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島村しまむら速雄はやお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
島村しまむらしまむら 速雄はやおはやお
生誕せいたん 1858ねん10月26にち
日本にっぽん土佐とさこく
死没しぼつ (1923-01-08) 1923ねん1がつ8にち(64さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1880ねん - 1923ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん警視庁けいしちょう墓地ぼち
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島村しまむら 速雄はやお(しまむら はやお、安政あんせい5ねん9がつ20日はつか1858ねん10月26にち) - 大正たいしょう12ねん1923ねん1がつ8にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうせい勲一等くんいっとうこうきゅう男爵だんしゃく高知こうちけん出身しゅっしん海兵かいへい7首席しゅせき

非常ひじょう秀才しゅうさい智謀ちぼうそこれない、軍人ぐんじんにはめずらしいほど功名こうみょう主義しゅぎてきところい、生涯しょうがいはつねに他者たしゃこうゆずることをつらぬいた、天性てんせいのひろやかな度量どりょうのある人物じんぶつ」などとひょうされる。

生涯しょうがい

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安政あんせい5ねん(1858ねん)、土佐とさはん郷士ごうし島村しまむらひだり五平ごへいつま鹿子かのこあいだまれる。幼名ようみょううまきちで、よんにん兄弟きょうだい次男じなんであった。海南かいなん学校がっこうまなぶ。おさなころから秀才しゅうさいぶりを発揮はっきしていたが、9さいときちちくし、家計かけいいかめしかったため、学費がくひ不要ふよう海軍かいぐんへい学寮がくりょうへの進学しんがく希望きぼうし、勉学べんがくはげんだ。16さいのとき、島村しまむら才気さいきみみにした司法省しほうしょう役人やくにんから養子ようしさそいがあったが、「男子だんしたるもの、他人たにんちから出世しゅっせするのは意気地いくじいことだ」としてことわっている(このとき、かれわりとして末弟ばってい養子ようしりした)。17さいのときに上京じょうきょう海軍かいぐんへい学寮がくりょう受験じゅけんして合格ごうかくした(島村しまむら在学ざいがくちゅうに「海軍兵学校かいぐんへいがっこう」に改称かいしょう)。

へい学校がっこうから士官しかん

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海軍かいぐんへい学寮がくりょうでも、相変あいかわらずの秀才しゅうさいであった島村しまむらは、本科ほんかではつね首席しゅせきであり、「へい学校がっこう7島村しまむらあり」とわれるほどられるようになった。このへい学校がっこう時代じだいでは、イギリスしき海軍かいぐん規律きりつはじめてれるとともに、よし松茂まつしげ太郎たろう加藤かとう友三郎ともさぶろうらとの親交しんこうった。

23さい海軍兵学校かいぐんへいがっこう首席しゅせき卒業そつぎょうして海軍かいぐん少尉しょういとなり、軍艦ぐんかん扶桑ふそう」の乗組のりくみいんにんぜられる。当時とうじ甲板かんぱんかけ士官しかんであった、へい学校がっこうの1先輩せんぱいである斎藤さいとうみのるは、転任てんにんさい後任こうにんとしてだれ推薦すいせんするかとわれ、島村しまむら即答そくとうしている。その島村しまむら少尉しょういのぼり、軍艦ぐんかん浅間あさま乗務じょうむ転任てんにんする。

当時とうじ日本にっぽん隣国りんごくきよし海軍かいぐんは、大戦たいせんかんていとお」「鎮遠」をそなえ、まれたばかりの日本にっぽん海軍かいぐんにとって多大ただい脅威きょういであった。これにはやくから危機ききかんいていた島村しまむらは、独学どくがく砲術ほうじゅつまなぶようになる。戦術せんじゅつ専門せんもんぐんないそだっていなかった当時とうじのこと、島村しまむら浅間あさま乗務じょうむのまま砲術ほうじゅつ教授きょうじゅとなり、そのはたらきがみとめられて中尉ちゅうい昇任しょうにんする。島村しまむら戦術せんじゅつをまとめた論文ろんぶん(アメリカ海軍かいぐん軍人ぐんじん著作ちょさくしょうやくであったが)を発表はっぴょうしたり、戦術せんじゅつ実地じっち演習えんしゅう演習えんしゅうほう考案こうあんしたりと、海軍かいぐん戦術せんじゅつ進歩しんぽ貢献こうけんしていく。それらの功績こうせきから大尉たいいのぼった島村しまむらは、明治めいじ22ねん(1889ねん)からイギリスに3年間ねんかん出張しゅっちょうし、イギリス海軍かいぐんのノウハウをまなび、みずからの戦術せんじゅつ立案りつあん能力のうりょくみがきをかけることになる。

常備じょうび艦隊かんたい参謀さんぼう

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イギリスから帰国きこくした島村しまむらは、巡洋艦じゅんようかん高雄たかお」の分隊ぶんたいちょうけん砲術ほうじゅつちょうて、明治めいじ26ねん(1893ねん)3がつ13にち常備じょうび艦隊かんたい参謀さんぼう任命にんめいされる。当時とうじ島村しまむら大尉たいいという階級かいきゅうからかんがえて、これは異例いれいだい抜擢ばってきであった。同年どうねん5がつ常備じょうび艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにんした伊東いとう祐亨すけゆき中将ちゅうじょうのもと、かれはイギリス仕込しこみの訓練くんれんほう徹底てっていするなど辣腕らつわんをふるった(当時とうじ常備じょうび艦隊かんたいには参謀さんぼう島村しまむら一人ひとりしかかれておらず、また伊東いとう司令しれい長官ちょうかん磊落らいらくかつ悠揚ゆうよう性格せいかくもあって、かれ意見いけんはそのまま採用さいようされることがおおかった)。翌年よくねん常備じょうび艦隊かんたい改組かいそされて連合れんごう艦隊かんたいとなり、伊東いとう司令しれい長官ちょうかん就任しゅうにんすると、島村しまむらもまた連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうとなった。同年どうねんあらたに鮫島さめしまいんぶんまわし大佐たいさ参謀さんぼうちょう就任しゅうにんし、島村しまむら直接ちょくせつ上官じょうかんとなったが、鮫島さめしま職務しょくむ部下ぶかまかせにする気質きしつがあったため、島村しまむら意見いけん影響えいきょうりょくには変化へんかはあまりかったようである。また同年どうねん少佐しょうさ昇任しょうにんしている。

にちしん戦争せんそう

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にちしん戦争せんそうにおいては、島村しまむら参謀さんぼうとして、連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん松島まつしま」にんで参加さんかした。途中とちゅう上役うわやくである参謀さんぼうちょう出羽でわ重遠しげとお大佐たいさ当時とうじ)に交代こうたいした。鮫島さめしまとはことなり、謹厳きんげんかつ豪胆ごうたん性格せいかく出羽でわであったが、島村しまむらとはい、関係かんけい良好りょうこうであった。

にちしん戦争せんそうにおける島村しまむらのはたらきとしては、作戦さくせん立案りつあんめんでは坪井つぼいわたるさん主張しゅちょうしていたたん縦陣じゅうじん戦法せんぽう支持しじして黄海こうかい海戦かいせん勝利しょうりみちびいたほか、艦隊かんたい首脳しゅのうあいだ調停ちょうていやくとしての活躍かつやくもある。敗戦はいせん責任せきにんをとって清国きよくに提督ていとくちょうなんじあきら自害じがいしたさいしんから没収ぼっしゅうした艦船かんせんなかから商船しょうせんかんわたるごう」をかえし、ひのと亡骸なきがらおくらせるという伊東いとう行動こうどう世界せかい各国かっこくから賞賛しょうさんけたが、これにも島村しまむら助言じょげんがあったとわれる。

結婚けっこん

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にちしん戦争せんそう終結しゅうけつ島村しまむら軍令ぐんれい局員きょくいんとしてはたらかたわら、海軍かいぐんだい学校がっこう教鞭きょうべんったり、イタリア駐在ちゅうざい武官ぶかんとして派遣はけんされたりといそがしい毎日まいにちおくっていたが、同居どうきょしているはは鹿子かのこ高齢こうれいになっていることもあり、かためる意味いみ結婚けっこん決意けついした。しかしそれまで結婚けっこんには一切いっさい興味きょうみかった島村しまむらにはおも相手あいてなどおらず、親戚しんせき紹介しょうかいされた20さい以上いじょう年下としした女性じょせいに、写真しゃしんすらないままめてしまった。実際じっさい二人ふたりかおわせたのは結納ゆいのうはじめてであった。結婚けっこん明治めいじ31ねん1898ねん)、島村しまむら41さいのときで、花嫁はなよめ近藤こんどう菅尾すがお当時とうじ19さい結果けっかてき結婚けっこん生活せいかつ上手うまくいき、夫婦ふうふなか生涯しょうがい円満えんまんであった。

義和よしかずだんらん

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明治めいじ32ねん1899ねん)、大佐たいさにまでのぼっていた島村しまむらは、防護ぼうご巡洋艦じゅんようかん須磨すま」の艦長かんちょうにんじられる。下士官かしかんまでねんごろにいたわり、しばしばポケットマネーでもよおしをひらいたり、士官しかん食事しょくじさそったりして、艦内かんない空気くうきくすることに尽力じんりょくするかれ勤務きんむ態度たいどたか評価ひょうかけた。

翌年よくねん義和よしかずだんらん勃発ぼっぱつすると、澎湖とううまこうにいた須磨すまただちにだい派遣はけんされて警備けいびについた。島村しまむら当時とうじ海軍かいぐん大臣だいじん山本やまもと権兵衛ごんべえから、だい沽に派遣はけんされた日本にっぽん海軍かいぐん司令しれいかんやくとしてされ、指揮しきった。迅速じんそくかつ的確てきかく判断はんだん指示しじ一方いっぽうで、みずか哨兵しょうへいとしてつなど率先そっせんしてはたらき、その目覚めざましい活躍かつやくから、英国えいこく海軍かいぐん中将ちゅうじょうシーモアから感謝かんしゃのメッセージをもらっている。

にち戦争せんそう

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義和よしかずだんらん終結しゅうけつすると、日本にっぽんロシア対立たいりつがいよいよ鮮明せんめいとなった。明治めいじ36ねん1903ねん)、きたるべきロシアとの戦争せんそうそなえて連合れんごう艦隊かんたいふたた組織そしきされ、東郷とうごう平八郎へいはちろう中将ちゅうじょう司令しれい長官ちょうかん任命にんめいされたが、島村しまむら幕僚ばくりょうのトップである参謀さんぼうちょうとなった。これにはにちしん戦争せんそうでの経験けいけんから伊東いとう祐亨すけゆきつよ推挙すいきょしたこともおおきい。

にち戦争せんそうには旗艦きかん三笠みかさ」にみ、旅順りょじゅんこう封鎖ふうさ参加さんか連合れんごう艦隊かんたい機雷きらいによってロシア海軍かいぐん名将めいしょうステパン・マカロフ戦死せんしさせたが、このときに機雷きらい敷設ふせつ指揮しきをとった小田おだ喜代きよぞうたいし、作戦さくせん訓令くんれい起草きそうしたのは島村しまむらであった(ほかにも東郷とうごう名義めいぎ報告ほうこくしょ代筆だいひつするなど、文章ぶんしょうりょくについても評価ひょうかされていたようである)。このあいだ少将しょうしょう昇任しょうにんしている。

秋山あきやま真之まさゆき有馬ありまりょうたちばな幕僚ばくりょうたちをまとめ、東郷とうごうをよく補佐ほさする島村しまむらはたらきぶりは目覚めざましく、東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん読売新聞よみうりしんぶんかれ称賛しょうさんする記事きじおおきくげられるなど海軍かいぐんがいにもその活躍かつやくわたったが、かれ旅順りょじゅん封鎖ふうさ作戦さくせん終了しゅうりょう参謀さんぼうちょうり、だい艦隊かんたいだい戦隊せんたい司令しれいかん転任てんにんとなっている。理由りゆうとしては、旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん失敗しっぱいや、駆逐くちくたい司令しれい一斉いっせい交代こうたい黄海こうかい海戦かいせんでの駆逐くちく艦隊かんたいはたらきがわるかったので、人心じんしん一新いっしんはかられたため。島村しまむらもこれに賛同さんどうしていた)などの責任せきにんこうむかたちみずか辞職じしょくしたとわれている。後任こうにん参謀さんぼうちょうとして、海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだいからの旧友きゅうゆうである加藤かとう友三郎ともさぶろう指名しめいした。また秋山あきやま真之まさゆき能力のうりょくはやくからたかっていたようで、「作戦さくせんかれまかせておけば問題もんだいない」と太鼓判たいこばんしているが、秋山あきやま功績こうせきとされているもののなかには島村しまむら発案はつあん継承けいしょうしたものもすくなくなかったことが最近さいきん研究けんきゅうあきらかになってきている。このように島村しまむら自分じぶん周囲しゅうい始末しまつについてはみずか責任せきにんをとりつつ、業績ぎょうせきについてはゆずることをつねとしていた。

転任てんにんだい戦隊せんたい旗艦きかんいわしゅ」に坐乗ざじょうして指揮しきったが、連合れんごう艦隊かんたいにおける発言はつげんりょくわらなかったようで、バルチック艦隊かんたいをどこでむかつかについて、当初とうしょ作戦さくせん会議かいぎではバルチック艦隊かんたい津軽海峡つがるかいきょうもしくは宗谷海峡そうやかいきょうとおるものとんで、連合れんごう艦隊かんたい北上ほくじょうさせるべきであるとの意見いけん大勢おおぜいめていたが、最終さいしゅうてきには島村しまむら賛同さんどうしていた対馬海峡つしまかいきょうでの迎撃げいげきあん採用さいようされ、日本海にほんかい海戦かいせんでの大勝たいしょうへの第一歩だいいっぽとなった。

日本海にほんかい海戦かいせんにおいては、みずかつね艦橋かんきょうって戦況せんきょうつぶさながめていた。戦闘せんとう終了しゅうりょうつまてた手紙てがみには、「拙者せっしゃはこのたびはべっして閑にてなに御用ごようもなく、ただ空前くうぜんだい海戦かいせん光景こうけいだい勝利しょうり拝見はいけんいたしこうのみにて、生来せいらいこれくらい愉快ゆかいおぼこうごとはこれなくこう」とみとめている。

後進こうしん育成いくせい

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にち戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご明治めいじ38ねん1905ねん12月19にちに、日本にっぽんはじめて練習れんしゅう艦隊かんたい正式せいしき組織そしきされることとなり、島村しまむら初代しょだい司令しれいかんとなった。また翌年よくねんには海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょうに、明治めいじ41ねん1908ねん)には中将ちゅうじょうのぼるとともに海軍かいぐんだい学校がっこう校長こうちょうされている。すうねんのうちに海軍かいぐん士官しかん育成いくせいかかわる重職じゅうしょくみっ歴任れきにんしたことになり、かれ手腕しゅわん評価ひょうかされていたことがうかがわれる(大正たいしょう3ねん(1914ねん)には海軍かいぐん教育きょういく本部ほんぶちょうにもなっている)。

また、このあいだだいかい万国ばんこく平和へいわ会議かいぎに、日本にっぽん海軍かいぐん代表だいひょうとして列席れっせきするためハーグ出張しゅっちょうしている。

軍令ぐんれい部長ぶちょう

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明治めいじ42ねん1909ねん)にだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん明治めいじ44ねん1911ねん)に佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん、と転属てんぞくかえしたのち大正たいしょう3ねん1914ねん)に東京とうきょうもどって海軍かいぐん教育きょういく本部ほんぶちょうとなったが、シーメンス事件じけんのあおりをけて伊集院いじゅういん五郎ごろう軍令ぐんれい部長ぶちょう辞職じしょく、その後任こうにんとなった。当時とうじ海軍かいぐん大臣だいじん島村しまむら親友しんゆう加藤かとう友三郎ともさぶろうであり、海軍かいぐんしょうとの連携れんけい非常ひじょう円滑えんかつであった。軍令ぐんれい部長ぶちょう在任ざいにん日本にっぽんだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせん勝利しょうり、またかれ自身じしん大将たいしょう昇任しょうにんとなった。

大正たいしょう9ねん1920ねん)、はちはち艦隊かんたい予算よさんあん通過つうかしたのを見届みとどけて軍令ぐんれい部長ぶちょう退しりぞくことを決意けつい山下やました源太郎げんたろう後任こうにん推薦すいせんしてみずからは軍事ぐんじ参議さんぎかんとなった。

晩年ばんねん

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参議さんぎかん閑職かんしょくであり、以降いこうおだやかな晩年ばんねんおくった。次第しだい脳血栓のうけっせん症状しょうじょうるようになり、大正たいしょう12ねん(1923ねん1がつ8にちのう梗塞こうそくにより薨去こうきょ享年きょうねん66。葬儀そうぎ委員いいんちょう旧友きゅうゆうよし松茂まつしげ太郎たろうつとめた。死後しご元帥げんすいくらい追贈ついぞうされ、土佐とさ出身しゅっしんしゃとしてはつ元帥げんすいとなった。

エピソード

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  • 同郷どうきょうよし松茂まつしげ太郎たろう大将たいしょうとは生涯しょうがいつうじた友人ゆうじんだった。漢学かんがくしゃ家系かけいである吉松きちまつ文系ぶんけい得意とくいで、島村しまむらぎゃく理系りけいつよかったが、海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだい試験しけん数学すうがく問題もんだいえた島村しまむら歌舞伎かぶき役者やくしゃ落書らくがきをいて吉松よしまつせつけ、した吉松きちまつ教官きょうかんから叱責しっせきされた。吉松よしまつはその悪戯いたずら本気ほんきっていたという。
  • 大尉たいい時代じだいには、仁礼にれいけいはん中将ちゅうじょう令嬢れいじょう春子はることの縁談えんだんがあった。しかし島村しまむらはイギリス留学りゅうがくちゅう落馬らくば事故じここし、耳鳴みみなりの後遺症こういしょうのこった。このことがおおげさに日本にっぽん報告ほうこくされたため、結婚けっこんはなし沙汰止さたやみとなった。ちなみに春子はるこはのちに斎藤さいとうみのる大将たいしょうとついでいる。春子はるこ二・二六事件ににろくじけんおっとうしない、みずからもおっとをかばって銃弾じゅうだんけたが、98さい長寿ちょうじゅまっとうした。
  • この落馬らくば事故じこさい見舞みまった有馬ありまりょうたちばな(のち海軍かいぐん大将たいしょう)を島村しまむら終生しゅうせいかわいがった。このときには有馬ありま研究けんきゅうしていた和文わぶん手旗てばた信号しんごう完成かんせいおおいに賞賛しょうさんしている。のちににち戦争せんそう有馬ありま陣頭じんとう指揮しきった旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせんがことごとく失敗しっぱいしたため、有馬ありま連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうから更迭こうてつせざるをなくなったが、島村しまむらみずか連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうから退しりぞいている。これは有馬ありまおもんばかった行動こうどうではないかとわれる。
  • 艦長かんちょうしょくとしては唯一ゆいいつ戦艦せんかん初瀬はつせ」を担当たんとうしている。操艦そうかんじゅつ得意とくいではなく、石橋いしばしはじめ副長ふくちょう千坂ちさかさとし次郎じろう航海こうかいちょう現場げんば経験けいけんながいスタッフまかせだったとわれている。元山もとやまみなと入港にゅうこう石橋いしばし副長ふくちょう無断むだん操艦そうかんし、係留けいりゅうロープをスクリューにんでしまい、いちばんかけてほどく羽目はめになったこともある。
  • 同期どうき藤井ふじい較一大将たいしょうとはせい反対はんたい性格せいかくながらうまった。日本海にほんかい海戦かいせん直前ちょくぜん作戦さくせん会議かいぎでは、対馬海峡つしまかいきょう残留ざんりゅう藤井ふじい賛同さんどうするものはまったくなかったが、おくれて登場とうじょうした島村しまむら藤井ふじいどう意見いけんべるや、会議かいぎながれは一挙いっきょ対馬つしま残留ざんりゅう変化へんかしたという。また私生活しせいかつでも、借家しゃくや賃貸ちんたい期限きげんれそうになって途方とほうれる島村しまむらに、藤井ふじいながらくんでいた旧宅きゅうたく提供ていきょうしている。ただし、じつ藤井ふじい旧宅きゅうたく借家しゃくやだった(藤井ふじい本人ほんにん戸建こだてしんじてうたがわなかった)ため、家主やぬしまれた島村しまむらおおいに困惑こんわくしたという。
  • にち戦争せんそうちゅう旅順りょじゅん封鎖ふうさ作戦さくせん終了しゅうりょう島村しまむらから連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょういだ加藤かとう友三郎ともさぶろうとは、海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだいからの旧友きゅうゆうであり親友しんゆうである。加藤かとう総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんについては、加藤かとう健康けんこう状態じょうたいおもんばかって頑強がんきょう反対はんたいしている。しかしみずからがさきのう梗塞こうそくたおれ、病床びょうしょうのうわごと加藤かとうあんじながら逝去せいきょした。島村しまむら厄年やくどしころに「わか女性じょせい婚約こんやくした」と報道ほうどうされたさい加藤かとう新聞しんぶん切抜きりぬきをに「この報道ほうどう事実じじつか?」とたずねたことがある。生涯しょうがい家庭かていめぐまれなかった加藤かとうなにおもうところがあったのではないかと島村しまむら述懐じゅっかいしている。
  • 家庭かていじんとしては温厚おんこう家長かちょうであった。はやくにちちくし、ははとのらしがながかった。しゅうととのなかがよくやり上手じょうずつまち、子供こども教育きょういくにもおおらかであった。一方いっぽう客人きゃくじん必要ひつよう以上いじょうにもてなすために家計かけいくるしく、清貧せいひん生活せいかつつらぬいた。
  • 千葉ちばけん一宮いちのみやまち別荘べっそう所有しょゆうした。近隣きんりんには斎藤さいとうみのる加藤かとう友三郎ともさぶろう仁礼にれいけいはんなど海軍かいぐん出身しゅっしんしゃ別荘べっそうならんでいた。
  • 海軍かいぐんだい学校がっこう校長こうちょう時代じだい博文ひろぶみかん雑誌ざっし太陽たいよう』が企画きかくした「次代じだい適任てきにんしゃだれか」という読者どくしゃ投票とうひょう企画きかくで、「次代じだい連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん部門ぶもんだいいちとなった。しかし島村しまむらは「にち戦争せんそうでの戦勝せんしょうはひとえに東郷とうごう司令しれい長官ちょうかんめい参謀さんぼうたちによるもので、自分じぶん特段とくだんはたらきをしておりません。もし将来しょうらい自分じぶん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん拝命はいめいし、業績ぎょうせきのこして職務しょくむまっとうしたなら、そのときにはじめておけします」とって表彰ひょうしょう固辞こじしたという。

家族かぞく

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年譜ねんぷ

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栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 和人わじん定着ていちゃく 開基かいきひゃくねん上湧別かみゆうべつまち
  2. ^ 屯田とんでんひょうむらたずねて みやりょう高弘たかひろ、リベラル・アーツ : 札幌大学さっぽろだいがく教養きょうよう教育きょういく研究けんきゅう,2,32-41 (1990-01-15)
  3. ^ 湧別ゆうべつ原野げんや開拓かいたくちち徳弘のりひろ正輝まさき物語ものがたり えんがる歴史れきし物語ものがたり遠軽えんがるまち役場やくば 経済けいざい 商工しょうこう観光かんこう
  4. ^ 伝蔵でんぞうもりぞう 自由じゆう民権みんけんとアイヌ連帯れんたい記録きろく小池こいけ喜孝よしたか現代げんだい出版しゅっぱんかい, 1976 、p57
  5. ^ 島村しまむら茂穂しげほ人事じんじ興信録こうしんろくだい14はん じょう
  6. ^ 島村しまむら速雄はやお 軍人ぐんじん顕彰けんしょうかい
  7. ^ 島村しまむら速雄はやお人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん [大正たいしょう4(1915)ねん1がつ]
  8. ^ 島村しまむら初太郎はつたろう人事じんじ興信録こうしんろくだい14はん じょう
  9. ^ 伯爵はくしゃく令嬢れいじょう立花たちばな文子ふみこ 立花りっか史料しりょうかん
  10. ^ 立花たちばな庭園ていえん歴史れきし はな
  11. ^ 17だいぬしかた戦国せんごく武将ぶしょう立花たちばな宗茂むねしげおおやけ生涯しょうがい 南田中みなみたなかのまちをかんがえるかい、2015ねん11月1にち
  12. ^ 糸島いとしまじんせん鳥屋とりや糸島いとしま別荘べっそう 原田はらだよろず紗子さえこさん 自家じか栽培さいばいあまなつつくったジャムがマーマレード世界せかい大会たいかい銅賞どうしょうに! 糸島いとしま市役所しやくしょ シティプロモーション、2019ねん6がつ25にち
  13. ^ 官報かんぽうだい183ごう叙任じょにん」1884ねん2がつ12にち
  14. ^ 官報かんぽうだい705ごう叙任じょにん」1885ねん11月5にち
  15. ^ 官報かんぽうだい2207ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん11月6にち
  16. ^ 官報かんぽうだい3453ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん1がつ4にち
  17. ^ 官報かんぽうだい4402ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん3がつ9にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4902ごう叙任じょにん及辞れい」1899ねん11月1にち
  19. ^ 官報かんぽうだい6315ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん7がつ19にち
  20. ^ 官報かんぽうだい7640ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん12月12にち
  21. ^ 官報かんぽうだい8257ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん12月28にち
  22. ^ 官報かんぽうだい442ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん1がつ21にち
  23. ^ 官報かんぽうだい1357ごう叙任じょにん及辞れい」1917ねん2がつ12にち
  24. ^ 官報かんぽうだい3430ごう叙任じょにん及辞れい」1894ねん12月3にち
  25. ^ 官報かんぽうだい3676ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん9がつ28にち
  26. ^ 官報かんぽうだい4910ごう叙任じょにん及辞れい」1899ねん11月11にち
  27. ^ 官報かんぽうだい5508ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん11月11にち
  28. ^ 官報かんぽうだい6727ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん12月1にち
  29. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月30にち
  30. ^ 官報かんぽうだい8679ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん5がつ27にち
  31. ^ 官報かんぽうだい1194ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ24にち
  32. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  33. ^ 官報かんぽうだい1187ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ15にち
  34. ^ 官報かんぽうだい2612ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん4がつ19にち
  35. ^ 官報かんぽうだい3129ごう叙任じょにん及辞れい」1923ねん1がつ9にち
  36. ^ a b c 官報かんぽうだい8558ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん

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島村しまむら速雄はやおえんじた俳優はいゆう

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ぐんしょく
先代せんだい
上村うえむら彦之すすむ
連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう
だい4だい:1903ねん12月28にち - 1905ねん1がつ12にち
次代じだい
加藤かとう友三郎ともさぶろう
先代せんだい
富岡とみおかじょうきょう
海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょう
だい25だい:1906ねん11月19にち - 1908ねん8がつ28にち
次代じだい
よし松茂まつしげ太郎たろう
先代せんだい
坂本さかもとしゅんあつし
海軍かいぐんだい学校がっこう校長こうちょう
だい15だい:1908ねん8がつ28にち - 1909ねん12月1にち
次代じだい
川島かわしまれい次郎じろう
先代せんだい
出羽でわ重遠しげとお
だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
だい5だい:1909ねん12月1にち - 1911ねん12月1にち
次代じだい
よし松茂まつしげ太郎たろう
先代せんだい
出羽でわ重遠しげとお
佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
だい15だい:1911ねん12月1にち - 1914ねん3がつ25にち
次代じだい
藤井ふじい較一
先代せんだい
よし松茂まつしげ太郎たろう
海軍かいぐん教育きょういく本部ほんぶちょう
だい11だい:1914ねん3がつ25にち - 1914ねん4がつ22にち
次代じだい
名和なわ又八郎またはちろう
先代せんだい
伊集院いじゅういん五郎ごろう
海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう
だい10代:1914ねん4がつ22にち - 1920ねん10がつ1にち
次代じだい
山下やました源太郎げんたろう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
島村しまむら速雄はやお初代しょだい
1916ねん - 1923ねん
次代じだい
島村しまむら初太郎はつたろう