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タラワのたたか

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タラワのたたか

タラワとう海岸かいがんよこたわるアメリカ海兵かいへい隊員たいいん戦死せんししゃ
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう
年月日ねんがっぴ1943ねん11月20にち同年どうねん11月25にち[1]
場所ばしょギルバート諸島しょとうタラワしま[2][3]
結果けっか:アメリカぐん勝利しょうり[1][4][5]
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ギルバートおよびエリス諸島しょとう
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 柴崎しばざきめぐみ  アメリカ合衆国の旗 レイモンド・スプルーアンス
アメリカ合衆国の旗 リッチモンド・ターナー
アメリカ合衆国の旗 ホーランド・スミス
アメリカ合衆国の旗ジュリアン・スミス
戦力せんりょく
海軍かいぐん陸戦りくせんたい 2,601[6]
設営せつえいたい軍属ぐんぞく 2,000[6]うち朝鮮半島ちょうせんはんとう出身しゅっしんしゃやく1,200
35,000[7]
うちアメリカ海兵かいへいたい
18,600[8]
損害そんがい
戦死せんし(含軍属ぐんぞく
4,455[9]やく4,500[5]
捕虜ほりょ 146
うち朝鮮半島ちょうせんはんとう出身しゅっしんしゃやく129[5]
戦車せんしゃ14りょう[10]
戦死せんし行方ゆくえ不明ふめい
1,009[11]~1,140[12][13]
戦傷せんしょう 2,101[14]~2,309[15][5][13]
戦車せんしゃ33りょう[16]
アムトラック(Amtrak)90りょう[12]
ギルバート・マーシャル諸島しょとう

タラワのたたか(たらわのたたかい、英語えいご: Battle of Tarawa)は太平洋戦争たいへいようせんそうたたかいのひとつで、1943ねん11月ギルバート諸島しょとうタラワしま勃発ぼっぱつした日本にっぽんぐんアメリカぐんあいだたたかいである。11月20にちにタラワとうに18,600にんアメリカだい2海兵かいへい師団しだん上陸じょうりく[8]だい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい柴崎しばざきめぐみ司令しれいかんひきいる4,600にん(うち戦闘せんとう部隊ぶたいは2,600にん)の日本にっぽんぐん守備しゅびたい[6]交戦こうせん戦闘せんとうは4日間にちかんつづき、アメリカぐんおおきな損害そんがいこうむりながらも、タラワとう攻略こうりゃく成功せいこうした。そのあまりの苦戦くせんぶりにアメリカ国内こくないおおきな衝撃しょうげきはしり、アメリカ史上しじょう名高なだか激戦げきせんとなる、レキシントン・コンコードのたたかフランボローみさきたたか英語えいごばんアラモのたたかリトルビッグホーンのたたかベローウッドのたたか英語えいごばんならぶともひょうされ[13]、こののち水陸すいりく両用りょうよう作戦さくせん大幅おおはば改良かいりょう余儀よぎなくされた[17]

タラワとは現在げんざいキリバス共和きょうわこくにある環礁かんしょう総称そうしょうであり、正確せいかくには、たたかいがひろげられたのはタラワ環礁かんしょうのなかのベティオとう英語えいごばんであるが[18]以下いかはベティオとうのことをタラワとぶ。

背景はいけい

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日本にっぽんがわ

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柴崎しばざきめぐみ少将しょうしょう

一方いっぽう日本にっぽんぐん開戦かいせん直後ちょくごにギルバート諸島しょとう攻略こうりゃくしたが、マキン環礁かんしょうにわずかに守備しゅびへいいたほかは、タラワなどには部隊ぶたい駐留ちゅうりゅうさせなかった。この脆弱ぜいじゃく守備しゅび態勢たいせい見直みなおすきっかけとなったのが、1942ねん昭和しょうわ17ねん8がつ17にち、221めいのアメリカ海兵かいへいたいが2せき潜水せんすいかん分乗ぶんじょうしてマキンに奇襲きしゅう上陸じょうりくした事件じけんであった。この攻撃こうげき日本にっぽんぐん戦線せんせん攪乱かくらんさせるためにおこなわれた作戦さくせんだが、これによりかえって日本にっぽんぐんにギルバート諸島しょとう戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいづかせることとなった。しかし、ガダルカナルのたたかでの敗戦はいせん以降いこう戦局せんきょく悪化あっかしており、とくにダグラス・マッカーサーひきいる連合れんごうこく南西なんせい太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばんニューギニアのたたか有利ゆうりすすめて、南太平洋みなみたいへいよう日本にっぽんぐん最大さいだい拠点きょてんラバウル圧力あつりょくつよめているなかで[19]日本にっぽん陸軍りくぐん中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめんへの兵力へいりょく配置はいちには消極しょうきょくてきであり、ギルバート諸島しょとう防衛ぼうえい日本にっぽん海軍かいぐん担当たんとうとされた[20]日本にっぽん海軍かいぐん横須賀よこすかだい6特別とくべつ陸戦りくせんたいなどをおくって、1943ねん昭和しょうわ18ねん2がつ15にちにはギルバート方面ほうめん担当たんとうするだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい横須賀よこすかだい6特別とくべつ陸戦りくせんたい改編かいへん)をしん編成へんせいし、地上ちじょう防護ぼうご施設しせつ航空こうくう施設しせつ増強ぞうきょうはじめた。さらに、1943ねん昭和しょうわ18ねん3月12にちには、佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたいおくって守備しゅびたい増強ぞうきょうはかった。主戦しゅせんりょくとなった佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたいは、きゅうしきけい戦車せんしゃなども装備そうびする海軍かいぐん陸戦りくせんたいとしては精鋭せいえい部隊ぶたいだった。

その大本営だいほんえいでギルバート諸島しょとう陸軍りくぐん部隊ぶたい配置はいちするべく調整ちょうせいつづけられたが、ガダルカナルとうでの海軍かいぐんたいする不信ふしんかんから、陸軍りくぐん海軍かいぐん占領せんりょうへの陸軍りくぐん部隊ぶたい派遣はけん躊躇ちゅうちょつづけていた。しかし1943ねん3がつになってようやく、1ねん以内いないという時限じげんきで、ギルバート諸島しょとう陸軍りくぐん部隊ぶたい派遣はけんすることが決定けっていされた[21]。4月12にちには中部ちゅうぶ地方ちほう部隊ぶたい歩兵ほへいだい34連隊れんたい歩兵ほへいだい6連隊れんたい歩兵ほへいだい68連隊れんたい歩兵ほへいだい18連隊れんたい)からかく1個いっこ中隊ちゅうたい戦力せんりょく抽出ちゅうしゅつして、南海なんかいだいいち守備しゅびたい南海なんかいだい守備しゅびたい編成へんせいされて、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう派遣はけんされることとなった[22]。そのうち、ギルバートにおくられる予定よていであった南海なんかいだいいち守備しゅびたい戦力せんりょくは、指揮しきかん藤野ふじのまごひらた陸軍りくぐん中佐ちゅうさふくめて801にん本部ほんぶ歩兵ほへい4中隊ちゅうたい〔1コ中隊ちゅうたいは、小銃しょうじゅう3コ小隊しょうたいだい4小隊しょうたい機関きかんじゅう1、速射そくしゃほう1、大隊だいたいほう1〉〕、砲兵ほうへい1個いっこ中隊ちゅうたい診療しんりょうはん)と強力きょうりょくなものであったが[21]、5月23にちヤルート付近ふきんで、アメリカぐん潜水せんすいかんポラック」の雷撃らいげきけて、乗船じょうせんしていた特設とくせつ巡洋艦じゅんようかんばんたにまる」は沈没ちんぼつし、南海なんかいだい1守備しゅびたい指揮しきかん藤野ふじの以下いか500にん戦死せんししてしまい、生存せいぞんした301にんもそのままヤルートに上陸じょうりくして、ギルバート諸島しょとうへの派遣はけん中止ちゅうしとなった[21]

その陸海りくかいぐんあいだでギルバートへの追加ついか戦力せんりょく派遣はけん協議きょうぎおこなわれたが、5がつまつにはアッツとうたたか日本にっぽん海軍かいぐん支援しえんほとんけることもなく守備しゅびたい玉砕ぎょくさいすると、陸軍りくぐん海軍かいぐんたいする不信ふしんかんはさらにして、参謀さんぼう総長そうちょう杉山すぎやまはじめ大将たいしょうは「アンダマン諸島しょとうニコバル諸島しょとう陸軍りくぐん作戦さくせん関係かんけいがあるから陸軍りくぐん部隊ぶたいしてもよいが、ギルバートは海軍かいぐん担当たんとうしてもらえ」とっぱねている[21]。その陸海りくかいぐん作戦さくせん連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうれた、離島りとう防衛ぼうえい方針ほうしん協議きょうぎつづけられた。協議きょうぎかさねるにしたがって、太平洋たいへいようじょう離島りとう守備しゅび重要じゅうようせいについては、陸軍りくぐん無視むしすることはできず、最終さいしゅうてきには中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう諸島しょとうへの陸軍りくぐん部隊ぶたい増強ぞうきょう決定けっていしたが、ギルバート諸島しょとう防衛ぼうえいつづ海軍かいぐん責任せきにんつということにけっした[23]

陸軍りくぐん増援ぞうえんられないだい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたいは、タラワに強固きょうこ陣地じんち構築こうちくすることでアメリカぐん侵攻しんこう対抗たいこうしようとしたが、セメント金属きんぞくといった永久えいきゅう要塞ようさい構築こうちく不可欠ふかけつ資材しざい不足ふそくしていた。わずかな資材しざい戦闘せんとう指揮しきしょほかは、にち戦争せんそう活躍かつやくした装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん春日しゅんじつ」や「日進にっしん」からはずしてきた20.3cm/45しき41ごうかんほう英語えいごばん海岸かいがんほうとしてけるために使用しようすべしとめいじられていた。この20cmほうこっとうひんのような旧式きゅうしきなものであり、指揮しき装置そうち一切いっさいなく、発射はっしゃ速度そくども6ふんごとに1はつという有様ありさまであったが[24]、しっかりと砲台ほうだい構築こうちくされていたおかげか、なかなか撃破げきはされずに、アメリカぐん上陸じょうりくしてからもしばらくは散発さんぱつてきではあるが、アメリカぐん支援しえん艦艇かんていやアムトラックにたいして砲撃ほうげきつづけている[25]

タラワに設置せっちされた日本にっぽんぐんの20cmほう
タラワのよんじゅう口径こうけいさんねんしきはちせんちめーとる高角こうかくほう砲座ほうざ

永久えいきゅう要塞ようさい構築こうちくのための資材しざいおくられてくる目途もくとまったくなかったので、だい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたい現地げんちにあるものでの陣地じんち構築こうちく余儀よぎなくされた。そこで多用たようされたのが椰子やしであった。ベティオとうだけではなく、環礁かんしょうない小島こじまにもへい派遣はけんして伐採ばっさいし、丸太まるた加工かこうしてから、築城ちくじょう資材しざいとして使用しようした。しかし椰子やし現地げんち住民じゅうみん財産ざいさん貴重きちょう食料しょくりょうげんでもあり、むやみに伐採ばっさいすることはせず、たか成長せいちょうしすぎて椰子やしもあまりみのらなくなった古木ふるきを、現地げんち住民じゅうみん選別せんべつしてもらって伐採ばっさいしていた[26]かく部隊ぶたいきそうように陣地じんち構築こうちくつづけ、鉄道てつどうレールなどの金属きんぞくやセメントをふんだんに使用しようして構築こうちくされた、強固きょうこ地下ちか戦闘せんとう司令しれいしょ地表ちひょう表面ひょうめんに360旋回せんかい可能かのう砲台ほうだいそなけられた20cmほう4もん飛行場ひこうじょう滑走かっそう両端りょうたん設置せっちされた連装れんそうよんじゅう口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほうほか[27]大量たいりょう椰子やし丸太まるた有効ゆうこう活用かつようし、海岸かいがんせん丸太まるたんだ防壁ぼうへき設置せっちされ、海中かいちゅうにも丸太まるた角材かくざいじゅうにしばりつけた防塞ぼうさいかれた[28]。さらには、各種かくしゅ高射こうしゃ砲座ほうざ椰子やし丸太まるた活用かつようしてつくられたほか、半地はんじしきトーチカ建設けんせつされた。このはん地下ちかしきトーチカは直径ちょっけい20cm以上いじょう丸太まるたを2mのはばで2だんかさね、その中間ちゅうかんいわんだものであり、かくトーチカは地下ちかごう連絡れんらくされていた。さらにすべてのトーチカはせん有機ゆうきてき連携れんけいしており、死角しかくがまったくなかった[28]。これらの陣地じんちはのちに、タラワに侵攻しんこうしてきたアメリカ海兵かいへいたいそう指揮しきかんであったホーランド・スミス少将しょうしょうから「こんな堅固けんご陣地じんちいままでたことがない」とおどろかせ[29]てきのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんからは「この陣地じんち我々われわれアメリカ海兵かいへいたいが2大隊だいたいもれば、たとえ地獄じごくなかこおりいちめんめても(どんなことがあってもという意味いみ)このしままもける」とわせたほどであった[30]

ギルバートを防衛ぼうえいするだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいかん友成ともなり市郎いちろう少将しょうしょうであったが、元々もともとじゅう巡洋艦じゅんようかん羽黒はぐろ戦艦せんかん霧島きりしま艦長かんちょう歴任れきにんするなど、艦船かんせん指揮しきには精通せいつうしていたが陸戦りくせんたい指揮しきまったくの素人しろうとであったことや、たいないでは主席しゅせき参謀さんぼう対立たいりつして司令しれい雰囲気ふんいき陰鬱いんうつにして、最終さいしゅうてきには主席しゅせき参謀さんぼう自殺じさつをしてしまったり、てき侵攻しんこうちか最前線さいぜんせんであるのにもかかわらず、茶道さどうたのしむために茶室ちゃしつをわざわざつくらせるなど、あま行動こうどうられたので、1943ねん7がつ20にちづけ体調たいちょう不良ふりょう理由りゆう司令しれいかん更迭こうてつされ、わりに柴崎しばざきめぐみ少将しょうしょう着任ちゃくにんした[31]

柴崎しばざき前任ぜんにん友成ともなりとはことなり、かんこう方面ほうめん特別とくべつ根拠地こんきょちたい副長ふくちょうけん参謀さんぼう上海しゃんはい海軍かいぐん特別とくべつ陸戦りくせんたい参謀さんぼうちょう けん上海しゃんはい根拠地こんきょちたい参謀さんぼうちょう歴任れきにんし、陸戦りくせん指揮しき精通せいつうしていたうえ、みずからも柔道じゅうどう剣道けんどう弓道きゅうどうなどの有段者ゆうだんしゃであり、武道ぶどうきわめていた。とく弓道きゅうどう得意とくいで、普通ふつうひとではつるさえけないような強弓ごうきゅう易々いいあやつり、さらに毎日まいにちその稽古けいこおこたらなかった[32]柴崎しばざきは、海軍かいぐんない豪傑ごうけつきのいい闘将とうしょう武名ぶめいとどろいていたが[33]一方いっぽうで、じょうあつく、部下ぶかおもいのじんしょう[34]部下ぶかからの人望じんぼうあつく、まさにうってつけの司令しれいかん着任ちゃくにんだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいはわきたった。佐世保させぼ鎮守ちんじゅだい7特別とくべつ陸戦りくせんたいだい1中隊ちゅうたいちょうであったたにうら英男ひでおも、かつてかんこう方面ほうめん特別とくべつ根拠地こんきょちたい部下ぶかとしてつかえたさいに、一緒いっしょ豪遊ごうゆうした経験けいけんもあってそのあいすべき人物じんぶつめん熟知じゅくちしており、その着任ちゃくにんよろこんでいる[35]

柴崎しばざき着任ちゃくにんだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい空気くうき一新いっしんされた。柴崎しばざきはこれまでの陣地じんち構築こうちくくわえて、陣地じんちのみにたよるのではなく、連日れんじつ兵士へいしたちにきびしい訓練くんれんして戦闘せんとうりょく底上そこあげをはかった。いかなるケースのてき上陸じょうりくにも対応たいおうできるように、払暁ふつぎょう夜間やかんなど時間じかんわずもう訓練くんれんおこなっていった。柴崎しばざき的確てきかく指導しどうもとづく訓練くんれんにより、戦闘せんとういん 2,601にんくわえて、設営せつえいたい軍属ぐんぞく 2,000にん[6]精強せいきょう海軍かいぐん陸戦りくせんたい兵士へいしとしてきたえられていった[36]。また、海軍かいぐん陸戦りくせんたいあらくれものたちがせま小島こじま毎日まいにち陣地じんち構築こうちく訓練くんれんれていたため、ストレスがたまり些細ささいなことでいさかいがこるようになるのを柴崎しばざきは、自分じぶん武道ぶどうであったので、部隊ぶたい武技ぶぎ奨励しょうれいし、司令しれいかんしょうまでもうけて柔道じゅうどう相撲すもう剣道けんどう銃剣じゅうけんどうなどの大会たいかい定期ていきてき開催かいさいした。このおかげで無用むよういさかいはり、かく部隊ぶたい団結だんけつりょくかく兵士へいし精強せいきょう一層いっそうたかまった[37]

しかし、柴崎しばざききびしいばかりではなく兵士へいし福利ふくり厚生こうせいにもくばっていた。きびしい訓練くんれん合間あいまって、2かげつごとに兵士へいしたちによる演芸えんげいかい開催かいさいした。わざわざガリ版がりばんのプログラムまで作成さくせいし、手作てづくりの舞台ぶたいのうえでおおくの兵士へいしうた寸劇すんげき剣劇けんげき楽器がっき演奏えんそうなどを披露ひろうしておおいにがったという。このときばかりは柴崎しばざき以下いか無礼講ぶれいこうで、参加さんかしゃはつかの戦争せんそうわすれて、おおいにわらってさわいだが、おおくの兵士へいしとお日本にっぽんにいる家族かぞくのことをおもしていた[38]柴崎しばざきはこの演芸えんげいかい開催かいさいした目的もくてきつまてた手紙てがみ以下いかよう説明せつめいしている[39]

よくはたらき、よくあそぶ。おおいに努力どりょくし、よくやすむ、がわたしのモットーです。これもご奉公ほうこう万全ばんぜんのためかんがえだした慰安いあんかいです。明日あしたからまた総員そういんこなにして訓練くんれん作戦さくせん準備じゅんび専心せんしん努力どりょくするのです。だい一線いっせん守護しゅご、かくして寸分すんぶん間隙かんげきなし、安神あんしんたび — 柴崎しばざきめぐみ

こうして、入念にゅうねん構築こうちくされた陣地じんち徹底的てっていてききたえられた精兵せいびょう柴崎しばざきほこり、「たとえ、100まんてきをもってしても、このしまをぬくことは不可能ふかのうであろう」と豪語ごうごしていた[40]

連合れんごうこくがわ

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タラワ環礁かんしょう衛星えいせい写真しゃしん左下ひだりしたがベティオとう

ソロモン諸島しょとうたたか勝利しょうりおさめ、ニューギニアでも順調じゅんちょう進撃しんげきをしていた連合れんごうぐん日本にっぽん本土ほんどけて進撃しんげき検討けんとうしていた。太平洋たいへいよう戦線せんせんにおいては、ダグラス・マッカーサー大将たいしょうひきいるアメリカ陸軍りくぐん主力しゅりょく連合れんごうこく南西なんせい太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばん(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督ていとくひきいるアメリカ海軍かいぐんアメリカ海兵かいへいたい主力しゅりょく連合れんごうこく太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばん(POA)に指揮しきけん分割ぶんかつされていたが、マッカーサーはこれまで成功せいこうしてきた、正面しょうめん攻撃こうげき日本にっぽんぐん脆弱ぜいじゃくところ攻撃こうげきするといった「リープフロッギング(かえるび)作戦さくせん」で、ニューギニアからフィリピンという比較的ひかくてきおおきい陸地りくちめあがっていくという主張しゅちょうをしていたのにたい[41]。ニミッツら海軍かいぐんがわ従来じゅうらいからのたいにちせんドクトリンである「オレンジ計画けいかく」にじゅんじ、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう太平洋たいへいよう島嶼とうしょ沿いに西進せいしん日本にっぽん本土ほんど接近せっきんするという作戦さくせん主張しゅちょうしてゆずらず、1943ねん5がつ開催かいさいされただい3かいワシントン会談かいだんで、太平洋たいへいようを2方面ほうめんから進撃しんげきするという作戦さくせん計画けいかく実施じっしされることとなった[42]

アメリカ海軍かいぐん作戦さくせん計画けいかくは、日本にっぽんぐんかた防備ぼうびしている太平洋たいへいようじょう島々しまじまを、一撃いちげき離脱りだつ攻撃こうげきではなくだい規模きぼ水陸すいりく両用りょうよう作戦さくせんによって、順次じゅんじ攻略こうりゃくしながら日本にっぽん本土ほんどけてめあがってこうとする、これまでの戦史せんしじょうはじめての野心やしんてきこころみであり、これを可能かのうにしたのは続々ぞくぞく就役しゅうえきしていた空母くうぼであった。アメリカ海軍かいぐん幕僚ばくりょうは「空母くうぼ空母くうぼ艦載かんさいが、てき陸上りくじょう基地きち航空こうくう戦力せんりょく脅威きょういにさらされた場合ばあい不利ふりだというかんがえは、ぐん空母くうぼだい艦隊かんたい動員どういんできるときは修正しゅうせい必要ひつようがある」「ほう地上ちじょう基地きち航空こうくうたい支援しえんがない場合ばあいは、空母くうぼ艦載かんさいが、島嶼とうしょ要塞ようさいたいする上陸じょうりく作戦さくせん支持しじ援護えんごしうるとつかえない」とだんじるほど、大量たいりょう空母くうぼによって編成へんせいされるアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい絶大ぜつだい信頼しんらいせていた。そして、マッカーサーによる進撃しんげきルートよりは、ニミッツの進撃しんげきする太平洋たいへいよう正面しょうめんルートのほうが「戦略せんりゃくてきて、中部ちゅうぶ太平洋たいへいようルートが決定的けっていてきである。このルートでてば日本にっぽん本土ほんど南方なんぽう海外かいがい帝国ていこくりょうから分断ぶんだんしうることは間違まちがいない」と、戦争せんそう勝利しょうり決定的けっていてき意味いみつとしていた[43]

1943ねん8がつ21にちから、カナダケベック連合れんごうこく首脳しゅのうによるケベック会談かいだん開催かいさいされ、中部ちゅうぶ太平洋たいへいようへの侵攻しんこう作戦さくせん具体ぐたいあん決定けっていした。ニミッツ指揮しき海兵かいへいたい中部ちゅうぶ太平洋たいへいようすすみ、まずは、ギルバート諸島しょとうマキン、タラワ、アベママの3環礁かんしょう攻略こうりゃくして、進攻しんこう拠点きょてんとして、いで西方せいほうてんじて、クェゼリンエニウェトクグアムサイパンペリリューへと前進ぜんしんし、マッカーサーはビスマルク諸島しょとうとニューギニアを攻略こうりゃくして、りょうぐんフィリピン台湾たいわん一本いっぽんになるとめられた。このような連合れんごうこく会議かいぎでは、これまではイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルナチス・ドイツ打倒だとうするまではヨーロッパ戦線せんせん優先ゆうせんすべきと主張しゅちょうし、ヨーロッパ戦線せんせん太平洋たいへいよう戦線せんせん戦力せんりょく格差かくさをつけられていたが、ジョージ・マーシャル陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうアーネスト・キング合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけん海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうは「日本にっぽんぐん過小かしょう評価ひょうかしている」とつよ主張しゅちょう太平洋たいへいよう方面ほうめん連合れんごうぐん戦力せんりょく倍増ばいぞうみとめさせ、雄大ゆうだいな2正面しょうめん作戦さくせん決定けっていした[44]

ギルバート諸島しょとう攻略こうりゃく作戦さくせんは「ガルヴァニック作戦さくせん」と名付なづけられ、この作戦さくせんのためにあらたにだい5艦隊かんたい編成へんせいされて、司令しれいにはミッドウェー海戦かいせん英雄えいゆうレイモンド・スプルーアンス中将ちゅうじょうにんじられた。だい5艦隊かんたい一番いちばんちか連合れんごうぐん拠点きょてんから700マイル以上いじょうはなれた目標もくひょうたいして、これまでのアメリカぐん史上しじょう最大さいだい上陸じょうりく作戦さくせん実施じっしすることとなった。空母くうぼ19せき高速こうそく戦艦せんかん5せき旧式きゅうしき戦艦せんかん7せき主力しゅりょくとする強力きょうりょく支援しえん艦隊かんたい護衛ごえいされた200せきもの艦艇かんていが、兵員へいいん35,000にん車両しゃりょう6,000りょう物資ぶっし117,000トンを搭載とうさいしてギルバート諸島しょとうかうこととなった[7]

タラワを攻略こうりゃくする任務にんむあたえられたのはアメリカだい2海兵かいへい師団しだんとなったが、どう師団しだんガダルカナルとうたたか日本にっぽんぐんやぶった原動力げんどうりょくとなった栄誉えいよある師団しだんで、所属しょぞくするアメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちも日本にっぽんぐんとの激戦げきせんくぐけてきた精鋭せいえいぞろいであった。ともにガダルカナルでたたかったアメリカだい1海兵かいへい師団しだん大量たいりょう勲章くんしょうったのちに、ニュージーランド首都しゅとウェリントンかって、戦力せんりょく補充ほじゅう休養きゅうようくわえて、敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせんのためのもう訓練くんれんおこなった。アメリカだい2海兵かいへい師団しだん精鋭せいえいたちはそのもう訓練くんれんにもえ、さらにその精強せいきょう向上こうじょうしたが、その訓練くんれんプログラムは1930年代ねんだい海兵かいへいたい上層じょうそう検討けんとうされた原則げんそくもとづくものであった[45]

ウェリントンでの訓練くんれんちゅうに、上陸じょうりく部隊ぶたい指揮しきする予定よていであっただい2海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばんちょうのウィリアム・W・マーシャル大佐たいさがプレッシャーもあってノイローゼとなってしまい、急遽きゅうきょデビット・シャウプ英語えいごばん中佐ちゅうさ大佐たいさ昇進しょうしんし、上陸じょうりく作戦さくせん指揮しきすることとなった。シャウプはガダルカナルとうたたかいにいでニュージョージアとうたたかにも従軍じゅうぐんして負傷ふしょうした経験けいけんもあった。部下ぶか海兵かいへい隊員たいいんからは「自分じぶんらがっているかぎりで、もっと勇敢ゆうかんもっと大胆だいたんもっと武人ぶじんらしい海兵かいへいたい将校しょうこう」ともひょうされ、敬意けいい親愛しんあいじょうめて“デイヴ”・シャウプとばれていた[46]

従来じゅうらいがたより装甲そうこう武装ぶそう強化きょうかされたアムトラックのLVT2がた

シャウプら前線ぜんせん部隊ぶたい訓練くんれんれているあいだ師団しだんちょうジュリアン・スミス海兵かいへい中将ちゅうじょうは、戦力せんりょく上陸じょうりく支援しえん増強ぞうきょう直訴じきそするために真珠湾しんじゅわんおとずれ、水陸すいりく両用りょうよう作戦さくせん首脳しゅのうじんであった リッチモンド・ターナー海軍かいぐん少将しょうしょうホーランド・スミス海兵かいへいたい少将しょうしょうにかけあった。アメリカぐん敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせんのために、ガダルカナル侵攻しんこう先立さきだってアムトラック(Amtrak)とばれる水陸すいりく両用りょうようしゃ開発かいはつしていた。従来じゅうらい上陸じょうりく作戦さくせんでは上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい上陸じょうりくする兵士へいし浅瀬あさせまではこび、その兵士へいし海水かいすいかりながら徒歩とほ海岸かいがんまで上陸じょうりくする必要ひつようがあったが、はし可能かのうなアムトラックは海岸かいがんまで兵士へいしはこぶことができた。今回こんかい上陸じょうりく作戦さくせんはガダルカナルのときよりはるかに困難こんなん予想よそうされたため、ジュリアン・スミスはなるべくおおくのアムトラックをかきあつめてほしいと要請ようせいし、現時点げんじてんでアメリカぐん保有ほゆうして可動かどう状態じょうたいにあるほぼ全部ぜんぶのアムトラックLVT1がたくわえて[47]、さらに、ガダルカナルとうたたかいの教訓きょうくんによって装甲そうこう強化きょうかされたLVT2がたも、アメリカ海軍かいぐんがわ配慮はいりょで、工場こうじょうから直接ちょくせつLST-1きゅう戦車せんしゃ揚陸ようりくかんでタラワとう高速こうそく輸送ゆそうするといった荒業あらわざ投入とうにゅう可能かのうになった。これらの努力どりょくでこの上陸じょうりく作戦さくせん投入とうにゅうされるアムトラックは合計ごうけい125りょうとなった[12]

しかしジュリアン・スミスの要望ようぼうとおったのはここまでで、今回こんかい攻略こうりゃく目標もくひょうであるタラワとう周囲しゅうい小島こじま砲兵ほうへいたいさき上陸じょうりくさせて支援しえん砲撃ほうげきおこなってほしいという要請ようせいたいしては、ホーランド・スミスから小島こじまべつ部隊ぶたい上陸じょうりくさせれば、上陸じょうりく艦隊かんたい分散ぶんさんさせることとなり、予想よそうされる日本にっぽん海軍かいぐん航空機こうくうき潜水せんすいかん反撃はんげきによってだい損害そんがいこうむ危険きけんせいがあるとして却下きゃっかされた。さらにジュリアン・スミスをなげかせたのが、アメリカだい2海兵かいへい師団しだんだい6海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばんを、同時どうじ侵攻しんこう予定よていであるマキンとうへの予備よび戦力せんりょくとして、だい5水陸すいりく両用りょうようぐん指揮しきくというものであった。戦力せんりょく増強ぞうきょうどころか、ぎゃく戦力せんりょくかれることとなってしまった[48]。アメリカぐん日本にっぽんぐん兵力へいりょく戦闘せんとう部隊ぶたい2,600にん日本人にっぽんじん軍属ぐんぞく建設けんせつ要員よういん)1,000にん朝鮮ちょうせんじん軍属ぐんぞく1,200にんとほぼ正確せいかく推定すいていしていたが、軍属ぐんぞく多少たしょう訓練くんれんけているとはいえ、全部ぜんぶ戦力せんりょくにはならないとかんがえており、実際じっさい兵力へいりょくは3,000にん程度ていど見積みつもっていたので[49]、アメリカだい2海兵かいへい師団しだんは、4,600にんもの日本にっぽんへいかた要塞ようさいしたタラワとうを、1個いっこ師団しだんじゃくのわずか2ばい兵力へいりょく強襲きょうしゅうさせられることとなった[48]

りょうぐん兵力へいりょく

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日本にっぽんぐん

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ベティオとう
タラワでアメリカぐん鹵獲ろかくされたきゅうしきけい戦車せんしゃ

合計ごうけい4,599めい[53]やく4,601めい[50]

アメリカぐん

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タラワのたたかいにおけるアメリカだい2海兵かいへい師団しだん指揮しきかん
師団しだんちょうジュリアン・スミス少将しょうしょう
だい2海兵かいへい連隊れんたいちょうデビット・シャウプ大佐たいさ

合計ごうけい兵員へいいん35,000にん艦艇かんてい200せき以上いじょう[7]

戦闘せんとう経過けいか

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上陸じょうりくまえ

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事前じぜん攻撃こうげき

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「ガルヴァニック作戦さくせん」に参加さんかした正規せいき空母くうぼ「ヨークタウン」艦上かんじょう艦載かんさい

マーシャルとギルバートの飛行場ひこうじょうには、陸上りくじょう攻撃こうげき戦闘せんとう飛行ひこうていかく1個いっこ航空こうくうたい進出しんしゅつし、積極せっきょくてき作戦さくせん行動こうどうおこなっていたが、補充ほじゅう不十分ふじゅうぶんなか損失そんしつかさなり、1943ねん9がつ時点じてんでは陸上りくじょう攻撃こうげき戦闘せんとう合計ごうけい45飛行ひこうていが10未満みまんまで戦力せんりょくっていた。それでも、積極せっきょく果敢かかん作戦さくせん行動こうどう継続けいぞくしており、9月13にちにはタラワの飛行場ひこうじょうからも陸上りくじょう攻撃こうげき15出撃しゅつげきして、アメリカぐんフナフティとう飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきし、かなりの損害そんがいあたえている[54]9月19にちには、アメリカぐんはギルバートをそらからたたくべく、カントンとうベーカーとうフナフティとうからB-24合計ごうけい130と、だい50任務にんむ部隊ぶたいだい50.1タスクグループの正規せいき空母くうぼヨークタウン」「レキシントンけい空母くうぼカウペンス」の3せきから合計ごうけい160が、タラワ、マキン、アパママに3わたって来襲らいしゅうしてきた。日本にっぽんぐんはカントンとうやベーカーとう方面ほうめんしきだいてい偵察ていさつばしていたが、9月2にち、4にち、9にちと3かいわたってアメリカぐん艦載かんさい戦闘せんとう迎撃げいげきによって帰還きかんとなっており、アメリカぐん空母くうぼ部隊ぶたい接近せっきん事前じぜんつかむことはできなかった[54]

戦闘せんとうによる満足まんぞく迎撃げいげきもできないまま、先日せんじつフナフティとう攻撃こうげきした陸上りくじょう攻撃こうげきのうち8地上ちじょう撃破げきはされてしまった。地上ちじょう部隊ぶたい完全かんぜん奇襲きしゅうとなったうえ、はじめての艦載かんさいによる空襲くうしゅう小型こがたたいする対空たいくう戦闘せんとう不慣ふなれであったこともあり、アメリカぐん艦載かんさい縦横無尽じゅうおうむじんあばれまわり、しまの3かしょ弾薬だんやくのうち2かしょ焼失しょうしつさせ、糧食りょうしょく倉庫そうこ延焼えんしょうしてしまった。さらにタラワに係留けいりゅうされていた魚雷ぎょらいてい3せきも、環礁かんしょうがい退避たいひしようとしたところをアメリカぐん艦載かんさい発見はっけんされて撃沈げきちんされてしまった[55]。2、3空襲くうしゅうころには守備しゅびたい態勢たいせいととのえて、高角こうかくほう対空たいくう機関きかんほうほかにもけい機関きかんじゅう小銃しょうじゅうはげしく対空たいくう戦闘せんとうおこない、撃墜げきつい15報告ほうこくしている(アメリカぐん記録きろくでは損失そんしつ4)この午後ごごにはマーシャルかられいしき艦上かんじょう戦闘せんとう12がタラワに増援ぞうえん飛来ひらいし、よく20にち来襲らいしゅうしてきたアメリカぐん艦載かんさい迎撃げいげきし、守備しゅびたい兵士へいしそら見上みあげるなかで6撃墜げきついしている。この2にちわたった艦載かんさいにより空襲くうしゅうで、タラワ守備しゅびたいけた損害そんがい陸上りくじょう攻撃こうげき8損失そんしつ戦死せんし行方ゆくえ不明ふめい189めい戦傷せんしょう33めい建物たてもの焼失しょうしつ多数たすう弾薬だんやく誘爆ゆうばくによる大量たいりょう弾薬だんやく喪失そうしつおおきいものとなったが、この空襲くうしゅう柴崎しばざき現在げんざい陣地じんちそらからの攻撃こうげきもろいことを痛感つうかんして、さらなる陣地じんち強化きょうかはかっている[56]。なおB-24による爆撃ばくげきについては、れいしき艦上かんじょう戦闘せんとう迎撃げいげきで1撃墜げきつい、7撃破げきはして、損害そんがいほとんどなかった[57]

アメリカぐんは「ガルヴァニック作戦さくせん」の開始かいしちかづくと、ギルバートやマーシャルの日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょうはたき、航空こうくう戦力せんりょく殲滅せんめつとマキンとタラワの孤立こりつはかった。ギルバートによりちかい、ベーカーとうエリス諸島しょとう諸島しょとう飛行場ひこうじょう造成ぞうせいし、10月9にちには使用しよう可能かのうとなり、陸上りくじょうかえしギルバートやマーシャルの日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう空襲くうしゅうした。南太平洋みなみたいへいようにおける日本にっぽんぐん最大さいだい拠点きょてんラバウルもアメリカぐん度重たびかさなる空襲くうしゅう弱体じゃくたいしておりもはや反撃はんげきする戦力せんりょくのこされておらず、アメリカぐん本格ほんかくてき侵攻しんこうまえにギルバートの制空権せいくうけん完全かんぜんにアメリカぐんにぎられた[58]

アメリカぐん艦隊かんたい出撃しゅつげき

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タラワにけて輸送ゆそうかんむアメリカだい2海兵かいへい師団しだん

11月7にちにはウェリントンで訓練くんれんけていたアメリカだい2海兵かいへい師団しだん輸送ゆそうかん乗艦じょうかんしていた。機密きみつ保持ほじのために行先ゆくさきらされておらず、おおくのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはいつもとおりの訓練くんれんで、よるにはダンスパーティに参加さんかできるとおもっていたが、その期待きたい午後ごご師団しだんちょうのジュリアンス・スミスからの、「きみたちはおおがかりな作戦さくせん途上とじょうにある」という発表はっぴょうによってくだかれた[59]。しかし、具体ぐたいてきさきつづ秘匿ひとくされたので、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんのなかでさかんにさき推測すいそくがなされ10以上いじょう候補こうほさきげられていたが、そのなかにはするどくもタラワと的中てきちゅうさせているものもいた。輸送ゆそう艦隊かんたいはまずエファテとうかい、そこでハリー・W・ヒル少将しょうしょうひきいるだい53任務にんむ部隊ぶたい仕上しあげの上陸じょうりく訓練くんれんおこなった。3日間にちかん訓練くんれんちゅうアメリカだい3海兵かいへい師団しだんブーゲンビルとう上陸じょうりく成功せいこうしたとの連絡れんらくはいり、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちはだい歓声かんせいげた。アメリカだい3海兵かいへい師団しだんにはおおくの戦友せんゆうがおり、したしい戦友せんゆうたちの活躍かつやくにアメリカだい2海兵かいへい師団しだん士気しき最高潮さいこうちょうたっした状態じょうたい作戦さくせんむかえることができた[60]訓練くんれんえたアメリカだい2海兵かいへい師団しだんふたた目的もくてき目指めざしたが、作戦さくせん直前ちょくぜんの11月17にちになってようやく目的もくてきがタラワだとらされた。一部いちぶのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん予想よそうてきちゅうしたものの、タラワという地名ちめいはじめていたというもの圧倒的あっとうてきで、こののち、すしめの輸送ゆそう艦内かんないでアメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちは、航空こうくう写真しゃしん石膏せっこうつくられたタラワの模型もけいによって作戦さくせん計画けいかく徹底的てっていてき学習がくしゅうさせられた[59]

1943ねん11月5にちハワイ真珠湾しんじゅわん停泊ていはくしているレイモンド・スプルーアンス中将ちゅうじょう座乗ざじょうしていた旗艦きかんじゅう巡洋艦じゅんようかん「インディアナポリス」に高々たかだか中将ちゅうじょうはたはたかかげられた。これは、旗艦きかん指揮しきかん近日きんじつちゅう艦隊かんたいれて出撃しゅつげきするという合図あいずであったが、この時点じてんで、ブーゲンビルとうおき航空こうくうせんのためにウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将ちゅうじょうが、スプルーアンスのだい5艦隊かんたい編入へんにゅうされる予定よてい艦船かんせんから、空母くうぼ5せき巡洋艦じゅんようかん5せき駆逐くちくかん5せき転用てんようけて日本にっぽんぐん激戦げきせん展開てんかいちゅうであり、それらの艦船かんせん合流ごうりゅうしておらず、また合流ごうりゅう目途もくともたっていなかった[61]。スプルーアンスは、ハルゼー艦隊かんたい転用てんようされている艦船かんせん復帰ふっきつために、上陸じょうりくを11月20にちから1にち延期えんきして21にちとしたが、それ以上いじょうおくらせることはせず、かりにハルゼー艦隊かんたい転用てんようしている艦船かんせん復帰ふっきせずとも、予定よていどおりにギルバートの攻略こうりゃく決行けっこうすることと決意けついし、艦船かんせんすくない場合ばあい作戦さくせん計画けいかくりなおした。11月8にちには転用てんようされていたけい巡洋艦じゅんようかんバーミングハム」が日本にっぽんぐん航空機こうくうき攻撃こうげき大破たいはし、「ガルヴァニック作戦さくせん参加さんかかんから除外じょがいされたが、その翌日よくじつの9にちにはの4せき巡洋艦じゅんようかんがスプルーアンスにかえされることとなり事態じたい多少たしょう改善かいぜんした[62]

11月10にちだい5艦隊かんたいだい部分ぶぶん真珠湾しんじゅわん出港しゅっこうした。ハルゼー艦隊かんたい転用てんようされている艦船かんせんいているとはえ、そのかんれつ壮観そうかんであった。空母くうぼ戦艦せんかんといった大型おおがたかんは15ふん間隔かんかく、そのかんは5ふん間隔かんかく出港しゅっこうしたが、かんれつきもらず、ぜんかん出港しゅっこうするまで午前ごぜんちゅういっぱいかかった。灰色はいいろ艦船かんせん水平すいへいせんいっぱいにつらなり、ぜんかんすうかぞえることすら困難こんなんで、世界せかいすべての艦船かんせんをここにあつめたかのような勇壮ゆうそう光景こうけいにアメリカ海軍かいぐん水兵すいへいむねあつくしていた[63]だい5艦隊かんたいにはとく空母くうぼ中心ちゅうしんしん造艦ぞうかんおおく、また艦載かんさい搭乗とうじょういん水兵すいへいにも実戦じっせん経験けいけんがないものおおかったので、スプルーアンスはギルバートまでの進撃しんげきちゅうかくかん徹底てっていした訓練くんれんめいじた。事前じぜん入念にゅうねん日本にっぽんぐん基地きちたたいていたこともあって、進撃しんげきちゅう日本にっぽんぐん航空機こうくうき潜水せんすいかんから攻撃こうげきされることもなく、だい5艦隊かんたい訓練くんれん集中しゅうちゅうでき、その練度れんどはみるみるうちに向上こうじょうしていった。またハルゼー艦隊かんたい転用てんようされていた空母くうぼ駆逐くちくかんが11月13にち復帰ふっきすることが決定けっていし、だい5艦隊かんたい戦力せんりょくそろった状態じょうたいでギルバートにかって接近せっきんしていった。さらに11月18にちにはエファテとうから航行こうこうしてきたヒルのだい53任務にんむ部隊ぶたい輸送ゆそう艦隊かんたいとも、タラワとう南西なんせい400マイルの地点ちてん合流ごうりゅうした[64]

11月にはいってもタラワのだい755航空こうくうたい陸上りくじょう攻撃こうげき健在けんざいで、だい5艦隊かんたい接近せっきんちゅうの11月17にちには9をもってフナフティとうのアメリカぐん飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきしているが、肝心かんじんだい5艦隊かんたい発見はっけんすることはできなかった。11月19にちにスプルーアンスは空母くうぼ部隊ぶたいにタラワとナウルの攻撃こうげきめいじた。そのうちタラワには4合計ごうけいやく750来襲らいしゅうして、徹底的てっていてき飛行場ひこうじょう日本にっぽんぐん陣地じんち空爆くうばくした。しかし、前回ぜんかい艦載かんさい空襲くうしゅうによるだい損害そんがい空襲くうしゅう対策たいさくすすめていたため、地上ちじょう暴露ばくろされている木造もくぞう建築けんちくぶつ破壊はかいされたが、陣地じんちや掩体に格納かくのうされている陸上りくじょう攻撃こうげきにはほとん損害そんがいはなかった[65]。そのころルオットとうマロエラップとうから出撃しゅつげきした陸上りくじょう攻撃こうげきたいが、ついにタラワの沖合おきあいにいるアメリカぐん艦隊かんたい発見はっけんしているが[66]、その陸上りくじょう攻撃こうげきたいによる攻撃こうげきはいずれも撃退げきたいされた。タラワのだい755航空こうくうたいも、可動かどうの7くわえ、ルオットとうから増援ぞうえんとして飛来ひらいした4くわえて、20日はつか未明みめいになって沖合おきあいのアメリカぐん艦隊かんたい索敵さくてき出撃しゅつげきしたが、5帰還きかんとなりのこりはルオットとう退避たいひした[67]

20日はつかにも艦載かんさい2190がタラワに来襲らいしゅうしたが、アメリカぐん艦載かんさいは、椰子やしたおし、しま大穴おおあな多数たすうけただけで、日本にっぽんぐん陣地じんちにはほとん被害ひがいはなかった[68]空襲くうしゅうのちじゅう巡洋艦じゅんようかん3せき駆逐くちくかん5せきがタラワに接近せっきんしてかんほう射撃しゃげきくわえた。かんほう射撃しゃげきやく1あいだおよび、たまにより砂塵さじんがりしま全体ぜんたい濛々もうもうとなってしまった。また午後ごごにはB-24が30来襲らいしゅうし、いつもとはことなり低空ていくうから精密せいみつ爆撃ばくげき機銃きじゅう掃射そうしゃくわえてきた。このほう爆撃ばくげきによりこれまで無事ぶじであった椰子やしおおくがたおされ、交通こうつうごう待避たいひごう進入しんにゅうふさいでしまった。一方いっぽう日本にっぽんぐんほとん反撃はんげきをすることなく、アメリカぐん上陸じょうりくそなえていた[69]

タラワに艦載かんさい空爆くうばくかえしていた11月20にちに、上陸じょうりく先立さきだち、師団しだんちょうのジュリアン・スミスは下記かきのようにアメリカだい2海兵かいへい師団しだん海兵かいへい隊員たいいん訓示くんじした[70][71]

諸君しょくん。この一事いちじわすれるなかれ。
海兵かいへいたい上陸じょうりくしててき白兵戦はくへいせんまじえるとき、海兵かいへい隊員たいいんにつける唯一ゆいいつ装甲そうこうは1まいのカーキ・シャツだけであることを。
諸君しょくん成功せいこうは、海兵かいへいたいのかがやかしい伝統でんとうにあらたな栄誉えいよをくわえることだろう。
幸運こううんかみ祝福しゅくふく諸君しょくんにあたえられんことを! — ジュリアン・スミス

11月21にち

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上陸じょうりく準備じゅんび

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輸送ゆそうかんから上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい移乗いじょうしたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん

11月21にち午前ごぜん3輸送ゆそう艦上かんじょうのアメリカだい2海兵かいへい師団しだん海兵かいへい隊員たいいんたちはたたきこされて、アメリカ海兵かいへいたい作戦さくせん開始かいし伝統でんとうてきなメニューであるステーキ目玉焼めだまや朝食ちょうしょくべた。その手際てぎわよく装備そうびけると、輸送ゆそうかんから海上かいじょうのアムトラックや上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい次々つぎつぎ搭乗とうじょうした[72]午前ごぜん4には支援しえん艦隊かんたいかんほう射撃しゃげき開始かいしする予定よていであったが、2ノットもの潮流ちょうりゅうによって乗船じょうせん作業さぎょう時折ときおり中断ちゅうだん余儀よぎなくされ、作戦さくせん予定よていよりおく気味ぎみとなった。午前ごぜん5になってようやく作業さぎょう目途もくとがついたため、だい53任務にんむ部隊ぶたい司令しれいのヒルが輸送ゆそう艦隊かんたい作戦さくせん開始かいし位置いち移動いどうするようめいじるため信号しんごうだん発射はっしゃしたとき、それを合図あいずにタラワの日本にっぽんぐん砲台ほうだいがアメリカぐん艦隊かんたいたいして砲撃ほうげき開始かいしした。とくにタラワの日本にっぽんぐん最大さいだい火砲かほうの20.3cm/45しき41ごうかんほう戦艦せんかんメリーランド」に砲撃ほうげきをしてきたので、メリーランドも応射おうしゃし、10斉射せいしゃ同艦どうかんほう弾薬だんやく命中めいちゅうだい爆発ばくはつこってほう沈黙ちんもくした[73]

「メリーランド」をふく戦艦せんかん3、巡洋艦じゅんようかん5、駆逐くちくかん9せきはそのかんほう射撃しゃげきつづけ、タラワ全体ぜんたいばくえん砂塵さじんおおわれてしまったが、夜明よあけと同時どうじ計画けいかくされている艦載かんさい空爆くうばく視界しかい確保かくほのため、だい53.4任務にんむぐん司令しれいハワード・F・キングマン少将しょうしょうかんほう射撃しゃげき中断ちゅうだんめいじた。日本にっぽんぐんはこの好機こうき見逃みのがさず、これから艦載かんさい飛来ひらいするまでの30分間ふんかん一方いっぽうてき砲撃ほうげきおこない、輸送ゆそうかんのこった20.3cm/45しき41ごうかんほう砲撃ほうげきけるため、射程しゃていがいへの待避たいひ余儀よぎなくされた[74]。ここで空母くうぼ部隊ぶたいとの連携れんけいわるさが露呈ろていし、空母くうぼ部隊ぶたい夜明よあけの午前ごぜん6:15に出撃しゅつげき計画けいかくしていたが、キングマンは午前ごぜん5:45に艦載かんさい空襲くうしゅう開始かいしされると誤認ごにんしており、必要ひつようかんほう射撃しゃげきはやめにめてしまったことが判明はんめいした。そこでキングマンは午前ごぜん6:05にあわててかんほう射撃しゃげき再開さいかいしたが、艦載かんさい計画けいかくよりはや午前ごぜん6:10に飛来ひらいしてきたので、5分間ふんかんかんほう射撃しゃげき中止ちゅうしする羽目はめとなった。さらに、やく100艦載かんさい計画けいかくでは30分間ふんかん空爆くうばくであったのに、わずか10分間ふんかんげてしまった[75]

以上いじょうのようなアメリカぐんない連携れんけい不足ふそくはあったが、そのにはだい53.4任務にんむぐんかんほう射撃しゃげき再開さいかいされ、艦隊かんたいはタラワの沖合おきあい2,000mまで接近せっきんしてちまくった。午前ごぜん7:45にかんほう射撃しゃげきはようやくんだが、この徹底てっていしたほう爆撃ばくげきによって日本にっぽんぐん海岸かいがんほう完全かんぜん沈黙ちんもくし、海岸かいがん陣地じんち完全かんぜん撃破げきはされたとアメリカぐんかんがえた。旗艦きかんインディアナポリス」の艦橋かんきょうからかんほう射撃しゃげきのようすをていた中部ちゅうぶ太平洋艦隊たいへいようかんたい参謀さんぼうちょうのカール・ムーア大佐たいさは「しまきている人間にんげんがいるはずはないようにおもえ、作戦さくせん全体ぜんたい楽勝らくしょうになりそうにえた」と錯覚さっかくしたという[76]。 そのあいだ掃海そうかいてい2せき駆逐くちくかん2せき環礁かんしょうない突入とつにゅうし、上陸じょうりく部隊ぶたいのために水路すいろ安全あんぜん確認かくにんした。しかし、そこで沈黙ちんもくさせたはずの海岸かいがんほう反撃はんげき開始かいしし、駆逐くちくかんリングゴールド英語えいごばん」に2はつ命中めいちゅうだんびせたが、いずれも不発ふはつ致命ちめいてき損傷そんしょうとはならず、ぎゃくに「リングゴールド」の応射おうしゃ海岸かいがんほう弾薬だんやく誘爆ゆうばくして、ほう沈黙ちんもくした。掃海そうかいてい水路すいろ安全あんぜん確保かくほすると、沖合おきあい輸送ゆそうかんけて合図あいず探照灯たんしょうとうらした。作戦さくせん計画けいかくおくつづけており、当初とうしょ午前ごぜん8:00の上陸じょうりく開始かいしから、30ふん延期えんきされたあと、さらに午前ごぜん9:00までさい延期えんきされた。そして、かんほう射撃しゃげき艦載かんさい空爆くうばくによる援護えんごもとで、上陸じょうりくだい1の50りょう(うち8りょう乗組のりくみいんのみ搭乗とうじょう)とほぼ同時どうじだい224りょう新型しんがたLVT2がた)とだい3どう2がた)のアムトラックがたん縦陣じゅうじん外海がいかいから環礁かんしょうけて進撃しんげき開始かいしした[77]

上陸じょうりく地点ちてん西にしからレッドビーチ1(Red Beach 1)、レッドビーチ2(Red Beach 2)、レッドビーチ3(Red Beach 3)とけられ、それぞれの海岸かいがんはばやく360mであった[78]。レッドビーチ1にはだい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい、レッドビーチ2にはどうだい2大隊だいたい、レッドビーチ3にはだい8海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたいがまず上陸じょうりくし、そのレッドビーチ2にはだい2海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい、レッドビーチ3にはだい8海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたいつづいた。そして攻撃こうげき指揮しきかんデビット・シャウプ英語えいごばん大佐たいさはレッドビーチ2に上陸じょうりくして戦闘せんとう指揮しきしょもうける計画けいかくであった[79]

日本にっぽんぐん状況じょうきょう

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海岸かいがんもうけられた日本にっぽんぐんのトーチカ

だい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたいは11月21にちはいってすぐにアメリカぐん艦隊かんたいがタラワに接近せっきんしていることを察知さっちし、午前ごぜん2:00には起床きしょうラッパがひびいた。はまださき薄暗うすぐらくて戦友せんゆうかおえないなか司令しれいよりかく陣地じんち伝令でんれい到着とうちゃくし「敵艦てきかんたいうち海域かいいき潜入せんにゅうをなし、わが本島ほんとう上陸じょうりく企図きとせんとす。わが陸戦りくせんたいじかきた海岸かいがん配置はいちき、てきへい水際みずぎわ殲滅せんめつせよ」との命令めいれいつたえられた。さらに佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい司令しれいかん菅井すがい武雄たけお中佐ちゅうさよりの「九州きゅうしゅう男児だんじ意気いきせるのは此のときだ。各員かくいん粉骨砕身ふんこつさいしんてきたって玉砕ぎょくさいせよ」という訓示くんじつたえられた[80]午前ごぜん2:59には司令しれいかん柴崎しばざき機密きみつ書類しょるい焼却しょうきゃくし、その完了かんりょう連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん打電だでんした。それとほぼ同時どうじ軍艦ぐんかんやされ、それにくわえて日本にっぽん内地ないち情報じょうほうられないため、かく兵士へいしっていた日本にっぽん本土ほんどからの家族かぞくからの手紙てがみ焼却しょうきゃくされた。手元てもと整理せいりわるとかく分隊ぶんたいちょう所属しょぞく兵士へいし一人ひとりいちにん点呼てんこして、集合しゅうごう確認かくにんでき次第しだい分隊ぶんたいちょうはんいん引率いんそつしてかく陣地じんちかった[81]

かく部隊ぶたい戦闘せんとう配置はいちいたころ、アメリカぐんによりかんほう射撃しゃげき開始かいしされた。たくみに構築こうちくされていた陣地じんちはアメリカぐん執拗しつようかんほう射撃しゃげきにもおおきな損害そんがいこうむることはなかったが、さすがに合計ごうけい3,000トンもの砲弾ほうだんがこの小島こじまたたまれたので、ばくけむりてんおおい、火炎かえん全島ぜんとうつつんで、しまはまるで火山かざんとうのように火柱ひばしらげていた[82]。そしてかんほう直撃ちょくげきけた陣地じんち兵士へいしばされて即死そくしするか、即死そくしまぬかれても爆風ばくふうのう内臓ないぞうをやられて、ふらふらと彷徨うろつあるいたのち絶命ぜつめいした[83]。さらに、だい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたいにとっていたかったのが、かく陣地じんちむすんでいた電話でんわせん予想よそうはるかにえるかんほう射撃しゃげきによってあちこちで寸断すんだんされており、司令しれいとの連絡れんらくれなくなっていたことと[84]発電はつでん破壊はかいされて停電ていでんとなり、各種かくしゅ電気でんき設備せつび使用しよう不能ふのうとなったことであった[85]

そして午前ごぜん9:00となりアメリカぐんのアムトラックが掃海そうかいてい駆逐くちくかん水先案内みずさきあんないじんとしてタラワとう接近せっきんしてくると、司令しれいかん柴崎しばざき連合れんごう艦隊かんたい司令しれいたいし、下記かきのような戦況せんきょう報告ほうこく打電だでんした[85]

てき水陸すいりく両用りょうよう戦車せんしゃ視界しかいない100せき以上いじょう、礁内の桟橋さんばし北岸ほくがん一帯いったいにわたり接岸せつがんしつつあり。
その上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい200せき以上いじょうゆ。てきは礁内に軍艦ぐんかんまた巡洋艦じゅんようかんとくがた3せき駆逐くちくかんまた掃海そうかいてい4せき以上いじょう侵入しんにゅう援護えんご射撃しゃげきをなしつつあり。
その艦艇かんていは礁外にあり。上空じょうくう艦上かんじょう水上すいじょうまじすうじゅうを以ってせい空中くうちゅう
ぜんぐん決死けっし敢闘かんとう士気しき旺盛おうせいなり。 — 柴崎しばざきめぐみ

まるサンゴ礁さんごしょう

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上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい海岸かいがんちかづくアメリカ海兵かいへい隊員たいいん
アメリカ海兵かいへいたいのタラワへの上陸じょうりく様子ようすえがいたトム・ラヴェル英語えいごばん絵画かいが

だいいちのアムトラックは沖合おきあい700mからはじまる珊瑚礁さんごしょうまでたっすると、水深すいしんあさくなるためていし、あとはキャタピラ駆動くどうにより海岸かいがん目指めざすこととなったが、ほぼ同時どうじ日本にっぽんぐん砲撃ほうげき開始かいしされた。アムトラックが海岸かいがんちかづくにつれて砲撃ほうげきせい確度かくどがっていき、次々つぎつぎ日本にっぽんぐん砲弾ほうだんがアムトラックに命中めいちゅうした。たちまちアムトラックぐん混乱こんらんし、撃破げきはされてそのまま停止ていしするもの、サンゴ礁さんごしょう弾痕だんこんにはまって往生おうじょうするものが続出ぞくしゅつした。砲撃ほうげき死傷ししょうしなかったアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはやむなくアムトラックをりてうみみ、装備そうび高々たかだかげて海水かいすいくびまでかりながら海岸かいがん目指めざしたが、そこを日本にっぽんぐん機銃きじゅう掃射そうしゃし、たれたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん次々つぎつぎ海中かいちゅうぼっしていった。それでものこったアムトラックは前進ぜんしんつづけて海岸かいがん200mにまでたっしたが、そこにはコンクリートせい対戦たいせんしゃ防塞ぼうさい水中すいちゅう鉄条てつじょうもう敷設ふせつしてあり、アムトラックぐん往生おうじょうさせられた。じつはこのせん日本にっぽんぐん想定そうていしていた防衛ぼうえいせんであり、タラワからの砲撃ほうげき銃撃じゅうげきがさらにはげしくなり、アムトラックは撃破げきはされ、アムトラックから降車こうしゃしたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん機銃きじゅうだん小銃しょうじゅうだん次々つぎつぎとなぎたおされた[86]

サンゴ礁さんごしょうはアメリカぐんにとって不幸ふこうなことに、そのかたさで日本にっぽんぐん銃弾じゅうだんとべだんさせたため、一旦いったんはずれたはずの銃弾じゅうだんかえって、装甲そうこううすかったアムトラックのそこ貫通かんつうして操縦そうじゅういん命中めいちゅうすることがあった。そこで戦死せんしした操縦そうじゅういんしのけて乗組のりくみいん操縦そうじゅうわろうとしたが、その乗組のりくみいんにも銃弾じゅうだん命中めいちゅうした。乗車じょうしゃしていたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんにも日本にっぽんぐん射撃しゃげき次々つぎつぎ命中めいちゅうし、アムトラックの内部ないぶあかまり、次々つぎつぎ遺体いたいかさなっていった。あるアムトラックでは乗車じょうしゃしていた乗組のりくみいんとアメリカ海兵かいへい隊員たいいん25めいのうち13めいまでが戦死せんしし、のこった12めいうみんだが、そこを日本にっぽんぐんねらたれて、のこったのはわずか5めいであった[87]

前進ぜんしんするアムトラックたいなやましていたのが、海岸かいがんからながさ750mにわたってサンゴ礁さんごしょうびていた日本にっぽんぐん木製もくせい桟橋さんばしであった。日本にっぽんぐん桟橋さんばしじょうもうけられたたて小屋こや機関きかん銃座じゅうざから、海岸かいがんかうアムトラックを側面そくめんから銃撃じゅうげきしていた。そこで、「海兵かいへいたいでもっとも勇敢ゆうかんおとこ」の異名いみょうち、ガダルカナルでも活躍かつやくしたウィリアム・ホーキンス英語えいごばん中尉ちゅういが、自分じぶんひきいる斥候せっこう狙撃そげき小隊しょうたい下士官かしかんと4にんのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんれて、桟橋さんばし上陸じょうりくした。日本にっぽんぐん守備しゅびたいはホーキンスらに銃撃じゅうげき集中しゅうちゅうしたが、ホーキンスは躊躇ちゅうちょすることなく先頭せんとうって日本にっぽんぐん陣地じんちけて突撃とつげきすると、部下ぶかおくすることなくつづき、装備そうびしていた火炎かえん放射ほうしゃ爆薬ばくやくで、日本にっぽんぐんたて小屋こや機関きかん銃座じゅうざ次々つぎつぎ破壊はかいして、桟橋さんばしじょう日本にっぽんぐん一掃いっそうし、後続こうぞくのアムトラックの進撃しんげき援護えんごした[88]。ホーキンスはそのにタラワとう一番乗いちばんのりで上陸じょうりくし、つね指揮しきかん先頭せんとうたたかつづけ、日本にっぽんぐんのトーチカをなん撃破げきはした[89]

サンゴ礁さんごしょう散々さんざんたたかれたアムトラックたいであったが、だい損害そんがいこうむりながらもどうにか海岸かいがんまでたっし、搭乗とうじょうしていたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん次々つぎつぎ降車こうしゃした。しかし、砂浜すなはまサンゴ礁さんごしょうよりはるかに危険きけん場所ばしょで、日本にっぽんぐん砲撃ほうげき銃撃じゅうげきはさらにはげしさをした。その状況じょうきょうをあるアメリカ海兵かいへい隊員たいいんは「その衝撃しょうげきときたら、ジョー・ルイスおおきな拳骨げんこつかおなからったようなもんだった」とひょうしている。勇敢ゆうかんなアメリカだい2海兵かいへい師団しだん海兵かいへい隊員たいいんをしても、あまりにはげしい日本にっぽんぐん抵抗ていこうまえに、あたかも到着とうちゃくしたアヒルのように身動みうごきがとれなかった[90]。そして、レッドビーチ2に上陸じょうりく目指めざしていただい2海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたいちょうのハーバード・アメイ中佐ちゅうさは、搭乗とうじょうしていたアムトラックが日本にっぽんぐん設置せっちした海中かいちゅう鉄条てつじょうもうっかかって往生おうじょうしたので、やむなく司令しれい要員よういんの15にん将校しょうこう下士官かしかんれて海上かいじょうりたところを日本にっぽんぐん機関きかんじゅうねらたれて、4にん将校しょうこうとも戦死せんししてしまった[91]

アムトラックで出撃しゅつげきしただい3までは、だい損害そんがいけたうえ海岸かいがんにくぎけとなっていた。アメリカだい2海兵かいへい師団しだん予備よびようにとってある25りょうのこして全部ぜんぶのアムトラックをすで投入とうにゅうしてしまったため、おもじゅう装備そうび揚陸ようりくするだい4以降いこう上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい海岸かいがん目指めざした。そのなかには戦闘せんとう指揮しきかんデビット・シャウプ英語えいごばん大佐たいさ搭乗とうじょうしていたが、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん上陸じょうりくさせたのちにかえ予定よていであったアムトラックの姿すがたはほとんどなく、わりに海中かいちゅうしずむアムトラックやアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたい多数たすうにすることとなった。そこにだい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたいちょうのジョン・シャッテル中佐ちゅうさよりレッドビーチ1の戦況せんきょう報告ほうこくはいった。「部隊ぶたいはレッドビーチ1の右翼うよくにあるサンゴ礁さんごしょうじょうにて、前進ぜんしんをはばまる。海中かいちゅうにてもうしゃをうけつつあり」とのシャッテルの報告ほうこくたいし、シャウプは「レッドビーチ2に上陸じょうりくし、西にしかって進撃しんげきするよう努力どりょくすべし」と発破はっぱをかけたが、シャッテルからは「我々われわれには上陸じょうりくすべき兵力へいりょくは1へいもなし」とする切実せつじつ返答へんとうかえってきて、結局けっきょく、そのすうあいだわたってだい3大隊だいたいサンゴ礁さんごしょうじょうから身動みうごきがれなかった[92]

シャウプはそのまま海岸かいがん目指めざしたが、途中とちゅうでレッドビーチ2から負傷ふしょうへい満載まんさいしてかえしてきたアムトラックを大声おおごえせて、自分じぶんっていた上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい負傷ふしょうへいうつらせて病院びょういんせんかうよう指示しじすると、自分じぶん連隊れんたい本部ほんぶ要員よういんとともにアムトラックにってレッドビーチ3を目指めざした。しかし、レッドビーチ3は日本にっぽんぐん砲火ほうかはげしく接近せっきん困難こんなんだったので、やむなくレッドビーチ2に方向ほうこう転換てんかんさせたが、レッドビーチ2の日本にっぽんぐん砲火ほうかはげしく、砲弾ほうだん銃弾じゅうだん破片はへんがアムトラックにそそぎ、たちまちアムトラックはあなだらけとなってしまった[93]。さらにその破片はへんでシャウプ自身じしん両足りょうあし負傷ふしょうしたが、どうにか歩行ほこうはできたので、そのまま前線ぜんせんまることをめ、やがて海岸かいがん接地せっちしたアムトラックからよろめくようにして上陸じょうりくすることができた[94]

シャウプはどうにか上陸じょうりくできたが、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい海岸かいがん目指めざしていたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん散々さんざんにあっていた。サンゴ礁さんごしょう水深すいしんは60cmから90cmしかないのだが、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい最低さいていでも1.2mの水深すいしんがないとうごくことができず、サンゴ礁さんごしょうじょう上陸じょうりくよう舟艇しゅうていろされて徒歩とほでの上陸じょうりく余儀よぎなくされた。しかし、サンゴ礁さんごしょうじょうには水深すいしんふかくなっているところもあり、そこにはまったアメリカ海兵かいへい隊員たいいんおも装備そうびっていたためそのまま溺死できししてしまった。またふかみにはまらなくとも、日本にっぽんぐん機銃きじゅう掃射そうしゃによって次々つぎつぎとなぎたおされた [84]。その次々つぎつぎ上陸じょうりくよう舟艇しゅうていせて、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんサンゴ礁さんごしょうじょうりるためけっして舟艇しゅうてい前部ぜんぶったが、そこからえる海面かいめんはアメリカ海兵かいへい隊員たいいんによってあかではなく紫色むらさきいろにそまっていたという。アメリカ海兵かいへい隊員たいいんかたまで海水かいすいかりながらも、ようやく飛来ひらいした艦載かんさい戦闘せんとうによる航空こうくう支援しえんけながら、徒歩とほ海岸かいがん目指めざしていった[94]。そしてどうにか海岸かいがんにたどりいたものは、奥行おくゆき60m程度ていどしかない砂浜すなはま陸地りくちがわにある、たかさ1.2mの日本にっぽんぐん構築こうちくした防壁ぼうへきがわひそめた[95]

海岸かいがんせんでの死闘しとう

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レッドビーチ3付近ふきん防波堤ぼうはてい日本にっぽんぐん攻撃こうげきけるアメリカ海兵かいへい隊員たいいん

アメリカぐん上陸じょうりくビーチのもっとも東側ひがしがわはレッドビーチ3であったが、ここを防衛ぼうえいしていたのは柴崎しばざき直轄ちょっかつだい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたい主力しゅりょくであり、合計ごうけい450にんまもりについていた。しかし、さい重要じゅうよう地点ちてんとアメリカぐんから上陸じょうりくまえ入念にゅうねんほう爆撃ばくげきされて20%の兵員へいいんうしなっていたため、だい1のアムトラック部隊ぶたいのビーチと比較ひかくするとすくない損害そんがい上陸じょうりくすることができた。無傷むきずでビーチにたっした17りょうのアムトラックからやく500にんだい8海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばんだい2大隊だいたいのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんし、そのままほうばくげき破壊はかいされた防潮ぼうちょうつつみ隙間すきまからビーチを100mちかがっていったが、そこで、ほうばくげきからなおっただい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたい主力しゅりょく激烈げきれつ反撃はんげき開始かいしされ、日本にっぽんぐん十字砲火じゅうじほうかびたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはじりじりと後退こうたいしていった。また、飛行場ひこうじょう付近ふきん設置せっちされていたよんじゅう口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほう正確せいかく砲撃ほうげきでアメリカ海兵かいへい隊員たいいん多大ただい出血しゅっけついた。だい2以降いこうのアムトラックは次々つぎつぎよんじゅう口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかく砲弾ほうだん直撃ちょくげきびて、たちまち20りょう以上いじょうのアムトラックはサンゴ礁さんごしょうじょう残骸ざんがいさらすか、擱座かくざして移動いどう不能ふのうとなった[96]

指揮しきかんのシャウプが上陸じょうりくしたレッドビーチ2の状況じょうきょうはさらにいかめしかった。どうにか上陸じょうりくはしたものの、内陸ないりくすすむことはまったくできず、シャウプが最初さいしょ戦闘せんとう指揮しきしょ設置せっちできたのは、日本にっぽんぐん設置せっちしていた桟橋さんばしもとであり、シャウプは足首あしくびまで海水かいすいかりながら戦闘せんとう指揮しきをとった。部下ぶかのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちは、日本にっぽんぐんはげしい銃撃じゅうげきまえ前進ぜんしんすることができず、日本にっぽんぐん構築こうちくした丸太まるたみの防壁ぼうへきかくしていた。そしてそのはなさきにある丸太まるたみのトーチカないには日本にっぽんへいがおり、さかんに射撃しゃげきおこなっていた。この苦境くきょう打開だかいすべくシャウプは師団しだん司令しれいまでなん通信つうしんこころみていたが、激戦げきせんなかすべての無線むせん海水かいすいかって不調ふちょうとなっており、沖合おきあい艦船かんせんじょう戦況せんきょう固唾かたずをのんで見守みまもっている師団しだんちょうのジュリアン・スミスには正確せいかく戦況せんきょうつたわっていなかった。それでもどうにか、輸送ゆそう艦上かんじょう待機たいきしていた予備よび部隊ぶたい海兵かいへいだい8連隊れんたいだい3大隊だいたい連絡れんらくくと、すぐに日本にっぽんぐん攻撃こうげき比較的ひかくてきすくない桟橋さんばし東側ひがしがわ急行きゅうこうするよう指示しじし、つぎに戦艦せんかん「メリーランド」と連絡れんらくをとって「そちらでお見舞みまいできるすべてのもの」をむように要請ようせいした。この段階だんかい支援しえん艦隊かんたい前線ぜんせんがどこなのか把握はあくできていなかったので「メリーランド」の通信員つうしんいんあやましゃ懸念けねんして「そちらの前線ぜんせんはどこだ?」と質問しつもんしてきたが、シャウプの幕僚ばくりょうは「前線ぜんせん海岸かいがんせんだ」と返答へんとうした。すべてをさっした「メリーランド」の通信員つうしんいんは「了解りょうかい」とだけ返答へんとうしてきたが、こののちかんほう射撃しゃげき精度せいどがり、日本にっぽんぐんだい打撃だげきあたえることになった[97]

タラワに上陸じょうりくしたM4ちゅう戦車せんしゃ日本にっぽんぐん砲撃ほうげきなんはつ命中めいちゅうしたが撃破げきはまぬかれた。

アメリカ海兵かいへい隊員たいいんがなかなか内陸ないりく前進ぜんしんできないなかで、レッドビーチ3においては上陸じょうりく成功せいこうした新鋭しんえいM4ちゅう戦車せんしゃが、苦戦くせんするだい8海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたい支援しえんおこなった。ほぼ同時どうじ進攻しんこうしたマキンとう陸軍りくぐん部隊ぶたいだい27歩兵ほへい師団しだんだい165歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばん主力しゅりょく)にはM3ちゅう戦車せんしゃM3けい戦車せんしゃしか配備はいびされておらず[98]新鋭しんえいのM4ちゅう戦車せんしゃ海兵かいへいたい優先ゆうせんして配備はいびしていたものであった。海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたいだい1戦車せんしゃ大隊だいたい、C中隊ちゅうたいの8りょうのM4ちゅう戦車せんしゃのうち、1個いっこ小隊しょうたい3りょうはレッドビーチ2への支援しえんまわり、のこる5りょうだい8海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたい支援しえん開始かいししたが、まずは1りょう海水かいすいかくれていた海中かいちゅうくぼみにしずんでそのまま放棄ほうきされた。のこる4りょうはその強力きょうりょく75mm戦車せんしゃほうM3日本にっぽんぐん陣地じんち次々つぎつぎ撃破げきはしたが、日本にっぽんぐんはんげきすさまじく2りょうがたちまち集中しゅうちゅう砲火ほうか炎上えんじょうし、さらに1りょう友軍ゆうぐん艦載かんさい誤爆ごばく撃破げきはされてしまった。のこった1りょうだけが、その日本にっぽんぐん砲弾ほうだんなんはつ命中めいちゅうしながらも撃破げきはのがれて、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちを砲撃ほうげき支援しえんつづけた[99]

レッドビーチ2への支援しえんまわったM4ちゅう戦車せんしゃ散々さんざんにあっていた。海岸かいがんせん釘付くぎづけとなっていた海兵かいへい隊員たいいんはM4ちゅう戦車せんしゃちかづいてきたのをつけると、よろこぶどころかってこちらにはるなと合図あいずおくった。それにかない3りょうのM4ちゅう戦車せんしゃ日本にっぽんぐん集中しゅうちゅう砲火ほうかなかんでしまい、そのうちの1りょう地雷じらいんで擱座かくざしたのち集中しゅうちゅう砲火ほうかびせられ、もう1りょう集中しゅうちゅう砲火ほうかをかわそうと方向ほうこう転換てんかんしたさいおおきな弾痕だんこんころち、いずれのM4ちゅう戦車せんしゃもそのまま放棄ほうきされた。わずかにのこった1りょうのみがやみくもな前進ぜんしんめて戦車せんしゃほうちまくりいくつかの日本にっぽんぐん陣地じんち撃破げきは成功せいこうした[100]。このようにだい損害そんがいこうむったM4ちゅう戦車せんしゃたいであったが、その続々ぞくぞく揚陸ようりくされると、このたたかいのながれをおおきくえた要因よういんひとつとなった。アメリカ海兵かいへい隊員たいいんはM4ちゅう戦車せんしゃうしろにかくれながら前進ぜんしんし、戦車せんしゃ連携れんけいして日本にっぽんぐん陣地じんちひとつずつ撃破げきはしていった。たとかくれていたM4ちゅう戦車せんしゃ撃破げきはされても、その残骸ざんがいもそのまま遮蔽しゃへいぶつとして利用りようできた。ある将校しょうこうは「戦車せんしゃ火炎かえん放射ほうしゃ小銃しょうじゅうへいわせは、最小限さいしょうげん損害そんがいてき撃破げきはするのに効果こうかてきであった」と報告ほうこくしている。アメリカ海兵かいへい隊員たいいん戦車せんしゃうしろにかくれて日本にっぽんぐん陣地じんちまでちかづくと、大量たいりょうTNT火薬かやく銃眼じゅうがんからトーチカないんでばしてしまうか、火炎かえん放射ほうしゃなかにいる日本にっぽんへいごと炎上えんじょうさせた。こうしてアメリカだい2海兵かいへい師団しだんすこしづつではあるが、着実ちゃくじつ内陸ないりく前進ぜんしんしてった[101]

レッドビーチ1おき日本にっぽんぐんの50口径こうけいさんねんしき14cmほう撃沈げきちんされた戦車せんしゃ揚陸ようりくてい

アメリカぐん上陸じょうりく地点ちてんのなかでもっとも日本にっぽんぐん善戦ぜんせんしていたのが、もっとも西側にしがわのレッドビーチ1であった。レッドビーチ1の守備しゅびたい闘将とうしょう谷口たにぐちためきち中尉ちゅういひきいる佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたいだい2中隊ちゅうたい主力しゅりょくとする部隊ぶたいで、兵力へいりょくは250にんのビーチと比較ひかくするとすくなかったが、きゅうしきけい戦車せんしゃ3りょうくわえて、その担当たんとう地区ちくに50口径こうけいさんねんしき14cmほう2もんくわえて、はちはちしきななせんちめーとる野戦やせん高射こうしゃほう4もんよんじゅう口径こうけいさんねんしきはちせんちめーとる高角こうかくほう3もんくわえて高射こうしゃ機関きかんほうとその砲兵ほうへい200にん守備しゅびについており、火力かりょくてきにはのビーチにけはらなかった。50口径こうけいさんねんしき14cmほうはアメリカぐん上陸じょうりくまえから輸送ゆそう艦隊かんたい砲撃ほうげきつづけ、命中めいちゅうだんこそなかったが、沖合おきあい退避たいひさせることに成功せいこうし、そのおかげでアメリカぐん上陸じょうりく開始かいし時間じかんが30ふんおくれることとなった。また上陸じょうりく開始かいしされると、アムトラックに搭乗とうじょうしてサンゴ礁さんごしょうすすだい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい集中しゅうちゅう砲火ほうかびせてだい損害そんがいかぶらせて、サンゴ礁さんごしょうじょう往生おうじょうさせた[102]。ここでも50口径こうけいさんねんしき14cmほう威力いりょく発揮はっきし、だい2戦車せんしゃ大隊だいたいけい戦車せんしゃ中隊ちゅうたいM3けい戦車せんしゃ2小隊しょうたい輸送ゆそうしていた戦車せんしゃ揚陸ようりくてい撃沈げきちんして、けい戦車せんしゃ2小隊しょうたい全滅ぜんめつさせた[103]。このときに、上述じょうじゅつとお大隊だいたいちょうのシャッテルが指揮しきかんのシャウプから叱責しっせきされている[92]。それでもシャッテルはレッドビーチ1に上陸じょうりくすることは出来できず、その様子ようすかねた師団しだんちょうのジュリアン・スミスがみずから「いかなる犠牲ぎせいをはらうとも上陸じょうりくし、大隊だいたい統制とうせい回復かいふくして攻撃こうげき続行ぞっこうすべし」と叱咤しったしている[92]

その谷口たにぐちはレッドビーチ1へのアメリカ海兵かいへいたい上陸じょうりくゆるさず、水際みずぎわにはおびただしいかずのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん戦死せんしたい負傷ふしょうへいがあふれていたが、レッドビーチ1への上陸じょうりく目指めざしていたマイクル・P・ライアン少佐しょうさひきいるだい2は、シャッテルの苦戦くせんると、レッドビーチ1への上陸じょうりくあきらめて、日本にっぽんぐん砲撃ほうげき射程しゃていがいおおきく遠回とおまわりしてから、日本にっぽんぐん守備しゅびうす西海岸にしかいがん(グリーンビーチ)に上陸じょうりくしてはしあたま構築こうちくした。午後ごご12:00にはM4ちゅう戦車せんしゃ6りょうもレッドビーチをけてグリーンビーチに上陸じょうりく目指めざしたが、うち4りょうサンゴ礁さんごしょうふかみにはまってうみぼっし、2りょうのみが上陸じょうりく成功せいこうした。その、M4ちゅう戦車せんしゃしたがえてアメリカ海兵かいへいたいがレッドビーチ1に陸路りくろ進撃しんげきしていったが、そのころには日本にっぽんぐん守備しゅびたい戦線せんせん集約しゅうやくするために撤退てったいみであった[104]。しかし、グリーンビーチはコンクリートと鋼鉄こうてつかためられたよんじゅう口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほう砲台ほうだいくわえ、レッドビーチとくらべるとすくないとはいえ、しょう口径こうけいほう機関きかん銃座じゅうざ健在けんざいであり[105]、ライアンは、自分じぶんひきいていただい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい一部いちぶと、その原隊げんたいとはぐれた部隊ぶたい統合とうごうしして編成へんせいした臨時りんじ混成こんせい大隊だいたいをもって、タラワ北西ほくせいはしちいさなみさきはしあたまとして確保かくほするのがせいいっぱいであった[106]。そして最後さいごまでレッドビーチ1に上陸じょうりくできなかったシャッテルひきいるだい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい主力しゅりょくは、この夕方ゆうがたにレッドビーチ2にようやく上陸じょうりくした[92]

柴崎しばざき司令しれいかん戦死せんし

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コンクリートせい日本にっぽんぐん戦闘せんとう指揮しきしょ

戦車せんしゃ活躍かつやくするようになった午後ごごになってから、あきらかに戦局せんきょくわりつつあった。シャウプの誘導ゆうどうもあって、かんほう射撃しゃげきせい確度かくどはあがり、またてき味方みかたみだれている最前線さいぜんせんにおいても、艦載かんさい上空じょうくういて、日本にっぽんぐん陣地じんち精密せいみつじゅうばくげきくわえていた。レッドビーチ2でたたかつづけていた太田おおたきよし2とう整備せいび兵曹へいそう部隊ぶたいは、午前ごぜんちゅう激戦げきせんとそのかんほう射撃しゃげき空襲くうしゅうすで部隊ぶたい半数はんすう死傷ししょうしていた。それでも意気盛いきさかんにたたかつづけ、陣地じんちすうめいのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん接近せっきんしてくると、部隊ぶたい指揮しきかん軍刀ぐんとう抜刀ばっとうして突撃とつげき兵士へいし銃剣じゅうけん突撃とつげきでそれにつづいた。アメリカ海兵かいへい隊員たいいん不意ふいをつかれて一目散いちもくさんすが、軍刀ぐんとう抜刀ばっとうした指揮しきかんはそれをってたちまち2~3にんっててて、アメリカ海兵かいへいたい撃退げきたいした。その突撃とつげきりたのか戦闘せんとうはしばらく小康しょうこう状態じょうたいとなった[107]

海軍かいぐん陸戦りくせんたいとしてはじゅう装備そうびとなるきゅうしきけい戦車せんしゃも、戦車せんしゃごうのなかではげしいほうばくげきっていた。やがて、アメリカ海兵かいへいたいがアムトラックにってタラワを目指めざしてくると、戦車せんしゃたいにも攻撃こうげき命令めいれいた。大貫おおぬき唯男ただお海軍かいぐん上等じょうとう兵曹へいそう搭乗とうじょうしているきゅうしきけい戦車せんしゃにも攻撃こうげき命令めいれいくだされ、砲手ほうしゅであった大貫おおぬき砲身ほうしんくほどにきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうちまくり、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい撃破げきはし、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんうみしずめた、しかし、海岸かいがんせるアメリカ海兵かいへい隊員たいいんつことはなく、その物量ぶつりょう脅威きょういおぼえた。アメリカ海兵かいへい隊員たいいん海岸かいがん上陸じょうりくしてくると、大貫おおぬききゅうしきけい戦車せんしゃ戦車せんしゃごうびだして、アメリカ海兵かいへいたい海岸かいがん構築こうちくしつつあった前線ぜんせん陣地じんち突撃とつげきしていった。アメリカ海兵かいへい隊員たいいんらしながら進撃しんげきしたが、やがてエンジンがうごかなくなり、敵陣てきじんなか往生おうじょうしてしまった。たちまちまわりをアメリカ海兵かいへい隊員たいいんかこ万事休ばんじきゅうすと覚悟かくごしたとき、エンジンが始動しどう大貫おおぬきはアメリカ海兵かいへい隊員たいいん蹂躙じゅうりんしながら死地しちだっすることができた[108]

司令しれいかん柴崎しばざきは、はげしいかんほう射撃しゃげきにより寸断すんだんされた電話でんわもうおぎなうために、かく部隊ぶたい伝令でんれいして戦闘せんとう指揮しきつづけていたが[109]戦局せんきょく悪化あっか一途いっとをたどっており、午後ごご13:30に以下いかのような戦況せんきょう報告ほうこく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい打電だでんした[110]

てきは、飛行機ひこうきおよび、艦艇かんていほうばくげき支援しえん輸送ゆそうせん逐次ちくじにゅうはくせしめ、人員じんいん資材しざいつづ揚陸ようりく
桟橋さんばしつうずる南北なんぼくせん彼我ひが対峙たいじちゅう — 柴崎しばざきめぐみ

しかし、これが柴崎しばざきからの最後さいご打電だでんとなった。日本にっぽんぐん死傷ししょうしゃ急増きゅうぞうしており、温情おんじょうふかく、つね部下ぶか将兵しょうへいあんじていた柴崎しばざきは、死傷ししょうしゃまもるために、強固きょうこなセメントづくりの戦闘せんとう指揮しきしょ野戦やせん病院びょういんゆずわたして、みずからは参謀さんぼう司令しれい要員よういんれて外海がいかいがわ防空壕ぼうくうごううつることとした[34]。そこで、燃料ねんりょうきて戦闘せんとう指揮しきしょちかくで行動こうどう不能ふのうとなり、砲台ほうだいわりとなっていた大貫おおぬききゅうしきけい戦車せんしゃ柴崎しばざきらの移動いどう支援しえんめいじられた。大貫おおぬきうごかない戦車せんしゃのなかからきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとる戦車せんしゃほうちまくって、無事ぶじ柴崎しばざきらは防空壕ぼうくうごうへの移動いどうができた[111]

ここで、アメリカぐんにとっては僥倖ぎょうこう日本にっぽんぐんにとっては不幸ふこうなことがこる。午後ごご14:00ごろに、アメリカぐん駆逐くちくかんはなった1だんがまぐれたりで柴崎しばざきがいた防空壕ぼうくうごう着弾ちゃくだんし、柴崎しばざき以下いか司令しれい幕僚ばくりょうすべ戦死せんししてしまった[112]。このときに唯一ゆいいつのこった司令しれい伝令でんれいおとさと一等いっとう水兵すいへいによれば、防空壕ぼうくうごうには4つものおおきな弾痕だんこんのこされていただけで、柴崎しばざき以下いか司令しれい要員よういんばされて遺体いたいすらのこっていなかったという[113]。このとき、大貫おおぬききゅうしきけい戦車せんしゃかんほう射撃しゃげき撃破げきはされている。大貫おおぬき戦車せんしゃから降車こうしゃしていて無事ぶじであったが、戦車せんしゃへい2にん戦車せんしゃごとばされてしまった[111]柴崎しばざき戦死せんしによって、日本にっぽんぐんはこののち統制とうせいのとれた作戦さくせん行動こうどうができなくなり[114]結果けっかてきおおくのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんいのちすくうことになった[115]

沖合おきあいの「メリーランド」艦上かんじょうでは、ジュリアン・スミスやヒルといった上陸じょうりく作戦さくせん司令しれいかんたちが、あてにならない無線むせんもうおくられてくる断片だんぺんてき戦況せんきょう報告ほうこくにいらちをつのらせていた。そこで、あてにならない戦況せんきょう報告ほうこくより、直接ちょくせつ確認かくにんしようということになり、「メリーランド」に搭載とうさいされていたOS2U キングフィッシャー水上すいじょう参謀さんぼうせてタラワ上空じょうくうから戦況せんきょう報告ほうこくさせた。ジュリアン・スミスはシャウプからの要請ようせいもあって、すで師団しだんない予備よび戦力せんりょくすべ投入とうにゅうすることとしていたが、それでも戦況せんきょういかめしかったので、作戦さくせんまえぐん予備よび戦力せんりょくとしてげられていただい6海兵かいへい連隊れんたいのタラワへの投入とうにゅうをホーランド・スミスに要請ようせいすることとし「レッド2およびレッド3ビーチに上陸じょうりく成功せいこう、レッド1は足掛あしがかり。師団しだん予備よびから1個いっこ上陸じょうりくチームを投入とうにゅう予定よてい依然いぜん頑強がんきょう抵抗ていこう遭遇そうぐうちゅう」「海兵かいへいたいだい損害そんがいこうむっており、状況じょうきょう不確ふたしかなり」と打電だでんした。そこごろホーランド・スミスはマキンのたたか作戦さくせん指揮しきのため、マキン沿岸えんがんにいたが、比較的ひかくてき順調じゅんちょうなマキンと比較ひかくすると、タラワは大量たいりょう殺戮さつりくになりつつあることを認識にんしきして、ぐん予備よび戦力せんりょくだい6海兵かいへい連隊れんたいのタラワ投入とうにゅう決定けっていした[116]

タラワに上陸じょうりくしたアメリカ海兵かいへいたい軍用ぐんようブルドーザー

柴崎しばざき戦死せんしして司令しれいもなくなったが、日本にっぽんぐんはそれにもかかわらず驚異きょういてき戦意せんいたたかつづけた。アメリカぐんつづ火炎かえん放射ほうしゃ爆薬ばくやく対抗たいこうし、1つ1つの陣地じんち虱潰しらみつぶしにしていったが、日本にっぽんぐんはそれを阻止そしするため、陣地じんちからびだして椰子やしかげかくれながら、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん狙撃そげきした[117]上陸じょうりくまえだい隊長たいちょう戦死せんししただい2海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたい甚大じんだい損害そんがいこうむりながらもレッドビーチ2から内陸ないりくけて進撃しんげきしていたが、そのはばんだのが日本にっぽんぐん狙撃そげき兵隊へいたいであった。進撃しんげきするアメリカ海兵かいへい隊員たいいん日本にっぽんぐん狙撃そげき次々つぎつぎと斃れ、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんからるとまわりの椰子やしすべてに日本にっぽんへいひそんでいるようにえたという。とくにE中隊ちゅうたい損害そんがい甚大じんだい将校しょうこう6にんのうち5にん戦死せんしし、中隊ちゅうたい全員ぜんいんでも死傷ししょうせず無事ぶじものはわずか10めいとなっていた[118]

上陸じょうりく成功せいこうし、どうにかはしあたま確保かくほして内陸ないりくすすもうとするアメリカ海兵かいへいたいと、それを阻止そししようとする日本にっぽんぐんあいだ上陸じょうりく初日しょにち午後ごごてしない激戦げきせんつづいた。兵士へいしたい兵士へいし近距離きんきょり白兵戦はくへいせん陣地じんち破壊はかいするための火炎かえん放射ほうしゃ爆薬ばくやく日本にっぽんぐんもアメリカ海兵かいへいたい激戦げきせんなか指揮しきかん次々つぎつぎと斃れ、部隊ぶたいはばらばらとなり、たがいにしょう人数にんずうのグループとなってたたかつづりょうぐん大量たいりょう死傷ししょうしゃがビーチにころがっていた[119]激戦げきせんのなかで、意外いがいなものがアメリカ海兵かいへいたい強力きょうりょく武器ぶきとなりつつあった。それは、陣地じんち構築こうちくよう揚陸ようりくされていたブルドーザーであり、日本にっぽんぐん砲撃ほうげきまえ撃破げきはされたり、海中かいちゅうぼっする車体しゃたいもあるなかで、無事ぶじ上陸じょうりくできた車両しゃりょうは、盛土もりつちをして即興そっきょう弾除たまよけを造成ぞうせいするとともに、地面じめんひくくに構築こうちくされている日本にっぽんぐん陣地じんちをそのままならししてなかにいる日本にっぽんへいめにしてしまった。これは掃討そうとうせん絶大ぜつだい威力いりょく発揮はっきしている[120]

夜間やかん攻防こうぼう

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かいってよこたわる日本にっぽんへいとアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたい

やがて日没にちぼつとなり、戦闘せんとう小康しょうこう状態じょうたいとなった。レッドビーチ2から進撃しんげきしていたアメリカ海兵かいへいたい一部いちぶ飛行場ひこうじょう滑走かっそう付近ふきんまでたっしていたが、しずんだあとは戦車せんしゃ部隊ぶたい飛行場ひこうじょう付近ふきんのこして、歩兵ほへいはビーチのほう撤収てっしゅうしていった[121]。それまでにアメリカだい2海兵かいへい師団しだんは、レッドビーチ1の西にし半分はんぶんたてふか140mとレッドビーチ2とレッドビーチ3の境界きょうかい桟橋さんばしはば460m、たてふか260mにわたって確保かくほすることに成功せいこうしていた[114]。すでにこの時点じてん上陸じょうりくしたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんやく5,000めいのうちその3ぶんの1は死傷ししょうしていたが[95]、この30%ちょう死傷ししょうりつ[122]激戦げきせんばれたサイパンのたたか(10%)[123]硫黄いおうとうたたか(8%)[124][125]オマハ・ビーチ(5.8%)[126]はるかに上回うわまわる、敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせん上陸じょうりく初日しょにち死傷ししょうりつとしては最悪さいあく数字すうじとなり、のちに「恐怖きょうふのタラワ」とばれることとなった[127]。また、1,500にん以上いじょうのぼった死傷ししょうしゃすうは、だいいち世界せかい大戦たいせんソアソンのたたか英語えいごばんさいこうむった、1にち死傷ししょうしゃすう1,303にん上回うわまわるアメリカ海兵かいへいたい史上しじょう最悪さいあく人的じんてき損失そんしつとなったうえ、人的じんてき損失そんしつのなかでも戦死せんししゃすうは、タラワがソアソンのたたかいの5ばい以上いじょうであった[128]

負傷ふしょうへいふくめたやく5,000にんのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんがこのせま占領せんりょうないにひしめいているなか、ジュリアン・スミスやシャウプがもっともおそれていたのが、日本にっぽんぐん曲射きょくしゃほう迫撃はくげきほう集中しゅうちゅう砲撃ほうげきくわえてくることであったが、そのような攻撃こうげきはなくシャウプらはむねをなでおろしている。もっともだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたいは、海軍かいぐん陸戦りくせんたいのなかでも装備そうびすぐれていたとはいえ、曲射きょくしゃほう迫撃はくげきほう装備そうびしていなかった[129]くらくなっても、日本にっぽんぐん機関きかんじゅうしょう口径こうけい砲撃ほうげき火力かりょくおとろえず、うごくものにたいしてはさかんに攻撃こうげきしていたが、よるのとばりは確実かくじつにアメリカ海兵かいへいたいたすけることとなり、サンゴ礁さんごしょうじょう往生おうじょうしていた部隊ぶたい上陸じょうりくたし、次々つぎつぎ補給ほきゅう物資ぶっし資材しざい武器ぶき揚陸ようりくされた。予想よそうがい激戦げきせん損失そんしつ物資ぶっし消費しょうひはげしかったが、それをおぎなうだけの潤沢じゅんたく物資ぶっしをアメリカぐんっていた[130]。また、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちはこのよる日本にっぽんぐん夜襲やしゅうがあるものと身構みがまえていたが、組織そしきてき反撃はんげきおこなわれることはなかった。アメリカ海兵かいへいたい指揮しきかんたちは、それが日本にっぽんぐん連絡れんらく手段しゅだん途絶とぜつによって調整ちょうせいができなかったためと判断はんだんしていたが、実際じっさい司令しれいかん柴崎しばざき以下いか司令しれい消滅しょうめつしており、そのような組織そしきてき反撃はんげき困難こんなんであったからである[130]

しかし、組織そしきてき反撃はんげきおこなわなかったことで、日本にっぽんぐん戦力せんりょく消耗しょうもうもなく、日本にっぽんぐんつづ持久じきゅうせんたたか能力のうりょく維持いじできた。アメリカ海兵かいへいたいにとっても、陣地じんちして突撃とつげきしてくる日本にっぽんへいよりは、防御ぼうぎょ陣地じんちこもっている日本にっぽんへいほうはるかに危険きけん存在そんざいであった[131]日本にっぽんぐん反撃はんげきするわりに、よるやみまぎれて後方こうほうから破壊はかいされたトーチカに兵員へいいんおくんでさい編成へんせいおこない、海岸かいがんにあるアムトラックや戦車せんしゃ残骸ざんがいもぐんでアメリカ海兵かいへい隊員たいいん背後はいご確保かくほし、海岸かいがんからやく600mのところ座礁ざしょうしていた輸送ゆそうせん斉田さいだまる」の残骸ざんがい機銃きじゅうけ、翌朝よくあさのアメリカぐん攻撃こうげきそなえた[114]。この、アメリカぐん兵器へいき残骸ざんがい日本にっぽんぐん兵士へいしひそめるといううごきは、日没にちぼつまえから準備じゅんびすすめられており、タイム従軍じゅうぐん記者きしゃとして、タラワに上陸じょうりくしていたロバート・シャーロッド英語えいごばんが、海中かいちゅう撃破げきはされていたアメリカのけい戦車せんしゃに、ほとんぱだか人間にんげん海中かいちゅうからもぐって車内しゃないはいっていく姿すがた目撃もくげきし、違和感いわかんおぼえてアメリカ海兵かいへいたい将校しょうこう報告ほうこくしたが、激戦げきせんのさなかで将校しょうこうまった余裕よゆうはなくききながされている[132]

守備しゅびたいとしてまとまった反撃はんげきはなかったが、レッドビーチ2の佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたいだい1中隊ちゅうたい本部ほんぶ部隊ぶたいによる、飛行場ひこうじょう付近ふきん戦車せんしゃ部隊ぶたいたいする夜襲やしゅうおこなわれている。佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい副官ふっかん岡田おかだただし大尉たいいが、かく部隊ぶたい先任せんにんしゃ呼集こしゅうすると22:00からの夜襲やしゅうめいじた。作戦さくせんとしては、かくたいから3にん決死けっしたい選抜せんばつし、決死けっしたい九九式破甲爆雷でアメリカぐん戦車せんしゃ攻撃こうげきし、その兵士へいし突撃とつげきしてアメリカ海兵かいへい隊員たいいん撃破げきはするというものであった。作戦さくせん開始かいし時間じかんになり、夜襲やしゅうたい飛行場ひこうじょうちかくの作戦さくせん開始かいし位置いちまでちかづき、アメリカぐん戦車せんしゃたい様子ようすをうかがったが、M4ちゅう戦車せんしゃ滑走かっそう路上ろじょう円陣えんじんんでおり、自家じか発電はつでんによる電灯でんとうあたりをあかるくしているなかで、戦車せんしゃへい戦車せんしゃりて、食事しょくじをしたり、談笑だんしょうしたり油断ゆだんをしている様子ようすであった。夜襲やしゅうたい好機こうきるや、まずは決死けっしたい戦車せんしゃかって突撃とつげきして、九九式破甲爆雷をいたままM4ちゅう戦車せんしゃ体当たいあたりをおこないあちこちでだい爆発ばくはつ発生はっせいした。決死けっしたい自爆じばく攻撃こうげき多数たすうのM4ちゅう戦車せんしゃ炎上えんじょうし、のこったM4ちゅう戦車せんしゃ混乱こんらんして右往左往うおうさおうした。そこに夜襲やしゅうたい突撃とつげき敢行かんこうし、不意ふいをつかれたアメリカ海兵かいへいたいだい損害そんがいこうむって苦戦くせんいられたが、やがて態勢たいせいなおすと、圧倒的あっとうてき火力かりょく反撃はんげき開始かいしし、日本にっぽんぐん夜襲やしゅう撃退げきたいされた[121]。このように、このよる夜襲やしゅうはアメリカ海兵かいへいたいおおきな損害そんがいあたえることはできなかったが、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん睡眠すいみん時間じかんうばい、疲労ひろう蓄積ちくせきさせるのにおおきな効果こうかがあった。あるアメリカ海兵かいへい隊員たいいん一睡いっすいもできず「日本にっぽんぐん戦法せんぽう、とくに実質じっしつてき自殺じさつ戦術せんじゅつ使つかった集団しゅうだんバンザイ攻撃こうげきにとっての暗闇くらやみ価値かちは、じつ現実げんじつてきで、おそろしいものになっていた」とその恐怖きょうふかたっている[133]

このよる連合れんごう艦隊かんたい陸上りくじょう攻撃こうげきによるタラワ沖合おきあい艦船かんせんおよびタラワのアメリカ海兵かいへいたいへの攻撃こうげきめいじ、マーシャルとナウルの飛行場ひこうじょうから合計ごうけい7陸上りくじょう攻撃こうげきたい出撃しゅつげきした[134]日本にっぽんぐん陸上りくじょう攻撃こうげきはタラワ沖合おきあい到達とうたつすると、アメリカ海軍かいぐん艦船かんせん攻撃こうげきするため低空ていくう飛行ひこう開始かいししたが、はげしいアメリカぐん艦艇かんていからの対空たいくう射撃しゃげきによって戦果せんかげることもなく撃退げきたいされた[135]。なお、この攻撃こうげき陸上りくじょう攻撃こうげき3帰還きかんとなった[134]。また、夜明よあけの1あいだまえ日本にっぽんぐん飛行ひこうてい特徴とくちょうのあるプロペラおんとどろかせながら、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんがひしめくビーチにけて飛行ひこうしてきた。シャーロッドがそら見上みあげているとちかくにいたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんが「あれはふる洗濯せんたくのチャーリーさ」とあだおしえてくれた。さらに「ガダルカナルせん以来いらい、あれにおにかかってますよ!たいした危害きがいあたえませんがね」と説明せつめいをしている。その「ふる洗濯せんたくのチャーリー」にたいして、自分じぶんたちの背後はいごから日本にっぽんぐん独特どくとくピンク色ぴんくいろ曳光弾えいこうだん発射はっしゃされてばくげき位置いち管制かんせいしようとしたが、管制かんせいされた「ふる洗濯せんたくのチャーリー」の投下とうかしたばくだん海上かいじょう落下らっかして、アメリカ海兵かいへいたい損害そんがいはなかった。これをたシャーロッドは、にちちゅうけい戦車せんしゃ残骸ざんがい日本にっぽんへい侵入しんにゅうしたのを目撃もくげきしていたこともあって、背後はいご日本にっぽんぐんひそんでいることを懸念けねんしたが、のアメリカ海兵かいへい隊員たいいんがそれにくことはなかった[136]

11月22にち

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アメリカ海兵かいへいたい増援ぞうえん投入とうにゅう

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銃撃じゅうげきをかいくぐって突撃とつげきするアメリカ海兵かいへい隊員たいいん

りょうぐん兵士へいしにとってねむれないよるけようとしていた。夜明よあけの時間じかん干潮かんちょう時間じかんかさなっていたが、次第しだいあかるくなって見通みとおすことができるようになった海岸かいがん沿いには、多数たすうのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたいや、アムトラック、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい戦車せんしゃ残骸ざんがいらばっており、遺体いたいからの腐臭ふしゅうめるという地獄じごく絵図えずになっていた。シャウプは正確せいかく損害そんがいじょうきょう把握はあくつとめていたが、それは困難こんなん作業さぎょうであり、おおまかに1/3の兵力へいりょくうしなわれ、そのなかでも士官しかん下士官かしかん死傷ししょうしゃ割合わりあいたかいということぐらいしかわからなかった。シャウプは「我々われわれはとてつもなく困難こんなん状況じょうきょうにある」と認識にんしきし、師団しだん司令しれいにさらなる増援ぞうえんと、負傷ふしょうしゃおおすぎてつきかけていた医薬品いやくひん補給ほきゅうもとめた。また、ねつあつ対策たいさく大量たいりょう真水まみず食塩しょくえん補給ほきゅうもとめた。ジュリアン・スミスはシャウプのもとめにおうじて、師団しだん予備よび戦力せんりょく海兵かいへいだい8連隊れんたいの2大隊だいたいを、あさ1ばん午前ごぜん6:00に増援ぞうえんとして投入とうにゅうすることを約束やくそくした[137]

作戦さくせん計画けいかくどおりに、アメリカぐん増援ぞうえん部隊ぶたいせた上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい海岸かいがんけて進撃しんげき開始かいしした。海岸かいがんからは昨日きのう遜色そんしょくないはげしい十字砲火じゅうじほうかびせられ、はやくも上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい損害そんがい続出ぞくしゅつした。やがて上陸じょうりくよう舟艇しゅうていサンゴ礁さんごしょうまでたっすると、よるあいだ座礁ざしょうした「斉田さいだまる」や撃破げきはされたアメリカぐん上陸じょうりくよう舟艇しゅうていやアムトラックの残骸ざんがいかくれていた日本にっぽんへいが、上陸じょうりくよう舟艇しゅうていりて、十字砲火じゅうじほうかなかけっして突撃とつげきするアメリカ海兵かいへい隊員たいいん背後はいごから狙撃そげきした。前後ぜんごからもうしゃびたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはたちまちだい混乱こんらんおちいり、甚大じんだい損害そんがいこうむった。なかには、狙撃そげき負傷ふしょうした戦友せんゆうたすけようとしてったが、そこに日本にっぽんぐん砲弾ほうだん着弾ちゃくだんし、負傷ふしょうへいごとばしてしまうという阿鼻叫喚あびきょうかん状況じょうきょうされ、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん上陸じょうりく初日しょにちよりも状況じょうきょう悪化あっかしていると恐怖きょうふした[138]

なかでも「斉田さいだまる」からの機銃きじゅう攻撃こうげき絶大ぜつだい効果こうかげており、背後はいごから掃射そうしゃされアメリカ海兵かいへいたい次々つぎつぎとなぎたおされ、混乱こんらんしているアメリカ海兵かいへい隊員たいいん陸上りくじょう便所べんじょ設置せっちされていた機銃きじゅうからも機銃きじゅうだんびせられて、あっというに100にん以上いじょうのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん死傷ししょうしてしまった[139]。アメリカ海兵かいへい隊員たいいんはこれでようやく昨晩さくばんのうちに日本にっぽんへい自分じぶんたちの背後はいごひそんでいることを認識にんしきし、「にくジャップめ、昨夜さくやそこまでおよぎついて、あの貨物かもつせんなか機関きかんじゅう発射はっしゃしたらしいぞ。どうも弾丸だんがんがその方角ほうがくよりんでくるのをたようにおもった」などと口々くちぐちかたっていたが、あとまつりであった。シャーロッドが見渡みわたしたところ、たちまちサンゴ礁さんごしょうじょうにはアメリカ海兵かいへい隊員たいいんやく200たい遺体いたいよこたわっていた[140]

だい損害そんがいこうむったアメリカぐんはまず便所べんじょ機銃きじゅう砲撃ほうげき集中しゅうちゅうして撃破げきはすると、つぎに「斉田さいだまる」にたい航空こうくう攻撃こうげきおこなった。まず、F6F戦闘せんとう4来襲らいしゅうし、機銃きじゅう掃射そうしゃ開始かいしした。しかし、「斉田さいだまる」を沈黙ちんもくさせることはできなかった。つづいて小型こがたばくだんかかえたF6F戦闘せんとうが3来襲らいしゅうした。「斉田さいだまる」にたいし1ばん、2ばん至近しきんだんあたえ、3ばん直撃ちょくげきだんあたえたが、「斉田さいだまる」の機銃きじゅう陣地じんち無傷むきずであった。こののちもさらに「斉田さいだまる」にたいする攻撃こうげきつづけられ、今度こんどは12のF6F戦闘せんとう来襲らいしゅうした。12戦闘せんとう次々つぎつぎばくだん投下とうかするものの「斉田さいだまる」に直撃ちょくげきだんあたえられず、ようやく1はつだけ命中めいちゅうした。だが、それでも「斉田さいだまる」の機銃きじゅう陣地じんち無傷むきずであった[139]艦載かんさいばくげきのあまりの不正確ふせいかくさに、海上かいじょうのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちは失望しつぼうしたが[141]艦載かんさいたよりにならないことを痛感つうかんしたアメリカ海兵かいへいたいは、みずか工兵こうへい部隊ぶたいによる決死けっしたい編成へんせいして「斉田さいだまる」にちかづき、高性能こうせいのう爆薬ばくやく仕掛しかけた。その高性能こうせいのうばくやくにより「斉田さいだまる」はだい爆発ばくはつこし、「斉田さいだまる」の日本にっぽんぐん機銃きじゅう陣地じんちはようやく沈黙ちんもくした[139]

タラワ西海岸にしかいがん確保かくほ

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タラワで猛威もういるったM116 75mm榴弾りゅうだんほう

シャウプの作戦さくせんは、昨日きのう血路けつろひらいた飛行場ひこうじょう進撃しんげきし、そのまま滑走かっそう横切よこぎってしま南端なんたんまでたっして日本にっぽんぐん東西とうざい分断ぶんだんしようというものであった[142]。しかし、日本にっぽんぐんよるあいだ戦線せんせん整理せいりし、サンゴ礁さんごしょうやビーチのアメリカぐん兵器へいき残骸ざんがい機関きかんじゅう狙撃そげきへいしのばせて、背後はいごから上陸じょうりく部隊ぶたいたたくとともに、滑走かっそう路上ろじょうのアメリカ海兵かいへいたい背後はいご部隊ぶたい進出しんしゅつさせて孤立こりつさせ、昨日きのう掃討そうとうされた椰子やしひそ狙撃そげきへい復活ふっかつさせて、アメリカ海兵かいへいたい進撃しんげきさまたげた[141]

師団しだん予備よびだい8海兵かいへい連隊れんたいの2大隊だいたい続々ぞくぞく上陸じょうりくよう舟艇しゅうていでレッドビーチ2におくまれてきたが、サンゴ礁さんごしょうじょうろされたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはそこで射殺しゃさつされるか、はげしい銃撃じゅうげきまえに、日本にっぽんぐん設置せっちしたコンクリートせい防塞ぼうさいか、撃破げきはされたアムトラックや戦車せんしゃ弾丸だんがんふせいでいるかいずれかであり、陸上りくじょうまでたどりけるものほとんどいない有様ありさまで、また、滑走かっそうけて進撃しんげきしようとするアメリカ海兵かいへい隊員たいいんはげしい銃撃じゅうげきびてなかなか前進ぜんしんできなかった[141]陸上りくじょうにいたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんは、海上かいじょうちまくられる増援ぞうえん部隊ぶたい見守みまもっていたが、その様子ようす自分じぶんたちの昨日きのう体験たいけんよりももっとひどいものにおもわれた。どうにか上陸じょうりくできた海兵かいへいだい8連隊れんたいだい1大隊だいたいちょうのD.レンス.ヘイズ少佐しょうさがシャウプのしたにやってきたが、上陸じょうりくするまでに半数はんすう兵力へいりょくほとんどの装備そうびうしない、さらに大隊だいたいはバラバラになっていた[143]

こののち、アメリカ海兵かいへいたいにとって幸運こううんおとずれ、小潮こしおが36あいだおくれて正常せいじょうもど[144]、ようやくサンゴ礁さんごしょう海中かいちゅうぼっしていった。これで、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい戦車せんしゃ揚陸ようりくてい海岸かいがんまで到達とうたつすることができるようになり、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん危険きけんサンゴ礁さんごしょう徒歩とほ海岸かいがん目指めざ必要ひつようがなくなり、さらに、海上かいじょう孤立こりつしていたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん火砲かほうなどのじゅう装備そうび続々ぞくぞくおくむこともできて戦力せんりょく充実じゅうじつしてきた。とくM116 75mm榴弾りゅうだんほう猛威もういるい、ビーチで迅速じんそくてられると、確認かくにんできた日本にっぽんぐん砲座ほうざ直接ちょくせつ照準しょうじゅん砲撃ほうげきして撃破げきはしていった。奇跡きせきてき日本にっぽんぐん砲撃ほうげきからびることができたブルドーザーは、夜間やかんあいだ平坦へいたんかくすところがすくないビーチに次々つぎつぎすなげて即興そっきょう遮蔽しゃへいぶつ造成ぞうせいしており、榴弾りゅうだんほう日本にっぽんぐん攻撃こうげきけながら正確せいかく砲撃ほうげきびせることができた[145]

シャウプは戦闘せんとう指揮しきしょ桟橋さんばしから、日本にっぽんぐん燃料ねんりょう貯蔵庫ちょぞうこよこったあななか前進ぜんしんさせていたが、はなさき燃料ねんりょう貯蔵庫ちょぞうこないには日本にっぽんへいやく20にんもっており、戦闘せんとう指揮しきしょ完全かんぜん武装ぶそうしたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん警護けいごしていた[146]実際じっさい燃料ねんりょう貯蔵庫ちょぞうこ排気はいきこうつたって日本にっぽんへいがシャウプに接近せっきんし、一緒いっしょにいた下士官かしかん狙撃そげきして負傷ふしょうさせたということもあった。シャウプは昨日きのう負傷ふしょうしたあしから出血しゅっけつつづいていながらも、後退こうたいすることはなくつづ指揮しきつづけていたが、なかなか好転こうてんしない戦況せんきょうにいらちをつのらせていた。ぐん予備よびからだい6海兵かいへい連隊れんたいもどしてい師団しだんちょうのジュリアン・スミスは、その投入とうにゅう時期じき投入とうにゅう個所かしょさぐるために、シャウプに戦力せんりょくりているか?と打診だしんしてきたが、シャウプは躊躇ちゅうちょなく「No」と回答かいとうしている[147]。そのシャウプのわずか9mさき最前線さいぜんせんであり、対峙たいじしたりょうぐんはげしい銃撃じゅうげきせん展開てんかいしていた。そして、身体しんたいすこしでも暴露ばくろした兵士へいしは、間違まちがいなく衛生えいせいへい死体したい埋葬まいそうはんのやっかいになるような状況じょうきょうであった[148]

そのような激戦げきせんでも、昨日きのうタラワに一番乗いちばんのりした「海兵かいへいたいでもっとも勇敢ゆうかんおとこ」ことホーキンスは、まった躊躇ちゅうちょすることなく、はげしい銃火じゅうかなかを、勇敢ゆうかんというよりは無謀むぼう異常いじょう勇気ゆうきまわり、ひたすら日本にっぽんぐんのトーチカや機関きかん銃座じゅうざつぶしてまわった。たまへん負傷ふしょうしたが、「おれはジャップをやっつけるために、ここにやってきたのだ。後送こうそうされるためにたんじゃない」といいはなって後送こうそうこばむと[149]部下ぶかとアムトラックにんで日本にっぽんぐん機関きかん銃座じゅうざんでった。その光景こうけい部下ぶかのアメリカ海兵かいへい隊員たいいんは「1分間ふんかんひゃくまんはつ銃弾じゅうだん耳元みみもとをかすめるなかで、ひたすらジャップをっている光景こうけいは、けっしてわすれないだろう。あんなおとこ人生じんせいで1たことがない」と驚嘆きょうたんしたが、幸運こううんながくはつづかず。正午しょうごごろ、ついに日本にっぽんぐん銃弾じゅうだんがホーキンスのかた付近ふきん動脈どうみゃくつらぬき、まもなく戦死せんしした[150]。ホーキンスは、昨日きのう桟橋さんばし制圧せいあつくわえて、5かい負傷ふしょうしながら、6かしょ日本にっぽんぐんのトーチカや機関きかん銃座じゅうざ撃破げきはした。その卓越たくえつした武勲ぶくんにたいして、名誉めいよ勲章くんしょう遺贈いぞうされた[151]

昨日きのうつづき、レッドビーチではだい苦戦くせんしていたアメリカ海兵かいへいたいであったが、タラワの西端せいたん海岸かいがん(アメリカぐん呼称こしょう:グリーンビーチ)でおおきな進展しんてんがあった。昨日きのう、タラワ北西ほくせいはしみさき確保かくほしていたライアンひきいる臨時りんじ混成こんせい大隊だいたいが、グリーンビーチにけて前進ぜんしん開始かいしした。その援護えんごには昨日きのうグリーンビーチにうみぼつのがれて上陸じょうりくできた2りょうのM4ちゅう戦車せんしゃと、海上かいじょうからは2せき駆逐くちくかん地上ちじょうのアメリカ海兵かいへい隊員たいいん管制かんせいによる精密せいみつ砲撃ほうげき支援しえんしていた。日本にっぽんぐん抵抗ていこう散発さんぱつてきであり、その微力びりょく抵抗ていこうもM4ちゅう戦車せんしゃ駆逐くちくかん砲撃ほうげき粉砕ふんさいされてしまい、戦闘せんとう開始かいしわずか1あいだでグリーンビーチ一帯いったいはライアンの臨時りんじ混成こんせい大隊だいたいちた。これでアメリカ海兵かいへいたいはグリーンビーチに安全あんぜん増援ぞうえん部隊ぶたい補給ほきゅう物資ぶっしおくむことができるようになったが、依然いぜんとしてレッドビーチ正面しょうめん日本にっぽんぐん抵抗ていこうおとろえをせることはなかった[152]

われわれはちつつあり

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だい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいがタラワに上陸じょうりくしたゴムボート

シャウプから切実せつじつ増援ぞうえん要求ようきゅうけたジュリアン・スミスは熟考じゅっこうのうえで、だい6海兵かいへい連隊れんたい激戦げきせんつづくレッドビーチ2に正面しょうめんから上陸じょうりくさせて、だい8海兵かいへい連隊れんたいまいにするのではなく、日本にっぽんぐん防備ぼうびよわいところにゴムボートでひそかに上陸じょうりくさせて、陸路りくろ前線ぜんせんかわせることとした。早速さっそくだい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいゴムボート分乗ぶんじょうすると、おおきく迂回うかいして制圧せいあつしていたグリーンビーチから無事ぶじ上陸じょうりくすることができた。このおかげでだい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいはタラワのたたかいにおいて、はじめて海上かいじょう損害そんがいかぶらずに上陸じょうりくできた部隊ぶたいとなった[153]。そのグリーンビーチには続々ぞくぞく部隊ぶたい補給ほきゅう物資ぶっし揚陸ようりくされたが、そのなかには、昨日きのうレッドビーチおき戦車せんしゃ揚陸ようりくかんごと2小隊しょうたいうしなっていただい2戦車せんしゃ大隊だいたいけい戦車せんしゃ中隊ちゅうたいのこりもおり、西岸せいがん日本にっぽんぐん掃討そうとうして、明日あしたからだい6海兵かいへい連隊れんたい東進とうしんすることとなっていた[154]

レッドビーチ2と3正面しょうめんでも戦況せんきょうはアメリカ海兵かいへいたい有利ゆうりになりつつあった。続々ぞくぞく揚陸ようりくされる火砲かほう戦車せんしゃ支援しえんけてアメリカ海兵かいへい隊員たいいん飛行場ひこうじょうけて前進ぜんしん開始かいししていた。勇猛ゆうもうなアメリカ海兵かいへいたい士官しかんは、日本にっぽんぐんはげしい機銃きじゅう掃射そうしゃのなかでも滑走かっそうろうとしてはししたが、部下ぶか遮蔽しゃへいぶつかくしていてこなかった。その様子ようすたその将校しょうこうは、戦闘せんとう指揮しきしょんでシャウプに「大佐おおさ殿どの、あの浜辺はまべには海兵かいへいたいが1,000にんもいるのに、1人ひとりとして小官しょうかんつづいて滑走かっそうをこえようとしない」となげいたが、シャウプは「かんはこうわねばならん。オレにつづくものはだれか?それでたとえわずか10めいでもかんつづくものがあれば上出来じょうできだよ、それは1めいもいないよりましだ」と発破はっぱをかけた[155]。そのビーチでをかがめていたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんたちも、タラワの南端なんたんけて滑走かっそうすすんでった[144]

滑走かっそう路上ろじょうにも日本にっぽんぐん機関きかん銃座じゅうざ多数たすうあったが、その抵抗ていこうはビーチにくらべると致命ちめいてきではなかった[156]。これは日本にっぽんぐんがビーチ沿いの陣地じんち戦力せんりょく集中しゅうちゅうさせており、滑走かっそうまもっていたのは設営せつえいたい軍属ぐんぞく中心ちゅうしんとする部隊ぶたいであったからであった。滑走かっそう構築こうちくされていた火砲かほう陣地じんちも、設置せっちされていた山砲さんぽう歩兵ほへいほうはビーチに前進ぜんしんみであり、もぬけのからとなってぎゃくにアメリカ海兵かいへい隊員たいいん利用りようされた[157]滑走かっそう路上ろじょうにもビーチとおな密度みつど日本にっぽんぐん陣地じんちのこされていたら、アメリカ海兵かいへいたい何人なんにんのこれたかはわからなかったが、軍属ぐんぞく中心ちゅうしんとする部隊ぶたいでは、アメリカ海兵かいへいたいしとどめることは不可能ふかのうで、滑走かっそうったアメリカ海兵かいへいたいは、やぶ弾痕だんこんえ、地雷原じらいげん回避かいひしながら夕方ゆうがたまえにはみなみ海岸かいがんせんたっし、日本にっぽんぐん放棄ほうきした塹壕ざんごう活用かつようしてやく200mの海岸かいがんせん確保かくほした[156]。これで、日本にっぽんぐん兵力へいりょく東西とうざい分断ぶんだんされた[139]

これでシャウプの目標もくひょう達成たっせいされたが、日本にっぽんへいはまだ多数たすう生存せいぞんしており、しま東西とうざい分断ぶんだんした前線ぜんせんじょうのアメリカ海兵かいへいたい東西とうざい両方りょうほうからはげしい銃撃じゅうげきびせていた[158]。しかし、シャウプにとど報告ほうこく前向まえむきなものがえており、作戦さくせん開始かいし以来いらい不眠ふみん不休ふきゅう指揮しきつづけ、さらに負傷ふしょうまでしていたシャウプは、疲労ひろうしきってかお軍服ぐんぷくどろだらけで、あしかれた包帯ほうたいにはにじんでいたが、闘志とうしまったおとろえてなかった。午後ごご16:00にはくわしい戦況せんきょう報告ほうこく師団しだん司令しれい打電だでんしたが、そのめがのちにアメリカ海兵かいへいたいかたぐさとなった[159]

損害そんがいだいなり。戦死せんししゃ比率ひりつ不明ふめい戦闘せんとう効率こうりつぐんちつつあり。シャウプ — デビット・シャウプ

ビーチ沿いの強固きょうこ日本にっぽんぐん拠点きょてん攻略こうりゃくすすんでいた。レッドビーチ3対面たいめんにあった日本にっぽんぐん拠点きょてんはビーチ沿いの陣地じんちのなかでもっとも強固きょうこ構築こうちくされていた。拠点きょてんない機関きかん銃座じゅうざは、なん手榴弾しゅりゅうだん火炎かえん放射ほうしゃ掃討そうとうされていたが、そのたびあらたな機関きかんじゅう設置せっちされて、激烈げきれつ反撃はんげきしてきた。また陣地じんちないこまかい区画くかく区切くぎられているようで、うまく手榴弾しゅりゅうだんんでも、その区画くかく日本にっぽんへい殺傷さっしょうするのみで、のこりは無傷むきずであり、トンネルをつたって続々ぞくぞく補充ほじゅうがやってきた。あまりにきりがないので、めているアメリカ海兵かいへいたい将校しょうこうは「このトンネルは東京とうきょうにまでつづいているのか?」となげいていたが、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんけっして拠点きょてんないむと、銃剣じゅうけん日本にっぽんへい白兵戦はくへいせんひろげて、ある程度ていど制圧せいあつすると、ブルドーザーでのこった日本にっぽんへいごとめてしまった[160]

午後ごご19:00ごろに、シャウプは従軍じゅうぐん記者きしゃのシャーロッドをかけると「ほういまちつつある。だがてきやつらはまだまだ、しこたま鉄砲玉てっぽうだまっているぞ」と力強ちからづよはなしかけてきた。シャーロッドはあとどのくらい戦闘せんとうつづくのかたずねたところ、シャウプは「ぐん明日あしたしま西端せいたん全体ぜんたい掃討そうとうするものとしんじるが、それ以上いじょうかかるあもしれない。やつら全部ぜんぶしま尾端びたんよりこそぎ殲滅せんめつするためには、さらに1にちか2にちようするだろう」と目論見もくろみべた[161]。しかし、シャウプがその目論見もくろみたすことはなく、この午後ごご20:30に作戦さくせん指揮しきだい2海兵かいへい師団しだん参謀さんぼうちょうメリット・A・エドソン英語えいごばん大佐たいさいだ[162]

日本にっぽんぐん状況じょうきょう

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陣地じんちない自決じけつした日本にっぽんへい

日本にっぽんぐん守備しゅびたいすで崩壊ほうかいしつつあったが、日本にっぽんへい戦意せんいおとろえてなかった。日本にっぽんへいささえていたのは「自分じぶんたちが玉砕ぎょくさいしても、かならず、連合れんごう艦隊かんたいてくれる」という希望きぼうであった[163]ごうなかには負傷ふしょうしゃがあふれていたが、治療ちりょうする医薬品いやくひんどころか食料しょくりょうもなくなっていた。司令しれいすでかったが、かく部隊ぶたい組織そしき統制とうせいはまだ健在けんざいであり、部隊ぶたい指揮しきかんからの命令めいれいとどいていたが、そのなかには「(戦闘せんとう参加さんかできなくなったものは)各自かくじ適当てきとうなる処置しょちる。けっして汚名おめい後世こうせいまで のこさぬよう、決意けついされたい」と自決じけつ指示しじまであった。その指示しじまもって、戦闘せんとう重傷じゅうしょうったおおくの兵士へいしみずかいのちっていた。みずかいのちたずともごうないよこたわっている負傷ふしょうへいは、塹壕ざんごうごとアメリカ海兵かいへいたいのブルドーザーでめにされてしまい、その人数にんずうすうひゃくめいにものぼった[164]

連合れんごう艦隊かんたい感度かんどよわいながらも、22にちまではどうにかタラワと連絡れんらくれていた。しかし午後ごご13:25にはまった途絶とぜつしてしまった[165]。タラワから連合れんごう艦隊かんたいへの最後さいご通信つうしん以下いかとおりであった[159]

ぐん兵器へいき破壊はかいされ、これより全員ぜんいん最後さいご突撃とつげき決行けっこうせんとす。日本にっぽん天壌てんじょうとともに無窮むきゅうたらんことを

また同日どうじつ永野ながの修身しゅうしん軍令ぐんれい総長そうちょうから昭和しょうわ天皇てんのうたいしタラワの戦況せんきょう奏上そうじょうされた。昭和しょうわ天皇てんのう永野ながの奏上そうじょうをきくとタラワ守備しゅびたい激励げきれい言葉ことばおくり、軍令ぐんれいはそのむねを22にち夕方ゆうがたにタラワ方面ほうめんけて打電だでんした[166]

本日ほんじつうち南洋なんよう方面ほうめん戦況せんきょうかんそうのぼせるところ陛下へいかには所在しょざいかく部隊ぶたい寡兵かへいかつしゅうてきたい勇戦ゆうせん奮闘ふんとう而も士気しき愈々いよいよ旺盛おうせいなるをふか嘉章よしあきあらせらるとくに「タラワ」守備しゅび部隊ぶたいたい激励げきれい言葉ことばたまわりたり

この天皇てんのうからの激励げきれいのことばがタラワ守備しゅびたい兵士へいしみみはいったかは不明ふめいであるが、うごける日本にっぽんへいはアメリカへい1人ひとりでもおおころすため戦闘せんとう準備じゅんび余念よねんなく、レッドビーチ正面しょうめんのこっていた日本にっぽんへいは、のこされた日本にっぽんぐん最大さいだい拠点きょてんである、だい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい鉄筋てっきんコンクリートせい2かいての戦闘せんとう指揮しきしょとその周辺しゅうへん陣地じんちあつまっていた。やがてれたが、昨日きのうとはことなり組織そしきてき夜襲やしゅうをするだけの戦力せんりょく日本にっぽんぐんにはのこされていなかった[167]

11月23にち

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ジュリアン・スミス師団しだんちょうタラワ上陸じょうりく

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タラワとうじょう戦闘せんとう指揮しきしょ中央ちゅうおう地図ちずっているのがデビット・シャウプ大佐たいさ、そのみぎうしきがメリット・A・エドソン大佐たいさまえすわっているのがトム・カルへイン少佐しょうさ

よく11月23にち、エドソンは残敵ざんてき掃討そうとうのために、まずはかんほう射撃しゃげき空爆くうばくによって徹底的てっていてき日本にっぽんぐんはたき、そのにグリーンビーチ方面ほうめんから、昨日きのうゴムボートで上陸じょうりくしていただい6海兵かいへい師団しだんだい1大隊だいたいくわえてだい3大隊だいたい上陸じょうりくさせて東進とうしんさせ、すで上陸じょうりくしているだい2海兵かいへい連隊れんたいだい8海兵かいへい連隊れんたいのこ日本にっぽんぐん拠点きょてん虱潰しらみつぶしに撃破げきはしていくという作戦さくせんめいじた。これは過去かこ2日間にちかんわたって散々さんざんたたかれたいた経験けいけんから、万全ばんぜんさないといけないというつよ信念しんねんもとづくものであった[168]よるけた午前ごぜん7:00にかんほう射撃しゃげき開始かいしされた。このかんほう射撃しゃげきはこれまでの戦闘せんとう経過けいか偵察ていさつによって暴露ばくろされていた日本にっぽんぐん占領せんりょう区域くいき限定げんていして、1かしょあたり20ふんものあいだ集中しゅうちゅう砲火ほうかびせるというものであった。そしてそのもアメリカ海兵かいへいたい進撃しんげきおうじ、8:30、9:30、10:30と1あいだおきに目標もくひょうえておなじく20分間ふんかんかんほう射撃しゃげきびせることとなっていた[169]

戦況せんきょうはアメリカぐんにとってかなり有利ゆうりになっており、昨日きのうまでめた空気くうきながれていたレッドビーチ2の戦闘せんとう指揮しきしょにおいても、多少たしょう余裕よゆうえるようになっていた。作戦さくせん初日しょにちから同行どうこう取材しゅざいつづけているシャーロッドに、だい2海兵かいへい連隊れんたい作戦さくせん主務しゅむ将校しょうこうのトム・カルへイン少佐しょうさが「我々われわれいま日本にっぽんぐん目玉めだまをえぐりったよ」とむねった。カルへインはタラワ上陸じょうりく以降いこう、48あいだものあいだ不眠ふみん不休ふきゅう大声おおごえ命令めいれいさけつづけており、こえはかれてしまい、すっかりとしゃがごえになっていた。そこに軍医ぐんいちょう大佐たいさ将校しょうこうくわわり、このたたかいがどれほどの激戦げきせんであったか、感想かんそうべあった。軍医ぐんい大佐たいさはこれまで600にんもの負傷ふしょうへいトリアージしてから、沖合おきあい病院びょういんせん後送こうそうしていたが、従軍じゅうぐんしていたガダルカナルのたたかいと比較ひかくして「わたしもガダルカナルにいたがね。あれはDuck soup(簡単かんたん仕事しごとという意味いみ)だったよ」とべ、それをいていた海兵かいへいたい将校しょうこうは、自分じぶん従軍じゅうぐんしたヨーロッパ戦線せんせんハスキー作戦さくせん比較ひかくして「わたしはシチリアとう上陸じょうりく参加さんかしましたが、あれ(ドイツぐん)はしゃれた部隊ぶたいで、9わりむすめのようなものだった」とこのたたかいがいかにきびしいものであったかかたった。それをいていたカルへインはしみじみと以下いかのようにかえっている[170]

これはガダルカナルよりはるかにひどかったばかりではなく、わたしがこの軍人ぐんじん商売しょうばいをはじめて30年間ねんかんなかで、最悪さいあくのどえらい戦闘せんとうだったよ。 — トム・カルへイン

軍人ぐんじん同士どうしはなしいていたシャーロッドは「おそらくこのタラワのたたかいが、結局けっきょく歴史れきしになろうとしている」というおもいをむねいている[171]

戦況せんきょうおおきくうごいており、旗艦きかん「メリーランド」艦上かんじょうからでは作戦さくせん指揮しき支障ししょうをきたすようになってきたため、師団しだんちょうのジュリアン・スミスは参謀さんぼうやく10にん司令しれい要員よういんれて、タラワとうじょう師団しだん司令しれい前進ぜんしんさせることとした。午前ごぜん11:55にジュリアン・スミス以下いか司令しれい要員よういんはアムトラックに搭乗とうじょうし、まずは安全あんぜん確保かくほされているグリーンビーチにかい、そこで本日ほんじつ上陸じょうりくしたばかりのだい6海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい視察しさつした。その、アムトラックにって、つぎはエドソンとシャウプがいるレッドビーチ2の戦闘せんとう指揮しきしょ目指めざしたが、途中とちゅう陸上りくじょう日本にっぽんぐんから射撃しゃげきびせられ、操縦そうじゅうへい負傷ふしょうしてしまった。あやうくなんのがれたジュリアン・スミスらは、アムトラックをえてレッドビーチ2に無事ぶじ到着とうちゃくすると、エドソンとシャウプからくわしい戦況せんきょう報告ほうこくけた[172]

だい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦闘せんとう指揮しきしょ陥落かんらく

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日本にっぽんぐん地下ちか陣地じんち攻撃こうげきするアメリカ海兵かいへいたい

師団しだんちょうが、前線ぜんせん視察しさつしているころだい2海兵かいへい師団しだんかく連隊れんたい進撃しんげき開始かいししていた。本日ほんじつ攻略こうりゃく目標もくひょうなかでもっとも重要じゅうようであったのは、タラワ中部ちゅうぶにあっただい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい海軍かいぐん根拠地こんきょちたい鉄筋てっきんコンクリートせい戦闘せんとう指揮しきしょであった。これまで散々さんざんほうばくげき目標もくひょうとされてきたが、これまで撃破げきはされることもなかった。攻略こうりゃく担当たんとうしたのが、昨日きのうサンゴ礁さんごしょうじょう徹底的てっていてきたたかれただい8海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいであった。昨日きのうだい8海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい戦闘せんとう指揮しきしょ周辺しゅうへん陣地じんち攻撃こうげきしていたが、日本にっぽんぐん陣地じんち強固きょうこ撃退げきたいされていた。とく戦闘せんとう指揮しきしょまもる3かしょ機銃きじゅう苦戦くせんいられていた。この機銃きじゅうはそれぞれ鋼鉄こうてつ椰子やし丸太まるた構築こうちくされた頑強がんきょうつくりで、たがいが連携れんけいしあって死角しかくもなかった[167]

だい8海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいにはM3けい戦車せんしゃ3りょう支援しえんにつき日本にっぽんぐん陣地じんち攻撃こうげき開始かいししたが、搭載とうさいしているM6 37 mm 戦車せんしゃほうまったくの威力いりょく不足ふそくで、ときには日本にっぽんぐん陣地じんち砲身ほうしんとどくぐらいの位置いちまで接近せっきんして主砲しゅほうんでも破壊はかいすることはできなかった。そのうち1りょうのM3けい戦車せんしゃ地雷じらい撃破げきはされたので、のこったM3けい戦車せんしゃ撤退てったいし、わりに上陸じょうりくしたばかりのM3 75mm対戦たいせんしゃはしほう2りょう投入とうにゅうされたが、日本にっぽんぐん集中しゅうちゅう砲撃ほうげきびてうち1りょう撃破げきはされた。そのため、アメリカ海兵かいへい隊員たいいんはこれまでとおりに危険きけんおかしながら、火炎かえん放射ほうしゃ爆薬ばくやく1個いっこずつ日本にっぽんぐん陣地じんち撃破げきはしていった。そのうちに1りょうのM4ちゅう戦車せんしゃ部隊ぶたい合流ごうりゅうして、その強力きょうりょくな75mmほう支援しえん開始かいしした[173]

戦闘せんとう指揮しきしょまもる3かしょ機銃きじゅう健在けんざいで、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん犠牲ぎせいしゃつづけていたが、そのうち迫撃はくげきほう集中しゅうちゅう砲火ほうかによってそのうちの1かしょ陣地じんちばくべつ機銃きじゅうにはM4ちゅう戦車せんしゃが75mmほうなんじゅうはつんでついに撃破げきはした。日本にっぽんへいもっていたのは、戦闘せんとう指揮しきしょはたにある地下ちか陣地じんちで、アメリカ海兵かいへいたいからは砂山すなやまえたが、工兵こうへい決死けっしたい陣地じんち出入でいぐち爆薬ばくやく爆破ばくはして日本にっぽんへいめると、火炎かえん放射ほうしゃってその砂山すなやまのぼっていった。砂山すなやま頂上ちょうじょうまもるために出入でいぐちから日本にっぽんへいしてきて、工兵こうへいかって突撃とつげきしてきた。先頭せんとうのぼっていたのは工兵こうへいのアレキサンダー・ボニマン中尉ちゅういであったが、ボニマンはひるむことなく、装備そうびしていた火炎かえん放射ほうしゃ日本にっぽんへい3にんやきころしたのち、自分じぶん日本にっぽんへい銃弾じゅうだんびて戦死せんしした。ボニマンにはこれまでの殊勲しゅくんふくめて名誉めいよ勲章くんしょうおくられている[174]。ボニマンの活躍かつやくもあって砂山すなやま頂上ちょうじょうまでのぼりきった工兵こうへいたちは火炎かえん放射ほうしゃ地下ちか陣地じんち内部ないぶくした。仕上しあげはこれまでだい活躍かつやくしてきたブルドーザーすうだいが、のこった日本にっぽんへいめにしてしまった。こうしてだい3特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦闘せんとう指揮しきしょ陥落かんらくし、のちにこの地下ちか陣地じんちから300にん日本にっぽんへい遺体いたい収容しゅうようされた[162]

日本にっぽんぐん防衛ぼうえいせん崩壊ほうかい

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火炎かえん放射ほうしゃ日本にっぽんぐん地下ちか陣地じんち攻撃こうげきするアメリカ海兵かいへいたい

昨日きのうゴムボートでグリーンビーチへに上陸じょうりくしただい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいは、おなじく昨日きのうグリーンビーチに上陸じょうりくしていただい2戦車せんしゃ大隊だいたいけい戦車せんしゃ中隊ちゅうたいとM4ちゅう戦車せんしゃ1りょう先頭せんとうにして、タラワみなみ海岸かいがん掃討そうとう出撃しゅつげきした。タラワ西海岸にしかいがん方面ほうめん日本にっぽんぐん昨日きのうまでに徹底的てっていてきたたかれており、だい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい微弱びじゃく日本にっぽんぐん抵抗ていこう撃破げきはしながらみなみ海岸かいがんけて順調じゅんちょう進撃しんげきしていった。みなみ海岸かいがんにも、アメリカぐん上陸じょうりくそなえて多数たすう陣地じんち構築こうちくされており、だい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいはその陣地じんちひとつずつ、戦車せんしゃほう爆薬ばくやく破壊はかいしていったが これらの陣地じんちそなけてあった火砲かほう機銃きじゅうすで北部ほくぶでの戦闘せんとう投入とうにゅうされており、おおくがそら陣地じんちであった[175]

陣地じんちないこもっていたのは、これまで前線ぜんせん投入とうにゅうされていなかった軍属ぐんぞく待避たいひしていた負傷ふしょうへいほとんどであり、抵抗ていこう弱弱よわよわしかった。連隊れんたいとはことなり、これまでまともな戦闘せんとうをしておらずほとん消耗しょうもうしていなかっただい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい存分ぞんぶんあばれまわり、揚陸ようりくしていたM3 75mm対戦たいせんしゃはしほう搭乗とうじょうして、日本にっぽんぐんそら陣地じんち高性能こうせいのう爆薬ばくやく砲弾ほうだんあめあられのようにみ、陣地じんちからあたまをあげた日本にっぽんへい機銃きじゅう自動じどう小銃しょうじゅうちまくった。だい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいは、これまでにまともに戦闘せんとう参加さんかしておらず、戦友せんゆうかたきをとるべく気負きおっていただけに戦闘せんとう荒々あらあらしく、弱弱よわよわしい日本にっぽんぐん抵抗ていこうたいしてもかなりの損害そんがいこうむってしまったが[176]午前ごぜん11:00までには、海兵かいへい連隊れんたいが、先日せんじつレッドビーチ2から進撃しんげきして死闘しとうすえ獲得かくとくしていたみなみ海岸かいがんはしあたままで到達とうたつすることができた。そのあいだだい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいは250にん日本にっぽんへい殺害さつがいしたと報告ほうこくしている。[175]

だい3海軍かいぐん根拠地こんきょちたい戦闘せんとう指揮しきしょ陥落かんらくしたのちきた海岸かいがん陣地じんち掃討そうとうおこなわれていたが、日本にっぽんぐん抵抗ていこうよわ陣地じんち一気いっき包囲ほういされ殲滅せんめつされた。日本にっぽんぐん士気しき低下ていかいちじるしく、陣地じんちないからは90にんもの自決じけつした日本にっぽんへい遺体いたい発見はっけんされた[167]。そのも、きた海岸かいがんせんだい8海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたいみなみ海岸かいがんせんだい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい本日ほんじつ上陸じょうりくしたばかりのどうだい3大隊だいたいが、日本にっぽんぐんしまひがしはしむべく進撃しんげきつづけており、夕方ゆうがたまでには滑走かっそう東端ひがしばたまでたっしてこの進撃しんげきえた。すでしまの2/3はアメリカ海兵かいへいたいちていたが[177]、レッドビーチ1とレッドビーチ2の境界きょうかい付近ふきん佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい本部ほんぶいま健在けんざいであった。佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい本部ほんぶかた陣地じんち構築こうちくされたタラワのなかでも、とくたくみに陣地じんち構築こうちくがなされており、アメリカ海兵かいへいたいの3日間にちかんわた猛攻もうこうをはねのけ、ぎゃくもっとおおきな損害そんがいあたえていた。戦隊せんたい本部ほんぶ陣地じんちまえのビーチには大量たいりょうのアムトラックや上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい残骸ざんがいころがっており、その正確せいかく砲撃ほうげき効果こうか如実にょじつあらわしていた。結局けっきょく、23にちちゅう攻略こうりゃくすることはできず、アメリカ海兵かいへいたい陣地じんち包囲ほういした状態じょうたい野営やえいはいった[178]

上陸じょうりく2にちまでと比較ひかくすると、戦況せんきょうはかなり改善かいぜんしていたとはいえ、このもアメリカ海兵かいへいたい損害そんがいおおきかった。タラワに上陸じょうりくして戦況せんきょうをつぶさに観察かんさつしていた師団しだんちょうのジュリアン・スミスは、想定そうていよりも日本にっぽんぐん抵抗ていこうりょくおとろえていないとかんじて、以下いかのような戦況せんきょう報告ほうこくぐん司令しれい打電だでんしている[179]

陣地じんちない前線ぜんせん西方せいほうにあるおおくの日本にっぽんぐん陣地じんちいまだに弱体じゃくたいされず。前進ぜんしん遅々ちちとし、犠牲ぎせいきわめてだいなり。完全かんぜん占領せんりょうのためには、すくなくともさらに5日間にちかん必要ひつようとせん。 — ジュリアン・スミス

最後さいご日本にっぽんぐんそう攻撃こうげき

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おおくの日本にっぽんへい遺体いたい見下みおろすアメリカぐん

驚異きょういてきねばりでたたかつづけてきた日本にっぽんぐんではあったが、3日間にちかんにわたる激戦げきせんでほとんどのじゅう装備そうびうしなっていたうえみず食料しょくりょうにも事欠ことかき、激減げきげんした五体ごたい満足まんぞく兵士へいし心身しんしんともに疲労ひろう困憊こんぱいし、尽忠じんちゅう報国ほうこく至誠しせいだけがかろうじて戦意せんい持続じぞくさせてきた[180]。アメリカ海兵かいへいたい進撃しんげき停止ていし野営やえいはいった滑走かっそう東端ひがしばたちかくの日本にっぽんぐん陣地じんちには、西方せいほうからてられてきた日本にっぽんへいやく350にん集結しゅうけつしていた。ほとんどの士官しかん戦死せんししており、この350にん部隊ぶたい指揮しきしていたのは中尉ちゅういであったが[181]、その中尉ちゅうい扇動せんどうするわけでもなく、もはやしてつよりむしろってようということで部隊ぶたい意思いしかたまった[180]最後さいご攻撃こうげき日本にっぽんぐん伝統でんとう夜襲やしゅうでいくこととなり、攻撃こうげき参加さんかできそうもない負傷ふしょうへいみずか小銃しょうじゅう銃口じゅうこうをくわえて、あし親指おやゆびがねいて自決じけつしたり、負傷ふしょうへい同士どうし銃剣じゅうけんちがえたりして次々つぎつぎ自決じけつしていった[181]

攻撃こうげきは3わたっておこなうこととなり、1と2は20にん~30にんでアメリカ海兵かいへいたい野営やえい侵入しんにゅうし、3一気いっきのこりの兵士へいし突撃とつげきすることとなっていた[181]夜襲やしゅう午後ごご19:30から開始かいしされた。アメリカ海兵かいへいたい記録きろくによれば、まずは日本にっぽんへい50にんほどが滑走かっそうからみなみ海岸かいがんせんまで展開てんかいしていただい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい中間ちゅうかんふかやぶからしのてきて、そこで足場あしばかためようとした。アメリカ海兵かいへいたい日本にっぽんぐん潜入せんにゅうくと、大隊だいたい予備よび兵力へいりょく迫撃はくげきほうたいもつぎんで、激戦げきせんすえ一旦いったん撃退げきたいした。つぎ攻撃こうげき午後ごご23:00に開始かいしされ、正面しょうめん雑木林ぞうきばやしなかからまた50にんくらいの日本にっぽんへい一団いちだん喚声かんせいをあげながら突撃とつげきおこない、アメリカ海兵かいへいたい陣地じんち手榴弾しゅりゅうだん小銃しょうじゅう攻撃こうげきしてきた。さき攻撃こうげき防御ぼうぎょかためていただい6海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたいは、迫撃はくげきほうじゅう機関きかんじゅう日本にっぽんぐんたいしてちまくり、この50にん一団いちだんをたちまち撃破げきはしてしまった[182]

この2わた攻撃こうげきは、アメリカ海兵かいへいたい陣地じんち特定とくていするための牽制けんせい攻撃こうげきであり、だい2撃破げきはされると、午前ごぜん4:00に暴露ばくろされたアメリカ海兵かいへいたい陣地じんちたいして、日本にっぽんぐん夜襲やしゅう部隊ぶたい主力しゅりょく突撃とつげきしてきた。しかし、アメリカ海兵かいへいたいもこれまでの日本にっぽんぐん攻撃こうげきで、警戒けいかいつよめており、日本にっぽんぐんやく300にん突撃とつげきしてくると、陸上りくじょうからの火砲かほうじゅう機関きかんじゅう集中しゅうちゅう攻撃こうげきだけでなく、海岸かいがんせんちかくまで接近せっきんしていた駆逐くちくかんの5インチほう日本にっぽんぐん砲撃ほうげきおこなった。アメリカぐん集中しゅうちゅう砲火ほうかまえ日本にっぽんへい陣地じんちにたどりまえ次々つぎつぎと斃れていったが、それでも陣地じんち到達とうたつできた日本にっぽんへいもおり、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん銃剣じゅうけん小銃しょうじゅう台尻だいじりはげしい白兵戦はくへいせん展開てんかいした。しかし戦闘せんとうやく1あいだわり、よるけてのぼると日本にっぽんへい遺体いたい300たいがアメリカ海兵かいへいたい陣地じんち内外ないがいよこたわっていた[12]。この攻撃こうげき参加さんかしたおとさと一等いっとう水兵すいへいは、突撃とつげきちゅう背後はいご迫撃はくげきほうだんがさくれつし、その衝撃しょうげきうしなったところをアメリカ海兵かいへいたい捕虜ほりょとして収容しゅうようされ、タラワからの数少かずすくない生還せいかんしゃとなった[183]

11月24にち以降いこう

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日本にっぽんぐん組織そしきてき抵抗ていこう終結しゅうけつ

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激戦げきせんにより野原のはらとなったタラワ

日本にっぽんぐんによる最後さいご夜襲やしゅう日本にっぽんぐん抵抗ていこうりょく喪失そうしつさせ、結果けっかてきにタラワの戦闘せんとうはや終結しゅうけつさせることとなった。ジュリアン・スミスは最後さいご予備よび兵力へいりょくであっただい6海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたいをタラワに上陸じょうりくさせて、最後さいご仕上しあげをおこなった。まだ日本にっぽんぐん支配しはい地域ちいきであるタラワ東端ひがしばたたいして、30分間ふんかん艦載かんさいによる空爆くうばくののち、駆逐くちくかんによるかんほうとアメリカ海兵かいへいたい火砲かほうによる弾幕だんまく砲撃ほうげきびせられた。そのにM4ちゅう戦車せんしゃ2りょうとM3けい戦車せんしゃ7りょう先頭せんとうにして、比較的ひかくてき損害そんがいすくないだい6海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたいと、上陸じょうりくしたばかりのだい2大隊だいたい日本にっぽんぐんをタラワひがしはしめて殲滅せんめつするために進撃しんげき開始かいししたが、先頭せんとうのわずか9りょう戦車せんしゃは、これまでのたたかいで撃破げきはまぬかれたぜん車両しゃりょうであり[184]、これまでにアメリカ海兵かいへいたいは33りょうもの戦車せんしゃうしなっていた[185]日本にっぽんぐん戦意せんい昨日きのう夜襲やしゅう失敗しっぱい完全かんぜんくだかれており、ほとんど抵抗ていこうはなかった。進撃しんげきするアメリカ海兵かいへいたいおおくの日本にっぽんへい遺体いたい発見はっけんしたが、おおくがみずかいのちった遺体いたいであった。のこった日本にっぽんへい自決じけつをせずとも、放心ほうしんしたようにアメリカ海兵かいへいたい進撃しんげきつめるだけであり、そういう日本にっぽんへいたいしても投降とうこうびかけることもせず、ようしゃなく銃撃じゅうげき火炎かえん放射ほうしゃびせられた。こうして午前ごぜんちゅうにはだい6海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたいはタラワのひがしはしたっしたが、500にん日本にっぽんへい掃討そうとうしたのにたいして、死傷ししょうしゃはわずか20にんであった[186]

最後さいごまで敢闘かんとうしてきた佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい本部ほんぶ陣地じんち終焉しゅうえんむかえつつあった。上陸じょうりく初日しょにちにこの陣地じんちからのもう砲撃ほうげきだい損害そんがいこうむり、結局けっきょくレッドビーチ1に上陸じょうりくすることができずに師団しだんちょうジュリアン・スミスから叱責しっせきされただい2海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい主力しゅりょくとして、3方向ほうこうから陣地じんち包囲ほういしたアメリカ海兵かいへいたいは、午前ごぜん10:00から2りょうのM3 75mm対戦たいせんしゃはしほう支援しえんにより進撃しんげき開始かいしした。アメリカ海兵かいへいたいの1はアムトラックの残骸ざんがい多数たすうころがるサンゴ礁さんごしょうじょうからも進撃しんげきした。75mmほう支援しえんけたアメリカ海兵かいへい隊員たいいんは、強固きょうこ陣地じんちをひとつずつ爆薬ばくやく火炎かえん放射ほうしゃ撃破げきはしていったが、東端ひがしばた日本にっぽんぐん同様どうようにこちらの日本にっぽんぐん戦意せんい喪失そうしつしており、昨日きのうまでとはってわって抵抗ていこうよわかった。それでもアメリカ海兵かいへいたい慎重しんちょうに3あいだもの時間じかんをかけて進撃しんげきし、午後ごご13:00にはこれまで散々さんざんくるしめられてきた佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい本部ほんぶ陣地じんち制圧せいあつした[187]のこっていた日本にっぽんへいほとんどは自決じけつをしており、捕虜ほりょとなったのは、いずれも重傷じゅうしょう自決じけつすることすらできなかった1人ひとり士官しかんと、16にん下士官かしかんへいのみであった[183]。その、129にん朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃ捕虜ほりょとなったが、朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃはすすんで捕虜ほりょとなり、そのはアメリカ海兵かいへいたい協力きょうりょくもうて、アメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたい埋葬まいそうなどを手伝てつだっている[188]

「ガルヴァニック作戦さくせん」のアメリカ海兵かいへいたいそう指揮しきかんホーランド・スミスは、マキンのたたかいが予想よそう以上いじょう長引ながびき、この時点じてんでもマキン沖合おきあいにいたが、ジュリアン・スミスから佐世保させぼだい7特別とくべつ陸戦りくせんたい本部ほんぶ陣地じんち攻略こうりゃく報告ほうこくけると、午後ごご13:40にタラワの確保かくほ正式せいしき宣言せんげんした[189]。しかし、こののち数日すうじつにわたって陣地じんちないにわずかにのこっていた日本にっぽんへい掃討そうとうせんつづいた[190]。こうしてベティオとう攻略こうりゃくしたアメリカ海兵かいへいたいは、のタラワ環礁かんしょうないしま順次じゅんじ攻略こうりゃくすすめていった。11月28にち最北端さいほくたんナァとうドイツばんまでたっし、少数しょうすう日本にっぽんへいとガダルカナルのたたかいを彷彿ほうふつさせるようなジャングルない白兵戦はくへいせんえんじてこれを殲滅せんめつした。ベティオとう以外いがいのタラワ環礁かんしょうにおけるたたかいで、アメリカ海兵かいへいたいは91にん死傷ししょうしたが、日本にっぽんへい175にん掃討そうとうし、朝鮮ちょうせんじん捕虜ほりょ2にん[9]

司令しれいかん柴崎しばざきかんほう射撃しゃげき戦死せんししたときに、自分じぶん戦車せんしゃ同乗どうじょう戦車せんしゃへいうしなっていた大貫おおぬき唯男ただお海軍かいぐん上等じょうとう兵曹へいそうは、その歩兵ほへいとしてたたかつづけ、最後さいご夜襲やしゅうにも参加さんか予定よていであったが、出撃しゅつげきまえひそんでいた地下ちかごうがアメリカ海兵かいへいたい発見はっけんされ、火炎かえん放射ほうしゃ攻撃こうげきされた。その火炎かえん放射ほうしゃでこれまで一緒いっしょたたかってきた15にん戦友せんゆう焼死しょうししたが、大貫おおぬき奇跡きせきてき戦友せんゆう遺体いたい下敷したじきとなって火炎かえん放射ほうしゃけることができ、軽症けいしょう火傷かしょうのこった。どうにか地下ちかごうからはいしたときには、最後さいご夜襲やしゅうわっており、戦場せんじょう静寂せいじゃくつつまれていた。これまでであった大貫おおぬきも、まったくの予想よそうがい生存せいぞんしたことからいのちしくなり、可能かのうなかぎりこうと決心けっしんして、夜陰やいんまぎれて、タラワ環礁かんしょうないとなり小島こじままでうみわたってった。しかし、そのしますでにアメリカ海兵かいへいたい占領せんりょうされており、大貫おおぬきはアメリカ海兵かいへいたいぬすみながら、しょうさかなエビや椰子やしべてかろうじてきながらえていた[191]

やがて、あちこちのしまから大貫おおぬき同様どうよう境遇きょうぐうの7にんあつまり、しばらくは共同きょうどう生活せいかつをしていたが、小島こじまでアメリカ海兵かいへいたいぬすみながらあつめられる食料しょくりょうはたかがれており、そのうち、きるためにまた全員ぜんいんがバラバラにっていった。とく大貫おおぬきくるしめたのが飲料いんりょうすい不足ふそくであり、やむなく海水かいすいんでかわきをいやしていたが、3週間しゅうかんったころには限界げんかいむかえて、意識いしき朦朧もうろうとしているところをアメリカ海兵かいへい隊員たいいんつけられて捕虜ほりょとなった。大貫おおぬき発見はっけんしたアメリカ海兵かいへいたい日本にっぽんへいがまだ生存せいぞんしていることを認識にんしきし、タラワ環礁かんしょうない徹底的てっていてき捜索そうさくした結果けっか一旦いったんわかれた7にん全員ぜんいん捕虜ほりょとなった。大貫おおぬきと7にん日本にっぽんへいは、十分じゅうぶん食事しょくじあたえられ、治療ちりょうけたのち、アメリカ国内こくない捕虜ほりょ収容しゅうようしょを2年間ねんかん転々てんてんとし終戦しゅうせんむかえた[192]

アメリカぐん義務ぎむ教育きょういく

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タラワ確保かくほおこなわれたアメリカ国旗こっき掲揚けいようしき
戦闘せんとう終了しゅうりょう直後ちょくごのタラワを視察しさつするだい53任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんハリー・W・ヒル少将しょうしょう

アメリカ海兵かいへいたいがタラワを確保かくほしたのち、アメリカぐん高官こうかんらの戦場せんじょう視察しさつはじまった。11月25にちには、ようやくマキンの攻略こうりゃく目途もくとけたホーランド・スミスがタラワをおとずれた。午前ごぜんちゅうPBYカタリナ飛行ひこうてい上空じょうくうからタラワを観察かんさつしたが、あまりの惨状さんじょう下記かき印象いんしょういた[193]

ぐん死者ししゃサンゴ礁さんごしょうみずかび、まみれの海岸かいがんよこたわる光景こうけいを、わたしはけっしてわすれないだろう。ほうばくげきあなだらけのしま上空じょうくうには、サンゴのほこりと瘴気しょうきがたれこめ、むねわるくなるようで、ぞっとした。 — ホーランド・スミス

午後ごごにタラワに上陸じょうりくしたホーランド・スミスは、飛行場ひこうじょう付近ふきん簡単かんたん国旗こっき掲揚けいようしきおこなったが、島上しまがみには3日間にちかん戦闘せんとう疲労ひろう困憊こんぱいしてよごったアメリカ海兵かいへい隊員たいいんがアメリカ海兵かいへい隊員たいいんがあふれていた。アメリカ海兵かいへい隊員たいいんおおくは放心ほうしん状態じょうたいこしろし、とおくをつめるようなつきをしており、それをてホーランド・スミスは衝撃しょうげきおぼえた。その戦場せんじょうまわり、とく日本にっぽんぐん構築こうちくしていた陣地じんち頑強がんきょうさに見張みはった。ホーランド・スミスは従軍じゅうぐんしただいいち世界せかい大戦たいせんでの記憶きおくかえり「この日本にっぽんぐんは、防御ぼうぎょ施設しせつ構築こうちくにかけては名人めいじんぞろいであった。わたしぜん大戦たいせんではこれらの防御ぼうぎょのようなものはけっしてなかった。ドイツぐんはこのようなものは構築こうちくできなかった」と感想かんそうべている[29]陣地じんちおおくはかんほう射撃しゃげき艦載かんさいばくげきではほとん破壊はかいされておらず、ホーランド・スミスは「海軍かいぐん砲撃ほうげき効果こうかてき効果こうか誇張こちょうする傾向けいこうがあり、この欠点けってんのせいで仕事しごと不完全ふかんぜんにおこなわれることになった」と、アメリカ海兵かいへいたい上陸じょうりくするまえに、もっと徹底てっていしたほうばくげきくわえるべきであったとアメリカ海軍かいぐん批判ひはんしたが、こののち水陸すいりく両用りょうよう作戦さくせんにおいても、この問題もんだいかえされることとなった[194]。(詳細しょうさい#たたかいの評価ひょうか教訓きょうくん後述こうじゅつ

よく11がつ26にちには、だい53任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんハリー・W・ヒル英語えいごばん少将しょうしょう上陸じょうりくした。ヒルもホーランド・スミス同様どうようはげしい衝撃しょうげきけ、「我々われわれにとって(タラワは)義務ぎむ教育きょういく」とかんがえてだい5艦隊かんたい司令しれいかんレイモンド・スプルーアンス 中将ちゅうじょうにも視察しさつすすめた。11月27にちにスプルーアンスは旗艦きかん「インディアナポリス」から上陸じょうりくよう舟艇しゅうていみタラワに上陸じょうりくした。スプルーアンスは日本にっぽんぐんたくみな陣地じんち構築こうちくじょうきょうにして、ほうばくげき見込みこみにはんして日本にっぽんぐん防御ぼうぎょりょく大幅おおはば低下ていかさせられなかった理由りゆう理解りかいできた[195]。スプルーアンスら海軍かいぐん高官こうかんは、このような凄惨せいさん戦場せんじょうをこれまで経験けいけんがなく、みな一様いちよう衝撃しょうげきけていたが、スプルーアンスも例外れいがいではなく、表情ひょうじょう無表情むひょうじょうで、そのでは意見いけんべることすらできなかった。視察しさつにスプルーアンスはつまてた手紙てがみ本音ほんねいており、日本にっぽんへい遺体いたいでいっぱいであったトーチカをて「一目いちもくただけでえられないおもい」がしたことにくわえて、以下いかのように、今後こんご日本にっぽんぐんとのたたかいの展開てんかいについての予想よそういている[196]

日本にっぽんぐん撃破げきはするためには、日本にっぽんぐん防御ぼうぎょしているあらゆるしまにおいて、ごうはいっている日本にっぽんへい1人ひとり1にんつけしてころさなければならない。 — レイモンド・スプルーアンス

このスプルーアンスの予想よそう的中てきちゅうし、スプルーアンスはサイパンのたたか硫黄いおうとうたたかなど、タラワのたたかいよりだい規模きぼ殲滅せんめつせん余儀よぎなくされることになる。しかし、これはスプルーアンスは軍人ぐんじんとしての職業しょくぎょうてき義務ぎむかんによることばであり、このタラワの戦闘せんとうのち日本にっぽんへいへの敵意てきいをむきしにした圧倒的あっとうてき多数たすうのアメリカ軍人ぐんじんやアメリカ国民こくみんとはことなり、日本にっぽんへいたいする敬意けいいつづけた。1944ねんはいって真珠湾しんじゅわん捕虜ほりょ収容しゅうようしょまえとおりかかったさい、鉄条てつじょうもうなかにいた日本にっぽんへい捕虜ほりょたいして「きみたち日本にっぽんぐん戦闘せんとうぶりは立派りっぱだ」と日本にっぽんへいにもわかるように簡単かんたん英語えいごなんかいかたけた。海軍かいぐん大将たいしょうしめす4つほし肩章けんしょうけた将官しょうかん熱心ねっしんかたけてきたので、捕虜ほりょ日本にっぽんへいおどろいていたが、それを見守みまもっていたおおくのアメリカ海軍かいぐん高級こうきゅう軍人ぐんじんおどろいている。ほかにもスプルーアンスは、戦闘せんとう負傷ふしょうして捕虜ほりょとなった日本にっぽんへい病院びょういんせん見舞みまったこともあった[197]

日本にっぽんぐん救援きゅうえん作戦さくせん

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タラワのたたか当時とうじ連合れんごう艦隊かんたい司令しれいさい前列ぜんれつ中央ちゅうおう連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょう

タラワのたたかいのあいだ、アメリカぐん来襲らいしゅうった日本にっぽんぐんは、救援きゅうえんのために以下いかのような作戦さくせんをおこなっていたが、十分じゅうぶん成果せいかげることは出来できなかった。

まず連合れんごう艦隊かんたいは、上陸じょうりくのあった21にちに、ポンペイとうにいた陸軍りくぐんきのえ支隊したい派遣はけんめた。けいじゅん3せき那珂なか五十鈴いすず長良ながら)、駆逐くちくかん2せきかみなりひびき)、輸送ゆそうせん2せきからなる輸送ゆそう部隊ぶたいと、じゅうじゅん4せき鳥海とりうみ鈴谷すずや熊野くまの筑摩ちくま)、けいじゅん1せき能代のしろ)、駆逐くちくかん5せきはや藤波ふじなみはつつき野分のわけまいふう)からなる邀撃ようげき部隊ぶたい編成へんせいし、26にちまでにマーシャル諸島しょとうクェゼリン進出しんしゅつさせた。しかし、タラワからの通信つうしんが22にち午前ごぜんちゅうから途絶とぜつつづけたために、きのえ支隊したい派遣はけん中止ちゅうしされた[198]

つぎに連合れんごう艦隊かんたい潜水せんすいかん9せきをギルバート海域かいいき進出しんしゅつさせ、べい海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきおよ索敵さくてきおこなった。その結果けっか、24にち175せん田畑たばたただし艦長かんちょう)がマキンおき護衛ごえい空母くうぼリスカム・ベイ撃沈げきちん成功せいこうしたが、日本にっぽんぐんえに19など潜水せんすいかん6せきうしなった。

また、マーシャル諸島しょとうルオットから出撃しゅつげきした海軍かいぐん航空こうくうたいによる反撃はんげきおこなわれた[198]。21にちにはギルバートおきべい機動きどう部隊ぶたい目標もくひょうとしたギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせん展開てんかいされ、けい空母くうぼインディペンデンス大破たいはさせた。22にちにはりくおさむ9戦闘せんとう39発進はっしんしたが、天候てんこう不良ふりょうのため途中とちゅうかえした[198]。この攻撃こうげきたいりくおさむ魚雷ぎょらいばくだんえて、タラワ上陸じょうりく部隊ぶたい昼間ひるま攻撃こうげきふたた発進はっしんしたが、これも天候てんこう不良ふりょうのため途中とちゅうかえすこととなった[198]

22にちよるにルオットを発進はっしんしたりくおさむ4深夜しんや、タラワ上空じょうくう到着とうちゃくした。りくおさむべいぐん上陸じょうりく地点ちてんおもわれる地点ちてんこうすごしてばくだん8はつ投下とうかし、べいぐん戦死せんししゃ1めい戦傷せんしょうしゃ8めいした[198]。しかし、べいぐんによればこのばくげき日本にっぽんぐん陣地じんちにも着弾ちゃくだんしてしまい、日本にっぽんぐんにも被害ひがいたとおもわれるが詳細しょうさい不明ふめいである[198]

連合れんごう艦隊かんたいはこの一連いちれんのギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせん空母くうぼを8せき撃沈げきちんしたと過大かだい戦果せんか報告ほうこくおこなっており、大本営だいほんえいもこれを終戦しゅうせんまでしんじていた[199]。その艦船かんせん多数たすうげき沈破したと判断はんだんしていた大本営だいほんえいは、アメリカぐんがその損害そんがいからなおるのに相当そうとう期間きかんようするので、アメリカぐん中部ちゅうぶ太平洋たいへいようへの進撃しんげき時期じきおくれると、あやまった戦果せんか判断はんだん都合つごうのいい予測よそくをしていた。その結果けっか中部ちゅうぶ太平洋たいへいようへの陸軍りくぐん部隊ぶたい増強ぞうきょう時期じきなどですくなくはない影響えいきょうおよぼしている[200]。ギルバート諸島しょとうへの侵攻しんこうかんしては、つね日本にっぽんぐん後手ごてまわっており、連合れんごう艦隊かんたい情勢じょうせい判断はんだんは、アメリカぐん計画けいかく対比たいひすると3週間しゅうかんものズレがあって、連合れんごう艦隊かんたいはタラワやマキンを救援きゅうえんすることはできなかった。連合れんごう艦隊かんたい緻密ちみつ偵察ていさつ活動かつどうで、より正確せいかく戦況せんきょう分析ぶんせきとアメリカぐん侵攻しんこう計画けいかく察知さっちできていれば、もっと効果こうかてき戦力せんりょく配置はいちによって、アメリカぐん損害そんがいはさらに甚大じんだいになっていたとひょうされている[201]

連合れんごう艦隊かんたいがギルバート救援きゅうえんのために艦隊かんたい出撃しゅつげきさせることができなかったことにたいしてニミッツは「日本にっぽん艦隊かんたいは、しま帝国ていこくのいかなる地点ちてんたいするアメリカ艦隊かんたい進攻しんこう企図きと破砕はさいするために出撃しゅつげきし、強力きょうりょく抵抗ていこうをする用意よういがなかった」と見透みすかし、こののち中部ちゅうぶ太平洋たいへいようへの進攻しんこうたいする自信じしんふかめている[202]

りょうぐん損害そんがい

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りょうぐん人的じんてき物的ぶってき損失そんしつ

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戦闘せんとう終了しゅうりょう直後ちょくごつくられたタラワで戦死せんししたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん墓地ぼち
投降とうこうした朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃ
日本にっぽんぐん[5]
  • 戦死せんししゃ軍属ぐんぞくふくむ)4,455めい[9]やく4,500めい
  • 捕虜ほりょ
    • 軍人ぐんじん 14めい[9]~17めい
    • 朝鮮ちょうせん出身しゅっしん軍属ぐんぞく 129めい~132めい[9]
アメリカぐん
  • 戦死せんし行方ゆくえ不明ふめいしゃ 1,009めい[203]~1,140めい [12]
    • うち海兵かいへい隊員たいいん 980めい[204]~1,115めい[13][5]
    • うちアメリカ海軍かいぐん兵士へいし25めい[12]~29めい[205]
  • 戦傷せんしょうしゃ 2,101めい[206]~2,309めい[12]
  • 戦車せんしゃ33りょう[207]
  • アムトラック(Amtrak)90りょう[12]

戦闘せんとう結果けっか、タラワとう守備しゅびした日本にっぽんぐんは、文字通もじどお全滅ぜんめつした。捕虜ほりょとなってのこったものは、負傷ふしょうして意識いしき不明ふめい状態じょうたいとらえられたものなどごく一部いちぶだけであり、負傷ふしょうしてたたかえなくなった日本にっぽんへいほとんどが自決じけつした[183]日本にっぽんぐん最後さいごまで投降とうこうせずにたたかつづけ「海兵かいへいたい、くたばれ」、「海兵かいへいたいんでやる」など、おそろしいさけごえをあげながら海兵かいへいたいおそかり次々つぎつぎたおされ、日本にっぽんへい大量たいりょう遺体いたいがベティオの砂浜すなはまうみ廃墟はいきょした塹壕ざんごうよこたわっていた。りょうぐん大量たいりょう遺体いたいころがり、武器ぶき残骸ざんがいさか廃墟はいきょ樹木じゅもくちいさいしまおおいつくすさまは、まるでダンテ・アリギエーリかみきょく地獄じごくへんそのものだとアメリカへいたちはかんじていた[90]一方いっぽう設営せつえいたい多数たすう所属しょぞくしていた朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃは、そのおおくが日本にっぽんへい運命うんめいともにしたものの、129にん捕虜ほりょとなっている[5]戦闘せんとう直後ちょくご捕虜ほりょ写真しゃしん多数たすう撮影さつえいされているが、うつっているのはほとんどが日本にっぽんへいではなく朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃであった[192]捕虜ほりょとなった朝鮮ちょうせんじん労務者ろうむしゃは、つかまると「自分じぶん日本にっぽんへいではないと」必死ひっし主張しゅちょうし、戦死せんししたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺体いたい埋葬まいそうなどの協力きょうりょく積極せっきょくてきもうてきたという[188]

アメリカぐん人的じんてき損害そんがいきわめておおきなものであった。タラワのたたかいには、大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト情報じょうほう公開こうかいすべきとの方針ほうしんによって、はじめて、ノーマン・ハッチらの映像えいぞう撮影さつえいスタッフが戦闘せんとう映像えいぞうのこすために同行どうこうし、また多数たすう従軍じゅうぐん記者きしゃ激戦げきせんのさなかにアメリカ海兵かいへい隊員たいいん一緒いっしょにタラワに上陸じょうりくした。そのうちの一人ひとりのちにタラワのたたかいの詳細しょうさい戦記せんき執筆しっぴつしたタイムのロバート・シャーロッドであったが、タラワ攻略こうりゃく映像えいぞうスタッフが撮影さつえいした凄惨せいさん戦場せんじょう映像えいぞうてショックをけたルーズベルトは、シャーロッドに直接ちょくせつ「かなりむごたらしいんだ。遺体いたいがたくさんうつっている」とはなすと、この映像えいぞう公開こうかい是非ぜひについて意見いけんもとめている。シャーロッドはまったおくすることなく「戦争せんそうはむごたらしいものですよ、大統領だいとうりょう」とこたえると、たりまえのこととしてぜひ公開こうかいすべきという意見いけんべた[208]。また、シャーロッド自身じしんも、タイム詳細しょうさい取材しゅざい結果けっか寄稿きこうし、以下いかのような見解けんかいべている[209]

先週せんしゅうやく2,000ないし3,000のアメリカ海兵かいへいは、その大半たいはんいま戦死せんししたかもしくは負傷ふしょうしているが、ぜん国民こくみんにたいしてレキシントン・コンコードのたたかアラモのたたかリトルビッグホーンのたたかベローウッドのたたか英語えいごばんなどの名前なまえのわきにならぶべき、不朽ふきゅう名前なまえひとつあたえた。その名前なまえはタラワであった。 — タイム

アメリカ海兵かいへいたいそう司令しれいかんアレクサンダー・ヴァンデグリフト中将ちゅうじょうも、これまでは規制きせいしてきたアメリカへい遺体いたい写真しゃしん公表こうひょうみとめ、アメリカ国内こくないでこれらの映像えいぞう写真しゃしん公表こうひょうされると、ルーズベルトやヴァンデグリフトの目論見もくろみとはことなり、アメリカ国民こくみんはげしい衝撃しょうげきあたえた[90]新聞しんぶん各紙かくしは「かかる悲劇ひげきふたたびひきおこしてはならぬ」と怒号どごうし、国会こっかい議員ぎいんも「諜報ちょうほう欠点けってんだらけのものであったにちがいない」とだんじた[210]。このアメリカ海軍かいぐん、アメリカ海兵かいへいたいへの批判ひはんには、そのそう司令しれいかんである連合れんごうこく太平洋軍たいへいようぐんそう司令しれいかんけんアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいかんチェスター・ニミッツ提督ていとくはげしく主導しゅどうけんあらそいをしていた、連合れんごうこく南西なんせい太平洋軍たいへいようぐん英語えいごばん司令しれいかんダグラス・マッカーサーも同調どうちょうし「優秀ゆうしゅう指揮しきかん自分じぶん部隊ぶたい必要ひつようたか損害そんがいこうむることをゆるさない」と発言はつげんしてニミッツを牽制けんせいしている[211]

ニミッツの上官じょうかんにあたる合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけん海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうアーネスト・キング元帥げんすいは、ニミッツをびつけると、新聞しんぶん各紙かくしが、タラワのたたかいはゲティスバーグのたたかでのみなみぐんロバート・E・リー将軍しょうぐんによるピケットの突撃とつげきのようであると批判ひはんしていることにたいして、ニミッツが効果こうかてき情報じょうほう公開こうかいをせずに、このような的外まとはずれな批判ひはんがアメリカ海軍かいぐんけられていることを叱責しっせきし、「あっち(ピケットの突撃とつげき)は失敗しっぱいだけど、こっち(タラワのたたかい)はっている」「勝利しょうりである事実じじつれもせず」損害そんがいばかりを強調きょうちょうするような報道ほうどうをニミッツが容認ようにんしているとなげいた。また、戦死せんししたアメリカ海兵かいへい隊員たいいん遺族いぞくからもニミッツへ批判ひはん殺到さっとうした。そのなかには「あなた(ニミッツ)がわたし息子むすこをタラワでころしたのです」という激烈げきれつ批判ひはんもあったが、ニミッツはこうした批判ひはん投書とうしょにはすべとおして「これは指揮しきかんとしての責任せきにんのひとつだ」として可能かのうかぎ返事へんじいている[211]

たたかいの評価ひょうか教訓きょうくん

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2013ねん時点じてん現存げんそんしているタラワに日本にっぽんぐん地下ちか陣地じんちあと視察しさつするアメリカ海兵かいへい隊員たいいん

アメリカ海兵かいへいたいけた損害そんがい甚大じんだいであったが、この作戦さくせん史上しじょうはつしん水陸すいりく両用りょうよう強襲きょうしゅう上陸じょうりく作戦さくせんであり[211]、アメリカぐんもアメリカ国民こくみんも、戦争せんそう安易あんいみちはなく、勝利しょうり代価だいかつねであることを十分じゅうぶん認識にんしきできていなかったことが、国内こくないでのおおきな論争ろんそうしょうじた要因よういんでもあった。ち、冷静れいせい作戦さくせん評価ひょうかされるようになると、タラワを視察しさつしたヒルがべたように「(タラワは)義務ぎむ教育きょういく」として、貴重きちょう教訓きょうくんがいくつもられた。その一部いちぶ下記かきとおりである[212]

撃破げきはされたアムトラック
  1. アムトラックは投入とうにゅうされた125りょうのうち90りょう撃破げきはされて損失そんしつりつじつに72%にものぼり、その乗組のりくみいんやく500めいのうち323めい死傷ししょうするという壊滅かいめつてき損害そんがいこうむった。このため後続こうぞく部隊ぶたい上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい浅瀬あさせまでって、その海上かいじょう徒歩とほ海岸かいがん目指めざ羽目はめになりだい損害そんがいこうむった。この反省はんせいにより、アムトラックの生産せいさん強化きょうかされて、このたたか以降いこう敵前てきぜん上陸じょうりく作戦さくせんではより大量たいりょうのアムトラックが作戦さくせん投入とうにゅうされることとなった[90]
  2. 日本にっぽんぐんもうけた海中かいちゅう障害しょうがいぶつでアムトラックや上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい航行こうこう妨害ぼうがいされ、海上かいじょうにおける損害そんがい増大ぞうだい要因よういんひとつとなった。そのため、潜水せんすい水中すいちゅう特殊とくしゅ任務にんむをするために、水泳すいえい達者たっしゃ精鋭せいえいあつめられて編成へんせいされていたフロッグマン水中すいちゅう破壊はかいはん)がより増強ぞうきょうされ、上陸じょうりくまえ海中かいちゅう敷設ふせつされた機雷きらい工作こうさくぶつ除去じょきょする任務にんむ強化きょうかされた[213]。このフロッグマンはベトナム戦争せんそうて、Navy SEALs発展はってんしていった[214]
  3. 海水かいすいかって使用しようができなくなった無線むせん続出ぞくしゅつし、作戦さくせん初期しょきには前線ぜんせん状況じょうきょう司令しれい満足まんぞく把握はあくできなかったので、無線むせん防水ぼうすいされた。また海上かいじょうから陸上りくじょうたいする通信つうしん艦艇かんていあいだ通信つうしん不備ふびおおく、作戦さくせん指揮しき支障ししょうをきたしたので、攻撃こうげき輸送ゆそうかん特別とくべつ通信つうしん機器きき整備せいびし、タラワのたたかいでは旗艦きかんとされていた戦艦せんかんわって上陸じょうりく作戦さくせん指揮しき艦艇かんていとし、海上かいじょうから陸上りくじょうへの攻撃こうげき指揮しきする特別とくべつ任務にんむたすようになった[212]
  4. アメリカ海兵かいへいたいはアメリカ海軍かいぐん航空こうくうたい艦載かんさいによる航空こうくう支援しえん不十分ふじゅうぶんであったとかんがえ、「直接ちょくせつ航空こうくう支援しえん原則げんそく徹底的てっていてきまなんだ海兵かいへいたいのパイロット」が上陸じょうりく部隊ぶたい支援しえんおこなうことができるよう、アメリカ海軍かいぐんもうた。そのもうにより、アメリカ海軍かいぐん護衛ごえい空母くうぼアメリカ海兵かいへいたい航空こうくうたい作戦さくせん搭載とうさいすることをみとめ、こののち作戦さくせんでは、アメリカ海兵かいへいたい作戦さくせんがアメリカ海軍かいぐん護衛ごえい空母くうぼじょうから作戦さくせん行動こうどう可能かのうになり、地上ちじょう支援しえん能力のうりょく向上こうじょうした[215]
  5. タラワの日本にっぽんぐん陣地じんちかんほう射撃しゃげき十分じゅうぶん弱体じゃくたいできなかったことから、砲撃ほうげき計画けいかくさい検討けんとうされて、アメリカ海軍かいぐん援護えんご砲撃ほうげきかくだん効果こうかてきとなった。アメリカ海軍かいぐんわせれば「タラワは一言ひとことでいえば、かんほう射撃しゃげきたいするかんがかた革命かくめいした」とのことであった[212]日本にっぽんぐん頑強がんきょう陣地じんちには効果こうかうすかった“絨毯じゅうたん砲撃ほうげき廃止はいしされ、個別こべつ目標もくひょうたいする集中しゅうちゅう砲撃ほうげき重視じゅうしされた。準備じゅんび砲撃ほうげき期間きかん延長えんちょうされ、まれる砲弾ほうだんりょう激増げきぞうすることになった[216]

しかし、準備じゅんび砲撃ほうげき期間きかんについては、連合れんごうこく太平洋軍たいへいようぐんそう司令しれいかんけんアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいかんチェスター・ニミッツ提督ていとくのタラワのたたかいにたいする評価ひょうか水陸すいりく両用りょうよう強襲きょうしゅう上陸じょうりく作戦さくせんにおける海軍かいぐんのスピード重視じゅうし主張しゅちょうただしさが、これほどはっきり証明しょうめいされた場所ばしょはなかった」でもわかるとおり、こののちもアメリカ海兵かいへいたい要望ようぼうどおりとはならなかった[217]。これはタラワのたたかいと同時どうじたたかわれたマキンのたたかいにおいて、アメリカ陸軍りくぐんだい27歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんが、だいいち世界せかい大戦たいせん当時とうじの「部隊ぶたい味方みかた砲兵ほうへい弾幕だんまくなか前進ぜんしんし、てき戦闘せんとうりょく粉砕ふんさいされるまで前進ぜんしんしない」という大陸たいりくがた作戦さくせんおこない、進撃しんげき停滞ていたいしたため[218]。アメリカ海軍かいぐん艦艇かんてい危険きけん状態じょうたいでマキン沖合おきあい停泊ていはく余儀よぎなくされ、その結果けっか支援しえん艦隊かんたい旗艦きかん護衛ごえい空母くうぼリスカム・ベイ」が「175」(田畑たばたただし艦長かんちょう)の雷撃らいげき撃沈げきちんされ、だい52任務にんむ部隊ぶたいだい3ぐん司令しれいかんヘンリー・M・ムリニクス少将しょうしょう艦長かんちょうアーヴィング・ウィルツィー英語えいごばん大佐たいさふくむ701めいうしなうというだい損害そんがいこうむったことを教訓きょうくんとしたものであった[219]

このニミッツの「ガルヴァニック作戦さくせんひょうもあって、こののちのサイパンのたたかいや硫黄いおうとうたたかいにおいても、アメリカ海軍かいぐんはアメリカ海兵かいへいたいのぞ期間きかんほうばくげきおこなうことはなかった。アメリカ海軍かいぐん日本にっぽんぐんからの艦船かんせんへの攻撃こうげき危険きけんせいけるため、なるべく短期間たんきかん上陸じょうりく支援しえん固執こしつした。そのため、アメリカ海兵かいへいたいだい損害そんがいこうむった硫黄いおうとうたたかいにおいては、アメリカ海兵かいへいたい公式こうしき戦史せんしにおいてすら「かんほう射撃しゃげきを3にちげたことは、多大ただい犠牲ぎせいんだ痛烈つうれつ皮肉ひにくであったし、補足ほそくてき作業さぎょうジャンボリー作戦さくせん)が、本来ほんらい目的もくてきをないがしろにした好例こうれいだった」と舌鋒ぜっぽうするどくアメリカ海軍かいぐん批判ひはんし、タラワでもはげしくアメリカ海軍かいぐん姿勢しせい批判ひはんしたホーランド・スミスも「我々われわれは、かけがえのない人命じんめいえのきく弾薬だんやく天秤てんびんにかけて、うま売買ばいばいするように交渉こうしょうしなければならなかった。わたしは人生じんせいでこれほどんだことはなかった」[220]や「海軍かいぐんが25年間ねんかんまったかんがかたわっていないてんおもこすとむねわるくなる、海軍かいぐんだいいち世界せかい大戦たいせんせんくんから前進ぜんしんしようとせず、むしろ後退こうたいし、時代遅じだいおくれの思想しそう進歩しんぽはばまれていた」とはげしく批判ひはんしている[221]

戦後せんごになってアメリカ海兵かいへいたいはタラワのたたかいを以下いかのように総括そうかつしている[212]

タラワは必要ひつようであった。それは不可避ふかひで、そこにおいて、まだ実施じっしされたことがない原理げんり戦場せんじょうにおいて詳細しょうさい実験じっけんされたのである。海兵かいへいたい甚大じんだい損害そんがいは、2、300㎡のサンゴ礁さんごしょうあがな代価だいかとしてはたかすぎたが、アメリカの軍事ぐんじ計画けいかく立案りつあんしゃおよ戦略せんりゃく立案りつあんしゃにとっては、ギルバート諸島しょとう攻略こうりゃくようした犠牲ぎせいは、それによってられた戦略せんりゃくてき有利ゆうり戦術せんじゅつてき教訓きょうくんからみて、はらうにあたいしたものであった。 — アメリカ海兵かいへいたい

タラワのたたかいが登場とうじょうするメディア作品さくひん

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映像えいぞう作品さくひん

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  • ドキュメンタリー 激戦げきせんタラワ~日米にちべい将兵しょうへい再会さいかいヒストリーチャンネル
  • 偵察ていさつ写真しゃしんかただい世界せかい大戦たいせん(ヒストリーチャンネル)
  • With the Marines at Tarawa」 - 海兵かいへいたい従軍じゅうぐんカメラマンであるノーマン・ハッチ撮影さつえいしたドキュメンタリー映画えいがべいぐん重傷じゅうしょうしゃ波間なみまただよ遺体いたい戦死せんししゃうみ遺棄いきする水葬すいそうをもふく実戦じっせん情景じょうけいはじめてべい国民こくみん公開こうかいされ、一時いちじてき志願しがんへい応募おうぼりつ低下ていかしたという。だい17かいアカデミーしょう短編たんぺんドキュメンタリー部門ぶもん受賞じゅしょうさく

小説しょうせつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ62 1973, p. 472.
  2. ^ 戦史せんし叢書そうしょ62 1973, p. 471.
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  10. ^ a b c d e f g h i j 戦史せんし叢書そうしょ62 1973, p. 456.
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  12. ^ a b c d e f g h ボールドウィン 1967, p. 294.
  13. ^ a b c d ヘンリー・ショー 1998, p. 197.
  14. ^ H-025-1: Operation Galvanic—Tarawa and Makin Islands, November 1943”. Naval History and Heritage Command. 2024ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  15. ^ ボールドウィン 1967, p. 291.
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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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