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ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 、ヴィッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.C (Vickers Medium Tank Mk.C)は、戦 せん 間 あいだ 期 き の1926年 ねん に、イギリス のヴィッカース (Vickers)社 しゃ が開発 かいはつ した、戦車 せんしゃ である。
似 に た名前 なまえ の戦車 せんしゃ であるマーク C ホーネット中 ちゅう 戦車 せんしゃ (Medium Mark C Hornet )と間違 まちが われることがあるが、マーク C ホーネット中 ちゅう 戦車 せんしゃ は1918年 ねん から1919年 ねん にかけて作 つく られたマーク I 戦車 せんしゃ 系列 けいれつ に似 に た菱形 ひしがた 戦車 せんしゃ であり、全 まった くの別物 べつもの である。
ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ は、当時 とうじ のイギリス陸軍 りくぐん の主力 しゅりょく であったヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.I/II の発展 はってん 型 がた で、最 さい 新鋭 しんえい の優 すぐ れた戦車 せんしゃ だったが、当 とう のイギリス陸軍 りくぐん には採用 さいよう されず(イギリス陸軍 りくぐん は同 どう 時期 じき の1926年 ねん 9月 がつ にヴィッカース社 しゃ にA6 中 ちゅう 戦車 せんしゃ の開発 かいはつ を要求 ようきゅう している)、準 じゅん 同型 どうけい のD型 がた (Mk.D)と合 あ わせて、各 かく 1輌 りょう ずつ、試作 しさく 車 しゃ 2輌 りょう が製造 せいぞう されたのみで終 お わった。試作 しさく 車 しゃ は日本 にっぽん とアイルランド自由 じゆう 国 こく へそれぞれ1輌 りょう ずつ売却 ばいきゃく され、輸出 ゆしゅつ された。
Vickersの綴 つづ りの英語 えいご 読 よ みの発音 はつおん はカタカナ表記 ひょうき では「ヴィカーズ」に近 ちか いが、日本 にっぽん では「ヴィッカース」、「ヴィッカーズ」、「ビッカース」、「ビッカーズ」の表記 ひょうき がよく用 もち いられている。また本 ほん 車 しゃ は日本 にっぽん との馴染 なじ みが深 ふか く、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん ではビ式 しき 、毘式(ビッカース式 しき )という表記 ひょうき が慣例 かんれい 的 てき に使 つか われていたため、ここでは項目 こうもく の表題 ひょうだい を「ビッカース」とする(そうしなければならない決 き まりはない)。
以下 いか の記述 きじゅつ では本 ほん 車 しゃ をMk.C(マークC)と略 りゃく して表記 ひょうき する。
ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ とヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ [ 編集 へんしゅう ]
1920年代 ねんだい 初期 しょき に計画 けいかく された、重 じゅう 戦車 せんしゃ 案 あん である「ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース重 じゅう 戦車 せんしゃ Mk.A 」(Vickers Heavy Tank Mk.A)と、軽 けい 戦車 せんしゃ 案 あん である「ヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース軽 けい 戦車 せんしゃ Mk.B 」(Vickers Light Tank Mk.B)は、ペーパープランのみで、性能 せいのう が劣 おと っていたため、実車 じっしゃ は製作 せいさく されていない。
ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ の計画 けいかく は、後 ご のA1E1 インディペンデント重 じゅう 戦車 せんしゃ (1922~1925年 ねん 開発 かいはつ )へと、発展 はってん した。
同 どう 時期 じき に、ヴィッカース社 しゃ は、ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ の車体 しゃたい 構成 こうせい (リアエンジン・リアドライブ方式 ほうしき )と同様 どうよう の、軽 けい 戦車 せんしゃ の開発 かいはつ にも取 と り組 く んだ。
それが、1923年 ねん のヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ の計画 けいかく である。いわば、ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ の軽量 けいりょう 化 か 版 ばん である。これは、軍 ぐん の要求 ようきゅう ではなく、ヴィッカース社 しゃ 独自 どくじ のベンチャープランで、ヴィッカース軽 けい 戦車 せんしゃ Mk.I と、ほぼ同 どう 仕様 しよう (戦闘 せんとう 重量 じゅうりょう 12.7トン、乗員 じょういん 5名 めい 、装甲 そうこう 厚 あつ 6.5 mm)でありながら、車体 しゃたい 構成 こうせい (リアエンジン・リアドライブ方式 ほうしき )が異 こと なる、(世界中 せかいじゅう のルノー FT-17 軽 けい 戦車 せんしゃ ユーザーの更新 こうしん 器材 きざい となることを狙 ねら った、)輸出 ゆしゅつ 用 よう 戦車 せんしゃ であった。
ヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ の案 あん では、車体 しゃたい 前後 ぜんこう に機銃 きじゅう (銃 じゅう 塔 とう 方式 ほうしき ではなく、車体 しゃたい から銃身 じゅうしん が突 つ き出 で た限定 げんてい 旋回 せんかい 方式 ほうしき )と機銃 きじゅう 手 しゅ 席 せき が配置 はいち されていた。主砲 しゅほう 塔 とう に新 しん 開発 かいはつ の6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう (57 mm)搭載 とうさい 。周囲 しゅうい に(オチキス空冷 くうれい )機関 きかん 銃 じゅう を計 けい 5挺 てい を装備 そうび していた。片側 かたがわ 12個 こ の転 てん 輪 わ は、ベル・クランク方式 ほうしき の水平 すいへい スプリングサスペンションの6組 くみ のボギーに2個 こ ずつ配置 はいち されていた。
[1] - ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ の本来 ほんらい の案 あん 。主砲 しゅほう 塔 とう に新 しん 開発 かいはつ の6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう (57 mm)搭載 とうさい (駐 ちゅう 退 すさ 機 き が砲身 ほうしん 上方 かみがた にあることと、砲身 ほうしん が太 ふと いことから、3ポンド(47 mm)戦車 せんしゃ 砲 ほう ではなく、6ポンド(57 mm)戦車 せんしゃ 砲 ほう であることがわかる。砲 ほう 耳 みみ の位置 いち から、後 ご のビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい された物 もの と同 おな じであるとわかる)。主砲 しゅほう 右 みぎ 脇 わき (水冷 すいれい )と車体 しゃたい 両 りょう 側面 そくめん と車体 しゃたい 前後 ぜんこう (前 ぜん 2挺 てい 、後 こう 1挺 てい )に機関 きかん 銃 じゅう を計 けい 6挺 てい 装備 そうび 。乗員 じょういん 6名 めい 。車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 両 りょう 側面 そくめん の楕円 だえん 形 がた は乗降 じょうこう 用 よう 扉 とびら 。
[2] - ヴィッカースA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ とヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ に用 もち いられるはずであった、ベル・クランク方式 ほうしき 水平 すいへい スプリング(横 よこ 置 お きバネ)サスペンション。
両 りょう 車 くるま (両 りょう 案 あん )に続 つづ いて実際 じっさい に開発 かいはつ ・製造 せいぞう されたのが、1923年 ねん から1924年 ねん にかけて作業 さぎょう が進 すす められていたバーチガン 18ポンド 自 じ 走 はし 砲 ほう (フロントエンジン・リアドライブ方式 ほうしき )のシャーシと足 あし 周 まわ りに基 もと づきつつ、リアエンジン・リアドライブ方式 ほうしき に改 あらた められた、新 あら たな軽 けい 戦車 せんしゃ 案 あん である「ヴィッカースC型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース軽 けい 戦車 せんしゃ Mk.C (Vickers Light Tank Mk.C)」である。
これは、仕様 しよう としては、ほぼヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ の案 あん から、車体 しゃたい 後部 こうぶ の機銃 きじゅう と機銃 きじゅう 手 しゅ 席 せき を取 と り除 のぞ いたものであった。その代 か わりに、砲塔 ほうとう 後部 こうぶ に機関 きかん 銃 じゅう が1挺 てい 装備 そうび された(これを日本 にっぽん では「かんざし式 しき 」と呼称 こしょう する。ロシアでは「ヴォロシーロフ機関 きかん 銃 じゅう 」と呼称 こしょう する)。同時 どうじ に、(ヴィッカース水冷 すいれい )機関 きかん 銃 じゅう の数 かず が計 けい 4挺 てい に減 へ らされ、主砲 しゅほう 右 みぎ 脇 わき の機関 きかん 銃 じゅう 1挺 てい (実際 じっさい には同軸 どうじく 機関 きかん 銃 じゅう ではない)も取 と り除 のぞ かれた。
また、エンジンは、より高 こう 出力 しゅつりょく な、サンビーム アマゾンに変更 へんこう された。
しかし、その車体 しゃたい サイズから、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.I(1922~1923年 ねん 開発 かいはつ 。元々 もともと は軽 けい 戦車 せんしゃ であったが、1924年 ねん に中 ちゅう 戦車 せんしゃ に分類 ぶんるい 変更 へんこう された)と同様 どうよう に、すぐに、計画 けいかく 案 あん は中 ちゅう 戦車 せんしゃ へと分類 ぶんるい 変更 へんこう された。
ヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ の経緯 けいい からもわかるように、ヴィッカースB型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ の案 あん を基 もと にした、ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ には、ヴィッカース社 しゃ が実際 じっさい に製造 せいぞう した初 はつ の輸出 ゆしゅつ 用 よう 戦車 せんしゃ としての面 めん があり、イギリス陸軍 りくぐん が採用 さいよう しなかったことから、輸出 ゆしゅつ に回 まわ されることになった。もっとも、輸出 ゆしゅつ 用 よう 戦車 せんしゃ としては、ヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に続 つづ く、ヴィッカース 6トン戦車 せんしゃ (ヴィッカースE型 がた 軽 けい 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース軽 けい 戦車 せんしゃ Mk.E)が成功 せいこう を収 おさ めることになる。
Mk.Cの設計 せっけい は1925年 ねん に始 はじ まり、1926年 ねん に試作 しさく 車 しゃ 1輌 りょう のみが製造 せいぞう された。
Mk.Cは車体 しゃたい の向 む きがそれまでのヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.I/II(以下 いか 、Mk.I/II)とは、足 あし 回 まわ りを除 のぞ いて前後 ぜんご 逆 ぎゃく になっていた。つまりエンジンと戦闘 せんとう 室 しつ の配置 はいち が前後 ぜんご 逆 ぎゃく になっている。
Mk.I/IIはエンジンが車体 しゃたい 前方 ぜんぽう 左側 ひだりがわ 配置 はいち だがMk.Cは車体 しゃたい 後方 こうほう 右側 みぎがわ 配置 はいち 。起動 きどう 輪 わ (スプロケットホイール)はどれも後方 こうほう にある。
Mk.I/IIは戦闘 せんとう 室 しつ が後方 こうほう 配置 はいち だが、Mk.Cは前方 ぜんぽう 配置 はいち 。
Mk.I/IIはj乗降 じょうこう 用 よう 扉 とびら が車体 しゃたい 後 ご 面 めん にあるが、Mk.Cは車体 しゃたい 前面 ぜんめん 右側 みぎがわ にある。
Mk.I/IIもMk.Cも、車体 しゃたい 両 りょう 側面 そくめん にヴィッカース .303(7.7 mm)機関 きかん 銃 じゅう を備 そな えている。
Mk.Cの全 ぜん 高 こう はMk.I/IIよりも30~40cmほど低 ひく い。
なお、エンジンと戦闘 せんとう 室 しつ の配置 はいち が前後 ぜんご 逆 ぎゃく になった(戦闘 せんとう 室 しつ が前方 ぜんぽう に、エンジンが後方 こうほう に配置 はいち された)のは、ヴィッカース社 しゃ が、A1E1 インディペンデント重 じゅう 戦車 せんしゃ の設計 せっけい を、MK.IとMk.Cの間 あいだ の時期 じき に挟 はさ んだから(A1E1の影響 えいきょう )である。とはいえ、MK.I/IIとMk.Cとの間 あいだ には、全 まった く異 こと なる外見 がいけん とは裏腹 うらはら に、共通 きょうつう ・類似 るいじ する点 てん も多 おお い。
Mk.Cの乗員 じょういん 配置 はいち は、Mk.I/IIと同 おな じで、砲塔 ほうとう 内 ない に、車 くるま 長 ちょう ・砲手 ほうしゅ 兼 けん 整備 せいび 士 し ・装填 そうてん 手 しゅ 兼 けん 機銃 きじゅう 手 しゅ の3名 めい 、車体 しゃたい に操縦 そうじゅう 手 しゅ と車体 しゃたい 機銃 きじゅう 手 しゅ の2名 めい の、計 けい 5名 めい の乗員 じょういん であった。
本 ほん 車 しゃ の開発 かいはつ は、ヴィッカース社 しゃ にとって、1926年 ねん から始 はじ まった、次 つぎ 作 さく のA6中 ちゅう 戦車 せんしゃ の開発 かいはつ のための、良 よ い経験 けいけん と参考 さんこう となった。
主砲 しゅほう はMk.I/Mk.IIは3ポンド(47 mm)砲 ほう 、Mk.Cはより大 だい 口径 こうけい の6ポンド(57 mm)砲 ほう を装備 そうび していた。元々 もともと はMK.Cも47 mm砲 ほう 仕様 しよう だったが、輸出 ゆしゅつ の際 さい に日本 にっぽん 側 がわ の要望 ようぼう で57 mm砲 ほう に変更 へんこう されたとする説 せつ もある。その理由 りゆう は、Mk.I/IIにも搭載 とうさい されていた3ポンド(47 mm)砲 ほう には、榴弾 りゅうだん (HE)が用意 ようい されていなかったから(榴弾 りゅうだん 攻撃 こうげき はCS型 がた の役割 やくわり )だと考 かんが えられる。日本 にっぽん ではMk.Cの57 mm砲 ほう は毘式戦車 せんしゃ 砲 ほう と呼 よ ばれる。なお毘式戦車 せんしゃ 砲 ほう と八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ の「九 きゅう 〇式 しき 五 ご 糎 せんちめーとる 七 なな 戦車 せんしゃ 砲 ほう 」は、直接的 ちょくせつてき には関係 かんけい は無 な い。九 きゅう 〇式 しき 戦車 せんしゃ 砲 ほう は試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ の「試製 しせい 五 ご 糎 せんちめーとる 七 なな 戦車 せんしゃ 砲 ほう 」を改良 かいりょう した物 もの であり、試製 しせい 五 ご 糎 せんちめーとる 七 なな 戦車 せんしゃ 砲 ほう は日本 にっぽん の独自 どくじ 開発 かいはつ である。
ただ毘式戦車 せんしゃ 砲 ほう 、試製 しせい 五 ご 糎 せんちめーとる 七 なな 戦車 せんしゃ 砲 ほう 、どちらも、57 mmという口径 こうけい は、オチキス 社 しゃ の海軍 かいぐん 用 よう 6ポンド速射 そくしゃ 砲 ほう を起源 きげん とし、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 どき のマーク I 戦車 せんしゃ 以来 いらい の世界 せかい (イギリス・フランス ・ドイツ ・ロシア )の戦車 せんしゃ におけるデファクトスタンダード であるが故 ゆえ に採用 さいよう された物 もの である(ただし、ドイツとロシアの57 mm砲 ほう は、オチキス系 けい ではなく、マキシム・ノルデンフェルト砲 ほう の系統 けいとう である)。
Mk.Cは水冷 すいれい 式 しき のヴィッカース .303(7.7 mm)重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう を車体 しゃたい 前面 ぜんめん 左側 ひだりがわ 、車体 しゃたい 両 りょう 側面 そくめん 、砲塔 ほうとう 後部 こうぶ の計 けい 4挺 てい 装備 そうび していた。同軸 どうじく 機関 きかん 銃 じゅう は無 な く、砲塔 ほうとう 後部 こうぶ のバスルに機関 きかん 銃 じゅう (この主砲 しゅほう とは反対 はんたい 側 がわ に配置 はいち した機関 きかん 銃 じゅう を日本 にっぽん 陸軍 りくぐん では「砲塔 ほうとう 銃 じゅう 」と呼称 こしょう する。なお、車体 しゃたい 前方 ぜんぽう の機関 きかん 銃 じゅう は「車体 しゃたい 銃 じゅう 」である)を配置 はいち する「かんざし式 しき 砲塔 ほうとう 」は、以後 いご の日本 にっぽん 戦車 せんしゃ の特徴 とくちょう として一式 いっしき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ まで受 う け継 つ がれる。この「砲塔 ほうとう 銃 じゅう 」の目的 もくてき は、予備 よび の火器 かき としての意味 いみ の他 ほか 、後方 こうほう など不意 ふい な方向 ほうこう から襲 おそ ってきた敵 てき 歩兵 ほへい に対処 たいしょ するため(これには四方八方 しほうはっぽう に撃 う ちまくる多 た 砲塔 ほうとう 戦車 せんしゃ の、後部 こうぶ 副 ふく 銃 じゅう 塔 とう の簡易 かんい 的 てき な代 か わりの意味合 いみあ いがある)や、主砲 しゅほう を後方 こうほう に向 む けて「砲塔 ほうとう 銃 じゅう 」を車体 しゃたい 機関 きかん 銃 じゅう と合 あ わせて、前方 ぜんぽう に機関 きかん 銃火 じゅうか 力 りょく を集中 しゅうちゅう するためとも、されている。実際 じっさい の戦場 せんじょう では状況 じょうきょう に合 あ わせてどちらの運用 うんよう もされていたようである。
元々 もともと 、日本 にっぽん の戦車 せんしゃ は、味方 みかた 歩兵 ほへい を支援 しえん するために設計 せっけい 開発 かいはつ されており、ゆえに主砲 しゅほう である戦車 せんしゃ 砲 ほう は、貫徹 かんてつ 力 りょく よりも爆発 ばくはつ 力 りょく の大 おお きな榴弾 りゅうだん で、敵陣 てきじん 地 ち や野砲 やほう や機関 きかん 銃座 じゅうざ を攻撃 こうげき するためのものであり、また主砲 しゅほう は、弾 たま 数 すう も限 かぎ られるため、極力 きょくりょく 使 つか わない方針 ほうしん であった。また、敵陣 てきじん 地 ち に突 つ っ込 こ んで車両 しゃりょう や砲 ほう を引 ひ き潰 つぶ す蹂躙 じゅうりん 攻撃 こうげき の際 さい は、主砲 しゅほう の砲身 ほうしん を傷 いた めないように、砲塔 ほうとう を後方 こうほう に向 む けるのがセオリーであった。
車体 しゃたい 左右 さゆう 側面 そくめん の機関 きかん 銃 じゅう に関 かん しては、射 い 角 かく が狭 せま く、ましてや走行 そうこう 中 ちゅう ともなれば、実際 じっさい にはほとんど役 やく にたなかった。この装備 そうび は、塹壕 ざんごう に突撃 とつげき し、塹壕 ざんごう の上 うえ を通過 つうか するときに、横 よこ 方向 ほうこう に塹壕 ざんごう の敵 てき 兵 へい を掃討 そうとう するというアイディアであったが、そもそも本 ほん 車 しゃ の薄 うす い装甲 そうこう では、塹壕 ざんごう に辿 たど り着 つ くことさえ困難 こんなん であった。八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ ではこの装備 そうび は無 な くなっている。
各部 かくぶ の水冷 すいれい 式 しき 機関 きかん 銃 じゅう を外 はず している時 とき は、半球 はんきゅう 形 がた のガンマウントの開口 かいこう 部 ぶ (水冷 すいれい 式 しき 機関 きかん 銃 じゅう の太 ふと い被 ひ 筒 つつ (ウォータージャケット)を通 とお すので、空冷 くうれい 式 しき 機関 きかん 銃 じゅう と異 こと なり、開口 かいこう 部 ぶ が大 おお きい)に、ガンマウントと蝶番 ちょうつがい (バネ仕掛 しか けの可能 かのう 性 せい あり)で繋 つな がっている、開口 かいこう 部 ぶ と同 おな じ大 おお きさの円盤 えんばん 状 じょう の装甲 そうこう 蓋 ぶた を嵌 は めるようになっていた。おそらく車体 しゃたい や砲塔 ほうとう の内側 うちがわ からガンマウントの開口 かいこう 部 ぶ に水冷 すいれい 式 しき 機関 きかん 銃 じゅう の被 ひ 筒 つつ を押 お し込 こ むとき蓋 ぶた を開 ひら き、被 ひ 筒 つつ を抜 ぬ き取 と るとき蓋 ぶた を閉 と じるようになっているものと考 かんが えられる。
砲塔 ほうとう 形状 けいじょう は、Mk.I/IIの円筒 えんとう 形 がた から、Mk.Cでは円錐 えんすい 台形 だいけい になっている。砲塔 ほうとう の天 てん 板 ばん には天 てん 板 ばん と面 めん 一 いち な丸 まる いハッチが付 つ いている。Mk.Cの砲塔 ほうとう にはキューポラ は付 つ いていない。初期 しょき イギリス戦車 せんしゃ の砲塔 ほうとう 側面 そくめん の周囲 しゅうい の下 した 側 がわ (車体 しゃたい と接 せっ する位置 いち )に数 すう か所 しょ (3~4個 こ ほど)付 つ いている逆 ぎゃく U字 じ 型 がた 「∩」の膨 ふく らみは、覗 のぞ き窓 まど でも銃 じゅう 架 か でもなく、砲塔 ほうとう 旋回 せんかい 用 よう の(円盤 えんばん 状 じょう )ベアリングの収納 しゅうのう 部 ぶ である。
6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう の謎 なぞ [ 編集 へんしゅう ]
ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい されていた6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう (毘式戦車 せんしゃ 砲 ほう )を、菱形 ひしがた 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい されていたオチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう と比較 ひかく すると、全体 ぜんたい 的 てき な構造 こうぞう は似 に ているが、明 あき らかな違 ちが いもあることがわかる。
[3] - ヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ の新型 しんがた 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう 。水平 すいへい スライド鎖 くさり 栓 せん 方式 ほうしき であり、砲身 ほうしん 上方 かみがた の駐 ちゅう 退 すさ 機 き が長 なが く、砲 ほう 耳 みみ (横穴 よこあな )が駐 ちゅう 退 すさ 機 き 前 ぜん 端 はし からかなり後方 こうほう に位置 いち しているのがわかる。砲 ほう 架 か は旋回 せんかい 砲塔 ほうとう 専用 せんよう である。
[4] - ヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ の新型 しんがた 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう の砲 ほう 口 こう (砲 ほう 口 こう に注目 ちゅうもく )。砲身 ほうしん の肉 にく が薄 うす いことがわかる。
[5] - ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ の6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう の図面 ずめん
オチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう のヴァリエーションにはMk.IとMk.IIがあるが、ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい されていた6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう は、それらとは明 あき らかに異 こと なるものである。しかし、その正体 しょうたい が何 なに かはわからない。
砲身 ほうしん の肉 にく が薄 うす いことから、腔圧が低 ひく いか、薄 うす くしても高 こう 圧 あつ に耐 た えられるのであれば、砲身 ほうしん の製造 せいぞう 技術 ぎじゅつ が新 あたら しいものと考 かんが えられる。肉 にく が薄 うす いので、オチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう よりも軽量 けいりょう であると考 かんが えられる。これは旋回 せんかい 砲塔 ほうとう 方式 ほうしき の車載 しゃさい 用 よう としては利点 りてん である。駐 ちゅう 退 すさ 機 き が長 なが くなったのは、据 す え置 お き型 がた ではなくなったため、発射 はっしゃ の反動 はんどう の一部 いちぶ を固定 こてい 砲 ほう 架 か で吸収 きゅうしゅう できなくなったので、駐 ちゅう 退 すさ 機 き を強化 きょうか する必要 ひつよう があったものと考 かんが えられる。総合 そうごう 的 てき な性能 せいのう はオチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう よりも優 すぐ れていると考 かんが えられる。
よって、全体 ぜんたい 的 てき な構造 こうぞう の類似 るいじ から、据 す え置 お き型 がた のオチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう を基 もと に、旋回 せんかい 砲塔 ほうとう 方式 ほうしき の車載 しゃさい 用 よう に改良 かいりょう した、後発 こうはつ の発展 はってん 型 がた であろうと考 かんが えられる。
その開発 かいはつ 時期 じき は不明 ふめい だが、オチキス QF 6ポンド戦車 せんしゃ 砲 ほう Mk.Iが1917年 ねん の製造 せいぞう なので、1923~24年 ねん 頃 ごろ ?のA型 がた 重 じゅう 戦車 せんしゃ の図面 ずめん にも描画 びょうが されていることから、期間 きかん を長 なが くとっても、1917年 ねん ~1926年 ねん の間 あいだ であろうと考 かんが えられる。
つまり、ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい されていた6ポンド(57 mm)戦車 せんしゃ 砲 ほう (毘式戦車 せんしゃ 砲 ほう )は、従来 じゅうらい 言 い われてきたような、旧式 きゅうしき な低 てい 性能 せいのう 火砲 かほう ではなく、1920年代 ねんだい 前半 ぜんはん 当時 とうじ の最新 さいしん 型 がた であったのである。
しかし、ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 以外 いがい の搭載 とうさい 例 れい は不明 ふめい である。
おそらく、輸出 ゆしゅつ 戦車 せんしゃ 用 よう に輸出 ゆしゅつ 戦車 せんしゃ と同 どう 時期 じき に開発 かいはつ されたものの、戦車 せんしゃ の輸出 ゆしゅつ が成功 せいこう しなかったので、製造 せいぞう されなかったものと考 かんが えられる。
ビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ やヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ に搭載 とうさい された物 もの は、少数 しょうすう 製造 せいぞう のみの試作 しさく 品 ひん であった可能 かのう 性 せい も考 かんが えられる。
おそらく、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.I/IIにも搭載 とうさい されていた、3ポンド(47 mm)戦車 せんしゃ 砲 ほう との、選択 せんたく 武装 ぶそう (47 mmと57 mm)の一方 いっぽう であったと考 かんが えられる。
車体 しゃたい 構造 こうぞう は、フレームに5~6 mm厚 あつ の装甲 そうこう 板 ばん をボルトや鋲 びょう で接合 はぎあわ して製造 せいぞう された。Mk.Cの高速 こうそく 性能 せいのう は、この装甲 そうこう の薄 うす さと引 び きかえであり、それがイギリス陸軍 りくぐん が採用 さいよう を拒否 きょひ した理由 りゆう でもあった。ただし、Mk.Iも6.25 mmと薄 うす いので、Mk.Cが特 とく に薄 うす かったわけでもない。装甲 そうこう の薄 うす さはそのままに、エンジン出力 しゅつりょく と速力 そくりょく を向上 こうじょう させたとも言 い える。
1920年代 ねんだい のイギリス中 ちゅう 戦車 せんしゃ の装甲 そうこう が軒並 のきな み薄 うす いのは、元々 もともと 、軽 けい 戦車 せんしゃ として開発 かいはつ ・設計 せっけい されたため、10 t程度 ていど (約 やく 22,400ポンド)の重量 じゅうりょう に抑 おさ えられたためである(重量 じゅうりょう 制限 せいげん )。かつ、多 た 武装 ぶそう 戦車 せんしゃ として、武装 ぶそう (機関 きかん 銃 じゅう )に重量 じゅうりょう が割 さ かれたため、装甲 そうこう を薄 うす くするしかなかったものと考 かんが えられる。また、世界中 せかいじゅう に植民 しょくみん 地 ち を持 も つイギリスとしては、船 ふね や港湾 こうわん のクレーン や艀 はしけ や橋 はし や鉄道 てつどう などの重量 じゅうりょう 制限 せいげん などの、輸送 ゆそう の便 びん も考慮 こうりょ したのかもしれない。実質 じっしつ は、戦 せん 間 あいだ 期 き にしか通用 つうよう しない、装 そう 軌式装甲車 そうこうしゃ であった。
Mk.Cの操縦 そうじゅう 手 しゅ 席 せき は車体 しゃたい 前方 ぜんぽう 中央 ちゅうおう にあり、車体 しゃたい 前面 ぜんめん 中央 ちゅうおう に操縦 そうじゅう 手 しゅ フードが突出 とっしゅつ していた。車体 しゃたい 前面 ぜんめん 中央 ちゅうおう 上部 じょうぶ には操縦 そうじゅう 手 しゅ 用 よう の上 うえ 開 ひら き式 しき の視察 しさつ 窓 まど があった。操縦 そうじゅう 手 しゅ フードの右 みぎ 隣 となり には左 ひだり 開 びら きの乗降 じょうこう 用 よう 扉 とびら があった。Mk.I/IIと同 おな じく、車体 しゃたい 両 りょう 側面 そくめん の機関 きかん 銃 じゅう の前方 ぜんぽう にも乗降 じょうこう 用 よう ハッチがあった。この両 りょう 側面 そくめん の乗降 じょうこう 用 よう ハッチは、左右 さゆう で開 ひら く方向 ほうこう が異 こと なっていた。左側 ひだりがわ 面 めん は前 ぜん 開 ひら きであり、右側 みぎがわ 面 めん は後 うし ろ開 びら きである。この開 ひら き方 かた もMk.I/IIと同 おな じである。
車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 左右 さゆう に大型 おおがた の前 ぜん 照 あきら 灯 とう が2個 こ あった。前 ぜん 照 あきら 灯 とう は、試作 しさく 車 しゃ ゆえに剥 む き出 だ しだが、これでは破損 はそん しやすいので、実戦 じっせん を経 へ れば、戦 せん 訓 くん を反映 はんえい して、Mk.I/IIのように周囲 しゅうい に装甲 そうこう 覆 おお いが付 つ いたであろうと考 かんが えられる。八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ にも、初期 しょき にはMk.Cの物 もの に似 に た大型 おおがた の前 ぜん 照 あきら 灯 とう が2個 こ 付 つ いていたが、後 のち に、装甲 そうこう 蓋 ぶた 付 つ きの内装 ないそう 式 しき に変 か わっている。
車体 しゃたい 前部 ぜんぶ の戦闘 せんとう 室 しつ と車体 しゃたい 後部 こうぶ の機関 きかん 室 しつ は、車体 しゃたい 左右 さゆう 側面 そくめん の機関 きかん 銃 じゅう の後方 こうほう で、隔壁 かくへき で分離 ぶんり されていた。履 くつ 帯 たい の上 うえ の車体 しゃたい 両 りょう 脇 わき には(この部分 ぶぶん にはフェンダーは無 な い)、合計 ごうけい 320 Lの外部 がいぶ 燃料 ねんりょう タンクが設 もう けられていた。これは車体 しゃたい 内部 ないぶ に危険 きけん な燃料 ねんりょう タンクを置 お かないようにするためである。機関 きかん 室 しつ 右 みぎ 脇 わき のフェンダー上 じょう には、細長 ほそなが い消音 しょうおん 器 き (マフラー )が1つ置 お かれていた。反対 はんたい 側 がわ の機関 きかん 室 しつ 左 ひだり 脇 わき にはタンク(八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ から類推 るいすい すれば、水冷 すいれい エンジンの予備 よび 冷却 れいきゃく 水 すい タンクである可能 かのう 性 せい も考 かんが えられる)が設 もう けられていた。
戦闘 せんとう 室 しつ の高 たか い天 てん 板 ばん から、車体 しゃたい 後 ご 面 めん 上 じょう 端 はし に向 む けて、車体 しゃたい 上面 うわつら (天 てん 板 ばん )が、まっすぐ傾斜 けいしゃ して下 さ がっており、機関 きかん 室 しつ の天 てん 板 ばん 左側 ひだりがわ にはラジエーター の放熱 ほうねつ 装置 そうち が置 お かれていた。車体 しゃたい 最 さい 後尾 こうび には、後 こう 輪 わ 駆動 くどう のためのトランスミッション が置 お かれていた。その天 てん 板 ばん には、放熱 ほうねつ 用 よう のスリットが開 ひら いた、3つのメンテナンスハッチ(前方 ぜんぽう から後方 こうほう へと開 ひら く)が設 もう けられていた。
蛇足 だそく だが、車体 しゃたい の大 おお きさを、形状 けいじょう がよく似 に ている、後 ご のアメリカのM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ と比 くら べると、車体 しゃたい 長 ちょう で34 cm、全幅 ぜんぷく で12 cm、全 ぜん 高 こう で27 cm、小 ちい さい程度 ていど である。
サンビーム コサック
エンジンは、ルイス・ハーブ・コータレン(Louis Hervé Coatalen)によって設計 せっけい された、サンビーム社 しゃ の航空機 こうくうき 用 よう 水冷 すいれい V型 がた 12気筒 きとう ガソリンエンジンである「サンビーム コサック(Sunbeam Cossack)」(320 hp/2,000 rpm)の気筒 きとう 数 すう を半分 はんぶん にした、「サンビーム アマゾン(Sunbeam Amazon)II」[注釈 ちゅうしゃく 1] 水冷 すいれい 直列 ちょくれつ 6気筒 きとう ガソリンエンジン(160 hp/2,000 rpm) 定 てい 格 かく 出力 しゅつりょく 130 hp[注釈 ちゅうしゃく 2] を搭載 とうさい し、開発 かいはつ 当時 とうじ としては高速 こうそく の32 km/h(路上 ろじょう )を与 あた えられた。
「サンビーム アマゾン」は、排気 はいき 量 りょう 9.2リットル、ボア/ストローク 110 x 160 mm、重量 じゅうりょう 339 kgで、優 すぐ れた出力 しゅつりょく 重量 じゅうりょう 比 ひ にもかかわらず、イギリスではほとんど使用 しよう されなかった。
ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ と同 おな じく、誘導 ゆうどう 輪 わ (アイドラーホイール)が前方 ぜんぽう に、起動 きどう 輪 わ (スプロケットホイール)が後方 こうほう にある、後 こう 輪 わ 駆動 くどう 方式 ほうしき である。また、車体 しゃたい 前方 ぜんぽう にある誘導 ゆうどう 輪 わ の位置 いち を前後 ぜんご に微 ほろ 調整 ちょうせい することで、履 くつ 帯 たい のテンションを調整 ちょうせい することができた。車体 しゃたい 下部 かぶ 側面 そくめん には装甲 そうこう 板 ばん があり、リーフ式 しき サスペンション を守 まも る役目 やくめ の他 ほか 、誘導 ゆうどう 輪 わ (アイドラーホイール)と起動 きどう 輪 わ を挟 はさ み込 こ むように支 ささ えていた。上部 じょうぶ 支持 しじ 輪 わ (リターン・ローラー)とフェンダーは装甲 そうこう 板 ばん (懸架 けんか 框 かまち 、けんかきょう)から伸 の びる支持 しじ 架 か で支 ささ えられていた。懸架 けんか 框 かまち の斜 なな めの部分 ぶぶん は泥 どろ 落 お とし(マッド・シューター)の役目 やくめ があった。
Mk.Cの足 あし 回 まわ りは、Mk.I/IIに似 に ているが異 こと なっており(Mk.I/IIの足 あし 回 まわ り(片側 かたがわ )は上部 じょうぶ 支持 しじ 輪 わ が4個 こ で転 うたて 輪 わ が12個 こ )、これは、1923年 ねん から1924年 ねん にかけて(ジェームズ・フレデリック・ノエル・バーチ兵器 へいき 総監 そうかん の命 いのち により、ウーリッジ王立 おうりつ 造兵 ぞうへい 廠 しょう (ROFW)によって)開発 かいはつ された「バーチガン 18ポンド(83.8 mm)自 じ 走 はし 砲 ほう 」の足 あし 回 まわ りを基 もと にしたものである。しかし、両 りょう 車 くるま は、転 うたて 輪 わ の数 かず は同 おな じだが、転 うたて 輪 わ 配置 はいち は異 こと なっていた。
バーチガン 18ポンド(83.8 mm)自 じ 走 はし 砲 ほう の足 あし 回 まわ りは、上部 じょうぶ 支持 しじ 輪 わ (片側 かたがわ )は5個 こ で、転 うたて 輪 わ (片側 かたがわ )は小型 こがた の物 もの が13個 こ (2個 こ で1組 くみ のボギーとし、それが5組 くみ (1組 くみ のボギーごとに垂直 すいちょく スプリングサスペンションで懸架 けんか )、最前 さいぜん 部 ぶ の2個 こ と最後 さいご 部 ぶ の1個 いっこ は衝撃 しょうげき 緩衝 かんしょう 用 よう に独立 どくりつ した制 せい 衝転輪 わ )であった。
Mk.Cの足 あし 回 まわ りは、上部 じょうぶ 支持 しじ 輪 わ (片側 かたがわ )は5個 こ で、転 うたて 輪 わ (片側 かたがわ )は小型 こがた の物 もの が13個 こ (2個 こ で1組 くみ のボギーとし、それが6組 くみ (1組 くみ のボギーごとに垂直 すいちょく スプリングサスペンションで懸架 けんか )、最前 さいぜん 部 ぶ の1個 いっこ は衝撃 しょうげき 緩衝 かんしょう 用 よう に独立 どくりつ した制 せい 衝転輪 わ )であった。Mk.Cにベル・クランク方式 ほうしき サスペンションが装備 そうび されていたとする説 せつ は間違 まちが い(誤 あやま 情報 じょうほう )である。
[6] - バーチガン 18ポンド(83.8 mm)自 じ 走 はし 砲 ほう の最初 さいしょ 期 き の試作 しさく 車 しゃ の側面 そくめん 。画像 がぞう 左 ひだり が前方 ぜんぽう 。エンジンは車体 しゃたい 前部 ぜんぶ 左側 ひだりがわ に搭載 とうさい している。その右側 みぎがわ に操縦 そうじゅう 席 せき がある。画像 がぞう 右 みぎ の車体 しゃたい 後部 こうぶ には燃料 ねんりょう タンクやトランスミッション。後 こう 輪 わ 駆動 くどう (FR)方式 ほうしき 。
[7] - バーチガン 18ポンド(83.8 mm)自 じ 走 はし 砲 ほう の最初 さいしょ 期 き の試作 しさく 車 しゃ の前方 ぜんぽう から。砲 ほう はターレットリングの縁 えん に沿 そ って、円 えん を描 えが くように旋回 せんかい する。
小 しょう 転 てん 輪 わ を多数 たすう 並 なら べる方式 ほうしき は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ のマーク I 戦車 せんしゃ 、さらに遡 さかのぼ れば、戦車 せんしゃ の祖 そ であるホルト社 しゃ (現 げん キャタピラー 社 しゃ )製 せい 、あるいは、ブルロック社 しゃ 製 せい トラクター に行 い き当 あ たる。
機械 きかい 式 しき トランスミッションは、前進 ぜんしん 4速 そく 、後進 こうしん 1速 そく であった。
日本 にっぽん における運用 うんよう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は、1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )7月 がつ に戦車 せんしゃ 開発 かいはつ の研究 けんきゅう 参考 さんこう 用 よう にMk.Cを正式 せいしき 発注 はっちゅう し、日本 にっぽん 側 がわ からの改修 かいしゅう 要望 ようぼう を受諾 じゅだく の上 うえ 、1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )3月 がつ (試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ の完成 かんせい の1ヶ月 かげつ 後 ご )に輸入 ゆにゅう し、基本形 きほんけい はほぼそのままで八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ の原型 げんけい とした。しかし八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ は決 けっ してMk.Cそのままのコピーではなく、言 い うなれば多 た 砲塔 ほうとう 戦車 せんしゃ であった試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ の車体 しゃたい 前後 ぜんこう の銃 じゅう 塔 とう 部分 ぶぶん を切 き り落 お として全長 ぜんちょう を短縮 たんしゅく して操縦 そうじゅう 席 せき と機銃 きじゅう 手 しゅ 席 せき を設 もう けたような車体 しゃたい に、Mk.Cの転 てん 輪 わ 2個 こ 2組 くみ を減 へ らしたような足 あし 回 まわ り(ただしサスペンションは試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ と同 おな じく板 いた バネ式 しき 。弓形 きゅうけい 板 ばん バネは軽量 けいりょう な八 はち 九 きゅう 式 しき では下 した 半分 はんぶん だけになっている)を組 く み合 あ わせたような外観 がいかん になっている。
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )に欧米 おうべい に派遣 はけん された緒方 おがた 勝一 かついち 中将 ちゅうじょう の戦車 せんしゃ 購買 こうばい 団 だん は当初 とうしょ 、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.I(あるいはMk.II)[注釈 ちゅうしゃく 3] を望 のぞ んでいたが、イギリス陸軍 りくぐん の制式 せいしき 戦車 せんしゃ であったためにイギリス政府 せいふ の輸出 ゆしゅつ 許可 きょか が下 お りなかったので(生産 せいさん 能力 のうりょく が輸出 ゆしゅつ に回 まわ す余裕 よゆう が無 な かったともされる)、フランスから提案 ていあん された中古 ちゅうこ のルノー FT-17 軽 けい 戦車 せんしゃ の本格 ほんかく 採用 さいよう を検討 けんとう したことや、旧式 きゅうしき のFTを導入 どうにゅう するよりも戦車 せんしゃ の国産 こくさん 開発 かいはつ を決定 けってい したことなど、紆余曲折 うよきょくせつ の末 すえ に、代 か わりにイギリス陸軍 りくぐん が採用 さいよう しなかったMk.Cを輸入 ゆにゅう することになったという経緯 けいい があった。
Mk.I/IIを購入 こうにゅう できなかったことは日本 にっぽん にとって幸運 こううん だったと言 い える。なぜなら、その後 ご の戦車 せんしゃ の国産 こくさん 化 か へと繋 つな がったし(もしMk.I/IIが採用 さいよう されていたら、極論 きょくろん だが、その後 ご も全 すべ て輸入 ゆにゅう で賄 まかな い、八 はち 九 きゅう 式 しき はもちろんのこと[注釈 ちゅうしゃく 4] 、それ以後 いご の戦車 せんしゃ も、開発 かいはつ されなかったかもしれない)、Mk.I/IIの装甲 そうこう の薄 うす さでは、満州 まんしゅう 事変 じへん と支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )とノモンハン事件 じけん と大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう (太平洋戦争 たいへいようせんそう )を戦 たたか えなかったであろう。
もっとも、1928年 ねん のカーデン・ロイド Mk.VI とヴィッカース 6トン戦車 せんしゃ の登場 とうじょう をきっかけに、各国 かっこく のように、そのライセンス生産 せいさん を通 つう じて、戦車 せんしゃ の国産 こくさん 化 か に向 む かったかもしれないし、満州 まんしゅう 事変 じへん を戦 たたか えない時点 じてん で、あるいは、輸入 ゆにゅう 元 もと となる欧米 おうべい と対立 たいりつ した時点 じてん で、新型 しんがた 戦車 せんしゃ の開発 かいはつ に向 む かったかもしれないし、自立 じりつ 志向 しこう の強 つよ い日本 にっぽん であれば、いずれどこかの時点 じてん で、戦車 せんしゃ の国産 こくさん 化 か に向 む かったと考 かんが えられる。
日本 にっぽん での輸入 ゆにゅう 後 ご の予備 よび 試験 しけん 中 ちゅう に、Mk.Cはエンジン から漏 も れた気化 きか ガソリン に引火 いんか し、火災 かさい 事故 じこ を起 お こしている。この事故 じこ でヴィッカース社 しゃ から派遣 はけん されていた技師 ぎし 2名 めい が火傷 かしょう を負 お った。当時 とうじ は工作 こうさく 精度 せいど やパッキンの問題 もんだい から、パイプの継 つ ぎ目 め などエンジンから気化 きか 燃料 ねんりょう が漏 も れるのは当 あ たり前 まえ のことであった。このことが「戦闘 せんとう 車輌 しゃりょう にガソリンエンジン は危険 きけん である」という認識 にんしき を生 う み、後 のち に開発 かいはつ される日本 にっぽん 戦車 せんしゃ にディーゼルエンジン が採用 さいよう された原因 げんいん の1つとなっている[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
焼損 しょうそん したMk.Cは三菱 みつびし 内燃 ないねん 機 き 名古屋 なごや 製作所 せいさくしょ 芝浦 しばうら 分 ぶん 工場 こうじょう (1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )に、三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう の前身 ぜんしん である三菱 みつびし 造船 ぞうせん の自動車 じどうしゃ 販売 はんばい 部門 ぶもん である「大手 おおて 商会 しょうかい 」の芝浦 しばうら 工場 こうじょう として発足 ほっそく し、1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )に 三菱 みつびし 内燃 ないねん 機 き が芝浦 しばうら 工場 こうじょう を買収 ばいしゅう し、三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場となる)に持 も ち込 こ まれ、三 さん ヶ月 かげつ 掛 か けて修理 しゅうり された。こうした実績 じっせき を陸軍 りくぐん に買 か われ、三菱 みつびし は八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ を始 はじ めとする日本 にっぽん の戦車 せんしゃ の生産 せいさん に携 たずさ わるようになった。
Mk.Cの故障 こしょう 中 ちゅう に日本 にっぽん 初 はつ の国産 こくさん 戦車 せんしゃ である試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ が、1927年 ねん 6月 がつ の走行 そうこう 試験 しけん において高 たか い評価 ひょうか を受 う けることになった。
日本 にっぽん でのMk.Cには、操縦 そうじゅう 手 しゅ フードの正面 しょうめん に五 ご 芒 すすき 星 ぼし が、その下方 かほう の傾斜 けいしゃ 面 めん に「204」の数字 すうじ が描 えが かれていた。
アイルランド自由 じゆう 国 こく がイギリスから輸入 ゆにゅう した戦車 せんしゃ が、Mk.Cの準 じゅん 同型 どうけい である、Mk.D(ヴィッカースD型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.D 、Vickers Medium Tank Mk.D)である。Mk.DはMk.Cの砲塔 ほうとう に車 くるま 長 ちょう 用 よう キューポラを取 と り付 つ けただけで、両 りょう 車 くるま の外見 がいけん にほとんど違 ちが いは無 な い。武装 ぶそう や最大 さいだい 速度 そくど はMk.Cと同 おな じである。
Mk.Dは、Mk.Cよりも、わずかに装甲 そうこう が厚 あつ く(6.25-8 mm)、わずかに重 おも く(12.7 t)、重量 じゅうりょう 増 ぞう に対応 たいおう するためか、サスペンションも少 すこ し改良 かいりょう され、エンジン(サンビーム アマゾン)出力 しゅつりょく が高 たか い(170 hp)とされる[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
差 さ し詰 づ め、Mk.Cが、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.Iに相当 そうとう するならば、Mk.Dは、改良 かいりょう 型 がた にして装甲 そうこう 増 ぞう 厚 あつ 型 がた であるであるヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.IIに相当 そうとう するとも言 い える。
Mk.Dは、1929年 ねん に(Mk.Cとは製造 せいぞう 年 ねん が離 はな れていることに注意 ちゅうい )、シェフィールド にあるヴィッカース・アームストロング社 しゃ ドン川 がわ 工場 こうじょう にて製造 せいぞう された。Mk.Dの製造 せいぞう 数 すう は、Mk.Cと同 おな じく、試作 しさく 車 しゃ 1輌 りょう のみである。
それまで装甲車 そうこうしゃ しか保有 ほゆう しておらず、ヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.IIに関心 かんしん があったアイルランド陸軍 りくぐん は、大 だい 規模 きぼ な機甲 きこう 部隊 ぶたい を創設 そうせつ する計画 けいかく は無 な かったが、戦車 せんしゃ を研究 けんきゅう する必要 ひつよう は認 みと め、アイルランド陸軍 りくぐん 幹部 かんぶ の教育 きょういく 訓練 くんれん 用 よう に、1929年 ねん 3月 がつ にMk.Dを輸入 ゆにゅう した。
Mk.Dは、アイルランドにおける機甲 きこう 戦 せん の第一人者 だいいちにんしゃ であるショーン・コリンズ・パウエル中尉 ちゅうい によって、イギリスでテストされた。彼 かれ は、アメリカはメリーランド州 しゅう のアバディーン試験場 しけんじょう で、戦車 せんしゃ の使用 しよう と応用 おうよう に関 かん する訓練 くんれん を受 う けた。
Mk.Dは、ダブリン 郊外 こうがい のラスマインズにあるカタル・ブルーガ兵舎 へいしゃ (アイルランド語 ご : Dún Chathail Bhrugha)を拠点 きょてん とする、アイルランド騎兵隊 きへいたい (アイルランド語 ご : An Cór Marcra)の第 だい 2騎兵 きへい 中隊 ちゅうたい に配備 はいび された。
1934年 ねん から1935年 ねん にかけて、新 あら たに購入 こうにゅう された2両 りょう のL-60軽 けい 戦車 せんしゃ と組 く んだが、Mk.Dが既 すで に時代遅 じだいおく れであることを明 あき らかにしただけだった。
1940年 ねん まで軍 ぐん に残 のこ されていたが、対戦 たいせん 車 しゃ 装置 そうち の対戦 たいせん 車 しゃ 射撃 しゃげき 試験 しけん で車体 しゃたい は標的 ひょうてき として破壊 はかい され、スクラップとなり、砲塔 ほうとう ははずされ、トーチカ に転用 てんよう された。
今 いま でもこの砲塔 ほうとう の砲 ほう は、アイルランド最初 さいしょ の戦車 せんしゃ の遺物 いぶつ として、カラ キャンプ(Curragh Camp)で展示 てんじ されている。
^ 「サンビーム アマゾン」には航空機 こうくうき 用 よう の「サンビーム アマゾン I」と非 ひ 航空機 こうくうき 用 よう の「サンビーム アマゾン II」がある。両者 りょうしゃ の出力 しゅつりょく は変 か わらない。
^ ビッカースC型 がた のエンジン出力 しゅつりょく を110 hpとする説 せつ もあるが、「サンビーム アマゾン」の性能 せいのう としては低 ひく すぎるので、おそらくこれは、定 てい 格 かく 出力 しゅつりょく よりもさらに低 ひく い、耐久 たいきゅう 性 せい を重視 じゅうし した場合 ばあい の出力 しゅつりょく だと考 かんが えられる。
^ 1925年 ねん には改良 かいりょう 型 がた のヴィッカース中 ちゅう 戦車 せんしゃ Mk.IIの製造 せいぞう が始 はじ まっているので、実際 じっさい に購入 こうにゅう できた場合 ばあい は、中古 ちゅうこ でなければ、Mk.IIになったと考 かんが えられる。
^ Mk.I/IIが採用 さいよう されていたら、試製 しせい 一 いち 号 ごう 戦車 せんしゃ は開発 かいはつ されないので、その系譜 けいふ である八 はち 九 きゅう 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ も試製 しせい 九 きゅう 一式 いっしき 重 じゅう 戦車 せんしゃ も九 きゅう 五 ご 式 しき 重 じゅう 戦車 せんしゃ も開発 かいはつ されなくなる。重 じゅう 戦車 せんしゃ の開発 かいはつ 経験 けいけん が無 な ければ、試製 しせい 超 ちょう 重 じゅう 戦車 せんしゃ オイも四 よん 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ も五 ご 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ も開発 かいはつ できなかったかもしれない。もし6トン戦車 せんしゃ を大量 たいりょう 輸入 ゆにゅう し、九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ が開発 かいはつ されなければ、発展 はってん 型 がた である九 きゅう 七 なな 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ も無 な いので、一式 いっしき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ や三 さん 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ も開発 かいはつ されない。さらにはビッカースC型 がた 中 ちゅう 戦車 せんしゃ も輸入 ゆにゅう されず、八 はち 九 きゅう 式 しき 中 ちゅう 戦車 せんしゃ 乙 おつ 型 がた のディーゼルエンジンも開発 かいはつ されないので、国産 こくさん 化 か されたとしても、国産 こくさん 戦車 せんしゃ はガソリンエンジンを搭載 とうさい するようになったかもしれない。さらには、Mk.I/IIの影響 えいきょう で、国産 こくさん 戦車 せんしゃ はフロントエンジン方式 ほうしき になったかもしれない(これに関 かん しては実際 じっさい にフロントエンジン方式 ほうしき である九 きゅう 四 よん 式 しき 軽 けい 装甲車 そうこうしゃ が存在 そんざい する)。何 なに よりも、国産 こくさん 化 か の道 みち を歩 あゆ まなかったら、現在 げんざい の日本 にっぽん は、世界 せかい でも数少 かずすく ない、戦車 せんしゃ を独自 どくじ に開発 かいはつ できる国 くに ではなかったかもしれない。61式 しき 戦車 せんしゃ も74式 しき 戦車 せんしゃ も90式 しき 戦車 せんしゃ も10式 しき 戦車 せんしゃ も16式 しき 機動 きどう 戦闘 せんとう 車 しゃ も無 な かったかもしれない。
^ 他 た には、燃費 ねんぴ の良 よ さや、国策 こくさく としてガソリンの輸入 ゆにゅう を節約 せつやく するため、被弾 ひだん 時 じ に燃焼 ねんしょう しないので(燃焼 ねんしょう すると装甲 そうこう が変質 へんしつ して駄目 だめ になる)、後 ご から車輌 しゃりょう を回収 かいしゅう して再生 さいせい して戦力 せんりょく として復帰 ふっき させるのが容易 ようい だから、などの理由 りゆう がある
^ 「サンビーム アマゾン」(直列 ちょくれつ 6気筒 きとう )の基 もと になった「サンビーム コサック」(V型 がた 12気筒 きとう )には、「350 hp/2,000 rpm」の「サンビーム コサック III」というバリエーションもあるので、その半分 はんぶん として、「サンビーム アマゾン」に170 hpを発揮 はっき できるポテンシャルがあっても不思議 ふしぎ はない。MK.Dが「サンビーム アマゾン」系 けい のエンジンを搭載 とうさい していたのは間違 まちが いないが、細 こま かい型式 けいしき は不明 ふめい 。ただし170 hpというのは、おそらく「170 hp/2,○00 rpm」時 じ のことであって、最高 さいこう 出力 しゅつりょく (瞬間 しゅんかん 的 てき に発揮 はっき できる出力 しゅつりょく )に近 ちか い数値 すうち だと考 かんが えられる。定 てい 格 かく 出力 しゅつりょく (継続 けいぞく 的 てき に発揮 はっき できる出力 しゅつりょく )は、もっと低 ひく いと考 かんが えられる。
[10] - 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん のMk.C。
[11] - アイルランドのMk.D。砲塔 ほうとう 上面 うわつら のキューポラが確認 かくにん できる。
[13] - L-60軽 けい 戦車 せんしゃ を従 したが える、アイルランドのMk.D。砲塔 ほうとう 前面 ぜんめん 下部 かぶ にベアリング収納 しゅうのう 部 ぶ が2カ所 かしょ あることがわかる。Mk.Cは砲塔 ほうとう 前面 ぜんめん 下部 かぶ に1カ所 かしょ のみなので、ここで両 りょう 車 くるま を見分 みわ けることができる。
[14] - アイルランドのMk.Dに搭載 とうさい されていた、新型 しんがた 6ポンド(57 mm)戦車 せんしゃ 砲 ほう 。MK.Cの物 もの と同 おな じ物 ぶつ と考 かんが えられる。右 みぎ 方向 ほうこう に開 ひら く水平 すいへい スライド鎖 くさり 栓 せん 式 しき であることがわかる。