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だい2かつら内閣ないかく

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だい2かつら内閣ないかく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん だい13だい かつら太郎たろう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1908ねん明治めいじ41ねん7がつ14にち
終了しゅうりょう年月日ねんがっぴ 1911ねん明治めいじ44ねん8がつ30にち
与党よとう支持しじ基盤きばん 官僚かんりょうないかく
内閣ないかく閣僚かくりょう名簿めいぼ首相しゅしょう官邸かんてい
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だい2かつら内閣ないかく(だいにじ かつらないかく)は、陸軍りくぐん大将たいしょう軍事ぐんじ参議さんぎかんかつら太郎たろうだい13だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん任命にんめいされ、1908ねん明治めいじ41ねん7がつ14にちから1911ねん明治めいじ44ねん8がつ30にちまでつづいた日本にっぽん内閣ないかく

内閣ないかくかおぶれ・人事じんじ[編集へんしゅう]

国務大臣こくむだいじん

1908ねん明治めいじ41ねん)7がつ14にち任命にんめい[1]在職ざいしょく日数にっすう1,143にちだい1、2通算つうさん2,824にち)。

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 13 かつら太郎たろう 陸軍りくぐん大将たいしょう
侯爵こうしゃく
大蔵おおくら大臣だいじん兼任けんにん
外務がいむ大臣だいじん 22 寺内てらうち正毅まさき 陸軍りくぐん大将たいしょう
子爵ししゃく
臨時りんじ兼任けんにん
陸軍りくぐん大臣だいじん兼任けんにん
1908ねん8がつ27にちめんけん[2]
23 小村こむら壽太郎じゅたろう 外務省がいむしょう
伯爵はくしゃく
1908ねん8がつ27にちにん[2]
内務ないむ大臣だいじん 22 平田東ひらたひがしすけ 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
茶話ちゃばなしかい
子爵ししゃく
大蔵おおくら大臣だいじん 13 かつら太郎たろう 陸軍りくぐん大将たいしょう
侯爵こうしゃく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにん
陸軍りくぐん大臣だいじん 7 寺内てらうち正毅まさき 陸軍りくぐん大将たいしょう
子爵ししゃく→)
伯爵はくしゃく
外務がいむ大臣だいじん臨時りんじ兼任けんにん 留任りゅうにん
海軍かいぐん大臣だいじん 6 斎藤さいとうみのる 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
海兵かいへい6
男爵だんしゃく
留任りゅうにん
司法しほう大臣だいじん 15 おか部長ぶちょうしょく 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
子爵ししゃく
はつ入閣にゅうかく
文部もんぶ大臣だいじん 21 小松原こまつばら英太郎えいたろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
茶話ちゃばなしかい
はつ入閣にゅうかく
のう商務しょうむ大臣だいじん 21 大浦おおうら兼武かねたけ 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
茶話ちゃばなしかい
子爵ししゃく
逓信ていしん大臣だいじん 18 後藤ごとう新平しんぺい 内務省ないむしょう
男爵だんしゃく
鉄道てつどういん総裁そうさい はつ入閣にゅうかく
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかん

1908ねん明治めいじ41ねん)7がつ14にち任命にんめい[3]

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく書記官しょきかんちょう 15 柴田しばた家門かもん 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
茶話ちゃばなしかい
拓殖たくしょくきょく総裁そうさい[注釈ちゅうしゃく 1][4]
法制ほうせいきょく長官ちょうかん 12 安広やすひろばん一郎いちろう 貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
茶話ちゃばなしかい
内閣ないかく恩給おんきゅう局長きょくちょう
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

勢力せいりょく早見はやみひょう

内閣ないかく発足ほっそく当初とうしょぜん内閣ないかく事務じむ引継ひきつぎのぞく)。

出身しゅっしん 国務大臣こくむだいじん その
きぞくいん貴族きぞくいん 4 内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかん
ぐんぶ軍部ぐんぶ 3 国務大臣こくむだいじんのべ4
かんりょう官僚かんりょう 2
その 0
- 9 国務大臣こくむだいじんのべ10

内閣ないかくうご[編集へんしゅう]

ぜん政権せいけんだい1西園寺さいおんじ内閣ないかくは、立憲りっけん政友せいゆうかい政権せいけん与党よとうとして運営うんえいされていたが、政党せいとうないかくせいきら藩閥はんばつ長老ちょうろう山縣やまがた有朋ありとも元老げんろう妨害ぼうがいし、嫌気いやけがさした西園寺さいおんじ首相しゅしょう主導しゅどう内閣ないかくそう辞職じしょくする。当時とうじ西園寺さいおんじ首相しゅしょう藩閥はんばつ主宰しゅさいしゃでありながら政友せいゆうかい首班しゅはん内閣ないかく容認ようにんしていたかつら太郎たろうぜん首相しゅしょう信頼しんらいしており、元老げんろう会議かいぎ手続てつづきをずして後継こうけいかつら奏請そうせい、1908ねん7がつ12にち大命たいめい降下こうか、14にち組閣そかくする[5]

政権せいけん運営うんえいは、だいいち政権せいけん同様どうよう議会ぎかい対策たいさく政友せいゆうかい閣外かくがい協力きょうりょくり、はらたかしもと内相ないしょうかつら首相しゅしょうとの交渉こうしょうさぶりをかける。一方いっぽう長年ながねん衆議院しゅうぎいんだいとうあまんじてきた憲政けんせいほんとうでは政党せいとう再編さいへん機運きうんたかまり、その中小ちゅうしょう政党せいとう合同ごうどうして、1910ねん3がつ13にち立憲りっけん国民党こくみんとういぬやしなえあつし党首とうしゅ)が結成けっせいされるが、はらはこれらの政党せいとうとの連携れんけい否定ひていてきで、藩閥はんばつ政友せいゆうかいだい巨頭きょとうという体制たいせい維持いじされる[6]

1910ねん5がつ大逆だいぎゃく事件じけん発生はっせいぜん西園寺さいおんじ内閣ないかく赤旗あかはた事件じけんでの革命かくめい分子ぶんしへの対応たいおう不備ふびがねとなってそう辞職じしょくしており、山縣やまがた元老げんろう藩閥はんばつ勢力せいりょく面目めんぼくまるつぶれになる。はらかつら政界せいかい引退いんたい要求ようきゅうするようになった。1911ねん1がつ26にち築地つきじ精養軒せいようけんにてひらかれた午餐ごさんかいかつら以下いか政権せいけん幹部かんぶ西園寺さいおんじ以下いか政友せいゆうかい関係かんけいしゃ一堂いちどうかいしたせきで、かつらは「情意じょうい投合とうごう演説えんぜつおこない、西園寺さいおんじへの政権せいけん移譲いじょう表明ひょうめいする[7]

さらにその継続けいぞくちゅうであった条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょう完了かんりょうするのをち、8がつ25にち内閣ないかくそう辞職じしょく今回こんかい元老げんろう会議かいぎひらかれず、かつら奏請そうせいどおりに西園寺さいおんじ総裁そうさい大命たいめい降下こうか、30にちだい2西園寺さいおんじ内閣ないかく発足ほっそくする。

おも政策せいさく[編集へんしゅう]

  • 健全けんぜん財政ざいせい - 当時とうじ政府せいふは、にち戦争せんそうなどのために対外たいがい債務さいむ背負せおっており、安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんからも、財政ざいせい健全けんぜん喫緊きっきん課題かだいであった。1908ねん8がつ28にち政府せいふ財政ざいせい整理せいり方針ほうしん決定けっていした。一方いっぽうの1911年度ねんど予算よさんあん審議しんぎでは、内閣ないかく官僚かんりょう増俸ぞうほう30%を提案ていあん政友せいゆうかい増俸ぞうほう削減さくげん地租ちそ1%げん主張しゅちょうした。同年どうねん2がつになって、増俸ぞうほう25%、地租ちそ0.8%げん妥協だきょう成立せいりつした[8]
  • 外交がいこう - にち戦争せんそう日本にっぽん伸長しんちょう警戒けいかいしんいた米国べいこくとの友好ゆうこう維持いじするため、1908ねん11月30にち高平たかひら・ルート協定きょうてい締結ていけつまんしゅうにおける日本にっぽんフィリピンにおける米国べいこく外交がいこうけんを、それぞれたがいに保証ほしょうした。また、1911ねん7がつ17にちには、関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふく条約じょうやく改正かいせい)が成立せいりつした。
  • 韓国かんこく併合へいごう - 1910ねん8がつ29にち大韓たいかん帝国ていこく併合へいごうした。
  • つちのえさる詔書しょうしょ - 1908ねん10がつ13にち渙発かんぱつにち戦勝せんしょう風紀ふうきめをはかった。
  • 大逆だいぎゃく事件じけん幸徳こうとく事件じけん) - 1910ねん5がつ発覚はっかく幸徳こうとく秋水しゅうすいらを検挙けんきょし、1911ねん1がつ幸徳こうとくらは死刑しけいしょされた。
  • 南北なんぼくあさ正閏せいじゅん問題もんだい - 大逆だいぎゃく事件じけん付随ふずいして政治せいじ問題もんだいし、枢密院すうみついんにおける議決ぎけつて、南朝なんちょう正統せいとうとなる。
  • 鉄道てつどう広軌こうき計画けいかく不成立ふせいりつ) - 朝鮮ちょうせんまんしゅう規格きかくわせて内地ないち線路せんろ広軌こうきすべく計画けいかくされたが、はらたかし政友せいゆうかいがわ鉄道てつどう誘致ゆうち都合つごうもあり反対はんたいして頓挫とんざ結局けっきょく国内こくない鉄道てつどう狭軌きょうきのままで延伸えんしん優先ゆうせんされることになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1911ねん明治めいじ44ねん)5がつ5にちから就任しゅうにん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ますあじじゅん日本にっぽん政治せいじ 2 藩閥はんばつ支配しはい政党せいとう政治せいじ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい東京とうきょう文京ぶんきょう、1988ねん5がつ25にちISBN 4-13-033042-X 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]