水谷みずたに一生かずお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
水谷みずたに 一生かずお
みずたに かずお
生誕せいたん 1899ねん明治めいじ32ねん4がつ22にち
日本の旗 日本にっぽん三重みえけん
死没しぼつ 1949ねん昭和しょうわ24ねん11月25にち
所属しょぞく組織そしき 日本にっぽん陸軍りくぐん
ぐんれき  1921ねん大正たいしょう10ねん) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん大佐たいさ
テンプレートを表示ひょうじ

水谷みずたに 一生かずお(みずたに かずお、1899ねん明治めいじ32ねん4がつ22にち - 1949ねん昭和しょうわ24ねん11月25にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん大佐たいさ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

三重みえけん出身しゅっしん農業のうぎょう水谷みずたにせんまつ長男ちょうなんとしてまれる。富田とみた中学校ちゅうがっこうて、1921ねん大正たいしょう10ねん)7がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(33)を卒業そつぎょう同年どうねん10がつ歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん歩兵ほへいだい51連隊れんたいづけとなる。陸士りくしづけなどをて、1934ねん昭和しょうわ9ねん)8がつから1937ねん昭和しょうわ12ねん)1がつまで秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとしんのうづけ武官ぶかんつとめる。その陸士りくし教官きょうかんとなり、1937ねん8がつ歩兵ほへい少佐しょうさ昇進しょうしんし、1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつまで陸軍りくぐんだい学校がっこうせん科学かがくせいとしてまなぶ。同年どうねん5がつだい16師団しだん参謀さんぼう就任しゅうにんし、参謀さんぼう本部ほんぶいん大本営だいほんえい研究けんきゅうはん)をて、1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ歩兵ほへい中佐ちゅうさ進級しんきゅう

1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ東部とうぶぐん参謀さんぼう発令はつれいされ、1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ陸軍りくぐん大佐たいさ昇進しょうしんした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつだい12方面ほうめんぐん参謀さんぼう防衛ぼうえい)となり、同年どうねん6がつ近衛このえだい1師団しだん参謀さんぼうちょうてんじた。同年どうねん8がつ15にち宮城みやぎ事件じけん上官じょうかんもりたけし中将ちゅうじょう殺害さつがいされ、その報告ほうこくのため井田いだただしこう中佐ちゅうさとともに東部とうぶぐん管区かんく司令しれいおもむいた。井田いだ東部とうぶぐん管区かんく決起けっき参加さんかもとめたが、田中たなかしずいちぐん司令しれいかんすで事件じけん鎮圧ちんあつ決定けっていしていた。同日どうじつ水谷みずたに東部とうぶぐん管区かんく司令しれいづけとなり、同年どうねん12がつ予備よびやく編入へんにゅうされた。長男ちょうなん音楽家おんがくか水谷みずたに公生きみお

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]