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豊田とよだふく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊田とよだ ふく
とよだ そえむ
生誕せいたん (1885-05-22) 1885ねん5月22にち
日本の旗 日本にっぽん 大分おおいたけん杵築きづき
死没しぼつ (1957-09-22) 1957ねん9月22にち(72さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1905ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 東京とうきょう府中ふちゅう 東郷とうごうてら
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豊田とよだ ふく(とよだ そえむ、1885ねん明治めいじ18ねん5月22にち - 1957ねん昭和しょうわ32ねん9月22にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょうだい29だいだい30だい連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん海兵かいへい33うみだい甲種こうしゅ15首席しゅせき最後さいごとなるだい19だい軍令ぐんれい総長そうちょうつとめた。

経歴けいれき

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1885ねん明治めいじ18ねん)5がつ22にち大分おおいたけん速見はやみぐん杵築きづきまちげん杵築きづき)にまれる。名前なまえの「ふく」は「もの」に由来ゆらいする[1]旧制きゅうせい大分おおいた県立けんりつ杵築きづき中学校ちゅうがっこうて、1904ねん明治めいじ35ねん12月17にち海軍兵学校かいぐんへいがっこうだい33に180めいちゅうだい107成績せいせき入校にゅうこう同期どうきには、「りょう豊田とよだ」の片割かたわれの豊田とよだ貞次郎ていじろうがいるが、和歌山わかやまけん出身しゅっしん貞次郎ていじろうとはこれがはつ面識めんしきであった。1905ねん明治めいじ38ねん11月28にち卒業そつぎょう成績せいせき順位じゅんい171めいちゅうだい26海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせいとして2とう巡洋艦じゅんようかん橋立はしだて乗組のりくみ1906ねん明治めいじ39ねん2がつ15にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつし、旅順りょじゅんしば威海衛いかいえい青島ちんたお香港ほんこんマニラパームとうタウンズビルメルボルンシドニーバタヴィアシンガポール澎湖とう竹敷たけしき元山もとやま大湊おおみなと方面ほうめん巡航じゅんこう8がつ25にち帰着きちゃく8がつ30にち装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん日進にっしん乗組のりくみ12月20にち海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかん

1907ねん明治めいじ40ねん9月28にち3とう駆逐くちくかん朝露あさつゆ乗組のりくみ1908ねん明治めいじ41ねん7がつ31にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう普通ふつう科学かがくせい拝命はいめい9月25にち海軍かいぐん中尉ちゅうい昇進しょうしん1909ねん明治めいじ42ねん1がつ20日はつか海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう普通ふつう科学かがくせい拝命はいめい4がつ30にちだい14水雷すいらいていたい1910ねん明治めいじ43ねん12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう乙種おつしゅ学生がくせい拝命はいめい1911ねん明治めいじ44ねん5月22にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとうだい8学生がくせい拝命はいめい11月29にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとう卒業そつぎょう。12月1にち海軍かいぐん大尉たいい昇進しょうしんめぐよう戦艦せんかん鞍馬あんば分隊ぶんたいちょう着任ちゃくにん1913ねん大正たいしょう2ねん)12月1にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう教官きょうかんけん副官ふっかん着任ちゃくにん

1915ねん大正たいしょう4ねん12月13にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅだい15学生がくせいとして入学にゅうがく1917ねん大正たいしょう6ねん4がつ1にち海軍かいぐん少佐しょうさ昇進しょうしん11月26にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅを20めいちゅう首席しゅせき卒業そつぎょう

12月1にち海軍かいぐんしょう出仕しゅっし軍事ぐんじ参議さんぎかん副官ふっかん着任ちゃくにん1919ねん大正たいしょう8ねん11月25にち海軍かいぐんしょう出仕しゅっしけん横須賀よこすか鎮守ちんじゅ。12月1にちざいイギリス日本にっぽん大使館たいしかん海軍かいぐん駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん着任ちゃくにん1921ねん大正たいしょう10ねん)12月1にち海軍かいぐん中佐ちゅうさ昇進しょうしん1922ねん大正たいしょう11ねん8がつ1にち帰朝きちょう。12月1にちけい巡洋艦じゅんようかん球磨くま副長ふくちょう着任ちゃくにん1923ねん大正たいしょう12ねん)4がつ1にち横須賀よこすか鎮守ちんじゅ6月1にち海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局員きょくいん着任ちゃくにん1925ねん大正たいしょう14ねん)12月1にち海軍かいぐん大佐たいさ昇進しょうしん軍令ぐんれい出仕しゅっしけん海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかん着任ちゃくにん1926ねん大正たいしょう15ねん7がつ15にち横須賀よこすか鎮守ちんじゅ11月1にちけい巡洋艦じゅんようかん由良ゆら艦長かんちょう着任ちゃくにん1927ねん昭和しょうわ2ねん11月15にちだい7潜水せんすいたい司令しれい着任ちゃくにん1928ねん昭和しょうわ3ねん12月10にち海軍かいぐんしょう教育きょういくきょくだい1課長かちょう着任ちゃくにん1930ねん昭和しょうわ5ねん12月1にち戦艦せんかん日向ひなた艦長かんちょう着任ちゃくにん1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月1にち海軍かいぐん少将しょうしょう昇進しょうしん海軍かいぐん軍令ぐんれい参謀さんぼうだい2班長はんちょう着任ちゃくにん1932ねん昭和しょうわ7ねん)10がつ10日とおかけんだい4班長はんちょう1933ねん昭和しょうわ8ねん2がつ23にちめんだい4班長はんちょう9月15にち連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうけんだい1艦隊かんたい参謀さんぼうちょう着任ちゃくにん1935ねん昭和しょうわ10ねん3月15にち海軍かいぐんしょう教育きょういく局長きょくちょう着任ちゃくにん。11月15にち海軍かいぐん中将ちゅうじょう着任ちゃくにん12月2にち海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょうけん将官しょうかん会議かいぎ議員ぎいん着任ちゃくにん

1937ねん昭和しょうわ12ねん10がつ20日はつかだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにん1938ねん昭和しょうわ13ねん10月13にち勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう。11月15にちだい2艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにん1939ねん昭和しょうわ14ねん10月21にち海軍かいぐんしょうかんせい本部ほんぶちょう着任ちゃくにん

太平洋戦争たいへいようせんそう

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1941ねん昭和しょうわ16ねん9月18にち海軍かいぐん大将たいしょう昇進しょうしん鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにん。10月、東條とうじょう英機ひでき内閣ないかく発足ほっそくには海軍かいぐん大臣だいじん内定ないていしたが、首相しゅしょう東條とうじょうって就任しゅうにん拒絶きょぜつした。もっとも東條とうじょうのほうでも豊田とよだ忌避きひしてきた。1941ねん12月、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ

1942ねん昭和しょうわ17ねん11月10にち軍事ぐんじ参議さんぎかん着任ちゃくにん1943ねん昭和しょうわ18ねん4がつ21にち横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにん

連合れんごう艦隊かんたい長官ちょうかん

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1944ねん昭和しょうわ19ねん5月3にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにん前任ぜんにん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょう遭難そうなん殉職じゅんしょく(いわゆる海軍かいぐんおつ事件じけん)を連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされる。先任せんにんじゅんでは山本やまもと五十六いそろく死後しご連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん補職ほしょくされるべき職位しょくいたが、へい学校がっこう1後輩こうはい古賀こがみねいち選任せんにんされたことにこだわりつづけ、戦争せんそう末期まっき就任しゅうにんにも当初とうしょは「いまさらまかされても自分じぶんにできることなにもないし気力きりょくもない」とっぱねた。当初とうしょ連合れんごう艦隊かんたい司令しれいけい巡洋艦じゅんようかん大淀おおよど設置せっちしたがのち司令しれい日吉ひよし移動いどう陸上りくじょうから指揮しきった。

1944ねん12月1にちかみかみなり部隊ぶたい視察しさつ隊員たいいんかみかみなり鉢巻はちまき短刀たんとう授与じゅよする[2]

1945ねん4がつ戦艦せんかん大和やまとふくだい艦隊かんたいによる海上かいじょう特攻隊とっこうたい実施じっしされた。この作戦さくせん連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうかみ重徳しげのり大佐たいさ参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ中将ちゅうじょうとおさずに豊田とよだから直接ちょくせつ裁決さいけつた。豊田とよだは「大和やまと有効ゆうこう使つか方法ほうほうとして計画けいかく成功せいこうりつは50%もない。うまくいったら奇跡きせき。しかしまだはたらけるものを使つかわねば、多少たしょう成功せいこうさんあればとおも決定けっていした」という[3]

1945ねん昭和しょうわ20ねん4がつ25にちけん海軍かいぐんそう司令しれい長官ちょうかん5月1にちけん海上かいじょう護衛ごえい司令しれい長官ちょうかん

軍令ぐんれい総長そうちょう

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1945ねん5月29にち軍令ぐんれい総長そうちょう着任ちゃくにん昭和しょうわ天皇てんのうは「司令しれい長官ちょうかん失格しっかくもの総長そうちょうにするのはくない」と豊田とよだ総長そうちょう就任しゅうにん反対はんたいするむね海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさげているが、べいないは「わかもの本土ほんど決戦けっせん)に支持しじがある豊田とよだならわかものおさえて終戦しゅうせんっていける」という意図いと天皇てんのうった。しかし結果けっかてきわかものおさえるどころかられたかたちになり、べいないしたしい知人ちじんに「豊田とよだ裏切うらぎられた気分きぶんだ。見損みそこなった」とべ、昭和しょうわ天皇てんのうは「べいない失敗しっぱいだ。べいないのためにしまれる」と述懐じゅっかいしている[4]

戦争せんそう末期まっき軍令ぐんれい次長じちょう大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょうとともに徹底てってい抗戦こうせんうったえた。もっとも豊田とよだ自著じちょで、太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきける徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょう和平わへい立場たちばことにすることにより、海軍かいぐん内部ないぶにおける決戦けっせん暴走ぼうそう食止くいとめたと自己じこ弁護べんごろん展開てんかいしている。 高木たかぎそうきちは、豊田とよだ見解けんかいたいし「くるしい弁疏べんそにすぎず論点ろんてんはなは不明ふめい」としたうえで、「総長そうちょう次長じちょう一方いっぽうめんいち戦場せんじょう指揮しきかんではなく、陛下へいか最高さいこう統帥とうすい幕僚ばくりょうとして戦争せんそう指導しどう枢機すうきをにぎり、国家こっか全局ぜんきょく大観たいかんすべき立場たちばにあったはずである。戦局せんきょくきずられ、ぜん国民こくみん災難さいなんおもいをいたさなかったことは、だんじてゆるされないあやまりである」ときびしく批判ひはんしている[5]吉田よしだ俊雄としおは「もしこのとき、(豊田とよだ終戦しゅうせんについていて)はじめからさんたいさんでなくよんたいのバランスであったら、現実げんじつのように、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくができたろうか。とすれば、このさんたいさんという数字すうじは、偶然ぐうぜんにそうなったとかんがえてよいのか。いったい豊田とよだ総長そうちょう心底しんそこは、どうだったのか」といている[6]

ソ連それん参戦さんせんけて8がつ9にち昼前ひるまえおこなわれた最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎでは、軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだが、まねかれてもいないのに軍令ぐんれい次長じちょう大西おおにしたき治郎じろう同席どうせきさせるなど問題もんだい行為こういがあった。さらに8がつ12にち軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろうとともにポツダム宣言せんげん受諾じゅだく反対はんたい奏上そうじょうする[7]同日どうじつ海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさ豊田とよだ大西おおにし2人ふたりした。べいない豊田とよだ行動こうどうを「それからまた大臣だいじんにはなん相談そうだんもなく、あんな重大じゅうだい問題もんだいを、陸軍りくぐん一緒いっしょになって上奏じょうそうするとは何事なにごとか。ぼく軍令ぐんれいのやることにうさぎかく干渉かんしょうするのではない。しかし今度こんどのことは、あかりかにいちおうは、海軍かいぐん大臣だいじん意見いけんまじえたうえでなければ、軍令ぐんれいと雖も勝手かって行動こうどうすべからざることである。昨日きのう海軍かいぐん部内ぶない一般いっぱんした訓示くんじは、このようなことをいましめたものである。それにもかかわらず斯る振舞ふるまいたことは不都合ふつごうせんまんである」と非難ひなんし、豊田とよだは「もうわけない」という様子ようす一言ひとことこたえなかった[8]

敗戦はいせん

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敗戦はいせん直後ちょくご9月2にちに、だい世界せかい大戦たいせん降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしき東京とうきょうわんうち瀬水せみずみち中央ちゅうおう千葉ちばけんよりの海域かいいき)に停泊ていはくちゅうのアメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんミズーリ艦上かんじょう[9]で、日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん連合れんごうこく代表だいひょう出席しゅっせきしておこなわれた。しかし豊田とよだ調印ちょういんしきへの出席しゅっせき拒否きょひし、仕方しかたなく富岡とみおかじょうしゅん海軍かいぐん少将しょうしょう代理だいりとして出席しゅっせきした。豊田とよだのこの行為こういは「大将たいしょうとして言語道断ごんごどうだん」、「女々めめしい」として批判ひはんんだ。

また10がつぬさ原内はらうちかく発足ほっそくべいない病気びょうき理由りゆう海軍かいぐん大臣だいじん辞退じたい後任こうにん豊田とよだ推薦すいせんしたが、占領せんりょうぐん豊田とよだ太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうける職歴しょくれきから戦争せんそう犯罪はんざい容疑ようぎ調査ちょうさすすめており、かつ海軍かいぐんないいても井上いのうえ高木たかぎそうきちなどから豊田とよだ就任しゅうにんにはもう反対はんたいがあり、ついに豊田とよだ海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにん実現じつげんせず、べいない海軍かいぐんしょうはいかんまで大臣だいじんつとめた。10月15にち海軍かいぐんしょう出仕しゅっし11月30にち予備よびやく編入へんにゅう

同年どうねん12月2にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい日本にっぽん政府せいふたいし、豊田とよだ逮捕たいほするよう命令めいれいだいさん逮捕たいほしゃ59めいちゅう1人ひとり[10]Aきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎ巣鴨すがも拘置こうちしょ勾留こうりゅうされたが極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんでは起訴きそつづいておこなわれたGHQ裁判さいばん豊田とよだ裁判さいばん)では、ベン・ブルース・ブレイクニーおよジョージ・A・ファーネスりょう弁護人べんごにん尽力じんりょくによって、無罪むざい判決はんけつた。のち公職こうしょく追放ついほうとなる[11]

死去しきょ

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1952ねん昭和しょうわ27ねん追放ついほう解除かいじょ[12]。1957ねん昭和しょうわ32ねん)9がつ22にち死去しきょ。72さいぼつ

評価ひょうか

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井上いのうえ成美まさみ戦前せんぜん戦後せんご豊田とよだ評価ひょうかが180ことなったものとなり、昭和しょうわ天皇てんのう意思いし無視むしした徹底てってい抗戦こうせんや、降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしきへの出席しゅっせき拒否きょひなどの女々めめしい行動こうどうにより、戦前せんぜん絶賛ぜっさん一転いってんして戦後せんご罵倒ばとうちか評価ひょうかをしていたという[13]

家族かぞく

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  • つまのリトは海軍かいぐん中将ちゅうじょう江口えぐち麟六(1865-1941)の長女ちょうじょ
  • 長男ちょうなん豊田とよだれいいち。その岳父がくふ八木やぎ幸吉こうきち

栄典えいてん

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著書ちょしょ

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GHQ歴史れきし陳述ちんじゅつろく

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  • もと海軍かいぐん大将軍だいしょうぐんれい総長そうちょう豊田とよだふくたいする質問しつもん 1949ねん昭和しょうわ24ねん)8がつ29にち
  • 1945ねん6がつ22にち最高さいこう戦争せんそう指導しどうしゃ会議かいぎ藤村ふじむら・ダレス交渉こうしょう原子げんしばくだんなどについて 1949ねん昭和しょうわ24ねん)9がつ1にち
  • 日本にっぽん終戦しゅうせんいての回想かいそう 1949ねん昭和しょうわ24ねん)12月1にち
  • 終戦しゅうせん回想かいそう若干じゃっかん 1949ねん昭和しょうわ24ねん)12月1にち
  • 1945ねん6がつ6にちおよび8にち最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎいて 1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ10日とおか

年譜ねんぷ

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出典しゅってん

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  1. ^ 最後さいご帝国ていこく海軍かいぐん
  2. ^ 戦友せんゆうかい海軍かいぐんしんかみなり部隊ぶたい』11ぺーじ
  3. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅうp273-275
  4. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく
  5. ^ 高木たかぎそうきち日記にっき情報じょうほう
  6. ^ よんにん軍令ぐんれい総長そうちょう
  7. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅう 471ぺーじ
  8. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅう 473ぺーじ
  9. ^ 外務省がいむしょう
  10. ^ 梨本なしもとみや平沼ひらぬま平田ひらたじゅうきゅうにん逮捕たいほ命令めいれい昭和しょうわ20ねん12月4にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p341-p342 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  11. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん106ぺーじNDLJP:1276156 
  12. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1952ねん4がつ22にち夕刊ゆうかんいちめん
  13. ^ 杉本すぎもとけん海軍かいぐん昭和しょうわ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ
  14. ^ 官報かんぽうだい7084ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん2がつ13にち

参考さんこう資料しりょう

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先代せんだい
古賀こがみねいち
連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
だい29・30だい:1944 - 1945
次代じだい
小沢おざわおさむ三郎さぶろう
先代せんだい
及川おいかわ古志こしろう
軍令ぐんれい総長そうちょう
だい19だい:1945
次代じだい
廃止はいし