タラワの戦 たたか い
タラワ島 とう の海岸 かいがん に横 よこ たわるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の戦死 せんし 者 しゃ
戦争 せんそう :太平洋戦争 たいへいようせんそう
年月日 ねんがっぴ :1943年 ねん 11月20日 にち - 同年 どうねん 11月25日 にち [ 1]
場所 ばしょ :ギルバート諸島 しょとう 、タラワ 島 しま [ 2] [ 3]
結果 けっか :アメリカ軍 ぐん の勝利 しょうり [ 1] [ 4] [ 5]
交戦 こうせん 勢力 せいりょく
大日本帝国 だいにっぽんていこく
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ギルバートおよびエリス諸島 しょとう
指導 しどう 者 しゃ ・指揮 しき 官 かん
柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ †
レイモンド・スプルーアンス リッチモンド・ターナー ホーランド・スミス ジュリアン・スミス
戦力 せんりょく
海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい 2,601[ 6] 設営 せつえい 隊 たい 軍属 ぐんぞく 2,000[ 6] うち朝鮮半島 ちょうせんはんとう 出身 しゅっしん 者 しゃ 約 やく 1,200
35,000 うちアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 18,600[ 8]
損害 そんがい
戦死 せんし (含軍属 ぐんぞく ) 4,455~約 やく 4,500[ 5] 捕虜 ほりょ 146 うち朝鮮半島 ちょうせんはんとう 出身 しゅっしん 者 しゃ 約 やく 129[ 5] 戦車 せんしゃ 14輌 りょう
戦死 せんし ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 1,009[ 11] ~1,140[ 13] 戦傷 せんしょう 2,101[ 14] ~2,309[ 5] [ 13] 戦車 せんしゃ 33輌 りょう [ 16] アムトラック (Amtrak)90輌 りょう
ギルバート・マーシャル諸島 しょとう
タラワの戦 たたか い (たらわのたたかい、英語 えいご : Battle of Tarawa )は太平洋戦争 たいへいようせんそう の戦 たたか いの一 ひと つで、1943年 ねん 11月 にギルバート諸島 しょとう のタラワ 島 しま で勃発 ぼっぱつ した日本 にっぽん 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん の間 あいだ の戦 たたか いである。11月20日 にち にタラワ島 とう に18,600人 にん のアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん が上陸 じょうりく し[ 8] 、第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい の柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ 司令 しれい 官 かん 率 ひき いる4,600人 にん (うち戦闘 せんとう 部隊 ぶたい は2,600人 にん )の日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい [ 6] と交戦 こうせん 、戦闘 せんとう は4日間 にちかん 続 つづ き、アメリカ軍 ぐん は大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ りながらも、タラワ島 とう の攻略 こうりゃく に成功 せいこう した。そのあまりの苦戦 くせん ぶりにアメリカ国内 こくない で大 おお きな衝撃 しょうげき が走 はし り、アメリカ史上 しじょう の名高 なだか い激戦 げきせん となる、レキシントン・コンコードの戦 たたか い 、フランボロー岬 みさき の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) 、アラモの戦 たたか い 、リトルビッグホーンの戦 たたか い 、ベローウッドの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) と並 なら ぶとも評 ひょう され[ 13] 、この後 のち の水陸 すいりく 両用 りょうよう 作戦 さくせん の大幅 おおはば な改良 かいりょう を余儀 よぎ なくされた[ 17] 。
タラワとは現在 げんざい のキリバス共和 きょうわ 国 こく にある環礁 かんしょう の総称 そうしょう であり、正確 せいかく には、戦 たたか いが繰 く り広 ひろ げられたのはタラワ環礁 かんしょう のなかのベティオ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) であるが[ 18] 、以下 いか はベティオ島 とう のことをタラワと呼 よ ぶ。
柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ 少将 しょうしょう
一方 いっぽう 、日本 にっぽん 軍 ぐん は開戦 かいせん 直後 ちょくご にギルバート諸島 しょとう を攻略 こうりゃく したが、マキン環礁 かんしょう にわずかに守備 しゅび 兵 へい を置 お いたほかは、タラワなどには部隊 ぶたい を駐留 ちゅうりゅう させなかった。この脆弱 ぜいじゃく な守備 しゅび 態勢 たいせい を見直 みなお すきっかけとなったのが、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )8月 がつ 17日 にち 、221名 めい のアメリカ海兵 かいへい 隊 たい が2隻 せき の潜水 せんすい 艦 かん に分乗 ぶんじょう してマキンに奇襲 きしゅう 上陸 じょうりく した事件 じけん であった。この攻撃 こうげき は日本 にっぽん 軍 ぐん の戦線 せんせん を攪乱 かくらん させるために行 おこな われた作戦 さくせん だが、これによりかえって日本 にっぽん 軍 ぐん にギルバート諸島 しょとう の戦略 せんりゃく 的 てき な重要 じゅうよう 性 せい を気 き づかせることとなった。しかし、ガダルカナルの戦 たたか い での敗戦 はいせん 以降 いこう 、戦局 せんきょく が悪化 あっか しており、特 とく にダグラス・マッカーサー率 ひき いる連合 れんごう 国 こく 南西 なんせい 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) がニューギニアの戦 たたか い を有利 ゆうり に進 すす めて、南太平洋 みなみたいへいよう の日本 にっぽん 軍 ぐん 最大 さいだい の拠点 きょてん ラバウル に圧力 あつりょく を強 つよ めているなかで、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん への兵力 へいりょく 配置 はいち には消極 しょうきょく 的 てき であり、ギルバート諸島 しょとう の防衛 ぼうえい は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の担当 たんとう とされた[ 20] 。日本 にっぽん 海軍 かいぐん は横須賀 よこすか 第 だい 6特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい などを送 おく って、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )2月 がつ 15日 にち にはギルバート方面 ほうめん を担当 たんとう する第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい (横須賀 よこすか 第 だい 6特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 改編 かいへん )を新 しん 編成 へんせい し、地上 ちじょう 防護 ぼうご 施設 しせつ や航空 こうくう 施設 しせつ の増強 ぞうきょう を始 はじ めた。さらに、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )3月12日 にち には、佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい を送 おく って守備 しゅび 隊 たい の増強 ぞうきょう を図 はか った。主戦 しゅせん 力 りょく となった佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい は、九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ なども装備 そうび する海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい としては精鋭 せいえい の部隊 ぶたい だった。
その後 ご も大本営 だいほんえい でギルバート諸島 しょとう に陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を配置 はいち するべく調整 ちょうせい が続 つづ けられたが、ガダルカナル島 とう での海軍 かいぐん に対 たい する不信 ふしん 感 かん から、陸軍 りくぐん は海軍 かいぐん 占領 せんりょう 地 ち への陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい の派遣 はけん を躊躇 ちゅうちょ し続 つづ けていた。しかし1943年 ねん 3月 がつ になってようやく、1年 ねん 以内 いない という時限 じげん 付 つ きで、ギルバート諸島 しょとう に陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を派遣 はけん することが決定 けってい された[ 21] 。4月12日 にち には中部 ちゅうぶ 地方 ちほう 部隊 ぶたい (歩兵 ほへい 第 だい 34連隊 れんたい 、歩兵 ほへい 第 だい 6連隊 れんたい 、歩兵 ほへい 第 だい 68連隊 れんたい 、歩兵 ほへい 第 だい 18連隊 れんたい )から各 かく 1個 いっこ 中隊 ちゅうたい の戦力 せんりょく を抽出 ちゅうしゅつ して、南海 なんかい 第 だい 一 いち 守備 しゅび 隊 たい と南海 なんかい 第 だい 二 に 守備 しゅび 隊 たい が編成 へんせい されて、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう に派遣 はけん されることとなった[ 22] 。そのうち、ギルバートに送 おく られる予定 よてい であった南海 なんかい 第 だい 一 いち 守備 しゅび 隊 たい の戦力 せんりょく は、指揮 しき 官 かん の藤野 ふじの 孫 まご 平 ひらた 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ を含 ふく めて801人 にん (本部 ほんぶ 、歩兵 ほへい 4個 こ 中隊 ちゅうたい 〔1コ中隊 ちゅうたい は、小銃 しょうじゅう 3コ小隊 しょうたい と第 だい 4小隊 しょうたい 〈機関 きかん 銃 じゅう 1、速射 そくしゃ 砲 ほう 1、大隊 だいたい 砲 ほう 1〉〕、砲兵 ほうへい 1個 いっこ 中隊 ちゅうたい 、診療 しんりょう 班 はん )と強力 きょうりょく なものであったが[ 21] 、5月23日 にち にヤルート 付近 ふきん で、アメリカ軍 ぐん 潜水 せんすい 艦 かん 「ポラック 」の雷撃 らいげき を受 う けて、乗船 じょうせん していた特設 とくせつ 巡洋艦 じゅんようかん 「盤 ばん 谷 たに 丸 まる 」は沈没 ちんぼつ し、南海 なんかい 第 だい 1守備 しゅび 隊 たい は指揮 しき 官 かん の藤野 ふじの 以下 いか 500人 にん が戦死 せんし してしまい、生存 せいぞん した301人 にん もそのままヤルートに上陸 じょうりく して、ギルバート諸島 しょとう への派遣 はけん は中止 ちゅうし となった[ 21] 。
その後 ご も陸海 りくかい 軍 ぐん 間 あいだ でギルバートへの追加 ついか の戦力 せんりょく 派遣 はけん の協議 きょうぎ が行 おこな われたが、5月 がつ 末 まつ にはアッツ島 とう の戦 たたか い で日本 にっぽん 海軍 かいぐん の支援 しえん を殆 ほとん ど受 う けることもなく守備 しゅび 隊 たい が玉砕 ぎょくさい すると、陸軍 りくぐん の海軍 かいぐん に対 たい する不信 ふしん 感 かん はさらに増 ま して、参謀 さんぼう 総長 そうちょう の杉山 すぎやま 元 はじめ 大将 たいしょう は「アンダマン諸島 しょとう とニコバル諸島 しょとう は陸軍 りくぐん 作戦 さくせん に関係 かんけい があるから陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を出 だ してもよいが、ギルバートは海軍 かいぐん で担当 たんとう してもらえ」と突 つ っぱねている[ 21] 。その後 ご に陸海 りくかい 軍 ぐん 作戦 さくせん 課 か と連合 れんごう 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう も入 い れた、離島 りとう 防衛 ぼうえい 方針 ほうしん の協議 きょうぎ が続 つづ けられた。協議 きょうぎ を重 かさ ねるに従 したが って、太平洋 たいへいよう 上 じょう の離島 りとう 守備 しゅび の重要 じゅうよう 性 せい については、陸軍 りくぐん も無視 むし することはできず、最終 さいしゅう 的 てき には中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう への陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい 増強 ぞうきょう が決定 けってい したが、ギルバート諸島 しょとう の防衛 ぼうえい は引 ひ き続 つづ き海軍 かいぐん が責任 せきにん を持 も つということに決 けっ した[ 23] 。
陸軍 りくぐん の増援 ぞうえん が得 え られない第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい は、タラワに強固 きょうこ な陣地 じんち を構築 こうちく することでアメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう に対抗 たいこう しようとしたが、セメント や金属 きんぞく といった永久 えいきゅう 要塞 ようさい の構築 こうちく に不可欠 ふかけつ な資材 しざい は不足 ふそく していた。わずかな資材 しざい も戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ の他 ほか は、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で活躍 かつやく した装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「春日 しゅんじつ 」や「日進 にっしん 」から取 と り外 はず してきた20.3cm/45式 しき 41号 ごう 艦 かん 砲 ほう (英語 えいご 版 ばん ) を海岸 かいがん 砲 ほう として据 す え付 つ けるために使用 しよう すべしと命 めい じられていた。この20cm砲 ほう は骨 こっ とう品 ひん のような旧式 きゅうしき なものであり、指揮 しき 装置 そうち は一切 いっさい なく、発射 はっしゃ 速度 そくど も6分 ふん ごとに1発 はつ という有様 ありさま であったが[ 24] 、しっかりと砲台 ほうだい が構築 こうちく されていたおかげか、なかなか撃破 げきは されずに、アメリカ軍 ぐん が上陸 じょうりく してからもしばらくは散発 さんぱつ 的 てき ではあるが、アメリカ軍 ぐん の支援 しえん 艦艇 かんてい やアムトラックに対 たい して砲撃 ほうげき を続 つづ けている。
タラワに設置 せっち された日本 にっぽん 軍 ぐん の20cm砲 ほう
タラワの四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 八 はち 糎 せんちめーとる 高角 こうかく 砲 ほう の砲座 ほうざ
永久 えいきゅう 要塞 ようさい 構築 こうちく のための資材 しざい が送 おく られてくる目途 もくと は全 まった くなかったので、第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい は現地 げんち にあるものでの陣地 じんち 構築 こうちく を余儀 よぎ なくされた。そこで多用 たよう されたのが椰子 やし の木 き であった。ベティオ島 とう だけではなく、環礁 かんしょう 内 ない の小島 こじま にも兵 へい を派遣 はけん して伐採 ばっさい し、丸太 まるた に加工 かこう してから、築城 ちくじょう 資材 しざい として使用 しよう した。しかし椰子 やし は現地 げんち 住民 じゅうみん の財産 ざいさん で貴重 きちょう な食料 しょくりょう 源 げん でもあり、むやみに伐採 ばっさい することはせず、高 たか く成長 せいちょう しすぎて椰子 やし の実 み もあまり実 みの らなくなった古木 ふるき を、現地 げんち 住民 じゅうみん に選別 せんべつ してもらって伐採 ばっさい していた[ 26] 。各 かく 部隊 ぶたい は競 きそ うように陣地 じんち 構築 こうちく を続 つづ け、鉄道 てつどう レールなどの金属 きんぞく やセメントをふんだんに使用 しよう して構築 こうちく された、強固 きょうこ な地下 ちか 戦闘 せんとう 司令 しれい 所 しょ 、地表 ちひょう 表面 ひょうめん に360度 ど 旋回 せんかい 可能 かのう の砲台 ほうだい に備 そな え付 つ けられた20cm砲 ほう 4門 もん 、飛行場 ひこうじょう 滑走 かっそう 路 ろ 両端 りょうたん に設置 せっち された連装 れんそう の四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 八 はち 九 きゅう 式 しき 十 じゅう 二 に 糎 せんちめーとる 七 なな 高角 こうかく 砲 ほう の他 ほか は[ 27] 、大量 たいりょう の椰子 やし の丸太 まるた を有効 ゆうこう に活用 かつよう し、海岸 かいがん 線 せん に丸太 まるた で組 く んだ防壁 ぼうへき が設置 せっち され、海中 かいちゅう にも丸太 まるた と角材 かくざい を二 に 重 じゅう にしばりつけた防塞 ぼうさい が置 お かれた[ 28] 。さらには、各種 かくしゅ 高射 こうしゃ 砲座 ほうざ も椰子 やし の丸太 まるた を活用 かつよう して作 つく られたほか、半地 はんじ 下 か 式 しき のトーチカ も建設 けんせつ された。この半 はん 地下 ちか 式 しき トーチカは直径 ちょっけい 20cm以上 いじょう の丸太 まるた を2mの幅 はば で2段 だん に重 かさ ね、その中間 ちゅうかん に岩 いわ や土 ど を詰 つ め込 こ んだものであり、各 かく トーチカは地下 ちか 壕 ごう で連絡 れんらく されていた。さらにすべてのトーチカは射 い 線 せん が有機 ゆうき 的 てき に連携 れんけい しており、死角 しかく がまったくなかった[ 28] 。これらの陣地 じんち はのちに、タラワに侵攻 しんこう してきたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の総 そう 指揮 しき 官 かん であったホーランド・スミス 少将 しょうしょう から「こんな堅固 けんご な陣地 じんち は今 いま まで見 み たことがない」と驚 おどろ かせ、敵 てき のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん からは「この陣地 じんち に我々 われわれ アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が2個 こ 大隊 だいたい が立 た て籠 こ もれば、たとえ地獄 じごく の中 なか で氷 こおり が一 いち 面 めん に張 は り詰 つ めても(どんなことがあってもという意味 いみ )この島 しま を守 まも り抜 ぬ ける」と言 い わせたほどであった。
ギルバートを防衛 ぼうえい する第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 司令 しれい 官 かん は友成 ともなり 佐 さ 市郎 いちろう 少将 しょうしょう であったが、元々 もともと は重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 羽黒 はぐろ や戦艦 せんかん 霧島 きりしま の艦長 かんちょう を歴任 れきにん するなど、艦船 かんせん 指揮 しき には精通 せいつう していたが陸戦 りくせん 隊 たい の指揮 しき は全 まった くの素人 しろうと であったことや、隊 たい 内 ない では主席 しゅせき 参謀 さんぼう と対立 たいりつ して司令 しれい 部 ぶ の雰囲気 ふんいき を陰鬱 いんうつ にして、最終 さいしゅう 的 てき には主席 しゅせき 参謀 さんぼう が自殺 じさつ をしてしまったり、敵 てき の侵攻 しんこう が近 ちか い最前線 さいぜんせん であるのにもかかわらず、茶道 さどう を愉 たの しむために茶室 ちゃしつ をわざわざ作 つく らせるなど、目 め に余 あま る行動 こうどう も見 み られたので、1943年 ねん 7月 がつ 20日 にち 付 づけ で体調 たいちょう 不良 ふりょう を理由 りゆう に司令 しれい 官 かん を更迭 こうてつ され、代 か わりに柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ 少将 しょうしょう が着任 ちゃくにん した[ 31] 。
柴崎 しばざき は前任 ぜんにん の友成 ともなり とは異 こと なり、漢 かん 口 こう 方面 ほうめん 特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 副長 ふくちょう 兼 けん 参謀 さんぼう や上海 しゃんはい 海軍 かいぐん 特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 参謀 さんぼう 長 ちょう 兼 けん 上海 しゃんはい 根拠地 こんきょち 隊 たい 参謀 さんぼう 長 ちょう を歴任 れきにん し、陸戦 りくせん の指揮 しき に精通 せいつう していたうえ、自 みずか らも柔道 じゅうどう 、剣道 けんどう 、弓道 きゅうどう などの有段者 ゆうだんしゃ であり、武道 ぶどう を極 きわ めていた。特 とく に弓道 きゅうどう が得意 とくい で、普通 ふつう の人 ひと では弦 つる さえ引 ひ けないような強弓 ごうきゅう を易々 いい と操 あやつ り、さらに毎日 まいにち その稽古 けいこ を怠 おこた らなかった[ 32] 。柴崎 しばざき は、海軍 かいぐん 内 ない で豪傑 ごうけつ で活 い きのいい闘将 とうしょう と武名 ぶめい が轟 とどろ いていたが[ 33] 、一方 いっぽう で、情 じょう に厚 あつ く、部下 ぶか 想 おも いの仁 じん 将 しょう で[ 34] 、部下 ぶか からの人望 じんぼう も厚 あつ く、まさにうってつけの司令 しれい 官 かん の着任 ちゃくにん に第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい の司令 しれい 部 ぶ はわきたった。佐世保 させぼ 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 第 だい 1中隊 ちゅうたい 長 ちょう であった谷 たに 浦 うら 英男 ひでお も、かつて漢 かん 口 こう 方面 ほうめん 特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい で部下 ぶか として仕 つか えた際 さい に、一緒 いっしょ に豪遊 ごうゆう した経験 けいけん もあってその愛 あい すべき人物 じんぶつ 面 めん を熟知 じゅくち しており、その着任 ちゃくにん を喜 よろこ んでいる[ 35] 。
柴崎 しばざき の着任 ちゃくにん で第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい の空気 くうき は一新 いっしん された。柴崎 しばざき はこれまでの陣地 じんち 構築 こうちく に加 くわ えて、陣地 じんち のみに頼 たよ るのではなく、連日 れんじつ 兵士 へいし たちに厳 きび しい訓練 くんれん を課 か して戦闘 せんとう 力 りょく の底上 そこあ げを図 はか った。いかなるケースの敵 てき の上陸 じょうりく にも対応 たいおう できるように、払暁 ふつぎょう や夜間 やかん など時間 じかん を問 と わず猛 もう 訓練 くんれん を行 おこな っていった。柴崎 しばざき の的確 てきかく な指導 しどう に基 もと づく訓練 くんれん により、戦闘 せんとう 員 いん 2,601人 にん に加 くわ えて、設営 せつえい 隊 たい の軍属 ぐんぞく 2,000人 にん [ 6] も精強 せいきょう な海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい 兵士 へいし として鍛 きた えられていった[ 36] 。また、海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい の荒 あら くれ者 もの たちが狭 せま い小島 こじま で毎日 まいにち 陣地 じんち 構築 こうちく や訓練 くんれん に明 あ け暮 く れていたため、ストレスがたまり些細 ささい なことで諍 いさか いが起 お こるようになるのを見 み た柴崎 しばざき は、自分 じぶん も武道 ぶどう 家 か であったので、部隊 ぶたい に武技 ぶぎ を奨励 しょうれい し、司令 しれい 官 かん 賞 しょう まで設 もう けて柔道 じゅうどう 、相撲 すもう 、剣道 けんどう 、銃剣 じゅうけん 道 どう などの大会 たいかい を定期 ていき 的 てき に開催 かいさい した。このおかげで無用 むよう な諍 いさか いは減 へ り、各 かく 部隊 ぶたい の団結 だんけつ 力 りょく と各 かく 兵士 へいし の精強 せいきょう 度 ど は一層 いっそう に高 たか まった[ 37] 。
しかし、柴崎 しばざき は厳 きび しいばかりではなく兵士 へいし の福利 ふくり 厚生 こうせい にも気 き を配 くば っていた。厳 きび しい訓練 くんれん の合間 あいま を縫 ぬ って、2か月 げつ ごとに兵士 へいし たちによる演芸 えんげい 会 かい を開催 かいさい した。わざわざガリ版 がりばん のプログラムまで作成 さくせい し、手作 てづく りの舞台 ぶたい のうえで多 おお くの兵士 へいし が歌 うた や寸劇 すんげき や剣劇 けんげき や楽器 がっき 演奏 えんそう などを披露 ひろう して大 おお いに盛 も り上 あ がったという。このときばかりは柴崎 しばざき 以下 いか 無礼講 ぶれいこう で、参加 さんか 者 しゃ はつかの間 ま の戦争 せんそう を忘 わす れて、大 おお いに笑 わら って騒 さわ いだが、多 おお くの兵士 へいし が遠 とお く日本 にっぽん にいる家族 かぞく のことを想 おも い出 だ していた[ 38] 。柴崎 しばざき はこの演芸 えんげい 会 かい を開催 かいさい した目的 もくてき を妻 つま に宛 あ てた手紙 てがみ で以下 いか の様 よう に説明 せつめい している。
よく働 はたら き、よく遊 あそ ぶ。大 おお いに努力 どりょく し、よく休 やす む、が私 わたし のモットーです。これもご奉公 ほうこう 万全 ばんぜん のため考 かんが えだした慰安 いあん 会 かい です。明日 あした からまた総員 そういん 身 み を粉 こな にして訓練 くんれん に作戦 さくせん 準備 じゅんび に専心 せんしん 努力 どりょく するのです。第 だい 一線 いっせん の守護 しゅご 、かくして寸分 すんぶん の間隙 かんげき なし、御 ご 安神 あんしん 下 か 度 たび — 柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ
こうして、入念 にゅうねん に構築 こうちく された陣地 じんち と徹底的 てっていてき に鍛 きた えられた精兵 せいびょう を柴崎 しばざき は誇 ほこ り、「たとえ、100万 まん の敵 てき をもってしても、この島 しま をぬくことは不可能 ふかのう であろう」と豪語 ごうご していた[ 40] 。
タラワ環礁 かんしょう の衛星 えいせい 写真 しゃしん 、左下 ひだりした がベティオ島 とう
ソロモン諸島 しょとう の戦 たたか い で勝利 しょうり を収 おさ め、ニューギニアでも順調 じゅんちょう に進撃 しんげき をしていた連合 れんごう 軍 ぐん は日本 にっぽん 本土 ほんど に向 む けて進撃 しんげき 路 ろ を検討 けんとう していた。太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん においては、ダグラス・マッカーサー 大将 たいしょう 率 ひき いるアメリカ陸軍 りくぐん が主力 しゅりょく の連合 れんごう 国 こく 南西 なんせい 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) (SWPA)と、チェスター・ニミッツ 提督 ていとく 率 ひき いるアメリカ海軍 かいぐん 、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい 主力 しゅりょく の連合 れんごう 国 こく 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) (POA)に指揮 しき 権 けん が分割 ぶんかつ されていたが、マッカーサーはこれまで成功 せいこう してきた、正面 しょうめん 攻撃 こうげき を避 さ け日本 にっぽん 軍 ぐん の脆弱 ぜいじゃく な所 ところ を攻撃 こうげき するといった「リープフロッギング(蛙 かえる 飛 と び)作戦 さくせん 」で、ニューギニアからフィリピン という比較的 ひかくてき 大 おお きい陸地 りくち を攻 せ めあがっていくという主張 しゅちょう をしていたのに対 たい し。ニミッツら海軍 かいぐん 側 がわ は従来 じゅうらい からの対 たい 日 にち 戦 せん ドクトリン である「オレンジ計画 けいかく 」に準 じゅん じ、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう を太平洋 たいへいよう の島嶼 とうしょ 沿 ぞ いに西進 せいしん し日本 にっぽん 本土 ほんど に接近 せっきん するという作戦 さくせん を主張 しゅちょう して譲 ゆず らず、1943年 ねん 5月 がつ に開催 かいさい された第 だい 3回 かい ワシントン会談 かいだん で、太平洋 たいへいよう を2方面 ほうめん から進撃 しんげき するという作戦 さくせん 計画 けいかく が実施 じっし されることとなった。
アメリカ海軍 かいぐん の作戦 さくせん 計画 けいかく は、日本 にっぽん 軍 ぐん が固 かた く防備 ぼうび している太平洋 たいへいよう 上 じょう の島々 しまじま を、一撃 いちげき 離脱 りだつ の攻撃 こうげき ではなく大 だい 規模 きぼ な水陸 すいりく 両用 りょうよう 作戦 さくせん によって、順次 じゅんじ 攻略 こうりゃく しながら日本 にっぽん 本土 ほんど に向 む けて攻 せ めあがって行 い こうとする、これまでの戦史 せんし 上 じょう 初 はじ めての野心 やしん 的 てき な試 こころ みであり、これを可能 かのう にしたのは続々 ぞくぞく と就役 しゅうえき していた空母 くうぼ であった。アメリカ海軍 かいぐん の幕僚 ばくりょう は「空母 くうぼ と空母 くうぼ 艦載 かんさい 機 き が、敵 てき の陸上 りくじょう 基地 きち 航空 こうくう 戦力 せんりょく の脅威 きょうい 下 か にさらされた場合 ばあい は不利 ふり だという考 かんが えは、我 わ が軍 ぐん が空母 くうぼ の大 だい 艦隊 かんたい を動員 どういん できるときは修正 しゅうせい の必要 ひつよう がある」「我 わ が方 ほう に地上 ちじょう 基地 きち 航空 こうくう 隊 たい の支援 しえん がない場合 ばあい は、空母 くうぼ 艦載 かんさい 機 き が、島嶼 とうしょ 要塞 ようさい に対 たい する上陸 じょうりく 作戦 さくせん を支持 しじ 、援護 えんご しうると見 み て差 さ し支 つか えない」と断 だん じるほど、大量 たいりょう の空母 くうぼ によって編成 へんせい されるアメリカ軍 ぐん の機動 きどう 部隊 ぶたい に絶大 ぜつだい な信頼 しんらい を寄 よ せていた。そして、マッカーサーによる進撃 しんげき ルートよりは、ニミッツの進撃 しんげき する太平洋 たいへいよう 正面 しょうめん ルートの方 ほう が「戦略 せんりゃく 的 てき に見 み て、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう ルートが決定的 けっていてき である。このルートで勝 か てば日本 にっぽん 本土 ほんど を南方 なんぽう の海外 かいがい 帝国 ていこく 領 りょう から分断 ぶんだん しうることは間違 まちが いない」と、戦争 せんそう の勝利 しょうり に決定的 けっていてき な意味 いみ を持 も つとしていた[ 43] 。
1943年 ねん 8月 がつ 21日 にち から、カナダ のケベック で連合 れんごう 国 こく 首脳 しゅのう によるケベック会談 かいだん が開催 かいさい され、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう への侵攻 しんこう 作戦 さくせん の具体 ぐたい 案 あん が決定 けってい した。ニミッツ指揮 しき 下 か の海兵 かいへい 隊 たい が中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう を進 すす み、まずは、ギルバート諸島 しょとう のマキン 、タラワ、アベママ の3環礁 かんしょう を攻略 こうりゃく して、進攻 しんこう の拠点 きょてん として、次 つ いで西方 せいほう に転 てん じて、クェゼリン 、エニウェトク 、グアム 、サイパン 、ペリリュー へと前進 ぜんしん し、マッカーサーはビスマルク諸島 しょとう とニューギニアを攻略 こうりゃく して、両 りょう 軍 ぐん はフィリピン か台湾 たいわん で一本 いっぽん になると決 き められた。このような連合 れんごう 国 こく の会議 かいぎ では、これまではイギリス首相 しゅしょう のウィンストン・チャーチル がナチス・ドイツ を打倒 だとう するまではヨーロッパ戦線 せんせん を優先 ゆうせん すべきと主張 しゅちょう し、ヨーロッパ戦線 せんせん と太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん の戦力 せんりょく 比 ひ に格差 かくさ をつけられていたが、ジョージ・マーシャル 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう とアーネスト・キング 合衆国 がっしゅうこく 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 兼 けん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう は「日本 にっぽん 軍 ぐん を過小 かしょう 評価 ひょうか している」と強 つよ く主張 しゅちょう 、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん の連合 れんごう 軍 ぐん 戦力 せんりょく 倍増 ばいぞう を認 みと めさせ、雄大 ゆうだい な2正面 しょうめん 作戦 さくせん が決定 けってい した。
ギルバート諸島 しょとう の攻略 こうりゃく 作戦 さくせん は「ガルヴァニック作戦 さくせん 」と名付 なづ けられ、この作戦 さくせん のために新 あら たに第 だい 5艦隊 かんたい が編成 へんせい されて、司令 しれい にはミッドウェー海戦 かいせん の英雄 えいゆう レイモンド・スプルーアンス 中将 ちゅうじょう が任 にん じられた。第 だい 5艦隊 かんたい は一番 いちばん 近 ちか い連合 れんごう 軍 ぐん 拠点 きょてん から700マイル以上 いじょう も離 はな れた目標 もくひょう に対 たい して、これまでのアメリカ軍 ぐん 史上 しじょう 最大 さいだい の上陸 じょうりく 作戦 さくせん を実施 じっし することとなった。空母 くうぼ 19隻 せき 、高速 こうそく 戦艦 せんかん 5隻 せき 、旧式 きゅうしき 戦艦 せんかん 7隻 せき を主力 しゅりょく とする強力 きょうりょく な支援 しえん 艦隊 かんたい に護衛 ごえい された200隻 せき もの艦艇 かんてい が、兵員 へいいん 35,000人 にん 、車両 しゃりょう 6,000輌 りょう 、物資 ぶっし 117,000トンを搭載 とうさい してギルバート諸島 しょとう に向 む かうこととなった。
タラワを攻略 こうりゃく する任務 にんむ を与 あた えられたのはアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん となったが、同 どう 師団 しだん はガダルカナル島 とう の戦 たたか い で日本 にっぽん 軍 ぐん を打 う ち破 やぶ った原動力 げんどうりょく となった栄誉 えいよ ある師団 しだん で、所属 しょぞく するアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちも日本 にっぽん 軍 ぐん との激戦 げきせん を潜 くぐ り抜 ぬ けてきた精鋭 せいえい ぞろいであった。共 とも にガダルカナルで戦 たたか ったアメリカ第 だい 1海兵 かいへい 師団 しだん と大量 たいりょう の勲章 くんしょう を分 わ け合 あ ったのちに、ニュージーランド の首都 しゅと ウェリントン に向 む かって、戦力 せんりょく の補充 ほじゅう と休養 きゅうよう に加 くわ えて、敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん のための猛 もう 訓練 くんれん を行 おこな った。アメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の精鋭 せいえい たちはその猛 もう 訓練 くんれん にも耐 た え、さらにその精強 せいきょう 度 ど は向上 こうじょう したが、その訓練 くんれん プログラムは1930年代 ねんだい に海兵 かいへい 隊 たい 上層 じょうそう 部 ぶ で検討 けんとう された原則 げんそく に基 もと づくものであった[ 45] 。
ウェリントンでの訓練 くんれん 中 ちゅう に、上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を指揮 しき する予定 よてい であった第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) 長 ちょう のウィリアム・W・マーシャル大佐 たいさ がプレッシャーもあってノイローゼ となってしまい、急遽 きゅうきょ 、デビット・シャウプ (英語 えいご 版 ばん ) 中佐 ちゅうさ が大佐 たいさ に昇進 しょうしん し、上陸 じょうりく 作戦 さくせん を指揮 しき することとなった。シャウプはガダルカナル島 とう の戦 たたか いに次 つ いでニュージョージア島 とう の戦 たたか い にも従軍 じゅうぐん して負傷 ふしょう した経験 けいけん もあった。部下 ぶか の海兵 かいへい 隊員 たいいん からは「自分 じぶん らが知 し っている限 かぎ りで、最 もっと も勇敢 ゆうかん 、最 もっと も大胆 だいたん 、最 もっと も武人 ぶじん らしい海兵 かいへい 隊 たい 将校 しょうこう 」とも評 ひょう され、敬意 けいい と親愛 しんあい の情 じょう を込 こ めて“デイヴ”・シャウプと呼 よ ばれていた[ 46] 。
従来 じゅうらい 型 がた より装甲 そうこう と武装 ぶそう が強化 きょうか されたアムトラックのLVT2型 がた
シャウプら前線 ぜんせん 部隊 ぶたい が訓練 くんれん に明 あ け暮 く れている間 あいだ 、師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミス 海兵 かいへい 中将 ちゅうじょう は、戦力 せんりょく と上陸 じょうりく 支援 しえん の増強 ぞうきょう を直訴 じきそ するために真珠湾 しんじゅわん を訪 おとず れ、水陸 すいりく 両用 りょうよう 作戦 さくせん の首脳 しゅのう 陣 じん であった リッチモンド・ターナー 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう やホーランド・スミス 海兵 かいへい 隊 たい 少将 しょうしょう にかけあった。アメリカ軍 ぐん は敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん のために、ガダルカナル侵攻 しんこう に先立 さきだ ってアムトラック (Amtrak)と呼 よ ばれる水陸 すいりく 両用 りょうよう 車 しゃ を開発 かいはつ していた。従来 じゅうらい の上陸 じょうりく 作戦 さくせん では上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で上陸 じょうりく する兵士 へいし を浅瀬 あさせ まで運 はこ び、その後 ご 兵士 へいし が海水 かいすい に浸 つ かりながら徒歩 とほ で海岸 かいがん まで上陸 じょうりく する必要 ひつよう があったが、自 じ 走 はし 可能 かのう なアムトラックは海岸 かいがん まで兵士 へいし を運 はこ ぶことができた。今回 こんかい の上陸 じょうりく 作戦 さくせん はガダルカナルのときより遥 はる かに困難 こんなん が予想 よそう されたため、ジュリアン・スミスはなるべく多 おお くのアムトラックをかき集 あつ めてほしいと要請 ようせい し、現時点 げんじてん でアメリカ軍 ぐん が保有 ほゆう して可動 かどう 状態 じょうたい にあるほぼ全部 ぜんぶ のアムトラックLVT1型 がた に加 くわ えて[ 47] 、さらに、ガダルカナル島 とう の戦 たたか いの教訓 きょうくん によって装甲 そうこう が強化 きょうか されたLVT2型 がた も、アメリカ海軍 かいぐん 側 がわ の配慮 はいりょ で、工場 こうじょう から直接 ちょくせつ LST-1級 きゅう 戦車 せんしゃ 揚陸 ようりく 艦 かん でタラワ島 とう に高速 こうそく 輸送 ゆそう するといった荒業 あらわざ で投入 とうにゅう が可能 かのう になった。これらの努力 どりょく でこの上陸 じょうりく 作戦 さくせん に投入 とうにゅう されるアムトラックは合計 ごうけい 125輌 りょう となった。
しかしジュリアン・スミスの要望 ようぼう が通 とお ったのはここまでで、今回 こんかい の攻略 こうりゃく 目標 もくひょう であるタラワ島 とう の周囲 しゅうい の小島 こじま に砲兵 ほうへい 隊 たい を先 さき に上陸 じょうりく させて支援 しえん 砲撃 ほうげき を行 おこな ってほしいという要請 ようせい に対 たい しては、ホーランド・スミスから小島 こじま に別 べつ 部隊 ぶたい を上陸 じょうりく させれば、上陸 じょうりく 艦隊 かんたい を分散 ぶんさん させることとなり、予想 よそう される日本 にっぽん 海軍 かいぐん の航空機 こうくうき や潜水 せんすい 艦 かん の反撃 はんげき によって大 だい 損害 そんがい を被 こうむ る危険 きけん 性 せい があるとして却下 きゃっか された。さらにジュリアン・スミスを嘆 なげ かせたのが、アメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) を、同時 どうじ に侵攻 しんこう 予定 よてい であるマキン島 とう への予備 よび 戦力 せんりょく として、第 だい 5水陸 すいりく 両用 りょうよう 軍 ぐん の指揮 しき 下 か に置 お くというものであった。戦力 せんりょく 増強 ぞうきょう どころか、逆 ぎゃく に戦力 せんりょく を引 ひ き抜 ぬ かれることとなってしまった。アメリカ軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん の兵力 へいりょく を戦闘 せんとう 部隊 ぶたい 2,600人 にん 、日本人 にっぽんじん 軍属 ぐんぞく (建設 けんせつ 要員 よういん )1,000人 にん 、朝鮮 ちょうせん 人 じん 軍属 ぐんぞく 1,200人 にん とほぼ正確 せいかく に推定 すいてい していたが、軍属 ぐんぞく は多少 たしょう は訓練 くんれん を受 う けているとはいえ、全部 ぜんぶ が戦力 せんりょく にはならないと考 かんが えており、実際 じっさい の兵力 へいりょく は3,000人 にん 程度 ていど と見積 みつ もっていたので[ 49] 、アメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん は、4,600人 にん もの日本 にっぽん 兵 へい が固 かた く要塞 ようさい 化 か したタラワ島 とう を、1個 いっこ 師団 しだん 弱 じゃく のわずか2倍 ばい の兵力 へいりょく で強襲 きょうしゅう させられることとなった。
ベティオ島 とう
タラワでアメリカ軍 ぐん に鹵獲 ろかく された九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ
合計 ごうけい 4,599名 めい ~約 やく 4,601名 めい
師団 しだん 長 ちょう ジュリアン・スミス少将 しょうしょう
第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 長 ちょう デビット・シャウプ大佐 たいさ
合計 ごうけい 、兵員 へいいん 35,000人 にん 、艦艇 かんてい 200隻 せき 以上 いじょう
「ガルヴァニック作戦 さくせん 」に参加 さんか した正規 せいき 空母 くうぼ 「ヨークタウン」艦上 かんじょう の艦載 かんさい 機 き
マーシャルとギルバートの飛行場 ひこうじょう には、陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 、戦闘 せんとう 機 き 、飛行 ひこう 艇 てい の各 かく 1個 いっこ 航空 こうくう 隊 たい が進出 しんしゅつ し、積極 せっきょく 的 てき な作戦 さくせん 行動 こうどう を行 おこな っていたが、補充 ほじゅう も不十分 ふじゅうぶん な中 なか で損失 そんしつ が重 かさ なり、1943年 ねん 9月 がつ 時点 じてん では陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き と戦闘 せんとう 機 き で合計 ごうけい 45機 き 、飛行 ひこう 艇 てい が10機 き 未満 みまん まで戦力 せんりょく が減 へ っていた。それでも、積極 せっきょく 果敢 かかん な作戦 さくせん 行動 こうどう を継続 けいぞく しており、9月13日 にち にはタラワの飛行場 ひこうじょう からも陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 15機 き が出撃 しゅつげき して、アメリカ軍 ぐん のフナフティ島 とう の飛行場 ひこうじょう を爆撃 ばくげき し、かなりの損害 そんがい を与 あた えている。9月19日 にち には、アメリカ軍 ぐん はギルバートを空 そら から叩 たた くべく、カントン島 とう やベーカー島 とう やフナフティ島 とう からB-24 合計 ごうけい 130機 き と、第 だい 50任務 にんむ 部隊 ぶたい 第 だい 50.1タスクグループの正規 せいき 空母 くうぼ 「ヨークタウン 」「レキシントン 」軽 けい 空母 くうぼ 「カウペンス 」の3隻 せき から合計 ごうけい 160機 き が、タラワ、マキン、アパママに3波 は に渡 わた って来襲 らいしゅう してきた。日本 にっぽん 軍 ぐん はカントン島 とう やベーカー島 とう 方面 ほうめん に二 に 式 しき 大 だい 艇 てい を偵察 ていさつ に飛 と ばしていたが、9月2日 にち 、4日 にち 、9日 にち と3回 かい に渡 わた ってアメリカ軍 ぐん 艦載 かんさい 戦闘 せんとう 機 き の迎撃 げいげき によって未 み 帰還 きかん となっており、アメリカ軍 ぐん 空母 くうぼ 部隊 ぶたい の接近 せっきん を事前 じぜん に掴 つか むことはできなかった。
戦闘 せんとう 機 き による満足 まんぞく な迎撃 げいげき もできないまま、先日 せんじつ フナフティ島 とう を攻撃 こうげき した陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き のうち8機 き が地上 ちじょう で撃破 げきは されてしまった。地上 ちじょう 部隊 ぶたい も完全 かんぜん な奇襲 きしゅう となったうえ、初 はじ めての艦載 かんさい 機 き による空襲 くうしゅう で小型 こがた 機 き に対 たい する対空 たいくう 戦闘 せんとう に不慣 ふな れであったこともあり、アメリカ軍 ぐん の艦載 かんさい 機 き は縦横無尽 じゅうおうむじん に暴 あば れまわり、島 しま の3か所 しょ の弾薬 だんやく 庫 こ のうち2か所 しょ を焼失 しょうしつ させ、糧食 りょうしょく 倉庫 そうこ も延焼 えんしょう してしまった。さらにタラワに係留 けいりゅう されていた魚雷 ぎょらい 艇 てい 3隻 せき も、環礁 かんしょう 外 がい に退避 たいひ しようとしたところをアメリカ軍 ぐん 艦載 かんさい 機 き に発見 はっけん されて撃沈 げきちん されてしまった。2波 は 、3波 は 目 め の空襲 くうしゅう の頃 ころ には守備 しゅび 隊 たい も態勢 たいせい を整 ととの えて、高角 こうかく 砲 ほう や対空 たいくう 機関 きかん 砲 ほう の他 ほか にも軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう や小銃 しょうじゅう で激 はげ しく対空 たいくう 戦闘 せんとう を行 おこな い、撃墜 げきつい 15機 き を報告 ほうこく している(アメリカ軍 ぐん の記録 きろく では損失 そんしつ 4機 き )この日 ひ の午後 ごご にはマーシャルから零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き 12機 き がタラワに増援 ぞうえん に飛来 ひらい し、翌 よく 20日 にち に来襲 らいしゅう してきたアメリカ軍 ぐん 艦載 かんさい 機 き を迎撃 げいげき し、守備 しゅび 隊 たい 兵士 へいし が空 そら を見上 みあ げるなかで6機 き を撃墜 げきつい している。この2日 にち に渡 わた った艦載 かんさい 機 き により空襲 くうしゅう で、タラワ守備 しゅび 隊 たい が受 う けた損害 そんがい は陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 8機 き 損失 そんしつ 、戦死 せんし ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 189名 めい 、戦傷 せんしょう 33名 めい 、建物 たてもの の焼失 しょうしつ 多数 たすう 、弾薬 だんやく 庫 こ 誘爆 ゆうばく による大量 たいりょう の弾薬 だんやく 喪失 そうしつ と大 おお きいものとなったが、この空襲 くうしゅう で柴崎 しばざき は現在 げんざい の陣地 じんち が空 そら からの攻撃 こうげき に脆 もろ いことを痛感 つうかん して、さらなる陣地 じんち の強化 きょうか を図 はか っている。なおB-24による爆撃 ばくげき については、零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き の迎撃 げいげき で1機 き を撃墜 げきつい 、7機 き を撃破 げきは して、損害 そんがい は殆 ほとん どなかった。
アメリカ軍 ぐん は「ガルヴァニック作戦 さくせん 」の開始 かいし が近 ちか づくと、ギルバートやマーシャルの日本 にっぽん 軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう を叩 はた き、航空 こうくう 戦力 せんりょく の殲滅 せんめつ とマキンとタラワの孤立 こりつ 化 か を図 はか った。ギルバートにより近 ちか い、ベーカー島 とう やエリス諸島 しょとう の諸島 しょとう に飛行場 ひこうじょう を造成 ぞうせい し、10月9日 にち には使用 しよう 可能 かのう となり、陸上 りくじょう 機 き が繰 く り返 かえ しギルバートやマーシャルの日本 にっぽん 軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう を空襲 くうしゅう した。南太平洋 みなみたいへいよう における日本 にっぽん 軍 ぐん 最大 さいだい の拠点 きょてん ラバウルもアメリカ軍 ぐん の度重 たびかさ なる空襲 くうしゅう で弱体 じゃくたい 化 か しておりもはや反撃 はんげき する戦力 せんりょく も残 のこ されておらず、アメリカ軍 ぐん の本格 ほんかく 的 てき な侵攻 しんこう を前 まえ にギルバートの制空権 せいくうけん は完全 かんぜん にアメリカ軍 ぐん に握 にぎ られた。
タラワに向 む けて輸送 ゆそう 艦 かん に乗 の り込 こ むアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん
11月7日 にち にはウェリントンで訓練 くんれん を受 う けていたアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん が輸送 ゆそう 艦 かん に乗艦 じょうかん していた。機密 きみつ 保持 ほじ のために行先 ゆくさき は知 し らされておらず、多 おお くのアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はいつも通 とお りの訓練 くんれん で、夜 よる にはダンスパーティに参加 さんか できると思 おも っていたが、その期待 きたい は午後 ごご に師団 しだん 長 ちょう のジュリアンス・スミスからの、「君 きみ たちはおおがかりな作戦 さくせん の途上 とじょう にある」という発表 はっぴょう によって打 う ち砕 くだ かれた。しかし、具体 ぐたい 的 てき な行 ゆ く先 さき は引 ひ き続 つづ き秘匿 ひとく されたので、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん のなかでさかんに行 い き先 さき の推測 すいそく がなされ10個 こ 以上 いじょう の候補 こうほ 先 さき が挙 あ げられていたが、そのなかには鋭 するど くもタラワと的中 てきちゅう させている者 もの もいた。輸送 ゆそう 艦隊 かんたい はまずエファテ島 とう に向 む かい、そこでハリー・W・ヒル少将 しょうしょう 率 ひき いる第 だい 53任務 にんむ 部隊 ぶたい と仕上 しあ げの上陸 じょうりく 訓練 くんれん を行 おこな った。3日間 にちかん の訓練 くんれん 中 ちゅう にアメリカ第 だい 3海兵 かいへい 師団 しだん がブーゲンビル島 とう の上陸 じょうりく に成功 せいこう したとの連絡 れんらく が入 はい り、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちは大 だい 歓声 かんせい を挙 あ げた。アメリカ第 だい 3海兵 かいへい 師団 しだん には多 おお くの戦友 せんゆう がおり、親 した しい戦友 せんゆう たちの活躍 かつやく にアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の士気 しき は最高潮 さいこうちょう に達 たっ した状態 じょうたい で作戦 さくせん を迎 むか えることができた。訓練 くんれん を終 お えたアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん は再 ふたた び目的 もくてき 地 ち を目指 めざ したが、作戦 さくせん 直前 ちょくぜん の11月17日 にち になってようやく目的 もくてき 地 ち がタラワだと知 し らされた。一部 いちぶ のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の予想 よそう は敵 てき 中 ちゅう したものの、タラワという地名 ちめい を始 はじ めて聞 き いたという者 もの が圧倒的 あっとうてき で、この後 のち 、すし詰 づ めの輸送 ゆそう 艦内 かんない でアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちは、航空 こうくう 写真 しゃしん や石膏 せっこう で作 つく られたタラワの模型 もけい によって作戦 さくせん 計画 けいかく を徹底的 てっていてき に学習 がくしゅう させられた。
1943年 ねん 11月5日 にち 、ハワイ の真珠湾 しんじゅわん に停泊 ていはく しているレイモンド・スプルーアンス 中将 ちゅうじょう が座乗 ざじょう していた旗艦 きかん の重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 「インディアナポリス」に高々 たかだか と中将 ちゅうじょう の将 はた 旗 はた が掲 かか げられた。これは、旗艦 きかん に乗 の る指揮 しき 官 かん が近日 きんじつ 中 ちゅう に艦隊 かんたい を引 ひ き連 つ れて出撃 しゅつげき するという合図 あいず であったが、この時点 じてん で、ブーゲンビル島 とう 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん のためにウィリアム・ハルゼー・ジュニア 中将 ちゅうじょう が、スプルーアンスの第 だい 5艦隊 かんたい に編入 へんにゅう される予定 よてい の艦船 かんせん から、空母 くうぼ 5隻 せき 、巡洋艦 じゅんようかん 5隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 5隻 せき を転用 てんよう を受 う けて日本 にっぽん 軍 ぐん と激戦 げきせん を展開 てんかい 中 ちゅう であり、それらの艦船 かんせん は合流 ごうりゅう しておらず、また合流 ごうりゅう の目途 もくと もたっていなかった。スプルーアンスは、ハルゼー艦隊 かんたい に転用 てんよう されている艦船 かんせん の復帰 ふっき を待 ま つために、上陸 じょうりく 日 び を11月20日 にち から1日 にち 延期 えんき して21日 にち としたが、それ以上 いじょう は遅 おく らせることはせず、仮 かり にハルゼー艦隊 かんたい に転用 てんよう している艦船 かんせん が復帰 ふっき せずとも、予定 よてい 通 どお りにギルバートの攻略 こうりゃく を決行 けっこう することと決意 けつい し、艦船 かんせん が少 すく ない場合 ばあい の作戦 さくせん 計画 けいかく を練 ね りなおした。11月8日 にち には転用 てんよう されていた軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 「バーミングハム 」が日本 にっぽん 軍 ぐん 航空機 こうくうき の攻撃 こうげき で大破 たいは し、「ガルヴァニック作戦 さくせん 」参加 さんか 艦 かん から除外 じょがい されたが、その翌日 よくじつ の9日 にち には他 た の4隻 せき の巡洋艦 じゅんようかん がスプルーアンスに返 かえ されることとなり事態 じたい は多少 たしょう 改善 かいぜん した。
11月10日 にち に第 だい 5艦隊 かんたい の大 だい 部分 ぶぶん は真珠湾 しんじゅわん を出港 しゅっこう した。ハルゼー艦隊 かんたい に転用 てんよう されている艦船 かんせん を欠 か いているとは言 い え、その艦 かん 列 れつ は壮観 そうかん であった。空母 くうぼ や戦艦 せんかん といった大型 おおがた 艦 かん は15分 ふん 間隔 かんかく 、その他 た の艦 かん は5分 ふん 間隔 かんかく で出港 しゅっこう したが、艦 かん 列 れつ は引 び きも切 き らず、全 ぜん 艦 かん が出港 しゅっこう するまで午前 ごぜん 中 ちゅう いっぱいかかった。灰色 はいいろ の艦船 かんせん が水平 すいへい 線 せん いっぱいに連 つら なり、全 ぜん 艦 かん 数 すう を数 かぞ えることすら困難 こんなん で、世界 せかい の全 すべ ての艦船 かんせん をここに集 あつ めたかのような勇壮 ゆうそう な光景 こうけい にアメリカ海軍 かいぐん 水兵 すいへい は胸 むね を熱 あつ くしていた。第 だい 5艦隊 かんたい には特 とく に空母 くうぼ を中心 ちゅうしん に新 しん 造艦 ぞうかん が多 おお く、また艦載 かんさい 機 き の搭乗 とうじょう 員 いん や水兵 すいへい にも実戦 じっせん 経験 けいけん がない者 もの が多 おお かったので、スプルーアンスはギルバートまでの進撃 しんげき 中 ちゅう に各 かく 艦 かん に徹底 てってい した訓練 くんれん を命 めい じた。事前 じぜん に入念 にゅうねん に日本 にっぽん 軍 ぐん 基地 きち を叩 たた いていたこともあって、進撃 しんげき 中 ちゅう に日本 にっぽん 軍 ぐん の航空機 こうくうき や潜水 せんすい 艦 かん から攻撃 こうげき されることもなく、第 だい 5艦隊 かんたい は訓練 くんれん に集中 しゅうちゅう でき、その練度 れんど はみるみるうちに向上 こうじょう していった。またハルゼー艦隊 かんたい に転用 てんよう されていた空母 くうぼ や駆逐 くちく 艦 かん が11月13日 にち に復帰 ふっき することが決定 けってい し、第 だい 5艦隊 かんたい は戦力 せんりょく が揃 そろ った状態 じょうたい でギルバートに向 む かって接近 せっきん していった。さらに11月18日 にち にはエファテ島 とう から航行 こうこう してきたヒルの第 だい 53任務 にんむ 部隊 ぶたい や輸送 ゆそう 艦隊 かんたい とも、タラワ島 とう 南西 なんせい 400マイルの地点 ちてん で合流 ごうりゅう した。
11月に入 はい ってもタラワの第 だい 755航空 こうくう 隊 たい の陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き は健在 けんざい で、第 だい 5艦隊 かんたい が接近 せっきん 中 ちゅう の11月17日 にち には9機 き をもってフナフティ島 とう のアメリカ軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう を爆撃 ばくげき しているが、肝心 かんじん の第 だい 5艦隊 かんたい を発見 はっけん することはできなかった。11月19日 にち にスプルーアンスは空母 くうぼ 部隊 ぶたい にタラワとナウルの攻撃 こうげき を命 めい じた。そのうちタラワには4波 は 合計 ごうけい 約 やく 750機 き が来襲 らいしゅう して、徹底的 てっていてき に飛行場 ひこうじょう や日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち を空爆 くうばく した。しかし、前回 ぜんかい の艦載 かんさい 機 き の空襲 くうしゅう による大 だい 損害 そんがい で空襲 くうしゅう 対策 たいさく を進 すす めていたため、地上 ちじょう に暴露 ばくろ されている木造 もくぞう 建築 けんちく 物 ぶつ は破壊 はかい されたが、陣地 じんち や掩体に格納 かくのう されている陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き には殆 ほとん ど損害 そんがい はなかった。その頃 ころ 、ルオット島 とう とマロエラップ島 とう から出撃 しゅつげき した陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 隊 たい が、ついにタラワの沖合 おきあい にいるアメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい を発見 はっけん しているが、その後 ご の陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 隊 たい による攻撃 こうげき はいずれも撃退 げきたい された。タラワの第 だい 755航空 こうくう 隊 たい も、可動 かどう の7機 き に加 くわ え、ルオット島 とう から増援 ぞうえん として飛来 ひらい した4機 き を加 くわ えて、20日 はつか 未明 みめい になって沖合 おきあい のアメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい の索敵 さくてき に出撃 しゅつげき したが、5機 き が未 み 帰還 きかん となり残 のこ りはルオット島 とう に退避 たいひ した。
20日 はつか にも艦載 かんさい 機 き 2波 は 190機 き がタラワに来襲 らいしゅう したが、アメリカ軍 ぐん 艦載 かんさい 機 き は、椰子 やし の木 き を倒 たお し、島 しま に大穴 おおあな を多数 たすう 開 あ けただけで、日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち には殆 ほとん ど被害 ひがい はなかった。空襲 くうしゅう の後 のち に重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん 3隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 5隻 せき がタラワに接近 せっきん して艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を加 くわ えた。艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき は約 やく 1時 じ 間 あいだ に及 およ び、弾 たま 着 ぎ により砂塵 さじん が舞 ま い上 あ がり島 しま 全体 ぜんたい が濛々 もうもう となってしまった。また午後 ごご にはB-24が30機 き 来襲 らいしゅう し、いつもとは異 こと なり低空 ていくう から精密 せいみつ 爆撃 ばくげき と機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を加 くわ えてきた。この砲 ほう 爆撃 ばくげき によりこれまで無事 ぶじ であった椰子 やし の木 き の多 おお くが倒 たお され、交通 こうつう 壕 ごう や待避 たいひ 壕 ごう の進入 しんにゅう 路 ろ を塞 ふさ いでしまった。一方 いっぽう で日本 にっぽん 軍 ぐん は殆 ほとん ど反撃 はんげき をすることなく、アメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく に備 そな えていた。
タラワに艦載 かんさい 機 き が空爆 くうばく を繰 く り返 かえ していた11月20日 にち に、上陸 じょうりく に先立 さきだ ち、師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスは下記 かき のようにアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の海兵 かいへい 隊員 たいいん に訓示 くんじ した。
諸君 しょくん 。この一事 いちじ を忘 わす れるなかれ。海兵 かいへい 隊 たい が上陸 じょうりく して敵 てき と白兵戦 はくへいせん を交 まじ えるとき、海兵 かいへい 隊員 たいいん の身 み につける唯一 ゆいいつ の装甲 そうこう は1枚 まい のカーキ・シャツだけであることを。諸君 しょくん の成功 せいこう は、我 わ が海兵 かいへい 隊 たい のかがやかしい伝統 でんとう にあらたな栄誉 えいよ をくわえることだろう。幸運 こううん と神 かみ の祝福 しゅくふく が諸君 しょくん にあたえられんことを! — ジュリアン・スミス
輸送 ゆそう 艦 かん から上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に移乗 いじょう したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん
11月21日 にち 午前 ごぜん 3時 じ 、輸送 ゆそう 艦上 かんじょう のアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の海兵 かいへい 隊員 たいいん たちはたたき起 お こされて、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい 作戦 さくせん 開始 かいし 日 び の伝統 でんとう 的 てき なメニューであるステーキ と目玉焼 めだまや き の朝食 ちょうしょく を食 た べた。その後 ご に手際 てぎわ よく装備 そうび を身 み に着 つ けると、輸送 ゆそう 艦 かん から海上 かいじょう のアムトラックや上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に次々 つぎつぎ と搭乗 とうじょう した。午前 ごぜん 4時 じ には支援 しえん 艦隊 かんたい が艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を開始 かいし する予定 よてい であったが、2ノットもの潮流 ちょうりゅう によって乗船 じょうせん 作業 さぎょう は時折 ときおり 中断 ちゅうだん を余儀 よぎ なくされ、作戦 さくせん は予定 よてい より遅 おく れ気味 ぎみ となった。午前 ごぜん 5時 じ になってようやく作業 さぎょう に目途 もくと がついたため、第 だい 53任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい のヒルが輸送 ゆそう 艦隊 かんたい に作戦 さくせん 開始 かいし 位置 いち に移動 いどう するよう命 めい じるため信号 しんごう 弾 だん を発射 はっしゃ したとき、それを合図 あいず にタラワの日本 にっぽん 軍 ぐん 砲台 ほうだい がアメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい に対 たい して砲撃 ほうげき を開始 かいし した。特 とく にタラワの日本 にっぽん 軍 ぐん 最大 さいだい 火砲 かほう の20.3cm/45式 しき 41号 ごう 艦 かん 砲 ほう が戦艦 せんかん 「メリーランド 」に向 む け砲撃 ほうげき をしてきたので、メリーランドも応射 おうしゃ し、10斉射 せいしゃ 目 め で同艦 どうかん 砲 ほう の弾薬 だんやく 庫 こ に命中 めいちゅう し大 だい 爆発 ばくはつ が起 お こって砲 ほう は沈黙 ちんもく した。
「メリーランド」を含 ふく む戦艦 せんかん 3、巡洋艦 じゅんようかん 5、駆逐 くちく 艦 かん 9隻 せき はその後 ご も艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を続 つづ け、タラワ全体 ぜんたい が爆 ばく 炎 えん と砂塵 さじん に覆 おお われてしまったが、夜明 よあ けと同時 どうじ に計画 けいかく されている艦載 かんさい 機 き の空爆 くうばく の視界 しかい 確保 かくほ のため、第 だい 53.4任務 にんむ 群 ぐん 司令 しれい ハワード・F・キングマン少将 しょうしょう は艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の中断 ちゅうだん を命 めい じた。日本 にっぽん 軍 ぐん はこの好機 こうき を見逃 みのが さず、これから艦載 かんさい 機 き が飛来 ひらい するまでの30分間 ふんかん 一方 いっぽう 的 てき に砲撃 ほうげき を行 おこな い、輸送 ゆそう 艦 かん は生 い き残 のこ った20.3cm/45式 しき 41号 ごう 艦 かん 砲 ほう の砲撃 ほうげき を避 さ けるため、射程 しゃてい 外 がい への待避 たいひ を余儀 よぎ なくされた。ここで空母 くうぼ 部隊 ぶたい との連携 れんけい の悪 わる さが露呈 ろてい し、空母 くうぼ 部隊 ぶたい は夜明 よあ けの午前 ごぜん 6:15に出撃 しゅつげき を計画 けいかく していたが、キングマンは午前 ごぜん 5:45に艦載 かんさい 機 き の空襲 くうしゅう が開始 かいし されると誤認 ごにん しており、不 ふ 必要 ひつよう に艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を早 はや めに止 と めてしまったことが判明 はんめい した。そこでキングマンは午前 ごぜん 6:05に慌 あわ てて艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を再開 さいかい したが、艦載 かんさい 機 き が計画 けいかく より早 はや く午前 ごぜん 6:10に飛来 ひらい してきたので、5分間 ふんかん で艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を中止 ちゅうし する羽目 はめ となった。さらに、約 やく 100機 き の艦載 かんさい 機 き は計画 けいかく では30分間 ふんかん の空爆 くうばく であったのに、わずか10分間 ふんかん で引 ひ き揚 あ げてしまった。
以上 いじょう のようなアメリカ軍 ぐん 内 ない の連携 れんけい 不足 ふそく はあったが、その後 ご には第 だい 53.4任務 にんむ 群 ぐん の艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき が再開 さいかい され、艦隊 かんたい はタラワの沖合 おきあい 2,000mまで接近 せっきん して撃 う ちまくった。午前 ごぜん 7:45に艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき はようやく止 や んだが、この徹底 てってい した砲 ほう 爆撃 ばくげき によって日本 にっぽん 軍 ぐん の海岸 かいがん 砲 ほう は完全 かんぜん に沈黙 ちんもく し、海岸 かいがん 陣地 じんち は完全 かんぜん に撃破 げきは されたとアメリカ軍 ぐん は考 かんが えた。旗艦 きかん 「インディアナポリス 」の艦橋 かんきょう から艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき のようすを見 み ていた中部 ちゅうぶ 太平洋艦隊 たいへいようかんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう のカール・ムーア大佐 たいさ は「島 しま に生 い きている人間 にんげん がいるはずはないように思 おも え、作戦 さくせん 全体 ぜんたい が楽勝 らくしょう になりそうに見 み えた」と錯覚 さっかく したという。
その間 あいだ 、掃海 そうかい 艇 てい 2隻 せき と駆逐 くちく 艦 かん 2隻 せき が環礁 かんしょう 内 ない に突入 とつにゅう し、上陸 じょうりく 部隊 ぶたい のために水路 すいろ の安全 あんぜん を確認 かくにん した。しかし、そこで沈黙 ちんもく させたはずの海岸 かいがん 砲 ほう が反撃 はんげき を開始 かいし し、駆逐 くちく 艦 かん 「リングゴールド (英語 えいご 版 ばん ) 」に2発 はつ の命中 めいちゅう 弾 だん を浴 あ びせたが、いずれも不発 ふはつ で致命 ちめい 的 てき な損傷 そんしょう とはならず、逆 ぎゃく に「リングゴールド」の応射 おうしゃ で海岸 かいがん 砲 ほう の弾薬 だんやく 庫 こ が誘爆 ゆうばく して、砲 ほう は沈黙 ちんもく した。掃海 そうかい 艇 てい は水路 すいろ の安全 あんぜん を確保 かくほ すると、沖合 おきあい の輸送 ゆそう 艦 かん に向 む けて合図 あいず の探照灯 たんしょうとう を照 て らした。作戦 さくせん 計画 けいかく は遅 おく れ続 つづ けており、当初 とうしょ の午前 ごぜん 8:00の上陸 じょうりく 開始 かいし から、30分 ふん 延期 えんき されたあと、さらに午前 ごぜん 9:00まで再 さい 延期 えんき された。そして、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき と艦載 かんさい 機 き の空爆 くうばく による援護 えんご の下 もと で、上陸 じょうりく 第 だい 1波 は の50輌 りょう (うち8輌 りょう は乗組 のりくみ 員 いん のみ搭乗 とうじょう )とほぼ同時 どうじ に第 だい 2波 は 24輌 りょう (新型 しんがた LVT2型 がた )と第 だい 3波 は (同 どう 2型 がた )のアムトラックが単 たん 縦陣 じゅうじん で外海 がいかい から環礁 かんしょう に向 む けて進撃 しんげき を開始 かいし した。
上陸 じょうりく 地点 ちてん は西 にし からレッドビーチ1(Red Beach 1)、レッドビーチ2(Red Beach 2)、レッドビーチ3(Red Beach 3)と分 わ けられ、それぞれの海岸 かいがん の幅 はば は約 やく 360mであった。レッドビーチ1には第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい 、レッドビーチ2には同 どう 第 だい 2大隊 だいたい 、レッドビーチ3には第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい がまず上陸 じょうりく し、その後 ご レッドビーチ2には第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい 、レッドビーチ3には第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい が続 つづ いた。そして攻撃 こうげき 指揮 しき 官 かん のデビット・シャウプ (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ はレッドビーチ2に上陸 じょうりく して戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を設 もう ける計画 けいかく であった。
海岸 かいがん に設 もう けられた日本 にっぽん 軍 ぐん のトーチカ
第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい は11月21日 にち 入 はい ってすぐにアメリカ軍 ぐん 艦隊 かんたい がタラワに接近 せっきん していることを察知 さっち し、午前 ごぜん 2:00には起床 きしょう ラッパが鳴 な り響 ひび いた。日 ひ の出 で はまだ先 さき で薄暗 うすぐら くて戦友 せんゆう の顔 かお も見 み えない中 なか 、司令 しれい 部 ぶ より各 かく 陣地 じんち に伝令 でんれい が到着 とうちゃく し「敵艦 てきかん 隊 たい は内 うち 海域 かいいき に潜入 せんにゅう をなし、我 わが 本島 ほんとう に上陸 じょうりく を企図 きと せんとす。我 わが 陸戦 りくせん 隊 たい は直 じか に北 きた 海岸 かいがん の配置 はいち に付 つ き、敵 てき 兵 へい を水際 みずぎわ 殲滅 せんめつ せよ」との命令 めいれい が伝 つた えられた。さらに佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 司令 しれい 官 かん 菅井 すがい 武雄 たけお 中佐 ちゅうさ よりの「九州 きゅうしゅう 男児 だんじ の意気 いき を見 み せるのは此の時 とき だ。各員 かくいん 。粉骨砕身 ふんこつさいしん 、敵 てき に当 あ たって玉砕 ぎょくさい せよ」という訓示 くんじ も伝 つた えられた。午前 ごぜん 2:59には司令 しれい 官 かん の柴崎 しばざき が機密 きみつ 書類 しょるい を焼却 しょうきゃく し、その完了 かんりょう を連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に打電 だでん した。それとほぼ同時 どうじ に軍艦 ぐんかん 旗 き も燃 も やされ、それに加 くわ えて日本 にっぽん 内地 ないち の情報 じょうほう を知 し られないため、各 かく 兵士 へいし が持 も っていた日本 にっぽん 本土 ほんど からの家族 かぞく からの手紙 てがみ も焼却 しょうきゃく された。手元 てもと の整理 せいり が終 お わると各 かく 分隊 ぶんたい 長 ちょう が所属 しょぞく の兵士 へいし を一人 ひとり 一 いち 人 にん 点呼 てんこ して、集合 しゅうごう が確認 かくにん でき次第 しだい 、分隊 ぶんたい 長 ちょう が班 はん 員 いん を引率 いんそつ して各 かく 陣地 じんち に向 む かった。
各 かく 部隊 ぶたい が戦闘 せんとう 配置 はいち に付 つ いた頃 ころ 、アメリカ軍 ぐん により艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき が開始 かいし された。巧 たく みに構築 こうちく されていた陣地 じんち はアメリカ軍 ぐん の執拗 しつよう な艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき にも大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ ることはなかったが、さすがに合計 ごうけい 3,000トンもの砲弾 ほうだん がこの小島 こじま に叩 たた き込 こ まれたので、爆 ばく 煙 けむり が天 てん を覆 おお い、火炎 かえん が全島 ぜんとう を包 つつ んで、島 しま はまるで火山 かざん 島 とう のように火柱 ひばしら を挙 あ げていた。そして艦 かん 砲 ほう の直撃 ちょくげき を受 う けた陣地 じんち の兵士 へいし は吹 ふ き飛 と ばされて即死 そくし するか、即死 そくし を免 まぬか れても爆風 ばくふう で脳 のう と内臓 ないぞう をやられて、ふらふらと彷徨 うろつ い歩 ある いた後 のち に絶命 ぜつめい した。さらに、第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい にとって痛 いた かったのが、各 かく 陣地 じんち を結 むす んでいた電話 でんわ 線 せん が予想 よそう を遥 はる かに超 こ える艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき によってあちこちで寸断 すんだん されており、司令 しれい 部 ぶ との連絡 れんらく が取 と れなくなっていたことと、発電 はつでん 機 き が破壊 はかい されて停電 ていでん となり、各種 かくしゅ 電気 でんき 設備 せつび が使用 しよう 不能 ふのう となったことであった。
そして午前 ごぜん 9:00となりアメリカ軍 ぐん のアムトラックが掃海 そうかい 艇 てい や駆逐 くちく 艦 かん を水先案内 みずさきあんない 人 じん としてタラワ島 とう に接近 せっきん してくると、司令 しれい 官 かん の柴崎 しばざき は連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ に対 たい し、下記 かき のような戦況 せんきょう 報告 ほうこく を打電 だでん した。
敵 てき は水陸 すいりく 両用 りょうよう 戦車 せんしゃ 視界 しかい 内 ない 100隻 せき 以上 いじょう 、礁内の桟橋 さんばし の北岸 ほくがん 一帯 いったい にわたり接岸 せつがん しつつあり。 その後 ご に上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい 200隻 せき 以上 いじょう 見 み ゆ。敵 てき は礁内に軍艦 ぐんかん 又 また は巡洋艦 じゅんようかん 特 とく 型 がた 3隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 又 また は掃海 そうかい 艇 てい 4隻 せき 以上 いじょう 侵入 しんにゅう 、援護 えんご 射撃 しゃげき をなしつつあり。 その他 た の艦艇 かんてい は礁外にあり。上空 じょうくう 、艦上 かんじょう 機 き 水上 すいじょう 機 き を交 まじ え数 すう 十 じゅう 機 き を以って制 せい 空中 くうちゅう 。全 ぜん 軍 ぐん 、決死 けっし 敢闘 かんとう 士気 しき 旺盛 おうせい なり。 — 柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ
上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で海岸 かいがん に近 ちか づくアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい のタラワへの上陸 じょうりく の様子 ようす を描 えが いたトム・ラヴェル (英語 えいご 版 ばん ) の絵画 かいが
第 だい 一 いち 波 は のアムトラックは沖合 おきあい 700mから始 はじ まる珊瑚礁 さんごしょう まで達 たっ すると、水深 すいしん が浅 あさ くなるため着 き 底 てい し、あとはキャタピラ 駆動 くどう により海岸 かいがん を目指 めざ すこととなったが、ほぼ同時 どうじ に日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき が開始 かいし された。アムトラックが海岸 かいがん に近 ちか づくにつれて砲撃 ほうげき の正 せい 確度 かくど は上 あ がっていき、次々 つぎつぎ と日本 にっぽん 軍 ぐん の砲弾 ほうだん がアムトラックに命中 めいちゅう した。たちまちアムトラック群 ぐん は混乱 こんらん し、撃破 げきは されてそのまま停止 ていし するもの、サンゴ礁 さんごしょう や弾痕 だんこん にはまって立 た ち往生 おうじょう するものが続出 ぞくしゅつ した。砲撃 ほうげき で死傷 ししょう しなかったアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はやむなくアムトラックを降 お りて海 うみ に飛 と び込 こ み、装備 そうび を高々 たかだか と持 も ち上 あ げて海水 かいすい に首 くび まで浸 つ かりながら海岸 かいがん を目指 めざ したが、そこを日本 にっぽん 軍 ぐん の機銃 きじゅう が掃射 そうしゃ し、撃 う たれたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が次々 つぎつぎ と海中 かいちゅう に没 ぼっ していった。それでも生 い き残 のこ ったアムトラックは前進 ぜんしん を続 つづ けて海岸 かいがん 200mにまで達 たっ したが、そこにはコンクリート製 せい の対戦 たいせん 車 しゃ 防塞 ぼうさい や水中 すいちゅう 鉄条 てつじょう 網 もう が敷設 ふせつ してあり、アムトラック群 ぐん は立 た ち往生 おうじょう させられた。実 じつ はこの線 せん が日本 にっぽん 軍 ぐん の想定 そうてい していた防衛 ぼうえい 線 せん であり、タラワからの砲撃 ほうげき や銃撃 じゅうげき がさらに激 はげ しくなり、アムトラックは撃破 げきは され、アムトラックから降車 こうしゃ したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は機銃 きじゅう 弾 だん や小銃 しょうじゅう 弾 だん で次々 つぎつぎ となぎ倒 たお された。
サンゴ礁 さんごしょう はアメリカ軍 ぐん にとって不幸 ふこう なことに、その固 かた さで日本 にっぽん 軍 ぐん の銃弾 じゅうだん を跳 とべ 弾 だん させたため、一旦 いったん は外 はず れたはずの銃弾 じゅうだん が跳 は ね返 かえ って、装甲 そうこう が薄 うす かったアムトラックの底 そこ を貫通 かんつう して操縦 そうじゅう 員 いん に命中 めいちゅう することがあった。そこで戦死 せんし した操縦 そうじゅう 員 いん を押 お しのけて他 た の乗組 のりくみ 員 いん が操縦 そうじゅう を変 か わろうとしたが、その乗組 のりくみ 員 いん にも銃弾 じゅうだん が命中 めいちゅう した。乗車 じょうしゃ していたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん にも日本 にっぽん 軍 ぐん の射撃 しゃげき が次々 つぎつぎ と命中 めいちゅう し、アムトラックの内部 ないぶ は血 ち で赤 あか く染 そ まり、次々 つぎつぎ と遺体 いたい が折 お り重 かさ なっていった。あるアムトラックでは乗車 じょうしゃ していた乗組 のりくみ 員 いん とアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん 25名 めい のうち13名 めい までが戦死 せんし し、生 い き残 のこ った12名 めい は海 うみ に飛 と び込 こ んだが、そこを日本 にっぽん 軍 ぐん に狙 ねら い撃 う たれて、生 い き残 のこ ったのはわずか5名 めい であった。
前進 ぜんしん するアムトラック隊 たい を悩 なや ましていたのが、海岸 かいがん から長 なが さ750mに渡 わた ってサンゴ礁 さんごしょう に延 の びていた日本 にっぽん 軍 ぐん の木製 もくせい 桟橋 さんばし であった。日本 にっぽん 軍 ぐん は桟橋 さんばし 上 じょう に設 もう けられた掘 ほ 立 たて 小屋 こや の機関 きかん 銃座 じゅうざ から、海岸 かいがん に向 む かうアムトラックを側面 そくめん から銃撃 じゅうげき していた。そこで、「海兵 かいへい 隊 たい でもっとも勇敢 ゆうかん な男 おとこ 」の異名 いみょう を持 も ち、ガダルカナルでも活躍 かつやく したウィリアム・ホーキンス (英語 えいご 版 ばん ) 中尉 ちゅうい が、自分 じぶん が率 ひき いる斥候 せっこう 狙撃 そげき 小隊 しょうたい の下士官 かしかん と4人 にん のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を引 ひ き連 つ れて、桟橋 さんばし に上陸 じょうりく した。日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい はホーキンスらに銃撃 じゅうげき を集中 しゅうちゅう したが、ホーキンスは躊躇 ちゅうちょ することなく先頭 せんとう に立 た って日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち に向 む けて突撃 とつげき すると、部下 ぶか も臆 おく することなく続 つづ き、装備 そうび していた火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き や爆薬 ばくやく で、日本 にっぽん 軍 ぐん の掘 ほ 立 たて 小屋 こや の機関 きかん 銃座 じゅうざ を次々 つぎつぎ と破壊 はかい して、桟橋 さんばし 上 じょう の日本 にっぽん 軍 ぐん を一掃 いっそう し、後続 こうぞく のアムトラックの進撃 しんげき を援護 えんご した。ホーキンスはその後 ご にタラワ島 とう に一番乗 いちばんの りで上陸 じょうりく し、常 つね に指揮 しき 官 かん 先頭 せんとう で戦 たたか い続 つづ け、日本 にっぽん 軍 ぐん のトーチカを何 なん 個 こ も撃破 げきは した[ 89] 。
サンゴ礁 さんごしょう で散々 さんざん 叩 たた かれたアムトラック隊 たい であったが、大 だい 損害 そんがい を被 こうむ りながらもどうにか海岸 かいがん まで達 たっ し、搭乗 とうじょう していたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は次々 つぎつぎ と降車 こうしゃ した。しかし、砂浜 すなはま はサンゴ礁 さんごしょう より遥 はる かに危険 きけん な場所 ばしょ で、日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき や銃撃 じゅうげき はさらに激 はげ しさを増 ま した。その状況 じょうきょう をあるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は「その衝撃 しょうげき ときたら、ジョー・ルイス の大 おお きな拳骨 げんこつ を顔 かお の真 ま ん中 なか に食 く らったようなもんだった」と評 ひょう している。勇敢 ゆうかん なアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の海兵 かいへい 隊員 たいいん をしても、あまりに激 はげ しい日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう の前 まえ に、あたかも巣 す に到着 とうちゃく したアヒルのように身動 みうご きがとれなかった。そして、レッドビーチ2に上陸 じょうりく を目指 めざ していた第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい 長 ちょう のハーバード・アメイ中佐 ちゅうさ は、搭乗 とうじょう していたアムトラックが日本 にっぽん 軍 ぐん の設置 せっち した海中 かいちゅう 鉄条 てつじょう 網 もう に引 ひ っかかって立 た ち往生 おうじょう したので、やむなく司令 しれい 部 ぶ 要員 よういん の15人 にん の将校 しょうこう と下士官 かしかん を連 つ れて海上 かいじょう に降 お りたところを日本 にっぽん 軍 ぐん の機関 きかん 銃 じゅう に狙 ねら い撃 う たれて、4人 にん の将校 しょうこう と共 とも に戦死 せんし してしまった。
アムトラックで出撃 しゅつげき した第 だい 3波 は までは、大 だい 損害 そんがい を受 う けた上 うえ で海岸 かいがん にくぎ付 づ けとなっていた。アメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん は予備 よび 用 よう にとってある25輌 りょう を残 のこ して全部 ぜんぶ のアムトラックを既 すで に投入 とうにゅう してしまったため、主 おも に重 じゅう 装備 そうび を揚陸 ようりく する第 だい 4波 は 以降 いこう は上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で海岸 かいがん を目指 めざ した。その中 なか には戦闘 せんとう 指揮 しき 官 かん のデビット・シャウプ (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ も搭乗 とうじょう していたが、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を上陸 じょうりく させたのちに引 ひ き返 かえ す予定 よてい であったアムトラックの姿 すがた はほとんどなく、代 か わりに海中 かいちゅう に沈 しず むアムトラックやアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい を多数 たすう 目 め にすることとなった。そこに第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい 長 ちょう のジョン・シャッテル中佐 ちゅうさ よりレッドビーチ1の戦況 せんきょう 報告 ほうこく が入 はい った。「部隊 ぶたい はレッドビーチ1の右翼 うよく にあるサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう にて、前進 ぜんしん をはばまる。海中 かいちゅう にて猛 もう 射 しゃ をうけつつあり」とのシャッテルの報告 ほうこく に対 たい し、シャウプは「レッドビーチ2に上陸 じょうりく し、西 にし に向 む かって進撃 しんげき するよう努力 どりょく すべし」と発破 はっぱ をかけたが、シャッテルからは「我々 われわれ には上陸 じょうりく すべき兵力 へいりょく は1兵 へい もなし」とする切実 せつじつ な返答 へんとう が帰 かえ ってきて、結局 けっきょく 、その後 ご 数 すう 時 じ 間 あいだ に渡 わた って第 だい 3大隊 だいたい はサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう から身動 みうご きが取 と れなかった。
シャウプはそのまま海岸 かいがん を目指 めざ したが、途中 とちゅう でレッドビーチ2から負傷 ふしょう 兵 へい を満載 まんさい して引 ひ き返 かえ してきたアムトラックを大声 おおごえ で呼 よ び寄 よ せて、自分 じぶん が乗 の っていた上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に負傷 ふしょう 兵 へい を乗 の り移 うつ らせて病院 びょういん 船 せん に向 む かうよう指示 しじ すると、自分 じぶん は連隊 れんたい 本部 ほんぶ 要員 よういん とともにアムトラックに乗 の ってレッドビーチ3を目指 めざ した。しかし、レッドビーチ3は日本 にっぽん 軍 ぐん の砲火 ほうか が激 はげ しく接近 せっきん が困難 こんなん だったので、やむなくレッドビーチ2に方向 ほうこう 転換 てんかん させたが、レッドビーチ2の日本 にっぽん 軍 ぐん 砲火 ほうか も激 はげ しく、砲弾 ほうだん や銃弾 じゅうだん の破片 はへん がアムトラックに降 ふ り注 そそ ぎ、たちまちアムトラックは穴 あな だらけとなってしまった。さらにその破片 はへん でシャウプ自身 じしん も両足 りょうあし を負傷 ふしょう したが、どうにか歩行 ほこう はできたので、そのまま前線 ぜんせん に留 と まることを決 き め、やがて海岸 かいがん に接地 せっち したアムトラックからよろめく様 よう にして上陸 じょうりく することができた。
シャウプはどうにか上陸 じょうりく できたが、他 た の上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で海岸 かいがん を目指 めざ していたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は散々 さんざん な目 め にあっていた。サンゴ礁 さんごしょう の水深 すいしん は60cmから90cmしかないのだが、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい は最低 さいてい でも1.2mの水深 すいしん がないと動 うご くことができず、サンゴ礁 さんごしょう 上 じょう で上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい を降 お ろされて徒歩 とほ での上陸 じょうりく を余儀 よぎ なくされた。しかし、サンゴ礁 さんごしょう 上 じょう には水深 すいしん が深 ふか くなっている所 ところ もあり、そこにはまったアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は重 おも い装備 そうび を持 も っていたためそのまま溺死 できし してしまった。また深 ふか みにはまらなくとも、日本 にっぽん 軍 ぐん の機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ によって次々 つぎつぎ となぎ倒 たお された
。その後 ご も次々 つぎつぎ と上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい が押 お し寄 よ せて、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう に降 お りるため意 い を決 けっ して舟艇 しゅうてい の前部 ぜんぶ に行 い ったが、そこから見 み える海面 かいめん はアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の血 ち によって赤 あか ではなく紫色 むらさきいろ にそまっていたという。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は肩 かた まで海水 かいすい に浸 つ かりながらも、ようやく飛来 ひらい した艦載 かんさい 戦闘 せんとう 機 き による航空 こうくう 支援 しえん を受 う けながら、徒歩 とほ で海岸 かいがん を目指 めざ していった。そしてどうにか海岸 かいがん にたどり着 つ いた者 もの は、奥行 おくゆ き60m程度 ていど しかない砂浜 すなはま の陸地 りくち 側 がわ にある、高 たか さ1.2mの日本 にっぽん 軍 ぐん が構築 こうちく した防壁 ぼうへき の側 がわ に身 み を潜 ひそ めた[ 95] 。
レッドビーチ3付近 ふきん の防波堤 ぼうはてい で日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき を避 さ けるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん 。
アメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく ビーチのもっとも東側 ひがしがわ はレッドビーチ3であったが、ここを防衛 ぼうえい していたのは柴崎 しばざき 直轄 ちょっかつ の第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい の主力 しゅりょく であり、合計 ごうけい 450人 にん が守 まも りについていた。しかし、最 さい 重要 じゅうよう 地点 ちてん とアメリカ軍 ぐん から上陸 じょうりく 前 まえ に入念 にゅうねん に砲 ほう 爆撃 ばくげき されて20%の兵員 へいいん を失 うしな っていたため、第 だい 1波 は のアムトラック部隊 ぶたい は他 た のビーチと比較 ひかく すると少 すく ない損害 そんがい で上陸 じょうりく することができた。無傷 むきず でビーチに達 たっ した17輌 りょう のアムトラックから約 やく 500人 にん の第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) 第 だい 2大隊 だいたい のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が飛 と び出 だ し、そのまま砲 ほう 爆 ばく 撃 げき で破壊 はかい された防潮 ぼうちょう 堤 つつみ の隙間 すきま からビーチを100m近 ちか く駆 か け上 あ がっていったが、そこで、砲 ほう 爆 ばく 撃 げき から立 た ち直 なお った第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい 主力 しゅりょく の激烈 げきれつ な反撃 はんげき が開始 かいし され、日本 にっぽん 軍 ぐん の十字砲火 じゅうじほうか を浴 あ びたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はじりじりと後退 こうたい していった。また、飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん に設置 せっち されていた四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 八 はち 九 きゅう 式 しき 十 じゅう 二 に 糎 せんちめーとる 七 なな 高角 こうかく 砲 ほう が正確 せいかく な砲撃 ほうげき でアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん に多大 ただい な出血 しゅっけつ を強 し いた。第 だい 2波 は 以降 いこう のアムトラックは次々 つぎつぎ と四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 八 はち 九 きゅう 式 しき 十 じゅう 二 に 糎 せんちめーとる 七 なな 高角 こうかく 砲弾 ほうだん の直撃 ちょくげき を浴 あ びて、たちまち20輌 りょう 以上 いじょう のアムトラックはサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう で残骸 ざんがい を晒 さら すか、擱座 かくざ して移動 いどう 不能 ふのう となった。
指揮 しき 官 かん のシャウプが上陸 じょうりく したレッドビーチ2の状況 じょうきょう はさらに厳 いかめ しかった。どうにか上陸 じょうりく はしたものの、内陸 ないりく に進 すす むことはまったくできず、シャウプが最初 さいしょ に戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を設置 せっち できたのは、日本 にっぽん 軍 ぐん が設置 せっち していた桟橋 さんばし の下 もと であり、シャウプは足首 あしくび まで海水 かいすい に浸 つ かりながら戦闘 せんとう 指揮 しき をとった。部下 ぶか のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちは、日本 にっぽん 軍 ぐん の激 はげ しい銃撃 じゅうげき の前 まえ に前進 ぜんしん することができず、日本 にっぽん 軍 ぐん が構築 こうちく した丸太 まるた 組 ぐ みの防壁 ぼうへき に身 み を隠 かく していた。そしてその目 め と鼻 はな の先 さき にある丸太 まるた 組 ぐ みのトーチカ内 ない には日本 にっぽん 兵 へい がおり、さかんに射撃 しゃげき を行 おこな っていた。この苦境 くきょう を打開 だかい すべくシャウプは師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ まで何 なん 度 ど も通信 つうしん を試 こころ みていたが、激戦 げきせん の中 なか で全 すべ ての無線 むせん 機 き が海水 かいすい に浸 つ かって不調 ふちょう となっており、沖合 おきあい の艦船 かんせん 上 じょう で戦況 せんきょう を固唾 かたず をのんで見守 みまも っている師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスには正確 せいかく な戦況 せんきょう が伝 つた わっていなかった。それでもどうにか、輸送 ゆそう 艦上 かんじょう で待機 たいき していた予備 よび 部隊 ぶたい の海兵 かいへい 第 だい 8連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい に連絡 れんらく が付 つ くと、すぐに日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき が比較的 ひかくてき 少 すく ない桟橋 さんばし の東側 ひがしがわ に急行 きゅうこう するよう指示 しじ し、つぎに戦艦 せんかん 「メリーランド」と連絡 れんらく をとって「そちらでお見舞 みま いできる全 すべ てのもの」を撃 う ち込 こ むように要請 ようせい した。この段階 だんかい で支援 しえん 艦隊 かんたい は前線 ぜんせん がどこなのか把握 はあく できていなかったので「メリーランド」の通信員 つうしんいん は誤 あやま 射 しゃ を懸念 けねん して「そちらの前線 ぜんせん はどこだ?」と質問 しつもん してきたが、シャウプの幕僚 ばくりょう は「前線 ぜんせん は海岸 かいがん 線 せん だ」と返答 へんとう した。全 すべ てを察 さっ した「メリーランド」の通信員 つうしんいん は「了解 りょうかい 」とだけ返答 へんとう してきたが、この後 のち 、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の精度 せいど は上 あ がり、日本 にっぽん 軍 ぐん に大 だい 打撃 だげき を与 あた えることになった。
タラワに上陸 じょうりく したM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ 、日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき が何 なん 発 はつ か命中 めいちゅう したが撃破 げきは を免 まぬか れた。
アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん がなかなか内陸 ないりく に前進 ぜんしん できないなかで、レッドビーチ3においては上陸 じょうりく に成功 せいこう した新鋭 しんえい M4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が、苦戦 くせん する第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい の支援 しえん を行 おこな った。ほぼ同時 どうじ に進攻 しんこう したマキン島 とう の陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい (第 だい 27歩兵 ほへい 師団 しだん 第 だい 165歩兵 ほへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) が主力 しゅりょく )にはM3中 ちゅう 戦車 せんしゃ とM3軽 けい 戦車 せんしゃ しか配備 はいび されておらず[ 98] 、新鋭 しんえい のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ を海兵 かいへい 隊 たい に優先 ゆうせん して配備 はいび していたものであった。海兵 かいへい 水陸 すいりく 両用 りょうよう 部隊 ぶたい 第 だい 1戦車 せんしゃ 大隊 だいたい 、C中隊 ちゅうたい の8輌 りょう のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ のうち、1個 いっこ 小隊 しょうたい 3輌 りょう はレッドビーチ2への支援 しえん に回 まわ り、残 のこ る5輌 りょう が第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい の支援 しえん を開始 かいし したが、まずは1輌 りょう が海水 かいすい で隠 かく れていた海中 かいちゅう の窪 くぼ みに沈 しず んでそのまま放棄 ほうき された。残 のこ る4輌 りょう はその強力 きょうりょく な75mm戦車 せんしゃ 砲 ほう M3 で日本 にっぽん 軍 ぐん の陣地 じんち を次々 つぎつぎ と撃破 げきは したが、日本 にっぽん 軍 ぐん の反 はん 撃 げき も凄 すさ まじく2輌 りょう がたちまち集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか で炎上 えんじょう し、さらに1輌 りょう が友軍 ゆうぐん 艦載 かんさい 機 き の誤爆 ごばく で撃破 げきは されてしまった。残 のこ った1輌 りょう だけが、その後 ご も日本 にっぽん 軍 ぐん の砲弾 ほうだん が何 なん 発 はつ も命中 めいちゅう しながらも撃破 げきは を逃 のが れて、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちを砲撃 ほうげき で支援 しえん し続 つづ けた[ 99] 。
レッドビーチ2への支援 しえん に回 まわ ったM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ も散々 さんざん な目 め にあっていた。海岸 かいがん 線 せん で釘付 くぎづ けとなっていた海兵 かいへい 隊員 たいいん はM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が近 ちか づいてきたのを見 み つけると、喜 よろこ ぶどころか手 て を振 ふ ってこちらには来 く るなと合図 あいず を送 おく った。それに気 き が付 つ かない3輌 りょう のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ は日本 にっぽん 軍 ぐん の集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか の中 なか に飛 と び込 こ んでしまい、そのうちの1輌 りょう は地雷 じらい を踏 ふ んで擱座 かくざ した後 のち 集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか を浴 あ びせられ、もう1輌 りょう は集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか をかわそうと方向 ほうこう 転換 てんかん した際 さい に大 おお きな弾痕 だんこん に転 ころ げ落 お ち、いずれのM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ もそのまま放棄 ほうき された。わずかに残 のこ った1輌 りょう のみがやみくもな前進 ぜんしん を止 と めて戦車 せんしゃ 砲 ほう を撃 う ちまくりいくつかの日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち の撃破 げきは に成功 せいこう した[ 100] 。このように大 だい 損害 そんがい を被 こうむ ったM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ 隊 たい であったが、その後 ご も続々 ぞくぞく と揚陸 ようりく されると、この戦 たたか いの流 なが れを大 おお きく変 か えた要因 よういん の一 ひと つとなった。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ の後 うし ろに隠 かく れながら前進 ぜんしん し、戦車 せんしゃ と連携 れんけい して日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち を一 ひと つずつ撃破 げきは していった。例 たと え隠 かく れていたM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が撃破 げきは されても、その残骸 ざんがい もそのまま遮蔽 しゃへい 物 ぶつ として利用 りよう できた。ある将校 しょうこう は「戦車 せんしゃ と火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き と小銃 しょうじゅう 兵 へい の組 く み合 あ わせは、最小限 さいしょうげん の損害 そんがい で敵 てき を撃破 げきは するのに効果 こうか 的 てき であった」と報告 ほうこく している。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は戦車 せんしゃ の後 うし ろに隠 かく れて日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち まで近 ちか づくと、大量 たいりょう のTNT火薬 かやく を銃眼 じゅうがん からトーチカ内 ない に投 な げ込 こ んで吹 ふ き飛 と ばしてしまうか、火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で中 なか にいる日本 にっぽん 兵 へい ごと炎上 えんじょう させた。こうしてアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん は少 すこ しづつではあるが、着実 ちゃくじつ に内陸 ないりく 部 ぶ に前進 ぜんしん して行 い った。
レッドビーチ1沖 おき で日本 にっぽん 軍 ぐん の50口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 14cm砲 ほう に撃沈 げきちん された戦車 せんしゃ 揚陸 ようりく 艇 てい
アメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 地点 ちてん のなかでもっとも日本 にっぽん 軍 ぐん が善戦 ぜんせん していたのが、もっとも西側 にしがわ のレッドビーチ1であった。レッドビーチ1の守備 しゅび 隊 たい は闘将 とうしょう 谷口 たにぐち 為 ため 吉 きち 中尉 ちゅうい 率 ひき いる佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 第 だい 2中隊 ちゅうたい を主力 しゅりょく とする部隊 ぶたい で、兵力 へいりょく は250人 にん と他 た のビーチと比較 ひかく すると少 すく なかったが、九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ 3輌 りょう に加 くわ えて、その担当 たんとう 地区 ちく に50口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 14cm砲 ほう 2門 もん に加 くわ えて、八 はち 八 はち 式 しき 七 なな 糎 せんちめーとる 野戦 やせん 高射 こうしゃ 砲 ほう 4門 もん 、四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 八 はち 糎 せんちめーとる 高角 こうかく 砲 ほう 3門 もん に加 くわ えて高射 こうしゃ 機関 きかん 砲 ほう とその砲兵 ほうへい 200人 にん も守備 しゅび についており、火力 かりょく 的 てき には他 た のビーチに引 ひ けは取 と らなかった。50口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 14cm砲 ほう はアメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく 前 まえ から輸送 ゆそう 艦隊 かんたい に砲撃 ほうげき を続 つづ け、命中 めいちゅう 弾 だん こそなかったが、沖合 おきあい に退避 たいひ させることに成功 せいこう し、そのおかげでアメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 開始 かいし 時間 じかん が30分 ふん 遅 おく れることとなった。また上陸 じょうりく が開始 かいし されると、アムトラックに搭乗 とうじょう してサンゴ礁 さんごしょう を進 すす む第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい に集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか を浴 あ びせて大 だい 損害 そんがい を被 かぶ らせて、サンゴ礁 さんごしょう 上 じょう に立 た ち往生 おうじょう させた。ここでも50口径 こうけい 三 さん 年 ねん 式 しき 14cm砲 ほう は威力 いりょく を発揮 はっき し、第 だい 2戦車 せんしゃ 大隊 だいたい 軽 けい 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい のM3軽 けい 戦車 せんしゃ 2個 こ 小隊 しょうたい を輸送 ゆそう していた戦車 せんしゃ 揚陸 ようりく 艇 てい を撃沈 げきちん して、軽 けい 戦車 せんしゃ 2個 こ 小隊 しょうたい を全滅 ぜんめつ させた。このときに、上述 じょうじゅつ の通 とお り大隊 だいたい 長 ちょう のシャッテルが指揮 しき 官 かん のシャウプから叱責 しっせき されている。それでもシャッテルはレッドビーチ1に上陸 じょうりく することは出来 でき ず、その様子 ようす を見 み かねた師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスが自 みずか ら「いかなる犠牲 ぎせい をはらうとも上陸 じょうりく し、貴 き 大隊 だいたい の統制 とうせい を回復 かいふく して攻撃 こうげき を続行 ぞっこう すべし」と叱咤 しった している。
その後 ご も谷口 たにぐち はレッドビーチ1へのアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の上陸 じょうりく を許 ゆる さず、水際 みずぎわ にはおびただしい数 かず のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の戦死 せんし 体 たい と負傷 ふしょう 兵 へい があふれていたが、レッドビーチ1への上陸 じょうりく を目指 めざ していたマイクル・P・ライアン少佐 しょうさ 率 ひき いる第 だい 2波 は は、シャッテルの苦戦 くせん を見 み ると、レッドビーチ1への上陸 じょうりく を諦 あきら めて、日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき の射程 しゃてい 外 がい を大 おお きく遠回 とおまわ りしてから、日本 にっぽん 軍 ぐん の守備 しゅび が薄 うす い西海岸 にしかいがん (グリーンビーチ)に上陸 じょうりく して橋 はし 頭 あたま 保 ほ を構築 こうちく した。午後 ごご 12:00にはM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ 6両 りょう もレッドビーチを避 さ けてグリーンビーチに上陸 じょうりく を目指 めざ したが、うち4輌 りょう がサンゴ礁 さんごしょう の深 ふか みにはまって海 うみ 没 ぼっ し、2輌 りょう のみが上陸 じょうりく に成功 せいこう した。その後 ご 、M4中 ちゅう 戦車 せんしゃ を従 したが えてアメリカ海兵 かいへい 隊 たい がレッドビーチ1に陸路 りくろ で進撃 しんげき していったが、その頃 ころ には日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は戦線 せんせん を集約 しゅうやく するために撤退 てったい 済 ず みであった。しかし、グリーンビーチはコンクリートと鋼鉄 こうてつ で固 かた められた四 よん 十 じゅう 口径 こうけい 八 はち 九 きゅう 式 しき 十 じゅう 二 に 糎 せんちめーとる 七 なな 高角 こうかく 砲 ほう の砲台 ほうだい に加 くわ え、レッドビーチと比 くら べると少 すく ないとはいえ、小 しょう 口径 こうけい 砲 ほう と機関 きかん 銃座 じゅうざ も健在 けんざい であり、ライアンは、自分 じぶん が率 ひき いていた第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい の一部 いちぶ と、その他 た 原隊 げんたい とはぐれた部隊 ぶたい を統合 とうごう しして編成 へんせい した臨時 りんじ 混成 こんせい 大隊 だいたい をもって、タラワ北西 ほくせい 端 はし の小 ちい さな岬 みさき を橋 はし 頭 あたま 保 ほ として確保 かくほ するのが精 せい いっぱいであった。そして最後 さいご までレッドビーチ1に上陸 じょうりく できなかったシャッテル率 ひき いる第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい 主力 しゅりょく は、この日 ひ の夕方 ゆうがた にレッドビーチ2にようやく上陸 じょうりく した。
コンクリート製 せい の日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ
戦車 せんしゃ が活躍 かつやく するようになった午後 ごご になってから、明 あき らかに戦局 せんきょく は変 か わりつつあった。シャウプの誘導 ゆうどう もあって、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の正 せい 確度 かくど はあがり、また敵 てき 味方 みかた が入 い り乱 みだ れている最前線 さいぜんせん においても、艦載 かんさい 機 き が上空 じょうくう に張 は り付 つ いて、日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち に精密 せいみつ な銃 じゅう 爆 ばく 撃 げき を加 くわ えていた。レッドビーチ2で戦 たたか い続 つづ けていた太田 おおた 清 きよし 2等 とう 整備 せいび 兵曹 へいそう の部隊 ぶたい は、午前 ごぜん 中 ちゅう の激戦 げきせん とその後 ご の艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき と空襲 くうしゅう で既 すで に部隊 ぶたい の半数 はんすう が死傷 ししょう していた。それでも意気盛 いきさか んに戦 たたか い続 つづ け、陣地 じんち に数 すう 名 めい のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が接近 せっきん してくると、部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん は軍刀 ぐんとう を抜刀 ばっとう して突撃 とつげき 、兵士 へいし は銃剣 じゅうけん 突撃 とつげき でそれに続 つづ いた。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は不意 ふい をつかれて一目散 いちもくさん に逃 に げ出 だ すが、軍刀 ぐんとう を抜刀 ばっとう した指揮 しき 官 かん はそれを追 お ってたちまち2~3人 にん を斬 き って捨 す てて、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい を撃退 げきたい した。その突撃 とつげき に懲 こ りたのか戦闘 せんとう はしばらく小康 しょうこう 状態 じょうたい となった[ 107] 。
海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい としては重 じゅう 装備 そうび となる九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ も、戦車 せんしゃ 壕 ごう のなかで激 はげ しい砲 ほう 爆 ばく 撃 げき を耐 た え切 き っていた。やがて、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい がアムトラックに乗 の ってタラワを目指 めざ してくると、戦車 せんしゃ 隊 たい にも攻撃 こうげき 命令 めいれい が出 で た。大貫 おおぬき 唯男 ただお 海軍 かいぐん 上等 じょうとう 兵曹 へいそう が搭乗 とうじょう している九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ にも攻撃 こうげき の命令 めいれい が下 くだ され、砲手 ほうしゅ であった大貫 おおぬき は砲身 ほうしん が焼 や け付 つ くほどに九 きゅう 四 よん 式 しき 三 さん 十 じゅう 七 なな 粍 みりめーとる 戦車 せんしゃ 砲 ほう を撃 う ちまくり、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい を撃破 げきは し、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を海 うみ に沈 しず めた、しかし、海岸 かいがん に押 お し寄 よ せるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は後 ご を絶 た つことはなく、その物量 ぶつりょう に脅威 きょうい を覚 おぼ えた。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が海岸 かいがん に上陸 じょうりく してくると、大貫 おおぬき の九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ は戦車 せんしゃ 壕 ごう を飛 と びだして、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が海岸 かいがん に構築 こうちく しつつあった前線 ぜんせん 陣地 じんち に突撃 とつげき していった。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を蹴 け 散 ち らしながら進撃 しんげき したが、やがてエンジンが動 うご かなくなり、敵陣 てきじん の真 ま ん中 なか で立 た ち往生 おうじょう してしまった。たちまち周 まわ りをアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が取 と り囲 かこ み万事休 ばんじきゅう すと覚悟 かくご したとき、エンジンが始動 しどう し大貫 おおぬき はアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を蹂躙 じゅうりん しながら死地 しち を脱 だっ することができた。
司令 しれい 官 かん の柴崎 しばざき は、激 はげ しい艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき により寸断 すんだん された電話 でんわ 網 もう を補 おぎな うために、各 かく 部隊 ぶたい に伝令 でんれい を出 だ して戦闘 せんとう 指揮 しき を続 つづ けていたが、戦局 せんきょく は悪化 あっか の一途 いっと をたどっており、午後 ごご 13:30に以下 いか のような戦況 せんきょう 報告 ほうこく を連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ に打電 だでん した[ 110] 。
敵 てき は、飛行機 ひこうき 及 およ び、艦艇 かんてい の砲 ほう 爆 ばく 撃 げき の支援 しえん 下 か に輸送 ゆそう 船 せん を逐次 ちくじ 、入 にゅう 泊 はく せしめ、人員 じんいん 資材 しざい を引 ひ き続 つづ き揚陸 ようりく 。桟橋 さんばし に通 つう ずる南北 なんぼく 線 せん で彼我 ひが 対峙 たいじ 中 ちゅう 。 — 柴崎 しばざき 恵 めぐみ 次 じ
しかし、これが柴崎 しばざき からの最後 さいご の打電 だでん となった。日本 にっぽん 軍 ぐん の死傷 ししょう 者 しゃ は急増 きゅうぞう しており、温情 おんじょう 深 ふか く、常 つね に部下 ぶか 将兵 しょうへい の身 み を案 あん じていた柴崎 しばざき は、死傷 ししょう 者 しゃ の身 み を護 まも るために、強固 きょうこ なセメント造 づく りの戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を野戦 やせん 病院 びょういん に譲 ゆず り渡 わた して、自 みずか らは参謀 さんぼう や司令 しれい 部 ぶ 要員 よういん を連 つ れて外海 がいかい 側 がわ の防空壕 ぼうくうごう に移 うつ ることとした[ 34] 。そこで、燃料 ねんりょう が尽 つ きて戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ 近 ちか くで行動 こうどう 不能 ふのう となり、砲台 ほうだい 替 が わりとなっていた大貫 おおぬき の九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ に柴崎 しばざき らの移動 いどう 支援 しえん が命 めい じられた。大貫 おおぬき は動 うご かない戦車 せんしゃ のなかから九 きゅう 四 よん 式 しき 三 さん 十 じゅう 七 なな 粍 みりめーとる 戦車 せんしゃ 砲 ほう を撃 う ちまくって、無事 ぶじ に柴崎 しばざき らは防空壕 ぼうくうごう への移動 いどう ができた。
ここで、アメリカ軍 ぐん にとっては僥倖 ぎょうこう 、日本 にっぽん 軍 ぐん にとっては不幸 ふこう なことが起 お こる。午後 ごご 14:00ごろに、アメリカ軍 ぐん の駆逐 くちく 艦 かん が放 はな った1弾 だん がまぐれ当 あ たりで柴崎 しばざき がいた防空壕 ぼうくうごう に着弾 ちゃくだん し、柴崎 しばざき 以下 いか 司令 しれい 部 ぶ 幕僚 ばくりょう が全 すべ て戦死 せんし してしまった[ 112] 。このときに唯一 ゆいいつ 生 い き残 のこ った司令 しれい 部 ぶ 伝令 でんれい の音 おと 里 さと 一等 いっとう 水兵 すいへい によれば、防空壕 ぼうくうごう には4つもの大 おお きな弾痕 だんこん が残 のこ されていただけで、柴崎 しばざき 以下 いか 司令 しれい 部 ぶ 要員 よういん は吹 ふ き飛 と ばされて遺体 いたい すら残 のこ っていなかったという[ 113] 。このとき、大貫 おおぬき の九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ も艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき で撃破 げきは されている。大貫 おおぬき は戦車 せんしゃ から降車 こうしゃ していて無事 ぶじ であったが、他 た の戦車 せんしゃ 兵 へい 2人 にん は戦車 せんしゃ ごと吹 ふ き飛 と ばされてしまった。柴崎 しばざき の戦死 せんし によって、日本 にっぽん 軍 ぐん はこの後 のち 、統制 とうせい のとれた作戦 さくせん 行動 こうどう ができなくなり、結果 けっか 的 てき に多 おお くのアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の命 いのち を救 すく うことになった[ 115] 。
沖合 おきあい の「メリーランド」艦上 かんじょう では、ジュリアン・スミスやヒルといった上陸 じょうりく 作戦 さくせん の司令 しれい 官 かん たちが、あてにならない無線 むせん 網 もう で送 おく られてくる断片 だんぺん 的 てき な戦況 せんきょう 報告 ほうこく にいら立 だ ちを募 つの らせていた。そこで、あてにならない戦況 せんきょう 報告 ほうこく より、直接 ちょくせつ 確認 かくにん しようということになり、「メリーランド」に搭載 とうさい されていたOS2U キングフィッシャー 水上 すいじょう 機 き に参謀 さんぼう を乗 の せてタラワ上空 じょうくう から戦況 せんきょう を報告 ほうこく させた。ジュリアン・スミスはシャウプからの要請 ようせい もあって、既 すで に師団 しだん 内 ない の予備 よび 戦力 せんりょく は全 すべ て投入 とうにゅう することとしていたが、それでも戦況 せんきょう は厳 いかめ しかったので、作戦 さくせん 前 まえ に軍 ぐん 予備 よび 戦力 せんりょく として取 と り上 あ げられていた第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい のタラワへの投入 とうにゅう をホーランド・スミスに要請 ようせい することとし「レッド2及 およ びレッド3ビーチに上陸 じょうりく 成功 せいこう 、レッド1は足掛 あしが かり。師団 しだん 予備 よび から1個 いっこ 上陸 じょうりく チームを投入 とうにゅう 予定 よてい 。依然 いぜん 頑強 がんきょう な抵抗 ていこう に遭遇 そうぐう 中 ちゅう 」「海兵 かいへい 隊 たい は大 だい 損害 そんがい を被 こうむ っており、状況 じょうきょう は不確 ふたし かなり」と打電 だでん した。そこ頃 ごろ ホーランド・スミスはマキンの戦 たたか い の作戦 さくせん 指揮 しき のため、マキン沿岸 えんがん にいたが、比較的 ひかくてき 順調 じゅんちょう なマキンと比較 ひかく すると、タラワは大量 たいりょう 殺戮 さつりく になりつつあることを認識 にんしき して、軍 ぐん 予備 よび 戦力 せんりょく の第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい のタラワ投入 とうにゅう を決定 けってい した。
タラワに上陸 じょうりく したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の軍用 ぐんよう ブルドーザー
柴崎 しばざき は戦死 せんし して司令 しれい 部 ぶ もなくなったが、日本 にっぽん 軍 ぐん はそれにもかかわらず驚異 きょうい 的 てき な戦意 せんい で戦 たたか い続 つづ けた。アメリカ軍 ぐん は引 ひ き続 つづ き火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き や爆薬 ばくやく で対抗 たいこう し、1つ1つの陣地 じんち を虱潰 しらみつぶ しにしていったが、日本 にっぽん 軍 ぐん はそれを阻止 そし するため、陣地 じんち から飛 と びだして椰子 やし の木 き の陰 かげ に隠 かく れながら、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を狙撃 そげき した。上陸 じょうりく 前 まえ に大 だい 隊長 たいちょう が戦死 せんし した第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい は甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ りながらもレッドビーチ2から内陸 ないりく に向 む けて進撃 しんげき していたが、その行 ゆ く手 て を阻 はば んだのが日本 にっぽん 軍 ぐん の狙撃 そげき 兵隊 へいたい であった。進撃 しんげき するアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は日本 にっぽん 軍 ぐん の狙撃 そげき で次々 つぎつぎ と斃れ、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん から見 み ると周 まわ りの椰子 やし の木 き すべてに日本 にっぽん 兵 へい が潜 ひそ んでいるように見 み えたという。特 とく にE中隊 ちゅうたい の損害 そんがい は甚大 じんだい で将校 しょうこう 6人 にん のうち5人 にん は戦死 せんし し、中隊 ちゅうたい 全員 ぜんいん でも死傷 ししょう せず無事 ぶじ な者 もの はわずか10名 めい となっていた。
上陸 じょうりく に成功 せいこう し、どうにか橋 はし 頭 あたま 保 ほ を確保 かくほ して内陸 ないりく に進 すす もうとするアメリカ海兵 かいへい 隊 たい と、それを阻止 そし しようとする日本 にっぽん 軍 ぐん の間 あいだ で上陸 じょうりく 初日 しょにち の午後 ごご は果 は てしない激戦 げきせん が続 つづ いた。兵士 へいし 隊 たい 兵士 へいし の近距離 きんきょり の白兵戦 はくへいせん 、陣地 じんち を破壊 はかい するための火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き や爆薬 ばくやく 、日本 にっぽん 軍 ぐん もアメリカ海兵 かいへい 隊 たい も激戦 げきせん の中 なか で指揮 しき 官 かん が次々 つぎつぎ と斃れ、部隊 ぶたい はばらばらとなり、互 たが いに少 しょう 人数 にんずう のグループとなって戦 たたか い続 つづ け両 りょう 軍 ぐん の大量 たいりょう の死傷 ししょう 者 しゃ がビーチに転 ころ がっていた。激戦 げきせん のなかで、意外 いがい なものがアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の強力 きょうりょく な武器 ぶき となりつつあった。それは、陣地 じんち 構築 こうちく 用 よう に揚陸 ようりく されていたブルドーザー であり、日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき の前 まえ で撃破 げきは されたり、海中 かいちゅう に没 ぼっ する車体 しゃたい もあるなかで、無事 ぶじ に上陸 じょうりく できた車両 しゃりょう は、盛土 もりつち をして即興 そっきょう の弾除 たまよ けを造成 ぞうせい するとともに、地面 じめん 低 ひく くに構築 こうちく されている日本 にっぽん 軍 ぐん の陣地 じんち をそのまま地 じ ならしして中 なか にいる日本 にっぽん 兵 へい を生 い き埋 う めにしてしまった。これは後 ご の掃討 そうとう 戦 せん で絶大 ぜつだい な威力 いりょく を発揮 はっき している。
向 む かい合 あ って横 よこ たわる日本 にっぽん 兵 へい とアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい
やがて日没 にちぼつ となり、戦闘 せんとう は小康 しょうこう 状態 じょうたい となった。レッドビーチ2から進撃 しんげき していたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は一部 いちぶ が飛行場 ひこうじょう の滑走 かっそう 路 ろ 付近 ふきん まで達 たっ していたが、陽 ひ が沈 しず んだあとは戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい を飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん に残 のこ して、歩兵 ほへい はビーチの方 ほう に撤収 てっしゅう していった。それまでにアメリカ第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん は、レッドビーチ1の西 にし 半分 はんぶん の縦 たて 深 ふか 140mとレッドビーチ2とレッドビーチ3の境界 きょうかい の桟橋 さんばし を幅 はば 460m、縦 たて 深 ふか 260mにわたって確保 かくほ することに成功 せいこう していた。すでにこの時点 じてん で上陸 じょうりく したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん 約 やく 5,000名 めい のうちその3分 ぶん の1は死傷 ししょう していたが[ 95] 、この30%超 ちょう の死傷 ししょう 率 りつ は[ 122] 、激戦 げきせん と呼 よ ばれたサイパンの戦 たたか い (10%)[ 123] 、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い (8%)[ 124] [ 125] 、オマハ・ビーチ (5.8%)[ 126] を遥 はる かに上回 うわまわ る、敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん の上陸 じょうりく 初日 しょにち の死傷 ししょう 率 りつ としては最悪 さいあく の数字 すうじ となり、のちに「恐怖 きょうふ のタラワ」と呼 よ ばれることとなった[ 127] 。また、1,500人 にん 以上 いじょう に上 のぼ った死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のソアソンの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) の際 さい に被 こうむ った、1日 にち の死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう 1,303人 にん を上回 うわまわ るアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 史上 しじょう 最悪 さいあく の人的 じんてき 損失 そんしつ となったうえ、人的 じんてき 損失 そんしつ のなかでも戦死 せんし 者 しゃ 数 すう は、タラワがソアソンの戦 たたか いの5倍 ばい 以上 いじょう であった。
負傷 ふしょう 兵 へい を含 ふく めた約 やく 5,000人 にん のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん がこの狭 せま い占領 せんりょう 地 ち 内 ない にひしめいているなか、ジュリアン・スミスやシャウプがもっとも恐 おそ れていたのが、日本 にっぽん 軍 ぐん が曲射 きょくしゃ 砲 ほう や迫撃 はくげき 砲 ほう で集中 しゅうちゅう 砲撃 ほうげき を加 くわ えてくることであったが、そのような攻撃 こうげき はなくシャウプらは胸 むね をなでおろしている。もっとも第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい は、海軍 かいぐん 陸戦 りくせん 隊 たい のなかでも装備 そうび に優 すぐ れていたとはいえ、曲射 きょくしゃ 砲 ほう や迫撃 はくげき 砲 ほう を装備 そうび していなかった。暗 くら くなっても、日本 にっぽん 軍 ぐん の機関 きかん 銃 じゅう と小 しょう 口径 こうけい の砲撃 ほうげき の火力 かりょく は衰 おとろ えず、動 うご くものに対 たい してはさかんに攻撃 こうげき していたが、夜 よる のとばりは確実 かくじつ にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい を助 たす けることとなり、サンゴ礁 さんごしょう 上 じょう で立 た ち往生 おうじょう していた部隊 ぶたい は上陸 じょうりく を果 は たし、次々 つぎつぎ と補給 ほきゅう 物資 ぶっし や資材 しざい や武器 ぶき が揚陸 ようりく された。予想 よそう 外 がい の激戦 げきせん で損失 そんしつ と物資 ぶっし 消費 しょうひ も激 はげ しかったが、それを補 おぎな うだけの潤沢 じゅんたく な物資 ぶっし をアメリカ軍 ぐん は持 も っていた。また、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちはこの日 ひ の夜 よる 、日本 にっぽん 軍 ぐん の夜襲 やしゅう があるものと身構 みがま えていたが、組織 そしき 的 てき な反撃 はんげき が行 おこな われることはなかった。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の指揮 しき 官 かん たちは、それが日本 にっぽん 軍 ぐん の連絡 れんらく 手段 しゅだん の途絶 とぜつ によって調整 ちょうせい ができなかったためと判断 はんだん していたが、実際 じっさい は司令 しれい 官 かん の柴崎 しばざき 以下 いか 司令 しれい 部 ぶ が消滅 しょうめつ しており、そのような組織 そしき 的 てき な反撃 はんげき は困難 こんなん であったからである。
しかし、組織 そしき 的 てき な反撃 はんげき を行 おこな わなかったことで、日本 にっぽん 軍 ぐん の戦力 せんりょく 消耗 しょうもう もなく、日本 にっぽん 軍 ぐん は引 ひ き続 つづ き持久 じきゅう 戦 せん を戦 たたか う能力 のうりょく を維持 いじ できた。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい にとっても、陣地 じんち を飛 と び出 だ して突撃 とつげき してくる日本 にっぽん 兵 へい よりは、防御 ぼうぎょ 陣地 じんち に立 た て籠 こも っている日本 にっぽん 兵 へい の方 ほう が遥 はる かに危険 きけん な存在 そんざい であった。日本 にっぽん 軍 ぐん は反撃 はんげき する代 か わりに、夜 よる 闇 やみ に紛 まぎ れて後方 こうほう から破壊 はかい されたトーチカに兵員 へいいん を送 おく り込 こ んで再 さい 編成 へんせい を行 おこな い、海岸 かいがん にあるアムトラックや戦車 せんしゃ の残骸 ざんがい に潜 もぐ り込 こ んでアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の背後 はいご を確保 かくほ し、海岸 かいがん から約 やく 600mの所 ところ に座礁 ざしょう していた輸送 ゆそう 船 せん 「斉田 さいだ 丸 まる 」の残骸 ざんがい に機銃 きじゅう を据 す え付 つ け、翌朝 よくあさ のアメリカ軍 ぐん の攻撃 こうげき に備 そな えた。この、アメリカ軍 ぐん 兵器 へいき の残骸 ざんがい に日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし が身 み を潜 ひそ めるという動 うご きは、日没 にちぼつ 前 まえ から準備 じゅんび が進 すす められており、タイム誌 し の従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ として、タラワに上陸 じょうりく していたロバート・シャーロッド (英語 えいご 版 ばん ) が、海中 かいちゅう で撃破 げきは されていたアメリカの軽 けい 戦車 せんしゃ に、殆 ほとん ど素 す っ裸 ぱだか の人間 にんげん が海中 かいちゅう から潜 もぐ って車内 しゃない に入 はい っていく姿 すがた を目撃 もくげき し、違和感 いわかん を覚 おぼ えてアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 将校 しょうこう に報告 ほうこく したが、激戦 げきせん のさなかで将校 しょうこう に全 まった く余裕 よゆう はなくき流 きなが されている。
守備 しゅび 隊 たい としてまとまった反撃 はんげき はなかったが、レッドビーチ2の佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 第 だい 1中隊 ちゅうたい と本部 ほんぶ 部隊 ぶたい による、飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん の戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい に対 たい する夜襲 やしゅう が行 おこな われている。佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 副官 ふっかん の岡田 おかだ 正 ただし 大尉 たいい が、各 かく 部隊 ぶたい の先任 せんにん 者 しゃ を呼集 こしゅう すると22:00からの夜襲 やしゅう を命 めい じた。作戦 さくせん としては、各 かく 隊 たい から3人 にん の決死 けっし 隊 たい を選抜 せんばつ し、決死 けっし 隊 たい は九九式破甲爆雷 でアメリカ軍 ぐん 戦車 せんしゃ を攻撃 こうげき し、その後 ご に他 た の兵士 へいし が突撃 とつげき してアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を撃破 げきは するというものであった。作戦 さくせん 開始 かいし 時間 じかん になり、夜襲 やしゅう 隊 たい は飛行場 ひこうじょう 近 ちか くの作戦 さくせん 開始 かいし 位置 いち まで近 ちか づき、アメリカ軍 ぐん 戦車 せんしゃ 隊 たい の様子 ようす をうかがったが、M4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が滑走 かっそう 路上 ろじょう で円陣 えんじん を組 く んでおり、自家 じか 発電 はつでん による電灯 でんとう で辺 あた りを明 あか るくしている中 なか で、戦車 せんしゃ 兵 へい は戦車 せんしゃ を降 お りて、食事 しょくじ をしたり、談笑 だんしょう したり油断 ゆだん をしている様子 ようす であった。夜襲 やしゅう 隊 たい は好機 こうき と見 み るや、まずは決死 けっし 隊 たい が戦車 せんしゃ に向 む かって突撃 とつげき して、九九式破甲爆雷を抱 だ いたままM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ に体当 たいあ たりを行 おこな いあちこちで大 だい 爆発 ばくはつ が発生 はっせい した。決死 けっし 隊 たい の自爆 じばく 攻撃 こうげき で多数 たすう のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が炎上 えんじょう し、生 い き残 のこ ったM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ は混乱 こんらん して右往左往 うおうさおう した。そこに夜襲 やしゅう 隊 たい は突撃 とつげき を敢行 かんこう し、不意 ふい をつかれたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は大 だい 損害 そんがい を被 こうむ って苦戦 くせん を強 し いられたが、やがて態勢 たいせい を立 た て直 なお すと、圧倒的 あっとうてき な火力 かりょく で反撃 はんげき を開始 かいし し、日本 にっぽん 軍 ぐん の夜襲 やしゅう は撃退 げきたい された。このように、この夜 よる の夜襲 やしゅう はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に大 おお きな損害 そんがい を与 あた えることはできなかったが、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の睡眠 すいみん 時間 じかん を奪 うば い、疲労 ひろう 度 ど を蓄積 ちくせき させるのに大 おお きな効果 こうか があった。あるアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は一睡 いっすい もできず「日本 にっぽん 軍 ぐん の戦法 せんぽう 、とくに実質 じっしつ 的 てき な自殺 じさつ 戦術 せんじゅつ を使 つか った集団 しゅうだん バンザイ攻撃 こうげき にとっての暗闇 くらやみ の価値 かち は、実 じつ に現実 げんじつ 的 てき で、恐 おそ ろしいものになっていた」とその恐怖 きょうふ を語 かた っている。
この夜 よる 、連合 れんごう 艦隊 かんたい は陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き によるタラワ沖合 おきあい の艦船 かんせん 及 およ びタラワのアメリカ海兵 かいへい 隊 たい への攻撃 こうげき を命 めい じ、マーシャルとナウルの飛行場 ひこうじょう から合計 ごうけい 7機 き の陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 隊 たい が出撃 しゅつげき した。日本 にっぽん 軍 ぐん の陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き はタラワ沖合 おきあい に到達 とうたつ すると、アメリカ海軍 かいぐん 艦船 かんせん を攻撃 こうげき するため低空 ていくう 飛行 ひこう を開始 かいし したが、激 はげ しいアメリカ軍 ぐん 艦艇 かんてい からの対空 たいくう 射撃 しゃげき によって戦果 せんか を挙 あ げることもなく撃退 げきたい された。なお、この攻撃 こうげき で陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 3機 き が未 み 帰還 きかん となった。また、夜明 よあ けの1時 じ 間 あいだ 前 まえ に日本 にっぽん 軍 ぐん の飛行 ひこう 艇 てい が特徴 とくちょう のあるプロペラ音 おん を轟 とどろ かせながら、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん がひしめくビーチに向 む けて飛行 ひこう してきた。シャーロッドが空 そら を見上 みあ げていると近 ちか くにいたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が「あれは古 ふる い洗濯 せんたく 機 き のチャーリーさ」とあだ名 な を教 おし えてくれた。さらに「ガダルカナル戦 せん 以来 いらい 、あれにお目 め にかかってますよ!大 たい した危害 きがい は与 あた えませんがね」と説明 せつめい をしている。その「古 ふる い洗濯 せんたく 機 き のチャーリー」に対 たい して、自分 じぶん たちの背後 はいご から日本 にっぽん 軍 ぐん 独特 どくとく のピンク色 ぴんくいろ の曳光弾 えいこうだん が発射 はっしゃ されて爆 ばく 撃 げき 位置 いち を管制 かんせい しようとしたが、管制 かんせい された「古 ふる い洗濯 せんたく 機 き のチャーリー」の投下 とうか した爆 ばく 弾 だん は海上 かいじょう に落下 らっか して、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい に損害 そんがい はなかった。これを見 み たシャーロッドは、日 にち 中 ちゅう に軽 けい 戦車 せんしゃ の残骸 ざんがい に日本 にっぽん 兵 へい が侵入 しんにゅう したのを目撃 もくげき していたこともあって、背後 はいご に日本 にっぽん 軍 ぐん が潜 ひそ んでいることを懸念 けねん したが、他 た のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん がそれに気 き が付 つ くことはなかった。
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい 増援 ぞうえん 投入 とうにゅう [ 編集 へんしゅう ]
銃撃 じゅうげき をかいくぐって突撃 とつげき するアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん
両 りょう 軍 ぐん の兵士 へいし にとって眠 ねむ れない夜 よる が明 あ けようとしていた。夜明 よあ けの時間 じかん が干潮 かんちょう の時間 じかん と重 かさ なっていたが、次第 しだい に明 あか るくなって見通 みとお すことができるようになった海岸 かいがん 沿 ぞ いには、多数 たすう のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい や、アムトラック、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい 、戦車 せんしゃ の残骸 ざんがい が散 ち らばっており、遺体 いたい からの腐臭 ふしゅう が立 た ち込 こ めるという地獄 じごく 絵図 えず になっていた。シャウプは正確 せいかく な損害 そんがい 状 じょう 況 きょう の把握 はあく に努 つと めていたが、それは困難 こんなん な作業 さぎょう であり、大 おお まかに1/3の兵力 へいりょく が失 うしな われ、その中 なか でも士官 しかん や下士官 かしかん の死傷 ししょう 者 しゃ の割合 わりあい が高 たか いということぐらいしかわからなかった。シャウプは「我々 われわれ はとてつもなく困難 こんなん な状況 じょうきょう にある」と認識 にんしき し、師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ にさらなる増援 ぞうえん と、負傷 ふしょう 者 しゃ が多 おお すぎてつきかけていた医薬品 いやくひん の補給 ほきゅう を求 もと めた。また、熱 ねつ 暑 あつ 対策 たいさく に大量 たいりょう の真水 まみず と食塩 しょくえん の補給 ほきゅう も求 もと めた。ジュリアン・スミスはシャウプの求 もと めに応 おう じて、師団 しだん 予備 よび 戦力 せんりょく の海兵 かいへい 第 だい 8連隊 れんたい の2個 こ 大隊 だいたい を、朝 あさ 1番 ばん の午前 ごぜん 6:00に増援 ぞうえん として投入 とうにゅう することを約束 やくそく した。
作戦 さくせん 計画 けいかく 通 どお りに、アメリカ軍 ぐん の増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を乗 の せた上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい が海岸 かいがん へ向 む けて進撃 しんげき を開始 かいし した。海岸 かいがん からは昨日 きのう と遜色 そんしょく ない激 はげ しい十字砲火 じゅうじほうか が浴 あ びせられ、早 はや くも上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に損害 そんがい が続出 ぞくしゅつ した。やがて上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい がサンゴ礁 さんごしょう まで達 たっ すると、夜 よる の間 あいだ に座礁 ざしょう した「斉田 さいだ 丸 まる 」や撃破 げきは されたアメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい やアムトラックの残骸 ざんがい に隠 かく れていた日本 にっぽん 兵 へい が、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい を降 お りて、十字砲火 じゅうじほうか の中 なか を意 い を決 けっ して突撃 とつげき するアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん を背後 はいご から狙撃 そげき した。前後 ぜんご から猛 もう 射 しゃ を浴 あ びたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はたちまち大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい り、甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ った。なかには、狙撃 そげき で負傷 ふしょう した戦友 せんゆう を助 たす けようとして駆 か け寄 よ ったが、そこに日本 にっぽん 軍 ぐん の砲弾 ほうだん が着弾 ちゃくだん し、負傷 ふしょう 兵 へい ごと吹 ふ き飛 と ばしてしまうという阿鼻叫喚 あびきょうかん の状況 じょうきょう も多 た 見 み され、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は上陸 じょうりく 初日 しょにち よりも状況 じょうきょう は悪化 あっか していると恐怖 きょうふ した[ 138] 。
なかでも「斉田 さいだ 丸 まる 」からの機銃 きじゅう 攻撃 こうげき は絶大 ぜつだい な効果 こうか を挙 あ げており、背後 はいご から掃射 そうしゃ されアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は次々 つぎつぎ となぎ倒 たお され、混乱 こんらん しているアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん に陸上 りくじょう の便所 べんじょ に設置 せっち されていた機銃 きじゅう 座 ざ からも機銃 きじゅう 弾 だん が浴 あ びせられて、あっという間 ま に100人 にん 以上 いじょう のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が死傷 ししょう してしまった。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はこれでようやく昨晩 さくばん のうちに日本 にっぽん 兵 へい が自分 じぶん たちの背後 はいご に潜 ひそ んでいることを認識 にんしき し、「憎 にく いジャップ め、昨夜 さくや そこまで泳 およ ぎついて、あの貨物 かもつ 船 せん の中 なか の機関 きかん 銃 じゅう を発射 はっしゃ したらしいぞ。どうも弾丸 だんがん がその方角 ほうがく より飛 と んでくるのを見 み たように思 おも った」などと口々 くちぐち に語 かた っていたが、後 あと の祭 まつ りであった。シャーロッドが見渡 みわた したところ、たちまちサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう にはアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん 約 やく 200体 たい の遺体 いたい が横 よこ たわっていた。
大 だい 損害 そんがい を被 こうむ ったアメリカ軍 ぐん はまず便所 べんじょ の機銃 きじゅう 座 ざ に砲撃 ほうげき を集中 しゅうちゅう して撃破 げきは すると、次 つぎ に「斉田 さいだ 丸 まる 」に対 たい し航空 こうくう 攻撃 こうげき を行 おこな った。まず、F6F戦闘 せんとう 機 き 4機 き が来襲 らいしゅう し、機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を開始 かいし した。しかし、「斉田 さいだ 丸 まる 」を沈黙 ちんもく させることはできなかった。続 つづ いて小型 こがた 爆 ばく 弾 だん を抱 かか えたF6F戦闘 せんとう 機 き が3機 き 来襲 らいしゅう した。「斉田 さいだ 丸 まる 」に対 たい し1番 ばん 機 き 、2番 ばん 機 き は至近 しきん 弾 だん を与 あた え、3番 ばん 機 き は直撃 ちょくげき 弾 だん を与 あた えたが、「斉田 さいだ 丸 まる 」の機銃 きじゅう 陣地 じんち は無傷 むきず であった。この後 のち もさらに「斉田 さいだ 丸 まる 」に対 たい する攻撃 こうげき は続 つづ けられ、今度 こんど は12機 き のF6F戦闘 せんとう 機 き が来襲 らいしゅう した。12機 き の戦闘 せんとう 機 き は次々 つぎつぎ に爆 ばく 弾 だん を投下 とうか するものの「斉田 さいだ 丸 まる 」に直撃 ちょくげき 弾 だん を与 あた えられず、ようやく1発 はつ だけ命中 めいちゅう した。だが、それでも「斉田 さいだ 丸 まる 」の機銃 きじゅう 陣地 じんち は無傷 むきず であった。艦載 かんさい 機 き の爆 ばく 撃 げき のあまりの不正確 ふせいかく さに、海上 かいじょう のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちは失望 しつぼう したが、艦載 かんさい 機 き が頼 たよ りにならないことを痛感 つうかん したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は、自 みずか ら工兵 こうへい 部隊 ぶたい による決死 けっし 隊 たい を編成 へんせい して「斉田 さいだ 丸 まる 」に近 ちか づき、高性能 こうせいのう 爆薬 ばくやく を仕掛 しか けた。その高性能 こうせいのう 爆 ばく 薬 やく により「斉田 さいだ 丸 まる 」は大 だい 爆発 ばくはつ を起 お こし、「斉田 さいだ 丸 まる 」の日本 にっぽん 軍 ぐん の機銃 きじゅう 陣地 じんち はようやく沈黙 ちんもく した。
タラワで猛威 もうい を振 ふ るったM116 75mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう
シャウプの作戦 さくせん は、昨日 きのう に血路 けつろ を開 ひら いた飛行場 ひこうじょう へ進撃 しんげき し、そのまま滑走 かっそう 路 ろ を横切 よこぎ って島 しま の南端 なんたん まで達 たっ して日本 にっぽん 軍 ぐん を東西 とうざい に分断 ぶんだん しようというものであった。しかし、日本 にっぽん 軍 ぐん は夜 よる の間 あいだ に戦線 せんせん を整理 せいり し、サンゴ礁 さんごしょう やビーチのアメリカ軍 ぐん 兵器 へいき の残骸 ざんがい に機関 きかん 銃 じゅう や狙撃 そげき 兵 へい を忍 しの ばせて、背後 はいご から上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を叩 たた くと共 とも に、滑走 かっそう 路上 ろじょう のアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の背後 はいご に部隊 ぶたい を進出 しんしゅつ させて孤立 こりつ 化 か させ、昨日 きのう 掃討 そうとう された椰子 やし の木 き に潜 ひそ む狙撃 そげき 兵 へい も復活 ふっかつ させて、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の進撃 しんげき を妨 さまた げた。
師団 しだん 予備 よび の第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい の2個 こ 大隊 だいたい は続々 ぞくぞく と上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい でレッドビーチ2に送 おく り込 こ まれてきたが、サンゴ礁 さんごしょう 上 じょう で降 お ろされたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はそこで射殺 しゃさつ されるか、激 はげ しい銃撃 じゅうげき を前 まえ に、日本 にっぽん 軍 ぐん が設置 せっち したコンクリート製 せい の防塞 ぼうさい か、撃破 げきは されたアムトラックや戦車 せんしゃ で弾丸 だんがん を防 ふせ いでいるかいずれかであり、陸上 りくじょう までたどり着 つ ける者 もの は殆 ほとん どいない有様 ありさま で、また、滑走 かっそう 路 ろ に向 む けて進撃 しんげき しようとするアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は激 はげ しい銃撃 じゅうげき を浴 あ びてなかなか前進 ぜんしん できなかった。陸上 りくじょう にいたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は、海上 かいじょう で撃 う ちまくられる増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を見守 みまも っていたが、その様子 ようす は自分 じぶん たちの昨日 きのう の体験 たいけん よりももっと酷 ひど いものに思 おも われた。どうにか上陸 じょうりく できた海兵 かいへい 第 だい 8連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい 長 ちょう のD.レンス.ヘイズ少佐 しょうさ がシャウプの下 した にやってきたが、上陸 じょうりく するまでに半数 はんすう の兵力 へいりょく と殆 ほとん どの装備 そうび を失 うしな い、さらに大隊 だいたい はバラバラになっていた。
この後 のち 、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい にとって幸運 こううん が訪 おとず れ、小潮 こしお が36時 じ 間 あいだ も遅 おく れて正常 せいじょう に戻 もど り、ようやくサンゴ礁 さんごしょう が海中 かいちゅう に没 ぼっ していった。これで、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい や戦車 せんしゃ 揚陸 ようりく 艇 てい が海岸 かいがん まで到達 とうたつ することができるようになり、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は危険 きけん なサンゴ礁 さんごしょう を徒歩 とほ で海岸 かいがん を目指 めざ す必要 ひつよう がなくなり、さらに、海上 かいじょう で孤立 こりつ していたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん や火砲 かほう などの重 じゅう 装備 そうび を続々 ぞくぞく と送 おく り込 こ むこともできて戦力 せんりょく が充実 じゅうじつ してきた。特 とく にM116 75mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう が猛威 もうい を振 ふ るい、ビーチで迅速 じんそく に組 く み立 た てられると、確認 かくにん できた日本 にっぽん 軍 ぐん の砲座 ほうざ を直接 ちょくせつ 照準 しょうじゅん で砲撃 ほうげき して撃破 げきは していった。奇跡 きせき 的 てき に日本 にっぽん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき から生 い き延 の びることができたブルドーザー は、夜間 やかん の間 あいだ に平坦 へいたん で身 み を隠 かく すところが少 すく ないビーチに次々 つぎつぎ と砂 すな を盛 も り上 あ げて即興 そっきょう の遮蔽 しゃへい 物 ぶつ を造成 ぞうせい しており、榴弾 りゅうだん 砲 ほう は日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき を避 さ けながら正確 せいかく な砲撃 ほうげき を浴 あ びせることができた。
シャウプは戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を桟橋 さんばし 下 か から、日本 にっぽん 軍 ぐん の燃料 ねんりょう 貯蔵庫 ちょぞうこ の横 よこ に掘 ほ った穴 あな の中 なか に前進 ぜんしん させていたが、目 め と鼻 はな の先 さき の燃料 ねんりょう 貯蔵庫 ちょぞうこ 内 ない には日本 にっぽん 兵 へい 約 やく 20人 にん が立 た て籠 こ もっており、戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を完全 かんぜん 武装 ぶそう したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん が警護 けいご していた。実際 じっさい に燃料 ねんりょう 貯蔵庫 ちょぞうこ の排気 はいき 口 こう を伝 つた って日本 にっぽん 兵 へい がシャウプに接近 せっきん し、一緒 いっしょ にいた下士官 かしかん を狙撃 そげき して負傷 ふしょう させたということもあった。シャウプは昨日 きのう 負傷 ふしょう した足 あし から出血 しゅっけつ が続 つづ いていながらも、後退 こうたい することはなく引 ひ き続 つづ き指揮 しき を執 と り続 つづ けていたが、なかなか好転 こうてん しない戦況 せんきょう にいら立 だ ちを募 つの らせていた。軍 ぐん 予備 よび から第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい を取 と り戻 もど してい師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスは、その投入 とうにゅう 時期 じき と投入 とうにゅう 個所 かしょ を探 さぐ るために、シャウプに戦力 せんりょく は足 た りているか?と打診 だしん してきたが、シャウプは躊躇 ちゅうちょ なく「No」と回答 かいとう している。そのシャウプのわずか9m先 さき が最前線 さいぜんせん であり、対峙 たいじ した両 りょう 軍 ぐん は激 はげ しい銃撃 じゅうげき 戦 せん を展開 てんかい していた。そして、身体 しんたい を少 すこ しでも暴露 ばくろ した兵士 へいし は、間違 まちが いなく衛生 えいせい 兵 へい か死体 したい 埋葬 まいそう 班 はん のやっかいになるような状況 じょうきょう であった。
そのような激戦 げきせん 下 か でも、昨日 きのう タラワに一番乗 いちばんの りした「海兵 かいへい 隊 たい でもっとも勇敢 ゆうかん な男 おとこ 」ことホーキンスは、全 まった く躊躇 ちゅうちょ することなく、激 はげ しい銃火 じゅうか の中 なか を、勇敢 ゆうかん というよりは無謀 むぼう で異常 いじょう な勇気 ゆうき で駆 か け回 まわ り、ひたすら日本 にっぽん 軍 ぐん のトーチカや機関 きかん 銃座 じゅうざ を潰 つぶ して回 まわ った。弾 たま 片 へん で負傷 ふしょう したが、「おれはジャップをやっつけるために、ここにやってきたのだ。後送 こうそう されるために来 き たんじゃない」とい放 いはな って後送 こうそう を拒 こば むと、部下 ぶか とアムトラックに乗 の り込 こ んで日本 にっぽん 軍 ぐん の機関 きかん 銃座 じゅうざ に飛 と び込 こ んで行 い った。その光景 こうけい を見 み た部下 ぶか のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は「1分間 ふんかん に百 ひゃく 万 まん 発 はつ の銃弾 じゅうだん が耳元 みみもと をかすめるなかで、ひたすらジャップを撃 う っている光景 こうけい は、決 けっ してわすれないだろう。あんな男 おとこ は人生 じんせい で1度 ど も見 み たことがない」と驚嘆 きょうたん したが、幸運 こううん は長 なが くは続 つづ かず。正午 しょうご ごろ、ついに日本 にっぽん 軍 ぐん の銃弾 じゅうだん がホーキンスの肩 かた 付近 ふきん の動脈 どうみゃく を貫 つらぬ き、まもなく戦死 せんし した。ホーキンスは、昨日 きのう の桟橋 さんばし の制圧 せいあつ に加 くわ えて、5回 かい も負傷 ふしょう しながら、6か所 しょ の日本 にっぽん 軍 ぐん のトーチカや機関 きかん 銃座 じゅうざ を撃破 げきは した。その卓越 たくえつ した武勲 ぶくん にたいして、名誉 めいよ 勲章 くんしょう が遺贈 いぞう された[ 151] 。
昨日 きのう に引 ひ き続 つづ き、レッドビーチでは大 だい 苦戦 くせん していたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい であったが、タラワの西端 せいたん の海岸 かいがん (アメリカ軍 ぐん 呼称 こしょう :グリーンビーチ)で大 おお きな進展 しんてん があった。昨日 きのう 、タラワ北西 ほくせい 端 はし の岬 みさき を確保 かくほ していたライアン率 ひき いる臨時 りんじ 混成 こんせい 大隊 だいたい が、グリーンビーチに向 む けて前進 ぜんしん を開始 かいし した。その援護 えんご には昨日 きのう グリーンビーチに海 うみ 没 ぼつ を逃 のが れて上陸 じょうりく できた2輌 りょう のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ と、海上 かいじょう からは2隻 せき の駆逐 くちく 艦 かん が地上 ちじょう のアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の管制 かんせい による精密 せいみつ 砲撃 ほうげき で支援 しえん していた。日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう は散発 さんぱつ 的 てき であり、その微力 びりょく な抵抗 ていこう もM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ と駆逐 くちく 艦 かん の砲撃 ほうげき で粉砕 ふんさい されてしまい、戦闘 せんとう 開始 かいし 後 ご わずか1時 じ 間 あいだ でグリーンビーチ一帯 いったい はライアンの臨時 りんじ 混成 こんせい 大隊 だいたい の手 て に落 お ちた。これでアメリカ海兵 かいへい 隊 たい はグリーンビーチに安全 あんぜん に増援 ぞうえん 部隊 ぶたい や補給 ほきゅう 物資 ぶっし を送 おく り込 こ むことができるようになったが、依然 いぜん としてレッドビーチ正面 しょうめん の日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう は衰 おとろ えを見 み せることはなかった。
第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい がタラワに上陸 じょうりく したゴムボート
シャウプから切実 せつじつ な増援 ぞうえん 要求 ようきゅう を受 う けたジュリアン・スミスは熟考 じゅっこう のうえで、第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい を激戦 げきせん 続 つづ くレッドビーチ2に正面 しょうめん から上陸 じょうりく させて、第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい の二 に の舞 まい にするのではなく、日本 にっぽん 軍 ぐん の防備 ぼうび が弱 よわ いところにゴムボートで密 ひそ かに上陸 じょうりく させて、陸路 りくろ で前線 ぜんせん に向 む かわせることとした。早速 さっそく 、第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい はゴムボート に分乗 ぶんじょう すると、大 おお きく迂回 うかい して制圧 せいあつ していたグリーンビーチから無事 ぶじ に上陸 じょうりく することができた。このおかげで第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい はタラワの戦 たたか いにおいて、初 はじ めて海上 かいじょう で損害 そんがい を被 かぶ らずに上陸 じょうりく できた部隊 ぶたい となった。その後 ご グリーンビーチには続々 ぞくぞく と部隊 ぶたい と補給 ほきゅう 物資 ぶっし が揚陸 ようりく されたが、そのなかには、昨日 きのう レッドビーチ沖 おき で戦車 せんしゃ 揚陸 ようりく 艦 かん ごと2個 こ 小隊 しょうたい を失 うしな っていた第 だい 2戦車 せんしゃ 大隊 だいたい 軽 けい 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい の生 い き残 のこ りもおり、西岸 せいがん の日本 にっぽん 軍 ぐん を掃討 そうとう して、明日 あした から第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい と東進 とうしん することとなっていた。
レッドビーチ2と3正面 しょうめん でも戦況 せんきょう はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に有利 ゆうり になりつつあった。続々 ぞくぞく と揚陸 ようりく される火砲 かほう や戦車 せんしゃ に支援 しえん を受 う けてアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は飛行場 ひこうじょう に向 む けて前進 ぜんしん を開始 かいし していた。勇猛 ゆうもう なアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 士官 しかん は、日本 にっぽん 軍 ぐん の激 はげ しい機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ のなかでも滑走 かっそう 路 ろ を突 つ っ切 き ろうとして走 はし り出 だ したが、部下 ぶか は遮蔽 しゃへい 物 ぶつ に身 み を隠 かく して付 つ いてこなかった。その様子 ようす を見 み たその将校 しょうこう は、戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ に駆 か け込 こ んでシャウプに「大佐 おおさ 殿 どの 、あの浜辺 はまべ には海兵 かいへい 隊 たい が1,000人 にん もいるのに、1人 ひとり として小官 しょうかん に続 つづ いて滑走 かっそう 路 ろ をこえようとしない」と嘆 なげ いたが、シャウプは「貴 き 官 かん はこう言 い わねばならん。オレに続 つづ くものは誰 だれ か?それでたとえわずか10名 めい でも貴 き 官 かん に続 つづ くものがあれば上出来 じょうでき だよ、それは1名 めい もいないよりましだ」と発破 はっぱ をかけた。その後 ご ビーチで身 み をかがめていたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん たちも、タラワの南端 なんたん に向 む けて滑走 かっそう 路 ろ を進 すす んで行 い った。
滑走 かっそう 路上 ろじょう にも日本 にっぽん 軍 ぐん の機関 きかん 銃座 じゅうざ は多数 たすう あったが、その抵抗 ていこう はビーチに比 くら べると致命 ちめい 的 てき ではなかった。これは日本 にっぽん 軍 ぐん がビーチ沿 ぞ いの陣地 じんち に戦力 せんりょく を集中 しゅうちゅう させており、滑走 かっそう 路 ろ を守 まも っていたのは設営 せつえい 隊 たい の軍属 ぐんぞく を中心 ちゅうしん とする部隊 ぶたい であったからであった。滑走 かっそう 路 ろ に構築 こうちく されていた火砲 かほう 陣地 じんち も、設置 せっち されていた山砲 さんぽう や歩兵 ほへい 砲 ほう はビーチに前進 ぜんしん 済 ず みであり、もぬけの殻 から となって逆 ぎゃく にアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん に利用 りよう された。滑走 かっそう 路上 ろじょう にもビーチと同 おな じ密度 みつど で日本 にっぽん 軍 ぐん の陣地 じんち が残 のこ されていたら、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が何人 なんにん 生 い き残 のこ れたかはわからなかったが、軍属 ぐんぞく を中心 ちゅうしん とする部隊 ぶたい では、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい を押 お しとどめることは不可能 ふかのう で、滑走 かっそう 路 ろ を突 つ っ切 き ったアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は、藪 やぶ や弾痕 だんこん を乗 の り越 こ え、地雷原 じらいげん を回避 かいひ しながら夕方 ゆうがた 前 まえ には南 みなみ の海岸 かいがん 線 せん に達 たっ し、日本 にっぽん 軍 ぐん が放棄 ほうき した塹壕 ざんごう を活用 かつよう して約 やく 200mの海岸 かいがん 線 せん を確保 かくほ した。これで、日本 にっぽん 軍 ぐん の兵力 へいりょく は東西 とうざい に分断 ぶんだん された。
これでシャウプの目標 もくひょう は達成 たっせい されたが、日本 にっぽん 兵 へい はまだ多数 たすう 生存 せいぞん しており、島 しま を東西 とうざい に分断 ぶんだん した前線 ぜんせん 上 じょう のアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に東西 とうざい 両方 りょうほう から激 はげ しい銃撃 じゅうげき を浴 あ びせていた。しかし、シャウプに届 とど く報告 ほうこく は前向 まえむ きなものが増 ふ えており、作戦 さくせん 開始 かいし 以来 いらい 不眠 ふみん 不休 ふきゅう で指揮 しき を続 つづ け、さらに負傷 ふしょう までしていたシャウプは、疲労 ひろう しきって顔 かお や軍服 ぐんぷく は泥 どろ だらけで、足 あし に巻 ま かれた包帯 ほうたい には血 ち が滲 にじ んでいたが、闘志 とうし は全 まった く衰 おとろ えてなかった。午後 ごご 16:00には詳 くわ しい戦況 せんきょう 報告 ほうこく を師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ に打電 だでん したが、その締 し めが後 のち にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい で語 かた り草 ぐさ となった。
損害 そんがい 大 だい なり。戦死 せんし 者 しゃ の比率 ひりつ 不明 ふめい 。戦闘 せんとう 効率 こうりつ 。我 わ が軍 ぐん 、勝 か ちつつあり。シャウプ — デビット・シャウプ
ビーチ沿 ぞ いの強固 きょうこ な日本 にっぽん 軍 ぐん 拠点 きょてん の攻略 こうりゃく も進 すす んでいた。レッドビーチ3対面 たいめん にあった日本 にっぽん 軍 ぐん 拠点 きょてん はビーチ沿 ぞ いの陣地 じんち のなかでもっとも強固 きょうこ に構築 こうちく されていた。拠点 きょてん 内 ない の機関 きかん 銃座 じゅうざ は、何 なん 度 ど も手榴弾 しゅりゅうだん や火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で掃討 そうとう されていたが、その度 たび に新 あら たな機関 きかん 銃 じゅう が設置 せっち されて、激烈 げきれつ に反撃 はんげき してきた。また陣地 じんち 内 ない は細 こま かい区画 くかく で区切 くぎ られているようで、うまく手榴弾 しゅりゅうだん を投 な げ込 こ んでも、その区画 くかく の日本 にっぽん 兵 へい を殺傷 さっしょう するのみで、残 のこ りは無傷 むきず であり、トンネルを伝 つた って続々 ぞくぞく と補充 ほじゅう がやってきた。あまりにきりがないので、攻 せ めているアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 将校 しょうこう は「このトンネルは東京 とうきょう にまで続 つづ いているのか?」と嘆 なげ いていたが、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は意 い を決 けっ して拠点 きょてん 内 ない に飛 と び込 こ むと、銃剣 じゅうけん で日本 にっぽん 兵 へい と白兵戦 はくへいせん を繰 く り広 ひろ げて、ある程度 ていど 制圧 せいあつ すると、ブルドーザーで残 のこ った日本 にっぽん 兵 へい ごと埋 う めてしまった。
午後 ごご 19:00頃 ごろ に、シャウプは従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ のシャーロッドを見 み かけると「我 わ が方 ほう は今 いま 勝 か ちつつある。だが敵 てき の奴 やつ らはまだまだ、しこたま鉄砲玉 てっぽうだま を持 も っているぞ」と力強 ちからづよ く話 はな しかけてきた。シャーロッドはあとどのくらい戦闘 せんとう が続 つづ くのか尋 たず ねたところ、シャウプは「我 わ が軍 ぐん は明日 あした 、島 しま の西端 せいたん 全体 ぜんたい を掃討 そうとう するものと信 しん じるが、それ以上 いじょう かかるあもしれない。やつら全部 ぜんぶ を島 しま の尾端 びたん 部 ぶ より根 ね こそぎ殲滅 せんめつ するためには、さらに1日 にち か2日 にち を要 よう するだろう」と目論見 もくろみ を述 の べた。しかし、シャウプがその目論見 もくろみ を果 は たすことはなく、この日 ひ の午後 ごご 20:30に作戦 さくせん 指揮 しき を第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん 参謀 さんぼう 長 ちょう メリット・A・エドソン (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ に引 ひ き継 つ いだ。
陣地 じんち 内 ない で自決 じけつ した日本 にっぽん 兵 へい
日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は既 すで に崩壊 ほうかい しつつあったが、日本 にっぽん 兵 へい の戦意 せんい は衰 おとろ えてなかった。日本 にっぽん 兵 へい を支 ささ えていたのは「自分 じぶん たちが玉砕 ぎょくさい しても、必 かなら ず、連合 れんごう 艦隊 かんたい が来 き てくれる」という希望 きぼう であった。壕 ごう の中 なか には負傷 ふしょう 者 しゃ があふれていたが、治療 ちりょう する医薬品 いやくひん どころか食料 しょくりょう もなくなっていた。司令 しれい 部 ぶ は既 すで に無 な かったが、各 かく 部隊 ぶたい の組織 そしき 統制 とうせい はまだ健在 けんざい であり、部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん からの命令 めいれい も届 とど いていたが、そのなかには「(戦闘 せんとう に参加 さんか できなくなった者 もの は)各自 かくじ 、適当 てきとう なる処置 しょち を取 と る。決 けっ して汚名 おめい を後世 こうせい まで
残 のこ さぬよう、決意 けつい されたい」と自決 じけつ 指示 しじ まであった。その指示 しじ を守 まも って、戦闘 せんとう で重傷 じゅうしょう を負 お った多 おお くの兵士 へいし が自 みずか ら命 いのち を絶 た っていた。自 みずか ら命 いのち を絶 た たずとも壕 ごう 内 ない に横 よこ たわっている負傷 ふしょう 兵 へい は、塹壕 ざんごう ごとアメリカ海兵 かいへい 隊 たい のブルドーザーで生 い き埋 う めにされてしまい、その人数 にんずう は数 すう 百 ひゃく 名 めい にも上 のぼ った。
連合 れんごう 艦隊 かんたい は感度 かんど が弱 よわ いながらも、22日 にち まではどうにかタラワと連絡 れんらく が取 と れていた。しかし午後 ごご 13:25には全 まった く途絶 とぜつ してしまった。タラワから連合 れんごう 艦隊 かんたい への最後 さいご の通信 つうしん は以下 いか の通 とお りであった。
我 わ が軍 ぐん の兵器 へいき は破壊 はかい され、これより全員 ぜんいん 、最後 さいご の突撃 とつげき を決行 けっこう せんとす。日本 にっぽん の天壌 てんじょう とともに無窮 むきゅう たらんことを
また同日 どうじつ 、永野 ながの 修身 しゅうしん 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう から昭和 しょうわ 天皇 てんのう に対 たい しタラワの戦況 せんきょう が奏上 そうじょう された。昭和 しょうわ 天皇 てんのう は永野 ながの の奏上 そうじょう をきくとタラワ守備 しゅび 隊 たい に激励 げきれい の言葉 ことば を送 おく り、軍令 ぐんれい 部 ぶ はその旨 むね を22日 にち の夕方 ゆうがた にタラワ方面 ほうめん に向 む けて打電 だでん した。
本日 ほんじつ 、内 うち 南洋 なんよう 方面 ほうめん の戦況 せんきょう に関 かん し奏 そう 上 のぼ せる所 ところ 陛下 へいか には所在 しょざい 各 かく 部隊 ぶたい が寡兵 かへい 克 かつ く衆 しゅう 敵 てき に対 たい し勇戦 ゆうせん 奮闘 ふんとう 而も士気 しき 愈々 いよいよ 旺盛 おうせい なるを深 ふか く御 ご 嘉章 よしあき あらせらる特 とく に「タラワ」守備 しゅび 部隊 ぶたい に対 たい し激励 げきれい の御 ご 言葉 ことば を賜 たまわ りたり
この天皇 てんのう からの激励 げきれい のことばがタラワ守備 しゅび 隊 たい 兵士 へいし の耳 みみ に入 はい ったかは不明 ふめい であるが、動 うご ける日本 にっぽん 兵 へい はアメリカ兵 へい を1人 ひとり でも多 おお く殺 ころ すため戦闘 せんとう 準備 じゅんび に余念 よねん なく、レッドビーチ正面 しょうめん で生 い き残 のこ っていた日本 にっぽん 兵 へい は、残 のこ された日本 にっぽん 軍 ぐん 最大 さいだい の拠点 きょてん である、第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい の鉄筋 てっきん コンクリート製 せい 2階 かい 建 だ ての戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ とその周辺 しゅうへん の陣地 じんち に集 あつ まっていた。やがて日 ひ が暮 く れたが、昨日 きのう とは異 こと なり組織 そしき 的 てき な夜襲 やしゅう をするだけの戦力 せんりょく は日本 にっぽん 軍 ぐん には残 のこ されていなかった。
ジュリアン・スミス師団 しだん 長 ちょう タラワ上陸 じょうりく [ 編集 へんしゅう ]
タラワ島 とう 上 じょう の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ 、中央 ちゅうおう で地図 ちず を持 も っているのがデビット・シャウプ大佐 たいさ 、その右 みぎ で後 うし ろ向 む きがメリット・A・エドソン大佐 たいさ 、前 まえ で座 すわ っているのがトム・カルへイン少佐 しょうさ
翌 よく 11月23日 にち 、エドソンは残敵 ざんてき 掃討 そうとう のために、まずは艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき と空爆 くうばく によって徹底的 てっていてき に日本 にっぽん 軍 ぐん を叩 はた き、その後 ご にグリーンビーチ方面 ほうめん から、昨日 きのう ゴムボートで上陸 じょうりく していた第 だい 6海兵 かいへい 師団 しだん 第 だい 1大隊 だいたい に加 くわ えて第 だい 3大隊 だいたい も上陸 じょうりく させて東進 とうしん させ、既 すで に上陸 じょうりく している第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい と第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい も残 のこ る日本 にっぽん 軍 ぐん 拠点 きょてん を虱潰 しらみつぶ しに撃破 げきは していくという作戦 さくせん を命 めい じた。これは過去 かこ 2日間 にちかん に渡 わた って散々 さんざん 叩 たた かれた痛 いた い経験 けいけん から、万全 ばんぜん を期 き さないといけないという強 つよ い信念 しんねん に基 もと づくものであった。夜 よる が明 あ けた午前 ごぜん 7:00に艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき が開始 かいし された。この艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき はこれまでの戦闘 せんとう 経過 けいか や偵察 ていさつ によって暴露 ばくろ されていた日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 地 ち の区域 くいき を限定 げんてい して、1か所 しょ あたり20分 ふん もの間 あいだ 集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか を浴 あ びせるというものであった。そしてその後 ご もアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の進撃 しんげき に応 おう じ、8:30、9:30、10:30と1時 じ 間 あいだ おきに目標 もくひょう を変 か えて同 おな じく20分間 ふんかん 艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を浴 あ びせることとなっていた。
戦況 せんきょう はアメリカ軍 ぐん にとってかなり有利 ゆうり になっており、昨日 きのう まで張 は り詰 つ めた空気 くうき が流 なが れていたレッドビーチ2の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ においても、多少 たしょう は余裕 よゆう が見 み える様 よう になっていた。作戦 さくせん 初日 しょにち から同行 どうこう 取材 しゅざい を続 つづ けているシャーロッドに、第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 作戦 さくせん 主務 しゅむ 将校 しょうこう のトム・カルへイン少佐 しょうさ が「我々 われわれ は今 いま や日本 にっぽん 軍 ぐん の目玉 めだま をえぐり取 ど ったよ」と胸 むね を張 は った。カルへインはタラワ上陸 じょうりく 以降 いこう 、48時 じ 間 あいだ もの間 あいだ 不眠 ふみん 不休 ふきゅう で大声 おおごえ で命令 めいれい を叫 さけ び続 つづ けており、声 こえ はかれてしまい、すっかりと嗄 しゃが れ声 ごえ になっていた。そこに軍医 ぐんい 長 ちょう の大佐 たいさ や他 た の将校 しょうこう も加 くわ わり、この戦 たたか いがどれほどの激戦 げきせん であったか、感想 かんそう を述 の べあった。軍医 ぐんい 大佐 たいさ はこれまで600人 にん もの負傷 ふしょう 兵 へい をトリアージ してから、沖合 おきあい の病院 びょういん 船 せん に後送 こうそう していたが、従軍 じゅうぐん していたガダルカナルの戦 たたか いと比較 ひかく して「私 わたし もガダルカナルにいたがね。あれはDuck soup(簡単 かんたん な仕事 しごと という意味 いみ )だったよ」と述 の べ、それを聞 き いていた海兵 かいへい 隊 たい 将校 しょうこう は、自分 じぶん が従軍 じゅうぐん したヨーロッパ戦線 せんせん のハスキー作戦 さくせん と比較 ひかく して「わたしはシチリア島 とう 上陸 じょうりく に参加 さんか しましたが、あれ(ドイツ軍 ぐん )はしゃれた部隊 ぶたい で、9割 わり は娘 むすめ のようなものだった」とこの戦 たたか いがいかに厳 きび しいものであったか語 かた り合 あ った。それを聞 き いていたカルへインはしみじみと以下 いか のように振 ふ り返 かえ っている。
これはガダルカナルより遥 はる かにひどかったばかりではなく、私 わたし がこの軍人 ぐんじん 商売 しょうばい をはじめて30年間 ねんかん 見 み た中 なか で、最悪 さいあく のどえらい戦闘 せんとう だったよ。 — トム・カルへイン
軍人 ぐんじん 同士 どうし の話 はなし を聞 き いていたシャーロッドは「おそらくこのタラワの戦 たたか いが、結局 けっきょく 。歴史 れきし になろうとしている」という想 おも いを胸 むね に抱 だ いている。
戦況 せんきょう は大 おお きく動 うご いており、旗艦 きかん 「メリーランド」艦上 かんじょう からでは作戦 さくせん 指揮 しき に支障 ししょう をきたす様 よう になってきたため、師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスは参謀 さんぼう ら約 やく 10人 にん の司令 しれい 部 ぶ 要員 よういん を連 つ れて、タラワ島 とう 上 じょう に師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ を前進 ぜんしん させることとした。午前 ごぜん 11:55にジュリアン・スミス以下 いか 司令 しれい 部 ぶ 要員 よういん はアムトラックに搭乗 とうじょう し、まずは安全 あんぜん が確保 かくほ されているグリーンビーチに向 む かい、そこで本日 ほんじつ 上陸 じょうりく したばかりの第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい を視察 しさつ した。その後 ご 、アムトラックに乗 の って、次 つぎ はエドソンとシャウプがいるレッドビーチ2の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を目指 めざ したが、途中 とちゅう で陸上 りくじょう の日本 にっぽん 軍 ぐん から射撃 しゃげき を浴 あ びせられ、操縦 そうじゅう 兵 へい が負傷 ふしょう してしまった。あやうく難 なん を逃 のが れたジュリアン・スミスらは、アムトラックを乗 の り換 か えてレッドビーチ2に無事 ぶじ に到着 とうちゃく すると、エドソンとシャウプから詳 くわ しい戦況 せんきょう 報告 ほうこく を受 う けた。
第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ 陥落 かんらく [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん の地下 ちか 陣地 じんち を攻撃 こうげき するアメリカ海兵 かいへい 隊 たい
師団 しだん 長 ちょう が、前線 ぜんせん を視察 しさつ している頃 ころ 、第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん 各 かく 連隊 れんたい は進撃 しんげき を開始 かいし していた。本日 ほんじつ の攻略 こうりゃく 目標 もくひょう の中 なか でもっとも重要 じゅうよう であったのは、タラワ中部 ちゅうぶ にあった第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい 海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい の鉄筋 てっきん コンクリート製 せい の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ であった。これまで散々 さんざん 砲 ほう 爆 ばく 撃 げき の目標 もくひょう とされてきたが、これまで撃破 げきは されることもなかった。攻略 こうりゃく を担当 たんとう したのが、昨日 きのう にサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう で徹底的 てっていてき に叩 たた かれた第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい であった。昨日 きのう も第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ と周辺 しゅうへん 陣地 じんち を攻撃 こうげき していたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の陣地 じんち は強固 きょうこ で撃退 げきたい されていた。特 とく に戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を守 まも る3か所 しょ の機銃 きじゅう 座 ざ に苦戦 くせん を強 し いられていた。この機銃 きじゅう 座 ざ はそれぞれ鋼鉄 こうてつ や椰子 やし の木 き の丸太 まるた で構築 こうちく された頑強 がんきょう な作 つく りで、互 たが いが連携 れんけい しあって死角 しかく もなかった。
第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい にはM3軽 けい 戦車 せんしゃ 3輌 りょう が支援 しえん につき日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち に攻撃 こうげき を開始 かいし したが、搭載 とうさい しているM6 37 mm 戦車 せんしゃ 砲 ほう は全 まった くの威力 いりょく 不足 ふそく で、ときには日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち に砲身 ほうしん が届 とど くぐらいの位置 いち まで接近 せっきん して主砲 しゅほう を撃 う ち込 こ んでも破壊 はかい することはできなかった。そのうち1輌 りょう のM3軽 けい 戦車 せんしゃ が地雷 じらい で撃破 げきは されたので、残 のこ ったM3軽 けい 戦車 せんしゃ は撤退 てったい し、代 か わりに上陸 じょうりく したばかりのM3 75mm対戦 たいせん 車 しゃ 自 じ 走 はし 砲 ほう 2輌 りょう が投入 とうにゅう されたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の集中 しゅうちゅう 砲撃 ほうげき を浴 あ びてうち1輌 りょう が撃破 げきは された。そのため、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん はこれまで通 とお りに危険 きけん を冒 おか しながら、火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き や爆薬 ばくやく で1個 いっこ ずつ日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち を撃破 げきは していった。そのうちに1輌 りょう のM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が部隊 ぶたい に合流 ごうりゅう して、その強力 きょうりょく な75mm砲 ほう で支援 しえん を開始 かいし した。
戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ を守 まも る3か所 しょ の機銃 きじゅう 座 ざ は健在 けんざい で、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は増 ふ え続 つづ けていたが、そのうち迫撃 はくげき 砲 ほう の集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか によってそのうちの1か所 しょ の陣地 じんち が爆 ばく 散 ち 、別 べつ の機銃 きじゅう 座 ざ にはM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ が75mm砲 ほう を何 なん 十 じゅう 発 はつ も撃 う ち込 こ んでついに撃破 げきは した。日本 にっぽん 兵 へい が立 た て籠 こ もっていたのは、戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ の傍 はた にある地下 ちか 陣地 じんち で、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい からは砂山 すなやま に見 み えたが、工兵 こうへい の決死 けっし 隊 たい が陣地 じんち の出入 でい り口 ぐち を爆薬 ばくやく で爆破 ばくは して日本 にっぽん 兵 へい を閉 と じ込 こ めると、火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き を持 も ってその砂山 すなやま を登 のぼ っていった。砂山 すなやま の頂上 ちょうじょう を守 まも るために他 た の出入 でい り口 ぐち から日本 にっぽん 兵 へい が飛 と び出 だ してきて、工兵 こうへい に向 む かって突撃 とつげき してきた。先頭 せんとう を登 のぼ っていたのは工兵 こうへい のアレキサンダー・ボニマン中尉 ちゅうい であったが、ボニマンは怯 ひる むことなく、装備 そうび していた火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で日本 にっぽん 兵 へい 3人 にん を焼 やき 殺 ころ したのち、自分 じぶん も日本 にっぽん 兵 へい の銃弾 じゅうだん を浴 あ びて戦死 せんし した。ボニマンにはこれまでの殊勲 しゅくん も含 ふく めて名誉 めいよ 勲章 くんしょう が送 おく られている。ボニマンの活躍 かつやく もあって砂山 すなやま の頂上 ちょうじょう まで登 のぼ りきった工兵 こうへい たちは火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で地下 ちか 陣地 じんち の内部 ないぶ を焼 や き尽 つ くした。仕上 しあ げはこれまで大 だい 活躍 かつやく してきたブルドーザー数 すう 台 だい が、残 のこ った日本 にっぽん 兵 へい を生 い き埋 う めにしてしまった。こうして第 だい 3特別 とくべつ 根拠地 こんきょち 隊 たい の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ は陥落 かんらく し、のちにこの地下 ちか 陣地 じんち から300人 にん の日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい が収容 しゅうよう された。
火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で日本 にっぽん 軍 ぐん の地下 ちか 陣地 じんち を攻撃 こうげき するアメリカ海兵 かいへい 隊 たい
昨日 きのう ゴムボートでグリーンビーチへに上陸 じょうりく した第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は、同 おな じく昨日 きのう グリーンビーチに上陸 じょうりく していた第 だい 2戦車 せんしゃ 大隊 だいたい 軽 けい 戦車 せんしゃ 中隊 ちゅうたい とM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ 1輌 りょう を先頭 せんとう にして、タラワ南 みなみ 海岸 かいがん の掃討 そうとう に出撃 しゅつげき した。タラワ西海岸 にしかいがん 方面 ほうめん の日本 にっぽん 軍 ぐん は昨日 きのう までに徹底的 てっていてき に叩 たた かれており、第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は微弱 びじゃく な日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう を撃破 げきは しながら南 みなみ 海岸 かいがん に向 む けて順調 じゅんちょう に進撃 しんげき していった。南 みなみ 海岸 かいがん にも、アメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく に備 そな えて多数 たすう の陣地 じんち が構築 こうちく されており、第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい はその陣地 じんち を一 ひと つずつ、戦車 せんしゃ 砲 ほう や爆薬 ばくやく で破壊 はかい していったが
これらの陣地 じんち に備 そな え付 つ けてあった火砲 かほう や機銃 きじゅう は既 すで に北部 ほくぶ での戦闘 せんとう に投入 とうにゅう されており、多 おお くが空 そら の陣地 じんち であった。
陣地 じんち 内 ない に立 た て籠 こも っていたのは、これまで前線 ぜんせん に投入 とうにゅう されていなかった軍属 ぐんぞく や待避 たいひ していた負傷 ふしょう 兵 へい が殆 ほとん どであり、抵抗 ていこう は弱弱 よわよわ しかった。他 た の連隊 れんたい とは異 こと なり、これまでまともな戦闘 せんとう をしておらず殆 ほとん ど消耗 しょうもう していなかった第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は存分 ぞんぶん に暴 あば れまわり、揚陸 ようりく していたM3 75mm対戦 たいせん 車 しゃ 自 じ 走 はし 砲 ほう に搭乗 とうじょう して、日本 にっぽん 軍 ぐん の空 そら の陣地 じんち に高性能 こうせいのう 爆薬 ばくやく の砲弾 ほうだん を雨 あめ あられのように撃 う ち込 こ み、陣地 じんち から頭 あたま をあげた日本 にっぽん 兵 へい を機銃 きじゅう や自動 じどう 小銃 しょうじゅう で撃 う ちまくった。第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は、これまでにまともに戦闘 せんとう に参加 さんか しておらず、戦友 せんゆう の仇 かたき をとるべく気負 きお っていただけに戦闘 せんとう は荒々 あらあら しく、弱弱 よわよわ しい日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう に対 たい してもかなりの損害 そんがい を被 こうむ ってしまったが、午前 ごぜん 11:00までには、他 た の海兵 かいへい 連隊 れんたい が、先日 せんじつ レッドビーチ2から進撃 しんげき して死闘 しとう の末 すえ に獲得 かくとく していた南 みなみ 海岸 かいがん の橋 はし 頭 あたま 保 ほ まで到達 とうたつ することができた。その間 あいだ に第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は250人 にん の日本 にっぽん 兵 へい を殺害 さつがい したと報告 ほうこく している。
第 だい 3海軍 かいぐん 根拠地 こんきょち 隊 たい の戦闘 せんとう 指揮 しき 所 しょ が陥落 かんらく した後 のち 、北 きた 海岸 かいがん 陣地 じんち の掃討 そうとう も行 おこな われていたが、日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう は弱 よわ く陣地 じんち は一気 いっき に包囲 ほうい され殲滅 せんめつ された。日本 にっぽん 軍 ぐん の士気 しき 低下 ていか が著 いちじる しく、陣地 じんち 内 ない からは90人 にん もの自決 じけつ した日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい が発見 はっけん された。その後 ご も、北 きた 海岸 かいがん 線 せん は第 だい 8海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい 、南 みなみ 海岸 かいがん 線 せん は第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい と本日 ほんじつ 上陸 じょうりく したばかりの同 どう 第 だい 3大隊 だいたい が、日本 にっぽん 軍 ぐん を島 しま 東 ひがし 端 はし に追 お い込 こ むべく進撃 しんげき を続 つづ けており、夕方 ゆうがた までには滑走 かっそう 路 ろ の東端 ひがしばた まで達 たっ してこの日 ひ の進撃 しんげき を終 お えた。既 すで に島 しま の2/3はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の手 て に落 お ちていたが、レッドビーチ1とレッドビーチ2の境界 きょうかい 付近 ふきん の佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 本部 ほんぶ は未 いま だ健在 けんざい であった。佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 本部 ほんぶ は堅 かた く陣地 じんち が構築 こうちく されたタラワのなかでも、特 とく に巧 たく みに陣地 じんち 構築 こうちく がなされており、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の3日間 にちかん に渡 わた る猛攻 もうこう をはねのけ、逆 ぎゃく に最 もっと も大 おお きな損害 そんがい を与 あた えていた。戦隊 せんたい 本部 ほんぶ 陣地 じんち 前 まえ のビーチには大量 たいりょう のアムトラックや上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい の残骸 ざんがい が転 ころ がっており、その正確 せいかく な砲撃 ほうげき の効果 こうか を如実 にょじつ に表 あらわ していた。結局 けっきょく 、23日 にち 中 ちゅう に攻略 こうりゃく することはできず、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい は陣地 じんち を包囲 ほうい した状態 じょうたい で野営 やえい に入 はい った。
上陸 じょうりく 2日 にち までと比較 ひかく すると、戦況 せんきょう はかなり改善 かいぜん していたとはいえ、この日 ひ もアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の損害 そんがい は大 おお きかった。タラワに上陸 じょうりく して戦況 せんきょう をつぶさに観察 かんさつ していた師団 しだん 長 ちょう のジュリアン・スミスは、想定 そうてい よりも日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう 力 りょく が衰 おとろ えていないと感 かん じて、以下 いか のような戦況 せんきょう 報告 ほうこく を軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ に打電 だでん している。
我 わ が陣地 じんち 内 ない の前線 ぜんせん の西方 せいほう にある多 おお くの日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち は未 いま だに弱体 じゃくたい 化 か されず。前進 ぜんしん は遅々 ちち とし、犠牲 ぎせい 極 きわ めて大 だい なり。完全 かんぜん 占領 せんりょう のためには、少 すく なくともさらに5日間 にちかん を必要 ひつよう とせん。 — ジュリアン・スミス
多 おお くの日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい を見下 みお ろすアメリカ軍 ぐん
驚異 きょうい 的 てき な粘 ねば りで戦 たたか い続 つづ けてきた日本 にっぽん 軍 ぐん ではあったが、3日間 にちかん にわたる激戦 げきせん でほとんどの重 じゅう 装備 そうび を失 うしな っていた上 うえ 、飲 の み水 みず や食料 しょくりょう にも事欠 ことか き、激減 げきげん した五体 ごたい 満足 まんぞく の兵士 へいし も心身 しんしん ともに疲労 ひろう 困憊 こんぱい し、尽忠 じんちゅう 報国 ほうこく の至誠 しせい だけがかろうじて戦意 せんい を持続 じぞく させてきた。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が進撃 しんげき を停止 ていし し野営 やえい に入 はい った滑走 かっそう 路 ろ 東端 ひがしばた 近 ちか くの日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち には、西方 せいほう から追 お い立 た てられてきた日本 にっぽん 兵 へい 約 やく 350人 にん が集結 しゅうけつ していた。殆 ほとん どの士官 しかん が戦死 せんし しており、この350人 にん の部隊 ぶたい を指揮 しき していたのは中尉 ちゅうい であったが、その中尉 ちゅうい が扇動 せんどう するわけでもなく、もはや座 ざ して死 し を待 ま つよりむしろ撃 う って出 で ようということで部隊 ぶたい の意思 いし が固 かた まった。最後 さいご の攻撃 こうげき は日本 にっぽん 軍 ぐん 伝統 でんとう の夜襲 やしゅう でいくこととなり、攻撃 こうげき に参加 さんか できそうもない負傷 ふしょう 兵 へい は自 みずか ら小銃 しょうじゅう の銃口 じゅうこう をくわえて、足 あし の親指 おやゆび で引 ひ き金 がね を引 ひ いて自決 じけつ したり、負傷 ふしょう 兵 へい 同士 どうし 銃剣 じゅうけん で刺 さ し違 ちが えたりして次々 つぎつぎ と自決 じけつ していった。
攻撃 こうげき は3波 は に渡 わた って行 おこな うこととなり、1波 は と2波 は は20人 にん ~30人 にん でアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の野営 やえい 地 ち に侵入 しんにゅう し、3波 は で一気 いっき に残 のこ りの兵士 へいし が突撃 とつげき することとなっていた。夜襲 やしゅう は午後 ごご 19:30から開始 かいし された。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の記録 きろく によれば、まずは日本 にっぽん 兵 へい 50人 にん ほどが滑走 かっそう 路 ろ から南 みなみ 海岸 かいがん 線 せん まで展開 てんかい していた第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい の中間 ちゅうかん に深 ふか い藪 やぶ から忍 しの び出 で てきて、そこで足場 あしば を固 かた めようとした。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい は日本 にっぽん 軍 ぐん の潜入 せんにゅう に気 き が付 つ くと、大隊 だいたい 予備 よび 兵力 へいりょく と迫撃 はくげき 砲 ほう 隊 たい もつぎ込 こ んで、激戦 げきせん の末 すえ に一旦 いったん は撃退 げきたい した。次 つぎ の攻撃 こうげき は午後 ごご 23:00に開始 かいし され、正面 しょうめん の雑木林 ぞうきばやし の中 なか からまた50人 にん くらいの日本 にっぽん 兵 へい の一団 いちだん が喚声 かんせい をあげながら突撃 とつげき を行 おこな い、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の陣地 じんち を手榴弾 しゅりゅうだん や小銃 しょうじゅう で攻撃 こうげき してきた。先 さき の攻撃 こうげき で防御 ぼうぎょ を固 かた めていた第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい は、迫撃 はくげき 砲 ほう と重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう を日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して撃 う ちまくり、この50人 にん の一団 いちだん をたちまち撃破 げきは してしまった。
この2波 は に渡 わた る攻撃 こうげき は、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の陣地 じんち を特定 とくてい するための牽制 けんせい 攻撃 こうげき であり、第 だい 2波 は が撃破 げきは されると、午前 ごぜん 4:00に暴露 ばくろ されたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の陣地 じんち に対 たい して、日本 にっぽん 軍 ぐん 夜襲 やしゅう 部隊 ぶたい 主力 しゅりょく が突撃 とつげき してきた。しかし、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい もこれまでの日本 にっぽん 軍 ぐん の攻撃 こうげき で、警戒 けいかい を強 つよ めており、日本 にっぽん 軍 ぐん 約 やく 300人 にん が突撃 とつげき してくると、陸上 りくじょう からの火砲 かほう や重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう の集中 しゅうちゅう 攻撃 こうげき だけでなく、海岸 かいがん 線 せん 近 ちか くまで接近 せっきん していた駆逐 くちく 艦 かん の5インチ砲 ほう も日本 にっぽん 軍 ぐん に砲撃 ほうげき を行 おこな った。アメリカ軍 ぐん の集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか の前 まえ に日本 にっぽん 兵 へい は陣地 じんち にたどり着 つ く前 まえ に次々 つぎつぎ と斃れていったが、それでも陣地 じんち に到達 とうたつ できた日本 にっぽん 兵 へい もおり、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん と銃剣 じゅうけん と小銃 しょうじゅう の台尻 だいじり で激 はげ しい白兵戦 はくへいせん を展開 てんかい した。しかし戦闘 せんとう は約 やく 1時 じ 間 あいだ で終 お わり、夜 よる が明 あ けて日 ひ が昇 のぼ ると日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい 300体 たい がアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 陣地 じんち の内外 ないがい に横 よこ たわっていた。この攻撃 こうげき に参加 さんか した音 おと 里 さと 一等 いっとう 水兵 すいへい は、突撃 とつげき 中 ちゅう に背後 はいご で迫撃 はくげき 砲 ほう 弾 だん がさく裂 れつ し、その衝撃 しょうげき で気 き を失 うしな ったところをアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に捕虜 ほりょ として収容 しゅうよう され、タラワからの数少 かずすく ない生還 せいかん 者 しゃ となった。
日本 にっぽん 軍 ぐん の組織 そしき 的 てき 抵抗 ていこう 終結 しゅうけつ [ 編集 へんしゅう ]
激戦 げきせん により焼 や け野原 のはら となったタラワ
日本 にっぽん 軍 ぐん による最後 さいご の夜襲 やしゅう は日本 にっぽん 軍 ぐん の抵抗 ていこう 力 りょく を喪失 そうしつ させ、結果 けっか 的 てき にタラワの戦闘 せんとう を早 はや く終結 しゅうけつ させることとなった。ジュリアン・スミスは最後 さいご の予備 よび 兵力 へいりょく であった第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい をタラワに上陸 じょうりく させて、最後 さいご の仕上 しあ げを行 おこな った。まだ日本 にっぽん 軍 ぐん の支配 しはい 地域 ちいき であるタラワ東端 ひがしばた に対 たい して、30分間 ふんかん の艦載 かんさい 機 き による空爆 くうばく ののち、駆逐 くちく 艦 かん による艦 かん 砲 ほう とアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の火砲 かほう による弾幕 だんまく 砲撃 ほうげき が浴 あ びせられた。その後 ご にM4中 ちゅう 戦車 せんしゃ 2両 りょう とM3軽 けい 戦車 せんしゃ 7輌 りょう を先頭 せんとう にして、比較的 ひかくてき 損害 そんがい の少 すく ない第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい と、上陸 じょうりく したばかりの第 だい 2大隊 だいたい が日本 にっぽん 軍 ぐん をタラワ東 ひがし 端 はし に追 お い詰 つ めて殲滅 せんめつ するために進撃 しんげき を開始 かいし したが、先頭 せんとう のわずか9輌 りょう の戦車 せんしゃ は、これまでの戦 たたか いで撃破 げきは を免 まぬか れた全 ぜん 車両 しゃりょう であり、これまでにアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は33輌 りょう もの戦車 せんしゃ を失 うしな っていた[ 185] 。日本 にっぽん 軍 ぐん の戦意 せんい は昨日 きのう の夜襲 やしゅう の失敗 しっぱい で完全 かんぜん に砕 くだ かれており、ほとんど抵抗 ていこう はなかった。進撃 しんげき するアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は多 おお くの日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい を発見 はっけん したが、多 おお くが自 みずか ら命 いのち を絶 た った遺体 いたい であった。生 い き残 のこ った日本 にっぽん 兵 へい は自決 じけつ をせずとも、放心 ほうしん したようにアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の進撃 しんげき を見 み つめるだけであり、そういう日本 にっぽん 兵 へい に対 たい しても投降 とうこう を呼 よ びかけることもせず、ようしゃなく銃撃 じゅうげき や火炎 かえん 放射 ほうしゃ が浴 あ びせられた。こうして午前 ごぜん 中 ちゅう には第 だい 6海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい はタラワの東 ひがし 端 はし に達 たっ したが、500人 にん の日本 にっぽん 兵 へい を掃討 そうとう したのに対 たい して、死傷 ししょう 者 しゃ はわずか20人 にん であった。
最後 さいご まで敢闘 かんとう してきた佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 本部 ほんぶ 陣地 じんち も終焉 しゅうえん を迎 むか えつつあった。上陸 じょうりく 初日 しょにち にこの陣地 じんち からの猛 もう 砲撃 ほうげき で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ り、結局 けっきょく レッドビーチ1に上陸 じょうりく することができずに師団 しだん 長 ちょう ジュリアン・スミスから叱責 しっせき された第 だい 2海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい を主力 しゅりょく として、3方向 ほうこう から陣地 じんち を包囲 ほうい したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は、午前 ごぜん 10:00から2輌 りょう のM3 75mm対戦 たいせん 車 しゃ 自 じ 走 はし 砲 ほう の支援 しえん により進撃 しんげき を開始 かいし した。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の1部 ぶ はアムトラックの残骸 ざんがい 多数 たすう が転 ころ がるサンゴ礁 さんごしょう 上 じょう からも進撃 しんげき した。75mm砲 ほう の支援 しえん を受 う けたアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん は、強固 きょうこ な陣地 じんち をひとつずつ爆薬 ばくやく と火炎 かえん 放射 ほうしゃ で撃破 げきは していったが、東端 ひがしばた の日本 にっぽん 軍 ぐん と同様 どうよう にこちらの日本 にっぽん 軍 ぐん も戦意 せんい を喪失 そうしつ しており、昨日 きのう までとは打 う って変 か わって抵抗 ていこう は弱 よわ かった。それでもアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は慎重 しんちょう に3時 じ 間 あいだ もの時間 じかん をかけて進撃 しんげき し、午後 ごご 13:00にはこれまで散々 さんざん 苦 くる しめられてきた佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 本部 ほんぶ 陣地 じんち を制圧 せいあつ した。生 い き残 のこ っていた日本 にっぽん 兵 へい の殆 ほとん どは自決 じけつ をしており、捕虜 ほりょ となったのは、いずれも重傷 じゅうしょう で自決 じけつ することすらできなかった1人 ひとり の士官 しかん と、16人 にん の下士官 かしかん 兵 へい のみであった。その他 た 、129人 にん の朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ も捕虜 ほりょ となったが、朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ はすすんで捕虜 ほりょ となり、その後 ご はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に協力 きょうりょく を申 もう し出 で て、アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい の埋葬 まいそう などを手伝 てつだ っている。
「ガルヴァニック作戦 さくせん 」のアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 総 そう 指揮 しき 官 かん ホーランド・スミスは、マキンの戦 たたか いが予想 よそう 以上 いじょう に長引 ながび き、この時点 じてん でもマキン沖合 おきあい にいたが、ジュリアン・スミスから佐世保 させぼ 第 だい 7特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 本部 ほんぶ 陣地 じんち 攻略 こうりゃく の報告 ほうこく を受 う けると、午後 ごご 13:40にタラワの確保 かくほ を正式 せいしき に宣言 せんげん した。しかし、この後 のち も数日 すうじつ にわたって陣地 じんち 内 ない にわずかに生 い き残 のこ っていた日本 にっぽん 兵 へい の掃討 そうとう 戦 せん が続 つづ いた。こうしてベティオ島 とう を攻略 こうりゃく したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は、他 た のタラワ環礁 かんしょう 内 ない の島 しま も順次 じゅんじ 攻略 こうりゃく を進 すす めていった。11月28日 にち に最北端 さいほくたん のナァ島 とう (ドイツ語 ご 版 ばん ) まで達 たっ し、少数 しょうすう の日本 にっぽん 兵 へい とガダルカナルの戦 たたか いを彷彿 ほうふつ させるようなジャングル内 ない の白兵戦 はくへいせん を演 えん じてこれを殲滅 せんめつ した。ベティオ島 とう 以外 いがい のタラワ環礁 かんしょう における戦 たたか いで、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい は91人 にん が死傷 ししょう したが、日本 にっぽん 兵 へい 175人 にん を掃討 そうとう し、朝鮮 ちょうせん 人 じん 捕虜 ほりょ 2人 にん を得 え た。
司令 しれい 官 かん の柴崎 しばざき が艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき で戦死 せんし したときに、自分 じぶん の戦車 せんしゃ と同乗 どうじょう の戦車 せんしゃ 兵 へい を失 うしな っていた大貫 おおぬき 唯男 ただお 海軍 かいぐん 上等 じょうとう 兵曹 へいそう は、その後 ご も歩兵 ほへい として戦 たたか い続 つづ け、最後 さいご の夜襲 やしゅう にも参加 さんか 予定 よてい であったが、出撃 しゅつげき 前 まえ に潜 ひそ んでいた地下 ちか 壕 ごう がアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に発見 はっけん され、火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き で攻撃 こうげき された。その火炎 かえん 放射 ほうしゃ でこれまで一緒 いっしょ に戦 たたか ってきた15人 にん の戦友 せんゆう は焼死 しょうし したが、大貫 おおぬき は奇跡 きせき 的 てき に戦友 せんゆう の遺体 いたい の下敷 したじ きとなって火炎 かえん 放射 ほうしゃ を避 さ けることができ、軽症 けいしょう の火傷 かしょう で生 い き残 のこ った。どうにか地下 ちか 壕 ごう からはい出 だ したときには、最後 さいご の夜襲 やしゅう は終 お わっており、戦場 せんじょう は静寂 せいじゃく に包 つつ まれていた。これまで死 し ぬ気 き であった大貫 おおぬき も、全 まった くの予想 よそう 外 がい で生存 せいぞん したことから命 いのち が惜 お しくなり、可能 かのう なかぎり生 い き抜 ぬ こうと決心 けっしん して、夜陰 やいん に紛 まぎ れて、タラワ環礁 かんしょう 内 ない の隣 となり の小島 こじま まで海 うみ を渡 わた って行 い った。しかし、その島 しま も既 すで にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい に占領 せんりょう されており、大貫 おおぬき はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の目 め を盗 ぬす みながら、小 しょう 魚 さかな や小 こ エビや椰子 やし の実 み を食 た べてかろうじて生 い きながらえていた。
やがて、あちこちの島 しま から大貫 おおぬき と同様 どうよう な境遇 きょうぐう の7人 にん が集 あつ まり、しばらくは共同 きょうどう 生活 せいかつ をしていたが、小島 こじま でアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の目 め を盗 ぬす みながら集 あつ められる食料 しょくりょう はたかが知 し れており、そのうち、生 い きるためにまた全員 ぜんいん がバラバラに散 ち っていった。特 とく に大貫 おおぬき を苦 くる しめたのが飲料 いんりょう 水 すい の不足 ふそく であり、やむなく海水 かいすい を飲 の んで渇 かわ きをいやしていたが、3週間 しゅうかん も経 た ったころには限界 げんかい を迎 むか えて、意識 いしき が朦朧 もうろう としているところをアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん に見 み つけられて捕虜 ほりょ となった。大貫 おおぬき を発見 はっけん したアメリカ海兵 かいへい 隊 たい は日本 にっぽん 兵 へい がまだ生存 せいぞん していることを認識 にんしき し、タラワ環礁 かんしょう 内 ない を徹底的 てっていてき に捜索 そうさく した結果 けっか 、一旦 いったん は別 わか れた7人 にん も全員 ぜんいん 捕虜 ほりょ となった。大貫 おおぬき と7人 にん の日本 にっぽん 兵 へい は、十分 じゅうぶん な食事 しょくじ を与 あた えられ、治療 ちりょう を受 う けた後 のち 、アメリカ国内 こくない の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ を2年間 ねんかん 転々 てんてん とし終戦 しゅうせん を迎 むか えた。
タラワ確保 かくほ 後 ご に行 おこな われたアメリカ国旗 こっき 掲揚 けいよう 式 しき
戦闘 せんとう 終了 しゅうりょう 直後 ちょくご のタラワを視察 しさつ する第 だい 53任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん ハリー・W・ヒル少将 しょうしょう
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい がタラワを確保 かくほ した後 のち 、アメリカ軍 ぐん 高官 こうかん らの戦場 せんじょう 視察 しさつ が始 はじ まった。11月25日 にち には、ようやくマキンの攻略 こうりゃく に目途 もくと を付 つ けたホーランド・スミスがタラワを訪 おとず れた。午前 ごぜん 中 ちゅう はPBYカタリナ 飛行 ひこう 艇 てい で上空 じょうくう からタラワを観察 かんさつ したが、あまりの惨状 さんじょう に下記 かき の印象 いんしょう を抱 だ いた。
我 わ が軍 ぐん の死者 ししゃ がサンゴ礁 さんごしょう の水 みず に浮 う かび、血 ち まみれの海岸 かいがん に横 よこ たわる光景 こうけい を、わたしはけっして忘 わす れないだろう。砲 ほう 爆 ばく 撃 げき で穴 あな だらけの島 しま の上空 じょうくう には、サンゴのほこりと死 し の瘴気 しょうき がたれこめ、胸 むね が悪 わる くなるようで、ぞっとした。 — ホーランド・スミス
午後 ごご にタラワに上陸 じょうりく したホーランド・スミスは、飛行場 ひこうじょう 付近 ふきん で簡単 かんたん な国旗 こっき 掲揚 けいよう 式 しき を執 と り行 おこな ったが、島上 しまがみ には3日間 にちかん の戦闘 せんとう で疲労 ひろう 困憊 こんぱい して汚 よご れ切 き ったアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん がアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん があふれていた。アメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の多 おお くは放心 ほうしん 状態 じょうたい で腰 こし を下 お ろし、遠 とお くを見 み つめるような目 め つきをしており、それを見 み てホーランド・スミスは衝撃 しょうげき を覚 おぼ えた。その後 ご は戦場 せんじょう を見 み て回 まわ り、特 とく に日本 にっぽん 軍 ぐん の構築 こうちく していた陣地 じんち の頑強 がんきょう さに目 め を見張 みは った。ホーランド・スミスは従軍 じゅうぐん した第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん での記憶 きおく を振 ふ り返 かえ り「この日本 にっぽん 軍 ぐん は、防御 ぼうぎょ 施設 しせつ の構築 こうちく にかけては名人 めいじん 揃 ぞろ いであった。私 わたし は前 ぜん 大戦 たいせん ではこれらの防御 ぼうぎょ のようなものは決 けっ して見 み なかった。ドイツ軍 ぐん はこのようなものは構築 こうちく できなかった」と感想 かんそう を述 の べている。陣地 じんち の多 おお くは艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき や艦載 かんさい 機 き の爆 ばく 撃 げき では殆 ほとん ど破壊 はかい されておらず、ホーランド・スミスは「海軍 かいぐん は砲撃 ほうげき の効果 こうか 的 てき な効果 こうか を誇張 こちょう する傾向 けいこう があり、この欠点 けってん のせいで仕事 しごと が不完全 ふかんぜん におこなわれることになった」と、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が上陸 じょうりく する前 まえ に、もっと徹底 てってい した砲 ほう 爆 ばく 撃 げき を加 くわ えるべきであったとアメリカ海軍 かいぐん を批判 ひはん したが、この後 のち の水陸 すいりく 両用 りょうよう 作戦 さくせん においても、この問題 もんだい は繰 く り返 かえ されることとなった。(詳細 しょうさい は#戦 たたか いの評価 ひょうか ・教訓 きょうくん で後述 こうじゅつ )
翌 よく 11月 がつ 26日 にち には、第 だい 53任務 にんむ 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん ハリー・W・ヒル (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう も上陸 じょうりく した。ヒルもホーランド・スミス同様 どうよう に激 はげ しい衝撃 しょうげき を受 う け、「我々 われわれ にとって(タラワは)義務 ぎむ 教育 きょういく 」と考 かんが えて第 だい 5艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん レイモンド・スプルーアンス 中将 ちゅうじょう にも視察 しさつ を勧 すす めた。11月27日 にち にスプルーアンスは旗艦 きかん 「インディアナポリス」から上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい に乗 の り込 こ みタラワに上陸 じょうりく した。スプルーアンスは日本 にっぽん 軍 ぐん の巧 たく みな陣地 じんち 構築 こうちく 状 じょう 況 きょう を目 め にして、砲 ほう 爆 ばく 撃 げき が見込 みこ みに反 はん して日本 にっぽん 軍 ぐん の防御 ぼうぎょ 力 りょく を大幅 おおはば に低下 ていか させられなかった理由 りゆう を理解 りかい できた。スプルーアンスら海軍 かいぐん 高官 こうかん は、このような凄惨 せいさん な戦場 せんじょう をこれまで見 み た経験 けいけん がなく、皆 みな 一様 いちよう に衝撃 しょうげき を受 う けていたが、スプルーアンスも例外 れいがい ではなく、表情 ひょうじょう は無表情 むひょうじょう で、その場 ば では意見 いけん を述 の べることすらできなかった。視察 しさつ 後 ご にスプルーアンスは妻 つま に宛 あ てた手紙 てがみ に本音 ほんね を書 か いており、日本 にっぽん 兵 へい の遺体 いたい でいっぱいであったトーチカを見 み て「一目 いちもく 見 み ただけで耐 た えられない思 おも い」がしたことに加 くわ えて、以下 いか のように、今後 こんご の日本 にっぽん 軍 ぐん との戦 たたか いの展開 てんかい についての予想 よそう も書 か いている。
日本 にっぽん 軍 ぐん を撃破 げきは するためには、日本 にっぽん 軍 ぐん が防御 ぼうぎょ しているあらゆる島 しま において、壕 ごう に入 はい っている日本 にっぽん 兵 へい の1人 ひとり 1人 にん を見 み つけ出 だ して殺 ころ さなければならない。 — レイモンド・スプルーアンス
このスプルーアンスの予想 よそう は的中 てきちゅう し、スプルーアンスはサイパンの戦 たたか い や硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い など、タラワの戦 たたか いより大 だい 規模 きぼ の殲滅 せんめつ 戦 せん を余儀 よぎ なくされることになる。しかし、これはスプルーアンスは軍人 ぐんじん としての職業 しょくぎょう 的 てき 義務 ぎむ 感 かん によることばであり、このタラワの戦闘 せんとう の後 のち 、日本 にっぽん 兵 へい への敵意 てきい をむき出 だ しにした圧倒的 あっとうてき 多数 たすう のアメリカ軍人 ぐんじん やアメリカ国民 こくみん とは異 こと なり、日本 にっぽん 兵 へい に対 たい する敬意 けいい を持 も ち続 つづ けた。1944年 ねん に入 はい って真珠湾 しんじゅわん の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ の前 まえ を通 とお りかかったさい、鉄条 てつじょう 網 もう の中 なか にいた日本 にっぽん 兵 へい の捕虜 ほりょ に対 たい して「君 きみ たち日本 にっぽん 軍 ぐん の戦闘 せんとう ぶりは立派 りっぱ だ」と日本 にっぽん 兵 へい にも判 わか るように簡単 かんたん な英語 えいご で何 なん 回 かい も語 かた り掛 か けた。海軍 かいぐん 大将 たいしょう を示 しめ す4つ星 ほし の肩章 けんしょう を付 つ けた将官 しょうかん が熱心 ねっしん に語 かた り掛 か けてきたので、捕虜 ほりょ の日本 にっぽん 兵 へい は驚 おどろ いていたが、それを見守 みまも っていた多 おお くのアメリカ海軍 かいぐん の高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん も驚 おどろ いている。他 ほか にもスプルーアンスは、戦闘 せんとう で負傷 ふしょう して捕虜 ほりょ となった日本 にっぽん 兵 へい を病院 びょういん 船 せん で見舞 みま ったこともあった。
タラワの戦 たたか い当時 とうじ の連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ 、最 さい 前列 ぜんれつ 中央 ちゅうおう が連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 古賀 こが 峯 みね 一 いち 大将 たいしょう
タラワの戦 たたか いの間 あいだ 、アメリカ軍 ぐん の来襲 らいしゅう を知 し った日本 にっぽん 軍 ぐん は、救援 きゅうえん のために以下 いか のような作戦 さくせん をおこなっていたが、十分 じゅうぶん な成果 せいか を上 あ げることは出来 でき なかった。
まず連合 れんごう 艦隊 かんたい は、上陸 じょうりく のあった21日 にち に、ポンペイ島 とう にいた陸軍 りくぐん 甲 きのえ 支隊 したい の派遣 はけん を決 き めた。軽 けい 巡 じゅん 3隻 せき (那珂 なか 、五十鈴 いすず 、長良 ながら )、駆逐 くちく 艦 かん 2隻 せき (雷 かみなり 、響 ひびき )、輸送 ゆそう 船 せん 2隻 せき からなる輸送 ゆそう 部隊 ぶたい と、重 じゅう 巡 じゅん 4隻 せき (鳥海 とりうみ 、鈴谷 すずや 、熊野 くまの 、筑摩 ちくま )、軽 けい 巡 じゅん 1隻 せき (能代 のしろ )、駆逐 くちく 艦 かん 5隻 せき (早 はや 波 は 、藤波 ふじなみ 、初 はつ 月 つき 、野分 のわけ 、舞 まい 風 ふう )からなる邀撃 ようげき 部隊 ぶたい を編成 へんせい し、26日 にち までにマーシャル諸島 しょとう のクェゼリン に進出 しんしゅつ させた。しかし、タラワからの通信 つうしん が22日 にち の午前 ごぜん 中 ちゅう から途絶 とぜつ し続 つづ けたために、甲 きのえ 支隊 したい の派遣 はけん は中止 ちゅうし された[ 198] 。
つぎに連合 れんごう 艦隊 かんたい は潜水 せんすい 艦 かん 9隻 せき をギルバート海域 かいいき に進出 しんしゅつ させ、米 べい 海軍 かいぐん 機動 きどう 部隊 ぶたい の攻撃 こうげき 及 およ び索敵 さくてき を行 おこな った。その結果 けっか 、24日 にち に伊 い 175潜 せん (田畑 たばた 直 ただし 艦長 かんちょう )がマキン沖 おき で護衛 ごえい 空母 くうぼ リスカム・ベイ の撃沈 げきちん に成功 せいこう したが、日本 にっぽん 軍 ぐん は引 ひ き換 か えに伊 い 19 など潜水 せんすい 艦 かん 6隻 せき を失 うしな った。
また、マーシャル諸島 しょとう のルオット から出撃 しゅつげき した海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい による反撃 はんげき も行 おこな われた[ 198] 。21日 にち にはギルバート沖 おき の米 べい 機動 きどう 部隊 ぶたい を目標 もくひょう としたギルバート諸島 しょとう 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん が展開 てんかい され、軽 けい 空母 くうぼ インディペンデンス を大破 たいは させた。22日 にち には陸 りく 攻 おさむ 9機 き 、戦闘 せんとう 機 き 39機 き が発進 はっしん したが、天候 てんこう 不良 ふりょう のため途中 とちゅう で引 ひ き返 かえ した[ 198] 。この攻撃 こうげき 隊 たい は陸 りく 攻 おさむ の魚雷 ぎょらい を爆 ばく 弾 だん に積 つ み替 か えて、タラワ上陸 じょうりく 部隊 ぶたい の昼間 ひるま 攻撃 こうげき に再 ふたた び発進 はっしん したが、これも天候 てんこう 不良 ふりょう のため途中 とちゅう で引 ひ き返 かえ すこととなった[ 198] 。
22日 にち の夜 よる にルオットを発進 はっしん した陸 りく 攻 おさむ 4機 き は深夜 しんや 、タラワ上空 じょうくう に到着 とうちゃく した。陸 りく 攻 おさむ は米 べい 軍 ぐん の上陸 じょうりく 地点 ちてん と思 おも われる地点 ちてん を二 に 航 こう 過 すご して爆 ばく 弾 だん 8発 はつ を投下 とうか し、米 べい 軍 ぐん は戦死 せんし 者 しゃ 1名 めい と戦傷 せんしょう 者 しゃ 8名 めい を出 だ した[ 198] 。しかし、米 べい 軍 ぐん によればこの爆 ばく 撃 げき は日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち にも着弾 ちゃくだん してしまい、日本 にっぽん 軍 ぐん にも被害 ひがい が出 で たと思 おも われるが詳細 しょうさい は不明 ふめい である[ 198] 。
連合 れんごう 艦隊 かんたい はこの一連 いちれん のギルバート諸島 しょとう 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん で空母 くうぼ を8隻 せき 撃沈 げきちん したと過大 かだい 戦果 せんか 報告 ほうこく を行 おこな っており、大本営 だいほんえい もこれを終戦 しゅうせん まで信 しん じていた。その他 た の艦船 かんせん も多数 たすう 撃 げき 沈破したと判断 はんだん していた大本営 だいほんえい は、アメリカ軍 ぐん がその損害 そんがい から立 た ち直 なお るのに相当 そうとう な期間 きかん を要 よう するので、アメリカ軍 ぐん の中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう への進撃 しんげき の時期 じき は遅 おく れると、誤 あやま った戦果 せんか 判断 はんだん で都合 つごう のいい予測 よそく をしていた。その結果 けっか 、中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう への陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい の増強 ぞうきょう の時期 じき などで少 すく なくはない影響 えいきょう を及 およ ぼしている。ギルバート諸島 しょとう への侵攻 しんこう に関 かん しては、常 つね に日本 にっぽん 軍 ぐん は後手 ごて に回 まわ っており、連合 れんごう 艦隊 かんたい の情勢 じょうせい 判断 はんだん は、アメリカ軍 ぐん の計画 けいかく と対比 たいひ すると3週間 しゅうかん ものズレがあって、連合 れんごう 艦隊 かんたい はタラワやマキンを救援 きゅうえん することはできなかった。連合 れんごう 艦隊 かんたい が緻密 ちみつ な偵察 ていさつ 活動 かつどう で、より正確 せいかく な戦況 せんきょう 分析 ぶんせき とアメリカ軍 ぐん の侵攻 しんこう 計画 けいかく を察知 さっち できていれば、もっと効果 こうか 的 てき な戦力 せんりょく 配置 はいち によって、アメリカ軍 ぐん の損害 そんがい はさらに甚大 じんだい になっていたと評 ひょう されている。
連合 れんごう 艦隊 かんたい がギルバート救援 きゅうえん のために艦隊 かんたい を出撃 しゅつげき させることができなかったことに対 たい してニミッツは「日本 にっぽん 艦隊 かんたい は、島 しま 帝国 ていこく のいかなる地点 ちてん に対 たい するアメリカ艦隊 かんたい の進攻 しんこう 企図 きと を破砕 はさい するために出撃 しゅつげき し、強力 きょうりょく な抵抗 ていこう をする用意 ようい がなかった」と見透 みす かし、この後 のち の中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう への進攻 しんこう に対 たい する自信 じしん を深 ふか めている。
両 りょう 軍 ぐん の人的 じんてき ・物的 ぶってき 損失 そんしつ [ 編集 へんしゅう ]
戦闘 せんとう 終了 しゅうりょう 直後 ちょくご に作 つく られたタラワで戦死 せんし したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の墓地 ぼち
投降 とうこう した朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ
日本 にっぽん 軍 ぐん [ 5]
戦死 せんし 者 しゃ (軍属 ぐんぞく を含 ふく む)4,455名 めい ~ 約 やく 4,500名 めい
捕虜 ほりょ
軍人 ぐんじん 14名 めい ~17名 めい
朝鮮 ちょうせん 出身 しゅっしん 軍属 ぐんぞく 129名 めい ~132名 めい
アメリカ軍 ぐん
戦死 せんし ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ 1,009名 めい [ 203] ~1,140名 めい
戦傷 せんしょう 者 しゃ 2,101名 めい [ 206] ~2,309名 めい
戦車 せんしゃ 33輌 りょう [ 207]
アムトラック (Amtrak)90輌 りょう
戦闘 せんとう の結果 けっか 、タラワ島 とう を守備 しゅび した日本 にっぽん 軍 ぐん は、文字通 もじどお り全滅 ぜんめつ した。捕虜 ほりょ となって生 い き残 のこ った者 もの は、負傷 ふしょう して意識 いしき 不明 ふめい の状態 じょうたい で捕 とら えられた者 もの などごく一部 いちぶ だけであり、負傷 ふしょう して戦 たたか えなくなった日本 にっぽん 兵 へい の殆 ほとん どが自決 じけつ した。日本 にっぽん 軍 ぐん は最後 さいご まで投降 とうこう せずに戦 たたか い続 つづ け「海兵 かいへい 隊 たい 、くたばれ」、「海兵 かいへい 隊 たい の血 ち を飲 の んでやる」など、恐 おそ ろしい叫 さけ び声 ごえ をあげながら海兵 かいへい 隊 たい に襲 おそ い掛 か かり次々 つぎつぎ と倒 たお され、日本 にっぽん 兵 へい の大量 たいりょう の遺体 いたい がベティオの砂浜 すなはま や海 うみ や廃墟 はいきょ と化 か した塹壕 ざんごう に横 よこ たわっていた。両 りょう 軍 ぐん の大量 たいりょう の遺体 いたい が転 ころ がり、武器 ぶき や残骸 ざんがい や燃 も え盛 さか る廃墟 はいきょ や樹木 じゅもく が小 ちい さい島 しま を覆 おお いつくすさまは、まるでダンテ・アリギエーリ の神 かみ 曲 きょく の地獄 じごく 編 へん そのものだとアメリカ兵 へい たちは感 かん じていた。一方 いっぽう で設営 せつえい 隊 たい に多数 たすう 所属 しょぞく していた朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ は、その多 おお くが日本 にっぽん 兵 へい と運命 うんめい を共 とも にしたものの、129人 にん が捕虜 ほりょ となっている[ 5] 。戦闘 せんとう 直後 ちょくご の捕虜 ほりょ の写真 しゃしん が多数 たすう 撮影 さつえい されているが、写 うつ っているのは殆 ほとん どが日本 にっぽん 兵 へい ではなく朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ であった。捕虜 ほりょ となった朝鮮 ちょうせん 人 じん 労務者 ろうむしゃ は、捕 つか まると「自分 じぶん は日本 にっぽん 兵 へい ではないと」必死 ひっし に主張 しゅちょう し、戦死 せんし したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺体 いたい の埋葬 まいそう などの協力 きょうりょく を積極 せっきょく 的 てき に申 もう し出 で てきたという。
アメリカ軍 ぐん の人的 じんてき 損害 そんがい も極 きわ めて大 おお きなものであった。タラワの戦 たたか いには、大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト の情報 じょうほう 公開 こうかい すべきとの方針 ほうしん によって、始 はじ めて、ノーマン・ハッチ らの映像 えいぞう の撮影 さつえい スタッフが戦闘 せんとう を映像 えいぞう に残 のこ すために同行 どうこう し、また多数 たすう の従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ も激戦 げきせん のさなかにアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん と一緒 いっしょ にタラワに上陸 じょうりく した。そのうちの一人 ひとり が後 のち にタラワの戦 たたか いの詳細 しょうさい な戦記 せんき を執筆 しっぴつ したタイム誌 し のロバート・シャーロッドであったが、タラワ攻略 こうりゃく 後 ご に映像 えいぞう スタッフが撮影 さつえい した凄惨 せいさん な戦場 せんじょう の映像 えいぞう を見 み てショックを受 う けたルーズベルトは、シャーロッドに直接 ちょくせつ 「かなりむごたらしいんだ。遺体 いたい がたくさん写 うつ っている」と話 はな すと、この映像 えいぞう の公開 こうかい の是非 ぜひ について意見 いけん を求 もと めている。シャーロッドは全 まった く臆 おく することなく「戦争 せんそう はむごたらしいものですよ、大統領 だいとうりょう 」と答 こた えると、当 あ たり前 まえ のこととしてぜひ公開 こうかい すべきという意見 いけん を述 の べた[ 208] 。また、シャーロッド自身 じしん も、タイム誌 し に詳細 しょうさい な取材 しゅざい 結果 けっか を寄稿 きこう し、以下 いか のような見解 けんかい も述 の べている。
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい 総 そう 司令 しれい 官 かん アレクサンダー・ヴァンデグリフト 中将 ちゅうじょう も、これまでは規制 きせい してきたアメリカ兵 へい の遺体 いたい の写真 しゃしん の公表 こうひょう を認 みと め、アメリカ国内 こくない でこれらの映像 えいぞう や写真 しゃしん が公表 こうひょう されると、ルーズベルトやヴァンデグリフトの目論見 もくろみ とは異 こと なり、アメリカ国民 こくみん に激 はげ しい衝撃 しょうげき を与 あた えた。新聞 しんぶん 各紙 かくし は「かかる悲劇 ひげき を再 ふたた びひきおこしてはならぬ」と怒号 どごう し、国会 こっかい 議員 ぎいん も「我 わ が諜報 ちょうほう 部 ぶ は欠点 けってん だらけのものであったに違 ちが いない」と断 だん じた。このアメリカ海軍 かいぐん 、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい への批判 ひはん には、その総 そう 司令 しれい 官 かん である連合 れんごう 国 こく 太平洋軍 たいへいようぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん 兼 けん アメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい 官 かん チェスター・ニミッツ提督 ていとく と激 はげ しく主導 しゅどう 権 けん 争 あらそ いをしていた、連合 れんごう 国 こく 南西 なんせい 太平洋軍 たいへいようぐん (英語 えいご 版 ばん ) 司令 しれい 官 かん ダグラス・マッカーサーも同調 どうちょう し「優秀 ゆうしゅう な指揮 しき 官 かん は自分 じぶん の部隊 ぶたい が不 ふ 必要 ひつよう に高 たか い損害 そんがい を被 こうむ ることを許 ゆる さない」と発言 はつげん してニミッツを牽制 けんせい している。
ニミッツの上官 じょうかん にあたる合衆国 がっしゅうこく 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 兼 けん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん 部長 ぶちょう アーネスト・キング 元帥 げんすい は、ニミッツを呼 よ びつけると、新聞 しんぶん 各紙 かくし が、タラワの戦 たたか いはゲティスバーグの戦 たたか い での南 みなみ 軍 ぐん ロバート・E・リー 将軍 しょうぐん によるピケットの突撃 とつげき のようであると批判 ひはん していることに対 たい して、ニミッツが効果 こうか 的 てき な情報 じょうほう 公開 こうかい をせずに、このような的外 まとはず れな批判 ひはん がアメリカ海軍 かいぐん に向 む けられていることを叱責 しっせき し、「あっち(ピケットの突撃 とつげき )は失敗 しっぱい だけど、こっち(タラワの戦 たたか い)は勝 か っている」「勝利 しょうり である事実 じじつ に触 ふ れもせず」損害 そんがい ばかりを強調 きょうちょう するような報道 ほうどう をニミッツが容認 ようにん していると嘆 なげ いた。また、戦死 せんし したアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん の遺族 いぞく からもニミッツへ批判 ひはん が殺到 さっとう した。その中 なか には「あなた(ニミッツ)が私 わたし の息子 むすこ をタラワで殺 ころ したのです」という激烈 げきれつ な批判 ひはん もあったが、ニミッツはこうした批判 ひはん の投書 とうしょ には全 すべ て目 め を通 とお して「これは指揮 しき 官 かん としての責任 せきにん のひとつだ」として可能 かのう な限 かぎ り返事 へんじ を書 か いている。
2013年 ねん 時点 じてん で現存 げんそん しているタラワに日本 にっぽん 軍 ぐん 地下 ちか 陣地 じんち 跡 あと を視察 しさつ するアメリカ海兵 かいへい 隊員 たいいん
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の受 う けた損害 そんがい は甚大 じんだい であったが、この作戦 さくせん は史上 しじょう 初 はつ の真 しん の水陸 すいりく 両用 りょうよう 強襲 きょうしゅう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん であり、アメリカ軍 ぐん もアメリカ国民 こくみん も、戦争 せんそう に安易 あんい な道 みち はなく、勝利 しょうり の代価 だいか は常 つね に血 ち であることを十分 じゅうぶん に認識 にんしき できていなかったことが、国内 こくない での大 おお きな論争 ろんそう が生 しょう じた要因 よういん でもあった。時 じ が経 た ち、冷静 れいせい に作戦 さくせん が評価 ひょうか されるようになると、タラワを視察 しさつ したヒルが述 の べたように「(タラワは)義務 ぎむ 教育 きょういく 」として、貴重 きちょう な教訓 きょうくん がいくつも得 え られた。その一部 いちぶ が下記 かき の通 とお りである。
撃破 げきは されたアムトラック
アムトラックは投入 とうにゅう された125輌 りょう のうち90輌 りょう が撃破 げきは されて損失 そんしつ 率 りつ は実 じつ に72%にも上 のぼ り、その乗組 のりくみ 員 いん も約 やく 500名 めい のうち323名 めい が死傷 ししょう するという壊滅 かいめつ 的 てき な損害 そんがい を被 こうむ った。このため後続 こうぞく 部隊 ぶたい は上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で浅瀬 あさせ まで行 い って、その後 ご は海上 かいじょう を徒歩 とほ で海岸 かいがん を目指 めざ す羽目 はめ になり大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った。この反省 はんせい により、アムトラックの生産 せいさん が強化 きょうか されて、この戦 たたか い以降 いこう の敵前 てきぜん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん ではより大量 たいりょう のアムトラックが作戦 さくせん に投入 とうにゅう されることとなった。
日本 にっぽん 軍 ぐん が設 もう けた海中 かいちゅう の障害 しょうがい 物 ぶつ でアムトラックや上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい の航行 こうこう が妨害 ぼうがい され、海上 かいじょう における損害 そんがい 増大 ぞうだい の要因 よういん の一 ひと つとなった。そのため、潜水 せんすい 具 ぐ を身 み に着 つ け水中 すいちゅう で特殊 とくしゅ 任務 にんむ をするために、水泳 すいえい が達者 たっしゃ な精鋭 せいえい が集 あつ められて編成 へんせい されていたフロッグマン (水中 すいちゅう 破壊 はかい 班 はん )がより増強 ぞうきょう され、上陸 じょうりく 前 まえ に海中 かいちゅう に敷設 ふせつ された機雷 きらい や工作 こうさく 物 ぶつ を除去 じょきょ する任務 にんむ が強化 きょうか された[ 213] 。このフロッグマンはベトナム戦争 せんそう を経 へ て、後 ご のNavy SEALs に発展 はってん していった[ 214] 。
海水 かいすい に浸 つ かって使用 しよう ができなくなった無線 むせん 機 き が続出 ぞくしゅつ し、作戦 さくせん 初期 しょき には前線 ぜんせん の状況 じょうきょう を司令 しれい 部 ぶ が満足 まんぞく に把握 はあく できなかったので、無線 むせん 機 き は防水 ぼうすい 化 か された。また海上 かいじょう から陸上 りくじょう に対 たい する通信 つうしん 、艦艇 かんてい 間 あいだ の通信 つうしん も不備 ふび が多 おお く、作戦 さくせん 指揮 しき に支障 ししょう をきたしたので、攻撃 こうげき 輸送 ゆそう 艦 かん に特別 とくべつ な通信 つうしん 機器 きき を整備 せいび し、タラワの戦 たたか いでは旗艦 きかん とされていた戦艦 せんかん に代 か わって上陸 じょうりく 作戦 さくせん 指揮 しき 艦艇 かんてい とし、海上 かいじょう から陸上 りくじょう への攻撃 こうげき を指揮 しき する特別 とくべつ 任務 にんむ を果 は たす様 よう になった。
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい はアメリカ海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい の艦載 かんさい 機 き による航空 こうくう 支援 しえん が不十分 ふじゅうぶん であったと考 かんが え、「直接 ちょくせつ 航空 こうくう 支援 しえん の原則 げんそく を徹底的 てっていてき に学 まな んだ海兵 かいへい 隊 たい のパイロット」が上陸 じょうりく 部隊 ぶたい の支援 しえん を行 おこな うことができるよう、アメリカ海軍 かいぐん に申 もう し出 で た。その申 もう し出 で により、アメリカ海軍 かいぐん は護衛 ごえい 空母 くうぼ にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい 航空 こうくう 隊 たい の作戦 さくせん 機 き を搭載 とうさい することを認 みと め、この後 のち の作戦 さくせん では、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の作戦 さくせん 機 き がアメリカ海軍 かいぐん の護衛 ごえい 空母 くうぼ 上 じょう から作戦 さくせん 行動 こうどう が可能 かのう になり、地上 ちじょう 支援 しえん 能力 のうりょく が向上 こうじょう した[ 215] 。
タラワの日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち を艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき で十分 じゅうぶん に弱体 じゃくたい 化 か できなかったことから、砲撃 ほうげき 計画 けいかく が再 さい 検討 けんとう されて、アメリカ海軍 かいぐん の援護 えんご 砲撃 ほうげき は各 かく 段 だん に効果 こうか 的 てき となった。アメリカ海軍 かいぐん に言 い わせれば「タラワは一言 ひとこと でいえば、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき に対 たい する考 かんが え方 かた を革命 かくめい 化 か した」とのことであった。日本 にっぽん 軍 ぐん の頑強 がんきょう な陣地 じんち には効果 こうか が薄 うす かった“絨毯 じゅうたん ”砲撃 ほうげき は廃止 はいし され、個別 こべつ の目標 もくひょう に対 たい する集中 しゅうちゅう 砲撃 ほうげき が重視 じゅうし された。準備 じゅんび 砲撃 ほうげき 期間 きかん は延長 えんちょう され、撃 う ち込 こ まれる砲弾 ほうだん の量 りょう も激増 げきぞう することになった。
しかし、準備 じゅんび 砲撃 ほうげき 期間 きかん については、連合 れんごう 国 こく 太平洋軍 たいへいようぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん 兼 けん アメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい 官 かん チェスター・ニミッツ提督 ていとく のタラワの戦 たたか いに対 たい する評価 ひょうか 「水陸 すいりく 両用 りょうよう 強襲 きょうしゅう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん における海軍 かいぐん のスピード重視 じゅうし の主張 しゅちょう の正 ただ しさが、これほどはっきり証明 しょうめい された場所 ばしょ はなかった」でもわかる通 とお り、この後 のち もアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の要望 ようぼう 通 どお りとはならなかった。これはタラワの戦 たたか いと同時 どうじ に戦 たたか われたマキンの戦 たたか いにおいて、アメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 27歩兵 ほへい 師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) が、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 当時 とうじ の「部隊 ぶたい は味方 みかた の砲兵 ほうへい 弾幕 だんまく の中 なか を前進 ぜんしん し、敵 てき の戦闘 せんとう 力 りょく が粉砕 ふんさい されるまで前進 ぜんしん しない」という大陸 たいりく 型 がた 作戦 さくせん を行 おこな い、進撃 しんげき が停滞 ていたい したため[ 218] 。アメリカ海軍 かいぐん 艦艇 かんてい が危険 きけん な状態 じょうたい でマキン沖合 おきあい に停泊 ていはく を余儀 よぎ なくされ、その結果 けっか 、支援 しえん 艦隊 かんたい 旗艦 きかん の護衛 ごえい 空母 くうぼ 「リスカム・ベイ 」が「伊 い 175 」(田畑 たばた 直 ただし 艦長 かんちょう )の雷撃 らいげき で撃沈 げきちん され、第 だい 52任務 にんむ 部隊 ぶたい 第 だい 3群 ぐん 司令 しれい 官 かん のヘンリー・M・ムリニクス 少将 しょうしょう と艦長 かんちょう のアーヴィング・ウィルツィー (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ を含 ふく む701名 めい を失 うしな うという大 だい 損害 そんがい を被 こうむ ったことを教訓 きょうくん としたものであった[ 219] 。
このニミッツの「ガルヴァニック作戦 さくせん 」評 ひょう もあって、この後 のち のサイパンの戦 たたか いや硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いにおいても、アメリカ海軍 かいぐん はアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の望 のぞ む期間 きかん の砲 ほう 爆 ばく 撃 げき を行 おこな うことはなかった。アメリカ海軍 かいぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん からの艦船 かんせん への攻撃 こうげき の危険 きけん 性 せい を避 さ けるため、なるべく短期間 たんきかん の上陸 じょうりく 支援 しえん に固執 こしつ した。そのため、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい が大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いにおいては、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の公式 こうしき 戦史 せんし においてすら「艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を3日 にち で切 き り上 あ げたことは、多大 ただい な犠牲 ぎせい を生 う んだ痛烈 つうれつ な皮肉 ひにく であったし、補足 ほそく 的 てき 作業 さぎょう (ジャンボリー作戦 さくせん )が、本来 ほんらい の目的 もくてき をないがしろにした好例 こうれい だった」と舌鋒 ぜっぽう 鋭 するど くアメリカ海軍 かいぐん を批判 ひはん し、タラワでも激 はげ しくアメリカ海軍 かいぐん の姿勢 しせい を批判 ひはん したホーランド・スミスも「我々 われわれ は、かけがえのない人命 じんめい と替 か えのきく弾薬 だんやく を天秤 てんびん にかけて、馬 うま を売買 ばいばい するように交渉 こうしょう しなければならなかった。わたしは人生 じんせい でこれほど落 お ち込 こ んだことはなかった」[ 220] や「海軍 かいぐん が25年間 ねんかん 全 まった く考 かんが え方 かた が変 か わっていない点 てん を思 おも い起 お こすと胸 むね が悪 わる くなる、海軍 かいぐん は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦 せん 訓 くん から前進 ぜんしん しようとせず、むしろ後退 こうたい し、時代遅 じだいおく れの思想 しそう に進歩 しんぽ を阻 はば まれていた」と激 はげ しく批判 ひはん している。
戦後 せんご になってアメリカ海兵 かいへい 隊 たい はタラワの戦 たたか いを以下 いか のように総括 そうかつ している。
タラワは必要 ひつよう であった。それは不可避 ふかひ で、そこにおいて、まだ実施 じっし されたことがない原理 げんり が戦場 せんじょう において詳細 しょうさい に実験 じっけん されたのである。海兵 かいへい 隊 たい の甚大 じんだい な損害 そんがい は、2、300㎡のサンゴ礁 さんごしょう を購 あがな う代価 だいか としては高 たか すぎたが、アメリカの軍事 ぐんじ 計画 けいかく 立案 りつあん 者 しゃ 及 およ び戦略 せんりゃく 立案 りつあん 者 しゃ にとっては、ギルバート諸島 しょとう の攻略 こうりゃく に要 よう した犠牲 ぎせい は、それによって得 え られた戦略 せんりゃく 的 てき 有利 ゆうり と戦術 せんじゅつ 的 てき 教訓 きょうくん からみて、払 はら うに値 あたい したものであった。 — アメリカ海兵 かいへい 隊 たい
タラワの戦 たたか いが登場 とうじょう するメディア作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
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