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モンテ・カッシーノのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンテ・カッシーノのたたか
モンテ・カッシーノの戦い
戦闘せんとう廃墟はいきょとなったカッシーノまち
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせんイタリア戦線せんせん
年月日ねんがっぴ1944ねん1がつ17にち5月18にち
場所ばしょイタリア モンテ・カッシーノ
結果けっか連合れんごうぐん戦略せんりゃくてき勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
自由じゆうフランス
ポーランドの旗 ポーランド
カナダの旗 カナダ
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
南アフリカの旗 みなみアフリカ連邦れんぽう
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
その

ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
イタリア社会しゃかい共和きょうわこく[1]
指導しどうしゃ指揮しきかん
イギリスの旗 ハロルド・アレクサンダー

アメリカ合衆国の旗 マーク・W・クラーク
イギリスの旗 オリバー・リーズ

ナチス・ドイツの旗 アルベルト・ケッセルリンク

ナチス・ドイツの旗 ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ
ナチス・ドイツの旗 フリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン

戦力せんりょく
240,000
80,000
損害そんがい
100,000以上いじょう[2][3]だい5ぐんだけで90,000[4] 詳細しょうさい不明ふめいすくなくとも20,000以上いじょう[3]
イタリア戦線せんせん

モンテ・カッシーノのたたか(モンテ・カッシーノのたたかい、えい: Battle of Monte Cassino)は、だい世界せかい大戦たいせんなか1944ねん1がつ17にちから5月19にちにかけてイタリアモンテ・カッシーノおこなわれたたたかい。連合れんごうぐんイタリア戦線せんせんにおけるグスタフ・ライン英語えいごばん突破とっぱおよびローマ解放かいほうのために企画きかくされた。

1944ねん初頭しょとう、グスタフ・ラインの西にし半分はんぶんは、ラーピドがわリーリがわガリリャーノがわおよびその周囲しゅうい尾根おね山頂さんちょうまもドイツぐんによりささえられていた。そのなかにあって、モンテ・カッシーノ頂上ちょうじょうにある修道院しゅうどういん(529ねんごろ建立こんりゅうされた歴史れきしてき建築けんちくぶつ)には守備しゅびへい配置はいちされておらず、修道院しゅうどういん城壁じょうへき急斜面きゅうしゃめん防御ぼうぎょ陣地じんちきずかれていた。2がつ15にちカッシーノまち見渡みわたせる山頂さんちょうにあった修道院しゅうどういんたいし、アメリカぐんは1,400トンにおよばくだん修道院しゅうどういん爆撃ばくげきし、修道院しゅうどういん破壊はかいされた。その理由りゆう修道院しゅうどういん枢軸すうじくぐん守備しゅびたい監視かんししょとして使用しようされる懸念けねんがあったためである(枢軸すうじくぐんがそこに進駐しんちゅうしていなかったという主張しゅちょうみとめられるまでにはなが時間じかんがかかった)。ばくげきの2にち、ドイツぐん降下こうかりょうへいがこの廃墟はいきょ守備しゅびするために投入とうにゅうされた。1月17にちから5月18にちまで、グスタフ・ライン守備しゅびたい連合れんごうぐんの4わた攻撃こうげきをうけた。このあいだ連合れんごうぐんは32kmの前線ぜんせんに20師団しだん投入とうにゅうしドイツぐん駆逐くちくしたが、甚大じんだい損害そんがいこうむった[5]

背景はいけい

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モンテ・カッシーノの戦いの位置(イタリア内)
カッシーノ
カッシーノ
ローマ
ローマ
アンツィオ
アンツィオ
サレルノ
サレルノ
関連かんれん地域ちいき位置いち

1943ねん9月、連合れんごうぐんイタリア方面ほうめんそう司令しれいかんハロルド・アレクサンダー指揮しきだい15ぐん集団しゅうだんはイタリア・サレルノ上陸じょうりく作戦さくせんアヴァランチ作戦さくせん)ののち、イタリアの“背骨せぼね”を形成けいせいしているアペニン山脈さんみゃく東西とうざい両側りょうがわからそれぞれ北方ほっぽう進撃しんげきした。西側にしがわ戦線せんせんでは、マーク・ウェイン・クラーク中将ちゅうじょう指揮しきアメリカだい5ぐんナポリからイタリアの“ブーツ”を北上ほくじょうし、東側ひがしがわ戦線せんせんでは、バーナード・モントゴメリー大将たいしょうイギリスだい8ぐんアドリア海あどりあかい沿岸えんがん進軍しんぐんした。

だい5ぐんは、困難こんなん地形ちけい悪天候あくてんこうおよび熟練じゅくれんしたドイツぐん抵抗ていこうにより、進軍しんぐんおくれていた。ドイツぐんは、最大さいだいのダメージをあたえるよう設計せっけい準備じゅんびされた陣地じんちから戦闘せんとう仕掛しかけては退しりぞき、ローマ南方なんぽう守備しゅび陣地じんちグスタフ・ラインを建設けんせつするための時間じかんかせいだ。当初とうしょ、ローマは1943ねん9がつには陥落かんらくすると見込みこまれていたが、それは楽観らっかんてきすぎた。

アドリア海あどりあかい沿岸えんがんのイギリスだい8ぐんはグスタフ・ライン東側ひがしがわ突破とっぱし、オルトーナ占領せんりょうしていたが、その進軍しんぐんは12月まつにはもう吹雪ふぶきはじまりで停滞ていたいし、複雑ふくざつ地形ちけいのため航空こうくう支援しえん不可能ふかのうであった。このためルート5号線ごうせん使用しようしたひがしからローマへかう進軍しんぐんルートは現実げんじつてきであると判断はんだんされ、高速こうそく道路どうろ6号線ごうせんおよび7号線ごうせんルートのみが可能かのうせいとしてのこされた。しかしその2ルートのうち高速こうそく道路どうろ7号線ごうせん古代こだいローマアッピア街道かいどう)は西海岸にしかいがん沿ってローマ南方なんぽうポンティーノ湿地しっちたいつうじており、そこはすでにドイツぐんにより水没すいぼつさせられていた。高速こうそく6号線ごうせんはリーリがわ渓谷けいこく通過つうかしており、このたに南側みなみがわくちはカッシーノのまち後方こうほう多数たすうおか構成こうせいされていた。いくつかのおか頂上ちょうじょうはドイツぐん守備しゅびへい連合れんごうぐんうごきを観測かんそくするのに最適さいてき場所ばしょであり、きたへの進軍しんぐん阻止そしし、連合れんごうぐん部隊ぶたいへの直接ちょくせつ砲撃ほうげき可能かのうとしていた。

アペニン山脈さんみゃく中央ちゅうおう源流げんりゅうをもつながれのはやいラーピドがわは、連合れんごうぐん前線ぜんせん横切よこぎり、カッシーノを通過つうかし、リーリがわ渓谷けいこくくちつうじていた。そのリーリがわ合流ごうりゅうしてガリリャーノがわ連合れんごうぐんからときに「ガリ」とばれた)となり、うみへとつづいた。強固きょうこ要塞ようさいされた山岳さんがく守備しゅび困難こんなん渡河とかながれがはやいだけでなく、ドイツぐんはラーピドがわながれをたに先端せんたん一時いちじてきえてたにそこ氾濫はんらんさせ、あらゆる攻撃こうげき困難こんなんになるようにしていた)により、カッシーノをようとしたグスタフ・ラインは難攻不落なんこうふらく守備しゅび陣地じんちつくげられていた。

ドイツぐん修道院しゅうどういんあいだでは、修道院しゅうどういん歴史れきしてき重要じゅうようせいかんがみ、修道しゅうどうたちがのこっているかぎ修道院しゅうどういん軍事ぐんじ目的もくてき利用りようしないことで合意ごういした。1943ねん12月、イタリア方面ほうめんそう司令しれいかんアルベルト・ケッセルリンク空軍くうぐん元帥げんすい修道院しゅうどういんないへのドイツぐん部隊ぶたい配置はいち陣地じんちおこなわないようめいじ、そのことを連合れんごうぐん適宜てきぎ通知つうちした[6][7]

このような状況じょうきょうで、なんかの連合れんごうぐん偵察ていさつはドイツぐん部隊ぶたい修道院しゅうどういんないにいたと報告ほうこくしている。修道院しゅうどういん周囲しゅういおかたに監視かんしするには最適さいてき場所ばしょで、それゆえドイツぐん砲撃ほうげき観測かんそくしゅにとって天然てんねん観測かんそくしょた。ただ、一旦いったん修道院しゅうどういん破壊はかいされてしまえば、ドイツぐんがそこを占拠せんきょし、防御ぼうぎょ陣地じんちきずくためにその瓦礫がれき利用りようするということ明白めいはくであった。最終さいしゅうてき修道院しゅうどういん破壊はかいにつながる軍事ぐんじてき根拠こんきょは、実際じっさい占領せんりょうされているかどうかより、むしろその潜在せんざいてき脅威きょういのほうにあった。

だいいちかい戦闘せんとう

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計画けいかく準備じゅんび

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アメリカだい5ぐん司令しれいかんクラークは以下いか攻撃こうげき計画けいかくをたてた。

だいいちかい戦闘せんとう: 攻撃こうげき計画けいかく

のところ、クラークは早期そうき突破とっぱできるチャンスはおおいとかんがえていたが[8]、この攻撃こうげき1がつ22にちアンツィオ上陸じょうりく作戦さくせん(シングル作戦さくせん)にえば、ドイツぐん予備よび部隊ぶたいをローマ地域ちいきからきずりせるとおもっていた。それによりアンツィオ上陸じょうりく奇襲きしゅう効果こうか内陸ないりくアルバーノ丘陵きゅうりょうへの迅速じんそく移動いどうができれば、グスタフ・ライン守備しゅびたい後方こうほうおよび補給ほきゅうせんおどかし、動揺どうようしたドイツぐんがグスタフ・ラインからローマ北方ほっぽう後退こうたいするということ期待きたいしてのものだった。3ヶ月かげつまえならそれはドイツぐん戦術せんじゅつ一致いっちしていたが、ドイツぐん攻撃こうげき撤退てったいかえすことによりグスタフ・ラインを難攻不落なんこうふらく要塞ようさいとするための時間じかんかせぐことを唯一ゆいいつ目的もくてきとする戦略せんりゃく転換てんかんしていた。連合れんごうぐん情報じょうほうはそれを理解りかいしておらず、そのため連合れんごうぐん見通みとおしにたいする評価ひょうか楽観らっかんてきぎるものとなってしまっていた[9]

アメリカだい5ぐん1がつ15にちにようやくグスタフ・ラインにたっすることができただけだった。最後さいごの11kmを前進ぜんしんするのに6週間しゅうかんようし、ベルンハルト・ライン突破とっぱするさいには16,000めい死傷ししょうしゃした[10]かれらにはあたらしい攻撃こうげき準備じゅんびするだけの時間じかんく、3ヶ月かげつわたるナポリからの北上ほくじょう作戦さくせん消耗しょうもうしており、休息きゅうそくさい編成へんせい必要ひつようとしていた。しかし、連合れんごうぐん参謀さんぼう本部ほんぶはアンツィオ上陸じょうりく作戦さくせんよう用意よういされた上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい使用しよう期間きかんを2がつ初旬しょじゅんまでしかみとめなかったため上陸じょうりくは1がつまつまでにおこなわなければならず、それに呼応こおうするグスタフ・ライン攻撃こうげきはさらにそのやく3にちまえにはおこな必要ひつようがあった。

だいいち攻撃こうげき: 左翼さよく・イギリスだい10軍団ぐんだん – 1がつ17にち

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だいいち攻撃こうげきは1がつ17にちおこなわれた。沿岸えんがんのイギリスだい10軍団ぐんだんだい56およびだい5師団しだん)はガリリャーノがわ強行きょうこう渡河とかした(やく2にちにはイギリスぐんだい46師団しだんかれらの右翼うよくからつづいた)。ドイツぐんだい14装甲そうこう軍団ぐんだんちょうでグスタフ・ライン南西なんせい守備しゅび責任せきにんしゃフリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリンはドイツぐんだい94歩兵ほへい師団しだん守備しゅび能力のうりょくおおきな懸念けねんいだき、それをうけたケッセルリンクはローマからドイツぐんだい29およびだい90装甲そうこう擲弾へい師団しだん増援ぞうえんかわせた。

もしだい10軍団ぐんだん予備よび戦力せんりょくがあれば敵陣てきじん突破とっぱとなり、かれらの功績こうせきにより作戦さくせん成功せいこうしたかもしれないという憶測おくそくがある。軍団ぐんだん予備よび戦力せんりょくかったが、ドイツぐん増援ぞうえん配置はいちにつくまえ全体ぜんたい攻撃こうげき計画けいかく見直みなおし、アメリカだい2軍団ぐんだん中央ちゅうおう攻撃こうげき中止ちゅうしあるいは変更へんこうしてみなみける時間じかん確実かくじつにあった。実際じっさいにはアメリカだい5ぐん司令しれいはドイツぐん布陣ふじん弱点じゃくてんただしく認識にんしきできておらず、計画けいかく変更へんこうされなかった。1がつ21にちまでにローマから2師団しだん到着とうちゃくし、ドイツぐん南側みなみがわ陣地じんち安定あんていした。ただひとつだけではあるが、ケッセルリンクの予備よび戦力せんりょくみなみきずりしたとてんにおいてのみ、作戦さくせん機能きのうした。イギリスだい10軍団ぐんだんの3師団しだんだいいちかい戦闘せんとうで4,000めい損害そんがいけた[11]

しゅ攻撃こうげき: 中央ちゅうおう・アメリカだい2軍団ぐんだん – 1がつ20日はつか

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モンテ・カッシーの戦闘せんとう損傷そんしょうしたIVごう戦車せんしゃHがた修理しゅうりしようとしているドイツぐんクルー。

1がつ20日はつか、アメリカぐんだい36師団しだんによる中央ちゅうおう攻勢こうせい日没にちぼつの3あいだ開始かいしされた。事前じぜん準備じゅんび不足ふそくしており、まだ地雷じらいブービートラップ十分じゅうぶん除去じょきょされていなかったため、かわへの接近せっきんには危険きけんともなった。また、高度こうど技術ぎじゅつてき任務にんむである渡河とかおこなうために必要ひつよう計画けいかくとリハーサルがなされていなかった。だい143連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいはサン・アンゲロのみなみから、だい141連隊れんたい(このなか日系にっけいせい部隊ぶたいだい100大隊だいたいふくまれる)の2中隊ちゅうたいきたからラーピドがわ渡河とか成功せいこうしたが、かれらは孤立こりつしており、連合れんごうぐん機甲きこう部隊ぶたい渡河とか出来できないまま、ドイツぐんだい15装甲そうこう擲弾へい師団しだん戦車せんしゃおよびはしほう反撃はんげきたい非常ひじょう危険きけん状態じょうたいにおかれていた。みなみグループは1がつ21にち午前ごぜんかわ強行きょうこう渡河とか後退こうたいした。アメリカだい2軍団ぐんだん指揮しきかんジェフリー・キイス少将しょうしょうだい36師団しだんフレッド・ウォーカー少将しょうしょうただちに攻撃こうげき再開さいかいするようつよ要請ようせいし、ふたたび2連隊れんたい塹壕ざんごうかくれたドイツぐんだい15装甲そうこう擲弾へい師団しだんたい攻撃こうげきおこなったが、これに成功せいこうすることはかった。だい143連隊れんたいのほぼ2大隊だいたい渡河とかしたが、これも機甲きこう部隊ぶたい支援しえんいため翌日よくじつあさには壊滅かいめつした。だい141連隊れんたいもまた2大隊だいたい渡河とかし、装甲そうこう車両しゃりょう状況じょうきょうにもかかわらずやく1km前進ぜんしんしたが、にちのぼるとともにだい打撃だげきけ、1がつ22にち夕刻ゆうこく連合れんごうぐん陣地じんちもどったときには40めいにまで減少げんしょうし、事実じじつじょう消滅しょうめつした。ほん攻撃こうげきだい36師団しだんが48あいだで2,100めい死傷ししょう行方ゆくえ不明ふめいしゃというおおきな犠牲ぎせいはら[12]失敗しっぱいした。

アメリカだい2軍団ぐんだんカッシーノきた進撃しんげき: 1がつ24にち

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だいいちかい戦闘せんとう: きた区域くいき(1944ねん1がつ24にち–2がつ11にち拡大かくだい

つぎ攻撃こうげき1がつ24にち開始かいしされた。アメリカだい2軍団ぐんだんチャールズ・ウォルコット・ライダー少将しょうしょう指揮しきのアメリカぐんだい34歩兵ほへい師団しだん先鋒せんぽうフランス植民しょくみん部隊ぶたい右翼うよくとなり、カッシーノきた氾濫はんらんしたラーピドがわ渓谷けいこく渡河とかひだり転進てんしん高地こうちからモンテ・カッシーノを攻撃こうげきすることを企図きとし、やま背後はいご進撃しんげきした。カッシーノ上流じょうりゅうあるいてわたれる箇所かしょでの渡河とか容易よういだった一方いっぽうで、氾濫はんらんした箇所かしょでは非常ひじょう困難こんなんともない、とく装甲そうこう車両しゃりょう鋼鉄こうてつ橋梁きょうりょううえ移動いどうすることしかできなかった。だい34師団しだん浸水しんすいえ、ドイツぐんだい44歩兵ほへい師団しだんかえし、山地さんち足場あしばきずくのに8日間にちかんようした。

右翼うよく・フランス軍団ぐんだん進軍しんぐん停止ていし

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右翼うよくでは、フランスぐんモロッコひと部隊ぶたいユリウス・リンゲル指揮しきのドイツぐんだい5山岳さんがく師団しだんたいする初期しょき攻撃こうげき順調じゅんちょうすべしをせ、かれらの重要じゅうよう目標もくひょうであるチファルコさん傾斜けいしゃ制圧せいあつした。だい3アルジェリア師団しだん前方ぜんぽう部隊ぶたいはベルヴェデーレやまおよびアバテ丘陵きゅうりょう攻略こうりゃくのためチファルコやま迂回うかいした。ジュアン将軍しょうぐんはカッシーノを迂回うかいし、北側きたがわルートからドイツぐん混乱こんらんさせることができると確信かくしんしたが、そのための予備よび戦力せんりょく投入とうにゅう要請ようせい拒否きょひされ、予備よび1個いっこ連隊れんたいだい36師団しだん隷下れいか)はだい34師団しだん増援ぞうえんおくられた[13]1がつ31にち、フランスぐんはドイツぐんにより(フランスぐんおよびアメリカぐん側面そくめん補給ほきゅうせんがよくえる)チファルコさんいま足止あしどめされていた。フランスぐん2モロッコ師団しだんはベルヴェデーレやま周辺しゅうへん奮戦ふんせんし、2,500めい損害そんがいけた[14]

アメリカだい2軍団ぐんだん: カッシーノ北側きたがわ山地さんち

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アメリカだい34師団しだん任務にんむは(だい36師団しだんだい142連隊れんたい協力きょうりょくして)修道院しゅうどういんおか南端なんたん尾根おね交差こうさする丘陵きゅうりょうにそってみなみ進軍しんぐんすることになった。かれらはグスタフ・ライン背後はいごのリーリがわ渓谷けいこく侵入しんにゅうすることが出来できたが、それは非常ひじょう困難こんなん行軍こうぐんだった。やま岩山いわやまおおきないわ散在さんざいしており、大小だいしょう峡谷きょうこく分断ぶんだんされていた。岩地いわちタコツボることは不可能ふかのうで、地物ちぶつ周囲しゅうい高地こうちからの砲撃ほうげきたい防備ぼうびだった。峡谷きょうこくハリエニシダ群生ぐんせいしておりかくれるところがなく、地雷じらい・ブービートラップ・かくされた鉄条てつじょうもうがいたるところに散在さんざい状況じょうきょうくなかった。一方いっぽう、ドイツぐんダイナマイト使用しようし、弾薬だんやく備蓄びちくし、3ヶ月かげつかけて守備しゅび陣地じんちをきずきあげていた。そこには天然てんねん遮蔽しゃへいぶつく、悪天候あくてんこうれ、てつくほどさむかった。

2がつ初旬しょじゅんまでにアメリカぐん歩兵ほへいはサン・オノフリオむら付近ふきん修道院しゅうどういんから1.6kmにたない位置いちにある戦略せんりゃくじょう要衝ようしょう制圧せいあつした。2がつ7にち1個いっこ大隊だいたいがポイント445(修道院しゅうどういんのすぐそば、370mとはなれていないまるおか頂上ちょうじょう)に到達とうたつした。修道しゅうどうがドイツぐんとアメリカぐん哨戒しょうかい部隊ぶたい戦闘せんとう見守みまもっているのをて、アメリカへい1個いっこ分隊ぶんたいすみやかにがけのような修道院しゅうどういんかべ偵察ていさつした。しかし、モンテ・カッシーノを奪取だっしゅしようというこころみは、修道院しゅうどういん斜面しゃめんからの機関きかんじゅうによるはげしい銃撃じゅうげき中止ちゅうしされた。かれらの苛烈かれつたたかいにもかかわらず、だい34師団しだん修道院しゅうどういんつうじる尾根おね先端せんたん陣取じんどるドイツぐんだい2降下こうかりょうへい連隊れんたいだい3大隊だいたいはばまれ、593高地こうち(ドイツぐんからは“苦難くなんおか”とばれた)にある最後さいごとりでとすことは出来できなかった。

余波よは

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2がつ11にち、モンテ・カッシーノおよびカッシーノにたいする3日間にちかんわた最後さいご攻撃こうげき不首尾ふしゅびわったのち、アメリカぐん撤退てったいした。アメリカだい2軍団ぐんだんは2週間しゅうかんはん激戦げきせんのあと、戦闘せんとう中止ちゅうしした。山地さんちにあっただい34師団しだん奮戦ふんせん戦争せんそうちゅうにあらゆる兵士へいしおこなったたたかいのなかでももっとも素晴すばらしいもののひとつにかぞえられる[15]。その見返みかえりとしてかれらは歩兵ほへい大隊だいたいの80%をうしない、2,200めい死傷ししょうしゃした[14][16]

2がつ初日しょにち高所こうしょでの戦闘せんとうではフォン・ゼンガー・ウント・エッターリンはだい90師団しだんをガリリャーノからカッシーノきた移動いどうさせたが、その消耗しょうもうりつおおきさに非常ひじょうおどろいた。かれは「カッシーノのたたかいを中止ちゅうしし、あたらしい戦線せんせん構築こうちくするべく、わたし権限けんげんによる影響えいきょうりょく駆使くしした。あたらしい戦線せんせんとは事実じじつじょうアンツィオ海岸かいがん堡のきただった」[17]。ケッセルリンクはその要求ようきゅう却下きゃっかした。重大じゅうだい局面きょくめんでフォン・ゼンガーは(かれらが救出きゅうしゅつすることになっていた)だい15装甲そうこう擲弾へい師団しだん配置はいちについているあいだだい71歩兵ほへい師団しだん投入とうにゅうすることができた。

連合れんごうぐん戦闘せんとうちゅう最初さいしょ成功せいこうさい予備よび戦力せんりょくをより適切てきせつ利用りようすれば戦況せんきょう決定的けっていてき好転こうてんさせることができたかもしれなかった。何人なんにんかの歴史れきしは、その機会きかい有効ゆうこう利用りようしなかったのはクラーク将軍しょうぐん経験けいけん不足ふそくによるものだと指摘してきしている。しかし、かれはカッシーノおよびアンツィオ攻撃こうげき双方そうほう責任せきにんしゃであり、やらなければならないことがあまりにおおくありすぎた。この意見いけんは、だいよんかいカッシーノのたたかいのとき岐路きろったアンツィオ包囲ほういもう突破とっぱについて議論ぎろんするためトラスコットがかれをつかまえたときトラスコットがなにもできなかったことでも支持しじされている。アレクサンダーがカッシーノとアンツィオを(完全かんぜん机上きじょう論理ろんりのために)いち司令しれいかん指揮しきき、グスタフ・ライン戦線せんせんをアメリカだい5ぐんとイギリスだい8ぐん分担ぶんたんすることえらんだのにたいし、ケッセルリンクは、エーベルハルト・フォン・マッケンゼン指揮しきのドイツぐんだい14ぐんにアンツィオの戦闘せんとうを、グスタフ・ラインはハインリヒ・フォン・フィーティングホフだい10ぐんまかせるほうえらんだ。

撤退てったいしたアメリカぐんのあとにはアドリア海あどりあかい沿岸えんがんのイギリスだい8ぐんからバーナード・フライバーグ中将ちゅうじょう指揮しきニュージーランド軍団ぐんだんだい2ニュージーランド師団しだんおよびだい4インド師団しだん)がはいった。

だいかい戦闘せんとう(アヴェンジャー作戦さくせん

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だいかい戦闘せんとう: 攻撃こうげき計画けいかく 拡大かくだい

背景はいけい

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アメリカだい6軍団ぐんだんがアンツィオで重大じゅうだい脅威きょういさらされていたとき、フライバーグもまたカッシーノ解放かいほう作戦さくせん発動はつどうのため同様どうようのプレッシャーにさらされていた。そのためにまたもや十分じゅうぶん準備じゅんびもないまま戦闘せんとう開始かいしした。そのうえ軍団ぐんだん指令しれいだい4インド師団しだんのカッシーノきた山地さんちへの配置はいちおよびかれらへの補給ほきゅう困難こんなんさを十分じゅうぶん理解りかいしていなかった。輸送ゆそうには尾根おね渓谷けいこくをつたうやく11kmにわたるヤギどうラバ使つかっておこなわなければならなかった。そこは修道院しゅうどういんから丸見まるみえで、つねてき正確せいかく砲撃ほうげきにさらされたため、“デス・バレー”(たに)とづけられた。このことについてだい2ニュージーランド団長だんちょうハワード・キッペンバーガー少将しょうしょう戦後せんご出版しゅっぱんした自著じちょなかべている。

あわれなディモライン(だい4インド団長だんちょう代理だいりハリー・ケネス・ディモラインじゅんしょうのこと)はかれ師団しだん配置はいちにつかせるのにひどく時間じかんがかかった。わたし戦後せんごその実際じっさいるまで、その本当ほんとう困難こんなんさを理解りかいしていなかった。[18]

フライバーグの計画けいかくは、だいいちかい戦闘せんとう継続けいぞくすること、すなわちきた尾根おね沿って攻撃こうげきする、南東なんとう線路せんろ沿って攻撃こうげきする、ラーピドがわえ、カッシーノからみなみへ1kmにたない位置いちにあるえき制圧せいあつする、であった。成功せいこうかぎはカッシーノのまち孤立こりつさせ、リーリがわ渓谷けいこくひらくことだったが、フライバーグは周囲しゅうい情勢じょうせいから攻撃こうげき成功せいこうかくりつは50%を上回うわまわることはないと確信かくしんし、上層じょうそう報告ほうこくした[19]

修道院しゅうどういん破壊はかい

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次第しだいに、一部いちぶ連合れんごうぐん将校しょうこうはモンテ・カッシーノ修道院しゅうどういんけられるようになった。かれらの意見いけんでは、グスタフ・ライン攻略こうりゃくさまたげているのは(ドイツぐん砲兵ほうへい観測かんそくしょとして使つかわれているであろう)修道院しゅうどういんであるということだった。

イギリスの報道ほうどうおよびニューヨーク・タイムズC.L.ザルツバーガーは、かえし、もっともらしく、かつ詳細しょうさいに(ときにはでっちあげて[よう出典しゅってん]修道院しゅうどういんないのドイツぐん観測かんそくしょおよび砲兵ほうへい陣地じんちについていた。連合れんごうこく空軍くうぐん地中海ちちゅうかい方面ほうめんそう司令しれいかんアイラ・エーカー中将ちゅうじょうジェイコブ・デヴァース中将ちゅうじょう連合れんごうぐん地中海ちちゅうかい戦域せんいき最高さいこう司令しれいかんヘンリー・メイトランド・ウィルソン大将たいしょう代理だいり)を同伴どうはんし、修道院しゅうどういん上空じょうくうから視察しさつした。高度こうど1,200から1,500フィート(やく400m)で通過つうかしたさい修道院しゅうどういん中庭なかにわられていた物干ものほしロープにドイツぐん制服せいふくがっており、修道院しゅうどういんかべからやく46mのところに機関きかん銃座じゅうざけられているのを確認かくにんした[20]。アメリカだい2軍団ぐんだんジェフリー・キイス少将しょうしょうもまたなん修道院しゅうどういん上空じょうくう飛行ひこうしている。かれだい5ぐんG2(参謀さんぼうだい2情報じょうほう担当たんとう)にたいし、修道院しゅうどういんにドイツぐんがいた形跡けいせきられなかったと報告ほうこくした。修道院しゅうどういんにドイツへいたとする報告ほうこくからあったとき、かれはこうった。「かれらはながあいだ調しらべ、まぼろしたのだ[21]。」

キッペンバーガー少将しょうしょう明言めいげんしているものとして、ニュージーランド軍団ぐんだん司令しれい見解けんかいでは、修道院しゅうどういんはそれが完璧かんぺき位置いちにあり、いかなる軍隊ぐんたいでもそれを利用りようしないはずがいので、おそらくドイツぐん主要しゅよう観測かんそくしょ使用しようされているだろうということだった。それに明確めいかく証拠しょうこいものの、かれ軍事ぐんじてき視点してんから修道院しゅうどういん占拠せんきょされているかどうかが重要じゅうようなのではないとつづけた。

もし今日きょう占拠せんきょされなければ、それは明日あしたかもしれないし、されないかもしれない。攻撃こうげきちゅうてき予備よび物資ぶっしはこれるかもしれないし、へいそと陣地じんちからされたらそこにはい掩蔽えんぺいごうとされるかもしれない。このような、砲撃ほうげきたいして完璧かんぺき防御ぼうぎょすうひゃく歩兵ほへい保護ほごし、重大じゅうだい局面きょくめんでの反撃はんげきそなえうる建造けんぞうぶつ無傷むきずのままあるおか攻撃こうげきするようへいたちもとめることはできない。……そのほそまどくのにてきさないなめらかな外形がいけいのそれは無傷むきずなら完璧かんぺき掩蔽えんぺいごうであるが、爆撃ばくげきにより破壊はかいすれば岩石がんせき残骸ざんがい瓦礫がれきやまとなり、銃撃じゅうげき迫撃はくげきほうおよび航空機こうくうきによる機銃きじゅう掃射そうしゃけやすく、同様どうようふたた爆撃ばくげきすればそこはとしあなとなる。全体ぜんたいてきれば、わたし我々われわれがそれを爆撃ばくげきしなければそのほうがドイツぐんにとって有用ゆうようだろうとかんがえた。[22]

だい4インド師団しだんフランシス・トゥーカー少将しょうしょう修道院しゅうどういんおか攻撃こうげきまかされ、状況じょうきょうかれ自身じしん評価ひょうかした。アメリカだい5ぐん司令しれい情報じょうほうには修道院しゅうどういん詳細しょうさい建設けんせつ情報じょうほう不足ふそくしていたが、かれはナポリの書店しょてんにあった1879ねん出版しゅっぱん書籍しょせきにそれをつけた。かれのフライバーグあてのメモによると、かれ修道院しゅうどういん現在げんざいドイツぐんによって占拠せんきょされているかどうかにかかわらず、占拠せんきょさせないために破壊はかいしなければならない、と結論けつろんけている。かれはまた、45mのたかさの城壁じょうへきはもっともあつ箇所かしょすくなくとも3mあり工兵こうへい実質じっしつ対処たいしょできるあつさではないこと、そして1,000ポンドばくだんは“ほとんどやくにたない”ため、“ブロックバスター”によるばくげき唯一ゆいいつ手段しゅだんであると指摘してきした[23]

1944ねん2がつ11にちだい4インド団長だんちょう代理だいりハリー・ディモラインじゅんしょうはモンテ・カッシーノ修道院しゅうどういんばくげき要請ようせいした。トゥーカーはカセルタの病床びょうしょうから修道院しゅうどういん爆撃ばくげきについての問題もんだいてん再度さいど指摘してきした。かれ頻発ひんぱつする熱帯ねったいせい熱病ねつびょうのひどい発作ほっさくるしめられていた。2がつ12にち、フライバーグはかれ要求ようきゅう陸軍りくぐん航空こうくうたいつたえた。フライバーグの空爆くうばくたいする要求ようきゅうはしかし、(おそらくアイラ・エーカーおよびジェイコブ・デヴァースの指図さしずで)空軍くうぐん作戦さくせん将校しょうこうによりおおきく拡大かくだいされた。かれらはアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたい地上ちじょう作戦さくせん支援しえん能力のうりょく喧伝けんでんする機会きかいさがしていた[24]

アメリカだい5ぐんのマーク・クラーク中将ちゅうじょうかれ参謀さんぼうちょうアルフレッド・グランサー少将しょうしょうはまだその軍事ぐんじてき必要ひつようせい納得なっとくしていなかった。アメリカだい2軍団ぐんだんとニュージーランド軍団ぐんだん交替こうたいするときアメリカだい34師団しだんちょう代理だいりバトラーじゅんしょうった。「わたしらない。しかし、わたし修道院しゅうどういんてきはいないとしんじる。すべてのてき砲火ほうか城壁じょうへき斜面しゃめんから発砲はっぽうされていた[25]。」クラークは連合れんごうぐんイタリア方面ほうめんそう司令しれいかんハロルド・アレクサンダーにはっきりった。「あなたがわたし直接ちょくせつ命令めいれいすれば、我々われわれはそれをやります。」かれはそうした。

モンテ・カッシーノの破壊はかい復興ふっこう
木版もくはん、1898ねん
だい2大戦たいせん戦闘せんとう、1944ねん
廃墟はいきょとなったモンテ・カッシーノ、1がつ-5月 1944ねん
爆撃ばくげきにより破壊はかいされた修道院しゅうどういん

ばくげき作戦さくせんは1944ねん2がつ15にちあさ、142B-17フライングフォートレス、47B-25ミッチェルおよび40B-26マローダーによりおこなわれた。合計ごうけい1,150トンにおよ高性能こうせいのうばくだんおよび焼夷弾しょういだん修道院しゅうどういん投下とうかされ、モンテ・カッシーノの頂上ちょうじょう大量たいりょう瓦礫がれきけむりなかくずちた。ばくげきあいだだい2軍団ぐんだん砲兵ほうへいたいやまはげしく砲撃ほうげきした[26]おおくの連合れんごうぐん兵士へいし従軍じゅうぐん記者きしゃはその光景こうけいたりにし、歓声かんせいをあげた。エーカーとデヴァースはそれを見守みまもり、ジュアンはその所見しょけんいた。「……ノーだ。この方法ほうほうではけっしてうまくいかないだろう[27]。」クラークとグランサーはそのうことをこばみ、かれらの司令しれいにいた。同日どうじつ午後ごごおよび翌日よくじつ積極せっきょくてき攻撃こうげきつづけられた。砲兵ほうへいたい集中しゅうちゅう砲火ほうかと59戦闘せんとう爆撃ばくげきによる追加ついかばくげき廃墟はいきょとなった修道院しゅうどういん瓦礫がれきやまはげしくるがした。

空爆くうばくはしかし、そら地上ちじょう協調きょうちょうがとれていなかった。航空こうくうたいはそれを個別こべつ作戦さくせんとして天候てんこう戦域せんいき戦線せんせんからの要請ようせい考慮こうりょしながら計画けいかく実行じっこうし、地上ちじょうぐんわせることはなかった(実際じっさいにスネークスヘッドのインドへいばくげき開始かいしされたときおどろいたという[28])。ばくげきはニュージーランド軍団ぐんだんしゅ攻撃こうげき準備じゅんび着手ちゃくしゅする2にちまえおこなわれた。おおくの部隊ぶたいは2がつ13にちにアメリカだい2軍団ぐんだんから陣地じんちいだばかりで、山地さんち障害しょうがいくわえてたにでは新任しんにん部隊ぶたいへのそう攻撃こうげきのための装備そうび支給しきゅうも、ない悪天候あくてんこう水没すいぼつ歩行ほこう不可能ふかのう地表ちひょうにより停滞ていたいしていた。

ばくげきのち

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ばくげきおよび砲撃ほうげきにより破壊はかいされた修道院しゅうどういん内部ないぶかべかれた「PAX」の意味いみは「平和へいわ」。

ローマ教皇きょうこうピウス12せいばくげきのち沈黙ちんもくとおしていた。しかしかれ外務がいむ大臣だいじんルイージ・マリオーネ枢機卿すうききょうは、バチカンおとずれたアメリカ上級じょうきゅう外交がいこうかんハロルド・ティットマンにたいし、露骨ろこつった。「(ばくげきは)壮大そうだいなるだいあいだちがい……はなはだしい愚行ぐこうひと[29]。」

この出来事できごとかんするすべての調査ちょうさからあきらかなことは、爆撃ばくげきによってころされた人々ひとびと修道院しゅうどういん避難ひなんしていたイタリアの民間みんかんじんのみだったという事実じじつである。その修道院しゅうどういん落下らっかしたばくだんがドイツぐん兵士へいしころしたという証拠しょうこはないが、当時とうじばくげき不正確ふせいかくさのせいで(こう高度こうどじゅう爆撃ばくげきから投下とうかされたばくだんの10%しか修道院しゅうどういん命中めいちゅうしなかったと評価ひょうかされている)ばくだんのところにもち、ドイツぐん連合れんごうぐん両方りょうほう兵士へいし死傷ししょうしゃている。のところ、16はつばくだんがモンテ・カッシーノから27kmはなれたプレゼンツァーノにいただい5ぐんうえち、クラーク将軍しょうぐんがデスクで書類しょるい事務じむをしていたトレーラーからすうヤードもはなれていないところで爆発ばくはつしている[30]

ディアマーレ修道院しゅうどういんちょう中央ちゅうおう)とゼンガー・ウント・エッターリン(ドアにをかけている)。1944ねん2がつ

最初さいしょ払暁ふつぎょうばくげき翌日よくじつのこった民間みんかんじんのほとんどは廃墟はいきょからのがれ、やく40めい修道院しゅうどういん地下ちかのこった6にん修道しゅうどう、79さいになるろう修道しゅうどう院長いんちょうグレゴリオ・ディアマーレ、小作農こさくのう3家族かぞく孤児こじあるいは重傷じゅうしょうおよび瀕死ひんしもの)のみがのこった。砲兵ほうへいたい集中しゅうちゅう砲火ほうか再開さいかいされたばくげきおよびだい4インド師団しだんによる尾根おねからの攻撃こうげきののち、修道しゅうどうたち廃墟はいきょとなったしょうごけるものたちとともにることを決意けついした(2がつ17にち 7:30)。ろう修道しゅうどう院長いんちょうはグループをひきいてラバどうをリーリ渓谷けいこく方向ほうこうくだり、ロザリオのいの暗唱あんしょうした。かれらがドイツぐん救護きゅうごしょ到着とうちゃくしたあと、修道しゅうどうはこばれていた何人なんにんかの重傷じゅうしょうしゃ野戦やせん病院びょういん移送いそうされた。だい14装甲そうこうぐん団長だんちょうフォン・ゼンガー・ウント・エッターリンをふくむドイツぐん将校しょうこうとの会見かいけんののち、修道しゅうどうたちはサン・アンセルモ修道院しゅうどういんおくられた。一人ひとり修道しゅうどうカルロマーノ・ペラガッリは修道院しゅうどういんもどった。のちに、ドイツぐん降下こうかりょうへい廃墟はいきょをさまようかれたとき、幽霊ゆうれいだとおもったという。4がつ13にち以降いこうかれものはいない。

ドイツぐんだい1降下こうかりょうへい師団しだん降下こうかりょうへい修道院しゅうどういん廃墟はいきょ陣取じんどり、そこを連合れんごうぐん攻撃こうげきたいにとって深刻しんこく問題もんだいとなる観測かんそくしょけん要塞ようさい仕立したててあげた。

戦闘せんとう

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モンテ・カッシーノでのドイツぐん降下こうかりょうへい

ばくげきよるロイヤル・サセックス連隊れんたいだい1大隊だいたい1個いっこ中隊ちゅうたいだい4インド師団しだん隷下れいか)がスネークスヘッド・リッジにあるかれらの陣地じんちからやく64mはなれた要所ようしょポイント593を攻撃こうげきしたが、中隊ちゅうたいは50%の損害そんがいをうけ失敗しっぱいした。

つぎよる、ロイヤル・サセックス連隊れんたい大隊だいたい規模きぼでの攻撃こうげきおこなうようめいじられたが、開始かいし早々そうそう悲惨ひさんなことになった。砲兵ほうへいたい目標もくひょうのポイント593がちかすぎて友軍ゆうぐんあやまする危険きけんがあり直接ちょくせつ支援しえん使つかうことができなかったため、ポイント593の守備しゅびたい支援しえん射撃しゃげきできるポイント575を砲撃ほうげきするよう計画けいかくされた。その地形ちけいじょう、ポイント575への砲撃ほうげきはスネークスヘッド・リッジの稜線りょうせんじょう非常ひじょうひく通過つうかすることになり、なんはつかは集結しゅうけつしている攻撃こうげき中隊ちゅうたいなか着弾ちゃくだんした。さい編成へんせい攻撃こうげき深夜しんやおこなわれた。戦闘せんとう過酷かこくとき白兵戦はくへいせんになったが、守備しゅびたい頑強がんきょうちこたえ、サセックス大隊だいたいふたたび50%をえる被害ひがいをうけ、撃退げきたいされた。この2で、ロイヤル・サセックス連隊れんたいは15めいいた士官しかんのうち12めいを、攻撃こうげき参加さんかした313めいのうち162めいうしなった。

2がつ17にちよるしゅ攻撃こうげきおこなわれた。だい6ラージプターナ・ライフル連隊れんたいだい4大隊だいたい以下いか、4/6ラージプターナライフルじゅうたい)はポイント593の攻撃こうげきめいじられた。消耗しょうもうしたロイヤル・サセックス連隊れんたいはポイント593が陥落かんらくしたときにそこを通過つうかしてポイント444を攻撃こうげきするための予備よびとされた。そのあいだに、だい2グルカライフル連隊れんたいだい1大隊だいたい以下いか、1/2グルカライフルじゅうたい)およびだい9グルカライフル連隊れんたいだい1大隊だいたい以下いか、1/9グルカライフルじゅうたい)は修道院しゅうどういんへの直接ちょくせつ攻撃こうげきにおいて斜面しゃめん峡谷きょうこくちゅうはげしくたたかってまわった。グルカたいはひどい地形ちけいえてったが、それがヒマラヤからたグルカへい期待きたいされたことであり、かれらは山岳さんがくせんのエキスパートであり、そしてかれらは成功せいこうした。それがかすかなのぞみにみえた。ふたた戦闘せんとう苛烈かれつになったが、進展しんてんく、損害そんがいえるばかりだった。4/6ラージプターナライフルじゅうたいは196めい士官しかんへいうしない、1/9グルカライフルじゅうたいは149めい、1/2グルカライフルじゅうたいは96めいうしなった。攻撃こうげき失敗しっぱいしたのはあきらかだった。2がつ18にち、ディモラインじゅんしょうとフライバーグは修道院しゅうどういんおかへの攻撃こうげき中止ちゅうしさせた。

しゅ攻撃こうげきのもう一方いっぽうはニュージーランド師団しだんだい28(マオリ)大隊だいたいの2中隊ちゅうたいがラーピドかわ強行きょうこう渡河とかし、カッシーノのえきろうとした。かれらは成功せいこうしたが、きわめて重大じゅうだいな、鉄道てつどう最後さいご峡谷きょうこくえるはしまえけることができず、機甲きこう部隊ぶたい支援しえんけることができなかった。連合れんごうぐん砲兵ほうへいたいによって展開てんかいされた煙幕えんまくたすけによってかれらの位置いち修道院しゅうどういんおかのドイツぐん砲兵ほうへいから隠蔽いんぺいされ、かれらはそのほぼ終日しゅうじつわた陣地じんち維持いじした。しかし、かれらは孤立こりつし、2がつ18にち午後ごごてき装甲そうこう部隊ぶたい反撃はんげきがあったときには機甲きこう部隊ぶたい支援しえん対戦たいせんしゃほうもなく、絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうになった。司令しれいは、(やま沿いおよび道路どうろ沿いに)突破とっぱできる見込みこみがないことがあきらかになると、かれらにかわわた後退こうたいするようめいじた。そのコースだと非常ひじょうちかかった。ドイツぐんえき占領せんりょうされたことを非常ひじょう憂慮ゆうりょしており、ケッセルリンクとだい10ぐん司令しれいかんフォン・フィーティングホフとの会話かいわ記録きろくによれば、反撃はんげき成功せいこうするとはおもっていなかったという[31]

だいさんかい戦闘せんとう(ディッケンズ作戦さくせん

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だいさんかい戦闘せんとう: 攻撃こうげき計画けいかく 拡大かくだい

計画けいかく

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最初さいしょの2かい戦闘せんとうでの不運ふうん経験けいけんののち)だいさんかい戦闘せんとうでは、ふゆ天候てんこうつづなか、ラーピドがわのカッシーノ下流かりゅう渡河とかするというおよそ魅力みりょくける選択せんたくがなされた。山地さんちおおきな犠牲ぎせいはら失敗しっぱいしていた“みぎフック”は、ラーピドがわ渓谷けいこく沿いのきたからめん攻撃こうげき仕掛しかけることにした。一手いって要塞ようさいされたカッシーノのまち方面ほうめんへ、もういち修道院しゅうどういんおかへ。

このねらいは、みなみえきとリーリがわ渓谷けいこくとのあいだでボトルネックとなっているところにみちひらくことであった。2がつ後半こうはん現地げんち到着とうちゃくし、ニュージーランド軍団ぐんだん指揮しきはいっていたイギリスぐんだい78歩兵ほへい師団しだんがそのラーピドがわのカッシーノ下流かりゅう渡河とかし、ローマへの進軍しんぐん開始かいしするという計画けいかくだった。

この計画けいかくよろこ連合れんごうぐん指揮しきかんはいなかったが、前例ぜんれいのない規模きぼでのじゅう爆撃ばくげきによる準備じゅんび爆撃ばくげきふだとなることが期待きたいされていた。天候てんこうのよいが3日間にちかんつづくことが必要ひつようとされ、部隊ぶたいれてこおくようなさむさの陣地じんちでその天気てんき予報よほうなか攻撃こうげきは21日間にちかんつづけて延期えんきされた。事態じたいだい2ニュージーランド団長だんちょうキッペンバーガー少将しょうしょう味方みかたしなかった。かれ対人たいじん地雷じらいにより両足りょうあしうしない、グレアム・パーキンソンじゅんしょうこういだ。よいニュースといえば、アンツィオでドイツぐん反撃はんげき失敗しっぱい中止ちゅうしされたということくらいだった。

戦闘せんとう

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だいさんかい戦闘せんとう3月15にちはじまった。遅延ちえん信管しんかんづけ1,000ポンドばくだん750トンが投下とうかされたのち[32]、8:30からの3あいだはん、ニュージーランド部隊ぶたいは746もんほうによる弾幕だんまく射撃しゃげきした進撃しんげきした[32]成功せいこう可否かひ爆撃ばくげきによりてき陣地じんちない釘付くぎづけにしているあいだをうまく利用りようできるかどうかにかかっていた。しかし、守備しゅびたい期待きたいしたよりはや回復かいふくし、連合れんごうぐん機甲きこう部隊ぶたいばくげきでできたあな足止あしどめされていた。それにもかかわらず、成功せいこうかぎはニュージーランド部隊ぶたい手中しゅちゅうにあったが、それも左翼さよくたいする追撃ついげきをそのよるめいじられるころにはすでにおそきにしっしていた。守備しゅびたいさい編成へんせいし、より致命ちめいてきこと天気てんき予報よほうはずふたたはじめた。土砂降どしゃぶりのあめばくげきでできたあなにあふれ、瓦礫がれき沼地ぬまちわり、無線むせんない浸水しんすいえることができず、通信つうしん途絶とぜつした。くろ雨雲あまぐもはまた月光げっこうさえぎり、廃墟はいきょへのみちひら任務にんむさまたげた。右翼うよくでは、ニュージーランド部隊ぶたいがキャッスル・ヒルとポイント165を制圧せいあつし、計画けいかくによりアレクサンダー・ギャロウェイ少将しょうしょう指揮しきするだい4インド師団しだん隷下れいか部隊ぶたいがポイント236を攻撃こうげきするため通過つうか、ハングマンズ・ヒル(ポイント435)にかった。高地こうちでのドサクサにまぎれて、1/9グルカライフルじゅうたい1個いっこ中隊ちゅうたいは、1/6ラージプターナライフルじゅうたいがポイント236を攻撃こうげき撃退げきたいされているあいだに、ポイント236を迂回うかいするみちをとりポイント435を制圧せいあつした。

3月17にちわりまでにグルカたい修道院しゅうどういんからやく230mのハングマンズ・ヒル(ポイント435)を大隊だいたい規模きぼ確保かくほし(かれらの補給ほきゅうせんはポイント236およびまち北側きたがわのドイツぐんによりあやうい状態じょうたいだったが)、まち守備しゅびたいはげしく応戦おうせんしているあいだにニュージーランド部隊ぶたい機甲きこう部隊ぶたいはボトルネックを通過つうかえき占領せんりょうした。しかし、ドイツぐんはいまだまち守備しゅびたい増援ぞうえんおくことができ、まち一応いちおう解放かいほうした地区ちく狙撃そげきしゅもぐりこませるのがうまかった[33]

3月19にちは、まち修道院しゅうどういんたい決定的けっていてきいちげきあたえる計画けいかくされており、それにはだい20機甲きこう旅団りょだん戦車せんしゃたいによる、カイロからアルバネータ農場のうじょう経由けいゆし(闇夜やみよかくれて工兵こうへいたい準備じゅんびおこなう)修道院しゅうどういんかう奇襲きしゅう攻撃こうげきふくまれていた。しかし、修道院しゅうどういんからのドイツぐんだい1降下こうかりょうへい師団しだんによる奇襲きしゅうおよびはげしい反撃はんげきをうけ、キャッスルおよびハングマンズ・ヒルからの攻撃こうげき完全かんぜん崩壊ほうかいした。戦車せんしゃ歩兵ほへい支援しえんすることができず、午後ごごなかばにはすべて破壊はかいされた[34]まちでは攻撃こうげきたいがわずかな進展しんてんもなく、全体ぜんたいとして主導しゅどうけん修道院しゅうどういんおかへのくちとなるキャッスル・ヒルのドイツぐんにぎられ、早期そうき成功せいこうのいかなる可能かのうせいをもくだかれた。

3がつ20日はつか、フライバーグはだい78歩兵ほへい師団しだん隷下れいか部隊ぶたい以下いか指示しじあたえた。だいいちに、まちだい部隊ぶたい駐留ちゅうりゅうさせ、ドイツぐん侵入しんにゅうされないように一掃いっそうすること。だいに、キャッスル・ヒルに増援ぞうえんおくり、ドイツぐんまち守備しゅびたい増援ぞうえんするために使用しようしているキャッスル・ヒルおよびポイント175、165のあいだの2つのルートから孤立こりつさせること[35]連合れんごうぐん指揮しきかんかれらが3月21にちまでつづいた過酷かこくたたかいが成功せいこう寸前すんぜんにあるとかんじていた。しかし、守備しゅびたいどうじなかった。まちでは連合れんごうぐんいえいちけんいちけんすすあいだ、ドイツぐん増援ぞうえんルートを遮断しゃだんするポイント445への攻撃こうげきはぎりぎりのところで失敗しっぱいした。

3月23にち、アレクサンダーは麾下きか指揮しきかんらと会合かいごうした。一連いちれん見解けんかいでは勝利しょうり可能かのうせいについてべられたが、ニュージーランドおよびインド師団しだんつかはてて、限界げんかいちかづいていること明白めいはくだった。フライバーグは戦闘せんとう継続けいぞくすることはできないと判断はんだんし、戦闘せんとう中止ちゅうし宣言せんげんした[36]すう週間しゅうかんイタリア戦域せんいき司令しれいかんアレクサンダーはキッペンバーガーとの会話かいわなかでドイツだい1降下こうかりょうへい師団しだんについて「ドイツぐん最高さいこう師団しだん」と[37]批判ひはんけたが、それはたっていた。

ニュージーランドぐん捕虜ほりょになったドイツへい。1944ねん3がつ

余波よは

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つぎの3日間にちかん戦線せんせんいていた。孤立こりつしていたグルカたいをハングマンズ・ヒルからき、ポイント202で同様どうよう孤立こりつしてにいただい24ニュージーランド大隊だいたい派遣はけんした。連合れんごうぐん戦線せんせん消耗しょうもうしただい4インド師団しだんおよびだい2ニュージーランド師団しだん後退こうたいし、山々やまやまにはイギリスぐんだい78師団しだんが、まちにはイギリスぐんだい1近衛このえ旅団りょだん配置はいちについた。だい4インド師団しだんは3,000めい、ニュージーランド師団しだんでは1,600めい死傷ししょうあるいは行方ゆくえ不明ふめいになった[38]

ドイツぐん守備しゅびたいもまたたか代償だいしょうはらった。ドイツぐんだい14軍団ぐんだん3月23にちづけ日誌にっしによると、前線ぜんせんにいた大隊だいたいはそれぞれ40めいから120めいにまでっていた[39]

最後さいご戦闘せんとう(ダイアデム作戦さくせん

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アレクサンダーの戦略せんりゃく

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だいよんかい戦闘せんとう: 攻撃こうげき計画けいかく

アレクサンダーのイタリアでの戦略せんりゃくは、

……てきにその時点じてん最大さいだいすう師団しだんをイタリアに投入とうにゅうさせるために海峡かいきょう横断おうだん侵攻しんこう作戦さくせん発動はつどうされた。[40]

というものだったが、ここモンテ・カッシーノの戦況せんきょうかれにそれを実現じつげんするための準備じゅんびおこな時間じかんあたえた。かれ計画けいかくオリバー・リーズ指揮しきのイギリスだい8ぐん大半たいはんアドリア海あどりあかい戦線せんせんから山脈さんみゃくえアメリカだい5ぐん合流ごうりゅうさせ、カッシーノと海岸かいがんとのあいだの30kmの前線ぜんせん進撃しんげきさせるというものだった。アメリカだい5ぐん(アメリカだい2軍団ぐんだんおよびフランス海外かいがい派遣はけん軍団ぐんだん)は左翼さよく担当たんとうし、イギリスだい8ぐん(イギリスだい8軍団ぐんだんおよびだい2ポーランド軍団ぐんだん)は右翼うよく担当たんとうした。はる到来とうらい天候てんこう地上ちじょう状態じょうたい好転こうてんし、だい規模きぼ部隊ぶたい機甲きこう部隊ぶたい効果こうかてき展開てんかいさせることが可能かのうになった。

計画けいかく準備じゅんび

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「ダイアデム作戦さくせん(Operation Diadem、王冠おうかん作戦さくせん)は以下いかのように計画けいかくされた。

  • 左翼さよくのアメリカだい2軍団ぐんだん海岸かいがんをルート7号線ごうせん沿ってローマ方面ほうめんがる。
  • 右翼うよくのフランス軍団ぐんだんはガリリャーノがわ橋頭堡きょうとうほからめる。この橋頭堡きょうとうほは1がつだいいちかい戦闘せんとうだい10軍団ぐんだんアウルンチ山脈さんみゃくきずいたもので、海岸かいがん平野へいやとリーリ渓谷けいこくあいだ障壁しょうへき形成けいせいされていた。
  • 前線ぜんせん中央ちゅうおう右側みぎがわのイギリスだい13軍団ぐんだんは、4がつ24にち右手みぎてヴワディスワフ・アンデルス指揮しきだい2ポーランド軍団ぐんだんだい3およびだい5師団しだん)がカッシーノ後方こうほう山地さんちだい78師団しだん交替こうたいしているあいだに、リーリ渓谷けいこく沿ってめ、(2がつだい4インド師団しだん失敗しっぱいした)修道院しゅうどういん背後はいご山地さんち分断ぶんだんし、リーリ渓谷けいこく進入しんにゅうしてポーランド軍団ぐんだん合流ごうりゅうし、カッシーノを包囲ほういする。それは前任ぜんにんだい4インド師団しだんよりおおきな戦力せんりょくおこない、ドイツぐん陣地じんち集中しゅうちゅう砲撃ほうげきしててきたがいの陣地じんち支援しえんできないようにすることが期待きたいされた。

天候てんこう地上ちじょう状態じょうたい好転こうてんし、重要じゅうよう物資ぶっし補給ほきゅうとどこおおこなわれた。ふたたびポーランドおよびイギリス軍団ぐんだんよる挟撃きょうげき機動きどうがすべての作戦さくせん成功せいこうかぎとなった。カナダだい1軍団ぐんだん期待きたいされた突破とっぱがなされたときに投入とうにゅうする予備よび戦力せんりょくとされた。一旦いったんドイツぐんだい10ぐん撃退げきたいされれば、アメリカだい6軍団ぐんだんがアンツィオ海岸かいがん堡の包囲ほういもう突破とっぱし、アルバーノ丘陵きゅうりょうのドイツぐん撤退てったいさえぎる。

かれらは奇襲きしゅう効果こうかねらっていたため、部隊ぶたい展開てんかいしょう部隊ぶたい単位たんいおこなわなければならず、それには2ヶ月かげつ必要ひつようとされた。また、アメリカだい36師団しだん上陸じょうりく作戦さくせん訓練くんれんむかわせ、道路どうろ標識ひょうしき設置せっちし、ダミーの無線むせん通信つうしんおこない、ローマきたへの上陸じょうりく作戦さくせん計画けいかくしているとせかけた。これはドイツぐん予備よび戦力せんりょくをグスタフ・ラインからはなすことをねらっていた。だい一線いっせん部隊ぶたい展開てんかい夜間やかんのみに制限せいげんされ、アドリア海あどりあかい戦線せんせんから移動いどうした機甲きこう部隊ぶたいてき偵察ていさつづかれないようにするため、ダミーの戦車せんしゃ車両しゃりょうのちのこした。偽装ぎそう工作こうさくはうまくき、ケッセルリンクは最後さいごのカッシーノの戦闘せんとうの2にちまえになってようやく連合れんごうぐん6師団しだんがカッシーノ前線ぜんせんのドイツぐん4師団しだん対峙たいじしているのにづいた。正確せいかくには13師団しだんだったが。

戦闘せんとう

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5月11にちから12にちにかけてのカッシーノへの最初さいしょ攻撃こうげきは23:00にだい8ぐんの1,000もんだい5ぐんの600もんからなるだい規模きぼ砲撃ほうげきによって火蓋ひぶたられた。ったのはイギリスぐん、アメリカぐん、ポーランドぐん、ニュージーランドぐんみなみアフリカぐん、およびフランスぐん。1あいだはん以内いない攻撃こうげきは4つのせんすべてにひろがった。夜明よあけまでアメリカだい2軍団ぐんだんはほとんど前進ぜんしんしなかったが、おなだい5ぐん隷下れいかのフランス軍団ぐんだん任務にんむ遂行すいこうし、かれらの右手みぎてだい8ぐん方向ほうこうのアウルンチ山脈さんみゃく展開てんかい、2つのぐんあいだのドイツぐん陣地じんち包囲ほういした。だい8ぐん先鋒せんぽうだい13軍団ぐんだんはイギリスだい4歩兵ほへい師団しだんおよびだい8インド師団しだんがラーピドがわ渡河とかした。きわめて重要じゅうようだったのは、ダドリー・ラッセル指揮しきだい8インド師団しだん工兵こうへいたいが、あさまでにだい1カナダ機甲きこう旅団りょだん装甲そうこう車両しゃりょう通過つうかするために不可欠ふかけつかわへの架橋かきょう成功せいこうしたことだった(だいいちかい戦闘せんとうではアメリカぐんが、だいかい戦闘せんとうではニュージーランドぐんがこれに失敗しっぱいしていた)。だい1カナダ機甲きこう旅団りょだん予想よそうされるドイツぐん戦車せんしゃたい反撃はんげき撃退げきたいする任務にんむびていた。カッシーノ上方かみがた山地さんちではポーランドぐん歩兵ほへいたいが3日間にちかんかけてほとんど前進ぜんしんできず、双方そうほうおおきな被害ひがいした。だい4落下傘らっかさん連隊れんたいのヘイルマン大佐たいさは、破壊はかいされたまちを「ミニチュア・ヴェルダン」とんだ。今日きょういたるまで、このたたかいにおけるポーランドへいはたらきはポーランド国民こくみんおおきなほこりのみなもととなっている。

沿岸えんがん山地さんち消耗しょうもうせんつづなか5月12にち午後ごごまでにはラーピドがわ橋頭堡きょうとうほ猛烈もうれつ反撃はんげきをよそに増強ぞうきょうされた。5月13にちには攻撃こうげき効果こうかはじめた。ドイツぐん右翼うよくだい5ぐんまえくずはじめ、フランス軍団ぐんだんマイオさん占領せんりょうだい8ぐん側面そくめんから援護えんごができる位置いち進出しんしゅつしていた。だい8ぐんたいしケッセルリンクはすべての予備よび戦力せんりょく投入とうにゅうさせ、やく13km後方こうほうだい防衛ぼうえいライン「ヒトラー・ライン」を構築こうちくするための時間じかんかせぐようめいじた。5月14にち、リーリ渓谷けいこく平行へいこうしてやまつたって移動いどうしたモロッコへいグミエは、そのような地形ちけい横断おうだんすることが不可能ふかのうだとかんがえられていたためてき抵抗ていこうけず、たにのドイツぐん守備しゅびたい包囲ほういしようとしていただい13軍団ぐんだん支援しえんした。グミエはモロッコ・タボールぐん(GTM)4ぐんからなり、かくぐんゆる編成へんせい(だいたい大隊だいたい相当そうとう)の3タボールで構成こうせいされた。ジュアンのフランス海外かいがい派遣はけん軍団ぐんだんオーギュスタン・ギヨーム将軍しょうぐん[41]のモロッコ・グム戦闘せんとうたい(Commandement des Goums Marocains、CGM)(だい1、だい3およびだい4GTM。やく7,800めい兵士へいしからなり[42]がいして歩兵ほへい師団しだんなみ戦力せんりょくであった)とに4通常つうじょう師団しだんだい2モロッコ歩兵ほへい師団しだんだい3アルジェリア歩兵ほへい師団しだんだい4モロッコ山岳さんがく師団しだんおよびだい1自由じゆうフランス師団しだん)からなっていた。

5月15にち予備よび戦力せんりょくだったイギリスだい78師団しだんはカッシーノをリーリ渓谷けいこくから分断ぶんだんするため、橋頭堡きょうとうほ通過つうかだい13軍団ぐんだん戦線せんせん投入とうにゅうされた。5月17にち、ポーランド師団しだん山地さんちでの攻撃こうげき再開さいかいした。5月18にちはやいうちにだい78師団しだんとポーランド師団しだんはリーリ渓谷けいこくのカッシーノから3kmの地点ちてん合流ごうりゅうした。

クラクフせいマリア教会きょうかい伝統でんとう時報じほうHejnał mariacki(ヘイナウ・マリアツキ)を吹奏すいそうし、ドイツぐん撤退てったいらせるポーランドぐんらっぱしゅEmil Czechとう伍長ごちょう

5月18にち早朝そうちょう、ポーランドぐんだい12ポジーリャウーラン連隊れんたい偵察ていさつたいは、修道院しゅうどういんすで放棄ほうきされているのを発見はっけんし、廃墟はいきょ即興そっきょう連隊れんたいはたげた。最後さいごのドイツぐん降下こうかりょうへい(およそ200めいほどがいたといわれる)は補給ほきゅうせんがリーリ渓谷けいこく進軍しんぐんしてきた連合れんごうぐんによりおびやかされたため、あたらしい防衛ぼうえい陣地じんちヒトラー・ラインが完成かんせいするまえ夜間やかん撤退てったいしていた。 守備しゅびたいのこったのはやせおとろえてうごけない病人びょうにん重傷じゅうしょうしゃだけだった。

ヒトラー・ライン

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だい8ぐんはリーリ渓谷けいこく進撃しんげきし、だい5ぐん沿岸えんがんをヒトラー・ライン(アドルフ・ヒトラーがそこが陥落かんらくしたときの重大じゅうだいさから「ゼンガー・ライン」に改名かいめいさせた)へかった。直後ちょくご攻撃こうげき失敗しっぱいだい8ぐんさい編成へんせいすこ時間じかんをかけることにした。20,000だい車両しゃりょうと2,000りょう戦車せんしゃ破壊はかいされたグスタフ・ラインを通過つうかするのに数日すうじつかかった。つぎ攻撃こうげき5月23にち開始かいしされた。ポーランド軍団ぐんだんピエディモンテだい1降下こうかりょうへい師団しだん守備しゅびしていた)をみぎから攻撃こうげきし、(だい8ぐん予備よびから到着とうちゃくしたばかりの)だい1カナダ歩兵ほへい師団しだん中央ちゅうおうから攻撃こうげきした。5月24にち、カナダぐん敵前てきぜんせんあなけ、だい5カナダ(機甲きこう師団しだんがそのギャップになだれんだ。5月25にち、ポーランドぐんはピエディモンテを占領せんりょうし、てき戦線せんせん崩壊ほうかいした。ローマとそのさきつづみちひらかれた。

余波よは

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アンツィオ包囲ほういもう突破とっぱ

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カナダぐんとポーランドぐん5月23にち攻撃こうげき開始かいしした。解任かいにんされたジョン・ポーター・ルーカスわりアメリカだい6軍団ぐんだんちょうになったルシアン・トラスコットは、アンツィオ橋頭堡きょうとうほにあった7師団しだんのうち5(アメリカぐん3、イギリスぐん2)を使用しようし、二面ふたおもて攻撃こうげき仕掛しかけた。ドイツだい14ぐんはこの攻勢こうせい装甲そうこう師団しだんなしで応対おうたいしなければならなかった。なぜならケッセルリンクが装甲そうこう師団しだんをカッシーノのだい10ぐん増援ぞうえんのためみなみおくっていたからである。ただひとつの装甲そうこう師団しだんだい26装甲そうこう師団しだんはローマきたから輸送ゆそうされ、(連合れんごうぐん偽装ぎそう工作こうさくにより)存在そんざいしない連合れんごうぐん上陸じょうりく作戦さくせんつづけ、たたかうことができなかった。

ローマ占領せんりょうとドイツだい10ぐん捕捉ほそく失敗しっぱい

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5月25にちまでに、ドイツだい10ぐん完全かんぜん撤退てったいした。アメリカだい6軍団ぐんだんかれらの撤退てったいさえぎるためにひがし移動いどうした。翌日よくじつまでにかれらは退路たいろふさいでおり、ケッセルリンクのすべての予備よび戦力せんりょくふくむドイツだい10軍団ぐんだんかれらにかい、あみにかかった。このときおどろくべきことに、マーク・クラークはトラスコットにかれ北東ほくとう方向ほうこうかっていた攻撃こうげき進路しんろ変更へんこうし、ルート6号線ごうせんをヴァルモントーネから北西ほくせい方向ほうこうへとすすむようめいじた。それはローマに直行ちょっこうする進路しんろだった。このクラークの決断けつだん理由りゆうあかりかになっておらず、論議ろんぎのネタになっている。ほとんどの識者しきしゃはクラークが最初さいしょにローマに入城にゅうじょうする名誉めいよたかったためとするが、何人なんにんかはかれ疲労ひろうした部隊ぶたいしょう休止きゅうしさせなければならないのではないかと心配しんぱいしていたことを指摘してきする(にもかかわらずあたらしい攻撃こうげき命令めいれいかれ部隊ぶたいにドイツぐん防衛ぼうえいライン「カエサル・C・ライン」を正面しょうめんから攻撃こうげきするよう要求ようきゅうした)。トラスコットはのちにかれ回顧かいころくなかで、クラークが「イギリスぐん最初さいしょにローマに入城にゅうじょうするためによこしま計画けいかくくわだてているのではないかと懸念けねんしていた」とべており[43]、それはクラーク自身じしん著述ちょじゅつなかでもれられている。しかし、アレクサンダーは戦闘せんとうまえかくぐん担当たんとう区域くいき境界きょうかい明確めいかく規定きていしており、ローマはだい5ぐんてられていた。だい8ぐんは、かれらの任務にんむがいつもドイツだい10ぐん交戦こうせんし、できるだけおおくのてき破壊はかいすることになっていて、北方ほっぽう追跡ついせきつづけるその進路しんろはローマを迂回うかいすることになることにづいていた(実際じっさいかれらはペルージャ方面ほうめん退却たいきゃくするドイツだい10ぐんを6週間しゅうかん・360kmにわた追跡ついせきなん攻撃こうげきした)[44]

結局けっきょく、ドイツだい10ぐんの7師団しだん[45]つぎ防衛ぼうえいライントラジメーノ・ライン後退こうたいしてドイツだい14ぐん合流ごうりゅうすることができ、そのフィレンツェきたゴシック・ラインへの撤退てったい作戦さくせん展開てんかいした。

1944ねん6月4にち、ローマは陥落かんらくした。それはノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせんのちょうど2にちまえだった。

勲章くんしょう

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ほん戦闘せんとうにおいて、すうおおくの軍事ぐんじ勲章くんしょう授与じゅよされた。戦闘せんとう前半ぜんはん参加さんかした部隊ぶたいには「カッシーノI」名誉めいよ勲章くんしょうが、そのうち所定しょてい戦闘せんとう参加さんかした部隊ぶたいには補助ほじょ勲章くんしょう授与じゅよされた。これらには「モナステリー・ヒル」勲章くんしょう、「キャッスル・ヒル」勲章くんしょう、および「ハングマンズ・ヒル」勲章くんしょうがある[46]後半こうはん戦闘せんとう参加さんかした部隊ぶたいには「カッシーノII」名誉めいよ勲章くんしょう授与じゅよされた[47]

遺産いさん

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修道院しゅうどういん避難ひなん

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修道院しゅうどういんから美術びじゅつひん搬出はんしゅつするドイツぐん。シュレーゲル中佐ちゅうさ

たたかいの最中さいちゅう由緒ゆいしょあるモンテ・カッシーノ修道院しゅうどういんはアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうたいにより完全かんぜん破壊はかいされた。攻撃こうげきまえに、ドイツ空軍くうぐんだい1降下こうか装甲そうこう師団しだん整備せいび部門ぶもん指揮しきかんつとめていたユリウス・シュレーゲル中佐ちゅうさは、修道院しゅうどういん図書としょしつにあったキケロホラティウスウェルギリウスおよびセネカ写本しゃほんなどおよそ1,200さつ文書ぶんしょ書籍しょせきと、そのティツィアーノラファエロティントレットギルランダイオブリューゲルおよびレオナルド・ダ・ヴィンチ名画めいがふく美術びじゅつ工芸こうげいひんバチカン移送いそうするようめいじた。この賢明けんめい処置しょちのため、これら貴重きちょう品々しなじな破壊はかいからのがれることができた。また修道院しゅうどういん建築けんちく設計せっけい保全ほぜんされた。

オリジナルの写本しゃほん希少きしょう工芸こうげいひん大切たいせつ移送いそうされた。しかしそのも、修道院しゅうどういんには病気びょうきうごけないすうにんとそれを看護かんごするまだ健康けんこう修道しゅうどうおんなたちのこっていた。ドイツぐん将校しょうこうたちかぎられた労力ろうりょく時間じかんなか、まだうごける修道しゅうどうおんなたち避難ひなんするよう説得せっとくこころみたが、修道しゅうどうおんなたちは「病人びょうにんたちが移送いそうされないかぎり、ベッドのそばからはなれることはできない」と拒否きょひした。5月11にちよるにドイツぐん病人びょうにんらをのこし、修道院しゅうどういん北方ほっぽう退却たいきゃく開始かいしした。何人なんにんかのカトリック教徒きょうとのドイツへいがその命令めいれい異議いぎとなえた。そのうちの一人ひとりだい305歩兵ほへい師団しだんだい305砲兵ほうへい連隊れんたい所属しょぞくユルゲン・シュミット伍長ごちょうもまた、修道しゅうどうおんなたちを見捨みすてるという命令めいれい拒否きょひした。36さいになるシュトゥットガルト出身しゅっしんのベテランへいであったかれは、あのスターリングラード攻防こうぼうせん数少かずすくないのこりであり、ルーテル所属しょぞくしていた。かれ直属ちょくぞく士官しかんたいし、自身じしん良心りょうしんもとづき、病人びょうにん修道しゅうどう修道しゅうどうおんなたちを見殺みごろしにできないとうったえた。ドイツぐん将校しょうこうもまた、”シュミット伍長ごちょうにいかなる機器きき装備そうび人的じんてき援助えんじょあたえることはできないが、かれ自身じしん責任せきにんにおいて単独たんどく行動こうどうすること”を許可きょかした。5月12にち1:00ごろ、シュミットは近所きんじょ農家のうかからぼろぼろの木製もくせい荷馬にうましゃうまり、かれ方針ほうしんについてきたへいたち(ほとんどが二等兵にとうへいだった)で救出きゅうしゅつチームを組織そしきした。頂上ちょうじょう修道院しゅうどういんくとシュミットいたるは、病人びょうにんとそれを看護かんごしている修道しゅうどうおんなはこぶための荷馬にうましゃ用意よういしてきたことをはなし、一緒いっしょるように修道しゅうどうおんなたち説得せっとくした。 シュミットとかれのチームは病人びょうにん荷馬にうましゃせ、5月12にち7:00ごろ、かれらはモンテ・カッシーノの北側きたがわから、やまをゆっくりとくだ退却たいきゃくした。

シュミット伍長ごちょうは、かれ勇敢ゆうかん行動こうどうたいしてドイツ当局とうきょくからはなん勲章くんしょうあたえられなかったが、モンテ・カッシーノの女性じょせい修道しゅうどう院長いんちょうから、なに世紀せいきむかしからつづせいベネディクトゥス肖像しょうぞうえがかれたきんメダルを授与じゅよされた。修道院しゅうどういんちょうはメダルをかれくびにかけ、かれかれ献身けんしんたいし、みじかいのりをささげた[48]

アメリカの見解けんかい

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふのモンテ・カッシーノ爆撃ばくげきかんする見解けんかい四半世紀しはんせいきて、おおきな変化へんかげた。ドイツぐん修道院しゅうどういん利用りようしていたという“うごかぬ証拠しょうこ”はアメリカ陸軍りくぐん戦史せんし総監そうかんによって1961ねん記録きろくから削除さくじょされた。議会ぎかいからの質問しつもんたいし、どう総監そうかんばくげき20周年しゅうねん記念きねん式典しきてん声明せいめい発表はっぴょうした。「(ばくげきまえには)少数しょうすう憲兵けんぺいたいをのぞき、実際じっさいには修道院しゅうどういんないにドイツぐんがいたようにはえない」アメリカ陸軍りくぐん公式こうしき記録きろくへの最終さいしゅうてき訂正ていせい1969ねんおこなわれ、「修道院しゅうどういん実際じっさいにはドイツぐん占拠せんきょされていなかった」と結論けつろんけた。

ヴォイテク

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モンテ・カッシーノでたたかったおおくのさまざまな兵士へいしなかでもっともつよかったものといえば、おそらくヴォイテクばれたイランからクマだろう。だい2ポーランド軍団ぐんだんだい22弾薬だんやく補給ほきゅう中隊ちゅうたい入隊にゅうたい飼育しいくされていたかれ戦闘せんとうちゅうおおくの砲弾ほうだんはこんだ。

Marocchinate

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戦闘せんとうわった翌日よくじつ、フランス海外かいがい派遣はけん軍団ぐんだんフランス植民しょくみん部隊ぶたいグミエ周囲しゅういおかあばまわり、イタリア市民しみんたい略奪りゃくだつ強姦ごうかん殺人さつじん拷問ごうもんなどいくつかのおそれるべき悪事あくじはたらいた[1]以後いご、イタリアではこのような犯罪はんざいを「モロッコじんはたら悪事あくじのような」という意味いみ形容詞けいようしMarocchinate(マロッキナーテ)であらわすようになった。

戦没せんぼつしゃ墓地ぼちおよび記念きねんぶつ

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モンテ・カッシーノのポーランドじん戦争せんそう墓地ぼち
モンテ・カッシーノ記念きねんじゅうあきら(ポーランド)

モンテ・カッシーノでの戦闘せんとう終了しゅうりょうしてあいだもなく、ロンドンにあるポーランド亡命ぼうめい政府せいふはポーランドぐんのモンテ・カッシーノでの戦略せんりゃく拠点きょてん占領せんりょう記念きねんしてモンテ・カッシーノ記念きねんじゅうあきら制定せいていした。のちに、ポーランドじん墓地ぼち建設けんせつされた。

カッシーノ西にし郊外こうがいにあるイギリス連邦れんぽう戦争せんそう墓地ぼちはイギリス、ニュージーランド、カナダ、インド、グルカおよびみなみアフリカへい戦没せんぼつしゃ墓地ぼちである。フランスぐんおよびイタリアぐん兵士へいし墓地ぼちはリーリ渓谷けいこくのルート6号線ごうせんに、アメリカぐん兵士へいし墓地ぼちはアンツィオにある。ドイツへい墓地ぼちはカッシーノのおよそ3kmきた、ラーピド渓谷けいこくにある。

2006ねん、ローマ解放かいほうのためにたたかい、んでいった連合れんごうぐん兵士へいしたたえる記念きねん同市どうし公開こうかいされた[49]

関連かんれん作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Villoresi, Luca. “Barbarigo Teschi e memorie” (Italian). La Repubblica, Culture section (3 June 1994): p. 35. http://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1994/06/03/barbarigo-teschi-memorie.html 2009ねん4がつ24にち閲覧えつらん. 
  2. ^ アーカイブされたコピー”. 2007ねん10がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ a b http://www.historylearningsite.co.uk/second_battle_monte_cassino.htm
  4. ^ Jordan, D, (2004), Atlas of World War II. Barnes & Noble Books, p. 91
  5. ^ Jordan, D, (2004), Atlas of World War II. Barnes & Noble Books, p. 92
  6. ^ Time, The Bombing of Monte Cassino
  7. ^ Hapgood and Richardson [ようページ番号ばんごう]
  8. ^ E.D. Smith, The Battles for Monte Cassino, p. 26.
  9. ^ E.D. Smith, p. 27.
  10. ^ Fred Majdalany, Cassino: Portrait of a Battle, p. 30.
  11. ^ Majdalany, p. 90.
  12. ^ E.D. Smith, p. 59.
  13. ^ E.D. Smith, pp. 63–64 & 68.
  14. ^ a b Majdalany, p. 91.
  15. ^ Majdalany, p. 87.
  16. ^ homeofheroes.com
  17. ^ E.D. Smith, p. 69.
  18. ^ Majdalany, p. 128.
  19. ^ Majdalany, p. 107.
  20. ^ Hapgood & Richardson, Monte Cassino, p. 185. 将軍しょうぐんは3戦闘せんとう爆撃ばくげき護衛ごえいされ1,000フィート(300m)上空じょうくう飛行ひこうした。(共同きょうどう執筆しっぴつしゃD.W.Richardsonによるアイラ・エーカーへのインタビューテープより)
  21. ^ Hapgood & Richardson, p. 169.
  22. ^ Majdalany, pp. 121–122.
  23. ^ Majdalany, pp. 114–115.
  24. ^ Laurie, Rome-Arno 1944, p. 14.
  25. ^ Majdalany, p. 122.
  26. ^ Laurie, pp. 14–15.
  27. ^ Gooderson, Cassino, p. 84.
  28. ^ Majdalany, p. 142.
  29. ^ Hapgood & Richardson, p. 225
  30. ^ Hapgood & Richardson, p. 203.
  31. ^ Majdalany, p. 161.
  32. ^ a b Laurie, p. 15.
  33. ^ E.D. Smith, p. 149
  34. ^ E.D. Smith, pp. 148-149
  35. ^ E.D. Smith, pp. 152-153
  36. ^ E.D. Smith, p.154
  37. ^ Majdalany, p. 215.
  38. ^ Majdalany, p. 194.
  39. ^ E.D. Smith, p. 158
  40. ^ Majdalany, p. 221.
  41. ^ The French Expeditionary Corps in Italy Archived 2008ねん9がつ17にち, at the Wayback Machine.
  42. ^ Blaxland, Alexander's Generals (the Italian Campaign 1944–1945), p. 83.
  43. ^ Majdalany, p. 256.
  44. ^ Anon, The Tiger Triumphs: The Story of Three Great Divisions in Italy, p. 81.
  45. ^ Lloyd Clark, Anzio: The Friction of War. Italy and the Battle for Rome 1944, p. 304.
  46. ^ Singh, Sarbans (1993), pg 204.
  47. ^ Singh, Sarbans (1993), pg. 204-205.
  48. ^ David Hapgood, Monte Cassino, p. ?
  49. ^ Memorial unveiled in honour of allies who liberated Rome

参考さんこう文献ぶんけん

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英語えいご

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フランス語ふらんすご

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ドイツ

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  • Janusz Piekałkiewicz (1997). Die Schlacht von Monte Cassino. Zwanzig Völker ringen um einen Berg. Augsburg: Bechtermünz Verlag. ISBN 3-86047-909-1 
  • E. D. Smith (1991). Der Kampf um Monte Cassino 1944. Stuttgart: Motorbuch Verlag. ISBN 3-613-01095-X 
  • Heinz Konsalik (2004). Sie fielen vom Himmel. Klagenfult: Kaiser. ISBN 3-7043-1329-7 

イタリア

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  • Gerhard Muhm, La tattica tedesca nella campagna d'Italia, in Linea gotica avamposto dei Balcani, a cura di Amedeo Montemaggi - Edizioni Civitas, Roma 1993
  • DAL VOLTURNO A CASSINO, Gli avvenimenti della campagna d'Italia (1943-45) collegati alla battaglia di Cassino. http://www.dalvolturnoacassino.it/

ポーランド

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  • Melchior Wańkowicz (1993). Szkice spod Monte Cassino. Wiedza Powszechna. ISBN 83-214-0913-X 
  • Melchior Wańkowicz (1989). Bitwa o Monte Cassino. Warsaw: Wydawnictwa MON. ISBN 83-11-07651-0 
  • Melchior Wańkowicz (1990). Monte Cassino. Warsaw: PAX. ISBN 83-211-1388-5 
  • various authors (2000). Monte Cassino : historia, ludzie, pamięć = history, people, memory. Askon. ISBN 83-87545-25-2 
  • various authors (2004). Monte Cassino. Warsaw: Askon. ISBN 83-87545-80-5 
  • Janusz Piekałkiewicz (2003). Monte Cassino. Agencja Wydawnicza Morex. ISBN 83-7250-078-9 
  • Zbigniew Wawer (1994). Monte Cassino 1944. Bellona. ISBN 83-11-08311-8 

ベラルーシ

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  • Piotra Sych (1963). Сьмерць і салаўі (Death and nightingales) 
  • various (2004). Беларусы ў бітве за Монтэ-Касіна. Minsk: Беларускі кнігазбор. ISBN 985-6730-76-7 

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい4129ふん24びょう 東経とうけい1348ふん50びょう / 北緯ほくい41.49000 東経とうけい13.81389 / 41.49000; 13.81389