第 だい 2代 だい コルテッラッツォ・ブカーリ伯 はく ジャン・ガレアッツォ・チャーノ (イタリア語 ご : Gian Galeazzo Ciano, detto Galeazzo, conte di Cortellazzo e Buccari , 1903年 ねん 3月18日 にち - 1944年 ねん 1月 がつ 11日 にち )は、イタリア の外交 がいこう 官 かん 、政治 せいじ 家 か 、貴族 きぞく 。姓 せい の日本語 にほんご 表記 ひょうき は「チアノ」とするものも多 おお い。
ファシスト政権 せいけん 下 か で外交 がいこう 官 かん として行動 こうどう し、後 のち にムッソリーニ自身 じしん が兼務 けんむ していた外務 がいむ 大臣 だいじん の地位 ちい を与 あた えられ、ファシスト政権 せいけん 下 か の外交 がいこう 政策 せいさく に大 おお きく関与 かんよ した。ベニート・ムッソリーニ の長女 ちょうじょ エッダ・ムッソリーニ の夫 おっと であり、貴族 きぞく でもある事 こと からイタリア王家 おうけ (サヴォイア家 か ) を始 はじ めとする王 おう 党派 とうは と政府 せいふ を結 むす びつける役割 やくわり も果 は たし、イタリア王 おう 太子 たいし ウンベルト2世 せい とは昵懇 じっこん の間柄 あいだがら であった。
イタロ・バルボ 空軍 くうぐん 元帥 げんすい と並 なら んで後継 こうけい 者 しゃ として扱 あつか われていた時期 じき もあったが、枢軸 すうじく 国 こく としての参戦 さんせん に反対 はんたい した事 こと などから次第 しだい に政権 せいけん から遠 とお ざけられた。大戦 たいせん 後半 こうはん には連合 れんごう 国 こく との講和 こうわ を図 はか ってファシズム大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい におけるクーデター(グランディ決議 けつぎ )に加担 かたん し、義父 ぎふ を失脚 しっきゃく させた。しかしイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく 成立 せいりつ により身柄 みがら を拘束 こうそく され、ナチス・ドイツ のアドルフ・ヒトラー 総統 そうとう から強 つよ い要請 ようせい を受 う けたムッソリーニの命令 めいれい によって銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ された。
1903年 ねん 3月18日 にち 、イタリア王国 おうこく リグリア州 しゅう の軍港 ぐんこう リヴォルノ に海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん コスタンツォ・チャーノ (英語 えいご 版 ばん ) の長男 ちょうなん として生 う まれた。父 ちち コスタンツォはリヴォルノ海軍 かいぐん 士官 しかん 学校 がっこう を経 へ て、海軍 かいぐん 大佐 たいさ として第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を戦 たたか った人物 じんぶつ で、アドリア海 あどりあかい で勇名 ゆうめい を馳 は せたMAS魚雷 ぎょらい 艇 てい 部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん としてイストリア のブカーリ湾 わん (バカル湾 わん (英語 えいご 版 ばん ) のイタリア語 ご 読 よ み)の襲撃 しゅうげき などで軍功 ぐんこう を挙 あ げた。戦後 せんご 、その軍功 ぐんこう を讃 たた えられてイタリア王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい から戦地 せんち の名 な を冠 かん した、コルテッラッツォ・ブカーリ伯爵 はくしゃく を与 あた えられて貴族 きぞく に列 れっ し、政界 せいかい でも下院 かいん 議長 ぎちょう を務 つと めるなど地元 じもと リヴォルノ きっての名士 めいし だった。その息子 むすこ のガレアッツォは華々 はなばな しい生活 せいかつ を送 おく っていたという。
快楽 かいらく に染 そ まった俗物 ぞくぶつ 的 てき な性格 せいかく ではあったが、家柄 いえがら に相応 ふさわ しい教養 きょうよう と知性 ちせい も身 み に付 つ けていた。1925年 ねん にローマ大学 だいがく を法学 ほうがく 専攻 せんこう で卒業 そつぎょう し、外務省 がいむしょう の入省 にゅうしょう 試験 しけん を600名 めい 中 ちゅう 27位 い の席次 せきじ で合格 ごうかく して外務 がいむ 官僚 かんりょう となった。省内 しょうない でもエリートとして出世 しゅっせ の道 みち を歩 あゆ み、リオ・デ・ジャネイロ の在 ざい ブラジル 大使館 たいしかん 、ブエノスアイレス の在 ざい アルゼンチン 大使館 たいしかん 勤務 きんむ を経 へ て、1927年 ねん に北京 ぺきん の在 ざい 中華民国 ちゅうかみんこく 大使館 たいしかん に赴任 ふにん した。
ファシスト党 とう との関 かか わり [ 編集 へんしゅう ]
1922年 ねん 、国家 こっか ファシスト党 とう によるクーデター(ローマ進軍 しんぐん )が行 おこな われた時 とき 、退役 たいえき 軍人 ぐんじん としてファシスト党 とう の顧問 こもん を務 つと めていた父 ちち コンスタンツォ伯 はく も進軍 しんぐん に関与 かんよ していた。父 ちち を通 つう じてファシスト党 とう による独裁 どくさい を進 すす めるベニート・ムッソリーニ 国家 こっか 統 すべ 領 りょう に接近 せっきん し、1930年 ねん 4月 がつ 24日 にち にムッソリーニの長女 ちょうじょ エッダ・ムッソリーニ と結婚 けっこん して娘 むすめ 婿 むこ となった。エッダとの結婚 けっこん は自由 じゆう 恋愛 れんあい によるもので、両家 りょうけ の政略 せいりゃく 結婚 けっこん などの性質 せいしつ は持 も っていなかった。しかし結果 けっか 的 てき に岳父 がくふ の威光 いこう によって上海 しゃんはい 総領事 そうりょうじ の地位 ちい を与 あた えられて省内 しょうない での地位 ちい は盤石 ばんじゃく となった。チャーノとエッダは共 とも に奔放 ほんぽう な性格 せいかく で双方 そうほう が公然 こうぜん と愛人 あいじん を持 も っており、エッダは特 とく に満州 まんしゅう 軍閥 ぐんばつ 領袖 りょうしゅう の張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう 将軍 しょうぐん に夢中 むちゅう だったとされるが[2] 、夫婦 ふうふ 仲 なか は良 よ く強 つよ い絆 きずな で結 むす ばれていた。
総領事 そうりょうじ 着任 ちゃくにん 後 ご は1932年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん に際 さい しては日 にち 中 ちゅう 両 りょう 軍 ぐん の調停 ちょうてい に奔走 ほんそう した。任期 にんき を終 お えて祖国 そこく に帰任 きにん した後 のち も1933年 ねん に新聞 しんぶん ・宣伝 せんでん 省 しょう 次官 じかん 、1935年 ねん に同省 どうしょう 大臣 だいじん などを若 わか くして歴任 れきにん 、ファシスト四天王 してんのう のイタロ・バルボ 空軍 くうぐん 大臣 だいじん と並 なら んでムッソリーニの後継 こうけい 者 しゃ 候補 こうほ として扱 あつか われていた。1935年 ねん の第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう においては自 みずか ら空軍 くうぐん に義勇 ぎゆう 兵 へい として志願 しがん し、危険 きけん な爆 ばく 撃 げき 行 ぎょう に参加 さんか して武功 ぶこう 黄金 おうごん 勲章 くんしょう (英語 えいご 版 ばん ) を名誉 めいよ 的 てき に受勲 じゅくん するなど派手 はで なパフォーマンスを好 この んで行 い った。また国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい の長男 ちょうなん であるイタリア王 おう 太子 たいし ウンベルト の信任 しんにん も篤 あつ かった。この2人 ふたり の友情 ゆうじょう 関係 かんけい はそれぞれの父 ちち 、国王 こくおう エマヌエーレ3世 せい とムッソリーニ国家 こっか 統 すべ 領 りょう にとっても建設 けんせつ 的 てき で有意義 ゆういぎ なものと見 み 做されていた。なぜならそれは王室 おうしつ とファシスト政権 せいけん との微妙 びみょう な関係 かんけい の強化 きょうか に寄与 きよ したし、やがて若 わか い2人 ふたり がそれぞれ国王 こくおう と政権 せいけん 担当 たんとう 者 しゃ として次世代 じせだい のファシスト・イタリアを率 ひき いる可能 かのう 性 せい がこの時点 じてん では存在 そんざい したからである。
ヒトラーと対峙 たいじ していたオーストリアのクルト・シュシュニック 首相 しゅしょう 、グイド・シュミット外務 がいむ 大臣 だいじん らと会談 かいだん するチャーノ(1936年 ねん )
鋼鉄 こうてつ 協約 きょうやく に署名 しょめい するチャーノとリッベントロップ。それを中央 ちゅうおう の席 せき から眺 なが めるヒトラー。チャーノ個人 こじん は独 どく 伊 い 同盟 どうめい に反対 はんたい していた。
1936年 ねん 、チャーノは33歳 さい で外務 がいむ 大臣 だいじん に上 のぼ り詰 つ め、義父 ぎふ の政権 せいけん での外交 がいこう 政策 せいさく を形式 けいしき 的 てき には一任 いちにん された。しかし外交 がいこう は自身 じしん も語学 ごがく と社交 しゃこう を得意 とくい としていたムッソリーニの専権 せんけん 事項 じこう であり、実質 じっしつ 的 てき に外務 がいむ 大臣 だいじん を引 ひ き続 つづ き兼任 けんにん していた。チャーノの立場 たちば は政権 せいけん の外交 がいこう 特使 とくし というのが実態 じったい に近 ちか く、公的 こうてき 行為 こうい で義父 ぎふ に逆 さか らう事 こと は決 けっ してなかった。彼 かれ が最 もっと も多 おお くを任 まか されたのは義父 ぎふ の名代 なだい として特使 とくし の役目 やくめ を負 お うことで、ムッソリーニが重視 じゅうし していたドイツとイギリスには幾度 いくど も赴 おもむ いて政府 せいふ 首脳 しゅのう や要人 ようじん らと接触 せっしょく 、見聞 みき きした情報 じょうほう を報告 ほうこく している。同様 どうよう の役割 やくわり は文化 ぶんか 特使 とくし としてアメリカに送 おく り込 こ まれていた次男 じなん ヴィットーリオ・ムッソリーニ にも与 あた えられていた。
1939年 ねん 4月 がつ にイタリアのアルバニア侵攻 しんこう が決定 けってい された際 さい 、その準備 じゅんび をムッソリーニから委 ゆだ ねられた事 こと は大 おお きな機会 きかい だった。数日 すうじつ で戦闘 せんとう が終 お わるとアルバニア王国 おうこく はイタリア王国 おうこく の同君 どうくん 連合 れんごう となったが(イタリア保護 ほご 領 りょう アルバニア (英語 えいご 版 ばん ) )、実質 じっしつ 的 てき にはイタリアの植民 しょくみん 地 ち であった。チャーノはアルバニアの現地 げんち 政府 せいふ で公的 こうてき な職 しょく にあったわけではなかったが、しばしば実質 じっしつ 的 てき なアルバニアの「副 ふく 王 おう 」であったとされる。妻 つま と自分 じぶん の怠惰 たいだ な生活 せいかつ を支 ささ える私財 しざい を得 え るべく汚職 おしょく にも熱心 ねっしん だった。チャーノ夫妻 ふさい の個人 こじん 資産 しさん は「奇妙 きみょう なことに」しかし「目立 めだ たない形 かたち 」で増大 ぞうだい していった。自身 じしん の利益 りえき になる限 かぎ り、チャーノは植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい や戦争 せんそう といった野蛮 やばん な行為 こうい に完全 かんぜん な賛意 さんい を示 しめ していた。
一方 いっぽう 、そうした帝国 ていこく 主義 しゅぎ の過程 かてい でドイツ、特 とく に政権 せいけん の座 ざ にあった国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう ) との接近 せっきん が深 ふか まる事 こと には一転 いってん して猛 もう 反対 はんたい した事 こと でも知 し られ、この姿勢 しせい は結果 けっか として彼 かれ の人生 じんせい を他 た の何 なに よりも決定 けってい 付 つ けた。チャーノは表面 ひょうめん 的 てき にはドイツへの友好 ゆうこう を装 よそお い、鋼鉄 こうてつ 協約 きょうやく (独 どく 伊 い 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい )を締結 ていけつ してナチス政権 せいけん のヨアヒム・フォン・リッベントロップ 外務 がいむ 大臣 だいじん と何 なん 度 ど も会談 かいだん を重 かさ ねて個人 こじん 的 てき な親交 しんこう を持 も ったが、その主人 しゅじん である所 ところ のアドルフ・ヒトラー に対 たい しては明確 めいかく に嫌悪 けんお 感 かん を表明 ひょうめい している。チャーノはヒトラーを「ヴェーロ・パッツォ(本物 ほんもの の狂人 きょうじん )」と吐 は き捨 す て、それ以外 いがい の人物 じんぶつ についてもゲーリング は「能力 のうりょく はあるが肥満 ひまん 体 たい で下品 げひん 」、親交 しんこう を持 も ったリッベントロップですら「間抜 まぬ け」と酷評 こくひょう し、「ドイツは今 いま 非常 ひじょう に劣 おと った連中 れんちゅう (ナチス)の手中 しゅちゅう にある」とまで扱 こ き下 お ろしている。ヒトラーも反 はん ナチ的 てき で享楽 きょうらく 癖 へき を持 も ったチャーノを信用 しんよう せず、ムッソリーニへの賛辞 さんじ とは正 せい 反対 はんたい に「胸 むね が悪 わる くなるような若僧 わかぞう 」と評 ひょう している。
大戦 たいせん 後 ご に出版 しゅっぱん された所謂 いわゆる チャーノ日記 にっき では自身 じしん が「いかに枢軸 すうじく 同盟 どうめい と大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ を止 と めようとしたか」「ムッソリーニが自分 じぶん の献策 けんさく を退 しりぞ けたか」という記述 きじゅつ が列挙 れっきょ されている。しかしこれは自己 じこ 弁護 べんご による事実 じじつ の歪曲 わいきょく が大 おお いに含 ふく まれている。チャーノがドイツとの戦争 せんそう をイタリア、義父 ぎふ 、そして自身 じしん に不利益 ふりえき と考 かんが えた事 こと 、ナチス一派 いっぱ に嫌悪 けんお 感 かん を持 も っていたのは事実 じじつ ではあるが、大戦 たいせん 回避 かいひ への具体 ぐたい 的 てき 努力 どりょく は殆 ほとん ど行 おこな われなかったし、そればかりが外務 がいむ 大臣 だいじん の辞職 じしょく すら拒 こば んでいる。
そもそもチャーノには何 なん の実権 じっけん も無 な く、自 みずか らの義父 ぎふ であり「ボス」でもあるムッソリーニに逆 さか らうほど愚 おろ かでもなかった。チャーノの努力 どりょく はドイツや義父 ぎふ への陰口 かげぐち を口 くち にしたり、同盟 どうめい 反対 はんたい についての意見 いけん を申 もう し述 の べたりする程度 ていど であった。チャーノが大戦 たいせん 前 まえ に義父 ぎふ に反抗 はんこう したのは一 いち 度 ど だけで、ヴェネツィア宮 みや でムッソリーニをローマ式 しき 敬礼 けいれい で出迎 でむか える党 とう 幹部 かんぶ 達 たち を睨 にら み付 つ けると「君達 きみたち みたいな間抜 まぬ けで馬鹿 ばか な連中 れんちゅう (中略 ちゅうりゃく )が、彼 かれ (ムッソリーニ)を焚 た きつけてこういう事 こと を全 すべ てやらせたんだ!」と怒鳴 どな り、日光 にっこう のみを部屋 へや に入 い れていたムッソリーニの執務 しつむ 室 しつ (気 き が散 ち るという理由 りゆう で照明 しょうめい を嫌 きら っていた)に電気 でんき を付 つ けたという。チャーノは日記 にっき に「イタリアのためにはドイツの勝利 しょうり を願 ねが うべきなのか、敗北 はいぼく を願 ねが うべきなのか、自分 じぶん にはわからない。」と記 しる している。一方 いっぽう でドイツ側 がわ にもチャーノの姿勢 しせい は伝 つた わっており、ヒトラーはムッソリーニに「あなたの家族 かぞく の中 なか には反逆 はんぎゃく 者 しゃ がいる」と警告 けいこく したともいう。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ 時 じ 、チャーノの反 はん ドイツの立場 たちば はより鮮明 せんめい であり、チャーノはバチカン に使節 しせつ として赴 おもむ き、教皇 きょうこう と連絡 れんらく をとっている。この際 さい 、チャーノはジョヴァンニ・モンティーニ(後 ご の教皇 きょうこう パウロ6世 せい )と関係 かんけい が密 みつ であり、チャーノを通 つう じて敵対 てきたい 諸国 しょこく との連絡 れんらく が保 たも たれていた。
連合 れんごう 軍 ぐん のシチリア上陸 じょうりく 後 ご の1943年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、ファシスト党 とう 大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい において、ムッソリーニへの内部 ないぶ からの反対 はんたい は遂 つい に表面 ひょうめん 化 か する。チャーノは義父 ぎふ に反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じ、ムッソリーニは失脚 しっきゃく した。この政変 せいへん の後 のち に、妻 つま のエッダと共 とも に亡命 ぼうめい を試 こころ みるが、バチカン が庇護 ひご を拒絶 きょぜつ し、その望 のぞ みは潰 つい えた。その後 ご スペイン への逃亡 とうぼう を図 はか ったが、ドイツ軍 ぐん によって逮捕 たいほ され、大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい で反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じた他 ほか のメンバーとともにヴェローナ の監獄 かんごく に収監 しゅうかん された。その行動 こうどう は反逆 はんぎゃく 行為 こうい であると見 み 做され、、チャーノとデ・ボーノ を始 はじ めとした6名 めい は、1944年 ねん 1月 がつ 8日 にち -9日 にち の公開 こうかい 裁判 さいばん (会場 かいじょう は大 だい 評議 ひょうぎ 会 かい と同 おな じヴェローナ のヴェッキオ城 じょう )によって有罪 ゆうざい とされた。
ヴェローナ裁判 さいばん にて。左 ひだり からデ=ボーノ 、ゴッタルディ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、チャーノ、パレスキ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、マリネッリ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、シアネッティ (イタリア語 ご 版 ばん ) 。
ムッソリーニは義理 ぎり の息子 むすこ であるチャーノを助命 じょめい する意思 いし がなかったのか、あるいはしたくとも出来 でき なかったのかについては、後々 あとあと まで議論 ぎろん がなされている。衆目 しゅうもく の一致 いっち するところは、仮 かり にムッソリーニが彼 かれ に恩赦 おんしゃ を与 あた えたなら、ムッソリーニ自身 じしん の政策 せいさく の信頼 しんらい 性 せい は大 おお きく損 そこ なわれたであろう、ということである。判決 はんけつ を聞 き いた妻 つま のエッダは危険 きけん を冒 おか して半島 はんとう を自動車 じどうしゃ で縦断 じゅうだん 、はじめは共和 きょうわ 国 こく 政庁 せいちょう で、そして監獄 かんごく で夫 おっと の助命 じょめい を懇願 こんがん したが、空 むな しく終 お わった。その後 ご エッダは農 のう 婦 ふ の身 み なりでスイス に逃亡 とうぼう した。エッダは妊娠 にんしん 中 ちゅう であるとの特別 とくべつ 許可 きょか 証 しょう を入手 にゅうしゅ 、スカートの中 なか にチャーノの日記 にっき を隠 かく し持 も っていた。『シカゴ・デイリー・ニューズ 』の戦争 せんそう 記者 きしゃ でもあるポール・ガーリは、エッダがスイス国内 こくない の修道院 しゅうどういん に潜伏 せんぷく 中 ちゅう であることを突 つ き止 と め、チャーノ日記 にっき の公刊 こうかん を手助 てだす けした。同 どう 日記 にっき は1939年 ねん から1943年 ねん にかけてのファシスト政権 せいけん 下 か の多 おお くの秘史 ひし を暴露 ばくろ しており、第 だい 一 いち 級 きゅう の史料 しりょう とされている(内容 ないよう は政治 せいじ 関連 かんれん に限定 げんてい されており、チャーノの個人 こじん 生活 せいかつ は殆 ほとん ど含 ふく まれていない)。
1944年 ねん 1月 がつ 11日 にち 早朝 そうちょう 、チャーノは銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ せられた。最期 さいご の言葉 ことば は「祖国 そこく よ永遠 えいえん なれ! 」であったという[3] 。
チャーノの人物 じんぶつ 像 ぞう はファシスト時代 じだい 中 ちゅう でも最 もっと も議論 ぎろん の多 おお いものの一 ひと つである。チャーノは空虚 くうきょ で、甘 あま やかされて育 そだ ち、俗物 ぞくぶつ 的 てき で、浅薄 せんばく であり、そのアルバニア総督 そうとく 時代 じだい が示 しめ す通 とお り収賄 しゅうわい を好 この み、残忍 ざんにん であった。
しかし一方 いっぽう で、チャーノは人生 じんせい の最期 さいご においては、イタリアとドイツの同盟 どうめい 関係 かんけい に勇気 ゆうき をもって反対 はんたい した数少 かずすく ない一人 ひとり であった。また義父 ぎふ に不信任 ふしんにん 票 ひょう を投 とう じることでチャーノは個人 こじん 的 てき には孤独 こどく 感 かん に苛 さいな まれることにもなっただろう。ここでのパラドックスは、中庸 ちゅうよう 的 てき な道徳 どうとく 観念 かんねん と、そこそこの知性 ちせい を持 も ち合 あ わせるに過 す ぎなかったと思 おも われたチャーノが、最終 さいしゅう 的 てき にはムッソリーニよりも鋭 するど い政治 せいじ 的 てき 洞察 どうさつ 力 りょく と、国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい よりも確固 かっこ とした個人 こじん 的 てき 勇気 ゆうき を兼 か ね備 そな えていた、ということにあった。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 人物 じんぶつ その他 た