九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ TK (きゅうよんしきけいそうこうしゃTK)は、1930年代 ねんだい に日本 にっぽん 陸軍 りくぐん が開発 かいはつ した装甲車 そうこうしゃ 。「TK」とは秘匿 ひとく 名称 めいしょう としてつけられた「特殊 とくしゅ 牽引 けんいん 車 しゃ [ 注 ちゅう 1] 」の頭字 かしらじ 語 ご である。また「ホ号 ごう 」とも称 しょう されたり、部隊 ぶたい 内 ない では「豆 まめ 戦車 せんしゃ 」の愛称 あいしょう で親 した しまれていた[ 1] 。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう で実戦 じっせん 投入 とうにゅう され、当初 とうしょ は装甲 そうこう 牽引 けんいん 自動車 じどうしゃ として運用 うんよう されていたが、主力 しゅりょく 中 ちゅう 戦車 せんしゃ である八 はち 九 きゅう 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ の穴埋 あなう めとしての役割 やくわり もあった。
九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ は、元々 もともと は最前線 さいぜんせん で弾薬 だんやく 等 ひとし の危険 きけん 物 ぶつ を運 はこ ぶ牽引 けんいん 車 しゃ として開発 かいはつ され、物資 ぶっし を積載 せきさい し牽引 けんいん する専用 せんよう トレーラーとして、九 きゅう 四 よん 式 しき 三 さん /四 よん 屯 たむろ 被 ひ 牽引 けんいん 車 しゃ (750kgまで搭載 とうさい 可能 かのう )が同時 どうじ に採用 さいよう された。
カーデンロイド豆 まめ 戦車 せんしゃ Mk.VI
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん (陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 本部 ほんぶ )は、1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )にイギリス からカーデン・ロイド豆 まめ 戦車 せんしゃ Mk.VIを2両 りょう 輸入 ゆにゅう し、翌 よく 1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )3月 がつ から10月 がつ まで、歩兵 ほへい 学校 がっこう および騎兵 きへい 学校 がっこう による、各種 かくしゅ 試験 しけん を行 おこな った。結果 けっか 、「直接 ちょくせつ の戦闘 せんとう には向 む かないが、燃料 ねんりょう ・弾薬 だんやく 等 とう の輸送 ゆそう の他 ほか 、索敵 さくてき 、警戒 けいかい 、指揮 しき などに適性 てきせい が見出 みだ せる」と高 たか く評価 ひょうか され、歩兵 ほへい ・騎兵 きへい いずれも、戦車 せんしゃ 隊 たい や装甲車 そうこうしゃ 隊 たい の補助 ほじょ 車輌 しゃりょう としての使用 しよう を求 もと めた。
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )9月 がつ には、歩兵 ほへい の進撃 しんげき を助 たす ける「歩兵 ほへい 戦闘 せんとう 用 よう 豆 まめ 戦車 せんしゃ 」についての研究 けんきゅう が始 はじ まり、同時 どうじ に、戦場 せんじょう で弾薬 だんやく や物資 ぶっし を運搬 うんぱん する「装甲 そうこう 牽引 けんいん 自動車 じどうしゃ 」についても、意見 いけん 交換 こうかん がなされ、小型 こがた の補助 ほじょ 車両 しゃりょう の研究 けんきゅう が本格 ほんかく 化 か していった。
そこでカーデン・ロイド豆 まめ 戦車 せんしゃ Mk.VIを参考 さんこう に、1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )7月 がつ に陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 本部 ほんぶ にて原 はら 乙未 おとみ 生 せい により設計 せっけい が開始 かいし 、同年 どうねん 12月 がつ に東京瓦斯 とうきょうがす 電気 でんき 工業 こうぎょう に試作 しさく が発注 はっちゅう され、1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )3月 がつ に試作 しさく 車 しゃ が完成 かんせい した。1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )に本体 ほんたい は「九 きゅう 四 よん 式 しき 装甲 そうこう 牽引 けんいん 自動車 じどうしゃ 」、トレーラーは「九 きゅう 四 よん 式 しき 四 よん 分 ぶん の三 さん 屯 たむろ 積 せき 被 ひ 牽引 けんいん 車 しゃ 」として陸軍 りくぐん に仮 かり 制式 せいしき 化 か された。
支 ささえ 那 な 事変 じへん 中 ちゅう の九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 。九 きゅう 四 よん 式 しき 三 さん /四 よん 屯 たむろ 被 ひ 牽引 けんいん 車 しゃ を連結 れんけつ している(1938年 ねん )
牽引 けんいん 車 しゃ として採用 さいよう された本 ほん 車 しゃ だが、出来上 できあ がってみると非常 ひじょう に使 つか い勝手 がって のよい豆 まめ 戦車 せんしゃ (タンケッテ)となった。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ もこれに目 め をつけ、呼称 こしょう を「装甲 そうこう 牽引 けんいん 車 しゃ 」から「軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 」に変更 へんこう するよう命 めい じ、1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )に「九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 」と改称 かいしょう され、同年 どうねん 、部隊 ぶたい 配備 はいび が開始 かいし され、戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい に本 ほん 車 しゃ 1個 いっこ 小隊 しょうたい が編成 へんせい され、11個 いっこ の師団 しだん に軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 訓練 くんれん 所 しょ が新設 しんせつ され、機甲 きこう 兵器 へいき の普及 ふきゅう ・運用 うんよう の母体 ぼたい となった。
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の12個 こ 師団 しだん に各 かく 1個 いっこ ずつ、独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 中隊 ちゅうたい (定数 ていすう 17両 りょう )が順次 じゅんじ 新設 しんせつ 編成 へんせい され、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )7月 がつ 7日 にち に支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )が勃発 ぼっぱつ すると、本 ほん 車 しゃ も機甲 きこう 戦力 せんりょく として戦場 せんじょう に送 おく られた。独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 中隊 ちゅうたい には戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい と同 おな じような任務 にんむ が与 あた えられることが多 おお かった。
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )10月 がつ 、独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 中隊 ちゅうたい は戦車 せんしゃ 連隊 れんたい に昇格 しょうかく し、更 さら にその後 ご 、戦車 せんしゃ 連隊 れんたい によって戦車 せんしゃ 師団 しだん が編成 へんせい され、戦車 せんしゃ 師団 しだん は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の機甲 きこう 兵器 へいき 運用 うんよう の中核 ちゅうかく となっていった。
一方 いっぽう 、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )頃 ごろ 、師団 しだん 騎兵 きへい は捜索 そうさく 連隊 れんたい に改編 かいへん され、軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 中隊 ちゅうたい (7~16両 りょう )が新設 しんせつ され、馬 うま に替 か わる移動 いどう 手段 しゅだん として軽 けい 装甲車 そうこうしゃ が採用 さいよう され、本 ほん 車 しゃ は歩兵 ほへい 師団 しだん が独自 どくじ に運用 うんよう できる唯一 ゆいいつ の装 そう 軌式装甲 そうこう 戦闘 せんとう 車両 しゃりょう として重宝 ちょうほう され、捜索 そうさく (偵察 ていさつ )・連絡 れんらく 等 とう の任務 にんむ 以外 いがい にも、歩兵 ほへい 戦闘 せんとう 時 じ の支援 しえん 車両 しゃりょう として火力 かりょく 支援 しえん を行 おこな った。
本 ほん 車 しゃ は非常 ひじょう に小型 こがた の車両 しゃりょう であったため、戦車 せんしゃ としては非力 ひりき な面 めん もあったものの、簡易 かんい な支援 しえん 態勢 たいせい でも運用 うんよう することが可能 かのう であった。専用 せんよう のトレーラーでなく通常 つうじょう のトラックにも搭載 とうさい でき、また工兵 こうへい の支援 しえん や戦車 せんしゃ 橋 きょう がなくとも丸太 まるた 2本 ほん を渡 わた せば渡河 とか ができるなど、歩兵 ほへい 部隊 ぶたい への追随 ついずい には非常 ひじょう に好都合 こうつごう だった。
1935年 ねん 頃 ごろ
九 きゅう 四 よん 式 しき は参考 さんこう 元 もと となったMk.VIとは全 まった く異 こと なったデザインとなっている。一方 いっぽう で独立 どくりつ した砲塔 ほうとう を有 ゆう し、乗員 じょういん 配置 はいち やエンジンと変速 へんそく 機 き のセットが縦 たて 置 お きとなっている点 てん は同年代 どうねんだい に開発 かいはつ されたルノーAMR33 騎兵 きへい 戦車 せんしゃ やヴィッカース軽 けい 戦車 せんしゃ シリーズの影響 えいきょう を受 う けていると推測 すいそく されている[ 1] [ 注 ちゅう 2] 。
設計 せっけい 上 じょう の特徴 とくちょう として溶接 ようせつ 構造 こうぞう の採用 さいよう と、サスペンション への関連 かんれん リンク方式 ほうしき の採用 さいよう が挙 あ げられる。後者 こうしゃ は、原 はら による考案 こうあん で、2つの車輪 しゃりん を連 れん 成 なり 懸架 けんか (ボギー式 しき )して一 いち 組 くみ にし、それを前後 ぜんご に二 に 組 くみ 並 なら べて横 よこ ばね(横 よこ 置 お きコイルスプリング)で繋 つな げ衝撃 しょうげき を吸収 きゅうしゅう するものである。本 ほん 車 しゃ での実用 じつよう 結果 けっか 、成功 せいこう と判定 はんてい されて九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ (ハ号 ごう )や九 きゅう 七 なな 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ (チハ車 しゃ )などにも採用 さいよう され、国産 こくさん 機甲 きこう 兵器 へいき の代表 だいひょう 的 てき なサスペンション形式 けいしき となった。
旋回 せんかい 可能 かのう な砲塔 ほうとう は、車体 しゃたい 中心 ちゅうしん 線上 せんじょう ではなく、やや右寄 みぎよ りに偏 かたよ って配置 はいち されている。武装 ぶそう は九 きゅう 一式 いっしき 車載 しゃさい 軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう 1艇 てい を砲塔 ほうとう に持 も つのみで、本来 ほんらい は自衛 じえい 用 よう だった。後期 こうき 型 がた では新型 しんがた の九 きゅう 七 なな 式 しき 車載 しゃさい 重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう に換 かわ 装 そう されている。車載 しゃさい 機関 きかん 銃 じゅう は、砲塔 ほうとう の銃 じゅう 架 か から取 と り外 はず して、二 に 脚 きゃく 架 か を取 と り付 つ け、車外 しゃがい で使用 しよう することができた。しかしながら、機銃 きじゅう 手 しゅ の肩 かた の力 ちから による人力 じんりき 旋回 せんかい 方式 ほうしき とはいえ、砲塔 ほうとう 形式 けいしき を採用 さいよう した事 こと により、使 つか い勝手 がって が良 よ く、これは参考 さんこう にしたカーデン・ロイド豆 まめ 戦車 せんしゃ や、各国 かっこく の豆 まめ 戦車 せんしゃ と比較 ひかく して、本 ほん 車 しゃ の長所 ちょうしょ として特筆 とくひつ されるものである。他 た に、砲塔 ほうとう と車体 しゃたい の各所 かくしょ に拳銃 けんじゅう 射撃 しゃげき 孔 あな (ピストルポート)が設 もう けられ、近接 きんせつ 攻撃 こうげき を仕掛 しか けてくる敵 てき 兵 へい に対応 たいおう した。
装甲 そうこう は滲炭 しんたん 鋼板 こうはん が採用 さいよう され、12mmの装甲 そうこう 厚 あつ で7.7mm弾 だん に耐 た えることが出来 でき る性能 せいのう を有 ゆう していた[ 1] 。なお、本 ほん 車 しゃ は名称 めいしょう こそ軽 けい 装甲車 そうこうしゃ であるが、九 きゅう 二 に 式 しき 重 じゅう 装甲車 そうこうしゃ よりも装甲 そうこう は厚 あつ い。しかし実戦 じっせん においては中国 ちゅうごく 軍 ぐん の持 も つ7.92mm弾 だん 仕様 しよう のモーゼル式 しき 小銃 しょうじゅう のような強力 きょうりょく な小銃 しょうじゅう により、命中 めいちゅう 弾 だん の破片 はへん が車内 しゃない に飛 と び込 こ んだり、場合 ばあい によっては破損 はそん や貫通 かんつう の被害 ひがい を受 う けてしまった[ 注 ちゅう 3] 。ましてや37mm対 たい 戦車 せんしゃ 砲 ほう のような対戦 たいせん 車 しゃ 兵器 へいき の前 まえ には全 まった くの無力 むりょく で、後述 こうじゅつ の南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん のように大 おお きな損害 そんがい を出 だ すこともあった。それでも、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう では中国 ちゅうごく 側 がわ が対戦 たいせん 車 しゃ 兵器 へいき を有効 ゆうこう に活用 かつよう しなかったため、戦車 せんしゃ のような活躍 かつやく ができた。
本 ほん 車 しゃ は、変速 へんそく 装置 そうち と起動 きどう 輪 わ (スプロケットホイール)が車体 しゃたい 前方 ぜんぽう にある前輪 ぜんりん 駆動 くどう 方式 ほうしき (フロントエンジン・フロントドライブ方式 ほうしき )であり、空冷 くうれい 直列 ちょくれつ 4気筒 きとう ガソリンエンジンは車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 左側 ひだりがわ にあり、消音 しょうおん 器 き (マフラー)は戦闘 せんとう 室 しつ 左側 ひだりがわ 面 めん に1つ配置 はいち された。
乗員 じょういん は2名 めい であり、車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 右側 みぎがわ の操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき に操縦 そうじゅう 手 しゅ が座 すわ り、車体 しゃたい 後部 こうぶ の戦闘 せんとう 室 しつ と砲塔 ほうとう に車 くるま 長 ちょう 兼 けん 機銃 きじゅう 手 しゅ が立 た つ。操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき 上面 うわつら と砲塔 ほうとう 上面 うわつら には前 ぜん 開 ひら き式 しき の乗降 じょうこう 用 よう ハッチが設 もう けられていた。車体 しゃたい 後 ご 面 めん には、戦闘 せんとう 時 じ に使用 しよう する、右 みぎ 開 ひら き式 しき の大型 おおがた 乗降 じょうこう 用 よう 扉 とびら が設 もう けられていた。
武漢 ぶかん 作戦 さくせん における九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ
実戦 じっせん 経験 けいけん の結果 けっか 、九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ の欠点 けってん として、次 つぎ のようなことが指摘 してき された。
武装 ぶそう が軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう のみで、火力 かりょく が不足 ふそく 。
装甲 そうこう 防御 ぼうぎょ 力 りょく が不足 ふそく 。
牽引 けんいん 車 しゃ としては、エンジン馬力 ばりき が不足 ふそく 。
隣 とな り合 あ ったエンジンと操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき の間 あいだ に、仕切 しき りがないので、エンジンの発 はっ する高熱 こうねつ と騒音 そうおん が、操縦 そうじゅう 手 しゅ の負担 ふたん となった。
エンジン馬力 ばりき の不足 ふそく と接地 せっち 面積 めんせき の不足 ふそく で、悪 あく 路 ろ の走破 そうは 性 せい に難 なん があった。また機銃 きじゅう 発射 はっしゃ 時 じ に車体 しゃたい が安定 あんてい しなかった。
無線 むせん 機 き や車内 しゃない 通信 つうしん 機器 きき が装備 そうび されておらず、通信 つうしん する際 さい は車外 しゃがい に出 で て手記 しゅき 信号 しんごう で伝 つた えなければならなかった[ 1] 。
覘察孔 あな に防弾 ぼうだん ガラス がないただのスリットであったため、破片 はへん 等 とう で眼 め を負傷 ふしょう する恐 おそ れがあった[ 1] 。
履 くつ 帯 たい が外側 そとがわ ガイド方式 ほうしき のため、旋回 せんかい 時 じ に外 はず れやすかった[ 1] 。
乗員 じょういん 2人 にん では少 すく ない(1人 ひとり が負傷 ふしょう したらもう1人 ひとり が戦闘 せんとう と操縦 そうじゅう をしなければならない)。
一部 いちぶ の欠点 けってん は後期 こうき 型 がた で改善 かいぜん されたが、すべての欠点 けってん を解決 かいけつ するには至 いた らなかったため、後継 こうけい の九 きゅう 七 なな 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ (テケ車 しゃ )が開発 かいはつ された。
南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん で中華 ちゅうか 門 もん を攻撃 こうげき する九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 隊 たい 。この直後 ちょくご に門 もん は爆破 ばくは される
前述 ぜんじゅつ のように本 ほん 車 しゃ は主 おも に日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう において活躍 かつやく した。その中 なか でも特 とく に本 ほん 車 しゃ が表 ひょう に立 た った戦闘 せんとう を紹介 しょうかい する。
南京 なんきん 攻略 こうりゃく 戦 せん - 独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 第 だい 2中隊 ちゅうたい (藤田 ふじた 実彦 さねひこ 少佐 しょうさ )、第 だい 6中隊 ちゅうたい (井上 いのうえ 中尉 ちゅうい )
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )12月、当時 とうじ の中華民国 ちゅうかみんこく 首都 しゅと であった南京 なんきん の攻略 こうりゃく には2個 こ の独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 中隊 ちゅうたい が機甲 きこう 戦力 せんりょく として参加 さんか した。戦闘 せんとう 方針 ほうしん は基本 きほん 的 てき に第 だい 一線 いっせん の歩兵 ほへい への直接 ちょくせつ 協力 きょうりょく だったが、随所 ずいしょ で機甲 きこう 部隊 ぶたい らしい働 はたら きを見 み せ、特 とく に中華 ちゅうか 門 もん を包囲 ほうい し、城壁 じょうへき を制圧 せいあつ する軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 隊 たい の写真 しゃしん (右 みぎ 掲)は有名 ゆうめい である。ただし、一部 いちぶ では豆 まめ 戦車 せんしゃ としての限界 げんかい も露呈 ろてい した。鉄心 てっしん 橋 きょう 付近 ふきん の戦闘 せんとう では対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう の待 ま ち伏 ぶ せにより、井上 いのうえ 隊 たい の装甲車 そうこうしゃ 4両 りょう が撃破 げきは (戦死 せんし 7名 めい )されている。
広東 かんとん 攻略 こうりゃく 戦 せん - 独立 どくりつ 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 第 だい 11中隊 ちゅうたい (上田 うえだ 少佐 しょうさ )、第 だい 51中隊 ちゅうたい (小坂 こさか 大尉 たいい )
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )10月 がつ に行 おこな われた戦略 せんりゃく 上 じょう の重要 じゅうよう 都市 とし である広東 かんとん 攻略 こうりゃく 戦 せん は、海軍 かいぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい も参加 さんか するなど重要 じゅうよう 作戦 さくせん であった。上記 じょうき 2ヶ中隊 ちゅうたい (実際 じっさい は第 だい 52中隊 ちゅうたい も上陸 じょうりく したが、虎 とら 門 もん 要塞 ようさい 攻略 こうりゃく 支援 しえん に当 あ たっている)は航空 こうくう 支援 しえん もあって両 りょう 隊 たい が競 きそ い合 あ うように進撃 しんげき し、途中 とちゅう で対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう による攻撃 こうげき を受 う けたほか中国 ちゅうごく 軍 ぐん の機械 きかい 化 か 部隊 ぶたい と戦闘 せんとう を行 おこな ったが、順調 じゅんちょう のうち(作戦 さくせん 中 ちゅう 両 りょう 隊 たい の合計 ごうけい 損害 そんがい は軽傷 けいしょう 8名 めい のみ)に広東 かんとん に到着 とうちゃく した。あまりの進出 しんしゅつ の早 はや さにオートバイ に乗 の った中国 ちゅうごく 軍 ぐん 将校 しょうこう が自軍 じぐん の機械 きかい 化 か 部隊 ぶたい と間違 まちが えたエピソードが残 のこ っている。
九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ の生産 せいさん は1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )をもって終了 しゅうりょう したが、不要 ふよう になったわけではなく、九 きゅう 七 なな 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ が配備 はいび されるまでの繋 つな ぎ、あるいは後方 こうほう の治安 ちあん 部隊 ぶたい の警備 けいび 車輌 しゃりょう などとして使 つか われ続 つづ けた。機甲 きこう 戦力 せんりょく の不足 ふそく していた日本 にっぽん 軍 ぐん では貴重 きちょう な車輌 しゃりょう であり、海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい にも供与 きょうよ されている。太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )後期 こうき のレイテ島 れいてとう の戦 たたか い では、アメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に対 たい し、偶然 ぐうぜん 浜辺 はまべ を走 はし っていた2輌 りょう の本 ほん 車 しゃ が銃撃 じゅうげき を加 くわ えた記録 きろく が残 のこ っている。大戦 たいせん 最 さい 末期 まっき の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )においても、沖縄 おきなわ 戦 せん に参加 さんか した写真 しゃしん があり、本土 ほんど 決戦 けっせん 用 よう の戦力 せんりょく としても依然 いぜん 存在 そんざい していた。
国外 こくがい では中華民国 ちゅうかみんこく 南京 なんきん 政府 せいふ の中央 ちゅうおう 軍 ぐん 官 かん 学校 がっこう にも供与 きょうよ されていた[ 2] 。
本社 ほんしゃ の生産 せいさん は1935年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )の制式 せいしき 採用 さいよう した直後 ちょくご に始 はじ まり、同年 どうねん に300輌 りょう 、翌 よく 1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )に246輌 りょう 、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )に200輌 りょう と以後 いご は絞 しぼ られ、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )の2輌 りょう の計 けい 843輌 りょう で終了 しゅうりょう した[ 1] 。
九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ 後期 こうき 型 がた
広 ひろ く普及 ふきゅう した本 ほん 車 しゃ には、多様 たよう なバリエーションが存在 そんざい する。一部 いちぶ は通常 つうじょう 型 がた の生産 せいさん 終了 しゅうりょう 後 ご も生産 せいさん された。
九四式軽装甲車後期型
乙 おつ 型 がた とも呼 よ ばれている。 後部 こうぶ 誘導 ゆうどう 輪 わ を大型 おおがた 化 か し、それに併 あわ せてサスペンションを車体 しゃたい 後部 こうぶ に追加 ついか 、履 くつ 帯 たい の接地 せっち 面 めん が大 おお きくなったことで安定 あんてい 性 せい が向上 こうじょう した。またフェンダー後部 こうぶ の延長 えんちょう や牽引 けんいん フックの強化 きょうか などといった改修 かいしゅう が行 おこな われた。前期 ぜんき 型 がた が東京瓦斯 とうきょうがす 電気 でんき 工業 こうぎょう 製 せい でエンジンがドイツ のフェノーメン系 けい であるのに対 たい し、後期 こうき 型 がた は全 すべ て三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう 製 せい でエンジンはアメリカのフランクリン系 けい であった。1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )から生産 せいさん 。
九 きゅう 四 よん 式 しき 甲 かぶと 号 ごう 撒車 (フサ車 しゃ )・九 きゅう 四 よん 式 しき 甲 かぶと 号 ごう 消 けし 車 しゃ (フセ車 しゃ )
ソ連 それん 軍 ぐん の毒 どく ガス研究 けんきゅう を受 う けて陸軍 りくぐん が毒 どく ガス戦 せん 用 よう に開発 かいはつ したもの。前者 ぜんしゃ はマスタードガス (きい1号 ごう )を撒 ま き、後者 こうしゃ は消毒 しょうどく 剤 ざい (さらし粉 こ )を撒 ま く専 せん 用 よう のトレーラーを牽引 けんいん する。
九 きゅう 七 なな 式 しき 植 うえ 柱 ばしら 車 しゃ ・九 きゅう 七 なな 式 しき 延 のべ 線 せん 車 しゃ
通信 つうしん 部隊 ぶたい 用 よう の作業 さぎょう 車 しゃ 。前者 ぜんしゃ は電信柱 でんしんばしら を立 た て、後者 こうしゃ は電線 でんせん を引 ひ く。植 うえ 柱 ばしら 速度 そくど は6km/h(凍土 とうど で4km/h)。
九 きゅう 七 なな 式 しき 観測 かんそく 挺進 ていしん 車 しゃ
九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ を基 もと に開発 かいはつ された砲兵 ほうへい 用 よう の観測 かんそく 器材 きざい 。
気球 ききゅう 繋留 けいりゅう 車 しゃ
砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい 用 よう の観測 かんそく 気球 ききゅう を繋留 けいりゅう する。
武装 ぶそう 強化 きょうか 型 がた
試作 しさく 車 しゃ 。後期 こうき 型 がた 車体 しゃたい に新 しん 設計 せっけい された大型 おおがた の九 きゅう 四 よん 式 しき 三 さん 十 じゅう 七 なな 粍 みりめーとる 戦車 せんしゃ 砲 ほう 砲塔 ほうとう を搭載 とうさい 。砲塔 ほうとう 上面 うわつら のハッチは、車 くるま 長 ちょう 兼 けん 砲手 ほうしゅ 兼 けん 装填 そうてん 手 しゅ の頭頂 とうちょう 部 ぶ が収 おさ まる様 よう 、やや膨 ふく らんでいる。エンジンの熱 ねつ による操縦 そうじゅう 手 しゅ の負担 ふたん を減 へ らすため、車体 しゃたい 左側 ひだりがわ 面 めん の吸気 きゅうき 口 こう が三角 さんかく 断面 だんめん の大型 おおがた の物 もの に変更 へんこう され、それに伴 ともな い、左右 さゆう フェンダーが前後 ぜんご に分割 ぶんかつ された。
ディーゼルエンジン搭載 とうさい 型 がた
試作 しさく 車 しゃ 。空冷 くうれい ガソリンエンジンから空冷 くうれい ディーゼルエンジンに換 かわ 装 そう 。その際 さい 、車体 しゃたい 後部 こうぶ 砲塔 ほうとう 内 ない 左側 ひだりがわ の車 くるま 長 ちょう と車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 右側 みぎがわ の操縦 そうじゅう 手 しゅ との間 あいだ の意思 いし 疎通 そつう の問題 もんだい を改善 かいぜん するために、エンジンと操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき の位置 いち を入 い れ替 か え、エンジンが車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 右側 みぎがわ 、操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき が車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 左側 ひだりがわ に変更 へんこう された。操縦 そうじゅう 席 せき の車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 左側 ひだりがわ への移設 いせつ は、九 きゅう 七 なな 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ にも受 う け継 つ がれた。
トーションバーサスペンション搭載 とうさい 型 がた
試作 しさく 車 しゃ 。後期 こうき 型 がた の車体 しゃたい にトーションバー式 しき サスペンションを組 く み込 こ んでおり、消音 しょうおん 機 き や排気 はいき 管 かん の取 と り付 つ け位置 いち も異 こと なっている。1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )頃 ごろ に走行 そうこう 試験 しけん が行 おこな われている[ 1] 。
マルゴ車 しゃ
空襲 くうしゅう 下 か での皇族 こうぞく 避難 ひなん 用 よう 。これは本 ほん 車 しゃ が牽引 けんいん 車 しゃ として開発 かいはつ された経緯 けいい 上 じょう 、車体 しゃたい 後 ご 面 めん に大型 おおがた 乗降 じょうこう 用 よう 扉 とびら があり、乗降 じょうこう が容易 ようい であると共 とも に、小 ちい さくて目立 めだ たないからであった。内装 ないそう は特注 とくちゅう のものが使用 しよう された。近衛 このえ 騎兵 きへい 連隊 れんたい 内 うち に編成 へんせい された戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい に装備 そうび された。
九 きゅう 七 なな 式 しき 植 うえ 柱 ばしら 車 しゃ
九 きゅう 七 なな 式 しき 延 のべ 線 せん 車 しゃ
台湾 たいわん の陸軍 りくぐん 装甲 そうこう 兵 へい 学校 がっこう 校 こう 史 し 館 かん に展示 てんじ されている九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ (前期 ぜんき 型 がた )
北京 ぺきん 坦 ひろし 克 かつ 博物館 はくぶつかん とクビンカ戦車 せんしゃ 博物館 はくぶつかん 、台湾 たいわん の陸軍 りくぐん 装甲 そうこう 兵 へい 学校 がっこう 校 こう 史 し 館 かん に前期 ぜんき 型 がた が、オーストラリア戦争 せんそう 記念 きねん 館 かん とイギリスに後期 こうき 型 がた がそれぞれ1両 りょう ずつ展示 てんじ されている。実車 じっしゃ ではないが、検討 けんとう 用 よう モデルとして製作 せいさく されたと思 おも われる金属 きんぞく 製 せい 模型 もけい が、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 練馬 ねりま 駐屯 ちゅうとん 地 ち 広報 こうほう 史料 しりょう 館 かん に展示 てんじ されている[ 1] 。
『将軍 しょうぐん と参謀 さんぼう と兵 へい 』
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう を描 えが いた1942年 ねん 公開 こうかい の日本 にっぽん の戦争 せんそう 映画 えいが 。
『金 きむ 陵 りょう 十 じゅう 三 さん 釵 』
南京 なんきん 事件 じけん を題材 だいざい とした映画 えいが で冒頭 ぼうとう の日本 にっぽん 軍 ぐん と中国 ちゅうごく 軍 ぐん の戦闘 せんとう シーンで九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ が3両 りょう 登場 とうじょう している。
作中 さくちゅう では強敵 きょうてき として描 えが かれ3両 りょう の九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ を破壊 はかい するために中国 ちゅうごく 軍 ぐん の部隊 ぶたい が壊滅 かいめつ している。
『ガールズ&パンツァー リボンの武者 むしゃ 』
砲塔 ほうとう 両 りょう 側面 そくめん に九 きゅう 七 なな 式 しき 自動 じどう 砲 ほう を計 けい 2門 もん 架 か 装 そう した究極 きゅうきょく の魔 ま 改造 かいぞう 車 くるま 「九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ スーパー改 あらため 」、九 きゅう 七 なな 式 しき 自動 じどう 砲 ほう を無人 むじん 砲塔 ほうとう として架 か 装 そう した「九四式軽装甲車無人砲塔仕様」という架空 かくう 車輌 しゃりょう が登場 とうじょう している。
[1]
^ 一説 いっせつ には、「戦車 せんしゃ は三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう だけが製造 せいぞう する」と取 と り決 き めがなされていたため、東京瓦斯 とうきょうがす 電気 でんき 工業 こうぎょう が三菱 みつびし 側 がわ に忖度 そんたく する形 かたち で「特殊 とくしゅ 牽引 けんいん 車 しゃ 」の名 な で通 とお したとされている[ 1] 。
^ 特 とく にAMR33に関 かん しては、当時 とうじ の日本 にっぽん 陸軍 りくぐん がルノー FT-17 軽 けい 戦車 せんしゃ およびNC型 がた 戦車 せんしゃ を合 あ わせて40両 りょう 以上 いじょう 購入 こうにゅう していたことから、ルノー からの売 う り込 こ みや商社 しょうしゃ を通 つう じて設計 せっけい 図 ず などの情報 じょうほう が陸軍 りくぐん 側 がわ にリークされていた可能 かのう 性 せい がある[ 1] 。
^ 例 たと えば7.92mmモーゼル弾 だん の徹 とおる 甲 きのえ 弾 だん であるS.m.K.(Spitzgeschoss mit Kern) を使用 しよう した場合 ばあい の貫徹 かんてつ 力 りょく は13mmであり、タングステン弾 だん 芯 しん のS.m.K.H.(Spitzgeschoss mit Kern, Hart)を用 もち いれば19mmの貫徹 かんてつ 力 りょく を発揮 はっき する事 こと ができた(いずれも、射距離 しゃきょり 100m、入射 にゅうしゃ 角 かく 0度 ど )。
『戦車 せんしゃ 戦 せん 入門 にゅうもん <日本 にっぽん 篇 へん >』(光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ )
『激闘 げきとう 戦車 せんしゃ 戦 せん 』(光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ )
『アーマーモデリング 2001/10 Vol.29』(大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが )設計 せっけい 者 しゃ に対 たい するインタビュー記事 きじ より
九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ - オーストラリア戦争 せんそう 記念 きねん 館 かん Youtube公式 こうしき 動画 どうが
『第 だい 2次 じ 大戦 たいせん の日本 にっぽん 戦車 せんしゃ 97式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 写真 しゃしん 集 しゅう 』(文 ぶん 林堂 はやしどう )
『PANZER』2022年 ねん 4月 がつ 号 ごう (アルゴノート社 しゃ )