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吉田よしだよしわれ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田よしだ よしわれ
よしだ ぜんご
1940ねん昭和しょうわ15ねん)11月
生誕せいたん 1885ねん2がつ14にち
日本の旗 日本にっぽん 佐賀さがけん
死没しぼつ (1966-11-14) 1966ねん11月14にち(81さいぼつ
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1904ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 多磨たま霊園れいえん
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吉田よしだ よしわれ(よしだ ぜんご、明治めいじ18ねん1885ねん2がつ14にち - 昭和しょうわ41ねん1966ねん11月14にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海軍かいぐん大将たいしょう[1]海軍かいぐん大臣だいじん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん歴任れきにんした。

経歴けいれき

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佐賀さがけん出身しゅっしん士族しぞくみね與八よはちよんなん[2][3]べい吉田よしだ祐次ゆうじろう養子ようしとなる。旧制きゅうせい佐賀さが中学校ちゅうがっこうすすみ、「まことともだん」とづけた交友こうゆう団体だんたい加入かにゅう古賀こがみねいちはこのとき以来いらい友人ゆうじんであり、どうかいには下村しもむら湖人こじんもいた[4]1923ねん大正たいしょう12ねん)、分家ぶんけした[3]

海兵かいへい32を192めいちゅう12ばん卒業そつぎょう。すでににち戦争せんそう開戦かいせんしており、「韓崎かんさきまる」で訓練くんれんけたのち、「春日しゅんじつ艦長かんちょう加藤かとう定吉さだきちとして日本海にほんかい海戦かいせん参戦さんせんした。

吉田よしだえらんだ海軍かいぐん兵科へいか将校しょうこうとしてのせんもん水雷すいらいで、だいいち水雷すいらい戦隊せんたい参謀さんぼうなどをつとめている。海軍かいぐんだい学校がっこうだいいち選抜せんばつ合格ごうかくし、塩沢しおざわ幸一こういち嶋田しまだ繁太郎しげたろうとは海兵かいへいうみだいとも同期どうきである。戦艦せんかんきむつよし」、「陸奥みちのく」のかく艦長かんちょう連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう練習れんしゅう艦隊かんたい司令しれいかんだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんなどを歴任れきにん

1937ねん昭和しょうわ12ねん12月1にちからは連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんつとめるが、1939ねん昭和しょうわ14ねん8がつ30にち阿部あべ内閣ないかく海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにんべい内内うちうちかくだい2近衛このえないかくでも留任りゅうにんした。1940ねん昭和しょうわ15ねん)に大将たいしょう累進るいしん[1]軍事ぐんじ参議さんぎかんささえ方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんなどをて、1945ねん昭和しょうわ20ねん6月1にち予備よびやくとなる。

1946ねん昭和しょうわ21ねん公職こうしょく追放ついほうとなり[5]1952ねん昭和しょうわ27ねん追放ついほう解除かいじょされた[6]

海軍かいぐん大臣だいじん

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吉田よしだ部下ぶか使つかかたがあまり上手じょうずではなかった[7]同期どうき山本やまもと五十六いそろくは、吉田よしだ大臣だいじん就任しゅうにんさいし、吉田よしだ将来しょうらい危惧きぐ海軍かいぐん次官じかん留任りゅうにんもうたが、山本やまもと連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんとして海上かいじょうることとなった。しかし後任こうにん住山すみやま徳太郎とくたろう山本やまもと井上いのうえ成美まさみのように強力きょうりょく吉田よしだ補佐ほさできるタイプではなかった[8]

だい2近衛このえないかく発足ほっそく以後いごにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつけたうごきが加速かそくし、うみしょうである吉田よしだはその対応たいおう苦慮くりょすることとなった[注釈ちゅうしゃく 1]外相がいしょう松岡まつおか洋右ようすけ熱心ねっしんさんこく同盟どうめい推進すいしんであり、松岡まつおかは「アメリカ国民こくみん半数はんすうはドイツけい(ゲルマンけい)なので、にちどく同盟どうめいむすべばドイツけいアメリカじん戦争せんそう抑止よくしうごき、アメリカとは戦争せんそうにならない」と自説じせつ展開てんかい[9]。これにせられた吉田よしだにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ賛成さんせいする[注釈ちゅうしゃく 2]吉田よしだ海軍かいぐん代表だいひょうして同盟どうめいろん賛成さんせいしたものの、内閣ないかく予想よそうはんべいぐん軍備ぐんび着手ちゃくしゅ[9]吉田よしだ心配しんぱいのあまり強度きょうど神経しんけい衰弱すいじゃくにかかった[9]周囲しゅうい辞任じにんすすめられたものの、吉田よしだみずからの辞任じにん国際こくさい関係かんけい悪影響あくえいきょうおよぼすことをけ、職務しょくむはげつづけた[10]。しかし、限界げんかいえた吉田よしだはついに自殺じさつはか[9][11]にちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ直前ちょくぜん1940ねん昭和しょうわ15ねん)9がつ5にちうみしょう辞任じにんした。後任こうにんうみしょう及川おいかわ古志こしろう前任ぜんにん吉田よしださんこく同盟どうめい賛成さんせいした以上いじょう自身じしん反対はんたいするわけにもいかず[9]どう27にちにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつされた。なお在任ざいにんちゅう吉田よしだ消極しょうきょくてきではあったが、「情勢じょうせい推移すいいとも帝国ていこく国策こくさく要綱ようこう」や「世界せかい情勢じょうせい推移すいいともなえ時局じきょく処理しょり要綱ようこう」、出師すいし準備じゅんび発動はつどうみとめている[12][13]

人物じんぶつ

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宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう[1][3]東京とうきょう在籍ざいせき[3]住所じゅうしょ目黒めぐろ柿ノ木かきのきざか[1][3]

家族かぞく親族しんぞく

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吉田よしだ
親戚しんせき

年譜ねんぷ

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栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

関連かんれん作品さくひん

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漫画まんが

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 以前いぜんにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつ沙汰ざたされただい1近衛このえないかく平沼ひらぬま内閣ないかくには、当時とうじうみしょう米内よない光政みつまさだけでなく外相がいしょう蔵相ぞうしょうさんこく同盟どうめい反対はんたいしていた。
  2. ^ これにかんして昭和しょうわ天皇てんのうは「吉田よしだ松岡まつおかにちどく同盟どうめいろんにだまされた」「(ドイツけいアメリカじん戦争せんそう抑止よくしうごくとの松岡まつおかげんを)吉田よしだしんけた」と回想かいそうしている。(『昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』p.60)

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 人事じんじ興信録こうしんろく だい15はん ヨ10ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2018ねん11月22にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 人事じんじ興信録こうしんろく だい9はんヨ51ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2018ねん11月22にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k 人事じんじ興信録こうしんろく だい12はん ヨ50ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2018ねん11月21にち閲覧えつらん
  4. ^ 最後さいごとりで』p.124
  5. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1946ねん3がつ11にちいちめん
  6. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1952ねん2がつ14にち夕刊ゆうかんいちめん
  7. ^ 井上いのうえ成美まさみ資料しりょうpp.302-303
  8. ^ にん海軍かいぐん大臣だいじん』「吉田よしだよしわれ
  9. ^ a b c d e 昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』p.60
  10. ^ 回想かいそう海軍かいぐんひとすじものがたり』pp.119-120
  11. ^ 日本にっぽん海軍かいぐんいかりあげゲ』「だい14 べいない山本やまもと井上いのうえトリオ」
  12. ^ 新版しんぱん 米内よない光政みつまさ』pp169-175
  13. ^ よんにん軍令ぐんれい総長そうちょう』「永野ながの修身しゅうしん
  14. ^ 官報かんぽうだい6682ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん10がつ5にち
  15. ^ 官報かんぽうだい7329ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん12月2にち
  16. ^ 官報かんぽうだい7949ごう叙任じょにん及辞れい」1909ねん12月21にち
  17. ^ 官報かんぽうだい748ごう叙任じょにん及辞れい」1915ねん2がつ1にち
  18. ^ 官報かんぽうだい2237ごう叙任じょにん及辞れい」1920ねん1がつ21にち
  19. ^ 官報かんぽうだい3423ごう叙任じょにん及辞れい」1924ねん1がつ23にち
  20. ^ 官報かんぽうだい708ごう叙任じょにん及辞れい」1929ねん5がつ13にち
  21. ^ 官報かんぽうだい1412ごう付録ふろく辞令じれい」1917ねん4がつ19にち。p2
  22. ^ 官報かんぽうだい3559ごう叙任じょにん及辞れい」1924ねん7がつ4にち
  23. ^ 官報かんぽうだい2129ごう叙任じょにん及辞れい」1934ねん2がつ8にち
  24. ^ 赤堀あかほりてつきちがいじゅう四名外国勲章記章受領佩用のけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113504500 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい9はん人事じんじ興信所こうしんじょ、1931ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい12はん 人事じんじ興信所こうしんじょ、1940ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい15はん 人事じんじ興信所こうしんじょ、1948ねん
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかいへん日本にっぽん海軍かいぐん』(だい9かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん ISBN 4-8295-0003-4
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • 半藤はんどう一利かずとし横山よこやま恵一けいいちはたいく彦、戸高とだか一成いっせい歴代れきだい海軍かいぐん大将たいしょうぜんらん中公新書ちゅうこうしんしょラクレ ISBN 4-12-150177-2
  • 実松さねまつゆずる新版しんぱん 米内よない光政みつまさ光人みつひとしゃ、1975ねん
  • 実松さねまつゆずる最後さいごとりで 提督ていとく吉田よしだよしわれ生涯しょうがい光人みつひとしゃ、1979ねん
  • 福地ふくち誠夫のぶお回想かいそう海軍かいぐんひとすじ物語ものがたり光人みつひとしゃ ISBN 4-7698-0274-9
  • 井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかいへん井上いのうえ成美まさみどう刊行かんこうかい
  • 吉田よしだ俊雄としおにん海軍かいぐん大臣だいじん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ ISBN 4-16-736002-0
  • 吉田よしだ俊雄としおよんにん軍令ぐんれい総長そうちょう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ ISBN 4-16-736004-7

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
米内よない光政みつまさ
海軍かいぐん大臣だいじん
阿部あべ内閣ないかくべい内内うちうちかくだい近衛このえないかく
1939ねん8がつ30にち - 1940ねん9がつ5にち
次代じだい
及川おいかわ古志こしろう
ぐんしょく
先代せんだい
永野ながの修身しゅうしん
連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
だい25だい:1937ねん12月1にち - 1939ねん8がつ30にち
次代じだい
山本やまもと五十六いそろく