IIごう戦車せんしゃ

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IIごう戦車せんしゃA/B/Cがた
ボービントン戦車せんしゃ博物館はくぶつかん撮影さつえいされたIIごう戦車せんしゃFがた
性能せいのうしょもと
全長ぜんちょう 4.81 m
全幅ぜんぷく 2.22 m
ぜんこう 1.99 m
重量じゅうりょう 8.9 t
懸架けんか方式ほうしき リーフスプリング方式ほうしき
速度そくど 40 km/h
行動こうどう距離きょり 200 km
主砲しゅほう 55口径こうけい20 mm機関きかんほう2 cm KwK 30 L/55
ふく武装ぶそう 7.92 mm機関きかんじゅう MG34
装甲そうこう
砲塔ほうとう
  • 前面ぜんめん15(+15) mm、
  • がわこうめん15 mm
  • 上面うわつら10 mm
車体しゃたい
  • 前面ぜんめん15(+20) mm
  • がわこうめん15 mm
  • 底面ていめん5 mm
エンジン マイバッハ HL62TR
直列ちょくれつ6気筒きとうえきひやガソリン
140 馬力ばりき
乗員じょういん 3 めい
くるまちょうけん砲手ほうしゅ操縦そうじゅうしゅ無線むせんしゅけん装填そうてんしゅ
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IIごう戦車せんしゃ(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ツヴァイ、特殊とくしゅ車輌しゃりょう番号ばんごう Sd.Kfz.121)は、ナチス・ドイツつくられたけい戦車せんしゃ(10トンきゅう)である。

概要がいよう[編集へんしゅう]

a~cがた、A~Cがた、Fがたいた標準ひょうじゅんがたと、砲塔ほうとう共通きょうつうだが車体しゃたいまったべつ設計せっけいのD、Eがた、さらに(コンセプトじょうの)発展はってんがたで、これもべつ設計せっけいのGがた以降いこうかくタイプがある。

標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃは、Iごう戦車せんしゃではできないほうあつかうための訓練くんれんおよび戦車せんしゃ生産せいさん技術ぎじゅつ習得しゅうとくよう開発かいはつされたけい戦車せんしゃであり、MANしゃおよびダイムラー・ベンツしゃヘンシェルしゃ、ヴェクマンしゃ、アルケットしゃ、FAMOしゃ、MIAGしゃによって生産せいさんされた。主力しゅりょく戦車せんしゃであるIIIごうIVごうかずそろうまでのつなぎとして、非力ひりきIごうわって、ある程度ていど実戦じっせん能力のうりょく付与ふよされたものである。試作しさくがた1935ねん完成かんせいし、1936ねんから増加ぞうか試作しさくがたすうじゅうりょうつくられ、翌年よくねんからAがた本格ほんかくてき量産りょうさんはいった。ほんしゃもIごう戦車せんしゃ同様どうよう農業のうぎょうようトラクター(どく:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号りゃくごう:La.S.) の名目めいもく開発かいはつされている。

Iごう戦車せんしゃ武装ぶそう7.92 mm機関きかんじゅう MG 13kであるのにたいし、IIごう戦車せんしゃ2 cm機関きかんほう KwK 30強化きょうかされている。a、bがたではしょうてんを2りんずつリーフしきサスペンションボギーでささえ、さらにそのボギーじくをガーダービームでつないだ形式けいしきであったが、cがたではうたてひとつごとに独立どくりつしてリーフスプリングきアームでささえる形式けいしきとなり、これが以降いこうかた標準ひょうじゅんとなった。のちにはこのシャーシもちいて様々さまざまはしほうつくられた。

開発かいはつ[編集へんしゅう]

さい軍備ぐんびけた最初さいしょ量産りょうさんがた戦車せんしゃとして1934ねん生産せいさん開始かいしされたIごう戦車せんしゃだったが、これは本格ほんかくてき戦車せんしゃ開発かいはつのための習作しゅうさくてき意味合いみあいがつよく、訓練くんれんようとして使つかうにも小型こがたぎた。また、これにつづくべき本格ほんかくてき戦車せんしゃであるIIIごう戦車せんしゃ、IVごう戦車せんしゃは、なお開発かいはつ手間取てまどることが予測よそくされたため、そのあいだをつなぐ、Iごう戦車せんしゃよりも若干じゃっかんおおきく武装ぶそう強力きょうりょくけい戦車せんしゃ開発かいはつ計画けいかくされた。

開発かいはつ命令めいれいは、Iごう生産せいさんはじまってあいだもなく、1934ねん7がつクルップ、MAN、ヘンシェルの3しゃくだされたが、その仕様しようは、戦闘せんとう重量じゅうりょう当初とうしょLa.S.(Iごう戦車せんしゃ開発かいはつ名称めいしょう)にされたもののばいの10トン、武装ぶそうぜん周回しゅうかいてん砲塔ほうとうに2 cm機関きかんほうと7.92 mm機銃きじゅう同軸どうじく搭載とうさいするというものであった。しゅ武装ぶそうとしてえらばれたのは、このとし生産せいさん開始かいしされた新鋭しんえい2 cm Flak 30機関きかんほう車載しゃさいがたであった。

3しゃあん比較ひかく検討けんとう結果けっか、MANしゃのものが採用さいようされ、La.S. 100(農業のうぎょうようトラクター100がた)の秘匿ひとく名称めいしょうのもとで、25りょう先行せんこう量産りょうさんがた製作せいさくめいじられた。シャーシの生産せいさん最終さいしゅう組立くみたて開発かいはつ会社かいしゃのMANがおこな一方いっぽう上部じょうぶ構造こうぞうぶつはIごう同様どうよう、ダイムラー・ベンツが担当たんとうした。

1935ねん10月に軟鋼なんこうせい試作しさくしゃ完成かんせいつづいて当初とうしょ発注はっちゅうぶんの25りょうの a/1がたつづいて同数どうすうの a/2がた、50りょうの a/3がたつくられた。実用じつよういそいだえに、これら初期しょきかたは、小刻こきざみな改修かいしゅうかさねながらの生産せいさんとなった。1937ねん2がつからは、装甲そうこう強化きょうかしたbがたが25りょう生産せいさんされた。

つづくcがた(25りょう生産せいさん)は、車体しゃたい形状けいじょう以前いぜんかたいでいるものの、あしまわりが一新いっしんされた。これは、ガーダービームをはいし、比較的ひかくてきだい直径ちょっけいてんをそれぞれリーフスプリングで独立どくりつ懸架けんかするもので、これが以降いこうかた標準ひょうじゅんとなった。aかくかたとbがたにはマイバッハ HL57TR(130馬力ばりき)エンジンが搭載とうさいされていたが、cがたでは重量じゅうりょうぞう対応たいおうし、マイバッハ HL62TR(140馬力ばりき)に強化きょうかされた。

このcがたて、IIごう戦車せんしゃはようやく本格ほんかくてき量産りょうさんはいり、りゃく同形どうけいのA、B、Cがたが、1937ねん7がつから、1940ねん4がつにかけて、けい1088りょう生産せいさんされた。この生産せいさん途中とちゅうである1938ねん10月25にち、「IIごう戦車せんしゃ(2 cm)(特殊とくしゅ車両しゃりょう番号ばんごう121)」(Panzerkampfwagen II(2 cm)(Sd.Kfz.121))の制式せいしき名称めいしょうあたえられた。

乗員じょういん配置はいちは、1めいよう砲塔ほうとうくるまちょうけん砲手ほうしゅ車体しゃたい前部ぜんぶ左側ひだりがわ操縦そうじゅうしゅ、その後方こうほう無線むせんしゅけん装填そうてんしゅの、けい3めいである。無線むせんしゅゆかすわっており、その左側ひだりがわ無線むせんと2 cm機関きかんほう弾薬だんやくばこがあった。無線むせんはFu.2受信じゅしんもしくはFu.5送受信そうじゅしん装備そうび砲塔ほうとう上面うわつらくるまちょうようの、車体しゃたい前部ぜんぶ上面うわつら左側ひだりがわ操縦そうじゅうせき手前てまえ)に操縦そうじゅうしゅようの、車体しゃたい後部こうぶ上面うわつら左側ひだりがわ無線むせんしゅようの、乗降じょうこうようハッチがある。戦闘せんとうしつ左側ひだりがわめんにはバイザーがあり、無線むせんしゅ後方こうほう視察しさつできた。エンジンは車台しゃだい後部こうぶ右側みぎがわにある。エンジンから前方ぜんぽうびたドライブシャフトと、ドライブシャフトとつながっている車台しゃだい前部ぜんぶ変速へんそくも、車台しゃだい右側みぎがわにある。

実戦じっせん投入とうにゅう改修かいしゅう[編集へんしゅう]

IIごう戦車せんしゃはまずスペイン内戦ないせんで、Iごう戦車せんしゃとともにテスト運用うんようされた。本格ほんかくてき主力しゅりょく戦車せんしゃであるIIIごう戦車せんしゃIVごう戦車せんしゃ生産せいさんわず、だい世界せかい大戦たいせん開始かいしポーランド侵攻しんこうから主力しゅりょくとして実戦じっせん投入とうにゅうされた。初期しょき電撃でんげきせんではその軽快けいかいせい機動きどうりょくおおいに発揮はっきされ[1]、その戦闘せんとう能力のうりょく当時とうじにおいては有効ゆうこうだった。

電撃でんげきせんみのおやともわれているハインツ・グデーリアンのちに「まさかこれら訓練くんれんよう戦車せんしゃ大戦たいせん突入とつにゅうするとはおもってもみなかった。」とかたっているが、一方いっぽうでは榴弾りゅうだん使用しようできる2 cm機関きかんほう歩兵ほへい最大さいだいてきであるじゅう機関きかんじゅう攻撃こうげきするのに最適さいてきであり、被弾ひだん面積めんせきちいささと単価たんかやすさもあって参謀さんぼう本部ほんぶなかにはこの戦車せんしゃ主力しゅりょくとするよう献言けんげんしたものもいた。また主砲しゅほうはもともとじゅう対戦たいせんしゃライフルから発展はってんした高射こうしゃ機関きかんほうであるために初速しょそくたかく、そのてっかぶとだん相手あいてけい装甲そうこうであれば十分じゅうぶん威力いりょく発揮はっきできた。しかし、対戦たいせんしゃ攻撃こうげきりょく重視じゅうしするルートヴィヒ・ベック反対はんたいもあり、結局けっきょく当初とうしょ予定よていどおIIIごう戦車せんしゃ主力しゅりょくとする方針ほうしんつらぬかれた。実際じっさいにポーランドせん、IIIごう、IVごう生産せいさんがある程度ていど軌道きどうはじめると、IIごう戦車せんしゃ偵察ていさつ連絡れんらくおも任務にんむにするよう格下かくさげされた。しかし、そのもしばらくは、数量すうりょうてきにはなおドイツぐん戦車せんしゃ部隊ぶたい主力しゅりょく車両しゃりょうであった。

また、bがた以降いこう若干じゃっかん強化きょうかされたとはいえ装甲そうこうはなおうすく、ポーランドせんでは対戦たいせんしゃ火器かきによっておおきな損害そんがいこうむり、うちすくなくとも78りょう修理しゅうり不能ふのうぜんそんとなった。そのため1940ねん5がつ以降いこう、c、A~Cがた車体しゃたい前面ぜんめん砲塔ほうとう前面ぜんめんに15 mmまたは20 mmの増加ぞうか装甲そうこうける改修かいしゅうおこなわれた。また、フランスせんの1940ねん10がつには、砲塔ほうとう上面うわつらおおきな角形かくがたハッチにえて、ぜんしゅうにペリスコープをそなえたコマンダー・キューポラが導入どうにゅうされ、その改修かいしゅうキットが配布はいふされた。

そのも、バルカン戦線せんせんきたアフリカ戦線せんせんどくせんと、IIごうすで非力ひりきとなりながらもたたかつづけた。1941ねん3月からは、標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃ最終さいしゅうがたとなるFがた生産せいさん開始かいしされた。FがたはCかたまでとくらべ、基本きほん装甲そうこう全体ぜんたいてきふえあつされており、車体しゃたいぜんはし平面へいめんわせとなり、戦闘せんとうしつ前面ぜんめん車体しゃたいはばいちはいいちまいいたとなった。また、砲塔ほうとうには最初さいしょからキューポラが装着そうちゃくされていた。本来ほんらいはCがたつづ生産せいさんされるべきものだったが、これらあらため設計せっけい手間取てまどったため、生産せいさん開始かいしまでにやく1ねんおくれがしょうじることになった。このころにはすでに戦車せんしゃとしての価値かちはほぼうしなわれつつあったが、一方いっぽうで、ドイツは装甲そうこう師団しだん大幅おおはば拡張かくちょうはじめており、その充足じゅうそくよう生産せいさんされたのである。生産せいさんはFAMOしゃ1しゃのみでおこなわれ、1942ねん12月までに524りょうつくられた。標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃ生産せいさんはこれをもって終了しゅうりょうしたが、車台しゃだいはその派生はせいがたであるはしほうようつづ生産せいさんされた。

"騎兵きへい戦車せんしゃ"D、Eがた[編集へんしゅう]

1938ねんはじめ、兵器へいききょく新編しんぺんけい師団しだんけに、偵察ていさつよう高速こうそく戦車せんしゃ(Schnellkampfwagen)、秘匿ひとく名称めいしょうLa.S. 138(農業のうぎょうようトラクター138がた)の開発かいはつをダイムラー・ベンツしゃめいじた。これは従来じゅうらい騎兵きへい部隊ぶたいになってきた強行きょうこう偵察ていさつ追撃ついげきにんにあたるための快速かいそくけい戦車せんしゃで、標準ひょうじゅんがたのIIごう戦車せんしゃの40 km/hのさい高速度こうそくどでは不足ふそくかんがえられたためである。

この新型しんがたけい戦車せんしゃは、砲塔ほうとうとエンジンは標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃ共通きょうつうだったが、車体しゃたいしん設計せっけいで、そのレイアウトは、おなじくダイムラー・ベンツが開発かいはつしたIIIごう戦車せんしゃていた。あしまわりは大型おおがたふくれつしきうたて片側かたがわ4つで上部じょうぶてんはなく、ドイツ戦車せんしゃとしてははじめてトーションバー・サスペンションとマイバッハ VG102128 プリセレクトしき変速へんそく採用さいよう、F&S PF220K 乾式かんしきいたクラッチとわせていた。車体しゃたい前面ぜんめん装甲そうこうどう時期じき標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃよりあつく、30 mmとなっていた。そのためくるまじゅうも10 tと若干じゃっかんおもかったが、高速こうそく走行そうこうてきした駆動くどうけいあしまわりで、最高さいこう速度そくどは55 km/hにたっした。

生産せいさんはMANしゃおこなわれ、1938ねん5がつから1939ねん8がつにかけ、ぜん43りょうつくられた。その、この戦車せんしゃには(標準ひょうじゅんがたとはべつ設計せっけいであるにもかかわらず)、IIごう戦車せんしゃD、Eがた特殊とくしゅ車両しゃりょう番号ばんごう121)(Panzerkampfwagen II Ausf. D, E (Sd.Kfz.121))の制式せいしき名称めいしょうあたえられた。Dがた一般いっぱんてきなシングルピンがた乾式かんしきくつたいいていたが、後期こうき生産せいさんされたEがたはドイツのハーフトラック系列けいれつ形状けいじょう湿式しっしきくつたいで(ただし試作しさく車両しゃりょうのぞ接地せっちめんにゴムパッドはかない)、これにともな起動きどう誘導ゆうどうの(資料しりょうによりてんも)形状けいじょう変化へんかしていた。D、Eがた生産せいさんすうのこされた資料しりょうすくないが、とく湿式しっしきくつたいつEがた写真しゃしんとうすくない。その火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃはしほうよう車台しゃだい追加ついか生産せいさんされたが、これらはほぼDがた仕様しようあしまわりをっていた。

高速こうそく偵察ていさつよう車両しゃりょうとして開発かいはつされたD、Eがただったが、たしかに路上ろじょう最高さいこう速度そくど標準ひょうじゅんがた上回うわまわったものの、整地せいち走行そうこう性能せいのう期待きたい裏切うらぎり、少数しょうすうのみで生産せいさんられた。生産せいさんしゃいち大隊だいたい充足じゅうそくするかずで、計画けいかくどおけい師団しだん配属はいぞくされて1939ねんのポーランドせん投入とうにゅうされたが、1940ねんには部隊ぶたいからげられ、火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ改装かいそうされた。

IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃLがた(ルクス)[編集へんしゅう]

1939ねん9がつ15にち、ドイツ陸軍りくぐん兵器へいききょくは、30 mmの前部ぜんぶ装甲そうこう(これは当時とうじ主力しゅりょくちゅう戦車せんしゃであるIIIごう戦車せんしゃEがたやIVごう戦車せんしゃDがたおなあつさである)、2 cmまたは3.7 cm主砲しゅほう最高さいこう速度そくど50 km/hをそなえた、高速こうそくじゅう装甲そうこう偵察ていさつ戦車せんしゃあたらしい仕様しよう発表はっぴょうした。これはもとはドイツのMANしゃおくられたが、1940ねん7がつ31にちにシュコダしゃとBMM(もとČKD)しゃにもおくられ、さんしゃ競作きょうさくとなった。MANしゃものが「IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃLがた」として採用さいようされ、シュコダしゃものが「シュコダ T-15、あるいは、IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃシュコダがた」、BMM(もとČKD)しゃものが「新型しんがた38(t)戦車せんしゃ」である。

バリエーション[編集へんしゅう]

IIごう戦車せんしゃaがた、bがた、cがた
Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. a, b, c, (Sd.Kfz.121), La.S. 100
試作しさくがたおよび増加ぞうか試作しさくがた初期しょき実戦じっせんにも参加さんかしている。基本きほん装甲そうこうあつは13 mm。
aがたには、a/1、a/2、a/3のサブタイプがある。a/1がた標準ひょうじゅんがた。a/2がたは、a/1がた改良かいりょうがたで、戦闘せんとうしつ機関きかんしつあいだ隔壁かくへきをボルトではずしができるようにして、戦闘せんとうしつから機関きかんしつへのアクセスを可能かのうにした。a/3がたは、a/2がた改良かいりょうがたで、前期ぜんきがた後期こうきがたがある。前期ぜんきがたでは燃料ねんりょうポンプや点検てんけんハッチの追加ついかおこなわれ、後期こうきがたではラジエーターの追加ついかとサスペンションの強化きょうかおこなわれた。
bがた装甲そうこうあつを14.5 mmにふえあつ装甲そうこうはがねからニッケルをのぞいた。溶接ようせつ強化きょうかされた。車体しゃたい延長えんちょうされた。車台しゃだい前部ぜんぶ(フロントハル)をさい設計せっけいした。
cがたからかくてん独立どくりつがたのリーフスプリングしきサスペンションとなった。
IIごう戦車せんしゃAがた
Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. A, (Sd.Kfz.121), La.S. 100
cがたをもとにした最初さいしょ量産りょうさんがたで、基本きほん装甲そうこうあつが14.5 mmになった。1940ねん5がつ以降いこう車体しゃたいに15~20 mmあつ増加ぞうか装甲そうこう溶接ようせつ砲塔ほうとう前面ぜんめんに20 mmあつ増加ぞうか装甲そうこうがボルトめされ、10月からキューポラ増設ぞうせつおこなわれた。
IIごう戦車せんしゃBがた、Cがた
Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. B, C, (Sd.Kfz.121), La.S. 100
Aがたとは生産せいさん時期じき細部さいぶ若干じゃっかんことなるだけのかたのちにAがた同様どうよう装甲そうこう強化きょうかとキューポラの増設ぞうせつおこなわれた。
IIごう戦車せんしゃDがた、Eがた
Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. D, E, (Sd.Kfz.121), La.S. 138
速度そくどとくした騎兵きへい部隊ぶたいけ。ダイムラーベンツしゃ農業のうぎょうようトラクター138がた秘匿ひとく名称めいしょう開発かいはつしたものだが、生産せいさんはそれ以前いぜんかた同様どうようにMANしゃが1938ねんからっている。砲塔ほうとうおなじだが車体しゃたいはa〜Cがたとはべつ設計せっけいで、あしまわりも大型おおがたてんとトーションバーしきサスペンションに変更へんこうされた。1939ねん生産せいさんされたEがたでは、ハーフトラックのような湿式しっしきくつたい変更へんこうされている。ポーランドせん実戦じっせん参加さんかしたが、従来じゅうらいがたよりみちがい機動きどうせい低下ていかしていたといわれ、1940ねん5がつまでには部隊ぶたい編成へんせいからはずされている。のち火焔かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ改造かいぞうされ、さらに対戦たいせんしゃはしほうマルダーII(7.62 cm Pak 36(r)搭載とうさいがた)に改造かいぞうされた。
ムンスター戦車せんしゃ博物館はくぶつかんのFがた車体しゃたい前面ぜんめん左側ひだりがわのバイザーは操縦そうじゅうしゅようだが、みぎはダミー
IIごう戦車せんしゃFがた
Panzerkampfwagen II (2 cm) Ausf. F, (Sd.Kfz.121), La.S. 100
A~Cかたけい装甲そうこう強化きょうかし、生産せいさんせい向上こうじょうはかったかた[2]標準ひょうじゅんがたIIごう戦車せんしゃとしては最終さいしゅう生産せいさんがた。1941ねん3がつから1942ねん12がつにかけて524りょう生産せいさんされた[2]。これ以降いこう車台しゃだい使用しようしてマルダーII生産せいさんえられた。
IIごう戦車せんしゃGがた
Panzerkampfwagen II Ausf. G, VK.9.01
高速こうそく偵察ていさつがたで、速力そくりょく向上こうじょう主眼しゅがんいた発展はってんがた。150 hp/3,800 rpmのマイバッハ HL45P えきひや直列ちょくれつ6気筒きとうガソリンエンジンを搭載とうさいし、路上ろじょう最高さいこう速度そくど65 km/h。主砲しゅほう新型しんがた2 cm KwK 38変更へんこう。これ以降いこうかたは、オーバーラップ(はさしき千鳥足ちどりあししきとも)てんとトーションバー・サスペンションという、ティーガーやパンターにあしまわりをつ。量産りょうさん計画けいかく中止ちゅうしされ、結局けっきょく12りょうのみつくられたが、部隊ぶたい配備はいびされた記録きろくはない。ほんしゃようつくられた砲塔ほうとうあまったものは、要塞ようさい陣地じんちのトーチカに転用てんようされた。
IIごう戦車せんしゃHがた
Panzerkampfwagen II Ausf. H, VK.9.03
高速こうそく偵察ていさつがたで、Gがた改良かいりょう発展はってんがた。180 hp/3,200 rpmのマイバッハ HL66P えきひや直列ちょくれつ6気筒きとうガソリンエンジンと、新型しんがた38(t)戦車せんしゃのちにルクスとの競作きょうさくれる)に採用さいようされたトランスミッションを搭載とうさいした。1942ねん1がつ最初さいしょ試作しさくしゃ完成かんせい。1942ねん8がつから量産りょうさん計画けいかくもあったが、VK.13.03の開発かいはつ進行しんこうしたため、それにえられ、結局けっきょく生産せいさんがたは1りょう生産せいさんされず、試作しさくどまり。
1941ねん9がつ11にち、「ゲレート8202」(口径こうけい漸減ぜんげんほう「2.8 cm KwK 42」)を、VK.9.03に搭載とうさいすることが決定けっていされた。このほうは、タングステンだんしんの「2.8 cm Pz.Gr.41弾薬だんやく」を使用しようし、しょう口径こうけいだが近距離きんきょりでは装甲そうこう貫徹かんてつりょくたかく、射距離しゃきょり100 mで30傾斜けいしゃした60 mmあつ均質きんしつ圧延あつえん装甲そうこうばん貫徹かんてつでき、ガスあつによる自動じどう装填そうてんしきなので、発射はっしゃ速度そくどは15~20はつ/ぶん達成たっせいできた。
1942ねん9がつまつには、Hがた車体しゃたい使用しようして、1303b砲塔ほうとう搭載とうさいした試験しけん車両しゃりょう製作せいさくされた。この砲塔ほうとうは、Lがた生産せいさんがただい101号車ごうしゃから導入どうにゅうされるはずだった、60口径こうけい5 cm戦車せんしゃほう KwK 39/1 搭載とうさいがた砲塔ほうとう流用りゅうようしたもので、砲塔ほうとう上面うわつらはオープン・トップ(開放かいほうしき天蓋てんがい)で、キャンバス・カバーがかけられていた。この砲塔ほうとうはHがたのものより大型おおがただったため、これにわせてHがた上部じょうぶ構造こうぞうはばひろげられていた。この砲塔ほうとう60口径こうけい 5 cm PaK 38 たい戦車せんしゃほうIIIごう戦車せんしゃ J/L/Mがた同等どうとう)を搭載とうさいした試作しさくしゃが2りょう製造せいぞうされた。
IIごう戦車せんしゃJがた
Panzerkampfwagen II Ausf. J, VK.16.01
Iごう戦車せんしゃFがた同様どうようじゅう装甲そうこう歩兵ほへい支援しえんがたで、前面ぜんめん装甲そうこうあつ80 mm、重量じゅうりょう17.4 t(メトリックトン)、路上ろじょう最高さいこう速度そくど31 km/h。しゅ武装ぶそうは2 cm KwK 38 L/55で、ふく武装ぶそうは7.92 mm MG 34。1939ねん12月に開発かいはつはじまり、22りょうつくられ、1943ねんだい12戦車せんしゃ師団しだん配備はいびされ、東部とうぶ戦線せんせん実戦じっせん参加さんかした。
ソミュール戦車せんしゃ博物館はくぶつかんのルクス。車体しゃたい前面ぜんめん左右さゆうのバイザーは本物ほんものだが、中央ちゅうおうはダミー
IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃシュコダがた(シュコダ T-15)
Panzerspähwagen II Ausführung Škoda、パンツァーシュペーヴァーゲン ツヴァイ アウスフュールンク シュコダ
シュコダしゃ試作しさくけい戦車せんしゃ。5りょう試作しさくしゃ製造せいぞう契約けいやくむすんだが、Lがた生産せいさんされたので、試作しさくしゃ4りょう製造せいぞうのみで1944ねん初頭しょとう開発かいはつ中止ちゅうし。1945ねん1がつ作業さぎょう再開さいかいし、1945ねん5がつに5りょう製造せいぞう主砲しゅほうとうにA-19 37 mm戦車せんしゃほう1もんとMG34 7.92 mm機関きかんじゅう1てい装備そうび最大さいだい装甲そうこうあつ30 mm。戦闘せんとう重量じゅうりょう10.8 t。220馬力ばりき 8気筒きとうガソリンエンジン搭載とうさい路上ろじょう最高さいこう速度そくど50 km/h。あしまわり(片側かたがわ)は、まえから、前方ぜんぽう誘導ゆうどう-大型おおがたてん2-上部じょうぶ支持しじ3-大型おおがたてん2-後方こうほう起動きどう、ののち駆動くどう方式ほうしきはん楕円だえんがたリーフスプリング・サスペンション方式ほうしき乗員じょういん4めいくるまちょう砲手ほうしゅ無線むせんしゅ操縦そうじゅうしゅ)。
IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃLがた
Panzerspähwagen II Ausf. L, (Sd.Kfz.123), VK.13.03、パンツァーシュペーヴァーゲン ツヴァイ アウスフュールンク エル
パンツァーシュペーヴァーゲンは、直訳ちょくやくすれば「装甲そうこう偵察ていさつ車両しゃりょう」、意訳いやくすれば「偵察ていさつ戦車せんしゃ」。通称つうしょう ルクス (Luchs, 山猫やまねこ)。1943ねん9月~1944ねん1がつに100りょう限定げんてい生産せいさんされた。従来じゅうらいのIIごう戦車せんしゃとは設計せっけい段階だんかいから別物べつものであり、武装ぶそうは20 mmほう一門いちもんのみ、最大さいだい装甲そうこうあつ30 mmとうすわりに、180馬力ばりきだい出力しゅつりょくエンジンを搭載とうさいし、路上ろじょう最高さいこう速度そくど60 km/hをほこった。あしまわりはオーバーラップ大型おおがたてんとトーションバー・サスペンション。
5 cm L/60ほう搭載とうさいがた通称つうしょう「レオパルト」の生産せいさん予定よていされていたが、中止ちゅうしされ、パーツは8りん大型おおがた装甲車そうこうしゃ Sd Kfz 234 プーマに流用りゅうようされた。
IIごう戦車せんしゃMがた
Panzerkampfwagen II Ausf. M, VK.13.01
武装ぶそう速力そくりょく向上こうじょう主眼しゅがんいた発展はってんがた。Hがた同時どうじ開発かいはつされ、5 cm L/60ほう搭載とうさいし、おな車体しゃたいに2 cmほう搭載とうさいしたものはLがた原型げんけいとなったが、4りょうのみの試作しさくわった。

派生はせいがた[編集へんしゅう]

VK 1602 レオパルト
Leopard, VK16.02
IIごう戦車せんしゃ系列けいれつ偵察ていさつ戦車せんしゃ最終さいしゅう発展はってんがた試作しさくしゃ完成かんせいまえ計画けいかく中止ちゅうしされ、砲塔ほうとうのみ Sd.Kfz.234/2流用りゅうようされた。
IIごう火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ
Panzerkampfwagen II Flamm, (Sd.Kfz.122)
通称つうしょう フラミンゴ (Flamingo)。DがたおよびEがた車台しゃだい利用りようした火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ
IIごうはしじゅう歩兵ほへいほう
15 cm sIG33 auf Fahrgestell Panzerkampfwagen II(Sf)
IIごう戦車せんしゃ車体しゃたい延長えんちょうし、15 cm歩兵ほへいほう sIG33を搭載とうさいしたもの。
IIごう5 cm対戦たいせんしゃはしほう
5 cm Pak 38 L/60 auf Fgst.Pz.Kpfw.II (Sf)
砲塔ほうとう撤去てっきょしたIIごう戦車せんしゃ車台しゃだいに、60口径こうけい 5 cmたい戦車せんしゃほう PaK 38搭載とうさいした、対戦たいせんしゃはしほう
IIごう7.62 cm対戦たいせんしゃはしほう
Panzer Selbstfahrlafette 1 für 7,62 cm PaK 36(r) auf Fahrgestell, (Sd.Kfz.132)
IIごう火焔かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ車台しゃだいに、ソ連それんぐんから大量たいりょう鹵獲ろかくしたF-22野砲やほう改造かいぞうした7.62 cmたい戦車せんしゃほう PaK 36(r)搭載とうさいした、対戦たいせんしゃはしほう
IIごう7.5 cm対戦たいせんしゃはしほう
7,5 cm PaK 40/2 auf Fahrgestell Panzerkampfwagen II (Sf), (Sd.Kfz.131)
通称つうしょう マルダーII(Marder II)。砲塔ほうとう撤去てっきょしたIIごう戦車せんしゃc、A、B、C、Fがた車台しゃだいに、7.5 cmたい戦車せんしゃほう Pak 40/2搭載とうさいした、対戦たいせんしゃはしほう
ヴェスペ
Wespe, (Sd.Kfz.124)
IIごう戦車せんしゃもとにしたはしほうよう車台しゃだい10.5 cm榴弾りゅうだんほう leFH18M搭載とうさいしたかた1943ねん2がつ生産せいさん開始かいしされた。有効ゆうこう戦果せんかをあげたため、すべてのIIごう戦車せんしゃのシャーシがてられ、1944ねんなつごろまで生産せいさんされた。
IIごう7.5 cm対戦たいせんしゃはしほう(PaK 42 L/70)
7,5 cm PaK 42 L/70 mit Kugelblende auf VK9.03
IIごう戦車せんしゃHがた(VK9.03)のシャーシに固定こてい戦闘せんとうしつもうけ、パンターの主砲しゅほう同等どうとうの7.5 cm PaK 42 L/70を搭載とうさいする、対戦たいせんしゃはしほう。ペーパープランのみ。「Kugelblende」はボールマウントのこと。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ しかしポーランドせんでは故障こしょうによって行動こうどう不能ふのうとなったIごうおよびIIごう戦車せんしゃおおく、それは全体ぜんたいの25%にもたっしていた。
  2. ^ a b http://combat1.sakura.ne.jp/2GOUF.htm

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大村おおむらはる、「ドイツIIごう戦車せんしゃ」、『月刊げっかんグランドパワー2005/11ごう』、ガリレオ出版しゅっぱん
  • 尾藤びとうみつるほか、『アハトゥンク・パンツァーだい7しゅう Iごう戦車せんしゃ・IIごう戦車せんしゃ派生はせいがたへん』、だい日本にっぽん絵画かいが、2003
  • Peter Chamberlain, Hilary Doyle, 『ENCYCLOPEDIA OF GERMAN TANKS OF WORLD WAR TWO - 月刊げっかんモデルグラフィックス別冊べっさつ・ジャーマンタンクス』、だい日本にっぽん絵画かいが、1986

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • [1] - IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃシュコダがた 前方ぜんぽう
  • [2] - IIごう偵察ていさつ戦車せんしゃシュコダがた 後方こうほう
  • [3] - IIごう7.5 cm対戦たいせんしゃはしほう(PaK 42 L/70)