(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中原会戦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

中原なかはら会戦かいせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
中原なかはら会戦かいせんひゃくごう作戦さくせん
戦争せんそうにちちゅう戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1941ねん昭和しょうわ16ねん5月7にち - 6月15にち
場所ばしょ山西さんせいしょう南部なんぶ河南かなんしょう北部ほくぶ
結果けっか日本にっぽんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
多田ただ駿しゅん まもるたて
戦力せんりょく
6師団しだん
2独立どくりつ混成こんせい旅団りょだん
1個いっこ騎兵きへい旅団りょだん
やく40,000にん
26
やく180,000にん
損害そんがい
戦死せんし:673にん
負傷ふしょう:2,292にん

戦死せんし傷者しょうしゃやく6,000にん~7,000にん[1] [2][3]

遺棄いき死体したいやく42,000にん
捕虜ほりょやく35,000にん

まもるたて報告ほうこく戦死せんし傷者しょうしゃ25,066にん行方ゆくえ不明ふめいしゃ21,611にん[4]

中原なかはら会戦かいせん(ちゅうげんかいせん)は、にちちゅう戦争せんそうなか1941ねん昭和しょうわ16ねん)5がつから6がつあいだ山西さんせいしょう南部なんぶおこなわれた日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐん戦闘せんとうである。きたささえ方面ほうめんぐん中国ちゅうごくだい1せんぐん包囲ほうい殲滅せんめつねらい、おおきな戦果せんかげた。ひゃくごう作戦さくせんともばれる。中国ちゅうごくがわ呼称こしょう中条ちゅうじょうさん戦役せんえき、またはすすむみなみ会戦かいせん

背景はいけい

[編集へんしゅう]

1940ねん昭和しょうわ15ねんあきごろだい1ぐん管内かんない山西さんせいしょう周辺しゅうへん)の敵情てきじょうについて、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐんはちぐん)はひゃくだん大戦たいせん日本にっぽんぐん討伐とうばつにより戦力せんりょく回復かいふくしておらず、また山西さんせいぐんだい2せんぐん)も戦力せんりょくひくいと判断はんだんしていた。そこでだい1ぐんは、依然いぜんとして山西さんせいしょう南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたい中条ちゅうじょう山脈さんみゃく)を拠点きょてんにしているまもるたて将軍しょうぐん指揮しき中央ちゅうおうぐんだい1せんぐん)を撃滅げきめつし、山西さんせい省内しょうない治安ちあんけん拡大かくだいするための作戦さくせん計画けいかくした。このだい1ぐん計画けいかくにはきたささえ方面ほうめんぐん全面ぜんめん同意どういし、ささえ派遣はけんぐんはその戦力せんりょく充実じゅうじつのために華中かちゅうからだい17、だい33師団しだんの2師団しだん転用てんようすることに決定けっていした[5]

1941ねん昭和しょうわ16ねん最初さいしょ攻撃こうげき目標もくひょう中共ちゅうきょうぐんではなく重慶たーちん政府せいふ指揮しき中国ちゅうごくぐんえらぶことについて、方面ほうめんぐんだい2は、中共ちゅうきょうぐん剿滅そうめつ優先ゆうせんするべきであると反対はんたいした。しかし、この中国ちゅうごくぐん警戒けいかいのために日本にっぽんぐんの3師団しだんけられていたので、まずこれを撃滅げきめつしてから全力ぜんりょくたい中共ちゅうきょうせんたるという方面ほうめんぐんだい1意見いけん優位ゆういめた。

きたささえ方面ほうめんぐんはこの会戦かいせんのために、だい1ぐん山西さんせいしょう方面ほうめんから、直轄ちょっかつだい21、だい35師団しだん河南かなんしょう方面ほうめんから攻撃こうげきさせるように準備じゅんびすすめ、作戦さくせん地域ちいき山西さんせい河南かなんしょうさかい付近ふきん計画けいかくした。まただい1ぐんは、事前じぜん準備じゅんびとして3がつに「りょうかわ作戦さくせん(リごう作戦さくせん)」、「だい15ぐん撃滅げきめつ作戦さくせん(ヨごう作戦さくせん)」をおこなってほん会戦かいせん有利ゆうり態勢たいせいととのえた。このように、日本にっぽんぐん徹底てっていした兵力へいりょく集中しゅうちゅう周到しゅうとう事前じぜん準備じゅんびでこの作戦さくせんのぞんだ。[6]

情報じょうほうせん(インテリジェンス)

[編集へんしゅう]

国民党こくみんとうぐんもちいていた暗号あんごう強度きょうどよわく、ほとんどの暗号あんごう日本にっぽんぐん解読かいどくされていた[7]。そのため、日本にっぽんぐん国民党こくみんとうぐん編成へんせい行動こうどう把握はあくし、つね機先きせんせいして行動こうどうすることができた[7]

さらに中原なかはら会戦かいせんにおいては、方面ほうめんぐん情報じょうほう事前じぜん様々さまざまにせ情報じょうほう中国ちゅうごくがわながして混乱こんらんさせる作戦さくせんった[8]混乱こんらんすれば通信つうしん使つかって連絡れんらくうため、さらにそれを傍受ぼうじゅすることを期待きたいしたのだ[8]にせ情報じょうほうながされると中国ちゅうごくぐん日本にっぽんぐん意図いとどお混乱こんらんし、その様子ようす情報じょうほう傍受ぼうじゅされた[8]中国ちゅうごくぐん内情ないじょう情報じょうほうから作戦さくせんへと伝達でんたつされ、日本にっぽんぐんはその情報じょうほうもと攻撃こうげき開始かいし[8]することとなる。

参加さんか兵力へいりょく

[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん

[編集へんしゅう]
中原なかはら会戦かいせん経過けいか概要がいよう - あか日本にっぽんぐん[9]あお中国ちゅうごくぐん

中国ちゅうごくぐん

[編集へんしゅう]
などけい26[10]やく18まんにん)の兵力へいりょく

経過けいか

[編集へんしゅう]

5月7にち夕刻ゆうこく中原なかはら会戦かいせん開始かいしされた。

西にし正面しょうめん攻撃こうげき担当たんとうするだい1ぐん主力しゅりょく一斉いっせい攻撃こうげき開始かいしし、けるように突破とっぱして黄河こうがせんまで南下なんか中国ちゅうごくぐん退路たいろとして重要じゅうよう渡河とかてんかききょくやく21あいだはん占領せんりょうした。そして、外側そとがわ包囲ほういけんだい37、だい41師団しだん)はやく35あいだ内側うちがわ包囲ほういけんだい36師団しだん独立どくりつ混成こんせいだい9旅団りょだん)はやく40あいだ完成かんせいして、9にち正午しょうごには地域ちいきない中国ちゅうごくぐん完全かんぜんじゅう包囲ほういした。そして南北なんぼくくしでけずるような掃討そうとうなん反復はんぷくし、6がつ10日とおかまでにかく部隊ぶたいはいたるところで3~5せんにん中国ちゅうごくぐん撃滅げきめつした。

ひがし正面しょうめんでは、だい33師団しだんじょうから、方面ほうめんぐん直轄ちょっかつだい35、だい21師団しだんはじめけんふところけいからそれぞれ進撃しんげきして地域ちいきない中国ちゅうごくぐん撃滅げきめつした。

りょうかわ付近ふきんにいた中国ちゅうごくぐんだい27ぐん西進せいしんしてだい93ぐん合流ごうりゅうしようとしたため、日本にっぽんぐんだい36師団しだん西にしから抽出ちゅうしゅつしてだい33師団しだんとともにこれを撃破げきはした。6月にはいると、だい93ぐん残存ざんそん部隊ぶたい北西ほくせい潰走かいそうしたため、その方面ほうめん警備けいびしていた独立どくりつ混成こんせいだい16旅団りょだん部隊ぶたいがこれにだい打撃だげきあたえた。[11]

結果けっか

[編集へんしゅう]

6月15にち日本にっぽんぐんは「赫々かくかくたる戦果せんか」をおさめて中原なかはら会戦かいせん終了しゅうりょうした。その戦果せんか事変じへん期間きかんつうじてまれにおおきさで、中国ちゅうごくぐんあたえた損害そんがい遺棄いき死体したいやく42,000、捕虜ほりょやく35,000めいかぞえたとされる[12]日本にっぽんぐん損害そんがい戦死せんし673めい負傷ふしょう2,292めいであった。こうして所期しょきのとおり戦果せんかげることができたため、きたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん多田ただ駿しゅん中将ちゅうじょう麾下きかかく兵団へいだんたいして、今後こんご活発かっぱつ討伐とうばつ作戦さくせん政務せいむ工作こうさく治安ちあん工作こうさく)によって、徹底てっていした剿共(共産きょうさんぐん剿滅そうめつ)を実施じっしすることをつよ要望ようぼうした。

しかし、中原なかはら会戦かいせんによってこの地域ちいき安定あんてい勢力せいりょくであった中国ちゅうごくぐん国民こくみん政府せいふぐん)が一掃いっそうされると、それにわって中共ちゅうきょう勢力せいりょく次第しだい浸透しんとうし、日本にっぽんぐん施策しさく適当てきとうでなかったためもあり治安ちあんかえって悪化あっかすることとなった。中条ちゅうじょう山脈さんみゃく拠点きょてんとしていた中国ちゅうごくぐんゲリラてき活動かつどうは、実際じっさいには共産きょうさん勢力せいりょく比較ひかくするときわめて低調ていちょうであった。こうして、根拠地こんきょちうしなった国民こくみん政府せいふぐんのあとへ、をうかがっていた共産きょうさんぐんただちに勢力せいりょく浸透しんとうさせて根拠地こんきょち確立かくりつさせることができた。これによって、華北かほくにおけるゆうげきせん共産きょうさんぐん独占どくせんしたものとなった。[13]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 「JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C13070307400、きたささえ方面ほうめんぐん戦時せんじ月報げっぽう (後方こうほう関係かんけい)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」
  2. ^ 「JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C13070306200、きたささえ方面ほうめんぐん戦時せんじ月報げっぽう (後方こうほう関係かんけい)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」
  3. ^ JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C07092284000、りくささえ受大日記にっきひろし別冊べっさつ 昭和しょうわ16ねんがつ~5がつ (昭和しょうわ16ねんがつ27にち 東京とうきょう参謀さんぼうちょう会議かいぎさいし きたささえ方面ほうめんぐん状況じょうきょう報告ほうこく)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」
  4. ^ 國史こくしかん檔案史料しりょう文物ぶんぶつ查詢系統けいとうまもるたて煌電蔣中正ちゅうせい中條ちゅうじょうさん戰役せんえき人馬じんば武器ぶき損失そんしつじょうがたてんぞうごう:002-080200-00296-013
  5. ^ だい33師団しだんだい1ぐん配属はいぞくし、だい17師団しだんだい12ぐん配属はいぞくしてだい21師団しだん警備けいび交代こうたいさせ、だい21師団しだんきたささえ方面ほうめんぐん直轄ちょっかつとして作戦さくせん参加さんか
  6. ^ ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)昭和しょうわじゅうろくねんじゅうがつまで』 369-370ぺーじ
  7. ^ a b 小谷おたにけん日本にっぽんぐんのインテリジェンス なぜ情報じょうほうかされないのか』 (講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ)P34
  8. ^ a b c d 小谷おたにけん日本にっぽんぐんのインテリジェンス なぜ情報じょうほうかされないのか』 (講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ)P146 記述きじゅつ原典げんてんは「特殊とくしゅ情報じょうほう回想かいそう
  9. ^ この西にし正面しょうめん配置はいち右翼うよく西側にしがわ)からどくこんだい16旅団りょだんだい37師団しだんだい36師団しだんどくこんだい9旅団りょだんだい41師団しだんとなるのが正確せいかく
  10. ^ 中国ちゅうごくぐんの「」は師団しだん相当そうとう1個いっこ兵力へいりょく平均へいきんやく7,000にん
  11. ^ ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)昭和しょうわじゅうろくねんじゅうがつまで』 370-372ぺーじ
  12. ^ ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)昭和しょうわじゅうろくねんじゅうがつまで』 368-369ぺーじ
  13. ^ ささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(3)昭和しょうわじゅうろくねんじゅうがつまで』 372ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]