吉田 善 吾
よしだ ぜんご | |
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1940 | |
1885 | |
1966 | |
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1904 | |
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経歴
[1937
1946
海軍 大臣
[人物
[家族 ・親族
[吉田 家
養父 ・祐次 郎 [3]妻 ・恒子 [1]、あるいはツネ[2][3](1893年 - ?、佐賀 士族 、松永 直吉 の妹 )[3]男 ・浩 (1914年 - ?)[3]二男 ・清 [2](海軍 大尉 )長女 ・光子 (1912年 - ?、神奈川 、柳下 昌男 の妻 )[1][3]二女 ・雅子 (1916年 - ?、東京 、松江 一郎 の妻 )[1]三 女 ・茂子 (1918年 - 2010年 、宮城 、氏家 榮一 の妻 )[1]四 女 (東京 、石川 潔 の妻 、1924年 - )[1]五 女 (1926年 - )[3]
親戚
娘 婿 義兄
年譜
[明治 18年 (1885年 ) -佐賀 県 で生 まれる明治 37年 (1904年 )11月14日 -海軍兵学校 卒業 (海兵 32期 )、海軍 少尉 候補 生 明治 38年 (1905年 )8月 31日 -海軍 少尉 に任官 明治 40年 (1907年 )9月 28日 -海軍 中尉 に進級 明治 42年 (1909年 )大正 2年 (1913年 )12月1日 -海軍 大 学校 甲種 学生 (甲種 13期 )大正 4年 (1915年 ) -海軍 大 学校 卒業 - 12月13
日 -海軍 少佐 に進級
- 12月13
大正 8年 (1919年 )12月1日 -海軍 中佐 に進級 大正 12年 (1923年 )大正 13年 (1924年 )大正 14年 (1925年 )5月 15日 -任 海軍 省 軍務 局 第 一 課長 昭和 2年 (1927年 )12月1日 -任 巡 洋 戦艦 「金 剛 」艦長 昭和 3年 (1928年 )12月 10日 -任 戦艦 「陸奥 」艦長 昭和 4年 (1929年 )11月30日 -海軍 少将 に進級 昭和 6年 (1931年 )12月1日 -任 連合 艦隊 兼 第 一 艦隊 参謀 長 昭和 8年 (1933年 )9月 15日 -任 軍務 局長 昭和 9年 (1934年 )11月15日 -海軍 中将 に進級 昭和 11年 (1936年 )昭和 12年 (1937年 )12月1日 -任 連合 艦隊 司令 長官 兼 第 一 艦隊 司令 長官 昭和 14年 (1939年 )8月 30日 -阿部 内閣 で海軍 大臣 を拝命 、日 独 伊 三 国 同盟 ・日米 戦争 に反対 する昭和 15年 (1940年 )11月15日 -海軍 大将 に進級 、任 軍事 参議 官 昭和 17年 (1942年 )11月 10日 -任 支 那 方面 艦隊 司令 長官 昭和 18年 (1943年 )12月14日 -任 海軍 大 学校 校長 昭和 19年 (1944年 )5月 3日 -任 横須賀 鎮守 府 司令 長官 昭和 20年 (1945年 )6月 1日 -予備 役 編入 昭和 41年 (1966年 )11月14日 - 81歳 で死去 。墓所 は多磨 霊園
栄典
[位階
- 1905
年 (明治 38年 )10月4日 -正 八 位 [14] - 1907
年 (明治 40年 )11月30日 -従 七 位 [15] - 1909
年 (明治 42年 )12月20日 -正 七 位 [16] - 1915
年 (大正 4年 )1月 30日 -従 六 位 [17] - 1920
年 (大正 9年 )1月 20日 -正 六 位 [18] - 1924
年 (大正 13年 )1月 21日 -従 五 位 [19] - 1929
年 (昭和 4年 )3月15日 -正 五 位 [20] - 1934
年 (昭和 9年 )4月 16日 -従 四 位 - 1936
年 (昭和 11年 )12月15日 -正 四 位 - 1939
年 (昭和 14年 )9月1日 -従 三 位 - 1942
年 (昭和 17年 )9月15日 -正 三 位
勲章 等
外国 勲章 佩用 允許
- 1944
年 (昭和 19年 )6月23日 -満州 国 国勢調査 紀 念 章 [24]
関連 作品
[漫画
[注釈
[- ^
以前 、日 独 伊 三 国 同盟 締結 が取 り沙汰 された第 1次 近衛 内 閣 ・平沼 内閣 期 には、当時 の海 相 米内 光政 だけでなく外相 ・蔵相 も三 国 同盟 に反対 していた。 - ^ これに
関 して昭和 天皇 は「吉田 は松岡 の日 独 同盟 論 にだまされた」「(ドイツ系 アメリカ人 が戦争 抑止 に動 くとの松岡 の言 を)吉田 は真 に受 けた」と回想 している。(『昭和 天皇 独白 録 』p.60)
出典
[- ^ a b c d e f g h i j k 『
人事 興信録 第 15版 下 』ヨ10頁 (国立 国会図書館 デジタルコレクション)。2018年 11月22日 閲覧 。 - ^ a b c 『
人事 興信録 第 9版 』ヨ51頁 (国立 国会図書館 デジタルコレクション)。2018年 11月22日 閲覧 。 - ^ a b c d e f g h i j k 『
人事 興信録 第 12版 下 』ヨ50頁 (国立 国会図書館 デジタルコレクション)。2018年 11月21日 閲覧 。 - ^ 『
最後 の砦 』p.124 - ^ 『
朝日新聞 』1946年 3月 11日 一 面 。 - ^ 『
毎日新聞 』1952年 2月 14日 夕刊 一 面 。 - ^ 『
井上 成美 』資料 pp.302-303 - ^ 『
五 人 の海軍 大臣 』「吉田 善 吾 」 - ^ a b c d e 『
昭和 天皇 独白 録 』p.60 - ^ 『
回想 の海軍 ひとすじものがたり』pp.119-120 - ^ 『
日本 海軍 、錨 揚 ゲ』「第 14話 米 内 ・山本 ・井上 トリオ」 - ^ 『
新版 米内 光政 』pp169-175 - ^ 『
四 人 の軍令 部 総長 』「永野 修身 」 - ^ 『
官報 』第 6682号 「叙任 及辞令 」1905年 10月 5日 。 - ^ 『
官報 』第 7329号 「叙任 及辞令 」1907年 12月2日 。 - ^ 『
官報 』第 7949号 「叙任 及辞令 」1909年 12月21日 。 - ^ 『
官報 』第 748号 「叙任 及辞令 」1915年 2月 1日 。 - ^ 『
官報 』第 2237号 「叙任 及辞令 」1920年 1月 21日 。 - ^ 『
官報 』第 3423号 「叙任 及辞令 」1924年 1月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 708号 「叙任 及辞令 」1929年 5月 13日 。 - ^ 『
官報 』第 1412号 ・付録 「辞令 」1917年 4月 19日 。p2 - ^ 『
官報 』第 3559号 「叙任 及辞令 」1924年 7月 4日 。 - ^ 『
官報 』第 2129号 「叙任 及辞令 」1934年 2月 8日 。 - ^ 「
赤堀 鉄 吉 外 十 四名外国勲章記章受領佩用の件 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A10113504500
参考 文献
[人事 興信所 編 『人事 興信録 第 9版 』人事 興信所 、1931年 。人事 興信所 編 『人事 興信録 第 12版 下 』人事 興信所 、1940年 。人事 興信所 編 『人事 興信録 第 15版 下 』人事 興信所 、1948年 。海軍 歴史 保存 会 編 『日本 海軍 史 』(第 9巻 )第一法規出版 外山 操 編 『陸海 軍 将官 人事 総覧 海軍 篇 』芙蓉 書房 出版 ISBN 4-8295-0003-4秦 郁 彦編 『日本 陸海 軍 総合 事典 』東京大学 出版 会 半藤 一利 、横山 恵一 、秦 郁 彦、戸高 一成 『歴代 海軍 大将 全 覧 』中公新書 ラクレ ISBN 4-12-150177-2実松 譲 『新版 米内 光政 』光人 社 、1975年 実松 譲 『最後 の砦 提督 吉田 善 吾 の生涯 』光人 社 、1979年 福地 誠夫 『回想 の海軍 ひとすじ物語 』光人 社 ISBN 4-7698-0274-9井上 成美 伝記 刊行 会 編 『井上 成美 』同 刊行 会 吉田 俊雄 『五 人 の海軍 大臣 』文春 文庫 ISBN 4-16-736002-0吉田 俊雄 『四 人 の軍令 部 総長 』文春 文庫 ISBN 4-16-736004-7
関連 項目
[1939 |
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