(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ドワイト・D・アイゼンハワー - Wikipedia コンテンツにスキップ

ドワイト・D・アイゼンハワー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドワイト・アイゼンハワーから転送てんそう
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower

1959ねん5がつ

任期にんき 1953ねん1がつ20日はつか1961ねん1がつ20日はつか
ふく大統領だいとうりょう リチャード・ニクソン

任期にんき 1945ねん11月19にち1948ねん2がつ6にち
大統領だいとうりょう ハリー・S・トルーマン

出生しゅっしょう (1890-10-14) 1890ねん10月14にち
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく テキサスしゅうデニソン
死去しきょ (1969-03-28) 1969ねん3月28にち(78さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ワシントンD.C.
政党せいとう 共和党きょうわとう
出身しゅっしんこう アメリカ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう
配偶はいぐうしゃ マミー・アイゼンハワー
子女しじょ ダウド・アイゼンハワー
ジョン・アイゼンハワー
署名しょめい
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower
1947ねん撮影さつえい
陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう在任ざいにん
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
ぐんれき 1915 - 1953
1961 - 1969[1]
最終さいしゅう階級かいきゅう 元帥げんすい
テンプレートを表示ひょうじ
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 2009ねん
選出せんしゅつ部門ぶもん 特別とくべつ功労こうろう

ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー英語えいご: Dwight David Eisenhower1890ねん10月14にち - 1969ねん3月28にち)は、アメリカ政治せいじ陸軍りくぐん軍人ぐんじんだい34だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう最終さいしゅう階級かいきゅう元帥げんすい通称つうしょうアイクIke)。軍人ぐんじんとしては連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいかんアメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうNATOぐん最高さいこう司令しれいかん歴任れきにんした。モットーは「物腰ものごし優雅ゆうがに、行動こうどう力強ちからづよく」である。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

ちと家族かぞく

[編集へんしゅう]

1890ねん10がつ14にちテキサスしゅうデニソンにてデイヴィッド・ジェイコブ(David Jacob Eisenhower)とアイダ・エリザベス・ストーヴァー・アイゼンハワー(Ida Elizabeth Stover)の三男さんなんとして誕生たんじょうする。

ドイツ西南せいなんフランスとの国境こっきょうちかザールブリュッケンぐんカールスブルンより宗教しゅうきょうてき迫害はくがいのがれて17世紀せいきスイス移住いじゅうし、さらに1730ねんにアメリカのヨーク地区ちくからランカスター移住いじゅうしたペンシルベニア・ドイツじんちか家系かけい出身しゅっしんである。

また、ははのアイダはメノースイスけいドイツじんリヴァー兄弟きょうだいだんのちエホバの証人しょうにんものみのとう協会きょうかい会員かいいんとなり、1898ねん受洗じゅせんした[2]

アイゼンハワードイツけいであるが、18世紀せいき以来いらいアメリカでらし、その一家いっか1892ねんカンザスしゅうアビリーン転居てんきょした。

バター工場こうじょう労働ろうどうしゃからウエストポイントへ

[編集へんしゅう]

アイゼンハワーはアビリーン高校こうこう入学にゅうがくし、1909ねん卒業そつぎょうした。在学ざいがくちゅうひざ怪我けがによる感染かんせんしょうあしまでひろがり、いのち危険きけんがあると診断しんだんされた。医師いしあし切断せつだんすすめたが、これを拒否きょひし、のち奇跡きせきてき回復かいふくしたものの、1ねん留年りゅうねんした。

高校こうこう卒業そつぎょうあにのエドガーととも大学だいがく進学しんがく希望きぼうしていたが、経済けいざいてき困難こんなん状況じょうきょうであった。そこでかれらは、一方いっぽう大学だいがくかよい、もう一方いっぽうがそのとし授業じゅぎょうりょうかせぐというめをした。はじめのとしはエドガーが大学だいがくかよい、ドワイトはベルスプリングのバター工場こうじょう夜勤やきんシフトの従業じゅうぎょういんとしてはたらはじめた。1ねん、エドガーは連続れんぞく通学つうがくしたいともうた。ドワイトは承諾しょうだくして、つづきバター工場こうじょうはたらくこととなった。

その時期じき友人ゆうじんのハズレットが、無償むしょう教育きょういくけられる海軍兵学校かいぐんへいがっこう受験じゅけんすすめ、軍人ぐんじんになる決意けついかため、カンザスしゅう上院じょういん議員ぎいんジョゼフ・L・ブリストウの推薦すいせんることに成功せいこうした。現在げんざいでは、ブリストウ議員ぎいんはアイゼンハワーの推薦人すいせんにんとなったことでもっともよくられている。アメリカ陸軍りくぐんアメリカ海軍かいぐん入学にゅうがく試験しけん首尾しゅびよく合格ごうかくしたが、海軍かいぐん年齢ねんれい制限せいげんのためれず、1911ねんウエストポイントにあるアメリカ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうへの入学にゅうがくめた。以後いご、1969ねん死去しきょするまで、大統領だいとうりょうであった8年間ねんかんのぞき、軍人ぐんじんとしての生涯しょうがいごした。約束やくそくたされなかったが、あにのエドガーは無事ぶじミシガン大学だいがくロースクールを卒業そつぎょうし、やり弁護士べんごしとしてワシントンしゅう開業かいぎょうしている。

結婚けっこん

[編集へんしゅう]

1916ねん7がつ1にちコロラドしゅうデンバーマミー・ジュネーブ・ダウド1896ねん11月 - 1979ねん11月)と結婚けっこんした。夫妻ふさいはダウド・ドワイト・アイゼンハワー(1917ねん9月 – 1921ねん1がつ)とジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(1922ねん8がつ - 2013ねん12がつ)をもうけた。ジョン・アイゼンハワーは陸軍りくぐん勤務きんむし、つぎ作家さっかになり、ベルギー大使たいしつとめた。ジョン・アイゼンハワーの息子むすこデイヴィッド・アイゼンハワーは、リチャード・ニクソンむすめジュリー1968ねん結婚けっこんした[3]

ぐんれき

[編集へんしゅう]
1915ねん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう肖像しょうぞう
FT-17けい戦車せんしゃ少佐しょうさ時代じだいのアイゼンハワー

1915ねん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうした。テキサスジョージア1918ねんまで歩兵ほへいともに、また1918ねんから1922ねんまではメリーランドしゅうキャンプ・ミードなどで戦車せんしゃたいとも軍務ぐんむいた。だいいち世界せかい大戦たいせんへの従軍じゅうぐんねがたが、許可きょかされなかった。

1917ねん大尉たいい1920ねん少佐しょうさ昇進しょうしんし、いで1922ねんから1924ねんあいだパナマ運河うんが地帯ちたいフォックス・コナー将軍しょうぐん副官ふっかん地位ちいにあり、軍事ぐんじめんかれからおおきな影響えいきょうけ、すぐれた管理かんり能力のうりょくけた。1925ねん1926ねんにはカンザスしゅうフォートレヴェンワースで指揮しきかんおよび参謀さんぼう学校がっこう勤務きんむし、1927ねんまでジョージアしゅうフォートベニングで大隊だいたい指揮しきかんつとめた。

1920年代ねんだいわりから1930年代ねんだいはじめまで、アイゼンハワーのぐんれき停滞ていたいした。階級かいきゅうも16年間ねんかん少佐しょうさのままであった。アイゼンハワーはアメリカせん委員いいんかい就任しゅうにん、そのジョン・パーシング将軍しょうぐんによってワシントンD.C.陸軍りくぐん戦争せんそう大学だいがくでの奉職ほうしょく余儀よぎなくされた。そしてつぎに、ジョージ・V・モゼリー将軍しょうぐん国防こくぼうふく長官ちょうかん、1929ねん - 1933ねん)の副官ふっかんつとめた。

その、アイゼンハワーは1935ねんまで陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうダグラス・マッカーサー大将たいしょう主任しゅにん補佐ほさ武官ぶかんつとめ、1935ねん陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう退任たいにんして少将しょうしょうもどったマッカーサーがフィリピン政府せいふ軍事ぐんじ顧問こもんつとめることになったとき、マッカーサーの希望きぼう副官ふっかんとなった[4]。マッカーサーは着任ちゃくにんアメリカぐん威容いようしめすためにマニラ市内しないでパレードをすることをおもいつき、アイゼンハワーに計画けいかくてさせ、かく方面ほうめん折衝せっしょうおこなわせた。ところが、このパレード計画けいかくフィリピン・コモンウェルス政府せいふ無断むだんおこなわれていたため、フィリピン大統領だいとうりょうマニュエル・ケソン抗議こうぎおこなった。マッカーサーは副官ふっかんであるアイゼンハワーのミスであると弁解べんかいし、アイゼンハワーをしかりつけた[4]以後いご、マッカーサーはアイゼンハワーのこまかい失敗しっぱい指摘してきしつづけ、いやになったアイゼンハワーが転任てんにん希望きぼうしてもそれをにぎつぶつづけた[4]。その1936ねんにようやく中佐ちゅうさ昇進しょうしんした。

その1940ねん1がつにアメリカへもどり、ワシントンしゅうフォート・ルイス英語えいごばんだい15歩兵ほへい連隊れんたい勤務きんむとなった[5]。これ以降いこう順調じゅんちょう出世しゅっせかさね、11月にはだい3師団しだん参謀さんぼうちょう1941ねん3がつ大佐たいさ昇進しょうしんしてだい9軍団ぐんだん参謀さんぼうちょう、6がつにはテキサスしゅうフォート・サム・ヒューストン英語えいごばんだい3ぐん司令しれいかんウォルター・クルーガー中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう任命にんめいされた[6]。アイゼンハワーは1941ねん9月になぞらえしょう昇進しょうしんした。アイゼンハワーの管理かんり能力のうりょく注目ちゅうもくされたが、だい世界せかい大戦たいせんへのアメリカの参戦さんせん前夜ぜんやにおいては、実戦じっせんでの指揮しき経験けいけんまったくなく、おおきな作戦さくせん司令しれいかんとなる可能かのうせいきわめてうすかった。

1941ねん12月7にち日本にっぽんぐんによる真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのち、フィリピンにかんする知識ちしきわれ、参謀さんぼう本部ほんぶ戦争せんそう計画けいかくきょく次長じちょう任命にんめいされた[5]。アイゼンハワーは陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうジョージ・C・マーシャル大将たいしょう信任しんにん1942ねん3がつには参謀さんぼう本部ほんぶ新設しんせつされた作戦さくせん初代しょだい部長ぶちょう任命にんめいされ、数日すうじつには少将しょうしょう昇進しょうしんした[6]。アイゼンハワーはここでたいどく作戦さくせん計画けいかく立案りつあんした。アイゼンハワーの計画けいかくは、イギリスを基地きちとして、戦略せんりゃく爆撃ばくげき海軍かいぐん艦艇かんてい大量たいりょう起用きようだい規模きぼ上陸じょうりく作戦さくせんおこなうことで西北せいほくヨーロッパを制圧せいあつするというものであった[7]。マーシャルはこの計画けいかく承認しょうにんし、そのさい指揮しきかんとしてアイゼンハワーを登用とうようすることをめた[8]。まもなく中将ちゅうじょう昇進しょうしんしたアイゼンハワーは、きたるべきヨーロッパでの反攻はんこう作戦さくせんのためにイギリスかうことになった。

ヨーロッパ戦域せんいき連合れんごう国軍こくぐん指揮しきかん

[編集へんしゅう]
ポツダム会談かいだん
みぎからオマール・ブラッドレー、アイゼンハワー、ジョージ・パットン

1942ねん6がつにアイゼンハワーはロンドン司令しれいヨーロッパ戦域せんいき連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんCINCAF)に着任ちゃくにんし、イギリスぐんきゅうヴィシー政権せいけんぐん将軍しょうぐんたちとの調整ちょうせいおこなった[9]

アイゼンハワーはアメリカぐんによる新聞しんぶん検閲けんえつ制度せいど廃止はいしし、兵士へいしたちのトラブルをあえて開示かいじすることで綱紀こうき粛正しゅくせいしようとした[10]。また兵士へいしたちにたいして、アメリカの戦争せんそう目的もくてき民主みんしゅ主義しゅぎのためであるという教育きょういく徹底てっていさせ、さらに兵士へいしたちにイギリスじんたいする配慮はいりょもとめることで、両国りょうこくあいだ関係かんけい改善かいぜんさせた[11]。アイゼンハワー自身じしんたいする人気にんきたかまり、に9かいもパーティーに出席しゅっせきせねばならないほどであった[12]

最初さいしょだい仕事しごとモロッコアルジェリアへの連合れんごうぐん上陸じょうりく作戦さくせんすなわち1942ねん11月8にち開始かいしされた「トーチ作戦さくせん」であった。アイゼンハワーがトーチ作戦さくせん最高さいこう司令しれいかん要求ようきゅうしたアンリ・ジロー大将たいしょう説得せっとくし、きたアフリカにおける民政みんせい長官ちょうかんあたえることでおさめたことは、かれたか調整ちょうせい能力のうりょくしめすものであった[13]

マーシャルやフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうは「国威こくい発揚はつようをもたらし、たか調整ちょうせい能力のうりょくつ」として、1944ねん3がつにアイゼンハワーを大将たいしょう任命にんめいした[13]中佐ちゅうさになってからわずか4ねんであり、この時点じてんでは空前くうぜんのスピード昇進しょうしんであった。

以降いこうハスキー作戦さくせんはじまるイタリア戦線せんせん最高さいこう指揮しきかんとなり、ジョージ・パットンバーナード・モントゴメリーといったくせつよ部下ぶかたちの調整ちょうせいたった[13]。9月8にちにはイタリア王国おうこくとの休戦きゅうせん条約じょうやく締結ていけつしている(イタリアの降伏ごうぶく)。

連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいかん

[編集へんしゅう]

イギリスの首相しゅしょうウィンストン・チャーチルは、ヨーロッパ反攻はんこう作戦さくせんにおける連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいかんにアイゼンハワーではなく陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうのマーシャル大将たいしょう希望きぼうし、大統領だいとうりょうのルーズベルトもそれにかたむいていたが、統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶのメンバーである大統領だいとうりょうづけ参謀さんぼうちょうウィリアム・リーヒ大将たいしょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけんアメリカ海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうアーネスト・キング大将たいしょう陸軍りくぐん航空こうくうぐんそう司令しれいかんヘンリー・アーノルド大将たいしょうは、統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶにマーシャルは不可欠ふかけつであるとして反対はんたいし、ルーズベルトはカイロ会談かいだんテヘラン会談かいだんえて帰国きこくする直前ちょくぜんに、アイゼンハワーを連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいかんとすることに決定けっていした[14][15]

連合れんごうこく遠征えんせいぐん最高さいこう司令しれいはヨーロッパ反攻はんこう作戦さくせんとして「オーバーロード作戦さくせん(ノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん)」の計画けいかくおこない、アイゼンハワーはその計画けいかく実行じっこう1944ねん6月6にちD-デイ)とする決断けつだんおこなった[16]上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうし、その順調じゅんちょう戦線せんせん拡大かくだいした。

12月20にち、アイゼンハワーは陸軍りくぐん元帥げんすい昇進しょうしんした。1920ねん少佐しょうさになってから中佐ちゅうさ昇進しょうしんするまで16ねんようし、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつには一介いっかい中佐ちゅうさにすぎなかったが、そのわずか5ねん3ヶ月かげつ元帥げんすい昇進しょうしんした(1941ねん3がつ大佐たいさ昇進しょうしん同年どうねん9がつじゅんしょう昇進しょうしん、1942ねん3がつ少将しょうしょう昇進しょうしん同年どうねん11がつ中将ちゅうじょう昇進しょうしん、1944ねん大将たいしょう昇進しょうしん)。これはアメリカ陸軍りくぐん史上しじょう空前くうぜん記録きろくであった。1945ねんまつまでヨーロッパ戦線せんせんにおける450まんにん連合れんごうぐんぜんぐん最高さいこう司令しれいかんであった。

アイゼンハワーはこれらの地位ちいでリーダーシップと外交がいこう才能さいのうしめした。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍しょうぐんやパットン将軍しょうぐんのような前線ぜんせん指揮しきかん尊敬そんけいり、チャーチルやモントゴメリー、シャルル・ド・ゴールのような一筋縄ひとすじなわではいかない協力きょうりょくしゃたくみにきした。戦略せんりゃくじょう、チャーチルおよびモントゴメリーとは基本きほんてき相容あいいれないものがあったが、かれらとの関係かんけい転覆てんぷくすることはなかった。またアイゼンハワーは、ゲオルギー・ジューコフのようなソ連それん司令しれいかんや、しばしばヨシフ・スターリン直接ちょくせつ交渉こうしょうすることさえあったが、それはルーズベルト大統領だいとうりょうかれたいして信頼しんらいいていたからであり、ソ連それんからもアイゼンハワーはたか評価ひょうかされて勝利しょうり勲章くんしょうおくられた。かれはサインに「アイク」と署名しょめいすることをこのみ、一般いっぱん兵士へいしたちにもくばって不正ふせい根絶こんぜつしようとした。このため一般いっぱん将兵しょうへいからもたか人気にんきかれらは大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいてもアイゼンハワーを支持しじすることになる[17]

1945ねん5月8にちドイツの降伏ごうぶく英語えいごばん、アイゼンハワーはフランクフルト本拠ほんきょに、アメリカによる占領せんりょう地帯ちたい軍政ぐんせい長官ちょうかん就任しゅうにんしたものの、ほどなくパットンにこの地位ちい委任いにんした。かれは1945ねん11月に陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう任命にんめいされ、1948ねん2がつまで在任ざいにんした。

冷戦れいせんちゅう1950ねん12月には北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)ぐん最高さいこう司令しれいかんになった。元帥げんすいであるアイゼンハワーは終身しゅうしん現役げんえき陸軍りくぐん軍人ぐんじんまる資格しかくゆうしていたが、大統領だいとうりょう選挙せんきょたって1952ねん7がつにアメリカ陸軍りくぐん退役たいえきしている。そして大統領だいとうりょうを28ねんつとめたのちつぎケネディ大統領だいとうりょうはただちにアイゼンハワーを「1944ねん12がつ20日はつかさかのぼって現役げんえき陸軍りくぐん元帥げんすい再任さいにん」している(「現役げんえき復帰ふっき」ではない)。

大統領だいとうりょう選挙せんきょ

[編集へんしゅう]

1948ねん7がつコロンビア大学ころんびあだいがく学長がくちょうえらばれ、ニューヨークにきょかまえた。1945ねん以来いらい大統領だいとうりょう候補こうほとなる可能かのうせい指摘してきされてきたが、1936ねん以来いらい積極せっきょくてきにアメリカ共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほとしての指名しめいもとめていたマッカーサーことなり、当人とうにん政治せいじにほとんど関心かんしん選挙せんきょ投票とうひょうしたこともかったので、支持しじ政党せいとう共和党きょうわとう民主党みんしゅとうかもられていなかった。

トルーマン否定ひていしているが、歴史れきし何人なんにんかは1948ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでトルーマンがアイゼンハワーを支持しじして引退いんたいすることをもうたとする。1952ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、民主党みんしゅとう共和党きょうわとうりょうとうから立候補りっこうほ要請ようせいされた。アイゼンハワーは出馬しゅつば最初さいしょ拒絶きょぜつしたが、結局けっきょく説得せっとくけ、共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほとして立候補りっこうほすることとなった。その理由りゆうとしてアイゼンハワーは「民主党みんしゅとうが20年間ねんかん大統領だいとうりょう輩出はいしゅつし、その変更へんこうくに必要ひつようとしたので共和党きょうわとうえらんだ」とかたった。オハイオしゅう選出せんしゅつロバート・タフト上院じょういん議員ぎいんやぶり、共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほとしての指名しめいた。

大統領だいとうりょう選挙せんきょ序盤じょばんには、アイゼンハワーは「政治せいじ」としてキャンペーンをおこない、対立たいりつ候補こうほであるイリノイしゅう知事ちじ民主党みんしゅとうアドレー・スティーブンソン[18]について言及げんきゅうしなかった。そのわりに共和党きょうわとういんかれ温厚おんこうおおやけのイメージをまもりつつも、民主みんしゅ党員とういんを「共産きょうさん主義しゅぎ寛大かんだい」として非難ひなんする冷戦れいせんキャンペーンをすることを黙認もくにんした。このためアイゼンハワーはカリフォルニアから選出せんしゅつされた若手わかて上院じょういん議員ぎいんで、反共はんきょう姿勢しせいられたリチャード・ニクソンふく大統領だいとうりょう候補こうほえらんだ。アイゼンハワーとニクソンは442にん選挙せんきょじん投票とうひょうて、11月のほん選挙せんきょ勝利しょうりした。たいするスティーブンソンの得票とくひょうは89だった。

大統領だいとうりょう

[編集へんしゅう]
ホワイトハウスで(1956ねん2がつ29にち

1953ねん1がつ20日はつか、アイゼンハワーは大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、その大統領だいとうりょうしょくにある期間きかんつうじて人気にんき保持ほじした。1956ねんには前回ぜんかい大統領だいとうりょう選挙せんきょつづいてテキサスしゅう・テネシーしゅう伝統でんとうてき共和党きょうわとう勢力せいりょくつよしゅうひょう維持いじし、ふたたびスティーブンソンを前回ぜんかい選挙せんきょ以上いじょう大差たいさをもってやぶり、ふく大統領だいとうりょうニクソンとともに再選さいせんされた。

外交がいこう問題もんだい

[編集へんしゅう]
ワシントンD.C.おとずれたみなみベトナム大統領だいとうりょうゴ・ディン・ジエムむかえるアイゼンハワー
サウジアラビア国王こくおうサウード・ビン・アブドゥルアズィーズおよびふく大統領だいとうりょうニクソンとともに
フルシチョフ夫妻ふさいとも
スペインフランシスコ・フランコとアイゼンハワー
2大統領だいとうりょう就任しゅうにんしきのぞむアイゼンハワーとふく大統領だいとうりょうニクソン

大統領だいとうりょう時代じだいソビエト連邦れんぽう筆頭ひっとうとする東側ひがしがわ諸国しょこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく代表だいひょうとする西側にしがわ諸国しょこくとの冷戦れいせん最盛さいせいともいえる時代じだいであった。アイゼンハワー政権せいけんささえたふく大統領だいとうりょうニクソンと国務こくむ長官ちょうかんジョン・フォスター・ダレスは、共産きょうさん主義しゅぎとのたたかいを指揮しき拡大かくだいした。また、当時とうじジョセフ・マッカーシー代表だいひょうとする共和党きょうわとう右派うは過激かげき反共はんきょう主義しゅぎもの煽動せんどう存在そんざいした。だが、ジョージ・ケナンによって提唱ていしょうされたふう政策せいさくけ、平和へいわ共存きょうぞん穏健おんけん保守ほしゅ路線ろせん追求ついきゅうした。その一方いっぽうで、反共はんきょう主義しゅぎしゃであった国務こくむ長官ちょうかんダレスの影響えいきょうによるところがおおきいとられるが、恐怖きょうふによるかく抑止よくしろんもとづいて、民間みんかんじん大量たいりょうをもたらす大量たいりょう戦略せんりゃく核兵器かくへいき配備はいびすすめ、その使用しようをもちらつかせる姿勢しせいは「瀬戸際せとぎわ政策せいさく」ともばれ、ながらくかく戦争せんそう恐怖きょうふ世界せかいにもたらし、今日きょうにも影響えいきょうおよぼしている[19]

就任しゅうにんにはまった朝鮮ちょうせん戦争せんそう停止ていしすると約束やくそくし、朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん協定きょうてい1953ねん7がつ署名しょめいされた。さらにアジアでの共産きょうさん主義しゅぎこくによる脅威きょういをとどめるため、韓国かんこくべいかん相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやくを、中華民国ちゅうかみんこくべいはな相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやく署名しょめいしたほか、東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう形成けいせいした。また、ふく大統領だいとうりょうニクソンを日本にっぽん韓国かんこく中華民国ちゅうかみんこくオーストラリアニュージーランドなどの友好国ゆうこうこくおくり、自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえい同盟どうめいこく重視じゅうしする外交がいこう推進すいしんした。

スペイン

[編集へんしゅう]

トルーマンはだい世界せかい大戦たいせんさい枢軸すうじくこくりの中立ちゅうりつ姿勢しせいをとったスペインフランシスコ・フランコ政権せいけん敵対てきたいてきで、国際こくさい連合れんごうのスペイン追放ついほう決議けつぎ賛成さんせいし、アメリカ大使たいし召還しょうかんしてスペインにたいするマーシャル・プラン財政ざいせい援助えんじょ拒否きょひしていたが、冷戦れいせん開始かいしともなって関係かんけい修復しゅうふく機運きうんたかまり、アイゼンハワーはスペインとべい西にし防衛ぼうえい協定きょうてい英語えいごばんスペインばん締結ていけつして軍事ぐんじ援助えんじょ経済けいざい援助えんじょおこなった[20]。1959ねん12月には、スペインを訪問ほうもんしてフランコと歴史れきしてき会見かいけんおこなった。

インドシナ

[編集へんしゅう]

トルーマンが拡大かくだいつづけたインドシナ戦争せんそうたたかフランスぐんへのアメリカからの援助えんじょは、1952ねんまでに年額ねんがくやく3おくドルにおよび、アイゼンハワーが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした1953ねんにはやく4おくドルにのぼった。4年間ねんかん援助えんじょ総量そうりょう航空機こうくうきやく130戦車せんしゃやく850りょう舟艇しゅうていやく280せき車両しゃりょう1まん6000だい弾薬だんやく1おく7000まんはつ以上いじょう医薬品いやくひん無線むせんなどがおくられている。また1950ねん10がつにサイゴンで組織そしきされていたインドシナアメリカ軍事ぐんじ援助えんじょ顧問こもんだん(MAAG)はフランスぐん兵力へいりょく不足ふそくおぎなうべく活動かつどうした。

1953ねん11月におこなわれたディエンビエンフーのたたかにおいて、フランスぐん降伏ごうぶくしらせをいたふく大統領だいとうりょうニクソンは、周辺しゅうへん山岳さんがく地帯ちたい集結しゅうけつしたベトミンぐんたいする小型こがた原子げんしばくだん使用しようをアイゼンハワーに進言しんげんしたが却下きゃっかされた[21]。またアメリカの統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶフィリピン展開てんかいしているボーイングB-29ばくげきによる支援しえんばくげき主張しゅちょうしたが、アイゼンハワーはこれも却下きゃっかした。

1954ねんジュネーブ協定きょうてい締結ていけつされインドシナ戦争せんそう終結しゅうけつしたことでフランスがり、ベトナム共和きょうわこくみなみベトナム)が成立せいりつしたのちの1955ねん11月には「インドシナべい軍事ぐんじ援助えんじょ顧問こもんだん」が「みなみベトナムアメリカ軍事ぐんじ援助えんじょ顧問こもんだん」へと改組かいそされた。そのフランスにわりインドシナ半島いんどしなはんとう反共はんきょう勢力せいりょく支援しえんすることとなったアメリカと、ゴ・ディン・ディエムひきいるみなみベトナムとの関係かんけい強化きょうかされ、軍事ぐんじ支援しえん規模きぼ拡大かくだいされたが、アイゼンハワー政権せいけんにおいては正規せいきぐん派遣はけんおこなわれなかった。しかしケネディ政権せいけんでは事実じじつじょう正規せいきぐん派遣はけんまでその規模きぼ拡大かくだいされ、そのベトナム戦争せんそうだいインドシナ戦争せんそう発展はってんしていくことになる。

日本にっぽん

[編集へんしゅう]

1957ねん6がつきし信介しんすけはじめてアメリカを訪問ほうもんしたさいに、アイゼンハワーはきしさきゴルフした。プレーには「大統領だいとうりょうになるといやなやつともテーブルをかこまねばならないが、ゴルフはきなやつとしかできない」とかたるなど、両者りょうしゃ信頼しんらい関係かんけいいしずえとなった[22]

1960ねん1がつに「1960ねん日米にちべい安保あんぽ条約じょうやく」が日本にっぽんとのあいだ締結ていけつされたのをけ、6がつきし招待しょうたい日本にっぽん訪問ほうもんしようとこころみたが、安保あんぽ闘争とうそう最中さいちゅうの6がつ10日とおか訪日ほうにち日程にってい協議きょうぎするため来日らいにちした大統領だいとうりょう報道ほうどうかんジェイムズ・ハガティ当時とうじ日本にっぽんにおける表記ひょうきは「ハガチー」)が東京とうきょう国際こくさい空港くうこう周辺しゅうへんけた訪日ほうにち反対はんたいデモたい包囲ほういされ、アメリカ海兵かいへいたいのヘリコプターで救助きゅうじょされるという事件じけん発生はっせいした。さらに6がつ15にちには警官けいかんたい国会こっかい議事堂ぎじどう正門せいもんまえでデモたい衝突しょうとつし、デモに参加さんかしていた大学生だいがくせいかば美智子みちこあつするという事件じけん発生はっせいしたうえ銃撃じゅうげきなどによりアイゼンハワーの危害きがいくわえられる可能かのうせいてきたという情報じょうほうすらはいってきたため、最終さいしゅうてき日本にっぽんがわよりアメリカに訪日ほうにちめるよう要請ようせいし、訪問ほうもんりやめた。なお、その条約じょうやく自動じどう承認しょうにんけて、きし辞職じしょくした。

日本にっぽん本土ほんどへの訪日ほうにちかなわなかったが、同年どうねん6月19にちには当時とうじアメリカの施政しせいけんにあった沖縄おきなわ訪問ほうもんしている。嘉手納かでな飛行場ひこうじょうち、那覇なはまでのやく24kmを琉球りゅうきゅう政府せいふ行政ぎょうせい主席しゅせきであった大田おおたまさしさくとともにオープンカーにりパレードをおこなっている。警察官けいさつかん700にんくわえアメリカの海兵かいへい隊員たいいん15,000にん警備けいびのため動員どういんされたという。

中東ちゅうとう

[編集へんしゅう]

1956ねん7がつスエズ運河うんが管理かんりかんする論争ろんそうで、イギリスフランスエジプトへの軍事ぐんじ介入かいにゅうつよ非難ひなんした(スエズ危機きき)。このさいにアイゼンハワーは冷戦れいせん対立たいりつしていたソ連それんニコライ・ブルガーニン閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう協力きょうりょくし、国際こくさい連合れんごう拒否きょひけん行使こうしするイギリスとフランスを退けてべい協調きょうちょう可決かけつ[23]された安保理あんぽり決議けつぎ119によって平和へいわのための結集けっしゅう決議けつぎもとづく緊急きんきゅう特別とくべつ総会そうかい招集しょうしゅうされ、同年どうねん11がつ2にちにはイギリス・フランス・イスラエルたいして即時そくじ停戦ていせんもとめる決議けつぎもとめる総会そうかい決議けつぎ997の採択さいたく成功せいこうする。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国際こくさい連合れんごう・ソビエト連邦れんぽうにより圧力あつりょくけ、同年どうねん11がつ6にちにイギリスとフランスは停戦ていせん受諾じゅだくし、同年どうねん11がつ8にちにはイスラエルも受諾じゅだくしてスエズ危機きき解決かいけつした。アイゼンハワーは、悪化あっかしたえいべい関係かんけい回復かいふくのため1957ねん渡米とべいしたエリザベス女王じょおうをホワイトハウスにむかえ、もてなしている[24]。また、1959ねんにエリザベス女王じょおうから英国えいこくまねかれバルモラルじょうにて歓待かんたいけている[25]翌年よくねん1がつには、バルモラルじょう振舞ふるまわれたスコーン(スコッチ・パンケーキ)のレシピをエリザベス女王じょおうからおくられている(おく約束やくそくになっていたことを、アイゼンハワーの新聞しんぶん記事きじにした女王じょおうおもした)[26]

大統領だいとうりょうしょくの2である1957ねんレバノン軍隊ぐんたいおくり、またシャー・マホメット・レザ・パーレヴィ権力けんりょく回復かいふくするためのイランでのクーデターを支援しえんして、中東ちゅうとう問題もんだいにますます没頭ぼっとうするようになった。

ソビエト連邦れんぽう

[編集へんしゅう]

アイゼンハワー政権せいけんでアメリカははつ世界せかいてきかく戦力せんりょく所持しょじしたが、世界せかい核兵器かくへいきふくだいさん世界せかい大戦たいせんおそれていた。1953ねん3月のスターリンの死後しご後継こうけいしゃニキータ・フルシチョフ核兵器かくへいき競争きょうそう停止ていし合意ごういたっする可能かのうせいのぞんだ。同年どうねんまつ国際こくさい連合れんごう総会そうかいおこなった「平和へいわのための原子力げんしりょく演説えんぜつ有名ゆうめいである。

ソ連それんのリーダーと首脳しゅのう会議かいぎ開催かいさいするいくつかのこころみはなされたが、そのようなこころみは最終さいしゅうてきに、1960ねんソ連それん上空じょうくうU-2偵察ていさつ撃墜げきついされたこと(U-2撃墜げきつい事件じけん)で失敗しっぱいした。フルシチョフは、自身じしん回想かいそう録音ろくおんテープのなかで「アイゼンハワーはことあるごとにダレスの助言じょげんいと返答へんとう出来できない」と見透みすかし、自国じこく自身じしん優位ゆういかんじたという。なお、アイゼンハワーはモスクワレーニンびょうからはじめて赤軍せきぐんのパレードを閲兵えっぺいした外国がいこくじんである。

キューバ

[編集へんしゅう]

大統領だいとうりょう任期にんき末期まっき(1959ねん1がつ1にち)、キューバ社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい政府せいふ誕生たんじょうし、当初とうしょ革命かくめい指導しどうしゃフィデル・カストロはアメリカにあゆ姿勢しせいせ、革命かくめい直後ちょくごおこなわれたアメリカ訪問ほうもんにはアイゼンハワーとの会見かいけんもうたが、「カストロは容共ようきょうてきである」との政府せいふないからの報告ほうこくけて会見かいけんをせず(わざわざゴルフにくなどして侮辱ぶじょくてき対応たいおうをしている)、そのもカストロひきいる革命かくめい政府せいふたいして距離きょりったこともあり次第しだいにカストロはソ連それんとの関係かんけいふかめた。

そのソ連それんとの関係かんけいふかまることと同時どうじに、カストロはアメリカ資産しさんさえや国営こくえいすすめたため、アイゼンハワーはキューバにたいして国交こっこう断絶だんぜつ経済けいざい制裁せいさいおこなうこととなり、この対立たいりつ関係かんけいはケネディ政権せいけんされた。

国内こくない問題もんだい

[編集へんしゅう]
アメリカ労働ろうどうそう同盟どうめい大会たいかい出席しゅっせきしたアイゼンハワー
中華民国ちゅうかみんこく蒋介石しょうかいせき総統そうとうからの歓迎かんげいけるアイゼンハワー

おおくの共和党きょうわとう大統領だいとうりょうおなじく、自由じゆう企業きぎょう経済けいざいみずからを発展はってんさせるべきだとかんがえ、国内こくない政策せいさくにほとんど興味きょうみたなかった。1952ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ圧勝あっしょうは、共和党きょうわとう上下じょうげ両院りょういん主導しゅどうけんあたえたが、民主党みんしゅとう国内こくない政策せいさくたいする批判ひはんで、1954ねん中間ちゅうかん選挙せんきょ主導しゅどうけん回復かいふくした。議会ぎかいリーダーでとくサム・レイバーン英語えいごばん下院かいん議長ぎちょうとの良好りょうこう関係かんけいつくげることで対応たいおうした。また、アイゼンハワーはおおくの実業じつぎょう閣僚かくりょう任命にんめいしてくに統治とうちさせた。それによって外交がいこう問題もんだい専念せんねんすることができた。

経済けいざい政策せいさく

[編集へんしゅう]

国内こくないたした功績こうせきとして、1956ねん承認しょうにんした連邦れんぽう補助ほじょ高速こうそく道路どうろほうげられる。どうほうはアメリカ国内こくない4まん1000マイルの幹線かんせん道路どうろもう構築こうちくするというアメリカ史上しじょう最大さいだい公共こうきょう工事こうじプログラムだったが、これはかつてアイゼンハワーが関与かんよした軍事ぐんじ警護けいごで、アメリカ大陸あめりかたいりく横断おうだんするのに62にちようした経験けいけんしたものであった。

もうひとつの成功せいこう在職ざいしょくちゅう世帯せたい所得しょとくを20パーセント増加ぞうかさせたことであり、大変たいへんほこりとしていた。アイゼンハワーは内閣ないかくに10番目ばんめしょうとして保健ほけん教育きょういく福祉ふくししょう新設しんせつした。また大統領だいとうりょう在任ざいにんちゅうの3ヶ年かねんにおいて、収支しゅうし均衡きんこうれた予算よさん達成たっせいしていることも注目ちゅうもくされる。

人種じんしゅ差別さべつ問題もんだいへの対応たいおう

[編集へんしゅう]

「1950年代ねんだい共産きょうさん主義しゅぎおよび黒人こくじん公民こうみんけんの2つのおも問題もんだいにおいて、アイゼンハワーはつよいリーダーシップを発揮はっきしなかった」と評価ひょうかされることもあるが、以下いかのような事実じじつもある。1957ねんブラウンたい教育きょういく委員いいんかい裁判さいばん判決はんけつ以降いこう白人はくじんしか入学にゅうがくさせていなかったアーカンソーしゅうたてリトルロック・セントラル高校こうこうへの9にん黒人こくじん学生がくせい入学にゅうがくを、再選さいせんのための白人はくじんひょうかせぎを目論もくろんだ白人はくじん至上しじょう主義しゅぎもの民主党みんしゅとうしゅう知事ちじオーヴァル・フォーバス英語えいごばん拒否きょひし、「白人はくじん過激かげきによる襲撃しゅうげき事件じけんきるという情報じょうほうがあるので学校がっこう閉鎖へいさする」という理由りゆうをつけて州兵しゅうへい召集しょうしゅうし、学校がっこう閉鎖へいさして黒人こくじん学生がくせい入学にゅうがく妨害ぼうがいするという事件じけんきた。

これにたいしてアイゼンハワーはフォーバスに事態じたい収拾しゅうしゅうはかるよう命令めいれいしたが、この命令めいれい無視むしされたため、急遽きゅうきょアメリカ陸軍りくぐんだい101空挺くうてい師団しだん派遣はけんし、入学にゅうがくする黒人こくじん学生がくせい護衛ごえいさせた(リトルロック高校こうこう事件じけん)。

赤狩あかがりへの対応たいおう

[編集へんしゅう]

上院じょういん議員ぎいんジョセフ・マッカーシーによる反共はんきょう主義しゅぎのキャンペーン(赤狩あかが)にたいし、共和党きょうわとう融和ゆうわ団結だんけつ重視じゅうしするとして、公的こうてき非難ひなんする態度たいどをとらなかったことで非難ひなんされた。もっとも私的してきにはマッカーシーをきらっていた。友人ゆうじんでもある大戦たいせんちゅう同僚どうりょうで、トルーマンのした国務こくむ長官ちょうかんだったジョージ・マーシャルをマッカーシーが非難ひなんしていたからである。アイゼンハワーは、「わたしかれひざまずいてちぶれるつもりはい」と非公式ひこうしき発言はつげんした。

ニクソンふく大統領だいとうりょうとの関係かんけい

[編集へんしゅう]
ニクソンふく大統領だいとうりょうともに(1952ねん

ふく大統領だいとうりょうつとめたリチャード・ニクソンたいしては複雑ふくざつ感情かんじょういていたとわれる。ニクソンはふく大統領だいとうりょうとしてアイゼンハワーをささつづけた8年間ねんかんあいだおおくのよごやく背負せおい、その仕事しごと忠実ちゅうじつにこなした。これをほこりにかんじていたニクソンは1960ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいて、経験けいけんけたケネディたいして28年間ねんかんふく大統領だいとうりょうとしてんだ実績じっせきをキャンペーンした。

しかし、アイゼンハワーはニクソンが共和党きょうわとう候補こうほとして出馬しゅつばしたさいにニクソンを指名しめいするように依頼いらいされたとき冗談じょうだん意図いとして「1週間しゅうかんくれ。そうすればかんがえてもい」と返答へんとうし、たんなるいち共和党きょうわとう候補こうほとして不承ふしょう不承ぶしょうにニクソンを支持しじした。これはニクソンにたいするきびしい打撃だげきだった。ニクソンはケネディにたいして歴史れきしじょうのこ僅差きんさ敗北はいぼくすると、アイゼンハワーを非難ひなんした。 

内閣ないかく

[編集へんしゅう]
職名しょくめい 氏名しめい 任期にんき
大統領だいとうりょう ドワイト・D・アイゼンハワー 1953ねん - 1961ねん
ふく大統領だいとうりょう リチャード・ニクソン 1953ねん - 1961ねん
国務こくむ長官ちょうかん ジョン・フォスター・ダレス 1953ねん - 1959ねん
クリスチャン・A・ハーター 1959ねん - 1961ねん
財務ざいむ長官ちょうかん ジョージ・M・ハンフリー 1953ねん - 1957ねん
ロバート・B・アンダーソン 1957ねん - 1961ねん
国防こくぼう長官ちょうかん チャールズ・E・ウィルソン英語えいごばん 1953ねん - 1957ねん
ニール・H・マッケロイ英語えいごばん 1957ねん - 1959ねん
トーマス・S・ゲイツ英語えいごばん 1959ねん - 1961ねん
司法しほう長官ちょうかん ハーバート・ブラウネル・ジュニア英語えいごばん 1953ねん - 1957ねん
ウィリアム・P・ロジャース英語えいごばん 1957ねん - 1961ねん
郵政ゆうせい長官ちょうかん アーサー・E・サマーフィールド英語えいごばん 1953ねん - 1961ねん
内務ないむ長官ちょうかん ダグラス・マッケイ英語えいごばん 1953ねん - 1956ねん
フレッド・A・シートン英語えいごばん 1956ねん - 1961ねん
農務のうむ長官ちょうかん エズラ・T・ベンソン 1953ねん - 1961ねん
商務しょうむ長官ちょうかん シンクレア・ウィークス英語えいごばん 1953ねん - 1958ねん
ルイス・L・ストラウス英語えいごばん 1958ねん - 1959ねん
フレデリック・H・ミューラー英語えいごばん 1959ねん - 1961ねん
労働ろうどう長官ちょうかん マーティン・P・ダーキン英語えいごばん 1953ねん
ジェームズ・P・ミッチェル英語えいごばん 1953ねん - 1961ねん
保健ほけん教育きょういく福祉ふくし長官ちょうかん オヴェータ・カルプ・ホビー英語えいごばん 1953ねん - 1955ねん
マリオン・B・フォルサム英語えいごばん 1955ねん - 1958ねん
アーサー・S・フレミング英語えいごばん 1958ねん - 1961ねん

大統領だいとうりょう退任たいにん

[編集へんしゅう]
国葬こくそう様子ようす(1969ねん3がつ

退任たいにんペンシルベニアしゅうゲティスバーグにある農家のうかにて隠棲いんせいしたが、政治せいじ生活せいかつから完全かんぜん退しりぞいてはおらずなんおおやけ姿すがたあらわした。1964ねん共和党きょうわとう全国ぜんこく大会たいかい演説えんぜつし、ゲティスバーグから共和党きょうわとう選挙せんきょ運動うんどう広告こうこくとう候補こうほであるバリー・ゴールドウォーターとも登場とうじょうした。1969ねん3がつ28にちワシントンD.C.にあるウォルターリード陸軍りくぐん病院びょういんで、鬱血うっけつせい心不全しんふぜん(うっけつせいしんふぜん)のため死亡しぼうした。78さいぼつ

死後しご

[編集へんしゅう]
アイゼンハワーのはか

戦後せんご大半たいはんペンシルベニアしゅうバレーフォージごしたが、記念きねんかん在所ざいしょカンザスしゅうアビリーンにある。

1971ねんから1978ねんまで、アイゼンハワーの肖像しょうぞうは1ドル銀貨ぎんか使用しようされた。また、ニミッツきゅう航空こうくう母艦ぼかん2ばんかん使用しようされた。

アイゼンハワー公園こうえん

[編集へんしゅう]
アイゼンハワー公園こうえんエントランス

アイゼンハワーがアスレチックや家族かぞく施設しせつなどを設置せっちしたニューヨークしゅうイーストメドウの公園こうえんは、1969ねん10月13にちにアイゼンハワー記念きねん公園こうえん改名かいめいされ、現在げんざいいたる。

公園こうえんないにはレクリエーション施設しせつのほか、退役たいえき軍人ぐんじん記念きねん公園こうえん包含ほうがんされており、軍人ぐんじん顕彰けんしょうする石碑せきひなどが設置せっちされている。

評価ひょうか

[編集へんしゅう]

大統領だいとうりょう時代じだいたか支持しじりつたもつづけたものの、退任たいにんするとわか活動かつどうてきえた後継こうけいしゃジョン・F・ケネディとの対比たいひから、「なにもしない大統領だいとうりょうだった」と批判ひはんされ、その評価ひょうかがった。ただし、その暗殺あんさつされたケネディも同様どうよう批判ひはんけた。

1960年代ねんだいおよび1970年代ねんだいのリベラルな風潮ふうちょうなか前任ぜんにんのトルーマンからいだ公民こうみんけん運動うんどうへの支援しえんマッカーシズムへの抵抗ていこうにより、近年きんねん評価ひょうか回復かいふくした。歴史れきし最近さいきん投票とうひょうでは、アイゼンハワーはすべての大統領だいとうりょうあいだで11番目ばんめ評価ひょうかされた。しかし何人なんにんかの歴史れきしは、「アイゼンハワーのもっとおおきな業績ぎょうせき大戦たいせんちゅうぐん司令しれいかん時代じだいのものだった」としている。

職業しょくぎょう軍人ぐんじん出身しゅっしんらしく戦争せんそう残虐ざんぎゃくさををもって体験たいけんしており、外交がいこう情報じょうほう収集しゅうしゅう基本きほんおこない、また冷戦れいせんっただなか任期にんきにあっても、スプートニクショックさい国防こくぼう増額ぞうがくはせず、ぐんさんふく合体がったいせい批判ひはんした。

1960ねん日本にっぽん政府せいふよりだいくん菊花きっかあきら頸飾授与じゅよされた。

広島ひろしまとその原爆げんばく投下とうか反対はんたいかんする問題もんだい

[編集へんしゅう]
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽん敗戦はいせん決定的けっていてきになり、原子げんしばくだん使用しよう不要ふようであることを広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうか以前いぜんの1945ねん7がつ20日はつかにスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんかたったなど、原爆げんばく使用しよう強硬きょうこう反対はんたいしていたことを、戦後せんごの1948ねんと1963ねん回顧かいころく主張しゅちょうしている。日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうか民主党みんしゅとう政権せいけんおこなわれたため、退役たいえき共和党きょうわとうであることをあきらかにしたおおくの将軍しょうぐんら(マッカーサーふくむ。)が同様どうように、戦後せんごになってじつ自分じぶん反対はんたいしていたと主張しゅちょうしている。当時とうじ政治せいじ状況じょうきょうからこのようなかたちになったものだが、ウェラースタインによれば、現在げんざい米国べいこくでは一般いっぱんに、共和党きょうわとういんとくにぐん関係かんけいしゃ過去かこかえって原爆げんばく投下とうか賛成さんせいで、リベラル原爆げんばく投下とうかあやまちあるいは戦争せんそう犯罪はんざい中間ちゅうかんにあるものとているため、このてんべい国民こくみんにもよく混乱こんらんまねくとしている[27]。アイゼンハワーはスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんたいし、戦後せんごあいだもない回顧かいころくでは「アメリカが世界せかい最初さいしょにそんなしん兵器へいき使用しようするくにになるのをわたしたくない」「当時とうじはよく事情じじょうらず、アメリカが使つかわなければ、他国たこく核兵器かくへいき開発かいはつ可能かのうであることに気付きづかないとおもった」として原爆げんばく投下とうか反対はんたいし、「しかし、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくしなければ日本にっぽん原爆げんばく投下とうかすることはすでまっていた」とべている[28]。これが、大統領だいとうりょう退陣たいじん回顧かいころくでは「日本にっぽん敗北はいぼくかなので使つか必要ひつようはない」「使つかえば、世界せかいからの非難ひなん懸念けねんされる」と反対はんたいしたとする[29]。しかし、1955ねんにアイゼンハワーがウィリアム・ポーリーにした書簡しょかん内容ないようでは、原爆げんばく投下とうかけるよう口頭こうとうべたが、スティムソンからは多数たすうのアメリカじんすくうためとわれた、自分じぶんもそのころ日本にっぽん進攻しんこう困難こんなんだとおもっていたであろう(だから、それではなしませた)、太平洋たいへいようではおおくのまみれのたたかいがあったし米兵べいへいいのちすくうためであればだれ非難ひなんできることではないはずだ、このときのはなしなに記録きろくのこっているかはからないが記憶きおくしているものはいるだろうとして、何人なんにんかの名前なまえげている[30]。これらについて、可能かのうかぎおおくの裏付うらづ情報じょうほうげん調しらべたとされる歴史れきしのバートン・バーンスタインは、おそらくアイゼンハワーはこのようなはなしをしておらず、この主張しゅちょうはアイゼンハワーが自身じしん道徳的どうとくてき軍人ぐんじんであるようにせるためのもので、その記憶きおくとすることは事実じじつではなかった可能かのうせいたかいと結論けつろんづけている[27][31]
  • ソ連それんにドイツの首都しゅとベルリンをはじめひがしドイツをソ連それんがわさき占領せんりょうされた経験けいけんから、アイゼンハワーはスティムソンやトルーマンに、日本にっぽんとの極東きょくとうでの戦争せんそうソ連それん参戦さんせんさせないよう、助言じょげんしたともわれている。むしろこの助言じょげんけた結果けっか、トルーマンらはソ連それん参戦さんせんまえ出来できるだけはや日本にっぽん降伏ごうぶくさせるため、原爆げんばく早期そうき投下とうかめたとするせつもある[32]。こちらの助言じょげんについては、前述ぜんじゅつの1955ねんにポーリーにした書簡しょかんでは、やはりおなじ1945ねん7がつ20日はつかにスティムソンにったさいに、アイゼンハワー自身じしんとしてはソ連それん参戦さんせんめることはもはや不可能ふかのうかんがえていたが、ドイツも降伏ごうぶくソ連それん協力きょうりょく必要ひつようないことはたしかなので、たんにこちらからソ連それん参戦さんせんつよ要望ようぼうするまでのことはないとっただけであると、主張しゅちょうしている[30]。なお、作家さっかきた杜夫もりおのように、原爆げんばく投下とうか日本にっぽん降伏ごうぶく決定けっていはやめ、そのためソ連それんぐん日本にっぽん上陸じょうりくすることなく、日本にっぽん分割ぶんかつ占領せんりょうふせがれたとかんがえる日本人にっぽんじんもいる[33]
  • 戦後せんごになってからのことであれば、第三者だいさんしゃによるものとして、1945ねん10がつ、フランクフルト郊外こうがい自宅じたくちゅうソ連それん大使たいしハリマンをむかえた夕食ゆうしょくさいはなしとして、「アイゼンハワーは、原爆げんばく使つかわずに戦争せんそうわっていたらどんなにかったことか、とはなした」とハリマンはしるしている[34]
  • 被爆ひばく広島ひろしま原子力げんしりょく発電はつでんしょつくあんが1953ねん時点じてんでアメリカ政権せいけんない浮上ふじょうしていた。ストローズ原子力げんしりょく委員いいんちょう広島ひろしまへの原発げんぱつ建設けんせつあん大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたアイゼンハワーに提案ていあんしたが、アイゼンハワーは「そのかんがえはてたほうい。(原爆げんばく使つかったことへのアメリカの)罪悪ざいあくかんしめすことになるからだ」と発言はつげんしたという[35]

その

[編集へんしゅう]

著作ちょさく

[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき

[編集へんしゅう]
  • 『アイゼンハウアー 民主みんしゅ主義しゅぎ兵士へいし』K.デーヴィス 土屋つちやあきらわけ読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1952ねん
  • 『アイゼンハワー かれ世界せかいうごかしている』ジョン・ガンサー木下きのした秀夫ひでおわけ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1952ねん
  • 『アイゼンハワー のぼ巨星きょせい沢田さわだけん偕成社かいせいしゃ偉人いじん物語ものがたり文庫ぶんこ)、1953ねん
  • 人間にんげんアイゼンハウァー』松山まつやまさとし人生じんせいしゃ人生じんせい伝記でんき新書しんしょ)、1953ねん
  • 『アイゼンハワーの兄弟きょうだい 偉大いだいなアメリカの遺産いさん』ベラ・コルニッツア 深沢ふかざわ正策しょうさくわけ時事通信社じじつうしんしゃ、1956ねん
  • 『アイゼンハワー 人間にんげんアイゼンハワーの全貌ぜんぼう松山まつやま悦三えつぞう アジア書院しょいん、1960ねん
  • あいちがたく アイゼンハワーとのめられたこい』ケイ・サマーズビー・モーガン 関口せきぐち英男ひでおわけ、パシフィカねん、1977ねん12月
  • 『ヴェトナム戦争せんそう起源きげん アイゼンハワー政権せいけんだいいちインドシナ戦争せんそう赤木あかぎかんなんじ 慶応けいおう通信つうしん、1991ねん6がつ
  • 『アイゼンハワー政権せいけん中東ちゅうとう政策せいさくいずみあつし 国際こくさい書院しょいん、2001ねん6がつ
  • 『アイゼンハワー政権せいけん西にしドイツ 同盟どうめい政策せいさくとしての東西とうざい軍備ぐんび管理かんり交渉こうしょう倉科くらしな一希かずき ミネルみねるァ書房ぁしょぼう国際こくさい政治せいじ日本にっぽん外交がいこう叢書そうしょ)、2008ねん6がつ
  • 『アイゼンハワー政権せいけんふう政策せいさく ソ連それん脅威きょうい,ミサイル・ギャップ論争ろんそう東西とうざい交流こうりゅう佐々木ささき卓也たくや 有斐閣ゆうひかく、2008ねん2がつ

アイゼンハワーをえがいた作品さくひん

[編集へんしゅう]
映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ この映像えいぞう一部いちぶは、YouTubeにて閲覧えつらん可能かのうである(きょく演出えんしゅつにより、最初さいしょ白黒しろくろ映像えいぞうで、途中とちゅうからカラー映像えいぞうになっている)。http://www.youtube.com/watch?v=QKqHZcXvUAs

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ Post-Presidential Years”. Eisenhower Presidential Library, Museum, and Boyhood Home. 2019ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ ニューヨーク・タイムズ』1946ねん9がつ12にちごう
  3. ^ http://www.jewwatch.com/jew-leaders-eisenhower.html
  4. ^ a b c 児島こじまじょう 1974, pp. 173.
  5. ^ a b 児島こじまじょう 1974, pp. 174.
  6. ^ a b 児島こじまじょう 1974, pp. 175.
  7. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 178.
  8. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 179.
  9. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 183–185.
  10. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 181.
  11. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 180–183.
  12. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 183.
  13. ^ a b c 児島こじまじょう 1974, pp. 185.
  14. ^ King and Whitehill, Fleet Admiral King, pp. 502-504, p. 526.
  15. ^ Buell, Master of Seapower, pp. 425-426, p. 436.
  16. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 193.
  17. ^ 児島こじまじょう 1974, pp. 193–194.
  18. ^ http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/.../0205.html
  19. ^ 赤木あかぎかんなんじ朝鮮ちょうせん戦争せんそう核兵器かくへいき : トルーマンとアイゼンハワー慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく法学部ほうがくぶ、2008ねん、1-22ぺーじhttps://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BA88455213-00000011-0001 
  20. ^ Mark S. Byrnes,"'Overruled and Worn Down': Truman Sends an Ambassador to Spain." Presidential Studies Quarterly 29.2 (1999): 263–279.
  21. ^ リチャード・ニクソンちょ『ノー・モア・ヴェトナム』宮崎みやざき成人しげと宮崎みやざきみどりともやく講談社こうだんしゃ 1986ねん ISBN 4062024462)。
  22. ^ ゴルフ外交がいこうわり - 長崎ながさき新聞しんぶん 2020/11/13 [09:50 公開こうかい]”. 長崎新聞社ながさきしんぶんしゃ. 2021ねん4がつ3にち閲覧えつらん
  23. ^ [1]
  24. ^ From Truman to Biden, the queen's meetings with presidents were formal, fun or awkward”. 2022ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  25. ^ When Queen Elizabeth shared her classic scones recipe with former US President Eisenhower”. 2022ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  26. ^ Royal recipe for a president: How the Queen anchored a 'special relationship' with America that could now be under pressure”. sky news. 2022ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  27. ^ a b What Presidents Talk About When They Talk About Hiroshima”. The New Yorker. 2023ねん12月1にち閲覧えつらん
  28. ^ アイゼンハワー『ヨーロッパ十字軍じゅうじぐん 最高さいこう司令しれいかん大戦たいせん手記しゅき朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1949ねん、454ぺーじ 
  29. ^ アイゼンハワー『アイゼンハワー回顧かいころく』 1かん、みすず書房しょぼう、279-280ぺーじ 
  30. ^ a b history-education-pss-wwii-pawley-transcription.pdf”.”. State Historical Society of Iowa(アイオワ州立しゅうりつ歴史れきし協会きょうかい). 2023ねん12月1にち閲覧えつらん
  31. ^ 'DAY ONE'; Did Ike Oppose the Bomb?”. The New York Times. 2023ねん12月2にち閲覧えつらん
  32. ^ 玉置たまき さとる. “アメリカが日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうか決定けっていした「本当ほんとう理由りゆう」のおぞましい狂気きょうき”. 講談社こうだんしゃ. 2023ねん12月2にち閲覧えつらん
  33. ^ きた杜夫もりおつきと10セント (2)」『朝日新聞あさひしんぶん』1970ねん1がつ18にち
  34. ^ もと大統領だいとうりょう原爆げんばく反対はんたい胸中きょうちゅうかす/アイゼンハワー”. 四国新聞社しこくしんぶんしゃ. 2023ねん12月1にち閲覧えつらん
  35. ^ 広島ひろしま原発げんぱつ建設けんせつあん 1953ねんべい政権せいけんない検討けんとう - かくなき世界せかい”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2023ねん12月1にち閲覧えつらん
  36. ^ くわしくはRCA-NBC Firsts in Color Television Archived 2006ねん2がつ6にち, at the Wayback Machine.を参照さんしょうのこと。
  37. ^ 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ完全かんぜんばんピーナッツ全集ぜんしゅうだい10かん、p.136。掲載けいさい1969ねん11月11にち
  38. ^ Eisenhower, David; Julie Nixon Eisenhower (2010). Going Home to Glory: A Memoir of Life with Dwight David Eisenhower, 1961–1969. New York: Simon and Schuster. p. 31. https://archive.org/details/goinghometoglory00davi_0 
  39. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 児島こじまじょう指揮しきかんした)』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1974ねんISBN 4-16-714102-7 
  • King, Ernest J.; Whitehill, Walter Muir (1952). Fleet Admiral King: A Naval Record. New York: W. W. Norton & Company 
  • Buell, Thomas B. (2001). Master of Seapower: A Biography of Fleet Admiral Ernest J. King. Annapolis: Naval Institute Press. ISBN 978-1591140429 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
公職こうしょく
先代せんだい
ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
だい34だい:1953ねん1がつ20日はつか - 1961ねん1がつ20日はつか
次代じだい
ジョン・F・ケネディ
ぐんしょく
先代せんだい
創設そうせつ
欧州おうしゅう連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかん
初代しょだい:1951ねん4がつ2にち - 1952ねん5がつ30にち
次代じだい
マシュー・リッジウェイ
先代せんだい
ジョージ・マーシャル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう
だい16だい:1945ねん11月19にち - 1948ねん2がつ6にち
次代じだい
オマール・ブラッドレー
先代せんだい
創設そうせつ
ドイツべい占領せんりょう区域くいき
ぐん政府せいふ長官ちょうかん

初代しょだい:1945ねん5がつ8にち - 1945ねん11がつ10日とおか
次代じだい
ジョージ・パットン
代行だいこう
がくしょく
先代せんだい
フランク・ディール・ファッケンタール
代行だいこう
コロンビア大学ころんびあだいがく学長がくちょう
だい13だい:1948ねん6がつ7にち - 1953ねん1がつ19にち
次代じだい
グレイソン・ルイス・カーク