(Translated by https://www.hiragana.jp/)
グミエ - Wikipedia コンテンツにスキップ

グミエ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

グミエふつ: Goumier)は、1908ねんから1956ねんにかけてフランスぐん所属しょぞくした、支援しえん部隊ぶたいモロッコひと兵士へいし呼称こしょうである。に、植民しょくみん時代じだいフランスりょうスーダンおよびフランスりょうオートボルタのフランスぐんにおいて現地げんちみん兵士へいしときにももちいられた。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

Goumier というかたりアラビアマグリブ方言ほうげんで「起立きりつする」を意味いみする qumقم‎)に由来ゆらいする。のちに200めい兵士へいしからなる部隊ぶたいgoum (グム)とんだ。3-4グムで1個いっこ tabor (タボール)、3タボールで1個いっこ engine あるいは groupe編成へんせいされた。

かくグムは様々さまざま部族ぶぞく混成こんせいされていた。当初とうしょ兵士へいしだい部分ぶぶんシディ・ボウバカーのChaouia地区ちくウラード・サイードセタットカスバダル・ブアザ、およびシディ・スリマネから徴募ちょうぼされた。

起源きげん

[編集へんしゅう]

「グミエ」という呼称こしょうはじめ、1900年代ねんだい初期しょきみなみアルジェリアにおいて、フランス陸軍りくぐん協力きょうりょくした部族ぶぞくから徴募ちょうぼされた正規せいきへいたいしてあたえられた。これら騎乗きじょう協力きょうりょくしゃは、それぞれの部族ぶぞく指導しどうしゃした作戦さくせん従事じゅうじし、フランスアフリカぐん正規せいきへいである現地げんちみん騎兵隊きへいたいスパイ)や歩兵ほへいたいティライユール)とはまったくことなっていた[1]

モロッコ、1908-34ねん

[編集へんしゅう]

1908ねん、フランスのモロッコ介入かいにゅう初期しょき段階だんかいにおいて、アルジェリアへいグミエが編成へんせいされた。兵役へいえき期間きかん終了しゅうりょう、アルジェリアへい帰国きこくし、わりにモロッコじん徴集ちょうしゅうされた。グミエの呼称こしょうはそのままに、モロッコへい通常つうじょうスパイやティライユールから転属てんぞくしたフランスじん将校しょうこうおよびアルジェリアじん下士官かしかん指揮しきする派遣はけん部隊ぶたい軍務ぐんむいた[2]

はん常設じょうせつのモロッコへいグミエは、当初とうしょ直近ちょっきん占領せんりょうした地域ちいき警備けいびのためにアルベール・ダマンド将軍しょうぐんによって組織そしきされた。に、偵察ていさつ正規せいきフランスぐん部隊ぶたい支援しえんにも従事じゅうじし、1911ねん常設じょうせつ部隊ぶたいとなった。名目めいもくじょう、グミエはモロッコのスルターン支配しはいにあるとされたが、実際じっさいにはフランス陸軍りくぐん外郭がいかく部隊ぶたいとして組織そしきされ、そのフランスのために第三国だいさんごく従軍じゅうぐんした。しかし、かれらがもっと関与かんよしたのは、フランスによる「鎮圧ちんあつちゅうのモロッコ自身じしんだった。

当初とうしょ、モロッコへいグムは民族みんぞく衣装いしょう腕章わんしょう着用ちゃくようしていたが、常設じょうせつ部隊ぶたいとなってからは独特どくとく茶色ちゃいろ灰色はいいろのストライプのジャラバ(フードきのクローク)を採用さいようし、フランス陸軍りくぐん所属しょぞくした期間きかんつうじてかれらのトレードマークとなった。あたまには通常つうじょうターバンいた。グムには歩兵ほへいたい騎兵隊きへいたいふくまれ、武器ぶき伝統でんとうてきサーベル細長ほそながダガーこのんだ。

スペインりょうモロッコ同等どうとう部隊ぶたいMehal-La Jalifianaはフランスのグミエをモデルとして組織そしきされた。

だいいち世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんなか、グミエはモロッコ国外こくがい従軍じゅうぐんしていない。ただし、グミエの存在そんざいのおかげで、ユベール・リヨテ将軍しょうぐん正規せいきフランスぐん相当そうとうすうをモロッコから西部せいぶ戦線せんせん移動いどうさせることができた。1920年代ねんだいだい3リーフ戦争せんそうにおいて、グミエはフランスアフリカぐん貢献こうけんした。グミエはその国家こっか憲兵けんぺいとなり、モロッコの地方ちほう治安ちあん維持いじした。

だい世界せかい大戦たいせん

[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんにおいて、4モロッコへい部隊ぶたい連隊れんたい規模きぼ)が連合れんごうぐんとして従軍じゅうぐんした。かれらは1942ねんから1945ねんにかけて、夜間やかん襲撃しゅうげき作戦さくせんせんもんとしてイタリアおよびナチス・ドイツたたかった。グミエ部隊ぶたい山岳さんがく地帯ちたいなど起伏きふくはげしい地形ちけい前線ぜんせんへい配置はいちするさいにも利用りようされ、連合れんごうぐん正規せいき歩兵ほへい部隊ぶたい進軍しんぐんたすけた。

きたアフリカ、1940-42ねん

[編集へんしゅう]

1940ねん5がつ、12グムがだい1モロッコ支援しえんへいぐん1er Groupe de Supplétifs Marocains - G.S.M.)として編成へんせいされ、リビア国外こくがい作戦さくせん行動こうどうちゅうのイタリアぐんとの戦闘せんとう投入とうにゅうされた。1940ねんどくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつ、グムはモロッコに帰国きこくした。きたアフリカにおいてフランスが配備はいびできる部隊ぶたいすうにはきびしい制限せいげんくわえられ、それをけるためにグミエは国家こっか憲兵けんぺい社会しゃかい秩序ちつじょ維持いじ国境こっきょう地帯ちたい監視かんし機能きのうゆうする組織そしき説明せつめいされたが、一方いっぽう陸軍りくぐん部隊ぶたいとしての組織そしき規律きりつ維持いじした[3]

チュニジア、1942-43ねん

[編集へんしゅう]

だい1GSMは1942ねんからチュニジア戦線せんせん投入とうにゅうされ、1943ねん1がつにはだい2GSMが合流ごうりゅうした。チュニジアのたたかのち自由じゆうフランスぐんはさらに2つの部隊ぶたいぐん追加ついかし、名称めいしょうはモロッコタボールぐんGroupe de Tabors Marocains - G.T.M.)に改称かいしょうされた。かくぐん1個いっこ指揮しきグム(中隊ちゅうたい)、3タボール(大隊だいたい)からなり、1個いっこタボールは3グムで構成こうせいされた。1個いっこタボールには4もんの81mm迫撃はくげきほうと891めい兵士へいし配備はいびされた。1個いっこ歩兵ほへいグムは210めい兵士へいし構成こうせいされ、1もんの60mm迫撃はくげきほう、2ていけい機関きかんじゅう、および7てい自動じどう小銃しょうじゅう配備はいびされた[4]

だい14タボールはぐんからはなされて戦争せんそうのこりの期間きかんをモロッコの治安ちあん維持いじにあたり、ヨーロッパでの戦闘せんとうには参加さんかしなかった[3]

イタリア、1943-45ねん

[編集へんしゅう]

モロッコグムたいだい4タボールは、アメリカだい7ぐん指揮しきとなってシチリア上陸じょうりく作戦さくせん投入とうにゅうされ、1943ねん7がつ14にちリカータ上陸じょうりくした[3][5]同月どうげつ27にちにはアメリカだい1歩兵ほへい師団しだん指揮しきとなり、アメリカだい26歩兵ほへい連隊れんたい部隊ぶたい記録きろくかれらの勇敢ゆうかんさがしるされた[6]

イタリア戦線せんせんでは、1943ねん11月にだい4GTMがイタリアに上陸じょうりくし、1944ねん1がつにはだい3GTMがつづき、1944ねん4がつにはだい1GTMが増強ぞうきょうされた[3]

イタリアでの連合れんごうぐんは、グスタフ・ラインにおいてなが膠着こうちゃく状態じょうたいおちいった(モンテ・カッシーノのたたか)。1944ねん5がつ山岳さんがく軍団ぐんだん麾下きかの3グミエぐんは、モンテ・カッシーノでおこなわれたダイアデム作戦さくせんにおいて、フランス海外かいがい派遣はけん軍団ぐんだんアウルンチ山脈さんみゃく経由けいゆする攻撃こうげき先鋒せんぽうとなった。「ここでは、グムはその価値かちじゅうふん証明しょうめいした。その軽装けいそうたか機動きどうりょく山岳さんがく部隊ぶたいは、最小限さいしょうげん兵站へいたんで、ほとんど垂直すいちょく地形ちけい戦闘せんとう隊形たいけい侵入しんにゅうすることができた。ほとんどの軍事ぐんじアナリストは、グミエの機動きどう最終さいしゅうてきにローマへのみちひらいた決定的けっていてき勝利しょうりにつながったとかんがえている。[7]

連合れんごうぐん指揮しきかんマーク・W・クラーク(アメリカ)も、グミエとティライユール部隊ぶたいのモロッコ正規せいきへい敬意けいいあらわした。

てきぐん頑強がんきょう抵抗ていこうにもかかわらず、だい2モロッコ師団しだんは2にちたない戦闘せんとうでグスタフ・ラインを突破とっぱした。フランスぐん前線ぜんせんでのそのの48あいだ勝利しょうりとなった。ナイフをにしたグミエは、とく夜間やかんに、たかし々にむらがり、ジュアン将軍しょうぐんぜんぐんなんあいだ攻勢こうせいをかけ、ドイツぐんちこたえることができなかった。チェラゾーラサン・ジョルジョモンテ・ドーロアウゾーニア、そしてエスペーリア占拠せんきょは、イタリアでの戦争せんそうにおいて、もっと大胆だいたんかつ見事みごと進撃しんげきひとつにかぞえられる…。この功績こうせき、それはローマへのすべての進撃しんげき成否せいひにぎかぎであり、わたしはいつまでもジュアン将軍しょうぐんかれ素晴すばらしいFECにたいして称賛しょうさんしまない。
Bimberg, Edward L. "The Moroccan Goums: Tribal Warriors in a Modern War"

イタリア戦線せんせんでの戦闘せんとうによるグミエの損耗そんこうは3,000めいにのぼり、そのうち600めい死亡しぼうした[8]

Marocchinate

[編集へんしゅう]

一方いっぽうでグミエは、イタリアにおいてひろ範囲はんいにわたり重大じゅうだい戦争せんそう犯罪はんざいおかした。

「…普通ふつうではかんがえられないかずのモロッコへいが、かれらの進軍しんぐんしたイタリア地方ちほうで、殺人さつじん強姦ごうかん、あるいは略奪りゃくだつといった犯罪はんざいこした — そのおおくはさばかれることなく —。フランス当局とうきょくは、グミエのためだけに、多数たすうベルベルじん女性じょせいを「戦闘せんとう従軍じゅうぐんしゃ」として後方こうほう用意よういし、この問題もんだい沈静ちんせいはかった。[7]

イタリアがわ情報じょうほうによると、グミエによる強姦ごうかん被害ひがいしゃは7,000めい以上いじょうにのぼったとされ[9]、のちにイタリアではこれら女性じょせいども、あるいは聖職せいしょくしゃふく男性だんせいたいする強姦ごうかん事件じけんが、「モロッコじんのような」という意味いみMarocchinate (マロッキナーテ)としてられるようになった。エスペーリアの首長しゅちょうは、かれコムーネにおいて2,500めい住民じゅうみんのうち700めい女性じょせい強姦ごうかんされ、何人なんにんかはそのため死亡しぼうしたと報告ほうこくした。ラティウム北部ほくぶトスカーナしゅう南部なんぶでは、ドイツぐん撤退てったい、グミエが女性じょせい青年せいねん(そのなかにはパルチザンのメンバーもふくまれた)を強姦ごうかんし、場合ばあいによっては殺害さつがいしたとの主張しゅちょうがあった[10]

フランス海外かいがい派遣はけん軍団ぐんだんは、強姦ごうかんあるいは殺人さつじんつみで15めい兵士へいし銃殺じゅうさつたいによって処刑しょけいし、54めいたいぐん刑務所けいむしょでの重労働じゅうろうどう宣告せんこくした[8]

コルシカ、1943ねん

[編集へんしゅう]

1943ねん9がつだい2GTMはコルシカとう解放かいほう参加さんかし、カップ・コルスからバスティア付近ふきん山岳さんがくでドイツぐん交戦こうせんした[5]

エルバ、1944ねん

[編集へんしゅう]

1944ねん6がつだい2GTMはバサード作戦さくせんにおいてフランスぐん一部いちぶとしてエルバとうをドイツから奪還だっかんした。このしま予想よそうされたより強固きょうこ守備しゅびされており、激戦げきせん結果けっかりょうぐんおおきな損害そんがいをだした。

フランス本土ほんど、1944ねん

[編集へんしゅう]

だい1、だい2、およびだい3GTMは、1944ねんまつから1945ねん初頭しょとうにおいて、みなみフランスのヴォージュ山脈さんみゃくアルザスでの戦闘せんとう参加さんかした。グミエは1944ねん8がつ18にちみなみフランスに上陸じょうりくだい3アルジェリア歩兵ほへい師団しだん所属しょぞくとなり、同月どうげつ20にちから28にちにかけてのマルセイユ解放かいほうせん参加さんかした。だい1GTMはその、イタリアとせっするアルプス戦線せんせん確保かくほするために投入とうにゅうされ、11月にはベルフォールギャップ突破とっぱ一翼いちよくになった。だい2およびだい3GTMは、9がつまつから10がつ初頭しょとうにかけてルミルモンおよびジェラールメ地域ちいきたたかった。3GTMはすべて11がつから12月のヴォージュ山脈さんみゃくでの戦闘せんとう参加さんかし、極寒ごっかん悪天候あくてんこうちゅうドイツぐんはげしい抵抗ていこうけた。ヴォージュ山脈さんみゃくコルマールでの激戦げきせんのち、1945ねん4がつだい3GTMは、フランスぐんがイタリアから退いたのちきたアフリカに帰還きかんしていただい4GTMと交代こうたいし、帰国きこくした[5][11]

ドイツ、1945ねん

[編集へんしゅう]

だい1、だい2、およびだい4GTMは、1945ねん南西なんせいドイツを制圧せいあつする最後さいご作戦さくせん参加さんかした[11]だい1GTMは、1945ねん3がつ20日はつかから25にちビエンヴァルトジークフリートせんたたかった。1945ねん4がつだい1およびだい4GTMはプフォルツハイム制圧せいあつせん参加さんかした。戦争せんそう最終さいしゅうしゅうだい2GTMはシュヴァルツヴァルトたたかい、南東なんとうのドイツ—オーストリア国境こっきょうまで前進ぜんしんした。おなごろだい1およびだい4GTMはのフランスぐんとともに、シュトゥットガルトおよびテュービンゲンかって前進ぜんしんしていた。1946ねん中旬ちゅうじゅん、3GTMはすべてモロッコに帰国きこくした。

だい世界せかい大戦たいせんにおけるグミエの損耗そんこうは、1942ねんから45ねんで8,018めい、そのうち戦死せんしは1,625めいだった[5]

インドシナ、1949-1954ねん

[編集へんしゅう]

だいいちインドシナ戦争せんそうにおいてモロッコへいグミエは、1949ねん6がつから1954ねんディエンビエンフー陥落かんらくまでフランスりょうインドシナ従軍じゅうぐんした。グミエ部隊ぶたいトンキンきた前線ぜんせん駐屯ちゅうとんし、護送ごそうquadrillage de zone地域ちいき掃討そうとう)をおも任務にんむとした。兵役へいえき期間きかんさだめられて入隊にゅうたいする正規せいきへいのモロッコティライユールとは対照たいしょうてきに、グミエは明確めいかくにインドシナでの交戦こうせん期間きかんちゅう軍務ぐんむくという契約けいやくだった[12]

グミエは以前いぜんおなじように大隊だいたい規模きぼのタボールが編成へんせいされ、それぞれはいくつかのグムあるいは中隊ちゅうたい構成こうせいされた。モロッコへいたいするフランス将校しょうこう割合わりあいひくく、通常つうじょうかく中隊ちゅうたいに2めいのみだった。現地げんち徴集ちょうしゅうされた補助ほじょへいは、偵察ていさつ部隊ぶたいとしてかくタボールに配属はいぞくされた。管理かんりじょう目的もくてき極東きょくとうモロッコタボール集団しゅうだんGroupement de Tabors Marocain d'Extreme Orient)として旅団りょだん編成へんせいにされ、戦争せんそうちゅう通常つうじょう3タボールがつねにインドシナで任務にんむにつくようにされた。1950ねん10がつだい11タボールはNa Kheoを制圧せいあつしたが、グミエとフランスじん将校しょうこうわせて924めいのうち、生存せいぞんしゃは369めいだった[13]

このかれらがフランスぐんとして従軍じゅうぐんした最後さいご戦争せんそうあいだすくなくともパレードようさむ対策たいさくのため、かれらは1911年来ねんらい部隊ぶたい特徴とくちょうであった、上部じょうぶひらたいターバンと茶色ちゃいろのストライプのジャラバを着用ちゃくようした。

モロッコ独立どくりつ

[編集へんしゅう]

1956ねんにモロッコが独立どくりつすると、グミエはあたらしい王立おうりつモロッコ陸軍りくぐん編入へんにゅうされた。フランス、スペイン、およびモロッコ政府せいふ交渉こうしょうのち、モロッコの正規せいきおよび補助ほじょ部隊ぶたい新設しんせつ王立おうりつ国防こくぼうぐんForces Armées Royales - FAR)に移管いかんすることが同意どういされ、1まん4000にんのモロッコ兵員へいいんがフランスぐんから転属てんぞくした。

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]

アルベルト・モラヴィア小説しょうせつ『La Ciociara』およびそれを原作げんさくとし、ソフィア・ローレン主演しゅえんした同名どうめい映画えいが邦題ほうだいふたりのおんな』)では、だい世界せかい大戦たいせんちゅうのイタリアを舞台ぶたいとし、主人公しゅじんこう親子おやこがグミエによって強姦ごうかんされるシーンがえがかれている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ Maghraoui, Driss (1998ねん). “Moroccan colonial soldiers: between selective memory and collective memory - Beyond Colonialism and Nationalism in North Africa” (英語えいご). Arab Studies Quarterly (ASQ). 2010ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ Jean-Louis Larcade. Zouaves & Tirailleurs: les regiments de marche et les regiments mixtes. ISBN 2-9515171-0-6 
  3. ^ a b c d Gaujac, p. 68
  4. ^ Gaujac, p. 58
  5. ^ a b c d François Lescel (2002ねん). “Fédération des Amicales Régimentaires et des Anciens Combattants website article no. 366 (March 2002) "Goumiers, Goums, Tabors"” (仏語ふつご). 2010ねん3がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ S-1 Journal, 26th Infantry Regimental Combat Team” (PDF). bluespader.org. 2007ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ a b Bimberg, Edward L. “The Moroccan Goums: Tribal Warriors in a Modern War” (英語えいご). 2010ねん3がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ a b Gaujac, p. 69
  9. ^ 1952: Il caso delle “marocchinate” al Parlamento” (). 2010ねん3がつ3にち閲覧えつらん
  10. ^ Giusy Federici. “LE MAROCCHINATE - «STUPRATE LE ITALIANE»” (PDF) (). 2010ねん3がつ3にち閲覧えつらん
  11. ^ a b Gaujac, p. 71
  12. ^ Olivier Bellec "Les Tabors Marocains", Militaria 292, Novembre 2009
  13. ^ Martin Windrow (英語えいご). The French Indochina War 1946-54. pp. p. 43. ISBN 1 85532 789 9 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Bimberg, Edward L. The Moroccan Goums: Tribal Warriors in a Modern War. Westport, CT: Greenwood Press (1999).
  • Gaujac, Paul. L'Armée de la Victoire (Volume 3). Paris: Charles Lavauzelle (1985).
  • Martins, Ralph A. "Goumier Flanked U.S. Troops in Sicily." Cavalry Journal, 52 (Sep-Oct 1943): pp. 30-31
  • U.S. Intelligence Bulletin, "Moroccan Goums." (June 1946)

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]