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おか敬純たかずみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
おかおか 敬純たかずみたかずみ
生誕せいたん 1890ねん明治めいじ23ねん2がつ11にち
日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか大阪おおさか
死没しぼつ (1973-12-04) 1973ねん12月4にち(83さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1911ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん1-ロ-2-8
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おか 敬純たかずみ(おか たかずみ、1890ねん明治めいじ23ねん2がつ11にち - 1973ねん昭和しょうわ48ねん12月4にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい39うみだい21海軍かいぐん中将ちゅうじょうしたがえさんくんとうこうよんきゅう

経歴けいれき

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大阪おおさかまれる。おさむだましゃて、海軍兵学校かいぐんへいがっこう入学にゅうがく中尉ちゅういころから潜水せんすいかん勤務きんむおおく、潜水せんすいかん艦長かんちょう潜水せんすい学校がっこう教官きょうかんなどを歴任れきにんする。

海軍かいぐんだい学校がっこう首席しゅせき卒業そつぎょう詳細しょうさい海軍かいぐんだい学校がっこう卒業生そつぎょうせい一覧いちらん#甲種こうしゅ21参照さんしょう)、その軍令ぐんれい勤務きんむ海軍かいぐんしょう臨時りんじ調査ちょうさ課長かちょう、ジュネーヴ会議かいぎ全権ぜんけん随員ずいいん軍務ぐんむきょくだいいち課長かちょうなどの中央ちゅうおう勤務きんむおおく、そのあいだ海上かいじょう勤務きんむ潜水せんすい母艦ぼかん迅鯨」の艦長かんちょうくらいである。なお、軍務ぐんむきょくだいいち課長かちょうときには、部下ぶかだいドイツ贔屓ひいきといわれたかみ重徳しげのりが、上司じょうし軍務ぐんむ局長きょくちょうにはだいのドイツぎらいの井上いのうえ成美まさみがいた。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)の軍務ぐんむ局長きょくちょう就任しゅうにん同時どうじに、「陸軍りくぐん政策せいさくかかげて海軍かいぐん圧力あつりょくけてくる。海軍かいぐんはそれまで、それに対応たいおう出来できなかった。どうしてもここで、陸軍りくぐん対応たいおうする政策せいさく担当たんとうしゃつくらなければならぬ。さもなくば、日本にっぽんがどちらにっていかれるかわからぬ」と発言はつげんし、軍務ぐんむきょく改編かいへんだい国防こくぼう政策せいさく担当たんとうさせた。このときだい課長かちょう任命にんめいしたのが、同郷どうきょうかつおさむだましゃの4ねん後輩こうはい石川いしかわ信吾しんごである。おか石川いしかわ二・二六事件ににろくじけんさい予備よびやく編入へんにゅうとなるのをすくったという経緯けいいもあった[1]強硬きょうこうたいえいべい開戦かいせんろんしゃだった石川いしかわ軍務ぐんむきょくだい課長かちょうてる人事じんじには、しんえいべいおおく、石川いしかわ異端いたんしていた(通称つうしょうは「ぶんまわしだん」。一斉いっせい射撃しゃげきなかで、あらぬ方向ほうこうんでいく砲弾ほうだん、という意味いみ海軍かいぐんないからは猛烈もうれつ反対はんたいけるが、おか強硬きょうこうとおし、このころからおか石川いしかわ二人ふたり海軍かいぐん政策せいさくうごかす役割やくわりたすようになった。このことは、おか日米にちべい開戦かいせんであり、しんどくであったことを如実にょじつ物語ものがたるエピソードであるとえる。このことから、戦後せんご木戸きど幸一こういち海軍かいぐんないもっとたいべい開戦かいせん強硬きょうこう主張しゅちょうした人物じんぶつとして名前なまえげたため、Aきゅう戦犯せんぱん指定していされた。

その一方いっぽうで、ハル・ノートったさいには、あまりのショックから「これではいよいよ開戦かいせんのほかはない。今日きょうまでの苦心くしんも、ついにみずあわである」となみだながしたともつたえられている。

嶋田しまだ繁太郎しげたろう海軍かいぐん大臣だいじん辞任じにんともない、海軍かいぐん次官じかん辞任じにんした沢本さわもとよりゆきゆう後任こうにんとして、のぼりのかたち海軍かいぐん次官じかん就任しゅうにんするが、東條とうじょう内閣ないかくそう辞職じしょくけて成立せいりつした小磯こいそ内閣ないかくうみしょう就任しゅうにんした米内よない光政みつまさは、海軍かいぐん次官じかんについては「おか一夜いちやにして放逐ほうちくする」とし井上いのうえ成美まさみ次官じかんとした。おか鎮海警備けいび司令しれい長官ちょうかんとして中央ちゅうおうからとおざけられている。その1945ねん昭和しょうわ20ねん6がつ20日はつか予備よびやく編入へんにゅうされた。

太平洋戦争たいへいようせんそう極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん終身しゅうしん禁錮きんこ判決はんけつ服役ふくえき。いわゆる平和へいわたいするつみのAきゅう戦犯せんぱんだけでなく、海軍かいぐん太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう洋上ようじょう島嶼とうしょこした虐殺ぎゃくさつ事件じけんについて中央ちゅうおう方針ほうしん決定けっていをしたのではないかとして関与かんようたがわれ、BCきゅう一般いっぱん戦争せんそう犯罪はんざいつみにもわれていた。こちらに該当がいとうすれば死刑しけいもありたが、「証拠しょうこはいくつかあるものの刑事けいじ責任せきにんえるまでの基準きじゅんたっするものではない」として、こちらについては無罪むざいとなった[2]東京とうきょう裁判さいばん判決はんけつでオランダのレーリンク判事はんじ全般ぜんぱんてき中間ちゅうかんてき立場たちばって多数たすうたい少数しょうすう意見いけんいているが、おかについては死刑しけいであるべきだったとの立場たちばをとっている[2]

1954ねん仮釈放かりしゃくほうされているが、そのくなるまで公的こうてき場所ばしょあらわれることはほとんどなかった。裁判さいばんにおける個人こじん判決はんけつぶんは、おかたいするものがもっとみじかかった。

1958ねん以降いこう法務省ほうむしょうによっておこなわれたききと調査ちょうさこたえて、太平洋戦争たいへいようせんそう結果けっかとしてアジアの植民しょくみん独立どくりつしたとかんがえるのは自己じこ満足まんぞくぎぬと指摘してきした[3]

人物じんぶつ

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おかうみだいでは恩賜おんしぐみであったが、ぞく秀才しゅうさいタイプではなく、軍人ぐんじんとしてはからだ脆弱ぜいじゃくで、温厚おんこう素朴そぼく人柄ひとがらであったとつたえられている。また、たくみな交渉こうしょうじゅつち、会議かいぎ交渉こうしょうまとめにけていることでもられていたことから、戦場せんじょうなどのだい一線いっせんにはあまりず、海軍かいぐんしょうなどの中央ちゅうおうまりつづけ、昇進しょうしんたしつづけてきたのも、前述ぜんじゅつよう性格せいかくからだ素質そしつ起因きいんするとせつもある。生涯しょうがい独身どくしんだった。

年譜ねんぷ

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栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 海軍かいぐん参謀さんぼう』「石川いしかわ信吾しんご
  2. ^ a b 秘録ひろくだい東亜とうあ戦史せんし 東京とうきょう裁判さいばんへん富士ふじしょえん、1953ねん、120-121,141ぺーじ 
  3. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2010ねん08がつ18にち
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 法廷ほうていしょうだい120ごう: [おか敬純たかずみせきスル人事じんじきょく履歴りれきしょ]
  5. ^ 官報かんぽうだい3931ごう昭和しょうわ15ねん2がつ15にち
  6. ^ 官報かんぽうだい4917ごう昭和しょうわ18ねん6がつ5にち
  7. ^ 沢本さわもとよりゆきがいめい」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113476300 
  8. ^ 赤堀あかほりてつきちがいじゅう四名外国勲章記章受領佩用のけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113504500 

参考さんこう文献ぶんけん

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