休戦 きゅうせん 協定 きょうてい 成立 せいりつ を記念 きねん し、シチリア島 とう のカッシビレ にてアメリカ軍 ぐん 兵士 へいし が作 つく った「平和 へいわ の石 いし 」。(1943年 ねん 9月 がつ )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん におけるイタリアの降伏 ごうぶく (イタリアのこうふく)では、1943年 ねん 9月8日 にち に、イタリア王国 おうこく が連合 れんごう 国 こく と締結 ていけつ していた休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を発表 はっぴょう して枢軸 すうじく 国 こく から離脱 りだつ し、降伏 ごうぶく に至 いた った経緯 けいい を記述 きじゅつ する。
イタリア王国 おうこく の動 うご きを事前 じぜん に察知 さっち していたドイツ軍 ぐん は、この発表 はっぴょう の直後 ちょくご にイタリア半島 はんとう およびその他 た のイタリア勢力 せいりょく 圏 けん を速 すみ やかに制圧 せいあつ 。イタリア本土 ほんど では南部 なんぶ から侵攻 しんこう する連合 れんごう 国軍 こくぐん と、北部 ほくぶ のドイツ軍 ぐん 、およびドイツの傀儡 かいらい のイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく との、イタリア戦線 せんせん が構築 こうちく された。休戦 きゅうせん についてイタリア語 ご では調印 ちょういん が行 おこな われたシチリア島 とう のシラクサ 近郊 きんこう の地名 ちめい から「Armistizio di Cassibile(カッシビレ の休戦 きゅうせん )」、もしくは「Armistizio dell'8 Settembre(9月 がつ 8日 にち の休戦 きゅうせん 、単 たん に9月8日 にち とも)」と記載 きさい される。
連合 れんごう 国 こく の無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 方針 ほうしん [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 1月 がつ 24日 にち に、イギリス とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 両国 りょうこく の首脳 しゅのう は、カサブランカ会談 かいだん 後 ご の共同 きょうどう 記者 きしゃ 会見 かいけん において「枢軸 すうじく 国 こく に対 たい して一切 いっさい の和平 わへい 交渉 こうしょう を拒絶 きょぜつ し、無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を唯一 ゆいいつ の戦争 せんそう 終結 しゅうけつ とする」という原則 げんそく を表明 ひょうめい した。この案 あん は軍 ぐん や国務省 こくむしょう を除 のぞ くアメリカ政府 せいふ 内 ない での検討 けんとう によるものであり、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終結 しゅうけつ が降伏 ごうぶく という形 かたち を取 と らなかったためにドイツ人 じん は敗戦 はいせん を受 う け止 と めず今次 こんじ の大戦 たいせん に至 いた ったという考 かんが えと、ソビエト連邦 れんぽう に「対 たい 独 どく 戦 せん を最後 さいご まで戦 たたか い抜 ぬ く」というメッセージを伝 つた える目的 もくてき によるものであった。また、当時 とうじ 日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい して劣勢 れっせい であったため、対 たい 日 にち 講和 こうわ が噂 うわさ されていた中華民国 ちゅうかみんこく に対 たい するけん制 せい という意味 いみ もあった。
この考 かんが えにはフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう も強 つよ く同意 どうい していた。当初 とうしょ イギリスのウィンストン・チャーチル 首相 しゅしょう はイタリアの枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ からの離脱 りだつ をさそうため、一律 いちりつ での無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 路線 ろせん には反対 はんたい であった。しかしイギリスの戦時 せんじ 内閣 ないかく はイタリアの例外 れいがい 化 か に否定 ひてい 的 てき であり、結局 けっきょく イタリアも含 ふく めた形 かたち で発表 はっぴょう された。当時 とうじ アメリカ側 がわ はイギリスが対 たい 日 にち 戦 せん において単独 たんどく 講和 こうわ する可能 かのう 性 せい があるという疑念 ぎねん を持 も っており、当初 とうしょ 無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 路線 ろせん 自体 じたい に賛成 さんせい ではなかったイギリスがルーズベルト提案 ていあん に賛成 さんせい したのは、その疑念 ぎねん を晴 は らすためという面 めん が強 つよ かった。
シチリア島 とう へ上陸 じょうりく するイギリス軍 ぐん (1943年 ねん 7月 がつ 10日 とおか )
1943年 ねん 春 はる 、北 きた アフリカ戦線 せんせん のイタリア軍 ぐん の敗北 はいぼく が明 あき らかとなり、ファシズム体制 たいせい に対 たい する批判 ひはん が国内 こくない で高 たか まり始 はじ めた。イタリアの独裁 どくさい 者 しゃ である首相 しゅしょう ベニート・ムッソリーニ は、ファシスト体制 たいせい に対 たい してより国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい に忠誠 ちゅうせい であると思 おも われる人物 じんぶつ を、イタリア政府 せいふ 内 ない から何人 なんにん か排除 はいじょ した。ムッソリーニによるこれらの人事 じんじ は、ムッソリーニ政権 せいけん の失策 しっさく を批判 ひはん してきた王 おう への敵対 てきたい 的 てき な行為 こうい と言 い われた。おそらく、この決定 けってい の後 のち 、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい は、ムッソリーニの排除 はいじょ と講和 こうわ に向 む けた対抗 たいこう 手段 しゅだん を検討 けんとう し始 はじ めた。またムッソリーニ自身 じしん も病体 びょうたい であり、かつてほどの指導 しどう 力 りょく を示 しめ せなくなっていた。
王 おう は計画 けいかく を実行 じっこう するために、上院 じょういん 議長 ぎちょう ディーノ・グランディ に参加 さんか を依頼 いらい した。グランディはファシストの組織 そしき における主要 しゅよう なメンバーの一人 ひとり であり、若 わか い時 とき には、ファシスト党 とう の指導 しどう 者 しゃ としてムッソリーニに代 か わることのできる人物 じんぶつ であると考 かんが えられていた。王 おう は、グランディのファシズムに関 かん する考 かんが えが、急 きゅう に変 か わる可能 かのう 性 せい があると言 い う疑 うたが いからも、依頼 いらい を行 おこな った。ピエトロ・バドリオ 自身 じしん も含 ふく むたくさんの交渉 こうしょう 役 やく の人間 にんげん は、彼 かれ に独裁 どくさい 者 しゃ ムッソリーニの後継 こうけい 者 しゃ となる漠然 ばくぜん とした可能 かのう 性 せい を示 しめ した。
バドリオの指名 しめい は、戦争 せんそう において、イタリアがドイツ と同盟 どうめい しているという立場 たちば を変更 へんこう はしなかった。しかし、サヴォイア家 か による平和 へいわ を求 もと める動 うご きも生 しょう じていた。実際 じっさい 、複数 ふくすう の外交 がいこう チャネルが連合 れんごう 国 こく との講和 こうわ を求 もと め、模索 もさく されていた。
しかしこの情勢 じょうせい は、5月7日 にち にはドイツに察知 さっち され、総統 そうとう のアドルフ・ヒトラー はこの動 うご きに対応 たいおう するために、5月9日 にち にエルヴィン・ロンメル 元帥 げんすい をイタリアに派遣 はけん する計画 けいかく を立 た てた。ドイツは連合 れんごう 国軍 こくぐん がサルディーニャ島 とう に上陸 じょうりく するという情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ して警戒 けいかい に当 あ たっていたが、これは連合 れんごう 国軍 こくぐん の欺瞞 ぎまん 作戦 さくせん (ミンスミート作戦 さくせん )であり、7月 がつ 10日 とおか に連合 れんごう 国軍 こくぐん はシチリア島 とう に上陸 じょうりく した(ハスキー作戦 さくせん )。
シチリア島 とう の村 むら を解放 かいほう したイギリス軍 ぐん のシャーマン戦車 せんしゃ (1943年 ねん 8月 がつ )
シチリア島 とう 上陸 じょうりく 後 ご に捕虜 ほりょ となったイタリア軍 ぐん 兵士 へいし
しかし、イタリア軍 ぐん の対応 たいおう は緩慢 かんまん であり、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ (OKW) は西方 せいほう 軍 ぐん 集団 しゅうだん にイタリアの寝返 ねがえ りを警戒 けいかい する指令 しれい を出 だ した。ヒトラーはイタリア情勢 じょうせい に対応 たいおう するためとして、東部 とうぶ 戦線 せんせん からの師団 しだん 引 ひ き抜 ぬ きとクルスクの戦 たたか い における攻勢 こうせい (ツィタデレ作戦 さくせん )の中止 ちゅうし を指令 しれい した。(この措置 そち によって東部 とうぶ におけるドイツの攻勢 こうせい は不可能 ふかのう となり、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン 元帥 げんすい は「東部 とうぶ 戦線 せんせん の主導 しゅどう 権 けん はソ連 それん 側 がわ にうつった。我々 われわれ としては、今後 こんご は、我 わ が部隊 ぶたい がソ連 それん 軍 ぐん に突破 とっぱ され包囲 ほうい されて、スターリングラード の再現 さいげん にならぬよう防戦 ぼうせん するだけである」と嘆 なげ いた)。
7月 がつ 14日 にち にはピエトロ・バドリオ 元帥 げんすい と、イヴァノエ・ボノーミ 元 もと 首相 しゅしょう がムッソリーニ更迭 こうてつ 後 ご の組閣 そかく 名簿 めいぼ を作成 さくせい した。またヴィットーリオ・アンブロジオ 参謀 さんぼう 総長 そうちょう がムッソリーニの命令 めいれい と偽 いつわ り、首都 しゅと 警備 けいび のため編成 へんせい された師団 しだん をローマから移動 いどう させるよう試 こころ みた。また複数 ふくすう のファシスト党 とう 幹部 かんぶ が民心 みんしん の離反 りはん を感 かん じとり、ムッソリーニを裏切 うらぎ るかどうかの決断 けつだん を迫 せま られていた。
7月 がつ 15日 にち 、バドリオ元帥 げんすい が閣僚 かくりょう 名簿 めいぼ を首相 しゅしょう に奉呈 ほうてい し、クーデターの決行 けっこう を国王 こくおう に訴 うった えたが、情報 じょうほう の流出 りゅうしゅつ をおそれた国王 こくおう は留保 りゅうほ した。国王 こくおう の懸念 けねん 通 どお り、この会見 かいけん はたちまちドイツ側 がわ に漏洩 ろうえい し、ヒトラーは大使 たいし と国王 こくおう の義弟 ぎてい にあたるヘッセン公 こう フィリップ・フォン・ヘッセン を召還 しょうかん して情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう に当 あ たった。情勢 じょうせい の切迫 せっぱく を知 し ったヒトラーは自 みずか らイタリア訪問 ほうもん を行 おこな う旨 むね をイタリアに通告 つうこく し、7月 がつ 19日 にち にトレビゾ空港 くうこう でムッソリーニと会見 かいけん した。当初 とうしょ ヒトラーはムッソリーニに国王 こくおう を排除 はいじょ させ、より強力 きょうりょく な独裁 どくさい 権力 けんりょく を確立 かくりつ させるつもりであったが、ムッソリーニが予想 よそう 以上 いじょう に衰弱 すいじゃく していたため会見 かいけん でそのことにはふれなかった。一方 いっぽう でアンブロージョ参謀 さんぼう 総長 そうちょう はムッソリーニにドイツと手 て を切 き ることを進言 しんげん したが、ムッソリーニは応諾 おうだく しなかった。
ヒトラーとの会談 かいだん を終 お えた直後 ちょくご 、ムッソリーニはファシズム体制 たいせい 指導 しどう 者 しゃ を激励 げきれい するため、久 ひさ しく開会 かいかい されていなかったファシズム大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい (Gran Consiglio del Fascismo )を7月 がつ 24日 にち に開催 かいさい するよう指示 しじ した。アンブロージョ参謀 さんぼう 総長 そうちょう は国王 こくおう に決断 けつだん を迫 せま り、参謀 さんぼう 総長 そうちょう に国王 こくおう は次 つぎ の定例 ていれい 謁見 えっけん 日 び (7月 がつ 22日 にち )までに決断 けつだん し、その次 つぎ の謁見 えっけん 日 び (7月 がつ 26日 にち )の後 のち にムッソリーニを逮捕 たいほ すると告 つ げた。しかしこの頃 ころ アルトゥーロ・リッカルディ 海軍 かいぐん 大将 たいしょう ら親 おや 独 どく 派 は グループの動 うご きが活発 かっぱつ 化 か したと報告 ほうこく を受 う けて国王 こくおう は考慮 こうりょ を決断 けつだん に移 うつ し、ムッソリーニが国王 こくおう に拝謁 はいえつ した後 のち 、カラビニエリ (憲兵 けんぺい )により逮捕 たいほ する計画 けいかく を固 かた めた。
この頃 ころ 、反 はん ムッソリーニ派 は である「秘密 ひみつ のフロンド」(frondeur、投石 とうせき 器 き の意味 いみ )には、ファシスト党 とう の幹部 かんぶ であるジュゼッペ・ボッタイ 文化 ぶんか 大臣 だいじん 、ファシスト党 とう のナンバー2であり、ムッソリーニの義理 ぎり の息子 むすこ のガレアッツォ・チャーノ 外相 がいしょう まで参加 さんか していた。グランディやカルロ・スコルツァ (英語 えいご 版 ばん ) 党 とう 書記 しょき 長 ちょう [注釈 ちゅうしゃく 1] 、ロベルト・ファリナッチ らは政治 せいじ の直接的 ちょくせつてき な支配 しはい 権 けん を王 おう に戻 もど すと言 い う提案 ていあん 「重大 じゅうだい 事項 じこう 」(Ordine del giorno)を策定 さくてい し、賛同 さんどう 者 しゃ を募 つの った。この情報 じょうほう はムッソリーニの耳 みみ にも届 とど いたが、彼 かれ は真 しん に受 う けず、何 なん の対抗 たいこう 手段 しゅだん も執 と らなかった。
1943年 ねん 7月 がつ 24日 にち 午後 ごご 5時 じ 、ファシズム大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい に複数 ふくすう の「重大 じゅうだい 事項 じこう 」が提出 ていしゅつ された。会議 かいぎ は夜半 やはん を過 す ぎても続 つづ き、7月 がつ 25日 にち 午前 ごぜん 2時 じ に統帥 とうすい 権 けん と独裁 どくさい 権 けん を国王 こくおう に返還 へんかん するグランディの提案 ていあん が多数決 たすうけつ で採択 さいたく された。7月25日 にち にムッソリーニは国王 こくおう に緊急 きんきゅう の拝謁 はいえつ を求 もと めた。その面談 めんだん で国王 こくおう はムッソリーニに解任 かいにん を告 つ げた。王宮 おうきゅう から出 で たムッソリーニは逮捕 たいほ され、ポンツァ島 とう に監禁 かんきん された。
後任 こうにん の首相 しゅしょう にはバドリオが任命 にんめい されたが、これはグランディに約束 やくそく された内容 ないよう に反 はん するものであった。グランディは他 た の偉大 いだい な人間 にんげん 性 せい と優秀 ゆうしゅう な能力 のうりょく をもつ人物 じんぶつ 、エンリコ・カヴィーリャ (英語 えいご 版 ばん ) 元帥 げんすい がムッソリーニのあとを継 つ ぐべきであると述 の べていた。その後 ご クーデター派 は はムッソリーニが「辞任 じにん 」し、ロマーニャ の自宅 じたく に向 む かったという噂 うわさ を流 なが し、ムッソリーニ派 は が政権 せいけん の奪還 だっかん に動 うご くのを封 ふう じた。噂 うわさ を聞 き いた市民 しみん がファシスト党員 とういん や憲兵 けんぺい を攻撃 こうげき する事例 じれい も現 あらわ れた。
午後 ごご 9時 じ 30分 ふん 頃 ごろ にはドイツでもムッソリーニの「辞職 じしょく 」が察知 さっち されるようになり、ヒトラーはバドリオ政権 せいけん を敵 てき と断定 だんてい し、エルヴィン・ロンメル 元帥 げんすい をギリシャから呼 よ び戻 もど した。午後 ごご 10時 じ 45分 ふん にムッソリーニの辞職 じしょく とバドリオの首相 しゅしょう 任命 にんめい を伝 つた える国王 こくおう の声明 せいめい と、バドリオが全権 ぜんけん 委任 いにん を受 う けたという声明 せいめい が全国 ぜんこく 放送 ほうそう された。イタリア全土 ぜんど のローマや各地 かくち の街 まち には市民 しみん の歓声 かんせい があふれ、ファシスト党 とう の党員 とういん 証 しょう や黒 くろ い制服 せいふく が川 かわ や路地 ろじ に投 な げ捨 す てられた。
リスボンで会合 かいごう する英 えい 米 べい 伊 い の高官 こうかん 。左 ひだり よりストロング英軍 えいぐん 准 じゅん 将 はた 、カステッラーノ伊 い 軍 ぐん 准 じゅん 将 はた 、スミス米 べい 軍 ぐん 少将 しょうしょう 、フランコ・モンタナーリ伊 い 領事 りょうじ
バドリオ政権 せいけん は表面 ひょうめん 上 じょう 戦争 せんそう を遂行 すいこう するという姿勢 しせい を見 み せていた。総統 そうとう 大本営 だいほんえい に到着 とうちゃく したロンメル元帥 げんすい も、早期 そうき のドイツ軍 ぐん 進駐 しんちゅう はかえって反感 はんかん を呼 よ ぶとして、ヒトラーの強攻 きょうこう 策 さく に反対 はんたい した。さしあたってのヒトラーの対応 たいおう は北部 ほくぶ イタリアとローマへの進駐 しんちゅう 準備 じゅんび と、ムッソリーニ救出 きゅうしゅつ のための準備 じゅんび を命令 めいれい することであった。しかしこの政変 せいへん は連合 れんごう 国軍 こくぐん にとっても寝耳 ねみみ に水 みず であり、事前 じぜん の話 はな し合 あ いは一切 いっさい ついていなかった。7月27日 にち のウィンストン・チャーチル の演説 えんぜつ もそれをうかがわせるものであった。その後 ご ヒトラーは各 かく 方面 ほうめん からイタリアが連合 れんごう 国 こく 和平 わへい に動 うご いているという情報 じょうほう を察知 さっち し、8月 がつ 1日 にち にはイタリア占領 せんりょう 作戦 さくせん アッシェ作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) を承認 しょうにん した。
バドリオ政府 せいふ はバチカンの大使館 たいしかん を通 つう じてイギリス側 がわ と接触 せっしょく し、ローマの無 む 防備 ぼうび 都市 とし 宣言 せんげん 案 あん を連合 れんごう 国 こく 側 がわ に伝達 でんたつ した。8月4日 にち には密使 みっし がリスボン のイギリス大使館 たいしかん に派遣 はけん され、和平 わへい の方針 ほうしん を伝達 でんたつ した。
8月 がつ 12日 にち 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう ジュゼッペ・カステッラーノ (英語 えいご 版 ばん ) 准 じゅん 将 しょう が連合 れんごう 国 こく の外交 がいこう 官 かん と接触 せっしょく するために、マドリード に送 おく られた。カステッラーノ准 じゅん 将 しょう らは8月 がつ 16日 にち にリスボンに到着 とうちゃく し、8月 がつ 19日 にち になって連合 れんごう 国軍 こくぐん と会談 かいだん の場 ば を持 も つことができた。連合 れんごう 国 こく 側 がわ の出席 しゅっせき 者 しゃ の中 なか には、ポルトガル に送 おく られた駐 ちゅう 葡イギリス大使 たいし ロナルド・ヒュー・キャンベル (英語 えいご 版 ばん ) と、SHAEF 付 づけ ケネス・ストロング (英語 えいご 版 ばん ) 准 じゅん 将 はた 、アメリカ からはSHAEF最高 さいこう 司令 しれい 官 かん アイゼンハワー に送 おく られた2人 ふたり の将軍 しょうぐん と参謀 さんぼう 長 ちょう ウォルター・ベデル・スミス 少将 しょうしょう 、さらにアメリカ大使館 あめりかたいしかん 参事官 さんじかん のジョージ・ケナン がおり、彼 かれ らはその後 ご も対 たい イタリア交渉 こうしょう の窓口 まどぐち となった。この会談 かいだん でイタリア側 がわ に、イタリア軍 ぐん の降伏 ごうぶく とその後 ご の軍政 ぐんせい を条件 じょうけん とし、さらに8月 がつ 30日 にち を回答 かいとう 期限 きげん とする停戦 ていせん 案 あん が伝 つた えられた。ところが連合 れんごう 国 こく との接触 せっしょく に手間取 てまど ったカステッラーノにしびれを切 き らした本国 ほんごく 側 がわ は、ジャコモ・サヌッシ (イタリア語 ご 版 ばん ) 准 じゅん 将 しょう をさらなる密使 みっし として派遣 はけん し、8月 がつ 25日 にち にリスボンに到着 とうちゃく した。8月27日 にち 、サヌッシは英 えい 米 べい 政府 せいふ がケベック会談 かいだん で合意 ごうい したイタリアの降伏 ごうぶく 案 あん をキャンベル大使 たいし に提示 ていじ された。しかしこの降伏 ごうぶく 案 あん 提示 ていじ はキャンベル大使 たいし の独走 どくそう であり、あわてた連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ はサヌッシをアルジェ に向 む かわせ、帰国 きこく を遅 おく らせることで対応 たいおう した。この日 ひ 、カステッラーノがローマに帰着 きちゃく し、停戦 ていせん 案 あん を内閣 ないかく と軍 ぐん に示 しめ した。政府 せいふ は王政 おうせい の保障 ほしょう を得 え ることや降伏 ごうぶく を回避 かいひ することへの望 のぞ みを捨 す てておらず、またドイツ軍 ぐん の報復 ほうふく をおそれたため、回答 かいとう 期限 きげん まで決定 けってい を下 くだ すことはできなかった。結局 けっきょく 、回答 かいとう 期限 きげん の8月 がつ 30日 にち にカステッラーノを連合 れんごう 国軍 こくぐん の占領 せんりょう したシチリア島 とう に向 む かわせることのみが決定 けってい された。
当初 とうしょ 、連合 れんごう 国 こく はイタリアの降伏 ごうぶく の提案 ていあん には完全 かんぜん に満足 まんぞく していたわけではなかった。枢軸 すうじく 国軍 こくぐん に対 たい する軍事 ぐんじ 作戦 さくせん は勢 いきお いを増 ま し、イタリアの占領 せんりょう と敗北 はいぼく は時間 じかん の問題 もんだい と考 かんが えていた。ドイツの弱小 じゃくしょう な同盟 どうめい 国 こく の降伏 ごうぶく は戦争 せんそう の終結 しゅうけつ を確 たし かに加速 かそく するだろうが、イタリア領域 りょういき の完全 かんぜん な占領 せんりょう は、利益 りえき を失 うしな う点 てん も存在 そんざい した。
だが、結局 けっきょく は、イタリアでの戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご に、可能 かのう であった選択肢 せんたくし の更 さら なる検討 けんとう が、連合 れんごう 国 こく においてこの問題 もんだい の大 おお きな議論 ぎろん を引 ひ き起 お こした。特 とく に、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は、戦争 せんそう 後 ご にイギリスへのイタリアの接近 せっきん の可能 かのう 性 せい を減 へ らしたいと考 かんが えていた。これは、地中海 ちちゅうかい におけるイギリスへの絶対 ぜったい 的 てき な戦略 せんりゃく 的 てき 支配 しはい 権 けん (これは、原油 げんゆ の輸送 ゆそう ルートの支配 しはい も含 ふく む)を与 あた えるためであった。
8月 がつ 31日 にち にカステッラーノ准 じゅん 将 しょう は、シチリア島 とう のテルミニ・イメレーゼ に航空機 こうくうき で到着 とうちゃく し、シラクサ 近郊 きんこう の小村 こむら カッシビレ に移動 いどう した。連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ はカステッラーノの来訪 らいほう は、イタリア軍 ぐん が停戦 ていせん 条件 じょうけん を受諾 じゅだく し、降伏 ごうぶく の調印 ちょういん にやってきたと判断 はんだん していたが、実際 じっさい には彼 かれ は調印 ちょういん の権限 けんげん 委譲 いじょう すらされていなかった。再 ふたた び協議 きょうぎ が行 おこな われ、その後 ご 王室 おうしつ とローマ市民 しみん 保護 ほご のため1個 いっこ 空挺 くうてい 師団 しだん をローマ近辺 きんぺん に上陸 じょうりく させることと、9月2日 にち を新 あら たな回答 かいとう 期限 きげん とする合意 ごうい が示 しめ された。
同日 どうじつ 午後 ごご 7時 じ 、カステッラーノとサヌッシはローマに戻 もど った。9月1日 にち に閣議 かくぎ が開 ひら かれ、アンブロージョ参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、ラッファエレ・グアリーリャ (英語 えいご 版 ばん ) 外相 がいしょう は、連合 れんごう 軍 ぐん の条件 じょうけん を受 う け入 い れるべきと主張 しゅちょう したが、情報 じょうほう 部長 ぶちょう ジャコモ・カルボーニ (英語 えいご 版 ばん ) は、ローマ周辺 しゅうへん に展開 てんかい する軍団 ぐんだん は都市 とし を守 まも るには燃料 ねんりょう と装備 そうび が不足 ふそく しており、講和 こうわ は延期 えんき すべきだと主張 しゅちょう した。バドリオ首相 しゅしょう 自身 じしん は会合 かいごう では発言 はつげん せず、閣議 かくぎ での決定 けってい も下 くだ さなかった。このため国王 こくおう の決定 けってい にゆだねることとなり、午後 ごご にバドリオと面会 めんかい した国王 こくおう は講和 こうわ に応 おう じる旨 むね の決定 けってい を下 くだ した。カステッラーノは受諾 じゅだく の方針 ほうしん を連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ に打電 だでん し、9月2日 にち に彼 かれ が再 ふたた びシチリアに向 む かうこととなった。しかし、この電文 でんぶん はドイツ軍 ぐん によって傍受 ぼうじゅ されていた。
9月2日 にち 、カステッラーノ准 じゅん 将 しょう は再度 さいど カッシビレに到着 とうちゃく した。しかし、連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ の期待 きたい を裏切 うらぎ り、彼 かれ はまたしても調印 ちょういん 権限 けんげん を持 も っていなかった。カステッラーノはイタリアを降伏 ごうぶく という不名誉 ふめいよ な事態 じたい から逃 のが れさせるため、降伏 ごうぶく に言及 げんきゅう していない電文 でんぶん によって停戦 ていせん を実現 じつげん させる作戦 さくせん をとったが、連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ はカステッラーノに降伏 ごうぶく 権限 けんげん 授権を要請 ようせい させた。連合 れんごう 国 こく 側 がわ が満足 まんぞく する授権の電文 でんぶん が到着 とうちゃく したのは、9月3日 にち の午後 ごご 5時 じ になってからであった。
電文 でんぶん を受諾 じゅだく した午後 ごご 5時 じ 15分 ふん に調印 ちょういん 式 しき が始 はじ まった。カステッラーノはバドリオの代 か わりに、スミス少将 しょうしょう はアイゼンハワーの代 か わりに、受託 じゅたく 文章 ぶんしょう にサインを行 おこな った。500機 き の航空機 こうくうき によるローマへの爆 ばく 撃 げき 任務 にんむ は最後 さいご の瞬間 しゅんかん に中止 ちゅうし となった。これはアイゼンハワーによる講和 こうわ の手続 てつづ きを加速 かそく のための予防 よぼう 策 さく であった。連合 れんごう 国 こく スタッフのイギリス代表 だいひょう であったハロルド・マクミラン は、「どんな種類 しゅるい の修正 しゅうせい も無 な く」講和 こうわ に調印 ちょういん が行 おこな われたとチャーチルに知 し らせた。休戦 きゅうせん 協定 きょうてい は同日 どうじつ 中 ちゅう に発効 はっこう したが、世界 せかい には公表 こうひょう されず、戦闘 せんとう はなおも続 つづ いていた。
調印 ちょういん が行 おこな われた後 のち にカステッラーノは、キャンベル英 えい 大使 たいし がサヌッシに伝 つた えた「降伏 ごうぶく 条件 じょうけん 」を提示 ていじ された。カステッラーノはこれを承知 しょうち していないと主張 しゅちょう し、スミス少将 しょうしょう に抗議 こうぎ した。彼 かれ は降伏 ごうぶく が相対 そうたい 的 てき な効果 こうか しか持 も たないと念書 ねんしょ を書 か き、カステッラーノに手渡 てわた した。
1943年 ねん 9月 がつ 、ミラノを占領 せんりょう した第 だい 1SS装甲 そうこう 師団 しだん のIV号 ごう 戦車 せんしゃ 。
休戦 きゅうせん の発表 はっぴょう 日 び と、空挺 くうてい 師団 しだん の派遣 はけん は9月8日 にち と合意 ごうい されていたが、9月7日 にち の午後 ごご 9時 じ 30分 ふん になってカルボーニ将軍 しょうぐん が停戦 ていせん の延期 えんき と空挺 くうてい 師団 しだん 派遣 はけん の中止 ちゅうし を申 もう し入 い れ、その旨 むね を記 しる したバドリオの電文 でんぶん を示 しめ した。連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ は停戦 ていせん 延期 えんき は不可能 ふかのう であると反論 はんろん し、バドリオ政権 せいけん 側 がわ に停戦 ていせん 発表 はっぴょう を予定 よてい 通 どお り行 おこな う旨 むね を通告 つうこく した。これをうけてバドリオは閣議 かくぎ を行 おこな ったが、結論 けつろん が出 で ないうちに午後 ごご 6時 じ 30分 ふん を迎 むか え、イタリアの降伏 ごうぶく 受 う け入 い れと停戦 ていせん 受諾 じゅだく を伝 つた えるアイゼンハワーの放送 ほうそう が行 おこな われた。さらに6時 じ 40分 ふん にはバドリオ声明 せいめい 案 あん の英文 えいぶん を放送 ほうそう させ、イタリアの降伏 ごうぶく 受 う け入 い れは事実 じじつ となって全 ぜん 世界 せかい に知 し られることとなった。
放送 ほうそう を受 う けてバドリオは、降伏 ごうぶく を知 し らなかったこととして処理 しょり するか、受 う け入 い れるかについて国王 こくおう に裁可 さいか を迫 せま った。国王 こくおう は停戦 ていせん 受 う け入 い れを決定 けってい し、バドリオは午後 ごご 7時 じ 45分 ふん に休戦 きゅうせん 声明 せいめい の放送 ほうそう を行 おこな った。まもなくヒトラーはアシェ作戦 さくせん の発動 はつどう を命令 めいれい し、ドイツ軍 ぐん を配備 はいび する事 こと を決定 けってい して、素早 すばや く北 きた イタリア地域 ちいき に軍隊 ぐんたい を展開 てんかい した。国王 こくおう と王族 おうぞく はその日 ひ のうちに国防省 こくぼうしょう に移 うつ り、9月9日 にち に政府 せいふ はローマからの避難 ひなん を決 き め、王族 おうぞく らとともに脱出 だっしゅつ した。
大 だい 部分 ぶぶん のイタリア軍 ぐん 将兵 しょうへい は講和 こうわ に関 かん して何 なに も知 し らされていなかったために対応 たいおう できず、大半 たいはん はドイツ軍 ぐん にたやすく武装 ぶそう 解除 かいじょ され、イタリア半島 はんとう の大 だい 部分 ぶぶん はドイツ軍 ぐん の手 て に落 お ちた。連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ のカナダ軍 ぐん が9月3日 にち にカラブリア の最南端 さいなんたん に上陸 じょうりく を行 おこな い、9月9日 にち にはサレルノ (アヴァランチ作戦 さくせん )とターラント (スラップスティック作戦 さくせん )に上陸 じょうりく を行 おこな い、イタリア本土 ほんど での本格 ほんかく 的 てき な戦闘 せんとう が始 はじ まった。
またイタリアの支配 しはい 下 か にあったバルカン半島 ばるかんはんとう のアルバニア王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) とモンテネグロ王国 おうこく 、マケドニア公国 こうこく 、さらにイタリア軍 ぐん が進駐 しんちゅう していたフランス南部 なんぶ の一部 いちぶ も即座 そくざ にドイツに占領 せんりょう された。
ドイツに救出 きゅうしゅつ されたムッソリーニ(左 ひだり 隣 となり はオットー・スコルツェニー )
9月12日 にち 、ドイツ軍 ぐん はグラン・サッソ襲撃 しゅうげき によってムッソリーニを奪還 だっかん した。憔悴 しょうすい したムッソリーニにヒトラーはイタリアでの最高 さいこう 権力 けんりょく を奪還 だっかん するよう強要 きょうよう した。ムッソリーニは9月15日 にち に最高 さいこう 権力 けんりょく の回復 かいふく と、共和 きょうわ ファシスト党 とう の成立 せいりつ を宣言 せんげん し、9月23日 にち にはイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく の成立 せいりつ を発表 はっぴょう した。しかし実態 じったい はドイツの傀儡 かいらい 政権 せいけん であり、ムッソリーニはイタリアにおける主導 しゅどう 権 けん を取 と り戻 もど すことはできなかった。
一方 いっぽう で連合 れんごう 国 こく 側 がわ は、イタリアの無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく をより明確 めいかく にする必要 ひつよう があると考 かんが え、停戦 ていせん 協定 きょうてい では全 まった く不十分 ふじゅうぶん であり無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく しなければならないとイタリア側 がわ に迫 せま った。9月29日 にち 、アイゼンハワーはイタリアの状態 じょうたい が変更 へんこう されることを告知 こくち する文書 ぶんしょ をバドリオに送 おく った[29] 。11月9日 にち 、バドリオは戦艦 せんかん ネルソン 上 うえ で、休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 協定 きょうてい へと変更 へんこう する文書 ぶんしょ に署名 しょめい した[30] 。しかし連合 れんごう 国 こく はファシズム・イタリアを対等 たいとう な同盟 どうめい 国 こく として認 みと めず、残存 ざんそん したイタリア王国 おうこく 軍 ぐん は共同 きょうどう 参戦 さんせん 国 こく 軍 ぐん として10月13日 にち ドイツに対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく 。また、ドイツ降伏 ごうぶく 後 ご の1945年 ねん 7月 がつ 15日 にち には大日本帝国 だいにっぽんていこく に対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく している。
^ スコルツァの提案 ていあん はあくまでムッソリーニ指導 しどう 下 か の改革 かいかく に基 もと づくものであり、伝 つた え聞 き いた逮捕 たいほ 計画 けいかく の存在 そんざい をムッソリーニに報告 ほうこく している。
児島 こじま 襄 じょう 『第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ヒトラーの戦 たたか い』 第 だい 5巻 かん 、文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 社 しゃ 、1992年 ねん 。ISBN 978-4167141400 。
児島 こじま 襄 じょう 『第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ヒトラーの戦 たたか い』 第 だい 6巻 かん 、文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 社 しゃ 、1992年 ねん 9月 がつ 。ISBN 978-4167141417 。
藤田 ふじた 宏 ひろし 郎 ろう 「フランクリン・D・ローズベルトの無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく 論 ろん 」『甲南 こうなん 法学 ほうがく 』第 だい 48巻 かん 第 だい 1号 ごう 、甲南大学 こうなんだいがく 、2007年 ねん 9月 がつ 、1-36頁 ぺーじ 、NAID 110006572542 。
イタリア戦線 せんせん