かわもと大作だいさくちょうさく爆殺ばくさつ事件じけんまんしゅうぼう重大じゅうだい事件じけん)をこしていたが、同年どうねん10がつ石原いしはら莞爾かんじ関東軍かんとうぐん主任しゅにん参謀さんぼうに、よく1929ねん昭和しょうわ4ねん)5がつには、板垣いたがき征四郎せいしろう河本かわもと大作だいさく後任こうにん関東軍かんとうぐん高級こうきゅう参謀さんぼうになる。そのころには加藤かとう守雄もりお補任ほにん課員かいんであり、そのはたらきかけによるものとみられている。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつには、鈴木すずき貞一さだいち軍事ぐんじささえ班長はんちょうに、東條とうじょう英機ひでき参謀さんぼう本部ほんぶ動員どういん課長かちょうに、武藤むとうあきらどう作戦さくせん兵站へいたん班長はんちょう就任しゅうにんするなど、まんしゅう事変じへん開始かいしには、陸軍りくぐん中央ちゅうおう主要しゅよう中堅ちゅうけんポストは一夕いっせきかいメンバーでめられていた。また、1931ねん8がつ荒木あらき貞夫さだお教育きょういく総監そうかん本部ほんぶちょう就任しゅうにんした。

そしてかれらは満蒙まもう問題もんだい解決かいけつ高度こうど国防こくぼう国家こっか建設けんせつすことになる。メンバーの努力どりょくで、まんしゅう問題もんだい武力ぶりょく解決かいけつ必要ひつようがあることが陸軍りくぐんない認識にんしきされるようになり、陸軍りくぐん中央ちゅうおうでは永田ながた鉄山てつざん鈴木すずき貞一さだいちらがうごき、関東軍かんとうぐんでは石原いしはら莞爾かんじ板垣いたがき征四郎せいしろうらがうごくことでまんしゅう事変じへん準備じゅんびととのえられた。1930ねん昭和しょうわ5ねん)11月、永田ながた軍事ぐんじ課長かちょうまんしゅう出張しゅっちょうさいに、おさむしろようの24せんちめーとる榴弾りゅうだんほう送付そうふ石原いしはら莞爾かんじらに約束やくそくし、よく1931ねん昭和しょうわ6ねん)7がつ奉天ほうてん独立どくりつ守備しゅびたい兵営へいえいないけられた。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月に荒木あらき貞夫さだお陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにん1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ真崎まさき三郎さぶろう参謀さんぼう次長じちょう就任しゅうにんどう5がつはやしずくじゅうろう教育きょういく総監そうかん就任しゅうにんで、さん将軍しょうぐん擁立ようりつ実現じつげんされた。

しかし実際じっさいまんしゅう事変じへん処理しょり各人かくじんいそがしくなると、会合かいごうつのが困難こんなんになった。そしてよく1933ねん昭和しょうわ8ねん)には、たい方針ほうしんたいささえ方針ほうしんちがいで陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう同期どうきようかい以前いぜんよりふか親交しんこうのあった永田ながた小畑おばた反目はんもくはげしくなる[5]おなじく同期どうき岡村おかむらやすし仲裁ちゅうさいはいるも、岡村おかむら上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう副長ふくちょうになったこともあり、この2人ふたりみぞめられなかった。これを統制とうせいすめらぎどう萌芽ほうがとする意見いけんもある。

荒木あらき陸相りくしょう人事じんじ荒木あらき人事じんじ)のした小畑おばた参謀さんぼう本部ほんぶ牛耳ぎゅうじり、荒木あらき後任こうにんはやし陸相りくしょうした永田ながた軍務ぐんむ局長きょくちょうとなり陸軍りくぐん人事じんじにぎったが、永田ながた1935ねん昭和しょうわ10ねん)に相沢あいざわ三郎さぶろう凶刃きょうじんたおれた(相沢あいざわ事件じけん)。1936ねん昭和しょうわ11ねん)の二・二六事件ににろくじけん結果けっかすめらぎどう粛清しゅくせいはじまると荒木あらき真崎まさきとも小畑おばた陸軍りくぐんわれた。東條とうじょう石原いしはらこうそうつづけるなど、かつての一夕いっせきかいメンバーがいち時代じだいきずくとともに、かれらのなかでも意見いけん対立たいりつ激化げきかしていった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かい中心ちゅうしん人物じんぶつである岡村おかむらやすし日記にっきより。会員かいいん一人ひとりである土橋どばしいさむいっしるした『軍服ぐんぷく生活せいかつよんじゅうねんそう』には、一夕いっせきかい1927ねん昭和しょうわ2ねん)11月3にち発足ほっそくし、かい名付なづおや土橋どばしいさむいっで、おおむ毎月まいつきいちかい開催かいさいすることにし、常任じょうにん幹事かんじ清水しみず規矩きく土橋どばしいさむはぐれ武藤むとうあきらにした、とある。
  2. ^ 1921ねん大正たいしょう12ねん)のバーデン=バーデンの密約みつやくのメンバーである永田ながた小畑おばた岡村おかむらとその参加さんかした東條とうじょう河本かわもと板垣いたがきらを中心ちゅうしんに、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう15から18卒業生そつぎょうせいのエリートが中心ちゅうしん結成けっせいされたかい名称めいしょうは、1927ねん昭和しょうわ2ねん)から定期ていきてき会合かいごうつようになったであるフランス料理りょうりてんようてい由来ゆらいするという(大江おおえ志乃しのおっとちょうさく爆殺ばくさつ』33-35ぺーじ)。
  3. ^ かい顧問こもんかくであったとされ、永田ながた小畑おばた意見いけん対立たいりつ未然みぜん調停ちょうていできる人物じんぶつであったとされる。1929ねん8がつ飛行機ひこうき事故じこにより死去しきょ
  4. ^ 荒木あらき貞夫さだお腹心ふくしん退役たいえき軍人ぐんじんシベリア出兵しゅっぺいとき方針ほうしんじょうをめぐって田中たなか義一ぎいち当時とうじ陸軍りくぐん大臣だいじん)と対立たいりつした結果けっか陸軍りくぐんっていた。ぐん上層じょうそうとの連絡れんらくやくであったとされる。
  5. ^ にち不可侵ふかしん条約じょうやくひがしささえ鉄道てつどう買収ばいしゅうについて永田ながた賛成さんせいし、小畑おばた反対はんたいするといった具合ぐあいであった。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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