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駿河するが街道かいどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

駿河するが街道かいどう(するがかいどう)は、愛知あいちけん名古屋なごや名古屋なごやじょうした伝馬てんままちふだつじより、昭和しょうわ川名かわな天白てんぱく平針ひらばり宇頭うとう愛知あいちけん岡崎おかざき宇頭うとうまち)で東海道とうかいどういた街道かいどうである。

江戸えど時代じだい徳川とくがわ家康いえやす名古屋なごや駿河するが往還おうかんするためにひらかれたみちであり、このみち江戸えど時代じだい文献ぶんけんは「駿河するが街道かいどう」で表記ひょうきされている、由緒ゆいしょただしいみち名前なまえである。

概要がいよう

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現在げんざい愛知あいちけんどう56ごう名古屋なごや岡崎おかざきせんはこの路線ろせん継承けいしょうしている部分ぶぶんおおいが、各所かくしょ時代じだいとともに変遷へんせんしていった形跡けいせき見出みいだすことができる。

伝馬てんままちふだつじ名古屋なごやちゅうにしき丁目ちょうめ5、伝馬てんままちどおり本町ほんちょう交差点こうさてん)よりひがしへ、久屋ひさや大通だいつうえてからは南東なんとうななめにびるみち数々かずかず道路どうろ計画けいかくても地図ちずおおむ確認かくにんできる。

吹上ふきあげよりほぼ愛知あいちけんどう56ごう名古屋なごや岡崎おかざきせん地下鉄ちかてつ川名かわなえき、いりなかえき一筋ひとすじ北側きたがわみち八事やごとえきでは南側みなみがわかれるみち平針ひらばり西口にしぐち交差点こうさてんから旧道きゅうどうすす平針ひらばり宿場しゅくばとおり、平針ひらばりさん丁目ちょうめえてもみちなりに秋葉山あきはさんやますそをとおり、愛知あいちけんどう56ごう名古屋なごや岡崎おかざきせんさい合流ごうりゅうひがし白土しらつち春木はるきゆうぶくてら境川さかいがわえて明知めいち明知めいち平成へいせいみなみ交差点こうさてんみちなりに、明知めいち松葉まつばぎ、つつみまちみやほとり逢妻女川あいづまめがわ高岡たかおかまち松葉まつば若林西わかばやしにしまち長根ながね交差点こうさてんわき旧道きゅうどうみなみへ、若林東わかばやしひがしまち新屋敷あらやしきでまた愛知あいちけんどう56ごう名古屋なごや岡崎おかざきせんになり、広美ひろみまちごうみなみ交差点こうさてんよりみちなりの旧道きゅうどうすすむと東海道とうかいどう宇頭うとういたる。

名古屋なごやじょうした城下町じょうかまち南東なんとう位置いちするきゅう駿河するがまち現在げんざい名古屋なごやひがし東桜ひがしさくら)を起点きてんとするせつがある。

江戸えど時代じだい歴史れきし

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江戸えど時代じだい初期しょき街道かいどう絵図えずくに絵図えず絵巻えまきなどにえがかれ、江戸えど時代じだい文献ぶんけんには、尾張おわりより駿河するがかうみちとしてそのを「駿河するが街道かいどう駿河するが海道かいどう)」、あるいは、三河みかわ方面ほうめんより名古屋なごやかうみちとして「なごやみち(なごや海道かいどう名古屋なごや新道しんどう)」といている。

[1]

江戸えど時代じだい文献ぶんけんには「駿河するが」あるいは「なごや」以外いがい街道かいどうめい表記ひょうきされた文献ぶんけんつかっていない。

おも年表ねんぴょう

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  • 慶長けいちょう12ねん(1607ねん) : 徳川とくがわ家康いえやす駿河するが隠居いんきょ
  • 慶長けいちょう14ねん(1609ねん):家康いえやす尾張おわり清洲きよすしろ名古屋なごやじょう築城ちくじょうめいじ
  • 慶長けいちょう15ねん(1610ねん):家康いえやす縄張なわばりをおおける
  • 慶長けいちょう17ねん(1612ねん):家康いえやす駿河するがより築城ちくじょうさなかの名古屋なごや途中とちゅう平針ひらばりむら宿場しゅくばおお伝馬てんまやくめいじ
  • 慶長けいちょう19ねん(1614ねん):名古屋なごやじょう完成かんせい
  • 慶長けいちょう20ねん(1615ねん):家康いえやす秀忠ひでただ義直よしなお駿河するがよりこのみち西にしかい名古屋なごやじょうきゅうはく大坂おおさかへ。ふゆじんたたかう。同年どうねんだい坂城さかき落城らくじょう

明治めいじ以降いこう歴史れきし

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おも年表ねんぴょう

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  • 明治めいじ18ねん(1885ねん):内務省ないむしょう告示こくじともな道路どうろほう名古屋なごや天白てんぱくむら平針ひらばり)の区間くかんが「県道けんどう飯田いいだ街道かいどう」の一部いちぶになり、天白てんぱくむらからの区間くかんは「県道けんどうしん街道かいどう」になる。
  • 大正たいしょう9ねん(1920ねん):道路どうろほうにより名古屋なごや平針ひらばり区間くかんが「県道けんどう名古屋なごや飯田線いいだせん」の一部いちぶになり、平針ひらばりむらからは「岡崎おかざき街道かいどう」とかれる。
  • 昭和しょうわ28ねん(1953ねん):名古屋なごや平針ひらばり区間くかんが「きゅう国道こくどう名古屋なごや塩尻しおじりせん」の一部いちぶになる
  • 昭和しょうわ40ねん(1965ねん):名古屋なごや平針ひらばり区間くかんが「一般いっぱん国道こくどう153号線ごうせん」の一部いちぶになる

現在げんざい地図ちずにこのみちは、愛知あいちけんどう56ごう国道こくどう153ごう飯田いいだ街道かいどう表記ひょうきがある。

宿場しゅくば御茶屋おちゃや

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江戸えど時代じだい初期しょき徳川とくがわ家康いえやす宇頭うとうから名古屋なごやじょうしたまでは東海道とうかいどうではなく駿河するが街道かいどう利用りようしたとかんがえられる。

  • 平針ひらばり宿場しゅくばがあった。
  • つつみ豊田とよだつつみまち)には御茶屋おちゃや御殿ごてんあと御茶屋おちゃや権現ごんげんしゃがあり、あおい紋付もんつきかわら発掘はっくつされている。

一里塚いちりづか

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駿河するが街道かいどう一里塚いちりづかの堠築は慶長けいちょうじゅうななねん江戸えど幕府ばくふれいによるもの[2]

  • 円教寺えんきょうじ名古屋なごやなか。「旅人たびびとのこころすず一里塚いちりづか」のいしぶみがある。
  • 八事やごと北塚きたづか昭和しょうわ41ねんごろまで、南塚みなみづか明治めいじ40ねんごろまで存在そんざいしていた。
  • 平針ひらばり
  • ゆうぶくてら愛知あいちぐん東郷とうごうまちりょうづかとも存在そんざい
  • 明知めいち:みよし明知めいちいしぶみがある。
  • 若林わかばやし豊田とよだ
  • 矢作やさくじゅうなな世紀せいき後半こうはん資料しりょう[3]えがかれているが現在げんざい正確せいかく場所ばしょはわかっていない

通過つうかする自治体じちたい

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 街道かいどう絵図えずくに絵図えず絵巻えまきなど(地図ちず
    • 尾張おわりこく元禄げんろくこく絵図えず』(元禄げんろく14ねん 1701ねん
    • 三河そうご八郡やこおり地理ちり』(寛政かんせいとおる 1800ねんごろ
    • 東海道とうかいどう絵巻えまき』(元禄げんろく3ねん以前いぜん 1690ねん以前いぜん
    駿河するが街道かいどう」でかれた文献ぶんけん
    • 寛文ひろふみむら覚書おぼえがき
    • 尾張おわりこころざし』(天保てんぽう14ねん 1843ねん
    • 尾張おわり徇行』(文政ぶんせい5ねん 1822ねん
    「なごやみち」でかれた文献ぶんけん
    • 東海道とうかいどうぶんあいだ絵図えず』(元禄げんろく3ねん 1690ねん):「なごや海道かいどう」と表記ひょうき
    • 新版しんぱん東海道とうかいどうぶんあいだ絵図えず』(たかられき2ねん 1752ねん):「なごやみち」と表記ひょうき
    • 街道かいどう道中どうちゅう』(文化ぶんか8ねん 1811ねん):「なごやみち」と表記ひょうき
    • 若林わかばやしむら絵図えず』(明治めいじ元年がんねん 1868ねん):「名古屋なごや新道しんどう」と表記ひょうき
  2. ^ 驛逓えきていこころざし稿こう』(だい日本にっぽん交通こうつう
  3. ^ さんしゅう刈谷かりやりょうこれ』(17世紀せいき後半こうはん新編しんぺん安城あき通史つうしへん近世きんせい