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興津おきつ

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歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん興津おきつ

興津おきつ(おきつ)は、静岡しずおかけん静岡しずおか清水しみず地名ちめい。このあたりの海辺うみべは、ふるくから清見きよみかたばれ、歌枕うたまくらとしてせた。

興津おきつという地名ちめいは、興津おきつ宗像むなかた神社じんじゃ祭神さいじんの1はしら興津おきつとうひめいのち(おきつしまひめのみこと)がこの住居じゅうきょさだめたことからといわれている[1]。また、平安へいあん末期まっきから入江いりえ一族いちぞく興津おきつ居住きょじゅうしていたのでその地名ちめいにしたとのせつもある。古代こだいでの奥津おくつ(おくつ)、いき(おきつ)、沖津おきつ(おきつ)ともいわれている。現在げんざい興津おきつばれる区域くいき1961ねん当時とうじ清水しみず合併がっぺいしたきゅう興津おきつまちかさなる。 絵画かいが和歌わか題材だいざい以外いがいにも、かつて清見きよみせきかれ、東海道とうかいどう甲州こうしゅう街道かいどう交差こうさすることから戦国せんごく時代じだいは、清見寺きよみでらきょ鼇山 もとめおういん 清見きよみ興国こうこくぜんてら)を中心ちゅうしんに、覇者はしゃ掌握しょうあくとりで近代きんだいも、台風たいふう興津おきつまいなどと歴史れきし舞台ぶたいにたびたび登場とうじょうする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

清見きよみせきあと (清見寺きよみでらない)
井上いのうえかおる興津おきつ別邸べってい全景ぜんけい 明治めいじ43ねん撮影さつえい

風光ふうこう明媚めいびられた清見きよみかたは、古代こだい清見きよみせき(きよみがせき)といき(おきつ)えきかれた。この場合ばあいいき現在げんざい興津おきつことなり、西にしりの横砂よこすなあたりではないかとわれている。江戸えど時代じだいには興津おきつ宿やどとして東海道とうかいどうじゅうさんの17番目ばんめ宿場しゅくばまちとして発展はってんし、明治めいじ以降いこう鉄道てつどう開通かいつうしたことにより、西園寺さいおんじ公望きんもちなどの元勲げんくん別荘べっそうち、避寒ひかんとして全国ぜんこくてきにもられていた。現在げんざい清見きよみかた海岸かいがんりはてられ、清水港しみずこう興津おきつ埠頭ふとうとなっている。

古代こだい
鎌倉かまくら時代ときよ
  • 興津おきつ宿やど長者ちょうじゃとして一帯いったい支配しはいした。
南北なんぼくあさ時代じだいから戦国せんごく時代じだいまで
江戸えど時代じだい
明治維新めいじいしんからだい大戦たいせんまで
  • 1868ねん明治維新めいじいしんにより駿府すんぷはん小島こじま役所やくしょ設置せっちされその支配しはいとなる。
  • 1872ねんだいせい導入どうにゅうされる。興津おきつ2ぞくし、それぞれ戸長こちょうふく戸長こちょうかれる。
さんじゅうろくほらむら、薩埵むら承元寺しょうげんじむら
さんじゅうはち中宿なかしゅくまち興津おきつ宿やど清見寺きよみでらまち濁沢にごりさわむら八木間やぎまむら谷津やづむら横山よこやまむら
  • 1879ねん地方ちほうさん新法しんぽう施行しこうされる。だいせい廃止はいしされ庵原いはらぐん全部ぜんぶいちぐん役所やくしょ所管しょかんとし、清見寺きよみでら本堂ほんどうかり役所やくしょとなる。
  • 1884ねん庵原いはらぐん役所やくしょ新築しんちくし(現在げんざいマックスバリュ位置いちする)、清見寺きよみでら本堂ほんどうからうつる。
  • 1889ねん東海道とうかいどうせん 国府津こうづ静岡しずおかあいだ開通かいつう同時どうじ興津おきつえき開業かいぎょう
  • 1889ねん町村ちょうそんせい施行しこうにより興津おきつ宿やどがいはち町村ちょうそん合併がっぺいし、興津おきつまちさだめる。
  • 1890ねん庵原いはらぐん役所やくしょ江尻えじり移転いてんする。
興津おきつまち役場やくばあと興津おきつ宿やど公園こうえんない
だい世界せかい大戦たいせんのち

名所めいしょ旧跡きゅうせき観光かんこうスポット[編集へんしゅう]

興津おきつ由来ゆらいである宗像むなかたさん女神めがみまつる。"くぐりさん"のしたしまれている。ふるくから陸地りくちがあり、鎮守ちんじゅもりひろがる、船乗ふなのりの目印めじるしであった(祭神さいじん奥津おくつみやきりひめから濃霧のうむがかかるもりであったとされる)。オキツシマヒメ(タキリビメ)ノミコトの鎮守ちんじゅもりから"女体にょたいもり"とばれる。うみちかいことから参道さんどうは、黒松くろまつ古木ふるき多数たすうある。なお、宗像むなかた大社たいしゃかみもんは、ならである。うみかみみちかみ。ご利益りやくは、航海こうかい安全あんぜん大漁たいりょう商売しょうばい繁盛はんじょう縁結えんむすび、夫婦ふうふ円満えんまん子宝こだから技芸ぎげい上達じょうたつきむはこぶざいうん向上こうじょうみちひらとう仏教ぶっきょうえると琵琶びわ弁財天べざいてんであり、すわりょうそうんだ西園寺さいおんじ藤原ふじわらきた閑院りゅう琵琶びわいえである。
東日本ひがしにっぽん一番いちばんはやアユりょう解禁かいきんする(5がつ20にちごろ)。きゅう清水しみず水源すいげん清水しみず水道すいどうすい
最後さいご元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもち別邸べってい(おわりいの住処すみか)で、現地げんちにあるのは復元ふくげんされたもの。オリジナルは博物館はくぶつかん明治めいじむら移築いちくされている。数寄屋造すきやづくりうみのぞしばにわ暖炉だんろがある。なお刺客しかくのがれるべくかくとびらうぐいすりの廊下ろうかがある。政界せいかい台風たいふう興津おきつもうられた。
清見きよみせき天台宗てんだいしゅう(天台宗てんだいしゅう総本山そうほんざん比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじけい)の寺院じいんとしてかれ、鎌倉かまくら時代じだいからは、臨済宗りんざいしゅうじゅう正式せいしき名称めいしょうは、きょ鼇山 もとめおういん 清見きよみ興国こうこくぜんてら。きよみでらとも。名前なまえ由来ゆらいから、ふるくから海沿うみぞいにったやまがあり、それを清見きよみかたりかかるよもぎ萊山背負せおれいかめ見立みたてたと推測すいそくできる。「東海とうかいめい 清見きよみかた」の由来ゆらいはここからたのだとわかる。また、富士山ふじさん信仰しんこう三保さんぼう松原まつばらとも度々どどえがかれる。足利尊氏あしかがたかうじにより臨済宗りんざいしゅうかんてら天下てんかじゅう指定してい再興さいこうされ、ふたた戦国せんごく時代じだいれていたところ庵原いおはら興津おきつおやふとしはらゆきときにより今川いまがわ義元よしもと後援こうえん妙心寺みょうしんじとして再興さいこうされる。清見寺きよみでら鐘楼しゅろうおとは"東海とうかい覇者はしゃおと"として、豊臣とよとみ秀吉ひでよし陣中じんちゅうたたかわずして勝利しょうりおさめたはなし有名ゆうめいになった(また、鐘楼しゅろうおとは、謡曲ようきょく三井寺みいでら』に登場とうじょうする)。徳川とくがわ家康いえやすは、今川いまがわ義元よしもと人質ひとじちとして清見寺きよみでらふとしはらゆきときもとあづけられていた(松平まつだいらちくせんだい習のあいだがある)過去かこから保護ほごされ、東海道とうかいどうにあるために、外交がいこう仏閣ぶっかくとして重要じゅうようされる。五百羅漢ごひゃくらかん戦乱せんらんいましめるため徳川とくがわによりつくられた天井てんじょうみなもと頼朝よりともあと鎌倉かまくら幕府ばくふ北条ほうじょうわれ清見きよみせき絶命ぜつめいした梶原かじはら景時かげときのものとつたわる)、世界せかい遺産いさん登録とうろくされた朝鮮ちょうせん通信使つうしんし遺跡いせき徳川とくがわ家康いえやすによりさくにわされた日本にっぽん庭園ていえんがある。足利尊氏あしかがたかうじ今川いまがわ義元よしもと武田たけだ信玄しんげん徳川とくがわ家康いえやすだたる武将ぶしょうにより保護ほごけた。現在げんざいは、JR東海道とうかいどう本線ほんせん境内けいだい横切よこぎめずらしい風景ふうけいえる。
  • 東海道とうかいどうじゅうさん興津おきつ宿やど旅籠はたご 脇本わきもとじん水口みずぐち〈みなぐちや〉(一碧楼いっぺきろう水口みずぐち)」-水口みずぐちギャラリー江戸えど時代じだい武田たけだ信玄しんげん家臣かしんから商人しょうにんになり東海道とうかいどうじゅうさん興津おきつ宿やど旅籠はたごとして脇本わきもとじんいとなむ。幕末ばくまつ旅籠はたご組合くみあいである一新いっしん講社こうしゃられる。明治めいじ時代じだい以降いこうは、宮家みやけ政財界せいざいかい大物おおもの宿泊しゅくはくおとずれる高級こうきゅう老舗しにせ旅館りょかんとしてられ、東海道とうかいどうめい宿やど一碧楼いっぺきろう水口みずぐちしょうされた。スタットラーちょ水口みずぐち物語ものがたり海外かいがいでもられた。現在げんざい水口みずぐち旅館りょかん20代目だいめ当主とうしゅ望月もちづきなかば十郎じゅうろう意向いこうによりすずあずかグループ7代目だいめ当主とうしゅ鈴木すずき与平よへい寄贈きぞうされ、博物館はくぶつかんとして保護ほごされている。
  • 耀海てら-なつしんどうがあり、おちゃつぼ道中どうちゅう武士ぶしが、容姿ようし(美容びよう)の神様かみさまとしてまつられている。横山よこやまじょう (駿河するがこく)おも興津おきつてらであり、開祖かいそ興津おきつ宿やど東本ひがしほんじん市川いちかわ菩提寺ぼだいじである。
  • 興津おきつ波切なきり不動明王ふどうみょうおう興津おきつ波切なきり不動尊ふどうそん)-だい地震じしんによる津波つなみさい御堂みどうからひかりし、なみ興津おきつまもったとつたわる。また、地元じもと漁師りょうしだいあらし遭遇そうぐうおもわず不動尊ふどうそんねんじたところ、不動堂ふどうどうよりいちじょう光明こうみょうはっせられひかりたっているところはなみおだやかで、漁師りょうし無事ぶじかえることができたという。このため、人々ひとびと海難かいなんからまもる「波切なきり不動尊ふどうそん」と崇拝すうはいされるようになった。不動ふどうたきながれる。付近ふきんに、いばらげん神社じんじゃ庵原いおはら神社じんじゃ石原いしはら神社じんじゃ)がある。
  • げんてら-"ちょうさん"、"さん"とばれる盲目もうもく東海道とうかいどう旅人たびびとほこらがあり、神様かみさま千里眼せんりがん神様かみさまとして信仰しんこうされる。稲荷いなりどうがある。だい銀杏いちょう境内けいだいにある。

産業さんぎょう名産めいさんひん[編集へんしゅう]

  • くろはんぺん飛竜頭ひりょうず("ひりゅうず"、"ひりょうず")とばれ由比ゆひから興津川おきつがわあたりのとう地域ちいきで、独特どくとくのゴツゴツとしたいわしのつみれに根菜こんさいるいぜて褐色かっしょくにしっかりとげたものである。どう地域ちいき内陸ないりくがた倉沢くらさわあじ名産めいさんである。
  • さくら-当時とうじ東京とうきょう市長しちょうからの要請ようせいによりワシントンD.C.ポトマック湖畔こはん寄贈きぞうされ全米ぜんべいさくらまつもととなった日米にちべい友好ゆうこう"平和へいわ外交がいこうさくら"は、興津おきつ柑橘かんきつ試験場しけんじょう(きゅうのう商務省しょうむしょう農事のうじ試験場しけんじょう園芸えんげい)にて、品種ひんしゅ荒川あらかわつつみだい伊丹いたみよりあつ作成さくせいされ、横浜よこはまこうからおくられた。返礼へんれいハナミズキ静岡しずおかはなである。また、このさくら顕彰けんしょうして、毎年まいとし2がつ上旬じょうじゅんに"興津おきつ宿やどかんさくらまつりが開催かいさいされている。

となり宿やど[編集へんしゅう]

東海道とうかいどう
由比ゆひ宿やど - 興津おきつ宿やど - 江尻えじり宿やど
甲州こうしゅう往還おうかん駿しゅんしゅう往還おうかん身延みのぶみち
興津おきつ宿やど - 宍原ししはら宿やど

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 興津おきつ宗像むなかた神社じんじゃ祭神さいじん自体じたいは、宗像むなかた神社じんじゃ同様どうよう宗像むなかたさん女神めがみの3はしらともにである。
  2. ^ 英語えいご: Statler, Oliver (1961). Japanese Inn. University of Hawaii Press. ISBN 9780824808181 , 日本語にほんご: オリヴァー・スタットラー ちょ斎藤さいとうじょう やく東海道とうかいどう宿やど水口みずぐちものがたり』社会しゃかい思想しそうしゃ現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ〉、1978ねん3がつ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 興津おきつ地区ちく年表ねんぴょう清水しみず合併がっぺい20周年しゅうねん記念きねん実行じっこう委員いいんかい 1981ねん6がつ
  • 興津おきつさんじゅうねん興津おきつ地区ちく編集へんしゅう委員いいんかい 1992ねん3がつ
  • 東海道とうかいどう薩埵とうげひがし西にし出会であみち建設省けんせつしょう静岡しずおか国道こくどう工事こうじ事務所じむしょ 1994ねん2がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]