篠塚しのづか義男よしお

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篠塚しのづか 義男よしお(しのづか よしお、1884ねん明治めいじ17ねん9月15にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん9月17にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょうせいさん勲一等くんいっとうこうきゅう東京とうきょう東京とうきょう出身しゅっしん

熊本くまもと地方ちほう幼年ようねん学校がっこう中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうをいずれもすべ首席しゅせき卒業そつぎょうした日本にっぽん陸軍りくぐん史上しじょう最大さいだい秀才しゅうさいだった[よう出典しゅってん]が、陸軍りくぐん大将たいしょう進級しんきゅうできず、終戦しゅうせん自決じけつした。

経歴けいれき [編集へんしゅう]

明治めいじ17ねん9がつ15にち陸軍りくぐん会計かいけいぐん吏で大阪おおさか士族しぞく篠塚しのづか義春よしはるとしてまれる。

陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうだい17(1ばん/363めい)、陸軍りくぐんだい学校がっこうだい23恩賜おんし,5ばん/52めい)。

官報かんぽうによると陸士りくし同期どうきには、松村まつむら正員せいいん中将ちゅうじょう、2ばん)、飯田いいださだかた中将ちゅうじょう、4ばん)、鈴木すずきしげるやすし中将ちゅうじょう、6ばん)、東條とうじょう英機ひでき大将たいしょう、12ばん)、こうはし英次郎えいじろう中将ちゅうじょう、19ばん)、荻洲おぎす立兵りゅうへい中将ちゅうじょう、31ばん)、後宮こうきゅうあつし大将たいしょう、39ばん)、わたり久雄ひさお中将ちゅうじょう、41ばん)、侯爵こうしゃく前田まえだ利為としなり大将たいしょう、79ばん)、岩松いわまつ義雄よしお中将ちゅうじょう、121ばんとう、錚々たる人物じんぶつつらねている。

尉官いかん時代じだい歩兵ほへいだい1聯隊れんたいちょうだった宇都宮うつのみや太郎たろう大将たいしょう陸士りくしきゅう7りくだい6優等ゆうとう)としたしく交流こうりゅうし、宇都宮うつのみや日記にっきえる。 にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ1938ねん昭和しょうわ13ねん)6がつだい10師団しだんちょう1939ねん昭和しょうわ14ねん)9がつにはだい1ぐん司令しれいかんとして中国ちゅうごく大陸たいりく転戦てんせん1941ねん昭和しょうわ16ねん)6がつには軍事ぐんじ参議さんぎかんけん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう校長こうちょうとして1942ねん4がつまで将校しょうこう錬成れんせいにんたった。

終戦しゅうせん、1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ17にち東京とうきょう渋谷しぶや自宅じたくみぎ頸動みゃく自決じけつ[1]墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん1-イ-10にある。軍事ぐんじ参議さんぎかんとしてだい東亜とうあ戦争せんそう開始かいし賛成さんせいしたことを、その信念しんねんわらないとしながらも、今日きょう運命うんめいいたった責任せきにんかんじ、陛下へいか戦没せんぼつしゃおよ遺族いぞくならびに国民こくみん各位かくい陳謝ちんしゃするとした[2]大江おおえ志乃しのおっとによれば、上級じょうきゅう将校しょうこうとしては、天皇てんのうならべてとはいえ、事態じたい一般いっぱん国民こくみん謝罪しゃざいしたきわめてまれれいという[よう出典しゅってん]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もと陸士りくし校長こうちょう自決じけつ昭和しょうわ20ねん9がつ18にち 朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p243
  2. ^ 三留みとめさとしおとこ満州まんしゅう棄民』東京書籍とうきょうしょせき(かぶ)、1988ねん8がつ5にち、79-80ぺーじ 
  3. ^ 連隊れんたいちょう宇都宮うつのみや太郎たろう大佐たいさ先任せんにん将校しょうこう梅津うめづ美治よしはるろう当時とうじ是永これながせい