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桜花 (航空機) - Wikipedia コンテンツにスキップ

桜花おうか (航空機こうくうき)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
桜花おうか11がた性能せいのうしょもとひょう
靖国神社やすくにじんじゃ境内けいだいゆう就館展示てんじされている「桜花おうか」の複製ふくせい機体きたい
型式けいしき番号ばんごう MXY-7
全長ぜんちょう 6.066m
全幅ぜんぷく 5.12m
ぜんこう 1.16m
自重じちょう 440kg
ぜん重量じゅうりょう 2270kg
速度そくど 804km/h(急降下きゅうこうか突撃とつげき状態じょうたい速度そくど
983km/h(急降下きゅうこうかさい高速度こうそくど[1]
648km/h(水平すいへい最大さいだい速度そくど[1]
航続こうぞく距離きょり 37km(投下とうか高度こうどによって変化へんか
(⇒高度こうど7せん投下とうかしてやく60km)
しゅ武装ぶそう 1200kgてっかぶとばくだん
ふく武装ぶそう
エンジン 固体こたいロケットエンジン
出力しゅつりょく 推力すいりょく800kg×3
ただしまいほん稼働かどう時間じかんは9びょう
乗員じょういん 1めい(脱出だっしゅつ装置そうちなし)

桜花おうか(おうか、きゅう字体じたいさくらはな󠄁[2])は、日本にっぽん海軍かいぐん太平洋戦争たいへいようせんそうなか開発かいはつした特殊とくしゅ滑空かっくう特攻とっこう兵器へいきとして開発かいはつされ、実戦じっせん投入とうにゅうされた。

特徴とくちょう

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スミソニアン博物館はくぶつかんウドバー・ヘイジー・センターに展示てんじされる桜花おうかがた

桜花おうか」は機首きしゅ大型おおがたてっかぶとばくだん搭載とうさいした小型こがた航空こうくう特攻とっこう兵器へいきで、ははるされて目標もくひょう付近ふきん分離ぶんり発射はっしゃされる。その搭乗とうじょういん誘導ゆうどうして目標もくひょう体当たいあたりさせる。いちいちがたではははからのはな固体こたい燃料ねんりょうロケット作動さどうさせて加速かそく、ロケットの停止ていし加速かそくいきおいで滑空かっくうしててき防空ぼうくうもう突破とっぱ敵艦てきかん体当たいあたりをおこなうよう設計せっけいされていたが、航続こうぞく距離きょりみじかはは目標もくひょう接近せっきんさせなくてはならないため犠牲ぎせいおおきく、がた以降いこうではモータージェットでの巡航じゅんこう設計せっけい変更へんこうされている。日本にっぽん海軍かいぐんでは本土ほんど決戦けっせんへの有力ゆうりょく兵器へいきなし、陸上りくじょう基地きちからカタパルト発進はっしんさせることができるよんさんおつがたなどの大量たいりょう配備はいびはかろうとしていた。

秘匿ひとくのため航空機こうくうき自然しぜんめいけるという発想はっそうから航空こうくう本部ほんぶ伊東いとうひろしみつる中佐ちゅうさによって「桜花おうか」と命名めいめいされた[3]はつ戦果せんかほうじた1945ねん5がつ28にち新聞しんぶんでは、ロケットかみかみなり」と呼称こしょうされた[4]開発かいはつ段階だんかいでは発案はつあんしゃ名前なまえだい(マルダイ)部品ぶひん」(○のなかに「だい」の文字もじ)ともばれた。連合れんごうこくがわからは、自殺じさつ攻撃こうげき)をおこなう「おろもの」の機体きたいとの意味合いみあいで、日本語にほんごの「馬鹿ばか」にちなんだBaka BombたんにBakaとも)というコードネームばれていた[5]

終戦しゅうせんまでに11がた製造せいぞうされ755生産せいさんされた[6]桜花おうかで55めい特攻とっこうして戦死せんしした[7]せんもん開発かいはつされ実用じつようされた航空こうくう特攻とっこう兵器へいきとしては世界せかい唯一ゆいいつ存在そんざいわれる[8][注釈ちゅうしゃく 1]

桜花おうか搭載とうさいした一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき一式いっしきりくおさむ)は桜花おうか重量じゅうりょうにより速度そくど低速ていそくとなり運動うんどうせいおおきくそこなわれるためだい1かい桜花おうか攻撃こうげきでは、アメリカ艦隊かんたいはる手前てまえで、アメリカぐん戦闘せんとうはは一式いっしきりくおさむ全滅ぜんめつさせられ、桜花おうか射出しゃしゅつすることもできなかった[10]。その沖縄おきなわにて桜花おうか鹵獲ろかく徹底てっていして調査ちょうさしたアメリカぐんは、桜花おうか射出しゃしゅつされるとその高速こうそくため迎撃げいげき困難こんなんであると分析ぶんせきおおきな脅威きょうい認識にんしきしたため射出しゃしゅつまえははとなる航空機こうくうきさい優先ゆうせん攻撃こうげき目標もくひょうとして攻撃こうげきするようにぜんぐん徹底てっていした[11]。そのためはは一式いっしきりくおさむおおくが撃墜げきついされ帰還きかんりつたかくなった[12]。アメリカぐん警戒けいかい厳重げんじゅうなかで、桜花おうか射程しゃていかぎられており、はは十分じゅうぶん護衛ごえいしで投下とうか地点ちてんとなる目標もくひょう近距離きんきょりまで到達とうたつする必要ひつようがあるために、多数たすうのアメリカの迎撃げいげき戦闘せんとう鈍重どんじゅう爆撃ばくげき突破とっぱしなければならない状況じょうきょうでは、桜花おうか使用しようした攻撃こうげき成功せいこうするかくりつひくかった。そのため桜花おうかはは最初さいしょ接触せっしょくするてき機動きどう部隊ぶたい外周がいしゅう配置はいちされたピケットラインの駆逐くちくかんたい攻撃こうげきするケースがおおくなり、戦果せんか駆逐くちくかん集中しゅうちゅうすることとなった[13]

歴史れきし

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開発かいはつまで

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桜花おうか着想ちゃくそうは、航空こうくう偵察ていさついん大田おおた正一しょういち海軍かいぐん特務とくむ少尉しょういが、日本にっぽん陸軍りくぐんははばくげき)から投下とうかする遠隔えんかく操作そうさ無線むせん誘導ゆうどう・ロケット推進すいしんたいかんミサイル(たいかん誘導ゆうどうだんである(ごういちがたかぶと無線むせん誘導ゆうどうだんごういちがたおつ無線むせん誘導ゆうどうだん)を開発かいはつちゅうとの情報じょうほうて、イごういちがたかぶと製作せいさく担当たんとう三菱みつびし名古屋なごや発動はつどう製作所せいさくしょから設計せっけい概要がいようきだし、誘導ゆうどう装置そうち精度せいどわる実用じつようにはほどとおいとり、誘導ゆうどう装置そうち人間にんげんにおきかえるのが一発必中いっぱつひっちゅう実現じつげんする早道はやみちだと確信かくしんして、大田おおた東大とうだいあしはこんだところから軌道きどう[14]。しかしながら、三菱みつびし開発かいはつのイごういちがたかぶとはジャイロ安定あんてい装置そうち遠隔えんかく操作そうさよう無線むせん機器きき不具合ふぐあいにより計画けいかく破棄はきされたものの、並行へいこうして開発かいはつすすめられていた川崎かわさき開発かいはつのイごういちがたおつ結果けっかてき実用じつよういきたっしており、空襲くうしゅう影響えいきょうから実戦じっせん投入とうにゅう出来できなかったものの終戦しゅうせんまでに150量産りょうさんされていた。またさらに陸軍りくぐんではたいかん誘導ゆうどうばくだんとして、赤外線せきがいせん自動じどう追尾ついびしきごう自動じどう吸着きゅうちゃくだん(ケごうばくだんや、音響おんきょう自動じどう追尾ついびしきごういちがたへい自動じどう追尾ついび誘導ゆうどうだん並行へいこうして開発かいはつおこなっている。当然とうぜんながら、陸軍りくぐん組織そしきてき開発かいはつしていたこれらよんしゅたいかん兵器へいき機械きかい誘導ゆうどう装置そうちとする先進せんしんてき無人むじん誘導ゆうどう兵器へいきであり、人間にんげん誘導ゆうどう装置そうちとする海軍かいぐん有人ゆうじんたいかん兵器へいきたる桜花おうかとはまったことなるものである。

この大田おおた相談そうだんったのが東大とうだい航空こうくう研究所けんきゅうじょ小川おがわ太一郎たいちろう教授きょうじゅだった[注釈ちゅうしゃく 2]実験じっけん協力きょうりょくしたたに一郎いちろう東大とうだい教授きょうじゅによれば「昭和しょうわじゅうきゅうねんなつ東大とうだいこうけん小川おがわ教授きょうじゅからあたらしい依頼いらいがあった。小川おがわさんはひろ見識けんしきあたたかい包容ほうようによって声望せいぼうたかく、外部がいぶからまれる相談そうだん窓口まどぐち役割やくわり余儀よぎなくされていた。そのわずまえに、大田おおた正一しょういち海軍かいぐん少尉しょうい火薬かやくロケット推進すいしん特攻とっこう着想ちゃくそう持参じさんし、海軍かいぐん上層じょうそううごかすための基礎きそ資料しりょう作成さくせい依頼いらいしていたのである。わたしもとめられたのは、木村きむら秀政ひでまさ助教授じょきょうじゅえがいた三面さんめんもとに、風洞ふうどう実験じっけんたすけをりて、空気くうき力学りきがくてき特性とくせい推定すいていすることであった。仕事しごと自体じたいはさほど困難こんなんではないが、特攻とっこうはははなれたのちは、生還せいかん可能かのうせいまったくないことをってわたしはたじろいだ。」という[15]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)5がつだいいち〇八一海軍航空隊ひらけたい直後ちょくごじゅういちこうかん司令しれいより大田おおた転勤てんきんしてくる。大田おおた司令しれい菅原すがわら英雄ひでお中佐ちゅうさたいして桜花おうか構想こうそうかす。菅原すがわら司令しれいは、任務にんむがいしん兵器へいき開発かいはつ奔走ほんそうする大田おおた黙認もくにんして、航空こうくう技術ぎじゅつしょうちょう和田わだみさお中将ちゅうじょう電話でんわ技術ぎじゅつじょう検討けんとう依頼いらい[16]。5月、6がつごろ菅原すがわら推薦すいせんによって、大田おおた和田わだ桜花おうか提案ていあんした[17]航空こうくう技術ぎじゅつしょう三木みき忠直ただなお技術ぎじゅつ少佐しょうさ戦後せんご証言しょうげんによれば、和田わだはもうめた様子ようすで、大田おおたは「自分じぶんっていく」とうため、研究けんきゅう協力きょうりょくしたという[16]。 もっとも、三木みき忠直ただなお技術ぎじゅつ少佐しょうさ戦中せんちゅうのインタビューでは、「ドイツのVいちごう呼応こおうしてわがロケット兵器へいき研究けんきゅうもまた全力ぜんりょくをあげておこなわれていた。しかしVいちごう目標もくひょう地上ちじょうあいだであるが、わが目標もくひょう空母くうぼ戦艦せんかん輸送ゆそうせん海上かいじょうてんである。目標もくひょうたいして一発必中いっぱつひっちゅう成果せいかげるためにはVいちごうのごとく無人むじんでは到底とうてい不可能ふかのうである。どうしても人力じんりきりねばならない。だが、ひとちからりれば必中ひっちゅう同時どうじ必死ひっしである。ここになやみがあった。このなやみを解決かいけつしたのが大田おおた正一しょういち中尉ちゅうい(当時とうじ少尉しょうい)である。『Vいちごう人間にんげんってゆくことだ。まず自分じぶんってゆく』と、烈々れつれつ至情しじょう吐露とろして肉弾にくだんロケットかみかみなり』(桜花おうか)をかく方面ほうめんまわった。」とかたっている[注釈ちゅうしゃく 3][18]

和田わだからはなしかされた三木みき忠直ただなお技術ぎじゅつ少佐しょうさ山名やまな正夫まさお技術ぎじゅつ中佐ちゅうさ研究けんきゅう協力きょうりょくした。そらわざしょうは、風洞ふうどう実験じっけん装置そうちり、民間みんかん飛行ひこう工場こうじょう指導しどうおこない、出入でいりのある愛知あいち航空機こうくうきにも桜花おうか研究けんきゅう協力きょうりょく要請ようせいしている[19]

和田わだ航空こうくう本部ほんぶ課長かちょう伊東いとうゆうみつる中佐ちゅうさへこれを進達しんたつした[17]和田わだから連絡れんらくけた伊東いとう説明せつめいき、大田おおたは「わたしっていきます」とった[16]伊東いとう感想かんそうは「これは部外ぶがい相当そうとう研究けんきゅうされたものらしい」というものだった。また、伊東いとうは「わたしは、大田おおた操縦そうじゅうしゃであるなしをたださなかった。大田おおた自身じしん操縦そうじゅうしゃであり、おのれさき立場たちばちうるものでなくして、必死ひっし兵器へいき進言しんげんできるはずがないとおもんでいたからである。まことまが濶千まんであった。わたし操縦そうじゅうしゃ意思いし代表だいひょうとして、かれ発案はつあん実現じつげん促進そくしん努力どりょくするはらめた」という[20]

1944ねん6がつ20日はつか前後ぜんご筑波つくば海軍かいぐん航空こうくうたいで、司令しれい中野なかの忠二郎ちゅうじろう大佐たいさ海兵かいへい出身しゅっしん戦闘せんとう教官きょうかん7、8めい士官しかんしつあつめて戦局せんきょく悪化あっかあきらかにし、「いち出撃しゅつげきすれば生還せいかんがたいが、成功せいこうすれば戦艦せんかんでも空母くうぼでも撃沈げきちん確実かくじつしん兵器へいきのことで生還せいかん可能かのうせい絶無ぜつむである以上いじょう上官じょうかんからの命令めいれいはできないので搭乗とうじょういん意見いけんくことになった」という趣旨しゅし説明せつめいがあり、志願しがんしゃが2めい以上いじょうあれば兵器へいきとして採用さいようするとことわって志願しがんつのった。はやし富士夫ふじお中尉ちゅういまき幸男ゆきお大尉たいいらが志願しがんしている[17]

マリアナおき海戦かいせん敗北はいぼくの1944ねん6がつ19にち、341そら司令しれい岡村おかむらはじめはる大佐たいさだい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん福留ふくとめしげる中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう杉本すぎもとうしまもる大佐たいさに「せんぜい今日きょういたっては、戦局せんきょく打開だかいする方策ほうさく飛行機ひこうき体当たいあたり以外いがいにはないとしんずる。体当たいあたり志願しがんしゃは、へい学校がっこう出身しゅっしんしゃでも学徒がくと出身しゅっしんしゃでも飛行ひこう練習れんしゅうせい出身しゅっしんしゃでも、いくらでもいる。隊長たいちょう自分じぶんがやる。300あたえられれば、かならたたかえぜい転換てんかんさせてみせる」と意見いけん具申ぐしんした。数日すうじつ福留ふくとめ上京じょうきょうして、岡村おかむら上申じょうしん軍令ぐんれい次長じちょう伊藤いとう整一せいいち中将ちゅうじょうつたえるとともに中央ちゅうおうにおける研究けんきゅう進言しんげんした。伊藤いとう総長そうちょうへの本件ほんけん報告ほうこく中央ちゅうおうにおける研究けんきゅう約束やくそくしたが、まだ体当たいあたり攻撃こうげきめいずる時期じきではないというかんがえをべた[21]

また、6月27にち岡村おかむら252そら司令しれい舟木ふなき忠夫ただおとともに軍需ぐんじゅしょう航空こうくう兵器へいき総局そうきょく総務そうむ局長きょくちょう大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょうたいしても、航空こうくう特攻とっこう部隊ぶたい構想こうそうはなし、特攻とっこうてきした飛行機ひこうき開発かいはつ要望ようぼうした[22]桑原くわばら虎雄とらお中将ちゅうじょうによれば「大西おおにしくん岡村おかむら大佐たいさらのけんさく支持しじし、嶋田しまだ軍令ぐんれい総長そうちょうに、ぜひとも採用さいようしなさいと進言しんげんしておった。が、軍令ぐんれいはなかなか採用さいようしなかった」という[23]

8がつ初旬しょじゅん大田おおた東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく航空こうくう研究所けんきゅうじょ三菱みつびし名古屋なごや発動はつどう製作所せいさくしょ協力きょうりょくあんをさらにあらためて航空こうくう本部ほんぶ提出ていしゅつする。私案しあんには木村きむら秀政ひでまさ東大とうだい講師こうしによる風洞ふうどう実験じっけん用木ようぼくがた設計せっけいたに一郎いちろう東大とうだい教授きょうじゅ担当たんとう風洞ふうどう実験じっけんデータがついていた。推進すいしん装置そうち三菱みつびし開発かいはつりょごうやく採用さいようされていた。その出来でき伊東いとう中佐ちゅうさおどろいたという[24]

伊東いとうゆうみつる中佐ちゅうさ航空こうくう本部ほんぶいち課長かちょう高橋たかはしせんはやぶさ大佐たいさ助言じょげんで、このあん軍令ぐんれい作戦さくせん航空こうくう部員ぶいん源田げんた中佐ちゅうさのもとへ署名しょめいとともにんで採用さいよううながした[25][注釈ちゅうしゃく 4]署名しょめいとは、大田おおたが1081そら下士官かしかんへいのパイロットすうじゅうめいあつめて「いま戦局せんきょく挽回ばんかいするにはいちいちかん確実かくじつほうむるしかないとかんがえ、それにはははから発進はっしんしてロケットしん推進すいしん敵艦てきかん体当たいあたりする飛行ひこうばくだんのような有人ゆうじん小型こがたしかないのではないかとのかんがえにいたった。これを上申じょうしんすべく東京とうきょう一番いちばんちか部隊ぶたい転勤てんきん希望きぼうし、軍令ぐんれい日参にっさんしておったのである。軍令ぐんれいではそのようなものをつくっても搭乗とうじょういんがいないと相手あいてにしてもらえない。そこで賛成さんせいする搭乗とうじょういんがいることを証明しょうめいしたいので、貴様きさまたちの名前なまえしてほしい」との趣旨しゅしはなしちかけ、質疑しつぎをするうち賛同さんどうしゃ徐々じょじょえ、それを大田おおたりまとめを堀江ほりえ良二りょうじいち曹にたくしたものである。堀江ほりえによれば、偵察ていさついんだから搭乗とうじょうすることもないとかる気持きもちで最初さいしょ署名しょめいしてまわすと、みなこころよ署名しょめいし、なかには血判けっぱんすものまでいたという[27]源田げんたによれば「マリアナおき海戦かいせん前線ぜんせん若手わかて士官しかん下士官かしかんから覚悟かくごがあるので体当たいあたり使用しようはじめさせてほしいと上申じょうしんがあったが、軍令ぐんれい十分じゅうぶん効果こうかがあるばくだん開発かいはつがあるまでってほしいとさえていた。桜花おうかおな時期じき軍令ぐんれいへの説得せっとくはたらきかけがあった」という[28]ほん兵器へいき利点りてんとしては、炸薬さくやくりょうおおいのが魅力みりょくだったと戦後せんごはなしている[29]。1944ねん8がつ5にち軍令ぐんれい会議かいぎにおいて源田げんた桜花おうかあん報告ほうこくおこない、軍令ぐんれい部長ぶちょう黒島くろしまひさしじん少将しょうしょう軍令ぐんれい総長そうちょう及川おいかわ古志こしろう大将たいしょうがその研究けんきゅう試作しさく承認しょうにんした[30]

試作しさく段階だんかい

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機体きたいたいして桜花おうか弾頭だんとう如何いかおおきかったかがわかる

軍令ぐんれい協議きょうぎした航空こうくう本部ほんぶは、1944ねん昭和しょうわ19ねん8がつ16にち発案はつあんしゃ大田おおた名前なまえから「だい⃝(マルダイ)部品ぶひん」と名付なづけて研究けんきゅう試作しさく下命かめい航空こうくう技術ぎじゅつしょう任務にんむした[31]そらわざしょう試作しさく番号ばんごう「MXY7」とされた「K1」の試作しさく開始かいし[32]そらわざしょうしゅ担当たんとうしゃ三木みき忠直ただなお技術ぎじゅつ少佐しょうさとなった[33]設計せっけいには、山名やまな正夫まさお技術ぎじゅつ中佐ちゅうさ服部はっとり六郎ろくろう技術ぎじゅつ少佐しょうさとう参加さんかした。 主翼しゅよく艤装ぎそう担当たんとうした長束ながつかいわお技術ぎじゅつ少佐しょうさそらわざしょう飛行機ひこうきだい工場こうじょう主任しゅにん)は自動じどう操縦そうじゅう装置そうち搭載とうさいして搭乗とうじょういん脱出だっしゅつする方法ほうほうさぐったが、賛同さんどうしゃかった[34]

航空こうくう本部ほんぶから提出ていしゅつされた「試作しさく計画けいかく要求ようきゅうしょ[35]

  1. 頭部とうぶばくだん全備ぜんび重量じゅうりょうやく80パーセント。
  2. ばくだんてっかぶとだんとし信管しんかんに100パーセントの信頼しんらいせいたせる。
  3. 極力きょくりょく高速こうそくとする。
  4. 航続こうぞく距離きょり片道かたみち航行こうこう多少たしょう余裕よゆうたせること。
  5. 目標もくひょう照準しょうじゅんするに程度ていど安定あんていせい操縦そうじゅうせいたせること。
  6. 極力きょくりょく小型こがたとしてて、分解ぶんかい容易たやす狭隘きょうあい地下ちかごうとうにも多数たすう格納かくのうしうるようにする。
  7. 構成こうせい材料ざいりょうには貴重きちょうけい合金ごうきんはいし、比較的ひかくてき入手にゅうしゅ容易ようい木材もくざいとうもちいること。

三木みきやく2週間しゅうかん図面ずめん完成かんせいさせた。チームは航空こうくう本部ほんぶ要求ようきゅうどお全体ぜんたい木製もくせいにし、つばさベニヤ板べにやいたにした(ただし実験じっけんK1がた胴体どうたいけい合金ごうきん)。計算けいさんで550ノット(1000キロ)までは空中くうちゅう分解ぶんかいしないようにした(安全あんぜん範囲はんいであり、550ノットの速度そくどるわけではない)。操縦そうじゅうせきには速度そくどけい高度こうどけい前後ぜんご傾斜けいしゃけいみっつ。操縦そうじゅう桿には火薬かやくロケットの起動きどうボタン、これをはこはは一式いっしきりくおさむとの連絡れんらくよう伝声管でんせいかん簡易かんい通信つうしんけるだけでよかった。はは一式いっしきりくおさむにつりげるには操縦そうじゅうせき前方ぜんぽう上方かみがたがた金具かなぐははのフックにけ、投下とうかする場合ばあいはフックにけたばくかん機上きじょうから爆発ばくはつさせてはずすようにした。設計せっけいいち週間しゅうかんほどでできた。ジェット推進すいしん実用じつよう段階だんかいにはなく、どうにか使つかえるのは火薬かやくしきのものだが、燃焼ねんしょう時間じかんはわずかに9びょうで、はしちからをつけるには程遠ほどとおく、自然しぜん落下らっか速度そくど加速かそくする程度ていどぎなかった。それでも火薬かやくロケット担当たんとう千葉ちばそう三郎さぶろう技術ぎじゅつ中佐ちゅうさ協力きょうりょくで、推力すいりょくはちひゃくキロのものをさん後部こうぶけ、推力すいりょくよんひゃくキロのものを主翼しゅよくした左右さゆういちほんずつ装備そうびした。ただしこの両翼りょうよくのロケットは滑空かっくうテストをした結果けっかおもわしくなく、すぐにのぞかれることになった[36]試作しさく1号機ごうきは1かげつほどかけて9がつごろに完成かんせいさせた[37]

当初とうしょ基礎きそ設計せっけいあんより実機じっきおも変更へんこうてんとして以下いかげられる

  • 垂直すいちょく尾翼びよく当初とうしょの1まいから安定あんていせい確保かくほおよははへの搭載とうさい容易よういにするため、そう尾翼びよくにした。
  • 弾頭だんとう重量じゅうりょう機体きたい重量じゅうりょうめる割合わりあいが、設計せっけいあんでは80%であったが無理むりだったため爆薬ばくやく重量じゅうりょうを56%にらした。これには固体こたいロケットの重量じゅうりょうが3ほんで500kgにおよんだことも影響えいきょうしている。なお、桜花おうかばくだんとロケットをのぞいた部分ぶぶん重量じゅうりょうは450kg程度ていどである。
  • 大田おおたあんでは、動力どうりょく秋水しゅうすいおなとくりょごう薬液やくえきロケット・エンジンが予定よていされていたが、開発かいはつ途上とじょう性能せいのう不安定ふあんていであったため、火薬かやくロケットに変更へんこうされた。
  • 強度きょうどじょう重量じゅうりょう配分はいぶんじょうどうしても垂直すいちょく尾翼びよくにはジュラルミン使つかわなければならなかったため完全かんぜんはがね混合こんごうではなくなった。
  • 不発ふはつふせぐため、突入とつにゅう弾頭だんとう確実かくじつ起爆きばくするように信管しんかん弾頭だんとうに1つたまそこに4つ装備そうびしていた。

KIは45生産せいさんされた。のち実用じつようのため量産りょうさんされた11がたはK1より全長ぜんちょうが4ミリみじかく、全幅ぜんぷくは12センチみじかくなった。いづれにしてもばくだんつばさめん荷重におもおおきいつばさけたようなものであった[38]

1944ねん8がつ18にち定例ていれい会報かいほう軍令ぐんれい)で部長ぶちょう黒島くろしまひさしじん少将しょうしょうから「10がつまつまでに桜花おうか200生産せいさん」が要望ようぼうされた。また航空こうくう本部ほんぶちょう塚原つかはらよんさん中将ちゅうじょうから100言明げんめいがあったこともつたえられた[33]

1944ねん8がつ28にち軍令ぐんれい会議かいぎ以下いか現状げんじょう報告ほうこくおこなわれた[39]

  1. じゅうがつまつまでに実用じつよう200製作せいさく目標もくひょうとしている。きゅうがつちゅうにダミーきゅう実用じつよう単座たんざいちふく練習れんしゅう製作せいさくする。
  2. 桜花おうかつばさちょう5m、ながさ6.7m、たかさ1.73m、おもさ2.053トン、炸薬さくやく500〜540キロである。火薬かやく推進すいしんロケットを本有ほんゆうし、一本いっぽんきゅう秒間びょうかん使用しようできる。最終さいしゅう速力そくりょくは6000mの高度こうどで500ノット。航続こうぞく距離きょり高度こうど6000mから降下こうかする場合ばあい6まんm、高度こうど4000mの場合ばあいには4まんmとなる。
  3. 桜花おうか用法ようほうじょうは、実用じつよう距離きょりを3まんm(こうすべ距離きょり6まんmの場合ばあい)から2〜2.5まんm(こうすべ距離きょり4まんmの場合ばあい)とする必要ひつようがある。
  4. 搭乗とうじょういん養成ようせいは9がつまつ90めい、10がつまつ300めい予定よてい
  5. 充当じゅうとう兵力へいりょくなかおさむ100〜200考慮こうりょする。ただし訓練くんれん期間きかんは23〜30でよい。いずれにせよとしごう作戦さくせんにはわない。充当じゅうとう兵力へいりょくは1.としごう作戦さくせん以外いがい兵力へいりょく、2.としごう作戦さくせんのこった兵力へいりょく、3.練習れんしゅうちゅうのものから充当じゅうとうする。

8がつ中旬ちゅうじゅんからかく航空こうくうたい桜花おうか搭乗とうじょういん募集ぼしゅうはじまった。海軍かいぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう教育きょういく部長ぶちょうによる連名れんめいで、後顧こうこうれいのいものから募集ぼしゅうするという方針ほうしんされた。編成へんせい準備じゅんび委員いいんちょう岡村おかむらはじめはるとなった[40]桜花おうか搭乗とうじょういん志願しがんしゃなかから練度れんどたかいパイロットがえらばれた。飛行ひこう時間じかん1000あいだ前後ぜんこうのパイロットが中心ちゅうしんあつめられ、予備よび士官しかんでも300時間じかん以上いじょうはあった[41]堂本どうもと吉春よしはる桜花おうか要員よういん)は、桜花おうかとき感想かんそうとして「『これがわしの棺桶かんおけか』とおもいましたね。どうせやるなら半年はんとしまえにやってほしかった、とそんな気持きもちでした。そのくせ『いい飛行機ひこうきだなあ』とおもったことも事実じじつでした。あの時代じだいですからね。ぬのは仕方しかたないとみんなおもっていたのではないですか」とはなしている[42]湯野川ゆのかわ守正もりまさ桜花おうか要員よういん)によれば、桜花おうか投下とうかは250ノットの高速こうそくだが、操縦そうじゅうしやすく自由自在じゆうじざいで、れいせんのようなエンジンでは急降下きゅうこうか機首きしゅくが桜花おうかはそういったこともなかったという[43]艦上かんじょう攻撃こうげき搭乗とうじょういんより桜花おうか要員よういん志願しがんした鈴木すずき英男ひでお大尉たいい印象いんしょうは「ばくだんつばさをつけたようなものでこれが飛行機ひこうきか?とおもったが、いままでってきたかんおさむ魚雷ぎょらいつばさがついたようなものだから、そうおどろきはなかった。戦闘せんとうっていた連中れんちゅうはぎょっとしたのでは?」とかんおさむとの比較ひかくでさほどのおどろきをかんじなかったとべている[44]

ぐん桜花おうか操縦そうじゅうむずかしいとかんがえ、桜花おうか要員よういんには上記じょうきよう練度れんどたか搭乗とうじょういんあつめたが、実際じっさい操縦そうじゅうしてみるとおおくの桜花おうか要員よういん操縦そうじゅうせい非常ひじょうかったという印象いんしょうで、高度こうど操縦そうじゅう技術ぎじゅつがなくても十分じゅうぶん操縦そうじゅうできるとことわかり、後期こうきにはきゅうさんしき中間ちゅうかん練習れんしゅうしか搭乗とうじょう経験けいけんがないような搭乗とうじょういん桜花おうか訓練くんれんけるようになっている[45]

桜花おうか (K1) の訓練くんれん各人かくじんいちかいだけでそれをえると技量ぎりょうAになった[46]保田やすだ基一きいち桜花おうか要員よういん)によれば、事前じぜんれいせん降下こうかスピード感覚かんかくれるための降下こうか訓練くんれんおこなうという。エンジンを徐々じょじょしぼると飛行機ひこうきしずむが、できるだけエンジンをてい回転かいてんにして着陸ちゃくりくする。最後さいごにはデッドスローで着陸ちゃくりくおこなうという[47]堂本どうもと吉春よしはる桜花おうか要員よういん)によれば、桜花おうか訓練くんれん一式いっしきりくおさむられた桜花おうか鹿島灘かしまなだ上空じょうくうからとしてもらい、かみいけ基地きち滑走かっそう着陸ちゃくりくするが、桜花おうかにも浮力ふりょくがありははからはなれないのでかかつるし装置そうち爆薬ばくやくってとすような仕掛しかけになっており、はなされた瞬間しゅんかん振動しんどうおともなく奇妙きみょう感触かんしょくで、200、300メートルしずむ、着陸ちゃくりくコースにはいったらフラップをくだして機首きしゅげ、100ノット(180キロ)くらいのスピードに調整ちょうせいして着陸ちゃくりくする、そのあいだ2、3ぶん滞空たいくうだという[48]桜花おうかはなさいははから電信でんしん符号ふごうセ「ト・ツー・ツー・ツー・ト(・---・)」が送信そうしんされ、桜花おうか要員よういん桜花おうか搭乗とうじょう完了かんりょうし「用意よういよろし」と電信でんしん符号ふごうラタを送信そうしんすると、ははについているあかいランプが「ト・ト・ト・ツー・ト(・・・-・)」と点滅てんめつ桜花おうか要員よういんはなしの信号しんごうおくったのちに、はなされるという手順てじゅんだった。このはなしの信号しんごうだれともなしに「おわりマーク」と名付なづけられていた[49]

また、この電信でんしん符号ふごうラタは現在げんざいいたるまでわらずに和文わぶん電信でんしん送信そうしん終了しゅうりょう符号ふごうとして使つかわれている。

桜花おうか滑空かっくう訓練くんれんで、刈谷かりやつとむ分隊ぶんたいちょうら2めい死者ししゃている[50]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ下旬げじゅん航空こうくう本部ほんぶ伊東いとうひろしみつる中佐ちゅうさが「桜花おうか」と命名めいめいした[3][注釈ちゅうしゃく 5]。1944ねん9がつ5にち作戦さくせん研究けんきゅう軍令ぐんれい作戦さくせんは、桜花おうか現状げんじょうについて「順調じゅんちょう進捗しんちょくせば十二月じゅうにがつごろやく100くみ程度ていど作戦さくせん可能かのうとなるべし、ただいま実験じっけんちゅうぞく予備よび兵力へいりょくとして期待きたいするは危険きけんなり」とかんがえていた[53]

かみかみなり部隊ぶたい

[編集へんしゅう]

1944ねん10がつ1にちだいなないち海軍かいぐん航空こうくうたいかみかみなり部隊ぶたい)を編成へんせい司令しれい航空こうくう特攻とっこう開始かいし進言しんげんをしていた岡村おかむら任命にんめいされた。この時点じてんでは特攻とっこう部隊ぶたいではなく、編成へんせい普通ふつう航空こうくうたい新設しんせつ同様どうよう手続てつづきでおこなわれている[54]軍令ぐんれいでは土肥どい一夫かずお編成へんせい担当たんとうして軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう中澤なかざわたすく少将しょうしょうから了承りょうしょうった[55]岡村おかむら桜花おうか搭載とうさいする一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげきたい指揮しきかんとして、危険きけんたか任務にんむ遂行すいこうできるだけのおおくの修羅場しゅらばをくぐった人材じんざい必要ひつようかんが海軍かいぐんしょう人事じんじきょく相談そうだんしたところ、航空こうくう雷撃らいげきのスペシャリストで、任侠にんきょうのようないをこのみ、部下ぶか統率とうそつりょくすぐれて自分じぶんりくおさむたいを「野中のなか一家かずや」とばせるほどにまとめげていた野中のなか五郎ごろう少佐しょうさ白羽しらはった[56]

1944ねん10月23にちそらわざしょう相模灘さがみなだにおいて桜花おうかダミーははからの離脱りだつ実験じっけん成功せいこう[57]。10月27にち中沢なかざわゆう軍令ぐんれい1部長ぶちょうしょう会議かいぎでT部隊ぶたいと721そらしゅとして本土ほんど迎撃げいげきにあたる方針ほうしん説明せつめい[58]。1944ねん10月31にち桜花おうか11がた単座たんざ練習れんしゅう (K1) 長野ながの曹によって実用じつよう試験しけん成功せいこう[59]。11月1にち航空こうくう本部ほんぶで「だい兵器へいきかんする部隊ぶたい要望ようぼう事項じこう」が処理しょりされた。機材きざい手当てあて隊員たいいんすう定員ていいん1.7ばい)、721そらたい優先ゆうせんてき万事ばんじはからうように通達つうたつ可決かけつされた[58]。1944ねん11月20にちそらわざしょう桜花おうか投下とうか頭部とうぶ爆発ばくはつ試験しけん成功せいこう[60]。1944ねん11月29にち大和やまとがた戦艦せんかん改造かいぞう空母くうぼ信濃しなの」は桜花おうか50搭載とうさいして横須賀よこすかからくれへと回航かいこうちゅうべい潜水せんすいかんアーチャーフィッシュ」に雷撃らいげきされ、「信濃しなの」もろとも潮岬しおのみさきおきしずんだ[60]護衛ごえい駆逐くちくかん3せきゆきふう浜風はまかぜいそふう)によれば、弾頭だんとう燃料ねんりょう搭載とうさい桜花おうか海面かいめんかんだため、乗組のりくみいんたちがわりになって人命じんめい救助きゅうじょ役立やくだった。1944ねん12月13にちそらわざしょう桜花おうかわせ会議かいぎ実験じっけん結果けっか提示ていじ[61]

1944ねん12月5にちだいなないち海軍かいぐん航空こうくうたいだいななろくいち海軍かいぐん航空こうくうたいだいいち機動きどう基地きち航空こうくう部隊ぶたい呼称こしょう。12月10にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれいは12月20にち桜花おうか台湾たいわんあつめ、1945ねん1がつ10にち以降いこうレイテに参加さんかさせると計画けいかくする[61]。12月19にち駆逐くちくかん3せき時雨しぐれもみひのき)に護衛ごえいされた空母くうぼ雲龍うんりゅう」でフィリピンへ移動いどうちゅう桜花おうか30が、べい潜水せんすいかんレッドフィッシュ」に雷撃らいげきされ「雲龍うんりゅう」が沈没ちんぼつしたことでぜんうみぼつ。そこで桜花おうか58搭載とうさいした空母くうぼりゅうおおとり」の目的もくてきはルソンから台湾たいわん変更へんこうになった[62]

12月20にち連合れんごう艦隊かんたい直属ちょくぞくの11航空こうくう戦隊せんたいが721そらと762そら編成へんせいされた。12月23にち連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ少将しょうしょうだいいち連合れんごう基地きち航空こうくうたいとのわせ会議かいぎで、かみかみなり部隊ぶたい比島ひじま戦闘せんとうによる合同ごうどうレイテ攻撃こうげき討議とうぎする[63]。12月31にち、「りゅうおおとり」は駆逐くちくかん3せき時雨しぐれ浜風はまかぜいそふうおよヒ87船団せんだんとも日本にっぽん出港しゅっこう。1月7にち、「りゅうおおとり」は台湾たいわんもとたかし到着とうちゃくして桜花おうか揚陸ようりくした。

1945ねん1がつ野中のなかは「おれは桜花おうか作戦さくせん司令しれい断念だんねんさせたい。もちろん自分じぶん必死ひっし攻撃こうげきおそれるものではないが、攻撃こうげきてきまで到達とうたつさせることができないことが明瞭めいりょう戦法せんぽう肯定こうていするのはいやだ」「司令しれいでは桜花おうか投下とうかしたらりくおさむすみやかにかえり、ふたた出撃しゅつげきせよ、とっているが、今日きょうまで起居ききょをともにした部下ぶか肉弾にくだんとなって敵艦てきかん突入とつにゅうするのをながら自分じぶんたちだけがかえれるとおもうか」「そんなことは出来できない、桜花おうか投下とうか同時どうじ自分じぶん目標もくひょう体当たいあたりする」と八木田やぎた喜好きよし大尉たいいはなしている[64]整備せいび分隊ぶんたいちょう大島おおしま長生ながお大尉たいいによれば、野中のなか五郎ごろう少佐しょうさは「こんな軽業かるわざみたいなもの兵器へいきじゃねえ」とって航空こうくう本部ほんぶ担当たんとうしゃってかかっていたという[65]。ただし軍令ぐんれいは、たとえ「使つかがたやり」であっても、十分じゅうぶん援護えんご戦闘せんとうさえつければ、1,200㎏ものてっかぶとだん必殺ひっさつやりになるとかんがえていた[66]司令しれい岡村おかむら野中のなからの不安ふあんたいして、「桜花おうか攻撃こうげきには、日本にっぽんちゅう戦闘せんとうをかきあつめてりくおさむたい援護えんごにあたることになっている。軍令ぐんれい約束やくそくでな」とはなして不安ふあん解消かいしょうするよういた。岡村おかむら説明せつめいいた野中のなかは「そいつは、めでたい。そうとくりゃまかせておけだ」と安心あんしんして、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの「よ、勇者ゆうしゃかえる」の一節いっせつにあわせて自作じさくした出陣しゅつじん部下ぶかまえ披露ひろうしている[67]

実際じっさいに、岡村おかむらけた飛行ひこうちょう岩城いわき邦広くにひろ少佐しょうさが、桜花おうか攻撃こうげき戦術せんじゅつ検討けんとうおこなったが、一式いっしきりくおさむ実機じっきによる実験じっけんで、桜花おうか搭載とうさいしたさいの性能せいのう低下ていかが、風洞ふうどう試験しけんでの予測よそくをさらに上回うわまわり、航続こうぞく距離きょりは30%げん巡航じゅんこう速度そくどは170ノットでやく10%げん判明はんめいし、桜花おうか攻撃こうげきアキレス腱あきれすけんあきらかになった。よっぽど強力きょうりょく援護えんご戦闘せんとうをつける必要ひつようありと判断はんだんした岩城いわきは、横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい関係かんけいしゃ援護えんご方法ほうほうとその必要ひつようすうについての検討けんとうおこなった。援護えんご方法ほうほうとしては、援護えんご戦闘せんとう間接かんせつ援護えんご直接ちょくせつ援護えんごの2たいけ、間接かんせつ援護えんごりくおさむたいちかくに位置いちしててき極力きょくりょく排除はいじょ直接ちょくせつ援護えんごはさらにりくおさむたい密着みっちゃくし、間接かんせつ援護えんごくぐってきたてき攻撃こうげきくわえてこれを撃退げきたいするというだんかまえの援護えんごかんがえられた。そして必要ひつよう最低さいていすうは、直接ちょくせつ援護えんご間接かんせつ援護えんごともに援護えんごするりくおさむたいの2ばいずつ、したがって戦闘せんとう合計ごうけいりくおさむたいの4ばい必要ひつようであるとはじきだされた。りくおさむたい出撃しゅつげきすう通常つうじょうの2中隊ちゅうたい18とすれば、必要ひつよう戦闘せんとうかずは72となる。岩城いわき軍令ぐんれい源田げんたたずねて、援護えんご戦闘せんとう72以上いじょう常時じょうじ確保かくほつよ要請ようせいしたところ、源田げんたは、優先ゆうせんてき手配てはいすると確約かくやくし、約束やくそくどおり、援護えんご戦闘せんとうたい戦闘せんとう306飛行ひこうたい戦闘せんとう307飛行ひこうたい編成へんせいされて711そら配属はいぞくされている[68]

1945ねん1がつ25にち - 30にち、11航空こうくう戦隊せんたい総合そうごう訓練くんれん研究けんきゅうかいがあり、2がつ1にち連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ少将しょうしょうが11航空こうくう戦隊せんたい正規せいき作戦さくせん使用しようすることを希望きぼう連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうかみ重徳しげのり大佐たいさももう一度いちど総合そうごう訓練くんれんのち正規せいき使つかいたいと要望ようぼうしたが、ふたた総合そうごう訓練くんれんおこなわれなかった。2がつ10日とおかだい航空こうくう艦隊かんたい編制へんせいじゅういち航空こうくう戦隊せんたい編入へんにゅうされ、こうかん直属ちょくぞくになる。この編制へんせいによってかみかみなり部隊ぶたい正式せいしき特攻とっこう部隊ぶたいとなった。

なおかみかみなり部隊ぶたいのこりである長濱ながはま敏行としゆきによれば、投下とうかははふく操縦そうじゅういんは、桜花おうか投下とうかボタンを立場たちばであると同時どうじに、てき戦闘せんとう攻撃こうげきとう桜花おうか操縦そうじゅういん死傷ししょうした場合ばあいには、わりに桜花おうかんで敵艦てきかん突入とつにゅうする役割やくわりになっていたという[69]

九州きゅうしゅうおき航空こうくうせん

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一式いっしきりくおさむ搭載とうさいされた桜花おうか
一式いっしきりくおさむからはなされる桜花おうか

1945ねん3がつ17にち米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじんうちれいへいだいはちごうをもって、桜花おうか11がた正式せいしき兵器へいきとして採用さいようされた[70][2]

桜花おうか初陣ういじんは、1945ねん3がつ九州きゅうしゅうおき航空こうくうせんであった。3月21にちまでに、通常つうじょう攻撃こうげき特攻とっこうにより、だい58任務にんむ部隊ぶたいにかなりの損害そんがいあたえていると判断はんだんしていただい5航空こうくう艦隊かんたい[注釈ちゅうしゃく 6]偵察ていさつ発見はっけんした機動きどう部隊ぶたいちょく掩機がられなかったことより、損傷そんしょうかん誤認ごにんしトドメをさす好機こうき到来とうらい判断はんだんし、桜花おうか部隊ぶたい出動しゅつどうめた。

しかし、3月18にちには164もあったこうかん戦闘せんとうも、3にちわた九州きゅうしゅうおき航空こうくうせん激戦げきせん損失そんしつ損傷そんしょう故障こしょう相次あいつぎ、桜花おうか部隊ぶたい護衛ごえい戦闘せんとうかみかみなり部隊ぶたいで32、203そらからの応援おうえんが23合計ごうけい55しか準備じゅんびできなかった[71]。それをったかみかみなり部隊ぶたい司令しれい岡村おかむらはじめはる大佐たいさは、援護えんご戦闘せんとうすくないことと目標もくひょう遠距離えんきょりであることから中止ちゅうしこうかん司令しれい上申じょうしんした。こうかん長官ちょうかん宇垣うがきまとい中将ちゅうじょうは「いま状況じょうきょう使つかわなければ使つかうときがないよ」とって断行だんこうした。当時とうじられた情報じょうほうでは計画けいかくどおりの目標もくひょうであったためである[72]

桜花おうか出撃しゅつげき中止ちゅうし宇垣うがき中将ちゅうじょう上申じょうしんしたのは岡村おかむら大佐たいさではなく、こうかん参謀さんぼうちょう横井よこい俊之としゆき大佐たいさであったという証言しょうげんもある。横井よこい大佐たいさだい1航空こうくう戦隊せんたい参謀さんぼう横浜よこはま海軍かいぐん航空こうくうたい司令しれいなどを歴任れきにんした海軍かいぐん航空こうくう専門せんもんで、マリアナおき海戦かいせんでは空母くうぼたか艦長かんちょうとして参加さんかし、アメリカぐん防空ぼうくう能力のうりょく熟知じゅくちしていた[73]出撃しゅつげき命令めいれいのちに、横井よこい参謀さんぼうちょうより護衛ごえいが55かされた岡村おかむら司令しれいが「参謀さんぼうちょう、もっと戦闘せんとうせませんか?」とってかると[74]作戦さくせん困難こんなんさを十分じゅうぶん理解りかいしていた横井よこい参謀さんぼうちょうは「岡村おかむら大佐たいさが55不安ふあんであれば、出撃しゅつげき中止ちゅうしせざるをないとおもわれます。」と宇垣うがき中将ちゅうじょう出撃しゅつげき中止ちゅうし進言しんげんしたが、宇垣うがき中将ちゅうじょう岡村おかむら大佐たいさかたくと、さとすように一語いちごいちゆっくりとした口調くちょうで「この状況じょうきょうで、もしも、使つかえないものならば、桜花おうか使つかときがない、とおもうが、どうかね」とい、岡村おかむら大佐たいさは「ハッ、やります」と決然けつぜんって挙手きょしゅをすると、サッと作戦さくせんしつのちにしたという[75]

岡村おかむら大佐たいさはこの出撃しゅつげきけてる悲惨ひさん状況じょうきょうに、危険きけんせいたか任務にんむには指揮しきかん先頭せんとうたねばならないとかんがえ、野中のなか五郎ごろう少佐しょうさに「今日きょうおれく」とったが[76]野中のなか少佐しょうさは「おことわりします。司令しれい、そんなにわたし信用しんようできませんか!今日きょうだけはいくら司令しれいのお言葉ことばでも、ごめんこうむります」と言葉ことばらげて拒否きょひしている[77][78]野中のなか少佐しょうさ人柄ひとがらより[注釈ちゅうしゃく 7]いちったこと絶対ぜったい撤回てっかいしないと岡村おかむら大佐たいさ熟知じゅくちしていたため、そのまま出撃しゅつげき野中のなか少佐しょうさゆずったが、後年こうねんに、このとき回顧かいこするたび岡村おかむら大佐たいさなみだでいっぱいだったという[79]

アメリカぐん戦闘せんとうのガンカメラで撮影さつえいされた、かみかみなり桜花おうか部隊ぶたい野中のなかたい一式いっしきりくおさむ

その野中のなか少佐しょうさ飛行場ひこうじょうりくおさむ指揮しきしょ途中とちゅう飛行ひこうちょう岩城いわき邦広くにひろ少佐しょうさに「ろくに戦闘せんとう状況じょうきょうではまず成功せいこうしない。特攻とっこうなんてぶっつぶしてくれ。これは湊川みなとがわたたかだよ」とった[80]一方いっぽうで、みずから「野中のなか一家かずや」と名乗なの見事みごと統率とうそつしてきた隊員たいいんらにたいして「野郎やろうどもあつまれ」と呼集こしゅうをかけると[81]「ただいまよりてき機動きどう部隊ぶたい撃滅げきめつかう(中略ちゅうりゃく)ただいま以降いこう攻撃こうげき開始かいしまでは無線むせん中止ちゅうしとする。どんなよわ電波でんぱしちゃならねえ。(中略ちゅうりゃくちにったときがきたのである。日頃ひごろきたえにきたえた訓練くんれん成果せいかしめときたのである。たたかわんかな最後さいごいちてきまでくにささげるときたのである。しょ健闘けんとうのぞむ。」と普段ふだんべらんめえ口調くちょうまじえながら訓示くんじおこなって士気しき鼓舞こぶしている[82][83]。「野中のなか一家かずや」の通例つうれいであった勇壮ゆうそう陣太鼓じんだいこらされるなかで、部下ぶかわか搭乗とうじょういんらも野中のなか少佐しょうさ意気いきこたえるように、出撃しゅつげきには「ってまアす」と大声おおごえし、遠足えんそくていく子供こどもよう笑顔えがおおおきくりながら出撃しゅつげきしてったと、当時とうじ報道ほうどうはんいんとしてかみかみなり部隊ぶたい取材しゅざいをしていた作家さっか山岡やまおか荘八しょうはちべている[注釈ちゅうしゃく 8][84]

1945ねん3月21にちかみかみなり部隊ぶたいだい一回神雷桜花特別攻撃隊(だい一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成へんせい沖縄おきなわ攻撃こうげきちゅうべい機動きどう部隊ぶたいけて出撃しゅつげきさせた[85][注釈ちゅうしゃく 9]出撃しゅつげきから30ふんたないうちに、23護衛ごえい戦闘せんとう故障こしょうとうにより帰還きかん野中のなかたい随伴ずいはんしてる戦闘せんとうかみかみなり部隊ぶたいの306飛行ひこうたいと307飛行ひこうたいちょく戦闘せんとう19と、岡嶋おかじまきよしぐま少佐しょうさひきいる203そら戦闘せんとう303飛行ひこうたい間接かんせつ援護えんご11合計ごうけい30になってしまった[86]護衛ごえい戦闘せんとう離脱りだつ相次あいついでること、また、その索敵さくてきで、さき発見はっけんしていた目標もくひょう機動きどう部隊ぶたいは3ぐんわかれていたうちの1ぐんであり、3ぐん合計ごうけいで7せき以上いじょう空母くうぼ発見はっけん当初とうしょ見込みこみよりもはるかに戦力せんりょくおおきいこと判明はんめい[87]一部いちぶ参謀さんぼうから野中のなかたい帰還きかん命令めいれいはっするよう宇垣うがき中将ちゅうじょう進言しんげんがあったが、宇垣うがき中将ちゅうじょうは「かみかみなり部隊ぶたいいまてき目前もくぜんせまっている。すでに必殺ひっさつ必死ひっしちかっているわか連中れんちゅうもどすにしのびない」とってこれをききいれなかった[88][89]

宇垣うがき中将ちゅうじょう本日ほんじつ出撃しゅつげきにここまでかかわった理由りゆうとして、陣中じんちゅう日記にっきせんろく」の記述きじゅつによれば「18にちらい特攻とっこう兵力へいりょく使用しよううかがつづけ、(中略ちゅうりゃくいまにして機会きかいにがせばふたたあずさたい遠征えんせい余儀よぎなくされ、しかも成功せいこうさんだいならず、かずこんかみかみなり攻撃こうげきおこなうにはと決意けついし、待機たいきちゅう桜花おうかたい決行けっこうめいず。」としており[90]さきの3がつ11にち銀河ぎんが24にてアメリカ海軍かいぐん前線ぜんせん基地きちウルシー環礁かんしょうへの特攻とっこう攻撃こうげきおこない、1しか命中めいちゅうできなかった神風かみかぜ特攻とっこうあずさたいれいし、ここでアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい後退こうたい見逃みのがせば、成功せいこうりつひくいウルシーへの再度さいど攻撃こうげき余儀よぎなくされると判断はんだんしたためとしている[91]野中のなかたい南下なんかする途中とちゅうで「てき発見はっけん」の打電だでんをした偵察ていさつ彩雲さいうん高度こうど200mですれちがったが、彩雲さいうん偵察ていさついん馬渡まわたり武男たけお兵曹へいそう野中のなかたいに「しっかりやってくれ」といの気持きもちでっている[92]

しかし、野中のなかたい進撃しんげきちゅう敵艦てきかんたいレーダー捕捉ほそくされてしまい、正規せいき空母くうぼホーネットけい空母くうぼベローウッド迎撃げいげき戦闘せんとう野中のなかたい邀撃ようげきした[93]。 ベローウッドの戦闘せんとう報告ほうこくしょによれば、スクランブル発進はっしんしたベロー・ウッドの戦闘せんとうたいVF30のF6Fヘルキャット8が、りくおさむたい高度こうど13,000フィート、ちょく掩の戦闘せんとう10すうが14,000フィート、さらこう高度こうど援護えんご戦闘せんとう10すうが16,000フィートのさんそう飛行ひこうしているのを発見はっけんし、18,000フィートまで高度こうどげ、攻撃こうげきのため急降下きゅうこうかした[94]最初さいしょ攻撃こうげきされたのはかみかみなり部隊ぶたい306飛行ひこうたいと307飛行ひこうたいちょく戦闘せんとうたいであり、この時点じてんではちょく掩のれいせんすうおおかったが、このに306飛行ひこうたいとして出撃しゅつげきしていた野口のぐちつよしによれば、アメリカぐん戦闘せんとうたいから後方こうほう上空じょうくうより不意ふい攻撃こうげき仕掛しかけられ、次々つぎつぎちょく掩のれいせん撃墜げきついされていったとのことで、不利ふり状況じょうきょうすう優位ゆういせい発揮はっきできなかった[95]

VF30は援護えんごれいせんらすとりくおさむたい攻撃こうげきをしかけ、りくおさむたいチャフ散布さんぷしながら退避たいひ行動こうどうったところはつたまのがれたこう高度こうど援護えんご岡嶋おかじま戦闘せんとう303が[96]りくおさむたい追撃ついげきしていたVF30の飛行ひこう隊長たいちょうD.A.クラーク少佐しょうされつのJ.G.ミラー少尉しょういの2太陽たいようにして攻撃こうげきしてきた。たちまちクラークら2のF6Fと戦闘せんとう303の11れいせん空戦くうせんとなったが、わずか2のF6Fに戦闘せんとう303は手間取てまと足止あしどめされて、のベローウッドのF6Fがりくおさむたい攻撃こうげきするのをめることができなかった[97]戦闘せんとう303でこの出撃しゅつげきした安部あべ正治しょうじによれば、ひだり前方ぜんぽうからまわんできたF6Fを迎撃げいげきするため隊長たいちょう岡嶋おかじまらとぞうそうはなした直後ちょくごひだり上方かみがたからほかのF6Fたい攻撃こうげきされたとのことで、レーダー管制かんせいによりだんかまえでかまえられていたとかんじたという[98]。その乱戦らんせんとなり、岡嶋おかじまらとはぐれた安部あべ一団いちだん飛行ひこうしていた戦闘せんとう303のれいせん次々つぎつぎ命中めいちゅうだんあたえていたF6Fにおそかり、20㎜機銃きじゅうと13㎜機銃きじゅうびせて風防ふうぼうひだり尾翼びよくんで墜落ついらくしていくのを確認かくにんした[99]

VF30のクラーク少佐しょうさすうでは無勢ぶぜいながらちょく掩のれいせん分断ぶんだんしているあいだに、ホーネットの戦闘せんとうたいVF17と戦闘せんとう爆撃ばくげきたいVBF17のF6F8到着とうちゃくした。最初さいしょいちげきおおきな損害そんがいこうむっていたかみかみなり部隊ぶたいちょく戦闘せんとうたい常々つねづねうでかみかみなり桜花おうか)をまもれなかったら、をもってまもれ」とはたきこまれ、出撃しゅつげきにも再度さいど徹底てっていされていたので[100]つづりくおさむたい護衛ごえいしていたが、ホーネットたい到着とうちゃく要撃ようげきのために散開さんかいしてしまい、クラークらが203そら足止あしどめしているあいだ追撃ついげきしていたVF30のベレンド小隊しょうたい攻撃こうげきたいしてりくおさむたいまったくの無防備むぼうびとなってしまった[97]

れいせん援護えんごがいなくなったのを認識にんしきした野中のなか作戦さくせん中止ちゅうしめいじたのか、りくおさむたい編隊へんたいんだまま急降下きゅうこうかしつつ180°旋回せんかい全速力ぜんそくりょく退避たいひはじめた。いちりくおさむたいのもとをはなれたかみかみなり部隊ぶたいれい戦隊せんたいもそれにつづいたが、桜花おうか搭載とうさいして速度そくどいちじるしく低下ていか回避かいひもままならないりくおさむたいはベレンド小隊しょうたいとホーネットたい攻撃こうげき次々つぎつぎ被弾ひだんし、これまで大事だいじかかえてきた桜花おうか投棄とうきして回避かいひしようとしたがたせず15ぶん空戦くうせん全滅ぜんめつした[101]

一方いっぽう、ホーネットの戦闘せんとう報告ほうこくしょはベローウッドとはすこことなっており、ホーネットの戦闘せんとうたいVF17と戦闘せんとう爆撃ばくげきたいVBF17の混成こんせいたいF6Fヘルキャット8は16,000〜18,000フィートを飛行ひこうする日本にっぽん軍機ぐんきたいし、事前じぜんに20,000フィート前後ぜんこう有利ゆうり空域くういきかまえ、急降下きゅうこうかりくおさむ次々つぎつぎ攻撃こうげきりくおさむはなすすべなく次々つぎつぎ撃墜げきついされていった。そのりくおさむたいは7,000〜8,000フィートまで高度こうどげると、180°旋回せんかいして離脱りだつはかろうとしたが、そのさいもVF17とVBF17の攻撃こうげきことはなかった。これまでにパーリス大尉たいい協同きょうどう撃墜げきついふくめて11、ウィンフィールド中尉ちゅういが5、ミッチェル中尉ちゅういが4、ジョンソン中尉ちゅういが3りくおさむ撃墜げきついしたと主張しゅちょうしている。護衛ごえい戦闘せんとうたいたいしては誘導ゆうどうミスで到着とうちゃくおくれたベロー・ウッドの戦闘せんとうたいVF30のF6Fヘルキャット8かい、その到着とうちゃくしたホーネットたい戦闘せんとうたいVF10のF4U コルセア8増援ぞうえんとしてくわわり、戦力せんりょく充実じゅうじつしたアメリカぐん戦闘せんとうたいたいし、れい戦隊せんたいりくおさむ援護えんごできないまま損害そんがいかさねていった[102]りょう空母くうぼ戦闘せんとうたい到着とうちゃく順番じゅんばん多少たしょうちがいはあるが、戦闘せんとう経緯けいい結果けっかはほぼおなじであり、日本にっぽんぐんがわによればアメリカぐん戦闘せんとうは50以上いじょうとの報告ほうこくであったが、実際じっさい空中くうちゅうせん参加さんかしたアメリカぐん戦闘せんとうは24と、日本にっぽん軍機ぐんき突破とっぱそなえて空母くうぼ上空じょうくう待機たいきしていたホーネットたいのこりF6F8合計ごうけい32であった。

日本にっぽんぐんがわ戦闘せんとう303の安部あべによれば、上方かみがたからおそかってきたてき戦闘せんとうたたかっているあいだりくおさむたいえなくなってしまったが、ようやく、けむりをひきながら垂直すいちょく上昇じょうしょうちゅうの1発見はっけんした。やがてそのりくおさむ半円はんえんえがいて墜落ついらくをはじめると、途中とちゅうほのおのかたまりとなって洋上ようじょう四散しさんしたという。そののち15ふんほど空戦くうせんじょう必死ひっしになってまわったが、てき味方みかたとも発見はっけんすることができず、やむなく単機たんき帰投きとうしようと反転はんてんしてしばらくんでいると、バラバラでたたかっていたれい戦隊せんたい集結しゅうけつし、隊長たいちょう岡嶋おかじまらと合流ごうりゅうできた[103]

空戦くうせん結果けっかりくおさむたいは18ぜん撃墜げきついされ全滅ぜんめつれい戦隊せんたいは30ちゅう10帰還きかんという結果けっかわった。桜花おうかたい三橋みつはし謙太郎けんたろう大尉たいいほか14めい帰還きかんとなった。18ははぜん撃墜げきついされるのにかかった時間じかんは15ふんから20ふん程度ていどであった。このたたかいでうしろをられ、必死ひっし機体きたい左右さゆうすべらせてせんをかわすもつい被弾ひだんして爆発ばくはつ桜花おうかったまま墜落ついらくする一式いっしきりくおさむ姿すがた記録きろくしたF6Fのガンカメラ映像えいぞうのこっている。 この戦闘せんとう攻撃こうげき711飛行ひこうたい攻撃こうげきたい指揮しきかん野中のなか五郎ごろう少佐しょうさほか134めい戦闘せんとう306飛行ひこうたい伊澤いさわ勇一ゆういち大尉たいいほか6めい戦闘せんとう307飛行ひこうたい漆山うるしやま睦夫むつお大尉たいいほか2めい帰還きかんとなった。出撃しゅつげき命令めいれいがなかったレーダー搭載とうさいがた一式いっしきりくおさむでんさがせいんによれば桜花おうか1整備せいびミスで出撃しゅつげきできず、離陸りりく直後ちょくごれいせん2空中くうちゅう衝突しょうとつしたとう。だいいちかみかみなり部隊ぶたいりくおさむたい離陸りりく攻撃こうげきたいないでは意図いとをもって連絡れんらくっていた[104]司令しれいには一本いっぽん電報でんぽうもなく、司令しれい帰還きかんした戦闘せんとうたいから直接ちょくせつ報告ほうこくいて戦況せんきょう把握はあくしたという。この生還せいかんしたれいせんはF6F1確実かくじつ撃墜げきついした安部あべをはじめ、ほとんどのてき撃墜げきつい報告ほうこくした[103]

だいなないち海軍かいぐん航空こうくうたい戦闘せんとう詳報しょうほうには「かみかみなり攻撃こうげき戦機せんきざりしことならびにちょく戦闘せんとう出動しゅつどうりつ僅少きんしょうなりしことが、この作戦さくせん成功せいこうならしめたる原因げんいんにして、次回じかい作戦さくせんたいおおいに研究けんきゅう余地よちあり」「だいいちかいしんかみなり攻撃こうげき敢行かんこうし、桜花おうか使用しよう限界げんかい判明はんめいとし、その作戦さくせんするところきわめてだいなり」としるされていた[13]出撃しゅつげき強行きょうこうした宇垣うがき中将ちゅうじょう陣中じんちゅう日記にっきせんろくに「うち援護えんご戦闘せんとう一部いちぶ帰着きちゃく悲痛ひつうなる報告ほうこくいたせり。そく1420ごろてき艦隊かんたいとの推定すいてい距離きょり5、60かいりいててきグラマンやく50邀撃ようげき空戦くうせん撃墜げきついすうなりしも離散りさんりくおさむ桜花おうかて僅々10すうふんにて全滅ぜんめつ悲運ひうんかいせりと。嗚呼ああ」としるしている[105]

一方いっぽうで、アメリカぐん多数たすうのF6Fが被弾ひだんしたが、撃墜げきついされたのはホーネットたいVBF17のクリスチン中尉ちゅういふくむ2のみであった[106][注釈ちゅうしゃく 10]一方いっぽうてき勝利しょうりであったため、マリアナおき海戦かいせん同様どうようにこの空戦くうせんも「七面鳥しちめんちょうり」とばれた。ちなみにアメリカぐん戦果せんか記録きろく一式いっしきりくおさむ26撃墜げきついれいせん12撃墜げきつい雷電らいでん2撃墜げきついれいせん2撃破げきはさんしきせん1撃破げきは過大かだいなものであったが、だい規模きぼ空戦くうせんでは日米にちべいたがいに過大かだい戦果せんか報告ほうこく茶飯事さはんじであった[108]桜花おうか情報じょうほうすでにアメリカがわ察知さっちしており、アメリカぐん内部ないぶ広報こうほう「Intelligence Bulletin」31ごう通知つうちされていた。そのためホーネットたいVBF17の戦闘せんとう詳報しょうほうでは「この遭遇そうぐうしたベティ(一式いっしきりくおさむのコードネーム)はつばさはば15フィートのちいさなつばさけた魚雷ぎょらいようばくだん搭載とうさいしていた。これは「Intelligence Bulletin」に掲載けいさいされていた日本にっぽんそらばくだんおもわれるが、このばくだんはひとつとして発射はっしゃされること投棄とうきされることもなかった」とあるが、一方いっぽうベローウッドのVF30は「Intelligence Bulletin」をてなかったのか桜花おうか存在そんざいらず「ベティはGizmo(奇妙きみょうもの)を搭載とうさいしていた。(中略ちゅうりゃく)それは尾翼びよくのないV1飛行ひこうばくだんようだった。戦闘せんとうより銃撃じゅうげきされ炎上えんじょうしたすべてのベティはGizmoを投下とうかしたが、それは30°の角度かくど滑空かっくう降下こうかしていった。これらはおおくの場合ばあい滑空かっくう降下こうかちゅうけむりしたがジェット推進すいしんという確証かくしょうはなかった。ほん空母くうぼ航空こうくうたい日本にっぽんぐんがこのような兵器へいき使用しようこころみたという報告ほうこくったことはない。」と報告ほうこくしている。アメリカぐんはこの時点じてんでは桜花おうか有人ゆうじんであるとは認識にんしきしておらず、全容ぜんよう解明かいめいされるのは沖縄おきなわせん桜花おうか無傷むきず鹵獲ろかくされてからであった[109]

湯野川ゆのかわ守正もりまさ桜花おうか要員よういん)によれば「桜花おうか悲報ひほうけても隊員たいいんたちの士気しき旺盛おうせいだった。編成へんせい当初とうしょなやみもあったが、りきって立派りっぱにやっていた。最善さいぜんくしてぬのは本望ほんもう淡々たんたん順番じゅんばんせいにを深刻しんこくかんがえずひとうしゆびをさされないように、一人ひとりでもおおくのてきをやっつけるとかんがえていた」という[43]

沖縄おきなわせん

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桜花おうか命中めいちゅうぷたつになって轟沈ごうちんしたマナート・L・エベール
桜花おうかかんくび貫通かんつう甚大じんだい損傷そんしょう予備よびかんきとなったスタンリー
桜花おうか命中めいちゅう大破たいは炎上えんじょう除籍じょせきまれたときのヒューW.ハドレイ

岡村おかむら大佐たいさだいいちかい失敗しっぱいにより昼間ひるまだい編隊へんたいによる攻撃こうげき断念だんねんし、しゅとして薄暮はくぼおよ黎明れいめいりくおさむ少数しょうすうが1 - 2ずつにかれての出撃しゅつげきおこな戦術せんじゅつ転換てんかんした。その結果けっかとしてべいぐん迎撃げいげき分散ぶんさんされ、沖縄おきなわせんでは桜花おうか射程しゃていないまでアメリカ艦隊かんたい接近せっきんできたははえて戦果せんかすくなからずがるようになった。しかし一方いっぽうでアメリカ艦隊かんたい捕捉ほそくできず、桜花おうかのみ空中くうちゅう投棄とうきして帰投きとうするおおかった[110]一般いっぱんにはかいかみかみなり桜花おうか特別とくべつ攻撃こうげきたい以降いこう戦闘せんとう護衛ごえいかったともわれるが、だい306そらからだい203そら異動いどうした野口のぐちつよしによれば、2かい以降いこうも1りくおさむたいし2〜3戦闘せんとう護衛ごえいいている[111]

また岡村おかむらは、桜花おうか胴体どうたいない燃料ねんりょうタンク増設ぞうせつおこない、ロケットでてき戦闘せんとう構想こうそうっていたが、1945ねん4がつ前後ぜんこう実験じっけんでロケット装備そうび効果こうかがないと判断はんだんした[112]

1945ねん4がつ1にちだいかいしんかみなり桜花おうか特別とくべつ攻撃こうげきたい上述じょうじゅつ岡村おかむら司令しれい戦術せんじゅつ変更へんこうにより、深夜しんや221ふんより1ずつ6出撃しゅつげきした。岡村おかむら出撃しゅつげきまえ訓示くんじで、野中のなかたい作戦さくせん続行ぞっこう強行きょうこうして全滅ぜんめつしたこともあり「攻撃こうげき機会きかいずに帰投きとうしてもずかしくない」とくどいほどねんししている[113]。この濃霧のうむ視界しかいかないなか海上かいじょう不時着ふじちゃくしたり、やま激突げきとつする続出ぞくしゅつした。アメリカぐん夜間やかん戦闘せんとう追撃ついげきされたという報告ほうこくもあったが、アメリカがわ該当がいとうする戦闘せんとう報告ほうこくはなく、だいいちかいつづ戦果せんかまったげられないなかで、出撃しゅつげきした6ちゅう4帰還きかんとなった[114]

1945ねん4がつ12にちだいさんかいしんかみなり桜花おうか特別とくべつ攻撃こうげきたいでようやく桜花おうか戦果せんかげることになった。土肥どい三郎さぶろう中尉ちゅうい搭乗とうじょう桜花おうか駆逐くちくかんマナート・L・エベールかんたい中央ちゅうおう命中めいちゅうしたが、命中めいちゅうとほぼ同時どうじ爆発ばくはつして船体せんたいぷたつにしずみだした。あまりの衝撃しょうげき艦上かんじょう設置せっちしてあったボフォース 40mm機関きかんほうはほとんどがび、艦上かんじょうにいた水兵すいへい海中かいちゅうされた[115]。マナート・L・エベールは1944ねん7がつ就役しゅうえきした新造しんぞうかんであったが、わずか9ヶ月かげつ沈没ちんぼつすることとなった。殊勲しゅくんげた土肥どい中尉ちゅういは、出撃しゅつげきまでは終始しゅうし悠々ゆうゆうとした態度たいどであったとのことで、はは仮設かせつベッドで仮眠かみんをとっていたのをわざわざこしたという証言しょうげん[116]指揮しきかんせきじろぎもせずうでんだままつぶっていたという証言しょうげんもある[117]はは一式いっしきりくおさむ機長きちょう三浦みうらきた太郎たろう少尉しょういであり、鹿屋かのや基地きち無事ぶじ帰投きとう土肥どい中尉ちゅうい戦果せんか報告ほうこくした。

また、桜花おうかスタンリー命中めいちゅうした。その桜花おうかはスタンリーの右舷うげん真横まよこてい高度こうど海面かいめんすれすれで接近せっきん水面すいめんからわずか2mのたかさの舷側げんそく命中めいちゅうしたが、そのまま駆逐くちくかんかんくびつらぬ左舷さげんがわからしてしまった。桜花おうか弾頭だんとうは、装甲そうこうあつ主力しゅりょくかん対策たいさくとしておそどう信管しんかん搭載とうさいしたとおるかぶとだんだったため駆逐くちくかんかんくびでは装甲そうこううすすぎて艦内かんない爆発ばくはつせず、皮肉ひにくにもスタンリーは沈没ちんぼつのがれることとなったが[118]桜花おうかつらぬいた右舷うげんがわはまるでバターナイフでられたバターのようかれており、人的じんてき損失そんしつすくなかったがかん損傷そんしょう深刻しんこく[119]、こののち復帰ふっきかなわず予備よびかんきとなった。ほかにも1せき駆逐くちくかん至近しきん爆発ばくはつ損傷そんしょうさせている。この桜花おうか戦果せんか報告ほうこくけた宇垣うがき中将ちゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 11]、これまで桜花おうかについて懐疑かいぎてきであったが、「さん度目どめ成功せいこうにてはなる此頃、如何いかやら桜花おうか寿命じゅみょうばせり」と陣中じんちゅう日記にっきせんろくいている[120]

1945ねん4がつ14にちだいよんかいしんかみなり桜花おうか特別とくべつ攻撃こうげきたいは7出撃しゅつげきぜん帰還きかん戦果せんかかったが、澤柳さわやなぎ彦士大尉たいい隊長たいちょうより桜花おうか発射はっしゃとの打電だでんがあっている。アメリカぐん記録きろくでも、けい空母くうぼベローウッドの戦闘せんとうたいVF-30(だいいちかい桜花おうか部隊ぶたい全滅ぜんめつさせた部隊ぶたい)がベティ(一式いっしきりくおさむ)を撃墜げきついしたが、撃墜げきついされるまえ桜花おうか投下とうかしたという報告ほうこくがなされている[121]。またこの戦闘せんとう状況じょうきょう撮影さつえいしたカラーフィルムには、だい58任務にんむ部隊ぶたい所属しょぞくけい空母くうぼサン・ジャシントかんくび至近しきん海面かいめん桜花おうか突入とつにゅう爆発ばくはつする姿すがたうつっており(サン・ジャシントに損傷そんしょうなし)、確認かくにんできる範囲はんいないでは、アメリカぐん駆逐くちくかんなどのレーダーピケットかんめぐらされたピケットラインを突破とっぱし、空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきした唯一ゆいいつ桜花おうかとなった[122]

だいかいだいろくかい出撃しゅつげきしたはは搭乗とうじょういんより戦果せんか報告ほうこくがあったが、アメリカ海軍かいぐん公式こうしき被害ひがい記録きろくじょうでは報告ほうこくされたものはなかった。(詳細しょうさい#戦果せんか参照さんしょう

1945ねん5がつ4にちだいななかいしんかみなり桜花おうか特別とくべつ攻撃こうげきたい機雷きらい敷設ふせつ駆逐くちくかんシェイ英語えいごばんに1桜花おうか命中めいちゅうしている。桜花おうか司令しれいかんしつ戦闘せんとう指揮しきしょソナールームなどの艦内かんない中枢ちゅうすう目茶目茶めちゃめちゃこわして126めい死傷ししょうしゃさせたのち、スタンリーのときおなじようにシェイを貫通かんつう海上かいじょう爆発ばくはつした。そのためシェイは撃沈げきちんまぬかれたが、よく1946ねんまで修理しゅうりわらないほどの深刻しんこく損害そんがいこうむり、桜花おうか威力いりょくをまざまざとせつけることとなった[123][124]2せき駆逐くちくかん至近しきんだん損傷そんしょうし3めい負傷ふしょうしゃした。

桜花おうか最後さいご戦果せんかげたのが1945ねん5がつ11にちだい八回神雷桜花特別攻撃隊で、護衛ごえい駆逐くちくかんヒューW.ハドレイ英語えいごばんに1桜花おうか命中めいちゅうし、後部こうぶ機械きかいしつ前部ぜんぶボイラーしつ中間ちゅうかん爆発ばくはつした。かんはたちまちすべての機能きのう停止ていしさら大量たいりょう浸水しんすいしたためバロン・J・マレイニ艦長かんちょうは「総員そういん退すさかん」をめいじたが、かんのこった50めい士官しかん水兵すいへい神業かみわざともえるダメージコントロール沈没ちんぼつのがれた。しかしかん損傷そんしょう致命ちめいてきで96めいもの死傷ししょうしゃし、修理しゅうりはされずそのままスクラップとなった[125]。またこの宇垣うがき中将ちゅうじょういのちにより、特攻とっこう部隊ぶたい援護えんごため桜花おうか2をアメリカぐん飛行場ひこうじょう攻撃こうげきため出撃しゅつげきさせている。滑走かっそう大穴おおあなけて離着陸りちゃくりくをできなくする目的もくてきであったが、アメリカぐん戦闘せんとう妨害ぼうがい突入とつにゅう断念だんねんしている[126]。1945ねん5がつ25にちだいきゅうかいしんかみなり桜花おうか部隊ぶたいは、だいいちかいすうの11りくおさむ桜花おうか投入とうにゅうされ、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん豊田とよだふくより直々じきじき出撃しゅつげき見送みおくりをけている[127]前日ぜんじつ義烈ぎれつ空挺くうていたい沖縄おきなわ飛行場ひこうじょう突入とつにゅうしており、期待きたいおおきかったが、天候てんこう不良ふりょううち8かえし、のこり3桜花おうか射出しゃしゅつ打電だでんのないまま帰還きかんとなった[128]。そのうちの1一式いっしきりくおさむは、レーダーをけるため海面かいめんすれすれに飛行ひこうし、ピケットラインの駆逐くちくかん気付きづかれることなく接近せっきんしていたが、桜花おうか射出しゃしゅつまえ発見はっけんされ対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされている[129]

こののちの1945ねん5がつ28にち大本営だいほんえいはようやく桜花おうか機密きみつあつかいを解除かいじょし、かみかみなり部隊ぶたい存在そんざい公表こうひょうした。「その壮烈そうれつなる戦意せんい一発いっぱつ轟沈ごうちんおそれるべき威力いりょくとをもってき陣営じんえい震撼しんかんせしめたるかみかみなり特別とくべつ攻撃こうげき隊員たいいん殊勲しゅくんみとめ、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんこれおっとぜんぐん布告ふこくせり」との海軍かいぐんしょう公表こうひょう中心ちゅうしんに、よく29にち紙面しめん新聞しんぶん各紙かくしいちめん大々的だいだいてきほうじたが、朝日新聞あさひしんぶん紙面しめんには「ロケットだんっててき艦船かんせんぐん體當たいあたり(体当たいあたり)」とか「1はつ轟沈ごうちんしんかみなり特攻隊とっこうたい」とか「翼下よくかから皇軍こうぐん獨特どくとくしん兵器へいき」といさましい見出みだしがならび、桜花おうか概要がいようと、これまでのかみかみなり桜花おうか作戦さくせん戦死せんししゃ321めい布告ふこくと、だい一回神雷桜花特別攻撃隊出撃時のさんきょう大尉たいいらの写真しゃしんおおきく掲載けいさいされたが、戦果せんかについては曖昧あいまい記述きじゅつになっている。また外電がいでんAPでんやアメリカのタイム桜花おうかについて日本にっぽんさきんじて報道ほうどうしたこともつたえていた[130]

桜花おうか記事きじすう日間にちかんわた紙面しめんかざり、6月1にち朝日新聞あさひしんぶんの「霹靂へきれきごと一瞬いっしゅん敵艦てきかんただのみ」という見出みだしの記事きじには、当時とうじ海軍かいぐん報道ほうどうはんいんだった作家さっか川端かわばた康成やすなりの「かみかみなり(桜花おうかのこと)こそはじつおそれるべき武器ぶきだ(中略ちゅうりゃく)これさへあれば沖縄おきなわ周辺しゅうへんてき艦船かんせんぐんはすべてうみ藻屑もくずとしてくれるぞ」「おや飛行機ひこうき胴体どうたいいだかれてく、いわば飛行機ひこうきのこのかみかみなり兵器へいきちいさな飛行機ひこうきかたちをしていて色彩しきさい優美ゆうびまった可愛かわいい(中略ちゅうりゃく)かみかみなりによる勝機しょうきこん眼前がんぜんにある、必勝ひっしょうしんじてかみかみなりにまたがり、淡々たんたん出撃しゅつげきする勇士ゆうしとうづかしくないしんをもって生産せいさんせんたたかかう、ばくげきだんじてくっするな」という談話だんわせている[131][注釈ちゅうしゃく 12]

またNHKも6がつ13にちよりすう日間にちかんわたって、かみかみなり桜花おうか部隊ぶたい隊員たいいんらの様子ようすつたえるラジオ放送ほうそう全国ぜんこくながしたが、そのさい報道ほうどうはんいんだった作家さっか山岡やまおか荘八しょうはち司会しかい解説かいせつをしている[132]山岡やまおか取材しゅざいえて東京とうきょうかえるさいに司令しれい岡村おかむらから、だいいちかい出撃しゅつげき戦死せんしした野中のなか位牌いはい岡村おかむらそなえていた、ウィスキーのかくびん果物くだもの缶詰かんづめといった当時とうじでは貴重きちょうだった大量たいりょうのおそなものを「東京とうきょう野原のはらいている。家族かぞくこまっているでしょう。せめて、これをリュックにれていってあげなさい」とわたされている[133]

そのぐん国民こくみん期待きたいとは裏腹うらはら桜花おうか特攻とっこうは1945ねん6がつ22にちだい十回神雷桜花特別攻撃隊6全滅ぜんめつ沖縄おきなわせん終結しゅうけつにより一旦いったん出撃しゅつげき中止ちゅうしされ、本土ほんど決戦けっせん準備じゅんびとして、りくおさむ搭乗とうじょういん400めいはは一式いっしきりくおさむは1945ねん7がつ石川いしかわけん小松こまつ基地きち移動いどう岡村おかむら司令しれい要員よういん松山まつやま基地きち移動いどう桜花おうか搭乗とうじょういん75めい宮崎みやざきけん日向ひなたとみだか基地きち移動いどうしたが、出撃しゅつげきすることもなくそのまま終戦しゅうせんむかえている[134]

また、桜花おうか本土ほんど決戦けっせんため有力ゆうりょく兵器へいき看做みなされ、弱点じゃくてん航続こうぞく距離きょり延長えんちょうがた地上ちじょうから発射はっしゃ可能かのう桜花おうかなどの開発かいはつすすめられたが、実戦じっせん投入とうにゅうされることはかった。(詳細しょうさい#派生はせいがた参照さんしょう

戦後せんご

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かみかみなり桜花おうか部隊ぶたい厚木あつぎ海軍かいぐん飛行場ひこうじょう302そら抗戦こうせん部隊ぶたいとなるうごきが一部いちぶにあったが、玉音ぎょくおん放送ほうそう沖縄おきなわ特攻とっこう出撃しゅつげきして戦死せんしした宇垣うがき中将ちゅうじょう後任こうにんとなったこうかん司令しれい長官ちょうかんくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ中将ちゅうじょうが、1945ねん8がつ21にちかみかみなり部隊ぶたいりくおさむたいおよ桜花おうかたい解散かいさんめいじた。予備よび士官しかんに3,300えん下士官かしかんに2,800えん退職たいしょくきん支給しきゅうされ、各々おのおのりくおさむ分乗ぶんじょうして故郷こきょうちかくの飛行場ひこうじょうかえよう指示しじされた[135]終戦しゅうせんによりぐん組織そしき崩壊ほうかいしたにひとしく、故郷こきょうへの帰還きかん飛行ひこう自由じゆうおこなわれ、観光かんこう飛行ひこうよう富士山ふじさん周回しゅうかいしたり、故郷こきょう上空じょうくう低空ていくう旋回せんかいするもあったという。かくりくおさむ最後さいご飛行場ひこうじょうてられた[136]

8がつ18にち発案はつあんしゃ大田おおた正一しょういち中尉ちゅういは、茨城いばらきけんかみいけ基地きちにおいてれいしき練習れんしゅう戦闘せんとうんで離陸りりく、そのまま行方ゆくえ不明ふめいとなった。基地きちつくえに「東方とうほう洋上ようじょうる」と遺書いしょのこした[137]大田おおたは、戦時せんじ桜花おうか搭乗とうじょういんとなるべく異例いれいはからいで偵察ていさついんから操縦そうじゅういんへの転換てんかん訓練くんれんけたが、「適性てきせいなし」と判断はんだんされていた。また、桜花おうか使用しよう中止ちゅうしされた7がつごろ大田おおた方々かたがた再開さいかいするようにいてまわったが、終戦しゅうせんまで再開さいかいされることはなかった[138]大田おおた新聞しんぶん桜花おうか発案はつあんしゃとして華々はなばなしくげられて以来いらい不遜ふそん態度たいどをとるようになっていたうえ桜花おうか搭乗とうじょういん人命じんめい軽視けいしする発言はつげんおこなっていたため、報復ほうふくおそれていたというせつもある。また、戦犯せんぱん認識にんしき勘違かんちがいしていたというせつもある[139]殉職じゅんしょくとして大尉たいい昇進しょうしんしており、1956ねん11がつ20日はつか地方ちほう役員やくいん作成さくせい内地ないち死没しぼつしゃ名簿めいぼでは「航空こうくう殉職じゅんしょく」「戸籍こせき抹消まっしょうずみ」となっている[140]。しかし、大田おおた漁船ぎょせん救助きゅうじょされて改名かいめいして生存せいぞんしていた[141]。その大田おおたもと同僚どうりょうまえあらわれており、稲田いなだ正二しょうじ戦後せんごもなくなんってうえばなしいたという。きむ華山かざんおき洋上ようじょう北海道ほっかいどう漁船ぎょせんひろわれ、北海道ほっかいどう知事ちじ戸籍こせきあたらしくつくってもらったとはなしている[142]。その生涯しょうがい戸籍こせきのまま1994ねん死去しきょした。

かみかみなり部隊ぶたい司令しれい岡村おかむらはじめはる大佐たいさは1948ねん鉄道てつどう自殺じさつをしている。遺書いしょのこしておらず動機どうき不明ふめいであるが、南方なんぽうの202そら司令しれい時代じだい部下ぶかおこなった捕虜ほりょ虐待ぎゃくたい証言しょうげんけるためだったという意見いけん[143]厚生省こうせいしょうだい復員ふくいんしょうでの復員ふくいん業務ぎょうむ一段落いちだんらくくと周囲しゅういからてもかたりたようにえたとのことや、戦中せんちゅう常々つねづね「おまえたちだけをかせやしない。おれかならく」とっていたことみずか特攻とっこう発想はっそうおもいついた341そらのあった千葉ちば自殺じさつげていることから心中しんちゅうのするものがあったのではないか、という意見いけんもある[144]。また、復員ふくいんきょく勤務きんむしていたため、そのつてを使つかって鹿児島かごしま鹿屋かのやや、ふねりて南海なんかいしま特攻隊とっこうたいいん慰霊いれいめぐりをしていたこと判明はんめいしている[145]

設計せっけいしゃ三木みき忠直ただなお技術ぎじゅつ少佐しょうさは、戦後せんご鉄道てつどう技術ぎじゅつしゃ転身てんしんし、新幹線しんかんせん設計せっけいおこなっている[146]桜花おうか設計せっけい関与かんよしたこと後悔こうかいしており、1952ねん戦後せんごはじめて雑誌ざっし世界せかい航空機こうくうき」が桜花おうか特集とくしゅう記事きじ掲載けいさいするさい三木みき証言しょうげん依頼いらいしたが、「日本にっぽん技術ぎじゅつしゃ全体ぜんたい名誉めいよためにも桜花おうか技術ぎじゅつから抹殺まっさつされるべきである」と証言しょうげん拒否きょひしていた[147]。その昭和しょうわ30年代ねんだい世界せかい最初さいしょ音速おんそく突破とっぱした航空機こうくうきとなったベル X-1のドキュメンタリー映画えいが三木みきは、ベル X-1がははB-29から発射はっしゃされる姿すがた桜花おうかそのものであることおどろき、特攻とっこうのシステムが、未知みち音速おんそく突破とっぱいど機体きたいのシステムの一部いちぶとなったことにすくわれた気持きもちになったとはなしている[141]実際じっさいにアメリカが桜花おうかのシステムを参考さんこうにしたかは不明ふめいであるが、三木みきは、X‐1ごう開発かいはつはじまったのは終戦しゅうせん直後ちょくごの1946ねんであり、時期じきてき間違まちがいないと判断はんだんしていた。その日本にっぽん特攻とっこう兵器へいき調査ちょうさしている退役たいえきまい海軍かいぐん中佐ちゅうさ三木みきったさい中佐ちゅうさは1945ねん6がつづけべい空軍くうぐんによる桜花おうかかんしての詳細しょうさい調査ちょうさ資料しりょう三木みきせ、「この資料しりょうからてX-1のテストが『桜花おうか』を参考さんこうにしたことは間違まちがいないだろう」とこたえたほか[148]、ベル X-1が音速おんそくえた飛行ひこうのパイロットチャック・イェーガー三木みき会談かいだんしたときに、イエーガーが「桜花おうか銀河ぎんがも、当時とうじ世界せかい最高さいこう技術ぎじゅつでした。アメリカぐんが、三木みきさんの技術ぎじゅつ参考さんこうにした可能かのうせいがあります」とべたという[149]。1968ねんには『かみかみなり特別とくべつ攻撃こうげきたい』も出版しゅっぱんしている[150]

戦績せんせき

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d参照さんしょう[151][152][153][154][155]

戦果せんか

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日付ひづけ かんめい かんしゅ 戦死せんししゃ 負傷ふしょうしゃ 備考びこう
1945ねん4がつ12にち マナート・L・エベール 駆逐くちくかん 84[156] 35 ぷたつとなり轟沈ごうちん
1945ねん4がつ12にち スタンリー 駆逐くちくかん 0 3 かんくび命中めいちゅうしたが、弾頭だんとう艦内かんない爆発ばくはつせずかんたい貫通かんつう海上かいじょう落下らっかただ損傷そんしょう甚大じんだいで、その除籍じょせきされ予備よびかん
1945ねん4がつ12にち ジェファーズ 掃海そうかい駆逐くちくかん 0 0 至近しきん落下らっか小破しょうは
1945ねん5がつ4にち シェイ 敷設ふせつ駆逐くちくかん 35[157] 91 かん中央ちゅうおう命中めいちゅう戦闘せんとう指揮しきしょなどのかん中枢ちゅうすう撃破げきは貫通かんつうして海上かいじょう爆発ばくはつしずまなかったが大破たいは終戦しゅうせんまで復帰ふっきできず
1945ねん5がつ4にち ゲイエティ 駆逐くちくかん 0 3 至近しきん爆発ばくはつ破片はへんで40mm機関きかんほう破壊はかい
1945ねん5がつ4にち ヘンリー.A.ワイリ 駆逐くちくかん 0 0 至近しきん落下らっか小破しょうは
1945ねん5がつ11にち ヒューW.ハドレイ 駆逐くちくかん 30[158] 121[158] 大破たいは炎上えんじょう総員そういん退すさかん命令めいれいるもしずまず、しかし修理しゅうり困難こんなん判断はんだんされそのまま除籍じょせき
合計ごうけい 7せき 149めい 253めい 1せき撃沈げきちん 2せき大破たいは除籍じょせき 1せき大破たいは 3せき損傷そんしょう
桜花おうか貫通かんつう大破たいはしたのち、アメリカ本国ほんごく修理しゅうりされた敷設ふせつ駆逐くちくかんシェイ

損失そんしつ

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だい1かい だい2かい だい3かい だい4かい だい5かい だい6かい だい7かい だい8かい だい9かい だい10かい 合計ごうけい
桜花おうかはは出撃しゅつげきすう 18[注釈ちゅうしゃく 14] 6 9 7 6 4 7 4 11 6 78
どう帰還きかんすう[注釈ちゅうしゃく 15] 18 4 5 7 4 1 5 3 3 2 52

合計ごうけい10わた出撃しゅつげき結果けっか桜花おうかパイロット55めい特攻とっこう戦死せんし、そのはは搭乗とうじょういんは365めい戦死せんしした。

そして708飛行ひこうたい桜花おうかはは一式陸攻搭乗員酒井啓一上飛曹の回顧かいこによれば、4がつ16にちだいかいしんかみなり桜花おうか部隊ぶたいで、戦艦せんかん中心ちゅうしんとするじゅうすうせき艦隊かんたいたい宮下みやした良平りょうへい中尉ちゅうい搭乗とうじょうする桜花おうか射出しゃしゅつ、そのおおきな爆発ばくはつ水柱みずばしらがったのをさけ井上いのうえ曹をふくむ4めいはは搭乗とうじょういん目撃もくげきしており、戦艦せんかん1せき撃沈げきちん戦果せんか報告ほうこくしている。また4がつ28にちだい六回神雷桜花部隊出撃時も、不意ふい機動きどう部隊ぶたい遭遇そうぐうし、はげしい対空たいくう砲火ほうかなか山際やまぎわ直彦なおひこいち搭乗とうじょう桜花おうか射出しゃしゅつ、その井上いのうえうえ曹と機長きちょうらが海上かいじょうだい火災かさいこってるのを確認かくにんし、じゅうじゅん1せき撃沈げきちん報告ほうこくしているが[159]、このいずれのもアメリカ海軍かいぐん公式こうしき被害ひがい記録きろくじょうでは報告ほうこくされたものはなかった。

アメリカがわ評価ひょうか

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沖縄おきなわでアメリカぐん鹵獲ろかくされた桜花おうか11がた

沖縄おきなわせんでアメリカぐん上陸じょうりく初日しょにち沖縄おきなわきたちゅう飛行場ひこうじょう占領せんりょうしたが、きた飛行場ひこうじょう北東ほくとうがわ斜面しゃめんられた掩体ごうなかから桜花おうかが10鹵獲ろかくされた。すで概要がいよう情報じょうほうつかんでいたアメリカぐんであったが、鹵獲ろかくした桜花おうか調査ちょうさし、桜花おうか(この時点じてんではGizmoとばれていた)が人間にんげん操縦そうじゅうするロケットばくだんであるということもなく判明はんめいすると、自殺じさつきんじるキリスト教きりすときょうてき価値かちかんより、自殺じさつをするようなおろもの兵器へいきという意味合いみあいで「BAKA(日本語にほんご馬鹿ばかおとをそのままアルファベット表記ひょうき)」というコードネームがけられた[160]。その運用うんよう思想しそう嫌悪けんおかんおぼえたアメリカぐんであったが、兵器へいきとしての有効ゆうこうせいたいしてはつよ懸念けねんしめし、早速さっそく鹵獲ろかくした桜花おうか本国ほんごくおくり、アメリカ技術ぎじゅつ航空こうくう情報じょうほうセンター徹底てっていした調査ちょうさおこなわれている。この報告ほうこくしょ戦後せんご桜花おうか設計せっけい技術ぎじゅつしゃ三木みき忠直ただなおに「桜花おうか設計せっけいつくった設計せっけいしょよりはるかにくわしい」とわしめたほどに詳細しょうさい調査ちょうさであった[160]

その桜花おうか駆逐くちくかんマナート・L・エベール撃沈げきちんするとその懸念けねん現実げんじつすることとなり、アメリカぐんはマナート・L・エベールのオールトン・E・パーカー艦長かんちょう副長ふくちょう砲術ほうじゅつちょうに25ページにおよ長文ちょうぶん詳細しょうさい戦闘せんとう記録きろくつくらせ、最高さいこう機密きみつあつかいとし徹底的てっていてき分析ぶんせきしている。その報告ほうこくしょには「それはいままでにしたどんな飛行機ひこうきよりもはやかった。プロペラやエンジンはかけられなかったので、この機体きたいはジェットかロケットを推力すいりょくにしているものとおもわれた。」と記述きじゅつしてあった[161]。マナート・L・エベール同様どうよう桜花おうか命中めいちゅうしたもののあまりの威力いりょくかんたいけたため撃沈げきちんまぬかれた駆逐くちくかんスタンリー砲術ほうじゅつちょうは「このミサイルが艦艇かんてい装備そうび自動じどう火器かき射程しゃていないまで接近せっきんしても、なにぶつもその突進とっしん停止ていしさせたり、その方向ほうこう変換へんかんさせるのは無理むりである」とべている[116]

当時とうじのアメリカ海軍かいぐんは、桜花おうかをもっとも危険きけん兵器へいきで、アメリカぐん砲手ほうしゅやパイロットらにとってこれまでに遭遇そうぐうしたもっともえない攻撃こうげき目標もくひょうであるとかんがえた[116]

アメリカぐん詳細しょうさい特別とくべつ攻撃こうげきたい対策たいさく制定せいていぜんぐん徹底てっていしたが、そのなかでも桜花おうかおおきくげられ、下記かきこと徹底てっていされている[11]

  • 人間にんげんという最高さいこう制御せいぎょ誘導ゆうどう装置そうちそなえた、潜在せんざいてきもっと脅威きょういとなるたいかん攻撃こうげき兵器へいきである。
  • 桜花おうかははおよび、潜在せんざいてきははとなりうる双発そうはつさい優先ゆうせん攻撃こうげきすること。
  • サイズがちいさく、胴体どうたいつばさ合板ごうはんせい近接きんせつ信管しんかん半径はんけい10〜15mでしか作動さどうしない、また速力そくりょくたかいため、撃墜げきついには従来じゅうらい航空機こうくうき比較ひかくして4ばいたまりょう必要ひつようである。
  • レーダー反射はんしゃ戦闘せんとうやく3わりおおきさである。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海軍かいぐんしょうでは、従来じゅうらい兵器へいきでは一度いちど射出しゃしゅつされた桜花おうか有効ゆうこう迎撃げいげきができないとかんがえ、桜花おうか対抗たいこうするためにターボ・ジェット機じぇっとき開発かいはついそがせた。アメリカ海軍かいぐんはつのジェット艦載かんさい戦闘せんとうFH-1 ファントム完成かんせいしたが、終戦しゅうせんまでに実戦じっせん配備はいびわなかった[116]

アメリカぐんによりえがかれた桜花おうか構造こうぞう

桜花おうかがアメリカぐん艦隊かんたいへの攻撃こうげきおこなっているのとどう時期じきおこなわれた日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうでは、1945ねん7がつ以降いこうだい21ばくげき集団しゅうだん作戦さくせん任務にんむ報告ほうこくなか桜花おうか目撃もくげきまたは攻撃こうげきけたという報告ほうこくられる。なかには、「一式いっしきりくおさむ桜花おうか発射はっしゃして300ヤードまで接近せっきんした(作戦さくせん任務にんむだい249ごう、7がつ3にち~4にち姫路ひめじだい空襲くうしゅう[162]」「桜花おうかを3〜6目撃もくげき作戦さくせん任務にんむだい271ごう、7がつ16にち〜17にち沼津ぬまづだい空襲くうしゅう[163]」「1桜花おうかB-29撃墜げきついして爆発ばくはつした(作戦さくせん任務にんむだい249ごう、7がつ26にち〜27にち徳山とくやま空襲くうしゅう[164]」といった具体ぐたいてき記述きじゅつもあるが、日本にっぽんがわ記録きろくにはB-29迎撃げいげき桜花おうかもちいた記録きろくく、これらがなにであったかは不明ふめいである[165][注釈ちゅうしゃく 16]

またアメリカぐん以下いかよう桜花おうか今後こんご発展はってん予測よそくしていた[11]

  • シンプルで経済けいざいてき構造こうぞうなので、大量たいりょう生産せいさん容易よういおもわれる。月産げっさん200生産せいさん可能かのう推定すいていされる。
  • 桜花おうか運用うんよう制限せいげんする要因よういんははとなる双発そうはつかずとなる。
  • そのため今後こんご桜花おうか地上ちじょう水上すいじょうかんから使用しようできるような改造かいぞうをされる可能かのうせいたかい。
  • 桜花おうか様々さまざまかたちつばさ装着そうちゃくできるような基本きほん構造こうぞうになっており、今後こんご、よりなが航続こうぞく距離きょり、より良好りょうこう操縦そうじゅうせい、よりひく速度そくどった桜花おうか登場とうじょうする可能かのうせいたかい。
  • ジェットエンジンを搭載とうさい地上ちじょう艦船かんせんから発射はっしゃされる桜花おうか登場とうじょう可能かのうせいがある。
  • 照明しょうめいだんがあれば、艦船かんせんのシルエットを目標もくひょうすることにより、魚雷ぎょらいがた桜花おうかによる夜間やかん攻撃こうげき十分じゅうぶん可能かのうである。

戦後せんご、アメリカぐん桜花おうか作戦さくせん全体ぜんたいたいしては「この自殺じさつ兵器へいき使用しよう成功せいこうしなかった。」との総括そうかつをしており、その原因げんいんとしては「はは脆弱ぜいじゃくせい制限せいげん要素ようそとなった。」と分析ぶんせきしている[167]。また、だい一回神雷桜花部隊野中隊を全滅ぜんめつさせただい58任務にんむ部隊ぶたいだい1空母くうぼぐん司令しれいジョゼフ・J・クラーク少将しょうしょうは「桜花おうか失敗しっぱい要因よういんは、一発いっぱつ勝負しょうぶ兵器へいきであり、パイロットが事前じぜん十分じゅうぶん訓練くんれんができなかったことである。」とも指摘してきしている[168]

作家さっかサミュエル・モリソンは、桜花おうかについて「小型こがたなことと、とてつもないスピードのため、桜花おうかはわがぐん艦船かんせんたいする最悪さいあく脅威きょういとなった。それは、ロンドンをおそったドイツの誘導ゆうどうミサイルにほぼ匹敵ひってきする脅威きょういとなった。」とべている[169]作家さっかジョン・トーランドは、当時とうじのアメリカぐん艦隊かんたい全体ぜんたい状況じょうきょうとして「桜花おうかを『BAKA』とさげすんでみても、アメリカぐん艦隊かんたい全体ぜんたいひろまった恐怖きょうふけっしてやわらぐことはなかった。」とべている[170]当時とうじ従軍じゅうぐん記者きしゃだったハンソン・ボールドウィン英語えいごばん桜花おうか人間にんげん誘導ゆうどう装置そうちとなった誘導ゆうどうミサイルであって、戦後せんごにミサイルの完成かんせいによって現実げんじつした水上すいじょう艦艇かんていたいする脅威きょうい予見よけんしたものであり、その脅威きょうい的確てきかく理解りかいしたアメリカぐんは、特攻とっこう阻止そしには十分じゅうぶん威力いりょくがなかったMk.IV 20 mm 機関きかんほうボフォース 40mm機関きかんほうだい部分ぶぶん戦後せんごになってアメリカ海軍かいぐん艦艇かんていからはずし、特攻とっこう対策たいさくとして新規しんき開発かいはつされたMk 33 3インチほう装備そうびするようになったと指摘してきしている[171]

派生はせいがた

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桜花おうか11がた操縦そうじゅうせき
11がた

実戦じっせん投入とうにゅうされた機体きたい。55特攻とっこう出撃しゅつげきした。終戦しゅうせんまでに755生産せいさんされている[172]桜花おうか11がた独力どくりょく離陸りりくできなかったため、一式いっしきりくおさむ24がた改造かいぞうした一式いっしきりくおさむ24がたちょうばれる改造かいぞうつくり、アメリカぐん艦隊かんたいちかくまで、その下部かぶ搭載とうさいしてはこび、そこから発進はっしんする方法ほうほうをとった。ばくだん搭載とうさいりょう800kgで設計せっけいされた一式いっしきりくおさむにとって、全備ぜんび重量じゅうりょう2.3トンじゃく桜花おうか非常ひじょうおもく、桜花おうか搭載とうさいした一式いっしきりくおさむは、限界げんかいギリギリの離陸りりく可能かのう重量じゅうりょうとなる。桜花おうかのエンジンは4ごう1しき噴進(20がた火薬かやくロケット)とばれたが、ロケット燃料ねんりょうはゴムじょう固形こけいになっており、1ほんあたり7びょう〜8びょう加速かそく可能かのうで、そのロケットが3装備そうびされていたので30びょうじゃく加速かそくができた。基本きほんてきにはグライダーなので滑空かっくうてき接近せっきんするが、てき突入とつにゅうするとき滑空かっくう距離きょりばすときてき戦闘せんとう迎撃げいげきから退避たいひする場合ばあいなどにロケットエンジンを使用しようし、その使用しよう搭乗とうじょういん判断はんだんまかされた[173]航続こうぞく距離きょりみじかさがおおきなあしかせとなっていたため派生はせいかくかた航続こうぞく距離きょり延長えんちょうはかられることとなった。

22がた

作戦さくせん成功せいこうりつたかめるためはは軽快けいかい銀河ぎんが変更へんこうしたもの。銀河ぎんが車輪しゃりんはば一式いっしきりくおさむよりせまために、おさまるように主翼しゅよくけずるなどの形状けいじょう変更へんこうほかに、発進はっしん飛行ひこう距離きょり増大ぞうだい目指めざして、11がたの4ごう1しき噴進を「ツ11」に変更へんこうし(レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動くどうし、燃焼ねんしょうしつない燃料ねんりょう噴射ふんしゃするというモータージェットカンピーニロケット)である)自重じちょう軽減けいげんのため、ばくだん搭載とうさいりょうらして (1200kg→600kg) いる。また、主翼しゅよくない敵艦てきかんのレーダーをぎゃく探知たんちして位置いち計測けいそくする2しきそら7ごう無線むせん電話機でんわき2がた装備そうびされた[174]。22がたのダミーを搭載とうさい飛行ひこう実験じっけんをした銀河ぎんがは、37km/hの減速げんそくまり飛行ひこうにも問題もんだいないと判断はんだんされたために、22がた完成かんせいするまえ銀河ぎんが10ははとしての改装かいそう前倒まえだおしでおこなわれた。しかし肝心かんじんの22がた本体ほんたいはエンジンツ11生産せいさんはかどらず、1945ねん6がつにどうにか試験しけん飛行ひこうにこぎけたが、2かい連続れんぞく事故じここし、2かい事故じこでテストパイロットの長野ながの一敏かずとし少尉しょうい殉職じゅんしょくしている。事故じこ原因げんいんは、エンジンかわそうによる速度そくどげんおぎなため設置せっちされていた火薬かやくロケット4ごう1しき噴進1発火はっかしたためであり、事故じこ防止ぼうしためはずされた。火薬かやくロケットがはずされたことにより速度そくど減少げんしょうすることとなったが、さらなる問題もんだいとして22がたツ11エンジンは上空じょうくううす大気たいきでは始動しどうさせること出来できないこと判明はんめいし、はは離陸りりくには搭載とうさいするエンジンを始動しどうさせておかねばならなかった。また銀河ぎんが形状けいじょうにあわせた主翼しゅよく面積めんせきげんにより操縦そうじゅうせい悪化あっかすることとなった[175]。これらの問題もんだいかかえていたうえに、ツ11エンジンの生産せいさんなか軌道きどうらず、22がた生産せいさんすうはわずか50わり、実戦じっせん投入とうにゅうされることはなかった[176]

桜花おうか22がた三面さんめんツ11モータージェットエンジンを搭載とうさいしている
21がた

22がたのエンジンを11がたおなじ4ごう1しき噴進(20がた火薬かやくロケット)にかわそうしたもの。ツ11実用じつようできなかった場合ばあいそなえて計画けいかくされていたが、22がたは11がた比較ひかくつばさめん荷重かじゅうたかく、もし完成かんせいしていたら11がたより航続こうぞく距離きょりみじかさら運用うんよう困難こんなん機体きたいになっていた可能かのうせいたかかった[176]

33がた

ははをさらにパワーのある連山れんざん変更へんこうしたもの。同時どうじ桜花おうか自体じたいのエンジンも強化きょうかされている。連山れんざん自体じたいぞう備されなかったため、こちらも量産りょうさんされなかった。

43かぶとがた

33がた潜水せんすいかんのカタパルトから射出しゃしゅつ可能かのうとしたかたで、潜水せんすいかん格納かくのうとう格納かくのうするため主翼しゅよく脱着だっちゃくしきとなる計画けいかくであったが、大戦たいせん末期まっきにはめぐせんのカタパルトはほとんど撤去てっきょされており、完成かんせいしても運用うんよう困難こんなんかんがえられ計画けいかくだけでわった[177]よんひゃくがた潜水せんすいかん搭載とうさい晴嵐せいらんてき空母くうぼ基地きち奇襲きしゅう攻撃こうげきしようという計画けいかくもあったとわれている[178]

43おつがた

ネ20ジェットエンジン搭載とうさいし、300kmちか航続こうぞく距離きょりたタイプ。陸上りくじょうからのカタパルト発進はっしんおこな予定よてい開発かいはつされた。また特徴とくちょうとしては、自力じりき飛行ひこう基地きち移動いどう可能かのうとなるように設計せっけいされており、より「飛行機ひこうき」にちかかたちとなった。そのため無線むせん落下傘らっかさん装備そうび予定よていされていた。トンネルしき格納庫かくのうこおさめるため主翼しゅよくたたしきで、さらに突入とつにゅう加速かそくがつくようつばさはし火薬かやくによりはなせる構造こうぞうになっていたが、これは可変かへんつばさ実用じつようのはしりであったという指摘してきもある[178]実物じつぶつ木型きがた模型もけいは1945ねん4がつ修了しゅうりょう海軍かいぐん航空こうくう技術ぎじゅつしょう愛知あいち航空機こうくうき量産りょうさん準備じゅんびすすめていたところで終戦しゅうせんむかえている。このかたではエンジンと燃料ねんりょうタンクの設置せっちのためばくだん重量じゅうりょうは800kgにらされていた[179]おなネ20ジェットエンジン搭載とうさいするたちばなはなは2のエンジンが必要ひつようであったが、桜花おうかは1かったため決戦けっせん兵器へいきとしては効率こうりつてきかんがえられ優先ゆうせんてき量産りょうさんされる計画けいかくだった[180]

量産りょうさん製造せいぞう開始かいしまえ練習れんしゅうふく)K2も2製造せいぞうされていた。また地上ちじょう発射はっしゃよう基地きち建設けんせつすすめられていた。(下表かひょう参照さんしょう桜花おうか43おつがたは、東京とうきょうから発射はっしゃすれば滑空かっくうふくめて名古屋なごやまでは飛行ひこうできる航続こうぞく距離きょりとする計画けいかくであり、発射はっしゃ基地きち海岸かいがんではなく内陸ないりくつくられている。それでかく基地きちのカタパルト1につき桜花おうかを5〜10準備じゅんびする予定よていであった。桜花おうか43おつがた発射はっしゃ基地きちうちで、さき完成かんせいしたのは比叡山ひえいざんすで完成かんせいしていたため下表かひょう表記ひょうきなし)であり、いで武山たけやま基地きち完成かんせいした。武山たけやまではカタパルトからの桜花おうか射出しゃしゅつ実験じっけんおこなわれ成功せいこうしている。その、43おつがた実戦じっせん部隊ぶたいであるだい725航空こうくうたい編成へんせいされたが、出撃しゅつげきすることなく終戦しゅうせんむかえた[181]

このときのこされた桜花おうか発射はっしゃようのレールが、千葉ちばけんみなみ房総ぼうそうおんいんというてら片隅かたすみ保存ほぞんされている。三芳みよし地区ちく平和へいわかいが、としやく3かい程度ていど草刈くさかりをして手入ていれしている。比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ近隣きんりんのカタパルト建設けんせつ桜花おうか輸送ゆそう比叡山ひえいざん鉄道てつどうのケーブルカー接収せっしゅうされた。カタパルトは終戦しゅうせん直後ちょくご連合れんごう国軍こくぐん爆破ばくはされた、との記録きろく[182]。カタパルトの金属きんぞく戦後せんご復興ふっこうげされ、跡地あとち比叡山ひえいざんドライブウェイ一部いちぶとなっている[183]

2015ねん大分おおいたけん宇佐うさ地域ちいきおこし団体だんたいゆたかくに宇佐うさじゅく」によって、比叡山ひえいざん桜花おうか訓練くんれん基地きち様子ようすをアメリカぐん終戦しゅうせん直後ちょくごの1945ねん9がつ撮影さつえいした映像えいぞうがアメリカ国立こくりつ公文書こうぶんしょかん発見はっけんされた。その映像えいぞうには山頂さんちょう基地きちまでそなけのケーブルカーでのぼ様子ようすや、建築けんちく途中とちゅう基地きち様子ようす桜花おうか発射はっしゃためのカタパルトなどがうつっていた[184]

終戦しゅうせん、アメリカぐんわたすためにかみいけ飛行場ひこうじょうならべられている桜花おうか

桜花おうか43おつがた発射はっしゃ基地きち(1945ねん7がつ14にち 官房かんぼうそら機密きみつ1149ごう 桜花おうか43ごう基地きち整備せいびけん訓令くんれいより)[185]

場所ばしょ カタパルト設置せっちすう 完成かんせい予定よてい 所轄しょかつ
静岡しずおかけん熱海峠あたみとうげ 8 1945ねん8がつ 横須賀よこすか鎮守ちんじゅ
千葉ちばけん房総ぼうそう南部なんぶ 12
茨城いばらきけん筑波つくば 6 1945ねん9がつ
神奈川かながわけん武山たけやま 1 1945ねん8がつ
静岡しずおかけん大井おおい 6 1945ねん9がつ
三重みえけん朝熊あさまさん 6
和歌山わかやまけん田辺たなべ 10 大阪おおさか警備けいび

しょもと

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参考さんこう[186][1]

型式けいしき 桜花おうか11がた 桜花おうか22がた 桜花おうか43おつがた
全長ぜんちょう 6m 7m 8m
全幅ぜんぷく 5m 4m 9m
ぜんこう 1m 1.3m
主翼しゅよく面積めんせき 6m2 4m2 13m2
駆動くどう方式ほうしき 4ごう1しき噴進火薬かやくロケット) ツ11モータージェット ネ20ジェットエンジン
静止せいし推力すいりょく 800kg×3 200kg 475kg
弾頭だんとう重量じゅうりょう 1,200kg 600kg 800kg
ぜん重量じゅうりょう 2,140kg 1,580kg 2,600kg
制限せいげん速度そくど 1,018km/h 833km/h
水平すいへい飛行ひこう最高さいこう速度そくど 648km/h 453km/h~555km/h 518km/h~555km/h
最高さいこう滑空かっくう速度そくど 983km/h 不明ふめい
航続こうぞく距離きょり 37km 120km 278km
はは 一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき 銀河ぎんが 地上ちじょう射出しゃしゅつ
生産せいさんすう 755 50 0

現存げんそんする機体きたい

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではワシントンD.C.国立こくりつアメリカ海軍かいぐん博物館はくぶつかんスミソニアン博物館はくぶつかん (Steven F. Udvar-Hazy Center)およびカリフォルニアしゅうプレーンズ・オブ・フェイム航空こうくう博物館はくぶつかんなどで日本にっぽん降伏ごうぶく連合れんごう国軍こくぐん接収せっしゅうされた実物じつぶつことができる。またイギリスマンチェスターにある産業さんぎょう博物館はくぶつかん、コスフォードのイギリス空軍くうぐん博物館はくぶつかんでもることができる。

日本にっぽん国内こくないでは、埼玉さいたまけん入間いるまにある航空こうくう自衛隊じえいたい入間いるま基地きちうちおさむたけだい記念きねんかんいち保存ほぞんされている。この記念きねんかん2005ねん12月閉館へいかんしたが、リニューアルをおこなって2012ねん3がつに「教育きょういく講堂こうどう しんおさむたけだい記念きねんかん」として開館かいかん通常つうじょう一般いっぱん公開こうかいされていないが、基地きちわせるほか、まれ開催かいさいされている館内かんない見学けんがくかい参加さんかすることでることが出来できる。 また、靖国神社やすくにじんじゃ付属ふぞく施設しせつであるゆう就館では複製ふくせい機体きたい展示てんじされ、さらに一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき搭載とうさいされ攻撃こうげきする様子ようすかみかみなり部隊ぶたい桜花おうか攻撃こうげき)がジオラマで展示てんじされている。 さらに、1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつかみいけ海軍かいぐん航空こうくうたい開設かいせつされた、現在げんざい日本にっぽん製鉄せいてつ(かぶ)鹿島かしませい鐡所の一角いっかくにある「桜花おうか公園こうえん」では掩体ごうにおさまる桜花おうか11がた復元ふくげんこと可能かのうである。ほかにも山梨やまなしけん河口湖かわぐちこ自動車じどうしゃ博物館はくぶつかんなどでもることが出来できる。河口湖かわぐちこ復元ふくげんは、信管しんかん実物じつぶつ使用しようしているとの主張しゅちょうがなされているが、陸軍りくぐん航空こうくうばくだんのものを使用しようしている。

機体きたい以外いがいでは、本土ほんど決戦けっせんそなえて千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう一帯いったい桜花おうか基地きち建築けんちくされていたさとしおんいんみなみ房総ぼうそう下滝田しもたきだ)に桜花おうか発射はっしゃレールが保存ほぞんされている。

型名かためい    番号ばんごう   機体きたい写真しゃしん      国名こくめい 所有しょゆうしゃ 公開こうかいじょうきょう 状態じょうたい 備考びこう
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
997 写真しゃしん イギリス 科学かがく技術ぎじゅつ博物館はくぶつかん[1] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [2]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1046
8486M
I-13
イギリス イギリス空軍くうぐん博物館はくぶつかんコスフォードかん[3] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [4]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1049
I-18
アメリカ プレーンズ・オブ・フェイム航空こうくう博物館はくぶつかん[5] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [6]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1081
I-13
写真しゃしん アメリカ 国立こくりつ海兵かいへいたい博物館はくぶつかん[7] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [8]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1084
I-10
アメリカ ヤンクス航空こうくう博物館はくぶつかん[9] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [10]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1214 写真しゃしん 日本にっぽん 航空こうくう歴史れきし資料しりょうたて おさむたけだい記念きねんかん 公開こうかい[注釈ちゅうしゃく 17] 静態せいたい展示てんじ 尾翼びよくは1252号機ごうきのもの。[11]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
1585
BAPC.58
写真しゃしん イギリス イギリス海軍かいぐん航空こうくう博物館はくぶつかん[12] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [13]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
I-16 日本にっぽん 河口湖かわぐちこ自動車じどうしゃ博物館はくぶつかん飛行ひこうたて[14] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [15]
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
BAPC.159 イギリス ダックスフォード帝国ていこく戦争せんそう博物館はくぶつかん[16] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
MXY-7
桜花おうかいちいちがた
写真しゃしん インド インド空軍くうぐん博物館はくぶつかん[17] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
MXY-7
桜花おうかがた
6744 アメリカ 国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん[18] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [19]
MXY-7K-1
桜花おうかK-1
1018 アメリカ 国立こくりつアメリカ空軍くうぐん博物館はくぶつかん[20] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [21]
MXY-7K-1
桜花おうかK-1
5100 アメリカ 国立こくりつアメリカ海軍かいぐん博物館はくぶつかん[22] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [23]
MXY-7K-2
桜花おうかK-2
43B 写真しゃしん アメリカ 国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん 公開こうかい 修復しゅうふくちゅう [24]
いちいちがたレプリカ I-18 写真しゃしん アメリカ ウィングス・オブ・イーグルス開発かいはつセンター[25] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
いちいちがたレプリカ アメリカ 国立こくりつ軍用ぐんよう博物館はくぶつかん[26] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [27]
いちいちがたレプリカ アメリカ ローンスター飛行ひこう博物館はくぶつかん[28] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
いちいちがたレプリカ 写真しゃしん 日本にっぽん 宇佐うさ平和へいわ資料しりょうかん[29] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
いちいちがたレプリカ 写真しゃしん 日本にっぽん 神栖かみす中央ちゅうおう公園こうえん[30] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [31]
いちいちがたレプリカ 写真しゃしん 日本にっぽん 桜花おうか公園こうえん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
いちいちがたレプリカ 日本にっぽん ゆう就館[32] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ

関連かんれん作品さくひん

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映像えいぞう作品さくひん

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はな特攻隊とっこうたい あゝ戦友せんゆうよ』(映画えいが
プロジェクトX〜挑戦ちょうせんしゃたち〜』(2000ねん5がつ9にち放送ほうそうだい7かい新幹線しんかんせん』「執念しゅうねんんだ新幹線しんかんせん ろうとも90さい飛行機ひこうき姿すがたえた」)
最初さいしょ新幹線しんかんせん0けい設計せっけいしゃは、桜花おうか設計せっけい主務しゅむしゃ1人ひとり三木みき忠直ただなおであり、桜花おうか設計せっけいかかわったことが鉄道てつどう技術ぎじゅつしゃ転身てんしんするきっかけになったことなどが放映ほうえいされた。

漫画まんが

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劇画げきが太平洋戦争たいへいようせんそう神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい
フィリピンでの特攻とっこう作戦さくせんのこった青年せいねん桜花おうかみ、べい戦艦せんかん体当たいあたりするまでをえがく。大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょうせき行男いくお大尉たいいなど、特攻とっこうかかわった実在じつざい人物じんぶつ実名じつめい登場とうじょうする。
戦場せんじょうまんがシリーズ
シリーズのいちへん桜花おうか主題しゅだいとした『音速おんそく雷撃らいげきたい』がある。『ザ・コクピット』のタイトルでOVAされたさいには、みっつのエピソードのうちのひとつとして『音速おんそく雷撃らいげきたい』が採用さいようされた。また、『虚空こくう弾道だんどう1945』にも、航続こうぞく距離きょり延長えんちょうと20mm機関きかんほう4もん装備そうびおこなった架空かくう桜花おうか改造かいぞう登場とうじょうする。
せんそらたましい
作品さくひんとおしてすうかい題材だいざいになった。ただし、物語ものがたりちゅう史実しじつ考証こうしょうとがことなる部分ぶぶんがある。
番長ばんちょう特攻とっこうす!』

小説しょうせつ

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永遠えいえんの0
主題しゅだいとなるのはれいせんとそれによる特攻とっこうだが、だい八章はっしょうでは桜花おうかおおきくあつかわれている。なお、映画えいがばん桜花おうか登場とうじょうしない。
くも墓標ぼひょう
海軍かいぐん予備よび学生がくせい青年せいねんたちをえがいた小説しょうせつ。「マルダイ」をせられた攻撃こうげき操縦そうじゅうしゃが、通常つうじょう攻撃こうげき必要ひつようせいつよ主張しゅちょうして、桜花おうかたいへの転属てんぞく打診だしん辞退じたいする場面ばめんがある。
紺碧こんぺき艦隊かんたい
後世こうせい世界せかいにて転生てんせいばん桜花おうか登場とうじょう特攻とっこうではなくジェットエンジン搭載とうさいの噴式迎撃げいげき戦闘せんとうとなっており、大量たいりょう生産せいさんかないあおいわる戦時せんじ増産ぞうさんがた機体きたいとして開発かいはつされた。コミックばんOVAはんでは、本来ほんらい桜花おうか機体きたい両側りょうがわにインテーク、機首きしゅだい口径こうけい機関きかんほうもうけたような外見がいけんをしている。
リーンのつばさ
主人公しゅじんこう迫水さこみずしん次郎じろう桜花おうかパイロットだった。その70ねんえがいたアニメばんにも迫水さこみずてきおうとして登場とうじょうし、迫水さこみず特攻とっこうもちいた桜花おうか複製ふくせいや、桜花おうかからをとったロボット(オーラバトラー)「オウカオー」なども登場とうじょうする。
ブレイジングエンジェル2 シークレットミッション・オブ・WWII
ミッション12「ポイント防御ぼうぎょ」にて登場とうじょうサンフランシスコゴールデン・ゲート・ブリッジ攻撃こうげきのためによん〇〇がた潜水せんすいかんから発進はっしんする。また終盤しゅうばんになるとプレイヤーかって集団しゅうだん自爆じばく攻撃こうげき仕掛しかけてくる。減速げんそく回避かいひ機動きどうなどをおこなほか作中さくちゅう台詞せりふから史実しじつことなりジェットエンジンを搭載とうさいしている模様もよう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 航空こうくう特攻とっこう兵器へいきけん」も実戦じっせん投入とうにゅうされた可能かのうせい指摘してきされている[9]
  2. ^ 小川おがわのち特攻とっこう兵器へいき梅花ばいか発案はつあんした人物じんぶつでもある。
  3. ^ 必死ひっしであることになやみがあったなら、なやみの解決かいけつ必死ひっし有人ゆうじんではないという矛盾むじゅんがある。
  4. ^ 作家さっか生出おいで寿ひさし民間みんかん協力きょうりょく源田げんた紹介しょうかいじょうがあったと想像そうぞうしている[26]が、すんでじゅつのように民間みんかん協力きょうりょくはすでにある。
  5. ^ 書面しょめんじょうから海軍かいぐん特攻とっこう部長ぶちょう大森おおもりせん太郎たろう中将ちゅうじょう命名めいめいしゃとされる場合ばあいもある(8がつ31にち書類しょるいじょう正式せいしき認定にんていは1945ねん3がつ17にちないへいれい8ごう[51]記者きしゃ渡邉わたなべ恒雄つねお源田げんた命名めいめいしゃ広言こうげんしたことがあるが根拠こんきょはない[52]
  6. ^ 実際じっさい空母くうぼフランクリンとワスプを大破たいはさせ、イントレピッドやエンタープライズやエセックスにも損傷そんしょうあたえていた。
  7. ^ こうかんづけ中島なかじまただし少佐しょうさによれば「猛虎もうこのようなおとこ[77]
  8. ^ 山岡やまおか荘八しょうはち鹿屋かのや基地きちちかくにつ2けん平屋ひらやうちの1けん報道ほうどうはんいん滞在たいざいかみかみなり部隊ぶたい隊員たいいん寝食しんしょくともにし2ヶ月かげつわたって取材しゅざいをしている。もう1けん平屋ひらやかみかみなり部隊ぶたい司令しれい岡村おかむら大佐たいさ宿舎しゅくしゃであった。
  9. ^ 野中のなか五郎ごろう少佐しょうさ指揮しきによる一式いっしきりくおさむ18(うち隊長たいちょう3桜花おうか搭載とうさい)、桜花おうか15護衛ごえいれいせん55編成へんせい
  10. ^ 出撃しゅつげき命令めいれいがなかったレーダー搭載とうさいがた一式いっしきりくおさむでんさがせいんがBBCの短波たんぱ放送ほうそう無断むだんいたところによれば、べいがわ損害そんがいは7だったという[107]
  11. ^ 日本にっぽんがわ戦艦せんかん1せき撃沈げきちん判断はんだんしていた。
  12. ^ 川端かわばた康成やすなりは『新潮しんちょう』1955ねん8がつごう終戦しゅうせん10周年しゅうねん特集とくしゅうごうに、三島みしま由紀夫ゆきお志賀しが直哉なおや作家さっかけい25めいで「昭和しょうわじゅうねん自画像じがぞう」として戦時せんじかえ寄稿きこうした「敗戦はいせんのころ」という特集とくしゅう記事きじで「沖縄おきなわせんこみがなく、日本にっぽん敗戦はいせんえるやうで、わたし憂鬱ゆううつつた。特攻隊とっこうたいについていちぎょう報道ほうどうかなかつた。」といているが、かみかみなり桜花おうか部隊ぶたいについての記事きじ談話だんわせていたことになる。
  13. ^ 棚沢たなざわ直子なおこ当時とうじ東洋大学とうようだいがく教授きょうじゅ三木みきむすめ
  14. ^ このうち桜花おうか搭載とうさいは15
  15. ^ 不時着ふじちゃく不時ふじ着水ちゃくすいふくめず。
  16. ^ 航空機こうくうき撃墜げきついよう親子おやこばくだんであったさんごうばくだん誤認ごにんした可能かのうせいもあるが、作戦さくせん報告ほうこくではさんごうばくだんを「たま(Ball of Fire)」「そら対空たいくうロケット」と区別くべつして報告ほうこくしている[166]
  17. ^ まれ実施じっしされる観覧かんらんかい以外いがいのときはよう予約よやく

出典しゅってん

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  9. ^ 牧野まきの育雄いくお最終さいしゅう決戦けっせん兵器へいき秋水しゅうすい設計せっけいしゃ回想かいそう発表はっぴょう資料しりょうにより解明かいめいする究極きゅうきょく のメカニズム』光人みつひとしゃp198
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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