原文 げんぶん と比 くら べた結果 けっか 、この記事 きじ には多数 たすう の(または内容 ないよう の大 だい 部分 ぶぶん に影響 えいきょう ある)誤訳 ごやく があることが判明 はんめい しています。情報 じょうほう の利用 りよう には注意 ちゅうい してください。正確 せいかく な表現 ひょうげん に改訳 かいやく できる方 ほう を求 もと めています。
モンテ・カッシーノの戦 たたか い (モンテ・カッシーノのたたかい、英 えい : Battle of Monte Cassino )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、1944年 ねん 1月 がつ 17日 にち から5月19日 にち にかけてイタリア のモンテ・カッシーノ で行 おこな われた戦 たたか い。連合 れんごう 軍 ぐん のイタリア戦線 せんせん におけるグスタフ・ライン (英語 えいご 版 ばん ) の突破 とっぱ およびローマ 解放 かいほう のために企画 きかく された。
1944年 ねん 初頭 しょとう 、グスタフ・ラインの西 にし 半分 はんぶん は、ラーピド川 がわ ・リーリ川 がわ ・ガリリャーノ川 がわ およびその周囲 しゅうい の尾根 おね や山頂 さんちょう を守 まも るドイツ軍 ぐん により支 ささ えられていた。その中 なか にあって、モンテ・カッシーノ頂上 ちょうじょう にある修道院 しゅうどういん (529年 ねん ごろ建立 こんりゅう された歴史 れきし 的 てき 建築 けんちく 物 ぶつ )には守備 しゅび 兵 へい は配置 はいち されておらず、修道院 しゅうどういん 城壁 じょうへき 下 か の急斜面 きゅうしゃめん に防御 ぼうぎょ 陣地 じんち が築 きず かれていた。2月 がつ 15日 にち 、カッシーノ の街 まち を見渡 みわた せる山頂 さんちょう にあった修道院 しゅうどういん に対 たい し、アメリカ軍 ぐん は1,400トンに及 およ ぶ爆 ばく 弾 だん で修道院 しゅうどういん を爆撃 ばくげき し、修道院 しゅうどういん は破壊 はかい された。その理由 りゆう は修道院 しゅうどういん が枢軸 すうじく 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の監視 かんし 所 しょ として使用 しよう される懸念 けねん があったためである(枢軸 すうじく 軍 ぐん がそこに進駐 しんちゅう していなかったという主張 しゅちょう が認 みと められるまでには長 なが い時間 じかん がかかった)。爆 ばく 撃 げき の2日 にち 後 ご 、ドイツ軍 ぐん 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい がこの廃墟 はいきょ を守備 しゅび するために投入 とうにゅう された。1月17日 にち から5月18日 にち まで、グスタフ・ライン守備 しゅび 隊 たい は連合 れんごう 軍 ぐん の4度 ど に渡 わた る攻撃 こうげき をうけた。この間 あいだ 連合 れんごう 軍 ぐん は32kmの前線 ぜんせん に20個 こ 師団 しだん を投入 とうにゅう しドイツ軍 ぐん を駆逐 くちく したが、甚大 じんだい な損害 そんがい を被 こうむ った[5] 。
1943年 ねん 9月、連合 れんごう 軍 ぐん イタリア方面 ほうめん 総 そう 司令 しれい 官 かん ハロルド・アレクサンダー 指揮 しき の第 だい 15軍 ぐん 集団 しゅうだん はイタリア・サレルノ 上陸 じょうりく 作戦 さくせん (アヴァランチ作戦 さくせん )ののち、イタリアの“背骨 せぼね ”を形成 けいせい しているアペニン山脈 さんみゃく の東西 とうざい 両側 りょうがわ からそれぞれ北方 ほっぽう へ進撃 しんげき した。西側 にしがわ 戦線 せんせん では、マーク・ウェイン・クラーク 中将 ちゅうじょう 指揮 しき のアメリカ第 だい 5軍 ぐん がナポリ からイタリアの“ブーツ”を北上 ほくじょう し、東側 ひがしがわ 戦線 せんせん では、バーナード・モントゴメリー 大将 たいしょう のイギリス第 だい 8軍 ぐん がアドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん を進軍 しんぐん した。
第 だい 5軍 ぐん は、困難 こんなん な地形 ちけい 、悪天候 あくてんこう および熟練 じゅくれん したドイツ軍 ぐん の抵抗 ていこう により、進軍 しんぐん が遅 おく れていた。ドイツ軍 ぐん は、最大 さいだい のダメージを与 あた えるよう設計 せっけい ・準備 じゅんび された陣地 じんち から戦闘 せんとう を仕掛 しか けては退 しりぞ き、ローマ南方 なんぽう の守備 しゅび 陣地 じんち グスタフ・ラインを建設 けんせつ するための時間 じかん を稼 かせ いだ。当初 とうしょ 、ローマは1943年 ねん 9月 がつ には陥落 かんらく すると見込 みこ まれていたが、それは楽観 らっかん 的 てき すぎた。
アドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん のイギリス第 だい 8軍 ぐん はグスタフ・ライン東側 ひがしがわ を突破 とっぱ し、オルトーナ を占領 せんりょう していたが、その進軍 しんぐん は12月末 まつ には猛 もう 吹雪 ふぶき の始 はじ まりで停滞 ていたい し、複雑 ふくざつ な地形 ちけい のため航空 こうくう 支援 しえん も不可能 ふかのう であった。このためルート5号線 ごうせん を使用 しよう した東 ひがし からローマへ向 む かう進軍 しんぐん ルートは非 ひ 現実 げんじつ 的 てき であると判断 はんだん され、高速 こうそく 道路 どうろ 6号線 ごうせん および7号線 ごうせん ルートのみが可能 かのう 性 せい として残 のこ された。しかしその2ルートのうち高速 こうそく 道路 どうろ 7号線 ごうせん (古代 こだい ローマ のアッピア街道 かいどう )は西海岸 にしかいがん に沿 そ ってローマ南方 なんぽう ポンティーノ湿地 しっち 帯 たい に通 つう じており、そこは既 すで にドイツ軍 ぐん により水没 すいぼつ させられていた。高速 こうそく 6号線 ごうせん はリーリ川 がわ の渓谷 けいこく を通過 つうか しており、この谷 たに の南側 みなみがわ 入 い り口 くち はカッシーノの町 まち 後方 こうほう の多数 たすう の丘 おか で構成 こうせい されていた。いくつかの丘 おか の頂上 ちょうじょう はドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 兵 へい が連合 れんごう 軍 ぐん の動 うご きを観測 かんそく するのに最適 さいてき の場所 ばしょ であり、北 きた への進軍 しんぐん を阻止 そし し、連合 れんごう 軍 ぐん 部隊 ぶたい への直接 ちょくせつ 砲撃 ほうげき を可能 かのう としていた。
アペニン山脈 さんみゃく 中央 ちゅうおう に源流 げんりゅう をもつ流 なが れの速 はや いラーピド川 がわ は、連合 れんごう 軍 ぐん の前線 ぜんせん を横切 よこぎ り、カッシーノを通過 つうか し、リーリ川 がわ 渓谷 けいこく 入 い り口 くち へ通 つう じていた。その後 ご リーリ川 がわ と合流 ごうりゅう してガリリャーノ川 がわ (連合 れんごう 軍 ぐん から時 とき に「ガリ」と呼 よ ばれた)となり、海 うみ へと続 つづ いた。強固 きょうこ に要塞 ようさい 化 か された山岳 さんがく 守備 しゅび と困難 こんなん な渡河 とか (流 なが れが速 はや いだけでなく、ドイツ軍 ぐん はラーピド川 がわ の流 なが れを谷 たに の先端 せんたん で一時 いちじ 的 てき に変 か えて谷 たに の底 そこ で氾濫 はんらん させ、あらゆる攻撃 こうげき が困難 こんなん になるようにしていた)により、カッシーノを要 よう としたグスタフ・ラインは難攻不落 なんこうふらく の守備 しゅび 陣地 じんち に造 つく り上 あ げられていた。
ドイツ軍 ぐん と修道院 しゅうどういん の間 あいだ では、修道院 しゅうどういん の歴史 れきし 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい に鑑 かんが み、修道 しゅうどう 士 し たちが残 のこ っている限 かぎ り修道院 しゅうどういん を軍事 ぐんじ 目的 もくてき で利用 りよう しないことで合意 ごうい した。1943年 ねん 12月、イタリア方面 ほうめん 総 そう 司令 しれい 官 かん アルベルト・ケッセルリンク 空軍 くうぐん 元帥 げんすい は修道院 しゅうどういん 内 ない へのドイツ軍 ぐん 部隊 ぶたい の配置 はいち ・陣地 じんち 化 か を行 おこな わないよう命 めい じ、そのことを連合 れんごう 軍 ぐん に適宜 てきぎ 通知 つうち した[6] [7] 。
このような状況 じょうきょう 下 か で、何 なん 機 き かの連合 れんごう 軍 ぐん 偵察 ていさつ 機 き はドイツ軍 ぐん 部隊 ぶたい が修道院 しゅうどういん 内 ない にいたと報告 ほうこく している。修道院 しゅうどういん は周囲 しゅうい の丘 おか や谷 たに を監視 かんし するには最適 さいてき の場所 ばしょ で、それゆえドイツ軍 ぐん 砲撃 ほうげき 観測 かんそく 手 しゅ にとって天然 てんねん の観測 かんそく 所 しょ と成 な り得 え た。ただ、一旦 いったん 修道院 しゅうどういん が破壊 はかい されてしまえば、ドイツ軍 ぐん がそこを占拠 せんきょ し、防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を築 きず くためにその瓦礫 がれき を利用 りよう するという事 こと は明白 めいはく であった。最終 さいしゅう 的 てき に修道院 しゅうどういん 破壊 はかい につながる軍事 ぐんじ 的 てき 根拠 こんきょ は、実際 じっさい に占領 せんりょう されているかどうかより、むしろその潜在 せんざい 的 てき 脅威 きょうい のほうにあった。
アメリカ第 だい 5軍 ぐん 司令 しれい 官 かん クラークは以下 いか の攻撃 こうげき 計画 けいかく をたてた。
第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう : 攻撃 こうげき 計画 けいかく
実 み のところ、クラークは早期 そうき に突破 とっぱ できるチャンスは多 おお く無 な いと考 かんが えていたが[8] 、この攻撃 こうげき が1月 がつ 22日 にち のアンツィオ上陸 じょうりく 作戦 さくせん (シングル作戦 さくせん )に間 ま に合 あ えば、ドイツ軍 ぐん 予備 よび 部隊 ぶたい をローマ地域 ちいき から引 ひ きずり出 だ せると思 おも っていた。それによりアンツィオ上陸 じょうりく の奇襲 きしゅう 効果 こうか と内陸 ないりく のアルバーノ丘陵 きゅうりょう への迅速 じんそく な移動 いどう ができれば、グスタフ・ライン守備 しゅび 隊 たい の後方 こうほう および補給 ほきゅう 線 せん を脅 おど かし、動揺 どうよう したドイツ軍 ぐん がグスタフ・ラインからローマ北方 ほっぽう へ後退 こうたい するという事 こと を期待 きたい してのものだった。3ヶ月 かげつ 前 まえ ならそれはドイツ軍 ぐん の戦術 せんじゅつ と一致 いっち していたが、ドイツ軍 ぐん は攻撃 こうげき と撤退 てったい を繰 く り返 かえ すことによりグスタフ・ラインを難攻不落 なんこうふらく の要塞 ようさい とするための時間 じかん を稼 かせ ぐことを唯一 ゆいいつ の目的 もくてき とする戦略 せんりゃく に転換 てんかん していた。連合 れんごう 軍 ぐん 情報 じょうほう 部 ぶ はそれを理解 りかい しておらず、そのため連合 れんごう 軍 ぐん の見通 みとお しに対 たい する評価 ひょうか が楽観 らっかん 的 てき 過 す ぎるものとなってしまっていた[9] 。
アメリカ第 だい 5軍 ぐん は1月 がつ 15日 にち にようやくグスタフ・ラインに達 たっ することができただけだった。最後 さいご の11kmを前進 ぜんしん するのに6週間 しゅうかん を要 よう し、ベルンハルト・ライン を突破 とっぱ する際 さい には16,000名 めい の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した[10] 。彼 かれ らには新 あたら しい攻撃 こうげき を準備 じゅんび するだけの時間 じかん も無 な く、3ヶ月 かげつ に渡 わた るナポリからの北上 ほくじょう 作戦 さくせん で消耗 しょうもう しており、休息 きゅうそく と再 さい 編成 へんせい を必要 ひつよう としていた。しかし、連合 れんごう 軍 ぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ はアンツィオ上陸 じょうりく 作戦 さくせん 用 よう に用意 ようい された上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい の使用 しよう 期間 きかん を2月 がつ 初旬 しょじゅん までしか認 みと めなかったため上陸 じょうりく は1月 がつ 末 まつ までに行 おこな わなければならず、それに呼応 こおう するグスタフ・ライン攻撃 こうげき はさらにその約 やく 3日 にち 前 まえ には行 おこな う必要 ひつよう があった。
第 だい 一 いち 次 じ 攻撃 こうげき : 左翼 さよく ・イギリス第 だい 10軍団 ぐんだん – 1月 がつ 17日 にち [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 攻撃 こうげき は1月 がつ 17日 にち に行 おこな われた。沿岸 えんがん のイギリス第 だい 10軍団 ぐんだん (第 だい 56および第 だい 5師団 しだん )はガリリャーノ川 がわ を強行 きょうこう 渡河 とか した(約 やく 2日 にち 後 ご にはイギリス軍 ぐん 第 だい 46師団 しだん が彼 かれ らの右翼 うよく から続 つづ いた)。ドイツ軍 ぐん 第 だい 14装甲 そうこう 軍団 ぐんだん 長 ちょう でグスタフ・ライン南西 なんせい 部 ぶ の守備 しゅび 責任 せきにん 者 しゃ フリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン はドイツ軍 ぐん 第 だい 94歩兵 ほへい 師団 しだん の守備 しゅび 能力 のうりょく に大 おお きな懸念 けねん を抱 いだ き、それをうけたケッセルリンクはローマからドイツ軍 ぐん 第 だい 29 および第 だい 90装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん を増援 ぞうえん に向 む かわせた。
もし第 だい 10軍団 ぐんだん に予備 よび 戦力 せんりょく があれば敵陣 てきじん 突破 とっぱ の決 き め手 て となり、彼 かれ らの功績 こうせき により作戦 さくせん は成功 せいこう したかもしれないという憶測 おくそく がある。軍団 ぐんだん に予備 よび 戦力 せんりょく は無 な かったが、ドイツ軍 ぐん の増援 ぞうえん が配置 はいち につく前 まえ に全体 ぜんたい の攻撃 こうげき 計画 けいかく を見直 みなお し、アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん の中央 ちゅうおう 攻撃 こうげき を中止 ちゅうし あるいは変更 へんこう して南 みなみ に振 ふ り向 む ける時間 じかん は確実 かくじつ にあった。実際 じっさい にはアメリカ第 だい 5軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ はドイツ軍 ぐん 布陣 ふじん の弱点 じゃくてん を正 ただ しく認識 にんしき できておらず、計画 けいかく は変更 へんこう されなかった。1月 がつ 21日 にち までにローマから2個 こ 師団 しだん が到着 とうちゃく し、ドイツ軍 ぐん 南側 みなみがわ 陣地 じんち は安定 あんてい した。ただ一 ひと つだけではあるが、ケッセルリンクの予備 よび 戦力 せんりょく を南 みなみ に引 ひ きずり出 だ したと言 い う点 てん においてのみ、作戦 さくせん は機能 きのう した。イギリス第 だい 10軍団 ぐんだん の3個 こ 師団 しだん は第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう で4,000名 めい の損害 そんがい を受 う けた[11] 。
主 しゅ 攻撃 こうげき : 中央 ちゅうおう ・アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん – 1月 がつ 20日 はつか [ 編集 へんしゅう ]
モンテ・カッシーの戦闘 せんとう で損傷 そんしょう したIV号 ごう 戦車 せんしゃ H型 がた を修理 しゅうり しようとしているドイツ軍 ぐん クルー。
1月 がつ 20日 はつか 、アメリカ軍 ぐん 第 だい 36師団 しだん による中央 ちゅうおう 攻勢 こうせい は日没 にちぼつ の3時 じ 間 あいだ 後 ご に開始 かいし された。事前 じぜん 準備 じゅんび が不足 ふそく しており、まだ地雷 じらい やブービートラップ が十分 じゅうぶん に除去 じょきょ されていなかったため、川 かわ への接近 せっきん には危険 きけん が伴 ともな った。また、高度 こうど な技術 ぎじゅつ 的 てき 任務 にんむ である渡河 とか を行 おこな うために必要 ひつよう な計画 けいかく とリハーサルがなされていなかった。第 だい 143連隊 れんたい の1個 いっこ 大隊 だいたい はサン・アンゲロの南 みなみ から、第 だい 141連隊 れんたい (この中 なか に日系 にっけい 二 に 世 せい 部隊 ぶたい 第 だい 100大隊 だいたい が含 ふく まれる)の2個 こ 中隊 ちゅうたい は北 きた からラーピド川 がわ 渡河 とか に成功 せいこう したが、彼 かれ らは孤立 こりつ しており、連合 れんごう 軍 ぐん 機甲 きこう 部隊 ぶたい は渡河 とか 出来 でき ないまま、ドイツ軍 ぐん 第 だい 15装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん の戦車 せんしゃ および自 じ 走 はし 砲 ほう の反撃 はんげき に対 たい し非常 ひじょう に危険 きけん な状態 じょうたい におかれていた。南 みなみ グループは1月 がつ 21日 にち 午前 ごぜん に川 かわ を強行 きょうこう 渡河 とか し後退 こうたい した。アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん 指揮 しき 官 かん ジェフリー・キイス 少将 しょうしょう は第 だい 36師団 しだん のフレッド・ウォーカー 少将 しょうしょう に直 ただ ちに攻撃 こうげき を再開 さいかい するよう強 つよ く要請 ようせい し、再 ふたた び2個 こ 連隊 れんたい が塹壕 ざんごう に隠 かく れたドイツ軍 ぐん 第 だい 15装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん に対 たい し攻撃 こうげき を行 おこな ったが、これに成功 せいこう することは無 な かった。第 だい 143連隊 れんたい のほぼ2個 こ 大隊 だいたい が渡河 とか したが、これも機甲 きこう 部隊 ぶたい の支援 しえん が無 な いため翌日 よくじつ 朝 あさ には壊滅 かいめつ した。第 だい 141連隊 れんたい もまた2個 こ 大隊 だいたい が渡河 とか し、装甲 そうこう 車両 しゃりょう が無 な い状況 じょうきょう にもかかわらず約 やく 1km前進 ぜんしん したが、日 にち が昇 のぼ るとともに大 だい 打撃 だげき を受 う け、1月 がつ 22日 にち 夕刻 ゆうこく に連合 れんごう 軍 ぐん 陣地 じんち に戻 もど った時 とき には40名 めい にまで減少 げんしょう し、事実 じじつ 上 じょう 消滅 しょうめつ した。本 ほん 攻撃 こうげき は第 だい 36師団 しだん が48時 じ 間 あいだ で2,100名 めい の死傷 ししょう ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ という大 おお きな犠牲 ぎせい を払 はら い[12] 、失敗 しっぱい した。
アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん カッシーノ北 きた へ進撃 しんげき : 1月 がつ 24日 にち [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう : 北 きた 区域 くいき (1944年 ねん 1月 がつ 24日 にち –2月 がつ 11日 にち ) 拡大 かくだい
次 つぎ の攻撃 こうげき は1月 がつ 24日 にち に開始 かいし された。アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん はチャールズ・ウォルコット・ライダー 少将 しょうしょう 指揮 しき のアメリカ軍 ぐん 第 だい 34歩兵 ほへい 師団 しだん が先鋒 せんぽう 、フランス植民 しょくみん 地 ち 部隊 ぶたい が右翼 うよく となり、カッシーノ北 きた の氾濫 はんらん したラーピド川 がわ 渓谷 けいこく を渡河 とか 、左 ひだり へ転進 てんしん し高地 こうち からモンテ・カッシーノを攻撃 こうげき することを企図 きと し、山 やま の背後 はいご へ進撃 しんげき した。カッシーノ上流 じょうりゅう の歩 ある いて渡 わた れる箇所 かしょ での渡河 とか は容易 ようい だった一方 いっぽう で、氾濫 はんらん した箇所 かしょ では非常 ひじょう な困難 こんなん が伴 ともな い、特 とく に装甲 そうこう 車両 しゃりょう は鋼鉄 こうてつ の橋梁 きょうりょう の上 うえ を移動 いどう することしかできなかった。第 だい 34師団 しだん は浸水 しんすい 地 ち を越 こ え、ドイツ軍 ぐん 第 だい 44歩兵 ほへい 師団 しだん を押 お し返 かえ し、山地 さんち に足場 あしば を築 きず くのに8日間 にちかん を要 よう した。
右翼 うよく ・フランス軍団 ぐんだん 進軍 しんぐん 停止 ていし [ 編集 へんしゅう ]
右翼 うよく では、フランス軍 ぐん モロッコ 人 ひと 部隊 ぶたい がユリウス・リンゲル 指揮 しき のドイツ軍 ぐん 第 だい 5山岳 さんがく 師団 しだん に対 たい する初期 しょき 攻撃 こうげき で順調 じゅんちょう な滑 すべ り出 だ しを見 み せ、彼 かれ らの重要 じゅうよう 目標 もくひょう であるチファルコ山 さん の傾斜 けいしゃ 部 ぶ を制圧 せいあつ した。第 だい 3アルジェリア師団 しだん の前方 ぜんぽう 部隊 ぶたい はベルヴェデーレ山 やま およびアバテ丘陵 きゅうりょう 攻略 こうりゃく のためチファルコ山 やま を迂回 うかい した。ジュアン将軍 しょうぐん はカッシーノを迂回 うかい し、北側 きたがわ ルートからドイツ軍 ぐん を混乱 こんらん させることができると確信 かくしん したが、そのための予備 よび 戦力 せんりょく の投入 とうにゅう 要請 ようせい は拒否 きょひ され、予備 よび の1個 いっこ 連隊 れんたい (第 だい 36師団 しだん 隷下 れいか )は第 だい 34師団 しだん 増援 ぞうえん に送 おく られた[13] 。1月 がつ 31日 にち 、フランス軍 ぐん はドイツ軍 ぐん により(フランス軍 ぐん およびアメリカ軍 ぐん 側面 そくめん と補給 ほきゅう 線 せん がよく見 み える)チファルコ山 さん で未 いま だ足止 あしど めされていた。フランス軍 ぐん 2個 こ モロッコ師団 しだん はベルヴェデーレ山 やま 周辺 しゅうへん で奮戦 ふんせん し、2,500名 めい の損害 そんがい を受 う けた[14] 。
アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん : カッシーノ北側 きたがわ 山地 さんち [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ第 だい 34師団 しだん の任務 にんむ は(第 だい 36師団 しだん 第 だい 142連隊 れんたい と協力 きょうりょく して)修道院 しゅうどういん の丘 おか 南端 なんたん の尾根 おね と交差 こうさ する丘陵 きゅうりょう にそって南 みなみ に進軍 しんぐん することになった。彼 かれ らはグスタフ・ライン背後 はいご のリーリ川 がわ 渓谷 けいこく に侵入 しんにゅう することが出来 でき たが、それは非常 ひじょう に困難 こんなん な行軍 こうぐん だった。山 やま は岩山 いわやま で大 おお きな岩 いわ が散在 さんざい しており、大小 だいしょう の峡谷 きょうこく で分断 ぶんだん されていた。岩地 いわち にタコツボ を掘 ほ ることは不可能 ふかのう で、地物 ちぶつ は周囲 しゅうい の高地 こうち からの砲撃 ほうげき に対 たい し無 む 防備 ぼうび だった。峡谷 きょうこく もハリエニシダ が群生 ぐんせい しており隠 かく れるところがなく、地雷 じらい ・ブービートラップ・隠 かく された鉄条 てつじょう 網 もう がいたるところに散在 さんざい し状況 じょうきょう は良 よ くなかった。一方 いっぽう 、ドイツ軍 ぐん はダイナマイト を使用 しよう し、弾薬 だんやく を備蓄 びちく し、3ヶ月 かげつ かけて守備 しゅび 陣地 じんち をき上 ずきあ げていた。そこには天然 てんねん の遮蔽 しゃへい 物 ぶつ は無 な く、悪天候 あくてんこう で濡 ぬ れ、凍 い てつくほど寒 さむ かった。
2月 がつ 初旬 しょじゅん までにアメリカ軍 ぐん 歩兵 ほへい はサン・オノフリオ村 むら 付近 ふきん 、修道院 しゅうどういん から1.6kmに満 み たない位置 いち にある戦略 せんりゃく 上 じょう の要衝 ようしょう を制圧 せいあつ した。2月 がつ 7日 にち に1個 いっこ 大隊 だいたい がポイント445(修道院 しゅうどういん のすぐそば、370mと離 はな れていない丸 まる い丘 おか の頂上 ちょうじょう )に到達 とうたつ した。修道 しゅうどう 士 し がドイツ軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん 哨戒 しょうかい 部隊 ぶたい の戦闘 せんとう を見守 みまも っているのを見 み て、アメリカ兵 へい 1個 いっこ 分隊 ぶんたい が速 すみ やかに崖 がけ のような修道院 しゅうどういん の壁 かべ を偵察 ていさつ した。しかし、モンテ・カッシーノを奪取 だっしゅ しようという試 こころ みは、修道院 しゅうどういん 下 か の斜面 しゃめん からの機関 きかん 銃 じゅう による激 はげ しい銃撃 じゅうげき を受 う け中止 ちゅうし された。彼 かれ らの苛烈 かれつ な戦 たたか いにもかかわらず、第 だい 34師団 しだん は修道院 しゅうどういん に通 つう じる尾根 おね の先端 せんたん に陣取 じんど るドイツ軍 ぐん 第 だい 2降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい に阻 はば まれ、593高地 こうち (ドイツ軍 ぐん からは“苦難 くなん の丘 おか ”と呼 よ ばれた)にある最後 さいご の砦 とりで を落 お とすことは出来 でき なかった。
2月 がつ 11日 にち 、モンテ・カッシーノおよびカッシーノに対 たい する3日間 にちかん に渡 わた る最後 さいご の攻撃 こうげき が不首尾 ふしゅび に終 お わったのち、アメリカ軍 ぐん は撤退 てったい した。アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん は2週間 しゅうかん 半 はん の激戦 げきせん のあと、戦闘 せんとう を中止 ちゅうし した。山地 さんち にあった第 だい 34師団 しだん の奮戦 ふんせん は戦争 せんそう 中 ちゅう にあらゆる兵士 へいし が行 おこな った戦 たたか いの中 なか でももっとも素晴 すば らしいものの一 ひと つに数 かぞ えられる[15] 。その見返 みかえ りとして彼 かれ らは歩兵 ほへい 大隊 だいたい の80%を失 うしな い、2,200名 めい の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した[14] [16] 。
2月 がつ 初日 しょにち の高所 こうしょ での戦闘 せんとう ではフォン・ゼンガー・ウント・エッターリンは第 だい 90師団 しだん をガリリャーノからカッシーノ北 きた へ移動 いどう させたが、その消耗 しょうもう 率 りつ の大 おお きさに非常 ひじょう に驚 おどろ いた。彼 かれ は「カッシーノの戦 たたか いを中止 ちゅうし し、新 あたら しい戦線 せんせん を構築 こうちく するべく、私 わたし の権限 けんげん による影響 えいきょう 力 りょく を駆使 くし した。新 あたら しい戦線 せんせん とは事実 じじつ 上 じょう アンツィオ海岸 かいがん 堡の北 きた だった」[17] 。ケッセルリンクはその要求 ようきゅう を却下 きゃっか した。重大 じゅうだい な局面 きょくめん でフォン・ゼンガーは(彼 かれ らが救出 きゅうしゅつ することになっていた)第 だい 15装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん が配置 はいち についている間 あいだ に第 だい 71歩兵 ほへい 師団 しだん を投入 とうにゅう することができた。
連合 れんごう 軍 ぐん は戦闘 せんとう 中 ちゅう 、最初 さいしょ の成功 せいこう の際 さい に予備 よび 戦力 せんりょく をより適切 てきせつ に利用 りよう すれば戦況 せんきょう を決定的 けっていてき に好転 こうてん させることができたかもしれなかった。何人 なんにん かの歴史 れきし 家 か は、その機会 きかい を有効 ゆうこう に利用 りよう しなかったのはクラーク将軍 しょうぐん の経験 けいけん 不足 ふそく によるものだと指摘 してき している。しかし、彼 かれ はカッシーノおよびアンツィオ攻撃 こうげき 双方 そうほう の責任 せきにん 者 しゃ であり、やらなければならないことがあまりに多 おお くありすぎた。この意見 いけん は、第 だい 四 よん 回 かい カッシーノの戦 たたか いの時 とき 、岐路 きろ に立 た ったアンツィオ包囲 ほうい 網 もう 突破 とっぱ について議論 ぎろん するためトラスコットが彼 かれ をつかまえたときトラスコットがなにもできなかったことでも支持 しじ されている。アレクサンダーがカッシーノとアンツィオを(完全 かんぜん に机上 きじょう の論理 ろんり のために)一 いち 司令 しれい 官 かん の指揮 しき 下 か に置 お き、グスタフ・ライン戦線 せんせん をアメリカ第 だい 5軍 ぐん とイギリス第 だい 8軍 ぐん で分担 ぶんたん する事 こと を選 えら んだのに対 たい し、ケッセルリンクは、エーベルハルト・フォン・マッケンゼン 指揮 しき のドイツ軍 ぐん 第 だい 14軍 ぐん にアンツィオの戦闘 せんとう を、グスタフ・ラインはハインリヒ・フォン・フィーティングホフ の第 だい 10軍 ぐん に任 まか せる方 ほう を選 えら んだ。
撤退 てったい したアメリカ軍 ぐん のあとにはアドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん のイギリス第 だい 8軍 ぐん からバーナード・フライバーグ 中将 ちゅうじょう 指揮 しき のニュージーランド軍団 ぐんだん (第 だい 2ニュージーランド師団 しだん および第 だい 4インド師団 しだん )が入 はい った。
第 だい 二 に 回 かい 戦闘 せんとう (アヴェンジャー作戦 さくせん )[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 回 かい 戦闘 せんとう : 攻撃 こうげき 計画 けいかく 拡大 かくだい
アメリカ第 だい 6軍団 ぐんだん がアンツィオで重大 じゅうだい な脅威 きょうい に晒 さら されていたとき、フライバーグもまたカッシーノ解放 かいほう 作戦 さくせん 発動 はつどう のため同様 どうよう のプレッシャーに晒 さら されていた。そのためにまたもや十分 じゅうぶん な準備 じゅんび もないまま戦闘 せんとう を開始 かいし した。その上 うえ 、軍団 ぐんだん 指令 しれい 部 ぶ は第 だい 4インド師団 しだん のカッシーノ北 きた 山地 さんち への配置 はいち および彼 かれ らへの補給 ほきゅう の困難 こんなん さを十分 じゅうぶん に理解 りかい していなかった。輸送 ゆそう には尾根 おね や渓谷 けいこく をつたう約 やく 11kmに渡 わた るヤギ道 どう をラバ を使 つか って行 おこな わなければならなかった。そこは修道院 しゅうどういん から丸見 まるみ えで、常 つね に敵 てき の正確 せいかく な砲撃 ほうげき にさらされたため、“デス・バレー”(死 し の谷 たに )と名 な づけられた。このことについて第 だい 2ニュージーランド師 し 団長 だんちょう ハワード・キッペンバーガー 少将 しょうしょう が戦後 せんご 出版 しゅっぱん した自著 じちょ の中 なか で述 の べている。
「
哀 あわ れなディモライン(第 だい 4インド師 し 団長 だんちょう 代理 だいり ハリー・ケネス・ディモライン 准 じゅん 将 しょう のこと)は彼 かれ の師団 しだん を配置 はいち につかせるのにひどく時間 じかん がかかった。私 わたし は戦後 せんご その地 ち を実際 じっさい に見 み るまで、その本当 ほんとう の困難 こんなん さを理解 りかい していなかった。[18]
」
フライバーグの計画 けいかく は、第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう を継続 けいぞく すること、すなわち北 きた の尾根 おね に沿 そ って攻撃 こうげき する、南東 なんとう の線路 せんろ に沿 そ って攻撃 こうげき する、ラーピド川 がわ を越 こ え、カッシーノから南 みなみ へ1kmに満 み たない位置 いち にある駅 えき を制圧 せいあつ する、であった。成功 せいこう の鍵 かぎ はカッシーノの街 まち を孤立 こりつ させ、リーリ川 がわ 渓谷 けいこく 切 き り開 ひら くことだったが、フライバーグは周囲 しゅうい の情勢 じょうせい から攻撃 こうげき 成功 せいこう の確 かく 率 りつ は50%を上回 うわまわ ることはないと確信 かくしん し、上層 じょうそう 部 ぶ に報告 ほうこく した[19] 。
次第 しだい に、一部 いちぶ の連合 れんごう 軍 ぐん 将校 しょうこう の眼 め はモンテ・カッシーノ修道院 しゅうどういん に向 む けられるようになった。彼 かれ らの意見 いけん では、グスタフ・ライン攻略 こうりゃく を妨 さまた げているのは(ドイツ軍 ぐん 砲兵 ほうへい の観測 かんそく 所 しょ として使 つか われているであろう)修道院 しゅうどういん であるということだった。
イギリスの報道 ほうどう およびニューヨーク・タイムズ のC.L.ザルツバーガー は、繰 く り返 かえ し、もっともらしく、かつ詳細 しょうさい に(時 とき にはでっちあげて[要 よう 出典 しゅってん ] )修道院 しゅうどういん 内 ない のドイツ軍 ぐん 観測 かんそく 所 しょ および砲兵 ほうへい 陣地 じんち について書 か いた。連合 れんごう 国 こく 空軍 くうぐん 地中海 ちちゅうかい 方面 ほうめん 総 そう 司令 しれい 官 かん アイラ・エーカー 中将 ちゅうじょう はジェイコブ・デヴァース 中将 ちゅうじょう (連合 れんごう 軍 ぐん 地中海 ちちゅうかい 戦域 せんいき 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ヘンリー・メイトランド・ウィルソン 大将 たいしょう の代理 だいり )を同伴 どうはん し、修道院 しゅうどういん を上空 じょうくう から視察 しさつ した。高度 こうど 1,200から1,500フィート(約 やく 400m)で通過 つうか した際 さい 、修道院 しゅうどういん 中庭 なかにわ に張 は られていた物干 ものほ しロープにドイツ軍 ぐん の制服 せいふく が垂 た れ下 さ がっており、修道院 しゅうどういん の壁 かべ から約 やく 46mのところに機関 きかん 銃座 じゅうざ が据 す え付 つ けられているのを確認 かくにん した[20] 。アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん ジェフリー・キイス少将 しょうしょう もまた何 なん 度 ど か修道院 しゅうどういん 上空 じょうくう を飛行 ひこう している。彼 かれ は第 だい 5軍 ぐん G2(参謀 さんぼう 第 だい 2部 ぶ 、情報 じょうほう 担当 たんとう )に対 たい し、修道院 しゅうどういん にドイツ軍 ぐん がいた形跡 けいせき は見 み られなかったと報告 ほうこく した。修道院 しゅうどういん にドイツ兵 へい を見 み たとする報告 ほうこく が他 た からあったとき、彼 かれ はこう言 い った。「彼 かれ らは長 なが い間 あいだ 調 しら べ、幻 まぼろし を見 み たのだ[21] 。」
キッペンバーガー少将 しょうしょう が明言 めいげん しているものとして、ニュージーランド軍団 ぐんだん 司令 しれい 部 ぶ の見解 けんかい では、修道院 しゅうどういん はそれが完璧 かんぺき な位置 いち にあり、いかなる軍隊 ぐんたい でもそれを利用 りよう しないはずが無 な いので、おそらくドイツ軍 ぐん の主要 しゅよう 観測 かんそく 所 しょ に使用 しよう されているだろうということだった。それに明確 めいかく な証拠 しょうこ は無 な いものの、彼 かれ は軍事 ぐんじ 的 てき 視点 してん から修道院 しゅうどういん が占拠 せんきょ されているかどうかが重要 じゅうよう なのではないと書 か き続 つづ けた。
「
もし今日 きょう 占拠 せんきょ されなければ、それは明日 あした かもしれないし、されないかもしれない。攻撃 こうげき 中 ちゅう に敵 てき が予備 よび 物資 ぶっし を運 はこ び入 い れるかもしれないし、兵 へい が外 そと の陣地 じんち から追 お い出 だ されたらそこに入 はい り掩蔽 えんぺい 壕 ごう とされるかもしれない。このような、砲撃 ほうげき に対 たい して完璧 かんぺき な防御 ぼうぎょ で数 すう 百 ひゃく の歩兵 ほへい を保護 ほご し、重大 じゅうだい な局面 きょくめん での反撃 はんげき に備 そな えうる建造 けんぞう 物 ぶつ が無傷 むきず のままある丘 おか を攻撃 こうげき するよう兵 へい 達 たち に求 もと めることはできない。……その細 ほそ い窓 まど と取 と り付 つ くのに適 てき さない滑 なめ らかな外形 がいけい のそれは無傷 むきず なら完璧 かんぺき な掩蔽 えんぺい 壕 ごう であるが、爆撃 ばくげき により破壊 はかい すれば岩石 がんせき の残骸 ざんがい や瓦礫 がれき の山 やま となり、銃撃 じゅうげき 、迫撃 はくげき 砲 ほう および航空機 こうくうき による機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を受 う けやすく、同様 どうよう に再 ふたた び爆撃 ばくげき すればそこは死 し の落 お とし穴 あな となる。全体 ぜんたい 的 てき に見 み れば、私 わたし は我々 われわれ がそれを爆撃 ばくげき しなければその方 ほう がドイツ軍 ぐん にとって有用 ゆうよう だろうと考 かんが えた。[22]
」
第 だい 4インド師団 しだん のフランシス・トゥーカー 少将 しょうしょう は修道院 しゅうどういん 丘 おか の攻撃 こうげき を任 まか され、状況 じょうきょう を彼 かれ 自身 じしん で評価 ひょうか した。アメリカ第 だい 5軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ の情報 じょうほう には修道院 しゅうどういん の詳細 しょうさい な建設 けんせつ 情報 じょうほう が不足 ふそく していたが、彼 かれ はナポリの書店 しょてん にあった1879年 ねん 出版 しゅっぱん の書籍 しょせき にそれを見 み つけた。彼 かれ のフライバーグ宛 あて のメモによると、彼 かれ は修道院 しゅうどういん が現在 げんざい ドイツ軍 ぐん によって占拠 せんきょ されているかどうかに関 かか わらず、占拠 せんきょ させないために破壊 はかい しなければならない、と結論 けつろん 付 つ けている。彼 かれ はまた、45mの高 たか さの城壁 じょうへき はもっとも厚 あつ い箇所 かしょ で少 すく なくとも3mあり工兵 こうへい が実質 じっしつ 対処 たいしょ できる厚 あつ さではないこと、そして1,000ポンド爆 ばく 弾 だん は“ほとんど役 やく にたない”ため、“ブロックバスター ”による爆 ばく 撃 げき が唯一 ゆいいつ の手段 しゅだん であると指摘 してき した[23] 。
1944年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、第 だい 4インド師 し 団長 だんちょう 代理 だいり ハリー・ディモライン准 じゅん 将 しょう はモンテ・カッシーノ修道院 しゅうどういん 爆 ばく 撃 げき を要請 ようせい した。トゥーカーはカセルタの病床 びょうしょう から修道院 しゅうどういん 爆撃 ばくげき についての問題 もんだい 点 てん を再度 さいど 指摘 してき した。彼 かれ は頻発 ひんぱつ する熱帯 ねったい 性 せい 熱病 ねつびょう のひどい発作 ほっさ に苦 くる しめられていた。2月 がつ 12日 にち 、フライバーグは彼 かれ の要求 ようきゅう を陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい に伝 つた えた。フライバーグの空爆 くうばく に対 たい する要求 ようきゅう はしかし、(おそらくアイラ・エーカーおよびジェイコブ・デヴァースの指図 さしず で)空軍 くうぐん 作戦 さくせん 将校 しょうこう により大 おお きく拡大 かくだい された。彼 かれ らはアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい の地上 ちじょう 作戦 さくせん 支援 しえん 能力 のうりょく を喧伝 けんでん する機会 きかい を探 さが していた[24] 。
アメリカ第 だい 5軍 ぐん のマーク・クラーク中将 ちゅうじょう と彼 かれ の参謀 さんぼう 長 ちょう アルフレッド・グランサー 少将 しょうしょう はまだその軍事 ぐんじ 的 てき 必要 ひつよう 性 せい に納得 なっとく していなかった。アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん とニュージーランド軍団 ぐんだん が交替 こうたい するときアメリカ第 だい 34師団 しだん 長 ちょう 代理 だいり バトラー准 じゅん 将 しょう は言 い った。「私 わたし は知 し らない。しかし、私 わたし は修道院 しゅうどういん に敵 てき はいないと信 しん じる。すべての敵 てき 砲火 ほうか は城壁 じょうへき 下 か の斜面 しゃめん から発砲 はっぽう されていた[25] 。」クラークは連合 れんごう 軍 ぐん イタリア方面 ほうめん 総 そう 司令 しれい 官 かん ハロルド・アレクサンダーにはっきり言 い った。「あなたが私 わたし に直接 ちょくせつ 命令 めいれい すれば、我々 われわれ はそれをやります。」彼 かれ はそうした。
第 だい 2次 じ 大戦 たいせん の戦闘 せんとう 後 ご 、1944年 ねん
廃墟 はいきょ となったモンテ・カッシーノ、1月 がつ -5月 1944年 ねん
爆撃 ばくげき により破壊 はかい された修道院 しゅうどういん
爆 ばく 撃 げき 作戦 さくせん は1944年 ねん 2月 がつ 15日 にち 朝 あさ 、142機 き のB-17フライングフォートレス 、47機 き のB-25ミッチェル および40機 き のB-26マローダー により行 おこな われた。合計 ごうけい 1,150トンに及 およ ぶ高性能 こうせいのう 爆 ばく 弾 だん および焼夷弾 しょういだん が修道院 しゅうどういん に投下 とうか され、モンテ・カッシーノの頂上 ちょうじょう は大量 たいりょう の瓦礫 がれき の煙 けむり の中 なか に崩 くず れ落 お ちた。爆 ばく 撃 げき の間 あいだ 、第 だい 2軍団 ぐんだん の砲兵 ほうへい 隊 たい は山 やま を激 はげ しく砲撃 ほうげき した[26] 。多 おお くの連合 れんごう 軍 ぐん 兵士 へいし と従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ はその光景 こうけい を目 ま の当 あ たりにし、歓声 かんせい をあげた。エーカーとデヴァースはそれを見守 みまも り、ジュアンはその所見 しょけん を聞 き いた。「……ノーだ。この方法 ほうほう では決 けっ してうまくいかないだろう[27] 。」クラークとグランサーはその場 ば に立 た ち会 あ うことを拒 こば み、彼 かれ らの司令 しれい 部 ぶ にいた。同日 どうじつ 午後 ごご および翌日 よくじつ も積極 せっきょく 的 てき に攻撃 こうげき は続 つづ けられた。砲兵 ほうへい 隊 たい の集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか と59機 き の戦闘 せんとう 爆撃 ばくげき 機 き による追加 ついか 爆 ばく 撃 げき は廃墟 はいきょ となった修道院 しゅうどういん の瓦礫 がれき の山 やま を激 はげ しく揺 ゆ るがした。
空爆 くうばく はしかし、空 そら と地上 ちじょう で協調 きょうちょう がとれていなかった。航空 こうくう 隊 たい はそれを個別 こべつ の作戦 さくせん として天候 てんこう と他 た の戦域 せんいき ・戦線 せんせん からの要請 ようせい を考慮 こうりょ しながら計画 けいかく ・実行 じっこう し、地上 ちじょう 軍 ぐん に問 と い合 あ わせることはなかった(実際 じっさい にスネークスヘッドのインド兵 へい は爆 ばく 撃 げき が開始 かいし された時 とき おどろいたという[28] )。爆 ばく 撃 げき はニュージーランド軍団 ぐんだん が主 しゅ 攻撃 こうげき の準備 じゅんび に着手 ちゃくしゅ する2日 にち 前 まえ に行 おこな われた。多 おお くの部隊 ぶたい は2月 がつ 13日 にち にアメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん から陣地 じんち を引 ひ き継 つ いだばかりで、山地 さんち の障害 しょうがい に加 くわ えて谷 たに では新任 しんにん 部隊 ぶたい への総 そう 攻撃 こうげき のための装備 そうび 支給 しきゅう も、絶 た え間 ま ない悪天候 あくてんこう と水没 すいぼつ し歩行 ほこう 不可能 ふかのう な地表 ちひょう により停滞 ていたい していた。
爆 ばく 撃 げき および砲撃 ほうげき により破壊 はかい された修道院 しゅうどういん の内部 ないぶ 。壁 かべ に書 か かれた「PAX」の意味 いみ は「平和 へいわ 」。
ローマ教皇 きょうこう ピウス12世 せい は爆 ばく 撃 げき の後 のち も沈黙 ちんもく を通 とお していた。しかし彼 かれ の外務 がいむ 大臣 だいじん ルイージ・マリオーネ 枢機卿 すうききょう は、バチカン を訪 おとず れたアメリカ上級 じょうきゅう 外交 がいこう 官 かん ハロルド・ティットマンに対 たい し、露骨 ろこつ に言 い った。「(爆 ばく 撃 げき は)壮大 そうだい なる大 だい 間 あいだ 違 ちが い……甚 はなは だしい愚行 ぐこう の一 ひと つ[29] 。」
この出来事 できごと に関 かん するすべての調査 ちょうさ から明 あき らかなことは、爆撃 ばくげき によって殺 ころ された人々 ひとびと が修道院 しゅうどういん に避難 ひなん していたイタリアの民間 みんかん 人 じん のみだったという事実 じじつ である。その日 ひ 、修道院 しゅうどういん に落下 らっか した爆 ばく 弾 だん がドイツ軍 ぐん 兵士 へいし を殺 ころ したという証拠 しょうこ はないが、当時 とうじ の爆 ばく 撃 げき の不正確 ふせいかく さのせいで(高 こう 高度 こうど の重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き から投下 とうか された爆 ばく 弾 だん の10%しか修道院 しゅうどういん に命中 めいちゅう しなかったと評価 ひょうか されている)爆 ばく 弾 だん が他 た のところにも落 お ち、ドイツ軍 ぐん ・連合 れんごう 軍 ぐん 両方 りょうほう の兵士 へいし に死傷 ししょう 者 しゃ が出 で ている。実 み のところ、16発 はつ の爆 ばく 弾 だん がモンテ・カッシーノから27km離 はな れたプレゼンツァーノ にいた第 だい 5軍 ぐん の上 うえ に落 お ち、クラーク将軍 しょうぐん がデスクで書類 しょるい 事務 じむ をしていたトレーラーから数 すう ヤードも離 はな れていないところで爆発 ばくはつ している[30] 。
ディアマーレ修道院 しゅうどういん 長 ちょう (中央 ちゅうおう )とゼンガー・ウント・エッターリン(ドアに手 て をかけている)。1944年 ねん 2月 がつ 。
最初 さいしょ の払暁 ふつぎょう 爆 ばく 撃 げき の翌日 よくじつ 、生 い き残 のこ った民間 みんかん 人 じん のほとんどは廃墟 はいきょ から逃 のが れ、約 やく 40名 めい (修道院 しゅうどういん の地下 ちか で生 い き残 のこ った6人 にん の修道 しゅうどう 士 し 、79歳 さい になる老 ろう 修道 しゅうどう 院長 いんちょう グレゴリオ・ディアマーレ、小作農 こさくのう 家 か 3家族 かぞく 、孤児 こじ あるいは捨 す て子 ご 、重傷 じゅうしょう および瀕死 ひんし の者 もの )のみが残 のこ った。砲兵 ほうへい 隊 たい の集中 しゅうちゅう 砲火 ほうか 、再開 さいかい された爆 ばく 撃 げき および第 だい 4インド師団 しだん による尾根 おね からの攻撃 こうげき ののち、修道 しゅうどう 士 し 達 たち は廃墟 はいきょ となった住 す み処 しょ を動 うご ける者 もの たちとともに去 さ ることを決意 けつい した(2月 がつ 17日 にち 7:30)。老 ろう 修道 しゅうどう 院長 いんちょう はグループを率 ひき いてラバ道 どう をリーリ渓谷 けいこく 方向 ほうこう に下 くだ り、ロザリオの祈 いの り を暗唱 あんしょう した。彼 かれ らがドイツ軍 ぐん 救護 きゅうご 所 しょ に到着 とうちゃく したあと、修道 しゅうどう 士 し に運 はこ ばれていた何人 なんにん かの重傷 じゅうしょう 者 しゃ は野戦 やせん 病院 びょういん に移送 いそう された。第 だい 14装甲 そうこう 軍 ぐん 団長 だんちょう フォン・ゼンガー・ウント・エッターリンを含 ふく むドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう との会見 かいけん ののち、修道 しゅうどう 士 し 達 たち はサン・アンセルモ修道院 しゅうどういん に送 おく られた。一人 ひとり の修道 しゅうどう 士 し カルロマーノ・ペラガッリは修道院 しゅうどういん に戻 もど った。のちに、ドイツ軍 ぐん 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい が廃墟 はいきょ をさまよう彼 かれ を見 み たとき、幽霊 ゆうれい だと思 おも ったという。4月 がつ 13日 にち 以降 いこう 、彼 かれ を見 み た者 もの はいない。
ドイツ軍 ぐん 第 だい 1降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい は修道院 しゅうどういん 廃墟 はいきょ に陣取 じんど り、そこを連合 れんごう 軍 ぐん 攻撃 こうげき 隊 たい にとって深刻 しんこく な問題 もんだい となる観測 かんそく 所 しょ 兼 けん 要塞 ようさい に仕立 したて てあげた。
モンテ・カッシーノでのドイツ軍 ぐん 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい
爆 ばく 撃 げき の夜 よる 、ロイヤル・サセックス連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい (第 だい 4インド師団 しだん 隷下 れいか )がスネークスヘッド・リッジにある彼 かれ らの陣地 じんち から約 やく 64m離 はな れた要所 ようしょ ポイント593を攻撃 こうげき したが、中隊 ちゅうたい は50%の損害 そんがい をうけ失敗 しっぱい した。
次 つぎ の夜 よる 、ロイヤル・サセックス連隊 れんたい は大隊 だいたい 規模 きぼ での攻撃 こうげき を行 おこな うよう命 めい じられたが、開始 かいし 早々 そうそう 悲惨 ひさん なことになった。砲兵 ほうへい 隊 たい は目標 もくひょう のポイント593が近 ちか すぎて友軍 ゆうぐん を誤 あやま 射 い する危険 きけん があり直接 ちょくせつ 支援 しえん に使 つか うことができなかったため、ポイント593の守備 しゅび 隊 たい を支援 しえん 射撃 しゃげき できるポイント575を砲撃 ほうげき するよう計画 けいかく された。その地形 ちけい 上 じょう 、ポイント575への砲撃 ほうげき はスネークスヘッド・リッジの稜線 りょうせん 上 じょう を非常 ひじょう に低 ひく く通過 つうか することになり、何 なん 発 はつ かは集結 しゅうけつ している攻撃 こうげき 中隊 ちゅうたい の中 なか に着弾 ちゃくだん した。再 さい 編成 へんせい 後 ご 、攻撃 こうげき は深夜 しんや に行 おこな われた。戦闘 せんとう は過酷 かこく で時 とき に白兵戦 はくへいせん になったが、守備 しゅび 隊 たい は頑強 がんきょう に持 も ちこたえ、サセックス大隊 だいたい は再 ふたた び50%を越 こ える被害 ひがい をうけ、撃退 げきたい された。この2夜 や で、ロイヤル・サセックス連隊 れんたい は15名 めい いた士官 しかん のうち12名 めい を、攻撃 こうげき に参加 さんか した313名 めい のうち162名 めい を失 うしな った。
2月 がつ 17日 にち 夜 よる 、主 しゅ 攻撃 こうげき が行 おこな われた。第 だい 6ラージプターナ・ライフル連隊 れんたい 第 だい 4大隊 だいたい (以下 いか 、4/6ラージプターナライフル銃 じゅう 隊 たい )はポイント593の攻撃 こうげき を命 めい じられた。消耗 しょうもう したロイヤル・サセックス連隊 れんたい はポイント593が陥落 かんらく したときにそこを通過 つうか してポイント444を攻撃 こうげき するための予備 よび とされた。その間 あいだ に、第 だい 2グルカライフル連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい (以下 いか 、1/2グルカライフル銃 じゅう 隊 たい )および第 だい 9グルカライフル連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい (以下 いか 、1/9グルカライフル銃 じゅう 隊 たい )は修道院 しゅうどういん への直接 ちょくせつ 攻撃 こうげき において斜面 しゃめん や峡谷 きょうこく 中 ちゅう を激 はげ しく戦 たたか ってまわった。グルカ隊 たい はひどい地形 ちけい を越 こ えて行 い ったが、それがヒマラヤ から来 き たグルカ兵 へい に期待 きたい されたことであり、彼 かれ らは山岳 さんがく 戦 せん のエキスパートであり、そして彼 かれ らは成功 せいこう した。それがかすかな望 のぞ みにみえた。再 ふたた び戦闘 せんとう は苛烈 かれつ になったが、進展 しんてん は無 な く、損害 そんがい が増 ふ えるばかりだった。4/6ラージプターナライフル銃 じゅう 隊 たい は196名 めい の士官 しかん と兵 へい を失 うしな い、1/9グルカライフル銃 じゅう 隊 たい は149名 めい 、1/2グルカライフル銃 じゅう 隊 たい は96名 めい を失 うしな った。攻撃 こうげき が失敗 しっぱい したのは明 あき らかだった。2月 がつ 18日 にち 、ディモライン准 じゅん 将 しょう とフライバーグは修道院 しゅうどういん 丘 おか への攻撃 こうげき を中止 ちゅうし させた。
主 しゅ 攻撃 こうげき のもう一方 いっぽう はニュージーランド師団 しだん 第 だい 28(マオリ)大隊 だいたい の2個 こ 中隊 ちゅうたい がラーピド川 かわ を強行 きょうこう 渡河 とか し、カッシーノの駅 えき を獲 え ろうとした。彼 かれ らは成功 せいこう したが、極 きわ めて重大 じゅうだい な、鉄道 てつどう 路 ろ の最後 さいご の峡谷 きょうこく を越 こ える橋 はし を日 ひ の出 で 前 まえ に架 か けることができず、機甲 きこう 部隊 ぶたい の支援 しえん を受 う けることができなかった。連合 れんごう 軍 ぐん 砲兵 ほうへい 隊 たい によって展開 てんかい された煙幕 えんまく の助 たす けによって彼 かれ らの位置 いち は修道院 しゅうどういん 丘 おか のドイツ軍 ぐん 砲兵 ほうへい から隠蔽 いんぺい され、彼 かれ らはその後 ご ほぼ終日 しゅうじつ に渡 わた り陣地 じんち を維持 いじ した。しかし、彼 かれ らは孤立 こりつ し、2月 がつ 18日 にち 午後 ごご に敵 てき 装甲 そうこう 部隊 ぶたい の反撃 はんげき があったときには機甲 きこう 部隊 ぶたい の支援 しえん も対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう もなく、絶望 ぜつぼう 的 てき な状況 じょうきょう になった。司令 しれい 部 ぶ は、(山 やま 沿 ぞ いおよび道路 どうろ 沿 ぞ いに)突破 とっぱ できる見込 みこ みがないことが明 あき らかになると、彼 かれ らに川 かわ を渡 わた り後退 こうたい するよう命 めい じた。そのコースだと非常 ひじょう に近 ちか かった。ドイツ軍 ぐん は駅 えき が占領 せんりょう されたことを非常 ひじょう に憂慮 ゆうりょ しており、ケッセルリンクと第 だい 10軍 ぐん 司令 しれい 官 かん フォン・フィーティングホフとの会話 かいわ 記録 きろく によれば、反撃 はんげき は成功 せいこう するとは思 おも っていなかったという[31] 。
第 だい 三 さん 回 かい 戦闘 せんとう (ディッケンズ作戦 さくせん )[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 三 さん 回 かい 戦闘 せんとう : 攻撃 こうげき 計画 けいかく 拡大 かくだい
(最初 さいしょ の2回 かい の戦闘 せんとう での不運 ふうん な経験 けいけん ののち)第 だい 三 さん 回 かい 戦闘 せんとう では、冬 ふゆ の天候 てんこう が続 つづ く中 なか 、ラーピド川 がわ のカッシーノ下流 かりゅう を渡河 とか するというおよそ魅力 みりょく に欠 か ける選択 せんたく がなされた。山地 さんち で大 おお きな犠牲 ぎせい を払 はら い失敗 しっぱい していた“右 みぎ フック”は、ラーピド川 がわ 渓谷 けいこく 沿 ぞ いの北 きた から二 に 面 めん 攻撃 こうげき を仕掛 しか けることにした。一手 いって は要塞 ようさい 化 か されたカッシーノの街 まち 方面 ほうめん へ、もう一 いち 手 て は修道院 しゅうどういん 丘 おか へ。
この狙 ねら いは、南 みなみ の駅 えき とリーリ川 がわ 渓谷 けいこく との間 あいだ でボトルネックとなっているところに道 みち を切 き り開 ひら くことであった。2月 がつ 後半 こうはん に現地 げんち に到着 とうちゃく し、ニュージーランド軍団 ぐんだん の指揮 しき 下 か に入 はい っていたイギリス軍 ぐん 第 だい 78歩兵 ほへい 師団 しだん がその後 ご ラーピド川 がわ のカッシーノ下流 かりゅう を渡河 とか し、ローマへの進軍 しんぐん を開始 かいし するという計画 けいかく だった。
この計画 けいかく を喜 よろこ ぶ連合 れんごう 軍 ぐん 指揮 しき 官 かん はいなかったが、前例 ぜんれい のない規模 きぼ での重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き による準備 じゅんび 爆撃 ばくげき が切 き り札 ふだ となることが期待 きたい されていた。天候 てんこう のよい日 ひ が3日間 にちかん 続 つづ くことが必要 ひつよう とされ、部隊 ぶたい が濡 ぬ れて凍 こお り付 つ くような寒 さむ さの陣地 じんち でその天気 てんき 予報 よほう を待 ま つ中 なか 、攻撃 こうげき は21日間 にちかん 続 つづ けて延期 えんき された。事態 じたい は第 だい 2ニュージーランド師 し 団長 だんちょう キッペンバーガー少将 しょうしょう に味方 みかた しなかった。彼 かれ は対人 たいじん 地雷 じらい により両足 りょうあし を失 うしな い、グレアム・パーキンソン准 じゅん 将 しょう が後 こう を引 ひ き継 つ いだ。よいニュースといえば、アンツィオでドイツ軍 ぐん の反撃 はんげき が失敗 しっぱい ・中止 ちゅうし されたということくらいだった。
第 だい 三 さん 回 かい 戦闘 せんとう は3月15日 にち に始 はじ まった。遅延 ちえん 信管 しんかん 付 づけ 1,000ポンド爆 ばく 弾 だん 750トンが投下 とうか されたのち[32] 、8:30からの3時 じ 間 あいだ 半 はん 、ニュージーランド部隊 ぶたい は746門 もん の砲 ほう による弾幕 だんまく 射撃 しゃげき の下 した 、進撃 しんげき した[32] 。成功 せいこう の可否 かひ は爆撃 ばくげき により敵 てき を陣地 じんち 内 ない に釘付 くぎづ けにしている間 あいだ をうまく利用 りよう できるかどうかにかかっていた。しかし、守備 しゅび 隊 たい は期待 きたい したより早 はや く回復 かいふく し、連合 れんごう 軍 ぐん 機甲 きこう 部隊 ぶたい は爆 ばく 撃 げき でできた穴 あな に足止 あしど めされていた。それにもかかわらず、成功 せいこう の鍵 かぎ はニュージーランド部隊 ぶたい の手中 しゅちゅう にあったが、それも左翼 さよく に対 たい する追撃 ついげき をその夜 よる に命 めい じられるころにはすでに遅 おそ きに失 しっ していた。守備 しゅび 隊 たい は再 さい 編成 へんせい し、より致命 ちめい 的 てき な事 こと に天気 てんき 予報 よほう は外 はず れ雨 う が再 ふたた び降 ふ り始 はじ めた。土砂降 どしゃぶ りの雨 あめ は爆 ばく 撃 げき でできた穴 あな にあふれ、瓦礫 がれき は沼地 ぬまち に変 か わり、無線 むせん 機 き は絶 た え間 ま ない浸水 しんすい に耐 た えることができず、通信 つうしん は途絶 とぜつ した。黒 くろ い雨雲 あまぐも はまた月光 げっこう を遮 さえぎ り、廃墟 はいきょ への道 みち を切 き り開 ひら く任務 にんむ を妨 さまた げた。右翼 うよく では、ニュージーランド部隊 ぶたい がキャッスル・ヒルとポイント165を制圧 せいあつ し、計画 けいかく によりアレクサンダー・ギャロウェイ少将 しょうしょう が指揮 しき する第 だい 4インド師団 しだん 隷下 れいか の部隊 ぶたい がポイント236を攻撃 こうげき するため通過 つうか 、ハングマンズ・ヒル(ポイント435)に向 む かった。高地 こうち でのドサクサに紛 まぎ れて、1/9グルカライフル銃 じゅう 隊 たい の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい は、1/6ラージプターナライフル銃 じゅう 隊 たい がポイント236を攻撃 こうげき し撃退 げきたい されている間 あいだ に、ポイント236を迂回 うかい する道 みち をとりポイント435を制圧 せいあつ した。
3月17日 にち の終 お わりまでにグルカ隊 たい は修道院 しゅうどういん から約 やく 230mのハングマンズ・ヒル(ポイント435)を大隊 だいたい 規模 きぼ で確保 かくほ し(彼 かれ らの補給 ほきゅう 線 せん はポイント236および街 まち 北側 きたがわ のドイツ軍 ぐん により危 あや うい状態 じょうたい だったが)、街 まち の守備 しゅび 隊 たい が激 はげ しく応戦 おうせん している間 あいだ にニュージーランド部隊 ぶたい と機甲 きこう 部隊 ぶたい はボトルネックを通過 つうか し駅 えき を占領 せんりょう した。しかし、ドイツ軍 ぐん はいまだ街 まち の守備 しゅび 隊 たい に増援 ぞうえん を送 おく る事 こと ができ、街 まち の一応 いちおう 解放 かいほう した地区 ちく に狙撃 そげき 手 しゅ を潜 もぐ りこませるのがうまかった[33] 。
3月19日 にち は、街 まち と修道院 しゅうどういん に対 たい し決定的 けっていてき な一 いち 撃 げき を与 あた える日 ひ と計画 けいかく されており、それには第 だい 20機甲 きこう 旅団 りょだん の戦車 せんしゃ 隊 たい による、カイロからアルバネータ農場 のうじょう を経由 けいゆ し(闇夜 やみよ に隠 かく れて工兵 こうへい 隊 たい が準備 じゅんび を行 おこな う)修道院 しゅうどういん に向 む かう奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき も含 ふく まれていた。しかし、修道院 しゅうどういん からのドイツ軍 ぐん 第 だい 1降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん による奇襲 きしゅう および激 はげ しい反撃 はんげき をうけ、キャッスルおよびハングマンズ・ヒルからの攻撃 こうげき は完全 かんぜん に崩壊 ほうかい した。戦車 せんしゃ は歩兵 ほへい を支援 しえん することができず、午後 ごご 半 なか ばにはすべて破壊 はかい された[34] 。街 まち では攻撃 こうげき 隊 たい がわずかな進展 しんてん もなく、全体 ぜんたい として主導 しゅどう 権 けん は修道院 しゅうどういん の丘 おか への入 い り口 くち となるキャッスル・ヒルのドイツ軍 ぐん に握 にぎ られ、早期 そうき 成功 せいこう のいかなる可能 かのう 性 せい をも打 う ち砕 くだ かれた。
3月 がつ 20日 はつか 、フライバーグは第 だい 78歩兵 ほへい 師団 しだん 隷下 れいか の部隊 ぶたい に以下 いか の指示 しじ を与 あた えた。第 だい 一 いち に、街 まち に大 だい 部隊 ぶたい を駐留 ちゅうりゅう させ、ドイツ軍 ぐん に侵入 しんにゅう されないように一掃 いっそう すること。第 だい 二 に に、キャッスル・ヒルに増援 ぞうえん を送 おく り、ドイツ軍 ぐん が街 まち の守備 しゅび 隊 たい を増援 ぞうえん するために使用 しよう しているキャッスル・ヒルおよびポイント175、165の間 あいだ の2つのルートから孤立 こりつ させること[35] 。連合 れんごう 軍 ぐん 指揮 しき 官 かん は彼 かれ らが3月21日 にち まで続 つづ いた過酷 かこく な戦 たたか いが成功 せいこう の寸前 すんぜん にあると感 かん じていた。しかし、守備 しゅび 隊 たい は動 どう じなかった。街 まち では連合 れんごう 軍 ぐん が家 いえ を一 いち 軒 けん 一 いち 軒 けん 進 すす む間 あいだ 、ドイツ軍 ぐん の増援 ぞうえん ルートを遮断 しゃだん するポイント445への攻撃 こうげき はぎりぎりのところで失敗 しっぱい した。
3月23日 にち 、アレクサンダーは麾下 きか の指揮 しき 官 かん らと会合 かいごう した。一連 いちれん の見解 けんかい では勝利 しょうり の可能 かのう 性 せい について述 の べられたが、ニュージーランドおよびインド師団 しだん は疲 つか れ果 はて て、限界 げんかい に近 ちか づいている事 こと は明白 めいはく だった。フライバーグは戦闘 せんとう を継続 けいぞく することはできないと判断 はんだん し、戦闘 せんとう 中止 ちゅうし を宣言 せんげん した[36] 。数 すう 週間 しゅうかん 後 ご イタリア戦域 せんいき 司令 しれい 官 かん アレクサンダーはキッペンバーガーとの会話 かいわ の中 なか でドイツ第 だい 1降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん について「ドイツ軍 ぐん 最高 さいこう の師団 しだん 」と述 の べ[37] 批判 ひはん を受 う けたが、それは当 あ たっていた。
ニュージーランド軍 ぐん の捕虜 ほりょ になったドイツ兵 へい 。1944年 ねん 3月 がつ 。
次 つぎ の3日間 にちかん 戦線 せんせん は落 お ち着 つ いていた。孤立 こりつ していたグルカ隊 たい をハングマンズ・ヒルから引 ひ き抜 ぬ き、ポイント202で同様 どうよう に孤立 こりつ してにいた第 だい 24ニュージーランド大隊 だいたい へ派遣 はけん した。連合 れんごう 軍 ぐん 戦線 せんせん は消耗 しょうもう した第 だい 4インド師団 しだん および第 だい 2ニュージーランド師団 しだん が後退 こうたい し、山々 やまやま にはイギリス軍 ぐん 第 だい 78師団 しだん が、街 まち にはイギリス軍 ぐん 第 だい 1近衛 このえ 旅団 りょだん が配置 はいち についた。第 だい 4インド師団 しだん は3,000名 めい 、ニュージーランド師団 しだん では1,600名 めい が死傷 ししょう あるいは行方 ゆくえ 不明 ふめい になった[38] 。
ドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい もまた高 たか い代償 だいしょう を払 はら った。ドイツ軍 ぐん 第 だい 14軍団 ぐんだん の3月23日 にち 付 づけ の日誌 にっし によると、前線 ぜんせん にいた大隊 だいたい はそれぞれ40名 めい から120名 めい にまで減 へ っていた[39] 。
第 だい 四 よん 回 かい 戦闘 せんとう : 攻撃 こうげき 計画 けいかく
アレクサンダーのイタリアでの戦略 せんりゃく は、
「
……敵 てき にその時点 じてん で最大 さいだい 数 すう の師団 しだん をイタリアに投入 とうにゅう させるために海峡 かいきょう 横断 おうだん 侵攻 しんこう 作戦 さくせん は発動 はつどう された。[40]
」
というものだったが、ここモンテ・カッシーノの戦況 せんきょう は彼 かれ にそれを実現 じつげん するための準備 じゅんび を行 おこな う時間 じかん を与 あた えた。彼 かれ の計画 けいかく はオリバー・リーズ 指揮 しき のイギリス第 だい 8軍 ぐん の大半 たいはん をアドリア海 あどりあかい 戦線 せんせん から山脈 さんみゃく を越 こ えアメリカ第 だい 5軍 ぐん と合流 ごうりゅう させ、カッシーノと海岸 かいがん との間 あいだ の30kmの前線 ぜんせん を進撃 しんげき させるというものだった。アメリカ第 だい 5軍 ぐん (アメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん およびフランス海外 かいがい 派遣 はけん 軍団 ぐんだん )は左翼 さよく を担当 たんとう し、イギリス第 だい 8軍 ぐん (イギリス第 だい 8軍団 ぐんだん および第 だい 2ポーランド軍団 ぐんだん )は右翼 うよく を担当 たんとう した。春 はる の到来 とうらい で天候 てんこう と地上 ちじょう の状態 じょうたい も好転 こうてん し、大 だい 規模 きぼ 部隊 ぶたい と機甲 きこう 部隊 ぶたい を効果 こうか 的 てき に展開 てんかい させることが可能 かのう になった。
「ダイアデム作戦 さくせん 」 (Operation Diadem、王冠 おうかん 作戦 さくせん )は以下 いか のように計画 けいかく された。
左翼 さよく のアメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん が海岸 かいがん をルート7号線 ごうせん に沿 そ ってローマ方面 ほうめん へ攻 せ め上 あ がる。
右翼 うよく のフランス軍団 ぐんだん はガリリャーノ川 がわ の橋頭堡 きょうとうほ から攻 せ める。この橋頭堡 きょうとうほ は1月 がつ の第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう で第 だい 10軍団 ぐんだん がアウルンチ山脈 さんみゃく に築 きず いたもので、海岸 かいがん 平野 へいや とリーリ渓谷 けいこく の間 あいだ に障壁 しょうへき が形成 けいせい されていた。
前線 ぜんせん 中央 ちゅうおう 右側 みぎがわ のイギリス第 だい 13軍団 ぐんだん は、4月 がつ 24日 にち に右手 みぎて のヴワディスワフ・アンデルス 指揮 しき の第 だい 2ポーランド軍団 ぐんだん (第 だい 3および第 だい 5師団 しだん )がカッシーノ後方 こうほう 山地 さんち の第 だい 78師団 しだん と交替 こうたい している間 あいだ に、リーリ渓谷 けいこく に沿 そ って攻 せ め、(2月 がつ に第 だい 4インド師団 しだん が失敗 しっぱい した)修道院 しゅうどういん と背後 はいご の山地 さんち を分断 ぶんだん し、リーリ渓谷 けいこく に進入 しんにゅう してポーランド軍団 ぐんだん と合流 ごうりゅう し、カッシーノを包囲 ほうい する。それは前任 ぜんにん の第 だい 4インド師団 しだん より大 おお きな戦力 せんりょく で行 おこな い、ドイツ軍 ぐん 陣地 じんち を集中 しゅうちゅう 砲撃 ほうげき して敵 てき が互 たが いの陣地 じんち を支援 しえん できないようにすることが期待 きたい された。
天候 てんこう と地上 ちじょう の状態 じょうたい は好転 こうてん し、重要 じゅうよう 物資 ぶっし の補給 ほきゅう も滞 とどこお り無 な く行 おこな われた。再 ふたた びポーランドおよびイギリス軍団 ぐんだん よる挟撃 きょうげき 機動 きどう がすべての作戦 さくせん 成功 せいこう の鍵 かぎ となった。カナダ第 だい 1軍団 ぐんだん は期待 きたい された突破 とっぱ がなされたときに投入 とうにゅう する予備 よび 戦力 せんりょく とされた。一旦 いったん ドイツ軍 ぐん 第 だい 10軍 ぐん が撃退 げきたい されれば、アメリカ第 だい 6軍団 ぐんだん がアンツィオ海岸 かいがん 堡の包囲 ほうい 網 もう を突破 とっぱ し、アルバーノ丘陵 きゅうりょう のドイツ軍 ぐん の撤退 てったい を遮 さえぎ る。
彼 かれ らは奇襲 きしゅう 効果 こうか を狙 ねら っていたため、部隊 ぶたい の展開 てんかい も小 しょう 部隊 ぶたい 単位 たんい で行 おこな わなければならず、それには2ヶ月 かげつ 必要 ひつよう とされた。また、アメリカ第 だい 36師団 しだん を上陸 じょうりく 作戦 さくせん の訓練 くんれん に向 むか わせ、道路 どうろ 標識 ひょうしき を設置 せっち し、ダミーの無線 むせん 通信 つうしん を行 おこな い、ローマ北 きた への上陸 じょうりく 作戦 さくせん を計画 けいかく していると見 み せかけた。これはドイツ軍 ぐん 予備 よび 戦力 せんりょく をグスタフ・ラインから引 ひ き離 はな すことを狙 ねら っていた。第 だい 一線 いっせん の部隊 ぶたい の展開 てんかい は夜間 やかん のみに制限 せいげん され、アドリア海 あどりあかい 戦線 せんせん から移動 いどう した機甲 きこう 部隊 ぶたい は敵 てき 偵察 ていさつ 機 き に気 き づかれないようにするため、ダミーの戦車 せんしゃ や車両 しゃりょう を後 のち に残 のこ した。偽装 ぎそう 工作 こうさく はうまく行 い き、ケッセルリンクは最後 さいご のカッシーノの戦闘 せんとう の2日 にち 前 まえ になってようやく連合 れんごう 軍 ぐん 6個 こ 師団 しだん がカッシーノ前線 ぜんせん のドイツ軍 ぐん 4個 こ 師団 しだん に対峙 たいじ しているのに気 き づいた。正確 せいかく には13個 こ 師団 しだん だったが。
5月11日 にち から12日 にち にかけてのカッシーノへの最初 さいしょ の攻撃 こうげき は23:00に第 だい 8軍 ぐん の1,000門 もん と第 だい 5軍 ぐん の600門 もん からなる大 だい 規模 きぼ 砲撃 ほうげき によって火蓋 ひぶた が切 き られた。受 う け持 も ったのはイギリス軍 ぐん 、アメリカ軍 ぐん 、ポーランド軍 ぐん 、ニュージーランド軍 ぐん 、南 みなみ アフリカ軍 ぐん 、およびフランス軍 ぐん 。1時 じ 間 あいだ 半 はん 以内 いない に攻撃 こうげき は4つの戦 せん 区 く すべてに広 ひろ がった。夜明 よあ けまでアメリカ第 だい 2軍団 ぐんだん はほとんど前進 ぜんしん しなかったが、同 おな じ第 だい 5軍 ぐん 隷下 れいか のフランス軍団 ぐんだん は任務 にんむ を遂行 すいこう し、彼 かれ らの右手 みぎて 第 だい 8軍 ぐん 方向 ほうこう のアウルンチ山脈 さんみゃく に展開 てんかい 、2つの軍 ぐん の間 あいだ のドイツ軍 ぐん 陣地 じんち を包囲 ほうい した。第 だい 8軍 ぐん 先鋒 せんぽう 第 だい 13軍団 ぐんだん はイギリス第 だい 4歩兵 ほへい 師団 しだん および第 だい 8インド師団 しだん がラーピド川 がわ を渡河 とか した。極 きわ めて重要 じゅうよう だったのは、ダドリー・ラッセル 指揮 しき の第 だい 8インド師団 しだん の工兵 こうへい 隊 たい が、朝 あさ までに第 だい 1カナダ機甲 きこう 旅団 りょだん の装甲 そうこう 車両 しゃりょう が通過 つうか するために不可欠 ふかけつ な川 かわ への架橋 かきょう に成功 せいこう したことだった(第 だい 一 いち 回 かい 戦闘 せんとう ではアメリカ軍 ぐん が、第 だい 二 に 回 かい 戦闘 せんとう ではニュージーランド軍 ぐん がこれに失敗 しっぱい していた)。第 だい 1カナダ機甲 きこう 旅団 りょだん は予想 よそう されるドイツ軍 ぐん 戦車 せんしゃ 隊 たい の反撃 はんげき を撃退 げきたい する任務 にんむ を帯 お びていた。カッシーノ上方 かみがた の山地 さんち ではポーランド軍 ぐん 歩兵 ほへい 隊 たい が3日間 にちかん かけてほとんど前進 ぜんしん できず、双方 そうほう に大 おお きな被害 ひがい を出 だ した。第 だい 4落下傘 らっかさん 連隊 れんたい のヘイルマン大佐 たいさ は、破壊 はかい された街 まち を「ミニチュア・ヴェルダン 」と呼 よ んだ。今日 きょう に至 いた るまで、この戦 たたか いにおけるポーランド兵 へい の働 はたら きはポーランド国民 こくみん の大 おお きな誇 ほこ りの源 みなもと となっている。
沿岸 えんがん や山地 さんち で消耗 しょうもう 戦 せん が続 つづ く中 なか 、5月12日 にち 午後 ごご までにはラーピド川 がわ 橋頭堡 きょうとうほ は猛烈 もうれつ な反撃 はんげき をよそに増強 ぞうきょう された。5月13日 にち には攻撃 こうげき の効果 こうか が出 で 始 はじ めた。ドイツ軍 ぐん 右翼 うよく は第 だい 5軍 ぐん の前 まえ に崩 くず れ初 はじ め、フランス軍団 ぐんだん はマイオ山 さん を占領 せんりょう し第 だい 8軍 ぐん を側面 そくめん から援護 えんご ができる位置 いち に進出 しんしゅつ していた。第 だい 8軍 ぐん に対 たい しケッセルリンクはすべての予備 よび 戦力 せんりょく を投入 とうにゅう させ、約 やく 13km後方 こうほう に第 だい 二 に の防衛 ぼうえい ライン「ヒトラー・ライン」を構築 こうちく するための時間 じかん を稼 かせ ぐよう命 めい じた。5月14日 にち 、リーリ渓谷 けいこく と平行 へいこう して山 やま を伝 つた って移動 いどう したモロッコ 兵 へい グミエ は、そのような地形 ちけい を横断 おうだん することが不可能 ふかのう だと考 かんが えられていたため敵 てき の抵抗 ていこう を受 う けず、谷 たに のドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい を包囲 ほうい しようとしていた第 だい 13軍団 ぐんだん を支援 しえん した。グミエはモロッコ・タボール群 ぐん (GTM)4個 こ 群 ぐん からなり、各 かく 群 ぐん は緩 ゆる い編成 へんせい (だいたい大隊 だいたい 相当 そうとう )の3個 こ タボールで構成 こうせい された。ジュアンのフランス海外 かいがい 派遣 はけん 軍団 ぐんだん はオーギュスタン・ギヨーム 将軍 しょうぐん [41] のモロッコ・グム戦闘 せんとう 隊 たい (Commandement des Goums Marocains、CGM)(第 だい 1、第 だい 3および第 だい 4GTM。約 やく 7,800名 めい の兵士 へいし からなり[42] 、概 がい して歩兵 ほへい 師団 しだん 並 なみ の戦力 せんりょく であった)と他 た に4個 こ の通常 つうじょう 師団 しだん (第 だい 2モロッコ歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 3アルジェリア歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 4モロッコ山岳 さんがく 師団 しだん および第 だい 1自由 じゆう フランス師団 しだん )からなっていた。
5月15日 にち 、予備 よび 戦力 せんりょく だったイギリス第 だい 78師団 しだん はカッシーノをリーリ渓谷 けいこく から分断 ぶんだん するため、橋頭堡 きょうとうほ を通過 つうか し第 だい 13軍団 ぐんだん 戦線 せんせん に投入 とうにゅう された。5月17日 にち 、ポーランド師団 しだん は山地 さんち での攻撃 こうげき を再開 さいかい した。5月18日 にち の早 はや いうちに第 だい 78師団 しだん とポーランド師団 しだん はリーリ渓谷 けいこく のカッシーノから3kmの地点 ちてん で合流 ごうりゅう した。
クラクフ 聖 せい マリア教会 きょうかい 伝統 でんとう の時報 じほう 譜 ふ Hejnał mariacki (ヘイナウ・マリアツキ)を吹奏 すいそう し、ドイツ軍 ぐん の撤退 てったい を知 し らせるポーランド軍 ぐん らっぱ手 しゅ Emil Czech二 に 等 とう 伍長 ごちょう
5月18日 にち 早朝 そうちょう 、ポーランド軍 ぐん 第 だい 12ポジーリャ ウーラン 連隊 れんたい の偵察 ていさつ 隊 たい は、修道院 しゅうどういん が既 すで に放棄 ほうき されているのを発見 はっけん し、廃墟 はいきょ に即興 そっきょう で連隊 れんたい 旗 はた を揚 あ げた。最後 さいご のドイツ軍 ぐん 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい (およそ200名 めい ほどがいたといわれる)は補給 ほきゅう 線 せん がリーリ渓谷 けいこく へ進軍 しんぐん してきた連合 れんごう 軍 ぐん により脅 おびや かされたため、新 あたら しい防衛 ぼうえい 陣地 じんち ヒトラー・ラインが完成 かんせい する前 まえ の夜間 やかん に撤退 てったい していた。
守備 しゅび 隊 たい で残 のこ ったのはやせ衰 おとろ えて動 うご けない病人 びょうにん と重傷 じゅうしょう 者 しゃ だけだった。
第 だい 8軍 ぐん はリーリ渓谷 けいこく を進撃 しんげき し、第 だい 5軍 ぐん は沿岸 えんがん をヒトラー・ライン(アドルフ・ヒトラー がそこが陥落 かんらく したときの重大 じゅうだい さから「ゼンガー・ライン」に改名 かいめい させた)へ向 む かった。直後 ちょくご の攻撃 こうげき は失敗 しっぱい し第 だい 8軍 ぐん は再 さい 編成 へんせい に少 すこ し時間 じかん をかけることにした。20,000台 だい の車両 しゃりょう と2,000両 りょう の戦車 せんしゃ が破壊 はかい されたグスタフ・ラインを通過 つうか するのに数日 すうじつ かかった。次 つぎ の攻撃 こうげき は5月23日 にち に開始 かいし された。ポーランド軍団 ぐんだん はピエディモンテ (第 だい 1降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん が守備 しゅび していた)を右 みぎ から攻撃 こうげき し、(第 だい 8軍 ぐん の予備 よび から到着 とうちゃく したばかりの)第 だい 1カナダ歩兵 ほへい 師団 しだん は中央 ちゅうおう から攻撃 こうげき した。5月24日 にち 、カナダ軍 ぐん は敵前 てきぜん 線 せん に穴 あな を開 あ け、第 だい 5カナダ(機甲 きこう 化 か )師団 しだん がそのギャップになだれ込 こ んだ。5月25日 にち 、ポーランド軍 ぐん はピエディモンテを占領 せんりょう し、敵 てき 戦線 せんせん は崩壊 ほうかい した。ローマとその先 さき へ続 つづ く道 みち は開 ひら かれた。
カナダ軍 ぐん とポーランド軍 ぐん は5月23日 にち に攻撃 こうげき を開始 かいし した。解任 かいにん されたジョン・ポーター・ルーカス に代 か わりアメリカ第 だい 6軍団 ぐんだん 長 ちょう になったルシアン・トラスコット は、アンツィオ橋頭堡 きょうとうほ にあった7個 こ 師団 しだん のうち5個 こ (アメリカ軍 ぐん 3個 こ 、イギリス軍 ぐん 2個 こ )を使用 しよう し、二面 ふたおもて 攻撃 こうげき を仕掛 しか けた。ドイツ第 だい 14軍 ぐん はこの攻勢 こうせい に装甲 そうこう 師団 しだん なしで応対 おうたい しなければならなかった。なぜならケッセルリンクが装甲 そうこう 師団 しだん をカッシーノの第 だい 10軍 ぐん 増援 ぞうえん のため南 みなみ へ送 おく っていたからである。ただ一 ひと つの装甲 そうこう 師団 しだん 、第 だい 26装甲 そうこう 師団 しだん はローマ北 きた から輸送 ゆそう され、(連合 れんごう 軍 ぐん の偽装 ぎそう 工作 こうさく により)存在 そんざい しない連合 れんごう 軍 ぐん 上陸 じょうりく 作戦 さくせん を待 ま ち続 つづ け、戦 たたか うことができなかった。
ローマ占領 せんりょう とドイツ第 だい 10軍 ぐん 捕捉 ほそく 失敗 しっぱい [ 編集 へんしゅう ]
5月25日 にち までに、ドイツ第 だい 10軍 ぐん は完全 かんぜん に撤退 てったい した。アメリカ第 だい 6軍団 ぐんだん は彼 かれ らの撤退 てったい を遮 さえぎ るために東 ひがし へ移動 いどう した。翌日 よくじつ までに彼 かれ らは退路 たいろ を塞 ふさ いでおり、ケッセルリンクのすべての予備 よび 戦力 せんりょく を含 ふく むドイツ第 だい 10軍団 ぐんだん は彼 かれ らに向 む かい、網 あみ にかかった。この時 とき 、驚 おどろ くべき事 こと に、マーク・クラークはトラスコットに彼 かれ の北東 ほくとう 方向 ほうこう に向 む かっていた攻撃 こうげき 進路 しんろ 変更 へんこう し、ルート6号線 ごうせん をヴァルモントーネから北西 ほくせい 方向 ほうこう へと進 すす むよう命 めい じた。それはローマに直行 ちょっこう する進路 しんろ だった。このクラークの決断 けつだん の理由 りゆう は明 あかり かになっておらず、論議 ろんぎ のネタになっている。ほとんどの識者 しきしゃ はクラークが最初 さいしょ にローマに入城 にゅうじょう する名誉 めいよ を獲 え たかったためとするが、何人 なんにん かは彼 かれ が疲労 ひろう した部隊 ぶたい を小 しょう 休止 きゅうし させなければならないのではないかと心配 しんぱい していたことを指摘 してき する(にもかかわらず新 あたら しい攻撃 こうげき 命令 めいれい は彼 かれ の部隊 ぶたい にドイツ軍 ぐん の防衛 ぼうえい ライン「カエサル・C・ライン 」を正面 しょうめん から攻撃 こうげき するよう要求 ようきゅう した)。トラスコットはのちに彼 かれ の回顧 かいこ 録 ろく の中 なか で、クラークが「イギリス軍 ぐん が最初 さいしょ にローマに入城 にゅうじょう するために邪 よこしま な計画 けいかく を企 くわだ てているのではないかと懸念 けねん していた」と述 の べており[43] 、それはクラーク自身 じしん の著述 ちょじゅつ の中 なか でも触 ふ れられている。しかし、アレクサンダーは戦闘 せんとう の前 まえ に各 かく 軍 ぐん の担当 たんとう 区域 くいき の境界 きょうかい を明確 めいかく に規定 きてい しており、ローマは第 だい 5軍 ぐん に割 わ り当 あ てられていた。第 だい 8軍 ぐん は、彼 かれ らの任務 にんむ がいつもドイツ第 だい 10軍 ぐん と交戦 こうせん し、できるだけ多 おお くの敵 てき を破壊 はかい することになっていて、北方 ほっぽう に追跡 ついせき を続 つづ けるその進路 しんろ はローマを迂回 うかい することになることに気 き づいていた(実際 じっさい 、彼 かれ らはペルージャ 方面 ほうめん に退却 たいきゃく するドイツ第 だい 10軍 ぐん を6週間 しゅうかん ・360kmに渡 わた り追跡 ついせき し何 なん 度 ど も攻撃 こうげき した)[44] 。
結局 けっきょく 、ドイツ第 だい 10軍 ぐん の7個 こ 師団 しだん [45] が次 つぎ の防衛 ぼうえい ライントラジメーノ・ライン に後退 こうたい してドイツ第 だい 14軍 ぐん と合流 ごうりゅう することができ、その後 ご フィレンツェ 北 きた のゴシック・ライン への撤退 てったい 作戦 さくせん を展開 てんかい した。
1944年 ねん 6月4日 にち 、ローマは陥落 かんらく した。それはノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん のちょうど2日 にち 前 まえ だった。
本 ほん 戦闘 せんとう において、数 すう 多 おお くの軍事 ぐんじ 勲章 くんしょう が授与 じゅよ された。戦闘 せんとう の前半 ぜんはん に参加 さんか した部隊 ぶたい には「カッシーノI」名誉 めいよ 勲章 くんしょう が、そのうち所定 しょてい の戦闘 せんとう に参加 さんか した部隊 ぶたい には補助 ほじょ 勲章 くんしょう も授与 じゅよ された。これらには「モナステリー・ヒル」勲章 くんしょう 、「キャッスル・ヒル」勲章 くんしょう 、および「ハングマンズ・ヒル」勲章 くんしょう がある[46] 。後半 こうはん の戦闘 せんとう に参加 さんか した部隊 ぶたい には「カッシーノII」名誉 めいよ 勲章 くんしょう が授与 じゅよ された[47] 。
修道院 しゅうどういん から美術 びじゅつ 品 ひん を搬出 はんしゅつ するドイツ軍 ぐん 。シュレーゲル中佐 ちゅうさ
戦 たたか いの最中 さいちゅう 、由緒 ゆいしょ あるモンテ・カッシーノ修道院 しゅうどういん はアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい により完全 かんぜん に破壊 はかい された。攻撃 こうげき の前 まえ に、ドイツ空軍 くうぐん 第 だい 1降下 こうか 装甲 そうこう 師団 しだん で整備 せいび 部門 ぶもん の指揮 しき 官 かん を務 つと めていたユリウス・シュレーゲル中佐 ちゅうさ は、修道院 しゅうどういん 図書 としょ 室 しつ にあったキケロ 、ホラティウス 、ウェルギリウス およびセネカ の写本 しゃほん などおよそ1,200冊 さつ の文書 ぶんしょ ・書籍 しょせき と、その他 た ティツィアーノ 、ラファエロ 、ティントレット 、ギルランダイオ 、ブリューゲル およびレオナルド・ダ・ヴィンチ の名画 めいが を含 ふく む美術 びじゅつ 工芸 こうげい 品 ひん をバチカン へ移送 いそう するよう命 めい じた。この賢明 けんめい な処置 しょち のため、これら貴重 きちょう な品々 しなじな は破壊 はかい から逃 のが れることができた。また修道院 しゅうどういん の建築 けんちく 設計 せっけい 図 ず も保全 ほぜん された。
オリジナルの写本 しゃほん と希少 きしょう な工芸 こうげい 品 ひん は大切 たいせつ に移送 いそう された。しかしその後 ご も、修道院 しゅうどういん には病気 びょうき で動 うご けない数 すう 人 にん とそれを看護 かんご するまだ健康 けんこう な修道 しゅうどう 女 おんな 達 たち が残 のこ っていた。ドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう 達 たち は限 かぎ られた労力 ろうりょく と時間 じかん の中 なか 、まだ動 うご ける修道 しゅうどう 女 おんな 達 たち に避難 ひなん するよう説得 せっとく を試 こころ みたが、修道 しゅうどう 女 おんな 達 たち は「病人 びょうにん たちが移送 いそう されない限 かぎ り、ベッドのそばから離 はな れることはできない」と拒否 きょひ した。5月11日 にち 夜 よる にドイツ軍 ぐん は病人 びょうにん らを残 のこ し、修道院 しゅうどういん 北方 ほっぽう へ退却 たいきゃく を開始 かいし した。何人 なんにん かのカトリック教徒 きょうと のドイツ兵 へい がその命令 めいれい に異議 いぎ を唱 とな えた。そのうちの一人 ひとり 、第 だい 305歩兵 ほへい 師団 しだん 第 だい 305砲兵 ほうへい 連隊 れんたい 所属 しょぞく のユルゲン・シュミット 伍長 ごちょう もまた、修道 しゅうどう 女 おんな たちを見捨 みす てるという命令 めいれい を拒否 きょひ した。36歳 さい になるシュトゥットガルト 出身 しゅっしん のベテラン兵 へい であった彼 かれ は、あのスターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん の数少 かずすく ない生 い き残 のこ りであり、ルーテル派 は に所属 しょぞく していた。彼 かれ は直属 ちょくぞく の士官 しかん に対 たい し、自身 じしん の良心 りょうしん に基 もと づき、病人 びょうにん と修道 しゅうどう 士 し ・修道 しゅうどう 女 おんな たちを見殺 みごろ しにできないと訴 うった えた。ドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう もまた、”シュミット伍長 ごちょう にいかなる機器 きき 装備 そうび も人的 じんてき 援助 えんじょ も与 あた えることはできないが、彼 かれ 自身 じしん の責任 せきにん において単独 たんどく で行動 こうどう すること”を許可 きょか した。5月12日 にち 1:00ごろ、シュミットは近所 きんじょ の農家 のうか からぼろぼろの木製 もくせい の荷馬 にうま 車 しゃ と馬 うま を借 か り、彼 かれ の方針 ほうしん についてきた兵 へい たち(ほとんどが二等兵 にとうへい だった)で救出 きゅうしゅつ チームを組織 そしき した。頂上 ちょうじょう の修道院 しゅうどういん に着 つ くとシュミット達 いたる は、病人 びょうにん とそれを看護 かんご している修道 しゅうどう 女 おんな を運 はこ ぶための荷馬 にうま 車 しゃ を用意 ようい してきたことを話 はな し、一緒 いっしょ に来 く るように修道 しゅうどう 女 おんな 達 たち を説得 せっとく した。
シュミットと彼 かれ のチームは病人 びょうにん を荷馬 にうま 車 しゃ に載 の せ、5月12日 にち 7:00ごろ、彼 かれ らはモンテ・カッシーノの北側 きたがわ から、山 やま をゆっくりと下 くだ り退却 たいきゃく した。
シュミット伍長 ごちょう は、彼 かれ の勇敢 ゆうかん な行動 こうどう に対 たい してドイツ当局 とうきょく からは何 なん の勲章 くんしょう も与 あた えられなかったが、モンテ・カッシーノの女性 じょせい 修道 しゅうどう 院長 いんちょう から、何 なに 世紀 せいき も昔 むかし から続 つづ く聖 せい ベネディクトゥス の肖像 しょうぞう が描 えが かれた金 きん メダルを授与 じゅよ された。修道院 しゅうどういん 長 ちょう はメダルを彼 かれ の首 くび にかけ、彼 かれ と彼 かれ の献身 けんしん に対 たい し、短 みじか く祈 いの りを捧 ささ げた[48] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ のモンテ・カッシーノ爆撃 ばくげき に関 かん する見解 けんかい は四半世紀 しはんせいき を経 へ て、大 おお きな変化 へんか を遂 と げた。ドイツ軍 ぐん が修道院 しゅうどういん を利用 りよう していたという“動 うご かぬ証拠 しょうこ ”はアメリカ陸軍 りくぐん 戦史 せんし 総監 そうかん 部 ぶ によって1961年 ねん に記録 きろく から削除 さくじょ された。議会 ぎかい からの質問 しつもん に対 たい し、同 どう 総監 そうかん 部 ぶ は爆 ばく 撃 げき 20周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん で声明 せいめい を発表 はっぴょう した。「(爆 ばく 撃 げき の前 まえ には)少数 しょうすう の憲兵 けんぺい 隊 たい をのぞき、実際 じっさい には修道院 しゅうどういん 内 ない にドイツ軍 ぐん がいたようには見 み えない」アメリカ陸軍 りくぐん の公式 こうしき 記録 きろく への最終 さいしゅう 的 てき な訂正 ていせい は1969年 ねん に行 おこな われ、「修道院 しゅうどういん は実際 じっさい にはドイツ軍 ぐん に占拠 せんきょ されていなかった」と結論 けつろん 付 つ けた。
モンテ・カッシーノで戦 たたか った多 おお くのさまざまな兵士 へいし の中 なか でもっとも強 つよ かった者 もの といえば、おそらくヴォイテク と呼 よ ばれたイラン から来 き たクマ だろう。第 だい 2ポーランド軍団 ぐんだん の第 だい 22弾薬 だんやく 補給 ほきゅう 中隊 ちゅうたい に入隊 にゅうたい し飼育 しいく されていた彼 かれ は戦闘 せんとう 中 ちゅう 多 おお くの砲弾 ほうだん を運 はこ んだ。
戦闘 せんとう が終 お わった翌日 よくじつ 、フランス海外 かいがい 派遣 はけん 軍団 ぐんだん フランス植民 しょくみん 地 ち 部隊 ぶたい のグミエ は周囲 しゅうい の丘 おか で暴 あば れ回 まわ り、イタリア市民 しみん に対 たい し略奪 りゃくだつ 、強姦 ごうかん 、殺人 さつじん 、拷問 ごうもん などいくつかの恐 おそれ るべき悪事 あくじ を働 はたら いた[1] 。以後 いご 、イタリアではこのような犯罪 はんざい を「モロッコ人 じん が働 はたら く悪事 あくじ のような」という意味 いみ の形容詞 けいようし “Marocchinate ” (マロッキナーテ)で表 あらわ すようになった。
モンテ・カッシーノのポーランド人 じん 戦争 せんそう 墓地 ぼち
モンテ・カッシーノ記念 きねん 十 じゅう 字 じ 章 あきら (ポーランド)
モンテ・カッシーノでの戦闘 せんとう が終了 しゅうりょう して間 あいだ もなく、ロンドン にあるポーランド亡命 ぼうめい 政府 せいふ はポーランド軍 ぐん のモンテ・カッシーノでの戦略 せんりゃく 拠点 きょてん 占領 せんりょう を記念 きねん してモンテ・カッシーノ記念 きねん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を制定 せいてい した。のちに、ポーランド人 じん 墓地 ぼち が建設 けんせつ された。
カッシーノ西 にし 郊外 こうがい にあるイギリス連邦 れんぽう 戦争 せんそう 墓地 ぼち はイギリス、ニュージーランド、カナダ、インド、グルカおよび南 みなみ アフリカ兵 へい 戦没 せんぼつ 者 しゃ の墓地 ぼち である。フランス軍 ぐん およびイタリア軍 ぐん 兵士 へいし の墓地 ぼち はリーリ渓谷 けいこく のルート6号線 ごうせん に、アメリカ軍 ぐん 兵士 へいし の墓地 ぼち はアンツィオにある。ドイツ兵 へい 墓地 ぼち はカッシーノのおよそ3km北 きた 、ラーピド渓谷 けいこく にある。
2006年 ねん 、ローマ解放 かいほう のために戦 たたか い、死 し んでいった連合 れんごう 軍 ぐん 兵士 へいし を讃 たた える記念 きねん 碑 ひ が同市 どうし で公開 こうかい された[49] 。
^ Villoresi, Luca. “Barbarigo Teschi e memorie” (Italian). La Repubblica, Culture section (3 June 1994): p. 35. http://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1994/06/03/barbarigo-teschi-memorie.html 2009年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。 .
^ “アーカイブされたコピー ”. 2007年 ねん 10月 がつ 17日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2009年 ねん 8月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b http://www.historylearningsite.co.uk/second_battle_monte_cassino.htm
^ Jordan, D, (2004), Atlas of World War II . Barnes & Noble Books, p. 91
^ Jordan, D, (2004), Atlas of World War II . Barnes & Noble Books, p. 92
^ Time, The Bombing of Monte Cassino
^ Hapgood and Richardson [要 よう ページ番号 ばんごう ]
^ E.D. Smith, The Battles for Monte Cassino , p. 26.
^ E.D. Smith, p. 27.
^ Fred Majdalany, Cassino: Portrait of a Battle , p. 30.
^ Majdalany, p. 90.
^ E.D. Smith, p. 59.
^ E.D. Smith, pp. 63–64 & 68.
^ a b Majdalany, p. 91.
^ Majdalany, p. 87.
^ homeofheroes.com
^ E.D. Smith, p. 69.
^ Majdalany, p. 128.
^ Majdalany, p. 107.
^ Hapgood & Richardson, Monte Cassino , p. 185. 将軍 しょうぐん は3機 き の戦闘 せんとう 爆撃 ばくげき 機 き に護衛 ごえい され1,000フィート(300m)上空 じょうくう を飛行 ひこう した。(共同 きょうどう 執筆 しっぴつ 者 しゃ D.W.Richardsonによるアイラ・エーカーへのインタビューテープより)
^ Hapgood & Richardson, p. 169.
^ Majdalany, pp. 121–122.
^ Majdalany, pp. 114–115.
^ Laurie, Rome-Arno 1944 , p. 14.
^ Majdalany, p. 122.
^ Laurie, pp. 14–15.
^ Gooderson, Cassino , p. 84.
^ Majdalany, p. 142.
^ Hapgood & Richardson, p. 225
^ Hapgood & Richardson, p. 203.
^ Majdalany, p. 161.
^ a b Laurie, p. 15.
^ E.D. Smith, p. 149
^ E.D. Smith, pp. 148-149
^ E.D. Smith, pp. 152-153
^ E.D. Smith, p.154
^ Majdalany, p. 215.
^ Majdalany, p. 194.
^ E.D. Smith, p. 158
^ Majdalany, p. 221.
^ The French Expeditionary Corps in Italy Archived 2008年 ねん 9月 がつ 17日 にち , at the Wayback Machine .
^ Blaxland, Alexander's Generals (the Italian Campaign 1944–1945) , p. 83.
^ Majdalany, p. 256.
^ Anon, The Tiger Triumphs: The Story of Three Great Divisions in Italy , p. 81.
^ Lloyd Clark, Anzio: The Friction of War. Italy and the Battle for Rome 1944 , p. 304.
^ Singh, Sarbans (1993), pg 204.
^ Singh, Sarbans (1993), pg. 204-205.
^ David Hapgood, Monte Cassino , p. ?
^ Memorial unveiled in honour of allies who liberated Rome
Atkinson, Rick. The Day of Battle: The War in Sicily and Italy, 1943-1944 . New York: Henry Holt. ISBN 0-8050-6289-0
Blaxland, Gregory (1979). Alexander's Generals (the Italian Campaign 1944-1945) . London: William Kimber & Co. ISBN 0 7183 0386 5
Bloch, Herbert (1979). The bombardment of Monte Cassino (February 14-16, 1944): A new appraisal . Tipografia Italo-orientale
Böhmler, Rudolf (1964). Monte Cassino: a German View . London: Cassell. OCLC 2752844
Clark, Lloyd (2006). Anzio: The Friction of War. Italy and the Battle for Rome 1944 . London: Headline Publishing Group. ISBN 978 0 7553 1420 1
Ellis, John (2003). Cassino: The Hollow Victory: The Battle for Rome January-June 1944 . Aurum Press. ISBN 1-85410-916-2
Forty, George (2004). Battle For Monte Cassino . Ian Allan Publishing. ISBN 0-7110-3024-3
Gooderson, Ian (2003). Cassino . London: Brassey's. ISBN 1-85753-324-0
Hapgood, David; Richardson, David (2002) [1984]. Monte Cassino: The Story of the Most Controversial Battle of World War II (reprint ed.). Cambridge Mass.: Da Capo Press. pp. 275. ISBN 0-306-81121-9
Hassel, Sven (2003). Monte Cassino . Cassell Military Paperbacks. Cassel. ISBN 0-304-36632-3
Hingston, W.G. (1946). The Tiger Triumphs: The Story of Three Great Divisions in Italy . HMSO for the Government of India. OCLC 29051302
Katz, Robert (2003). The Battle for Rome . Simon & Schuster. ISBN 978-0743216425
Krząstek, Tadeusz (1984). Battle of Monte Cassino, 1944 . Polish Interpress Agency
Laurie, Clayton D. (Revision of 3 October 2003) [1994]. Rome-Arno 1944 . CMH Online bookshelves: WWII Campaigns. Washington: US Army Center of Military History. ISBN 9780160420856 . CMH Pub 72-20. http://www.army.mil/cmh-pg/brochures/romar/72-20.htm
Majdalany, Fred (1957). Cassino: Portrait of a Battle . London: Longmans, Green & Co Ltd.. OCLC 536746
Muhm, Gerhard : German Tactics in the Italian Campaign , http://www.larchivio.org/xoom/gerhardmuhm2.htm
Parker, Matthew (2004). Monte Cassino: The Hardest-Fought Battle of World War II . Doubleday. ISBN 0-385-50985-5
Piekalkiewicz, Janusz (1987). Cassino: Anatomy of the Battle . Historical Times Inc. ISBN 0-918-67832-3
Simpson, Albert F. (1983) [1951]. “Chapter 10. Anzio” . In Craven, Wesley Frank & Cate, James Lea (編 へん ). Volume Three. Europe: Argument to V-E Day, January 1944 to May 1945. Section III - Italy . The Army Air Forces in World War II. University of Chicago Press on behalf of the Office of Airforce History. OCLC 314452493 . https://books.google.com.au/books?id=jTXWGhwBacAC&pg=PR31&source=gbs_selected_pages&cad=0_1&sig=ACfU3U1fBs6pwj1UIfBLWc4DV6nlRjYXaA#PPA325,M1 }
Singh, Sarbans (1993). Battle Honours of the Indian Army 1757 - 1971 . New Delhi: Vision Books. ISBN 81-7094-115-6
Smith, E. D. (1975). The Battles For Monte Cassino . London: Ian Allan Ltd.. ISBN 0-7153-9421-5
Smith, Col. Kenneth V. (1990?). Naples-Foggia 9 September 1943-21 January 1944 . CMH Online bookshelves: World War II Campaigns. Washington: US Army Center of Military History. CMH Pub 72-17. http://www.army.mil/cmh/brochures/naples/72-17.htm
Squire, G.L.A. & Hill P.G.E. (1992). The Surreys in Italy . Clandon, Surrey: The Queen's Royal Surrey Regiment Museum
various authors (2000). Monte Cassino : historia, ludzie, pamięć = history, people, memory . Askon. ISBN 83-87545-25-2
Whiting, Charles (1974). Hunters from the Sky, The German Parachute Corps 1940-1945 . Leo Cooper, London. OCLC 43073002
French Expeditionary Corps in Italy
Phillips, N.C. (1957). Italy Volume I: The Sangro to Cassino . Official History of New Zealand in the Second World War 1939–45. Wellington, New Zealand: War History Branch, Department Of Internal Affairs. http://www.nzetc.org/tm/scholarly/tei-WH2-1Ita.html 2007年 ねん 11月28日 にち 閲覧 えつらん 。
Katri'el Ben-Arie (1985). Die Schlacht bei Monte Cassino 1944 . Rombach Verlag. ISBN 3-7930-0188-1
Janusz Piekałkiewicz (1997). Die Schlacht von Monte Cassino. Zwanzig Völker ringen um einen Berg . Augsburg: Bechtermünz Verlag. ISBN 3-86047-909-1
E. D. Smith (1991). Der Kampf um Monte Cassino 1944 . Stuttgart: Motorbuch Verlag. ISBN 3-613-01095-X
Heinz Konsalik (2004). Sie fielen vom Himmel . Klagenfult: Kaiser. ISBN 3-7043-1329-7
Gerhard Muhm, La tattica tedesca nella campagna d'Italia, in Linea gotica avamposto dei Balcani, a cura di Amedeo Montemaggi - Edizioni Civitas, Roma 1993
DAL VOLTURNO A CASSINO, Gli avvenimenti della campagna d'Italia (1943-45) collegati alla battaglia di Cassino. http://www.dalvolturnoacassino.it/
Melchior Wańkowicz (1993). Szkice spod Monte Cassino . Wiedza Powszechna. ISBN 83-214-0913-X
Melchior Wańkowicz (1989). Bitwa o Monte Cassino . Warsaw: Wydawnictwa MON. ISBN 83-11-07651-0
Melchior Wańkowicz (1990). Monte Cassino . Warsaw: PAX. ISBN 83-211-1388-5
various authors (2000). Monte Cassino : historia, ludzie, pamięć = history, people, memory . Askon. ISBN 83-87545-25-2
various authors (2004). Monte Cassino . Warsaw: Askon. ISBN 83-87545-80-5
Janusz Piekałkiewicz (2003). Monte Cassino . Agencja Wydawnicza Morex. ISBN 83-7250-078-9
Zbigniew Wawer (1994). Monte Cassino 1944 . Bellona. ISBN 83-11-08311-8
Piotra Sych (1963). Сьмерць і салаўі ( Death and nightingales)
various (2004). Беларусы ў бітве за Монтэ-Касіна . Minsk: Беларускі кнігазбор . ISBN 985-6730-76-7
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 41度 ど 29分 ふん 24秒 びょう 東経 とうけい 13度 ど 48分 ふん 50秒 びょう / 北緯 ほくい 41.49000度 ど 東経 とうけい 13.81389度 ど / 41.49000; 13.81389