太 ふと 原 げん 作戦 さくせん (たいげんさくせん)とは、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )中 ちゅう の1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )9月 がつ から11月 がつ までの間 あいだ 、日本 にっぽん の北 きた 支 ささえ 方面 ほうめん 軍 ぐん 及 およ び関東軍 かんとうぐん 部隊 ぶたい によって行 おこな われた、山西 さんせい 省 しょう 太 ふとし 原 はら への進攻 しんこう 作戦 さくせん である。太 ふと 原 げん 攻略 こうりゃく 戦 せん 、山西 さんせい 作戦 さくせん (さんせいさくせん)などとも呼 よ ばれる。中国 ちゅうごく 側 がわ 呼称 こしょう は太 ふと 原 げん 会戦 かいせん 。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )の盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん 後 ご 、日本 にっぽん 軍 ぐん は北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 主力 しゅりょく の平 ひら 漢 かん 線 せん ・津浦 つのうら 線 せん 南下 なんか 作戦 さくせん を側面 そくめん 援護 えんご するため、8月 がつ 中旬 ちゅうじゅん から第 だい 5師団 しだん と関東軍 かんとうぐん による察哈爾 なんじ 作戦 さくせん を開始 かいし した。9月中旬 ちゅうじゅん 、大同 だいどう 付近 ふきん (内 うち 長城 ちょうじょう 線 せん 外 そと )を占領 せんりょう して作戦 さくせん が一段落 いちだんらく すると、方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は広 こう 霊 れい の第 だい 5師団 しだん に対 たい し、河北 かほく 省 しょう 保 ほ 定 じょう へ転進 てんしん して平 ひら 漢 かん 線 せん 沿 ぞ いの作戦 さくせん に参加 さんか するよう命令 めいれい した[2] 。
方面 ほうめん 軍 ぐん の催促 さいそく にもかかわらず、第 だい 5師団 しだん はすぐに転進 てんしん しようとはしなかった。この時 とき 、閻錫山 やま の山西 さんせい 軍 ぐん (第 だい 2戦 せん 区 く 軍 ぐん )は内 うち 長城 ちょうじょう 線 せん 沿 ぞ いに集結 しゅうけつ して防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を強化 きょうか 中 ちゅう であった。第 だい 5師団 しだん 長 ちょう 板垣 いたがき 征四郎 せいしろう 中将 ちゅうじょう は、この敵 てき 軍 ぐん を攻撃 こうげき して長城 ちょうじょう を突破 とっぱ し、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 主力 しゅりょく に打撃 だげき を与 あた えて転進 てんしん を容易 ようい にしようと決心 けっしん していた[2] 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ や方面 ほうめん 軍 ぐん では、山西 さんせい 省 しょう を攻略 こうりゃく するか否 ひ かについて意見 いけん が分 わ かれていたが、第 だい 5師団 しだん との連絡 れんらく は途切 とぎ れがちで、師団 しだん の実情 じつじょう がはっきりわからなかった[3] 。また、中央 ちゅうおう は関東軍 かんとうぐん 部隊 ぶたい をこれ以上 いじょう 前進 ぜんしん させるつもりはなかったが、第 だい 5師団 しだん に同調 どうちょう している関東軍 かんとうぐん 察哈爾 なんじ (チャハル)派遣 はけん 兵団 へいだん (長 ちょう :東條 とうじょう 英機 ひでき 中将 ちゅうじょう [4] )は積極 せっきょく 的 てき に内 うち 蒙 こうむ や山西 さんせい を攻略 こうりゃく しようとしていた[5] 。
9月19日 にち 、板垣 いたがき 中将 ちゅうじょう は「北 きた 支 ささえ においてはおおむね綏遠 ―太 ふとし 原 はら ―石 いし 家 か 荘 そう ―済 すみ 南 みなみ ―青島 ちんたお の線 せん を占 し め、ここに包 つつめ 合 ごう する資源 しげん を獲得 かくとく し、そこに住 す む一 いち 億 おく 民衆 みんしゅう を同僚 どうりょう として新 しん 北 きた 支 ささえ 政権 せいけん を結成 けっせい するを可 か とす」 という意見 いけん を、私信 ししん として多田 ただ 駿 しゅん (参謀 さんぼう 次長 じちょう )・石原 いしはら 莞爾 かんじ (参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう )・寺内 てらうち 寿一 ひさいち (北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん )の3人 にん に発信 はっしん した[3] 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ では、山西 さんせい 作戦 さくせん を有利 ゆうり と考 かんが える武藤 むとう 章 あきら 作戦 さくせん 課長 かちょう が、不拡大 ふかくだい 派 は で作戦 さくせん に難色 なんしょく を示 しめ す石原 いしはら と多田 ただ を説得 せっとく した[6] 。板垣 いたがき との関係 かんけい が密接 みっせつ である石原 いしはら 部長 ぶちょう は、滅多 めった に手紙 てがみ を書 か かない板垣 いたがき からの熱心 ねっしん な意見 いけん に動 うご かされた、と後年 こうねん 回想 かいそう している[7] 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 課 か では、板垣 いたがき の意見 いけん した地域 ちいき を占領 せんりょう 確保 かくほ する考 かんが えに固 かた めようとしていた[6] 。
上海 しゃんはい 戦線 せんせん へ大 だい 規模 きぼ な増援 ぞうえん を派遣 はけん する事態 じたい となって、石原 いしはら 作戦 さくせん 部長 ぶちょう は辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した。不拡大 ふかくだい 派 は の石原 いしはら が辞任 じにん した3日 にち 後 ご 、太 ふとし 原 げん 攻略 こうりゃく の大命 たいめい が参謀 さんぼう 本部 ほんぶ から下 くだ されることとなった(10月1日 にち )[7] 。一方 いっぽう 、北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ でも第 だい 1課 か が山西 さんせい 作戦 さくせん を要望 ようぼう していたが、第 だい 5師団 しだん を転進 てんしん させるという寺内 てらうち 軍司 ぐんじ 令 れい 官 かん の考 かんが えは変 か わらなかった。ところが10月 がつ 1日 にち 、参謀 さんぼう 総長 そうちょう から突如 とつじょ として太 ふとし 原 げん 攻略 こうりゃく の命令 めいれい を受領 じゅりょう したため、すでに長城 ちょうじょう 平 たいら 型 がた 関 せき を突破 とっぱ していた第 だい 5師団 しだん に対 たい し太 ふとし 原 げん 攻略 こうりゃく 作戦 さくせん の準備 じゅんび を命 めい じた[6] [8] 。
山西 さんせい 軍 ぐん 、中央 ちゅうおう 軍 ぐん 、四川 しせん 軍 ぐん など20個 こ 師 し 以上 いじょう の兵力 へいりょく 。他 た に中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん (八 はち 路 ろ 軍 ぐん )約 やく 4~5万 まん が山西 さんせい 省 しょう 北部 ほくぶ で遊 ゆう 撃 げき 戦 せん を実施 じっし 。
戦利 せんり 品 ひん を掲 かか げる八 はち 路 ろ 軍 ぐん 第 だい 115師 し の兵士 へいし
9月21日 にち 、第 だい 5師団 しだん 長 ちょう 板垣 いたがき 中将 ちゅうじょう は歩兵 ほへい 第 だい 21旅団 りょだん (三浦 みうら 支隊 したい )に対 たい して、霊 れい 邱 から大 だい 営鎮 へ向 む かって追撃 ついげき するよう命令 めいれい した。22日 にち 、大 だい 営鎮へ向 む かう三浦 みうら 支隊 したい (歩兵 ほへい 3個 こ 大隊 だいたい 基幹 きかん )は、平 たいら 型 がた 関 せき (現在 げんざい の霊 れい 丘 おか 県 けん 白 しろ 崖 がけ 台 だい 郷 きょう と繁 しげる 峙県横 よこ 澗郷の境界 きょうかい 付近 ふきん にある峠 とうげ 。)を前 まえ にして中国 ちゅうごく 軍 ぐん の激 はげ しい抵抗 ていこう に遭遇 そうぐう 、戦況 せんきょう は容易 ようい に進展 しんてん しなかった[2] 。第 だい 2戦 せん 区 く 司令 しれい 長官 ちょうかん 閻錫山 やま は平 たいら 型 がた 関 せき ―雁 かり 門 もん 関 せき ―神池 かみいけ を結 むす ぶ長城 ちょうじょう 線 せん に第 だい 6集団 しゅうだん 軍 ぐん (司令 しれい :楊愛源 げん )、第 だい 7集団 しゅうだん 軍 ぐん (司令 しれい :傅 でん 作 つくる 義 よし )などの部隊 ぶたい を配置 はいち して抵抗 ていこう を命 めい じていた[10] [11] 。その兵力 へいりょく はおよそ6~7万 まん で、平 たいら 型 がた 関 せき では第 だい 6集団 しゅうだん 軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん を迎撃 げいげき した[10] 。
9月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は国共 こっきょう 合作 がっさく 協議 きょうぎ に基 もと づき第 だい 18集団 しゅうだん 軍 ぐん (八 はち 路 ろ 軍 ぐん )を山西 さんせい 省 しょう 入 い りさせ、第 だい 2戦 せん 区 く の作戦 さくせん に協力 きょうりょく した。第 だい 115師 し (師長 もろなが :林 はやし 彪 ぴょう )は日本 にっぽん 軍 ぐん の後方 こうほう を襲撃 しゅうげき するため平 たいら 型 がた 関 せき 以東 いとう へ迂回 うかい して潜伏 せんぷく した。9月25日 にち 、増援 ぞうえん を率 ひき いてきた傅 でん 作 さく 義 ぎ 指揮 しき のもと、平 たいら 型 がた 関 せき 正面 しょうめん の中国 ちゅうごく 軍 ぐん は陣 じん 前 ぜん 逆襲 ぎゃくしゅう を行 おこな い、三浦 みうら 支隊 したい は包囲 ほうい された。これに呼応 こおう して出撃 しゅつげき した第 だい 115師 し は、小 しょう 寒村 かんそん ―関 せき 溝 みぞ 村 むら 間 あいだ で第 だい 5師団 しだん の輜重 しちょう 部隊 ぶたい を待 ま ち伏 ぶ せ攻撃 こうげき した。襲撃 しゅうげき されたのは兵站 へいたん 自動車 じどうしゃ 中隊 ちゅうたい (前線 ぜんせん から霊 れい 邱へ帰還 きかん 中 ちゅう )と歩兵 ほへい 第 だい 21連隊 れんたい の大 だい 行李 こうり (前線 ぜんせん へ前進 ぜんしん 中 ちゅう )で、山間 さんかん 隘路 あいろ の別 べつ 地点 ちてん でほぼ同時 どうじ に全滅 ぜんめつ 状態 じょうたい となった[12] 。死者 ししゃ は約 やく 150人 にん 、負傷 ふしょう 者 しゃ は約 やく 40人 にん だった[13] 。中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は、日本 にっぽん 軍 ぐん 1万 まん 人 にん 余 あま り(後 のち に千 せん 人 にん 余 あま り)を殲滅 せんめつ したと発表 はっぴょう し[14] 、これが抗日 こうにち 戦争 せんそう で初 はじ めての勝利 しょうり であると宣伝 せんでん した[12] 。その後 ご この地 ち には迂回 うかい ・包囲 ほうい 作戦 さくせん の成功 せいこう を記念 きねん した建築 けんちく 物 ぶつ が建 た てられ反日 はんにち プロパガンダ に利用 りよう されている。
補給 ほきゅう 部隊 ぶたい が全滅 ぜんめつ したこともあり、三浦 みうら 支隊 したい では弾薬 だんやく が底 そこ を突 つ いていた。兵士 へいし たちの戦闘 せんとう 手段 しゅだん は、鹵獲 ろかく した手榴弾 しゅりゅうだん や投石 とうせき 、白兵 はくへい 格闘 かくとう だった[15] 。同 どう 9月 がつ 25日 にち 、第 だい 5師団 しだん は三浦 みうら 支隊 したい が危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう に陥 おちい っていることを知 し ると、歩兵 ほへい 第 だい 42連隊 れんたい を平 たいら 型 がた 関 せき へ急行 きゅうこう させた。また、歩兵 ほへい 第 だい 21連隊 れんたい 主力 しゅりょく は北 きた から平 たいら 型 がた 関 せき の背後 はいご に進出 しんしゅつ しようとしていたが、三浦 みうら 旅団 りょだん の苦戦 くせん を知 し り28日 にち に旅団 りょだん 主力 しゅりょく に合流 ごうりゅう した。一方 いっぽう 、関東軍 かんとうぐん は、9月22日 にち に十川 そがわ 支隊 したい を平 たいら 型 がた 関方 せきがた 面 めん に向 む かわせ第 だい 5師団 しだん に協力 きょうりょく させた。2つの連隊 れんたい を掌握 しょうあく した歩兵 ほへい 第 だい 21旅団 りょだん (三浦 みうら 支隊 したい )は、29日 にち から一斉 いっせい に攻撃 こうげき を実施 じっし 、十川 そがわ 支隊 したい もこれに協力 きょうりょく した。しかしこの攻撃 こうげき は成功 せいこう しなかった[16] 。
そのころ、関東軍 かんとうぐん 部隊 ぶたい は「第 だい 5師団 しだん が平 たいら 型 がた 関 せき を突破 とっぱ ・大 だい 営鎮を占領 せんりょう し、繁 しげる 峙 へ向 む かって西進 せいしん 中 ちゅう 」という情報 じょうほう (誤報 ごほう )を得 え て、混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん と混成 こんせい 第 だい 2旅団 りょだん を中国 ちゅうごく 軍 ぐん の退路 たいろ 遮断 しゃだん のため繁 しげる 峙へ向 む かわせた。ところが長城 ちょうじょう 線 せん の茹越口 こう で堅陣 けんじん にぶつかり、混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん は9月27日 にち から攻撃 こうげき を開始 かいし 、29日 にち に突破 とっぱ して急進 きゅうしん 、繁 しげる 峙を占領 せんりょう した[16] 。平 たいら 型 がた 関 せき 正面 しょうめん の中国 ちゅうごく 軍 ぐん は後方 こうほう を遮断 しゃだん され、9月30日 にち 総 そう 退却 たいきゃく を開始 かいし した。しかし西方 せいほう の繁 しげる 峙方向 ほうこう へは退却 たいきゃく せず、多 おお くは南方 なんぽう の五台山 ごだいさん 方向 ほうこう へ撤退 てったい したため、兵力 へいりょく の少 すく ない混成 こんせい 旅団 りょだん は徹底的 てっていてき な打撃 だげき を与 あた えることはできなかった。この日 ひ 、三浦 みうら 旅団 りょだん は大 だい 営鎮に集結 しゅうけつ し戦力 せんりょく の回復 かいふく に努 つと めた。第 だい 5師団 しだん の損害 そんがい は戦死 せんし 270余人 よにん 、戦傷 せんしょう 800余人 よにん だった[16] [17] 。[18]
10月2日 にち 、第 だい 5師団 しだん は「太 ふとし 原 げん 攻略 こうりゃく 」の命令 めいれい を北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん より受領 じゅりょう した。このとき、第 だい 5師団 しだん の歩兵 ほへい 第 だい 9旅団 りょだん は国崎 くにさき 支隊 したい として上海 しゃんはい 方面 ほうめん へ転出 てんしゅつ するため保 ほ 定 じょう へ向 む かっており(歩兵 ほへい 第 だい 11連隊 れんたい は保 たもて 定 てい 到着 とうちゃく 後 ご に鉄道 てつどう で大同 だいどう へ輸送 ゆそう され師団 しだん に復帰 ふっき )、師団 しだん 指揮 しき 下 か にある歩兵 ほへい 戦力 せんりょく は歩兵 ほへい 第 だい 21旅団 りょだん だけだった。10月3日 にち 、整備 せいび を終 お えた歩兵 ほへい 第 だい 21旅団 りょだん は大 だい 営鎮を出発 しゅっぱつ 、6日 にち 代 だい 県 けん に集結 しゅうけつ した。10月4日 にち 、関東軍 かんとうぐん の諸 しょ 部隊 ぶたい (混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん 、堤 つつみ 支隊 したい )が第 だい 5師団 しだん の指揮 しき 下 か に入 はい り、10月7日 にち には萱 かや 嶋 しま 支隊 したい が同 どう 師団 しだん に配属 はいぞく された。当時 とうじ 、板垣 いたがき 師団 しだん 長 ちょう 指揮 しき 下 か の兵力 へいりょく は、歩兵 ほへい 約 やく 16個 こ 大隊 だいたい で、火砲 かほう は山砲 さんぽう 21門 もん 、野砲 やほう 44門 もん 、十 じゅう 糎 せんちめーとる 榴弾 りゅうだん 砲 ほう 20門 もん 、十 じゅう 五 ご 糎 せんちめーとる 榴弾 りゅうだん 砲 ほう 8門 もん 、十 じゅう 五 ご 糎 せんちめーとる 加 か 農 のう 砲 ほう 2門 もん の計 けい 95門 もん だった[19] [17] 。
独立 どくりつ 混成 こんせい 第 だい 1旅団 りょだん 所属 しょぞく の村井 むらい 戦車 せんしゃ 隊 たい は原 はら 平 ひら 鎮 への進出 しんしゅつ を命 めい じられ、10月2日 にち に長城 ちょうじょう を突破 とっぱ し寧 やすし 武 たけ を占領 せんりょう した。10月4日 にち 、混成 こんせい 第 だい 2旅団 りょだん は崞 県 けん を、混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん は原 はら 平 ひら 鎮を攻撃 こうげき し、8日 にち に崞 県 けん 、10日 とおか に原 はら 平 ひら 鎮をそれぞれ占領 せんりょう した[19] 。村井 むらい 戦車 せんしゃ 隊 たい は原 はら 平 ひら 鎮や後 ご の忻口鎮(現在 げんざい の忻州市 し 忻府区 く 高城 たかぎ 郷 さと 忻口村 むら 付近 ふきん )の戦 たたか いに参加 さんか したが、中国 ちゅうごく 軍 ぐん が対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう (3.7 cm PaK 36 )を使用 しよう し始 はじ め、地形 ちけい 上 じょう の問題 もんだい や、配属 はいぞく 先 さき の第 だい 5師団 しだん が機械 きかい 化 か 部隊 ぶたい の運用 うんよう に無 む 理解 りかい であったこともあり、4人 にん の中隊 ちゅうたい 長 ちょう のうち2人 にん が戦死 せんし 、1人 ひとり が重傷 じゅうしょう を負 お うという損害 そんがい を受 う けた[20] 。
中国 ちゅうごく 軍 ぐん は、太 ふとし 原 げん 防衛 ぼうえい のため約 やく 8万 まん 人 にん の兵力 へいりょく (日本 にっぽん 軍 ぐん の判断 はんだん では約 やく 14個 こ 師 し )を忻口鎮に集結 しゅうけつ させた。忻口鎮は太 ふとし 原 はら の北 きた の門戸 もんこ として、険 けわ しい地形 ちけい を利用 りよう し堅固 けんご な防御 ぼうぎょ 陣地 じんち が設 もう けられていた。河北 かほく 省 しょう から第 だい 14集団 しゅうだん 軍 ぐん (4個 こ 師 し 半 はん )を率 ひき いてきた衛 まもる 立 たて 煌 はこの防衛 ぼうえい 戦 せん で前 ぜん 敵 てき 総 そう 指揮 しき を執 と った。正面 しょうめん を第 だい 14集団 しゅうだん 軍 ぐん が防御 ぼうぎょ し、右翼 うよく の第 だい 18集団 しゅうだん 軍 ぐん は五台山 ごだいさん に依拠 いきょ して日本 にっぽん 軍 ぐん の後方 こうほう 線 せん 襲撃 しゅうげき を担当 たんとう 、左翼 さよく の第 だい 6集団 しゅうだん 軍 ぐん は同 どう 蒲 がま 線 せん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 西側 にしがわ を防御 ぼうぎょ した[21] 。
10月13日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん は、混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん ・堤 つつみ 支隊 したい を右翼 うよく 隊 たい 、第 だい 5師団 しだん 主力 しゅりょく が左翼 さよく 隊 たい として忻口鎮陣地 ち への攻撃 こうげき を開始 かいし した。しかし戦況 せんきょう は進展 しんてん を見 み せず、ついに膠着 こうちゃく 状態 じょうたい に陥 おちい った。国崎 くにさき 支隊 したい に所属 しょぞく する歩兵 ほへい 第 だい 11連隊 れんたい は、保 ほ 定 じょう に向 む かう途中 とちゅう で急遽 きゅうきょ 支隊 したい を離 はな れて引 ひ き返 かえ し、列車 れっしゃ で北平 きたひら ・大同 だいどう を経由 けいゆ して10月 がつ 17日 にち に第 だい 5師団 しだん に復帰 ふっき した。また、10月22日 にち には萱島 かやしま 支隊 したい も戦場 せんじょう に到着 とうちゃく し24日 にち から攻撃 こうげき を再興 さいこう したが、第 だい 一線 いっせん 陣地 じんち を若干 じゃっかん 突破 とっぱ したのみで再 ふたた び膠着 こうちゃく 状態 じょうたい となってしまった。北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん は余裕 よゆう の無 な い戦力 せんりょく の中 なか から、さらに独立 どくりつ 歩兵 ほへい 第 だい 1連隊 れんたい などの兵力 へいりょく を第 だい 5師団 しだん 方面 ほうめん へ差 さ し向 む けた[19] [22] 。
忻口鎮の戦 たたか いは、11月3日 にち に中国 ちゅうごく 軍 ぐん が総 そう 退却 たいきゃく するまでの3週間 しゅうかん にわたって繰 く り広 ひろ げられ、山西 さんせい 省 しょう で最大 さいだい の激戦 げきせん となった。この戦 たたか いでの第 だい 5師団 しだん (混成 こんせい 第 だい 15旅団 りょだん などの配属 はいぞく 部隊 ぶたい を含 ふく む)の戦死 せんし 者 しゃ は1,651人 にん 、負傷 ふしょう 者 しゃ 4,594人 にん だった。第 だい 21旅団 りょだん 長 ちょう ・三浦 みうら 敏 さとし 事 ごと 少将 しょうしょう の負傷 ふしょう 後送 こうそう をはじめ、大隊 だいたい 長 ちょう ・中隊 ちゅうたい 長 ちょう 以下 いか の将校 しょうこう の損害 そんがい も甚大 じんだい であった[23] 。
正 せい 太線 ふとせん 沿 ぞ いの娘 むすめ 子 こ 関 せき 周辺 しゅうへん には、山西 さんせい 省 しょう 東部 とうぶ の防衛 ぼうえい 線 せん として、太 たい 行 ゆき 山脈 さんみゃく の険 けわ しい地形 ちけい を利用 りよう した半永久 はんえいきゅう 洞窟 どうくつ 陣地 じんち が幾重 いくえ にも構築 こうちく されていた。日本 にっぽん 軍 ぐん の判断 はんだん では、守備 しゅび する中国 ちゅうごく 軍 ぐん 兵力 へいりょく は約 やく 13個 こ 師 し (山西 さんせい 軍 ぐん ・中央 ちゅうおう 軍 ぐん ・四川 しせん 軍 ぐん ・孫 まご 連 れん 仲 なか 軍 ぐん )とみられた[24] 。
平 ひら 漢 かん 線 せん に沿 そ って南下 なんか してきた第 だい 1軍 ぐん (軍 ぐん 司令 しれい 官 かん :香月 かつき 清司 せいじ 中将 ちゅうじょう )は、石 いし 家 か 荘 そう 攻略 こうりゃく の際 さい に第 だい 20師団 しだん の一部 いちぶ を太 たい 原 ばら へ向 む けて追撃 ついげき させていたが、娘 むすめ 子 こ 関 せき 付近 ふきん で激戦 げきせん になった。10月19日 にち 、第 だい 1軍 ぐん は第 だい 20師団 しだん の全力 ぜんりょく で前面 ぜんめん の敵 てき を撃破 げきは するよう命令 めいれい し、第 だい 109師団 しだん の一部 いちぶ (昔 むかし 陽 ひ 支隊 したい )を南 みなみ に並行 へいこう して昔 むかし 陽 ひ へ向 む かわせた。娘 むすめ 子 こ 関 せき 正面 しょうめん の抵抗 ていこう は頑強 がんきょう で、10月26日 にち になっても突破 とっぱ することができなかった。第 だい 20師団 しだん は一部 いちぶ を手薄 てうす な左側 ひだりがわ から迂回 うかい させ、娘 むすめ 子 こ 関 せき の背後 はいご に進出 しんしゅつ させた。このため中国 ちゅうごく 軍 ぐん は全面 ぜんめん 的 てき に後退 こうたい を開始 かいし し、追撃 ついげき をおこなう第 だい 20師団 しだん は10月30日 にち に陽 ひ 泉 いずみ を、11月2日 にち に寿 ことぶき 陽 よう を占領 せんりょう した。昔 むかし 陽 ひ 支隊 したい は11月2日 にち に昔 むかし 陽 ひ へ進出 しんしゅつ した[24] 。寿 ことぶき 陽 よう は太 ふとし 原 はら の東方 とうほう 約 やく 50キロの地点 ちてん で、日本 にっぽん 軍 ぐん が東 ひがし から太 たい 原 ばら へ迫 せま ったことで忻口鎮陣地 ち の中国 ちゅうごく 軍 ぐん は動揺 どうよう し始 はじ めた。そして11月3日 にち 夕刻 ゆうこく 、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は総 そう 退却 たいきゃく した[24] [23] 。
忻口鎮や娘 むすめ 子 こ 関 せき での苦戦 くせん を知 し った北 きた 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ・寺内 てらうち 寿一 ひさいち 大将 たいしょう は、第 だい 1軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ (石 いし 家 か 荘 そう )を訪 おとず れた際 さい に「元来 がんらい 、山西 さんせい に進入 しんにゅう したことが、大 だい なる誤算 ごさん であって、東條 とうじょう と板垣 いたがき の合作 がっさく によって無謀 むぼう に前進 ぜんしん し、ついに、かくの如 ごと き失態 しったい を、かもした」とい放 いはな ったとされる[23] 。ただ、寺内 てらうち 自身 じしん は不拡大 ふかくだい 派 は というわけではなく、河北 かほく 省 しょう から南下 なんか して山東 さんとう 省 しょう を攻略 こうりゃく し、黄河 こうが の線 せん (徐 じょ 州 しゅう )まで前進 ぜんしん することを希望 きぼう しており、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は極力 きょくりょく これを抑 おさ えていた[25] 。
忻口鎮の中国 ちゅうごく 軍 ぐん の退却 たいきゃく を知 し った第 だい 5師団 しだん は、一挙 いっきょ 太 ふと 原 はら までの追撃 ついげき を開始 かいし した。11月4日 にち に開城 かいじょう 鎮の陣地 じんち 線 せん を突破 とっぱ 、翌 よく 5日 にち には太 ふと 原 げん 周辺 しゅうへん の第 だい 一線 いっせん 陣地 じんち を突破 とっぱ して太 ふとし 原 はら の北 きた に進出 しんしゅつ し、第 だい 20師団 しだん も太 ふと 原 はら の南東 なんとう から接近 せっきん した[26] 。第 だい 2戦 せん 区 く 前 ぜん 敵 てき 総 そう 指揮 しき 官 かん ・衛 まもる 立 たて 煌は中国 ちゅうごく 軍 ぐん 主力 しゅりょく の太 ふと 原 はら 以南 いなん への撤退 てったい を命令 めいれい 、傅 でん 作 つくる 義 よし が指揮 しき する第 だい 35軍 ぐん が太 ふと 原 はら を守備 しゅび した[27] 。11月4日 にち に第 だい 5師団 しだん が第 だい 1軍 ぐん に配属 はいぞく されたため、香月 かつき 軍司 ぐんじ 令 れい 官 かん は、第 だい 5師団 しだん の名誉 めいよ のため同 どう 師団 しだん に対 たい し太 ふとし 原 はら の攻略 こうりゃく を命 めい じた。
11月6日 にち 、第 だい 5師団 しだん は太 ふとし 原城 はらのじょう の攻撃 こうげき を準備 じゅんび すると共 とも に、軍使 ぐんし を派遣 はけん して開城 かいじょう ・降伏 ごうぶく を勧告 かんこく した。しかし城内 じょうない の守備 しゅび 軍 ぐん は降伏 ごうぶく を拒絶 きょぜつ した。11月8日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 、第 だい 5師団 しだん は総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし し城内 じょうない に突入 とつにゅう した。守備 しゅび 軍 ぐん は頑強 がんきょう に抵抗 ていこう し激 はげ しい市街 しがい 戦 せん が展開 てんかい された。傅 でん 作 さく 義 ぎ はわずかに残 のこ った守備 しゅび 軍 ぐん 2,000人 にん を率 ひき いて包囲 ほうい を突破 とっぱ して撤退 てったい 、翌 よく 11月9日 にち 、太 ふとし 原 はら は陥落 かんらく した。第 だい 5、第 だい 20師団 しだん の損害 そんがい は戦死 せんし 889名 めい 、戦傷 せんしょう 2,827名 めい だった。太 ふと 原 げん 攻略 こうりゃく 後 ご 、第 だい 5師団 しだん は石 いし 家 か 荘 そう への転進 てんしん を命 めい じられ、関東 かんとう 軍 ぐん からの派遣 はけん 部隊 ぶたい も復帰 ふっき を命 めい じられて帰還 きかん した。このため、第 だい 20師団 しだん が山西 さんせい 省 しょう に残 のこ ることになった[26] [21] 。
^ 謝 しゃ 幼 よう 田 た 、88頁 ぺーじ 。
^ a b c 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、335-336頁 ぺーじ 。
^ a b 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、338-339頁 ぺーじ 。
^ 東條 とうじょう 英機 ひでき 中将 ちゅうじょう (関東軍 かんとうぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう )は、9月22日 にち 、新 しん 京 きょう に帰還 きかん し、笠原 かさはら 幸雄 ゆきお 少将 しょうしょう (同 どう 参謀 さんぼう 副長 ふくちょう )に交代 こうたい 。
^ 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、317-318頁 ぺーじ 。
^ a b c 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、339-340頁 ぺーじ 。
^ a b 森山 もりやま 、120-121頁 ぺーじ 。
^ 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、369頁 ぺーじ 。
^ 歩兵 ほへい 第 だい 9旅団 りょだん は国崎 くにさき 支隊 したい として上海 しゃんはい 方面 ほうめん へ転出 てんしゅつ するため保 ほ 定 じょう へ向 む かっていた。
^ a b 菊池 きくち 、57頁 ぺーじ 。
^ 謝 しゃ 幼 よう 田 た 、79-80頁 ぺーじ 。
^ a b 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、341頁 ぺーじ 。
^ 越智 おち 、69頁 ぺーじ 。
^ 謝 しゃ 幼 よう 田 た 、85頁 ぺーじ 。
^ 越智 おち 、71-72頁 ぺーじ 。
^ a b c 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、337-338頁 ぺーじ 。
^ a b 越智 おち 、76-77頁 ぺーじ 。
^ 姜 きょう 克実 かつみ
^ a b c 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、369-370頁 ぺーじ 。
^ 土門 どもん ・入江 いりえ 、49-50頁 ぺーじ 。
^ a b 菊池 きくち 、60-61頁 ぺーじ 。
^ 越智 おち 、78-79頁 ぺーじ 。
^ a b c 越智 おち 、80-81頁 ぺーじ 。
^ a b c 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、370-371頁 ぺーじ 。
^ 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、328頁 ぺーじ 。
^ a b 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)』、371-372頁 ぺーじ 。
^ 郭 かく 汝 なんじ 瑰, 黄 き 玉章 ぎょくしょう . 中国 ちゅうごく 抗日 こうにち 战争正面 しょうめん 战场作 さく 战记 . 南京 なんきん :江蘇 ちぁんすー 人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ . 2002. ISBN 9787214030344 .
防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1)昭和 しょうわ 十 じゅう 三 さん 年 ねん 一 いち 月 がつ まで』 朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 〉、1975年 ねん 。
姜 きょう 克實 かつみ 「再考 さいこう 「平 たいら 型 がた 関 せき 大捷 たいしょう 」――日本 にっぽん 軍 ぐん 史料 しりょう からの検討 けんとう 」 『軍事 ぐんじ 史学 しがく 』51巻 かん 1、2015年 ねん 6月 がつ
姜 きょう 克實 かつみ 《旧 きゅう 日 にち 軍 ぐん 档案中 ちゅう 出現 しゅつげん 的 てき 平 たいら 型 がた 関 せき 大捷 たいしょう 》 《历史学 がく 家 か 茶 ちゃ 座 ざ 》(第 だい 三 さん 十 じゅう 五 ご 辑)济南:山 やま 东人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 2015.4/P.49-73
森山 もりやま 康平 やすひら (著 ちょ )、太平洋戦争 たいへいようせんそう 研究 けんきゅう 会 かい (編 へん ) 『日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の全貌 ぜんぼう 』 (河出 かわで 文庫 ぶんこ ) 河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2007年 ねん 。
越智 おち 春海 しゅんかい 『華南 かなん 戦記 せんき 広東 かんとん 攻略 こうりゃく から仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう まで』 図書 としょ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1988年 ねん 。
菊池 きくち 一隆 かずたか 『中国 ちゅうごく 抗日 こうにち 軍事 ぐんじ 史 し 』 有志 ゆうし 舎 しゃ 、2009年 ねん 、ISBN 978-4-903426-21-1
謝 しゃ 幼 よう 田 でん (著 ちょ )、 坂井 さかい 臣 しん 之 の 助 すけ (訳 わけ ) 『抗日 こうにち 戦争 せんそう 中 ちゅう 、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は何 なに をしていたか―覆 おお い隠 かく された歴史 れきし の真実 しんじつ 』 草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、2006年 ねん 、ISBN 4794215088
土門 どもん 周平 しゅうへい 、入江 いりえ 忠国 ただくに (著 ちょ ) 『激闘 げきとう 戦車 せんしゃ 戦 せん ―鋼鉄 こうてつ のエース列伝 れつでん 』(光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ ) 光人 みつひと 社 しゃ 、1999年 ねん 。(『人物 じんぶつ ・戦車 せんしゃ 隊 たい 物語 ものがたり 』改題 かいだい 光 こう 人 じん 社 しゃ 、1982年 ねん 。)