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ビッカースC型中戦車 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃ
性能せいのうしょもと
全長ぜんちょう 5.5 m
全幅ぜんぷく 2.5 m
ぜんこう 2.4 m
重量じゅうりょう 11.5 t
速度そくど 32 km/h(路上ろじょう
行動こうどう距離きょり 200 km(路上ろじょう
主砲しゅほう 6ポンド(57 mm)戦車せんしゃほう×1
ふく武装ぶそう ヴィッカース .303(7.7 mm) 機関きかんじゅう×4
装甲そうこう 5-6 mm
エンジン サンビーム アマゾン II 水冷すいれい直列ちょくれつ6気筒きとうガソリン
130 hp(160 hp/2,000 rpm)
乗員じょういん 5 めい
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ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃヴィッカースCがたちゅう戦車せんしゃヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.C(Vickers Medium Tank Mk.C)は、せんあいだ1926ねんに、イギリスヴィッカース(Vickers)しゃ開発かいはつした、戦車せんしゃである。

名前なまえ戦車せんしゃであるマーク C ホーネットちゅう戦車せんしゃMedium Mark C Hornet)と間違まちがわれることがあるが、マーク C ホーネットちゅう戦車せんしゃは1918ねんから1919ねんにかけてつくられたマーク I 戦車せんしゃ系列けいれつ菱形ひしがた戦車せんしゃであり、まったくの別物べつものである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃは、当時とうじイギリス陸軍りくぐん主力しゅりょくであったヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I/II発展はってんがたで、さい新鋭しんえいすぐれた戦車せんしゃだったが、とうのイギリス陸軍りくぐんには採用さいようされず(イギリス陸軍りくぐんどう時期じきの1926ねん9がつにヴィッカースしゃA6 ちゅう戦車せんしゃ開発かいはつ要求ようきゅうしている)、じゅん同型どうけいのDがた(Mk.D)とわせて、かく1りょうずつ、試作しさくしゃ2りょう製造せいぞうされたのみでわった。試作しさくしゃ日本にっぽんアイルランド自由じゆうこくへそれぞれ1りょうずつ売却ばいきゃくされ、輸出ゆしゅつされた。

Vickersのつづりの英語えいごみの発音はつおんはカタカナ表記ひょうきでは「ヴィカーズ」にちかいが、日本にっぽんでは「ヴィッカース」、「ヴィッカーズ」、「ビッカース」、「ビッカーズ」の表記ひょうきがよくもちいられている。またほんしゃ日本にっぽんとの馴染なじみがふかく、日本にっぽん陸軍りくぐんではビしき、毘式(ビッカースしき)という表記ひょうき慣例かんれいてき使つかわれていたため、ここでは項目こうもく表題ひょうだいを「ビッカース」とする(そうしなければならないまりはない)。

以下いか記述きじゅつではほんしゃをMk.C(マークC)とりゃくして表記ひょうきする。

ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃとヴィッカースBがたけい戦車せんしゃ[編集へんしゅう]

1920年代ねんだい初期しょき計画けいかくされた、じゅう戦車せんしゃあんである「ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃヴィッカースじゅう戦車せんしゃ Mk.A」(Vickers Heavy Tank Mk.A)と、けい戦車せんしゃあんである「ヴィッカースBがたけい戦車せんしゃヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.B」(Vickers Light Tank Mk.B)は、ペーパープランのみで、性能せいのうおとっていたため、実車じっしゃ製作せいさくされていない。

ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃ計画けいかくは、A1E1 インディペンデントじゅう戦車せんしゃ(1922~1925ねん開発かいはつ)へと、発展はってんした。

どう時期じきに、ヴィッカースしゃは、ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃ車体しゃたい構成こうせい(リアエンジン・リアドライブ方式ほうしき)と同様どうようの、けい戦車せんしゃ開発かいはつにもんだ。

それが、1923ねんのヴィッカースBがたけい戦車せんしゃ計画けいかくである。いわば、ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃ軽量けいりょうばんである。これは、ぐん要求ようきゅうではなく、ヴィッカースしゃ独自どくじのベンチャープランで、ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.Iと、ほぼどう仕様しよう戦闘せんとう重量じゅうりょう12.7トン、乗員じょういん5めい装甲そうこうあつ6.5 mm)でありながら、車体しゃたい構成こうせい(リアエンジン・リアドライブ方式ほうしき)がことなる、(世界中せかいじゅうルノー FT-17 けい戦車せんしゃユーザーの更新こうしん器材きざいとなることをねらった、)輸出ゆしゅつよう戦車せんしゃであった。

ヴィッカースBがたけい戦車せんしゃあんでは、車体しゃたい前後ぜんこう機銃きじゅうじゅうとう方式ほうしきではなく、車体しゃたいから銃身じゅうしん限定げんてい旋回せんかい方式ほうしき)と機銃きじゅうしゅせき配置はいちされていた。主砲しゅほうとうしん開発かいはつの6ポンド戦車せんしゃほう (57 mm)搭載とうさい周囲しゅういに(オチキス空冷くうれい機関きかんじゅうけい5てい装備そうびしていた。片側かたがわ12てんは、ベル・クランク方式ほうしき水平すいへいスプリングサスペンションの6くみのボギーに2ずつ配置はいちされていた。

  • [1] - ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃ本来ほんらいあん主砲しゅほうとうしん開発かいはつの6ポンド戦車せんしゃほう (57 mm)搭載とうさいちゅう退すさ砲身ほうしん上方かみがたにあることと、砲身ほうしんふといことから、3ポンド(47 mm)戦車せんしゃほうではなく、6ポンド(57 mm)戦車せんしゃほうであることがわかる。ほうみみ位置いちから、のビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされたものおなじであるとわかる)。主砲しゅほうみぎわき水冷すいれい)と車体しゃたいりょう側面そくめん車体しゃたい前後ぜんこうぜん2ていこう1てい)に機関きかんじゅうけい6てい装備そうび乗員じょういん6めい車体しゃたい前部ぜんぶりょう側面そくめん楕円だえんがた乗降じょうこうようとびら
  • [2] - ヴィッカースAがたじゅう戦車せんしゃとヴィッカースBがたけい戦車せんしゃもちいられるはずであった、ベル・クランク方式ほうしき水平すいへいスプリング(よこきバネ)サスペンション。

りょうくるまりょうあん)につづいて実際じっさい開発かいはつ製造せいぞうされたのが、1923ねんから1924ねんにかけて作業さぎょうすすめられていたバーチガン 18ポンドはしほう(フロントエンジン・リアドライブ方式ほうしき)のシャーシとあしまわりにもとづきつつ、リアエンジン・リアドライブ方式ほうしきあらためられた、あらたなけい戦車せんしゃあんである「ヴィッカースCがたけい戦車せんしゃヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.C(Vickers Light Tank Mk.C)」である。

これは、仕様しようとしては、ほぼヴィッカースBがたけい戦車せんしゃあんから、車体しゃたい後部こうぶ機銃きじゅう機銃きじゅうしゅせきのぞいたものであった。そのわりに、砲塔ほうとう後部こうぶ機関きかんじゅうが1てい装備そうびされた(これを日本にっぽんでは「かんざししき」と呼称こしょうする。ロシアでは「ヴォロシーロフ機関きかんじゅう」と呼称こしょうする)。同時どうじに、(ヴィッカース水冷すいれい機関きかんじゅうかずけい4ていらされ、主砲しゅほうみぎわき機関きかんじゅう1てい実際じっさいには同軸どうじく機関きかんじゅうではない)ものぞかれた。

また、エンジンは、よりこう出力しゅつりょくな、サンビーム アマゾンに変更へんこうされた。

しかし、その車体しゃたいサイズから、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I(1922~1923ねん開発かいはつ元々もともとけい戦車せんしゃであったが、1924ねんちゅう戦車せんしゃ分類ぶんるい変更へんこうされた)と同様どうように、すぐに、計画けいかくあんちゅう戦車せんしゃへと分類ぶんるい変更へんこうされた。

ヴィッカースBがたけい戦車せんしゃ経緯けいいからもわかるように、ヴィッカースBがたけい戦車せんしゃあんもとにした、ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃには、ヴィッカースしゃ実際じっさい製造せいぞうしたはつ輸出ゆしゅつよう戦車せんしゃとしてのめんがあり、イギリス陸軍りくぐん採用さいようしなかったことから、輸出ゆしゅつまわされることになった。もっとも、輸出ゆしゅつよう戦車せんしゃとしては、ヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃつづく、ヴィッカース 6トン戦車せんしゃ(ヴィッカースEがたけい戦車せんしゃ、ヴィッカースけい戦車せんしゃ Mk.E)が成功せいこうおさめることになる。

設計せっけい[編集へんしゅう]

Mk.Cの設計せっけいは1925ねんはじまり、1926ねん試作しさくしゃ1りょうのみが製造せいぞうされた。

Mk.Cは車体しゃたいきがそれまでのヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I/II(以下いか、Mk.I/II)とは、あしまわりをのぞいて前後ぜんごぎゃくになっていた。つまりエンジンと戦闘せんとうしつ配置はいち前後ぜんごぎゃくになっている。

  • Mk.I/IIはエンジンが車体しゃたい前方ぜんぽう左側ひだりがわ配置はいちだがMk.Cは車体しゃたい後方こうほう右側みぎがわ配置はいち起動きどう(スプロケットホイール)はどれも後方こうほうにある。
  • Mk.I/IIは戦闘せんとうしつ後方こうほう配置はいちだが、Mk.Cは前方ぜんぽう配置はいち
  • Mk.I/IIはj乗降じょうこうようとびら車体しゃたいめんにあるが、Mk.Cは車体しゃたい前面ぜんめん右側みぎがわにある。
  • Mk.I/IIもMk.Cも、車体しゃたいりょう側面そくめんにヴィッカース .303(7.7 mm)機関きかんじゅうそなえている。
  • Mk.CのぜんこうはMk.I/IIよりも30~40cmほどひくい。

なお、エンジンと戦闘せんとうしつ配置はいち前後ぜんごぎゃくになった(戦闘せんとうしつ前方ぜんぽうに、エンジンが後方こうほう配置はいちされた)のは、ヴィッカースしゃが、A1E1 インディペンデントじゅう戦車せんしゃ設計せっけいを、MK.IとMk.Cのあいだ時期じきはさんだから(A1E1の影響えいきょう)である。とはいえ、MK.I/IIとMk.Cとのあいだには、まったことなる外見がいけんとは裏腹うらはらに、共通きょうつう類似るいじするてんおおい。

Mk.Cの乗員じょういん配置はいちは、Mk.I/IIとおなじで、砲塔ほうとうないに、くるまちょう砲手ほうしゅけん整備せいび装填そうてんしゅけん機銃きじゅうしゅの3めい車体しゃたい操縦そうじゅうしゅ車体しゃたい機銃きじゅうしゅの2めいの、けい5めい乗員じょういんであった。

ほんしゃ開発かいはつは、ヴィッカースしゃにとって、1926ねんからはじまった、つぎさくA6ちゅう戦車せんしゃ開発かいはつのための、経験けいけん参考さんこうとなった。

武装ぶそう[編集へんしゅう]

主砲しゅほうはMk.I/Mk.IIは3ポンド(47 mm)ほう、Mk.Cはよりだい口径こうけいの6ポンド(57 mm)ほう装備そうびしていた。元々もともとはMK.Cも47 mmほう仕様しようだったが、輸出ゆしゅつさい日本にっぽんがわ要望ようぼうで57 mmほう変更へんこうされたとするせつもある。その理由りゆうは、Mk.I/IIにも搭載とうさいされていた3ポンド(47 mm)ほうには、榴弾りゅうだん(HE)が用意よういされていなかったから(榴弾りゅうだん攻撃こうげきはCSがた役割やくわり)だとかんがえられる。日本にっぽんではMk.Cの57 mmほう毘式戦車せんしゃほうばれる。なお毘式戦車せんしゃほうはちきゅうしきけい戦車せんしゃの「きゅうしきせんちめーとるなな戦車せんしゃほう」は、直接的ちょくせつてきには関係かんけいい。きゅうしき戦車せんしゃほう試製しせいいちごう戦車せんしゃの「試製しせいせんちめーとるなな戦車せんしゃほう」を改良かいりょうしたものであり、試製しせいせんちめーとるなな戦車せんしゃほう日本にっぽん独自どくじ開発かいはつである。

ただ毘式戦車せんしゃほう試製しせいせんちめーとるなな戦車せんしゃほう、どちらも、57 mmという口径こうけいは、オチキスしゃ海軍かいぐんよう6ポンド速射そくしゃほう起源きげんとし、だいいち世界せかい大戦たいせんどきマーク I 戦車せんしゃ以来いらい世界せかい(イギリス・フランスドイツロシア)の戦車せんしゃにおけるデファクトスタンダードであるがゆえ採用さいようされたものである(ただし、ドイツとロシアの57 mmほうは、オチキスけいではなく、マキシム・ノルデンフェルトほう系統けいとうである)。

Mk.Cは水冷すいれいしきヴィッカース .303(7.7 mm)じゅう機関きかんじゅう車体しゃたい前面ぜんめん左側ひだりがわ車体しゃたいりょう側面そくめん砲塔ほうとう後部こうぶけい4てい装備そうびしていた。同軸どうじく機関きかんじゅうく、砲塔ほうとう後部こうぶのバスルに機関きかんじゅう(この主砲しゅほうとは反対はんたいがわ配置はいちした機関きかんじゅう日本にっぽん陸軍りくぐんでは「砲塔ほうとうじゅう」と呼称こしょうする。なお、車体しゃたい前方ぜんぽう機関きかんじゅうは「車体しゃたいじゅう」である)を配置はいちする「かんざししき砲塔ほうとう」は、以後いご日本にっぽん戦車せんしゃ特徴とくちょうとして一式いっしきちゅう戦車せんしゃまでがれる。この「砲塔ほうとうじゅう」の目的もくてきは、予備よび火器かきとしての意味いみほか後方こうほうなど不意ふい方向ほうこうからおそってきたてき歩兵ほへい対処たいしょするため(これには四方八方しほうはっぽうちまくる砲塔ほうとう戦車せんしゃの、後部こうぶふくじゅうとう簡易かんいてきわりの意味合いみあいがある)や、主砲しゅほう後方こうほうけて「砲塔ほうとうじゅう」を車体しゃたい機関きかんじゅうわせて、前方ぜんぽう機関きかん銃火じゅうかりょく集中しゅうちゅうするためとも、されている。実際じっさい戦場せんじょうでは状況じょうきょうわせてどちらの運用うんようもされていたようである。

元々もともと日本にっぽん戦車せんしゃは、味方みかた歩兵ほへい支援しえんするために設計せっけい開発かいはつされており、ゆえに主砲しゅほうである戦車せんしゃほうは、貫徹かんてつりょくよりも爆発ばくはつりょくおおきな榴弾りゅうだんで、敵陣てきじん野砲やほう機関きかん銃座じゅうざ攻撃こうげきするためのものであり、また主砲しゅほうは、たますうかぎられるため、極力きょくりょく使つかわない方針ほうしんであった。また、敵陣てきじんんで車両しゃりょうほうつぶ蹂躙じゅうりん攻撃こうげきさいは、主砲しゅほう砲身ほうしんいためないように、砲塔ほうとう後方こうほうけるのがセオリーであった。

車体しゃたい左右さゆう側面そくめん機関きかんじゅうかんしては、かくせまく、ましてや走行そうこうちゅうともなれば、実際じっさいにはほとんどやくにたなかった。この装備そうびは、塹壕ざんごう突撃とつげきし、塹壕ざんごううえ通過つうかするときに、よこ方向ほうこう塹壕ざんごうてきへい掃討そうとうするというアイディアであったが、そもそもほんしゃうす装甲そうこうでは、塹壕ざんごう辿たどくことさえ困難こんなんであった。はちきゅうしきけい戦車せんしゃではこの装備そうびくなっている。

各部かくぶ水冷すいれいしき機関きかんじゅうはずしているときは、半球はんきゅうがたのガンマウントの開口かいこう水冷すいれいしき機関きかんじゅうふとつつ(ウォータージャケット)をとおすので、空冷くうれいしき機関きかんじゅうことなり、開口かいこうおおきい)に、ガンマウントと蝶番ちょうつがい(バネ仕掛しかけの可能かのうせいあり)でつながっている、開口かいこうおなおおきさの円盤えんばんじょう装甲そうこうぶためるようになっていた。おそらく車体しゃたい砲塔ほうとう内側うちがわからガンマウントの開口かいこう水冷すいれいしき機関きかんじゅうつつむときぶたひらき、つつるときぶたじるようになっているものとかんがえられる。

砲塔ほうとう形状けいじょうは、Mk.I/IIの円筒えんとうがたから、Mk.Cでは円錐えんすい台形だいけいになっている。砲塔ほうとうてんばんにはてんばんめんいちまるいハッチがいている。Mk.Cの砲塔ほうとうにはキューポラいていない。初期しょきイギリス戦車せんしゃ砲塔ほうとう側面そくめん周囲しゅういしたがわ車体しゃたいせっする位置いち)にすうしょ(3~4ほど)いているぎゃくUがた「∩」のふくらみは、のぞまどでもじゅうでもなく、砲塔ほうとう旋回せんかいようの(円盤えんばんじょう)ベアリングの収納しゅうのうである。

6ポンド戦車せんしゃほうなぞ[編集へんしゅう]

ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされていた6ポンド戦車せんしゃほう(毘式戦車せんしゃほう)を、菱形ひしがた戦車せんしゃ搭載とうさいされていたオチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほう比較ひかくすると、全体ぜんたいてき構造こうぞうているが、あきらかなちがいもあることがわかる。


  • [3] - ヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ新型しんがた6ポンド戦車せんしゃほう水平すいへいスライドくさりせん方式ほうしきであり、砲身ほうしん上方かみがたちゅう退すさながく、ほうみみ横穴よこあな)がちゅう退すさぜんはしからかなり後方こうほう位置いちしているのがわかる。ほう旋回せんかい砲塔ほうとう専用せんようである。
  • [4] - ヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ新型しんがた6ポンド戦車せんしゃほうほうこうほうこう注目ちゅうもく)。砲身ほうしんにくうすいことがわかる。
  • [5] - ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃの6ポンド戦車せんしゃほう図面ずめん


オチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほうのヴァリエーションにはMk.IとMk.IIがあるが、ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされていた6ポンド戦車せんしゃほうは、それらとはあきらかにことなるものである。しかし、その正体しょうたいなにかはわからない。

砲身ほうしんにくうすいことから、腔圧がひくいか、うすくしてもこうあつえられるのであれば、砲身ほうしん製造せいぞう技術ぎじゅつあたらしいものとかんがえられる。にくうすいので、オチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほうよりも軽量けいりょうであるとかんがえられる。これは旋回せんかい砲塔ほうとう方式ほうしき車載しゃさいようとしては利点りてんである。ちゅう退すさながくなったのは、がたではなくなったため、発射はっしゃ反動はんどう一部いちぶ固定こていほう吸収きゅうしゅうできなくなったので、ちゅう退すさ強化きょうかする必要ひつようがあったものとかんがえられる。総合そうごうてき性能せいのうはオチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほうよりもすぐれているとかんがえられる。

よって、全体ぜんたいてき構造こうぞう類似るいじから、がたのオチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほうもとに、旋回せんかい砲塔ほうとう方式ほうしき車載しゃさいよう改良かいりょうした、後発こうはつ発展はってんがたであろうとかんがえられる。

その開発かいはつ時期じき不明ふめいだが、オチキス QF 6ポンド戦車せんしゃほう Mk.Iが1917ねん製造せいぞうなので、1923~24ねんごろ?のAがたじゅう戦車せんしゃ図面ずめんにも描画びょうがされていることから、期間きかんながくとっても、1917ねん~1926ねんあいだであろうとかんがえられる。

つまり、ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされていた6ポンド(57 mm)戦車せんしゃほう(毘式戦車せんしゃほう)は、従来じゅうらいわれてきたような、旧式きゅうしきてい性能せいのう火砲かほうではなく、1920年代ねんだい前半ぜんはん当時とうじ最新さいしんがたであったのである。

しかし、ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ以外いがい搭載とうさいれい不明ふめいである。

おそらく、輸出ゆしゅつ戦車せんしゃよう輸出ゆしゅつ戦車せんしゃどう時期じき開発かいはつされたものの、戦車せんしゃ輸出ゆしゅつ成功せいこうしなかったので、製造せいぞうされなかったものとかんがえられる。

ビッカースCがたちゅう戦車せんしゃやヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃ搭載とうさいされたものは、少数しょうすう製造せいぞうのみの試作しさくひんであった可能かのうせいかんがえられる。

おそらく、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I/IIにも搭載とうさいされていた、3ポンド(47 mm)戦車せんしゃほうとの、選択せんたく武装ぶそう(47 mmと57 mm)の一方いっぽうであったとかんがえられる。

車体しゃたい構造こうぞう[編集へんしゅう]

車体しゃたい構造こうぞうは、フレームに5~6 mmあつ装甲そうこうばんをボルトやびょう接合はぎあわして製造せいぞうされた。Mk.Cの高速こうそく性能せいのうは、この装甲そうこううすさときかえであり、それがイギリス陸軍りくぐん採用さいよう拒否きょひした理由りゆうでもあった。ただし、Mk.Iも6.25 mmとうすいので、Mk.Cがとくうすかったわけでもない。装甲そうこううすさはそのままに、エンジン出力しゅつりょく速力そくりょく向上こうじょうさせたともえる。

1920年代ねんだいのイギリスちゅう戦車せんしゃ装甲そうこう軒並のきなうすいのは、元々もともとけい戦車せんしゃとして開発かいはつ設計せっけいされたため、10 t程度ていどやく22,400ポンド)の重量じゅうりょうおさえられたためである(重量じゅうりょう制限せいげん)。かつ、武装ぶそう戦車せんしゃとして、武装ぶそう機関きかんじゅう)に重量じゅうりょうかれたため、装甲そうこううすくするしかなかったものとかんがえられる。また、世界中せかいじゅう植民しょくみんつイギリスとしては、ふね港湾こうわんクレーンはしけはし鉄道てつどうなどの重量じゅうりょう制限せいげんなどの、輸送ゆそう便びん考慮こうりょしたのかもしれない。実質じっしつは、せんあいだにしか通用つうようしない、そう軌式装甲車そうこうしゃであった。

Mk.Cの操縦そうじゅうしゅせき車体しゃたい前方ぜんぽう中央ちゅうおうにあり、車体しゃたい前面ぜんめん中央ちゅうおう操縦そうじゅうしゅフードが突出とっしゅつしていた。車体しゃたい前面ぜんめん中央ちゅうおう上部じょうぶには操縦そうじゅうしゅよううえひらしき視察しさつまどがあった。操縦そうじゅうしゅフードのみぎとなりにはひだりびらきの乗降じょうこうようとびらがあった。Mk.I/IIとおなじく、車体しゃたいりょう側面そくめん機関きかんじゅう前方ぜんぽうにも乗降じょうこうようハッチがあった。このりょう側面そくめん乗降じょうこうようハッチは、左右さゆうひら方向ほうこうことなっていた。左側ひだりがわめんぜんひらきであり、右側みぎがわめんうしびらきである。このひらかたもMk.I/IIとおなじである。

車体しゃたい前部ぜんぶ左右さゆう大型おおがたぜんあきらとうが2あった。ぜんあきらとうは、試作しさくしゃゆえにしだが、これでは破損はそんしやすいので、実戦じっせんれば、せんくん反映はんえいして、Mk.I/IIのように周囲しゅうい装甲そうこうおおいがいたであろうとかんがえられる。はちきゅうしきけい戦車せんしゃにも、初期しょきにはMk.Cのもの大型おおがたぜんあきらとうが2いていたが、のちに、装甲そうこうぶたきの内装ないそうしきわっている。

車体しゃたい前部ぜんぶ戦闘せんとうしつ車体しゃたい後部こうぶ機関きかんしつは、車体しゃたい左右さゆう側面そくめん機関きかんじゅう後方こうほうで、隔壁かくへき分離ぶんりされていた。くつたいうえ車体しゃたいりょうわきには(この部分ぶぶんにはフェンダーはい)、合計ごうけい320 Lの外部がいぶ燃料ねんりょうタンクがもうけられていた。これは車体しゃたい内部ないぶ危険きけん燃料ねんりょうタンクをかないようにするためである。機関きかんしつみぎわきのフェンダーじょうには、細長ほそなが消音しょうおんマフラー)が1つかれていた。反対はんたいがわ機関きかんしつひだりわきにはタンク(はちきゅうしきけい戦車せんしゃから類推るいすいすれば、水冷すいれいエンジンの予備よび冷却れいきゃくすいタンクである可能かのうせいかんがえられる)がもうけられていた。

戦闘せんとうしつたかてんばんから、車体しゃたいめんじょうはしけて、車体しゃたい上面うわつらてんばん)が、まっすぐ傾斜けいしゃしてがっており、機関きかんしつてんばん左側ひだりがわにはラジエーター放熱ほうねつ装置そうちかれていた。車体しゃたいさい後尾こうびには、こう駆動くどうのためのトランスミッションかれていた。そのてんばんには、放熱ほうねつようのスリットがひらいた、3つのメンテナンスハッチ(前方ぜんぽうから後方こうほうへとひらく)がもうけられていた。

蛇足だそくだが、車体しゃたいおおきさを、形状けいじょうがよくている、のアメリカのM4ちゅう戦車せんしゃくらべると、車体しゃたいちょうで34 cm、全幅ぜんぷくで12 cm、ぜんこうで27 cm、ちいさい程度ていどである。

エンジン[編集へんしゅう]

サンビーム コサック

エンジンは、ルイス・ハーブ・コータレン(Louis Hervé Coatalen)によって設計せっけいされた、サンビームしゃ航空機こうくうきよう水冷すいれいVがた12気筒きとうガソリンエンジンである「サンビーム コサック(Sunbeam Cossack)」(320 hp/2,000 rpm)の気筒きとうすう半分はんぶんにした、「サンビーム アマゾン(Sunbeam Amazon)II」[注釈ちゅうしゃく 1]水冷すいれい直列ちょくれつ6気筒きとうガソリンエンジン(160 hp/2,000 rpm) ていかく出力しゅつりょく130 hp[注釈ちゅうしゃく 2]搭載とうさいし、開発かいはつ当時とうじとしては高速こうそくの32 km/h(路上ろじょう)をあたえられた。

「サンビーム アマゾン」は、排気はいきりょう9.2リットル、ボア/ストローク 110 x 160 mm、重量じゅうりょう339 kgで、すぐれた出力しゅつりょく重量じゅうりょうにもかかわらず、イギリスではほとんど使用しようされなかった。

走行そうこう装置そうち[編集へんしゅう]

ヴィッカースちゅう戦車せんしゃおなじく、誘導ゆうどう(アイドラーホイール)が前方ぜんぽうに、起動きどう(スプロケットホイール)が後方こうほうにある、こう駆動くどう方式ほうしきである。また、車体しゃたい前方ぜんぽうにある誘導ゆうどう位置いち前後ぜんごほろ調整ちょうせいすることで、くつたいのテンションを調整ちょうせいすることができた。車体しゃたい下部かぶ側面そくめんには装甲そうこうばんがあり、リーフしきサスペンションまも役目やくめほか誘導ゆうどう(アイドラーホイール)と起動きどうはさむようにささえていた。上部じょうぶ支持しじ(リターン・ローラー)とフェンダーは装甲そうこうばん懸架けんかかまち、けんかきょう)からびる支持しじささえられていた。懸架けんかかまちななめの部分ぶぶんどろとし(マッド・シューター)の役目やくめがあった。

Mk.Cのあしまわりは、Mk.I/IIにているがことなっており(Mk.I/IIのあしまわり(片側かたがわ)は上部じょうぶ支持しじが4うたてが12)、これは、1923ねんから1924ねんにかけて(ジェームズ・フレデリック・ノエル・バーチ兵器へいき総監そうかんいのちにより、ウーリッジ王立おうりつ造兵ぞうへいしょう(ROFW)によって)開発かいはつされた「バーチガン 18ポンド(83.8 mm)はしほう」のあしまわりをもとにしたものである。しかし、りょうくるまは、うたてかずおなじだが、うたて配置はいちことなっていた。

バーチガン 18ポンド(83.8 mm)はしほうあしまわりは、上部じょうぶ支持しじ片側かたがわ)は5で、うたて片側かたがわ)は小型こがたものが13(2で1くみのボギーとし、それが5くみ(1くみのボギーごとに垂直すいちょくスプリングサスペンションで懸架けんか)、最前さいぜんの2最後さいご1個いっこ衝撃しょうげき緩衝かんしょうよう独立どくりつしたせい衝転)であった。

Mk.Cのあしまわりは、上部じょうぶ支持しじ片側かたがわ)は5で、うたて片側かたがわ)は小型こがたものが13(2で1くみのボギーとし、それが6くみ(1くみのボギーごとに垂直すいちょくスプリングサスペンションで懸架けんか)、最前さいぜん1個いっこ衝撃しょうげき緩衝かんしょうよう独立どくりつしたせい衝転)であった。Mk.Cにベル・クランク方式ほうしきサスペンションが装備そうびされていたとするせつ間違まちがい(あやま情報じょうほう)である。

  • [6] - バーチガン 18ポンド(83.8 mm)はしほう最初さいしょ試作しさくしゃ側面そくめん画像がぞうひだり前方ぜんぽう。エンジンは車体しゃたい前部ぜんぶ左側ひだりがわ搭載とうさいしている。その右側みぎがわ操縦そうじゅうせきがある。画像がぞうみぎ車体しゃたい後部こうぶには燃料ねんりょうタンクやトランスミッション。こう駆動くどう(FR)方式ほうしき
  • [7] - バーチガン 18ポンド(83.8 mm)はしほう最初さいしょ試作しさくしゃ前方ぜんぽうから。ほうはターレットリングのえん沿って、えんえがくように旋回せんかいする。

しょうてん多数たすうならべる方式ほうしきは、だいいち世界せかい大戦たいせんマーク I 戦車せんしゃ、さらにさかのぼれば、戦車せんしゃであるホルトしゃげんキャタピラーしゃせい、あるいは、ブルロックしゃせいトラクターたる。

機械きかいしきトランスミッションは、前進ぜんしん4そく後進こうしん1そくであった。

日本にっぽんにおける運用うんよう[編集へんしゅう]

日本にっぽん陸軍りくぐんは、1926ねん大正たいしょう15ねん)7がつ戦車せんしゃ開発かいはつ研究けんきゅう参考さんこうようにMk.Cを正式せいしき発注はっちゅうし、日本にっぽんがわからの改修かいしゅう要望ようぼう受諾じゅだくうえ1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつ試製しせいいちごう戦車せんしゃ完成かんせいの1ヶ月かげつ)に輸入ゆにゅうし、基本形きほんけいはほぼそのままではちきゅうしきけい戦車せんしゃ原型げんけいとした。しかしはちきゅうしきけい戦車せんしゃけっしてMk.Cそのままのコピーではなく、うなれば砲塔ほうとう戦車せんしゃであった試製しせいいちごう戦車せんしゃ車体しゃたい前後ぜんこうじゅうとう部分ぶぶんとして全長ぜんちょう短縮たんしゅくして操縦そうじゅうせき機銃きじゅうしゅせきもうけたような車体しゃたいに、Mk.Cのてん22くみらしたようなあしまわり(ただしサスペンションは試製しせいいちごう戦車せんしゃおなじくいたバネしき弓形きゅうけいばんバネは軽量けいりょうはちきゅうしきではした半分はんぶんだけになっている)をわせたような外観がいかんになっている。

1925ねん大正たいしょう14ねん)に欧米おうべい派遣はけんされた緒方おがた勝一かついち中将ちゅうじょう戦車せんしゃ購買こうばいだん当初とうしょ、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.I(あるいはMk.II)[注釈ちゅうしゃく 3]のぞんでいたが、イギリス陸軍りくぐん制式せいしき戦車せんしゃであったためにイギリス政府せいふ輸出ゆしゅつ許可きょかりなかったので(生産せいさん能力のうりょく輸出ゆしゅつまわ余裕よゆうかったともされる)、フランスから提案ていあんされた中古ちゅうこルノー FT-17 けい戦車せんしゃ本格ほんかく採用さいよう検討けんとうしたことや、旧式きゅうしきのFTを導入どうにゅうするよりも戦車せんしゃ国産こくさん開発かいはつ決定けっていしたことなど、紆余曲折うよきょくせつすえに、わりにイギリス陸軍りくぐん採用さいようしなかったMk.Cを輸入ゆにゅうすることになったという経緯けいいがあった。

Mk.I/IIを購入こうにゅうできなかったことは日本にっぽんにとって幸運こううんだったとえる。なぜなら、その戦車せんしゃ国産こくさんへとつながったし(もしMk.I/IIが採用さいようされていたら、極論きょくろんだが、そのすべ輸入ゆにゅうまかない、はちきゅうしきはもちろんのこと[注釈ちゅうしゃく 4]、それ以後いご戦車せんしゃも、開発かいはつされなかったかもしれない)、Mk.I/IIの装甲そうこううすさでは、満州まんしゅう事変じへんささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)とノモンハン事件じけんだい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう)をたたかえなかったであろう。

もっとも、1928ねんカーデン・ロイド Mk.VIヴィッカース 6トン戦車せんしゃ登場とうじょうをきっかけに、各国かっこくのように、そのライセンス生産せいさんつうじて、戦車せんしゃ国産こくさんかったかもしれないし、満州まんしゅう事変じへんたたかえない時点じてんで、あるいは、輸入ゆにゅうもととなる欧米おうべい対立たいりつした時点じてんで、新型しんがた戦車せんしゃ開発かいはつかったかもしれないし、自立じりつ志向しこうつよ日本にっぽんであれば、いずれどこかの時点じてんで、戦車せんしゃ国産こくさんかったとかんがえられる。

日本にっぽんでの輸入ゆにゅう予備よび試験しけんちゅうに、Mk.Cはエンジンかられた気化きかガソリン引火いんかし、火災かさい事故じここしている。この事故じこでヴィッカースしゃから派遣はけんされていた技師ぎし2めい火傷かしょうった。当時とうじ工作こうさく精度せいどやパッキンの問題もんだいから、パイプのなどエンジンから気化きか燃料ねんりょうれるのはたりまえのことであった。このことが「戦闘せんとう車輌しゃりょうガソリンエンジン危険きけんである」という認識にんしきみ、のち開発かいはつされる日本にっぽん戦車せんしゃディーゼルエンジン採用さいようされた原因げんいんの1つとなっている[注釈ちゅうしゃく 5]

焼損しょうそんしたMk.Cは三菱みつびし内燃ないねん名古屋なごや製作所せいさくしょ芝浦しばうらぶん工場こうじょう(1920ねん大正たいしょう9ねん)に、三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう前身ぜんしんである三菱みつびし造船ぞうせん自動車じどうしゃ販売はんばい部門ぶもんである「大手おおて商会しょうかい」の芝浦しばうら工場こうじょうとして発足ほっそくし、1922ねん大正たいしょう11ねん)に 三菱みつびし内燃ないねん芝浦しばうら工場こうじょう買収ばいしゅうし、三菱内燃機名古屋製作所芝浦分工場となる)にまれ、さんヶ月かげつけて修理しゅうりされた。こうした実績じっせき陸軍りくぐんわれ、三菱みつびしはちきゅうしきけい戦車せんしゃはじめとする日本にっぽん戦車せんしゃ生産せいさんたずさわるようになった。

Mk.Cの故障こしょうちゅう日本にっぽんはつ国産こくさん戦車せんしゃである試製しせいいちごう戦車せんしゃが、1927ねん6がつ走行そうこう試験しけんにおいてたか評価ひょうかけることになった。

日本にっぽんでのMk.Cには、操縦そうじゅうしゅフードの正面しょうめんすすきぼしが、その下方かほう傾斜けいしゃめんに「204」の数字すうじえがかれていた。

アイルランドのMk.D[編集へんしゅう]

アイルランド自由じゆうこくがイギリスから輸入ゆにゅうした戦車せんしゃが、Mk.Cのじゅん同型どうけいである、Mk.D(ヴィッカースDがたちゅう戦車せんしゃヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.D、Vickers Medium Tank Mk.D)である。Mk.DはMk.Cの砲塔ほうとうくるまちょうようキューポラをけただけで、りょうくるま外見がいけんにほとんどちがいはい。武装ぶそう最大さいだい速度そくどはMk.Cとおなじである。

Mk.Dは、Mk.Cよりも、わずかに装甲そうこうあつく(6.25-8 mm)、わずかにおもく(12.7 t)、重量じゅうりょうぞう対応たいおうするためか、サスペンションもすこ改良かいりょうされ、エンジン(サンビーム アマゾン)出力しゅつりょくたかい(170 hp)とされる[注釈ちゅうしゃく 6]

め、Mk.Cが、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.Iに相当そうとうするならば、Mk.Dは、改良かいりょうがたにして装甲そうこうぞうあつがたであるであるヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.IIに相当そうとうするともえる。

Mk.Dは、1929ねんに(Mk.Cとは製造せいぞうねんはなれていることに注意ちゅうい)、シェフィールドにあるヴィッカース・アームストロングしゃドンがわ工場こうじょうにて製造せいぞうされた。Mk.Dの製造せいぞうすうは、Mk.Cとおなじく、試作しさくしゃ1りょうのみである。

それまで装甲車そうこうしゃしか保有ほゆうしておらず、ヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.IIに関心かんしんがあったアイルランド陸軍りくぐんは、だい規模きぼ機甲きこう部隊ぶたい創設そうせつする計画けいかくかったが、戦車せんしゃ研究けんきゅうする必要ひつようみとめ、アイルランド陸軍りくぐん幹部かんぶ教育きょういく訓練くんれんように、1929ねん3がつにMk.Dを輸入ゆにゅうした。

Mk.Dは、アイルランドにおける機甲きこうせん第一人者だいいちにんしゃであるショーン・コリンズ・パウエル中尉ちゅういによって、イギリスでテストされた。かれは、アメリカはメリーランドしゅうのアバディーン試験場しけんじょうで、戦車せんしゃ使用しよう応用おうようかんする訓練くんれんけた。

Mk.Dは、ダブリン郊外こうがいのラスマインズにあるカタル・ブルーガ兵舎へいしゃ(アイルランド: Dún Chathail Bhrugha)を拠点きょてんとする、アイルランド騎兵隊きへいたい(アイルランド: An Cór Marcra)のだい2騎兵きへい中隊ちゅうたい配備はいびされた。

1934ねんから1935ねんにかけて、あらたに購入こうにゅうされた2りょうL-60けい戦車せんしゃんだが、Mk.Dがすで時代遅じだいおくれであることをあきらかにしただけだった。

1940ねんまでぐんのこされていたが、対戦たいせんしゃ装置そうち対戦たいせんしゃ射撃しゃげき試験しけん車体しゃたい標的ひょうてきとして破壊はかいされ、スクラップとなり、砲塔ほうとうははずされ、トーチカ転用てんようされた。

いまでもこの砲塔ほうとうほうは、アイルランド最初さいしょ戦車せんしゃ遺物いぶつとして、カラ キャンプ(Curragh Camp)で展示てんじされている。

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「サンビーム アマゾン」には航空機こうくうきようの「サンビーム アマゾン I」と航空機こうくうきようの「サンビーム アマゾン II」がある。両者りょうしゃ出力しゅつりょくわらない。
  2. ^ ビッカースCがたのエンジン出力しゅつりょくを110 hpとするせつもあるが、「サンビーム アマゾン」の性能せいのうとしてはひくすぎるので、おそらくこれは、ていかく出力しゅつりょくよりもさらにひくい、耐久たいきゅうせい重視じゅうしした場合ばあい出力しゅつりょくだとかんがえられる。
  3. ^ 1925ねんには改良かいりょうがたのヴィッカースちゅう戦車せんしゃ Mk.IIの製造せいぞうはじまっているので、実際じっさい購入こうにゅうできた場合ばあいは、中古ちゅうこでなければ、Mk.IIになったとかんがえられる。
  4. ^ Mk.I/IIが採用さいようされていたら、試製しせいいちごう戦車せんしゃ開発かいはつされないので、その系譜けいふであるはちきゅうしきけい戦車せんしゃ試製しせいきゅう一式いっしきじゅう戦車せんしゃきゅうしきじゅう戦車せんしゃ開発かいはつされなくなる。じゅう戦車せんしゃ開発かいはつ経験けいけんければ、試製しせいちょうじゅう戦車せんしゃオイもよんしきちゅう戦車せんしゃしきちゅう戦車せんしゃ開発かいはつできなかったかもしれない。もし6トン戦車せんしゃ大量たいりょう輸入ゆにゅうし、きゅうしきけい戦車せんしゃ開発かいはつされなければ、発展はってんがたであるきゅうななしきちゅう戦車せんしゃいので、一式いっしきちゅう戦車せんしゃさんしきちゅう戦車せんしゃ開発かいはつされない。さらにはビッカースCがたちゅう戦車せんしゃ輸入ゆにゅうされず、はちきゅうしきちゅう戦車せんしゃおつがたのディーゼルエンジンも開発かいはつされないので、国産こくさんされたとしても、国産こくさん戦車せんしゃはガソリンエンジンを搭載とうさいするようになったかもしれない。さらには、Mk.I/IIの影響えいきょうで、国産こくさん戦車せんしゃはフロントエンジン方式ほうしきになったかもしれない(これにかんしては実際じっさいにフロントエンジン方式ほうしきであるきゅうよんしきけい装甲車そうこうしゃ存在そんざいする)。なによりも、国産こくさんみちあゆまなかったら、現在げんざい日本にっぽんは、世界せかいでも数少かずすくない、戦車せんしゃ独自どくじ開発かいはつできるくにではなかったかもしれない。61しき戦車せんしゃも74しき戦車せんしゃも90しき戦車せんしゃも10しき戦車せんしゃも16しき機動きどう戦闘せんとうしゃかったかもしれない。
  5. ^ には、燃費ねんぴさや、国策こくさくとしてガソリンの輸入ゆにゅう節約せつやくするため、被弾ひだん燃焼ねんしょうしないので(燃焼ねんしょうすると装甲そうこう変質へんしつして駄目だめになる)、から車輌しゃりょう回収かいしゅうして再生さいせいして戦力せんりょくとして復帰ふっきさせるのが容易よういだから、などの理由りゆうがある
  6. ^ 「サンビーム アマゾン」(直列ちょくれつ6気筒きとう)のもとになった「サンビーム コサック」(Vがた12気筒きとう)には、「350 hp/2,000 rpm」の「サンビーム コサック III」というバリエーションもあるので、その半分はんぶんとして、「サンビーム アマゾン」に170 hpを発揮はっきできるポテンシャルがあっても不思議ふしぎはない。MK.Dが「サンビーム アマゾン」けいのエンジンを搭載とうさいしていたのは間違まちがいないが、こまかい型式けいしき不明ふめい。ただし170 hpというのは、おそらく「170 hp/2,○00 rpm」のことであって、最高さいこう出力しゅつりょく瞬間しゅんかんてき発揮はっきできる出力しゅつりょく)にちか数値すうちだとかんがえられる。ていかく出力しゅつりょく継続けいぞくてき発揮はっきできる出力しゅつりょく)は、もっとひくいとかんがえられる。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • [8] - トライアルちゅうのMk.C。
  • [9] - Mk.Cを後方こうほうから。
  • [10] - 日本にっぽん陸軍りくぐんのMk.C。
  • [11] - アイルランドのMk.D。砲塔ほうとう上面うわつらのキューポラが確認かくにんできる。
  • [12] - アイルランドのMk.D。
  • [13] - L-60けい戦車せんしゃしたがえる、アイルランドのMk.D。砲塔ほうとう前面ぜんめん下部かぶにベアリング収納しゅうのうが2カ所かしょあることがわかる。Mk.Cは砲塔ほうとう前面ぜんめん下部かぶに1カ所かしょのみなので、ここでりょうくるま見分みわけることができる。
  • [14] - アイルランドのMk.Dに搭載とうさいされていた、新型しんがた6ポンド(57 mm)戦車せんしゃほう。MK.Cのものおなぶつかんがえられる。みぎ方向ほうこうひら水平すいへいスライドくさりせんしきであることがわかる。