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レイモンド・スプルーアンス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
レイモンド・スプルーアンス
Raymond Spruance
1944ねん3がつ
生誕せいたん 1886ねん7がつ3にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメリーランドしゅうボルチモア
死没しぼつ (1969-12-13) 1969ねん12月13にち(83さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうモントレー ペブルビーチ
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍かいぐん
ぐんれき 1907 - 1948
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
除隊じょたい ざいフィリピンアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいし
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レイモンド・エイムズ・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance、1886ねん7がつ3にち - 1969ねん12月13にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょう

生涯しょうがい

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1886ねん7がつ3にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメリーランドしゅうボルチモアで、アレクサンダー・スプルーアンス(Alexander Spruance)とアンナ・エイムズ・スプルーアンス(Anna Ames Spruance)の長男ちょうなんとしてまれた。誕生たんじょうインディアナしゅうインディアナポリスいえそだつ。父親ちちおや家系かけい奴隷どれい所有しょゆうだい規模きぼ農場のうじょう経営けいえい商人しょうにんてインディアナポリスに土着どちゃくした一族いちぞくで、母親ははおや実家じっかヒスマサチューセッツヤンキー(「オランダけい移民いみん」の)の9代目だいめにあたるボルチモア裕福ゆうふく家系かけいで、母親ははおやは16さいとき叔父おじのいるイタリア・ジェノヴァへの留学りゅうがくれきがある。家族かぞくは3さい年下とししたおとうとビリーと6さい年下とししたおとうとフィリップがいたが、フィリップが病弱びょうじゃく知的ちてき障害しょうがいしゃだったため、母親ははおやは6さいのレイモンドをボルチモアの実家じっかあづけることにした。こうして思春期ししゅんき両親りょうしんおとうと2にんはなれてらすことになった。高校生こうこうせいとき居候いそうろうさき母親ははおや実家じっかヒス破産はさんし、やむなくインディアナポリスの実家じっかかえったが、スプルーアンスも、父親ちちおやのアレクサンダーは破産はさんして仕事しごともせずにブラブラしている世捨よすびとで、ボブズ・メリルしゃ編集へんしゅうしゃであった母親ははおやのアンナの収入しゅうにゅうたよっていた。

1903ねんアナポリス(アメリカ海軍兵学校かいぐんへいがっこう入学にゅうがく大学だいがく進学しんがく経済けいざいてき困難こんなんであったため、無料むりょう高等こうとう教育きょういくけられるということ受験じゅけんした。当時とうじアナポリスでは上級生じょうきゅうせい下級生かきゅうせいリンチ (en:Hazing) をくわえる状態じょうたいにあったが、スプルーアンスはわがかんせずといった態度たいどごしていた。士官しかん不足ふそくともな卒業そつぎょう繰上くりあ政策せいさく半年はんとし卒業そつぎょうがり、1906ねん9がつ12にちに209めいちゅう21番目ばんめ席次せきじ卒業そつぎょうする。少尉しょうい候補こうほせいとして、戦艦せんかんアイオワ(BB-4)乗組のりくみとなり、1907ねんに「アイオワ」が除籍じょせきになるとグレート・ホワイト・フリートいちせきであった新鋭しんえい戦艦せんかん「ミネソタ」(BB-22)転属てんぞく、12月からの世界せかい巡航じゅんこう出発しゅっぱつし、1908ねん10がつ最初さいしょ寄港きこう日本にっぽんにおけるガーデン・パーティーで東郷とうごう平八郎へいはちろう出会であう。上官じょうかんチェスター・ニミッツほど熱烈ねつれつ敬意けいいではいものの、東郷とうごう颯爽さっそうとした姿すがた日本にっぽん国民こくみんたいする敬愛けいあいねんいた。1909ねん2がつ帰国きこく電気でんき技術ぎじゅつ研修生けんしゅうせいとしてゼネラル・エレクトリックしゃに1年間ねんかん勤務きんむ。1910ねん少尉しょうい任官にんかん戦艦せんかん「コネチカット」(BB-18)乗組のりくみとなり、1911ねん10がつ巡洋艦じゅんようかん「シンシナティ」(C-7)機関きかん将校しょうこうとして赴任ふにん。1912ねん成績せいせき優秀ゆうしゅうにつき、中尉ちゅうい昇進しょうしんした。1913ねん駆逐くちくかん「ベインブリッジ」(DD-1)艦長かんちょうとなった。

だいいち世界せかい大戦たいせん

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1914ねん5がつ大尉たいい昇進しょうしん、アメリカ本国ほんごく帰国きこくヴァージニアしゅうニューポート・ニューズ造船ぞうせんしょ海軍かいぐん監督かんとくかんとして赴任ふにん。1914ねん8がつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ。12月、幼馴染おさななじみのマーガレット・ディーンと結婚けっこんした。造船ぞうせんしょ戦艦せんかん「ペンシルベニア」(BB-38)進水しんすいすると同艦どうかん電気でんき担当たんとう士官しかんとして乗艦じょうかん。1917ねんブルックリン海軍かいぐん工廠こうしょう転属てんぞくし、戦時せんじ特例とくれい少佐しょうさ昇進しょうしんした。1918ねん士官しかん不足ふそく深刻しんこくし、戦時せんじ特例とくれい中佐ちゅうさ昇進しょうしんした。

1918ねん11月、終戦しゅうせん戦後せんごはドイツの客船きゃくせんカイザー・ヴィルヘルムII」の捕獲ほかく改良かいりょう輸送ゆそうせん「アガメムノン」の副長ふくちょう就任しゅうにんしてヨーロッパのアメリカへい帰国きこく輸送ゆそう従事じゅうじした。 戦後せんご転職てんしょくかんがえていたが、岳父がくふから「おまえ正直しょうじきすぎてビジネスにはまったいていない」とアドバイスされて海軍かいぐんのこった[1]

1920ねん駆逐くちくかん「アーロン・ワード」の艦長かんちょう就任しゅうにん。この駆逐くちくかんふくむ6せきからなる駆逐くちくたい司令しれいウィリアム・ハルゼー中佐ちゅうさであった。ハルゼーはスプルーアンスを「駆逐くちくかん艦長かんちょうとしてきわめてすぐれた技能ぎのうっているだけでなく、その性格せいかくならびに頭脳ずのうにおいても、きわめてすぐれた人物じんぶつである」とひょうし、スプルーアンスもハルゼーの統率とうそつりょく勇敢ゆうかん攻撃こうげき精神せいしん尊敬そんけいねんつようになった。また、おたが家族かぞくぐるみのいをするようになっている。1921ねん海軍かいぐんしょう技術ぎじゅつ電気でんき課長かちょう就任しゅうにん同年どうねんちちアレキサンダーが死去しきょ。1922ねん中佐ちゅうさ昇進しょうしん。1924ねん、ヨーロッパ・アメリカ海軍かいぐん部隊ぶたい参謀さんぼう拝命はいめい部隊ぶたいのいるフランスシェルブール家族かぞくともした。その一時いちじてき帰国きこくし、駆逐くちくかん「オズボーン」艦長かんちょう拝命はいめい前任ぜんにん艦長かんちょうであるハルゼーは交代こうたいさい乗組のりくみいんたいし、「あたらしい艦長かんちょう艦長かんちょうになるから生真面目きまじめさだけで誤解ごかいしないよう」といいふくめた。1926ねん海軍かいぐんだい学校がっこう入学にゅうがく。1927ねん卒業そつぎょう海軍かいぐん作戦さくせん情報じょうほう勤務きんむとなった。このとき日本にっぽん大使館たいしかん駐在ちゅうざい武官ぶかん坂野さかのつねぜん大佐たいさ伊藤いとう整一せいいち中佐ちゅうさ親交しんこうがあった。1929ねん戦艦せんかん「ミシシッピ」(BB-41)副長ふくちょう就任しゅうにん。1931ねん海軍かいぐん大学だいがくもどり、通信つうしん教育きょういく部門ぶもん責任せきにんしゃとなった。同年どうねん大佐たいさ昇進しょうしん。1933ねん3がつ合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい偵察ていさつ艦隊かんたい駆逐くちくかんぐん参謀さんぼうちょう就任しゅうにん。1935ねん海軍かいぐん大学だいがく勤務きんむ。1938ねん戦艦せんかん「ミシシッピ」に艦長かんちょうとして赴任ふにんした。1940ねん2がつ少将しょうしょう昇進しょうしんし、だい10海軍かいぐんカリブ海かりぶかい西にし印度いんど諸島しょとう)の初代しょだい司令しれいかん就任しゅうにんプエルトリコ基地きち建設けんせつ従事じゅうじした。1941ねん初頭しょとう大西洋たいせいようぶん艦隊かんたい司令しれいかんアーネスト・キング少将しょうしょうからクレブラとう上陸じょうりく作戦さくせん演習えんしゅう見学けんがく招待しょうたいがあり参加さんかしている。

太平洋戦争たいへいようせんそう

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1941ねん9がつ太平洋艦隊たいへいようかんたい所属しょぞくだい5巡洋艦じゅんようかん戦隊せんたい司令しれいかん就任しゅうにん指揮しきにあるのはじゅう巡洋艦じゅんようかん4せき(「ノーザンプトン」「チェスター」「ペンサコーラ」「ソルトレイクシティ」)にぎず、戦艦せんかん部隊ぶたい司令しれいかんのぞんでいたスプルーアンスをがっかりさせたが、べつ任務にんむ候補こうほ海軍かいぐんしょう兵器へいき大西洋たいせいよう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうだったため、ワシントンにくよりはマシだとおもって辞令じれい受諾じゅだくした。9月、真珠湾しんじゅわん到着とうちゃくすると「ノーザンプトン」にはたはたかかげた。11月28にちウェークとう航空機こうくうき輸送ゆそうする任務にんむびたハルゼー中将ちゅうじょう指揮しきだい8任務にんむ部隊ぶたい一部いちぶたいひきいて真珠湾しんじゅわん出港しゅっこうした。1941ねん12月、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ開戦かいせんはホノルル西方せいほう200マイルの洋上ようじょうにおり、真珠湾しんじゅわんへの帰路きろ途上とじょうであった。

だい16任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかん

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1942ねん5がつまつだい16任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんウィリアム・ハルゼー皮膚ひふびょうにかかって入院にゅういんするさいに、代理だいり指揮しきかんにスプルーアンスを指名しめいした[2]だい16任務にんむ部隊ぶたい空母くうぼ部隊ぶたいであり、スプルーアンスは航空こうくうせん門外もんがいであった。参戦さんせんのアメリカ海軍かいぐんには、まだ航空こうくう部門ぶもん将官しょうかんすくなく、3にん空母くうぼ部隊ぶたい司令しれいかんのうち、航空こうくう部門ぶもん出身しゅっしん司令しれいかんはハルゼー中将ちゅうじょうのみで、ウィルソン・ブラウン少将しょうしょうフランク・J・フレッチャー少将しょうしょうはいずれも水上すいじょう部門ぶもん出身しゅっしんであり、スプルーアンスの起用きよう異例いれいのことではなかった[3]。 ハルゼーは、条件じょうけんとして副官ふっかん以外いがい幕僚ばくりょうはハルゼーの幕僚ばくりょうをそのままことと、旗艦きかん空母くうぼ「エンタープライズ」ことさだめられていた。これを受諾じゅだくすると、副官ふっかんロバート・オリバー中尉ちゅういだけれて「エンタープライズ」に乗艦じょうかん出港しゅっこう、1にちおくれで出港しゅっこうしたフレッチャー少将しょうしょうだい17任務にんむ部隊ぶたいと、ミッドウェーとう北東ほくとうの「ポイント・ラック」とばれた地点ちてん合流ごうりゅう、フレッチャー提督ていとく指揮しきした当時とうじ予期よきされていた日本にっぽんぐんのミッドウェーとう攻略こうりゃくたいする迎撃げいげき準備じゅんびいた。だい16任務にんむ部隊ぶたい幕僚ばくりょう面々めんめんはスプルーアンスのこと航空こうくうのキャリアがことだけしからなかったが、はじめての会食かいしょく席上せきじょうスプルーアンスは「諸君しょくんわたし諸君しょくん1人ひとりひとりについて、いささかの不安ふあんねんっていないということを、ずはっきりさせておきたい。もし1にんでもそうでない人物じんぶつがいたら、ビル・ハルゼーが君達きみたちをこのままにしておくはずがないからだ」と明言めいげんして信頼しんらいた。 太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかんチェスター・ニミッツ大将たいしょうはスプルーアンスに「日本にっぽんぐんがミッドウェーを占領せんりょうしても、われわれは、あとからゆっくりかえせばいい、戦況せんきょう不利ふりなら退却たいきゃくしたまえ」とかたった[4]

1942ねん6がつミッドウェー海戦かいせん指揮しきし、日本にっぽん空母くうぼ4せき撃沈げきちんする勝利しょうりた。

1942ねん9がつ太平洋艦隊たいへいようかんたい参謀さんぼうちょう司令しれい長官ちょうかんチェスター・ニミッツ大将たいしょう)に就任しゅうにん。ニミッツの官舎かんしゃ居候いそうろうしており、公私こうしわたって行動こうどうともにしている。ニミッツも次第しだい自分じぶんたいする用件ようけんすべてスプルーアンス経由けいゆにするほど信頼しんらいするようになった。1942ねん10がつ南太平洋みなみたいへいよう艦隊かんたい司令しれいかんロバート・ゴームレー中将ちゅうじょうからのガダルカナルにかんする悲観ひかんてき報告ほうこくごうやしたニミッツの指示しじで、スプルーアンスは復帰ふっきしたハルゼー中将ちゅうじょうとも現地げんち視察しさつおもむいている。

だい5艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん

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ひだりから、スプルーアンス、アーネスト・キング大将たいしょうチャールズ・クック海軍かいぐん少将しょうしょう英語えいごばんジェームズ・フォレスタル海軍かいぐん長官ちょうかんランドール・ジェイコブス海軍かいぐん中将ちゅうじょうチェスター・ニミッツ海軍かいぐん大将たいしょうオーブリー・フィッチ海軍かいぐん中将ちゅうじょう。ニミッツ提督ていとくとフィッチ提督ていとく背後はいごフォレスト・シャーマン少将しょうしょう(1944ねん

1943ねん5がつ30にち中将ちゅうじょう昇進しょうしんし、中部ちゅうぶ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいかん任命にんめい。このとき指揮しきにある兵力へいりょく正規せいき空母くうぼ6せきけい空母くうぼ5せき護衛ごえい空母くうぼ7せき戦艦せんかん12せき巡洋艦じゅんようかん15せき駆逐くちくかん65せき潜水せんすいかん10せき上陸じょうりく作戦さくせんよう輸送ゆそうせん33せき戦車せんしゃ揚陸ようりくてい (LST) 29せき、タンカー22せき陸軍りくぐん航空こうくうたい爆撃ばくげき90海軍かいぐん爆撃ばくげき偵察ていさつ66海兵かいへいたい航空機こうくうき200という膨大ぼうだいなものであった。旗艦きかんはスプルーアンスの故郷こきょうかんするじゅう巡洋艦じゅんようかん「インディアナポリス」(CA-35)さだめている。このふね巡洋艦じゅんようかん戦隊せんたい旗艦きかんクラスの設備せつびしかそなえておらず、これだけのだい艦隊かんたい指揮しきするには収容しゅうよう能力のうりょくちいさかったが、指揮しき命令めいれい系統けいとうのスリムはかじょう幕僚ばくりょうかずを「インディアナポリス」に収容しゅうようできる範囲はんい制限せいげんする効果こうかがあった。スプルーアンス以下いか幕僚ばくりょう32にん乗船じょうせんしたが、32にんというかずはハルゼーの幕僚ばくりょう半分はんぶん程度ていど規模きぼだった。この少数しょうすう精鋭せいえい主義しゅぎ幕僚ばくりょうじんをカール・ムーア大佐たいさ参謀さんぼうちょうとしてたばねた。ギルバート・マーシャル諸島しょとうたたか(コードネーム「ガルヴァニック作戦さくせん」)の攻略こうりゃくせん指揮しきした。1944ねん2がつ10日とおか大将たいしょう昇進しょうしん。このころ旗艦きかん新鋭しんえい戦艦せんかん「ニュージャージー」(BB-62)うつした。トラックとう攻撃こうげきさい戦艦せんかん「ニュージャージー」・「アイオワ以下いか巡洋艦じゅんようかん2せき駆逐くちくかん4せきじきりつし、航空こうくう攻撃こうげきらした日本にっぽん艦隊かんたい追撃ついげきおこなっている。

1944ねん3がつ中部ちゅうぶ太平洋艦隊たいへいようかんたいだい5艦隊かんたい改称かいしょうされた。ウィリアム・ハルゼーだい3艦隊かんたい交代こうたい空母くうぼ部隊ぶたい指揮しきした。だい3艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんウィリアム・ハルゼー比較ひかくされることがおおく、チェスター・ニミッツ大将たいしょうは、スプルーアンスを「しょうなかしょう」、ハルゼーを「そつなかしょう」とひょうしている[5]アーネスト・キング大将たいしょうは、ハルゼーを「あたまわるやつ」、スプルーアンスを「べい海軍かいぐん提督ていとくなかもっとあたまがいい」とひょうした[2]

1944ねん3がつからパラオ諸島しょとう攻撃こうげき開始かいし、4がつには攻略こうりゃく完了かんりょうしている。旗艦きかんを「インディアナポリス」にもどし、一旦いったん真珠湾しんじゅわん帰港きこうしたのち、5月28にちふたた出港しゅっこう。1944ねん6がつ、マリアナ諸島しょとう攻略こうりゃく着手ちゃくしゅし、マリアナおき海戦かいせん小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう指揮しきする日本にっぽん海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい勝利しょうりする。7月9にちサイパンとう、8がつ8にちにはテニアンとう、8がつ10日とおかにはグアムとう陥落かんらく、マリアナ諸島しょとう攻略こうりゃく成功せいこうした。8がつ中旬ちゅうじゅん作戦さくせん部長ぶちょうアーネスト・キング大将たいしょう命令めいれいでムーア参謀さんぼうちょう解任かいにん後任こうにん参謀さんぼうちょうアーサー・C・デイビス少将しょうしょう着任ちゃくにんした。8がつまつ、サイパンとうでハルゼー大将たいしょう指揮しきけん交替こうたいすると真珠湾しんじゅわんもどった。ニミッツはつぎ目標もくひょう台湾たいわんだろうと示唆しさしたが、スプルーアンスは硫黄いおうとう沖縄おきなわがよいとこたえている。休養きゅうようつぎ作戦さくせん立案りつあん最中さいちゅうの1944ねん10がつレイテおき海戦かいせんこり、そこでハルゼーの猪突猛進ちょとつもうしん問題もんだいされたが、「ビル・ハルゼーは日本にっぽんからやってきた艦隊かんたい小沢おざわ艦隊かんたい)にたいしてじつによく行動こうどうした」とべてハルゼーを擁護ようごした。

ひだりからスプルーアンス、マーク・ミッチャーチェスター・ニミッツウィリス・A・リー(1945ねん2がつ

1945ねん1がつ真珠湾しんじゅわん出港しゅっこうウルシー環礁かんしょう指揮しきけんぐと硫黄いおうとうたたか指揮しきした。このたたかいは軍部ぐんぶない批判ひはんつよかったが、陸軍りくぐん航空こうくうたいカーチス・ルメイ少将しょうしょうが「非常ひじょうおおきな価値かちつ」と断言だんげんしたため、作戦さくせん断行だんこうした。2がつまつ硫黄いおうとう攻略こうりゃくげると、一旦いったんウルシー環礁かんしょう帰還きかんした。

3月14にち沖縄おきなわせん(「アイスバーグ作戦さくせん」)にけて出港しゅっこう、3月18にち攻撃こうげき開始かいしした。この戦闘せんとうで、日本にっぽん特攻とっこうにより、正規せいき空母くうぼ3せき行動こうどう不能ふのう空母くうぼフランクリン」にはばくだん2はつ命中めいちゅうした。3月31にちには旗艦きかん「インディアナポリス」に特攻とっこう命中めいちゅうする。4月5にち戦艦せんかん「ニューメキシコ」(BB-40)はたはたうつす。4月1にち沖縄おきなわ本島ほんとうべいぐん上陸じょうりくしたが、日本にっぽんぐん抵抗ていこう上陸じょうりく部隊ぶたいだい10ぐん司令しれいかんサイモン・B・バックナー・ジュニア陸軍りくぐん中将ちゅうじょうひるみ、スプルーアンスを落胆らくたんさせた。4月6にち伊藤いとう整一せいいち中将ちゅうじょうひきいる戦艦せんかん大和やまと以下いか海上かいじょう特攻隊とっこうたい捕捉ほそくモートン・デヨ少将しょうしょう戦艦せんかん部隊ぶたい迎撃げいげきめいじ、同時どうじに、艦隊かんたいには航空こうくう部隊ぶたいつらねていると推測すいそくしたスプルーアンス大将たいしょうは、マーク・ミッチャー中将ちゅうじょうたいしても、そらからの脅威きょうい対処たいしょするようめいじたが、攻撃こうげきたいはつかん準備じゅんびととのえたマーク・ミッチャー中将ちゅうじょうから「かんにおいて攻撃こうげきされるや、あるいは当方とうほうにおいて攻撃こうげきすべきや」との打電だでんけ、即座そくざに"You take them"(くんがやれ)と返信へんしんした。

5月12にち臨時りんじ旗艦きかん「ニューメキシコ」にも特攻とっこう命中めいちゅうし、戦死せんし54めい負傷ふしょう119めいた。ニミッツ元帥げんすい司令しれい限界げんかいたっしていると判断はんだん攻略こうりゃく作戦さくせん途中とちゅうでハルゼー提督ていとく交代こうたいという非常ひじょう手段しゅだんった。5月28にち、ハルゼー提督ていとく戦艦せんかん「ミズーリ」(BB-63)沖縄おきなわ西海岸にしかいがんおき到着とうちゃくし、指揮しきけん交代こうたいすると、修理しゅうり完了かんりょうしていた「ニューメキシコ」でグアムとう帰還きかんした。6月に陸上りくじょう司令しれいうつすとほどなくしてアメリカ本土ほんど休暇きゅうか帰国きこく、1週間しゅうかんほどモンロビアごすとすぐにグアムとうもどった。8月14にちにニミッツから正式せいしき日本にっぽん占領せんりょう計画けいかく発令はつれいされ、旗艦きかん戦艦せんかん「ニュージャージー」にさだめ、準備じゅんびかった。8月15にち日本にっぽん降伏ごうぶくのニュースはグアムとういた。そのとき満足まんぞくげなかおはしたが、とくなに感情かんじょうしめさなかったと息子むすこエドワードは回想かいそうしている。

戦後せんご

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1945ねん8がつ27にちマニラ湾まにらわん到着とうちゃく。29にちダグラス・マッカーサー陸軍りくぐん元帥げんすい対面たいめんした。マッカーサーにってみると日本にっぽんたいするかんがえがおなじであることかり、尊敬そんけいするようになった。のちにマッカーサーであれば日本にっぽん占領せんりょうをうまくりできるだろうというむね発言はつげんをしている。9月2にち戦艦せんかん「ミズーリ」での降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしきにマッカーサーから招待しょうたいけたが、「ニミッツが自分じぶん出席しゅっせきもとめるなら、ニミッツがそうったであろう」とこたえて拒否きょひし、このとき沖縄おきなわ中城湾なかぐすくわん艦隊かんたい指揮しきっていた。

在日ざいにち海軍かいぐん司令しれいかん職務しょくむくと9がつ15にち和歌山わかやま上陸じょうりく病院びょういんせん「サンクチュアリー」2せき収容しゅうようされたアメリカぐん捕虜ほりょ見舞みまうと17にち横浜よこはまこう入港にゅうこう、イギリス海軍かいぐんのサー・バーナード・ローリングス中将ちゅうじょうのもてなしをけ、旗艦きかんキングジョージ5せい」でひさしぶりに深酒ふかざけをした。後日ごじつアメリカ本国ほんごく帰国きこくするハルゼーを見送みおくると、横須賀よこすかでマッカーサーひきいる占領せんりょうぐん本隊ほんたい進駐軍しんちゅうぐん)の上陸じょうりく支援しえん機雷きらい掃海そうかい捕虜ほりょ帰国きこく従事じゅうじした。また、アメリカぐん兵士へいし強姦ごうかん事件じけん花柳病かりゅうびょう泥酔でいすいしゃ続発ぞくはつしたので艦隊かんたいかんウィルカッツ博士はかせ提案ていあん在日ざいにちまい海軍かいぐん管理かんり慰安いあんしょ設置せっち犯罪はんざい性病せいびょう激減げきげんしたが、従軍じゅうぐん牧師ぼくし連邦れんぽう議員ぎいんに「海軍かいぐん横須賀よこすか売春ばいしゅん許可きょかし、これを幇助ほうじょしている」と報告ほうこくしたため、海軍かいぐんしょうはスプルーアンスにただちに廃止はいしするよう命令めいれいした。

11月、だい5艦隊かんたい司令しれいかん地位ちいジョン・H・タワーズ中将ちゅうじょうぐと真珠湾しんじゅわんもど待命たいめい、2週間しゅうかんニミッツ元帥げんすい後任こうにん太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかん就任しゅうにんする。しかし、わずか2ヶ月かげつほどでタワーズ提督ていとくゆずると、1946ねん2がつ1にちから海軍かいぐんだい学校がっこうちょうとなり1948ねん7がつ1にち退役たいえきした。スプルーアンスは終身しゅうしん現役げんえき元帥げんすいにはなれなかったが、退役たいえき終身しゅうしん大将たいしょう俸給ほうきゅうけるという前例ぜんれいのない待遇たいぐう連邦れんぽう議会ぎかいからみとめられた。カリフォルニアしゅうモントレー半島はんとうペブル・ビーチつま引退いんたい生活せいかつおくっていたが、ハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょう指名しめいけて1952ねん1がつちゅうフィリピン大使たいし就任しゅうにん、1953ねん退任たいにんする予定よていであったが、のち大統領だいとうりょうとなったドワイト・アイゼンハワー慰留いりゅうされ延長えんちょう、1955ねんまでつとめた。その、ペブル・ビーチにもどる。

ゴールデンゲート国立こくりつ墓地ぼち英語えいごばんにあるスプルーアンスの墓石はかいし

1966ねん椎間板ついかんばんヘルニア白内障はくないしょうわずらい、のち動脈どうみゃく硬化こうかしょう併発へいはつする。1969ねんはる長男ちょうなんエドワードが交通こうつう事故死じこしすると精神せいしん異常いじょうをきたし、認知にんちしょうのような状態じょうたいおちいる。1969ねん12月13にち自宅じたく死去しきょ享年きょうねん83。最後さいご言葉ことばは「わたしつまにさよならをいたいのだ」であった。海軍かいぐんによる葬儀そうぎののち、サンフランシスコのゴールデン・ゲート国立こくりつ墓地ぼちにニミッツ、ターナーりょう提督ていとくはかとなうようにほうむられた。スプルーアンスきゅう駆逐くちくかんのクラスネームとその1ばんかん(DD-963)、アーレイバークきゅうミサイル駆逐くちくかん61ばんかん(DDG-111)かれにちなんで命名めいめいされた。

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん永久えいきゅう保存ほぞんばん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 116ぺーじ
  2. ^ a b 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん永久えいきゅう保存ほぞんばん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 114ぺーじ
  3. ^ Thomas B. Buell, Master of Seapower: A Biography of Fleet Admiral Ernest J. King (Annapolis: Naval Institute Press, 2012), p. 198. ISBN 9781591140429
  4. ^ 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん永久えいきゅう保存ほぞんばん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 44ぺーじ
  5. ^ 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん永久えいきゅう保存ほぞんばん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 121ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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ぐんしょく
先代せんだい
チェスター・ニミッツ
アメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかん
1945ねん - 1946ねん
次代じだい
ジョン・ヘンリー・タワーズ
外交がいこうしょく
先代せんだい
マイロン・M・カウエン
ちゅうフィリピン大使たいし
1952ねん - 1955ねん
次代じだい
ホメロス・ファーガソン