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元老げんろう

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元老げんろう会議かいぎから転送てんそう

元老げんろう(げんろう)は、だい世界せかい大戦たいせんまえ日本にっぽんにおいて天皇てんのう輔弼ほひつおこない、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんそうこもなど国家こっか重要じゅうよう事項じこう関与かんよした重臣じゅうしんである。明治めいじ初期しょきかれた元老げんろういん直接的ちょくせつてき関係かんけいはない。

元老げんろう権能けんのう[編集へんしゅう]

主権しゅけんしゃたる天皇てんのう諮問しもんこたえて内閣ないかくそう辞職じしょくさい後継こうけい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんそうこも、その重要じゅうよう国事こくじ関与かんよした[1]元老げんろう主要しゅよう権能けんのうとしては後継こうけい首相しゅしょうそうこもであるが、この会議かいぎには元老げんろうがすべて参加さんかするとはかぎらず、元老げんろうたちの要請ようせいにより、ぜん首相しゅしょう内大臣ないだいじんなどが参加さんかすることもあった。天皇てんのう元老げんろう奏上そうじょうした候補者こうほしゃについては拒否きょひしたれいはなく、大命たいめい降下こうか事実じじつじょう元老げんろう意見いけんもとづくものとなっていた。また外交がいこう内政ないせい重大じゅうだい事項じこうについて協議きょうぎして意見いけんべることもあり、にちえい同盟どうめい締結ていけつさいには元老げんろう会議かいぎによって意見いけんがまとめられ[2]にち戦争せんそう開戦かいせん御前ごぜん会議かいぎにも参加さんかしている[3]。また個々ここ元老げんろう宮中きゅうちゅう貴族きぞくいん政党せいとうぐんなどにはたらきかける政治せいじ活動かつどうおこなった。これらの行動こうどう元老げんろう集団しゅうだん合意ごういもとづくものではなく、個人こじんとしての活動かつどうであった。

元老げんろう内閣ないかくにとって正負せいふ両面りょうめん影響えいきょうりょくっていた。原則げんそくてきには成立せいりつした内閣ないかく存続そんぞくをはかり、交代こうたいさいしては円満えんまんであることをのぞんでいたが、だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく倒閣とうかくさいには、倒閣とうかくうごいたことも指摘してきされている[4]

元老げんろう資格しかく[編集へんしゅう]

元老げんろう公職こうしょくではなく、元老げんろう権能けんのう待遇たいぐう就任しゅうにん資格しかく明文化めいぶんかしたものは存在そんざいしない。このような存在そんざいであるため、法的ほうてき根拠こんきょがないという指摘してきが1900ねんごろにもおこなわれている[5]。このため大正たいしょうからは勅命ちょくめいまたは勅語ちょくごによるものと認識にんしきされるようになった[6]永井ながいかず天皇てんのうが「至尊しそんただし輔の勅語ちょくご」 をさづけることが元老げんろうになる要件ようけんであるとしている[7]。しかし主立おもだった元老げんろう勅語ちょくごける以前いぜんから元老げんろうとしての活動かつどうおこなっており、けた詔勅しょうちょく共通きょうつうしたものではない。

元老げんろうとなったとなされることがある詔勅しょうちょくのうち、伊藤いとう博文ひろぶみ山縣やまがた有朋ありとも黒田くろだ清隆きよたか松方まつかた正義まさよし、そしてかつら太郎たろうけた勅語ちょくごは「とく大臣だいじんれいヲ以テシ茲ニ元勲げんくん優遇ゆうぐうあきらニス」というものであり、西園寺さいおんじ公望きんもちけたものは総理そうり大臣だいじん辞職じしょくさいの1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月22にちに、「将来しょうらいただし輔ニ須ツモノよろしシクちんからだシテかつク其力ヲ致シさんじょうスルしょアルヘシ」[8]という勅語ちょくごであるが、内容ないようはまったく一致いっちしていない。同年どうねん8がつ13にちに、山縣やまがた井上いのうえかおる松方まつかた大山おおやまいわお、そしてかつらは「ごうたすくるべし」という勅語ちょくごけており[9]これも元老げんろうみとめたものと解釈かいしゃくされることもある。

当時とうじ読売新聞よみうりしんぶんは「勅語ちょくごちゅうに「ただし輔」「輔業」「さんじょう」」というものがあるのが元老げんろうたるしゃみとめた勅語ちょくごであるとしているが[10]、いわゆる「元勲げんくん優遇ゆうぐう」の勅語ちょくごにはそのような文言もんごんはない。読売新聞よみうりしんぶんはこの記事きじにおいて大隈おおくま重信しげのぶが1916ねん大正たいしょう5ねん)10がつ9にちに「ただし輔」するよう勅語ちょくごけたと記述きじゅつしているが、過去かこ業績ぎょうせきたいしてべられたもので元老げんろう大隈おおくまあつかいはちがうと解釈かいしゃくしている。若槻わかつき礼次郎れいじろう昭和しょうわ天皇てんのう践祚せんそさいに「ちんこころざしぎょうヲ輔翼弼成」するようもとめられた勅語ちょくごけたが[11]元老げんろうなされることはない[12]一方いっぽうで、西郷さいごう従道つぐみちはこのたね勅語ちょくごけていないが、元老げんろうとしてあつかわれている。また松方まつかた井上いのうえ大山おおやま元老げんろうとしての活動かつどうおこなったのは勅語ちょくごける以前いぜんからである。このため伊藤いとうゆうは、その人物じんぶつ元老げんろうたらしめたのは、明治天皇めいじてんのう元老げんろうによる承認しょうにんによるものだとしている[13]

待遇たいぐうとしては、皇室こうしつ制令せいれい大正たいしょう15ねん1926ねん皇室こうしつれいだい7ごうだい29じょうにおいて、「元勲げんくん優遇ゆうぐうため大臣だいじん礼遇れいぐうたまものハリタルしゃ」として宮中きゅうちゅう席次せきじにおいてだいいちかいだいよん席次せきじけるというものがある[注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、この「元勲げんくん優遇ゆうぐう」という勅語ちょくごけたもの公布こうふ時点じてんですでに全員ぜんいん死亡しぼうしている[注釈ちゅうしゃく 2]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

内閣ないかく制度せいど発足ほっそく以前いぜん[編集へんしゅう]

憲法けんぽう制定せいてい以前いぜん明治めいじ政府せいふにおいては藩閥はんばつ有力ゆうりょくしゃ岩倉いわくら具視ともみなどのいわゆる「元勲げんくん」たちによって政治せいじ人事じんじおこなわれていた。大臣だいじん参議さんぎ制度せいど伊藤いとう博文ひろぶみによって主導しゅどうされるようになると、このころの参議さんぎ過半数かはんすうがのちに元老げんろうとなっている[注釈ちゅうしゃく 3]

元老げんろう制度せいど形成けいせい[編集へんしゅう]

内閣ないかく制度せいど発足ほっそくし、だい1伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつしたが、大臣だいじんのうち6にんこう元老げんろうとなっている[注釈ちゅうしゃく 4]伊藤いとう内閣ないかくのち黒田くろだ清隆きよたか内閣ないかくだい1やま縣内けんないかくはそれぞれぜん首相しゅしょう推薦すいせんによって成立せいりつした[14]

1889ねん明治めいじ22ねん)11月21にち伊藤いとう博文ひろぶみ黒田くろだ清隆きよたかたいし「大臣だいじんれいによって元勲げんくん優遇ゆうぐうあらわす」という詔勅しょうちょくくだされた[15]。これは通常つうじょう元勲げんくん優遇ゆうぐう詔勅しょうちょく」とばれ、大正たいしょうからは元老げんろう法的ほうてき根拠こんきょとされていたが、伊藤いとう 2016はこの詔勅しょうちょくによりにん元老げんろうとなったわけではないと指摘してきしている[15]伊藤いとう山縣やまがたはのちにどう趣旨しゅし詔勅しょうちょくを4かいけ、松方まつかたは3かいけているが[15]、この詔勅しょうちょくけていない段階だんかいでも井上いのうえかおる松方まつかた正義まさよし後継こうけい首相しゅしょう諮問しもんけている[16]。この詔勅しょうちょくにより伊藤いとうやよりわか世代せだい松方まつかたなどを「元勲げんくん」とうごきがひろまった[17]

1891ねん明治めいじ24ねん当初とうしょ責任せきにんたしたやま縣内けんないかく山縣やまがた辞任じにん決意けつい後継こうけい伊藤いとう推薦すいせんしたが伊藤いとう固辞こじ伊藤いとう松方まつかた正義まさよし西郷さいごう従道つぐみち推薦すいせんした。

だい伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1891ねん明治めいじ24ねん)5がつ だい1松方まつかた内閣ないかく成立せいりつ。1892ねん だい1松方まつかた内閣ないかくまりをみせると、6月29にち元老げんろう会議かいぎひらかれ伊藤いとう黒田くろだ山縣やまがた松方まつかた出席しゅっせき井上いのうえかおる山口やまぐちけん帰郷ききょうしていたため参加さんかできなかった[18]。この会議かいぎではだい2伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ事実じじつじょうまり、「元勲げんくん会議かいぎ」によって後継こうけい首相しゅしょうまる先例せんれいとなった[19]土方ひじかた久元ひさもともと宮内みやうち大臣だいじん伊藤いとうたいして「政府せいふないにいなくても元勲げんくん天皇てんのう諮問しもんけ、奉答ほうとうすることはけっして不当ふとうではない」という書簡しょかんしているように、こうした元勲げんくんたちが国政こくせいへの助言じょげん指導しどうおこなうべきであるという認識にんしきつよまった[20]。7月30にち松方まつかた辞表じひょう提出ていしゅつすると、明治天皇めいじてんのう伊藤いとう山縣やまがた黒田くろだ善後ぜんご処置しょちはかり、そして2にちには井上いのうえかおるたいして後継こうけい首相しゅしょう意向いこうたずねた[21]伊藤いとうさらていにおいて、伊藤いとう山縣やまがた黒田くろだ井上いのうえ、そして山田やまだあらわよし大山おおやまいわおくわえた会議かいぎおこなわれ、伊藤いとう後継こうけい首相しゅしょうとすることが確認かくにんされた[21]

だい松方まつかた内閣ないかく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1895ねん明治めいじ28ねん)に伊藤いとう辞職じしょく意向いこうをもち、後継こうけい首相しゅしょう松方まつかた推薦すいせんしたが、明治天皇めいじてんのう辞表じひょう却下きゃっかしている[22]。1896ねん明治めいじ29ねん)にふたた伊藤いとう辞表じひょう提出ていしゅつすると、伊藤いとう後継こうけい指定していしなかったこともあり、天皇てんのう山縣やまがた黒田くろだ井上いのうえ、そして松方まつかた諮問しもんする意向いこうっていた。参内さんだいした黒田くろだ松方まつかたたいし、天皇てんのう山縣やまがた首相しゅしょうとしてはどうかとはかった。しかし山縣やまがた病気びょうき理由りゆう辞退じたいしたため、だい2松方まつかた内閣ないかく成立せいりつした[23]。このころ清浦きようら奎吾白根しらねせんいち天皇てんのうが「元老げんろうす」という書簡しょかんしており、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん[注釈ちゅうしゃく 5]でも9がつ1にちに「黒田くろだはくをはじめ元老げんろう諸公しょこう」が相談そうだんをするとほうじており、9月3にちには「所謂いわゆる元老げんろう会議かいぎ」という記事きじ掲載けいさいし、大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶんも4にんの「元老げんろう」と記述きじゅつしている[24]東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんは「元老げんろうなる文字もじから解釈かいしゃく」すれば、川村かわむらじゅんよし副島そえじま種臣たねおみ佐佐木ささき高行たかゆき海江田かいえだ信義のぶよし福岡ふくおか孝弟こうてい元老げんろうではあるが、今回こんかい会議かいぎは「一種いっしゅ元老げんろうかぎれるもの」としている[25]。1892ねんから1895ねんごろまでは「元勲げんくん」「元勲げんくん会議かいぎ」のかたりおも使つかわれていたが[注釈ちゅうしゃく 6]、1896ねん8がつまつ以降いこうは「元老げんろう」「元老げんろう会議かいぎ」のかたり使用しようされるようになっていき[26]制度せいどとして公然こうぜんしていくこととなる[27]。ただ天皇てんのう内閣ないかく存続そんぞくとうかんする問題もんだいすべ元老げんろう下問かもんしたわけではない[27]

だい伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1897ねん明治めいじ30ねん)に松方まつかた内閣ないかく崩壊ほうかいすると、明治天皇めいじてんのう黒田くろだ清隆きよたか一人ひとり後継こうけい首相しゅしょう下問かもんした。黒田くろだ伊藤いとう山縣やまがた適当てきとうであると奉答ほうとうし、天皇てんのう伊藤いとう組閣そかくめいじた。しぶ伊藤いとう黒田くろだ山縣やまがた説得せっとくして出馬しゅつばさせた[28]だい3伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつまえ伊藤いとうは「元老げんろう」をして内外ないがい情勢じょうせい対応たいおうする会議かいぎ開催かいさい奏請そうせいした。この会議かいぎ出席しゅっせき予定よていしゃ伊藤いとう山縣やまがた黒田くろだ井上いのうえ松方まつかたくわえ、大山おおやまいわお西郷さいごう従道つぐみちくわわったものであった[29]。1がつ10日とおかおこなわれた会議かいぎには辞職じしょく直後ちょくごである松方まつかた出席しゅっせきしなかったものの、内大臣ないだいじん徳大寺とくだいじ実則さねつねが「元老げんろう参朝さんちょう」という表現ひょうげん使つかっている[30]。これ以降いこう天皇てんのうをはじめとする宮中きゅうちゅう元老げんろうたちに下問かもんすることを事実じじつじょう制度せいどとして認識にんしきするようになった[30]

伊藤いとう枢密院すうみついん強化きょうかし、構成こうせいいんでもある元老げんろうがそのなか首相しゅしょうそうこもおこなうことをかんがえており、1896ねんにもそのむね手記しゅきしるしている。しかし枢密院すうみついん内部ないぶ対立たいりつ激化げきかしていたため、当面とうめん藩閥はんばつ実力じつりょくしゃあいだめていくしかないと判断はんだんしている[31]

元老げんろうないではとく伊藤いとう山縣やまがたつよ影響えいきょうりょくっていた。しかし伊藤いとう立憲りっけん政友せいゆうかい結成けっせいにより元老げんろうない官僚かんりょうないでの勢力せいりょく低下ていかさせ、山縣やまがた枢密院すうみついん陸軍りくぐん官僚かんりょうつうじて伊藤いとうなら強大きょうだい影響えいきょうりょくった[32]井上いのうえ伊藤いとう補佐ほさてき役割やくわりをしていたが、剛毅ごうき性格せいかくかれには首相しゅしょうとなれないことの屈折くっせつもあった[33]松方まつかた財政ざいせい専門せんもんとしてをあげ、財界ざいかいのみならず開拓かいたく使官有かんゆうぶつ払下はらいさ事件じけん以来いらい影響えいきょうりょく低下ていかさせていった黒田くろだ後継こうけいとなる薩摩さつまばつ代表だいひょうとしてあつかわれるようになった。しかし松方まつかた性格せいかくよわく、伊藤いとう協力きょうりょくてきであったために薩摩さつまばつ失望しつぼうった[34]西郷さいごう海軍かいぐん大山おおやま陸軍りくぐん代表だいひょうする存在そんざいであったが、大山おおやま陸軍りくぐんない意向いこうしたが傾向けいこうがあり、黒田くろだ西郷さいごうぼつ会議かいぎないのバランスをとるためしばらく元老げんろう会議かいぎのメンバーからはずされている[35]

桂園けいえん時代じだい[編集へんしゅう]

だい1かつら内閣ないかくでは、にち戦争せんそう遂行すいこう協力きょうりょくする見返みかえりとして立憲りっけん政友せいゆうかい政権せいけんゆずるという密約みつやくがあり、伊藤いとう井上いのうえはこの密約みつやくっていたが、山縣やまがたらなかった[36]密約みつやくった山縣やまがたはこれにいきどおったが、ながれをえようとはしなかった[37]かつら形式けいしきてきかく元老げんろう了解りょうかいり、政友せいゆうかい総裁そうさい西園寺さいおんじ公望きんもち後継こうけい首相しゅしょう推薦すいせんした。だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく終焉しゅうえんにあたっても西園寺さいおんじかつら推薦すいせんし、天皇てんのう伊藤いとう山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ同意どうい確認かくにんしてからかつら大命たいめいくだした。かつらにち戦争せんそう勝利しょうり権勢けんせいつよめ、政友せいゆうかい影響えいきょうりょく強大きょうだいしたことにより、桂園けいえん時代じだい首相しゅしょう指名しめいかんしては、元老げんろう形式けいしきてき存在そんざいとなっていった[38]伊藤いとう死後しごかつらは「元老げんろう老衰ろうすいした」として影響えいきょうりょく拡大かくだいしようともくろみ、1911ねん8がつには「元勲げんくん優遇ゆうぐう詔勅しょうちょく」をけている[39]。またマスメディアにおいても元老げんろう立憲りっけんてきであるなどと批判ひはんけるようになった[40]

大正たいしょう政変せいへん元老げんろう[編集へんしゅう]

1912ねん明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょし、大正天皇たいしょうてんのう践祚せんそした。山縣やまがたはこのかつら影響えいきょうりょく低下ていかさせようとし、内大臣ないだいじんとして宮中きゅうちゅうりさせた[41]。しかしかつら師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい契機けいきだい2西園寺さいおんじ内閣ないかくたおした[42]後継こうけいないかく選定せんていにあたっては山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやまにお召状めしじょうはっせられ、12月6にち元老げんろう会議かいぎかつらが「元老げんろう資格しかく」として参加さんかした[43]後継こうけい首相しゅしょうにはかつら選任せんにんされたが、これは「元老げんろう山縣やまがた子分こぶんであるかつら首相しゅしょうとなった」ととられ、元老げんろう制度せいどとく山縣やまがたへの批判ひはん集中しゅうちゅうすることとなった[44]結局けっきょくだい3かつら内閣ないかくだいいち護憲ごけん運動うんどうがりによってあっけなく崩壊ほうかいした。山縣やまがたはこの元老げんろう制度せいどなおそうとし、西園寺さいおんじ元老げんろう会議かいぎくわえるべきと主張しゅちょうした。西園寺さいおんじは1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月21にちに「さんつばさするところあるべし」という詔勅しょうちょくけており、山縣やまがたはこの詔勅しょうちょく根拠こんきょとして西園寺さいおんじ元老げんろうとなるゆう資格しかくしゃであるとしたものである[45]。しかし「元勲げんくん優遇ゆうぐう詔勅しょうちょく」をけたかつらは、辞表じひょう奉呈ほうてい山縣やまがた質問しつもんたいして加藤かとう高明こうめい適当てきとうであり、「元老げんろう推薦すいせんしてはいかが」とこたえたのみであった[46]西園寺さいおんじ組閣そかくもとめられたが辞退じたいし、イギリスりゅうに「議会ぎかい多数たすうとう」が政権せいけんるようにしてはどうかと提案ていあんしているが、元老げんろうから国情こくじょうわないとして反対はんたいされている[47]結局けっきょく政友せいゆうかいしょくつよ山本やまもと権兵衛ごんべえ首班しゅはんとするだい1山本やまもと内閣ないかく成立せいりつしている[48]

だい2大隈おおくま内閣ないかく元老げんろう[編集へんしゅう]

シーメンス事件じけんだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせん[編集へんしゅう]

1914ねん大正たいしょう3ねん)4がつシーメンス事件じけん山本やまもと内閣ないかくたおれると、元老げんろうたちはふたた会議かいぎおこなった。西園寺さいおんじ召集しょうしゅうされたが、「違勅いちょく」を口実こうじつとして出席しゅっせきしなかった。しかしそうこもした徳川とくがわ家達いえさと辞退じたいされ、清浦きようら奎吾の組閣そかく失敗しっぱいしたことで、7かい会議かいぎおこなうこととなった[49]山縣やまがた最終さいしゅうてき大隈おおくま重信しげのぶ首相しゅしょうとするよう提案ていあんし、ようやくだい2大隈おおくま内閣ないかく成立せいりつするはこびとなった[49]。8月には大隈おおくま内閣ないかくだいいち世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんめた。山縣やまがた重大じゅうだい案件あんけん決定けってい自体じたい元老げんろうくわえられなかったことに憤慨ふんがいしたものの、元老げんろう会議かいぎもこれに同意どういあたえた[50]

このころになると山縣やまがた以外いがい元老げんろういて十分じゅうぶん影響えいきょうりょく発揮はっきできず、山縣やまがた自身じしん影響えいきょうりょく低下ていかしつつあった。大隈おおくま加藤かとう高明こうめい外相がいしょう立憲りっけん同志どうしかい総理そうり元老げんろう影響えいきょうりょく排除はいじょしようとかんがえており、たいはな21カ条かじょう要求ようきゅう交渉こうしょう過程かていでも山縣やまがた報告ほうこくおこなわなかった[51]。しかし21カ条かじょう要求ようきゅう外交がいこうてき失敗しっぱいあきらかになると、マスメディアの批判ひはん元老げんろう会議かいぎにもいた[52]。1915ねんには井上いのうえ死去しきょしたことで、山縣やまがた孤独こどくつよまった。1916ねん大正たいしょう5ねん)、山縣やまがた大隈おおくま元老げんろうくわえる構想こうそうったが、大隈おおくま加藤かとう政権せいけんゆずるつもりでいた。寺内てらうち正毅まさき構想こうそうしていた山縣やまがた大隈おおくま会談かいだん結果けっか大隈おおくま加藤かとう寺内てらうち後任こうにんとするよう奏上そうじょうした[53]

寺内てらうち内閣ないかく成立せいりつとシベリア出兵しゅっぺい[編集へんしゅう]

一方いっぽう西園寺さいおんじは1914ねん大正たいしょう3ねん)6がつ政友せいゆうかい総裁そうさいはらたかしに、「将来しょうらい西園寺さいおんじ元老げんろうとなり宮中きゅうちゅう担当たんとうし、はらひょう政治せいじ担当たんとうする」ことをはない、あらたな元老げんろうとしての活動かつどうおこなうつもりでいた[54]西園寺さいおんじ山縣やまがたきら加藤かとうにも批判ひはんてきであり、孤独こどくふかめていた山縣やまがたにとってこのましい存在そんざいであった[54]西園寺さいおんじ寺内てらうち適当てきとうであると大正天皇たいしょうてんのう奏上そうじょうするほか、8がつ3にち非公式ひこうしき元老げんろう会議かいぎにも参加さんかした[55]。9月26にち大隈おおくま再度さいど参内さんだいし、辞意じいつたえるとともに、加藤かとう推薦すいせんする一方いっぽうで、大山おおやまいわお内大臣ないだいじんに、元老げんろう会議かいぎひらかずに首相しゅしょう決定けっていしてほしいと要請ようせいした[56]大山おおやま拒否きょひし、山縣やまがたも「大隈おおくまには1ねんはんあざむかれた」と憤慨ふんがいした[57]大隈おおくま世論せろん背景はいけいにこの要求ようきゅうとおそうとしたが、大山おおやま内大臣ないだいじん波多野はたのたかしただし宮内みやうち大臣だいじんをはじめとする宮中きゅうちゅう元老げんろう会議かいぎ開催かいさい支持しじしていた。10月4にち大隈おおくま加藤かとう推薦すいせんすることを明記めいきした辞表じひょう提出ていしゅつすると、山縣やまがた大正天皇たいしょうてんのう拝謁はいえつし、元老げんろう会議かいぎ開催かいさい同意どういと、西園寺さいおんじ会議かいぎくわえることの許可きょかた。山縣やまがた松方まつかた大山おおやま西園寺さいおんじによる元老げんろう会議かいぎ全員ぜんいん一致いっち寺内てらうちし、寺内てらうち内閣ないかくがスタートした[58]伊藤いとうゆう西園寺さいおんじ正式せいしき元老げんろうとしてみとめられたのはこの時期じきであるとしている[59]首相しゅしょう辞任じにん大隈おおくまは「首相しゅしょう待遇たいぐう」をけるという勅語ちょくごけ、「からだやすめ、天皇てんのううようにしてほしい」という御沙汰ごさたしょくだされた。この御沙汰ごさたしょは、波多野はたのみや内大臣ないだいじんが「元老げんろう待遇たいぐうけたものとしんずる」としたように、一部いちぶには元老げんろうあつかいしたものであるとめられた[60]。このころから元老げんろう根拠こんきょ特定とくてい詔勅しょうちょくによるものであるという認識にんしきひろまった[6]

山縣やまがたはなおも大隈おおくま元老げんろうくわえ、元老げんろう会議かいぎ正当せいとうせい実権じっけんたかめるつもりであったが、西園寺さいおんじ松方まつかた大山おおやま寺内てらうち首相しゅしょう反対はんたいしていた[61]大隈おおくまシベリア出兵しゅっぺいかんする非公式ひこうしき元老げんろう会議かいぎには参加さんかしたものの、その元老げんろう制度せいど立憲りっけんてきであると非難ひなんし、参加さんかしなかった[62]。しかしかれ人気にんきたかく、憲政けんせいかいけい報知ほうち新聞しんぶんなどでは「陛下へいか元老げんろう」などとあつかうこともあった[63]

原内はらうちかく元老げんろう[編集へんしゅう]

寺内てらうち内閣ないかくまると、西園寺さいおんじはら会談かいだんしてはら首相しゅしょうとする合意ごういおこなった。寺内てらうち首相しゅしょう辞任じにんすると、山縣やまがた策動さくどうにより西園寺さいおんじ大命たいめい降下こうかした。西園寺さいおんじ辞退じたいし、はら推薦すいせんした。山縣やまがた松方まつかた合意ごういし、原内はらうちかく誕生たんじょうした[64]はら内政ないせい外交がいこうとともに堅実けんじつ路線ろせんをとり、急進きゅうしんてき改革かいかくきら山縣やまがた信頼しんらいていった[65]。しかし宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけんにおいて、皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう婚約こんやくしにうごいた山縣やまがた松方まつかたは、世論せろん右翼うよく猛攻もうこうげきけ、官職かんしょくおよ恩典おんてんのすべてを返上へんじょうするもうおこなうまでにめられた[66]はら山縣やまがた松方まつかた元老げんろうとしての地位ちい返上へんじょうする事態じたいのぞんでおらず、両者りょうしゃ辞職じしょくもうけないよう天皇てんのうはたらきかけている[67]はら皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう欧州おうしゅう訪問ほうもん摂政せっしょう設置せっち問題もんだいでも山縣やまがた協調きょうちょうし、かれ熱心ねっしん原内はらうちかく支援しえんしゃへとえていった[68]

元老げんろういちにんせい[編集へんしゅう]

はらが1921ねん大正たいしょう11ねん)11月に暗殺あんさつされると、山縣やまがたやまいちゅうであったために、松方まつかた西園寺さいおんじ主導しゅどうにより高橋たかはし是清これきよ政友せいゆうかい内閣ないかくいだ[69]あいだもなく山縣やまがた大隈おおくま相次あいついでぼっし、松方まつかた高齢こうれいであったため、西園寺さいおんじ事実じじつじょう元老げんろう主導しゅどうしゃとなった。西園寺さいおんじ自身じしんも「自分じぶんぜん責任せきにん宮中きゅうちゅう世話せわやら政治せいじじょうこと世話せわく」とかんがえていた[70]。しかし1922ねん6がつ高橋たかはし内閣ないかくそう辞職じしょくすると、おりしも西園寺さいおんじやまいちゅうであった。このさい宮内みやうち大臣だいじん牧野まきのしんあきらは、松方まつかたほか山本やまもと権兵衛ごんべえもと首相しゅしょうと、清浦きようら奎吾枢密院すうみついん議長ぎちょうにも下問かもんするように摂政せっしょうみや裕仁ひろひと親王しんのう言上ごんじょうした。松方まつかた清浦きようら、そして山本やまもと加藤かとう友三郎ともさぶろう海軍かいぐん大将たいしょうそうこもし、大命たいめい降下こうかした。これは下問かもん範囲はんい拡大かくだいすることで、山本やまもと清浦きようらじゅん元老げんろうともべる存在そんざいにするものであった[71][72]元老げんろう元老げんろう存在そんざいやすことに、元老げんろう以外いがい関与かんよするべきではないとかんがえていた西園寺さいおんじ牧野ぼくや策動さくどう不満ふまんであり[73]、9月に内大臣ないだいじん就任しゅうにんした平田東ひらたひがしすけ西園寺さいおんじ同様どうようかんがえていた。

よく1923ねん大正たいしょう13ねん)に加藤かとう友三郎ともさぶろう首相しゅしょう病状びょうじょう悪化あっかしたさいには、西園寺さいおんじ元老げんろう以外いがい下問かもんしないように牧野ぼくやわせをおこない、やまいちゅうであった松方まつかたもこれに同意どういした[73]加藤かとう友三郎ともさぶろう首相しゅしょうが8がつ24にちぼっすると、摂政せっしょうみや平田ひらた内大臣ないだいじん善後ぜんごさくき、元老げんろう下問かもんするようにという内大臣ないだいじん意見いけんけて、元老げんろう下問かもんおこなった[74][75]。この方式ほうしき平田ひらた提案ていあんによっておこなわれるようになったもので、首相しゅしょう推薦すいせん課程かていにおいて、内大臣ないだいじん形式けいしきてき関与かんよする先例せんれいとなった[76]だい2山本やまもと内閣ないかく虎ノ門とらのもん事件じけん責任せきにんをとって12月にそう辞職じしょくし、西園寺さいおんじ松方まつかた選挙せんきょ管理かんりないかくとして清浦きようら奎吾をそうこもした。清浦きようら内閣ないかくだい護憲ごけん運動うんどうによってだい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ惨敗ざんぱいすると、西園寺さいおんじ護憲ごけんさん筆頭ひっとうである憲政けんせいかい総理そうりである加藤かとう高明こうめいそうこもした。当時とうじ松方まつかた意識いしきもおぼつかないやまいちゅうであったため、西園寺さいおんじ平田ひらた内大臣ないだいじんにも下問かもんするよう奏上そうじょうし、平田ひらた加藤かとうしたために加藤かとう大命たいめい降下こうかした[77]。1924ねん7がつ4にち松方まつかたぼっしたため、以降いこう西園寺さいおんじ最後さいご元老げんろうとして活動かつどうすることになった[78]。こののち、15ねんにわたって単独たんどく元老げんろうであったため、「元老げんろう」は西園寺さいおんじ代名詞だいめいしとなった[79]

松方まつかた存命ぞんめいちゅうから元老げんろう補充ほじゅうかんしてはたびたび問題もんだいとなっており、牧野まきのおこなった「下問かもん範囲はんい拡大かくだい」もそのひとつである。しかし西園寺さいおんじあらたな元老げんろうくわえようとはしなかった。これは吉野よしの作造さくぞうによって、西園寺さいおんじ元老げんろう制度せいど廃止はいしするために意図いとてき元老げんろうくわえないでいるのだと指摘してきされ、伊藤いとうたかし馬場ばば恒吾つねごますあじじゅん永井ながいかずといった研究けんきゅうしゃたちもそうている[80]一方いっぽう伊藤いとう 2016元老げんろうくわえようとしなかったのは、価値かちかん共有きょうゆうできる存在そんざいがいなかったためであるとしている[81]はら一時いちじ西園寺さいおんじちがいはあったが、西園寺さいおんじ元老げんろうとなって以降いこう良好りょうこう関係かんけいであり、平田ひらた内大臣ないだいじんも「元老げんろう西園寺さいおんじこうかぎりとし、将来しょうらいかぬがよろし。はらればべつだが、種切たねぎれなり」とひょうしたように[82]生存せいぞんしていれば元老げんろうとなっていたとられている[83]。また伊藤いとう 2016加藤かとう高明こうめいについても組閣そかく以降いこう西園寺さいおんじたか評価ひょうかあたえており、元老げんろう有力ゆうりょく候補こうほであったとしている[83]一方いっぽう有力ゆうりょく候補こうほとしてあげられた山本やまもと権兵衛ごんべえについては薩摩さつまばつしょくつよすぎるとして、西園寺さいおんじ平田ひらた否定ひていてきであった[83]

憲政けんせい常道じょうどう[編集へんしゅう]

牧野まきのしんあらわ西園寺さいおんじ。1919ねん、パリ。

護憲ごけんさんが1925ねん大正たいしょう15ねん)7がつ決裂けつれつし、加藤かとう高明こうめい首相しゅしょう辞表じひょう提出ていしゅつした。西園寺さいおんじ加藤かとう首相しゅしょう支持しじしていたため、そのまま留任りゅうにんさせるべきとかんがえていた。病気びょうき引退いんたいした平田ひらたのちいだ牧野まきの内大臣ないだいじんおな意見いけんであったが、摂政せっしょうみや裕仁ひろひと親王しんのう西園寺さいおんじ上奏じょうそうけたのちに、牧野まきの意見いけん確認かくにんした[84]。この方式ほうしき加藤かとう高明こうめい首相しゅしょう病死びょうし選定せんていにも継続けいぞくされることになった。1926ねん10がつ14にち西園寺さいおんじ摂政せっしょうみや拝謁はいえつし、「政変せいへんがあった場合ばあいには、元老げんろうだけではなく内大臣ないだいじんにも下問かもんがある」「西園寺さいおんじ死去しきょした場合ばあいは、内大臣ないだいじんおも下問かもんけ、意見いけんもとめたいひとがいる場合ばあい勅許ちょっきょ参加さんかさせる」と奏上そうじょうした[85][86]。これは牧野まきの内大臣ないだいじんとの事前じぜんわせなくおこなわれたことであり、西園寺さいおんじ元老げんろう補充ほじゅうをあきらめたためられている[87]永井ながいかず平田ひらた内大臣ないだいじんおこなわれていた元老げんろう下問かもんまえ内大臣ないだいじんへの下問かもんとあわせ、「元老げんろう内大臣ないだいじん協議きょうぎ方式ほうしき」による首相しゅしょう選定せんていであるとしている[86]。しかし伊藤いとう 2016元老げんろう内大臣ないだいじん同格どうかくではなく、両者りょうしゃ協議きょうぎしたような形容けいよう内大臣ないだいじん過大かだい評価ひょうかしすぎていると指摘してきしている[88]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)にだい1若槻わかつき内閣ないかくたおれると、牧野まきの内大臣ないだいじん一木いちき喜徳郎きとくろう宮内みやうち大臣だいじん珍田ちんだ捨巳すてみ侍従じじゅうちょう河井かわいわたるはち侍従じじゅう次長じちょう協議きょうぎし、後継こうけいにはだいとう政友せいゆうかい総裁そうさいである田中たなか義一ぎいち適任てきにんであるとした。河井かわい侍従じじゅう次長じちょう勅使ちょくしとして西園寺さいおんじもとかい、協議きょうぎした意見いけんつたえた。西園寺さいおんじどう意見いけんであるとこたえ、田中たなか義一ぎいち内閣ないかく成立せいりつした[89]。1928ねん昭和しょうわ3ねん)に発生はっせいしたちょうさく爆殺ばくさつ事件じけんのち真相しんそう公表こうひょう方針ほうしんひるがえした田中たなか天皇てんのうおよ牧野ぼくや宮中きゅうちゅうきびしい対応たいおうをとろうとした。これにたいして西園寺さいおんじ首相しゅしょう辞任じにんにつながると反対はんたいしたが、宮中きゅうちゅうはこれをって田中たなかへの問責もんせきおこない、田中たなか義一ぎいち内閣ないかく崩壊ほうかいすることになった[90]。これは軍人ぐんじん右翼うよく政友せいゆうかいとう牧野ぼくやへの反感はんかん昭和しょうわ天皇てんのうがそれにきずられているという印象いんしょうをもたらした[91]。1929ねん昭和しょうわ4ねん)7がつ2にち田中たなか辞表じひょう提出ていしゅつし、下問かもんけた西園寺さいおんじ牧野まきの宮中きゅうちゅう会談かいだんしたのち、西園寺さいおんじだいとう立憲りっけん民政みんせいとう総裁そうさい濱口はまぐち雄幸ゆうこう推薦すいせんし、牧野まきの同意どういするというかたち濱口はまぐち内閣ないかく成立せいりつした[92]ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく締結ていけつかんしては、条約じょうやく反対はんたいする枢密院すうみついん倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう議長ぎちょう平沼ひらぬま騏一郎きいちろうふく議長ぎちょう条約じょうやく批准ひじゅん反対はんたいしようとしていたが、西園寺さいおんじ濱口はまぐち首相しゅしょう激励げきれいし、枢密院すうみついんれさせた[93]。しかし浜口はまぐち首相しゅしょう銃撃じゅうげき事件じけん重傷じゅうしょうい、1931ねん昭和しょうわ6ねん)に辞表じひょう提出ていしゅつしたため、おな民政みんせいとう若槻わかつき後継こうけい首相しゅしょうとなり、だい2若槻わかつき内閣ないかく成立せいりつした[94]

西園寺さいおんじはこの時期じき議会ぎかい勢力せいりょく重点じゅうてんいた推薦すいせんおこない、衆議院しゅうぎいんだいいちとう党首とうしゅ首相しゅしょうとし、だいいちとう問題もんだいがある場合ばあいだいとう党首とうしゅ首相しゅしょうとするという、いわゆる「憲政けんせい常道じょうどう」を実現じつげんさせることとなった。西園寺さいおんじ自身じしんは「憲政けんせい常道じょうどう」をみとめる発言はつげんおこなったことはなかったが[95]世論せろんにはれられ、元老げんろうたいする批判ひはんもほとんどくなっていった[96]。しかし政党せいとうないかく昭和しょうわ恐慌きょうこう昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこう十分じゅうぶん対応たいおうがとれず、また疑獄ぎごく事件じけん頻発ひんぱつしたことで信頼しんらいうしなっていった[97]

政党せいとうないかく崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

昭和しょうわ天皇てんのうはまだわかく、牧野ぼくや経験けいけんすくなかったため、西園寺さいおんじのような政治せいじりょくとぼしかった[98]一方いっぽう西園寺さいおんじ老齢ろうれいであり、興津おきつすわりょうそう滞在たいざいしていたため、天皇てんのうらに十分じゅうぶん影響えいきょうあたえることはできなかった[99]さんがつ事件じけん満州まんしゅう事変じへん独断どくだん越境えっきょうなどのぐん独走どくそうたいして、西園寺さいおんじ反対はんたいしていたものの、牧野まきの宮中きゅうちゅう、そして若槻わかつき内閣ないかく穏当おんとう対応たいおうもとめ、結果けっかてき処罰しょばつおこなわれなかった。これは軍部ぐんぶ増長ぞうちょうまねき、元老げんろう宮中きゅうちゅう政党せいとうないかく影響えいきょうりょく減退げんたいしていくこととなった[100]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月11にち若槻わかつき内閣ないかくは「協力きょうりょくないかく運動うんどうされて辞職じしょくした。協力きょうりょくないかく民政みんせいとう政友せいゆうかい共同きょうどうし、陸軍りくぐん意向いこうれていこうというものであり、牧野ぼくや一木いちきみやしょう協力きょうりょくないかく成立せいりつ好意こういてきであった。しかし西園寺さいおんじ政友せいゆうかいいぬやしなえあつしし、牧野まきのらも異論いろんとなえなかったため政友せいゆうかい内閣ないかくであるいぬやしなえ内閣ないかく成立せいりつした[101]いぬやしなえ首相しゅしょう満州まんしゅうこく承認しょうにん問題もんだい軍部ぐんぶ対立たいりつし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)のいち事件じけんによって殺害さつがいされた。陸軍りくぐん政党せいとうないかく反対はんたいしており、平沼ひらぬま内閣ないかく成立せいりつのぞんでいた[102]西園寺さいおんじ高橋たかはし是清これきよ臨時りんじ首相しゅしょう荒木あらき貞夫さだお陸軍りくぐん大臣だいじん大角おおすみ岑生みねお海軍かいぐん大臣だいじんといった内閣ないかくメンバー、倉富くらとみ枢密院すうみついん議長ぎちょう近衛このえ文麿ふみまろ貴族きぞくいんふく議長ぎちょう清浦きようらもと首相しゅしょう山本やまもと権兵衛ごんべえもと首相しゅしょうといった重臣じゅうしん上原うえはら勇作ゆうさく元帥げんすい東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすいなどの陸海りくかいぐん大物おおものかく方面ほうめん有力ゆうりょくしゃ意見いけんき、さらに牧野まきの内大臣ないだいじん一木いちきみやしょう鈴木すずき侍従じじゅうちょう会談かいだんしたうえで、海軍かいぐん軍人ぐんじん斎藤さいとうみのるそうこもした[103]西園寺さいおんじかく方面ほうめん配慮はいりょする姿勢しせいせ、斎藤さいとう内閣ないかく政友せいゆうかい民政みんせいとう、そして官僚かんりょうから構成こうせいされた挙国一致きょこくいっちないかくであったが、平沼ひらぬま枢密院すうみついんふく議長ぎちょうといった右翼うよく西園寺さいおんじ反感はんかんち、その正当せいとうせいうたがいのつようになった[104]

ろく事件じけん宇垣うがき組閣そかく失敗しっぱい[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)3がつ広田ひろた弘毅こうき首相しゅしょう推薦すいせんしたのち、宮中きゅうちゅうから退出たいしゅつする西園寺さいおんじ

西園寺さいおんじ満州まんしゅうこく承認しょうにん国際こくさい連盟れんめい脱退だったいには反対はんたいであったが、世論せろん支持しじするこれらに反対はんたいして、元老げんろう権威けんい失墜しっついすることをこわれていた[105]西園寺さいおんじ世論せろんくまで宮中きゅうちゅう国際こくさい協調きょうちょうである天皇てんのう牧野ぼくやらをまもろうとし、そのためにも元老げんろう権威けんい失墜しっついすることはふせがなければならなかった[106]。1933ねん昭和しょうわ8ねん)には首相しゅしょう選定せんていへの内大臣ないだいじん関与かんよ限定げんていてきにするよう制度せいどあらため、牧野ぼくや攻撃こうげき対象たいしょうからはずそうとした。さらに内閣ないかく総理そうり大臣だいじん前官礼遇ぜんかんれいぐうけたもの枢密院すうみついん議長ぎちょう構成こうせいされる「重臣じゅうしん会議かいぎ」も奉答ほうとう関与かんよさせることとなった[107]。1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ斎藤さいとう内閣ないかくたおれると、西園寺さいおんじ牧野ぼくやおよ重臣じゅうしんである清浦きようら奎吾、高橋たかはし是清これきよ若槻わかつき礼次郎れいじろう、そして斎藤さいとう首相しゅしょう一木いちき枢密院すうみついん議長ぎちょうをくわえて協議きょうぎすることとなった。牧野ぼくや清浦きようらのみをくわえるのが適当てきとうであるとしたが、西園寺さいおんじ政党せいとう総裁そうさいである若槻わかつきくわえるべきとした[108]。この協議きょうぎによって岡田おかだ啓介けいすけ海軍かいぐん大将たいしょうそうこもされ、岡田おかだ内閣ないかく成立せいりつした。

二・二六事件ににろくじけん[編集へんしゅう]

天皇てんのう機関きかんせつ事件じけん岡田おかだ首相しゅしょう一木いちき枢密院すうみついん議長ぎちょう牧野まきの内大臣ないだいじんへの圧力あつりょくつよまると、西園寺さいおんじ激励げきれいして岡田おかだ内閣ないかく存続そんぞくさせ、一木いちき枢密院すうみついん議長ぎちょう辞任じにん先送さきおくりした。しかし牧野ぼくや健康けんこうじょう問題もんだいもあって辞職じしょくした[109]。しかし岡田おかだ内閣ないかく宮中きゅうちゅうグループにたいする反発はんぱつのこり、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に二・二六事件ににろくじけん勃発ぼっぱつした。この事件じけんでは牧野まきの、そして牧野ぼくや後任こうにんである斎藤さいとう内大臣ないだいじん鈴木すずき侍従じじゅうちょう襲撃しゅうげき対象たいしょうとなり、斎藤さいとう内大臣ないだいじん死亡しぼうし、鈴木すずき侍従じじゅうちょう重傷じゅうしょうった[110][注釈ちゅうしゃく 7]事件じけんけて一木いちき枢密院すうみついん議長ぎちょう湯浅ゆあさくらひらた宮内みやうち大臣だいじん後継こうけい内大臣ないだいじん近衛このえ文麿ふみまろし、内々うちうち接触せっしょくをすすめていた[111]。また内大臣ないだいじん不在ふざいとなったことで後継こうけい首相しゅしょう選定せんていかんして、枢密院すうみついん議長ぎちょう内大臣ないだいじんわりをつとめるということを天皇てんのう上奏じょうそうし、裁可さいか[112]。これらは西園寺さいおんじ無断むだんおこなわれたことであり、西園寺さいおんじ軍部ぐんぶちか近衛このえ宮中きゅうちゅうれるべきではないとかんがえており、湯浅ゆあさ後継こうけい内大臣ないだいじんした[113]西園寺さいおんじ勅使ちょくしけないまま、電話でんわ依頼いらいけるという異例いれいかたち上京じょうきょうし、選定せんてい方式ほうしきには同意どういしたが、一木いちき平沼ひらぬま枢密院すうみついんふく議長ぎちょうには反対はんたいし、近衛このえ推薦すいせんするべきとった[114]。しかし近衛このえ健康けんこうじょう問題もんだい理由りゆうとしてけず、広田ひろた弘毅こうき後継こうけいとなった。

宇垣うがき内閣ないかく流産りゅうざん[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、広田ひろた内閣ないかく辞表じひょう提出ていしゅつすると、湯浅ゆあさ内大臣ないだいじん百武ももたけ三郎さぶろう侍従じじゅうちょうこうはたただしたかし侍従じじゅう次長じちょう松平まつだいら康昌やすまさ内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょう木戸きど幸一こういち皇后こうごう大夫たいふ協議きょうぎし、今回こんかい重臣じゅうしん意見いけんかず、内大臣ないだいじん一旦いったん下問かもんけ、西園寺さいおんじのみに下問かもんするべきと奉答ほうとうするという従来じゅうらい手続てつづきがとられることとなった[115]湯浅ゆあさ参考さんこうとして枢密院すうみついん議長ぎちょうとなった平沼ひらぬま意見いけんいたものの、西園寺さいおんじ宇垣うがき一成いっせい朝鮮ちょうせん総督そうとく陸軍りくぐんさえられると判断はんだんし、宇垣うがき推薦すいせんした[116]。しかし陸軍りくぐん宇垣うがき反発はんぱつし、陸軍りくぐん大臣だいじんさなかった。宇垣うがき宮中きゅうちゅう威光いこうりてなんとか内閣ないかく成立せいりつさせようとしたが、失敗しっぱいすれば宮中きゅうちゅうへの反発はんぱつかえしのつかないものとなると判断はんだんした西園寺さいおんじ天皇てんのう積極せっきょくてき支援しえんすることはなかった[117]結局けっきょく宇垣うがき大命たいめい拝辞はいじすることとなった。

宇垣うがき辞退じたい西園寺さいおんじだいいち平沼ひらぬま枢密院すうみついん議長ぎちょうだいはやしずくじゅうろう大将たいしょう推薦すいせんし、平沼ひらぬま辞退じたいしたためはやし首相しゅしょうとなった。西園寺さいおんじ湯浅ゆあさ内大臣ないだいじんたいし、以後いご後継こうけい首相しゅしょう下問かもん奉答ほうとうかかわること辞退じたいする意向いこうつたえた[118]気力きりょくうしない、政界せいかいにほとんど関与かんよすることもなくなっていった[119]

元老げんろう退場たいじょう[編集へんしゅう]

西園寺さいおんじ国葬こくそう西園寺さいおんじかんせた霊柩車れいきゅうしゃ国会こっかい議事堂ぎじどうまえ停止ていししている。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)6がつ林内りんないかく崩壊ほうかいしたのち湯浅ゆあさ内大臣ないだいじん天皇てんのう下問かもんけ、元老げんろう推薦すいせんけたうえ近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうとして推薦すいせんしたいと奉答ほうとうした。西園寺さいおんじもこれに同意どういあたえ、首相しゅしょう選定せんてい事実じじつじょう湯浅ゆあさ内大臣ないだいじんいちにんによってまることとなった[120]以後いご首相しゅしょう選定せんていについては内大臣ないだいじん仕切しきり、1939ねん昭和しょうわ14ねん以降いこうは「自己じこ責任せきにん」で推薦すいせんおこなうこととなった[121]西園寺さいおんじ参考さんこうとして意見いけんもとめられる存在そんざいとなり[122]平沼ひらぬま内閣ないかく[122]阿部あべ内閣ないかく[123]べい内内うちうちかく[124]成立せいりつさいには湯浅ゆあさ内大臣ないだいじん相談そうだんけている。しかし1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつべい内内うちうちかく崩壊ほうかいすると、木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじんは、もと内閣ないかく総理そうり大臣だいじん枢密院すうみついん議長ぎちょうによる重臣じゅうしん会議かいぎ復活ふっかつ[注釈ちゅうしゃく 8]させ、元老げんろう内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょうが「相談そうだんする」というかたちとなった[125]重臣じゅうしん会議かいぎ近衛このえ文麿ふみまろえらばれたとつたえる内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょうたいし、「この奉答ほうとうだけは御免ごめんこうむりたい」とべ、意見いけんべることも辞退じたいした[126]期待きたいしていたべい内内うちうちかく崩壊ほうかい意気いき消沈しょうちんしていたうえに、西園寺さいおんじ近衛このえ失望しつぼうしており、奉答ほうとう辞退じたいはささやかな抵抗ていこうでもあった[126]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)12月24にち西園寺さいおんじとも元老げんろう制度せいど消滅しょうめつした[127]

元老げんろう一覧いちらん[編集へんしゅう]

氏名しめい 画像がぞう なま没年ぼつねん 元勲げんくん優遇ゆうぐう詔勅しょうちょく 最初さいしょ後継こうけい首相しゅしょう推薦すいせん
伊藤いとう博文ひろぶみ
長州ちょうしゅう
1841ねん天保てんぽう12ねん) - 1909ねん明治めいじ42ねん 1889ねん明治めいじ22ねん)11月1にち[128] 黒田くろだ清隆きよたか
黒田くろだ清隆きよたか
薩摩さつま
1840ねん天保てんぽう11ねん) - 1900ねん明治めいじ33ねん 1889ねん明治めいじ22ねん)11月1にち[129] 山縣やまがた有朋ありとも
山縣やまがた有朋ありとも
長州ちょうしゅう
1838ねん天保てんぽう9ねん) - 1922ねん大正たいしょう11ねん 1891ねん明治めいじ24ねん)5がつ6にち[130] 伊藤いとう博文ひろぶみ辞退じたい
松方まつかた正義まさよし
薩摩さつま
1835ねん天保てんぽう6ねん) - 1924ねん大正たいしょう13ねん 1898ねん明治めいじ31ねん)1がつ12にち[131] 伊藤いとう博文ひろぶみ
井上いのうえかおる
長州ちょうしゅう
1836ねん天保てんぽう7ねん) - 1915ねん大正たいしょう4ねん - 松方まつかた正義まさよし
西郷さいごう従道つぐみち
薩摩さつま
1843ねん天保てんぽう14ねん) - 1902ねん明治めいじ35ねん - 松方まつかた正義まさよし
大山おおやまいわお
薩摩さつま
1842ねん天保てんぽう13ねん) - 1916ねん大正たいしょう5ねん - 松方まつかた正義まさよし
西園寺さいおんじ公望きんもち
公家くげ
1849ねんよしみなが2ねん) - 1940ねん昭和しょうわ15ねん - かつら太郎たろう

かつら太郎たろうについて[編集へんしゅう]

かつら太郎たろうについては広辞苑こうじえんでは「元老げんろう」としており、大辞林だいじりん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょにおいても「元老げんろう」として明記めいきされている。はやししげる千葉ちばいさおなど複数ふくすう研究けんきゅうしゃ元老げんろうであるとしているものの[132]伊藤いとうゆうあやまりであるとしている[1]。また大久おおひさ保利ほりけん国史こくしだい辞典じてんにおいて、かつら元老げんろうからはずしている[132]かつらは1912ねん大正たいしょう元年がんねん)の元老げんろう会議かいぎ以降いこう後継こうけい首相しゅしょう推薦すいせん会議かいぎ参加さんかしているが、「元老げんろう資格しかく」で参加さんかしたというあつかいであり、西園寺さいおんじかつら自身じしん元老げんろうであるとはかんがえていなかった[注釈ちゅうしゃく 9][133]当時とうじ読売新聞よみうりしんぶん元老げんろうかつら区別くべつして記述きじゅつしている[133]

氏名しめい 画像がぞう なま没年ぼつねん 元勲げんくん優遇ゆうぐう詔勅しょうちょく拝受はいじゅ 最初さいしょ推薦すいせんした後継こうけい首相しゅしょう
かつら太郎たろう
長州ちょうしゅう
1848ねんよしみなが元年がんねん) - 1913ねん大正たいしょう2ねん 1912ねん大正たいしょう元年がんねん)8がつ13にち[134] 西園寺さいおんじ公望きんもち

元老げんろう待遇たいぐうしゃをめぐる諸説しょせつ[編集へんしゅう]

また佐々木ささきたかしだい1やま縣内けんないかくそう辞職じしょく(1891ねん)山田やまだあらわよし長州ちょうしゅう)が元老げんろう相当そうとうする元勲げんくんとともに後継こうけい総理そうり大臣だいじんそうこもおこなっており、山田やまだ早世そうせい(1892ねんに49さい死去しきょ)のために正式せいしき任命にんめい手続てつづきられなかった事実じじつじょう元老げんろうであった可能かのうせい指摘してきしている。なお佐々木ささきは、のちになって任命にんめいされたかつら西園寺さいおんじのぞいた7めい山田やまだくわえた8めいをもって帝国ていこく憲法けんぽうにおける「薩長さっちょう元勲げんくん」と位置いちづけている[135]

荒船あらふね俊太郎しゅんたろうは2度目どめ辞任じにんさいと、裕仁ひろひと親王しんのう摂政せっしょう就任しゅうにんしたさい御沙汰ごさたしょにより、大隈おおくま重信しげのぶ元老げんろう待遇たいぐうけたとしている[136]。しかし伊藤いとうゆう元老げんろうみとめておらず、また大隈おおくま自身じしん元老げんろうとしての活動かつどうおこなっていないことから適当てきとうでないとしている[137]。なお、昭和しょうわ天皇てんのう即位そくいさい首相しゅしょう若槻わかつき禮次郎れいじろう閑院みやじん親王しんのう西園寺さいおんじ同時どうじに、類似るいじした詔勅しょうちょくけている[138]が、元老げんろうとみなされることはない[139]

はらたかしについては平田東ひらたひがしすけが「はらればべつだが、種切たねぎれなり」とひょうしたように、首相しゅしょう退任たいにん生存せいぞんしていれば元老げんろうになったものとみられている[82][83]伊藤いとうゆう加藤かとう高明こうめいについても同様どうよう評価ひょうかおこなっている[83]

元老げんろうによる首相しゅしょうそうこも[編集へんしゅう]

推薦すいせん年度ねんど そうこもされた首相しゅしょう候補者こうほしゃ 関与かんよした元老げんろう 元老げんろう以外いがい関与かんよしゃ 備考びこう
1896ねん 松方まつかた正義まさよし[140] 山縣やまがた黒田くろだ井上いのうえ だい2松方まつかた内閣ないかく成立せいりつ
1898ねん 伊藤いとう博文ひろぶみ[141] 黒田くろだ山縣やまがた だい3伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ
1898ねん 大隈おおくま重信しげのぶ[29] 伊藤いとう山縣やまがた黒田くろだ井上いのうえ西郷さいごう大山おおやま 松方まつかた洪水こうずいのため参加さんかできず。

だい1大隈おおくま内閣ないかく成立せいりつ

1898ねん 山縣やまがた有朋ありとも[142] 山縣やまがた黒田くろだ松方まつかた井上いのうえ西郷さいごう大山おおやま 伊藤いとうきよしからの帰国きこく途中とちゅうのため参加さんかできず。

だい2やま縣内けんないかく成立せいりつ

1900ねん 伊藤いとう博文ひろぶみ[143] 山縣やまがた 山縣やまがたによる推薦すいせん

だい4伊藤いとう内閣ないかく成立せいりつ

1901ねん かつら太郎たろう[144] 伊藤いとう山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ西郷さいごう 西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいり だい1かつら内閣ないかく成立せいりつ
1906ねん 西園寺さいおんじ公望きんもち[37] 伊藤いとう山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ かつら太郎たろう首相しゅしょう かつらによる推薦すいせん

会議かいぎなし、個別こべつ賛同さんどうのみ だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつ

1908ねん かつら太郎たろう[145] 伊藤いとう山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ 西園寺さいおんじ公望きんもち首相しゅしょう 西園寺さいおんじによる推薦すいせん

会議かいぎなし、下問かもんのみ だい2かつら内閣ないかく成立せいりつ

1911ねん 西園寺さいおんじ公望きんもち[38] 山縣やまがた かつら太郎たろう首相しゅしょう かつらによる推薦すいせん

会議かいぎなし、下問かもんのみ だい2西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつ

1912ねん かつら太郎たろう[146] 山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやま かつら太郎たろうもと首相しゅしょう内大臣ないだいじん だい3かつら内閣ないかく成立せいりつ
1913ねん 山本やまもと権兵衛ごんべえ[147] 山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやま 西園寺さいおんじ公望きんもちもと首相しゅしょう だい1山本やまもと内閣ないかく成立せいりつ
1914ねん 徳川とくがわ家達いえさと[148] 山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやま 拝辞はいじ
1914ねん 清浦きようら奎吾[148] 山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやま 組閣そかく失敗しっぱいうなぎ内閣ないかく
1914ねん 大隈おおくま重信しげのぶ[148] 山縣やまがた松方まつかた井上いのうえ大山おおやま だい2大隈おおくま内閣ないかく成立せいりつ
1916ねん 寺内てらうち正毅まさき[58] 山縣やまがた松方まつかた大山おおやま西園寺さいおんじ 寺内てらうち内閣ないかく成立せいりつ
1918ねん 西園寺さいおんじ公望きんもち[64] 山縣やまがた 拝辞はいじ
1918ねん はらたかし[64] 西園寺さいおんじ山縣やまがた松方まつかた 原内はらうちかく成立せいりつ
1921ねん 高橋たかはし是清これきよ[149] 西園寺さいおんじ松方まつかた山縣やまがた 高橋たかはし内閣ないかく成立せいりつ
1922ねん 加藤かとう友三郎ともさぶろう[150] 松方まつかた 牧野まきのしんあきら宮内みやうち大臣だいじん
清浦きようら奎吾枢密院すうみついん議長ぎちょう
山本やまもと権兵衛ごんべえもと首相しゅしょう
加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく成立せいりつ
1923ねん 山本やまもと権兵衛ごんべえ[151] 西園寺さいおんじ松方まつかた 平田東ひらたひがしすけ内大臣ないだいじん だい2山本やまもと内閣ないかく成立せいりつ
1924ねん 清浦きようら奎吾[152] 西園寺さいおんじ松方まつかた 平田東ひらたひがしすけ内大臣ないだいじん 清浦きようら内閣ないかく成立せいりつ
1924ねん 加藤かとう高明こうめい[77] 西園寺さいおんじ 平田東ひらたひがしすけ内大臣ないだいじん だい1加藤かとう高明こうめい内閣ないかく成立せいりつ
1925ねん 加藤かとう高明こうめい[84] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん だい2加藤かとう高明こうめい内閣ないかく成立せいりつ
1926ねん 若槻わかつき禮次郎れいじろう[84] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん だい1若槻わかつき内閣ないかく成立せいりつ
1927ねん 田中たなか義一ぎいち[153] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん
一木いちき喜徳郎きとくろう宮内みやうち大臣だいじん
珍田ちんだ捨巳すてみ侍従じじゅうちょう
河井かわいわたるはち侍従じじゅう次長じちょう
田中たなか義一ぎいち内閣ないかく成立せいりつ
1929ねん 濱口はまぐち雄幸ゆうこう[92] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん 濱口はまぐち内閣ないかく成立せいりつ
1931ねん 若槻わかつき禮次郎れいじろう[94] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん だい2若槻わかつき内閣ないかく成立せいりつ
1931ねん いぬやしなえあつし[101] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん
一木いちき喜徳郎きとくろう宮内みやうち大臣だいじん
鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょう
いぬやしなえ内閣ないかく成立せいりつ
1932ねん 斎藤さいとうみのる[154] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん
一木いちき喜徳郎きとくろう宮内みやうち大臣だいじん
鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょう
清浦きようら奎吾(もと首相しゅしょう
山本やまもと権兵衛ごんべえもと首相しゅしょう
高橋たかはし是清これきよ首相しゅしょう臨時りんじ代理だいり
荒木あらき貞夫さだお陸軍りくぐん大臣だいじん
大角おおすみ岑生みねお海軍かいぐん大臣だいじん
倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう枢密院すうみついん議長ぎちょう
近衛このえ文麿ふみまろ貴族きぞくいんふく議長ぎちょう
上原うえはら勇作ゆうさく陸軍りくぐん元帥げんすい
東郷とうごう平八郎へいはちろう海軍かいぐん元帥げんすい
斎藤さいとう内閣ないかく成立せいりつ
1934ねん 岡田おかだ啓介けいすけ[108] 西園寺さいおんじ 牧野まきのしんあきら内大臣ないだいじん
一木いちき喜徳郎きとくろう枢密院すうみついん議長ぎちょう
清浦きようら奎吾(もと首相しゅしょう
高橋たかはし是清これきよもと首相しゅしょう
若槻わかつき礼次郎れいじろうもと首相しゅしょう
斉藤さいとうみのる首相しゅしょう
岡田おかだ内閣ないかく成立せいりつ
1936ねん 近衛このえ文麿ふみまろ[114] 西園寺さいおんじ 一木いちき喜徳郎きとくろう枢密院すうみついん議長ぎちょう
湯浅ゆあさくらひらた宮内みやうち大臣だいじん
木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょう
拝辞はいじ
1936ねん 広田ひろた弘毅こうき[155] 西園寺さいおんじ 一木いちき喜徳郎きとくろう枢密院すうみついん議長ぎちょう
湯浅ゆあさくらひらめ宮内みやうち大臣だいじん
木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょう
広田ひろた内閣ないかく成立せいりつ
1937ねん 宇垣うがき一成いっせい[156] 西園寺さいおんじ 湯浅ゆあさくらひらめ内大臣ないだいじん 組閣そかく失敗しっぱい拝辞はいじ
1937ねん はやしずくじゅうろう[157] 西園寺さいおんじ 湯浅ゆあさくらひらめ内大臣ないだいじん 林内りんないかく成立せいりつ

呼称こしょうについて[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん功績こうせきのあった人物じんぶつを「元勲げんくん」とぶが、これはおもにマスコミ周辺しゅうへんから誕生たんじょうした略称りゃくしょうだとわれている。明治めいじ初期しょき元老げんろうという言葉ことば元老げんろういん設置せっちにおいてもちいられたが、元老げんろう院議いんぎかん参議さんぎ大臣だいじんクラスのいわゆる元勲げんくんよりは格下かくしたあつかいであった[158]。「元勲げんくん」のかたりは1885ねん明治めいじ18ねん)のころからマスコミとうにおいてもちいられ、当初とうしょ大久保おおくぼ利通としみち西郷さいごう隆盛たかもり木戸きど孝允たかよし三条さんじょう実美みみなど初期しょきさい有力ゆうりょくしゃしていた[17]。「元老げんろう」「元老げんろう会議かいぎ」のかたりおももちいられるようになるのは1896ねん8がつまつ以降いこうである[26][159]伊藤いとうゆう元老げんろうかたりがつかわれるのは会議かいぎばれない「元勲げんくん」への配慮はいりょと、「元勲げんくん優遇ゆうぐう」の詔勅しょうちょくけていない井上いのうえかおる松方まつかたへの非難ひなんをふせぐ目的もくてきがあったとている[16]

元老げんろう」というかたりは、君主くんしゅこく政府せいふ中枢ちゅうすうにおいて、君主くんしゅ補佐ほさ、または任命にんめい承認しょうにんたずさわるしょう人数にんずう特権とっけんてき地位ちいたいする訳語やくごとしてもちいられることがある。君主くんしゅせいではないが、1990ねん前後ぜんこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにおいても、だい一線いっせんから退しりぞきながらも最高さいこう権力けんりょくにぎつづけた中国共産党ちゅうごくきょうさんとう建国けんこく元勲げんくんが「はちだい元老げんろう」とよばれたことがあった。また、とく二院にいんせいなどで、世襲せしゅうもしくは長期ちょうき任期にんきあたえられ特権とっけんてき立場たちば立法りっぽうおこな上院じょういん議員ぎいんたいしてももちいられることもある(元老げんろういん議員ぎいん)。しかしこの多少たしょうふるめかしいひびきであるこのかたりは、たびたび西洋せいよう記述きじゅつ登場とうじょうするローマ元老げんろういん議員ぎいんたいしてもちいられる以外いがいでは、あまり使つかわれることがなくなった。

また、だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽんでは、「ながあいだひとつの部門ぶもんうち仕事しごとをしてきた功労こうろうのあるひと」の意味いみでももちいられるようになっている[160]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 枢密院すうみついん議長ぎちょう次位じい元帥げんすいおよび現職げんしょく大臣だいじん内大臣ないだいじん宮内みやうち大臣だいじん上位じょうい
  2. ^ この時点じてん総理そうり大臣だいじん前官礼遇ぜんかんれいぐうけていたものには西園寺さいおんじ(「とく前官ぜんかん礼遇れいぐうたまもの侯爵こうしゃく西園寺さいおんじ公望きんもち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03023377800 )、山本やまもと権兵衛ごんべえ(「とく前官ぜんかん礼遇れいぐうたまもの伯爵はくしゃく山本やまもと権兵衛ごんべえ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03023392400 )、清浦きようら奎吾(「とく前官ぜんかん礼遇れいぐうたまもの子爵ししゃく清浦きようら奎吾」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03023434000 )、高橋たかはし是清これきよ(「とくないかく総理そうり大臣だいじんタル前官ぜんかん礼遇れいぐうたまもの高橋たかはし是清これきよ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03023438300 )がいるが、これらの勅語ちょくご伊藤いとう山縣やまがた松方まつかた黒田くろだかつらのように元勲げんくん優遇ゆうぐう文字もじはなく、だい7の「内閣ないかく総理そうり大臣だいじんまた枢密院すうみついん議長ぎちょうたる前官ぜんかん礼遇れいぐうたまわったもの」に該当がいとうする。西園寺さいおんじはこの時点じてんだいくん菊花きっかだい綬章じゅしょうけており、宮中きゅうちゅう席次せきじだい1となっている。
  3. ^ 伊藤いとう体制たいせいはじまった時点じてんでの参議さんぎのうち、のちに元老げんろうとなったのは伊藤いとう山縣やまがた有朋ありとも黒田くろだ清隆きよたか井上いのうえかおる西郷さいごう従道つぐみち。また松方まつかた正義まさよし大山おおやまいわおものちに参議さんぎとなっている(伊藤いとうゆう 2016, p. 33-34)
  4. ^ 伊藤いとう山縣やまがた有朋ありとも井上いのうえかおる西郷さいごう従道つぐみち松方まつかた正義まさよし大山おおやまいわお(伊藤いとうゆう 2016, p. 33-34)
  5. ^ 当時とうじ社長しゃちょう伊藤いとう側近そっきん伊東いとう巳代治みよじ
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶんにおける「元老げんろう会議かいぎ」の初出しょしゅつは、にちしん戦争せんそうなか1895ねん5月5にち2めん山県やまがた大将たいしょう黒田くろだ議長ぎちょう」である。
  7. ^ 西園寺さいおんじ当初とうしょ襲撃しゅうげき対象たいしょうであり、計画けいかく段階だんかいはずされている
  8. ^ 1933ねんのものとは、前官礼遇ぜんかんれいぐうけない総理そうり大臣だいじん経験けいけんしゃ参加さんかするてんことなっている。
  9. ^ 西園寺さいおんじは1912ねん12月18にちかつらたいし「くんかつら)だの、山本やまもと権兵衛ごんべえ)だのという連中れんちゅう他日たじつ元老げんろうとなるだろう」という発言はつげんをしており、かつら自身じしんとく反論はんろんおこなっていない(伊藤いとうゆう 2016, p. 121)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]