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ふとげん作戦さくせん

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ふとしはらたたかから転送てんそう
ふとげん作戦さくせん
AntiJapaneseWar taiyuan
ふとしはらえき前線ぜんせんおもむ中国ちゅうごくぐん(1937ねん10がつ撮影さつえい)
戦争せんそうにちちゅう戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1937ねん昭和しょうわ12ねん9月下旬げじゅん-11月8にち
場所ばしょ山西さんせいしょう北部ほくぶふとしはら周辺しゅうへん
結果けっか日本にっぽんぐん勝利しょうりふとしはら占領せんりょう
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国 寺内てらうち寿一ひさいち
大日本帝国 板垣いたがき征四郎せいしろう
中華民国 閻錫やま(山西さんせい)
中華民国 まもるたて
しゅいさお(9がつ下旬げじゅん以降いこう
戦力せんりょく
2師団しだん+ 6集団しゅうだんぐん
損害そんがい
死傷ししょう:11,000にん以上いじょう 死傷ししょうやく10まんにん[1]

ふとげん作戦さくせん(たいげんさくせん)とは、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへんちゅう1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつから11がつまでのあいだ日本にっぽんきたささえ方面ほうめんぐんおよ関東軍かんとうぐん部隊ぶたいによっておこなわれた、山西さんせいしょうふとしはらへの進攻しんこう作戦さくせんである。ふとげん攻略こうりゃくせん山西さんせい作戦さくせん(さんせいさくせん)などともばれる。中国ちゅうごくがわ呼称こしょうふとげん会戦かいせん

背景はいけい

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1937ねん昭和しょうわ12ねん)の盧溝橋ろこうきょう事件じけん日本にっぽんぐんきたささえ方面ほうめんぐん主力しゅりょくひらかんせん津浦つのうらせん南下なんか作戦さくせん側面そくめん援護えんごするため、8がつ中旬ちゅうじゅんからだい5師団しだん関東軍かんとうぐんによる察哈なんじ作戦さくせん開始かいしした。9月中旬ちゅうじゅん大同だいどう付近ふきんうち長城ちょうじょうせんそと)を占領せんりょうして作戦さくせん一段落いちだんらくすると、方面ほうめんぐん司令しれいこうれいだい5師団しだんたいし、河北かほくしょうじょう転進てんしんしてひらかんせん沿いの作戦さくせん参加さんかするよう命令めいれいした[2]

方面ほうめんぐん催促さいそくにもかかわらず、だい5師団しだんはすぐに転進てんしんしようとはしなかった。このとき閻錫やま山西さんせいぐんだい2せんぐん)はうち長城ちょうじょうせん沿いに集結しゅうけつして防御ぼうぎょ陣地じんち強化きょうかちゅうであった。だい5師団しだんちょう板垣いたがき征四郎せいしろう中将ちゅうじょうは、このてきぐん攻撃こうげきして長城ちょうじょう突破とっぱし、中国ちゅうごくぐん主力しゅりょく打撃だげきあたえて転進てんしん容易よういにしようと決心けっしんしていた[2]参謀さんぼう本部ほんぶ方面ほうめんぐんでは、山西さんせいしょう攻略こうりゃくするかかについて意見いけんかれていたが、だい5師団しだんとの連絡れんらく途切とぎれがちで、師団しだん実情じつじょうがはっきりわからなかった[3]。また、中央ちゅうおう関東軍かんとうぐん部隊ぶたいをこれ以上いじょう前進ぜんしんさせるつもりはなかったが、だい5師団しだん同調どうちょうしている関東軍かんとうぐん察哈なんじ(チャハル)派遣はけん兵団へいだんちょう東條とうじょう英機ひでき中将ちゅうじょう[4])は積極せっきょくてきうちこうむ山西さんせい攻略こうりゃくしようとしていた[5]

9月19にち板垣いたがき中将ちゅうじょうきたささえにおいてはおおむね綏遠ふとしはらいしそうすみみなみ青島ちんたおせんめ、ここにつつめごうする資源しげん獲得かくとくし、そこにいちおく民衆みんしゅう同僚どうりょうとしてしんきたささえ政権せいけん結成けっせいするをとす」という意見いけんを、私信ししんとして多田ただ駿しゅん参謀さんぼう次長じちょう)・石原いしはら莞爾かんじ参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん部長ぶちょう)・寺内てらうち寿一ひさいちきたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん)の3にん発信はっしんした[3]参謀さんぼう本部ほんぶでは、山西さんせい作戦さくせん有利ゆうりかんがえる武藤むとうあきら作戦さくせん課長かちょうが、不拡大ふかくだい作戦さくせん難色なんしょくしめ石原いしはら多田ただ説得せっとくした[6]板垣いたがきとの関係かんけい密接みっせつである石原いしはら部長ぶちょうは、滅多めった手紙てがみかない板垣いたがきからの熱心ねっしん意見いけんうごかされた、と後年こうねん回想かいそうしている[7]参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせんでは、板垣いたがき意見いけんした地域ちいき占領せんりょう確保かくほするかんがえにかためようとしていた[6]

上海しゃんはい戦線せんせんだい規模きぼ増援ぞうえん派遣はけんする事態じたいとなって、石原いしはら作戦さくせん部長ぶちょう辞表じひょう提出ていしゅつした。不拡大ふかくだい石原いしはら辞任じにんした3にちふとしげん攻略こうりゃく大命たいめい参謀さんぼう本部ほんぶからくだされることとなった(10月1にち[7]一方いっぽうきたささえ方面ほうめんぐん司令しれいでもだい1山西さんせい作戦さくせん要望ようぼうしていたが、だい5師団しだん転進てんしんさせるという寺内てらうち軍司ぐんじれいかんかんがえはわらなかった。ところが10がつ1にち参謀さんぼう総長そうちょうから突如とつじょとしてふとしげん攻略こうりゃく命令めいれい受領じゅりょうしたため、すでに長城ちょうじょうたいらがたせき突破とっぱしていただい5師団しだんたいふとしげん攻略こうりゃく作戦さくせん準備じゅんびめいじた[6][8]

参加さんか兵力へいりょく

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日本にっぽんぐん

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中国ちゅうごくぐん

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山西さんせいぐん中央ちゅうおうぐん四川しせんぐんなど20以上いじょう兵力へいりょく中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐんはちぐんやく4~5まん山西さんせいしょう北部ほくぶゆうげきせん実施じっし

経過けいか

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たいらがたせきたたか

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戦利せんりひんかかげるはちぐんだい115兵士へいし

9月21にちだい5師団しだんちょう板垣いたがき中将ちゅうじょう歩兵ほへいだい21旅団りょだん三浦みうら支隊したい)にたいして、れいからだい営鎮かって追撃ついげきするよう命令めいれいした。22にちだい営鎮へかう三浦みうら支隊したい歩兵ほへい3大隊だいたい基幹きかん)は、たいらがたせき現在げんざいれいおかけんしろがけだいきょうしげる峙県よこ澗郷の境界きょうかい付近ふきんにあるとうげ。)をまえにして中国ちゅうごくぐんはげしい抵抗ていこう遭遇そうぐう戦況せんきょう容易ようい進展しんてんしなかった[2]だい2せん司令しれい長官ちょうかん閻錫やまたいらがたせきかりもんせき神池かみいけむす長城ちょうじょうせんだい6集団しゅうだんぐん司令しれい楊愛げん)、だい7集団しゅうだんぐん司令しれいでんつくるよし)などの部隊ぶたい配置はいちして抵抗ていこうめいじていた[10][11]。その兵力へいりょくはおよそ6~7まんで、たいらがたせきではだい6集団しゅうだんぐん日本にっぽんぐん迎撃げいげきした[10]

9がつ中旬ちゅうじゅん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう国共こっきょう合作がっさく協議きょうぎもとづきだい18集団しゅうだんぐんはちぐん)を山西さんせいしょうりさせ、だい2せん作戦さくせん協力きょうりょくした。だい115師長もろながはやしぴょう)は日本にっぽんぐん後方こうほう襲撃しゅうげきするためたいらがたせき以東いとう迂回うかいして潜伏せんぷくした。9月25にち増援ぞうえんひきいてきたでんさく指揮しきのもと、たいらがたせき正面しょうめん中国ちゅうごくぐんじんぜん逆襲ぎゃくしゅうおこない、三浦みうら支隊したい包囲ほういされた。これに呼応こおうして出撃しゅつげきしただい115は、しょう寒村かんそんせきみぞむらあいだだい5師団しだん輜重しちょう部隊ぶたい攻撃こうげきした。襲撃しゅうげきされたのは兵站へいたん自動車じどうしゃ中隊ちゅうたい前線ぜんせんかられい邱へ帰還きかんちゅう)と歩兵ほへいだい21連隊れんたいだい行李こうり前線ぜんせん前進ぜんしんちゅう)で、山間さんかん隘路あいろべつ地点ちてんでほぼ同時どうじ全滅ぜんめつ状態じょうたいとなった[12]死者ししゃやく150にん負傷ふしょうしゃやく40にんだった[13]中国共産党ちゅうごくきょうさんとうは、日本にっぽんぐん1まんにんあまり(のちせんにんあまり)を殲滅せんめつしたと発表はっぴょう[14]、これが抗日こうにち戦争せんそうはじめての勝利しょうりであると宣伝せんでんした[12]。そのこのには迂回うかい包囲ほうい作戦さくせん成功せいこう記念きねんした建築けんちくぶつてられ反日はんにちプロパガンダ利用りようされている。

補給ほきゅう部隊ぶたい全滅ぜんめつしたこともあり、三浦みうら支隊したいでは弾薬だんやくそこいていた。兵士へいしたちの戦闘せんとう手段しゅだんは、鹵獲ろかくした手榴弾しゅりゅうだん投石とうせき白兵はくへい格闘かくとうだった[15]どう9がつ25にちだい5師団しだん三浦みうら支隊したい危機ききてき状況じょうきょうおちいっていることをると、歩兵ほへいだい42連隊れんたいたいらがたせき急行きゅうこうさせた。また、歩兵ほへいだい21連隊れんたい主力しゅりょくきたからたいらがたせき背後はいご進出しんしゅつしようとしていたが、三浦みうら旅団りょだん苦戦くせんり28にち旅団りょだん主力しゅりょく合流ごうりゅうした。一方いっぽう関東軍かんとうぐんは、9月22にち十川そがわ支隊したいたいらがた関方せきがためんかわせだい5師団しだん協力きょうりょくさせた。2つの連隊れんたい掌握しょうあくした歩兵ほへいだい21旅団りょだん三浦みうら支隊したい)は、29にちから一斉いっせい攻撃こうげき実施じっし十川そがわ支隊したいもこれに協力きょうりょくした。しかしこの攻撃こうげき成功せいこうしなかった[16]

そのころ、関東軍かんとうぐん部隊ぶたいは「だい5師団しだんたいらがたせき突破とっぱだい営鎮を占領せんりょうし、しげるかって西進せいしんちゅう」という情報じょうほう誤報ごほう)をて、混成こんせいだい15旅団りょだん混成こんせいだい2旅団りょだん中国ちゅうごくぐん退路たいろ遮断しゃだんのためしげる峙へかわせた。ところが長城ちょうじょうせん茹越こう堅陣けんじんにぶつかり、混成こんせいだい15旅団りょだんは9月27にちから攻撃こうげき開始かいし、29にち突破とっぱして急進きゅうしんしげる峙を占領せんりょうした[16]たいらがたせき正面しょうめん中国ちゅうごくぐん後方こうほう遮断しゃだんされ、9月30にちそう退却たいきゃく開始かいしした。しかし西方せいほうしげる方向ほうこうへは退却たいきゃくせず、おおくは南方なんぽう五台山ごだいさん方向ほうこう撤退てったいしたため、兵力へいりょくすくない混成こんせい旅団りょだん徹底的てっていてき打撃だげきあたえることはできなかった。この三浦みうら旅団りょだんだい営鎮に集結しゅうけつ戦力せんりょく回復かいふくつとめた。だい5師団しだん損害そんがい戦死せんし270余人よにん戦傷せんしょう800余人よにんだった[16][17][18]

忻口鎮のたたか

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10月2にちだい5師団しだんは「ふとしげん攻略こうりゃく」の命令めいれいきたささえ方面ほうめんぐんより受領じゅりょうした。このとき、だい5師団しだん歩兵ほへいだい9旅団りょだん国崎くにさき支隊したいとして上海しゃんはい方面ほうめん転出てんしゅつするためじょうかっており(歩兵ほへいだい11連隊れんたいたもててい到着とうちゃく鉄道てつどう大同だいどう輸送ゆそうされ師団しだん復帰ふっき)、師団しだん指揮しきにある歩兵ほへい戦力せんりょく歩兵ほへいだい21旅団りょだんだけだった。10月3にち整備せいびえた歩兵ほへいだい21旅団りょだんだい営鎮を出発しゅっぱつ、6にちだいけん集結しゅうけつした。10月4にち関東軍かんとうぐんしょ部隊ぶたい混成こんせいだい15旅団りょだんつつみ支隊したい)がだい5師団しだん指揮しきはいり、10月7にちにはかやしま支隊したいどう師団しだん配属はいぞくされた。当時とうじ板垣いたがき師団しだんちょう指揮しき兵力へいりょくは、歩兵ほへいやく16大隊だいたいで、火砲かほう山砲さんぽう21もん野砲やほう44もんじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほう20もんじゅうせんちめーとる榴弾りゅうだんほう8もんじゅうせんちめーとるのうほう2もんけい95もんだった[19][17]

独立どくりつ混成こんせいだい1旅団りょだん所属しょぞく村井むらい戦車せんしゃたいはらひらへの進出しんしゅつめいじられ、10月2にち長城ちょうじょう突破とっぱやすしたけ占領せんりょうした。10月4にち混成こんせいだい2旅団りょだんけんを、混成こんせいだい15旅団りょだんはらひら鎮を攻撃こうげきし、8にちけん10日とおかはらひら鎮をそれぞれ占領せんりょうした[19]村井むらい戦車せんしゃたいはらひら鎮やの忻口鎮(現在げんざい忻州忻府高城たかぎさと忻口むら付近ふきん)のたたかいに参加さんかしたが、中国ちゅうごくぐん対戦たいせんしゃほう3.7 cm PaK 36)を使用しようはじめ、地形ちけいじょう問題もんだいや、配属はいぞくさきだい5師団しだん機械きかい部隊ぶたい運用うんよう理解りかいであったこともあり、4にん中隊ちゅうたいちょうのうち2にん戦死せんし1人ひとり重傷じゅうしょううという損害そんがいけた[20]

中国ちゅうごくぐんは、ふとしげん防衛ぼうえいのためやく8まんにん兵力へいりょく日本にっぽんぐん判断はんだんではやく14)を忻口鎮に集結しゅうけつさせた。忻口鎮はふとしはらきた門戸もんことして、けわしい地形ちけい利用りよう堅固けんご防御ぼうぎょ陣地じんちもうけられていた。河北かほくしょうからだい14集団しゅうだんぐん(4はん)をひきいてきたまもるたてはこの防衛ぼうえいせんぜんてきそう指揮しきった。正面しょうめんだい14集団しゅうだんぐん防御ぼうぎょし、右翼うよくだい18集団しゅうだんぐん五台山ごだいさん依拠いきょして日本にっぽんぐん後方こうほうせん襲撃しゅうげき担当たんとう左翼さよくだい6集団しゅうだんぐんどうがません中国語ちゅうごくごばん西側にしがわ防御ぼうぎょした[21]


10月13にち日本にっぽんぐんは、混成こんせいだい15旅団りょだんつつみ支隊したい右翼うよくたいだい5師団しだん主力しゅりょく左翼さよくたいとして忻口鎮陣への攻撃こうげき開始かいしした。しかし戦況せんきょう進展しんてんせず、ついに膠着こうちゃく状態じょうたいおちいった。国崎くにさき支隊したい所属しょぞくする歩兵ほへいだい11連隊れんたいは、じょうかう途中とちゅう急遽きゅうきょ支隊したいはなれてかえし、列車れっしゃ北平きたひら大同だいどう経由けいゆして10がつ17にちだい5師団しだん復帰ふっきした。また、10月22にちには萱島かやしま支隊したい戦場せんじょう到着とうちゃくし24にちから攻撃こうげき再興さいこうしたが、だい一線いっせん陣地じんち若干じゃっかん突破とっぱしたのみでふたた膠着こうちゃく状態じょうたいとなってしまった。きたささえ方面ほうめんぐん余裕よゆう戦力せんりょくなかから、さらに独立どくりつ歩兵ほへいだい1連隊れんたいなどの兵力へいりょくだい5師団しだん方面ほうめんけた[19][22]

忻口鎮のたたかいは、11月3にち中国ちゅうごくぐんそう退却たいきゃくするまでの3週間しゅうかんにわたってひろげられ、山西さんせいしょう最大さいだい激戦げきせんとなった。このたたかいでのだい5師団しだん混成こんせいだい15旅団りょだんなどの配属はいぞく部隊ぶたいふくむ)の戦死せんししゃは1,651にん負傷ふしょうしゃ4,594にんだった。だい21旅団りょだんちょう三浦みうらさとしごと少将しょうしょう負傷ふしょう後送こうそうをはじめ、大隊だいたいちょう中隊ちゅうたいちょう以下いか将校しょうこう損害そんがい甚大じんだいであった[23]

むすめせきたたか

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せい太線ふとせん沿いのむすめせき周辺しゅうへんには、山西さんせいしょう東部とうぶ防衛ぼうえいせんとして、たいゆき山脈さんみゃくけわしい地形ちけい利用りようした半永久はんえいきゅう洞窟どうくつ陣地じんち幾重いくえにも構築こうちくされていた。日本にっぽんぐん判断はんだんでは、守備しゅびする中国ちゅうごくぐん兵力へいりょくやく13山西さんせいぐん中央ちゅうおうぐん四川しせんぐんまごれんなかぐん)とみられた[24]

ひらかんせん沿って南下なんかしてきただい1ぐんぐん司令しれいかん香月かつき清司せいじ中将ちゅうじょう)は、いしそう攻略こうりゃくさいだい20師団しだん一部いちぶたいばらけて追撃ついげきさせていたが、むすめせき付近ふきん激戦げきせんになった。10月19にちだい1ぐんだい20師団しだん全力ぜんりょく前面ぜんめんてき撃破げきはするよう命令めいれいし、だい109師団しだん一部いちぶむかし支隊したい)をみなみ並行へいこうしてむかしかわせた。むすめせき正面しょうめん抵抗ていこう頑強がんきょうで、10月26にちになっても突破とっぱすることができなかった。だい20師団しだん一部いちぶ手薄てうす左側ひだりがわから迂回うかいさせ、むすめせき背後はいご進出しんしゅつさせた。このため中国ちゅうごくぐん全面ぜんめんてき後退こうたい開始かいしし、追撃ついげきをおこなうだい20師団しだんは10月30にちいずみを、11月2にち寿ことぶきよう占領せんりょうした。むかし支隊したいは11月2にちむかし進出しんしゅつした[24]寿ことぶきようふとしはら東方とうほうやく50キロの地点ちてんで、日本にっぽんぐんひがしからたいばらせまったことで忻口鎮陣中国ちゅうごくぐん動揺どうようはじめた。そして11月3にち夕刻ゆうこく中国ちゅうごくぐんそう退却たいきゃくした[24][23]

忻口鎮やむすめせきでの苦戦くせんったきたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち大将たいしょうは、だい1ぐん司令しれいいしそう)をおとずれたさいに「元来がんらい山西さんせい進入しんにゅうしたことが、だいなる誤算ごさんであって、東條とうじょう板垣いたがき合作がっさくによって無謀むぼう前進ぜんしんし、ついに、かくのごと失態しったいを、かもした」といいはなったとされる[23]。ただ、寺内てらうち自身じしん不拡大ふかくだいというわけではなく、河北かほくしょうから南下なんかして山東さんとうしょう攻略こうりゃくし、黄河こうがせんじょしゅう)まで前進ぜんしんすることを希望きぼうしており、参謀さんぼう本部ほんぶ極力きょくりょくこれをおさえていた[25]

ふとしはら占領せんりょう

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忻口鎮の中国ちゅうごくぐん退却たいきゃくっただい5師団しだんは、一挙いっきょふとはらまでの追撃ついげき開始かいしした。11月4にち開城かいじょう鎮の陣地じんちせん突破とっぱよく5にちにはふとげん周辺しゅうへんだい一線いっせん陣地じんち突破とっぱしてふとしはらきた進出しんしゅつし、だい20師団しだんふとはら南東なんとうから接近せっきんした[26]だい2せんぜんてきそう指揮しきかんまもるたて煌は中国ちゅうごくぐん主力しゅりょくふとはら以南いなんへの撤退てったい命令めいれいでんつくるよし指揮しきするだい35ぐんふとはら守備しゅびした[27] 。11月4にちだい5師団しだんだい1ぐん配属はいぞくされたため、香月かつき軍司ぐんじれいかんは、だい5師団しだん名誉めいよのためどう師団しだんたいふとしはら攻略こうりゃくめいじた。

11月6にちだい5師団しだんふとし原城はらのじょう攻撃こうげき準備じゅんびするとともに、軍使ぐんし派遣はけんして開城かいじょう降伏ごうぶく勧告かんこくした。しかし城内じょうない守備しゅびぐん降伏ごうぶく拒絶きょぜつした。11月8にち午前ごぜん8だい5師団しだんそう攻撃こうげき開始かいし城内じょうない突入とつにゅうした。守備しゅびぐん頑強がんきょう抵抗ていこうはげしい市街しがいせん展開てんかいされた。でんさくはわずかにのこった守備しゅびぐん2,000にんひきいて包囲ほうい突破とっぱして撤退てったいよく11月9にちふとしはら陥落かんらくした。だい5、だい20師団しだん損害そんがい戦死せんし889めい戦傷せんしょう2,827めいだった。ふとげん攻略こうりゃくだい5師団しだんいしそうへの転進てんしんめいじられ、関東かんとうぐんからの派遣はけん部隊ぶたい復帰ふっきめいじられて帰還きかんした。このため、だい20師団しだん山西さんせいしょうのこることになった[26][21]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しゃよう、88ぺーじ
  2. ^ a b c 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、335-336ぺーじ
  3. ^ a b 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、338-339ぺーじ
  4. ^ 東條とうじょう英機ひでき中将ちゅうじょう関東軍かんとうぐん参謀さんぼうちょう)は、9月22にちしんきょう帰還きかんし、笠原かさはら幸雄ゆきお少将しょうしょうどう参謀さんぼう副長ふくちょう)に交代こうたい
  5. ^ 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、317-318ぺーじ
  6. ^ a b c 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、339-340ぺーじ
  7. ^ a b 森山もりやま、120-121ぺーじ
  8. ^ 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、369ぺーじ
  9. ^ 歩兵ほへいだい9旅団りょだん国崎くにさき支隊したいとして上海しゃんはい方面ほうめん転出てんしゅつするためじょうかっていた。
  10. ^ a b 菊池きくち、57ぺーじ
  11. ^ しゃよう、79-80ぺーじ
  12. ^ a b 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、341ぺーじ
  13. ^ 越智おち、69ぺーじ
  14. ^ しゃよう、85ぺーじ
  15. ^ 越智おち、71-72ぺーじ
  16. ^ a b c 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、337-338ぺーじ
  17. ^ a b 越智おち、76-77ぺーじ
  18. ^ きょう克実かつみ
  19. ^ a b c 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、369-370ぺーじ
  20. ^ 土門どもん入江いりえ、49-50ぺーじ
  21. ^ a b 菊池きくち、60-61ぺーじ
  22. ^ 越智おち、78-79ぺーじ
  23. ^ a b c 越智おち、80-81ぺーじ
  24. ^ a b c 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、370-371ぺーじ
  25. ^ 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、328ぺーじ
  26. ^ a b 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつささえ事変じへん陸軍りくぐん作戦さくせん(1)』、371-372ぺーじ
  27. ^ かくなんじ瑰, 玉章ぎょくしょう. 中国ちゅうごく抗日こうにち战争正面しょうめん战场さく战记. 南京なんきん:江蘇ちぁんすー人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2002. ISBN 9787214030344.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • きょう克實かつみ再考さいこうたいらがたせき大捷たいしょう」――日本にっぽんぐん史料しりょうからの検討けんとう軍事ぐんじ史学しがく』51かん1、2015ねん6がつ
  • きょう克實かつみきゅうにちぐん档案ちゅう出現しゅつげんてきたいらがたせき大捷たいしょう《历史がくちゃ》(だいさんじゅう辑)济南:やま人民じんみん出版しゅっぱんしゃ 2015.4/P.49-73
  • 森山もりやま康平やすひらちょ)、太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかいへん) 『にちちゅう戦争せんそう全貌ぜんぼう』 (河出かわで文庫ぶんこ) 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2007ねん
  • 越智おち春海しゅんかい華南かなん戦記せんき 広東かんとん攻略こうりゃくからふつしるし進駐しんちゅうまで』 図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1988ねん
  • 菊池きくち一隆かずたか中国ちゅうごく抗日こうにち軍事ぐんじ有志ゆうししゃ、2009ねんISBN 978-4-903426-21-1
  • しゃようでんちょ)、 坂井さかいしんすけわけ) 『抗日こうにち戦争せんそうちゅう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうなにをしていたか―おおかくされた歴史れきし真実しんじつくさおもえしゃ、2006ねんISBN 4794215088
  • 土門どもん周平しゅうへい入江いりえ忠国ただくにちょ) 『激闘げきとう戦車せんしゃせん鋼鉄こうてつのエース列伝れつでん 』(光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ) 光人みつひとしゃ、1999ねん。(『人物じんぶつ戦車せんしゃたい物語ものがたり改題かいだい こうじんしゃ、1982ねん。)