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大艦だいかんきょほう主義しゅぎ

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イギリス戦艦せんかんロドニー」の主砲しゅほう(1940ねん

大艦だいかんきょほう主義しゅぎ(たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦隊かんたい決戦けっせんによるてき艦隊かんたい撃滅げきめつのためだい口径こうけい主砲しゅほう搭載とうさいじゅう装甲そうこうかんたい戦艦せんかん中心ちゅうしんとする艦隊かんたい指向しこうする海軍かいぐんぐん戦備せんびけんかん政策せいさくおよび戦略せんりゃく思想しそう[1]きょほう大艦だいかん主義しゅぎきょかんきょほう主義しゅぎきょほうきょかん主義しゅぎ大艦だいかん大砲たいほう主義しゅぎともう。

英国えいこく海軍かいぐん戦艦せんかんドレッドノート (1906ねん)が各国かっこくあいだけんかん競争きょうそう大艦だいかんきょほう主義しゅぎはしらせる契機けいきとなった[2]。しかし、タラント空襲くうしゅう真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきマレーおき海戦かいせんせんくんにより、適切てきせつ航空こうくう援護えんごなしに戦艦せんかん戦闘せんとう参加さんかさせてはならないことが認識にんしきされた[3]

思想しそう

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背景はいけい

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19世紀せいきすえごろからおも蒸気じょうき機関きかん発達はったつによって、大型おおがた高速こうそく艦艇かんていつくれるようになった。

同時どうじかんほう大型おおがたするほど射程しゃていび、威力いりょくおおきくなる。そこで、大型おおがた軍艦ぐんかん大型おおがたほうをよりおお搭載とうさいしようというかんがかた大艦だいかんきょほう主義しゅぎであり、19世紀せいきまつから20世紀せいき前半ぜんはんまで主要しゅよう海軍かいぐんこく支持しじされていた[4]

日本にっぽん海軍かいぐんでも、にち戦争せんそうどき日本海にほんかい海戦かいせん大艦だいかんきょほうと「艦隊かんたい決戦けっせん」を至上しじょうとするかんがかた確立かくりつされた(海戦かいせん要務ようむれい)。そのだい東亜とうあ戦争せんそう後半こうはんまで軍令ぐんれい戦術せんじゅつうえ主流しゅりゅうとなった。長駆ちょうく侵攻しんこうしてくるてき艦隊かんたい全力ぜんりょく迎撃げいげき撃退げきたいするのが基本きほん方針ほうしんであり、そのさい主役しゅやく戦艦せんかんとされ、航空こうくう母艦ぼかん巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかんなどは脇役わきやくぎないという思想しそうがあった。[よう出典しゅってん]

大艦だいかんきょほう主義しゅぎ進展しんてんは、方位ほういばんをはじめとする射撃しゃげき管制かんせい装置そうち発達はったつとも関連かんれんしている。射程しゃていながほうがあっても、遠距離えんきょり敵艦てきかん命中めいちゅうさせられる技術ぎじゅつがなければ無意味むいみだからである。

ドレッドノート」が画期的かっきてきだったのは、多数たすう主砲しゅほう射撃しゃげき管制かんせい可能かのうとするほう完成かんせいあってのことである。1940ねんころまで各国かっこく戦艦せんかん光学こうがくしきはか距儀方位ほういばん射撃しゃげきもちいた射撃しゃげき管制かんせい装置そうち主用しゅようしていた。しかしべいえいでは1941ねん以降いこうレーダー実用じつようにより、着弾ちゃくだん観測かんそくについては光学こうがくしきはか距儀よりもレーダーを使用しようしたでんはか射撃しゃげき移行いこうしていった。これにたいし、にちどくべいえい電子でんしへいそう格段かくだんおくれをり、でんはかはか距と併用へいようしたものの、光学こうがくしきはか距儀を最後さいごまで実戦じっせん主用しゅようした。なお、フランスはすぐに敗戦はいせんしたため、射撃しゃげきようレーダーを搭載とうさいしたもののその効果こうか不明ふめいである。イタリアは終戦しゅうせんまで対空たいくう見張みはようレーダーのみだった。光学こうがくしきはか距はとくに遠距離えんきょり射撃しゃげきでは誤差ごさおおきく、近距離きんきょりでも夜間やかん曇天どんてん悪天候あくてんこうなどで視界しかいわるときにレーダー管制かんせいおとっていた。そのため、水上みずかみ艦艇かんてい同士どうし戦闘せんとうにおいてでんはか射撃しゃげきおこなえることはかなり優位ゆういだった。ただ、初期しょき射撃しゃげきようレーダーははか性能せいのう充実じゅうじつしていたものの方位ほうい探知たんちかく不足ふそくしており、ときには光学こうがく観測かんそく射撃しゃげきおくれをることもあった。[よう出典しゅってん]

思想しそう変遷へんせん

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他国たこくより大型おおがた戦艦せんかん巨大きょだい主砲しゅほう搭載とうさいするという、文字もじどおりの大艦だいかんきょほう主義しゅぎ1936ねんワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくには終焉しゅうえんむかえ、前代ぜんだいどう程度ていど、あるいはやや小型こがたした主砲しゅほう採用さいようれいおおくなった。

だいいち世界せかい大戦たいせんなか1916ねん生起せいきしたユトランドおき海戦かいせんにおいて、イギリスとドイツがいしゆみきゅう戦艦せんかん超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかんふく艦隊かんたい衝突しょうとつし、長距離ちょうきょり砲撃ほうげきせん重要じゅうようせいさい認識にんしきされたことで各国かっこく大艦だいかんきょほう主義しゅぎ一層いっそうつよまり[5]速力そくりょく防御ぼうぎょりょく向上こうじょう追求ついきゅうしたポスト・ジュットランドかん高速こうそく戦艦せんかん)が建造けんぞうされたが、必然ひつぜんてき排水はいすいりょうえてしまい主砲しゅほう口径こうけい増大ぞうだいあきらめざるをなかったためである。

この反省はんせいから、速力そくりょく防御ぼうぎょりょくのバランス戦艦せんかん設計せっけい重要じゅうようされるようになった。これまでの戦艦せんかん速度そくどを、めぐよう戦艦せんかん防御ぼうぎょりょく妥協だきょうして排水はいすいりょうおさえていたが、そのような設計せっけい問題もんだいてんあきらかになった。

そして、航空機こうくうき発達はったつによりだい世界せかい大戦たいせんなか航空機こうくうき優位ゆうい確立かくりつ航空こうくうぬしへいろん台頭たいとう戦艦せんかん時代じだいわりをげることとなった。

アメリカで計画けいかくされていた、大和やまとがた戦艦せんかん(72,800t 45口径こうけい46cm 9もん)と同等どうとうモンタナきゅう戦艦せんかん(71,922t 50口径こうけい16インチほう 12もんぜん5せき1943ねん建造けんぞう中止ちゅうしされたことをもって戦艦せんかん終焉しゅうえんむかえた。

その竣工しゅんこうしたアイオワきゅう戦艦せんかんヴァンガードジャン・バールなどはそれ以前いぜん起工きこうしたものであり、以後いご戦艦せんかん新造しんぞうおこなわれていない。

歴史れきし

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いしゆみきゅう戦艦せんかん以前いぜん

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大砲たいほう技術ぎじゅつ発達はったつかんほう撃沈げきちん可能かのうになると、舷側げんそくあなけて多数たすうかんほうならべると被害ひがいけやすくなった。

そのためほうすうらし、1もんあたりの威力いりょくたかめ、敵艦てきかんほうえる装甲そうこうほどこすこととなり、装甲そうこうかん時代じだいとなった。技術ぎじゅつ開発かいはつすすみ、ほうおおきさ(口径こうけい口径こうけいちょう)が威力いりょく比例ひれいするようになった。戦列せんれつかんから装甲そうこうかんへの移行いこうには小型こがたられたものの、大砲たいほう動力どうりょく造船ぞうせん技術ぎじゅつ進歩しんぽにしたがって軍艦ぐんかん巨大きょだいしていった。そして木製もくせいかんたい装甲そうこうほどこした装甲そうこうかんから、かんたい自体じたい鉄鋼てっこうせいとしたかんへと移行いこう大型おおがたかんたい搭載とうさいほう戦艦せんかんと、小型こがた偵察ていさつなどを目的もくてきとする巡洋艦じゅんようかんへと分岐ぶんきした。

近代きんだい戦艦せんかん始祖しそとされるのはロイヤル・サブリンきゅう戦艦せんかんである。なお、1895ねんから順次じゅんじ竣工しゅんこうしたマジェスティックきゅう戦艦せんかんが、30.5 cmほう4もん主砲しゅほう搭載とうさい、そしてそのほう威力いりょく対応たいおうする装甲そうこうつ、ぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん基本形きほんけい確立かくりつした。しばらくは各国かっこくともこの様式ようしき戦艦せんかん建造けんぞうしたが、1906ねんイギリス完成かんせいした「ドレッドノート」によって主砲しゅほう4もんわくはずされた。このかん従来じゅうらい戦艦せんかんくらべて飛躍ひやくてき向上こうじょうした攻撃こうげきりょく機動きどうりょくゆうし、建造けんぞうちゅう戦艦せんかんをも一気いっき旧式きゅうしきにするほどの衝撃しょうげきあたえた。そのためこれ以後いご世界せかい海軍かいぐんは「ドレッドノート」を基準きじゅんとし、これらをいしゆみきゅう戦艦せんかんしょうする。

いしゆみきゅう戦艦せんかん以後いご

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ネルソン」の16インチほう

そして超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかんによって、30.5 cmという主砲しゅほう口径こうけいわくはずされ、戦艦せんかん攻撃こうげきりょく主砲しゅほうおおきさでまる時代じだいとなった。

敵艦てきかんよりおおきな主砲しゅほうそなえ、てきだんえられるあつ装甲そうこうそなえた戦艦せんかん海戦かいせんでは有利ゆうりである。その結果けっか戦艦せんかんとそれに搭載とうさいされる主砲しゅほう急速きゅうそく巨大きょだいし、また数量すうりょう他国たこくけないために大量たいりょう建造けんぞうおこなわれた。コストパフォーマンスその理由りゆうによって、前代ぜんだいより排水はいすいりょう主砲しゅほう小型こがたする場合ばあいもあった巡洋艦じゅんようかんとは対照たいしょうてきに、戦艦せんかんはひたすら大型おおがた一途いっとをたどった。にちえいどく戦艦せんかんおなきょほうめぐよう戦艦せんかん建造けんぞうし、なかには大和やまとがたの25ねんまえ世界せかいはつの18インチほう搭載とうさいかんとなった「フューリアス」などがある。 だいいち世界せかい大戦たいせんのジェットランド海戦かいせんでイギリスとドイツがいしゆみきゅう戦艦せんかん超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかんふく艦隊かんたい衝突しょうとつし、砲撃ほうげきせん重要じゅうようせいさい認識にんしきされたことで各国かっこく大艦だいかんきょほう主義しゅぎ一層いっそうつよまり[5]日本にっぽんでは、にち戦争せんそうの1906ねんから1920年代ねんだいまでは戦艦せんかん海軍かいぐんりょく主力しゅりょくとしてさい重要じゅうようされ、列強れっきょう各国かっこくきょほう装備そうびした新鋭しんえい戦艦せんかん建造けんぞう競争きょうそう展開てんかい

主力しゅりょくかん」たる戦艦せんかん部隊ぶたい同士どうし砲撃ほうげきせんによって海戦かいせんひいては戦争せんそうそのものの勝敗しょうはいまるとされ、巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかんなどの戦艦せんかん以外いがい艦艇かんてい主力しゅりょくかんの「補助ほじょかん」とされた。戦艦せんかん保有ほゆうできない中小ちゅうしょうこく海軍かいぐんでも、限定げんていてき航続こうぞく距離きょり速力そくりょく海防かいぼう戦艦せんかんばれるかん建造けんぞうし、戦艦せんかんちか能力のうりょくとうとしたれいおおられた。この時期じき戦艦せんかん大戦たいせん核兵器かくへいき同様どうよう戦略せんりゃく兵器へいきであり、他国たこくより強力きょうりょく戦艦せんかん国威こくいしめすものだった。

戦艦せんかん建造けんぞう競争きょうそう1921ねんワシントン軍縮ぐんしゅく会議かいぎにおけるワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく締結ていけつによりいったん中断ちゅうだん海軍かいぐん休日きゅうじつ)したが、1937ねんにワシントン条約じょうやく失効しっこうすると、けんかん競争きょうそう再開さいかいされた。しかし、主砲しゅほう巨大きょだいにする大艦だいかんきょほう主義しゅぎ衰退すいたいし、速力そくりょく防御ぼうぎょりょくのバランスが重視じゅうしされ、主砲しゅほう口径こうけい従来じゅうらい従来じゅうらい以下いかのサイズにとどまった。

また航空機こうくうきことなり、当時とうじ技術ぎじゅつりょくでは地平線ちへいせんという物理ぶつりてき制約せいやくにより、戦艦せんかん単独たんどくすうじゅうkmをえる直接ちょくせつ観測かんそく攻撃こうげき手段しゅだんちえなかった。

(れい) 地球ちきゅう半径はんけいR(=6.37 ×106m)観測かんそく地点ちてん水面すいめんからのたかさをh(m)としたとき、そこから観測かんそくできる距離きょりx(m)さん平方へいほう定理ていりから
x2 + R2 = (R+h)2
  でもとめられる。ここでh=50m としたときh2 R2 よりきわめてちいさいので、
x = 2Rh+h2 2Rh
x2Rh = 2×6.37×106×50 = 637×10325.2×103(m)

このため、かつて想定そうていされていたような戦艦せんかん同士どうし砲撃ほうげきせんはほとんど発生はっせいせず、戦艦せんかん役割やくわりはもっぱら対地たいち砲撃ほうげき機動きどう部隊ぶたい輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえい、あるいは通商つうしょう破壊はかいなどとなった。

1905ねんから1945ねんまでに建造けんぞうされた戦艦せんかん排水はいすいりょうグラフ。軍艦ぐんかんのサイズやパワーはだいいち世界せかい大戦たいせんをはさんで急速きゅうそく増大ぞうだいした。おおくの海軍かいぐんこくによるけんかん競争きょうそうは1922ねんワシントン軍縮ぐんしゅく条約じょうやくでいったんわりをむかえたが、だい世界せかい大戦たいせんちかづくにつれふたた増加ぞうかする

ワシントン条約じょうやく期間きかんちゅう建造けんぞうされたフランス戦艦せんかんダンケルクきゅう1937ねん竣工しゅんこう以降いこうだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまでの9年間ねんかん建造けんぞうされた戦艦せんかんは27せきだった。

そして、大戦たいせんちゅうにアメリカのアイオワきゅう戦艦せんかんが4せき就役しゅうえきし、戦後せんご完成かんせいしたイギリスの「ヴァンガード」とフランスの「ジャン・バール」を最後さいごに、あらたな戦艦せんかん建造けんぞうされていない。

日本にっぽん米国べいこく

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だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ直前ちょくぜん(1941ねん)における日米にちべい超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん所有しょゆうすう以下いかとおり。

このうち金剛こんごうがた扶桑ふそうがた伊勢いせがた長門ながとがた10せきは、1921ねん大正たいしょう10ねん)の軍縮ぐんしゅく条約じょうやく発効はっこうまえ建造けんぞうされたかんよわい20〜30ねんえる艦艇かんていである。
これら15せきすべてが軍縮ぐんしゅく条約じょうやく発効はっこうまえ建造けんぞうされたもので同様どうようかんよわい20〜30ねんえる

ただし、米国べいこく開戦かいせん直前ちょくぜんから以下いか超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん建造けんぞうしているため、大戦たいせんちゅう戦艦せんかん保有ほゆうすうばい以上いじょう総数そうすう27せきおよぶ。

日本にっぽんワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにより、仮想かそう敵国てきこくであった米国べいこく主力しゅりょくかん戦力せんりょく上記じょうきのようなおおきな量的りょうてきしつてき格差かくさがあったこと、そしてパナマ運河うんが航行こうこうするためにパナマックスよりおおきい戦艦せんかん建造けんぞうできないことをかんがみて、戦艦せんかん史上しじょう最大さいだいの46センチ主砲しゅほうの64,000tきゅう大和やまとがた戦艦せんかん(「大和やまと」と「武蔵むさし」)を建造けんぞうした[6][7][8]

大和やまとがたは6まんトンを大艦だいかんであり、45口径こうけい46cmほうというきょほうそなえた大艦だいかんきょほう主義しゅぎもうだった。しかし、戦艦せんかんとの戦闘せんとうでは優位ゆういてたはずの大和やまとがた航空機こうくうきにはてず、「大和やまと」「武蔵むさし」ともにアメリカ海軍かいぐん航空こうくうはは艦載かんさい集中しゅうちゅう攻撃こうげきけて沈没ちんぼつした。また連合れんごうこく枢軸すうじくこくわず、多数たすう戦艦せんかん航空機こうくうき潜水せんすいかん攻撃こうげき沈没ちんぼつした。

日本にっぽん大和やまとがたよりも大型おおがたの51cmほうちょう大和やまとがた戦艦せんかん建造けんぞう予定よていしていたが戦中せんちゅう計画けいかく中止ちゅうししている。また、べいえいふつどくソも35,000トンきゅう凌駕りょうがするきょ大戦たいせんかん建造けんぞう計画けいかくがあったが、直後ちょくごはじまっただい世界せかい大戦たいせんでは海軍かいぐん主役しゅやく航空機こうくうきうつった。

1941ねん12月に太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつし、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきなどにおいて主役しゅやくである戦艦せんかんまえの「露払つゆはら」としてかんがえられていた航空機こうくうき予想よそう以上いじょう戦果せんかみ、だいいち航空こうくう艦隊かんたい司令しれいかん南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょう)は地球ちきゅう半周はんしゅうするほど縦横無尽じゅうおうむじん活躍かつやくせた。それによって航空こうくう戦力せんりょく評価ひょうかたかまり、戦前せんぜんからうったえられていた航空こうくうぬしへいろんいきおいをした[9]。1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ28にちおよび29にち大和やまとおこなわれただいいちだん作戦さくせん研究けんきゅうかいだいいち航空こうくう艦隊かんたい航空こうくう参謀さんぼう源田げんた中佐ちゅうさ大艦だいかんきょほう主義しゅぎ執着しゅうちゃくする軍部ぐんぶを「はた始皇帝しこうてい阿房宮あぼうきゅうつくり、日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかん大和やまと』をつくり、ともわらいを後世こうせいのこした」と批判ひはんして一切いっさい航空こうくうぬしへいえるようにうったえた[10]だい艦隊かんたい砲術ほうじゅつ参謀さんぼう藤田ふじた正路まさじは、大和やまと主砲しゅほう射撃しゃげきて1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ11にち日誌にっしに「すでに戦艦せんかん有用ゆうようなる兵種へいしゅにあらず、いまおもんぜられるはただ従来じゅうらい惰性だせい偶像ぐうぞう崇拝すうはいてき信仰しんこうつつある」とのこした[9]

海軍かいぐんはそれでも大艦だいかんきょほう主義しゅぎれなかったが、ミッドウェー海戦かいせんでのだいいち航空こうくう艦隊かんたい壊滅かいめつにより、思想しそう転換てんかん不十分ふじゅうぶんだが航空こうくう戦力せんりょく価値かち偉大いだいみとめて航空こうくう優先ゆうせん戦備せんび方針ほうしん決定けっていする。しかし、方針ほうしん戦備せんび計画けいかくのみで施策しさく実施じっしなどまで徹底てってい出来できなかった。

国力こくりょく工業こうぎょうちからともに不十分ふじゅうぶん日本にっぽんでは航空機こうくうき戦艦せんかん両立りょうりつ無理むりであり、艦艇かんてい整備せいびおさえる必要ひつようがあったが被弾ひだんした艦艇かんてい修復しゅうふくなどが増大ぞうだいしそこまでおこなうことができなかった。だいさん艦隊かんたい航空こうくうぬしへい変更へんこうされたが、だいいち艦隊かんたいだい艦隊かんたい従来じゅうらいのままで、だいさん艦隊かんたい制空権せいくうけん獲得かくとくしてから戦艦せんかんぬしへい戦闘せんとうおこなかんがえのままだった[11]

たいする米国べいこくは、空母くうぼ有用ゆうようせい認識にんしきしながらも戦前せんぜんから計画けいかくしていた超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかん建造けんぞうつづけた。これは空母くうぼ機動きどう部隊ぶたいにおいて豊富ほうふたいかん対空たいくう武装ぶそう高速こうそく戦艦せんかん有力ゆうりょく空母くうぼちょく掩艦として使用しようしたかったことと、上陸じょうりくせんまえてき陣地じんち破壊はかいかんほう射撃しゃげきもちいること有効ゆうこうであったためである。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、だいさんだん作戦さくせん発令はつれいにおいて連合れんごう艦隊かんたい作戦さくせん要綱ようこう制定せいていし、航空こうくうぬしへい目的もくてきとしたへいじゅつ思想しそう統一とういつおこなわれた[12]1944ねん2がつだいいち艦隊かんたいはいされ、翌月よくげつだいいち機動きどう艦隊かんたい創設そうせつされたことにより、ようやく機動きどう部隊ぶたいさい重要じゅうようされることとなった。

その機動きどう部隊ぶたいと(陸上りくじょう基地きち航空こうくう兵力へいりょくは、ギルバート・マーシャル諸島しょとうたたかマリアナおき海戦かいせん台湾たいわんおき航空こうくうせんなどそよいでまった戦果せんかげることなくだい打撃だげきけた。レイテおき海戦かいせん参加さんかした小沢おざわ機動きどう部隊ぶたいにもはや攻撃こうげきりょくはなく、おとり部隊ぶたいとして壊滅かいめつした。どう作戦さくせんでレイテわん突入とつにゅうするはずだった戦艦せんかん部隊ぶたい目的もくてきたっしないまま反転はんてんし、その過程かてい大和やまとがた戦艦せんかん武蔵むさし」が航空こうくう攻撃こうげきによって撃沈げきちんされた。翌年よくねん4がつには、沖縄おきなわかう大和やまとがこれも航空こうくう攻撃こうげきによって撃沈げきちんされ(坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん)、日本にっぽん海軍かいぐん大艦だいかんきょほう航空こうくうぬしへい双方そうほうがアメリカ海軍かいぐん航空こうくう主体しゅたい物量ぶつりょうやぶれるかたち終焉しゅうえんむかえた。

なお、戦艦せんかん最後さいご実戦じっせん使つかわれたのは1991ねん湾岸わんがん戦争せんそうで、アイオワきゅう戦艦せんかんミズーリ」と「ウィスコンシン」が出撃しゅつげき無人むじん偵察ていさつによるたま観測かんそく射撃しゃげき巡航じゅんこうミサイル攻撃こうげき実施じっしし、一定いってい戦果せんかげている。

賛否さんぴ

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太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて日本にっぽん海軍かいぐんべい海軍かいぐんことなり、大艦だいかんきょほう主義しゅぎ拘束こうそくされ航空こうくう優位ゆうい思想しそう転換てんかんできなかったという批判ひはんがあるが、べい海軍かいぐん建造けんぞうすうればわかとおこのようなかんがえは完全かんぜんあやまりである開戦かいせん直前ちょくぜんまでかんれき20ねんえる戦艦せんかん10せきしかようさない日本にっぽん海軍かいぐん大和やまとがた2せき建造けんぞうおこなったにすぎないが、これにたいして1940ねん時点じてんべい海軍かいぐんはノースカロライナきゅう戦艦せんかん2せき・サウスダコタきゅう戦艦せんかん4せき・アイオワきゅう戦艦せんかん4せきけい10せき建造けんぞう開始かいししており、この動向どうこうおよびかくかん性能せいのう日本にっぽんがわ把握はあくしていた[13]

また、大艦だいかんきょほう主義しゅぎ航空こうくう優位ゆうい思想しそう意味いみ多義たぎてきなもので検証けんしょうえるものではなく、決戦けっせんそなえて戦艦せんかん使用しようしなかったというかたりも、事実じじつは、あるいは使用しようされあるいは使用しようされようとしあるいは戦艦せんかんとしては見捨みすてられて使用しようされなかったのであり、機動きどう部隊ぶたいけんせい重要じゅうよう意味いみたないうえに、アメリカ海軍かいぐん高速こうそく空母くうぼ部隊ぶたい創設そうせつした時期じき日本にっぽん海軍かいぐん連合れんごう機動きどう部隊ぶたい発令はつれいをした時期じきであり、この批判ひはんイデオロギーであるとする意見いけんもある[14]

戦後せんご日本にっぽん海軍かいぐん砲術ほうじゅつ出身しゅっしん大艦だいかんきょほう主義しゅぎしゃつぎのようにかたっている。

  • 福留ふくとめしげる中将ちゅうじょうは「多年たねん戦艦せんかん中心ちゅうしん艦隊かんたい訓練くんれん没頭ぼっとうしてきたわたしあたま転換てんかんできず、南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき偉効いこうそうしたのちもなお、機動きどう部隊ぶたい補助ほじょ作業さぎょうにんずべきもので、決戦けっせん兵力へいりょく依然いぜん大艦だいかんきょほう中心ちゅうしんとすべきものとかんがえていた」と反省はんせいかたっている[15]
  • まゆずみ治夫はるお大佐たいさは、大艦だいかんきょほう航空こうくうぬしへいやぶれた戦後せんごになってもなお、戦前せんぜん想定そうていどおり、砲撃ほうげき主体しゅたい艦隊かんたい決戦けっせんいどむべきだったと生涯しょうがい主張しゅちょうつづけた[16]

戦後せんご大艦だいかんきょほう主義しゅぎ反対はんたいしていた日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくうぬしへい論者ろんしゃたちはつぎのようにかたっている。

  • 源田げんた大佐たいさは、海軍かいぐん大艦だいかんきょほう主義しゅぎから航空こうくうえられなかったのは組織そしき改革かいかくでの犠牲ぎせいきら職業しょくぎょう意識いしきつよさが原因げんいんだったと指摘してきする。「大砲たいほうがなかったら自分じぶんたちは失業しつぎょうするしかない。多分たぶんそういうことでしょう。へいじゅつ思想しそうえるということは、たん兵器へいき構成こうせいえるだけでなく、大艦だいかんきょほう主義しゅぎってきずかれてきた組織そしきえるとことになるわけですから。人情にんじょうもろくて波風なみかぜつのをきら日本人にっぽんじん性格せいかくでは、なかなかむずかしいことです」とかたっている[17]
  • 奥宮おくのみや正武まさたけ中佐ちゅうさは、戦艦せんかん無用むようろんふく航空こうくうぬしへいろん戦前せんぜん極端きょくたんともられたが、太平洋戦争たいへいようせんそう経過けいかがその見通みとおしがほぼただしかったことを証明しょうめいしたとして、とくに航空こうくう関係かんけいしゃなげいていたのは、大艦だいかんきょほう主義しゅぎしたつくられる戦艦せんかん建造けんぞう維持いじなど莫大ばくだい経費けいひ浪費ろうひされるわりにほぼ戦局せんきょく寄与きよしないことであり、それを航空こうくうまわせばより強力きょうりょくなものができるとかんがえていたとかたっている[18]

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 日本にっぽんこう辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん日本にっぽんこう辞典じてん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん10がつ22にち だいいちはんだいいちさつ発行はっこう ISBN 4-634-62010-3、1281ぺーじ
  2. ^ 日本にっぽん造船ぞうせん学会がっかいへん日本にっぽん造船ぞうせん技術ぎじゅつひゃくねん日本にっぽん造船ぞうせん学会がっかい、1997ねん5がつ、51ぺーじ
  3. ^ Gardiner, Robert, ed., The Eclipse of the Big Gun: The Warship, 1906–45. Conway's History of the Ship, London: Conway Maritime Press, 30 May 1992. ISBN 0-85177-607-8, p. 33.
  4. ^ 奥宮おくのみや正武まさたけ大艦だいかんきょほう主義しゅぎ盛衰せいすい』まえがき
  5. ^ a b 歴史れきし博学はくがく倶楽部くらぶ世界せかい軍艦ぐんかん WWI/WWIIへんたけ書房しょぼう100ぺーじ
  6. ^ 歴史れきし博学はくがく倶楽部くらぶ世界せかい軍艦ぐんかん WWI/WWIIへんたけ書房しょぼう158ぺーじ
  7. ^ 日本にっぽん海軍かいぐんはなぜ大和やまと建造けんぞうしたのか
  8. ^ 戦艦せんかん大和やまと最後さいごたたかい~
  9. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ95海軍かいぐん航空こうくうがい268ぺーじ
  10. ^ 淵田ふちた美津雄みつお奥宮おくのみや正武まさたけ『ミッドウェー』学研がっけんM文庫ぶんこ111-113ぺーじ
  11. ^ 戦史せんし叢書そうしょ95海軍かいぐん航空こうくうがい269-270ぺーじ
  12. ^ 戦史せんし叢書そうしょ95海軍かいぐん航空こうくうがい348ぺーじ
  13. ^ #米国べいこく(昭和しょうわ15ねん10がつ)p.7『○米國べいこく海軍かいぐんけんかん状況じょうきょう一覧いちらんひょう(1940-10-1調ちょう)』
  14. ^ もり雅雄まさおイデオロギーとしての「大艦だいかんきょほう主義しゅぎ批判ひはん城西国際大学じょうさいこくさいだいがく紀要きよう 21(3), 1-13, 2013-03
  15. ^ 千早ちはや正隆まさたかほか『日本にっぽん海軍かいぐん功罪こうざい』プレジデントしゃ263ぺーじ
  16. ^ まゆずみ治夫はるお海軍かいぐん砲戦ほうせん史談しだんだい16しょうはら書房しょぼう、1972ねん
  17. ^ 千早ちはや正隆まさたかほか『日本にっぽん海軍かいぐん功罪こうざい にん佐官さかんかた歴史れきし教訓きょうくん』プレジデントしゃ300ぺーじ源田げんた海軍かいぐん航空こうくうたい発進はっしん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ185ぺーじ
  18. ^ 奥宮おくのみや正武まさたけ大艦だいかんきょほう主義しゅぎ盛衰せいすい朝日あさひソノラマ344-347ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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