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ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I

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ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I
1930年代ねんだい、イングランドにて移動いどうちゅうのヴィッカースちゅう戦車せんしゃ
種類しゅるい ちゅう戦車せんしゃ
はら開発かいはつこく イギリス
開発かいはつ
製造せいぞう業者ぎょうしゃ ヴィッカース
しょもと (Mk.I)
重量じゅうりょう 11.7 t
全長ぜんちょう 5.33 m
全幅ぜんぷく 2.781 m
ぜんこう 2.82 m
要員よういんすう 5 めい

装甲そうこう 6.25 mm
おもへいそう 32口径こうけい QF 3ポンド(47 mm)ほう Mk.I×1
ふくへいそう

.303(7.7 mm)M1909 ベネット=メルシェ機関きかんじゅう×4(砲塔ほうとうに4つのじゅう

.303(7.7 mm)ヴィッカースじゅう機関きかんじゅう×2(車体しゃたいりょう側面そくめん
エンジン アームストロング・シドレー V8空冷くうれいガソリンエンジン 90 hp
変速へんそく 4そく変速へんそく装置そうちから2そく遊星ゆうせいしき変速へんそく
懸架けんか駆動くどう 渦巻うずまきバネ
行動こうどう距離きょり 190 km
速度そくど 24 km/h
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ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I(Vickers Medium Mark I)は、せんあいだヴィッカースによってつくられたイギリス戦車せんしゃである。

ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.Iの参謀さんぼう本部ほんぶ制式せいしき番号ばんごうは、「A2E1」である。

背景はいけい[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん、イギリスは5大隊だいたいのみをのこして戦車せんしゃ部隊ぶたい大半たいはんかいたいした。それらはマーク V 戦車せんしゃおよびマーク C ちゅう戦車せんしゃ装備そうびしていた。戦後せんごすう年間ねんかん、イギリス政府せいふ新型しんがた戦車せんしゃ開発かいはつのために多大ただい予算よさんとうじたものの、これはMk.D ちゅう戦車せんしゃ開発かいはつ失敗しっぱいすべてがついやされた[1]。それにより、政府せいふ設計せっけい機関きかん戦車せんしゃ設計せっけいきょく」は1923ねん閉鎖へいさされた。また戦車せんしゃ開発かいはつへの直接的ちょくせつてき公的こうてき関与かんよはどれも終了しゅうりょうさせられた。わって、民間みんかん企業きぎょうであるヴィッカースしゃが、戦車せんしゃ開発かいはつにおいて躍進やくしんした。

1897ねん、マキシム・ノルデンフェルトしゃ(Maxim-Nordenfelt Guns and Ammunition Company)を買収ばいしゅうし、1919ねんメトロポリタンしゃ買収ばいしゅうし、世界せかい最大さいだい兵器へいきメーカーの1つとなったヴィッカースしゃは、ついに戦車せんしゃ製造せいぞうした。

ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ[編集へんしゅう]

1920ねん歩兵ほへい部隊ぶたいけい歩兵ほへい戦車せんしゃ要求ようきゅうする計画けいかくてた。

戦車せんしゃ設計せっけいきょく戦車せんしゃ設計せっけいしゃであるフィリップ・ヘンリー・ジョンソン大佐たいさは、Mk.D ちゅう戦車せんしゃから「けい歩兵ほへい戦車せんしゃ」をつくした。

1921ねん競争きょうそう試作しさくとして、ヴィッカースしゃは3りょうけい歩兵ほへい戦車せんしゃ開発かいはつ生産せいさんする契約けいやくむすんだ。

この「ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ」はイギリスはつけい戦車せんしゃでもあった。

最初さいしょ試作しさくしゃは1921ねん12がつまでに準備じゅんびととのい、2番目ばんめ試作しさくしゃ1922ねん7がつ準備じゅんびととのった。

王立おうりつ装甲そうこう軍団ぐんだん(Royal Armoured Corps)だい2大隊だいたい研究けんきゅう施設しせつ1928ねんに「MWEE」(機械きかいせん実験じっけん施設しせつ)に改名かいめい)が設立せつりつされ、おくられた。

ヴィッカースしゃ設計せっけいはいまだに大戦たいせん形式けいしきおもわせるものだった。これはたかく、菱形ひしがた形状けいじょうり、軌道きどうフレームに側面そくめんハッチをもうけていたが、いくつか改善かいぜんてんしめされている。ぜん周旋しゅうせんかいしき砲塔ほうとうがつき、たてしき渦巻うずまきばねの緩衝かんしょう装置そうちもうけられていた。

一方いっぽうMk.C ちゅう戦車せんしゃはなお固定こてい戦闘せんとうしつであり、緩衝かんしょう装置そうちもなかった。ヴィッカースしゃ戦車せんしゃは、Mk.C ちゅう戦車せんしゃよりもっと小型こがたで、ぜんこうはちょうど7フィート(2.13 m)、くるまじゅうはたった8.5ショートトン(7.71 t)だった。ほんしゃは、戦闘せんとうしつ機関きかんしつ区画くかくけて、機関きかんしつ収容しゅうようされた86馬力ばりきのエンジンの動力どうりょくを、より先進せんしんてき油圧ゆあつしきウィリアムス・ジェニー変速へんそく装置そうちにより変速へんそくして駆動くどうした。これはかぎりなく多様たようきょくりつでの旋回せんかい可能かのうとした。

最初さいしょ試作しさく車両しゃりょうヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ No.1登録とうろく番号ばんごう MWEE 7)は3てい(おわんがたじゅうとう円周えんしゅう沿って120角度かくどごとに装備そうび)+1てい対空たいくうようじゅうとう天井てんじょう装備そうび)のオチキス機関きかんじゅうそなえた「めすがた」バージョンである。2番目ばんめ試作しさく車両しゃりょうヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ No.2登録とうろく番号ばんごう MWEE 15)は機関きかんじゅう1ていろし、そこに3ポンド(47 mm)ほうそなえた「ゆうがた」で、対空たいくうよう機関きかんじゅう砲塔ほうとう後部こうぶ天井てんじょうに1ていそなえていた。ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ No.1/No.2は、イギリスの戦車せんしゃとしてはじめて、ぜん周旋しゅうせんかい可能かのう銃砲じゅうほうとうそなえた戦車せんしゃであった。このおわんがた銃砲じゅうほうとうは、鋳造ちゅうぞう一体いったい成型せいけいではなく、おわんがたのフレームにたたいて曲面きょくめん加工かこうした薄板うすいたびょうせっしたものである。

ほんしゃは、前任ぜんにん車両しゃりょうたちよりも、はるかに近代きんだいてき戦車せんしゃえた。砲塔ほうとう戦闘せんとうしつ前面ぜんめん、また車体しゃたい前面ぜんめんには、すべつよ曲面きょくめんそなえていた。しかし進化しんかした変速へんそく装置そうちはまるで信頼しんらいせいがないことが判明はんめいし、1922ねん晩冬ばんとう計画けいかく破棄はきされた。

ヴィッカースしゃは3番目ばんめ試作しさくしゃ製造せいぞうせず、わりに18ポンド(84 mm)野砲やほうよう運搬うんぱんしゃ製造せいぞうした。「18ポンドほう運搬うんぱんしゃ」(Vickers 18-pdr Transporter 1922)と名付なづけられたこの車両しゃりょう開発かいはつは、シェフィールドで1922ねん3がつはじまった。11月まつ試作しさくしゃファーンボロおくられた。重量じゅうりょう5 3/4トン。80 hpのウーズレーエンジン搭載とうさい速度そくど20 mph(32.2 km/h)。くつたいに「No.9 リンクトラック」を採用さいよう車体しゃたいめんしたびらきのランプがあり、車輪しゃりんきの火砲かほうをそのまま搭載とうさいし、運搬うんぱんすることができた。この車両しゃりょうは「ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ」とはなん共通きょうつうてんもなく、のどの車両しゃりょう比較ひかくしても革新かくしんてきであった。失敗しっぱいさくの「ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ」はわすられ、ヴィッカースしゃは「18ポンドほう運搬うんぱんしゃ」のシャーシ(あしまわり)を流用りゅうようして戦車せんしゃ製造せいぞうする命令めいれいけた。これが、「ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.I」となった。

ちゅう:ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.Iの開発かいはつ経緯けいいいま判然はんぜんとせず、定説ていせつをみない。18ポンドほう運搬うんぱんしゃをヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.Iの原型げんけいとするせつは、かずある仮説かせつひとつである。

シャーシ後方こうほうに(戦闘せんとうしつ架設かせつするのにうってつけなスペースである)荷台にだいがあるほう運搬うんぱんしゃをベースとしたためか、ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.Iは、車体しゃたい前方ぜんぽうほぼ中央ちゅうおうにエンジン、車体しゃたい後方こうほう戦闘せんとうしつがある、フロントエンジン・リアドライブ方式ほうしきとなった。

フランスとなら戦車せんしゃ先進せんしんこくであるイギリスの制式せいしき戦車せんしゃにフロントエンジン方式ほうしき採用さいようされたことは、当時とうじのイギリスの影響えいきょうりょくおおきさからして、(たとえば、イギリスのインディペンデントじゅう戦車せんしゃが、各国かっこく砲塔ほうとう戦車せんしゃ開発かいはつ影響えいきょうあたえたように、)1920年代ねんだいから30年代ねんだいにかけてのいくつかのくにでのフロントエンジン方式ほうしき戦車せんしゃ開発かいはつ影響えいきょうあたえた(フロントエンジン方式ほうしき戦車せんしゃ開発かいはつうながした)可能かのうせいがある。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

ほんしゃ(Mk.I/IIともに)の製造せいぞうは、ヴィッカースしゃとROFウーリッジ(Royal Ordnance Factory Woolwich、ウーリッジ王立おうりつ造兵ぞうへいしょう、ロイヤル・オードナンス)によって分担ぶんたんされた。

1922ねん後半こうはん試作しさくしゃ(プロトタイプ)が製造せいぞうされた。

また、このころ試作しさくしゃ参謀さんぼう本部ほんぶ制式せいしき番号ばんごうぐるまりょう登録とうろく番号ばんごう制度せいど導入どうにゅうされた。登録とうろく番号ばんごう(WDナンバー)は車種しゃしゅあらわす1文字もじのアルファベットとドットと2~3文字もじのアラビア数字すうじ構成こうせいされていた。ROFウーリッジの戦車せんしゃが「T.1~T.14」までの登録とうろく番号ばんごう付与ふよされたため、ヴィッカースの最初さいしょ軟鋼なんこうせい試作しさくしゃは「T.15」とされた。Tの文字もじは、タンク、トラクター、トランスポーターを意味いみする。このふる制度せいどは、そのも、あたらしい制度せいど並行へいこうして存在そんざいしていた。あたらしい制度せいどは、2文字もじのアルファベットと4けたのアラビア数字すうじ構成こうせいされていた。たとえば、T.7 の登録とうろく番号ばんごうは「ME9923」であった。登録とうろく番号ばんごう車体しゃたい前面ぜんめんかれた。

1923ねん、「ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.I」の最初さいしょ試作しさくしゃが、試験しけんのためにボービントンおくられた。同年どうねん量産りょうさん開始かいしされた。

1924ねん、ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.Iは「ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I」に分類ぶんるい変更へんこうされた。

1925ねん改良かいりょうがたの「ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.II」の製造せいぞう開始かいしされた。そのため、Mk.Iの製造せいぞう期間きかんみじかかった。

より従来じゅうらいてきになったとはいえ、いちめんではちゅう戦車せんしゃ Mk.Iの外見がいけんはやや近代きんだいてきえる。たか位置いち通過つうかする軌道きどうわりに、通過つうか個所かしょひくめられ、また5くみのボギーによる緩衝かんしょう装置そうちがつけられた。かくボギーは2くみ小型こがたてんつ。これらの車軸しゃじく非常ひじょう脆弱ぜいじゃくつくられていた。N・W・ダンカン少将しょうしょう麾下きかなか戦車せんしゃMk.IからIIIにたいし、「~なく迷惑めいわくをかける。車軸しゃじく継続けいぞくてきこわれ、Mk.I戦車せんしゃ行程こうていてられた車輪しゃりんらばっていた。」とべている。これは1931ねんに「はこがたボギー」にえられることで解決かいけつされた[2]緩衝かんしょう装置そうち補修ほしゅうやさしくするために装甲そうこうおおいの防御ぼうぎょけられなかった。車体しゃたい側面そくめんの5かしょけられたボギーケーシングには、それぞれ2ながさのことなるたてしき渦巻うずまきバネが装着そうちゃくされた。普通ふつう、10くみてん配置はいちされ、その前後ぜんごにテンション調整ちょうせいようてん1くみがつけられていた。寸法すんぽうしてくるまじゅう11.7 tはおもくはないものの、接地せっちあつ非常ひじょうたかかった。

機関きかん航空機こうくうきようから派生はせいした空冷くうれいしき90馬力ばりきアームストロング・シドレーエンジンだった。おどろくことには、エンジンと変速へんそく装置そうち車体しゃたいちゅう分散ぶんさん配置はいちされていた。エンジンは操縦そうじゅうしゅ左側ひだりがわに、変速へんそく装置そうちくるまちょうした最終さいしゅう変速へんそく後部こうぶである。ダンカン少将しょうしょう言及げんきゅうでは「戦時せんじ経験けいけんからみてしんじがたい退行たいこう段階だんかい」としている。マーク B ちゅう戦車せんしゃとマーク VIII 戦車せんしゃではエンジンの騒音そうおんねつ乗員じょういんあたえる消耗しょうもうかるくするため、区画くかく導入どうにゅうされている。しかしちゅう戦車せんしゃMk.Iでは保守ほしゅ点検てんけん容易たやすさをかんがえることが優先ゆうせんされた(一応いちおういた区切くぎられてはいる)。

[1]
[2]

うえ)ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ内部ないぶ構造こうぞう前方ぜんぽう右側みぎがわ操縦そうじゅうせきがあり、その左側ひだりがわにエンジンが設置せっちされる。中央ちゅうおうくるまちょうだい後方こうほう右側みぎがわ乗降じょうこうとびらで、その左側ひだりがわ燃料ねんりょうタンクが設置せっちされる。車体しゃたいりょう側面そくめんにも乗降じょうこうとびらがある。

エンジンの駆動くどうりょく乾式かんしきいたクラッチから4そく変速へんそく装置そうちく。シンクロメッシュはついておらず、おおきな騒音そうおんなしでのギアあいだ変更へんこう操縦そうじゅうしゅにとり試練しれんだった[2]駆動くどうじく変速へんそく装置そうちにつながり、戦車せんしゃ後部こうぶのベベルボックスにく。ここではりょう側面そくめん無限むげん軌道きどうのため、別個べっこ遊星ゆうせいギアに動力どうりょく分配ぶんぱいする。もし車両しゃりょう障害しょうがいぶつや軟土のため急速きゅうそく速度そくどとすと、これらのギアには自動的じどうてき予備よび緊急きんきゅうよう回転かいてんりょくあたえられる。

ガソリンタンクは車体しゃたいさい後部こうぶちかくにもうけられた。このため燃料ねんりょう系統けいとう車体しゃたい全体ぜんたいはしらさねばならず、エンジンに燃料ねんりょうそそだいタンクへの供給きょうきゅう重力じゅうりょくもちいていた。エンジンのきゅうあぶら部分ぶぶんてき冷却れいきゃくはオイルでおこなわれた。れは普通ふつうこり、元々もともとの4ガロン容器ようきは13.5ガロンのもの1つにえられることとなった。この戦車せんしゃ電動でんどう始動しどうしたが、これはセルモーターが十分じゅうぶんあたたまっている場合ばあいかぎられ、最初さいしょ始動しどう車両しゃりょう内部ないぶから手動しゅどうおこなわれなければならなかった。最大さいだい速度そくどは15マイル(24 km/h)、航続こうぞく距離きょりは190 kmほどである。

車体しゃたいいただきには、円筒えんとう形状けいじょう一部いちぶ上面うわつら傾斜けいしゃのついた砲塔ほうとういている。これは「Quick Firing」(「速射そくしゃほう」の)3ポンド(47 mm)ほう搭載とうさいする。この3ポンド(47 mm)戦車せんしゃほうには、榴弾りゅうだん(HE)は用意よういされていなかった。榴弾りゅうだんによる攻撃こうげきはCS(近接きんせつ支援しえんがた役割やくわりであった。この問題もんだいは、後継こうけいである2ポンド(40 mm)戦車せんしゃほうにもがれる。また、オチキス機関きかんじゅうようの4かしょ球形きゅうけいじゅうもうけられている。

あたらしい特徴とくちょうとして、砲塔ほうとうは、くるまちょう砲手ほうしゅけん整備せいび装填そうてんしゅけん機銃きじゅうしゅの、3にんりである。これにより、くるまちょう装填そうてんしゅ砲手ほうしゅ兼任けんにんすることで機能きのう阻害そがいされることなく、戦場せんじょう状況じょうきょう警戒けいかいつづけることに専念せんねんできた[3]。これは戦闘せんとうおおきな優越ゆうえつせいあたえたが、当時とうじはさほどおおきな注意ちゅういはらわれなかった。1934ねんにランツヴェルクにより製造せいぞうされた、Strv m/42前身ぜんしんであるラーゴちゅう戦車せんしゃのぞ[4]、ドイツのIIIごう戦車せんしゃあらわれるまでは、どのメーカーも3にん砲塔ほうとう戦車せんしゃつくらなかった。この特徴とくちょう実際じっさい重要じゅうようせいは、だい世界せかい大戦たいせん後期こうきりょう陣営じんえい戦車せんしゃ設計せっけいが3にん砲塔ほうとうへとすみやかにわるか、もしくは旧式きゅうしきして放棄ほうきされたことしめされている。

Mk.Iには、主砲しゅほうみぎよこ前方ぜんぽう機銃きじゅうとしてのヴィッカースじゅう機関きかんじゅう装備そうびされていない。砲塔ほうとうからは1てい機銃きじゅう操作そうさできるのみである。普通ふつう機関きかんじゅうはずせることから、個々ここじゅうあいだ使つかいまわされた。

Mk.Iの車体しゃたい形状けいじょう特徴とくちょうてきである。車体しゃたい後部こうぶ単純たんじゅん装甲そうこうされたはこじょうだった。前面ぜんめん装甲そうこうばんたか完全かんぜん垂直すいちょくである。これらのあいだには、車体しゃたい右側みぎがわもうけられた操縦そうじゅうしゅよう装甲そうこうされたフードがあり、ここから6まい装甲そうこうばんひだりかた扇状せんじょうひろがることで、かたわらに複雑ふくざつ車体しゃたい形状けいじょうつくしている。戦車せんしゃ全体ぜんたい不格好ぶかっこうなずんぐりした印象いんしょうあたえている。5めい乗員じょういん操縦そうじゅうしゅくるまちょう砲手ほうしゅけん整備せいび装填そうてんしゅけん機銃きじゅうしゅ車体しゃたい機銃きじゅうしゅ)には6.25 mm装甲そうこうという貧弱ひんじゃく防御ぼうぎょのみがあたえられ、車体しゃたいびょうせっである。けい機関きかんじゅうからの脅威きょういにかろうじて対抗たいこうできるが、多数たすうのショットトラップのためにこの車両しゃりょう対戦たいせんしゃライフル射撃しゃげきにも対抗たいこうできず、また姿勢しせいたかにつきやすい。主要しゅよう区画くかくない燃料ねんりょうタンクをくような内部ないぶのレイアウトもこの脆弱ぜいじゃくせい悪化あっかさせている。

運用うんよう[編集へんしゅう]

ちゅう戦車せんしゃ Mk.Iはすうりょうのマーク V 戦車せんしゃ代替だいたいした。ほんしゃ後継こうけいであるヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.IIともに、王立おうりつ戦車せんしゃ連隊れんたい就役しゅうえきしている。1938ねん段階だんかいてき退役たいえきしていき、総計そうけい200りょうかぞえる最初さいしょ車両しゃりょうとなった。

ちゅう戦車せんしゃ Mk.Iは1921ねんにシャール2Cの10りょう量産りょうさんわって以来いらい最初さいしょ量産りょうさんとなった。つぎ最多さいた量産りょうさんとなったのはやく30りょうのみがつくられたルノー NC27だった。1920年代ねんだいではイギリスのなか戦車せんしゃ世界せかいでも最多さいた量産りょうさんであった。これらの車両しゃりょう砲撃ほうげき機会きかいず、実戦じっせん性能せいのう推測すいそくするほかないが、だいいち世界せかい大戦たいせんの10年間ねんかん存在そんざいする近代きんだいてき戦車せんしゃひとつとして、こうした車両しゃりょうはイギリスに、実戦じっせん可能かのう部隊ぶたいもちいる機械きかいされた戦争せんそうについて、あたらしいアイデアを試験しけんするという貴重きちょう機会きかいあたえた。こうしてられた知見ちけんだい世界せかい大戦たいせんなか価値かちしめした。

派生はせいがた[編集へんしゅう]

ちゅう戦車せんしゃ Mk.I
最初さいしょ型式けいしきで、1924ねん以降いこう、30りょう生産せいさんされた。
1りょうなか戦車せんしゃ Mk.Iのエンジンが90馬力ばりきのリカードディーゼルエンジンにかわそうされたことがある。
ちゅう戦車せんしゃ Mk.IA
50りょう生産せいさん垂直すいちょく装甲そうこうめんを8mm装甲そうこうとし、操縦そうじゅうしゅのフードを負傷ふしょうにつながるしきから分割ぶんかつよこひらしき変更へんこう対空たいくう射撃しゃげきよう砲塔ほうとうめん傾斜けいしゃめんにしてじゅうもうけ、砲手ほうしゅようがくてとあごてのパッドなどがやや改良かいりょうされている。Mk.IAは外部がいぶからエンジン始動しどうできた。80りょうすべての問題もんだいおおいボギー機構きこうはより強靭きょうじんなものにかわそうされた[5]
ちゅう戦車せんしゃ Mk.IA*
原型げんけい砲塔ほうとうつくなおし、オチキスせいじゅう撤去てっきょ主砲しゅほうみぎよこ前方ぜんぽう機銃きじゅうちゅう:砲塔ほうとう前方ぜんぽう機銃きじゅう同軸どうじく機銃きじゅうはイコールではない)としてヴィッカースじゅう機関きかんじゅう装備そうびする改修かいしゅうほどこした。重量じゅうりょうぞうたいし、なまりのカウンターウェイトを砲塔ほうとう後部こうぶにつけ、「司教しきょうかんむり(Bishops's Mitre、ビショップス マイター)」とばれる水平すいへい旋回せんかい可能かのうなキューポラをいただきにつけている[6]
ちゅう戦車せんしゃ Mk.I CSおよびちゅう戦車せんしゃ Mk.IA CS
1ダースの車両しゃりょう近接きんせつ支援しえん車両しゃりょうとしてつくなおされた。15ポンド迫撃はくげきほう煙幕えんまくてんはりよう)を装備そうびちゅう戦車せんしゃ Mk.I CSの参謀さんぼう本部ほんぶ制式せいしき番号ばんごうは「A2E2」である。
試験しけんがたうたておよ軌道きどうちゅう戦車せんしゃ Mk.I
これは戦略せんりゃくてき機動きどうせい改善かいぜんするため1926ねんにたてられた、うたてけん無限むげん軌道きどう試験しけん計画けいかくである。つまりほんしゃは4おおきなゴムうたてをジャッキとして車体しゃたいげるもので、うたて限界げんかいまで下降かこうさせ、フロントのてん1くみかじるためにもちいられた。後方こうほうの1くみ駆動くどうのために使つかわれる。ほんしゃは「むしろ、きわめて適当てきとうなローラースケートじょうすわんだ家屋かおくているなにか」となった。より実用じつようてきだったのはトラックにより牽引けんいんすることであった。この車両しゃりょうはまた、試験しけんてき操縦そうじゅうしゅようのフードを装備そうびしていた。この装備そうびのち撤去てっきょされた[7]
バーチガン
1920年代ねんだい、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I/IIのシャーシをもとに、はしほうよう新規しんき開発かいはつ製造せいぞうされたシャーシに、対地たいち/対空たいくう兼用けんよう18ポンドほう搭載とうさいした、試作しさくはしほう。7りょう製造せいぞう
Mk.C
バーチガンのシャーシとあしまわりは、つづいて開発かいはつされたビッカースCがたちゅう戦車せんしゃもとになった。

残存ざんそん車両しゃりょう[編集へんしゅう]

ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.Iはみなみアフリカ共和きょうわこくブルームフォンテーンにある特別とくべつ任務にんむ大隊だいたい博物館はくぶつかんに1りょうのこっている[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Duncan (1973), p. 1
  2. ^ a b Duncan (1973), p. 3
  3. ^ Dan Alex. “Vickers Medium Mark I Medium Tank”. 2011ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ Landsverk Stridsvagn Lago II/III/IV m/42”. 2015ねん10がつ14にち閲覧えつらん
  5. ^ Duncan (1973), p. 4
  6. ^ Duncan (1973), p. 5
  7. ^ Duncan (1973), p. 7
  8. ^ Surviving British Tankettes, Light and Medium Tanks”. Surviving Panzers. 2017ねん1がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Duncan, N.W. (1973), Mediums Marks I-III, Windsor, Profile Publications, AFV in Profile No. 12

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • [3] - フィリップ・ジョンソンのけい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [4] - ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ No.1(機銃きじゅう装備そうびがた
  • [5] - ヴィッカース歩兵ほへい戦車せんしゃ No.2(ほう装備そうびがた
  • [6] - 18ポンドほう運搬うんぱんしゃ(1922ねん前方ぜんぽう(Mk.Iとことなり、うたて前後ぜんごせい衝転い。)
  • [7] - 18ポンドほう運搬うんぱんしゃ(1922ねん後方こうほう
  • [8] - 18ポンドほう運搬うんぱんしゃ(1922ねん前面ぜんめん
  • [9] - 18ポンドほう運搬うんぱんしゃ(1922ねんめん(ランプ展開てんかい状態じょうたい