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ブーゲンビルとうたたか

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ブーゲンビルとうたたか

夜明よあけに日本にっぽんぐん部隊ぶたい交戦こうせんするアメリカぐん
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう / だい東亜とうあ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1943ねん11月1にち - 1945ねん8がつ21にち
場所ばしょブーゲンビルとうニューギニア
結果けっか連合れんごうぐん戦略せんりゃくてき勝利しょうり
日本にっぽんぐん終戦しゅうせんまでしま半分はんぶん確保かくほ
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
フィジー植民しょくみん
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 今村いまむらひとし
大日本帝国の旗 百武ももたけはるきち
大日本帝国の旗 古賀こがみねいち
大日本帝国の旗 くさ鹿しかにんいち
大日本帝国の旗 神田かんだ正種まさたね
大日本帝国の旗 鮫島さめしまおも
大日本帝国の旗 大森おおもりせん太郎たろう
大日本帝国の旗 香川かがわきよしとう
アメリカ合衆国の旗 ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・ハルゼー・ジュニア
アメリカ合衆国の旗 ロイ・ガイガー
アメリカ合衆国の旗 セオドア・S・ウィルキンソン
アメリカ合衆国の旗 アレクサンダー・ヴァンデグリフト
アメリカ合衆国の旗 アレン・H・ターネイジ英語えいごばん
アメリカ合衆国の旗 ロバート・S・ビートラー英語えいごばん
アメリカ合衆国の旗 オスカー・グリスウォルド英語えいごばん
オーストラリアの旗 トーマス・ブレーミー英語えいごばん
オーストラリアの旗 スタンレー・サヴィッジ英語えいごばん
オーストラリアの旗 アラン・ラムゼー英語えいごばん
オーストラリアの旗 ウィリアム・ブリッジフォード英語えいごばん
ニュージーランドの旗 ハロルド・バラクロウ英語えいごばん
ニュージーランドの旗 ロバート・ロウ英語えいごばん
戦力せんりょく
64,000 126,000
損害そんがい
戦死せんし 2~3まん
おおくが餓死がし病死びょうし
戦死せんし 1,243
ソロモン諸島しょとうたたか

ブーゲンビルとうたたか(ブーゲンビルとうのたたかい)は、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそうちゅう戦闘せんとうひとつである。日本にっぽんぐん占領せんりょうしたブーゲンビルとうで、アメリカぐん上陸じょうりくした1943ねん11月1にちから停戦ていせん1945ねん8がつ21にちまでたたかわれた。

背景はいけい

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ブーゲンビルとうは、だいいち世界せかい大戦たいせんのちオーストラリアによって委任いにん統治とうちされていた。1942ねん3がつ日本にっぽんぐんべいごう遮断しゃだん作戦さくせん一環いっかんとしてソロモン諸島しょとう一部いちぶであるこのしま占領せんりょうし、飛行場ひこうじょう建設けんせつ開始かいしした。ガダルカナルとうたたかはじまると、ラバウルからガダルカナルとう攻撃こうげきするためのなかあいだ基地きちとして重視じゅうしされて飛行場ひこうじょう建設けんせついそがれ、北端ほくたん付属ふぞくするブカとう南端なんたんブイン飛行場ひこうじょう完成かんせいした。このほか東岸とうがんキエタにも小規模しょうきぼ飛行場ひこうじょう整備せいびされた。南端なんたん付属ふぞくするショートランド諸島しょとうには泊地はくち水上すいじょう基地きちもうけられ、ガダルカナルせん重要じゅうよう役割やくわりたした。ブインにはだいはち艦隊かんたい司令しれい進出しんしゅつしている。なお、当時とうじ日本にっぽんぐんはブーゲンビルとうを「ボーゲンビルとう」としばしば表記ひょうきしている。

戦況せんきょう悪化あっかともない1943ねん中盤ちゅうばんよりアメリカぐん飛行場ひこうじょうへの航空こうくう攻撃こうげき強化きょうかされていった。ブイン飛行場ひこうじょうには、海軍かいぐん航空こうくうたいれいせんが70あまり展開てんかいしていたが、度重たびかさなるアメリカぐんとの交戦こうせんによって30前後ぜんこうにまでり、全滅ぜんめつけてラバウルに転進てんしんした。

日本にっぽんぐん陸上りくじょう兵力へいりょくは、陸軍りくぐんだい17ぐんだい6師団しだん中心ちゅうしんに4まんにん海軍かいぐんだい8連合れんごう陸戦りくせんたい設営せつえいたい中心ちゅうしんに2まんにん配備はいびされていた。しかし、砲火ほうかりょくひく対戦たいせんしゃ装備そうび不足ふそくしていた。島内とうない交通こうつう整備せいび不十分ふじゅうぶんで、迅速じんそく部隊ぶたい機動きどうむずかしかった。日本にっぽんぐんにとって、ブーゲンビルとうでの上陸じょうりく地点ちてんへの反撃はんげきは、ガダルカナルとう失敗しっぱいしたジャングルをとおっててき飛行場ひこうじょう接近せっきんするパターンとおなじになり、結果けっか同様どうよう失敗しっぱいとなる。

アメリカぐんはラバウルの孤立こりつ目指めざカートホイール作戦さくせん発動はつどうした。8がつ5にちニュージョージアとうのムンダ飛行場ひこうじょうがアメリカぐんち、10月にはコロンバンガラ島がらとうからの撤退てったい余儀よぎなくされた。ルンガ泊地はくちのアメリカぐん艦隊かんたい次第しだいかずしており、つぎ攻撃こうげきされるのがブーゲンビルとうであることは明白めいはくであった。日本にっぽんぐんだい発動はつどうていなどを駆使くししてブーゲンビルとう物資ぶっしおくんだ。

アメリカがわニュージョージアとうたたか飛行場ひこうじょう奪取だっしゅねらって苦戦くせんした経験けいけんから、ブーゲンビルとう日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう占領せんりょうせずあらたな飛行場ひこうじょう建設けんせつすることにした。アメリカぐん潜水せんすいかんしま偵察ていさつはんおくんで地形ちけい地質ちしつ調査ちょうさおこない、1943ねん9がつ飛行場ひこうじょう建設けんせつタロキナ決定けっていした[1]

戦闘せんとう経過けいか

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タロキナ上陸じょうりく

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1943ねん11月1にちのブーゲンビル上陸じょうりくさいしておこなわれたけい巡洋艦じゅんようかんコロンビアによるかんほう射撃しゃげき
1943ねん11月1にち上陸じょうりく作戦さくせんちゅうLCVP

ルンガ泊地はくち出撃しゅつげきしたアメリカ上陸じょうりく部隊ぶたい主力しゅりょくであるだい3海兵かいへい師団しだん7500めい11月1にち、ブーゲンビルとう西岸せいがんタロキナみさき上陸じょうりく開始かいしした。守備しゅびする歩兵ほへいだい23連隊れんたい堀之内ほりのうち中隊ちゅうたい人員じんいん270めい山砲さんぽう一門いちもんようするのみであった。アメリカぐん上陸じょうりくさん日間にちかん戦死せんし78めい負傷ふしょう104めい損害そんがいこうむったものの、橋頭堡きょうとうほ確保かくほした。

日本にっぽんぐん司令しれいはアメリカぐん上陸じょうりく地点ちてんをショートランドとうとブインにちかいモライみさきであると予測よそくしていたが、実際じっさいにはブインとジャングルへだてられたタロキナみさき上陸じょうりくされたため、迅速じんそく反撃はんげきすることができなかった。急遽きゅうきょ日本にっぽんぐんは、だい17師団しだん歩兵ほへいだい54連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいによるぎゃく上陸じょうりく作戦さくせん計画けいかくした。その支援しえんのため海軍かいぐんはラバウルより艦隊かんたい発進はっしんさせたが、11月2にち未明みめい発生はっせいしたブーゲンビルとうおき海戦かいせんで、視界しかい不良ふりょうなかでアメリカ艦隊かんたいレーダー照準しょうじゅん射撃しゃげきびて敗退はいたいした。

1943ねん11月1にち日本にっぽん海軍かいぐんは「ごう作戦さくせん」を発動はつどうし、ブーゲンビルとうのアメリカぐん航空こうくう攻撃こうげきおこない、以後いごブーゲンビルとうおき航空こうくうせんろくかいわたって発生はっせいした。

なおも日本にっぽんぐんぎゃく上陸じょうりくおこなおうとし、支援しえん部隊ぶたいとして巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかんからゆうげき部隊ぶたい編成へんせいしてラバウルに進出しんしゅつさせた。南太平洋みなみたいへいようぐん司令しれいかんのハルゼーはこのゆうげき部隊ぶたいがタロキナに接近せっきんするのを阻止そしするためアメリカぐん空母くうぼ部隊ぶたいによるラバウル空襲くうしゅう(11月5にちと11月11にち決断けつだんした[2]。この空襲くうしゅう成功せいこうし、損害そんがいけたゆうげき部隊ぶたい主要しゅよう艦船かんせんはこの海域かいいきから撤退てったいした。

日本にっぽんぐん航空こうくうたい反撃はんげきし、だいいちブーゲンビルとうおき航空こうくうせん発生はっせいした。

ただし駆逐くちくかん4せきてんきり文月ふづき卯月うづき夕凪ゆうなぎ)に分乗ぶんじょうしたぎゃく上陸じょうりく部隊ぶたいは、けいじゅん阿賀あが能代のしろなどの支援しえんした、11月7にちにタロキナちかくのコロモキナかた(Koromokina Lagoon)への上陸じょうりく成功せいこうした。ぎゃく上陸じょうりく部隊ぶたいは、アメリカぐんだい9海兵かいへい連隊れんたいの2大隊だいたい戦闘せんとうとなり、続々ぞくぞく到着とうちゃくするアメリカぐん増援ぞうえんまえに2日間にちかん戦闘せんとう敗退はいたいした(タロキナぎゃく上陸じょうりく作戦さくせん)。

陸上りくじょうからも歩兵ほへいだい23連隊れんたい中心ちゅうしんとしただい6師団しだん部隊ぶたいやく1200めいによりタロキナ奪還だっかん作戦さくせんこころみられ、困難こんなんなジャングルない移動いどう消耗しょうもうしつつも11月7にち戦闘せんとう開始かいしした。 湿地しっちたいだったため膠着こうちゃく状態じょうたいになったが、11月9にち戦闘せんとうでアメリカぐんおおきくかえした。 日本にっぽんぐん部隊ぶたい補給ほきゅうつづかず、11月11にち作戦さくせん中止ちゅうしして後退こうたいした(だいいちタロキナ作戦さくせん)。ろごう作戦さくせんは11月11にちだいさんブーゲンビルとうおき航空こうくうせんをもって終了しゅうりょうとなった。その航空こうくう攻撃こうげきつづけられた。

日本にっぽんぐんはブカとう輸送ゆそう作戦さくせんおこなったが、11月24にちから25にちにかけての海戦かいせん敗北はいぼくした。

アメリカぐんは、防衛ぼうえい態勢たいせい安定あんていさせるために橋頭堡きょうとうほ拡大かくだいはかり、11月29にち海兵かいへいたい1個いっこ大隊だいたいによる小規模しょうきぼ上陸じょうりく作戦さくせんおこなったが、だい6師団しだん一部いちぶにより撃退げきたいされた。日本にっぽんがわはこの戦闘せんとうナボイ殲滅せんめつせんとして過大かだい評価ひょうかした。

日本にっぽんがわは、既存きそん拠点きょてん防衛ぼうえい強化きょうかのためだい17師団しだん歩兵ほへいだい81連隊れんたいなどをおくり、11月まつ上陸じょうりくしたこれらの部隊ぶたい北端ほくたんのタリナ地区ちくおよ東岸とうがんのヌマヌマの守備しゅびについた。のちにこれらの部隊ぶたい独立どくりつ混成こんせいだい38旅団りょだん旅団りょだんちょう木島きしま袈裟けさゆう少将しょうしょう)に改編かいへんされた。ブインやキエタをふく南部なんぶだい6師団しだん担当たんとう地区ちくとなった。 ブーゲンビルとうおき航空こうくうせんは12月3にちだいろくブーゲンビルとうおき航空こうくうせん最後さいごとなった。

12月15にちにニューブリテンとうにアメリカぐん上陸じょうりくするとラバウルの航空こうくうたいはそちらに対応たいおうすることとなり、以後いご航空こうくう支援しえんくなった。

だいタロキナ作戦さくせん

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アメリカぐん目的もくてきタロキナみさき航空こうくう基地きち建設けんせつすることで、ブーゲンビルとう全域ぜんいき占領せんりょう予定よていされていなかった。ブーゲンビルとうふかいジャングルと2000メートルきゅうやまつらなる非常ひじょうけわしい地形ちけいゆうしており、しかもマラリアチフスなどの病原びょうげんたい蔓延まんえんしているひとし軍事ぐんじ行動こうどうには最悪さいあく条件じょうけんがそろっていたためである。12月までにタロキナみさき飛行場ひこうじょう完成かんせいし、連合れんごうぐん航空機こうくうきはジャングルにひそ日本にっぽんぐん手当てあたりしだいに爆撃ばくげきするようになった。ニュージーランド空軍くうぐん進出しんしゅつした。日本にっぽんがわには航空こうくう兵力へいりょくく、これを迎撃げいげきできずにいた。

1944ねん3がつ近距離きんきょり日本にっぽんぐん交戦こうせんするアメリカぐん砲兵ほうへい

日本にっぽんだい17ぐんだい6師団しだん主力しゅりょくとする2まんにんちかくの兵力へいりょくで、陸路りくろからのタロキナ航空こうくう基地きち制圧せいあつ再度さいどこころみることとした。1944ねん3がつに、だい6師団しだん全力ぜんりょくげて作戦さくせん開始かいしした(だいタロキナ作戦さくせん)。しかし、またも移動いどう途中とちゅうのジャングルで消耗しょうもうしたうえ、はげしい空襲くうしゅうけて損害そんがい続出ぞくしゅつした。攻撃こうげきは3がつ8にち開始かいし[3]されたが、圧倒的あっとうてき火力かりょくでのアメリカぐん反撃はんげきにより成果せいかがないまま損害そんがいえ、食料しょくりょう弾薬だんやくにも事欠ことか状況じょうきょうになったため3がつ25にち攻撃こうげき中止ちゅうし決定けってい[4]した。この作戦さくせんでのだい6師団しだん損害そんがいは、死傷ししょうりつ80%をえた歩兵ほへいだい45連隊れんたい筆頭ひっとう死傷ししょう1まん3せんにん壊滅かいめつてきなものであった。損害そんがいのうちすくなくとも4せんにん以上いじょうたたかえびょうによるものであった。この作戦さくせん重火器じゅうかき大半たいはんうしなわれた。だい6師団しだんちょう神田かんだ中将ちゅうじょう戦後せんご回想かいそうろくなかで「攻撃こうげきを3がつ決定けっていしたのは、食料しょくりょうが3がつちゅうになくなるため」とべている[5]。また神田かんだ中将ちゅうじょうは、「軍紀ぐんきみことのりさとし戦陣せんじんくんひゃくまんへん精神せいしん訓話くんわも、かつえまえには全然ぜんぜん価値かちであった」とかたっている。[6]だいタロキナ作戦さくせん、アメリカぐんだい37師団しだんちょうロバート・S・ベイトラー少将しょうしょう降伏ごうぶくしようとする日本にっぽんへい捕虜ほりょとせずに射殺しゃさつするよう命令めいれいし、多数たすう虐殺ぎゃくさつされた[7]

戦史せんし叢書そうしょはタロキナ作戦さくせんについて、作戦さくせん自体じたい根本こんぽんてき欠陥けっかん改善かいぜんすることなく同様どうよう類型るいけいかえしたことがこの時期じき南太平洋みなみたいへいようにおける陸軍りくぐん作戦さくせん特徴とくちょうだとまとめた[8]

孤立こりつ自活じかつ

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以後いごりょうぐん散発さんぱつてき交戦こうせんしていたがだい規模きぼ衝突しょうとつこらなかった。アメリカぐんにしてみれば日本にっぽんぐん補給ほきゅうって孤立こりつさせれば十分じゅうぶんであり、日本にっぽんぐん食糧しょくりょう不足ふそく戦闘せんとうどころではなかった。

日本にっぽんぐんラバウルからブカとうまで潜水せんすいかん駆逐くちくかん補給ほきゅう物資ぶっし輸送ゆそうしたが、りょう微々びびたるもので絶望ぜつぼうてきりなかった。しかも輸送ゆそう部隊ぶたいはしばしば航空機こうくうきなどの攻撃こうげきけ、1943ねん11月24にちセント・ジョージみさきおき海戦かいせんではねずみ輸送ゆそうにやってきた日本にっぽん艦隊かんたいだい打撃だげきこうむった。かくて1944ねん2がつにはついに補給ほきゅう途絶とだえてしまった。食料しょくりょうごとに減少げんしょうしていった。各地かくち部隊ぶたいはたけたがやしていも収穫しゅうかくしたがやはりりょう十分じゅうぶんではなく、椰子やしやそのコプラなどべられるものはなんでもべたが栄養失調えいようしっちょう兵士へいし続出ぞくしゅつし、餓死がしものやマラリア患者かんじゃなどがバタバタとたおれていった。とくにによって媒介ばいかいされるマラリアは猛威もういるい、栄養失調えいようしっちょうのものから次々つぎつぎ感染かんせんして体力たいりょくうばわれていった。医療いりょうひんのぞむべくもかった。ガダルカナルとうの「かつえしま(がとう)」にたいして、ボーゲンビルとうの「はかとう(ぼとう)」とばれる状況じょうきょうであった。

主計しゅけい中尉ちゅうい活躍かつやく

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この状況じょうきょうなか海軍かいぐん部隊ぶたい餓死がしとう損耗そんこうすくなかったとわれている。海軍かいぐんかく部隊ぶたい配属はいぞくされた短期たんき現役げんえき士官しかん主計しゅけい中尉ちゅういたち活躍かつやくしたからとわれている。

ブインを防衛ぼうえいしていた佐世保させぼだいろく特別とくべつ陸戦りくせんたい場合ばあい主計しゅけい中尉ちゅういであった新川しんかわ中尉ちゅうい着任ちゃくにん直後ちょくごから、現地げんち自活じかつ見越みこした食料しょくりょう補給ほきゅう体制たいせい模索もさくした。新川しんかわ中尉ちゅうい現地げんち住民じゅうみんがタロイモを主食しゅしょくとしていることから、甘藷さつまいも主食しゅしょくとすること出来できないかと、下士官かしかん一般いっぱん兵卒へいそつ現地げんち住民じゅうみん協力きょうりょくうえ甘藷さつまいも栽培さいばいする方法ほうほう構築こうちくし、最終さいしゅうてきにはいち兵士へいしあたいちにちやく3000グラムの甘藷さつまいも配給はいきゅうすることに成功せいこうする。

しかし、現地げんち自活じかつ体制たいせい構築こうちくめた直後ちょくごから、おおくの部隊ぶたいから反対はんたいこえがり、初期しょきころ計画けいかくどおりの耕作こうさく生産せいさん作業さぎょう出来できなかった。そのためおおくの兵士へいし飢餓きが栄養失調えいようしっちょういのちとした。しかし、餓死がししゃはじめたころから反対はんたいしていた部隊ぶたい協力きょうりょくするようになり、リードタイムの餓死がししゃたが、ガダルカナルとうようだい多数たすう餓死がししゃ事態じたいにはいたらず、また食糧しょくりょう消費しょうひしゃ絶対ぜったいすうすくなくなったこともあり、食料しょくりょう自給じきゅうりつぜん部隊ぶたいやしなえるまでになった。

オーストラリアぐんとの戦闘せんとう

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マチルダ歩兵ほへい戦車せんしゃ援護えんごけてすすむオーストラリアぐん

アメリカぐんフィリピン戦力せんりょく集中しゅうちゅうするため、ソロモン諸島しょとう作戦さくせんオーストラリアぐんだい1ぐんゆだねることとした。ブーゲンビルとうでも1944ねん10がつから12がつにかけてタロキナみさき航空こうくう基地きち駐留ちゅうりゅうしていたアメリカぐん部隊ぶたい転進てんしんし、わりにオーストラリアだい2軍団ぐんだん配備はいびされた。だい2軍団ぐんだんだい3師団しだんだい7、15、29歩兵ほへい旅団りょだん基幹きかん)とだい11旅団りょだん主力しゅりょくとし、これにフィジー歩兵ほへい連隊れんたい増強ぞうきょうされていた。さらにだい23旅団りょだん周辺しゅうへん島嶼とうしょ展開てんかいした。

1944ねん11がつまつよりオーストラリアぐんしま占領せんりょう日本にっぽんぐん排除はいじょ目指めざして攻撃こうげき開始かいしした。まず、だい7歩兵ほへい旅団りょだんがタロキナからヌマヌマへけてしま横断おうだんしてせまった。日本にっぽんぐん歩兵ほへいだい81連隊れんたいはタロキナとうげ幾重いくえにも防御ぼうぎょせんきずいてその前進ぜんしん阻止そししたが、1がつ上旬じょうじゅんとうげ失陥しっかんした。ただし、オーストラリアぐん前進ぜんしんはそこで停止ていしし、終戦しゅうせんまでヌマヌマは日本にっぽんぐん維持いじした。

一方いっぽうブインのある南部なんぶでは、1944ねん11がつ下旬げじゅんにオーストラリアぐんだい29歩兵ほへい旅団りょだんがジャバかわ到達とうたつした。1944ねん12月から海岸かいがん沿いを南下なんかして、2がつにモシゲッタに到達とうたつしたが、日本にっぽんぐん歩兵ほへいだい13連隊れんたいふくげきけて損害そんがいした。日本にっぽんぐんはブインまでのジャングルにだこつぼ陣地じんちつくって抗戦こうせんした。オーストラリアぐん損害そんがいおおきいだい29歩兵ほへい旅団りょだんわり、だい7歩兵ほへい旅団りょだん先頭せんとうてた。1945ねん4がつ日本にっぽんぐんは、オーストラリアぐんだい7歩兵ほへい旅団りょだん前進ぜんしん阻止そしすべく、歩兵ほへいだい13および23連隊れんたいとうじて豪州ごうしゅうたい附近ふきん攻勢こうせいてんじた。しかし攻勢こうせい失敗しっぱいおわり、1600めい以上いじょう多大ただい損害そんがいして後退こうたいした。その、オーストラリアぐんだい15歩兵ほへい旅団りょだん主力しゅりょく日本にっぽんぐん圧迫あっぱくしていった。

ポートン桟橋さんばしへの上陸じょうりくこころみたが撃退げきたいされ、収容しゅうようされたオーストラリアへい

北端ほくたんのタリナ地区ちくでは、オーストラリアだい11旅団りょだん攻撃こうげき担当たんとうした。日本にっぽんぐん各地かくち設置せっちしていた監視かんししょから次々つぎつぎ駆逐くちくされ、クヌア近郊きんこうよく1945ねん1がつ10日とおか独立どくりつ混成こんせいだい38旅団りょだん一部いちぶ本格ほんかくてき戦闘せんとう突入とつにゅうした。日本にっぽんぐん陸軍りくぐん部隊ぶたい遅延ちえん行動こうどうって時間じかんかせぎ、そのあいだ海軍かいぐん設営せつえいたい後方こうほう陣地じんち建設けんせつ食料しょくりょう増産ぞうさん先住民せんじゅうみん使つかってあたらしいはたけ後方こうほう作成さくせいしてブカとうにおける戦闘せんとうそなえる方針ほうしんった。戦闘せんとうは4がつ25にちまでつづき、スン高地こうちでオーストラリアぐんだい11旅団りょだんだい打撃だげきあたえることに成功せいこうしたが、日本にっぽん陸軍りくぐん部隊ぶたいはタリナ地区ちくでの全滅ぜんめつ回避かいひして東岸とうがんのヌマヌマに後退こうたいした。その結果けっかソラケン半島はんとうみなとがオーストラリアぐんうばわれ、そこから物資ぶっし揚陸ようりくされることとなった。以後いご海軍かいぐんだい87警備けいびたい司令しれい加藤かとう榮吉えいきち大佐たいさ指揮しき戦闘せんとうつづけられ、ブカとうつづくボニス半島はんとうだい211設営せつえいたい中心ちゅうしん迎撃げいげき体制たいせいられた。日本にっぽんぐんはジャングルを使つかってのゲリラせんのぞみ、しょう人数にんずうけた部隊ぶたい徒歩とほカヌーでオーストラリアぐん戦線せんせん浸透しんとうさせ、補給ほきゅうせん駐屯ちゅうとん爆薬ばくやく地雷じらい攻撃こうげきして後方こうほう撹乱かくらんした。また防御ぼうぎょせんではジャングルにだこつぼり、進撃しんげき予想よそう地雷じらい敷設ふせつし、斥候せっこう部隊ぶたいふくげきして戦線せんせん維持いじした。6月にはいるとオーストラリアぐん戦車せんしゃ投入とうにゅうして日本にっぽんぐん防衛ぼうえい戦線せんせん突破とっぱした。このため日本にっぽんぐん防衛ぼうえいせん後方こうほうのジャングルに移転いてんして対応たいおうし、航空こうくうようの60キロばくだん改造かいぞうした対戦たいせんしゃ地雷じらい急造きゅうぞうして戦車せんしゃ1りょう撃破げきは以降いこうオーストラリアぐん戦車せんしゃでの戦線せんせん突破とっぱおこなわなくなった。また防衛ぼうえいせん包囲ほういのため夜間やかんにポートン桟橋さんばし部隊ぶたい上陸じょうりくさせたが日本にっぽんぐんによって撃退げきたいされた(ポートン桟橋さんばしたたか)。

7がつ中旬ちゅうじゅんごろになるとオーストラリアぐん日本にっぽんぐん戦術せんじゅつ熟知じゅくちして、各地かくちでこれを撃滅げきめつするようになり、わせて猛烈もうれつかんほう射撃しゃげき空爆くうばくおこなった。この結果けっか食糧しょくりょう生産せいさんとどこおるようになり、日本にっぽんぐん疲弊ひへいして負傷ふしょうしゃ戦死せんししゃ続出ぞくしゅつした。北部ほくぶだい87警備けいびたいはボニス半島はんとうでの抗戦こうせんはあと1ヶ月かげつ限界げんかいてブカとうへの撤退てったい計画けいかく、7がつ23にち残存ざんそんしていた山砲さんぽう高射こうしゃほうぜんたま発射はっしゃしてオーストラリアぐん進撃しんげき牽制けんせいし、そのすき部隊ぶたい後退こうたいさせた。

1945ねん8がつ15にち日本にっぽん降伏ごうぶくすると、ラバウルより停戦ていせん命令めいれいつたわり日本にっぽんぐん戦闘せんとう停止ていしし、暗号あんごうひょうなどの秘密ひみつ書類しょるい焼却しょうきゃくした。9月3にち武器ぶきわたして降伏ごうぶくした。

どき系列けいれつ

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1943ねん昭和しょうわ18ねん

1944ねん昭和しょうわ19ねん

  • 1がつ31にち - 日本にっぽんぐんグリーン諸島しょとう(ブーゲンビルとう北西ほくせい)において連合れんごう国軍こくぐん上陸じょうりく部隊ぶたい撃退げきたい
  • 2がつ15にち - 連合れんごう国軍こくぐんグリーン諸島しょとう上陸じょうりく
  • 2がつ27にち - 連合れんごう国軍こくぐんグリーン諸島しょとう占領せんりょう完了かんりょう
  • 3月8にち~3がつ25にち - ブーゲンビルとう日本にっぽんぐんだいタロキナ攻撃こうげきおこなうが失敗しっぱい

1945ねん昭和しょうわ20ねん

  • 6月8にち~6がつ10日とおか - ポートン桟橋さんばしたたか
  • 8がつ15にち - 日本にっぽん連合れんごうこく降伏ごうぶく戦闘せんとう停止ていし
  • 9月3にち - ブーゲンビルとう日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょのち降伏ごうぶく

戦後せんご

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降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいする神田かんだ中将ちゅうじょうつくえはさんですわるのは鮫島さめしま中将ちゅうじょう

降伏ごうぶくした日本にっぽんへいいちタロキナあつめられた。一部いちぶはそこでオーストラリアへい略奪りゃくだつい、ボロボロにやつれた日本にっぽんへい時計とけいなどの貴重きちょうひんから士官しかん階級かいきゅうあきらまでもうばわれた。最終さいしゅうてきすべての捕虜ほりょはブーゲンビルとう南端なんたん付属ふぞくするファウロとう捕虜ほりょ収容しゅうようしょあつめられたが、環境かんきょう劣悪れつあく捕虜ほりょの1わりがマラリアなどの病気びょうきいのちおとした。翌年よくねん2がつより復員ふくいん開始かいしされ、氷川丸ひかわまる葛城かつらぎのこった日本にっぽんへい復員ふくいんさせた。

評価ひょうか

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アメリカぐん交代こうたいしたオーストラリアぐん攻勢こうせい作戦さくせんをとったことにたいし、戦略せんりゃくてき無意味むいみ戦闘せんとうであったとの批判ひはんがある。こうした批判ひはんは、すでに戦時せんじちゅうからこっていた。攻勢こうせい作戦さくせんでのオーストラリアぐん戦死せんししゃは500にんえている。オーストラリアぐんのブレーミー将軍しょうぐんは、士気しき低下ていかふせぎ、先住民せんじゅうみん早期そうき解放かいほうをするために有益ゆうえきであったと反論はんろんしている。

先住民せんじゅうみん

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ブーゲンビルとうには原始げんしてき生活せいかついとな先住民せんじゅうみん数多かずおお生活せいかつしていた。かれらは対外たいがいてきに「ピジン・イングリッシュ」と独特どくとく英語えいごもちいており、英語えいごかいして意思いし疎通そつう可能かのうであった。そのため海軍かいぐん部隊ぶたい一部いちぶ現地げんち住民じゅうみん交流こうりゅう宣撫せんぶ工作こうさくすすめてく。[よう出典しゅってん]

ブカ地区ちくでは、日本にっぽん海軍かいぐん河西かさい小太郎こたろう海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいいが、一橋大学ひとつばしだいがくでの植民しょくみん政策せいさくかんする講義こうぎもと宣撫せんぶ工作こうさく立案りつあん実行じっこうした。日本にっぽんへい略奪りゃくだつ禁止きんし徹底てっていさせ、先住民せんじゅうみんには日本にっぽんしき農園のうえんつくかたしおさかなかたドラム缶どらむかんからスコップやナイフとうつく技術ぎじゅつおしえて信頼しんらい関係かんけいをきずきあげた。そして余剰よじょうした食料しょくりょう日本にっぽんぐん上納じょうのうさせ、労働ろうどうりょく提供ていきょうしてもらうことで先住民せんじゅうみん後方こうほう支援しえん部隊ぶたい仕立したてげた。とくにブカとうでは先住民せんじゅうみんけの学校がっこう設置せっちし、各地かくち青年せいねんあつめて上記じょうき技術ぎじゅつおしえた。ブインでの海軍かいぐん部隊ぶたい現地げんち自活じかつ成功せいこう現地げんち住民じゅうみん協力きょうりょくがあればこそであった。[よう出典しゅってん]

これらの交流こうりゅうだい成功せいこうおさめた。戦争せんそう終結しゅうけつ現地げんちける軍事ぐんじ裁判さいばん場合ばあい連合れんごう国軍こくぐんがわきゅう日本にっぽんぐんがわたいして恣意しいてき判決はんけつ続出ぞくしゅつしたさいおおくの現地げんち住民じゅうみん日本にっぽんぐん将兵しょうへい擁護ようごした。また、過酷かこく捕虜ほりょ生活せいかついて、困窮こんきゅうしている日本にっぽんぐん将兵しょうへい原住民げんじゅうみんたすけたりと、おおくの日本にっぽんぐん将兵しょうへいいのちたすかる一因いちいんとなる。この影響えいきょう終戦しゅうせんつづき、ソロモン諸島しょとう世界せかいでも屈指くっし親日しんにち地域ちいきとなっている。 終戦しゅうせん直後ちょくご、この事実じじつったオーストラリアぐん司令しれいは「かねものもない日本にっぽんぐん原住民げんじゅうみんは、何故なぜこうも協力きょうりょくてきなのだ」と不思議ふしぎがったという。このことかんして当事とうじしゃである新川しんかわ主計かずえ中尉ちゅういはこうかたっている。「結局けっきょく誠意せいい問題もんだいである。白人はくじんかれらを人間にんげんとしてあつかわなかったが、わたしたちかれらを人間にんげんとしてあつかった。そこがちがっていたのだろう。もし、反対はんたいことこっていたら、かれらはベトコン・ゲリラみたいになっていただろう。」[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ポッター 403ページ
  2. ^ ポッター 412ページ
  3. ^ 戦史せんし叢書そうしょ58 486 ページ
  4. ^ 戦史せんし叢書そうしょ58 522 ページ
  5. ^ 戦史せんし叢書そうしょ58 478 ページ
  6. ^ 戦史せんし叢書そうしょ58 531 ページ
  7. ^ デニス ウォーナーちょ,妹尾せのおつくるふとしおとこ ちょ翻訳ほんやく, ペギー ウォーナー ちょ ドキュメント 神風かみかぜうえ)P101 ISBN 978-4195988541
  8. ^ 戦史せんし叢書そうしょ58 532 ページ

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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