マーク・ミッチャー

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マーク・ミッチャー
Marc Andrew Mitscher
マーク・ミッチャー(だい世界せかい大戦たいせん
渾名あだな ピート
生誕せいたん 1887ねん1がつ26にち
ウィスコンシンしゅう ヒルスボロー英語えいごばん
死没しぼつ (1947-02-03) 1947ねん2がつ3にち(60さいぼつ
バージニアしゅう ノーフォーク
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍かいぐん
ぐんれき 1910ねん - 1947ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
指揮しき 大西洋たいせいよう艦隊かんたい司令しれいかん
だい8艦隊かんたい司令しれいかん
CV-8 ホーネット艦長かんちょう
AV-1 ライト艦長かんちょう
戦闘せんとう だいいち世界せかい大戦たいせん
だい世界せかい大戦たいせん
*マリアナおき海戦かいせん
*硫黄いおうとうたたか
*レイテおき海戦かいせん
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マーク・アンドリュー・"ピート"・ミッチャーMarc Andrew "Pete" Mitscher, 1887ねん1がつ26にち - 1947ねん2がつ3にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょうだい世界せかい大戦たいせん後半こうはん太平洋たいへいよう戦線せんせんにおける高速こうそく空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい指揮しきかんとして有名ゆうめいである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねんから青年せいねん[編集へんしゅう]

マーク・アンドリュー・ミッチャーは1887ねん1がつ26にちウィスコンシンしゅうヒルスボローで、商社しょうしゃいんのオスカー・ミッチャーとミルタ・ミッチャーの息子むすことしてまれた[1]父系ふけいドイツけい移民いみんで、木工もっこう職人しょくにんだった祖父そふアンドレアス・ミッチャー(1821ねん - 1905ねん)は1850年代ねんだい移民いみんとしてニューヨークにき、ここでおなじドイツけい移民いみんむすめ結婚けっこんして、当時とうじバイエルン、オーストリア由来ゆらいのドイツけい移民いみんおお居住きょじゅうしていたヒルスボローにうつった[1]。アンドレアスの次男じなんだったオスカーは木工もっこう職人しょくにんしょくにはかず商社しょうしゃいんとなり、勤務きんむさき経営けいえいしゃむすめだったミルタと結婚けっこんした[1]両親りょうしん性格せいかくせい反対はんたいで、オスカーは短気たんき山師やましてきかつ賭博とばくきなところがあり、ミルタはそれとはぎゃくおだやかで無口むくち性格せいかくだった[2]。しかし、家庭かていいたって平穏へいおんであり、なん特筆とくひつすべき事情じじょうもなかった[2]。また、ミッチャーには2さい年上としうえあねと7さい年下とししたおとうとがいた[2]よく1888ねん一家いっかオクラホマシティネイティブ・アメリカンのエージェントをつとめていたアンドレアスのしたした[2]木工もっこう職人しょくにんからエージェントに転身てんしんしたアンドレアスは、のちにオクラホマシティの市長しちょうつと[3]両親りょうしんもオクラホマシティであらたに商店しょうてんひらき、さらにオスカーは助役じょやくいたり、当選とうせんはしなかったがウィスコンシンしゅう知事ちじ選挙せんきょ出馬しゅつばするなど政治せいじてきうごきも活発かっぱつった[2]。ただし、オクラホマシティでらしていたにもかかわらず、記録きろくじょうでは「ミッチャーはワシントンD.C.小中学校しょうちゅうがっこう勉強べんきょうした」ことになっている[4]

1904ねん、17さいになったミッチャーは海軍兵学校かいぐんへいがっこう(アナポリス)入学にゅうがくする[2]。ミッチャー自身じしん海軍かいぐんはおろか海洋かいよう方面ほうめんにはさほど興味きょうみっていなかったようだが、オスカーがなぜかアナポリスきをねがっており、知己ちきのオクラホマしゅう選出せんしゅつバード・S・マクガイア英語えいごばん下院かいん議員ぎいん推薦すいせんをもらって入学にゅうがくすることになった[2][5]。このとき同時どうじ入学にゅうがくしたものなかには、リッチモンド・ターナートーマス・C・キンケイドらがおり、卒業そつぎょう年次ねんじから「アナポリス1908ねんぐみ」と呼称こしょうされた世代せだいである[2][6][注釈ちゅうしゃく 1]ちちねがいをけてアナポリスにすすんだミッチャーではあったが、おもわぬ事件じけんまれて退学たいがく余儀よぎなくされる。アナポリスにはいって2ねんあき、クラスのグループ同士どうし発生はっせいした喧嘩けんか死亡しぼうしゃ[7]。これをけて暴力ぼうりょく行為こうい厳禁げんきん通達つうたつたり死亡しぼう事件じけんかんする調査ちょうさおこなわれた[7]。ミッチャーが殺人さつじんおかしたわけではなかったが、成績せいせき劣等れっとうだったことや日々ひび素行そこうかんばしくなかった[5]ことなどからをつけられ、退学たいがく処分しょぶんくだされたのである[7]。オスカーはふたたびマクガイアの推薦すいせんて1906ねんにミッチャーをアナポリスにさい入学にゅうがくさせたが、さい入学にゅうがくしたミッチャーは、年下としした上級生じょうきゅうせいからのいじめをけるなどつら日々ひびごすこととなり、「内向ないこうてき反抗はんこうてき社交しゃこうてき」というレッテルをられる[7]。しかし、アナポリス時代じだいつらいことばかりではなかった。ときライトフライヤーごうはつ飛行ひこうから10ねんっていなかったが、はやくも航空こうくうかんする書物しょもつ出版しゅっぱんされており、ミッチャーは校内こうないでそれをんで航空こうくうへの関心かんしんふかめることとなる[8]。ちなみに、さい入学にゅうがく同期どうきにはチャールズ・A・パウナルフレデリック・C・シャーマン、のちにレイモンド・スプルーアンス参謀さんぼうとなるチャールズ・J・ムーア(カール・ムーア)らがおり、卒業そつぎょう年次ねんじから「アナポリス1910ねんぐみ」と呼称こしょうされた[6][注釈ちゅうしゃく 2]

1910ねん、ミッチャーは131めいちゅう103成績せいせきをもってアナポリスを卒業そつぎょう[注釈ちゅうしゃく 3]卒業そつぎょう2年間ねんかん研修けんしゅう期間きかんあいだ士官しかん候補こうほせいとして装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんコロラド」(USS Colorado, ACR-7)みとなり、1912ねん3がつ7にち少尉しょうい任官にんかんした。このあいだ寄港きこうさきブレマートンのちつまとなるフランシスと出会であい、1913ねん1がつ結婚けっこんする[8]。その、1913ねん8がつべいぼく紛争ふんそうそなえて西海岸にしかいがんにいた装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんカリフォルニア」(USS California, ACR-6)にうつった。駆逐くちくかんホイップル」(USS Whipple, DD-15)、「スチュワート」(USS Stewart, DD-13)勤務きんむのち、1915ねん9がつに、アメリカ海軍かいぐんにおいて航空機こうくうき運用うんようしたはじめての艦艇かんていのうちのいちせきである装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんノースカロライナ」(USS North Carolina, ACR-12)に飛行ひこう訓練くんれんのため配属はいぞくされた。これよりさきの1910ねん11月、ミッチャーはパイロットを志願しがんするが、志願しがんかよってペンサコーラ飛行ひこう学校がっこう入学にゅうがくしたのが1915ねんのことであった[8]よく1916ねん6がつ2にちミッチャーは海軍かいぐんパイロットだい33ごうとなり、東海岸ひがしかいがんかく海軍かいぐん飛行場ひこうじょう勤務きんむしたのち海軍かいぐん作戦さくせん本部ほんぶ勤務きんむとなって、そのだい1水上すいじょう軍団ぐんだん配属はいぞくとなった。また、1917ねん4がつ6にちにはカタパルト運用うんよう実験じっけんのため装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんハンチントン」(USS Huntington, CA-5)に配属はいぞくされ、実験じっけんフロリダしゅうココナッツ・グローヴ英語えいごばん近郊きんこうディナー・ケイ英語えいごばんてんじてからもつづけられた。

せんあいだ[編集へんしゅう]

1919ねん5がつ10日とおか、ミッチャーは海軍かいぐん大西洋たいせいよう横断おうだん飛行ひこう遠征えんせいで、さんカーティスNC飛行ひこうてい英語えいごばんうちいち、NC-1のパイロットとしてニューファンドランドとう出発しゅっぱつした。NC-1 と NC-3 は濃霧のうむのためアゾレス諸島しょとうちかくに着陸ちゃくりくしたのちれたうみのためにいちNC-4合流ごうりゅうできず、のこりの行程こうてい断念だんねんした。結局けっきょく、NC-4 だけが横断おうだん成功せいこうしたものの、ミッチャーもこの歴史れきしてき飛行ひこうにおける功績こうせき海軍かいぐんこと勲章くんしょう受章じゅしょうした。1919ねん10がつ14にちからは、カーティスNC飛行ひこうてい母艦ぼかんとして活用かつようされ、一時いちじてき太平洋艦隊たいへいようかんたい旗艦きかんとなっていた敷設ふせつかんアローストック英語えいごばん」(USS Aroostook, CM-3)のヘンリー・C・マスティン艦長かんちょうした勤務きんむし、1921ねん7がつ1にちには大尉たいい昇進しょうしんした。よく1922ねん5がつ、ミッチャーは太平洋艦隊たいへいようかんたいからアナコスティア英語えいごばん海軍かいぐん航空こうくう基地きち転勤てんきんし、いでアメリカ海軍かいぐん航空局こうくうきょく英語えいごばん勤務きんむとなった[9]。1926ねんには空母くうぼラングレー」(USS Langley, CV-1)飛行ひこうちょうとなり、めぐよう戦艦せんかんから改装かいそうされた「サラトガ」(USS Saratoga, CV-3)が就役しゅうえきすると同艦どうかん飛行ひこうちょうてんじ、「サラトガ」へのはつちゃくかんみずからのおこなった[9]。1929ねん副長ふくちょうとして「ラングレー」に復帰ふっきしたのち[9]、1934ねんに「サラトガ」で副長ふくちょう、1935ねん航空局こうくうきょく飛行ひこう課長かちょうつとめ、1937ねんには水上すいじょう母艦ぼかんライト英語えいごばん」(USS Wright, AV-1)艦長かんちょうとなる[10]だい1偵察ていさつ航空こうくうだん指揮しきかんて1939ねん6がつから1941ねん7がつまで航空局こうくうきょく次長じちょうつとめ、その1941ねん10がつ空母くうぼホーネット」(USS Hornet, CV-8)が就役しゅうえきするとその初代しょだい艦長かんちょう就任しゅうにんする。

この20ねんあいだ、ミッチャーは水上すいじょう勤務きんむとデスクワークをかえし、様々さまざま上官じょうかんにもせっした。そのうち、ジャック・タワーズ(アナポリス1906ねんぐみ)とアーネスト・キング(アナポリス1901ねんぐみ)はだい巨頭きょとうともうべき存在そんざいであった。タワーズとキングは航空局こうくうきょくトップのなどをめぐってライバル関係かんけいにあったが[10]、ミッチャーは双方そうほうから部下ぶかとしてまれた。すなわち、タワーズが航空局こうくうきょく計画けいかく課長かちょうにあったとき、ミッチャーはパウナルらとともに計画けいかく配属はいぞくされ、航空局こうくうきょく飛行ひこう課長かちょう時代じだいはちょうど、キングが航空局こうくうきょくのトップのにあったときであった[11]。ミッチャー同様どうよう生粋きっすいのパイロットだったタワーズは海軍かいぐん航空こうくうパイロットかいクラウンプリンスてき存在そんざいであり、タワーズをあがたてまつ生粋きっすいのパイロットの出身しゅっしんしゃは、キングなど中年ちゅうねん以降いこうにパイロット資格しかく取得しゅとくして航空こうくうてんじた将官しょうかん[注釈ちゅうしゃく 4]を「キーウィ」とんで嘲笑ちょうしょうしていた[12]。ミッチャーはこういったうごきにはえんがなかったものの、のちにタワーズらによってだいのクラウンプリンスてき存在そんざいになっていく[13]

太平洋戦争たいへいようせんそう[編集へんしゅう]

「ホーネット」艦長かんちょう[編集へんしゅう]

日本にっぽん本土ほんど攻撃こうげき直前ちょくぜんのミッチャーとドーリットル(ひだり

「ホーネット」は真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき竣工しゅんこうにより、集中しゅうちゅうてき慣熟かんじゅく訓練くんれんだけを1942ねん1がつ31にちわらせる[14]。2月2にち、「ホーネット」の将来しょうらい任務にんむのヒントになる「事件じけん」がこった。この、「ホーネット」は陸軍りくぐん航空こうくうたい所属しょぞくB-25 ミッチェル搭載とうさいしていた。海上かいじょうでののB-25は、「ホーネット」の乗組のりくみいんおどろきと戸惑とまどいをあたえた。「ホーネット」は戦闘せんとう準備じゅんびのためノーフォーク帰港きこうし、3月4にちパナマ運河うんが経由けいゆ西海岸にしかいがん出航しゅっこうしたが、ほとんどの乗組のりくみいんにはB-25での訓練くんれんなに意味いみしたのかものはなかった。しかし、艦長かんちょう立場たちばにあったミッチャーには真相しんそうかっていた。ホーネットの集中しゅうちゅうてき慣熟かんじゅく訓練くんれんわってないころ、ミッチャーは姉妹しまいかんヨークタウン」(USS Yorktown, CV-5)で合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい航空こうくう参謀さんぼうドナルド・B・ダンカン英語えいごばん大佐たいさから「真相しんそう」をらされる[15]。「真相しんそう」とは、「緒戦しょせん敗戦はいせん沈滞ちんたい気味ぎみべい国民こくみん奮起ふんきさせるための東京とうきょう奇襲きしゅう」であり、海軍かいぐん作戦さくせん作戦さくせん参謀さんぼうフランシス・S・ロー大佐たいさ[注釈ちゅうしゃく 5]がホーネットの訓練くんれんじょうきょうかえりにおもいついた作戦さくせんだった[14]。ローのおもいつきをダンカンが5日間にちかんでそれなりのかたち[14]作戦さくせん可能かのうかどうかミッチャーのもとはなしんだのだった[15]。この時点じてんでのミッチャーの回答かいとうさだかではないが、「ホーネット」がサンディエゴ到着とうちゃくすると、あらためてダンカンより作戦さくせん仔細しさい説明せつめいける[16]。3月31にちから4がつ1にちにかけて「ホーネット」に16のB-25が搭載とうさいされ[17]機密きみつ保持ほじのため、「これらのB-25は真珠湾しんじゅわんはこぶ」ということにされた[16]。ミッチャーのもとには、キングから「ホーネット」の初陣ういじんいわ電報でんぽうとどいた[18]

4がつ2にち、ホーネットはだい18任務にんむ部隊ぶたいじゅう巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかん給油きゅうゆかんとともにサンフランシスコを出撃しゅつげきし、出港しゅっこうしてしばらくったのちにミッチャーは艦内かんない放送ほうそう東京とうきょう奇襲きしゅう公表こうひょうし、護衛ごえいしょかんにも信号しんごう東京とうきょう奇襲きしゅうつたえた[19]東京とうきょう奇襲きしゅうらされた乗組のりくみいん歓声かんせいげて士気しきたかまり、4がつ13にちには掩護えんごやくウィリアム・ハルゼー中将ちゅうじょうひきいるだい16任務にんむ部隊ぶたいミッドウェーとう北方ほっぽう合流ごうりゅうして B-25 の発進はっしん予定よてい地点ちてんへと急行きゅうこうする[20]当初とうしょ予定よていでは、ジミー・ドーリットル陸軍りくぐん中佐ちゅうさひきいるB-25は東京とうきょう夜間やかん奇襲きしゅうするはずになっていたが、4がつ18にち未明みめい特設とくせつ監視かんしていだいじゅうさんにち東丸ひがしまる日東にっとう漁業ぎょぎょう、90トン)などに発見はっけんされたことによって、日本にっぽんがわ察知さっちされたことをさとったハルゼーは夜間やかん奇襲きしゅう昼間ひるま強襲きょうしゅうえざるをえなかった[21]。ハルゼーはミッチャーに緊急きんきゅうメッセージを打電だでんし、ドーリットルはミッチャーと握手あくしゅをして部下ぶかとともに B-25 にみ、順次じゅんじホーネットから離陸りりくしていった[22]。「ホーネット」のだい18任務にんむ部隊ぶたいだい16任務にんむ部隊ぶたいとともにただちにひがしかい、4がつ25にち真珠湾しんじゅわん帰投きとうした[23][24]あいだもなく、「ホーネット」はだい16任務にんむ部隊ぶたい指揮しきはいり、4がつ30にち真珠湾しんじゅわん出撃しゅつげきして珊瑚さんごうみ急行きゅうこうするが、5月8にち珊瑚さんごうみ海戦かいせんにはわず、ナウル方面ほうめん行動こうどうして5がつ26にち真珠湾しんじゅわん帰投きとうする[25]

ミッチャーは5月31にちづけ少将しょうしょう昇進しょうしんし、本来ほんらいなら「ホーネット」艦長かんちょうりることとなっていたが、後任こうにんのチャールズ・P・メイソン大佐たいさ艦長かんちょうとしての技量ぎりょう十分じゅうぶんでないと判断はんだんされたため、ホーネットの指揮しきつづきミッチャーがることとなった[24]状況じょうきょうまぐるしくわる。ハルゼーが皮膚ひふびょう悪化あっかさせてだい16任務にんむ部隊ぶたい指揮しきをスプルーアンス少将しょうしょうゆだねることとなり[26][27]暗号あんごう解読かいどくによりミッドウェーとう日本にっぽん艦隊かんたいせてくるであろうと判断はんだんされた。ホーネットはつづだい16任務にんむ部隊ぶたいいちかんとして、フランク・J・フレッチャー少将しょうしょうだい17任務にんむ部隊ぶたいとともに真珠湾しんじゅわん出撃しゅつげきしてミッドウェーとう近海きんかいへと急行きゅうこうする。このときこったミッドウェー海戦かいせんで、アメリカ艦隊かんたい日本にっぽん艦隊かんたいちのめして戦争せんそうながれを決定的けっていてきにひっくりかえしたが、そのだい勝利しょうりかげでミッチャーと、ハルゼーにわってだい16任務にんむ部隊ぶたい指揮しきするスプルーアンスとのあいだですれちがいがきる。

アメリカがわ偵察ていさつ日本にっぽん艦隊かんたい発見はっけんしたことにより、りょう任務にんむ部隊ぶたい次々つぎつぎ艦載かんさい発進はっしんさせる。「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)に座乗ざじょうするスプルーアンスは、フレッチャーのだい17任務にんむ部隊ぶたい視界しかいないになかったので、ミッチャーにたいして「ホーネット」を自己じこ視界しかいないまらせるよう信号しんごうおく[28]りょう任務にんむ部隊ぶたいから発進はっしんした艦載かんさいとく連携れんけいすることもなく日本にっぽん艦隊かんたいさがもとめ、「ヨークタウン」と「エンタープライズ」の艦載かんさいには幸運こううんおとずれて南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょうひきいるだいいち航空こうくう艦隊かんたい空母くうぼ絶望ぜつぼうてき打撃だげきあたえたが[29]、「ホーネット」の艦載かんさい大半たいはん日本にっぽん艦隊かんたい発見はっけんできず、だいいち航空こうくう艦隊かんたい接触せっしょくしつつあっただい8雷撃らいげきたい(VT-8)は唯一ゆいいつ生存せいぞんしゃであるジョージ・H・ゲイ・ジュニア英語えいごばん少尉しょういのこして全滅ぜんめつし、SBD ドーントレス半数はんすう燃料ねんりょう不足ふそくうみぼっさせてしまった。戦闘せんとうたいは10すべてが燃料ねんりょうれとなり、2めいのパイロットがうしなわれた。残存ざんそんはミッドウェーとう経由けいゆして「ホーネット」にかえってきた[30]

だいいち航空こうくう艦隊かんたい唯一ゆいいつ健在けんざいだった「りゅう」の艦載かんさいが「ヨークタウン」に打撃だげきあたえ、フレッチャーは「スプルーアンス」に任務にんむ部隊ぶたい指揮しき全権ぜんけん委譲いじょう。スプルーアンスは「ヨークタウン」ののこりの航空機こうくうきり、再度さいど攻撃こうげきける体制たいせいつくげたが、ここにいたって錯誤さくごしょうじる。健在けんざいだった「ヨークタウン」の索敵さくてきりゅうふく日本にっぽん艦隊かんたい発見はっけんして通報つうほうし、スプルーアンスはこれをけてだい攻撃こうげきたい発進はっしんめいじる[31]。しかし、スプルーアンスの幕僚ばくりょうがミスをおかし、攻撃こうげき命令めいれい伝達でんたつされていなかったばかりか、あやまった敵情てきじょうつたえていた[31]。ミッチャーのもとにも攻撃こうげき命令めいれいとどいてなく、「エンタープライズ」がだい攻撃こうげきたい発進はっしんさせている光景こうけいをただていただけだった[31]おくればせながら幕僚ばくりょうただしい命令めいれいつたえ、「ホーネット」もだい攻撃こうげきたい発進はっしんさせることができた[31]。このだい攻撃こうげきたいは「りゅう」に痛恨つうこんいちげきあたえて、ここにだいいち航空こうくう艦隊かんたい壊滅かいめつした。ところが、「ホーネット」の攻撃こうげきたい一部いちぶ早々そうそう帰還きかんしてくるのをてスプルーアンスはくびをかしげる[32]。これが、命令めいれいはんした装備そうびおこなったがために燃料ねんりょう搭載とうさいりょうらした結果けっかであることをったスプルーアンスはだいいち攻撃こうげきたいけんふくめて、ミッチャー本人ほんにん、および「ホーネット」そのものにたいして「失望しつぼうねんをますますつよくした」[32]翌日よくじつ、スプルーアンスは追撃ついげきおこない、だいなな戦隊せんたい栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう)のじゅう巡洋艦じゅんようかん最上さいじょう」と「さんくま」にだい打撃だげきあたえて「さんくま大破たいはのち沈没ちんぼつ、「最上さいじょう大破たいは戦果せんかげた。

海戦かいせんわり、スプルーアンスは個々ここ評価ひょうか採点さいてんする。そして、ミッチャーにたいする評価ひょうかは、とおまわしな表現ひょうげんながら「適切てきせつ行動こうどうをとらなかった」として批判ひはんした[33]。スプルーアンスによるミッチャー批判ひはんはおおよそつぎてん集約しゅうやくされた[34]

  • 「ホーネット」の急降下きゅうこうか爆撃ばくげきたい日本にっぽん空母くうぼ攻撃こうげきしなかったため、「ヨークタウン」をうしなった。もし攻撃こうげきできていれば、ヨークタウンは喪失そうしつしなかっただろう。
  • ミッチャーは、「急降下きゅうこうか爆撃ばくげきたいぜん500ポンドばくだん携行けいこうして出撃しゅつげきした」と報告ほうこくしたが、それは事実じじつではなかった。実際じっさいには1000ポンドばくだん携行けいこうしたばくげきなんかあったことをこちらはっているが、ミッチャーは事実じじつとはちが報告ほうこくしている。
  • 以上いじょうのことから、「ホーネット」の報告ほうこく正確せいかくせいくものがふくまれている。

著述ちょじゅつのトーマス・B・ブュエルは、一連いちれん錯誤さくごとスプルーアンスによるミッチャー非難ひなんについて、つぎのようにひょうしている。

スプルーアンスが、ミッチャーにたいしてこのようなかんがえをったことは不幸ふこうなことであった。(りゃくかれはこのパイロット出身しゅっしんのミッチャーにたいしてしんなかから偏見へんけんいだくことになったからである。 — トーマス・B・ブュエル、『提督ていとくスプルーアンス』241ページ

スプルーアンスは海戦かいせんの6がつ18にちづけ太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかんチェスター・ニミッツ大将たいしょう参謀さんぼうちょうとなり[35]、ミッチャーもまた6がつ30にちに、「ホーネット」の艦長かんちょう任務にんむをメイソンにゆずった。「ホーネット」がサンタクルーズ諸島しょとうで10がつ26にちうしなわれる4カ月かげつまえのことであった。ミッドウェーでのちがいが解消かいしょうされ2人ふたり和解わかいするには、多少たしょう時間じかんようすることとなった。

ソロモン諸島しょとう航空こうくう指揮しきかん[編集へんしゅう]

ミッチャーは12月までハワイ方面ほうめんだい2偵察ていさつ航空こうくうだん指揮しきかんつとめたのち、12月23にちからはヌメア艦隊かんたい航空こうくうだん指揮しきかん就任しゅうにんする。そして、1943ねん2がつソロモン諸島しょとう方面ほうめん航空こうくう指揮しきかん就任しゅうにんする。部隊ぶたい陸軍りくぐん航空こうくうたい海軍かいぐん航空こうくうたい海兵かいへいたい航空こうくうだん、ニュージーランド空軍くうぐん混成こんせいで、連携れんけい環境かんきょうもよくなく士気しきひくかった[36]。ミッチャーはまず、これらまけめん徹底的てっていてき改善かいぜんして部隊ぶたい環境かんきょうととのえた[36]ガダルカナルとうから日本にっぽんぐん撤退てったいしたあとでだい規模きぼ戦闘せんとうがあまりなかった時期じきではあったが制空権せいくうけんあらそいは依然いぜんおこなわれており、ミッチャーが部隊ぶたい着任ちゃくにんした2がつには「せいバレンタインデーの虐殺ぎゃくさつ」にたとえられた一方いっぽうてき敗戦はいせんもあった[37][注釈ちゅうしゃく 6]。それでも部隊ぶたい環境かんきょう改善かいぜん結果けっか次第しだい戦果せんかかさねるようになり、ミッチャーはこれにこたえるべくウイスキーを勲功くんこうあきらわりとして、戦果せんかげた部隊ぶたいさづけたりもした[36]

ソロモン時代じだいのハイライトは、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょうじょう撃墜げきついしたいちけんである。日本にっぽんがわ暗号あんごう解読かいどくしたニミッツ以下いか太平洋艦隊たいへいようかんたいは、フランク・ノックス海軍かいぐん長官ちょうかんフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう仔細しさい転送てんそうしたうえ山本やまもと許可きょかて、許可きょかはハルゼーからミッチャーのした転送てんそうされた[38][39]。ミッチャーは主要しゅよう幕僚ばくりょう招集しょうしゅうして山本やまもと計画けいかく細部さいぶられ、選抜せんばつされたパイロットたちによって山本やまもとられ、日本にっぽんおおきな衝撃しょうげきあたえた。

山本やまもとったあと、つぎなるたたかいは中部ちゅうぶソロモン諸島しょとうはじまった。日本にっぽんぐん前進ぜんしん基地きちのあるムンダ (ソロモン諸島しょとう)ゆうするニュージョージアとうたたか中心ちゅうしんとして、うみそらにと攻防こうぼうせんひろげられる。しかし、そんな最中さいちゅうにミッチャーのソロモンでの任務にんむ突然とつぜんわりをげる。ヘンダーソン飛行場ひこうじょうにある司令しれい着任ちゃくにんしてやく5カ月かげつ、「酷暑こくしょたか湿度しつどとともに、ない精神せいしんてき緊張きんちょう」はミッチャーの健康けんこう状態じょうたいそこねることとなった[40]めはマラリア感染かんせんしたことで、4つの悪条件あくじょうけんかさなってミッチャーの体重たいじゅうは52キロにまでちていた[40]。ミッチャーの健康けんこう状態じょうたい憂慮ゆうりょしたハルゼーは、ミッチャーに休暇きゅうかあたえるよう要求ようきゅうし、太平洋艦隊たいへいようかんたいはこれにこたえてミッチャーをサンディエゴの西海岸にしかいがん艦隊かんたい航空こうくうだん指揮しきかん就任しゅうにんさせた[40]部隊ぶたい後事こうじネーサン・トワイニング陸軍りくぐん少将しょうしょうたくしたミッチャーはサンディエゴにかい[40]、1944ねん1がつまでそのにんにあたった。サンディエゴでのミッチャーはそのポジションが名目めいもくだけ閑職かんしょく[40]だったせいもあってか、ほとんどの期間きかんやスポーツにきょうじていたが、これは「自由じゆうのままとし、できるかぎりはや健康けんこう回復かいふくさせること」という非公式ひこうしき命令めいれい太平洋艦隊たいへいようかんたいからサンディエゴにとどいていたからであった[40]

はなしすこしさかのぼり、合衆国がっしゅうこく艦隊かんたいは5月15にちかく任務にんむ部隊ぶたい規模きぼ艦隊かんたい規模きぼ拡張かくちょうして、番号ばんごうった[41]以後いご、ハルゼーの南太平洋みなみたいへいよう部隊ぶたいだい3艦隊かんたいとなり、同様どうよう中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう部隊ぶたいだい5艦隊かんたいとなった[42]。この時点じてんおも日本にっぽん海軍かいぐん対決たいけつしていたのはだい3艦隊かんたいであったが、キングやニミッツは、将来しょうらい展開てんかいされる作戦さくせん中核ちゅうかくだい5艦隊かんたいかんがえていた[43]。そして、だい5艦隊かんたい中心ちゅうしんすのは続々ぞくぞく建造けんぞうされるエセックスきゅう航空こうくう母艦ぼかんインディペンデンスきゅう航空こうくう母艦ぼかんアイオワきゅう戦艦せんかんなどの新鋭しんえいかんであった。ニミッツはだい5艦隊かんたいのトップを慎重しんちょう検討けんとうしたすえ自身じしん参謀さんぼうちょうだったスプルーアンスを中将ちゅうじょう昇進しょうしんさせてえることにした[44]艦隊かんたい中核ちゅうかくだい3空母くうぼ部隊ぶたいのトップには、ニミッツの選定せんていでミッチャーと同期どうきのパウナルが就任しゅうにんしたが[45]、パウナルのまえしょく西海岸にしかいがん艦隊かんたい航空こうくうだん指揮しきかん[46]、ミッチャーはパウナルの後任こうにんだった。一連いちれん人事じんじは8がつ5にちと6にち発令はつれいされ[46]、パウナルはだい3空母くうぼ部隊ぶたいひきいて南鳥島みなみとりしまウェークとうタラワ攻撃こうげきした[46]一種いっしゅの「おため期間きかん」を空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい運用うんようかんするデータを蓄積ちくせきしたあと、11月のガルヴァニック作戦さくせんや12月のクェゼリン攻撃こうげきなども、多少たしょう損害そんがいがあったものの作戦さくせん運用うんようおおむ成功せいこうした。他方たほうだい3艦隊かんたいでも、唯一ゆいいつ手元てもとにあった「サラトガ」を中心ちゅうしんだい38任務にんむ部隊ぶたい編成へんせいし、そのトップには、これまたミッチャーと同期どうきのF・C・シャーマンが就任しゅうにんして11月2にちラバウル空襲くうしゅうなどを成功せいこうさせていた。

だい58任務にんむ部隊ぶたい・マーシャル[編集へんしゅう]

ところが、クェゼリン攻撃こうげきのあとにパウナルは司令しれいかんから更迭こうてつされる。そもそものはじまりは「南鳥島みなみとりしま攻撃こうげきでは反撃はんげきおそれがなかったにもかかわらず、パイロット救助きゅうじょ任務にんむ潜水せんすいかんまるげして即座そくざに避退した」[47]とか、「タラワ攻撃こうげきでは、さい攻撃こうげきすべきとの進言しんげん退しりぞけて避退した」[46]とか、挙句あげくてには「機動きどう部隊ぶたいひきいること後悔こうかいした発言はつげんをした」[48]などというはなし上層じょうそうに「ご注進ちゅうしん」されていたが、その「ご注進ちゅうしんさきひとつが海軍かいぐん航空こうくうのクラウンプリンスだったタワーズだった[48]。1942ねん10がつ以来いらい、ハワイの太平洋たいへいよう航空こうくう部隊ぶたい司令しれいかん[注釈ちゅうしゃく 7]つとめたタワーズは、だい5艦隊かんたい創設そうせつにその指揮しきかんつよのぞんだがかなわなかった[46]。「ご注進ちゅうしん」をったタワーズは、ニミッツにたいしてパウナルの更迭こうてつ進言しんげんしたのである[49]。12月まつ、ニミッツはタワーズ、太平洋艦隊たいへいようかんたい参謀さんぼうちょうチャールズ・マクモリス少将しょうしょうどう艦隊かんたい作戦さくせん参謀さんぼうフォレスト・シャーマン少将しょうしょう協議きょうぎおこない、スプルーアンスになにらせずパウナル更迭こうてつ決定けっていして、その後任こうにんとしてミッチャーをえた[48][49]

この決定けっていにスプルーアンスはいかりをせた[49]。スプルーアンスはパウナルの一連いちれんはたらきには満足まんぞくしており[49]、その後任こうにんがミッドウェーのいちけん以来いらいきらっていたミッチャーだったのがわなかった[50]。スプルーアンスは、この更迭こうてつげきがタワーズやその一派いっぱによる陰謀いんぼうだともみなしており、もともときらっていたタワーズをいっそうにくんだ[50]。この決定けってい不満ふまんをあらわにした提督ていとくがもう一人ひとりいた。ミッチャーと同期どうきのF・C・シャーマンであった。F・C・シャーマンは日記にっきつぎのようにしるす。

航空こうくう作戦さくせんはミッチャーの指揮しきとなり、みっつの任務にんむ部隊ぶたい(タスク・グループ)に分割ぶんかつされた。ミッチャーもパウノールも、だい規模きぼ任務にんむ部隊ぶたい指揮しきするには経験けいけん不足ふそく。スプルーアンスは航空こうくう部隊ぶたい指揮しきする能力のうりょくがなく、幕僚ばくりょう使つかかた下手へただ。運用うんようかんしては先任せんにんしゃたちよりも経験けいけん豊富ほうふ自分じぶんがこの地位ちいけるとおもっていたが、これをよくっているかれらは嫉妬しっとしんっている。この配置はいちでは自分じぶん出番でばんはないようにおもう。 — フレデリック・C・シャーマン、1944ねん2がつ2にち日記にっきたに光太郎こうたろうべいぐん提督ていとく太平洋戦争たいへいようせんそう』434ページ

F・C・シャーマンあん却下きゃっかされたのは、タワーズがF・C・シャーマンを「自己じこ中心ちゅうしんてき」などとしてひく評価ひょうかしかあたえていなかったのが理由りゆうひとつであった[51]

ともかく、ミッチャーははじめて任務にんむ部隊ぶたいひきいることとなった。しかし、スプルーアンスは航空こうくうせん助言じょげんしゃとしてミッチャーではなく、太平洋艦隊たいへいようかんたいふく司令しれいかんになったタワーズにわって太平洋たいへいよう航空こうくう部隊ぶたい司令しれいかん就任しゅうにんしたパウナルをもちいた[52]任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんとしての初陣ういじんクェゼリンのたたか掩護えんごだったが、エニウェトクのたたか支援しえん作戦さくせんであるトラックとう空襲くうしゅうでは、空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたいふくめたぜん艦隊かんたい指揮しきをスプルーアンスが事実じじつじょう仕切しきったため、あまりまくがなかった[53]。これはミッチャーとスプルーアンスの確執かくしつ原因げんいんではなく、トラック諸島しょとうからてくるであろう日本にっぽん艦隊かんたいみずからのはたきたいというスプルーアンスの希望きぼうによるものだった[53]。それでもミッチャーの艦載かんさいは、トラック諸島しょとうない日本にっぽん艦船かんせんをほとんどはたきのめして、重要じゅうよう基地きちとしての価値かち事実じじつじょうこと成功せいこうした。

ところで、ここまでのたたかいのなかで、スプルーアンスはこれまで嫌悪けんおしていたミッチャーのたたかいぶりにかんする認識にんしきを、根本こんぽんてきあらためはじめるようになった[54]。トラックとう空襲くうしゅうのあと、後顧こうこうれいをつためマリアナ諸島しょとうにある日本にっぽん航空こうくう基地きち奇襲きしゅうする(マリアナ諸島しょとう空襲くうしゅう)ことをニミッツが提案ていあんしたが、スプルーアンスとミッチャーの意見いけんはじめて一致いっちし、さらにスプルーアンスは奇襲きしゅう作戦さくせん全権ぜんけんをミッチャーにたくした[55]。ミッチャーは任務にんむ部隊ぶたいひきいてマリアナ近海きんかい急行きゅうこうし、「てき発見はっけんされた」という電文でんぶんでスプルーアンスをあわてさせたものの、奇襲きしゅう完全かんぜん成功せいこうしてマリアナ諸島しょとう日本にっぽん航空こうくう基地きちおおいにその価値かちげんじた[56]。ミッチャーの任務にんむ部隊ぶたい指揮しきかんとしての初陣ういじん周囲しゅういからのねたみや反感はんかんなどもあったが、結果けっかてきには「きわめて巧妙こうみょうかつ積極せっきょくてきであり、有能ゆうのう指揮しきかんであることを立証りっしょう」したうえで、「空母くうぼ部隊ぶたいのもつちから機動きどうりょくとを最大限さいだいげん発揮はっきしてみせた」[57]たたかいのあと、パウナルは助言じょげんしゃ役目やくめえて真珠湾しんじゅわんへとうつっていった[58]。このあと、ミッチャーは3がつ21にちづけ中将ちゅうじょう昇進しょうしんし、立場たちばだい3空母くうぼ部隊ぶたい司令しれいかんから太平洋艦隊たいへいようかんたい高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんとなった。任務にんむ部隊ぶたい名称めいしょうも「だい58任務にんむ部隊ぶたい」に固定こていされるようになった。また、参謀さんぼうちょうとして「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク少将しょうしょう就任しゅうにんする。これは「主要しゅよう艦隊かんたい指揮しきかん水上すいじょうかん出身しゅっしんしゃであれば参謀さんぼうちょう航空こうくう出身しゅっしんしゃ指揮しきかん航空こうくう出身しゅっしんしゃなら参謀さんぼうちょう水上すいじょうかん出身しゅっしんしゃ」という、1944ねん1がつ同意どういされた原則げんそくもとづくものだった[59]。もっとも、ミッチャーは当初とうしょ水上すいじょうかん出身しゅっしんのバークが参謀さんぼうとしてあてがわれたことを、よくはおもっていなかった[60]

なお、パウナル更迭こうてつげきのあった1943ねん12がつごろ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん艦隊かんたい司令しれいだい5艦隊かんたいだい3艦隊かんたい交互こうご指揮しきさせるプランが創出そうしゅつされ、スプルーアンスとミッチャーのわせがまったあと、ハルゼーのした空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい指揮しきもの選定せんていおこなわれた[61]。ミッチャーは、同期どうき自身じしん任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかん就任しゅうにん不満ふまんべていたF・C・シャーマンを推薦すいせんして、ラバウル空襲くうしゅう上官じょうかんだったハルゼーも支持しじしたが、キングが独断どくだん子飼こがいのジョン・S・マケイン・シニア少将しょうしょう選定せんていし、F・C・シャーマンはふたたまされた[62]。ただし、タワーズと同期どうきのマケインが正式せいしきだい二高速空母任務部隊司令官となるのは、1944ねん8がつ5にちのことである[63]。F・C・シャーマンはだい1空母くうぼ任務にんむぐん司令しれいかんとなった[63]

だい58任務にんむ部隊ぶたい・パラオからマリアナ[編集へんしゅう]

空母くうぼ「レキシントン」でのミッチャー(1944ねん6がつ

3月23にち[64]、ミッチャーひきいるだい58任務にんむ部隊ぶたいパラオカロリン諸島しょとう打撃だげきあたえるために出撃しゅつげきする。3月30にちから31にちにかけてのパラオだい空襲くうしゅうふたたおおくの日本にっぽん艦船かんせん打撃だげきあたえたあと、4がつにはニューギニア沿岸えんがんダグラス・マッカーサー陸軍りくぐん大将たいしょうひきいる部隊ぶたい支援しえんおこなう。6月にはいるとマリアナ諸島しょとう攻略こうりゃく先立さきだって、指揮しき任務にんむぐんにマリアナ諸島しょとう硫黄いおうとう小笠原諸島おがさわらしょとう日本にっぽんぐん航空こうくう基地きちいまいちたたかせた。さいわいなことに、このころにはスプルーアンスはミッチャーを信頼しんらいするようになり、戦闘せんとうかんしてもおおきな権限けんげんあたえるようになっていた[65]。ミッドウェー以来いらいつづいた確執かくしつは、ほぼ2ねんってったのである。もっとも、マリアナ諸島しょとうをめぐるたたかいのなかこった6がつ19にちから20日はつかにかけてのマリアナおき海戦かいせんでは小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょうひきいるだいいち機動きどう艦隊かんたいたいして薄暮はくぼ攻撃こうげき仕掛しかけ、空母くうぼたか」を撃沈げきちんして「みずづる」にはじめての損傷そんしょうあたえる戦果せんかげたものの、6月19にちかぎってはスプルーアンスが、ミッチャーの進言しんげんした西進せいしんさく却下きゃっかして慎重しんちょうさく採用さいようしたため、この護衛ごえい戦闘せんとうが「七面鳥しちめんちょうり」にいそしんだだけだった[66]。アンチ・スプルーアンスの連中れんちゅうはこのことを批判ひはんしたが、キングやニミッツはスプルーアンスの慎重しんちょうさく擁護ようごした[67]

だい38任務にんむ部隊ぶたい・フィリピン[編集へんしゅう]

マリアナのたたかいがアメリカの勝利しょうりすると、だい5艦隊かんたいだい3艦隊かんたい交替こうたいして司令しれい休養きゅうようはいることとなった。しかし、ミッチャーは3カ月かげつあいだ限定げんてい高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかん地位ちいからうごかなかった。だい3艦隊かんたいでのだい二高速空母任務部隊司令官に内定ないていしていたマケインの技量ぎりょう十分じゅうぶんではなかったため、マケインにだい38.1任務にんむぐんあたえて「研修けんしゅう期間きかん」としたためである[63][68]だい5艦隊かんたいだい3艦隊かんたい交替こうたいは8がつ26にちづけおこなわれたが[68]、ミッチャーはきた硫黄いおうとう攻撃こうげきみなみはパラオ攻撃こうげき転戦てんせん最中さいちゅうであった[69]。9月11にちにハルゼーの旗艦きかんである戦艦せんかんニュージャージー」(USS New Jersey, BB-62)が、だい58任務にんむ部隊ぶたいから名前なまえだけてんじただけのだい38任務にんむ部隊ぶたい合流ごうりゅうし、ハルゼーはミッチャーの旗艦きかんである空母くうぼレキシントン」(USS Lexington, CV-16)を訪問ほうもんして会談かいだんをもった[69]会談かいだんでミッチャーはハルゼーに「ミンダナオ島みんだなおとう攻撃こうげき時間じかん浪費ろうひだった」とうったえ、ハルゼーはこの一言ひとことにヒントをレイテ島れいてとう奪還だっかん上層じょうそう進言しんげんし、これまでの進撃しんげき計画けいかく修正しゅうせいされてレイテ島れいてとう奪還だっかんまった[70]。ハルゼーもまた、スプルーアンスと同様どうよう高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい全権ぜんけんをミッチャーにゆだね、自身じしん目標もくひょう選定せんていなどにてっした[71]。10月にはいって、ミッチャーのだい38任務にんむ部隊ぶたい沖縄おきなわへの空襲くうしゅう、これにたいする日本にっぽんがわ反撃はんげきおよびルソン島るそんとう攻撃こうげきて10がつ20日はつかからのレイテ島れいてとうたたかおよび、レイテおき海戦かいせんたたかうが、連戦れんせん影響えいきょうによるものか、ミッチャーの健康けんこう状態じょうたいふたた下降かこうせんしかかろうとしていた[72]。ミッチャー自身じしんはむしろ、乗組のりくみいん反応はんのう次第しだいわるくなっていっていること懸念けねんしていた[72]。10月下旬げじゅんウルシー環礁かんしょうでの休養きゅうよう計画けいかくされたが、栗田くりた日本にっぽん艦隊かんたい出現しゅつげんしてきたことによって計画けいかく中止ちゅうしされた[73]海戦かいせんでは「みずづる」、戦艦せんかん武蔵むさし」などを撃沈げきちんして連合れんごう艦隊かんたい崩壊ほうかいさせたが、その最中さいちゅうの10がつ24にちには、F・C・シャーマンのだい38.3任務にんむぐん反撃はんげきけて空母くうぼプリンストン」が炎上えんじょうする。こともあろうに、ミッチャーの旗艦きかん「レキシントン」はだい38.3任務にんむぐんぞくしていたため、栗田くりた艦隊かんたいへの攻撃こうげき支障ししょう[74]。「プリンストン」は最終さいしゅうてきに、その火災かさい夜間やかん攻撃こうげき目印めじるしとなることを危惧きぐしたミッチャーのいのちによって処分しょぶんされた[75]海戦かいせんの10がつ30にちだい38・3任務にんむぐんはウルシーに帰投きとうし、ミッチャーはマケインに高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかん権限けんげん委譲いじょうして休養きゅうようはいり、高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんとしての最初さいしょたたかいをえた[76]

だい58任務にんむ部隊ぶたい硫黄いおうとう沖縄おきなわ[編集へんしゅう]

じゅう巡洋艦じゅんようかんインディアナポリス艦上かんじょうにて。ひだりからスプルーアンス、ミッチャー、ニミッツ、ウィリス・A・リー(1945ねん2がつ

1945ねん1がつ休養きゅうよう次期じき作戦さくせん検討けんとうえたスプルーアンス以下いかだい5艦隊かんたい司令しれい戦線せんせん復帰ふっきした。高速こうそく空母くうぼ任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんとしてふたただい58任務にんむ部隊ぶたい指揮しきはじめたミッチャーは、硫黄いおうとうたたか支援しえんおよび、その掩護えんごとしての関東かんとう地方ちほうへの空襲くうしゅうおこなう。ドーリットル空襲くうしゅう以来いらいやく2ねんぶりに空母くうぼからの空襲くうしゅうおこなうにさいして、ミッチャーはバークと協議きょうぎしててき味方みかた区別くべつ容易ようい判断はんだんできるちゃくかん方法ほうほう考案こうあんし、また夜間やかん戦闘せんとう搭載とうさいした空母くうぼ帯同たいどうさせて、すきをうかがおうとする日本にっぽんはらおうとかんがえた[77]。このジャンボリー作戦さくせんしょうする攻撃こうげき事実じじつじょう奇襲きしゅうとなり、東京とうきょうはじめとする関東かんとう地方ちほう日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう中島なかじま飛行機ひこうき工場こうじょう沿岸えんがん艦船かんせん防御ぼうぎょ陣地じんち命中めいちゅうだんあたえた[78]一連いちれん掩護えんごえたあと、スプルーアンスはミッチャーに意見いけんもとめ、ミッチャーはこれにたいして日本にっぽん本土ほんど沖縄諸島おきなわしょとうへの攻撃こうげきもとめて許可きょかされたが[79]攻撃こうげきは2がつちゅうにはおこなわれなかった。だい58任務にんむ部隊ぶたい次期じき作戦さくせんそなえてウルシーに帰投きとうして整備せいびおこなう。3月11にちよる、ミッチャーとバークは旗艦きかんであった「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-17)の艦隊かんたい指揮しきしょにおり、バークが僚艦りょうかんランドルフ」(USS Randolph, CV-15)をながめていたところ、あずさ特別とくべつ攻撃こうげきたい銀河ぎんがのうちの1が「ランドルフ」の飛行ひこう甲板かんぱん後部こうぶ命中めいちゅうするのを目撃もくげきした[80]。これがはじめて神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいであり、以後いごなんもつきあわされることとなる[80]

3がつ中旬ちゅうじゅん、ミッチャーのだい58任務にんむ部隊ぶたい沖縄おきなわおよび九州きゅうしゅう近海きんかいけて出撃しゅつげきする。3月19にち九州きゅうしゅうおき航空こうくうせん空母くうぼフランクリン」(USS Franklin, CV-8)が大破たいはし、これは「戦争せんそう最後さいご段階だんかいにおけるもっとはげしい戦闘せんとうはじまりを象徴しょうちょうしているようだった」[81]。4月1にちからはじまった沖縄おきなわせんでのミッチャーのたたかいで、最初さいしょ山場やまば早々そうそうおとずれた。4月6にち菊水きくすいいちごう作戦さくせん呼応こおうし、戦艦せんかん大和やまと」を中心ちゅうしんとする伊藤いとう整一せいいち中将ちゅうじょうだい艦隊かんたい瀬戸内海せとないかい出撃しゅつげきして沖縄おきなわ進撃しんげきしていた。豊後水道ぶんごすいどう配備はいびされていた潜水せんすいかんスレッドフィン」(USS Threadfin, SS-410)と「ハックルバック」(USS Hackleback, SS-295)が相次あいついでだい艦隊かんたい発見はっけんして通報つうほうする。通報つうほうけたスプルーアンスは、ミッチャーにたいして艦隊かんたい監視かんしするようめいじ、かんほう射撃しゃげき担当たんとうしていただい54任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんモートン・L・デヨ少将しょうしょう艦隊かんたい迎撃げいげき命令めいれい[82]。デヨはだい艦隊かんたい対決たいけつする艦艇かんてい抽出ちゅうしゅつ作戦さくせん会議かいぎわれた[83]。ところで、この時点じてんでスプルーアンスはミッチャーの位置いちらず[82]、また、ミッチャーもスプルーアンスとデヨの会話かいわ傍受ぼうじゅしていた[84]手柄てがらを「横取よこどり」[84]するがあったかどうかは不明ふめいだが、マリアナ以来いらいスプルーアンスからおおきな権限けんげんあたえられていたミッチャーは、スプルーアンスの腹積はらづもりなどとは関係かんけいなく自分じぶんたたかいに専心せんしんした。ミッチャーはだい58任務にんむ部隊ぶたい西進せいしんさせ、索敵さくてきす。4月7にちあさ、「エセックス」(USS Essex, CV-9)の索敵さくてき西にしこうするだい艦隊かんたい発見はっけんしたが[84]、その位置いち沖縄おきなわではなく佐世保させぼかってもおかしくない位置いちだった[85]。ミッチャーはここでスプルーアンスに、だい艦隊かんたい攻撃こうげき自分じぶんがすべきかデヨがすべきかい、スプルーアンスはこれにたいして「部隊ぶたいにおいて攻撃こうげきされたい」と返答へんとうした[82]返答へんとうまえにミッチャーは順次じゅんじ攻撃こうげきたい発進はっしんさせたが、このときイギリス海軍かいぐん観戦かんせん武官ぶかんからだい艦隊かんたい正確せいかく位置いちがはっきりしないまま攻撃こうげきたい発進はっしんさせたことをわれたミッチャーは、自分じぶんぎゃく立場たちばならとおっているだろう位置いちおくしたとこたえた[86]だい58任務にんむ部隊ぶたい波状はじょう攻撃こうげきにより「大和やまと」やけい巡洋艦じゅんようかんはぎ」、いくつかの駆逐くちくかん沈没ちんぼつし、日本にっぽん海軍かいぐん事実じじつじょう崩壊ほうかいした(坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん)。「大和やまと撃沈げきちんほういたデヨは、スプルーアンスのしたんで「ミッチャー中将ちゅうじょう命令めいれい違反いはんであります」ともう抗議こうぎしたが[86]、ミッチャーはミッチャーで、「大和やまと」を航空機こうくうき撃沈げきちんすることは「アメリカ海軍かいぐん将来しょうらい航空こうくう戦力せんりょくにかかっていることを証明しょうめいすることにもつながるとかんがえていた。」[87]。「大和やまと」を撃沈げきちんしても、神風かみかぜ洗礼せんれいつづいた。洗礼せんれいけたのは戦艦せんかん空母くうぼ巡洋艦じゅんようかんからした神風かみかぜ接近せっきん探知たんちするレーダーピケットかんまで様々さまざまだった。駆逐くちくかんマナート・L・エベール」(USS Mannert L. Abele, DD-733)は新手あらて神風かみかぜ桜花おうか」で撃沈げきちんされた。そして、その洗礼せんれいをミッチャーが間近まぢかけるがやってくる。

最後さいごたたか[編集へんしゅう]

特攻とっこうけて炎上えんじょうする「バンカー・ヒル」(1945ねん5がつ11にち
特攻とっこうけて前部ぜんぶエレベーターがんだ瞬間しゅんかんの「エンタープライズ」(1945ねん5がつ14にち

5月11にち、ミッチャーは「バンカー・ヒル」の艦上かんじょうで、戦闘せんとう海域かいいき到着とうちゃくしてから59にちあさむかえた[88]艦隊かんたい指揮しきしょ陣取じんどっていたが、それは日々ひび日課にっかみたいなものだった[89]午前ごぜん9ぎ、「バンカー・ヒル」ではあさ発進はっしんした攻撃こうげきたい収容しゅうようして、午後ごご発進はっしん予定よてい攻撃こうげきたいはつかん準備じゅんびおこなっていた[90]つぎ瞬間しゅんかん、「緑色みどりいろ航空機こうくうきさん突入とつにゅうするのがえた[91]警報けいほうけ、ミッチャーは周囲しゅういから説得せっとくされたすえてつヘルメット救命胴衣きゅうめいどういにつけ、艦隊かんたい指揮しきしょ椅子いすからはなれた[92]直後ちょくご神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいだいなな昭和しょうわたい所属しょぞく安則やすのりもりさん中尉ちゅういは「バンカー・ヒル」のだい3エレベーターよりすこ地点ちてんばくだん命中めいちゅうさせ、自身じしん命中めいちゅうする[93][94]。ただちに応急おうきゅう措置そちられたが、それから1ふんたないうちに、今度こんど安則やすのりおな神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいだいなな昭和しょうわたい所属しょぞく小川おがわきよし少尉しょうい飛行ひこう甲板かんぱん突入とつにゅうする[95]。その場所ばしょは、艦隊かんたい指揮しきしょから移動いどうしてきたミッチャーとバークからわずかに6メートルしかはなれていない場所ばしょ[96]小川おがわ破片はへんによりミッチャーの幕僚ばくりょう3めい下士官かしかんへい7めい戦死せんしした[97]直撃ちょくげきのがれたミッチャーはうみがわのキャットウォークにうつり、バークはけむかれた無線むせんしつから乗組のりくみいん救助きゅうじょしたあと、ミッチャーのしたけつける[97]大破たいはした「バンカー・ヒル」は通信つうしん手段しゅだんうしなわれ、僚艦りょうかんはミッチャーの安否あんぴすらることができなかった[98]。また、突入とつにゅうによりミッチャーの司令しれいかんよう個室こしつ私室ししつ粉砕ふんさいされ、衣類いるい文書ぶんしょもなくなってしまった[99][100]。しばらくするとミッチャーは、くらくなっていたもののかろうじてのこった艦隊かんたい指揮しきしょもどり、ふたた椅子いすすわってかん機器きき状態じょうたい調しらはじめた[101]。また、だい58任務にんむ部隊ぶたい指揮しきをF・C・シャーマンに一時いちじてき委譲いじょうさせた[102]。「バンカー・ヒル」ははげしく炎上えんじょうしたが、乗組のりくみいん僚艦りょうかん決死けっしはたらきにより午後ごごおそくには山場やまばえることができたが、完全かんぜん鎮火ちんかはしていなかった[102]。バークはのこった幕僚ばくりょう招集しょうしゅうし、駆逐くちくかんイングリッシュ」(USS English, DD-696)をせて移乗いじょう開始かいしする[103]。しかし、ミッチャーは火災かさいにより飛行ひこう甲板かんぱんられなかったので、艦橋かんきょうからがた救命きゅうめいブイで「イングリッシュ」にうつっていき、さらに「エンタープライズ」にうつってあたらしい旗艦きかんとした[104]

あらたに「エンタープライズ」にはたはたひるがえしたミッチャーではあったが、この「幸運こううんのE」[105]安住あんじゅうではなかった。5月14にち神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいだいろく筑波つくばたいはじめとするれいせん28攻撃こうげき仕掛しかけてくる[106]。そのおおくは戦闘せんとう対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされたが、だいろく筑波つくばたい隊長たいちょう富安とみやす俊助しゅんすけ中尉ちゅういのみは「エンタープライズ」めがけて突入とつにゅうしてくる[107]突入とつにゅう最後さいご瞬間しゅんかん、「エンタープライズ」では射手しゃしゅ以外いがい全員ぜんいん甲板かんぱんせるよう指示しじされたが、富安とみやす突入とつにゅう幕僚ばくりょうこすと、ミッチャーのみ依然いぜんとして甲板かんぱんじょうっていた[108]富安とみやすいちげきは「エンタープライズ」に再起さいき不能ふのう損傷そんしょうあたえ、その戦歴せんれきまくかせる結果けっかをもたらした[109]。ミッチャーはふたた旗艦きかん変更へんこうしなければならず、一旦いったん前線ぜんせんからがってから「ランドルフ」にうつっていった[110]

沖縄おきなわせん最中さいちゅうの5がつ27にち、ニミッツはだい5艦隊かんたいだい3艦隊かんたいえをおこな[111]だい58任務にんむ部隊ぶたいあらただい38任務にんむ部隊ぶたい指揮しきはマケインにゆずられた。沖縄おきなわせんでのやく2カ月かげつあいだ、ミッチャーはろくな休養きゅうようもなくだい58任務にんむ部隊ぶたい指揮しきつづけ、また相次あいつ神風かみかぜ特攻隊とっこうたい攻撃こうげきは、ミッチャーにすくなからぬ動揺どうようあたえていた[110]。そのせいか、ミッチャーは体重たいじゅうが45キロ以下いかとガリガリになるほど心身しんしん消耗しょうもうし、もはや周囲しゅういたすけなしでは舷側げんそく梯子はしごのぼることができなかった[112]戦艦せんかんミズーリ」(USS Missouri, BB-63)での事務じむ引継ひきつぎの会談かいだんでミッチャーとかおわせたハルゼーは、「ある骸骨がいこつのよう」なミッチャーの姿すがたにショックをけた[112]だい5艦隊かんたい将来しょうらいおこなわれるダウンフォール作戦さくせんのための準備じゅんび指示しじされたが[113]、そのスタッフのなかにミッチャーはいなかった。だい58任務にんむ部隊ぶたい指揮しきするだい一高速空母任務部隊司令官のしょくはF・C・シャーマンにゆずられ、ダウンフォール作戦さくせんでは、だい58任務にんむ部隊ぶたいだい38任務にんむ部隊ぶたい分離ぶんりして行動こうどうする予定よていとなっていたが、日本にっぽん降伏ごうぶくによりF・C・シャーマンが実際じっさい戦闘せんとう指揮しきることはなかった[114][115][116][注釈ちゅうしゃく 8]。「バンカー・ヒル」と「エンタープライズ」の苦闘くとうは、ミッチャーの戦歴せんれきさい終章しゅうしょうとなった。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ミッチャーは本国ほんごく帰還きかん、1945ねん7がつ14にちづけ海軍かいぐん作戦さくせん次長じちょう航空こうくう担当たんとう)に就任しゅうにんする[116][117]終戦しゅうせんの1945ねん11月、ミッチャーはジェームズ・フォレスタル海軍かいぐん長官ちょうかんから、キングの後任こうにんとして海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうへの就任しゅうにん要請ようせいされる[118]。フォレスタルはこれよりすこまえに、ミッチャーに戦後せんごのアメリカ海軍かいぐんのありかたについて意見いけんもとめ、その意見いけんたいして直接ちょくせつはなしくためミッチャーをし、ついでに海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうへの就任しゅうにん要請ようせいしたものだった[118]。また、フォレスタルは平和へいわ時代じだい海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうには、たとえばニミッツのような英雄えいゆうてき大物おおもの不向ふむきともかんがえていた[118]。しかし、要請ようせいけたミッチャーはそのにんにあらずとして要請ようせい辞退じたいし、キングの後任こうにんにはニミッツがいた[118]。1945ねん12月に海軍かいぐんさい編成へんせい創設そうせつされただい8艦隊かんたい英語えいごばん司令しれいかん就任しゅうにんし、いで1946ねん3がつ1にち大西洋たいせいよう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん就任しゅうにん同時どうじ大将たいしょう昇進しょうしんする。しかし、それから1ねんたない1947ねん2がつ3にち、ミッチャーは現役げんえきのまま心臓しんぞう発作ほっさのため、ノーフォークの海軍かいぐん病院びょういん死去しきょした[118]。60さい誕生たんじょうむかえてから、わずか8にちのことだった。アーリントン国立こくりつ墓地ぼち埋葬まいそうされている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ミッチャー大将たいしょうべい海軍かいぐんんだもっと偉大いだい提督ていとく一人ひとりである。だがかれ戦争せんそう英雄えいゆうということをのぞいて、よくられずにんだといっていい。かれはどんなかたちであれ、自己じこ宣伝せんでんけたひとだ。名声めいせい頂点ちょうてんにいたときですら、けられるときにはけっしてスピーチをやらなかった。この自己じこ主張しゅちょう時代じだいに、かれ沈黙ちんもくひとだった。このため、ひとによっては、かれえんとおい、当惑とうわくさせるひとのようにおもえた。 — イブニング・ニュース, ニューヨーク、たに光太郎こうたろうべいぐん提督ていとく太平洋戦争たいへいようせんそう』438ページ
小柄こがらでやせかた。ひからびたようなかおにはふかいしわがあり、寡黙かもくでききとれないくらいのひくこえはなす。言動げんどう風貌ふうぼうともに派手はでなところがまったくない。 — たに光太郎こうたろうべいぐん提督ていとく太平洋戦争たいへいようせんそう』416ページ

上記じょうき追悼ついとう記事きじおよび経営けいえい学者がくしゃたに光太郎こうたろう著述ちょじゅつでもれられているが、ミッチャーは、ハルゼーや、陸軍りくぐんのマッカーサー、ジョージ・パットンなどのようになに発言はつげんすればおくものめにあったり[119]ときには物議ぶつぎをかもすようなスピーチなどはほとんどしなかった。海軍かいぐん軍人ぐんじんおおくも、「ミッチャーを強靭きょうじん寡黙かもくな「たたか提督ていとく」だとなしていた」[60]。ミッチャーがなにかしら発言はつげんをした機会きかいひとつは、沖縄おきなわせん初期しょき段階だんかいだい10ぐん司令しれいかんサイモン・B・バックナー・ジュニア中将ちゅうじょう指揮しきぶりがらなかったニミッツがバックナーを批判ひはんしたさい、この批判ひはんっかったマスコミやぐん同士どうしあらそいを沈静ちんせいするためにフォレスタルやターナー、批判ひはん当事とうじしゃだったニミッツらとともにバックナーを擁護ようごするための声明せいめいしたときだった[120]喜怒哀楽きどあいらくもめったに表情ひょうじょうさず、ミッドウェー海戦かいせんで「ホーネット」の雷撃らいげきたい全滅ぜんめつした報告ほうこくけたときと、「バンカー・ヒル」が前述ぜんじゅつ特攻とっこう攻撃こうげきけておおくの幕僚ばくりょううしなったときにしか感情かんじょうひょうさなかったとつたえられている[121]司令しれいかんとしておおきな権限けんげんあたえられていたが、ペーパーワークはバークなど参謀さんぼう指揮しき空母くうぼぐん司令しれいかんたちに一任いちにんして、自身じしんみずからがのぞ作戦さくせん簡単かんたんつたえる以外いがいなにわず、完成かんせいした作戦さくせん計画けいかくすらとおさなかった[121]たにひかりは、ミッチャーの寡黙かもくぶりの由来ゆらいははミルタにもとめている[2]

しかし、実際じっさいにミッチャーと間近まぢかせっした人物じんぶつによれば、ミッチャーは「おどろくほどやさしい、周囲しゅういをほっとさせてくれるような笑顔えがおぬしだった」[60]という。周囲しゅうい琴線きんせん上手うまくつかむというてんでは、自身じしん草創そうそうからの航空こうくうじんで「パイロットのなかのパイロット」と畏敬いけいされていたこともあり、とくにパイロットとのかかわりを重視じゅうしした。戦果せんか報告ほうこくことこまかくもとめるものの、そのやり自体じたいは「うちとけた雰囲気ふんいきのもとでおこなわれ」、「まるで飛行機ひこうき模型もけいあそ子供こどもたち」みたいなかんじでおこなわれた[122]。また、マリアナおき海戦かいせんでの薄暮はくぼ攻撃こうげきさいには、攻撃こうげきたい帰投きとうのためにぜん艦隊かんたいサーチライト照射しょうしゃさせて、そのたすけとした[123]。パイロットも、そういったミッチャーのおもいやりにこたえるべく、機体きたいんだばくだん破片はへんを「熱意ねついあかし」としてミッチャーや幕僚ばくりょうせつけたこともあった[124]。パイロットや乗組のりくみいんはもとより、司令しれいかんクラスの上級じょうきゅう将校しょうこうにもミッチャーの信奉しんぽうしゃはおり、ミッチャー以外いがい指揮しきたたかうことをこばんだものもいた[注釈ちゅうしゃく 9]。タワーズとはちがって積極せっきょくてきに「子分こぶん」をつくることはなかったが、一見いっけんではることのできない魅力みりょくによって自然しぜん発生はっせいてき信奉しんぽうしゃあつまってきたといえる。「消極しょうきょくてき戦闘せんとうおこなった」とミッチャーに判断はんだんされた空母くうぼぐん司令しれいかんは、躊躇ちゅうちょなくそのくびられたが、そのかず2人ふたりとどまっている[123]

もっとも、ミッチャーとて周囲しゅういられたくないこともあった。ミッチャーはからだいたところずみれていたが、これをかくすために「女性じょせいようナイトガウン」のような「ゆかまでとどくよれよれのナイトシャツ」を着用ちゃくようしていた[125]。あるよる、ミッチャーきの信号しんごうしゅは、ナイトシャツの「着用ちゃくよう」のミッチャーをおどろいたが、つぎに「着用ちゃくようまえ」のミッチャーの姿すがたてさらにおどろいた[126]

たにひかりはまた、風貌ふうぼう戦後せんご経歴けいれき以外いがいてんでミッチャーとカーチス・ルメイ空軍くうぐん大将たいしょうには共通きょうつうてんおおいことを指摘してきする[注釈ちゅうしゃく 10]共通きょうつうてん部門ぶもんではに、ミッチャーとジョン・S・マケイン・シニアがまず風貌ふうぼうてん類似るいじしていた[127]制帽せいぼうではない帽子ぼうし愛用あいようしていたのも共通きょうつうするが、ミッチャーが愛用あいようしていたベースボールキャップとはちがい、マケインの作業さぎょうぼうは、すくなくともハルゼーにはられていなかった[127]。また、両人りょうにんとも戦争せんそう体調たいちょうくずし、戦争せんそう終結しゅうけつはや時期じき心臓しんぞう発作ほっさでともにっている[118]

その[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽんでも戦争せんそうちゅうからそのられ、台湾たいわんおき航空こうくう戦後せんご昭和しょうわ19ねん10がつ16にちづけ朝日新聞あさひしんぶんではハルゼーとならび、「ミッチャー 鬼畜きちく・われとう仇敵きゅうてき サイパン・東京とうきょう空襲くうしゅう犯人はんにん」の見出みだしでミッチャーの経歴けいれき簡潔かんけつ紹介しょうかいしている。また、昭和しょうわ20ねん6がつ30にちづけ朝日新聞あさひしんぶんでも外電がいでん引用いんようするかたちで、「ミッチャーいのちじつ坐乗ざじょう空母くうぼ特攻とっこう突入とつにゅう」の見出みだしで「バンカー・ヒル」での災厄さいやく簡単かんたん紹介しょうかいされている。ちなみに、この2つの記事きじでのミッチャーの役職やくしょくは、前者ぜんしゃでは「だいはち機動きどう部隊ぶたい司令しれいかん」で、後者こうしゃにいたっては、なんと「べいだいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん」である。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう江田島えたじま卒業そつぎょう年次ねんじ換算かんさんすると、南雲なぐも沢本さわもとよりゆきゆう塚原つかはらよんさんらを輩出はいしゅつした36相当そうとうする(#たにひかり(2)じょぺーじ)。
  2. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう江田島えたじま)の卒業そつぎょう年次ねんじ換算かんさんすると、三川みかわ軍一ぐんいち栗田くりた健男たけおふじ存知ぞんち戸塚とつか道太郎みちたろうらを輩出はいしゅつした38相当そうとうする(#たにひかり(2)じょぺーじ)。
  3. ^ ミッチャー以外いがい卒業そつぎょう成績せいせきは、F・C・シャーマン24、パウナル81で、ムーアの順位じゅんい不明ふめい#たにひかり(2)じょぺーじ)。
  4. ^ にはハルゼー、ターナーなど(#たにひかり(2)p.206)。
  5. ^ #たにひかり(2)p.426 では「合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう
  6. ^ F4U コルセア初陣ういじんたたかいでもある(#はたp.20)。
  7. ^ おも後方こうほう関連かんれん担当たんとうで、タワーズと不仲ふなかのキングが「タワーズをワシントンから放逐ほうちくする」ためにつくった部隊ぶたいであり、その司令しれいかん事実じじつじょう閑職かんしょく#たにひかり(2)p.470)。
  8. ^ 前線ぜんせんはたらきを熱望ねつぼうしていたタワーズも、同時どうじにマケインの後任こうにんとしてだい38任務にんむ部隊ぶたいひきいるだい二高速空母任務部隊司令官にいたが、やはり実際じっさい戦闘せんとう指揮しきることはなかった(#中名生なかのみょう(1)p.74)。
  9. ^ #たにひかり(2)pp.485-486。ただし、当該とうがいページでげられているジョゼフ・J「ジョッコー」・クラーク大将たいしょうは「マッケーン中将ちゅうじょうしたたたかうことをきらい」とあるが、実際じっさいには1945ねん5がつ指揮しきけん交替こうたい以後いごしばらくはマケインのした行動こうどうしている。しかし、クラークが指揮しきする任務にんむぐんはハルゼーとマケインの判断はんだんまわされ、台風たいふうによりおおきな損害そんがいこうむった(#ポッターpp.535-540)。
  10. ^ 風貌ふうぼう対照たいしょうてきだが、無口むくち小声こごえ身体しんたい精神せいしん頑健がんけんさ、航空こうくう一途いっとといったてんで、ミッチャーとルメイには共通きょうつうてんおおい。」(#たにひかり(2)p.417)

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風かみかぜ 特攻とっこう作戦さくせん全貌ぜんぼうした妹尾せのおつくるふとしおとこわけ)、時事通信社じじつうしんしゃ、1982ねんISBN 4-7887-8218-9 
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  • 中名生なかのみょうただしおのれ転機てんきむかえただい3艦隊かんたい その誕生たんじょうから今日きょうまでのあゆみ」『世界せかい艦船かんせんだい382ごう海人あましゃ、1987ねん 
  • E・B・ポッター『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督ていとく太平洋たいへいよう海戦かいせん秋山あきやま信雄のぶおわけ)、光人みつひとしゃ、1991ねんISBN 4-7698-0576-4 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋たいへいよう海戦かいせん実松さねまつゆずる冨永とみなが謙吾けんごともやく)、恒文社こうぶんしゃ、1992ねんISBN 4-7704-0757-2 
  • たに光太郎こうたろう『アーネスト・キング 太平洋戦争たいへいようせんそう指揮しきしたべい海軍かいぐん戦略せんりゃく野中のなかいく次郎じろう解説かいせつ)、白桃はくとう書房しょぼう、1993ねんISBN 4-561-51021-4 
  • はたいく太平洋戦争たいへいようせんそう航空こうくう史話しわじょう中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1995ねんISBN 4-12-202370-X 
  • 中名生なかのみょうただしおのれべいだい5艦隊かんたい物語ものがたり」『世界せかい艦船かんせんだい506ごう海人あましゃ、1996ねん 
  • たに光太郎こうたろうべいぐん提督ていとく太平洋戦争たいへいようせんそう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2000ねんISBN 978-4-05-400982-0 
  • トーマス・B・ブュエル『提督ていとくスプルーアンス』小城おぎただしわけ)、学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2000ねんISBN 4-05-401144-6 
  • 柴田しばた武彦たけひこはら勝洋かつひろ日米にちべいぜん調査ちょうさ ドーリットル空襲くうしゅう秘録ひろく』アリアドネ企画きかく、2003ねんISBN 4-384-03180-7 
  • マクスウェル・テイラー・ケネディ『特攻とっこう 空母くうぼバンカーヒルと二人ふたりのカミカゼ中村なかむらゆう以(わけ)、ハート出版しゅっぱん、2010ねんISBN 978-4-89295-651-5 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]