サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう

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座標ざひょう: 北緯ほくい4756ふん43びょう 西経せいけい209ふん08びょう / 北緯ほくい47.9453 西経せいけい2.1522 / 47.9453; -2.1522

サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
モットー かれたおすためにまな
ふつ: Ils s'instruisent pour vaincre
種別しゅべつ ぐん学校がっこう士官しかん学校がっこう
一般いっぱん大学院だいがくいん修士しゅうし課程かてい同等どうとう
設立せつりつねん 1802ねん5月1にち
総長そうちょう Nicolas de Lardemelle少将しょうしょう
所在地しょざいち ブルターニュ地域ちいきけん モルビアンけん Guer Coëtquidan
スクールカラー トリコロール   
ニックネーム サン・シーリャン
公式こうしきサイト www.st-cyr.terre.defense.gouv.fr/
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2008ねんパリさい軍事ぐんじパレードに参加さんかしただい1大隊だいたい

サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうふつ: École Spéciale Militaire de Saint-Cyr)は、フランス士官しかん学校がっこう通称つうしょうサン・シールブルターニュ地域ちいきけんモルビアンけんGuer Coëtquidan位置いちする[1][2]

サン・シールへ士官しかん候補こうほせいとして入学にゅうがくできる学生がくせいは、21さい前後ぜんこうで、軍民ぐんみん大学だいがく優秀ゆうしゅう成績せいせきおさめ、学士がくしごうすでものだけである。サンシールの学生がくせいはサン・シーリャン、シラーズなどの愛称あいしょうばれる。3年間ねんかんのサン・シールでの学習がくしゅうは、近年きんねんでは緩和かんわされ、ヨーロッパ単位たんい互換ごかん評価ひょうか制度せいど(ECTS)に統合とうごうされた、民間みんかん学習がくしゅうプログラムで使つかわれている単位たんいシステムを利用りようしている。すべての士官しかん候補こうほせい修士しゅうしごう取得しゅとくして、正式せいしき士官しかんとして任官にんかんしていく[1][2]

サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうは、1803ねんナポレオン・ボナパルトによって、パリ郊外こうがいフォンテーヌブロー設立せつりつされた。そのなんかの移転いてんのち1808ねん最終さいしゅうてきにパリ西方せいほうサン=シール=レコール移転いてんし、戦後せんご現在げんざい場所ばしょうつった。現在げんざい学長がくちょうはNicholas de Lardemelle少将しょうしょう[1][2]

モットー[編集へんしゅう]

Casoar of Saint-Cyr(「サンシールのヒクイドリ」)とばれるせいぼう羽根はねかざり

ナポレオンによる最初さいしょモットーかれつためにまなふつ: Ils s'instruisent pour vaincre)である。

そのルイ18せい復古ふっこ王政おうせいには、かれ祖国そこくまもるためにまなふつ: Ils s'instruisent pour la Défense de la Patrie)がモットーとなった。しかし、1848ねんから1870ねんまでのルイ・ナポレオン国家こっか元首げんしゅとなっただい共和きょうわせいだい帝政ていせいでは、ナポレオンのものがふたた使つかわれた。

さらに、つぎ名誉めいよ国家こっかふつ: Honneur et Patrie)が1918ねんまで使つかわれた。そして、そのはナポレオンのものが再度さいど使用しようされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

この士官しかん学校がっこうÉcole Spéciale Militaire)は、ナポレオンによって、1802ねん5月1にちフランス革命かくめいれき10ねんフロレアル(花月かげつ)11にち)に、ブルボンあさ王立おうりつ士官しかん学校がっこうÉcole Royale Militaire)にわるものとして、フォンテーヌブロー設立せつりつされた。その、ナポレオンが皇帝こうてい即位そくいするにあたって、帝国ていこく士官しかん学校がっこうÉcole Spéciale Impériale Militaire)にあらためられた。

1806ねんに、フランス革命かくめいによって廃止はいしされた、メゾン・ロワイヤル・ド・サンルイ(Maison royale de Saint-Louis貧困ひんこんおちいった戦死せんしした貴族きぞく子女しじょのための学校がっこう)があったイヴリーヌけんサン=シール=レコール移転いてんした。

この学校がっこうは、ナポレオン戦争せんそうつうじて、多数たすう青年せいねん士官しかん養成ようせいした。ナポレオンが退位たいいしたのちも、1940ねんだい世界せかい大戦たいせんにおけるフランス降伏ごうぶくまで、サン・シールにあった。ヴィシー政権せいけん成立せいりつすると、士官しかん学校がっこうもヴィシー政権せいけん統治とうちゆるされた南仏なんふつエクス=アン=プロヴァンス移転いてんした。1942ねんにフランスがナチス・ドイツによって全面ぜんめん占領せんりょうにおかれると、士官しかん学校がっこう廃止はいしされてしまった。しかし、士官しかん候補こうほせいたちは、ド・ゴール指揮しきした自由じゆうフランスりょうCherchellげんアルジェリア)で訓練くんれんつづけた。

1944ねんフランス解放かいほうげられると、士官しかん学校がっこうは、ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ将軍しょうぐんにより、モルビアンけんCoëtquidanのキャンプで再開さいかいされた。サン・シールのもとのキャンパスは、連合れんごうぐん爆撃ばくげきによって、破壊はかいしつくされてしまっていたためであった。そして、サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう今日きょうもその場所ばしょにある。

1961ねん制度せいど改革かいかく学校がっこうは2つのコースにけられた。1983ねんにサン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうはじめて女性じょせい入学にゅうがくみとめた。2002ねんには直接ちょくせつ任官にんかん制度せいどをますます多様たようにする改革かいかくがおこなわれている。

2012ねん10月29にち訓練くんれんせい同校どうこう伝統でんとう新入生しんにゅうせいおしえるためとしておこなわれた夜間やかん訓練くんれん参加さんかし、沼地ぬまちおよいでわた途中とちゅうおぼれて死亡しぼうした事件じけん発生はっせいし、将官しょうかん1にんふく軍人ぐんじん7にん過失かしつ致死ちしざいわれ、陸軍りくぐん大尉たいい部隊ぶたいちょう事件じけん除隊じょたいしたもと兵士へいしの3にんに、執行しっこう猶予ゆうよ禁錮きんこ6~8がつ有罪ゆうざい判決はんけつ、4にん無罪むざいとなった[3]

サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうでは、1802ねんからかぞえて、2せんにん外国がいこくじん留学生りゅうがくせいふくむ6まん5せんにん士官しかん候補こうほせいたち卒業そつぎょうし、そのうち9639にん戦死せんしした。卒業生そつぎょうせいには、11にん元帥げんすい、3にんフランス大統領だいとうりょう2人ふたり撃墜げきついおう、6にんアカデミー・フランセーズ会員かいいん1人ひとりカトリック教会きょうかいによるれつぶくしゃシャルル・ド・フーコー)がいる。

博物館はくぶつかん[編集へんしゅう]

博物館はくぶつかんは、一般いっぱん公開こうかいと、グループツアーきゃくけで開館かいかん時間じかんことなる。一般いっぱんけは、平日へいじつ10から12土日どにち10から12、14から18である。グループツアーきゃくたいしては、平日へいじつの14時半じはんから17まで開館かいかんしている。休館きゅうかん月曜げつよう全日ぜんじつ)および木曜もくよう午後ごご)。

博物館はくぶつかんは、cour Rivoliに位置いちしている。常設じょうせつ展示てんじは「アンシャン・レジームわりから現代げんだいまでのサン・シーリャンの生活せいかつ」で、歴代れきだい制服せいふく個人こじん所有しょゆうぶつ芸術げいじゅつ作品さくひん・レプリカでない書類しょるい武器ぶき装飾そうしょくひん民族みんぞく遺跡いせきなどをることが出来できる。

学校がっこう生活せいかつ[編集へんしゅう]

校舎こうしゃ
校舎こうしゃ

サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうは、内部ないぶにいくつかのコースをつ。一般いっぱん本科ほんかESMÉcole Spéciale Militaire de Saint-Cyr、)は、毎年まいとし国家こっか試験しけんつうじて選抜せんばつされ、卒業そつぎょう直接ちょくせつ士官しかんとして任官にんかんするルートである。もう1つがたいない選抜せんばつEMIAÉcole Militaire Interarmes)であり、推薦すいせんけた下士官かしかん予備よびやく士官しかんが、士官しかん候補こうほせいとなるべくまなぶためのルートである。3つのコースとして、EMCTAÉcole Militaire du Corps Technique et Administratif)という、軍政ぐんせい専門せんもんとする将校しょうこう養成ようせいするコースもある。

本科ほんかには、すで学士がくしゆうし、もしくはグランゼコール卒業そつぎょうしゃであるもの出願しゅつがん資格しかくつ。かれらは、教養きょうよう試験しけんけ、適性てきせい知能ちのうテストをける。それらは、バカロレア+2クラスのテストである。面接めんせつ審査しんさ体力たいりょく測定そくていふくまれる。フランスじんだけでなく、毎年まいとし多数たすう外国がいこくじん生徒せいと入学にゅうがくしている。

3年間ねんかんにわたり、教養きょうよう軍事ぐんじてき肉体にくたいてきそして、指導しどうりょく発揮はっき訓練くんれんける。

最初さいしょとしは、軍事ぐんじ教練きょうれん教養きょうようおこなわれる。そして、2、3ねんには教養きょうようおこなわれるが、1週間しゅうかんから3週間しゅうかん軍事ぐんじ教練きょうれんによって中断ちゅうだんされることがしばしばである。サン・シールの士官しかん候補こうほせいは、すで任命にんめいされた正規せいき士官しかんである。カリキュラムは9月の学年がくねんはじめから、翌年よくねんの7がつにかけておこなわれる。

本科ほんか学生がくせい育成いくせい大隊だいたい単位たんいおこなわれている。1年生ねんせい士官しかん候補こうほせい、rang d'élève-officier)はフランスだい3大隊だいたいに、2年生ねんせい少尉しょうい心得こころえ、rang d'aspirant)はフランスだい2大隊だいたいに、3年生ねんせい少尉しょうい)はフランスだい1大隊だいたい配属はいぞくされている。また、サン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうにおいて短期たんき教育きょういくけている予備よびやく将校しょうこう特別とくべつ任務にんむ将校しょうこう見習みならい士官しかんAspirants)はフランスだい4大隊だいたい配属はいぞくされる。

卒業そつぎょうすると、生徒せいとたちは中尉ちゅうい任官にんかんし、もういちねん各員かくいん選択せんたくしたせんもん学校がっこうごし、小隊しょうたいちょうとして連隊れんたい配属はいぞくされる。また、かれらは専攻せんこうもとづく修士しゅうし修了しゅうりょう証書しょうしょる。サン・シールで専攻せんこうできるものには、工学こうがく理学りがく古典こてん文学ぶんがく現代げんだい歴史れきし言語げんご応用おうよう言語げんご地理ちりがく経済けいざいがく法学ほうがく・コンピューターサイエンス・体育たいいくがく政治せいじがく・アジアがくがある。

伝統でんとう行事ぎょうじとして、往時おうじ本物ほんもの兵器へいき制服せいふく使つかっての、有名ゆうめいたたかいの再現さいげんげき式典しきてんもよおしがある。

また、パリさいにおいてはエコール・ポリテクニークフランス海軍兵学校かいぐんへいがっこう生徒せいととともに、軍事ぐんじパレードで行進こうしんする。以下いかはその写真しゃしんである。

著名ちょめい卒業生そつぎょうせい[編集へんしゅう]

正装せいそう着用ちゃくようするサン・シーリャン

:ののち数字すうじねん卒業そつぎょうねんしめす。

フランス本国ほんごく出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

海外かいがい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]