(Translated by https://www.hiragana.jp/)
佐屋街道 - Wikipedia コンテンツにスキップ

佐屋さた街道かいどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐屋さた周辺しゅうへん主要しゅよう街道かいどう[✝ 1]
佐屋さた街道かいどう道標どうひょう名古屋なごや

佐屋さた街道かいどう(さやかいどう)は、江戸えど時代じだい東海道とうかいどう宮宿みやじゅく熱田あつた宿やどとも、現在げんざい愛知あいちけん名古屋なごや)と桑名くわな宿やど現在げんざい三重みえけん桑名くわな)のあいだを、陸路りくろ万場まんば宿やど佐屋さた宿やど陸路りくろて、佐屋さたから桑名くわな宿やどへの水路すいろさんさとわたしによってむすんでいた街道かいどうである。佐屋さた(さやじ)、東海道とうかいどう佐屋さやまわともばれる。東海道とうかいどう迂回うかいであると同時どうじに、北側きたがわ津島つしま経由けいゆする津島つしま街道かいどうたいするした街道かいどうである[よう出典しゅってん]ほん記事きじは、以下いか表記ひょうきを「佐屋さた」に統一とういつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

佐屋さた街道かいどうは、東海道とうかいどう付属ふぞく迂回うかいであった[1]江戸えど時代じだいには佐屋さたばれ、その東海道とうかいどう佐屋さやまわりと呼称こしょうされていた[2]慶長けいちょう6ねん1601ねん)、東海道とうかいどう伝馬てんませい実施じっしされ、熱田あつたみや宿やど桑名くわな宿やどあいだ海路かいろななさとわた」でむすばれた[3]。しかし、佐屋さたは、渡海とかいけ、陸路りくろ熱田あつた宿やどから岩塚いわつか宿やど万場まんば宿やど神守かもり宿やど佐屋さた宿やどへ、佐屋さたみなとから川船かわぶね桑名くわな宿やどへといた経路けいろであった[3]

佐屋さたは、寛永かんえい11ねん1634ねん将軍しょうぐん家光いえみつ上洛じょうらくとき尾張おわりはん初代しょだい藩主はんしゅである徳川とくがわ義直よしなおひらいたみちといわれている[4]熱田あつたみや宿やどから佐屋さた宿やどまでの陸路りくろ(6さと)、佐屋さた宿やどから桑名くわな宿やどまでの水路すいろ(3さと)による三里さんりわたむすばれた。佐屋さやみや熱田あつた宿やどから桑名くわな宿やどまでの距離きょりは9であった。佐屋さや宿駅しゅくえきは、佐屋さた神守かもり万場まんば岩塚いわつかの4宿しゅくがあった[5]明和めいわ元年がんねん1764ねん)より、道中どうちゅう奉行ぶぎょう支配しはいとなった。

東海道とうかいどう熱田あつたから桑名くわな海路かいろななさとわたしにくらべ2(8キロメートル〈km〉)ほどなが[4]正徳まさのりもと賃銭ちんせんは、佐屋さた経由けいゆ運賃うんちん熱田あつた桑名くわなあいだ渡海とかいやく2・5ばいであったが[6]ななさとわたしの迂回うかいとしてさかんに利用りようされた[4]

明治めいじには明治天皇めいじてんのう往来おうらいにも使用しようされていたが、しん東海道とうかいどうさだめられ、佐屋さたはその歴史れきしえた。

明治天皇めいじてんのう往来おうらい使用しようされたことをいまつたえる石碑せきひ

沿革えんかく[編集へんしゅう]

東海道とうかいどうななさとわたし」と迂回うかい佐屋さた[編集へんしゅう]

関ケ原せきがはら合戦かっせん翌年よくねん慶長けいちょう6ねん1601ねん)、東海道とうかいどう伝馬てんま宿駅しゅくえきせい実施じっしされた。東海道とうかいどう熱田あつたみや宿やど桑名くわな宿やどあいだは、海路かいろななさとわたし」とされた[1]。「ななさとわたし」は、元和がんわ2ねん1616ねん)にてはじまったという。航路こうろは、満潮まんちょう陸地りくち沿航路こうろやく7(27 km)、干潮かんちょうおきまわ航路こうろやく10(39 km)となる海路かいろであった[3]

佐屋さた渡海とかいけ、陸路りくろ熱田あつたから岩塚いわつか万場まんば神守かもりて、佐屋さたみなとから川船かわぶね桑名くわなへといた経路けいろで、距離きょり陸路りくろ6水路すいろ3けい9さととなる[3]東海道とうかいどう付属ふぞく迂回うかいであった[1]書付かきつけによると、江戸えど時代じだい佐屋さやばれていたが、「佐屋さた旅行りょこう二付御尋之趣申上候書付」によると[7]佐屋さたほか、「東海道とうかいどう佐屋さやまわり」と呼称こしょうされていたことが確認かくにんできる[2]

参勤交代さんきんこうたいふし東海道とうかいどう佐屋さやまわ伊勢路いせじ通行つうこうつかまつこう病気びょうきまたしゃ風雨ふううに而渡海難かいなんしょうなりぶししょうまわり其段たびちゅうよりおとどけさるじょうこうこう哉夫とも及申あいだじきこう哉之むねしょう伺候しこう書付かきつけわたりなり佐屋さやしゃ宿やど々もゆうづけ勝手かって旅行りょこういたしとどけとうさるじょうこうニも及間じきすじしゃ哉之だんひろ御座ぎょざこう — 「佐屋さや旅行りょこうづけひろおもむきさるじょうこう書付かきつけ」、『日本にっぽん交通こうつう史料しりょう集成しゅうせい. だい3輯(えき便覧びんらん)』(1938)、115ぺーじ所収しょしゅう

東海道とうかいどうみや熱田あつた宿やど桑名くわな宿やどとのあいだは、伊勢湾いせわん海路かいろななさとわたしを利用りようしなければならなかったが、天候てんこう次第しだいふねないもあり、ふねても安全あんぜんとはえない場合ばあいもあった。また、船酔ふなよいをするひとや、犯罪はんざいまれやすい女性じょせい子供こども旅人たびびとからもななさとわたしは敬遠けいえんされ、佐屋さたななさとわたしの迂回うかいとしてさかんに利用りようされた[4]。そのため「ひめ街道かいどう」ともばれたという[2]

佐屋さた設置せっち[編集へんしゅう]

万場まんばがわ舟渡ふなと尾張おわり名所めいしょ図会ずえ』. まき7 うみひがしうみ西郡にしごおり国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞう

佐屋さた寛永かんえい11ねん1634ねん将軍しょうぐん家光いえみつ上洛じょうらくとき佐屋さた宿やど万場まんば宿やど設置せっちされたのがはじまりとなる[8]佐屋さやは、尾張おわり初代しょだい藩主はんしゅである徳川とくがわ義直よしなおひらいたみちといわれている[4]

佐屋さた宿やどは、佐屋さやむらだけでは伝馬てんまやく負担ふたんまかないきれなかったため、須賀すかむら依田よだむらが「宿やど」となり佐屋さた宿やどとした[8]佐屋さた宿やど同時どうじ万場まんば宿やどかれた[8]万場まんば宿やどは、庄内川しょうないがわ渡船とせん万場まんばわたし)が必要ひつようであったため、中間ちゅうかん宿駅しゅくえきとして設置せっちされた[8]寛永かんえい13ねん1636ねん)に岩塚いわつか宿やどもうけられたことの記述きじゅつが『地方ちほう』にあり[✝ 2]正保まさやす4ねん1647ねん)に神守かもり宿やどもうけられた[9]万場まんば宿やど岩塚いわつか宿やど庄内川しょうないがわをはさんでかいあい、人馬じんば継立つぎたていちげつ15にち交代こうたいでおこなっていた[10]りょう宿やどあいだ庄内川しょうないがわ万場まんばわたしでむすばれており、『尾張おわり名所めいしょ図会ずえ』にその様子ようすえがかれている[✝ 3]

佐屋さた設置せっちおよび整備せいび尾張おわりはんによっておこなわれていたが[5]万治まんじ2ねん1659ねん)、幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょうもうけられ、えき便覧びんらんによると明和めいわ元年がんねん1764ねん)、佐屋さた例幣れいへい使街道かいどう本坂ほんざかどおりとともに道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつとなった[1]

天保てんぽう14ねんの『佐屋さた宿やどむら大概たいがいちょう』によると、わたのあった佐屋さた本陣ほんじん2けん脇本わきもとじん2けんであったが、宿駅しゅくえき本陣ほんじんいちけんであった[11]

幕末ばくまつ将軍しょうぐん将軍しょうぐん後見こうけんしょく上洛じょうらく[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)・3ねん1863ねん)、14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちいちきょう徳川とくがわ慶喜よしのぶ上京じょうきょうでは、佐屋さた上洛じょうらくしている。熱田あつたにて宿泊しゅくはくし、佐屋さや休憩きゅうけい桑名くわな宿泊しゅくはくしている[12]幕末ばくまつにはペリー来航らいこうにより開国かいこく攘夷じょうい対立たいりつし、政情せいじょう公武こうぶ合体がったいにより政局せいきょく安定あんていはかられた[13]。その孝明天皇こうめいてんのうからの攘夷じょうい勅命ちょくめいけた将軍家しょうぐんけしげる回答かいとうすることを約束やくそくした[13]。しかし上洛じょうらく沿道えんどうしょはん負担ふたんおおきいことから対立たいりつ意見いけんていたが、あさまく関係かんけい重視じゅうしし、将軍しょうぐん上洛じょうらく決定けっていした[14]将軍しょうぐん上洛じょうらくともな草鞋わらじくつ調達ちょうたつめいじられ、佐屋さた佐屋さた宿やど神守かもり宿やどは、屏風びょうぶ煙草たばこぼんぜんわんちゃ茶碗ぢゃわんいん湯次ゆすきかよぼん夜具やぐとうこみ指示しじされた。こみ割当わりあて石高こくだかなどにおうじてめられた[15]

佐屋さた宿やど移転いてん計画けいかく[編集へんしゅう]

佐屋さやがわ川底かわぞこ上昇じょうしょうともない、明和めいわ9ねん1772ねん佐屋さたせん会所かいしょかわざらいを陳謝ちんしゃ[✝ 4]幕府ばくふよりかしきんかわざら費用ひようとしたが効果こうかはなかった[16]文化ぶんか5ねん1808ねん)、佐屋さた渡船場とせんばとしての機能きのうたせず、川下かわしも荷之上にのうえむらしょうかり会所かいしょもうけられていた[✝ 5]文化ぶんか5ねんごろより佐屋さた宿やどしょうより下流かりゅう五明ごみょうむらへの移転いてん計画けいかくがあがり[16]天保てんぽう14ねん1843ねん)、佐屋さた宿やどはん移転いてん申請しんせいした。しかし、移転いてん計画けいかく実現じつげんせず[16]明治めいじ4ねん1871ねん)、佐屋さた宿やど廃止はいしまで、五之三ごのさんむら川平かびらかり会所かいしょ機能きのうしていた[✝ 6]

三里さんりわた[編集へんしゅう]

佐屋さやえき渡口とぐち 『尾張おわり名所めいしょ図会ずえまき7 うみひがしうみ西郡にしごおり 佐屋さやえき渡口とぐち佐屋さた佐屋さた宿やど国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞう

三里さんりわたは、佐屋さた宿やどから桑名くわな宿やどまで川船かわぶねによるむすぶ、三里さんり水路すいろであった。

佐屋さた宿やど設置せっち以前いぜんは、桑名くわなへの水路すいろ一定いっていさだめられてはいなかった[3]桑名くわなとつながる川船かわぶね水路すいろは、佐屋さた本陣ほんじん加藤かとう覚書おぼえがき『あらい旧記きゅうき』によると「往還おうかんおおくは、津島つしません桑名くわなこう往来おうらいゆうゆかり、其外佐屋さた立田たつたあたりゟも桑名くわなこう渡海とかい往来おうらいゆうゆう佐屋さた宿やどじょうなきゆへ、所々ところどころより往還おうかんるとへたり」[✝ 7]とあった。

津島つしまは、みなととして佐屋さたよりふるく、平安へいあん末期まっきには、天王てんのうがわ佐屋さやがわ桑名くわなへとつながっていた[3]。しかし、津島つしまみなとは、佐屋さたくら桑名くわなまでの水路すいろいちさとほどながかったこと[3]河川かせん土砂どしゃ堆積たいせきによりあさくなっていたことから[8]尾張おわりはんは、寛文ひろふみ6ねん1666ねん)に津島つしまみなと廃止はいしし、のべたから7ねん1679ねん)には、津島つしま本陣ほんじん閉鎖へいさした[17]

佐屋さたは、宿駅しゅくえき設置せっちまえにも渡船場とせんばであり、寛永かんえい11ねん1634ねん)、佐屋さた宿やど万場まんば宿やど設置せっちされ、元禄げんろく14ねん1701ねん)『尾張おわりこく絵図えず』に、桑名くわな佐屋さた水路すいろは「佐屋さたヨリ伊勢いせこく桑名くわなへの船路ふなじさんさと」と説明せつめいされている[3]

御茶屋おちゃや御殿ごてん[編集へんしゅう]

宿駅しゅくえき設置せっちまえに、佐屋さた渡船場とせんばであり、元和がんわ2ねん1616ねん)に御茶屋おちゃやてられた[18]尾張おわり初代しょだい藩主はんしゅ義直よしなおときには、御茶屋おちゃや記述きじゅつされているが[8]寛永かんえい11ねん1634ねん)には、御茶屋おちゃや御殿ごてんしょうするようになった[8]

佐屋さた宿駅しゅくえき経路けいろ[編集へんしゅう]

佐屋さた宿駅しゅくえきは、佐屋さた神守かもり万場まんば岩塚いわつかよん宿しゅくであった[5]経路けいろは、東海道とうかいどう熱田あつたみや宿やどから陸路りくろ岩塚いわつか万場まんば神守かもりて、佐屋さたみなとから佐屋さやがわ川船かわぶねくだ東海道とうかいどう桑名くわな宿やどへといたり、距離きょり陸路りくろ6水路すいろ3けい9さととなる[3]東海道とうかいどう付属ふぞく迂回うかいであった[1]

佐屋さたの4宿しゅく位置いち距離きょりは、えき便覧びんらんによると、以下いかとおりである。

佐屋さた宿場しゅくばまち[✝ 8]
宿駅しゅくえき 江戸えど行政ぎょうせい区分くぶん 現在げんざい自治体じちたい 備考びこう
くに ぐん 都道府県とどうふけん 市町村しちょうそん
熱田あつたみや 尾張おわり 愛知あいち 愛知あいちけん 名古屋なごや 熱田あつた[✝ 9] 岩塚いわつか万場まんば二里にりはん 東海道とうかいどう宿場しゅくばまち
1 岩塚いわつか 中村なかむら[✝ 9] 熱田あつた神守かもりさときゅう丁半ちょうはん ただし(岩塚いわつか)と万場まんばいちヶ月かげつあいだじゅうにちわり
2 万場まんば うみひがし 中川なかがわ[✝ 9] 熱田あつたさとはん神守かもりいちさとはんきゅうちょう
3 神守かもり 津島つしま[✝ 10] 佐屋さたいちさとはんきゅうちょう
4 佐屋さた あい西市さいち[✝ 11] 木曽きそ川船かわぶねくだり)、桑名くわな三里さんり
桑名くわな 伊勢いせ 桑名くわな 三重みえけん 桑名くわな[✝ 9] 佐屋さた三里さんり 東海道とうかいどう宿場しゅくばまち

国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい日本にっぽん交通こうつう史料しりょう集成しゅうせいだい3輯(えき便覧びんらん)、国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい1938ねん昭和しょうわ13ねん)を参考さんこう作成さくせい[✝ 12]

なお、神守かもりから佐屋さたへの道中どうちゅうには、津島つしま神社じんじゃいた津島つしま街道かいどう津島つしま街道かいどう)に分岐ぶんきする埋田うめだ追分おいわけ蟹江かにえいた蟹江かにえ街道かいどう分岐ぶんきする愛宕あたご追分おいわけの2つの追分おいわけ存在そんざいした。

佐屋さた伝馬てんませい[編集へんしゅう]

佐屋さた伝馬てんませい[編集へんしゅう]

近世きんせいにおける宿駅しゅくえき制度せいどでの伝馬てんまやくとは、近世きんせい宿駅しゅくえき任務にんむひとつであった。公用こうよう通行つうこうの貨客への人馬じんば提供ていきょうであり、原則げんそくとしていち宿しゅくごと、うまやく歩行ほこう(かち)やく人足ひとあしやく)のまましおく(つぎおく)りを負担ふたんした。東海道とうかいどう伝馬てんませい1601ねん慶長けいちょう6ねん)で、おおくの宿駅しゅくえきが36疋(ぴき)の伝馬てんま常備じょうびし、1638ねん寛永かんえい15ねん以降いこうは100にん100疋の定置ていち人馬じんばさだめられた。

佐屋さた伝馬てんまは、成立せいりつ当初とうしょ尾張おわりはんより、42にん、42疋の常備じょうびとなった[11]慶安けいあん4ねん1651ねん)の書付かきつけでは万場まんば岩塚いわつかうま80疋、よせ103疋、佐屋さた神守かもりうまかく42疋、よせかく158疋、人足ひとあしさだめはしとされた[✝ 13][11]。その寛文ひろふみ6ねんには、幕府ばくふから佐屋さたにも、中山道なかせんどうおなじ50にん・50疋の常備じょうび人馬じんばめいじられた[11]。『寛文ひろふみむら覚書おぼえがき[✝ 14]および『尾張おわり徇行[✝ 15][✝ 16][✝ 17]によると、寛文ひろふみ年間ねんかんかく宿やどない飼育しいくすう佐屋さた66ひき神守かもり41ひき万場まんば34ひき岩塚いわつか45ひきであったという[11]

人馬じんば継立つぎたてもと賃銭ちんせん[編集へんしゅう]

宿駅しゅくえき人馬じんば継立つぎたて料金りょうきんは、無賃むちんぜに公定こうてい賃銭ちんせんてい賃銭ちんせん」、相対そうたい(あいたい)賃銭ちんせんがあった[6]将軍しょうぐん朱印しゅいんじょう幕府ばくふ奉行ぶぎょうらの証文しょうもんにより許可きょかしたものは、人馬じんば継立つぎたて無賃むちんとなり、一般いっぱん公用こうよう通行つうこう幕府ばくふ役人やくにん許可きょかしたものは 公定こうてい賃銭ちんせんつまり「てい賃銭ちんせん」であった。参勤交代さんきんこうたい大名だいみょうは、石高こくだかおうじて一定いってい人馬じんばが「てい賃銭ちんせん」とされ、超過ちょうかしたものは相対そうたい賃銭ちんせんとした[6]相対そうたい賃銭ちんせんは「てい賃銭ちんせん」のおよそ2ばいであった[6]

正徳しょうとくもと賃銭ちんせんは、元禄げんろく3ねん1690ねん)にめられた人馬じんば賃銭ちんせんが、宝永ほうえい4ねん1707ねん)に3わりぞうとなり、そのまま継続けいぞくされた[19]正徳まさのり元年がんねん1711ねん)に「てい賃銭ちんせん」が規定きていされ、その基準きじゅんとなり、「もと賃銭ちんせん」とされた[6]佐屋さや経由けいゆ運賃うんちん熱田あつた桑名くわなあいだ渡海とかいやく2・5ばいであった[6]

佐屋さたもと賃銭ちんせん正徳しょうとく元年がんねんさだめ) [✝ 18]
陸路りくろ 水路すいろ 東海道とうかいどう
熱田あつた万場まんば岩塚いわつか 万場まんば岩塚いわつか)→神守かもり 神守かもり佐屋さた 三里さんりわた ななさとわた
桑名くわな佐屋さた 熱田あつた桑名くわな
本馬ほんまのぼり) 114ぶん(88ぶん 68ぶん(88ぶん 68ぶん 荷物にもつのぼり) 35ぶん 109ぶん
けいしりのぼり) 71ぶん(88ぶん 46ぶん(58ぶん 46ぶん うまこうづけどものぼり) 47ぶん 113ぶん
人足ひとあしのぼり) 56ぶん(44ぶん 35ぶん(44ぶん 35ぶん ひと一人ひとりのぼり) 19ぶん 45ぶん

※1. 天保てんぽう14ねん佐屋さた宿やどづけ大概たいがいちょう』による[✝ 19]
※2. 岩塚いわつか宿やど万場まんば宿やどは、「いちヶ月かげつあいだじゅうにち」で交代こうたいし、もと賃銭ちんせんことなることから、熱田あつた宿やどから岩塚いわつか宿やど岩塚いわつか宿やどから神守かもり宿やどもと賃銭ちんせんは「()」にてしめしている。
※3. 佐屋さやもと賃銭ちんせんななさとわたしのもと賃銭ちんせん比較ひかくのため、参考さんこう資料しりょうとしてななさとわたしのもと賃銭ちんせんけている。

近代きんだい以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじはいると明治天皇めいじてんのう往来おうらいにもかえ使用しようされた。しかし、幕末ばくまつから明治めいじにかけての交通こうつうりょう増大ぞうだいこたえられなくなったほか、佐屋さたみなともうけられていた佐屋さやがわ現在げんざいはいがわ)の土砂どしゃ堆積たいせきにより川船かわぶね往来おうらいむずかしくなったことから、1872ねん明治めいじ5ねん)1がつ8にち太政官だじょうかん布告ふこくによりあらたにぜんケ須弥富やとみ)をとおしん東海道とうかいどうさだめられ、佐屋さた街道かいどうはその歴史れきしえた。

街道かいどう関連かんれんする愛知あいちけんどう別名べつめい[編集へんしゅう]

愛知あいちけんどう[編集へんしゅう]

別名べつめい[編集へんしゅう]

  • 佐屋さた街道かいどう名古屋なごや中川なかがわ中村なかむら大治おおはるまち、あま津島つしま
  • 尾頭橋通おとうばしとおり名古屋なごや中川なかがわ
  • 八幡やはたどおり名古屋なごや中川なかがわ

史跡しせき[編集へんしゅう]

七橋供養の碑(2019年3月) 佐屋街道道標(2007年10月)
なな橋供養はしくよういしぶみ(2019ねん3がつ
佐屋さた街道かいどう道標どうひょう(2007ねん10がつ

なな橋供養はしくよういしぶみ[編集へんしゅう]

ななきょうのうち尾頭橋おとうばしだけがあらしのたびにながされ、供養くようのため僧侶そうりょ人柱ひとばしらとなり、その供養くようのためにいしぶみてられた。道路どうろ拡張かくちょうのため畑中はたなか地蔵じぞう名古屋なごや熱田あつたはなまち)に移設いせつされた。

佐屋さたしるべせき[編集へんしゅう]

伏見ふしみせんから尾頭橋おとうばし佐屋さた街道かいどうへの分岐ぶんきてんにある道標どうひょう[20]金山かなやま総合そうごうえきみなみ出口でぐちから、西にしやく100メートルの金山かなやま新橋しんばしみなみ交差点こうさてんにある[21]

たかさ1.5メートル、はば30センチ、花崗岩かこうがんよん角柱かくちゅうせい各面かくめん記載きさい

  • 東面とうめん:「みぎ なこや 木曽きそ 海道かいどう
  • 西にしめん:「みぎ みや 海道かいどう ひだり なこや みち
  • 南面なんめん:「ひだり さや 海道かいどう しま どう
  • 北面ほくめん:「文政ぶんせい からしねん ろくがつ 佐屋さたたびりゅうちゅう[20]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 池田いけだ誠一せいいち (2015ねん9月7にち). “名古屋なごや古道ふるみち街道かいどう (pdf)”. 【4】佐屋さた・・・岩塚いわつかからまんじょうへ. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 日本電気にほんでんき協会きょうかい 中部ちゅうぶ支部しぶ. 2016ねん11月14にち閲覧えつらん。 ※ 梶川かじかわ勇作ゆうさく1984ねん3月29にち)”江戸えど東海道とうかいどう佐屋さや佐屋さた宿やど前編ぜんぺん)”『金沢大学かなざわだいがく文学部ぶんがくぶ地理ちりがく報告ほうこく, 1』、金沢大学かなざわだいがく、37-55ぺーじ の2けん参照さんしょうして作成さくせい
  2. ^ 地方ちほう」は安永やすなが4ねん1775ねん)の編修へんしゅう重松しげまつ(1966)、208ぺーじ所収しょしゅう
  3. ^ 名古屋なごや公式こうしきウェブサイト参照さんしょう、(街道かいどう城下町じょうかまち周辺しゅうへん地域ちいきとうられる歴史れきしてき風致ふうち” (PDF). 名古屋なごや公式こうしきウェブサイト. 名古屋なごや. p. 128. 2016ねん12月18にち閲覧えつらん
  4. ^ 佐屋さやまち編集へんしゅう委員いいんかいへん史料しりょう1-16」『佐屋さやまち史料しりょうへん佐屋さやまち編纂へんさん委員いいんかい 所収しょしゅう。(はやし(2008)13ぺーじ)。
  5. ^ 佐屋さやまち編集へんしゅう委員いいんかいへん佐屋さやまち史料しりょうへん佐屋さやまち編纂へんさん委員いいんかい、542ぺーじ所収しょしゅう。(はやし(2008)13ぺーじ)。
  6. ^ 佐屋さやまち編集へんしゅう委員いいんかいへん佐屋さやまち史料しりょうへん佐屋さやまち編纂へんさん委員いいんかい、542ぺーじ所収しょしゅう。(はやし(2008)13ぺーじ
  7. ^ 佐屋さた本陣ほんじん加藤かとう覚書おぼえがき『あらい旧記きゅうき』、佐屋さやまち役場やくば(1976)、『佐屋さやまち史料しりょうへんいち)』15ぺーじ所収しょしゅう。(梶川かじかわ(1984)、38ぺーじ。)。
  8. ^ 現在げんざい自治体じちたいは、かく自治体じちたいのホームページを参照さんしょう
  9. ^ a b c d 名古屋なごや公式こうしきウェブサイト参照さんしょう、(街道かいどう城下町じょうかまち周辺しゅうへん地域ちいきとうられる歴史れきしてき風致ふうち” (PDF). 名古屋なごや公式こうしきウェブサイト. 名古屋なごや. p. 113. 2016ねん12月18にち閲覧えつらん
  10. ^ 津島つしま公式こうしきホームページを参照さんしょう。(歴史れきし・ろまん探訪たんぼう 津島つしま公式こうしきホームページ”. 神守かもり宿場しゅくばあと. 津島つしま市役所しやくしょ. 2016ねん12月18にち閲覧えつらん
  11. ^ あい西市さいちホームページを参照さんしょう。(あい西市さいち”. 文化財ぶんかざい一覧いちらん. あい西市さいち役所やくしょ. 2016ねん12月18にち閲覧えつらん
  12. ^ えき便覧びんらん」を参考さんこう作成さくせい東海道とうかいどう宿場しゅくばまち熱田あつたみや)、桑名くわなは、(国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい(1938),15ぺーじ)、佐屋さた宿場しゅくばまちは(国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい(1938),30ぺーじ)による。
  13. ^ 重松しげまつあつし太夫たゆう 安永やすなが4ねん1775ねん編修へんしゅう地方ちほう」。(名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう(1966ねん)『名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・3』208ぺーじ所収しょしゅう
  14. ^ 寛文ひろふみむら覚書おぼえがきなか)」は寛文ひろふみ12ねん1672ねん)に尾張おわりはんによって編集へんしゅうされたはんせん地誌ちしである。(名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・2』(1965ねん)246ぺーじ所収しょしゅう)。
  15. ^ 樋口ひぐち好古よしふる尾張おわり徇行よん)」。(名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・7』(1968ねん)131-2ぺーじ所収しょしゅう。)
  16. ^ 樋口ひぐち好古よしふる尾張おわり徇行)」。(名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・8』(1969ねん)123ぺーじ所収しょしゅう。)
  17. ^ 樋口ひぐち好古よしふる尾張おわり徇行いち)」。(名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・4』(1964ねん)432ぺーじ所収しょしゅう。)
  18. ^ 正徳しょうとく元年がんねんさだめられたもと賃銭ちんせんにより、ひょう作成さくせい梶川かじかわ(1984)、45ぺーじ。)。ひょうでは「のぼり」の「もと賃銭ちんせん」のみ提示ていじ
  19. ^ 佐屋さやまち役場やくば(1976)、『佐屋さやまち史料しりょうへんいち)』49-122ぺーじ。(梶川かじかわ(1984)、45ぺーじ。)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 梶川かじかわ(1984)、37ぺーじ
  2. ^ a b c 池田いけだ(2015)、2ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i 梶川かじかわ(1984)、38ぺーじ
  4. ^ a b c d e 浅井あさいけんなんじ 2001, p. 98.
  5. ^ a b c 梶川かじかわ(1984)、40ぺーじ
  6. ^ a b c d e f 梶川かじかわ(1984)、45ぺーじ
  7. ^ 国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい(1938)、115-117ぺーじ
  8. ^ a b c d e f g 梶川かじかわ(1984)、39ぺーじ
  9. ^ 梶川かじかわ(1984)、40ぺーじ
  10. ^ 国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい(1938)、30ぺーじ
  11. ^ a b c d e 梶川かじかわ(1984)、42ぺーじ
  12. ^ 日下くさか(2002)179ぺーじ
  13. ^ a b 日下くさか(2002)177ぺーじ
  14. ^ 日下くさか(2002)178ぺーじ
  15. ^ 日下くさか(2002)、181-183ぺーじ
  16. ^ a b c はやし(2008)、13ぺーじ
  17. ^ 梶川かじかわ(1984)、38-39ぺーじ
  18. ^ 樋口ひぐち(1968)、358ぺーじ
  19. ^ 山本やまもと(1969)89ぺーじ
  20. ^ a b 名古屋なごや教育きょういく委員いいんかい 1991, p. 290.
  21. ^ 日下くさか英之ひでゆき 1994, p. 62.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 浅井あさいけんなんじみちみちがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2001ねん11がつ10日とおかISBN 4-534-03315-X 
  • 梶川かじかわ勇作ゆうさく江戸えど東海道とうかいどう佐屋さや佐屋さた宿やど前編ぜんぺん)」、『金沢大学かなざわだいがく文学部ぶんがくぶ地理ちりがく報告ほうこく』1、金沢大学かなざわだいがく、1984ねん、37-55ぺーじ
  • 日下くさか英之ひでゆき佐屋さた : 歴史れきし散歩さんぽななけん出版しゅっぱん中部ちゅうぶ事業じぎょう、1994ねんISBN 4-88304-170-0 
  • 国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい日本にっぽん交通こうつう史料しりょう集成しゅうせいだい3輯(えき便覧びんらん)、国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい、1938ねん
  • 重松しげまつあつし太夫たゆう地方ちほう」、『名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへん・3』、名古屋なごや教育きょういく委員いいんかいへん発行はっこう、1966ねん、208ぺーじ
  • しんおさむ名古屋なごや編集へんしゅう委員いいんかいへん)『しんおさむ名古屋なごやだい4かん名古屋なごや、1999ねん 
  • はやし順子じゅんこ佐屋さやがわながれと人々ひとびと生活せいかつ」『KISSO』vol.65、財団ざいだん法人ほうじん河川かせん環境かんきょう管理かんり財団ざいだんへん国土こくど交通省こうつうしょう中部ちゅうぶ地方ちほう整備せいびきょく木曽川きそがわ下流かりゅう河川かせん事務所じむしょ、2008ねん、12-14ぺーじ
  • 樋口ひぐち好古よしふる尾張おわり徇行よん)」『名古屋なごや叢書そうしょ続編ぞくへんだい7かん名古屋なごや教育きょういく委員いいんかい、1968ねん、358ぺーじ 
  • 日下くさか英之ひでゆき幕末ばくまつにおける将軍しょうぐん上洛じょうらく : 尾張おわり通行つうこう中心ちゅうしんに」、『桜花おうか学園がくえん大学だいがく研究けんきゅう紀要きよう』4、桜花おうか学園がくえん大学だいがく、2002ねん、177-194ぺーじ
  • 山本やまもと光正みつまさ東海道とうかいどうにおける人馬じんば賃銭ちんせんについて」、『法政ほうせい史学しがく』30、法政大学ほうせいだいがく学会がっかい、1969ねん、89-105ぺーじ
  • 池田いけだ誠一せいいち (2015ねん9がつ7にち). “池田いけだ誠一せいいち名古屋なごや古道ふるみち街道かいどう” (PDF). プロジェクト紀行きこう. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 日本電気にほんでんき協会きょうかい 中部ちゅうぶ支部しぶ. p. 2. 2016ねん12月4にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]