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みなみ作戦さくせん

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みなみ作戦さくせん
戦争せんそうにちちゅう戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1941ねん昭和しょうわ16ねん1がつ - 2がつ
場所ばしょ中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく 河南かなんしょう南部なんぶ
結果けっか日本にっぽんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
園部そのべ和一郎かずいちろう そうひとしおんはく
戦力せんりょく
3師団しだん 2集団しゅうだんぐん
損害そんがい
軽微けいび実数じっすうしょう やく16,000

みなみ作戦さくせん(よなんさくせん)とは、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへんちゅう1941ねん1がつ20日はつかから2がつ12にちまでのあいだ河南かなんしょう南部なんぶおこなわれた日本にっぽんぐん作戦さくせんである。おんはく将軍しょうぐん指揮しきする中国ちゅうごくぐん部隊ぶたい接近せっきんしたため、日本にっぽんだい11ぐんがこれに先制せんせい攻撃こうげきをかけて撃破げきはしようとした。作戦さくせん秘匿ひとく名称めいしょうごう作戦さくせん。この戦闘せんとう中国ちゅうごくがわ呼称こしょうみなみ会戦かいせん[1]

背景はいけい[編集へんしゅう]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ2にち、10がつ中旬ちゅうじゅんから所在しょざいのつかめなかったおんはくぐんだい31集団しゅうだんぐん)がとげひらたこうじょう付近ふきん一帯いったいにいることが判明はんめいした。このおんはくぐんは、以前いぜんから江北こうほく長江ながえ北岸ほくがん)の戦線せんせん日本にっぽんぐん戦闘せんとうまじえ、前年ぜんねんむべあきら攻略こうりゃく日本にっぽんぐんだい一線いっせん対峙たいじしていたため、だい11ぐん宿敵しゅくてきともべる存在そんざいであった。日本にっぽんぐん判断はんだんでは、おんはくぐん安徽あんきしょう南部なんぶしんよんぐん討伐とうばつ企図きとして東進とうしんしたが[2]給養きゅうようのためにしばらくは現在地げんざいちまるとみられた。早速さっそくだい11ぐんでは、この好機こうき利用りようおんはくぐんたいして決戦けっせんもとめる作戦さくせんてられた。[3]

交戦こうせん兵力へいりょく[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくぐん[編集へんしゅう]

経過けいか[編集へんしゅう]

だい11ぐんは、この作戦さくせんじょう方面ほうめんたいする攻勢こうせいせかけるために、まず1がつ20日はつかとう荊門あんりく方面ほうめんかく部隊ぶたい独立どくりつ混成こんせいだい18旅団りょだんだい39師団しだんだい4師団しだん)に陽動ようどうをかけさせた。 それから1がつ24にちよるだい3師団しだんしん北側きたがわだい68軍陣ぐんじんきょうかんせん西側にしがわ)を急襲きゅうしゅうして一気いっき泌陽北方ほっぽう地区ちく突破とっぱすることをめいじた。これは、おんはくぐん主力しゅりょくさそして、西にしへの退路たいろ遮断しゃだんするためである。しかしだい68ぐん陣地じんち頑強がんきょう抵抗ていこうしたため、だい3師団しだんはその突破とっぱに1にちついやすことになった。

一方いっぽう、25にちあさからきょうかんせん東側ひがしがわだい17師団しだんだい40師団しだん戦車せんしゃたいきょうかんせん沿って北上ほくじょう開始かいしした。戦場せんじょう一帯いったい冬季とうきのため遮蔽しゃへいぶつがない平原へいげん地帯ちたいで、中国ちゅうごくぐん慣用かんようしている退避たいひ戦術せんじゅつたため、日本にっぽんぐんは26にち追撃ついげき開始かいしした。かく師団しだんはそれぞれ中国ちゅうごくぐん撃破げきはしながら目標もくひょう地点ちてん進出しんしゅつし、おんはくぐん四散しさんさせた。

1がつ30にちだい11ぐんおんはくぐん撃破げきは達成たっせいしたと判断はんだんしたが、まごれんなかぐんだい2集団しゅうだんぐん)がおんはくぐん救援きゅうえんのためにじょう方面ほうめんから北上ほくじょうしてきたため、だい3師団しだんに泌陽へかう準備じゅんびめいじた。よく31にち保安ほあん集結しゅうけつしているだい3師団しだんは、有線ゆうせん窃聴で中国ちゅうごくぐん南陽なんよう通信つうしん中枢ちゅうすうとしていることったため、だい11ぐん司令しれい南陽なんよう攻略こうりゃく許可きょかもとめた。ぐん司令しれいはこれを認可にんかしたので、だい3師団しだん2がつ1にち保安ほあん鎮を出発しゅっぱつだい59ぐん一部いちぶ撃破げきはして4にち南陽なんよう攻略こうりゃくした。だい17師団しだんだい68ぐん一部いちぶ撃破げきはし、そのかく部隊ぶたい反転はんてんして2がつ12にち作戦さくせん終了しゅうりょうした。

このあいだきたささえ方面ほうめんぐんではこの作戦さくせん策応さくおうして、だい35師団しだん騎兵きへいだい4旅団りょだん基幹きかん部隊ぶたいで、1がつ26にちからやく20日間にちかんにわたりしん黄河こうがせん中国ちゅうごくぐん圧迫あっぱくする作戦さくせんおこなった。[3]

結果けっか[編集へんしゅう]

この作戦さくせんにおいて交戦こうせんした中国ちゅうごくぐん兵力へいりょくやく95,000、あたえた損害そんがいやく16,000にたっしたとされ、たいして日本にっぽんぐん損害そんがい軽微けいびであった[4]。また、日本にっぽんぐん作戦さくせんあいだ軌条きじょうやく6せんほん穀類こくるい綿花めんか皮革ひかくなどやく1まんすうせんこりやく1,000トン)、屑鉄くずてつ150トンなどを収集しゅうしゅうして、1がつ20にちごろしんじ付近ふきん集積しゅうせき完了かんりょうさせた[5]

ささえ派遣はけんぐんそう司令しれいでは、昭和しょうわ16年度ねんど作戦さくせん方針ほうしんなかで「活発かっぱつみじかせつなる作戦さくせん」というしん構想こうそう強調きょうちょうしていた。みなみ作戦さくせんは、そのモデルケースとしてそう司令しれいからたか評価ひょうかされた。だい11ぐんはこの方針ほうしんもとづいて、麾下きかかく部隊ぶたいたんきり作戦さくせん励行れいこうと、夏秋なつあき予定よていされているだい規模きぼ作戦さくせんだいいち次長じちょうすな作戦さくせん)で最大さいだい威力いりょく発揮はっきするための教育きょういく訓練くんれん指示しじした。だい3師団しだんちょう豊嶋とよしま房太郎ふさたろう中将ちゅうじょうは、戦力せんりょく向上こうじょう目的もくてきとする訓練くんれん計画けいかくて、これが5月に訓練くんれん目的もくてきねて実行じっこうされる江北こうほく作戦さくせんとなる。[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ みなみみなみともに河南かなんしょう南部なんぶ
  2. ^ 東部とうぶだいせん敵情てきじょう要図ようずけん』。
  3. ^ a b ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)』353-355ぺーじ
  4. ^ a b ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)』355-356ぺーじ
  5. ^ 『「みなみ作戦さくせんあいだ蒐集しゅうしゅうおくものかんするけんでん』。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ 『ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)昭和しょうわじゅうろくねんじゅうがつまで』 あさくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1975ねん
  • 陸軍りくぐんしょう 『東部とうぶだいせん敵情てきじょう要図ようずけん』 アジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref.C04122687200
  • 陸軍りくぐんしょう 『「みなみ作戦さくせんあいだ蒐集しゅうしゅうおくものかんするけんでん』 アジア歴史れきし資料しりょうセンター、Ref.C04122813600

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]