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ST-39

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ST vz. 39
性能せいのうしょもと
全長ぜんちょう 5.35 m
全幅ぜんぷく 2.34 m
ぜんこう 2.27 m
重量じゅうりょう 16.2 t
懸架けんか方式ほうしき リーフスプリング方式ほうしきボギーがた
速度そくど 45 km/h整地せいち
25 km/h(整地せいち
行動こうどう距離きょり 150 km整地せいち)、80~120 km(整地せいち
主砲しゅほう シュコダ A11 43.4口径こうけい 47 mm 戦車せんしゃほう(80 はつ
ふく武装ぶそう ZB vz.37 7.92 mm じゅう機関きかんじゅう ×2(3000 はつ
装甲そうこう 13~32 mm
エンジン プラガ NR
4ストローク水冷すいれいVがた8気筒きとうガソリン
225~260 馬力ばりき
乗員じょういん 4 めいくるまちょう砲手ほうしゅ操縦そうじゅうしゅ機銃きじゅうしゅけん無線むせんしゅ
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プラガ V-8-H、または、ST-39(1939ねんがたちゅう戦車せんしゃ、チェコスロバキアぐん名称めいしょう Střední tank vzor 39ST vz. 39STvz.39)は、だい世界せかい大戦たいせんまえの1936ねんから1938ねんにかけて、チェコČKD(チェスコモラスカー コーベン ダニック、略称りゃくしょう:チェーカーデー、チェコダ)しゃ開発かいはつした、ちゅう戦車せんしゃである。

2りょうのプロトタイプのみが製造せいぞうされた。

概要がいよう

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開発かいはつ前史ぜんし

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1934ねんに、チェコスロバキアぐんにおける初期しょき戦車せんしゃ分類ぶんるいである、カテゴリーII(けい戦車せんしゃ)を、IIa(騎兵きへい戦車せんしゃ)とIIb(歩兵ほへい戦車せんしゃ)に分割ぶんかつすることが決定けっていされた。

1935ねんに、ČKDしゃ(≒プラガしゃ)とシュコダしゃあいだで、カテゴリーIIa(騎兵きへい戦車せんしゃ)の新型しんがた戦車せんしゃ開発かいはつ計画けいかくのコンペティションがおこなわれ、1935ねん5がつ、LTvz.34(P-II)の改良かいりょうがた「P-IIa」(PはPraga=プラガしゃあらわす)を提示ていじしたČKDしゃたいし、シュコダしゃはヴィッカース 6トン戦車せんしゃ参考さんこうにした新型しんがたの「Š-IIa」(ŠはŠkoda=シュコダしゃあらわす)を提示ていじし、シュコダしゃの「Š-IIa」が「LTvz.35」として制式せいしき採用さいようされた。

P-IIbとŠ-IIbの開発かいはつ

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一方いっぽう、1935ねん1がつに、軍事ぐんじ技術ぎじゅつ航空機こうくうき研究所けんきゅうじょ(VTLU)によって、カテゴリーIIb(歩兵ほへい戦車せんしゃ)の要件ようけん仕様しよう)が設定せっていされ、ČKDしゃ(≒プラガしゃ)とシュコダしゃは、きそったが、今回こんかいはコンペティションそのものが失敗しっぱいわった。

1935ねん10がつに、ČKDしゃ(≒プラガしゃ)は陸軍りくぐんに、新型しんがた歩兵ほへい戦車せんしゃ最初さいしょ提案ていあん技術ぎじゅつてきコンセプトを提案ていあんし、同年どうねん12がつにも、再度さいどおこなった。交渉こうしょうすえ、1936ねん1がつ13にちに、ČKDしゃ(≒プラガしゃ)はVTLUと契約けいやくむすび、軟鋼なんこうせいで、武装ぶそう光学こうがくけい無線むせん、その付属ふぞくひん一切いっさい搭載とうさいしない試作しさくしゃ「P-IIb」(PはPraga=プラガしゃあらわす)1りょう製作せいさくし、4ヶ月かげつ以内いない(1936ねん5がつ中旬ちゅうじゅん)にわたすことになった。それまでまった準備じゅんびがされていなかったにもかかわらず、1936ねん5がつまつまでに、試作しさくしゃ「P-IIb」(車両しゃりょう番号ばんごう13.636)の最初さいしょ運転うんてん試験しけん準備じゅんびととのい、プラハ近郊きんこうのミロヴィツェ試験場しけんじょうだい1戦車せんしゃ連隊れんたい移管いかんされた。

一方いっぽう、1935ねん1がつのVTLUの要件ようけんもとづき、同年どうねん1がつまつまでに、新型しんがた歩兵ほへい戦車せんしゃのシュコダしゃ試作しさくしゃ設計せっけい作業さぎょう開始かいしされた。それは「Š-IIa」の設計せっけい並行へいこうしてすすめられ、先行せんこうするŠ-IIaの設計せっけいは、新型しんがた歩兵ほへい戦車せんしゃ試作しさくしゃ設計せっけいにも影響えいきょうあたえ、りょう設計せっけいのサスペンションに改良かいりょうくわえられた。

1935ねん9がつに、シュコダしゃ陸軍りくぐんへの提案ていあんしょ完成かんせいさせ、同年どうねん11がつにシュコダしゃ陸軍りくぐんあいだ交渉こうしょうおこなわれ、陸軍りくぐん比較的ひかくてき満足まんぞくし、1936ねん1がつ13にちに、シュコダしゃはVTLUと契約けいやくむすび、武装ぶそう無線むせん搭載とうさいしない試作しさくしゃ「Š-IIb」1りょう発注はっちゅうされ、わたは1936ねん1がつ20日はつか設定せっていされた。じつは、試作しさくしゃすで製作せいさくされており、のちはそれを陸軍りくぐんわたすだけであった。試作しさくしゃ「Š-IIb」(車両しゃりょう番号ばんごう13.637)は、ミロヴィツェ試験場しけんじょうだい1戦車せんしゃ連隊れんたい移管いかんされた。

そして、VTLUの監督かんとくで、P-IIbとŠ-IIbのりょう試作しさくしゃ比較ひかく試験しけんおこなわれたが、りょうくるまとも陸軍りくぐん要求ようきゅう事項じこうたさず(実際じっさいには、比較的ひかくてきたしていたが、機械きかいてき問題もんだいなやまされていた)、りょうくるまとも試験しけん合格ごうかくとなり、陸軍りくぐんには採用さいようされなかった。その結果けっか、チェコスロバキアがドイツぐん占領せんりょうされるまで、陸軍りくぐん歩兵ほへい戦車せんしゃいたまま、その役割やくわりは、カテゴリーIIaの騎兵きへい戦車せんしゃ、つまり、LTvz.35やLTvz.38が、わりをつとめた。

ČKDしゃ外国がいこくにP-IIbを売却ばいきゃくしようとしたが、またしても成功せいこうしなかった。シュコダしゃは、すでぐんから代金だいきん支払しはらわれていたので、Š-IIbを外国がいこく売却ばいきゃくすることもできなかった。

その、P-IIbとŠ-IIbは、1937ねんに、ヴィシュコフ搭乗とうじょういん訓練くんれん中隊ちゅうたい訓練くんれんしゃとして配属はいぞくされて使用しようされ、チェコスロバキアがドイツに占領せんりょうされた1939ねん3がつまで、そこにとどまった。りょうくるまのその運命うんめい不明ふめいである。

ドイツ占領せんりょうにおけるP-IIbの写真しゃしんのこされており、サスペンションや砲塔ほうとう最初さいしょものとはことなるタイプで、ドイツぐんなにをしていたのかは、あきらかではない。

りょうくるま構成こうせいており、P-IIbとŠ-IIbの砲塔ほうとう交換こうかん可能かのうであった。

ŠP-IIbの開発かいはつ

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1936ねん6がつ30にち(7がつ30にちとも)、シュコダしゃとČKDしゃ(≒プラガしゃ)は、「ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ」の共同きょうどう開発かいはつかんする協定きょうてい締結ていけつした。

ŠP-IIbは、そのしめすように、チェコスロバキアの軍事ぐんじ産業さんぎょうの2つの主要しゅようなライバルである、シュコダしゃ=ŠとČKDしゃ(≒プラガしゃ)=Pのあいだ協力きょうりょくこころみであった。

1930年代ねんだいなかば、両社りょうしゃは「カテゴリーIIb」(歩兵ほへい戦車せんしゃ開発かいはつ計画けいかく失敗しっぱいわり(ČKDしゃ(≒プラガしゃ)はP-IIb、シュコダしゃはŠ-IIb)、その結果けっか両社りょうしゃは(不本意ふほんいながらも)、つぎ歩兵ほへい戦車せんしゃ設計せっけいするこころみで、協力きょうりょくすることに合意ごういした。陸軍りくぐんが、そうした協力きょうりょく反対はんたいしていなかったため、共同きょうどう開発かいはつ計画けいかく開始かいしされた。

両社りょうしゃ当初とうしょ希望きぼうは、試作しさくしゃが1937ねん7がつ完成かんせいすることであったが、両社りょうしゃあいだにはしばしば意見いけん相違そういがあり、車両しゃりょう仕様しようえず変更へんこうされていたため、これは楽観らっかんてきすぎることが判明はんめいした。

契約けいやくによると、シュコダしゃは、砲塔ほうとう武装ぶそう、サスペンション、空気圧くうきあつしき操舵そうだの、ČKDしゃは、車体しゃたい、トランスミッション、エンジン、電気でんき機器ききの、開発かいはつ担当たんとうすることになっていた。最終さいしゅうてはシュコダしゃおこなうことになっていたが、最終さいしゅう生産せいさん両社りょうしゃで50/50の割合わりあいおこなわれることになっていた。

(ŠP-IIbのその・・・ŠP-IIbの試作しさくしゃは1937ねんまつ完成かんせいした。陸軍りくぐん公式こうしき試験しけんは1938ねん3がつ5にち開始かいしされ、1938ねん3がつ24にち終了しゅうりょうした。試験しけんちゅう、この車両しゃりょうは700 km以上いじょう走行そうこうせず、故障こしょうやその問題もんだいつねなやまされていた。1938ねん大半たいはんをプルゼニの修理しゅうり工場こうじょうごしたのち、1939ねん2がつ修理しゅうりされたが、その時点じてんでは時代遅じだいおくれとなされ、ヴィシュコフのだい2装甲車そうこうしゃ大隊だいたい訓練くんれん車両しゃりょうとしておくられた。ドイツぐんがチェコスロバキアを占領せんりょうしたさいも、砲塔ほうとう前面ぜんめん装甲そうこう主砲しゅほうのぞかれていた。最終さいしゅうてき運命うんめい不明ふめいだが、試験しけんのためにクンマースドルフ試験場しけんじょううつされ、その、スクラップにされた可能かのうせいたかい。)

V-8-HeとŠ-IIcの開発かいはつ

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しかし、そのあいだく、「ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ」の開発かいはつ並行へいこうして、両社りょうしゃ各々おのおの開発かいはつちゅうの「ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ」をベースにした、独自どくじなか戦車せんしゃ開発かいはつはじめた(最終さいしゅうてきには政府せいふ費用ひよう負担ふたんした)。試作しさく名称めいしょうは、ČKDしゃは「V-8-He」、シュコダしゃは「Š-IIc」(T-21 試作しさくちゅう戦車せんしゃ)であった。

「V-8-He」のプロトタイプは1936ねん10がつから開発かいはつされた。主任しゅにん設計せっけいしゃは、アレクセイ・ミハリョヴィッチ・スリンとカレル・エクスナーであった。戦車せんしゃは、遊星ゆうせいギアボックス、気密きみつ加圧かあつ内部ないぶ、ジャイロコンパスなど、おおくの高度こうど技術ぎじゅつによって特徴付とくちょうづけられた。プロトタイプは1937ねんなつ完成かんせいし、その工場こうじょうでの運転うんてん技術ぎじゅつ試験しけんけた。5かげつあいだに、3,900 km以上いじょう走行そうこうした。

1937ねん10がつ26にち、チェコスロバキア国防省こくぼうしょうは、突撃とつげき車両しゃりょう部隊ぶたい戦車せんしゃ部隊ぶたいようあたらしい兵器へいき購入こうにゅうすることを決定けっていした。1937ねん12月21にちに、武装ぶそうのプロトタイプはぐん試験しけん最初さいしょ段階だんかい実行じっこうするために、ミロビッツェ試験場しけんじょうおくられた。試験しけんは1938ねん1がつ4にちから5がつ21にちまでおこなわれ、そのあいだ戦車せんしゃ様々さまざま難易なんい地形ちけいで4,555 kmを走行そうこうした。車両しゃりょうおおくの故障こしょう運用うんようじょう欠陥けっかん見舞みまわれたが、それらのうちのいくつかだけが深刻しんこく性質せいしつのものであった。当初とうしょおもにエンジン、みさおこうクラッチ、うたてのゴムタイヤに問題もんだいがあった。 1938ねん2がつと4がつに、プロトタイプはおや工場こうじょうおおくの修正しゅうせいけた。その車両しゃりょう試験しけんちゅうたか動作どうさ信頼しんらいせいしめした。にもかかわらず、突撃とつげき車両しゃりょう訓練くんれん学校がっこう試験しけん部門ぶもん経営けいえいじんは、「V-8-He」の使用しよう開始かいし推奨すいしょうしなかった。

ちゅう戦車せんしゃ緊急きんきゅう必要ひつようせいと、シュコダしゃの「Š-IIc」がまだ開発かいはつ段階だんかいにあったため、「V-8-H」を大量たいりょう生産せいさんすることが決定けっていされた。1938ねん4がつ20日はつか、チェコスロバキア陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶは300 りょうのV-8-Hを予約よやく発注はっちゅうした。生産せいさんはČKDしゃ(95りょう)とシュコダしゃ(205りょう)のあいだ分担ぶんたんされ(ČKDしゃほうてがすくないのは、当時とうじ同社どうしゃが、「LT vz. 38」の生産せいさんと、外国がいこくからの注文ちゅうもんで、負荷ふかであったことによる)、最初さいしょの10りょうは1939ねん4がつ15にちまでにわたされた。

1938ねん5がつ陸軍りくぐん試験しけん部門ぶもんは、ČKDしゃ迅速じんそく実装じっそうしようとした設計せっけいへの、おおくの(ほとんど些細ささいな)変更へんこうかんする推奨すいしょう事項じこう発行はっこうした。

シュコダしゃから供給きょうきゅうされた戦車せんしゃほうは、1938ねん6がつけられ、射撃しゃげき試験しけんおこなわれた。初期しょき設計せっけい段階だんかいであった「V-8-He」は、改修かいしゅう以降いこうは「V-8-H」と呼称こしょうされる。

しゅ武装ぶそうは、旋回せんかい砲塔ほうとう装備そうびされた、はん自動じどうの「シュコダ A9 47 mm 戦車せんしゃほう」で、のち改良かいりょうがたである「シュコダ A11 47 mm 戦車せんしゃほう」にえられた。ふく武装ぶそうは、主砲しゅほう右側みぎがわ胴体どうたい前面ぜんめん左側ひだりがわに、「ZB vz.37 7.92 mm じゅう機関きかんじゅう」が1ていずつ装備そうびされていた。

車体しゃたいは、スチールアングルフレームに、あつさ10~32 mmの装甲そうこうばん(プロトタイプは軟鋼なんこうせい)をリベットめまたはねじめして製造せいぞうされた。前方ぜんぽう誘導ゆうどう(アイドラーホイール)、後方こうほう起動きどう(スプロケットホイール)をつ、こう駆動くどう方式ほうしきあった。

1938ねん9がつ動員どういん発表はっぴょうされたのち注文ちゅうもんすうは400りょう増加ぞうかした。しかし、1938ねん10がつミュンヘン会談かいだん国防省こくぼうしょうぜん注文ちゅうもん撤回てっかいした。

プロトタイプの試験しけんは1938ねん11月17にち完了かんりょうした。ČKDしゃは、ČKDしゃからの輸出ゆしゅつもう支援しえんするために、「Střední tank vzor. 39、ST vz. 39」(1939ねんがたちゅう戦車せんしゃ)の名称めいしょうでV-8-Hを制式せいしき装備そうびふくめることを、ぐんから提案ていあんされた。えに、ぐん戦車せんしゃ販売はんばい価格かかくの5 %を要求ようきゅうした。

1939ねん3がつのドイツぐんによるチェコスロバキアの占領せんりょう、「V-8-H」のプロトタイプは14日間にちかん試験しけんのために、アイゼナハおくられた。1939ねん11月2にち、ドイツぐんは、砲塔ほうとう武装ぶそうい、2番目ばんめのプロトタイプを発注はっちゅうし、「V-8-H II」、または、「V-8-Hz」と名付なづけた。その車両しゃりょうは、1940ねんなかばに完成かんせいし、クンマースドルフ試験場しけんじょうおくられた。IIIごう戦車せんしゃとの比較ひかく試験しけんうえ、IIIごう戦車せんしゃ類似るいじした性能せいのうだったため、量産りょうさんにはいたらなかった。

オリジナルのV-8-Hのプロトタイプは、ČKDしゃによって、外国がいこくのバイヤーに提案ていあんされた。

1939ねん5がつ、V-8-Hはルーマニアぐん代表だいひょうだんによってられた。1939ねんあき、V-8-Hとシュコダ T-21 試作しさくちゅう戦車せんしゃ(Š-IIc)はルーマニアで比較ひかく試験しけんけた。どちらも試験しけん成功せいこうしたが、ルーマニアがわはT-21をこのんだ。ただし、最終さいしゅうてきには購入こうにゅうされなかった。

1941ねん、V-8-Hがイタリアに提案ていあんされたが、この交渉こうしょう失敗しっぱいした。

1941ねん、スウェーデンの会社かいしゃスカニア=ヴァビス(Scania-Vabis)は、V-8-Hのライセンス生産せいさん関心かんしんしめしたが、1942ねん、スウェーデン陸軍りくぐんは、国内こくない企業きぎょうランツヴェルクにStrv m/42発注はっちゅうし、V-8-Hの製造せいぞうライセンス購入こうにゅうはキャンセルされた。

くに(トルコ・中国ちゅうごくソ連それん)にも提案ていあんされたが、失敗しっぱいわった。V-8-Hのプロトタイプは終戦しゅうせんまでČKD工場こうじょうのこっていたが、終戦しゅうせん直後ちょくご廃棄はいきされた。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • [1] - P-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [2] - P-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [3] - P-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [4] - Š-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [5] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [6] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [7] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [8] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [9] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [10] - ŠP-IIb けい歩兵ほへい戦車せんしゃ
  • [11] - 初期しょき設計せっけいであるV-8-Heの三面さんめん
  • [12] - ST vz. 39の三面さんめん
  • [13] - ST vz. 39
  • [14] - ST vz. 39
  • [15] - V-8-H(うえ)とV-8-H II(した
  • [16] - さい設計せっけいされたV-8-H。ST vz. 39として採用さいようされた。
  • [17] - 試験しけんちゅうのV-8-H。
  • [18] - ドイツの発注はっちゅう製造せいぞうされた2番目ばんめのプロトタイプ「V-8-H II」、または、「V-8-Hz」。砲塔ほうとうわりに、コンクリートブロックのおもしがせられている。