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きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ TK
きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ(前期ぜんきがた)
(愛国あいこくしゃ公園こうえん展示てんじ車両しゃりょうきゅうよんしきかぶとごう撤車を連結れんけつしている)
性能せいのうしょもと
全長ぜんちょう 3.36 m
全幅ぜんぷく 1.62 m
ぜんこう 1.63 m
重量じゅうりょう 3.45t
懸架けんか方式ほうしき シーソーしき連動れんどう懸架けんか
速度そくど 40 km/h(牽引けんいん30km/h)
行動こうどう距離きょり 200km
主砲しゅほう 前期ぜんきがた:きゅう一式いっしき車載しゃさいけい機関きかんじゅう×1
1,980はつ
後期こうきがた:きゅうななしき車載しゃさいじゅう機関きかんじゅう×1
2,800はつ
装甲そうこう 前面ぜんめん:12mm
側面そくめん:10mm
上面うわつら:6mm
エンジン 東京瓦斯とうきょうがす電気でんき工業こうぎょう空冷くうれい直列ちょくれつ4気筒きとうガソリン
35 hp/2,000 rpm
乗員じょういん 2 めい
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きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ TK(きゅうよんしきけいそうこうしゃTK)は、1930年代ねんだい日本にっぽん陸軍りくぐん開発かいはつした装甲車そうこうしゃ。「TK」とは秘匿ひとく名称めいしょうとしてつけられた「特殊とくしゅ牽引けんいんしゃ[ちゅう 1]」の頭字かしらじである。また「ホごう」ともしょうされたり、部隊ぶたいないでは「まめ戦車せんしゃ」の愛称あいしょうしたしまれていた[1]

にちちゅう戦争せんそう実戦じっせん投入とうにゅうされ、当初とうしょ装甲そうこう牽引けんいん自動車じどうしゃとして運用うんようされていたが、主力しゅりょくちゅう戦車せんしゃであるはちきゅうしきちゅう戦車せんしゃ穴埋あなうめとしての役割やくわりもあった。

概要がいよう

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きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃは、元々もともと最前線さいぜんせん弾薬だんやくひとし危険きけんぶつはこ牽引けんいんしゃとして開発かいはつされ、物資ぶっし積載せきさい牽引けんいんする専用せんようトレーラーとして、きゅうよんしきさん/よんたむろ牽引けんいんしゃ(750kgまで搭載とうさい可能かのう)が同時どうじ採用さいようされた。

カーデンロイドまめ戦車せんしゃ Mk.VI

日本にっぽん陸軍りくぐん陸軍りくぐん技術ぎじゅつ本部ほんぶ)は、1930ねん昭和しょうわ5ねん)にイギリスからカーデン・ロイドまめ戦車せんしゃ Mk.VIを2りょう輸入ゆにゅうし、よく1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつから10がつまで、歩兵ほへい学校がっこうおよび騎兵きへい学校がっこうによる、各種かくしゅ試験しけんおこなった。結果けっか、「直接ちょくせつ戦闘せんとうにはかないが、燃料ねんりょう弾薬だんやくとう輸送ゆそうほか索敵さくてき警戒けいかい指揮しきなどに適性てきせい見出みだせる」とたか評価ひょうかされ、歩兵ほへい騎兵きへいいずれも、戦車せんしゃたい装甲車そうこうしゃたい補助ほじょ車輌しゃりょうとしての使用しようもとめた。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)9がつには、歩兵ほへい進撃しんげきたすける「歩兵ほへい戦闘せんとうようまめ戦車せんしゃ」についての研究けんきゅうはじまり、同時どうじに、戦場せんじょう弾薬だんやく物資ぶっし運搬うんぱんする「装甲そうこう牽引けんいん自動車じどうしゃ」についても、意見いけん交換こうかんがなされ、小型こがた補助ほじょ車両しゃりょう研究けんきゅう本格ほんかくしていった。

そこでカーデン・ロイドまめ戦車せんしゃ Mk.VIを参考さんこうに、1932ねん昭和しょうわ7ねん)7がつ陸軍りくぐん技術ぎじゅつ本部ほんぶにてはら乙未おとみせいにより設計せっけい開始かいし同年どうねん12がつ東京瓦斯とうきょうがす電気でんき工業こうぎょう試作しさく発注はっちゅうされ、1933ねん昭和しょうわ8ねん)3がつ試作しさくしゃ完成かんせいした。1934ねん昭和しょうわ9ねん)に本体ほんたいは「きゅうよんしき装甲そうこう牽引けんいん自動車じどうしゃ」、トレーラーは「きゅうよんしきよんぶんさんたむろせき牽引けんいんしゃ」として陸軍りくぐんかり制式せいしきされた。

ささえ事変じへんちゅうきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃきゅうよんしきさん/よんたむろ牽引けんいんしゃ連結れんけつしている(1938ねん

牽引けんいんしゃとして採用さいようされたほんしゃだが、出来上できあがってみると非常ひじょう使つか勝手がってのよいまめ戦車せんしゃ(タンケッテ)となった。参謀さんぼう本部ほんぶもこれにをつけ、呼称こしょうを「装甲そうこう牽引けんいんしゃ」から「けい装甲車そうこうしゃ」に変更へんこうするようめいじ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)に「きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ」と改称かいしょうされ、同年どうねん部隊ぶたい配備はいび開始かいしされ、戦車せんしゃ中隊ちゅうたいほんしゃ1個いっこ小隊しょうたい編成へんせいされ、11個いっこ師団しだんけい装甲車そうこうしゃ訓練くんれんしょ新設しんせつされ、機甲きこう兵器へいき普及ふきゅう運用うんよう母体ぼたいとなった。

日本にっぽん陸軍りくぐんの12師団しだんかく1個いっこずつ、独立どくりつけい装甲車そうこうしゃ中隊ちゅうたい定数ていすう17りょう)が順次じゅんじ新設しんせつ編成へんせいされ、1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にちささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)が勃発ぼっぱつすると、ほんしゃ機甲きこう戦力せんりょくとして戦場せんじょうおくられた。独立どくりつけい装甲車そうこうしゃ中隊ちゅうたいには戦車せんしゃ部隊ぶたいおなじような任務にんむあたえられることがおおかった。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ独立どくりつけい装甲車そうこうしゃ中隊ちゅうたい戦車せんしゃ連隊れんたい昇格しょうかくし、さらにその戦車せんしゃ連隊れんたいによって戦車せんしゃ師団しだん編成へんせいされ、戦車せんしゃ師団しだん日本にっぽん陸軍りくぐん機甲きこう兵器へいき運用うんよう中核ちゅうかくとなっていった。

一方いっぽう1937ねん昭和しょうわ12ねんごろ師団しだん騎兵きへい捜索そうさく連隊れんたい改編かいへんされ、けい装甲車そうこうしゃ中隊ちゅうたい(7~16りょう)が新設しんせつされ、うまわる移動いどう手段しゅだんとしてけい装甲車そうこうしゃ採用さいようされ、ほんしゃ歩兵ほへい師団しだん独自どくじ運用うんようできる唯一ゆいいつそう軌式装甲そうこう戦闘せんとう車両しゃりょうとして重宝ちょうほうされ、捜索そうさく偵察ていさつ)・連絡れんらくとう任務にんむ以外いがいにも、歩兵ほへい戦闘せんとう支援しえん車両しゃりょうとして火力かりょく支援しえんおこなった。

ほんしゃ非常ひじょう小型こがた車両しゃりょうであったため、戦車せんしゃとしては非力ひりきめんもあったものの、簡易かんい支援しえん態勢たいせいでも運用うんようすることが可能かのうであった。専用せんようのトレーラーでなく通常つうじょうのトラックにも搭載とうさいでき、また工兵こうへい支援しえん戦車せんしゃきょうがなくとも丸太まるた2ほんわたせば渡河とかができるなど、歩兵ほへい部隊ぶたいへの追随ついずいには非常ひじょう好都合こうつごうだった。

設計せっけい

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1935ねんごろ

きゅうよんしき参考さんこうもととなったMk.VIとはまったことなったデザインとなっている。一方いっぽう独立どくりつした砲塔ほうとうゆうし、乗員じょういん配置はいちやエンジンと変速へんそくのセットがたてきとなっているてん同年代どうねんだい開発かいはつされたルノーAMR33騎兵きへい戦車せんしゃヴィッカースけい戦車せんしゃシリーズの影響えいきょうけていると推測すいそくされている[1][ちゅう 2]

設計せっけいじょう特徴とくちょうとして溶接ようせつ構造こうぞう採用さいようと、サスペンションへの関連かんれんリンク方式ほうしき採用さいようげられる。後者こうしゃは、はらによる考案こうあんで、2つの車輪しゃりんれんなり懸架けんか(ボギーしき)していちくみにし、それを前後ぜんごくみならべてよこばね(よこきコイルスプリング)でつな衝撃しょうげき吸収きゅうしゅうするものである。ほんしゃでの実用じつよう結果けっか成功せいこう判定はんていされてきゅうしきけい戦車せんしゃ(ハごう)やきゅうななしきちゅう戦車せんしゃ(チハしゃ)などにも採用さいようされ、国産こくさん機甲きこう兵器へいき代表だいひょうてきなサスペンション形式けいしきとなった。

旋回せんかい可能かのう砲塔ほうとうは、車体しゃたい中心ちゅうしん線上せんじょうではなく、やや右寄みぎよりにかたよって配置はいちされている。武装ぶそうきゅう一式いっしき車載しゃさいけい機関きかんじゅう1てい砲塔ほうとうつのみで、本来ほんらい自衛じえいようだった。後期こうきがたでは新型しんがたきゅうななしき車載しゃさいじゅう機関きかんじゅうかわそうされている。車載しゃさい機関きかんじゅうは、砲塔ほうとうじゅうからはずして、きゃくけ、車外しゃがい使用しようすることができた。しかしながら、機銃きじゅうしゅかたちからによる人力じんりき旋回せんかい方式ほうしきとはいえ、砲塔ほうとう形式けいしき採用さいようしたことにより、使つか勝手がってく、これは参考さんこうにしたカーデン・ロイドまめ戦車せんしゃや、各国かっこくまめ戦車せんしゃ比較ひかくして、ほんしゃ長所ちょうしょとして特筆とくひつされるものである。に、砲塔ほうとう車体しゃたい各所かくしょ拳銃けんじゅう射撃しゃげきあな(ピストルポート)がもうけられ、近接きんせつ攻撃こうげき仕掛しかけてくるてきへい対応たいおうした。

装甲そうこう滲炭しんたん鋼板こうはん採用さいようされ、12mmの装甲そうこうあつで7.7mmだんえることが出来でき性能せいのうゆうしていた[1]。なお、ほんしゃ名称めいしょうこそけい装甲車そうこうしゃであるが、きゅうしきじゅう装甲車そうこうしゃよりも装甲そうこうあつい。しかし実戦じっせんにおいては中国ちゅうごくぐん7.92mmだん仕様しようモーゼルしき小銃しょうじゅうのような強力きょうりょく小銃しょうじゅうにより、命中めいちゅうだん破片はへん車内しゃないんだり、場合ばあいによっては破損はそん貫通かんつう被害ひがいけてしまった[ちゅう 3]。ましてや37mmたい戦車せんしゃほうのような対戦たいせんしゃ兵器へいきまえにはまったくの無力むりょくで、後述こうじゅつ南京なんきん攻略こうりゃくせんのようにおおきな損害そんがいすこともあった。それでも、にちちゅう戦争せんそうでは中国ちゅうごくがわ対戦たいせんしゃ兵器へいき有効ゆうこう活用かつようしなかったため、戦車せんしゃのような活躍かつやくができた。

ほんしゃは、変速へんそく装置そうち起動きどう(スプロケットホイール)が車体しゃたい前方ぜんぽうにある前輪ぜんりん駆動くどう方式ほうしき(フロントエンジン・フロントドライブ方式ほうしき)であり、空冷くうれい直列ちょくれつ4気筒きとうガソリンエンジンは車体しゃたい前部ぜんぶ左側ひだりがわにあり、消音しょうおん(マフラー)は戦闘せんとうしつ左側ひだりがわめんに1つ配置はいちされた。

乗員じょういんは2めいであり、車体しゃたい前部ぜんぶ右側みぎがわ操縦そうじゅうしゅせき操縦そうじゅうしゅすわり、車体しゃたい後部こうぶ戦闘せんとうしつ砲塔ほうとうくるまちょうけん機銃きじゅうしゅつ。操縦そうじゅうしゅせき上面うわつら砲塔ほうとう上面うわつらにはぜんひらしき乗降じょうこうようハッチがもうけられていた。車体しゃたいめんには、戦闘せんとう使用しようする、みぎひらしき大型おおがた乗降じょうこうようとびらもうけられていた。

欠点けってん

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武漢ぶかん作戦さくせんにおけるきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ

実戦じっせん経験けいけん結果けっかきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ欠点けってんとして、つぎのようなことが指摘してきされた。

  1. 武装ぶそうけい機関きかんじゅうのみで、火力かりょく不足ふそく
  2. 装甲そうこう防御ぼうぎょりょく不足ふそく
  3. 牽引けんいんしゃとしては、エンジン馬力ばりき不足ふそく
  4. となったエンジンと操縦そうじゅうしゅせきあいだに、仕切しきりがないので、エンジンのはっする高熱こうねつ騒音そうおんが、操縦そうじゅうしゅ負担ふたんとなった。
  5. エンジン馬力ばりき不足ふそく接地せっち面積めんせき不足ふそくで、あく走破そうはせいなんがあった。また機銃きじゅう発射はっしゃ車体しゃたい安定あんていしなかった。
  6. 無線むせん車内しゃない通信つうしん機器きき装備そうびされておらず、通信つうしんするさい車外しゃがい手記しゅき信号しんごうつたえなければならなかった[1]
  7. 覘察あな防弾ぼうだんガラスがないただのスリットであったため、破片はへんとう負傷ふしょうするおそれがあった[1]
  8. くつたい外側そとがわガイド方式ほうしきのため、旋回せんかいはずれやすかった[1]
  9. 乗員じょういん2にんではすくない(1人ひとり負傷ふしょうしたらもう1人ひとり戦闘せんとう操縦そうじゅうをしなければならない)。

一部いちぶ欠点けってん後期こうきがた改善かいぜんされたが、すべての欠点けってん解決かいけつするにはいたらなかったため、後継こうけいきゅうななしきけい装甲車そうこうしゃテケしゃ)が開発かいはつされた。

実戦じっせん

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南京なんきん攻略こうりゃくせん中華ちゅうかもん攻撃こうげきするきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃたい。この直後ちょくごもん爆破ばくはされる

前述ぜんじゅつのようにほんしゃおもにちちゅう戦争せんそうにおいて活躍かつやくした。そのなかでもとくほんしゃひょうった戦闘せんとう紹介しょうかいする。

南京なんきん攻略こうりゃくせん - 独立どくりつけい装甲車そうこうしゃだい2中隊ちゅうたい藤田ふじた実彦さねひこ少佐しょうさ)、だい6中隊ちゅうたい井上いのうえ中尉ちゅうい
1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月、当時とうじ中華民国ちゅうかみんこく首都しゅとであった南京なんきん攻略こうりゃくには2独立どくりつけい装甲車そうこうしゃ中隊ちゅうたい機甲きこう戦力せんりょくとして参加さんかした。戦闘せんとう方針ほうしん基本きほんてきだい一線いっせん歩兵ほへいへの直接ちょくせつ協力きょうりょくだったが、随所ずいしょ機甲きこう部隊ぶたいらしいはたらきをせ、とく中華ちゅうかもん包囲ほういし、城壁じょうへき制圧せいあつするけい装甲車そうこうしゃたい写真しゃしんみぎ掲)は有名ゆうめいである。ただし、一部いちぶではまめ戦車せんしゃとしての限界げんかい露呈ろていした。鉄心てっしんきょう付近ふきん戦闘せんとうでは対戦たいせんしゃほうせにより、井上いのうえたい装甲車そうこうしゃ4りょう撃破げきは戦死せんし7めい)されている。
広東かんとん攻略こうりゃくせん - 独立どくりつけい装甲車そうこうしゃだい11中隊ちゅうたい上田うえだ少佐しょうさ)、だい51中隊ちゅうたい小坂こさか大尉たいい
1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつおこなわれた戦略せんりゃくじょう重要じゅうよう都市としである広東かんとん攻略こうりゃくせんは、海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい参加さんかするなど重要じゅうよう作戦さくせんであった。上記じょうき2ヶ中隊ちゅうたい実際じっさいだい52中隊ちゅうたい上陸じょうりくしたが、とらもん要塞ようさい攻略こうりゃく支援しえんたっている)は航空こうくう支援しえんもあってりょうたいきそうように進撃しんげきし、途中とちゅう対戦たいせんしゃほうによる攻撃こうげきけたほか中国ちゅうごくぐん機械きかい部隊ぶたい戦闘せんとうおこなったが、順調じゅんちょうのうち(作戦さくせんちゅうりょうたい合計ごうけい損害そんがい軽傷けいしょう8めいのみ)に広東かんとん到着とうちゃくした。あまりの進出しんしゅつはやさにオートバイった中国ちゅうごくぐん将校しょうこう自軍じぐん機械きかい部隊ぶたい間違まちがえたエピソードがのこっている。

きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ生産せいさん1940ねん昭和しょうわ15ねん)をもって終了しゅうりょうしたが、不要ふようになったわけではなく、きゅうななしきけい装甲車そうこうしゃ配備はいびされるまでのつなぎ、あるいは後方こうほう治安ちあん部隊ぶたい警備けいび車輌しゃりょうなどとして使つかわれつづけた。機甲きこう戦力せんりょく不足ふそくしていた日本にっぽんぐんでは貴重きちょう車輌しゃりょうであり、海軍かいぐん陸戦りくせんたいにも供与きょうよされている。太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう後期こうきレイテ島れいてとうたたかでは、アメリカぐん上陸じょうりくよう舟艇しゅうていたいし、偶然ぐうぜん浜辺はまべはしっていた2りょうほんしゃ銃撃じゅうげきくわえた記録きろくのこっている。大戦たいせんさい末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねん)においても、沖縄おきなわせん参加さんかした写真しゃしんがあり、本土ほんど決戦けっせんよう戦力せんりょくとしても依然いぜん存在そんざいしていた。

国外こくがいでは中華民国ちゅうかみんこく南京なんきん政府せいふ中央ちゅうおうぐんかん学校がっこうにも供与きょうよされていた[2]

バリエーション

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本社ほんしゃ生産せいさんは1935ねん昭和しょうわ9ねん)の制式せいしき採用さいようした直後ちょくごはじまり、同年どうねんに300りょうよく1936ねん昭和しょうわ11ねん)に246りょう、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に200りょう以後いごしぼられ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)の2りょうけい843りょう終了しゅうりょうした[1]

きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ 後期こうきがた

ひろ普及ふきゅうしたほんしゃには、多様たようなバリエーションが存在そんざいする。一部いちぶ通常つうじょうがた生産せいさん終了しゅうりょう生産せいさんされた。

九四式軽装甲車後期型
おつがたともばれている。 後部こうぶ誘導ゆうどう大型おおがたし、それにあわせてサスペンションを車体しゃたい後部こうぶ追加ついかくつたい接地せっちめんおおきくなったことで安定あんていせい向上こうじょうした。またフェンダー後部こうぶ延長えんちょう牽引けんいんフックの強化きょうかなどといった改修かいしゅうおこなわれた。前期ぜんきがた東京瓦斯とうきょうがす電気でんき工業こうぎょうせいでエンジンがドイツのフェノーメンけいであるのにたいし、後期こうきがたすべ三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうせいでエンジンはアメリカのフランクリンけいであった。1936ねん昭和しょうわ11ねん)から生産せいさん
きゅうよんしきかぶとごう撒車(フサしゃ)・きゅうよんしきかぶとごうけししゃ(フセしゃ
ソ連それんぐんどくガス研究けんきゅうけて陸軍りくぐんどくガスせんよう開発かいはつしたもの。前者ぜんしゃマスタードガス(きい1ごう)をき、後者こうしゃ消毒しょうどくざいさらし)をせんようのトレーラーを牽引けんいんする。
きゅうななしきうえばしらしゃきゅうななしきのべせんしゃ
通信つうしん部隊ぶたいよう作業さぎょうしゃ前者ぜんしゃ電信柱でんしんばしらて、後者こうしゃ電線でんせんく。うえばしら速度そくどは6km/h(凍土とうどで4km/h)。
きゅうななしき観測かんそく挺進ていしんしゃ
きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃもと開発かいはつされた砲兵ほうへいよう観測かんそく器材きざい
気球ききゅう繋留けいりゅうしゃ
砲兵ほうへい部隊ぶたいよう観測かんそく気球ききゅう繋留けいりゅうする。
武装ぶそう強化きょうかがた
試作しさくしゃ後期こうきがた車体しゃたいしん設計せっけいされた大型おおがたきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほう砲塔ほうとう搭載とうさい砲塔ほうとう上面うわつらのハッチは、くるまちょうけん砲手ほうしゅけん装填そうてんしゅ頭頂とうちょうおさまるよう、ややふくらんでいる。エンジンのねつによる操縦そうじゅうしゅ負担ふたんらすため、車体しゃたい左側ひだりがわめん吸気きゅうきこう三角さんかく断面だんめん大型おおがたもの変更へんこうされ、それにともない、左右さゆうフェンダーが前後ぜんご分割ぶんかつされた。
ディーゼルエンジン搭載とうさいがた
試作しさくしゃ空冷くうれいガソリンエンジンから空冷くうれいディーゼルエンジンにかわそう。そのさい車体しゃたい後部こうぶ砲塔ほうとうない左側ひだりがわくるまちょう車体しゃたい前部ぜんぶ右側みぎがわ操縦そうじゅうしゅとのあいだ意思いし疎通そつう問題もんだい改善かいぜんするために、エンジンと操縦そうじゅうしゅせき位置いちえ、エンジンが車体しゃたい前部ぜんぶ右側みぎがわ操縦そうじゅうしゅせき車体しゃたい前部ぜんぶ左側ひだりがわ変更へんこうされた。操縦そうじゅうせき車体しゃたい前部ぜんぶ左側ひだりがわへの移設いせつは、きゅうななしきけい装甲車そうこうしゃにもがれた。
トーションバーサスペンション搭載とうさいがた
試作しさくしゃ後期こうきがた車体しゃたいにトーションバーしきサスペンションをんでおり、消音しょうおん排気はいきかん位置いちことなっている。1942ねん(昭和しょうわ17ねん)ごろ走行そうこう試験しけんおこなわれている[1]
マルゴしゃ
空襲くうしゅうでの皇族こうぞく避難ひなんよう。これはほんしゃ牽引けんいんしゃとして開発かいはつされた経緯けいいじょう車体しゃたいめん大型おおがた乗降じょうこうようとびらがあり、乗降じょうこう容易よういであるとともに、ちいさくて目立めだたないからであった。内装ないそう特注とくちゅうのものが使用しようされた。近衛このえ騎兵きへい連隊れんたいうち編成へんせいされた戦車せんしゃ中隊ちゅうたい装備そうびされた。

現存げんそん車両しゃりょう

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台湾たいわん陸軍りくぐん装甲そうこうへい学校がっこうこうかん展示てんじされているきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ(前期ぜんきがた)

北京ぺきんひろしかつ博物館はくぶつかんクビンカ戦車せんしゃ博物館はくぶつかん台湾たいわん陸軍りくぐん装甲そうこうへい学校がっこうこうかん前期ぜんきがたが、オーストラリア戦争せんそう記念きねんかんとイギリスに後期こうきがたがそれぞれ1りょうずつ展示てんじされている。
実車じっしゃではないが、検討けんとうようモデルとして製作せいさくされたとおもわれる金属きんぞくせい模型もけいが、陸上りくじょう自衛隊じえいたい練馬ねりま駐屯ちゅうとん広報こうほう史料しりょうかん展示てんじされている[1]

登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが

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将軍しょうぐん参謀さんぼうへい
にちちゅう戦争せんそうえがいた1942ねん公開こうかい日本にっぽん戦争せんそう映画えいが
きむりょうじゅうさん
南京なんきん事件じけん題材だいざいとした映画えいが冒頭ぼうとう日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐん戦闘せんとうシーンできゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃが3りょう登場とうじょうしている。
作中さくちゅうでは強敵きょうてきとしてえがかれ3りょうきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ破壊はかいするために中国ちゅうごくぐん部隊ぶたい壊滅かいめつしている。

漫画まんが

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ガールズ&パンツァー リボンの武者むしゃ
砲塔ほうとうりょう側面そくめんきゅうななしき自動じどうほうけい2もんそうした究極きゅうきょく改造かいぞうくるまきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃスーパーあらため」、きゅうななしき自動じどうほう無人むじん砲塔ほうとうとしてそうした「九四式軽装甲車無人砲塔仕様」という架空かくう車輌しゃりょう登場とうじょうしている。

[1]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 一説いっせつには、「戦車せんしゃ三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうだけが製造せいぞうする」とめがなされていたため、東京瓦斯とうきょうがす電気でんき工業こうぎょう三菱みつびしがわ忖度そんたくするかたちで「特殊とくしゅ牽引けんいんしゃ」のとおしたとされている[1]
  2. ^ とくにAMR33にかんしては、当時とうじ日本にっぽん陸軍りくぐんルノー FT-17 けい戦車せんしゃおよびNCがた戦車せんしゃわせて40りょう以上いじょう購入こうにゅうしていたことから、ルノーからのみや商社しょうしゃつうじて設計せっけいなどの情報じょうほう陸軍りくぐんがわにリークされていた可能かのうせいがある[1]
  3. ^ たとえば7.92mmモーゼルだんとおるきのえだんであるS.m.K.(Spitzgeschoss mit Kern)使用しようした場合ばあい貫徹かんてつりょくは13mmであり、タングステンだんしんのS.m.K.H.(Spitzgeschoss mit Kern, Hart)をもちいれば19mmの貫徹かんてつりょく発揮はっきすることができた(いずれも、射距離しゃきょり100m、入射にゅうしゃかく0)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k きゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ吉川よしかわ かずあつし 『PANZER』2022ねん4がつごう アルゴノートしゃ p47~p64
  2. ^ 藤田ふじた昌雄まさお『もうひとつの陸軍りくぐん兵器へいき られざる鹵獲ろかく兵器へいき同盟どうめいぐん実態じったい光人みつひとしゃ 2004ねん ISBN 4-7698-1168-3

参考さんこう文献ぶんけん・リンク

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関連かんれん項目こうもく

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