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イタリアの降伏ごうぶく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
休戦きゅうせん協定きょうてい成立せいりつ記念きねんし、シチリアとうカッシビレにてアメリカぐん兵士へいしつくった「平和へいわいし」。(1943ねん9がつ

だい世界せかい大戦たいせんにおけるイタリアの降伏ごうぶく(イタリアのこうふく)では、1943ねん9月8にちに、イタリア王国おうこく連合れんごうこく締結ていけつしていた休戦きゅうせん協定きょうてい発表はっぴょうして枢軸すうじくこくから離脱りだつし、降伏ごうぶくいたった経緯けいい記述きじゅつする。

イタリア王国おうこくうごきを事前じぜん察知さっちしていたドイツぐんは、この発表はっぴょう直後ちょくごイタリア半島はんとうおよびそののイタリア勢力せいりょくけんすみやかに制圧せいあつ。イタリア本土ほんどでは南部なんぶから侵攻しんこうする連合れんごう国軍こくぐんと、北部ほくぶのドイツぐん、およびドイツの傀儡かいらいイタリア社会しゃかい共和きょうわこくとの、イタリア戦線せんせん構築こうちくされた。休戦きゅうせんについてイタリアでは調印ちょういんおこなわれたシチリアとうシラクサ近郊きんこう地名ちめいから「Armistizio di Cassibile(カッシビレ休戦きゅうせん)」、もしくは「Armistizio dell'8 Settembre(9がつ8にち休戦きゅうせんたんに9月8にちとも)」と記載きさいされる。

背景はいけい

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連合れんごうこく無条件むじょうけん降伏ごうぶく方針ほうしん

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1943ねん1がつ24にちに、イギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく両国りょうこく首脳しゅのうは、カサブランカ会談かいだん共同きょうどう記者きしゃ会見かいけんにおいて「枢軸すうじくこくたいして一切いっさい和平わへい交渉こうしょう拒絶きょぜつし、無条件むじょうけん降伏ごうぶく唯一ゆいいつ戦争せんそう終結しゅうけつとする」という原則げんそく表明ひょうめいした[1]。このあんぐん国務省こくむしょうのぞくアメリカ政府せいふないでの検討けんとうによるものであり、だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ降伏ごうぶくというかたちらなかったためにドイツじん敗戦はいせんめず今次こんじ大戦たいせんいたったというかんがえと、ソビエト連邦れんぽうに「たいどくせん最後さいごまでたたかく」というメッセージをつたえる目的もくてきによるものであった[2]。また、当時とうじ日本にっぽんぐんたいして劣勢れっせいであったため、たいにち講和こうわうわさされていた中華民国ちゅうかみんこくたいするけんせいという意味いみもあった。

このかんがえにはフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうつよ同意どういしていた[3]当初とうしょイギリスのウィンストン・チャーチル首相しゅしょうはイタリアの枢軸すうじくこくがわからの離脱りだつをさそうため、一律いちりつでの無条件むじょうけん降伏ごうぶく路線ろせんには反対はんたいであった。しかしイギリスの戦時せんじ内閣ないかくはイタリアの例外れいがい否定ひていてきであり、結局けっきょくイタリアもふくめたかたち発表はっぴょうされた[4]当時とうじアメリカがわはイギリスがたいにちせんにおいて単独たんどく講和こうわする可能かのうせいがあるという疑念ぎねんっており、当初とうしょ無条件むじょうけん降伏ごうぶく路線ろせん自体じたい賛成さんせいではなかったイギリスがルーズベルト提案ていあん賛成さんせいしたのは、その疑念ぎねんらすためというめんつよかった[5]

ムッソリーニ排除はいじょうご

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シチリアとう上陸じょうりくするイギリスぐん(1943ねん7がつ10日とおか

1943ねんはるきたアフリカ戦線せんせんのイタリアぐん敗北はいぼくあきらかとなり、ファシズム体制たいせいたいする批判ひはん国内こくないたかまりはじめた。イタリアの独裁どくさいしゃである首相しゅしょうベニート・ムッソリーニは、ファシスト体制たいせいたいしてより国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい忠誠ちゅうせいであるとおもわれる人物じんぶつを、イタリア政府せいふないから何人なんにん排除はいじょした。ムッソリーニによるこれらの人事じんじは、ムッソリーニ政権せいけん失策しっさく批判ひはんしてきたおうへの敵対てきたいてき行為こういわれた。おそらく、この決定けっていのち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいは、ムッソリーニの排除はいじょ講和こうわけた対抗たいこう手段しゅだん検討けんとうはじめた。またムッソリーニ自身じしん病体びょうたいであり、かつてほどの指導しどうりょくしめせなくなっていた。

おう計画けいかく実行じっこうするために、上院じょういん議長ぎちょうディーノ・グランディ参加さんか依頼いらいした。グランディはファシストの組織そしきにおける主要しゅようなメンバーの一人ひとりであり、わかときには、ファシストとう指導しどうしゃとしてムッソリーニにわることのできる人物じんぶつであるとかんがえられていた。おうは、グランディのファシズムにかんするかんがえが、きゅうわる可能かのうせいがあるとうたがいからも、依頼いらいおこなった。ピエトロ・バドリオ自身じしんふくむたくさんの交渉こうしょうやく人間にんげんは、かれ独裁どくさいしゃムッソリーニの後継こうけいしゃとなる漠然ばくぜんとした可能かのうせいしめした。

バドリオの指名しめいは、戦争せんそうにおいて、イタリアがドイツ同盟どうめいしているという立場たちば変更へんこうはしなかった。しかし、サヴォイアによる平和へいわもとめるうごきもしょうじていた。実際じっさい複数ふくすう外交がいこうチャネルが連合れんごうこくとの講和こうわもとめ、模索もさくされていた。

しかしこの情勢じょうせいは、5月7にちにはドイツに察知さっちされ、総統そうとうアドルフ・ヒトラーはこのうごきに対応たいおうするために、5月9にちエルヴィン・ロンメル元帥げんすいをイタリアに派遣はけんする計画けいかくてた[6]。ドイツは連合れんごう国軍こくぐんサルディーニャとう上陸じょうりくするという情報じょうほう入手にゅうしゅして警戒けいかいたっていたが、これは連合れんごう国軍こくぐん欺瞞ぎまん作戦さくせんミンスミート作戦さくせん)であり、7がつ10日とおか連合れんごう国軍こくぐんシチリアとう上陸じょうりくした(ハスキー作戦さくせん)。

シチリアとうむら解放かいほうしたイギリスぐんシャーマン戦車せんしゃ(1943ねん8がつ
シチリアとう上陸じょうりく捕虜ほりょとなったイタリアぐん兵士へいし

しかし、イタリアぐん対応たいおう緩慢かんまんであり[7]ドイツ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)西方せいほうぐん集団しゅうだんにイタリアの寝返ねがえりを警戒けいかいする指令しれいした[8]。ヒトラーはイタリア情勢じょうせい対応たいおうするためとして、東部とうぶ戦線せんせんからの師団しだんきとクルスクのたたかにおける攻勢こうせい(ツィタデレ作戦さくせん)の中止ちゅうし指令しれいした[9]。(この措置そちによって東部とうぶにおけるドイツの攻勢こうせい不可能ふかのうとなり、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥げんすいは「東部とうぶ戦線せんせん主導しゅどうけんソ連それんがわにうつった。我々われわれとしては、今後こんごは、部隊ぶたいソ連それんぐん突破とっぱされ包囲ほういされて、スターリングラード再現さいげんにならぬよう防戦ぼうせんするだけである」となげいた[10])。

7がつ14にちにはピエトロ・バドリオ元帥げんすいと、イヴァノエ・ボノーミもと首相しゅしょうがムッソリーニ更迭こうてつ組閣そかく名簿めいぼ作成さくせいした。またヴィットーリオ・アンブロジオ参謀さんぼう総長そうちょうがムッソリーニの命令めいれいいつわり、首都しゅと警備けいびのため編成へんせいされた師団しだんをローマから移動いどうさせるようこころみた[11]。また複数ふくすうのファシストとう幹部かんぶ民心みんしん離反りはんかんじとり、ムッソリーニを裏切うらぎるかどうかの決断けつだんせまられていた。

7がつ15にち、バドリオ元帥げんすい閣僚かくりょう名簿めいぼ首相しゅしょう奉呈ほうていし、クーデターの決行けっこう国王こくおううったえたが、情報じょうほう流出りゅうしゅつをおそれた国王こくおう留保りゅうほした。国王こくおう懸念けねんどおり、この会見かいけんはたちまちドイツがわ漏洩ろうえいし、ヒトラーは大使たいし国王こくおう義弟ぎていにあたるヘッセンこうフィリップ・フォン・ヘッセン召還しょうかんして情報じょうほう収集しゅうしゅうたった[12]情勢じょうせい切迫せっぱくったヒトラーはみずからイタリア訪問ほうもんおこなむねをイタリアに通告つうこくし、7がつ19にちにトレビゾ空港くうこうでムッソリーニと会見かいけんした。当初とうしょヒトラーはムッソリーニに国王こくおう排除はいじょさせ、より強力きょうりょく独裁どくさい権力けんりょく確立かくりつさせるつもりであったが、ムッソリーニが予想よそう以上いじょう衰弱すいじゃくしていたため会見かいけんでそのことにはふれなかった[13]一方いっぽうでアンブロージョ参謀さんぼう総長そうちょうはムッソリーニにドイツとることを進言しんげんしたが、ムッソリーニは応諾おうだくしなかった[14]

ムッソリーニ解任かいにん

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ヒトラーとの会談かいだんえた直後ちょくご、ムッソリーニはファシズム体制たいせい指導しどうしゃ激励げきれいするため、ひさしく開会かいかいされていなかったファシズムだい評議ひょうぎかい(Gran Consiglio del Fascismo)を7がつ24にち開催かいさいするよう指示しじした。アンブロージョ参謀さんぼう総長そうちょう国王こくおう決断けつだんせまり、参謀さんぼう総長そうちょう国王こくおうつぎ定例ていれい謁見えっけん(7がつ22にち)までに決断けつだんし、そのつぎ謁見えっけん(7がつ26にち)ののちにムッソリーニを逮捕たいほするとげた[15]。しかしこのころアルトゥーロ・リッカルディ海軍かいぐん大将たいしょうおやどくグループのうごきが活発かっぱつしたと報告ほうこくけて国王こくおう考慮こうりょ決断けつだんうつし、ムッソリーニが国王こくおう拝謁はいえつしたのちカラビニエリ(憲兵けんぺい)により逮捕たいほする計画けいかくかためた。

このころはんムッソリーニである「秘密ひみつのフロンド」(frondeur、投石とうせき意味いみ)には、ファシストとう幹部かんぶであるジュゼッペ・ボッタイ文化ぶんか大臣だいじん、ファシストとうのナンバー2であり、ムッソリーニの義理ぎり息子むすこガレアッツォ・チャーノ外相がいしょうまで参加さんかしていた。グランディやカルロ・スコルツァ英語えいごばんとう書記しょきちょう[注釈ちゅうしゃく 1]ロベルト・ファリナッチらは政治せいじ直接的ちょくせつてき支配しはいけんおうもどすと提案ていあん重大じゅうだい事項じこう」(Ordine del giorno)を策定さくていし、賛同さんどうしゃつのった。この情報じょうほうはムッソリーニのみみにもとどいたが、かれしんけず、なん対抗たいこう手段しゅだんらなかった[16]

1943ねん7がつ24にち午後ごご5、ファシズムだい評議ひょうぎかい複数ふくすうの「重大じゅうだい事項じこう」が提出ていしゅつされた。会議かいぎ夜半やはんぎてもつづき、7がつ25にち午前ごぜん2統帥とうすいけん独裁どくさいけん国王こくおう返還へんかんするグランディの提案ていあん多数決たすうけつ採択さいたくされた。7月25にちにムッソリーニは国王こくおう緊急きんきゅう拝謁はいえつもとめた。その面談めんだん国王こくおうはムッソリーニに解任かいにんげた。王宮おうきゅうからたムッソリーニは逮捕たいほされ、ポンツァとう監禁かんきんされた。

後任こうにん首相しゅしょうにはバドリオが任命にんめいされたが、これはグランディに約束やくそくされた内容ないようはんするものであった。グランディは偉大いだい人間にんげんせい優秀ゆうしゅう能力のうりょくをもつ人物じんぶつエンリコ・カヴィーリャ英語えいごばん元帥げんすいがムッソリーニのあとをぐべきであるとべていた。そのクーデターはムッソリーニが「辞任じにん」し、ロマーニャ自宅じたくかったといううわさながし、ムッソリーニ政権せいけん奪還だっかんうごくのをふうじた。うわさいた市民しみんがファシスト党員とういん憲兵けんぺい攻撃こうげきする事例じれいあらわれた。

午後ごご930ふんごろにはドイツでもムッソリーニの「辞職じしょく」が察知さっちされるようになり、ヒトラーはバドリオ政権せいけんてき断定だんていし、エルヴィン・ロンメル元帥げんすいをギリシャからもどした。午後ごご1045ふんにムッソリーニの辞職じしょくとバドリオの首相しゅしょう任命にんめいつたえる国王こくおう声明せいめいと、バドリオが全権ぜんけん委任いにんけたという声明せいめい全国ぜんこく放送ほうそうされた[17]。イタリア全土ぜんどのローマや各地かくちまちには市民しみん歓声かんせいがあふれ、ファシストとう党員とういんしょうくろ制服せいふくかわ路地ろじてられた。

連合れんごうぐんとの事前じぜん交渉こうしょう

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リスボンで会合かいごうするえいべい高官こうかんひだりよりストロング英軍えいぐんじゅんはた、カステッラーノぐんじゅんはた、スミスべいぐん少将しょうしょう、フランコ・モンタナーリ領事りょうじ

バドリオ政権せいけん表面ひょうめんじょう戦争せんそう遂行すいこうするという姿勢しせいせていた。総統そうとう大本営だいほんえい到着とうちゃくしたロンメル元帥げんすいも、早期そうきのドイツぐん進駐しんちゅうはかえって反感はんかんぶとして、ヒトラーの強攻きょうこうさく反対はんたいした。さしあたってのヒトラーの対応たいおう北部ほくぶイタリアとローマへの進駐しんちゅう準備じゅんび[18]、ムッソリーニ救出きゅうしゅつのための準備じゅんび命令めいれいすることであった[19]。しかしこの政変せいへん連合れんごう国軍こくぐんにとっても寝耳ねみみみずであり、事前じぜんはないは一切いっさいついていなかった。7月27にちウィンストン・チャーチル演説えんぜつもそれをうかがわせるものであった。そのヒトラーはかく方面ほうめんからイタリアが連合れんごうこく和平わへいうごいているという情報じょうほう察知さっちし、8がつ1にちにはイタリア占領せんりょう作戦さくせんアッシェ作戦さくせん英語えいごばん承認しょうにんした。

バドリオ政府せいふはバチカンの大使館たいしかんつうじてイギリスがわ接触せっしょくし、ローマの防備ぼうび都市とし宣言せんげんあん連合れんごうこくがわ伝達でんたつした。8月4にちには密使みっしリスボンのイギリス大使館たいしかん派遣はけんされ、和平わへい方針ほうしん伝達でんたつした[20]8がつ12にち陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうジュゼッペ・カステッラーノ英語えいごばんじゅんしょう連合れんごうこく外交がいこうかん接触せっしょくするために、マドリードおくられた。カステッラーノじゅんしょうらは8がつ16にちにリスボンに到着とうちゃくし、8がつ19にちになって連合れんごう国軍こくぐん会談かいだんつことができた[21]連合れんごうこくがわ出席しゅっせきしゃなかには、ポルトガルおくられたちゅう葡イギリス大使たいしロナルド・ヒュー・キャンベル英語えいごばんと、SHAEFづけケネス・ストロング英語えいごばんじゅんはたアメリカからはSHAEF最高さいこう司令しれいかんアイゼンハワーおくられた2人ふたり将軍しょうぐん参謀さんぼうちょうウォルター・ベデル・スミス少将しょうしょう、さらにアメリカ大使館あめりかたいしかん参事官さんじかんジョージ・ケナンがおり、かれらはそのたいイタリア交渉こうしょう窓口まどぐちとなった。この会談かいだんでイタリアがわに、イタリアぐん降伏ごうぶくとその軍政ぐんせい条件じょうけんとし、さらに8がつ30にち回答かいとう期限きげんとする停戦ていせんあんつたえられた。ところが連合れんごうこくとの接触せっしょく手間取てまどったカステッラーノにしびれをらした本国ほんごくがわは、ジャコモ・サヌッシイタリアばんじゅんしょうをさらなる密使みっしとして派遣はけんし、8がつ25にちにリスボンに到着とうちゃくした。8月27にち、サヌッシはえいべい政府せいふケベック会談かいだん合意ごういしたイタリアの降伏ごうぶくあんをキャンベル大使たいし提示ていじされた。しかしこの降伏ごうぶくあん提示ていじはキャンベル大使たいし独走どくそうであり、あわてた連合れんごうぐんがわはサヌッシをアルジェかわせ、帰国きこくおくらせることで対応たいおうした[22]。この、カステッラーノがローマに帰着きちゃくし、停戦ていせんあん内閣ないかくぐんしめした。政府せいふ王政おうせい保障ほしょうることや降伏ごうぶく回避かいひすることへののぞみをてておらず、またドイツぐん報復ほうふくをおそれたため、回答かいとう期限きげんまで決定けっていくだすことはできなかった。結局けっきょく回答かいとう期限きげんの8がつ30にちにカステッラーノを連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうしたシチリアとうかわせることのみが決定けっていされた。

当初とうしょ連合れんごうこくはイタリアの降伏ごうぶく提案ていあんには完全かんぜん満足まんぞくしていたわけではなかった。枢軸すうじく国軍こくぐんたいする軍事ぐんじ作戦さくせんいきおいをし、イタリアの占領せんりょう敗北はいぼく時間じかん問題もんだいかんがえていた。ドイツの弱小じゃくしょう同盟どうめいこく降伏ごうぶく戦争せんそう終結しゅうけつたしかに加速かそくするだろうが、イタリア領域りょういき完全かんぜん占領せんりょうは、利益りえきうしなてん存在そんざいした。

だが、結局けっきょくは、イタリアでの戦争せんそう終結しゅうけつに、可能かのうであった選択肢せんたくしさらなる検討けんとうが、連合れんごうこくにおいてこの問題もんだいおおきな議論ぎろんこした。とくに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、戦争せんそうにイギリスへのイタリアの接近せっきん可能かのうせいらしたいとかんがえていた。これは、地中海ちちゅうかいにおけるイギリスへの絶対ぜったいてき戦略せんりゃくてき支配しはいけん(これは、原油げんゆ輸送ゆそうルートの支配しはいふくむ)をあたえるためであった。

停戦ていせん条件じょうけん受諾じゅだく

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8がつ31にちにカステッラーノじゅんしょうは、シチリアとうテルミニ・イメレーゼ航空機こうくうき到着とうちゃくし、シラクサ近郊きんこう小村こむらカッシビレ移動いどうした。連合れんごうぐんがわはカステッラーノの来訪らいほうは、イタリアぐん停戦ていせん条件じょうけん受諾じゅだくし、降伏ごうぶく調印ちょういんにやってきたと判断はんだんしていたが、実際じっさいにはかれ調印ちょういん権限けんげん委譲いじょうすらされていなかった。ふたた協議きょうぎおこなわれ、その王室おうしつとローマ市民しみん保護ほごのため1個いっこ空挺くうてい師団しだんをローマ近辺きんぺん上陸じょうりくさせることと、9月2にちあらたな回答かいとう期限きげんとする合意ごういしめされた[23]

同日どうじつ午後ごご7、カステッラーノとサヌッシはローマにもどった。9月1にち閣議かくぎひらかれ、アンブロージョ参謀さんぼう総長そうちょうラッファエレ・グアリーリャ英語えいごばん外相がいしょうは、連合れんごうぐん条件じょうけんれるべきと主張しゅちょうしたが、情報じょうほう部長ぶちょうジャコモ・カルボーニ英語えいごばんは、ローマ周辺しゅうへん展開てんかいする軍団ぐんだん都市としまもるには燃料ねんりょう装備そうび不足ふそくしており、講和こうわ延期えんきすべきだと主張しゅちょうした。バドリオ首相しゅしょう自身じしん会合かいごうでは発言はつげんせず、閣議かくぎでの決定けっていくださなかった。このため国王こくおう決定けっていにゆだねることとなり、午後ごごにバドリオと面会めんかいした国王こくおう講和こうわおうじるむね決定けっていくだした[24]。カステッラーノは受諾じゅだく方針ほうしん連合れんごうぐんがわ打電だでんし、9月2にちかれふたたびシチリアにかうこととなった。しかし、この電文でんぶんはドイツぐんによって傍受ぼうじゅされていた。

調印ちょういん方法ほうほう

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9月2にち、カステッラーノじゅんしょう再度さいどカッシビレに到着とうちゃくした。しかし、連合れんごうぐんがわ期待きたい裏切うらぎり、かれはまたしても調印ちょういん権限けんげんっていなかった。カステッラーノはイタリアを降伏ごうぶくという不名誉ふめいよ事態じたいからのがれさせるため、降伏ごうぶく言及げんきゅうしていない電文でんぶんによって停戦ていせん実現じつげんさせる作戦さくせんをとったが、連合れんごうぐんがわはカステッラーノに降伏ごうぶく権限けんげん授権を要請ようせいさせた。連合れんごうこくがわ満足まんぞくする授権の電文でんぶん到着とうちゃくしたのは、9月3にち午後ごご5になってからであった[25]

電文でんぶん受諾じゅだくした午後ごご515ふん調印ちょういんしきはじまった。カステッラーノはバドリオのわりに、スミス少将しょうしょうはアイゼンハワーのわりに、受託じゅたく文章ぶんしょうにサインをおこなった。500航空機こうくうきによるローマへのばくげき任務にんむ最後さいご瞬間しゅんかん中止ちゅうしとなった。これはアイゼンハワーによる講和こうわ手続てつづきを加速かそくのための予防よぼうさくであった。連合れんごうこくスタッフのイギリス代表だいひょうであったハロルド・マクミランは、「どんな種類しゅるい修正しゅうせいく」講和こうわ調印ちょういんおこなわれたとチャーチルにらせた。休戦きゅうせん協定きょうてい同日どうじつちゅう発効はっこうしたが、世界せかいには公表こうひょうされず、戦闘せんとうはなおもつづいていた。

調印ちょういんおこなわれたのちにカステッラーノは、キャンベルえい大使たいしがサヌッシにつたえた「降伏ごうぶく条件じょうけん」を提示ていじされた。カステッラーノはこれを承知しょうちしていないと主張しゅちょうし、スミス少将しょうしょう抗議こうぎした。かれ降伏ごうぶく相対そうたいてき効果こうかしかたないと念書ねんしょき、カステッラーノに手渡てわたした[26]

休戦きゅうせん公表こうひょう

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1943ねん9がつ、ミラノを占領せんりょうしただい1SS装甲そうこう師団しだんIVごう戦車せんしゃ

休戦きゅうせん発表はっぴょうと、空挺くうてい師団しだん派遣はけん9月8にち合意ごういされていたが、9月7にち午後ごご930ふんになってカルボーニ将軍しょうぐん停戦ていせん延期えんき空挺くうてい師団しだん派遣はけん中止ちゅうしもうれ、そのむねしるしたバドリオの電文でんぶんしめした。連合れんごうぐんがわ停戦ていせん延期えんき不可能ふかのうであると反論はんろんし、バドリオ政権せいけんがわ停戦ていせん発表はっぴょう予定よていどおおこなむね通告つうこくした。これをうけてバドリオは閣議かくぎおこなったが、結論けつろんないうちに午後ごご630ふんむかえ、イタリアの降伏ごうぶくれと停戦ていせん受諾じゅだくつたえるアイゼンハワーの放送ほうそうおこなわれた。さらに640ふんにはバドリオ声明せいめいあん英文えいぶん放送ほうそうさせ、イタリアの降伏ごうぶくれは事実じじつとなってぜん世界せかいられることとなった[27]

放送ほうそうけてバドリオは、降伏ごうぶくらなかったこととして処理しょりするか、れるかについて国王こくおう裁可さいかせまった。国王こくおう停戦ていせんれを決定けっていし、バドリオは午後ごご745ふん休戦きゅうせん声明せいめい放送ほうそうおこなった。まもなくヒトラーはアシェ作戦さくせん発動はつどう命令めいれいし、ドイツぐん配備はいびすること決定けっていして、素早すばやきたイタリア地域ちいき軍隊ぐんたい展開てんかいした。国王こくおう王族おうぞくはそののうちに国防省こくぼうしょううつり、9月9にち政府せいふはローマからの避難ひなんめ、王族おうぞくらとともに脱出だっしゅつした[28]

だい部分ぶぶんのイタリアぐん将兵しょうへい講和こうわかんしてなにらされていなかったために対応たいおうできず、大半たいはんはドイツぐんにたやすく武装ぶそう解除かいじょされ、イタリア半島はんとうだい部分ぶぶんはドイツぐんちた。連合れんごうぐんがわのカナダぐんが9月3にちカラブリア最南端さいなんたん上陸じょうりくおこない、9月9にちにはサレルノアヴァランチ作戦さくせん)とターラントスラップスティック作戦さくせん)に上陸じょうりくおこない、イタリア本土ほんどでの本格ほんかくてき戦闘せんとうはじまった。

またイタリアの支配しはいにあったバルカン半島ばるかんはんとうアルバニア王国おうこく英語えいごばんモンテネグロ王国おうこくマケドニア公国こうこく、さらにイタリアぐん進駐しんちゅうしていたフランス南部なんぶ一部いちぶ即座そくざにドイツに占領せんりょうされた。

イタリアの無条件むじょうけん降伏ごうぶく

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ドイツに救出きゅうしゅつされたムッソリーニ(ひだりとなりオットー・スコルツェニー

9月12にち、ドイツぐんグラン・サッソ襲撃しゅうげきによってムッソリーニを奪還だっかんした。憔悴しょうすいしたムッソリーニにヒトラーはイタリアでの最高さいこう権力けんりょく奪還だっかんするよう強要きょうようした。ムッソリーニは9月15にち最高さいこう権力けんりょく回復かいふくと、共和きょうわファシストとう成立せいりつ宣言せんげんし、9月23にちにはイタリア社会しゃかい共和きょうわこく成立せいりつ発表はっぴょうした。しかし実態じったいはドイツの傀儡かいらい政権せいけんであり、ムッソリーニはイタリアにおける主導しゅどうけんもどすことはできなかった。

一方いっぽう連合れんごうこくがわは、イタリアの無条件むじょうけん降伏ごうぶくをより明確めいかくにする必要ひつようがあるとかんがえ、停戦ていせん協定きょうていではまった不十分ふじゅうぶんであり無条件むじょうけん降伏ごうぶくしなければならないとイタリアがわせまった。9月29にち、アイゼンハワーはイタリアの状態じょうたい変更へんこうされることを告知こくちする文書ぶんしょをバドリオにおくった[29]。11月9にち、バドリオは戦艦せんかんネルソンうえで、休戦きゅうせん協定きょうてい無条件むじょうけん降伏ごうぶく協定きょうていへと変更へんこうする文書ぶんしょ署名しょめいした[30]。しかし連合れんごうこくはファシズム・イタリアを対等たいとう同盟どうめいこくとしてみとめず、残存ざんそんしたイタリア王国おうこくぐん共同きょうどう参戦さんせんこくぐんとして10月13にちドイツにたいして宣戦せんせん布告ふこく。また、ドイツ降伏ごうぶくの1945ねん7がつ15にちには大日本帝国だいにっぽんていこくたいして宣戦せんせん布告ふこくしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ スコルツァの提案ていあんはあくまでムッソリーニ指導しどう改革かいかくもとづくものであり、つたいた逮捕たいほ計画けいかく存在そんざいをムッソリーニに報告ほうこくしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 1-2.
  2. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 7-8.
  3. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 6-7.
  4. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 3-4.
  5. ^ 藤田ふじたひろしろう 2007, p. 19.
  6. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 358.
  7. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 429–430.
  8. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 449.
  9. ^ 児島こじまじょう 1992, pp. 450.
  10. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 452–453.
  11. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 453.
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  19. ^ 児島こじまじょう & だい5かん, pp. 504–505.
  20. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 18–19.
  21. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 46–56.
  22. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 64–65.
  23. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 76–77.
  24. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 78.
  25. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 81–82.
  26. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 82–83.
  27. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 91–102.
  28. ^ 児島こじまじょう & だい6かん, pp. 92–111.
  29. ^ Letter from Commander in Chief of Allied Forces to Head of Italian Government -連合れんごうぐんそう司令しれいかんよりイタリア政府せいふ首長しゅちょうたいする手紙てがみ英文えいぶん) - イェール大学だいがく アバロン・プロジェクト
  30. ^ Armistice with Italy Amendment of Instrument of Surrender -イタリア休戦きゅうせん協定きょうてい降伏ごうぶく協定きょうていへの修正しゅうせい英文えいぶん) - イェール大学だいがく アバロン・プロジェクト

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 児島こじまじょうだい世界せかい大戦たいせん ヒトラーのたたかい』 だい5かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ、1992ねんISBN 978-4167141400 
  • 児島こじまじょうだい世界せかい大戦たいせん ヒトラーのたたかい』 だい6かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ、1992ねん9がつISBN 978-4167141417 
  • 藤田ふじたひろしろう「フランクリン・D・ローズベルトの無条件むじょうけん降伏ごうぶくろん」『甲南こうなん法学ほうがくだい48かんだい1ごう甲南大学こうなんだいがく、2007ねん9がつ、1-36ぺーじNAID 110006572542 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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イタリア戦線せんせん