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ソ連それん空軍くうぐん志願しがんたい

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つばさ青天白日せいてんはくじつマークをったI-16戦闘せんとう。I-16は中国ちゅうごく空軍くうぐんソ連それん志願しがんたい主力しゅりょく戦闘せんとうとして使用しようされた。

ソ連それん空軍くうぐん志願しがんたい中国ちゅうごく: 苏联そら军志すなお)とは、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへんちゅう1937ねんから1941ねんまでのあいだ中華民国ちゅうかみんこく支援しえんしたソビエト空軍くうぐん義勇ぎゆう部隊ぶたいである。ソ連それんたいちゅう軍事ぐんじ援助えんじょ一環いっかんとして、軍用ぐんよう供給きょうきゅうとともにソ連それん空軍くうぐん部隊ぶたい名目めいもくてき義勇ぎゆうへいとして派遣はけんされた。ソ連それん義勇ぎゆう飛行ひこうたい(―航空こうくう志願しがんたい援華航空こうくうたい)などとも。中国ちゅうごくでは「正義せいぎけん」としょうされた[1]

概要がいよう

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1937ねん昭和しょうわ12ねん)7がつにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)が勃発ぼっぱつし、中国ちゅうごく空軍くうぐん初期しょき日本にっぽんぐんとの戦闘せんとうおおきな損害そんがいけていた。8月21にちちゅう不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつされたことにより、ソビエト連邦れんぽうから中国ちゅうごくへの軍事ぐんじ経済けいざいてき援助えんじょ可能かのうとなった。9月14にち国民こくみん政府せいふソ連それん政府せいふたいして飛行機ひこうきなどの武器ぶき供給きょうきゅうソ連それん空軍くうぐん作戦さくせん部隊ぶたい派遣はけん要請ようせいした。ソ連それん政府せいふ積極せっきょくてき決定けっていおこない、ぐんないから優良ゆうりょう人員じんいん選定せんていして戦闘せんとう大隊だいたいポリカルポフ I-16戦闘せんとう31人員じんいん101にん)と爆撃ばくげき大隊だいたいツポレフSBばくげき31人員じんいん153にん)が編成へんせいされることとなった[2]義勇ぎゆうへいたちは、ザバイカルぐん管区かんく周辺しゅうへんぐん管区かんく航空こうくうたい太平洋艦隊たいへいようかんたいだい9、だい32独立どくりつ戦闘せんとう大隊だいたいなどから選抜せんばつ、あるいは部隊ぶたいごと派遣はけんされた[3]かれらは形式けいしきじょう義勇ぎゆうへいとされていたが、自主じしゅてき志願しがんではなく、特質とくしつによる選抜せんばつ指名しめいされていた[4]。なお、この派遣はけん任務にんむZZet作戦さくせんばれた[5]

10月21にちから11がつまでに、だいじん義勇ぎゆうパイロット・地上ちじょう勤務きんむいん建築けんちく技師ぎしなど447にんと、飛行機ひこうき225戦闘せんとう155、中型ちゅうがた爆撃ばくげき62、練習れんしゅう8[6][7])がアルマ・アタからしん経由けいゆして中国ちゅうごく到着とうちゃくした。ソ連それんせい航空機こうくうき中国ちゅうごく空軍くうぐんにも供与きょうよされ、 中国ちゅうごくぐんパイロットは甘粛かんせいしょうあららぎしゅう基地きちソ連それん志願しがんたいからI-16の戦闘せんとう教練きょうれんけた。また、成都せいとろう河口かこうには飛行ひこう学校がっこう開設かいせつされ、ソ連それんじん顧問こもん直接ちょくせつ指導しどうした[8]。1ヶ月かげつあいだ訓練くんれんえたちゅうソ連それんあい航空こうくうたいは、12月上旬じょうじゅん南京なんきん防衛ぼうえいせんはつ参戦さんせんしている。

1938ねん1がつ26にち南京なんきん爆撃ばくげきした中国ちゅうごく空軍くうぐんの1撃墜げきついされ、べつの1不時着ふじちゃくした。両機りょうきともソ連それんじんパイロットにより操縦そうじゅうされていたことがわかり、ソ連それん義勇ぎゆう部隊ぶたい参戦さんせんしているという事実じじつはじめてあかるみに[9]ちゅう両国りょうこくとも軍事ぐんじ援助えんじょについておおやけには宣伝せんでんしなかった)。4月4にち重光しげみつまもるちゅう大使たいしはこの義勇ぎゆう飛行ひこうへいについてソ連それん外務省がいむしょうおとずれて抗議こうぎした。マクシム・リトヴィノフ外相がいしょう軍人ぐんじん派遣はけん否定ひていし、「ささえ事変じへん」を戦争せんそうあつかっていない日本にっぽんのクレームは理解りかい出来できないとしてわなかった[10]

ソ連それん空軍くうぐん志願しがんたいは、スペイン内戦ないせんで15撃墜げきつい記録きろくパーヴェル・ルィチャゴフ少将しょうしょうなどが指揮しきっている[11]ソ連それん義勇ぎゆうへいたちは、派遣はけん期間きかんを6ヶ月かげつ以内いないとする交代こうたいせい(ローテーション)となっていた[11]派遣はけん部隊ぶたいだい1じん(1937ねん11月から翌年よくねん2がつまで)は士気しきひく戦闘せんとう消極しょうきょくてきだったため、空軍くうぐん顧問こもんシェンノート中国人ちゅうごくじんからの評価ひょうかひくかった。一方いっぽうだい2じん日本にっぽんぐんはげしくたたかっているが、中国ちゅうごくがわからは素行そこう乱暴らんぼうだとられることもあった。しかし中国ちゅうごく奥地おくち基地きちうつしてからは、なか・ソりょう部隊ぶたい関係かんけいだい1,2じんくらべて良好りょうこうになり、うまく協同きょうどう作戦さくせんがとれるようになっていった[12]

1956ねん武漢ぶかんかんこう解放かいほう公園こうえん建立こんりゅうされたソ連それん空軍くうぐん志願しがんたい烈士れっし

1939ねんすえごろから、中国ちゅうごくソ連それん関係かんけい悪化あっかはじめた。戦線せんせん膠着こうちゃくによるにちちゅう戦争せんそう長期ちょうき国民こくみん政府せいふ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの摩擦まさつ国民党こくみんとうない反共はんきょうグループの存在そんざいなどにより、ソ連それん国民党こくみんとうたいして不信ふしんかんつのらせた。さらに、どく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつ以後いご中国ちゅうごく抗日こうにちせん支援しえんする意義いぎうすれたこともあり、1940ねん中頃なかごろから兵器へいき供給きょうきゅう減少げんしょうししつつあった。とはいえ、中国ちゅうごく航空機こうくうき不足ふそくくるしんでいた1940ねん11月25にちから41ねん6がつ1にちまで、ソ連それん戦闘せんとうばくげき250供給きょうきゅうした。1941ねん6がつどくせん勃発ぼっぱつすると、中国ちゅうごく援助えんじょする余裕よゆうくなったソ連それん支援しえん終結しゅうけつ宣言せんげん徐々じょじょげていたソ連それん空軍くうぐん志願しがんたい完全かんぜん撤収てっしゅうした[13][14]

ソ連それんせい航空機こうくうきは1937ねん10がつから39ねん9がつまでに985、1941ねんまでに1,250中国ちゅうごくおくられた[3]供給きょうきゅうされた航空機こうくうき中国ちゅうごく空軍くうぐんソ連それん志願しがんたい使用しようされ、ソ連それんじん部隊ぶたいげるさいにその使用しよう中国ちゅうごくがわわたされた。1938ねんから40ねん5がつまでの統計とうけいによれば、ソ連それん志願しがんたいやく50かい以上いじょう戦闘せんとう参加さんかし、日本にっぽん撃墜げきつい81地上ちじょう破壊はかい114艦艇かんてい14せき中国ちゅうごく空軍くうぐんとの共同きょうどう)などの戦果せんかおさめたとされる。飛行ひこう技術ぎじゅつしゃやく2,000にん[15]中国ちゅうごく派遣はけんされ、200めい以上いじょういのちとした[16]

戦歴せんれき

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緒戦しょせん台湾たいわんばくげき

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1937ねん12月1にち訓練くんれんえたちゅうソ連それんあい航空こうくうたいI-16戦闘せんとう23SBばくげき20南京なんきん飛行場ひこうじょう到着とうちゃくし、南京なんきん防衛ぼうえいせんはじめて戦闘せんとう参加さんかした。プロコフィエフの指揮しきする戦闘せんとうたい日本にっぽんぐんばくげき2戦闘せんとう1撃墜げきついしたとされ[3]ばくげきたい長江ながえ日本にっぽん艦隊かんたい日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきした。しかし南京なんきん日本にっぽんぐんせまり、ちゅう航空こうくうたいは9にち南京なんきんはなれた[17]。このたたかいでは、南京なんきんうしなったことやソ連それんがわ士気しきひくかったことから、ちゅう両国りょうこく要員よういんたがいに責任せきにん転嫁てんかする場面ばめんがみられたとされる[18]。そのちゅうソ連それんあい航空こうくうたい武漢ぶかんみなみあきら基地きちうつし、防空ぼうくう戦闘せんとう日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょうへのばくげきおこなった。

1938ねん2がつから4がつにかけては、河南かなんしょう洛陽らくようかえりとく付近ふきん展開てんかいするI-15bis戦闘せんとう主力しゅりょくソ連それん志願しがんたいと、日本にっぽん陸軍りくぐん飛行ひこうだい2大隊だいたいきゅうしき戦闘せんとう)が交戦こうせんした。このときには中国ちゅうごく空軍くうぐん少数しょうすうだったため、実質じっしつてきには日本にっぽん陸軍りくぐんソ連それん空軍くうぐんによる空戦くうせんとなった[19]。 4がつ上旬じょうじゅんたいそうたたかでは、ばくげきたいえきはし破壊はかいして日本にっぽんぐん増援ぞうえん部隊ぶたい来援らいえん阻止そししている[20]

1938ねん2がつ23にちソ連それん赤軍せきぐん記念きねん)、フョードル・ポルィーニンロシアばん大尉たいい指揮しきするなか混成こんせいのSB爆撃ばくげきたい(28)はみなみあきら基地きち発進はっしんして台湾たいわん海峡かいきょうえ、台北たいぺい松山まつやま飛行場ひこうじょうへのばくげき敢行かんこうした。松山まつやま飛行場ひこうじょう事変じへん勃発ぼっぱつ以来いらい日本にっぽん海軍かいぐん爆撃ばくげきによる渡洋とよう爆撃ばくげき拠点きょてんであった。SBたい奇襲きしゅう攻撃こうげきするため、グライダーした無音むおん状態じょうたい高空こうくうからばくだん投下とうかした。日本にっぽんぐん迎撃げいげきはなく、編隊へんたいみなみあきら帰投きとうした[21]中国ちゅうごくがわ発表はっぴょうによれば、地上ちじょう日本にっぽん40破壊はかい航空こうくう燃料ねんりょう3ねんぶんのストックが焼却しょうきゃくされたとしている[22]日本にっぽん海軍かいぐん発表はっぴょうでは、飛行場ひこうじょう被害ひがい少数しょうすう住民じゅうみん犠牲ぎせいになったとしている[23]

武漢ぶかんみなみあきらたたか

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かんこう飛行場ひこうじょうソ連それんじん飛行ひこうらとSBばくげき

日本にっぽんぐんは、1938ねん6がつからはじまる武漢ぶかん攻略こうりゃく作戦さくせん先立さきだち、かんこうへのばくげき企図きとした。4がつ29にち天長節てんちょうせつ)、日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくうたいの45だいじゅう航空こうくうたい小園こぞのやすしめい少佐しょうさひきいるきゅうろくかんせん27、およびだいじゅうさん航空こうくうたいたのまちせい少佐しょうさひきいるきゅうろくりくおさむ18[24])が奇襲きしゅうねらい、別々べつべつ経路けいろからかんこう飛来ひらいした。しかし地上ちじょう監視かんし哨に察知さっちされ、ちゅう戦闘せんとうたいの60離陸りりくしていたため奇襲きしゅうにはならなかった。空域くういき彼我ひが100ちか航空機こうくうきみだれてのだい混戦こんせんとなった。この結果けっか日本にっぽん海軍かいぐんは51撃墜げきつい、4喪失そうしつ発表はっぴょうした(これは天長節てんちょうせつのために修正しゅうせいされた戦果せんかであるとされる)。一方いっぽうなかがわ記録きろくは、撃墜げきつい21戦闘せんとう13・ばくげき8)、撃墜げきつい9となっている[25][26]

武漢ぶかん会戦かいせんちゅうには、長江ながえ沿いに進撃しんげきしてくる日本にっぽんぐん地上ちじょう部隊ぶたいや、長江ちょうこうじょう艦船かんせん襲撃しゅうげきした。しかし南京なんきん武漢ぶかん中間ちゅうかんにあるあんけい占領せんりょうされ、駝龍わん飛行場ひこうじょう新設しんせつされる[27]と、日本にっぽんぐん戦闘せんとうざいそら時間じかんながくなり、制空権せいくうけん日本にっぽんがわうつっていった。10月以降いこう戦力せんりょく損耗そんこうしたなか航空こうくうたい戦闘せんとうけるようになり、10月25にち武漢ぶかん陥落かんらくした[28][29]。また、2がつから8がつまでのあいだソ連それんじん飛行ひこう15にん犠牲ぎせいとなっている[1]

みなみあきらには青雲せいうんろう営房の新旧しんきゅう2つの飛行場ひこうじょうみなみあきら製造せいぞうしょう(イタリア企業きぎょうとの合弁ごうべん1934ねん設立せつりつ)があり、中国ちゅうごく空軍くうぐん重要じゅうよう基地きちであった。日本にっぽんぐん武漢ぶかんとともに、2がつから8がつごろまでみなみあきらへの攻撃こうげきかえした。5・6がつ攻撃こうげきでは多数たすう地上ちじょう破壊はかいされ、ちゅうソ連それんあい航空こうくうたい武漢ぶかんみなみあきらから奥地おくちきあげた。みなみあきらよく1939ねん3がつ日本にっぽんぐんによって占領せんりょうされた[28]

奥地おくち移転いてんたたか

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かんこうみなみあきらうしなったちゅうソ連それんあい航空こうくうたいは、中国ちゅうごく奥地おくち四川しせんしょう重慶たーちん成都せいとやなさん)や甘粛かんせいしょうあららぎしゅう)へ基地きちうつした。航続こうぞく距離きょりみじか日本にっぽんぐん戦闘せんとうきゅうろくしきせんきゅうななしきせん)では、このような奥地おくちまでは侵入しんにゅうできなかった。また、初歩しょほてき早期そうき警戒けいかいもうつくられ、これまでのように不意打ふいうちをけることはなくなった[30]1939ねん以降いこう日本にっぽんぐん中国ちゅうごく奥地おくちへのばくげき強化きょうかした。1939ねん2がつ日本にっぽん陸軍りくぐんたいちゅう軍事ぐんじ援助えんじょ中枢ちゅうすう基地きちであるあららぎしゅう爆撃ばくげきしきじゅう爆撃ばくげき投入とうにゅうしたが、ちゅうソ連それんあい航空こうくうたい迎撃げいげきによって5かい出撃しゅつげきでそのほとんどの機体きたい消耗しょうもうしてしまった[31]

10月3にち、クリシェンコ(G.A.Kulishenko)のひきいる9DB-3ばくげきが、かんこう飛行場ひこうじょう奇襲きしゅう爆撃ばくげきした(日本にっぽんがわはSBと認識にんしき)。飛行場ひこうじょうへの被害ひがいはわずかであったが、いちだんだいいち連合れんごう航空こうくうたい幹部かんぶあつまっているところ落下らっかしたため、塚原つかはらよんさん司令しれいかん重傷じゅうしょううなど人員じんいんおおくが死傷ししょうした。10月14にちには、ふたたかんこう基地きちへのばくげきおこなわれ、飛行場ひこうじょうかれていた50~60破壊はかいされるという被害ひがいけた(かんこう空襲くうしゅう[32][33]

同年どうねん12がつ日本にっぽんぐん援蒋ルートふつしるしルート)を遮断しゃだんするため広西ひろせしょうみなみやすし占領せんりょうし、奥地おくち補給ほきゅう爆撃ばくげきするための基地きち設置せっちした。みなみやすし奪回だっかい攻勢こうせいおこな中国ちゅうごくぐん地上ちじょう部隊ぶたい援護えんごするためちゅうソ連それんあい航空こうくうたい出撃しゅつげきし、広西ひろせしょう南部なんぶはげしい空中くうちゅうせんおこなわれた。これらのたたかいで中国ちゅうごく空軍くうぐん戦力せんりょく消耗しょうもうしたため、1940ねん以降いこうソ連それん志願しがんたい中国ちゅうごく空軍くうぐんへの協力きょうりょく四川しせん防空ぼうくう主要しゅよう任務にんむとなった。5月から9がつまで日本にっぽんぐん重慶たーちん成都せいと爆撃ばくげきし(ひゃくいちごう作戦さくせん)、ちゅう航空こうくうたい迎撃げいげきせんで16撃墜げきついしたとしている[34]

40ねんあき日本にっぽん海軍かいぐん最新さいしんがたれいしき艦上かんじょう戦闘せんとう投入とうにゅうし、重慶たーちんばくげきおこななかおさむたい護衛ごえい使用しようしていた。9月13にち、13れいせん中国ちゅうごく空軍くうぐんのI-152、I-16けい27たたかい、中国ちゅうごくがわ惨敗ざんぱいきっした。その中国ちゅうごくソ連それんからI-153戦闘せんとうを93おくられたがれいせんてきではなく、被害ひがい増大ぞうだいした。こうして中国ちゅうごく空軍くうぐん戦闘せんとうけざるをなくなった。れいせん登場とうじょうソ連それん支援しえん終結しゅうけつ中国ちゅうごく空軍くうぐんに「暗黒あんこく時代じだい」をもたらした[35]

おも人物じんぶつ

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このほかニコライ・アレクセーエフロシアばんパーヴェル・ポスペーロフロシアばんミハイル・マロフロシアばんイヴァン・コブィレツキーロシアばんステパン・ガイダレンコロシアばんヴァシーリー・ズヴェーレフロシアばんシドル・スリュサレフロシアばんオレスト・ボロフコフロシアばんマルク・マルチェンコフロシアばんエヴゲニー・ニコラエンコロシアばんゲオルギー・コーネフロシアばんアレクサンドル・コンドラチュクロシアばんフェドト・オルロフロシアばんニコライ・ズープロシアばんイヴァン・スーホフロシアばんなど

使用しよう機種きしゅ

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南京なんきん日本にっぽんぐん鹵獲ろかくされたI-16

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 前田まえだ、88-89ぺーじ
  2. ^ 菊池きくち、170ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g だい2大戦たいせん 世界せかい戦闘せんとうたい』、130-131ぺーじ
  4. ^ スラヴィンスキー、130-131ぺーじ
  5. ^ http://surfcity.kund.dalnet.se/sino-japanese-1937.htm
  6. ^ スラヴィンスキー、127 ぺーじ
  7. ^ このほか大型おおがた爆撃ばくげき6
  8. ^ 菊池きくち、174-175ぺーじ
  9. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそうへのみち だい4かん にちちゅう戦争せんそう 』、324ぺーじ
  10. ^ スラヴィンスキー、134 ぺーじ
  11. ^ a b 飯山いいやま、133ぺーじ
  12. ^ 中山なかやま、311,317-318,344ぺーじ
  13. ^ スラヴィンスキー、209-210ぺーじ
  14. ^ 駒村こまむら、124-124ぺーじ
  15. ^ 中国ちゅうごく派遣はけんされたソ連それん軍人ぐんじんは1939ねん2がつなかばまでに3,665めいで、そのおおくが空軍くうぐん将兵しょうへい
  16. ^ 菊池きくち、181-182ぺーじ
  17. ^ 菊池きくち、174ぺーじ
  18. ^ 飯山いいやま、130ぺーじ
  19. ^ 中山なかやま、322ぺーじ
  20. ^ 菊池きくち、71ぺーじ
  21. ^ 中山なかやま、320ぺーじ
  22. ^ スラヴィンスキー、132ぺーじ
  23. ^ 内閣ないかく情報じょうほう週報しゅうほう だい73ごうアジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06031023500、画像がぞう16 。
  24. ^ 戦史せんし叢書そうしょ 中国ちゅうごく方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2> 昭和しょうわ13ねん4がつ以降いこう』p.68
  25. ^ 中山なかやま、334-336ぺーじ
  26. ^ 飯山いいやま、131-132 ぺーじ
  27. ^ 交通こうつう运输” (中国ちゅうごく). やす庆市人民じんみん政府せいふ. 2017ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  28. ^ a b 菊池きくち、175-177ぺーじ
  29. ^ 萩原はぎはら、8ぺーじ
  30. ^ 中山なかやま、348-349ぺーじ
  31. ^ 中山なかやま、349-350ぺーじ
  32. ^ http://surfcity.kund.dalnet.se/sino-japanese-1939.htm
  33. ^ 巌谷いわや二三男ふみお雷撃らいげきたい出撃しゅつげきせよ! 海軍かいぐんちゅうおさむたい栄光えいこう悲劇ひげき文集ぶんしゅう文庫ぶんこ、2003ねん。116-117ぺーじ
  34. ^ 菊池きくち、178ぺーじ
  35. ^ 菊池きくち、179-180ぺーじ
  36. ^ Курдюмов Василий Михеевич”. КРАСНЫЕ СОКОЛЫ. 2018ねん12月1にち閲覧えつらん
  37. ^ Шименас Альфонс Иосифович”. КРАСНЫЕ СОКОЛЫ. 2018ねん12月1にち閲覧えつらん
  38. ^ Грисенко Александр Иванович
  39. ^ はたいくあきらくらのノモンハン戦史せんし』PHP研究所けんきゅうじょ、2014ねん、p321
  40. ^ Чернобуров Александр Николаевич”. КРАСНЫЕ СОКОЛЫ. 2018ねん12月1にち閲覧えつらん
  41. ^ Герой Советского Союза Клевцов Василий Ильич :: Герои страны”. 2018ねん12月1にち閲覧えつらん
  42. ^ “クリシェンコ――そらたかかみのようなタカ”. 中国ちゅうごくもう. http://japanese.china.org.cn/japanese/169998.htm 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 菊池きくち一隆かずたか中国ちゅうごく抗日こうにち軍事ぐんじ 1937-1945』有志ゆうししゃ、2009ねんISBN 978-4-903426-21-1 
  • ボリス・スラヴィンスキー(ちょ)、加藤かとう幸廣ゆきひろわけ)『にち戦争せんそうへのみち:ノモンハンから千島ちしま占領せんりょうまで』 共同通信社きょうどうつうしんしゃ、1999ねんISBN 4764104288
  • 中山なかやま雅洋まさひろ中国ちゅうごくてき天空てんくううえ沈黙ちんもく航空こうくう戦史せんしだい日本にっぽん絵画かいが、2007ねんISBN 978-4-499-22944-9 
  • はたいく / 航空こうくう情報じょうほう編集へんしゅうだい2大戦たいせん 世界せかい戦闘せんとうたい』― づけ・エース列伝れつでんたけなわとうしゃ、1987ねんISBN 978-4873570105
  • 飯山いいやま幸伸ゆきのぶ『ソビエト航空こうくうせんられざる航空こうくう大国たいこく全貌ぜんぼう光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2003ねんISBN 978-4769823964 
  • 日本にっぽん国際こくさい政治せいじ学会がっかい 太平洋戦争たいへいようせんそう原因げんいん研究けんきゅうへん) 『太平洋戦争たいへいようせんそうへのみち だい4かん にちちゅう戦争せんそう 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1963ねん
  • 前田まえだ哲男てつお 『戦略せんりゃくばくげき思想しそう―ゲルニカ・重慶たーちん広島ひろしま』(しんていばん) 凱風社がいふうしゃ 、2006ねんISBN 4773630094
  • 駒村こまむらあきらちゅう不可侵ふかしん条約じょうやくソ連それんたい中国ちゅうごく軍事ぐんじ援助えんじょ』 HERMES-IR
  • 萩原はぎはらたかしにちちゅう戦争せんそう中国ちゅうごく空軍くうぐんにちたい交流こうりゅうセンター、2004ねん

外部がいぶリンク

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