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ひめ街道かいどう

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ひめ街道かいどう本坂ほんざかどおり)と東海道とうかいどう
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ひめ街道かいどう(ひめかいどう)は、浜名湖はまなこ北側きたがわ本坂ほんざかとうげ経由けいゆして静岡しずおかけん磐田いわた見付みつけまち東海道とうかいどう見附みつけ宿やど)と愛知あいちけん豊川とよかわ御油ごゆまち東海道とうかいどう御油ごゆ宿やど)をむす街道かいどうである。道程どうていやく60キロメートル。ふるくは東海道とうかいどう本道ほんどうで、二見ふたみみち(ふたみのみち)とばれていた。中世ちゅうせい以降いこう浜名湖はまなこ南岸なんがん往来おうらいさかんになると長距離ちょうきょり移動いどうする利用りようしゃり、地震じしんなどで浜名湖はまなこ南岸なんがん通行つうこう不能ふのうになったのち迂回うかいとしてよく利用りようされた。本坂ほんざかとうげ経由けいゆしたことからほん坂越さこし(ほんざかごえ)、本坂ほんざかどおり(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、ほん坂道さかみち(ほんざかみち)、本坂ほんざか街道かいどう(ほんざかかいどう)などとばれた。戦国せんごく時代じだい街道かいどう整備せいびされ、江戸えど時代じだいには東海道とうかいどう付属ふぞくする街道かいどうとされ、宿やどかれた。幕末ばくまつごろからひめ街道かいどう呼称こしょう定着ていちゃくし、明治めいじ以降いこう新道しんどう出来でき本坂ほんざかとうげトンネル通過つうかするようになり、とうげえのみちはいどうとなっている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい後期こうきになり、まくはん体制たいせいおとろえてかげまいなどの機会きかい女性じょせい比較的ひかくてき監視かんしゆる脇道わきみちとおける機会きかいえたころから、ほん坂道さかみちひめ街道かいどうばれるようになった。呼称こしょう由来ゆらいは、東海道とうかいどう本道ほんどうである新居にいこんきり)の、関所せきしょでの調しらべ、ふねでの渡海とかい、もしくは「こんきり」のかたり縁起えんぎわるいことをきらって利用りようした女性じょせいおおかった、ふるくからあるみちという意味いみの「ひね」街道かいどう転訛てんかした、本道ほんどうおとこ脇道わきみちおんななした、など諸説しょせつある。

明治維新めいじいしん政府せいふによって全国ぜんこく関所せきしょと、東海道とうかいどう宿駅しゅくえき伝馬てんましょ廃止はいしされると、ひめ街道かいどう街道かいどうとしての使命しめいえ、その地域ちいき生活せいかつとして利用りようされるようになった。明治めいじ以降いこうあらたに敷設ふせつされたしんひめ街道かいどうは、引佐いなさとうげみなみ迂回うかいして浜名はまな湖岸こがんとおり、本坂ほんざかとうげえははいされて本坂ほんざかトンネル通過つうかするようになった。きゅうひめ街道かいどうはいどうとなったり、新旧しんきゅうひめ街道かいどうかさなる区間くかんでは幅員ふくいん拡張かくちょう工事こうじおこなわれ、気賀きがから三方原みかたはら追分おいわけにかけてみち両側りょうがわにあった松並まつなみ片側かたがわはらわれた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

遠江とおとうみ現在げんざい静岡しずおかけん西部せいぶ)から三河みかわ現在げんざい愛知あいちけん東部とうぶ)にかけて、本坂ほんざかとうげえて浜名湖はまなこ北側きたがわ三ヶ日さんがにちとお経路けいろは、先史せんし時代じだいから存在そんざいしており、周辺しゅうへんには縄文じょうもん弥生やよい時代じだい史跡しせき数多かずおおい。上代じょうだいには、天竜川てんりゅうがわ下流かりゅう磐田いわたうみばれるみずうみで、東側ひがしがわだい乃浦というみずうみもあったため、このみち東海道とうかいどう本道ほんどうとして利用りようされ、二見ふたみみちばれていた。磐田いわたかいだい乃浦のみずいたのち東海道とうかいどう浜名湖はまなこ南岸なんがんとおるようになり往来おうらいさかんになると、二見ふたみみちはさびれていき、裏街道うらかいどうとしての役割やくわりになうようになった。このころ宿駅しゅくえきには、「いたきずけ(ほんづき)えき」(現在げんざい浜松はままつ浜名はまな三ヶ日さんがにちまち本坂ほんざかないし日比沢ひびさわ周辺しゅうへん)や、「猪鼻いのはな(いのはな)えき」(猪鼻湖いのはなこ瀬戸せとまたは新居しんきょ)があった。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいには、地震じしんなどで浜名湖はまなこ南岸なんがん通行つうこう不能ふのうとなったときに利用りようされていたことがられている。

近世きんせい[編集へんしゅう]

近世きんせいになって、16世紀せいきはじめに浜名湖はまなこ南岸なんがんこん切口きりくちができ、渡船とせん必要ひつようとなったことがほん坂越さこし往来おうらいふたたさかんになる契機けいきとなった。戦国せんごく時代じだいには徳川とくがわ家康いえやすほり川城かわしろめや、とおしゅうんだ武田たけだ信玄しんげん軍勢ぐんぜい徳川とくがわぐんとの三方みかたばらたたかなどのさい軍勢ぐんぜい街道かいどうい、交通こうつう要衝ようしょうとして関所せきしょもうけられた。天正てんしょう年間ねんかんにはほん多作たさく左衛門さえもんによって新宿しんじゅくもうけられ、街道かいどうとして整備せいびされた。

1601ねん慶長けいちょう6ねん)に江戸えど幕府ばくふによって宿駅しゅくえきせいかれ、おなごろ気賀きが関所せきしょかれた。本坂ほんざかえつみち本坂ほんざかどおりほん坂道さかみち本坂ほんざか街道かいどうなどとばれた。また東海道とうかいどう見付みつけ宿やどから天竜川てんりゅうがわ池田いけだわたしのあいだみなみ迂回うかいしていた東海道とうかいどうほん街道かいどうたいし、見付みつけ宿やどから西にしすす池田いけだ近道ちかみち徒歩とほ旅人たびびと利用りようされた。1707ねん宝永ほうえい地震じしんによる津波つなみや、1854ねん安政あんせいだい地震じしんなどにより浜名湖はまなこ南岸なんがん通行つうこう不能ふのうとなったさいに、本坂ほんざかどおり迂回うかいとして利用りようされ、通行つうこうりょう増加ぞうかした。明和めいわ元年がんねん(1764ねん)に、幕府ばくふ本坂ほんざかどおり道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつとし、東海道とうかいどう一部いちぶ位置付いちづけて一定いってい通行つうこうりょうるように整備せいびし、浜松はままつ宿やどから、気賀きが三ヶ日さんがにちおよび嵩山すせ(すせ)御油ごゆ宿やどいたあいだかく宿やど指定していした。江戸えど時代じだい初期しょきほん坂道さかみち東海道とうかいどうやすあいだ一里塚いちりづかから野宿のじゅく気賀きがいた経路けいろをとっていたが、笠井かさい浜松はままつ宿やど繁栄はんえい反比例はんぴれいして通行つうこうりょう減少げんしょうし、衰退すいたいしていった。

かげまいりと本坂ほんざかどおり[編集へんしゅう]

とおる15ねん(1730ねん)にかげまい流行りゅうこうしたときには、都田みやこだむらでは、女中じょちゅうたちのまい[1]おおかったため、気賀きが関所せきしょ命令めいれいけて、見張みはりじん街道かいどう沿むらやま毎日まいにちしたが、それでもまいりはえなかったとされる[2]文政ぶんせい13ねん(1830ねん)に浜名湖はまなこ北岸ほくがん気賀きが三ケ日みっかび方面ほうめんからおかげまいりが流行りゅうこうし、浜松はままつ方面ほうめんにも波及はきゅうしたさいには、おおくのひと本坂ほんざかどおり利用りようした[3]幕末ばくまつには将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ正室せいしつとなったあつしひめ本坂ほんざかどおり通行つうこうした[4]

近代きんだい[編集へんしゅう]

関所せきしょ宿駅しゅくえき制度せいど廃止はいし[編集へんしゅう]

明治めいじ2ねん(1869ねん)に、明治めいじしん政府せいふ関所せきしょ廃止はいしれいにより諸国しょこく関所せきしょ全廃ぜんぱいされ[5]気賀きが関所せきしょも閉所した[6]明治めいじ5ねん(1872ねん)1がつには、太政官だじょうかん布告ふこくだい10ごうにより、東海道とうかいどう宿駅しゅくえき伝馬てんましょ廃止はいしされた[7]山中さんちゅうとおっていた(きゅうひめ街道かいどうは、明治めいじ大正たいしょう時代じだい県道けんどうとう整備せいびともない、通行つうこうりょうり、さびれていった[8]

ひめ街道かいどう鉄道てつどう計画けいかく[編集へんしゅう]

明治めいじ22ねん(1889ねん)7がつまでに、東海道とうかいどうせん東京とうきょう神戸こうべあいだ全線ぜんせん開通かいつうした[9]輸送ゆそう旅行りょこうはほとんど鉄道てつどう依拠いきょするようになり、道路どうろとしての東海道とうかいどう長距離ちょうきょり輸送ゆそうはたしていた役割やくわりえてローカルなものに変質へんしつえき周辺しゅうへん中心ちゅうしんがいうつっていった[9]

明治めいじ29ねん(1896ねん)には、「ひめ街道かいどう鉄道てつどう」の起業きぎょう計画けいかくされ、浜松はままつかんせん停車ていしゃじょうげん東海道とうかいどうせん浜松はままつえき)から市野いちのゆうだま小松こまつ三方原みかたはら中川なかがわとおり、気賀きが三ヶ日さんがにち宇利峠うりとうげえ、豊川とよかわ御油ごゆえきにいたる経路けいろ予定よていされていたが、実現じつげんしなかった[10]

なお、昭和しょうわ初期しょきにもひがし三河そうご地方ちほう有力ゆうりょくしゃにより、和田わだつじ気賀きがあいだひめ街道かいどう沿とおさん鉄道てつどう構想こうそう立案りつあんされたが、これも経済けいざいきょう影響えいきょうにより着工ちゃっこういたらなかった。

しんひめ街道かいどう[編集へんしゅう]

1879ねん明治めいじ12ねん)に、静岡しずおか県議会けんぎかいで、旧来きゅうらいひめ街道かいどう県費けんぴ支弁しべんけられる道路どうろ指定していされたが、修理しゅうりなどはおこなわれず、一里塚いちりづか松並まつなみれるにまかされていた[11][注釈ちゅうしゃく 1]

明治めいじはいってから、やまいをとおり、引佐いなさとうげえていたきゅう街道かいどう[12]とはべつに、気賀きがから三ヶ日さんがにちまでの湖畔こはん沿いに10キロメートルあまりの道路どうろ新設しんせつされ、しんひめ街道かいどうばれた[13][14]きゅう街道かいどう地元じもと農家のうか農作業のうさぎょうさいとお程度ていど通行つうこうりょうとなっていた[15]

1919ねん大正たいしょう8ねん)に浜松はままつ神明しんめい交差点こうさてんからさんぽうばら気賀きが終点しゅうてんとする静岡しずおかけんどう静岡しずおか気賀きがせんが「しんひめ街道かいどう」に指定していされた[11]気賀きがから三方原みかたはら追分おいわけにかけての三方原みかたはら付近ふきんきゅうひめ街道かいどう両側りょうがわには土手どて松並まつなみがあったが、新旧しんきゅうひめ街道かいどうどういち路線ろせんつくられ、道幅みちはばひろげるために東側ひがしがわまつ並木なみきはらわれ、西側にしがわまつ並木なみきだけがのこされた[16]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)からたかまち飛行ひこうたいあいだひめ街道かいどう改良かいりょう工事こうじおこなわれ、1931ねんにはこうまちにあった曳馬ひくまざかばれたさか石畳いしだたみかれて勾配こうばいゆるやかになり[17]歩兵ほへいだい67連隊れんたい設置せっちされると幅員ふくいん拡張かくちょうされ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)にさいがけ[18]旧道きゅうどう東側ひがしがわてられて新道しんどうかれた[19]

1963ねん当時とうじ気賀きがひめ街道かいどうちか幅員ふくいん拡張かくちょうする予定よていとされ、ふる街道かいどうはば4メートルらずだったのをばいちかくにひろげることから、気賀きが関所せきしょ建物たてもの存亡そんぼう岐路きろたされているとされている[20]

[いつ?]御油ごゆ宿やどからすこひがしすすんだあたりから、ひめ街道かいどう幅員ふくいんひろげた「しんひめ街道かいどう」に拡張かくちょうされ、豊川とよかわ鉄橋てっきょうわたるようになった[21]豊川とよかわからさき本坂ほんざかさんまでは、しんひめ街道かいどう旧道きゅうどうとほぼおな経路けいろをとっていた[22]

豊川とよかわ海軍かいぐん工廠こうしょうができると、豊川とよかわまち急速きゅうそく拡大かくだいした[22]戦後せんご海軍かいぐん工廠こうしょうがなくなったのちも、豊川とよかわ稲荷いなり人気にんきによりしんひめ街道かいどう豊川とよかわへの街道かいどうすじとして利用りようされている[22]

しんひめ街道かいどうは、静岡しずおかけん愛知あいち県境けんきょうにある本坂ほんざかとうげ旧道きゅうどうしたをトンネルで通過つうかするようになった(きゅう本坂ほんざかトンネル[23]

ひめ街道かいどうまもかい[編集へんしゅう]

弓張ゆみはり山地さんち本坂ほんざかとうげ現在げんざいかく方面ほうめんから自然しぜん歩道ほどうとしてのハイキングコースが整備せいびされている。

1965ねん昭和しょうわ40ねん)に、御油ごゆから見付みつけまでのひめ街道かいどう通過つうか6市町村しちょうそん有志ゆうしによって「ひめ街道かいどうまもかい」が結成けっせいされた[8]

1972ねん7がつには、「ひめ街道かいどうまもかい」の会員かいいんやく40めいが、本坂ほんざかとうげで、やくはん世紀せいきあいだ不通ふつう状態じょうたいとなっていたほん坂道さかみちきゅうひめ街道かいどう)を復元ふくげんするための踏査とうさおこない、鏡岩かがみいわ所在しょざいや、植物しょくぶつがくじょう貴重きちょうとされた椿つばき原生げんせい群落ぐんらく地帯ちたい復元ふくげんのため修繕しゅうぜん補修ほしゅうようする箇所かしょ確認かくにんした[24]

史跡しせき指定してい[編集へんしゅう]

1980ねん昭和しょうわ55ねん)には、文化庁ぶんかちょう補助ほじょによる「歴史れきしみち調査ちょうさ事業じぎょう昭和しょうわ54年度ねんど事業じぎょう)の一環いっかんとして、静岡しずおかけん教育きょういく委員いいんかいによりひめ街道かいどうかんする調査ちょうさ報告ほうこくしょ[25]がまとめられ[26][27]、その改訂かいていばん出版しゅっぱんされて、重要じゅうよう歴史れきし研究けんきゅう資料しりょうとなっている[28]

1996ねん文化庁ぶんかちょう古道ふるみち保存ほぞん活用かつようをはかるため「歴史れきしみちひゃくせん」を発表はっぴょうし、本坂ほんざかどおり西にし気賀きがから引佐いなさとうげ(静岡しずおかけん細江ほそえまち)、本坂ほんざかとうげ当古とうご(愛知あいちけん豊橋とよはし豊川とよかわ)にいた区間くかん[よう出典しゅってん]が「歴史れきしみち」に選定せんていされた[28]

ひめさま道中どうちゅう[編集へんしゅう]

毎年まいとし4がつだい1日曜にちように、浜松はままつ浜名はまな細江ほそえまちでは、「ひめさま道中どうちゅう」というまつりが開催かいさいされており[29][30]、お姫様ひめさまふんした同町どうちょうしん成人せいじんかごり、地元じもと住民じゅうみんふんするさむらい奥方おくがた腰元こしもとやつなどをしたがえて都田川みやこだがわつつみある[31]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に、清水しみず自治じち会長かいちょう杉田すぎたぼうが、気賀きがまちかく地域ちいきがそれぞれ開催かいさいしていたまつりを統合とうごうして、気賀きがまち全体ぜんたいだい規模きぼまつりをおこなうことを構想こうそうし、かく地域ちいき自治じち会長かいちょう商工しょうこう組合くみあい組合くみあいちょうらをあつめて実行じっこう委員いいんかい組織そしき[32]

そのむかし公家くげ大名だいみょうひめさま行列ぎょうれつとおったというひめ街道かいどう故事こじにちなんで道中どうちゅう行列ぎょうれつ再現さいげんすることになり、まつりの名前なまえを「ひめさま道中どうちゅう」として、都田川みやこだがわ桜堤さくらづつみ[33]あるくことにした[32]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)4がつ4にち-5にち気賀きがまち観光かんこう協会きょうかい観光かんこう事業じぎょうとしてだい1かいさくらまつりひめさま道中どうちゅう」を開催かいさい[32]。それ以来いらいひめさま道中どうちゅうは56年間ねんかん毎年まいとし開催かいさいされた[32]。2011ねんには東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい影響えいきょう開始かいし中止ちゅうしとなった[32]

ひめ街道かいどう」の呼称こしょう由来ゆらい[編集へんしゅう]

ひめ街道かいどう」の呼称こしょう由来ゆらいについては諸説しょせつあり、渡辺わたなべ (2012, p. 20)は、1929ねん-1938ねん昭和しょうわ4ねん-昭和しょうわ13ねん)にかけて、大山おおやまじき太郎たろう白柳しらやなぎ秀湖しゅうこおよび内田うちだあさひあいだで「ひめ街道かいどう論争ろんそう」が展開てんかいされた、としている。

時期じき[編集へんしゅう]

ひめ街道かいどう」の呼称こしょう定着ていちゃくした時期じきについて、気賀きが関所せきしょ (2016a)は、宝永ほうえい4ねん(1707ねん)の地震じしんのちほん坂越さこし利用りようする公家くげ奥方おくがた姫君ひめぎみ女中じょちゅうしゅえたことによるとし、くすのき 2006, p. 76は、18世紀せいきはじめのとおるころから、だれがいうともなく「ひめ街道かいどう」とばれるようになった、としている。また白柳しらやなぎ秀湖しゅうこによる「江戸えど初期しょきから」、内田うちだあさひによる「平安へいあん時代じだい初期しょきから」などの主張しゅちょうもあった[34]

しかし、万治まんじ元年がんねん(1658ねん)の『東海道とうかいどう名所めいしょ』や寛政かんせい9ねん(1796ねん)の『東海道とうかいどう名所めいしょ図絵ずえ』、1802ねんの『東海道とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ』などでは、「本坂ほんざかえつ」、「ほん坂道さかみち」、「二見ふたみみち」などの名称めいしょうもちいられていて[35]江戸えど時代じだい公文書こうぶんしょに「ひめ街道かいどう」の呼称こしょうはみられない[8]

江戸えど時代じだい末期まっきになって、民間みんかん文書ぶんしょひめかんした呼称こしょう登場とうじょうするため[8][36]、「ひめ街道かいどう」の呼称こしょうはこのころ定着ていちゃくしたとみられている[36][37]渡辺わたなべ (2012, p. 20)は、幕末ばくまつ文書ぶんしょ記録きろく記載きさいがあるためこのてん決着けっちゃくみ、としている。

  • 安政あんせい元年がんねん(1854ねん)のだい地震じしんのちには、浜名湖はまなここんきりわたしが停止ていしして東海道とうかいどう交通こうつう麻痺まひしたため、大名だいみょうほん坂道さかみち迂回うかいし、本坂ほんざかえつ交通こうつうりょう増加ぞうかした[38]よく安政あんせい2ねん(1855ねん)に山形やまがたけんからははともなって善光寺ぜんこうじ伊勢神宮いせじんぐう参詣さんけいし、全国ぜんこく各地かくち半年はんとしかけて旅行りょこうした清河きよかわ八郎はちろうは、たび日記にっき西遊せいゆうそう[39]浜名はまなぐん三ケ日みっかびこうに、「此所は秋葉山あきはさん往来おうらい宿やどにて、往来おうらいもややあり。且昨年さくねんよりして大名だいみょう新井あらいとおらず、まま此処ここらより上下じょうげするありとぞ。すべて御姫様おひめさま海道かいどうづけて、格別かくべつ難儀なんぎにもあらざるみちなり。」として、本坂ほんざかえつが「御姫様おひめさま海道かいどう」とばれており、40さいははれた清河きよかわにとっても「とく大変たいへんみちでもなかった」としるしている[40]
  • 浜松はままつだい2かんは、安政あんせい3ねん(1856ねん)の絵図えずでは、浜松はままつ宿やどから三方原みかたはら追分おいわけいたみちを「ひめ街道かいどう」、安間あんま一里塚いちりづかから市野いちの三方原みかたはら追分おいわけいたみちを「市野いちのみち」としるしていた、としているが[41]、この絵図えず行方ゆくえ不明ふめい未確認みかくにんとされている[42]
  • 万延まんえん元年がんねん(1860ねん)にくもてい貞秀さだひでえがいた『東海道とうかいどうじゅうさん勝景しょうけい』のなかに「東海道とうかいどう五十三次之内浜松順路並ひめ街道かいどう木賀きが遠望えんぼう」とだいした浮世絵うきよえがあり、おなごろ作成さくせいされた「秋葉山あきはさん参詣さんけい道程どうてい」にも「ひめさま街道かいどう」と記載きさいがあることから、このころには「ひめ街道かいどう」の呼称こしょう定着ていちゃくしていたとみられている[43]

1889ねん明治めいじ22ねん)に発行はっこう大日本帝国だいにっぽんていこく陸地りくち測量そくりょうの2まんぶんの1地図ちずでは、「ひめ街道かいどう」の呼称こしょう使用しようされた[10]

1907ねん明治めいじ40ねん)の『だい日本にっぽん地名ちめい辞書じしょ[44]では、近世きんせいひめ街道かいどう」といわれるようになった、とされている[45]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)には、「ほん坂道さかみち」よりも「ひめ街道かいどう」の呼称こしょうほう有名ゆうめいになっている、とされている[37]

諸説しょせつ[編集へんしゅう]

ひめ街道かいどう」とばれるようになった理由りゆうについては、

  • せつ1)江戸えど時代じだい新居にいこんきり)の関所せきしょけた女性じょせいほん坂越さこしえらんだためで、女性じょせい新居しんきょけた理由りゆうについては、
    • せつ1-1)新居にい関所せきしょ女性じょせいたいする取締とりしまりがいかめしかった(はい鉄砲てっぽうおんな詮議せんぎいかめしかった)ため
    • せつ1-2)新居しんきょ舞阪まいさかうみがよくれ、女性じょせい渡海とかいこわがったため
    • せつ1-3)「こんきり」が「えんれ」につうずるため縁起えんぎわるく、不吉ふきつかんじをあたえるから
かくせつがあり[34][46][47][48][49][50][20]、また
  • せつ2)古代こだいから中世ちゅうせいにかけてさかえた街道かいどうのため「ふる街道かいどう」という意味いみで「ひな(ひね)街道かいどう」とばれていたのが「ひめ」(ひめ)に転訛てんかした、とするせつ[46][48][49][51]
  • せつ3)「ひめ」は愛宕山あたごやまぐにのぼひょうざかを「男坂おとこざか」とび、遠回とおまわりではあるが傾斜けいしゃゆるわきざかを「女坂おんなざか」とぶように、ほん街道かいどう半分はんぶん規格きかくつくられた脇道わきみちを「おんなどう」「ひめみち」として「ひめ街道かいどう」とぶようになった、あるいは「おおきい」ほん街道かいどうとの対比たいひにおいて「ちいさい」脇道わきみち美称びしょうして「ひめ街道かいどう」とんだとするせつ[34][48][51]
  • せつ4)本坂ほんざかとうげふもとちち墓守はかもりをしていた橘逸勢たちばなのはやなりむすめみょう冲や、平宗盛たいらのむねもり寵愛ちょうあいって天竜川てんりゅうがわほとり余生よせいごした熊野くまの御前ごぜんちかくは8だい将軍しょうぐんよしはじめははきよしえんいん大勢おおぜい人足ひとあしれて通行つうこうしたことなど、女性じょせいのイメージがつよのこ街道かいどうだったため、とくに「ひめ」のばれたとするせつもある[48]

せつ1 女性じょせいがよく通行つうこうしたからせつ[編集へんしゅう]

内藤ないとう (1972, pp. 128–129, 134)は、ひめ街道かいどう起伏きふくはげしく、また道程どうてい東海道とうかいどう本道ほんどうより20キロメートルもながく、「ひめ街道かいどう」という名称めいしょうから連想れんそうされるような、女性じょせいえらんでとおりたがるような生易なまやさしい街道かいどうではなかった、として、(せつ1-1)や(せつ1-3)の傾向けいこうがあったにしても、なにのためにわざわざ本道ほんどうよりも悪条件あくじょうけんほん坂道さかみちえらんだのか理解りかいくるしむとして、(せつ1)そのものをうたがわしいとしている。

気賀きが宿やど文書ぶんしょ』によると、宝永ほうえい5ねん(1708ねん)から寛政かんせい7ねん(1794ねん)までの80ねんあいだに「ひめさま」とばれるような身分みぶん女性じょせい通行つうこうした人数にんずうは22にんで、平均へいきん4ねん1人ひとり程度ていどだった(ので、頻繁ひんぱんに「ひめさま」が通行つうこうしていたわけではない)とされている[52]

くすのき (2006, p. 76)およびみわ (2003, p. 178)は(せつ1-1)および(せつ1-2)を呼称こしょう由来ゆらいとしてげている。大山おおやまじき太郎たろうは、(せつ1-1)‐(せつ1-3)をげたうえで(せつ1-3)がただしいとし、白柳しらやなぎ秀湖しゅうこは(せつ1-1)がただしいと主張しゅちょう内田うちだあさひは(せつ1)をすべ否定ひていした[34]

渡辺わたなべ (2012, p. 21)は、とく女性じょせい利用りようおおかったかを解明かいめいすることは宿帳やどちょうなどがのこっていない状況じょうきょうからして困難こんなんだが、まい人々ひとびと本坂ほんざかどおりおお利用りようしたことは間違まちがいない、とし、事例じれいとして文政ぶんせい13ねん(1830ねん)におかげまいりが流行りゅうこうしたさいに、本坂ほんざかどおりおお利用りようされ、のちに「気賀きが関所せきしょとの関係かんけいで」問題もんだいになった、としている。同書どうしょでは、東海道とうかいどう本道ほんどうこんきり関所せきしょたいして「畏怖いふねん」をしめ意味いみで、脇道わきみち本坂ほんざかどおり利用りようしたのだろう、としている。

せつ1-1 新居しんきょ関所せきしょ取調とりしら忌避きひせつ[編集へんしゅう]

浅井あさい (2001, pp. 100–101)は、徳川とくがわ家康いえやすは、江戸えどへの武器ぶき流入りゅうにゅうしょ大名だいみょうたいする「人質ひとじち」として江戸えどまわせた大名だいみょうつまたちの脱走だっそうふせため関所せきしょ設置せっちしたとわれ、「にゅう鉄砲てっぽうおんな」のまりはきびしく、東海道とうかいどうこんきり関所せきしょは、とく女性じょせいたいして調しらべがきびしいことで有名ゆうめいだった、としている。渡辺わたなべ (2000, p. 47)は、これにくわえて、こんきり関所せきしょでは江戸えどかう「はいおんな」にたいしても所定しょてい女手おんなでがた必要ひつようとしたてん指摘してきし、小杉こすぎ (1997, p. 173)は、関所破せきしょやぶりは極刑きょっけいというおきてがあったことを指摘してきしている。

内藤ないとう (1972, p. 134)は、新居しんきょ関所せきしょには「あらたばば」とばれる、局部きょくぶ視認しにんして性別せいべつあらためるという風評ふうひょうもあり、女性じょせい旅行りょこうしゃには敬遠けいえんされたのかもしれない、としながらも、旅人たびびと監視かんしきびしさでは、ひめ街道かいどうにも気賀きがせきがあり、ほん街道かいどう新居しんきょせき差異さいはなかったのではないか、としている。大山おおやまじき太郎たろうは、女性じょせいこんきり関所せきしょけて本坂ほんざかどおり通行つうこうしたものの、気賀きが関所せきしょ検閲けんえつ厳重げんじゅうだったとしたとされ[34]渡辺わたなべ (2012, p. 20)は大山おおやませつおおむ支持しじするが、女性じょせい東海道とうかいどう本道ほんどうけた理由りゆう多様たようだった、としている。

小杉こすぎ (1997, pp. 171–172)は、新井あらいうら関所せきしょである気賀きが関所せきしょ調しらべもいかめしかったという反論はんろんがあることに言及げんきゅうし、浜松はままつ市役所しやくしょ (1971, p. 180)は、気賀きが関所せきしょまりはこんきり関所せきしょなにかわらなかった、としている。

小杉こすぎ (1997, p. 172-175)は、もともと気賀きが関所せきしょ取調とりしらべは厳重げんじゅうであったが、江戸えど時代じだい後期こうきになると、幹線かんせん道路どうろ以外いがいでは関所せきしょ取調とりしらべがかなりゆるやかになっており、関所せきしょ手形てがた取得しゅとくしにくい女性じょせい通行つうこうするさいに、関所破せきしょやぶりをするれいがあったことを指摘してきしている。れいとして、前出ぜんしゅつ清河きよかわ八郎はちろう西遊せいゆうそう』では、関所せきしょ手形てがたたないはは同道どうどうしたために関所破せきしょやぶりをかえしており、新潟にいがたけん長野ながの県境けんきょうにある関川せきかわ番所ばんしょではさいよせ宿やど一泊いっぱくしたのち夜明よあまえ宿屋やどや手引てびきで関所破せきしょやぶりをし、善光寺ぜんこうじから名古屋なごやさいには福島ふくしま関所せきしょがある中山道なかせんどうけて伊那いな街道かいどう迂回うかいしてどう街道かいどう女性じょせい取締とりしまりがゆるやかな「女人にょにんどう」と表現ひょうげん飯田いいだから中山道なかせんどう木曾きそつまかごるときには清内路せいないじみち脇道わきみちである市之瀬いちのせ番所ばんしょを「女性じょせいとおさない関所せきしょだから」として関所せきしょ脇道わきみち通過つうかし、東海道とうかいどうでは新居しんきょ関所せきしょけて「御姫様おひめさま海道かいどう」をたものの、気賀きがにも関所せきしょがあり「女中じょちゅう容易よういとおさない」といて、三ヶ日さんがにちからふねやとい、夜中よなかふねって呉松くれまつわた関所破せきしょやぶりをしていた[53]ほかにも夜中よなか浜名湖はまなこ個人こじんふねわたり、気賀きが関所せきしょやぶっているれいがある[53]

白柳しらやなぎ秀湖しゅうこは、気賀きが関所せきしょには「いぬもぐどう」があり、検閲けんえつ手心てごころくわえられていた、としている[34]

せつ1-2 新居しんきょ舞浜まいはまあいだ渡海とかい忌避きひせつ[編集へんしゅう]

内藤ないとう (1972, p. 134)は、道程どうていでいえばひめ街道かいどうほん街道かいどうよりも20キロメートルもながくなり、本坂ほんざかとうげ急峻きゅうしゅん坂道さかみち静岡しずおかがわ気賀きがまでのあいだにあるひくおかをいくつもえなければならず、くわえて山道さんどうにはいはぎや強盗ごうとう出没しゅつぼつする不安ふあんもあったため、船渡ふなわたしがあっても路面ろめん平坦へいたんほん街道かいどうのほうが通行つうこうしやすく、道中どうちゅう不安ふあんすくなかったのではないか、としている。

  • 内山うちやましんりゅうの『遠江とおのえこく風土記ふどきでん[54]は「みねあたますこしくひらめなり、やすむるところみねあたま人家じんかなく、駅路えきろ人馬じんばさむあつくるしむ」としてほんさかえの苛酷かこくさをしるし、新居しんきょ関所せきしょ関守せきもりをしていた富永とみながまさしいよいよの『こんきり関所せきしょ由来ゆらい』では「本坂ほんざかえつみちせまさかけわしくて箱根はこね笛吹峠ふえふきとうげよりかたく、あたかしょくなんごとし、一度いちどものえんことをおもわず」としるされている[55]

浜松はままつ市役所しやくしょ (1971, p. 180)は、こんきり渡船とせんについては「とんび舞坂まいさか天気てんき日和ひより)もしずか、のみ荒井あらい舟渡ふなわたし」ということわざがあるほど普段ふだんおだやかだったので、女性じょせい子供こどもでもとく不安ふあんはなかったはずだ、とし、小杉こすぎ (1997, pp. 171–172)もこの反論はんろん言及げんきゅうしている。

気賀きが関所せきしょ (2016a)は、宝永ほうえい4ねん(1707ねん)の地震じしんのち浜名湖はまなこ南岸なんがん迂回うかいするためほん坂越さこし通行つうこうりょう増加ぞうか幕府ばくふ宝永ほうえい7ねん(1710ねん)に大名だいみょうほん坂越さこし禁止きんししたが、公家くげ奥方おくがた姫君ひめぎみ女中じょちゅうしゅはこの街道かいどう使用しようつづけたことから、ほん坂道さかみちは「ひめさまどう」「ひめ街道かいどう」とばれた、としている。

小杉こすぎ (1997, pp. 174–175)では、(せつ4)および(せつ1-1)を幕末ばくまつに「女人にょにんどう」や「おんな街道かいどう」のまれた由来ゆらいとしながらも、とくに「ひめ街道かいどう」「ひめさま街道かいどう」のようにばれた理由りゆうとしては、関所せきしょ手形てがたっているため関所せきしょ忌避きひする必要ひつようのない身分みぶんたか女性じょせいほん坂道さかみち利用りようした理由りゆうがあったはずだとし、『ほん坂道さかみち宿やどむら大概たいがいちょう』のなかで「京都きょうとからひめ宮方みやかた江戸えどとき気賀きが三ヶ日さんがにち嵩山たけやまなどの宿場しゅくば人馬じんば不足ふそくするから、じょさと触書ふれがきさなくてはならない」としてとくに「ひめ宮方みやかた」がほん坂道さかみちとおることを強調きょうちょうしていることを指摘してきし、その理由りゆう渡海とかい忌避きひしたことにあったのではないか、としている。同書どうしょはそのれいとして、文政ぶんせい元年がんねん(1818ねん)の菅沼すがぬま斐雄[56]そでくらべ』のなかに、「香川かがわ景樹かげきふねきらうから荒井あらいわたしをけてほん街道かいどうより5さと遠回とおまわりになるけれどほん坂越さこしという山道さんどうく」むね記載きさいがあることや、『東海道とうかいどう名所めいしょ図会ずえ』の御油ごゆこう本坂ほんざかえつが「荒井あらいこんきり海上かいじょうわたらずして陸路りくろくだり」くみち紹介しょうかいされていることをげ、前出ぜんしゅつ清河きよかわ八郎はちろう西遊せいゆうそう』の記述きじゅつもあり、渡海とかいへの不安ふあんくらべて、本坂ほんざかえつはさほど困難こんなんとうげどうではなかった、としている。

せつ1-3 「こんきり呼称こしょう忌避きひせつ[編集へんしゅう]

内藤ないとう (1972, pp. 134–135)は、「こんきり」のかたり縁起えんぎわるいというはなしは、わか女性じょせい旅行りょこうしゃには多少たしょう影響えいきょうがあったのかもしれないが、もともとわか女性じょせい通行つうこうりょう絶対ぜったいすうすくなく、かずわりにはという印象いんしょうから、冗談じょうだんぽく「ひめ街道かいどう」のあだまれたのかもしれない、としている。

浜松はままつ市役所しやくしょ (1971, p. 180)は、いていえばこのせつもっととうているのではないか、としている。

小杉こすぎ (1997, pp. 171–172)は、近世きんせいになってきゅうむようになったというのはおかしい、との反論はんろんがある、としている。

せつ2 「ひな(ひね)街道かいどう転訛てんかせつ[編集へんしゅう]

内藤ないとう (1972, p. 135)は、東海道とうかいどう表街道おもてかいどうを「あたらしい」街道かいどうとして、これに対応たいおうする「ふるい」街道かいどうを「ひね街道かいどう」とぶのであれば、気賀きがから森町もりまち掛川かけがわいた山手やまてりのかつての「二見ふたみみち」の道筋みちすじんだはずだが、湖北こほく以外いがいとおしゅう地方ちほうには「ひね街道かいどう」というかたまったのこっていないため、湖北こほくだけに道筋みちすじを「ひね」とかたのこったとするのはおかしい、としている。

小杉こすぎ (1997, pp. 171–172)は、「ひめ」のイメージと「ふるい」というイメージがおおきくことなり、また「ひめさま街道かいどう」のような呼称こしょうられることから、「ひね」からの転訛てんかではないだろう、としている。

大林おおばやし (2003, p. 104)は、『豊橋とよはし』が(せつ2)をとっていることを紹介しょうかいし、『吾妻あづまきょう』などからは、中世ちゅうせいまで、平地ひらちにある見通みとおしのよい平坦へいたんみち危険きけんたかいとかんがえられており、やま沿いややまなかえらんでかよっていたことがうかがわれることから、近世きんせい以降いこう平坦へいたんみちえらばれるようになり、街道かいどう概念がいねん変化へんかしたときに、ふるみち、「ひね街道かいどう」とされたのではないか、としている。

渡辺わたなべ (2012, p. 21)は、17世紀せいきつうじて、東海道とうかいどう本道ほんどうに「主要しゅようだい通行つうこう」がうつっていき、本坂ほんざかどおり通行つうこうりょうって「ひなびた街道かいどう」となり、「ひな街道かいどう」とばれていたのが「ひめ街道かいどう」に転訛てんかしたとするせつもあるが、かんがえすぎだろう、としている。

せつ3 「おとこだい街道かいどうとの対比たいひでの「おんなしょう街道かいどうせつ[編集へんしゅう]

内藤ないとう (1972, p. 135)は、(せつ3)は明快めいかいすじとおった説明せつめいだが、そのわりには江戸えど時代じだい道中どうちゅうにはまったあらわれないため、地域ちいきてき通称つうしょう一般いっぱんしたものではないか、としている。

小杉こすぎ (1997, pp. 171–172)は、おとこおんなつよしやわら発想はっそうもっと妥当だとうかもしれない、とし、小杉こすぎ (1997, pp. 174–175)では、(せつ1-1)との関連かんれんから、幕末ばくまつには幕府ばくふ権威けんいおとろえて支配しはいりょくよわまったが、主要しゅよう関所せきしょ機能きのう存続そんぞくしていたため、とく手形てがたがなければ関所せきしょ通過つうかできない女性じょせいが、関所せきしょけたり、けたりできそうな脇道わきみちえらぶことがおおくなり、関所せきしょとおらずに脇道わきみちを「女人にょにんどう」や「おんな街道かいどう」とぶようになったのだろう、としている。

なお、「ひめ街道かいどう」という名前なまえばれるみち各地かくちにあり、中山道なかせんどう碓氷峠うすいとうげ関所せきしょける下仁田しもにたみち下仁田しもにた街道かいどうは「ひめ街道かいどう」「おんな街道かいどう」、長野ながのけん松本まつもと新潟にいがたけん糸魚川いといがわむすせん国道こくどうせんこく街道かいどうは「ひめ街道かいどう」、岐阜ぎふけん東海道とうかいどう付属ふぞく街道かいどうである美濃みのみちも「ひめ街道かいどう」とばれていた、とされている[4][10]。また宮川みやがわ (2012, p. 92)は、愛知あいちけん一宮いちのみやおこりにも、近代きんだい尾西びさい地域ちいき織物おりもの工場こうじょうはたら女性じょせいたちがとおったことから「ひめ街道かいどう」とばれているちいさなみちがあったらしい、としている。

せつ4 女性じょせいにちなむ伝説でんせつ由来ゆらいせつ[編集へんしゅう]

内田うちだあさひは、古代こだいから女性じょせい関係かんけいする街道かいどうだったことを理由りゆうげている[34]

江戸えど時代じだい経路けいろ宿駅しゅくえき[編集へんしゅう]

経路けいろ[編集へんしゅう]

本坂ほんざかどおりひめ街道かいどう)の分岐ぶんきてんとされる磐田いわた見付みつけ信号しんごう直下ちょっかひめ街道かいどうであることをしめ看板かんばんもうけられている。2022ねん4がつ

ひめ街道かいどうには、静岡しずおかけんがわに3つ、愛知あいちけんがわに2つのルートがあったとされる[57]

静岡しずおかけんがわのルートは、

  1. 東海道とうかいどう安間あんま新田しんでんにあった一里塚いちりづか安間あんま一里塚いちりづか)を起点きてんとして、市野いちのとおり、気賀きがいたるルート
  2. 浜松はままつじょう大手おおて門前もんぜん高札こうさつから西北せいほくすすみ、三方原みかたはら追分おいわけだい1のルートと合流ごうりゅうするルート
  3. 見付みつけ宿やどから西にしかい、池田いけだわたしで天竜川てんりゅうがわわたり、富田とみたむら浜松はままつひがし白鳥しらとりまち)から下石田しもいしだむら市野いちのかうルート(池田いけだ近道ちかみち

の3つで、だい1のルートは江戸えど時代じだい初期しょきから幕府ばくふ正式せいしき街道かいどうとしてみとめられ、『東海道とうかいどう巡覧じゅんらん[58]や『東海道とうかいどう名所めいしょ図会ずえ』にもこのルートがしるされている(ひょう1参照さんしょう[59][注釈ちゅうしゃく 2]明和めいわ元年がんねん(1764ねん)に幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょう支配しはいとなってからは、だい2のルートが正式せいしきほん坂道さかみちとなった[59]

愛知あいちけんがわのルートは、

  1. 嵩山すせから西にし御油ごゆかうルート
  2. 嵩山すせから吉田よしだ豊橋とよはし)にるルート

の2つがあった[59]

ひょう1:『東海道とうかいどう巡覧じゅんらん』・『東海道とうかいどう名所めいしょ図会ずえ』によるほん坂越さこし経路けいろ
宿場しゅくば 距離きょり 備考びこう
御油ごゆ 御油ごゆの「かけま」から
嵩山たけやま 御油ごゆより4 渡船とせんあり
三ヶ日さんがにち 嵩山すせより2.5 山路やまじ
気賀きが 三ヶ日さんがにちより3 関所せきしょあり
茅場かやば(かやんば)[60] 気賀きがより4 ほん街道かいどう浜松はままつより1
ぜん行程こうてい 13.5[61]

出典しゅってん秋里あきさと (1910, p. 45)、浅井あさい (1948, pp. 99–100)および小杉こすぎ (1997, p. 176)により作成さくせい

見付みつけから御油ごゆいたるルートは、見付みつけから池田いけだわた天竜川てんりゅうがわわたり、野宿のじゅく気賀きが宿やど三ヶ日さんがにち宿やど経由けいゆして、本坂ほんざかとうげ[62]え、嵩山すせ(すせ)宿やど経由けいゆして、当古とうごわた豊川とよかわわたり、御油ごゆ(ごゆ)宿やど東海道とうかいどう合流ごうりゅうする[6][63][64]静岡しずおかけんがわでは細江ほそえまちから三ヶ日さんがにちまちにかけて引佐いなさとうげ[65]ふくひくおかを5-6つえ、本坂ほんざかさんきゅう坂道さかみちえていく起伏きふくのあるルートだった[37]

道程どうていは、御油ごゆから見付みつけまでが15さと14まちやく63キロメートル)[66][67]安間あんま一里塚いちりづかから御油ごゆまでは13.5やく54キロメートル)あった[59]東海道とうかいどう本道ほんどうよりもやく20キロメートルながかった[37]

きゅうひめ街道かいどう道幅みちはばは9しゃく(2メートルきょう)で、坂道さかみち石畳いしだたみ松並まつなみ全線ぜんせんわたって整備せいびされたわけではなく、もともと交通こうつうりょうすくない補助ほじょ道路どうろだったため、旅人たびびとかんほん街道かいどうみに厳格げんかくでも、設備せつび大分おおいた簡略かんりゃくされていた[68]

またやまさかとうげえがおお街道かいどうだったため、物資ぶっし輸送ゆそうには不向ふむきであり、愛知あいちけんがわでは江戸えど時代じだい後期こうきには本坂ほんざかどおりよりも吉田よしだからふね豊川とよかわ遡上そじょうして一鍬田ひとくわだむら新城しんじょう)で荷揚にあげし、宇利峠うりとうげえて三ヶ日さんがにち宿やどまではこぶルートがおお利用りようされ、また静岡しずおかけんがわでは、関所せきしょ取締とりしまりにより原則げんそくせんうん禁止きんしされていた浜名湖はまなこで、これに違反いはんするふねうん活発かっぱつおこなわれていた、とされている[69]

経路けいろ[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいひめ街道かいどう経路けいろえがいた絵図えずはいくつかあり、下記かきげた絵図えずのほか、「本坂ほんざか街道かいどう絵図えず」や東海道とうかいどう種々しゅじゅ道中どうちゅう絵巻えまきにもえがかれている[57]

本坂ほんざか通分つうぶんあいだのべ絵図えず[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょうしょ寛政かんせい年間ねんかん製作せいさくし、文化ぶんか3ねん(1806ねん)に完成かんせいした1,800ぶんの1の縮尺しゅくしゃく「五街道其外分間見取延絵図」のうちの「ほん坂道さかみちぶんあいだのべ絵図えずひかえ)」[70]には、浜松はままつから御油ごゆいたるルートが詳細しょうさいえがかれている、とされているが[71][57]、1997ねん当時とうじ逓信ていしん博物館はくぶつかん所蔵しょぞうしているものの非公開ひこうかいで、公刊こうかんされていないため閲覧えつらんできないとされており[57]、2010ねん当時とうじ郵政ゆうせい資料しりょうかんのみに現存げんそんしている、とされている[72]

2011ねん10がつ豊橋とよはし二川ふたがわ宿本しゅくほんじん資料しりょうかん開催かいさいされた「歴史れきしみち ひめ街道かいどうてん」ではほん写真しゃしん展示てんじされた[4]

ほん坂道さかみち三方原みかたはら回路かいろ[編集へんしゅう]

豊橋とよはし美術びじゅつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう[57][73]の「ほん坂道さかみち三方原みかたはら回路かいろ[74]は、江戸えど後期こうき手書てが彩色さいしき絵図えずで、吉田よしだ豊橋とよはし)から長楽ながらて、本坂ほんざかとうげかうルートがえがかれている[75]

ほん坂道さかみち絵図えず[編集へんしゅう]

細江ほそえまち個人こじん所蔵しょぞうの「ほん坂道さかみち絵図えず」には、静岡しずおかけんがわ一里塚いちりづか寺社じしゃ本陣ほんじんなどがえがかれている[57]

宿場しゅくばまち[編集へんしゅう]

宿場しゅくば関所せきしょ 江戸えど行政ぎょうせい区分くぶん 現在げんざい自治体じちたい 過去かこ自治体じちたい 特記とっき事項じこう
れいせいこく ぐん 都道府県とどうふけん 市町村しちょうそん
1 見附みつけ宿やど 遠江とおとうみこく 磐田いわたぐん 静岡しずおかけん 磐田いわた 磐田いわたぐん見付みつけまち 東海道とうかいどう宿場しゅくばまち

天竜川てんりゅうがわ南下なんかやすあいだ一里塚いちりづかにて東海道とうかいどう接続せつぞく

2 野宿のじゅく 長上ちょうじょうぐん 浜松はままつ 中央ちゅうおう 長上ちょうじょうぐん市野いちのまち 本坂ほんざかどおりの4宿しゅく市野いちの気賀きが三ヶ日さんがにち嵩山すせ)のひとつ。
2 浜松はままつ宿やど じきぐん きゅう浜松はままつ 市野いちの廃絶はいぜつ見附みつけから浜松はままつ - 追分おいわけ - 気賀きが浜松はままつどう利用りよう
3 気賀きが関所せきしょ 引佐いなさぐん 浜名はまな 引佐いなさぐん細江ほそえまち 本坂ほんざかどおり関所せきしょ
気賀きが宿やど
4 三ケ日みっかび宿やど 引佐いなさぐん三ヶ日さんがにちまち 本坂ほんざか関所せきしょあと本坂ほんざか一里塚いちりづか本坂ほんざかとうげえ、嵩山すせ宿やどいたる。
5 嵩山すせ宿やど 三河みかわこく 八名やなぐん 愛知あいちけん 豊川とよかわ 八名やなぐん嵩山すせむら 和田わだにて南下なんか吉田よしだ宿やどにて東海道とうかいどう接続せつぞく

豊川とよかわ御油ごゆ宿やどにて東海道とうかいどう接続せつぞく

6 御油ごゆ宿やど 宝飯ほいぐん 宝飯ほいぐん御油ごゆまち 東海道とうかいどう宿場しゅくばまち

本坂ほんざかどおり宿やどむら大概たいがいちょう[編集へんしゅう]

本坂ほんざかどおり宿やどむら大概たいがいちょう」は、天保てんぽうから安政あんせい年代ねんだい(1830-50年代ねんだい)にかけて、江戸えど幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょうしょが5街道かいどうやその脇道わきみちかく宿駅しゅくえき街道かいどうすじ村落そんらく状況じょうきょう[76]調査ちょうさしてまとめた「宿やどむら大概たいがいちょう」のうち、本坂ほんざかどおり状況じょうきょうについてまとめた資料しりょうで、道中どうちゅう奉行ぶぎょうしょによって使用しようされたとみられており、近世きんせい研究けんきゅう貴重きちょう資料しりょうとなっている[77]

一里塚いちりづか[編集へんしゅう]

三ヶ日さんがにち本坂ほんざかのこ一里塚いちりづか

一里塚いちりづかは、1さとごとにみち両側りょうがわづかきずき、えのきえて旅人たびびと便びんきょうしたものだったが、1971ねん現在げんざい浜松はままつ宿やど近郷きんごう往時おうじ姿すがたをとどめているのはさんぽうげん追分おいわけちかみちがわに1のこっているのみ、とされている[78]ひめ街道かいどう一里塚いちりづかひょう3のとおり。

ひょう3 ひめ街道かいどう一里塚いちりづか
名称めいしょう 日本橋にほんばしよりの距離きょり きた みなみ
小池こいけ 65 小池こいけ一里山いちりやま1952 一里山いちりやま135
追分おいわけ 66 三方原みかたはら築山つきやま現存げんそん 追分おいわけえんづか現存げんそん
東大山ひがしおおやま 67 三方原みかたはら大窪おおくぼ現存げんそん 和地わじむら東大山ひがしおおやま現存げんそん
ろうだに 68 ちゅう川村かわむら新谷しんたに 気賀きがまちろうだに
かやほん西にし[79] 69 した気賀きが9355 気賀きが山田やまだ
大谷おおや[80] 70 東浜ひがしはま名村なむら東山とうざん768 都筑つづき北東ほくとう20ちょう
三ヶ日さんがにち[81] 71 西浜にしはま名村なむら避病しゃきた 西浜にしはま名村なむら避病しゃ
本坂ほんざか 72 西浜にしはま名村なむらほんさか323 新旧しんきゅう道路どうろ中間ちゅうかん
嵩山たけやま 73 豊橋とよはし嵩山すせまち浅間あさま80-1[82][83]
長楽ながら[84] 74
さんきょう[85] 75
諏訪すわ[86] 76

出典しゅってん小池こいけ本坂ほんざか浜松はままつ市役所しやくしょ (1971, p. 184)の「西にしどお地方ちほう一里塚いちりづかひょう(『静岡しずおかけん史蹟しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ調査ちょうさ報告ほうこく』による)」、嵩山すせ御油ごゆ気賀きが関所せきしょ (2016a)および小杉こすぎ (1997, p. 182)による。

構成こうせい路線ろせんめい[編集へんしゅう]

2003ねん現在げんざいひめ街道かいどうきゅうひめ街道かいどう)は、各地かくち都市としすすみ、道路どうろ拡張かくちょうなどにより寸断すんだんされるなどしているが、地元じもと住民じゅうみん努力どりょくによって復元ふくげんされている箇所かしょもあり、とく浜松はままつ西北にしきた細江ほそえまち三ヶ日さんがにちまちではむかし街道かいどう面影おもかげのこっている、とされている[87]

史跡しせき[編集へんしゅう]

遺跡いせき[編集へんしゅう]

本坂ほんざかとうげえる経路けいろ自体じたいは、縄文じょうもん時代じだいから存在そんざいしていた[6]街道かいどうちかくの静岡しずおかけん三ケ日みっかびまち石灰せっかい採石さいせきじょうでは、発見はっけん当初とうしょ新人しんじん段階だんかい化石かせき人骨じんこつ三ヶ日さんがにちじん)とされた人骨じんこつのちに、新人しんじんではなくそれよりあたらしい縄文じょうもんじん修正しゅうせいされた)がつかっており、縄文じょうもん遺跡いせき弥生やよい遺跡いせき数多かずおお存在そんざいしている[92]

かけあいだ分岐ぶんきてんいしぶみ[編集へんしゅう]

御油ごゆ豊川とよかわ国府こくふ)の東海道とうかいどうひめ街道かいどう分岐ぶんきてんには、2003ねん現在げんざい常夜灯じょうやとうてられているとされており[93]、1972ねん当時とうじふる石碑せきひてられていたとされている[94][95]

さぎざかじょう芭蕉ばしょう句碑くひ[編集へんしゅう]

1972ねん当時とうじ御油ごゆから程近ほどちかく、西明寺さいみょうじ入口いりくちちかくのひめ街道かいどうの、かつて「鷺坂さぎざか」とばれたさかじょう[96]には芭蕉ばしょう句碑くひっていた[97]

かげろうの わがかた紙子かみこ[98]かな — 松尾まつお芭蕉ばしょうひめ街道かいどう御油ごゆ鷺坂さぎざかじょう句碑くひより[97]

つきたに城跡じょうせき[編集へんしゅう]

つきたにじょう(わちがやじょう) : 西郷さいごうきょくあい)をした三河みかわ西郷さいごう戦国せんごく時代じだいにこの街道かいどう支配しはいするため築城ちくじょう江戸えど時代じだいにはすでしろではない。愛知あいちけん豊橋とよはし嵩山すせまちやまぐんじょう[よう出典しゅってん]

嵩山すせ一里塚いちりづか[編集へんしゅう]

嵩山すせ一里塚いちりづかは、みち両側りょうがわのこっており、どちらも直径ちょっけい10m、たかさ2mほどでほぼ円形えんけいをしている[99]。2011ねん当時とうじ豊橋とよはし文化財ぶんかざい指定してい目指めざしていたとされ[100]、2012ねん西側にしがわづか豊橋とよはし史跡しせき指定していされた[101][99]

嵩山すせ蛇穴さらぎ[編集へんしゅう]

嵩山すせへびあなは、嵩山すせから本坂ほんざかとうげへののぼくちちか[102]にあるふかさ50メートルほどの鍾乳洞しょうにゅうどうで、縄文じょうもん前期ぜんき洞窟どうくつ住居じゅうきょあとだったとされている[103][104][105]くに指定してい史跡しせきとなっている[106][82][107]

鏡岩かがみいわ[編集へんしゅう]

本坂ほんざかとうげ東側ひがしがわには、おおきなみがいたようないわ垂直すいちょくっていて、鏡岩かがみいわいし)とばれており、そのしたには、椿つばき原生げんせいりんつづいている[108][109]

本坂ほんざか一里塚いちりづか[編集へんしゅう]

現存げんそんする貴重きちょう一里塚いちりづかとして、1992ねん平成へいせい4ねん)に浜松はままつ指定してい文化財ぶんかざいとなった[110][100]。2003ねん現在げんざい三ヶ日さんがにちから本坂ほんざかとうげいた区間くかん三ヶ日さんがにち町内ちょうないもっと保存ほぞん状態じょうたいがよく、本坂ほんざか一里塚いちりづか当時とうじ様子ようすをよくのこしている、とされている[108]

ひめいわ[編集へんしゅう]

ひめいわ(2022ねん8がつ)。木々きぎおおわれているため、現在げんざい浜名湖はまなこ景色けしきることができない。

きゅうひめ街道かいどう静岡しずおかけんがわから引佐いなさとうげのぼ途中とちゅうに、「そこから浜名湖はまなこ景色けしきもっとうつくしい」といわれているたたみ1じょうほどのひらたいいわいし)があり、「ひめいわいし)」とばれている[111][112][113]

江戸えど時代じだいひめいわちかくには茶屋ちゃやつくられていて「平石ひらいし休憩きゅうけいしょ」とばれており、大名だいみょう行列ぎょうれつ通行つうこうするときには近藤こんどう家臣かしん出向でむいて湯茶ゆちゃ接待せったいをしたといわれている[111][112][114]みずは2キロメートルみなみにあった「殿様とのさま井戸いど」からんできていたとされ、1997ねん当時とうじは「ひめさま井戸いど」とばれていた[112]

1972ねん当時とうじひめいわかまどあとは、灌木にまり、さがさなくてはつからない状態じょうたいになっていたとされていたが[113]、1997ねん当時とうじには、いしよこ休憩きゅうけいしょもうけられており、休憩きゅうけいしょ前後ぜんごには石畳いしだたみかれている、とされている[115]

ダイダラボッチのいけ薬師堂やくしどう[編集へんしゅう]

小引しょういんとうげひがしから西にしえたところの岩根いわね集落しゅうらくダイダラボッチ足跡あしあとだといわれている「ダイダラボッチのいけ」と天保てんぽう6ねん(1835ねん)に再建さいけんされた薬師堂やくしどうがある[111][116]薬師堂やくしどう小引しょういんとうげえてきた旅人たびびと休憩きゅうけいしょとして使用しようされていた[111]

ひめ街道かいどうまつ並木なみき[編集へんしゅう]

浜松はままつ中央ちゅうおう葵東あおいひがしにて。ここから西にし大山おおやままちまでまつ並木なみきられる。

1959ねんに、浜松はままつ中央ちゅうおう葵東あおいひがし三方原みかたはら追分おいわけもと追分おいわけ交差点こうさてんから西にし大山おおやままちまでのやく4キロにわたる松並まつなみ同市どうし指定してい史跡しせきとなった[117]

1950年代ねんだい-1960年代ねんだいには300ほん以上いじょうまつのこっていたが、まつくいむし被害ひがいなどで年々ねんねん4,5ほんずつ減少げんしょうしたとされ[118]、2014ねんには240ほんあま[119]、2015ねんには206ほんのこっている[118]

2008ねん浜松はままつ保存ほぞん管理かんり計画けいかく策定さくていし、将来しょうらいてきうえ代替だいたいのためにはままつフラワーパーク苗木なえぎ育成いくせい、2015ねん市立しりつ葵西あおいにししょう配布はいふするなどしている[118]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1893ねん明治めいじ26ねん)にはきゅうひめ街道かいどう関係かんけい町村ちょうそん申請しんせいにより県費けんぴ補助ほじょ道路どうろとなっている(浜松はままつ市役所しやくしょ 1980, p. 268)
  2. ^ 明和めいわ元年がんねん(1764ねん以前いぜんえがかれた「青山あおやま領分りょうぶん絵図えず」には、市野いちのとおるルートに一里塚いちりづかと「ほん坂道さかみち」の記入きにゅうがあり、浜松はままつからのルートにはない(小杉こすぎ 1997, p. 180)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ 浜松はままつ市役所しやくしょ 1971, p. 480.
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  10. ^ a b c 小杉こすぎ 1997, p. 170.
  11. ^ a b 浜松はままつ市役所しやくしょ 1980, p. 268.
  12. ^ 宇志うし駒場こまば大谷おおや引佐いなさとうげえ、山田やまだ小森こもりかやほん合併がっぺいしてあとがわ)、いし新道しんどう合流ごうりゅうする経路けいろだった(内藤ないとう 1972, pp. 152–156)。
  13. ^ 内藤ないとう 1972, p. 152.
  14. ^ 中部ちゅうぶ日本にっぽん新聞しんぶんしゃ 1963, pp. 53–54.
  15. ^ 中部ちゅうぶ日本にっぽん新聞しんぶんしゃ 1963, p. 54.
  16. ^ 内藤ないとう 1972, p. 167.
  17. ^ 浜松はままつ市役所しやくしょ 1980, p. 509.
  18. ^ 北緯ほくい3443ふん11びょう 東経とうけい13743ふん06びょう / 北緯ほくい34.7196858 東経とうけい137.7183766 / 34.7196858; 137.7183766 (さいがけ)
  19. ^ 浜松はままつ市役所しやくしょ 1980, pp. 268, 509.
  20. ^ a b 中部ちゅうぶ日本にっぽん新聞しんぶんしゃ 1963, p. 53.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 浜松はままつ市役所しやくしょ へん浜松はままつ』 2かん浜松はままつ市役所しやくしょ、1971ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004094https://adeac.jp/hamamatsu-city/table-of-contents/mp010020-100020/d1000202016ねん11月30にち閲覧えつらん 
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  • 本多ほんだ隆成たかなり近世きんせい東海道とうかいどう清文せいぶんどう、2014ねんISBN 978-4-7924-1018-6 
  • 松浦まつうら律子りつこ ちょだい2しょう 宝永ほうえい地震じしんによる被害ひがいとその だい2せつ 各地かくち被害ひがい救援きゅうえん復興ふっこうさく」、中央ちゅうおう防災ぼうさい会議かいぎ 災害さいがい教訓きょうくん継承けいしょうかんする専門せんもん調査ちょうさかい へん災害さいがい教訓きょうくん継承けいしょうかんする専門せんもん調査ちょうさかい報告ほうこくしょ 1707 宝永ほうえい地震じしん内閣ないかく府政ふせいさく統括とうかつかん防災ぼうさい担当たんとう、2014ねん、23-27ぺーじhttp://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1707-houeijishin/2016ねん12月6にち閲覧えつらん 
  • 宮川みやがわ充史あつし「(巡見じゅんけん報告ほうこく本坂ほんざかどおり(ひめ街道かいどう)をあるく」『交通こうつう研究けんきゅうだい76ごう交通こうつう学会がっかい、2012ねん2がつ24にち、92-93ぺーじNAID 110009986433 
  • 壬生みぶ芳樹よしき東海道とうかいどういしぶみ』 9かん静岡新聞社しずおかしんぶんしゃ〈RomanKaido Tôkaidô〉、1994ねんISBN 4-7838-1049-4 
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  •   江戸えど時代じだい後期こうきにおける三河みかわ遠江とおとうみあいだ内陸ないりく交通こうつう」『地域ちいき政策せいさくがくジャーナル』だい1かんだい1ごう愛知大学あいちだいがく地域ちいき政策せいさく学部がくぶ 地域ちいき政策せいさくがくセンター、2012ねん3がつ、19-31ぺーじNAID 40019558092 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 内山うちやましんりゅう ちょ加藤かとう菅根すがね皆川みなかわつよしろく やく遠江とおのえこく風土記ふどきでん歴史れきし図書としょしゃ、1969ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73007570 
  • 静岡しずおかけん教育きょういく委員いいんかい, 文化ぶんか静岡しずおかけん歴史れきしみち調査ちょうさ報告ほうこくしょ 身延みのぶみち本坂ほんざかどおり(ひめ街道かいどう)』 だい21・22しゅう静岡しずおかけん教育きょういく委員いいんかい静岡しずおかけん文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ〉、1980ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:81013884 
  • 浜松はままつ しる浜松はままつ へん浜松はままつ名著めいちょ出版しゅっぱん、1974ねんNDLJP:9536366 
  • 細江ほそえまち観光かんこう協会きょうかい三ヶ日さんがにちまち観光かんこう協会きょうかいひめ街道かいどう細江ほそえまち三ヶ日さんがにちまち』(PDF)2014ねんhttps://mikkabi-tourism.com/data/p_himekaido.pdf2016ねん12月9にち閲覧えつらん 
  • 白柳しらやなぎ, 秀湖しゅうこ「10 名物めいぶつおとこ 近藤こんどう登之としすけどうぬい殿どのすけ」『親分おやぶん子分こぶん侠客きょうかくへん)』(改訂かいていばん千倉ちくら書房しょぼう、1930ねん、72-82ぺーじNDLJP:1120077/48オープンアクセス 
  • 大山おおやまじき太郞たろう ちょひめ街道かいどう研究けんきゅうつけ気賀きが関所せきしょについて」、本庄ほんじょう栄治郎えいじろう へん日本にっぽん交通こうつう研究けんきゅう改造かいぞうしゃ、1929ねん、301-364ぺーじNDLJP:1464182/166オープンアクセス 
  • 渡辺わたなべ和敏かずとし東海道とうかいどう交通こうつう施設しせつまくはんせい社会しゃかい』18ごう岩田いわた書院しょいん愛知大学あいちだいがく綜合そうごう郷土きょうど研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう叢書そうしょ〉、2005ねん、259-275ぺーじISBN 4-87294-367-8 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]