イギリス戦艦 せんかん 「ロドニー 」の主砲 しゅほう (1940年 ねん )
大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ (たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦隊 かんたい 決戦 けっせん による敵 てき 艦隊 かんたい 撃滅 げきめつ のため大 だい 口径 こうけい の主砲 しゅほう を搭載 とうさい し重 じゅう 装甲 そうこう の艦 かん 体 たい を持 も つ戦艦 せんかん を中心 ちゅうしん とする艦隊 かんたい を指向 しこう する海軍 かいぐん 軍 ぐん 戦備 せんび ・建 けん 艦 かん 政策 せいさく および戦略 せんりゃく 思想 しそう [1] 。巨 きょ 砲 ほう 大艦 だいかん 主義 しゅぎ 、巨 きょ 艦 かん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ 、巨 きょ 砲 ほう 巨 きょ 艦 かん 主義 しゅぎ 、大艦 だいかん 大砲 たいほう 主義 しゅぎ とも言 い う。
英国 えいこく 海軍 かいぐん 戦艦 せんかん ドレッドノート (1906年 ねん )が各国 かっこく 間 あいだ の建 けん 艦 かん 競争 きょうそう を大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に走 はし らせる契機 けいき となった[2] 。しかし、タラント空襲 くうしゅう や真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき 、マレー沖 おき 海戦 かいせん の戦 せん 訓 くん により、適切 てきせつ な航空 こうくう 援護 えんご なしに戦艦 せんかん を戦闘 せんとう に参加 さんか させてはならない ことが認識 にんしき された[3] 。
19世紀 せいき 末 すえ ごろから主 おも に蒸気 じょうき 機関 きかん の発達 はったつ によって、大型 おおがた で高速 こうそく の艦艇 かんてい が作 つく れるようになった。
同時 どうじ に艦 かん 砲 ほう は大型 おおがた 化 か するほど射程 しゃてい も伸 の び、威力 いりょく も大 おお きくなる。そこで、大型 おおがた の軍艦 ぐんかん に大型 おおがた の砲 ほう をより多 おお く搭載 とうさい しようという考 かんが え方 かた が大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ であり、19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 前半 ぜんはん まで主要 しゅよう 海軍 かいぐん 国 こく で支持 しじ されていた[4] 。
日本 にっぽん 海軍 かいぐん でも、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 時 どき の日本海 にほんかい 海戦 かいせん で大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう と「艦隊 かんたい 決戦 けっせん 」を至上 しじょう とする考 かんが え方 かた が確立 かくりつ された(海戦 かいせん 要務 ようむ 令 れい )。その後 ご も大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 後半 こうはん 期 き まで軍令 ぐんれい ・戦術 せんじゅつ 上 うえ の主流 しゅりゅう となった。長駆 ちょうく 侵攻 しんこう してくる敵 てき 艦隊 かんたい を全力 ぜんりょく で迎撃 げいげき ・撃退 げきたい するのが基本 きほん 方針 ほうしん であり、その際 さい の主役 しゅやく は戦艦 せんかん とされ、航空 こうくう 母艦 ぼかん ・巡洋艦 じゅんようかん ・駆逐 くちく 艦 かん などは脇役 わきやく に過 す ぎないという思想 しそう があった。[要 よう 出典 しゅってん ]
大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ の進展 しんてん は、方位 ほうい 盤 ばん をはじめとする射撃 しゃげき 管制 かんせい 装置 そうち の発達 はったつ とも関連 かんれん している。射程 しゃてい の長 なが い砲 ほう があっても、遠距離 えんきょり で敵艦 てきかん に命中 めいちゅう させられる技術 ぎじゅつ がなければ無意味 むいみ だからである。
「ドレッドノート 」が画期的 かっきてき だったのは、多数 たすう の主砲 しゅほう の射撃 しゃげき 管制 かんせい を可能 かのう とする射 い 法 ほう の完成 かんせい あってのことである。1940年 ねん 頃 ころ まで各国 かっこく の戦艦 せんかん は光学 こうがく 式 しき 測 はか 距儀 と方位 ほうい 盤 ばん 射撃 しゃげき を用 もち いた射撃 しゃげき 管制 かんせい 装置 そうち を主用 しゅよう していた。しかし米 べい 英 えい では1941年 ねん 以降 いこう レーダー の実用 じつよう 化 か により、着弾 ちゃくだん 観測 かんそく については光学 こうがく 式 しき 測 はか 距儀よりもレーダーを使用 しよう した電 でん 測 はか 射撃 しゃげき に移行 いこう していった。これに対 たい し、日 にち 独 どく は米 べい 英 えい に電子 でんし 兵 へい 装 そう で格段 かくだん に後 おく れを取 と り、電 でん 測 はか 測 はか 距と併用 へいよう したものの、光学 こうがく 式 しき 測 はか 距儀を最後 さいご まで実戦 じっせん で主用 しゅよう した。なお、フランスはすぐに敗戦 はいせん したため、射撃 しゃげき 用 よう レーダーを搭載 とうさい したもののその効果 こうか は不明 ふめい である。イタリアは終戦 しゅうせん 時 じ まで対空 たいくう 見張 みは り用 よう レーダーのみだった。光学 こうがく 式 しき の測 はか 距はとくに遠距離 えんきょり 射撃 しゃげき では誤差 ごさ が大 おお きく、近距離 きんきょり でも夜間 やかん 、曇天 どんてん 、悪天候 あくてんこう などで視界 しかい の悪 わる い時 とき にレーダー管制 かんせい に劣 おと っていた。そのため、水上 みずかみ 艦艇 かんてい 同士 どうし の戦闘 せんとう において電 でん 測 はか 射撃 しゃげき が行 おこな えることはかなり優位 ゆうい だった。ただ、初期 しょき の射撃 しゃげき 用 よう レーダーは測 はか 距性能 せいのう は充実 じゅうじつ していたものの方位 ほうい 探知 たんち 角 かく が不足 ふそく しており、時 とき には光学 こうがく 観測 かんそく 射撃 しゃげき に後 おく れを取 と ることもあった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
他国 たこく より大型 おおがた の戦艦 せんかん に巨大 きょだい な主砲 しゅほう を搭載 とうさい するという、文字 もじ どおりの大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ は1936年 ねん のワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく 明 あ け後 ご には終焉 しゅうえん を迎 むか え、前代 ぜんだい と同 どう 程度 ていど 、あるいはやや小型 こがた 化 か した主砲 しゅほう の採用 さいよう 例 れい が多 おお くなった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1916年 ねん に生起 せいき したユトランド沖 おき 海戦 かいせん において、イギリスとドイツが弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん ・超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん を含 ふく む艦隊 かんたい で衝突 しょうとつ し、長距離 ちょうきょり 砲撃 ほうげき 戦 せん の重要 じゅうよう 性 せい が再 さい 認識 にんしき されたことで各国 かっこく の大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ は一層 いっそう 強 つよ まり[5] 、速力 そくりょく と防御 ぼうぎょ 力 りょく の向上 こうじょう を追求 ついきゅう したポスト・ジュットランド艦 かん (高速 こうそく 戦艦 せんかん )が建造 けんぞう されたが、必然 ひつぜん 的 てき に排水 はいすい 量 りょう も増 ふ えてしまい主砲 しゅほう 口径 こうけい の増大 ぞうだい を諦 あきら めざるを得 え なかった為 ため である。
この反省 はんせい から、速力 そくりょく ・防御 ぼうぎょ 力 りょく のバランス が戦艦 せんかん の設計 せっけい で重要 じゅうよう 視 し されるようになった。これまでの戦艦 せんかん は速度 そくど を、巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん は防御 ぼうぎょ 力 りょく を妥協 だきょう して排水 はいすい 量 りょう を抑 おさ えていたが、そのような設計 せっけい の問題 もんだい 点 てん が明 あき らかになった。
そして、航空機 こうくうき の発達 はったつ により第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に航空機 こうくうき の優位 ゆうい が確立 かくりつ 、航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 論 ろん の台頭 たいとう が戦艦 せんかん 時代 じだい の終 お わりを告 つ げることとなった。
アメリカで計画 けいかく されていた、大和 やまと 型 がた 戦艦 せんかん (72,800t 45口径 こうけい 46cm 9門 もん )と同等 どうとう のモンタナ級 きゅう 戦艦 せんかん (71,922t 50口径 こうけい 16インチ砲 ほう 12門 もん )全 ぜん 5隻 せき が1943年 ねん に建造 けんぞう 中止 ちゅうし されたことをもって戦艦 せんかん は終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
その後 ご 竣工 しゅんこう したアイオワ級 きゅう 戦艦 せんかん やヴァンガード やジャン・バール などはそれ以前 いぜん に起工 きこう したものであり、以後 いご 戦艦 せんかん の新造 しんぞう は行 おこな われていない。
大砲 たいほう 技術 ぎじゅつ が発達 はったつ し艦 かん 砲 ほう で撃沈 げきちん が可能 かのう になると、舷側 げんそく に穴 あな を空 あ けて多数 たすう の艦 かん 砲 ほう を並 なら べると被害 ひがい を受 う けやすくなった。
そのため砲 ほう 数 すう を減 へ らし、1門 もん あたりの威力 いりょく を高 たか め、敵艦 てきかん 砲 ほう に耐 た える装甲 そうこう を施 ほどこ すこととなり、装甲 そうこう 艦 かん の時代 じだい となった。技術 ぎじゅつ 開発 かいはつ が進 すす み、砲 ほう の大 おお きさ(口径 こうけい ・口径 こうけい 長 ちょう )が威力 いりょく と比例 ひれい するようになった。戦列 せんれつ 艦 かん から装甲 そうこう 艦 かん への移行 いこう 期 き には小型 こがた 化 か が見 み られたものの、大砲 たいほう ・動力 どうりょく ・造船 ぞうせん 技術 ぎじゅつ の進歩 しんぽ にしたがって軍艦 ぐんかん は巨大 きょだい 化 か していった。そして木製 もくせい 艦 かん 体 たい に装甲 そうこう を施 ほどこ した装甲 そうこう 艦 かん から、艦 かん 体 たい 自体 じたい を鉄鋼 てっこう 製 せい とした艦 かん へと移行 いこう 、大型 おおがた の艦 かん 体 たい と搭載 とうさい 砲 ほう を持 も つ戦艦 せんかん と、小型 こがた の偵察 ていさつ などを目的 もくてき とする巡洋艦 じゅんようかん へと分岐 ぶんき した。
近代 きんだい 戦艦 せんかん の始祖 しそ とされるのはロイヤル・サブリン級 きゅう 戦艦 せんかん である。なお、1895年 ねん から順次 じゅんじ 竣工 しゅんこう したマジェスティック級 きゅう 戦艦 せんかん が、30.5 cm砲 ほう 4門 もん の主砲 しゅほう を搭載 とうさい 、そしてその砲 ほう の威力 いりょく に対応 たいおう する装甲 そうこう を持 も つ、前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん の基本形 きほんけい を確立 かくりつ した。しばらくは各国 かっこく ともこの様式 ようしき で戦艦 せんかん を建造 けんぞう したが、1906年 ねん にイギリス で完成 かんせい した「ドレッドノート 」によって主砲 しゅほう 4門 もん の枠 わく が外 はず された。この艦 かん は従来 じゅうらい の戦艦 せんかん に比 くら べて飛躍 ひやく 的 てき に向上 こうじょう した攻撃 こうげき 力 りょく と機動 きどう 力 りょく を有 ゆう し、建造 けんぞう 中 ちゅう の戦艦 せんかん をも一気 いっき に旧式 きゅうしき にするほどの衝撃 しょうげき を与 あた えた。そのためこれ以後 いご 世界 せかい の海軍 かいぐん は「ドレッドノート」を基準 きじゅん とし、これらを弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん と称 しょう する。
「ネルソン 」の16インチ砲 ほう
そして超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん によって、30.5 cmという主砲 しゅほう 口径 こうけい の枠 わく も外 はず され、戦艦 せんかん の攻撃 こうげき 力 りょく は主砲 しゅほう の大 おお きさで決 き まる時代 じだい となった。
敵艦 てきかん より大 おお きな主砲 しゅほう を備 そな え、敵 てき 弾 だん に耐 た えられる厚 あつ い装甲 そうこう を備 そな えた戦艦 せんかん が海戦 かいせん では有利 ゆうり である。その結果 けっか 、戦艦 せんかん とそれに搭載 とうさい される主砲 しゅほう は急速 きゅうそく に巨大 きょだい 化 か し、また数量 すうりょう で他国 たこく に負 ま けないために大量 たいりょう 建造 けんぞう が行 おこな われた。コストパフォーマンス その他 た の理由 りゆう によって、前代 ぜんだい より排水 はいすい 量 りょう ・主砲 しゅほう が小型 こがた 化 か する場合 ばあい もあった巡洋艦 じゅんようかん とは対照 たいしょう 的 てき に、戦艦 せんかん はひたすら大型 おおがた 化 か の一途 いっと をたどった。日 にち 英 えい 独 どく は戦艦 せんかん と同 おな じ巨 きょ 砲 ほう を持 も つ巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん も建造 けんぞう し、中 なか には大和 やまと 型 がた の25年 ねん も前 まえ に世界 せかい 初 はつ の18インチ砲 ほう 搭載 とうさい 艦 かん となった「フューリアス 」などがある。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のジェットランド海戦 かいせん でイギリスとドイツが弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん ・超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん を含 ふく む艦隊 かんたい で衝突 しょうとつ し、砲撃 ほうげき 戦 せん の重要 じゅうよう 性 せい が再 さい 認識 にんしき されたことで各国 かっこく の大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ は一層 いっそう 強 つよ まり[5] 、日本 にっぽん では、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の1906年 ねん から1920年代 ねんだい までは戦艦 せんかん が海軍 かいぐん 力 りょく の主力 しゅりょく として最 さい 重要 じゅうよう 視 し され、列強 れっきょう 各国 かっこく は巨 きょ 砲 ほう を装備 そうび した新鋭 しんえい 戦艦 せんかん の建造 けんぞう 競争 きょうそう を展開 てんかい 。
「主力 しゅりょく 艦 かん 」たる戦艦 せんかん 部隊 ぶたい 同士 どうし の砲撃 ほうげき 戦 せん によって海戦 かいせん ひいては戦争 せんそう そのものの勝敗 しょうはい が決 き まるとされ、巡洋艦 じゅんようかん や駆逐 くちく 艦 かん などの戦艦 せんかん 以外 いがい の艦艇 かんてい は主力 しゅりょく 艦 かん の「補助 ほじょ 艦 かん 」とされた。戦艦 せんかん を保有 ほゆう できない中小 ちゅうしょう 国 こく の海軍 かいぐん でも、限定 げんてい 的 てき な航続 こうぞく 距離 きょり ・速力 そくりょく の海防 かいぼう 戦艦 せんかん と呼 よ ばれる艦 かん を建造 けんぞう し、戦艦 せんかん に近 ちか い能力 のうりょく を持 も とうとした例 れい も多 おお く見 み られた。この時期 じき の戦艦 せんかん は大戦 たいせん 後 ご の核兵器 かくへいき と同様 どうよう の戦略 せんりゃく 兵器 へいき であり、他国 たこく より強力 きょうりょく な戦艦 せんかん は国威 こくい を示 しめ すものだった。
戦艦 せんかん の建造 けんぞう 競争 きょうそう は1921年 ねん のワシントン軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ におけるワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく 締結 ていけつ によりいったん中断 ちゅうだん (海軍 かいぐん 休日 きゅうじつ )したが、1937年 ねん にワシントン条約 じょうやく が失効 しっこう すると、建 けん 艦 かん 競争 きょうそう が再開 さいかい された。しかし、主砲 しゅほう を巨大 きょだい にする大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ は衰退 すいたい し、速力 そくりょく と防御 ぼうぎょ 力 りょく のバランスが重視 じゅうし され、主砲 しゅほう 口径 こうけい も従来 じゅうらい か従来 じゅうらい 以下 いか のサイズにとどまった。
また航空機 こうくうき と異 こと なり、当時 とうじ の技術 ぎじゅつ 力 りょく では地平線 ちへいせん という物理 ぶつり 的 てき 制約 せいやく により、戦艦 せんかん は単独 たんどく で数 すう 十 じゅう kmを超 こ える直接 ちょくせつ 観測 かんそく ・攻撃 こうげき 手段 しゅだん を持 も ちえなかった。
(例 れい ) 地球 ちきゅう の半径 はんけい をR (=6.37 ×106 m) 、観測 かんそく 地点 ちてん の水面 すいめん からの高 たか さをh (m) とした時 とき 、そこから観測 かんそく できる距離 きょり x (m) は三 さん 平方 へいほう の定理 ていり から
x 2 + R 2 = (R+h) 2
で求 もと められる。ここでh =50m とした時 とき 、h 2 はR 2 より極 きわ めて小 ちい さいので、
x = √ 2Rh +h 2 ≒ √ 2Rh
x ≒ √ 2Rh = √ 2×6.37×106 ×50 = √ 637 ×103 ≒ 25.2 ×103 (m)
このため、かつて想定 そうてい されていたような戦艦 せんかん 同士 どうし の砲撃 ほうげき 戦 せん はほとんど発生 はっせい せず、戦艦 せんかん の役割 やくわり はもっぱら対地 たいち 砲撃 ほうげき 、機動 きどう 部隊 ぶたい や輸送 ゆそう 船団 せんだん の護衛 ごえい 、あるいは通商 つうしょう 破壊 はかい などとなった。
1905年 ねん から1945年 ねん までに建造 けんぞう された戦艦 せんかん の排水 はいすい 量 りょう グラフ。軍艦 ぐんかん のサイズやパワーは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん をはさんで急速 きゅうそく に増大 ぞうだい した。多 おお くの海軍 かいぐん 国 こく による建 けん 艦 かん 競争 きょうそう は1922年 ねん のワシントン軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく でいったん終 お わりを迎 むか えたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が近 ちか づくにつれ再 ふたた び増加 ぞうか する
ワシントン条約 じょうやく 期間 きかん 中 ちゅう に建造 けんぞう されたフランス戦艦 せんかん ダンケルク級 きゅう (1937年 ねん 竣工 しゅんこう )以降 いこう 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ までの9年間 ねんかん に建造 けんぞう された戦艦 せんかん は27隻 せき だった。
そして、大戦 たいせん 中 ちゅう にアメリカのアイオワ級 きゅう 戦艦 せんかん が4隻 せき 就役 しゅうえき し、戦後 せんご に完成 かんせい したイギリスの「ヴァンガード 」とフランスの「ジャン・バール 」を最後 さいご に、新 あら たな戦艦 せんかん は建造 けんぞう されていない。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 直前 ちょくぜん (1941年 ねん )における日米 にちべい の超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん 所有 しょゆう 数 すう は以下 いか の通 とお り。
このうち金剛 こんごう 型 がた 、扶桑 ふそう 型 がた 、伊勢 いせ 型 がた 、長門 ながと 型 がた の10隻 せき は、1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )の軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく 発効 はっこう 前 まえ に建造 けんぞう された艦 かん 齢 よわい 20〜30年 ねん を超 こ える艦艇 かんてい である。
これら15隻 せき 全 すべ てが軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく 発効 はっこう 前 まえ に建造 けんぞう されたもので同様 どうよう に艦 かん 齢 よわい 20〜30年 ねん を超 こ える 。
ただし、米国 べいこく は開戦 かいせん 直前 ちょくぜん から以下 いか の超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん を建造 けんぞう しているため、大戦 たいせん 中 ちゅう の戦艦 せんかん 保有 ほゆう 数 すう は倍 ばい 以上 いじょう の総数 そうすう 27隻 せき に及 およ ぶ。
日本 にっぽん はワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく により、仮想 かそう 敵国 てきこく であった米国 べいこく と主力 しゅりょく 艦 かん の戦力 せんりょく に上記 じょうき のような大 おお きな量的 りょうてき ・質 しつ 的 てき 格差 かくさ があった こと、そしてパナマ運河 うんが を航行 こうこう するためにパナマックス より大 おお きい戦艦 せんかん を建造 けんぞう できないことを鑑 かんが みて、戦艦 せんかん 史上 しじょう 最大 さいだい の46センチ主砲 しゅほう の64,000t級 きゅう 大和 やまと 型 がた 戦艦 せんかん (「大和 やまと 」と「武蔵 むさし 」)を建造 けんぞう した[6] [7] [8] 。
大和 やまと 型 がた は6万 まん トンを超 こ す大艦 だいかん であり、45口径 こうけい 46cm砲 ほう という巨 きょ 砲 ほう を備 そな えた大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ の申 もう し子 ご だった。しかし、戦艦 せんかん との戦闘 せんとう では優位 ゆうい に立 た てたはずの大和 やまと 型 がた も航空機 こうくうき には勝 か てず、「大和 やまと 」「武蔵 むさし 」ともにアメリカ海軍 かいぐん 航空 こうくう 母 はは 艦載 かんさい 機 き の集中 しゅうちゅう 攻撃 こうげき を受 う けて沈没 ちんぼつ した。また連合 れんごう 国 こく ・枢軸 すうじく 国 こく を問 と わず、多数 たすう の戦艦 せんかん が航空機 こうくうき や潜水 せんすい 艦 かん の攻撃 こうげき で沈没 ちんぼつ した。
日本 にっぽん は大和 やまと 型 がた よりも大型 おおがた の51cm砲 ほう を積 つ む超 ちょう 大和 やまと 型 がた 戦艦 せんかん の建造 けんぞう を予定 よてい していたが戦中 せんちゅう に計画 けいかく を中止 ちゅうし している。また、米 べい 英 えい 仏 ふつ 独 どく ソも35,000トン級 きゅう を凌駕 りょうが する巨 きょ 大戦 たいせん 艦 かん の建造 けんぞう 計画 けいかく があったが、直後 ちょくご に始 はじ まった第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では海軍 かいぐん の主役 しゅやく の座 ざ は航空機 こうくうき に移 うつ った。
1941年 ねん 12月に太平洋戦争 たいへいようせんそう が勃発 ぼっぱつ し、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき などにおいて主役 しゅやく である戦艦 せんかん を出 だ す前 まえ の「露払 つゆはら い 」として考 かんが えられていた航空機 こうくうき が予想 よそう 以上 いじょう の戦果 せんか を産 う み、第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい (司令 しれい 官 かん 南雲 なぐも 忠一 ただかず 中将 ちゅうじょう )は地球 ちきゅう を半周 はんしゅう するほど縦横無尽 じゅうおうむじん の活躍 かつやく を見 み せた。それによって航空 こうくう 戦力 せんりょく の評価 ひょうか が高 たか まり、戦前 せんぜん から訴 うった えられていた航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 論 ろん が勢 いきお いを増 ま した[9] 。1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )4月 がつ 28日 にち および29日 にち 、大和 やまと で行 おこな われた第 だい 一 いち 段 だん 作戦 さくせん 研究 けんきゅう 会 かい で第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 航空 こうくう 参謀 さんぼう 源田 げんた 実 み 中佐 ちゅうさ は大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に執着 しゅうちゃく する軍部 ぐんぶ を「秦 はた の始皇帝 しこうてい は阿房宮 あぼうきゅう を造 つく り、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は戦艦 せんかん 『大和 やまと 』をつくり、共 とも に笑 わら いを後世 こうせい に残 のこ した」と批判 ひはん して一切 いっさい を航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい に切 き り替 か えるように訴 うった えた[10] 。第 だい 二 に 艦隊 かんたい 砲術 ほうじゅつ 参謀 さんぼう 藤田 ふじた 正路 まさじ は、大和 やまと の主砲 しゅほう 射撃 しゃげき を見 み て1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )5月 がつ 11日 にち の日誌 にっし に「すでに戦艦 せんかん は有用 ゆうよう なる兵種 へいしゅ にあらず、今 いま 重 おも んぜられるはただ従来 じゅうらい の惰性 だせい 。偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい 的 てき 信仰 しんこう を得 え つつある」と残 のこ した[9] 。
海軍 かいぐん はそれでも大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ を捨 す て切 き れなかったが、ミッドウェー海戦 かいせん での第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい の壊滅 かいめつ により、思想 しそう 転換 てんかん は不十分 ふじゅうぶん だが航空 こうくう 戦力 せんりょく の価値 かち が偉大 いだい と認 みと めて航空 こうくう 優先 ゆうせん の戦備 せんび 方針 ほうしん を決定 けってい する。しかし、方針 ほうしん 、戦備 せんび 計画 けいかく のみで施策 しさく 、実施 じっし などまで徹底 てってい 出来 でき なかった。
国力 こくりょく ・工業 こうぎょう 力 ちから ともに不十分 ふじゅうぶん な日本 にっぽん では航空機 こうくうき と戦艦 せんかん の両立 りょうりつ は無理 むり であり、艦艇 かんてい 整備 せいび を抑 おさ える必要 ひつよう があったが被弾 ひだん した艦艇 かんてい の修復 しゅうふく などが増大 ぞうだい しそこまで行 おこな うことができなかった。第 だい 三 さん 艦隊 かんたい は航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい に変更 へんこう されたが、第 だい 一 いち 艦隊 かんたい 、第 だい 二 に 艦隊 かんたい は従来 じゅうらい のままで、第 だい 三 さん 艦隊 かんたい で制空権 せいくうけん を獲得 かくとく してから戦艦 せんかん 主 ぬし 兵 へい の戦闘 せんとう を行 おこな う考 かんが えのままだった[11] 。
対 たい する米国 べいこく は、空母 くうぼ の有用 ゆうよう 性 せい を認識 にんしき しながらも戦前 せんぜん から計画 けいかく していた超弩級 ちょうどきゅう 戦艦 せんかん の建造 けんぞう を続 つづ けた。これは空母 くうぼ 機動 きどう 部隊 ぶたい において豊富 ほうふ な対 たい 艦 かん ・対空 たいくう 武装 ぶそう を持 も ち高速 こうそく な戦艦 せんかん を有力 ゆうりょく な空母 くうぼ 直 ちょく 掩艦として使用 しよう したかった事 こと と、上陸 じょうりく 戦 せん の前 まえ の敵 てき 陣地 じんち 破壊 はかい に艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を用 もち いる事 こと が有効 ゆうこう であったためである。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )、第 だい 三 さん 段 だん 作戦 さくせん 発令 はつれい において連合 れんごう 艦隊 かんたい 作戦 さくせん 要綱 ようこう を制定 せいてい し、航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい を目的 もくてき とした兵 へい 術 じゅつ 思想 しそう 統一 とういつ が行 おこな われた[12] 。1944年 ねん 2月 がつ に第 だい 一 いち 艦隊 かんたい が廃 はい され、翌月 よくげつ に第 だい 一 いち 機動 きどう 艦隊 かんたい が創設 そうせつ されたことにより、ようやく機動 きどう 部隊 ぶたい が最 さい 重要 じゅうよう 視 し されることとなった。
その機動 きどう 部隊 ぶたい と(陸上 りくじょう )基地 きち 航空 こうくう 兵力 へいりょく は、ギルバート・マーシャル諸島 しょとう の戦 たたか い 、マリアナ沖 おき 海戦 かいせん 、台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん など戦 そよ いで全 まった く戦果 せんか を挙 あ げることなく大 だい 打撃 だげき を受 う けた。レイテ沖 おき 海戦 かいせん に参加 さんか した小沢 おざわ 機動 きどう 部隊 ぶたい にもはや攻撃 こうげき 力 りょく はなく、囮 おとり 部隊 ぶたい として壊滅 かいめつ した。同 どう 作戦 さくせん でレイテ湾 わん に突入 とつにゅう するはずだった戦艦 せんかん 部隊 ぶたい は目的 もくてき を達 たっ しないまま反転 はんてん し、その過程 かてい で大和 やまと 型 がた 戦艦 せんかん 「武蔵 むさし 」が航空 こうくう 攻撃 こうげき によって撃沈 げきちん された。翌年 よくねん 4月 がつ には、沖縄 おきなわ に向 む かう大和 やまと がこれも航空 こうくう 攻撃 こうげき によって撃沈 げきちん され(坊ノ岬 ぼうのみさき 沖 おき 海戦 かいせん )、日本 にっぽん 海軍 かいぐん は大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう と航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 双方 そうほう がアメリカ海軍 かいぐん の航空 こうくう 主体 しゅたい の物量 ぶつりょう に敗 やぶ れる形 かたち で終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
なお、戦艦 せんかん が最後 さいご に実戦 じっせん で使 つか われたのは1991年 ねん の湾岸 わんがん 戦争 せんそう で、アイオワ級 きゅう 戦艦 せんかん 「ミズーリ 」と「ウィスコンシン 」が出撃 しゅつげき し無人 むじん 偵察 ていさつ 機 き による弾 たま 着 ぎ 観測 かんそく 射撃 しゃげき や巡航 じゅんこう ミサイル攻撃 こうげき を実施 じっし し、一定 いってい の戦果 せんか を挙 あ げている。
太平洋戦争 たいへいようせんそう において日本 にっぽん 海軍 かいぐん が米 べい 海軍 かいぐん と異 こと なり、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に拘束 こうそく され航空 こうくう 優位 ゆうい 思想 しそう に転換 てんかん できなかったという批判 ひはん があるが、米 べい 海軍 かいぐん の建造 けんぞう 数 すう を見 み れば判 わか る通 とお りこのような考 かんが えは完全 かんぜん に誤 あやま りである 。開戦 かいせん 直前 ちょくぜん まで艦 かん 歴 れき 20年 ねん を超 こ える戦艦 せんかん 10隻 せき しか擁 よう さない日本 にっぽん 海軍 かいぐん は大和 やまと 型 がた 2隻 せき の建造 けんぞう を行 おこな ったにすぎないが、これに対 たい して1940年 ねん 時点 じてん で米 べい 海軍 かいぐん はノースカロライナ級 きゅう 戦艦 せんかん 2隻 せき ・サウスダコタ級 きゅう 戦艦 せんかん 4隻 せき ・アイオワ級 きゅう 戦艦 せんかん 4隻 せき 、計 けい 10隻 せき の建造 けんぞう を開始 かいし しており、この動向 どうこう および各 かく 艦 かん の性能 せいのう は日本 にっぽん 側 がわ も把握 はあく していた[13] 。
また、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ や航空 こうくう 優位 ゆうい 思想 しそう の意味 いみ は多義 たぎ 的 てき なもので検証 けんしょう に耐 た えるものではなく、決戦 けっせん に備 そな えて戦艦 せんかん を使用 しよう しなかったという語 かた りも、事実 じじつ は、あるいは使用 しよう されあるいは使用 しよう されようとしあるいは戦艦 せんかん としては見捨 みす てられて使用 しよう されなかったのであり、機動 きどう 部隊 ぶたい の建 けん 制 せい 化 か も重要 じゅうよう な意味 いみ を持 も たない上 うえ に、アメリカ海軍 かいぐん が高速 こうそく 空母 くうぼ 部隊 ぶたい を創設 そうせつ した時期 じき は日本 にっぽん 海軍 かいぐん も連合 れんごう 機動 きどう 部隊 ぶたい の発令 はつれい をした時期 じき であり、この批判 ひはん はイデオロギー であるとする意見 いけん もある[14] 。
戦後 せんご 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん の砲術 ほうじゅつ 出身 しゅっしん の大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ 者 しゃ は次 つぎ のように語 かた っている。
福留 ふくとめ 繁 しげる 中将 ちゅうじょう は「多年 たねん 戦艦 せんかん 中心 ちゅうしん の艦隊 かんたい 訓練 くんれん に没頭 ぼっとう してきた私 わたし の頭 あたま は転換 てんかん できず、南雲 なぐも 機動 きどう 部隊 ぶたい が真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき に偉効 いこう を奏 そう したのちもなお、機動 きどう 部隊 ぶたい は補助 ほじょ 作業 さぎょう に任 にん ずべきもので、決戦 けっせん 兵力 へいりょく は依然 いぜん 、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう を中心 ちゅうしん とすべきものと考 かんが えていた」と反省 はんせい を語 かた っている[15] 。
黛 まゆずみ 治夫 はるお 大佐 たいさ は、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう が航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい に敗 やぶ れた戦後 せんご になってもなお、戦前 せんぜん の想定 そうてい どおり、砲撃 ほうげき 主体 しゅたい の艦隊 かんたい 決戦 けっせん を挑 いど むべきだったと生涯 しょうがい 主張 しゅちょう し続 つづ けた[16] 。
戦後 せんご 、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に反対 はんたい していた日本 にっぽん 海軍 かいぐん の航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 論者 ろんしゃ たちは次 つぎ のように語 かた っている。
源田 げんた 実 み 大佐 たいさ は、海軍 かいぐん が大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ から航空 こうくう へ切 き り替 か えられなかったのは組織 そしき 改革 かいかく での犠牲 ぎせい を嫌 きら う職業 しょくぎょう 意識 いしき の強 つよ さが原因 げんいん だったと指摘 してき する。「大砲 たいほう がなかったら自分 じぶん たちは失業 しつぎょう するしかない。多分 たぶん そういうことでしょう。兵 へい 術 じゅつ 思想 しそう を変 か えるということは、単 たん に兵器 へいき の構成 こうせい を変 か えるだけでなく、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に立 た って築 きず かれてきた組織 そしき を変 か えるとことになるわけですから。人情 にんじょう に脆 もろ くて波風 なみかぜ が立 た つのを嫌 きら う日本人 にっぽんじん の性格 せいかく では、なかなか難 むずか しいことです」と語 かた っている[17] 。
奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 中佐 ちゅうさ は、戦艦 せんかん 無用 むよう 論 ろん も含 ふく む航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 論 ろん は戦前 せんぜん 極端 きょくたん とも見 み られたが、太平洋戦争 たいへいようせんそう の経過 けいか がその見通 みとお しがほぼ正 ただ しかったことを証明 しょうめい したとして、とくに航空 こうくう 関係 かんけい 者 しゃ が嘆 なげ いていたのは、大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ の下 した で作 つく られる戦艦 せんかん の建造 けんぞう 費 ひ 、維持 いじ 費 ひ など莫大 ばくだい な経費 けいひ が浪費 ろうひ される割 わり にほぼ戦局 せんきょく に寄与 きよ しないことであり、それを航空 こうくう に回 まわ せばより強力 きょうりょく なものができると考 かんが えていたと語 かた っている[18] 。
^ 日本 にっぽん 史 し 広 こう 辞典 じてん 編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 編 へん 『日本 にっぽん 史 し 広 こう 辞典 じてん 』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1997年 ねん 10月 がつ 22日 にち 第 だい 一 いち 版 はん 第 だい 一 いち 刷 さつ 発行 はっこう ISBN 4-634-62010-3 、1281頁 ぺーじ 。
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^ Gardiner, Robert, ed., The Eclipse of the Big Gun: The Warship, 1906–45. Conway's History of the Ship , London: Conway Maritime Press, 30 May 1992. ISBN 0-85177-607-8 , p. 33.
^ 奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 『大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ の盛衰 せいすい 』まえがき
^ a b 歴史 れきし 博学 はくがく 倶楽部 くらぶ 『世界 せかい の軍艦 ぐんかん WWI/WWII篇 へん 』竹 たけ 書房 しょぼう 100頁 ぺーじ
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^ 日本 にっぽん 海軍 かいぐん はなぜ大和 やまと を建造 けんぞう したのか
^ 戦艦 せんかん 大和 やまと ~最後 さいご の戦 たたか い~
^ a b 戦史 せんし 叢書 そうしょ 95海軍 かいぐん 航空 こうくう 概 がい 史 し 268頁 ぺーじ
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^ 千早 ちはや 正隆 まさたか ほか『日本 にっぽん 海軍 かいぐん の功罪 こうざい 五 ご 人 にん の佐官 さかん が語 かた る歴史 れきし の教訓 きょうくん 』プレジデント社 しゃ 300頁 ぺーじ 、源田 げんた 實 み 『海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい 、発進 はっしん 』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 185頁 ぺーじ
^ 奥宮 おくのみや 正武 まさたけ 『大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ の盛衰 せいすい 』朝日 あさひ ソノラマ344-347頁 ぺーじ