姫 ひめ 街道 かいどう (本坂 ほんざか 通 どおり )と東海道 とうかいどう
姫 ひめ 街道 かいどう (ひめかいどう)は、浜名湖 はまなこ の北側 きたがわ 、本坂 ほんざか 峠 とうげ を経由 けいゆ して静岡 しずおか 県 けん 磐田 いわた 市 し 見付 みつけ 町 まち (東海道 とうかいどう 見附 みつけ 宿 やど )と愛知 あいち 県 けん 豊川 とよかわ 市 し 御油 ごゆ 町 まち (東海道 とうかいどう 御油 ごゆ 宿 やど )を結 むす ぶ街道 かいどう である。道程 どうてい 約 やく 60キロメートル。古 ふる くは東海道 とうかいどう の本道 ほんどう で、二見 ふたみ の道 みち (ふたみのみち)と呼 よ ばれていた。中世 ちゅうせい 以降 いこう 、浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん の往来 おうらい が盛 さか んになると長距離 ちょうきょり を移動 いどう する利用 りよう 者 しゃ は減 へ り、地震 じしん などで浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん が通行 つうこう 不能 ふのう になった後 のち に迂回 うかい 路 ろ としてよく利用 りよう された。本坂 ほんざか 峠 とうげ を経由 けいゆ したことから本 ほん 坂越 さこし (ほんざかごえ)、本坂 ほんざか 通 どおり (ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本 ほん 坂道 さかみち (ほんざかみち)、本坂 ほんざか 街道 かいどう (ほんざかかいどう)などと呼 よ ばれた。戦国 せんごく 時代 じだい に街道 かいどう が整備 せいび され、江戸 えど 時代 じだい には東海道 とうかいどう に付属 ふぞく する街道 かいどう とされ、宿 やど が置 お かれた。幕末 ばくまつ 頃 ごろ から姫 ひめ 街道 かいどう の呼称 こしょう が定着 ていちゃく し、明治 めいじ 以降 いこう 、新道 しんどう が出来 でき て本坂 ほんざか 峠 とうげ はトンネル で通過 つうか するようになり、峠 とうげ 越 こ えの道 みち は廃 はい 道 どう となっている。
江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき になり、幕 まく 藩 はん 体制 たいせい が衰 おとろ えてお蔭 かげ 参 まい り などの機会 きかい に女性 じょせい が比較的 ひかくてき 監視 かんし の緩 ゆる い脇道 わきみち を通 とお り抜 ぬ ける機会 きかい が増 ふ えた頃 ころ から、本 ほん 坂道 さかみち は姫 ひめ 街道 かいどう と呼 よ ばれるようになった。呼称 こしょう の由来 ゆらい は、東海道 とうかいどう の本道 ほんどう である新居 にい (今 こん 切 きり )の、関所 せきしょ での取 と り調 しら べ、舟 ふね での渡海 とかい 、もしくは「今 こん 切 きり 」の語 かたり の縁起 えんぎ が悪 わる いことを嫌 きら って利用 りよう した女性 じょせい が多 おお かった、古 ふる くからある道 みち という意味 いみ の「ひね」街道 かいどう が転訛 てんか した、本道 ほんどう を男 おとこ 、脇道 わきみち を女 おんな と見 み なした、など諸説 しょせつ ある。
明治維新 めいじいしん 政府 せいふ によって全国 ぜんこく の関所 せきしょ と、東海道 とうかいどう の宿駅 しゅくえき 伝馬 てんま 所 しょ が廃止 はいし されると、姫 ひめ 街道 かいどう は街道 かいどう としての使命 しめい を終 お え、その後 ご は地域 ちいき の生活 せいかつ 路 ろ として利用 りよう されるようになった。明治 めいじ 以降 いこう に新 あら たに敷設 ふせつ された新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう は、引佐 いなさ 峠 とうげ を南 みなみ に迂回 うかい して浜名 はまな 湖岸 こがん を通 とお り、本坂 ほんざか 峠 とうげ 越 こ えは廃 はい されて本坂 ほんざか トンネル を通過 つうか するようになった。旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう は廃 はい 道 どう となったり、新旧 しんきゅう 姫 ひめ 街道 かいどう が重 かさ なる区間 くかん では幅員 ふくいん の拡張 かくちょう 工事 こうじ が行 おこ なわれ、気賀 きが から三方原 みかたはら 追分 おいわけ にかけて道 みち の両側 りょうがわ にあった松並 まつなみ 木 き の片側 かたがわ が取 と り払 はら われた。
遠江 とおとうみ (現在 げんざい の静岡 しずおか 県 けん 西部 せいぶ )から三河 みかわ (現在 げんざい の愛知 あいち 県 けん 東部 とうぶ )にかけて、本坂 ほんざか 峠 とうげ を越 こ えて浜名湖 はまなこ の北側 きたがわ 、三ヶ日 さんがにち を通 とお る経路 けいろ は、先史 せんし 時代 じだい から存在 そんざい しており、周辺 しゅうへん には縄文 じょうもん ・弥生 やよい 時代 じだい の史跡 しせき も数多 かずおお い。上代 じょうだい には、天竜川 てんりゅうがわ の下流 かりゅう は磐田 いわた の海 うみ と呼 よ ばれる湖 みずうみ で、東側 ひがしがわ に大 だい 乃浦 という湖 みずうみ もあったため、この道 みち は東海道 とうかいどう の本道 ほんどう として利用 りよう され、二見 ふたみ の道 みち と呼 よ ばれていた。磐田 いわた 海 かい や大 だい 乃浦の水 みず が引 ひ いた後 のち 、東海道 とうかいどう が浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん を通 とお るようになり往来 おうらい が盛 さか んになると、二見 ふたみ の道 みち はさびれていき、裏街道 うらかいどう としての役割 やくわり を担 にな うようになった。この頃 ころ の宿駅 しゅくえき には、「板 いた 築 きずけ (ほんづき)駅 えき 」(現在 げんざい の浜松 はままつ 市 し 浜名 はまな 区 く 三ヶ日 さんがにち 町 まち 本坂 ほんざか ないし日比沢 ひびさわ 周辺 しゅうへん )や、「猪鼻 いのはな (いのはな)駅 えき 」(猪鼻湖 いのはなこ の瀬戸 せと または新居 しんきょ )があった。
中世 ちゅうせい には、地震 じしん などで浜名湖 はまなこ の南岸 なんがん が通行 つうこう 不能 ふのう となったときに利用 りよう されていたことが知 し られている。
近世 きんせい になって、16世紀 せいき 初 はじ めに浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん に今 こん 切口 きりくち ができ、渡船 とせん が必要 ひつよう となったことが本 ほん 坂越 さこし の往来 おうらい が再 ふたた び盛 さか んになる契機 けいき となった。戦国 せんごく 時代 じだい には徳川 とくがわ 家康 いえやす の堀 ほり 川城 かわしろ 攻 せ めや、遠 とお 州 しゅう に攻 せ め込 こ んだ武田 たけだ 信玄 しんげん の軍勢 ぐんぜい と徳川 とくがわ 軍 ぐん との三方 みかた ヶ原 ばら の戦 たたか い などの際 さい に軍勢 ぐんぜい が街道 かいどう を行 い き交 か い、交通 こうつう の要衝 ようしょう として関所 せきしょ が設 もう けられた。天正 てんしょう 年間 ねんかん には本 ほん 多作 たさく 左衛門 さえもん によって新宿 しんじゅく が設 もう けられ、街道 かいどう として整備 せいび された。
1601年 ねん (慶長 けいちょう 6年 ねん )に江戸 えど 幕府 ばくふ によって宿駅 しゅくえき の制 せい が敷 し かれ、同 おな じ頃 ごろ 、気賀 きが 関所 せきしょ が置 お かれた。本坂 ほんざか 越 えつ の道 みち は本坂 ほんざか 通 どおり 、本 ほん 坂道 さかみち 、本坂 ほんざか 街道 かいどう などと呼 よ ばれた。また東海道 とうかいどう 見付 みつけ 宿 やど から天竜川 てんりゅうがわ の池田 いけだ の渡 わた しの間 あいだ を南 みなみ に迂回 うかい していた東海道 とうかいどう の本 ほん 街道 かいどう に対 たい し、見付 みつけ 宿 やど から真 ま 西 にし に進 すす む池田 いけだ 近道 ちかみち が徒歩 とほ の旅人 たびびと に利用 りよう された。1707年 ねん の宝永 ほうえい 地震 じしん による津波 つなみ や、1854年 ねん の安政 あんせい の大 だい 地震 じしん などにより浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん が通行 つうこう 不能 ふのう となった際 さい に、本坂 ほんざか 通 どおり は迂回 うかい 路 ろ として利用 りよう され、通行 つうこう 量 りょう が増加 ぞうか した。明和 めいわ 元年 がんねん (1764年 ねん )に、幕府 ばくふ は本坂 ほんざか 通 どおり を道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう の管轄 かんかつ とし、東海道 とうかいどう の一部 いちぶ と位置付 いちづ けて一定 いってい の通行 つうこう 量 りょう に耐 た え得 え るように整備 せいび し、浜松 はままつ 宿 やど から、気賀 きが 、三ヶ日 さんがにち および嵩山 すせ (すせ) を経 へ て御油 ごゆ 宿 やど に至 いた る間 あいだ の各 かく 宿 やど を指定 してい した。江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき の本 ほん 坂道 さかみち は東海道 とうかいどう の安 やす 間 あいだ の一里塚 いちりづか から市 し 野宿 のじゅく を経 へ て気賀 きが に至 いた る経路 けいろ をとっていたが、笠井 かさい や浜松 はままつ 宿 やど の繁栄 はんえい に反比例 はんぴれい して通行 つうこう 量 りょう は減少 げんしょう し、衰退 すいたい していった。
お蔭 かげ 参 まい りと本坂 ほんざか 通 どおり [ 編集 へんしゅう ]
享 とおる 保 ほ 15年 ねん (1730年 ねん )にお蔭 かげ 参 まい り が流行 りゅうこう したときには、都田 みやこだ 村 むら では、女中 じょちゅう たちの抜 ぬ け参 まい り[1] が多 おお かったため、気賀 きが 関所 せきしょ の命令 めいれい を受 う けて、見張 みはり 人 じん を街道 かいどう に沿 そ う村 むら の山 やま へ毎日 まいにち 出 だ したが、それでも抜 ぬ け参 まい りは絶 た えなかったとされる。文政 ぶんせい 13年 ねん (1830年 ねん )に浜名湖 はまなこ 北岸 ほくがん の気賀 きが ・三ケ日 みっかび 方面 ほうめん からお蔭 かげ 参 まい りが流行 りゅうこう し、浜松 はままつ 方面 ほうめん にも波及 はきゅう した際 さい には、多 おお くの人 ひと が本坂 ほんざか 通 どおり を利用 りよう した。幕末 ばくまつ には将軍 しょうぐん ・徳川 とくがわ 家定 いえさだ の正室 せいしつ となった篤 あつし 姫 ひめ が本坂 ほんざか 通 どおり を通行 つうこう した。
関所 せきしょ と宿駅 しゅくえき 制度 せいど の廃止 はいし [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )に、明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ の関所 せきしょ 廃止 はいし 令 れい により諸国 しょこく の関所 せきしょ は全廃 ぜんぱい され、気賀 きが 関所 せきしょ も閉所した。明治 めいじ 5年 ねん (1872年 ねん )1月 がつ には、太政官 だじょうかん 布告 ふこく 第 だい 10号 ごう により、東海道 とうかいどう の宿駅 しゅくえき 伝馬 てんま 所 しょ が廃止 はいし された。山中 さんちゅう を通 とお っていた(旧 きゅう )姫 ひめ 街道 かいどう は、明治 めいじ ・大正 たいしょう 時代 じだい の県道 けんどう 等 とう の整備 せいび に伴 ともな い、通行 つうこう 量 りょう が減 へ り、さびれていった。
「姫 ひめ 街道 かいどう 鉄道 てつどう 」計画 けいかく [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 22年 ねん (1889年 ねん )7月 がつ までに、東海道 とうかいどう 線 せん の東京 とうきょう ‐神戸 こうべ 間 あいだ が全線 ぜんせん 開通 かいつう した。輸送 ゆそう ・旅行 りょこう はほとんど鉄道 てつどう に依拠 いきょ するようになり、道路 どうろ としての東海道 とうかいどう は長距離 ちょうきょり 輸送 ゆそう に果 はた していた役割 やくわり を終 お えてローカルなものに変質 へんしつ 、駅 えき 周辺 しゅうへん に中心 ちゅうしん 街 がい が移 うつ っていった。
明治 めいじ 29年 ねん (1896年 ねん )には、「姫 ひめ 街道 かいどう 鉄道 てつどう 」の起業 きぎょう が計画 けいかく され、浜松 はままつ の官 かん 線 せん 停車 ていしゃ 場 じょう (現 げん ・東海道 とうかいどう 線 せん 浜松 はままつ 駅 えき )から市野 いちの 、有 ゆう 玉 だま 、小松 こまつ 、三方原 みかたはら 、中川 なかがわ を通 とお り、気賀 きが 、三ヶ日 さんがにち 、宇利峠 うりとうげ を越 こ え、豊川 とよかわ に出 で て御油 ごゆ 駅 えき にいたる経路 けいろ が予定 よてい されていたが、実現 じつげん しなかった。
なお、昭和 しょうわ 初期 しょき にも東 ひがし 三河 そうご 地方 ちほう の有力 ゆうりょく 者 しゃ により、和田 わだ 辻 つじ 〜気賀 きが 間 あいだ で姫 ひめ 街道 かいどう に沿 そ う遠 とお 三 さん 鉄道 てつどう の構想 こうそう が立案 りつあん されたが、これも経済 けいざい 不 ふ 況 きょう の影響 えいきょう により着工 ちゃっこう に至 いた らなかった。
1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )に、静岡 しずおか 県議会 けんぎかい で、旧来 きゅうらい の姫 ひめ 街道 かいどう は県費 けんぴ 支弁 しべん を受 う けられる道路 どうろ に指定 してい されたが、修理 しゅうり などは行 おこ なわれず、一里塚 いちりづか や松並 まつなみ 木 き は荒 あ れるに任 まか されていた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
明治 めいじ に入 はい ってから、山 やま 合 あ いを通 とお り、引佐 いなさ 峠 とうげ を越 こ えていた旧 きゅう 街道 かいどう [12] とは別 べつ に、気賀 きが から三ヶ日 さんがにち までの湖畔 こはん 沿 ぞ いに10キロメートル余 あま りの道路 どうろ が新設 しんせつ され、新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう と呼 よ ばれた。旧 きゅう 街道 かいどう は地元 じもと の農家 のうか が農作業 のうさぎょう に行 い く際 さい に通 とお る程度 ていど の通行 つうこう 量 りょう となっていた。
1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )に浜松 はままつ の神明 しんめい 交差点 こうさてん から三 さん 方 ぽう ヶ原 ばら を経 へ て気賀 きが を終点 しゅうてん とする静岡 しずおか 県 けん 道 どう 静岡 しずおか 気賀 きが 線 せん が「新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう 」に指定 してい された。気賀 きが から三方原 みかたはら 追分 おいわけ にかけての三方原 みかたはら 付近 ふきん の旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう の両側 りょうがわ には土手 どて と松並 まつなみ 木 き があったが、新旧 しんきゅう 姫 ひめ 街道 かいどう は同 どう 一 いち 路線 ろせん に造 つく られ、道幅 みちはば を拡 ひろ げるために東側 ひがしがわ の松 まつ 並木 なみき が取 と り払 はら われ、西側 にしがわ の松 まつ 並木 なみき だけが残 のこ された。
1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )から高 たか 町 まち ‐飛行 ひこう 隊 たい 間 あいだ の姫 ひめ 街道 かいどう の改良 かいりょう 工事 こうじ が行 おこ なわれ、1931年 ねん には高 こう 町 まち にあった曳馬 ひくま 坂 ざか と呼 よ ばれた坂 さか に石畳 いしだたみ が敷 し かれて勾配 こうばい が緩 ゆる やかになり、歩兵 ほへい 第 だい 67連隊 れんたい が設置 せっち されると幅員 ふくいん が拡張 かくちょう され、1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )に犀 さい ヶ崖 がけ [18] の旧道 きゅうどう の東側 ひがしがわ が埋 う め立 た てられて新道 しんどう が敷 し かれた。
1963年 ねん 当時 とうじ 、気賀 きが の姫 ひめ 街道 かいどう は近 ちか く幅員 ふくいん を拡張 かくちょう する予定 よてい とされ、古 ふる い街道 かいどう が幅 はば 4メートル足 た らずだったのを倍 ばい 近 ちか くに広 ひろ げることから、気賀 きが 関所 せきしょ の建物 たてもの は存亡 そんぼう の岐路 きろ に立 た たされているとされている。
[いつ? ] 御油 ごゆ 宿 やど から少 すこ し東 ひがし へ進 すす んだ辺 あた りから、姫 ひめ 街道 かいどう は幅員 ふくいん を広 ひろ げた「新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう 」に拡張 かくちょう され、豊川 とよかわ を鉄橋 てっきょう で渡 わた るようになった。豊川 とよかわ から先 さき 、本坂 ほんざか 山 さん までは、新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう は旧道 きゅうどう とほぼ同 おな じ経路 けいろ をとっていた。
豊川 とよかわ に海軍 かいぐん 工廠 こうしょう ができると、豊川 とよかわ の町 まち は急速 きゅうそく に拡大 かくだい した。戦後 せんご 海軍 かいぐん 工廠 こうしょう がなくなった後 のち も、豊川 とよかわ 稲荷 いなり の人気 にんき により新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう は豊川 とよかわ への街道 かいどう 筋 すじ として利用 りよう されている。
新 しん 姫 ひめ 街道 かいどう は、静岡 しずおか 県 けん ・愛知 あいち 県境 けんきょう にある本坂 ほんざか 峠 とうげ の旧道 きゅうどう の下 した をトンネルで通過 つうか するようになった(旧 きゅう 本坂 ほんざか トンネル )。
姫 ひめ 街道 かいどう を守 まも る会 かい [ 編集 へんしゅう ]
弓張 ゆみはり 山地 さんち の本坂 ほんざか 峠 とうげ 、現在 げんざい は各 かく 方面 ほうめん から自然 しぜん 歩道 ほどう としてのハイキング コースが整備 せいび されている。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )に、御油 ごゆ から見付 みつけ までの姫 ひめ 街道 かいどう 通過 つうか 6市町村 しちょうそん の有志 ゆうし によって「姫 ひめ 街道 かいどう を守 まも る会 かい 」が結成 けっせい された。
1972年 ねん 7月 がつ には、「姫 ひめ 街道 かいどう を守 まも る会 かい 」の会員 かいいん 約 やく 40名 めい が、本坂 ほんざか 峠 とうげ で、約 やく 半 はん 世紀 せいき 間 あいだ 不通 ふつう の状態 じょうたい となっていた本 ほん 坂道 さかみち (旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう )を復元 ふくげん するための踏査 とうさ を行 おこな い、鏡岩 かがみいわ の所在 しょざい や、植物 しょくぶつ 学 がく 上 じょう 貴重 きちょう とされた椿 つばき の原生 げんせい 群落 ぐんらく 地帯 ちたい 、復元 ふくげん のため修繕 しゅうぜん 補修 ほしゅう を要 よう する箇所 かしょ を確認 かくにん した[24] 。
1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )には、文化庁 ぶんかちょう の補助 ほじょ による「歴史 れきし の道 みち 」調査 ちょうさ 事業 じぎょう (昭和 しょうわ 54年度 ねんど 事業 じぎょう )の一環 いっかん として、静岡 しずおか 県 けん の教育 きょういく 委員 いいん 会 かい により姫 ひめ 街道 かいどう に関 かん する調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ がまとめられ[26] [27] 、その後 ご 改訂 かいてい 版 ばん も出版 しゅっぱん されて、重要 じゅうよう な歴史 れきし 研究 けんきゅう 資料 しりょう となっている。
1996年 ねん に文化庁 ぶんかちょう が古道 ふるみち の保存 ほぞん と活用 かつよう をはかるため「歴史 れきし の道 みち 百 ひゃく 選 せん 」を発表 はっぴょう し、本坂 ほんざか 通 どおり の西 にし 気賀 きが から引佐 いなさ 峠 とうげ (静岡 しずおか 県 けん 細江 ほそえ 町 まち )、本坂 ほんざか 峠 とうげ を経 へ て当古 とうご (愛知 あいち 県 けん 豊橋 とよはし 市 し ~豊川 とよかわ 市 し )に至 いた る区間 くかん [要 よう 出典 しゅってん ] が「歴史 れきし の道 みち 」に選定 せんてい された。
姫 ひめ 様 さま 道中 どうちゅう [ 編集 へんしゅう ]
毎年 まいとし 4月 がつ の第 だい 1土 ど ・日曜 にちよう に、浜松 はままつ 市 し 浜名 はまな 区 く 細江 ほそえ 町 まち では、「姫 ひめ 様 さま 道中 どうちゅう 」という祭 まつ りが開催 かいさい されており、お姫様 ひめさま に扮 ふん した同町 どうちょう の新 しん 成人 せいじん が駕 が 籠 かご に乗 の り、地元 じもと 住民 じゅうみん 扮 ふん する侍 さむらい 、奥方 おくがた 、腰元 こしもと 、奴 やつ などを従 したが えて都田川 みやこだがわ 堤 つつみ を練 ね り歩 ある く[31] 。
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )に、清水 しみず 自治 じち 会長 かいちょう の杉田 すぎた 某 ぼう が、気賀 きが 町 まち の各 かく 地域 ちいき がそれぞれ開催 かいさい していた祭 まつ りを統合 とうごう して、気賀 きが 町 まち 全体 ぜんたい で大 だい 規模 きぼ な祭 まつ りを行 おこ なうことを構想 こうそう し、各 かく 地域 ちいき の自治 じち 会長 かいちょう ・商工 しょうこう 組合 くみあい の組合 くみあい 長 ちょう らを集 あつ めて実行 じっこう 委員 いいん 会 かい を組織 そしき 。
その昔 むかし 、公家 くげ や大名 だいみょう の姫 ひめ 様 さま の行列 ぎょうれつ が通 とお ったという姫 ひめ 街道 かいどう の故事 こじ にちなんで道中 どうちゅう 行列 ぎょうれつ を再現 さいげん することになり、祭 まつ りの名前 なまえ を「姫 ひめ 様 さま 道中 どうちゅう 」として、都田川 みやこだがわ の桜堤 さくらづつみ [33] を練 ね り歩 ある くことにした。
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 4日 にち -5日 にち 、気賀 きが 町 まち 観光 かんこう 協会 きょうかい が観光 かんこう 事業 じぎょう として第 だい 1回 かい 「桜 さくら まつり姫 ひめ 様 さま 道中 どうちゅう 」を開催 かいさい 。それ以来 いらい 、姫 ひめ 様 さま 道中 どうちゅう は56年間 ねんかん 毎年 まいとし 開催 かいさい された。2011年 ねん には東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい の影響 えいきょう で開始 かいし 中止 ちゅうし となった。
「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう の由来 ゆらい [ 編集 へんしゅう ]
「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう の由来 ゆらい については諸説 しょせつ あり、渡辺 わたなべ (2012 , p. 20)は、1929年 ねん -1938年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん -昭和 しょうわ 13年 ねん )にかけて、大山 おおやま 敷 じき 太郎 たろう 、白柳 しらやなぎ 秀湖 しゅうこ および内田 うちだ 旭 あさひ の間 あいだ で「姫 ひめ 街道 かいどう 論争 ろんそう 」が展開 てんかい された、としている。
「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう が定着 ていちゃく した時期 じき について、気賀 きが 関所 せきしょ (2016a) は、宝永 ほうえい 4年 ねん (1707年 ねん )の地震 じしん の後 のち 、本 ほん 坂越 さこし を利用 りよう する公家 くげ の奥方 おくがた や姫君 ひめぎみ ・女中 じょちゅう 衆 しゅ が増 ふ えたことによるとし、楠 くすのき 戸 と 2006 , p. 76は、18世紀 せいき 初 はじ めの享 とおる 保 ほ の頃 ころ から、誰 だれ がいうともなく「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれるようになった、としている。また白柳 しらやなぎ 秀湖 しゅうこ による「江戸 えど 初期 しょき から」、内田 うちだ 旭 あさひ による「平安 へいあん 時代 じだい 初期 しょき から」などの主張 しゅちょう もあった。
しかし、万治 まんじ 元年 がんねん (1658年 ねん )の『東海道 とうかいどう 名所 めいしょ 記 き 』や寛政 かんせい 9年 ねん (1796年 ねん )の『東海道 とうかいどう 名所 めいしょ 図絵 ずえ 』、1802年 ねん の『東海道 とうかいどう 中 ちゅう 膝栗毛 ひざくりげ 』などでは、「本坂 ほんざか 越 えつ 」、「本 ほん 坂道 さかみち 」、「二見 ふたみ の道 みち 」などの名称 めいしょう が用 もち いられていて、江戸 えど 時代 じだい の公文書 こうぶんしょ に「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう はみられない。
江戸 えど 時代 じだい 末期 まっき になって、民間 みんかん 文書 ぶんしょ に姫 ひめ の名 な を冠 かん した呼称 こしょう が登場 とうじょう するため、「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう はこの頃 ころ に定着 ていちゃく したとみられている。渡辺 わたなべ (2012 , p. 20)は、幕末 ばくまつ の文書 ぶんしょ ・記録 きろく に記載 きさい があるためこの点 てん は決着 けっちゃく 済 ず み、としている。
安政 あんせい 元年 がんねん (1854年 ねん )の大 だい 地震 じしん の後 のち には、浜名湖 はまなこ の今 こん 切 きり の渡 わた しが停止 ていし して東海道 とうかいどう の交通 こうつう が麻痺 まひ したため、大名 だいみょう も本 ほん 坂道 さかみち へ迂回 うかい し、本坂 ほんざか 越 えつ の交通 こうつう 量 りょう が増加 ぞうか した。翌 よく 安政 あんせい 2年 ねん (1855年 ねん )に山形 やまがた 県 けん から母 はは を伴 ともな って善光寺 ぜんこうじ や伊勢神宮 いせじんぐう に参詣 さんけい し、全国 ぜんこく 各地 かくち を半年 はんとし かけて旅行 りょこう した清河 きよかわ 八郎 はちろう は、旅 たび 日記 にっき 『西遊 せいゆう 草 そう 』[39] の浜名 はまな 郡 ぐん 三ケ日 みっかび の項 こう に、「此所は秋葉山 あきはさん へ往来 おうらい の宿 やど にて、往来 おうらい もややあり。且昨年 さくねん よりして大名 だいみょう も新井 あらい を通 とお らず、まま此処 ここら より上下 じょうげ するありとぞ。すべて御姫様 おひめさま 海道 かいどう と名 な づけて、格別 かくべつ 難儀 なんぎ にもあらざる道 みち なり。」として、本坂 ほんざか 越 えつ が「御姫様 おひめさま 海道 かいどう 」と呼 よ ばれており、40歳 さい の母 はは を連 つ れた清河 きよかわ にとっても「特 とく に大変 たいへん な道 みち でもなかった」と記 しる している。
『浜松 はままつ 市 し 史 し 』第 だい 2巻 かん は、安政 あんせい 3年 ねん (1856年 ねん )の絵図 えず では、浜松 はままつ 宿 やど から三方原 みかたはら 追分 おいわけ に至 いた る道 みち を「姫 ひめ 街道 かいどう 」、安間 あんま 一里塚 いちりづか から市野 いちの を経 へ て三方原 みかたはら 追分 おいわけ に至 いた る道 みち を「市野 いちの 道 みち 」と記 しる していた、としているが、この絵図 えず は行方 ゆくえ 不明 ふめい で未確認 みかくにん とされている。
万延 まんえん 元年 がんねん (1860年 ねん )に五 ご 雲 くも 亭 てい 貞秀 さだひで が描 えが いた『東海道 とうかいどう 五 ご 十 じゅう 三 さん 次 じ 勝景 しょうけい 』の中 なか に「東海道 とうかいどう 五十三次之内浜松順路並姫 ひめ 街道 かいどう 木賀 きが 遠望 えんぼう 」と題 だい した浮世絵 うきよえ があり、同 おな じ頃 ごろ 作成 さくせい された「秋葉山 あきはさん 参詣 さんけい 道程 どうてい 図 ず 」にも「姫 ひめ 様 さま 街道 かいどう 」と記載 きさい があることから、この頃 ころ には「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう が定着 ていちゃく していたとみられている[43] 。
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )に発行 はっこう の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸地 りくち 測量 そくりょう 部 ぶ の2万 まん 分 ぶん の1地図 ちず では、「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう が使用 しよう された。
1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )の『大 だい 日本 にっぽん 地名 ちめい 辞書 じしょ 』では、近世 きんせい 「姫 ひめ 街道 かいどう 」といわれるようになった、とされている。
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )には、「本 ほん 坂道 さかみち 」よりも「姫 ひめ 街道 かいどう 」の呼称 こしょう の方 ほう が有名 ゆうめい になっている、とされている。
「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれるようになった理由 りゆう については、
(説 せつ 1)江戸 えど 時代 じだい 、新居 にい (今 こん 切 きり )の関所 せきしょ を避 さ けた女性 じょせい が本 ほん 坂越 さこし を選 えら んだためで、女性 じょせい が新居 しんきょ を避 さ けた理由 りゆう については、
(説 せつ 1-1)新居 にい 関所 せきしょ の女性 じょせい に対 たい する取締 とりしま りが厳 いかめ しかった(入 はい り鉄砲 てっぽう に出 で 女 おんな の詮議 せんぎ が厳 いかめ しかった)ため
(説 せつ 1-2)新居 しんきょ ‐舞阪 まいさか の海 うみ がよく荒 あ れ、女性 じょせい が渡海 とかい を怖 こわ がったため
(説 せつ 1-3)「今 こん 切 きり 」が「縁 えん 切 き れ」に通 つう ずるため縁起 えんぎ が悪 わる く、不吉 ふきつ な感 かん じを与 あた えるから
の各 かく 説 せつ があり、また
(説 せつ 2)古代 こだい から中世 ちゅうせい にかけて栄 さか えた街道 かいどう のため「古 ふる い街道 かいどう 」という意味 いみ で「鄙 ひな (ひね)街道 かいどう 」と呼 よ ばれていたのが「姫 ひめ 」(ひめ)に転訛 てんか した、とする説 せつ 、
(説 せつ 3)「姫 ひめ 」は愛宕山 あたごやま を真 ま っ直 す ぐに登 のぼ る表 ひょう 坂 ざか を「男坂 おとこざか 」と呼 よ び、遠回 とおまわ りではあるが傾斜 けいしゃ の緩 ゆる い脇 わき 坂 ざか を「女坂 おんなざか 」と呼 よ ぶように、本 ほん 街道 かいどう の半分 はんぶん の規格 きかく で造 つく られた脇道 わきみち を「女 おんな 道 どう 」「姫 ひめ 道 みち 」として「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ぶようになった、あるいは「大 おお きい」本 ほん 街道 かいどう との対比 たいひ において「小 ちい さい」脇道 わきみち を美称 びしょう して「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ んだとする説 せつ 、
(説 せつ 4)本坂 ほんざか 峠 とうげ の麓 ふもと で父 ちち の墓守 はかもり をしていた橘逸勢 たちばなのはやなり の娘 むすめ の妙 みょう 冲や、平宗盛 たいらのむねもり の寵愛 ちょうあい を振 ふ り切 き って天竜川 てんりゅうがわ 畔 ほとり で余生 よせい を過 す ごした熊野 くまの 御前 ごぜん 、近 ちか くは8代 だい 将軍 しょうぐん 吉 よし 宗 はじめ の母 はは ・浄 きよし 円 えん 院 いん が大勢 おおぜい の人足 ひとあし を引 ひ き連 つ れて通行 つうこう したことなど、女性 じょせい のイメージが強 つよ く残 のこ る街道 かいどう だったため、特 とく に「姫 ひめ 」の名 な で呼 よ ばれたとする説 せつ もある。
説 せつ 1 女性 じょせい がよく通行 つうこう したから説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内藤 ないとう (1972 , pp. 128–129, 134)は、姫 ひめ 街道 かいどう は起伏 きふく が激 はげ しく、また道程 どうてい が東海道 とうかいどう の本道 ほんどう より20キロメートルも長 なが く、「姫 ひめ 街道 かいどう 」という名称 めいしょう から連想 れんそう されるような、女性 じょせい が選 えら んで通 とお りたがるような生易 なまやさ しい街道 かいどう ではなかった、として、(説 せつ 1-1)や(説 せつ 1-3)の傾向 けいこう があったにしても、何 なに のためにわざわざ本道 ほんどう よりも悪条件 あくじょうけん の本 ほん 坂道 さかみち を選 えら んだのか理解 りかい に苦 くる しむとして、(説 せつ 1)そのものを疑 うたが わしいとしている。
『気賀 きが 宿 やど 文書 ぶんしょ 』によると、宝永 ほうえい 5年 ねん (1708年 ねん )から寛政 かんせい 7年 ねん (1794年 ねん )までの80余 よ 年 ねん の間 あいだ に「姫 ひめ 様 さま 」と呼 よ ばれるような身分 みぶん の女性 じょせい が通行 つうこう した人数 にんずう は22人 にん で、平均 へいきん 4年 ねん に1人 ひとり 程度 ていど だった(ので、頻繁 ひんぱん に「姫 ひめ 様 さま 」が通行 つうこう していたわけではない)とされている。
楠 くすのき 戸 と (2006 , p. 76)およびみわ (2003 , p. 178)は(説 せつ 1-1)および(説 せつ 1-2)を呼称 こしょう の由来 ゆらい として挙 あ げている。大山 おおやま 敷 じき 太郎 たろう は、(説 せつ 1-1)‐(説 せつ 1-3)を挙 あ げた上 うえ で(説 せつ 1-3)が正 ただ しいとし、白柳 しらやなぎ 秀湖 しゅうこ は(説 せつ 1-1)が正 ただ しいと主張 しゅちょう 、内田 うちだ 旭 あさひ は(説 せつ 1)を全 すべ て否定 ひてい した。
渡辺 わたなべ (2012 , p. 21)は、特 とく に女性 じょせい の利用 りよう が多 おお かったかを解明 かいめい することは宿帳 やどちょう などが残 のこ っていない状況 じょうきょう からして困難 こんなん だが、抜 ぬ け参 まい り の人々 ひとびと が本坂 ほんざか 通 どおり を多 おお く利用 りよう したことは間違 まちが いない、とし、事例 じれい として文政 ぶんせい 13年 ねん (1830年 ねん )にお蔭 かげ 参 まい りが流行 りゅうこう した際 さい に、本坂 ほんざか 通 どおり が多 おお く利用 りよう され、後 のち に「気賀 きが 関所 せきしょ との関係 かんけい で」問題 もんだい になった、としている。同書 どうしょ では、東海道 とうかいどう の本道 ほんどう の今 こん 切 きり 関所 せきしょ に対 たい して「畏怖 いふ の念 ねん 」を示 しめ す意味 いみ で、脇道 わきみち の本坂 ほんざか 通 どおり を利用 りよう したのだろう、としている。
説 せつ 1-1 新居 しんきょ 関所 せきしょ の取調 とりしら べ忌避 きひ 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
浅井 あさい (2001 , pp. 100–101)は、徳川 とくがわ 家康 いえやす は、江戸 えど への武器 ぶき 流入 りゅうにゅう や諸 しょ 大名 だいみょう に対 たい する「人質 ひとじち 」として江戸 えど に住 す まわせた大名 だいみょう の妻 つま たちの脱走 だっそう を防 ふせ ぐ為 ため に関所 せきしょ を設置 せっち したと言 い われ、「入 にゅう 鉄砲 てっぽう 出 で 女 おんな 」の取 と り締 し まりは厳 きび しく、東海道 とうかいどう の今 こん 切 きり 関所 せきしょ は、特 とく に女性 じょせい に対 たい して取 と り調 しら べが厳 きび しいことで有名 ゆうめい だった、としている。渡辺 わたなべ (2000 , p. 47)は、これに加 くわ えて、今 こん 切 きり 関所 せきしょ では江戸 えど へ向 む かう「入 はい り女 おんな 」に対 たい しても所定 しょてい の女手 おんなで 形 がた を必要 ひつよう とした点 てん を指摘 してき し、小杉 こすぎ (1997 , p. 173)は、関所破 せきしょやぶ りは極刑 きょっけい という掟 おきて があったことを指摘 してき している。
内藤 ないとう (1972 , p. 134)は、新居 しんきょ の関所 せきしょ には「改 あらた め婆 ばば 」と呼 よ ばれる、局部 きょくぶ を視認 しにん して性別 せいべつ を改 あらた めるという風評 ふうひょう もあり、女性 じょせい の旅行 りょこう 者 しゃ には敬遠 けいえん されたのかもしれない、としながらも、旅人 たびびと 監視 かんし の厳 きび しさでは、姫 ひめ 街道 かいどう にも気賀 きが 関 せき があり、本 ほん 街道 かいどう の新居 しんきょ 関 せき と差異 さい はなかったのではないか、としている。大山 おおやま 敷 じき 太郎 たろう は、女性 じょせい が今 こん 切 きり 関所 せきしょ を避 さ けて本坂 ほんざか 通 どおり を通行 つうこう したものの、気賀 きが 関所 せきしょ の検閲 けんえつ も厳重 げんじゅう だったとしたとされ、渡辺 わたなべ (2012 , p. 20)は大山 おおやま の説 せつ を概 おおむ ね支持 しじ するが、女性 じょせい が東海道 とうかいどう の本道 ほんどう を避 さ けた理由 りゆう は多様 たよう だった、としている。
小杉 こすぎ (1997 , pp. 171–172)は、新井 あらい の裏 うら 関所 せきしょ である気賀 きが 関所 せきしょ の取 と り調 しら べも厳 いかめ しかったという反論 はんろん があることに言及 げんきゅう し、浜松 はままつ 市役所 しやくしょ (1971 , p. 180)は、気賀 きが 関所 せきしょ の取 と り締 し まりは今 こん 切 きり 関所 せきしょ と何 なに も変 かわ らなかった、としている。
小杉 こすぎ (1997 , p. 172-175)は、もともと気賀 きが 関所 せきしょ の取調 とりしら べは厳重 げんじゅう であったが、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき になると、幹線 かんせん 道路 どうろ 以外 いがい では関所 せきしょ の取調 とりしら べがかなり緩 ゆる やかになっており、関所 せきしょ 手形 てがた を取得 しゅとく しにくい女性 じょせい が通行 つうこう する際 さい に、関所破 せきしょやぶ りをする例 れい があったことを指摘 してき している。例 れい として、前出 ぜんしゅつ の清河 きよかわ 八郎 はちろう 『西遊 せいゆう 草 そう 』では、関所 せきしょ 手形 てがた を持 も たない母 はは と同道 どうどう したために関所破 せきしょやぶ りを繰 く り返 かえ しており、新潟 にいがた 県 けん ・長野 ながの 県境 けんきょう にある関川 せきかわ の番所 ばんしょ では最 さい 寄 よせ の宿 やど に一泊 いっぱく した後 のち 、夜明 よあ け前 まえ に宿屋 やどや の手引 てび きで関所破 せきしょやぶ りをし、善光寺 ぜんこうじ から名古屋 なごや へ行 い く際 さい には福島 ふくしま 関所 せきしょ がある中山道 なかせんどう を避 さ けて伊那 いな 街道 かいどう を迂回 うかい して同 どう 街道 かいどう を女性 じょせい の取締 とりしま りが緩 ゆる やかな「女人 にょにん 道 どう 」と表現 ひょうげん 、飯田 いいだ から中山道 なかせんどう の木曾 きそ 妻 つま 籠 かご に出 で るときには清内路 せいないじ 道 みち の脇道 わきみち である市之瀬 いちのせ 番所 ばんしょ を「女性 じょせい を通 とお さない関所 せきしょ だから」として関所 せきしょ の脇道 わきみち を通過 つうか し、東海道 とうかいどう では新居 しんきょ 関所 せきしょ を避 さ けて「御姫様 おひめさま 海道 かいどう 」を来 き たものの、気賀 きが にも関所 せきしょ があり「女中 じょちゅう も容易 ようい に通 とお さない」と聞 き いて、三ヶ日 さんがにち から舟 ふね を雇 やと い、夜中 よなか に舟 ふね に乗 の って呉松 くれまつ へ渡 わた る関所破 せきしょやぶ りをしていた。他 ほか にも夜中 よなか に浜名湖 はまなこ を個人 こじん が舟 ふね で渡 わた り、気賀 きが の関所 せきしょ を破 やぶ っている例 れい がある。
白柳 しらやなぎ 秀湖 しゅうこ は、気賀 きが 関所 せきしょ には「犬 いぬ 潜 もぐ り道 どう 」があり、検閲 けんえつ に手心 てごころ が加 くわ えられていた、としている。
説 せつ 1-2 新居 しんきょ ‐舞浜 まいはま 間 あいだ 渡海 とかい 忌避 きひ 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内藤 ないとう (1972 , p. 134)は、道程 どうてい でいえば姫 ひめ 街道 かいどう は本 ほん 街道 かいどう よりも20キロメートルも長 なが くなり、本坂 ほんざか 峠 とうげ の急峻 きゅうしゅん な坂道 さかみち や静岡 しずおか 側 がわ の気賀 きが までの間 あいだ にある低 ひく い丘 おか をいくつも越 こ えなければならず、加 くわ えて山道 さんどう には追 お いはぎや強盗 ごうとう が出没 しゅつぼつ する不安 ふあん もあったため、船渡 ふなわた しがあっても路面 ろめん が平坦 へいたん な本 ほん 街道 かいどう のほうが通行 つうこう しやすく、道中 どうちゅう の不安 ふあん も少 すく なかったのではないか、としている。
内山 うちやま 真 しん 龍 りゅう の『遠江 とおのえ 国 こく 風土記 ふどき 伝 でん 』は「嶺 みね 頭 あたま 少 すこ しく平 ひらめ なり、駕 が を休 やす むる所 ところ 、嶺 みね 頭 あたま に人家 じんか なく、駅路 えきろ の人馬 じんば 寒 さむ 暑 あつ に苦 くる しむ」として本 ほん 坂 さか 越 こ えの苛酷 かこく さを記 しる し、新居 しんきょ 関所 せきしょ の関守 せきもり をしていた富永 とみなが 政 まさし 愈 いよいよ の『今 こん 切 きり 御 ご 関所 せきしょ 由来 ゆらい 』では「本坂 ほんざか 越 えつ は道 みち 狭 せま く坂 さか けわしくて箱根 はこね 、笛吹峠 ふえふきとうげ より難 かた く、恰 あたか も蜀 しょく 難 なん の地 ち の如 ごと し、一度 いちど 往 ゆ く者 もの は二 に 度 ど 越 こ えんことを思 おも わず」と記 しる されている[55] 。
浜松 はままつ 市役所 しやくしょ (1971 , p. 180)は、今 こん 切 きり 渡船 とせん については「鳶 とんび も舞坂 まいさか 、天気 てんき (日和 ひより )も静 しず か、名 な のみ荒井 あらい の 舟渡 ふなわた し」という諺 ことわざ があるほど普段 ふだん は穏 おだ やかだったので、女性 じょせい ・子供 こども でも特 とく に不安 ふあん はなかったはずだ、とし、小杉 こすぎ (1997 , pp. 171–172)もこの反論 はんろん に言及 げんきゅう している。
気賀 きが 関所 せきしょ (2016a) は、宝永 ほうえい 4年 ねん (1707年 ねん )の地震 じしん の後 のち 、浜名湖 はまなこ 南岸 なんがん を迂回 うかい するため本 ほん 坂越 さこし の通行 つうこう 量 りょう が増加 ぞうか 、幕府 ばくふ は宝永 ほうえい 7年 ねん (1710年 ねん )に大名 だいみょう の本 ほん 坂越 さこし を禁止 きんし したが、公家 くげ の奥方 おくがた や姫君 ひめぎみ ・女中 じょちゅう 衆 しゅ はこの街道 かいどう を使用 しよう し続 つづ けたことから、本 ほん 坂道 さかみち は「姫 ひめ 様 さま 道 どう 」「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれた、としている。
小杉 こすぎ (1997 , pp. 174–175)では、(説 せつ 4)および(説 せつ 1-1)を幕末 ばくまつ に「女人 にょにん 道 どう 」や「女 おんな 街道 かいどう 」の呼 よ び名 な が生 う まれた由来 ゆらい としながらも、特 とく に「姫 ひめ 街道 かいどう 」「姫 ひめ 様 さま 街道 かいどう 」のように呼 よ ばれた理由 りゆう としては、関所 せきしょ 手形 てがた を持 も っているため関所 せきしょ を忌避 きひ する必要 ひつよう のない身分 みぶん の高 たか い女性 じょせい が本 ほん 坂道 さかみち を利用 りよう した理由 りゆう があったはずだとし、『本 ほん 坂道 さかみち 宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう 』の中 なか で「京都 きょうと から姫 ひめ や宮方 みやかた が江戸 えど に行 い く時 とき は気賀 きが や三ヶ日 さんがにち 、嵩山 たけやま などの宿場 しゅくば で人馬 じんば が不足 ふそく するから、加 か 助 じょ 郷 さと の触書 ふれがき を出 だ さなくてはならない」として特 とく に「姫 ひめ や宮方 みやかた 」が本 ほん 坂道 さかみち を通 とお ることを強調 きょうちょう していることを指摘 してき し、その理由 りゆう は渡海 とかい を忌避 きひ したことにあったのではないか、としている。同書 どうしょ はその例 れい として、文政 ぶんせい 元年 がんねん (1818年 ねん )の菅沼 すがぬま 斐雄[56] 『袖 そで くらべ』の中 なか に、「香川 かがわ 景樹 かげき が舟 ふね を嫌 きら うから荒井 あらい の渡 わた しを避 さ けて本 ほん 街道 かいどう より5里 さと も遠回 とおまわ りになるけれど本 ほん 坂越 さこし という山道 さんどう を行 い く」旨 むね の記載 きさい があることや、『東海道 とうかいどう 名所 めいしょ 図会 ずえ 』の御油 ごゆ の項 こう で本坂 ほんざか 越 えつ が「荒井 あらい 今 こん 切 きり の海上 かいじょう を渡 わた らずして陸路 りくろ を行 くだり 」く路 みち と紹介 しょうかい されていることを挙 あ げ、前出 ぜんしゅつ の清河 きよかわ 八郎 はちろう 『西遊 せいゆう 草 そう 』の記述 きじゅつ もあり、渡海 とかい への不安 ふあん に比 くら べて、本坂 ほんざか 越 えつ はさほど困難 こんなん な峠 とうげ 道 どう ではなかった、としている。
説 せつ 1-3 「今 こん 切 きり 」呼称 こしょう 忌避 きひ 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内藤 ないとう (1972 , pp. 134–135)は、「今 こん 切 きり 」の語 かたり が縁起 えんぎ が悪 わる いという話 はなし は、若 わか い女性 じょせい の旅行 りょこう 者 しゃ には多少 たしょう 影響 えいきょう があったのかもしれないが、もともと若 わか い女性 じょせい の通行 つうこう 量 りょう は絶対 ぜったい 数 すう が少 すく なく、数 かず の割 わり にはという印象 いんしょう から、冗談 じょうだん ぽく「姫 ひめ 街道 かいどう 」のあだ名 な が生 う まれたのかもしれない、としている。
浜松 はままつ 市役所 しやくしょ (1971 , p. 180)は、強 し いていえばこの説 せつ が最 もっと も当 とう を得 え ているのではないか、としている。
小杉 こすぎ (1997 , pp. 171–172)は、近世 きんせい になって急 きゅう に忌 い むようになったというのはおかしい、との反論 はんろん がある、としている。
説 せつ 2 「鄙 ひな (ひね)街道 かいどう 」転訛 てんか 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内藤 ないとう (1972 , p. 135)は、東海道 とうかいどう の表街道 おもてかいどう を「新 あたら しい」街道 かいどう として、これに対応 たいおう する「古 ふる い」街道 かいどう を「ひね街道 かいどう 」と呼 よ ぶのであれば、気賀 きが から森町 もりまち 、掛川 かけがわ に至 いた る山手 やまて 寄 よ りのかつての「二見 ふたみ の道 みち 」の古 こ 道筋 みちすじ を呼 よ んだはずだが、湖北 こほく 以外 いがい の遠 とお 州 しゅう 地方 ちほう には「ひね街道 かいどう 」という呼 よ び方 かた が全 まった く残 のこ っていないため、湖北 こほく だけに古 こ 道筋 みちすじ を「ひね」と呼 よ ぶ呼 よ び方 かた が残 のこ ったとするのはおかしい、としている。
小杉 こすぎ (1997 , pp. 171–172)は、「姫 ひめ 」のイメージと「古 ふる い」というイメージが大 おお きく異 こと なり、また「姫 ひめ 様 さま 街道 かいどう 」のような呼称 こしょう も見 み られることから、「ひね」からの転訛 てんか ではないだろう、としている。
大林 おおばやし (2003 , p. 104)は、『豊橋 とよはし 市 し 史 し 』が(説 せつ 2)をとっていることを紹介 しょうかい し、『吾妻 あづま 鏡 きょう 』などからは、中世 ちゅうせい まで、平地 ひらち にある見通 みとお しのよい平坦 へいたん な道 みち は危険 きけん 度 ど が高 たか いと考 かんが えられており、山 やま 沿 ぞ いや山 やま の中 なか を選 えら んで通 かよ っていたことが伺 うかが われることから、近世 きんせい 以降 いこう 、平坦 へいたん な道 みち が選 えら ばれるようになり、街道 かいどう の概念 がいねん が変化 へんか したときに、古 ふる い道 みち 、「ひね街道 かいどう 」とされたのではないか、としている。
渡辺 わたなべ (2012 , p. 21)は、17世紀 せいき を通 つう じて、東海道 とうかいどう の本道 ほんどう に「主要 しゅよう な大 だい 通行 つうこう 」が移 うつ っていき、本坂 ほんざか 通 どおり の通行 つうこう 量 りょう が減 へ って「鄙 ひな びた街道 かいどう 」となり、「鄙 ひな 街道 かいどう 」と呼 よ ばれていたのが「姫 ひめ 街道 かいどう 」に転訛 てんか したとする説 せつ もあるが、考 かんが えすぎだろう、としている。
説 せつ 3 「男 おとこ ・大 だい 」街道 かいどう との対比 たいひ での「女 おんな ・小 しょう 」街道 かいどう 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内藤 ないとう (1972 , p. 135)は、(説 せつ 3)は明快 めいかい で筋 すじ の通 とお った説明 せつめい だが、その割 わり には江戸 えど 時代 じだい の道中 どうちゅう 記 き には全 まった く現 あらわ れないため、地域 ちいき 的 てき な通称 つうしょう が一般 いっぱん 化 か したものではないか、としている。
小杉 こすぎ (1997 , pp. 171–172)は、男 おとこ と女 おんな 、剛 つよし と柔 やわら の発想 はっそう が最 もっと も妥当 だとう かもしれない、とし、小杉 こすぎ (1997 , pp. 174–175)では、(説 せつ 1-1)との関連 かんれん から、幕末 ばくまつ には幕府 ばくふ の権威 けんい が衰 おとろ えて支配 しはい 力 りょく は弱 よわ まったが、主要 しゅよう な関所 せきしょ の機能 きのう は存続 そんぞく していたため、特 とく に手形 てがた がなければ関所 せきしょ を通過 つうか できない女性 じょせい が、関所 せきしょ を避 さ けたり、抜 ぬ けたりできそうな脇道 わきみち を選 えら ぶことが多 おお くなり、関所 せきしょ を通 とお らずに済 す む脇道 わきみち を「女人 にょにん 道 どう 」や「女 おんな 街道 かいどう 」と呼 よ ぶようになったのだろう、としている。
なお、「姫 ひめ 街道 かいどう 」という名前 なまえ で呼 よ ばれる道 みち は各地 かくち にあり、中山道 なかせんどう の碓氷峠 うすいとうげ の関所 せきしょ を避 さ ける下仁田 しもにた 道 みち (下仁田 しもにた 街道 かいどう ) は「姫 ひめ 街道 かいどう 」「女 おんな 街道 かいどう 」、長野 ながの 県 けん 松本 まつもと 市 し と新潟 にいがた 県 けん 糸魚川 いといがわ 市 し を結 むす ぶ千 せん 国道 こくどう (千 せん 国 こく 街道 かいどう ) は「姫 ひめ 街道 かいどう 」、岐阜 ぎふ 県 けん の東海道 とうかいどう の付属 ふぞく の街道 かいどう である美濃 みの 道 みち も「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれていた、とされている。また宮川 みやがわ (2012 , p. 92)は、愛知 あいち 県 けん 一宮 いちのみや 市 し 起 おこり にも、近代 きんだい に尾西 びさい 地域 ちいき の織物 おりもの 工場 こうじょう で働 はたら く女性 じょせい たちが通 とお ったことから「姫 ひめ 街道 かいどう 」と呼 よ ばれている小 ちい さな道 みち があったらしい、としている。
説 せつ 4 女性 じょせい にちなむ伝説 でんせつ 由来 ゆらい 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
内田 うちだ 旭 あさひ は、古代 こだい から女性 じょせい に関係 かんけい する街道 かいどう だったことを理由 りゆう に挙 あ げている。
江戸 えど 時代 じだい の経路 けいろ と宿駅 しゅくえき [ 編集 へんしゅう ]
本坂 ほんざか 通 どおり (姫 ひめ 街道 かいどう )の分岐 ぶんき 点 てん とされる磐田 いわた 市 し 見付 みつけ 。信号 しんごう 機 き の直下 ちょっか に姫 ひめ 街道 かいどう であることを示 しめ す看板 かんばん が設 もう けられている。2022年 ねん 4月 がつ 。
姫 ひめ 街道 かいどう には、静岡 しずおか 県 けん 側 がわ に3つ、愛知 あいち 県 けん 側 がわ に2つのルートがあったとされる。
静岡 しずおか 県 けん 側 がわ のルートは、
東海道 とうかいどう の安間 あんま 新田 しんでん にあった一里塚 いちりづか (安間 あんま の一里塚 いちりづか )を起点 きてん として、市野 いちの を通 とお り、気賀 きが に至 いた るルート
浜松 はままつ 城 じょう 大手 おおて 門前 もんぜん の高札 こうさつ から西北 せいほく に進 すす み、三方原 みかたはら 追分 おいわけ で第 だい 1のルートと合流 ごうりゅう するルート
見付 みつけ 宿 やど から西 にし へ向 む かい、池田 いけだ の渡 わた しで天竜川 てんりゅうがわ を渡 わた り、富田 とみた 村 むら (浜松 はままつ 市 し 東 ひがし 区 く 白鳥 しらとり 町 まち )から下石田 しもいしだ 村 むら に出 で て市野 いちの へ向 む かうルート(池田 いけだ 近道 ちかみち )
の3つで、第 だい 1のルートは江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき から幕府 ばくふ の正式 せいしき な街道 かいどう として認 みと められ、『東海道 とうかいどう 巡覧 じゅんらん 』[58] や『東海道 とうかいどう 名所 めいしょ 図会 ずえ 』にもこのルートが記 しる されている(表 ひょう 1参照 さんしょう )[注釈 ちゅうしゃく 2] 。明和 めいわ 元年 がんねん (1764年 ねん )に幕府 ばくふ の道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう の支配 しはい となってからは、第 だい 2のルートが正式 せいしき な本 ほん 坂道 さかみち となった。
愛知 あいち 県 けん 側 がわ のルートは、
嵩山 すせ から真 ま 西 にし の御油 ごゆ へ向 む かうルート
嵩山 すせ から吉田 よしだ (豊橋 とよはし )に出 で るルート
の2つがあった。
表 ひょう 1:『東海道 とうかいどう 巡覧 じゅんらん 記 き 』・『東海道 とうかいどう 名所 めいしょ 図会 ずえ 』による本 ほん 坂越 さこし の経路 けいろ
宿場 しゅくば
距離 きょり
備考 びこう
御油 ごゆ
御油 ごゆ の「かけま」から
嵩山 たけやま
御油 ごゆ より4里 り
渡船 とせん あり
三ヶ日 さんがにち
嵩山 すせ より2.5里 り
山路 やまじ
気賀 きが
三ヶ日 さんがにち より3里 り
関所 せきしょ あり
茅場 かやば (かやんば)[60]
気賀 きが より4里 り
本 ほん 街道 かいどう 、浜松 はままつ より1里 り
全 ぜん 行程 こうてい
13.5里 り [61]
出典 しゅってん :秋里 あきさと (1910 , p. 45)、浅井 あさい (1948 , pp. 99–100)および小杉 こすぎ (1997 , p. 176)により作成 さくせい 。
見付 みつけ から御油 ごゆ に至 いた るルートは、見付 みつけ から池田 いけだ の渡 わた し で天竜川 てんりゅうがわ を渡 わた り、市 し 野宿 のじゅく 、気賀 きが 宿 やど 、三ヶ日 さんがにち 宿 やど を経由 けいゆ して、本坂 ほんざか 峠 とうげ [62] を越 こ え、嵩山 すせ (すせ)宿 やど を経由 けいゆ して、当古 とうご の渡 わた し で豊川 とよかわ を渡 わた り、御油 ごゆ (ごゆ)宿 やど で東海道 とうかいどう に合流 ごうりゅう する。静岡 しずおか 県 けん 側 がわ では細江 ほそえ 町 まち から三ヶ日 さんがにち 町 まち にかけて引佐 いなさ 峠 とうげ [65] を含 ふく む低 ひく い丘 おか を5-6つ越 こ え、本坂 ほんざか 山 さん の急 きゅう な坂道 さかみち を越 こ えていく起伏 きふく のあるルートだった。
道程 どうてい は、御油 ごゆ から見付 みつけ までが15里 さと 14町 まち (約 やく 63キロメートル)[66] [67] 、安間 あんま の一里塚 いちりづか から御油 ごゆ までは13.5里 り (約 やく 54キロメートル)あった。東海道 とうかいどう の本道 ほんどう よりも約 やく 20キロメートル長 なが かった。
旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう の道幅 みちはば は9尺 しゃく (2メートル強 きょう )で、坂道 さかみち の石畳 いしだたみ や松並 まつなみ 木 き も全線 ぜんせん に渡 わた って整備 せいび されたわけではなく、もともと交通 こうつう 量 りょう の少 すく ない補助 ほじょ 道路 どうろ だったため、旅人 たびびと の監 かん 視 し は本 ほん 街道 かいどう 並 な みに厳格 げんかく でも、設備 せつび は大分 おおいた 簡略 かんりゃく 化 か されていた。
また山 やま ・坂 さか ・峠 とうげ 越 こ えが多 おお い街道 かいどう だったため、物資 ぶっし の輸送 ゆそう には不向 ふむ きであり、愛知 あいち 県 けん 側 がわ では江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき には本坂 ほんざか 通 どおり よりも吉田 よしだ から船 ふね で豊川 とよかわ を遡上 そじょう して一鍬田 ひとくわだ 村 むら (新城 しんじょう 市 し )で荷揚 にあ げし、宇利峠 うりとうげ を越 こ えて三ヶ日 さんがにち 宿 やど まで運 はこ ぶルートが多 おお く利用 りよう され、また静岡 しずおか 県 けん 側 がわ では、関所 せきしょ の取締 とりしま りにより原則 げんそく 船 せん 運 うん が禁止 きんし されていた浜名湖 はまなこ で、これに違反 いはん する船 ふね 運 うん が活発 かっぱつ に行 おこ なわれていた、とされている。
江戸 えど 時代 じだい の姫 ひめ 街道 かいどう の経路 けいろ を描 えが いた絵図 えず はいくつかあり、下記 かき に挙 あ げた絵図 えず のほか、「本坂 ほんざか 街道 かいどう 絵図 えず 」や東海道 とうかいどう の種々 しゅじゅ の道中 どうちゅう 絵巻 えまき にも描 えが かれている。
本坂 ほんざか 通分 つうぶん 間 あいだ 延 のべ 絵図 えず [ 編集 へんしゅう ]
江戸 えど 幕府 ばくふ の道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう 所 しょ が寛政 かんせい 年間 ねんかん に製作 せいさく し、文化 ぶんか 3年 ねん (1806年 ねん )に完成 かんせい した1,800分 ぶん の1の縮尺 しゅくしゃく 図 ず 「五街道其外分間見取延絵図」のうちの「本 ほん 坂道 さかみち 分 ぶん 間 あいだ 延 のべ 絵図 えず (控 ひかえ )」[70] には、浜松 はままつ から御油 ごゆ に至 いた るルートが詳細 しょうさい に描 えが かれている、とされているが、1997年 ねん 当時 とうじ 、逓信 ていしん 博物館 はくぶつかん が所蔵 しょぞう しているものの非公開 ひこうかい で、公刊 こうかん されていないため閲覧 えつらん できないとされており、2010年 ねん 当時 とうじ は郵政 ゆうせい 資料 しりょう 館 かん のみに現存 げんそん している、とされている[72] 。
2011年 ねん 10月 がつ に豊橋 とよはし 市 し 二川 ふたがわ 宿本 しゅくほん 陣 じん 資料 しりょう 館 かん で開催 かいさい された「歴史 れきし の道 みち 姫 ひめ 街道 かいどう 展 てん 」では本 ほん 図 ず の写真 しゃしん が展示 てんじ された。
本 ほん 坂道 さかみち 三方原 みかたはら 回路 かいろ 図 ず [ 編集 へんしゅう ]
豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう [73] の「本 ほん 坂道 さかみち 三方原 みかたはら 回路 かいろ 図 ず 」[74] は、江戸 えど 後期 こうき の手書 てが き彩色 さいしき の絵図 えず で、吉田 よしだ (豊橋 とよはし )から長楽 ながら へ出 で て、本坂 ほんざか 峠 とうげ へ向 む かうルートが描 えが かれている。
本 ほん 坂道 さかみち 絵図 えず [ 編集 へんしゅう ]
細江 ほそえ 町 まち の個人 こじん 所蔵 しょぞう の「本 ほん 坂道 さかみち 絵図 えず 」には、静岡 しずおか 県 けん 側 がわ の一里塚 いちりづか や寺社 じしゃ 、本陣 ほんじん などが描 えが かれている。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "姫 ひめ 街道 かいどう " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年 ねん 11月 )
本坂 ほんざか 通 どおり 宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう [ 編集 へんしゅう ]
「本坂 ほんざか 通 どおり 宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう 」は、天保 てんぽう から安政 あんせい 年代 ねんだい (1830-50年代 ねんだい )にかけて、江戸 えど 幕府 ばくふ の道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう 所 しょ が5街道 かいどう やその脇道 わきみち の各 かく 宿駅 しゅくえき と街道 かいどう 筋 すじ の村落 そんらく の状況 じょうきょう [76] を調査 ちょうさ してまとめた「宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう 」のうち、本坂 ほんざか 通 どおり の状況 じょうきょう についてまとめた資料 しりょう で、道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう 所 しょ によって使用 しよう されたとみられており、近世 きんせい 史 し 研究 けんきゅう の貴重 きちょう な資料 しりょう となっている[77] 。
三ヶ日 さんがにち ・本坂 ほんざか に残 のこ る一里塚 いちりづか
一里塚 いちりづか は、1里 さと ごとに道 みち の両側 りょうがわ に塚 づか を築 きず き、榎 えのき を植 う えて旅人 たびびと の便 びん に供 きょう したものだったが、1971年 ねん 現在 げんざい 、浜松 はままつ 宿 やど の近郷 きんごう で往時 おうじ の姿 すがた をとどめているのは三 さん 方 ぽう ヶ原 げん 追分 おいわけ に近 ちか い道 みち 側 がわ に1基 き が残 のこ っているのみ、とされている。姫 ひめ 街道 かいどう の一里塚 いちりづか は表 ひょう 3の通 とお り。
表 ひょう 3 姫 ひめ 街道 かいどう の一里塚 いちりづか
名称 めいしょう
日本橋 にほんばし よりの距離 きょり
北 きた
南 みなみ
小池 こいけ
65里 り
小池 こいけ 一里山 いちりやま 1952
一里山 いちりやま 135
追分 おいわけ
66里 り
三方原 みかたはら 築山 つきやま 現存 げんそん
追分 おいわけ 円 えん 塚 づか 現存 げんそん
東大山 ひがしおおやま
67里 り
三方原 みかたはら 大窪 おおくぼ 現存 げんそん
和地 わじ 村 むら 東大山 ひがしおおやま 現存 げんそん
老 ろう ヶ谷 だに
68里 り
中 ちゅう 川村 かわむら 新谷 しんたに
気賀 きが 町 まち 老 ろう ヶ谷 だに
葭 かや 本 ほん 西 にし [79]
69里 り
下 した 気賀 きが 9355
気賀 きが 山田 やまだ
大谷 おおや [80]
70里 り
東浜 ひがしはま 名村 なむら 東山 とうざん 768
都筑 つづき 北東 ほくとう 20丁 ちょう
三ヶ日 さんがにち [81]
71里 り
西浜 にしはま 名村 なむら 避病舎 しゃ 北 きた
西浜 にしはま 名村 なむら 避病舎 しゃ
本坂 ほんざか
72里 り
西浜 にしはま 名村 なむら 本 ほん 坂 さか 323
新旧 しんきゅう 道路 どうろ の中間 ちゅうかん
嵩山 たけやま
73里 り
豊橋 とよはし 市 し 嵩山 すせ 町 まち 字 じ 浅間 あさま 下 か 80-1[83]
長楽 ながら [84]
74里 り
三 さん 橋 きょう [85]
75里 り
諏訪 すわ [86]
76里 り
出典 しゅってん :小池 こいけ ‐本坂 ほんざか は浜松 はままつ 市役所 しやくしょ (1971 , p. 184)の「西 にし 遠 どお 地方 ちほう 一里塚 いちりづか 表 ひょう (『静岡 しずおか 県 けん 史蹟 しせき 名勝 めいしょう 天然記念物 てんねんきねんぶつ 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 』による)」、嵩山 すせ ‐御油 ごゆ は気賀 きが 関所 せきしょ (2016a) および小杉 こすぎ (1997 , p. 182)による。
構成 こうせい 路線 ろせん 名 めい [ 編集 へんしゅう ]
2003年 ねん 現在 げんざい 、姫 ひめ 街道 かいどう (旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう )は、各地 かくち で都市 とし 化 か が進 すす み、道路 どうろ 拡張 かくちょう などにより寸断 すんだん されるなどしているが、地元 じもと 住民 じゅうみん の努力 どりょく によって復元 ふくげん されている箇所 かしょ もあり、特 とく に浜松 はままつ 市 し 西北 にしきた 部 ぶ の細江 ほそえ 町 まち ・三ヶ日 さんがにち 町 まち では昔 むかし の街道 かいどう の面影 おもかげ が残 のこ っている、とされている。
本坂 ほんざか 峠 とうげ を越 こ える経路 けいろ 自体 じたい は、縄文 じょうもん 時代 じだい から存在 そんざい していた。街道 かいどう 近 ちか くの静岡 しずおか 県 けん 三ケ日 みっかび 町 まち の石灰 せっかい 採石 さいせき 場 じょう では、発見 はっけん 当初 とうしょ は新人 しんじん 段階 だんかい の化石 かせき 人骨 じんこつ (三ヶ日 さんがにち 人 じん )とされた人骨 じんこつ (後 のち に、新人 しんじん ではなくそれより新 あたら しい縄文 じょうもん 人 じん と修正 しゅうせい された)が見 み つかっており、縄文 じょうもん 遺跡 いせき や弥生 やよい 遺跡 いせき が数多 かずおお く存在 そんざい している。
欠 かけ 間 あいだ ・分岐 ぶんき 点 てん の碑 いしぶみ [ 編集 へんしゅう ]
御油 ごゆ (豊川 とよかわ 市 し 国府 こくふ )の東海道 とうかいどう と姫 ひめ 街道 かいどう の分岐 ぶんき 点 てん には、2003年 ねん 現在 げんざい 、常夜灯 じょうやとう が建 た てられているとされており、1972年 ねん 当時 とうじ 、古 ふる い石碑 せきひ が立 た てられていたとされている[95] 。
鷺 さぎ 坂 ざか 上 じょう の芭蕉 ばしょう 句碑 くひ [ 編集 へんしゅう ]
1972年 ねん 当時 とうじ 、御油 ごゆ から程近 ほどちか く、西明寺 さいみょうじ の入口 いりくち 近 ちか くの姫 ひめ 街道 かいどう の、かつて「鷺坂 さぎざか 」と呼 よ ばれた坂 さか の上 じょう [96] には芭蕉 ばしょう の句碑 くひ が立 た っていた。
かげろうの わが
肩 かた に
立 た つ
紙子 かみこ [98] かな
— 松尾 まつお 芭蕉 ばしょう 、姫 ひめ 街道 かいどう の御油 ごゆ ・鷺坂 さぎざか 上 じょう に立 た つ句碑 くひ より
月 つき ヶ谷 たに 城跡 じょうせき [ 編集 へんしゅう ]
月 つき ヶ谷 たに 城 じょう (わちがやじょう) : 西郷 さいごう 局 きょく (愛 あい )を出 だ した三河 みかわ 西郷 さいごう 氏 し が戦国 せんごく 時代 じだい にこの街道 かいどう を支配 しはい するため築城 ちくじょう 。江戸 えど 時代 じだい には既 すで に城 しろ ではない。愛知 あいち 県 けん 豊橋 とよはし 市 し 嵩山 すせ 町 まち 字 じ 山 やま 軍 ぐん 場 じょう 。[要 よう 出典 しゅってん ]
嵩山 すせ 一里塚 いちりづか は、道 みち の両側 りょうがわ に残 のこ っており、どちらも直径 ちょっけい 10m、高 たか さ2mほどでほぼ円形 えんけい をしている。2011年 ねん 当時 とうじ 、豊橋 とよはし 市 し 文化財 ぶんかざい の指定 してい を目指 めざ していたとされ、2012年 ねん に西側 にしがわ の塚 づか が豊橋 とよはし 市 し の史跡 しせき に指定 してい された[101] 。
嵩山 すせ 蛇 へび 穴 あな は、嵩山 すせ から本坂 ほんざか 峠 とうげ への登 のぼ り口 くち 近 ちか く[102] にある深 ふか さ50メートルほどの鍾乳洞 しょうにゅうどう で、縄文 じょうもん 前期 ぜんき の洞窟 どうくつ 住居 じゅうきょ 跡 あと だったとされている[103] [104] [105] 。国 くに の指定 してい 史跡 しせき となっている。
本坂 ほんざか 峠 とうげ の東側 ひがしがわ には、大 おお きな磨 みが いたような岩 いわ が垂直 すいちょく に立 た っていて、鏡岩 かがみいわ (石 いし )と呼 よ ばれており、その下 した には、椿 つばき の原生 げんせい 林 りん が続 つづ いている。
本坂 ほんざか 一里塚 いちりづか [ 編集 へんしゅう ]
現存 げんそん する貴重 きちょう な一里塚 いちりづか として、1992年 ねん (平成 へいせい 4年 ねん )に浜松 はままつ 市 し の指定 してい 文化財 ぶんかざい となった[110] 。2003年 ねん 現在 げんざい 、三ヶ日 さんがにち から本坂 ほんざか 峠 とうげ に至 いた る区間 くかん は三ヶ日 さんがにち 町内 ちょうない で最 もっと も保存 ほぞん 状態 じょうたい がよく、本坂 ほんざか 一里塚 いちりづか は当時 とうじ の様子 ようす をよく残 のこ している、とされている。
姫 ひめ 岩 いわ (2022年 ねん 8月 がつ )。木々 きぎ に覆 おお われているため、現在 げんざい は浜名湖 はまなこ の景色 けしき を見 み ることができない。
旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう の静岡 しずおか 県 けん 側 がわ から引佐 いなさ 峠 とうげ へ登 のぼ る途中 とちゅう に、「そこから見 み る浜名湖 はまなこ の景色 けしき が最 もっと も美 うつく しい」といわれている畳 たたみ 1畳 じょう ほどの平 ひら たい岩 いわ (石 いし )があり、「姫 ひめ 岩 いわ (石 いし )」と呼 よ ばれている。
江戸 えど 時代 じだい 、姫 ひめ 岩 いわ 近 ちか くには茶屋 ちゃや が作 つく られていて「平石 ひらいし 御 ご 休憩 きゅうけい 所 しょ 」と呼 よ ばれており、大名 だいみょう 行列 ぎょうれつ が通行 つうこう するときには近藤 こんどう 家 か の家臣 かしん が出向 でむ いて湯茶 ゆちゃ の接待 せったい をしたといわれている[114] 。水 みず は2キロメートル南 みなみ にあった「殿様 とのさま 井戸 いど 」から汲 く んできていたとされ、1997年 ねん 当時 とうじ は「姫 ひめ 様 さま 井戸 いど 」と呼 よ ばれていた。
1972年 ねん 当時 とうじ 、姫 ひめ 岩 いわ や竈 かまど 跡 あと は、灌木に埋 う まり、探 さが さなくては見 み つからない状態 じょうたい になっていたとされていたが、1997年 ねん 当時 とうじ には、石 いし の横 よこ に休憩 きゅうけい 所 しょ が設 もう けられており、休憩 きゅうけい 所 しょ の前後 ぜんご には石畳 いしだたみ が敷 し かれている、とされている。
ダイダラボッチの池 いけ と薬師堂 やくしどう [ 編集 へんしゅう ]
小引 しょういん 佐 さ 峠 とうげ を東 ひがし から西 にし に越 こ えたところの岩根 いわね 集落 しゅうらく にダイダラボッチ の足跡 あしあと だといわれている「ダイダラボッチの池 いけ 」と天保 てんぽう 6年 ねん (1835年 ねん )に再建 さいけん された薬師堂 やくしどう がある。薬師堂 やくしどう は小引 しょういん 佐 さ 峠 とうげ を越 こ えてきた旅人 たびびと の休憩 きゅうけい 所 しょ として使用 しよう されていた。
姫 ひめ 街道 かいどう の松 まつ 並木 なみき [ 編集 へんしゅう ]
浜松 はままつ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 葵東 あおいひがし にて。ここから西 にし 区 く 大山 おおやま 町 まち まで松 まつ 並木 なみき が見 み られる。
1959年 ねん に、浜松 はままつ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 葵東 あおいひがし の三方原 みかたはら 追分 おいわけ (元 もと 追分 おいわけ )交差点 こうさてん から西 にし 区 く 大山 おおやま 町 まち までの約 やく 4キロにわたる松並 まつなみ 木 き は同市 どうし の指定 してい 史跡 しせき となった[117] 。
1950年代 ねんだい -1960年代 ねんだい には300本 ほん 以上 いじょう の松 まつ が残 のこ っていたが、松 まつ くい虫 むし の被害 ひがい などで年々 ねんねん 4,5本 ほん ずつ減少 げんしょう したとされ、2014年 ねん には240本 ほん 余 あま り[119] 、2015年 ねん には206本 ほん が残 のこ っている。
2008年 ねん に浜松 はままつ 市 し は保存 ほぞん 管理 かんり 計画 けいかく を策定 さくてい し、将来 しょうらい 的 てき な補 ほ 植 うえ や代替 だいたい のためにはままつフラワーパーク で苗木 なえぎ を育成 いくせい 、2015年 ねん に市立 しりつ 葵西 あおいにし 小 しょう で配布 はいふ するなどしている。
^ 1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )には旧 きゅう 姫 ひめ 街道 かいどう は関係 かんけい 町村 ちょうそん の申請 しんせい により県費 けんぴ の補助 ほじょ 道路 どうろ となっている(浜松 はままつ 市役所 しやくしょ 1980 , p. 268)
^ 明和 めいわ 元年 がんねん (1764年 ねん )以前 いぜん に描 えが かれた「青山 あおやま 御 ご 領分 りょうぶん 絵図 えず 」には、市野 いちの を通 とお るルートに一里塚 いちりづか と「本 ほん 坂道 さかみち 」の記入 きにゅう があり、浜松 はままつ からのルートにはない(小杉 こすぎ 1997 , p. 180)。
^ 若 わか い男女 だんじょ が親 おや にかくれ、奉公人 ほうこうにん が主人 しゅじん に無断 むだん で群集 ぐんしゅう にまじって参宮 さんぐう をすること(浜松 はままつ 市役所 しやくしょ 1971 , p. 480)。
^ 宇志 うし 、駒場 こまば 、大谷 おおや を経 へ て引佐 いなさ 峠 とうげ を越 こ え、山田 やまだ 、小森 こもり ・葭 かや 本 ほん (合併 がっぺい して跡 あと 川 がわ )、呉 ご 石 いし を経 へ て新道 しんどう と合流 ごうりゅう する経路 けいろ だった(内藤 ないとう 1972 , pp. 152–156)。
^ 北緯 ほくい 34度 ど 43分 ふん 11秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 43分 ふん 06秒 びょう / 北緯 ほくい 34.7196858度 ど 東経 とうけい 137.7183766度 ど / 34.7196858; 137.7183766 (犀 さい ケ崖 がけ )
^ 愛知大学 あいちだいがく 綜合 そうごう 郷土 きょうど 研究所 けんきゅうじょ 「研究所 けんきゅうじょ 彙報 いほう XVIII‐1971.12~1972.11‐ 」『愛知大学 あいちだいがく 綜合 そうごう 郷土 きょうど 研究所 けんきゅうじょ 紀要 きよう 』第 だい 18号 ごう 、愛知 あいち 大学 だいがく 綜合 そうごう 郷土 きょうど 研究所 けんきゅうじょ 、1973年 ねん 3月 がつ 15日 にち 、113-114頁 ぺーじ 、ISSN 04008359 、2016年 ねん 12月4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 熊井 くまい , 保 ほ 「資料 しりょう 「歴史 れきし の道 みち 」の調査 ちょうさ について」『交通 こうつう 史 し 研究 けんきゅう 』第 だい 19号 ごう 、交通 こうつう 史 し 学会 がっかい 、1988年 ねん 3月 がつ 、46-58頁 ぺーじ 、NAID 110009985630 。
^ 児玉 こだま , 幸 こう 多 た 「「歴史 れきし の道 みち 」の調査 ちょうさ 」『交通 こうつう 史 し 研究 けんきゅう 』第 だい 12号 ごう 、交通 こうつう 史 し 学会 がっかい 、1984年 ねん 12月、63-69頁 ぺーじ 、NAID 110009985942 。
^ みわ 2003 , p. 180。「(…)威風 いふう 堂々 どうどう の行列 ぎょうれつ は、時代 じだい 絵巻 えまき さながらの豪華 ごうか 絢爛 けんらん さである。」(同 どう )。
^ 北緯 ほくい 34度 ど 48分 ふん 20秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 39分 ふん 15秒 びょう / 北緯 ほくい 34.8055874度 ど 東経 とうけい 137.6542396度 ど / 34.8055874; 137.6542396 (都田川 みやこだがわ 桜 さくら 堤 つつみ )
^ 岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1993年 ねん 、全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :94025427
^ 小杉 こすぎ 1997 , pp. 169–170、「秋葉山 あきはさん 参詣 さんけい 道程 どうてい 図 ず 」は「歴史 れきし の道 みち 『秋葉 あきば 街道 かいどう 』所載 しょさい 」とされている。
^ 内藤 ないとう 1972 , pp. 141–142。静岡 しずおか 側 がわ の峠 とうげ 道 どう は勾配 こうばい が緩 ゆる く長 なが く続 つづ くため、富永 とみなが の記事 きじ は、愛知 あいち 県 けん 側 がわ からの峠 とうげ 道 どう の感想 かんそう だとみられている(同 どう )。
^ 美術 びじゅつ 人名 じんめい 辞典 じてん 『菅沼 すがぬま 斐雄 』 - コトバンク 2016年 ねん 12月5日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 蘆 あし 橘 たちばな 堂 どう 適 てき 志 こころざし 編 へん 『東海道 とうかいどう 巡覧 じゅんらん 記 き 』野田 のだ 弥兵衛 やへえ ・野田 のだ 太 ふとし 兵衛 ひょうえ 、1751年 ねん 。 (浅井 あさい 1948 , pp. 99–100)
^ 安間 あんま 新田 にった が正 ただ しい(小杉 こすぎ , p. 176)
^ 54キロメートル(小杉 こすぎ , p. 176)
^ 標高 ひょうこう は、内藤 ないとう (1972 , p. 141)では400メートルほど、橘 たちばな (2012 , p. 85)では380メートル、みわ (2003 , p. 182)では330メートル、小杉 こすぎ (1997 , p. 195)では326メートルとされている。
^ 標高 ひょうこう は、179メートル(橘 たちばな 2012 , p. 85)ないし180メートル程 ほど (浅井 あさい 1948 , p. 101)
^ 気賀 きが 関所 せきしょ 2016a では、約 やく 60キロメートル、としている。
^ みわ 2003 , p. 178では、約 やく 58キロメートル、としている。
^ 井上 いのうえ (2010 , p. 106)では「本 ほん 坂道 さかみち 分 ぶん 間 あいだ 延 のべ 絵図 えず 控 ひかえ 」、小杉 こすぎ (1997 , pp. 176–177)では「本坂 ほんざか 通分 つうぶん 間 あいだ 延 のべ 絵図 えず 」としている。
^ 井上 いのうえ 2010 , p. 106。もともと3部 ぶ 作成 さくせい され、1部 ぶ が江戸城 えどじょう 内 ない 、2部 ぶ が道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう 所 しょ に置 お かれていた(本多 ほんだ 2014 , p. 135および井上 いのうえ 2010 , p. 106)。郵政 ゆうせい 資料 しりょう 館 かん は道中 どうちゅう 奉行 ぶぎょう 所 しょ の資料 しりょう のうち1部 ぶ を、東京 とうきょう 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん が江戸城 えどじょう 内 ない にあった資料 しりょう を引 ひ き継 つ ぎ、『延 のべ 絵図 えず 』は東京 とうきょう 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう の原本 げんぽん をもとに東京 とうきょう 美術 びじゅつ から刊行 かんこう されているが(同 どう )、「五街道其外分間見取延絵図」のうち本 ほん 図 ず ほか4点 てん は郵政 ゆうせい 資料 しりょう 館 かん にしか現存 げんそん していない(井上 いのうえ 2010 , p. 106)。
^ 豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん (2014年 ねん 3月 がつ 5日 にち ). “豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん > 豊橋 とよはし の美術 びじゅつ ・歴史 れきし ・文化財 ぶんかざい ・戦争 せんそう 遺跡 いせき を知 し る > 郷土 きょうど の歴史 れきし 資料 しりょう > 近世 きんせい > 東海道 とうかいどう と吉田 よしだ 宿 やど について > 本 ほん 坂道 さかみち 三方原 みかたはら 回路 かいろ 図 ず ”. 豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん . 2016年 ねん 12月6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 小杉 こすぎ (1997 , pp. 176–177)は「本 ほん 坂道 さかみち 三 さん 方 ぽう 原之 はらの 図 ず 」としている。
^ 人口 じんこう 、戸数 こすう 、本陣 ほんじん 、旅籠 はたご の数 かず 、高札 こうさつ の内容 ないよう 、道路 どうろ の広 ひろ さ、橋 はし 、寺社 じしゃ 、地域 ちいき の産業 さんぎょう 、特産 とくさん 品 ひん など(井上 いのうえ 2010 , pp. 105–106)。
^ 井上 いのうえ 2010 , pp. 105–106。編 へん 注 ちゅう )「本坂 ほんざか 通 どおり 宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう 」は児玉 こだま , 幸 こう 多 た (校訂 こうてい )『近世 きんせい 交通 こうつう 史料 しりょう 集 しゅう 5 (中山道 なかせんどう 宿 やど 村 むら 大概 たいがい 帳 ちょう )』(オンデマンド版 ばん )吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、2013年 ねん 。ISBN 978-4-642-04304-5 。 に収録 しゅうろく 。
^ 小杉 こすぎ (1997 , p. 182)では「山田 やまだ 」
^ 引佐 いなさ 峠 とうげ のふもとにあったが、1972年 ねん 当時 とうじ 、鋤 す き返 かえ されて跡形 あとかた もなくなっていた(内藤 ないとう 1972 , p. 152)
^ 1972年 ねん 当時 とうじ 、跡 あと かたもなくなっていた(内藤 ないとう 1972 , p. 154)
^ 文化庁 ぶんかちょう (2016a). “文化 ぶんか 遺産 いさん オンライン > 嵩山 すせ 一里塚 いちりづか (西塚 にしづか ) ”. 文化庁 ぶんかちょう . 2016年 ねん 12月13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 小杉 こすぎ (1997 , p. 182)では「長楽寺 ちょうらくじ 」
^ 小杉 こすぎ (1997 , p. 182)では「市田 いちだ 」
^ 小杉 こすぎ (1997 , p. 182)では「御油 ごゆ 」
^ 北緯 ほくい 34度 ど 45分 ふん 48秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 43分 ふん 13秒 びょう / 北緯 ほくい 34.763278度 ど 東経 とうけい 137.720352度 ど / 34.763278; 137.720352 (三方原 みかたはら 追分 おいわけ (元 もと 追分 おいわけ 交差点 こうさてん ) )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 43分 ふん 39秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 47分 ふん 21秒 びょう / 北緯 ほくい 34.7274751度 ど 東経 とうけい 137.7891307度 ど / 34.7274751; 137.7891307 (安間 あんま 一里塚 いちりづか )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 42分 ふん 29秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 43分 ふん 39秒 びょう / 北緯 ほくい 34.708045度 ど 東経 とうけい 137.727612度 ど / 34.708045; 137.727612 (連尺 れんじゃく 交差点 こうさてん )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 48分 ふん 19秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 26分 ふん 51秒 びょう / 北緯 ほくい 34.8053769度 ど 東経 とうけい 137.4475565度 ど / 34.8053769; 137.4475565 ((長楽 ながら 一里塚 いちりづか 東側 ひがしがわ 合流 ごうりゅう 点 てん ) )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 50分 ふん 26秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 19分 ふん 17秒 びょう / 北緯 ほくい 34.840607度 ど 東経 とうけい 137.321486度 ど / 34.840607; 137.321486 (欠 かけ 間 あいだ ・分岐 ぶんき 点 てん の碑 いしぶみ )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 50分 ふん 22秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 19分 ふん 44秒 びょう / 北緯 ほくい 34.8394699度 ど 東経 とうけい 137.3288545度 ど / 34.8394699; 137.3288545 (西明寺 さいみょうじ 入口 いりくち 近 ちか くの芭蕉 ばしょう 句碑 くひ )
^ デジタル大辞泉 だいじせん 『紙子 かみこ 』 - コトバンク 2016年 ねん 11月30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん (2014年 ねん 2月 がつ 14日 にち ). “豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん > 豊橋 とよはし の美術 びじゅつ ・歴史 れきし ・文化財 ぶんかざい ・戦争 せんそう 遺跡 いせき を知 し る > 郷土 きょうど の文化財 ぶんかざい 資料 しりょう > 史跡 しせき ”. 豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん . 2016年 ねん 12月12日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 豊橋 とよはし 市 し 嵩山 すせ 町 まち 字 じ 浅間 あさま 下 か 92(豊橋 とよはし 市 し 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん 2014a )
^ 北緯 ほくい 34度 ど 47分 ふん 50秒 びょう 東経 とうけい 137度 ど 28分 ふん 36秒 びょう / 北緯 ほくい 34.7972152度 ど 東経 とうけい 137.4765855度 ど / 34.7972152; 137.4765855 (嵩山 すせ 蛇穴 さらぎ )
^ 内藤 ないとう 1972 , pp. 140–141。同書 どうしょ では、深 ふか さ80メートルほど、としている。
^ 文化庁 ぶんかちょう (2016b). “文化 ぶんか 遺産 いさん オンライン > 嵩山 すせ 蛇穴 さらぎ ”. 文化庁 ぶんかちょう . 2016年 ねん 12月13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 浜松 はままつ 市 し (2023-11-15 2014b). “ホーム > 教育 きょういく ・文化 ぶんか ・スポーツ > はままつの文化財 ぶんかざい > 浜松 はままつ 市内 しない の指定 してい 文化財 ぶんかざい > 史跡 しせき > 本坂 ほんざか 一里塚 いちりづか ”. 浜松 はままつ 市役所 しやくしょ . 2024年 ねん 1月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 内藤 ないとう (1972 , p. 153)は、或 ある る大名 だいみょう の娘 むすめ が通 とお りがかりに輿 こし から下 お りて景色 けしき を眺 なが め、野点 のだて を催 もよお したとの逸話 いつわ があり、以後 いご それに倣 なら って野点 のだて をする人 ひと が現 あらわ れ、石 いし を組 く んで湯 ゆ を沸 わ かした臨時 りんじ の竈 かまど (くど)跡 あと もあった、としている。
^ 静岡 しずおか 新聞 しんぶん (2015年 ねん 2月 がつ 17日 にち ). “アットエスTOP > ニュース > 地域 ちいき > 西部 せいぶ トピックス > 姫 ひめ 街道 かいどう の松 まつ 並木 なみき 苗木 なえぎ に未来 みらい 託 たく す 浜松 はままつ 市 し が育成 いくせい 作戦 さくせん ”. 静岡新聞社 しずおかしんぶんしゃ ・静岡放送 しずおかほうそう . 2016年 ねん 6月 がつ 13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 浜松 はままつ 市 し (2014年 ねん 8月 がつ 6日 にち ). “ホーム > 教育 きょういく ・文化 ぶんか ・スポーツ > はままつの文化財 ぶんかざい > 浜松 はままつ 市内 しない の指定 してい 文化財 ぶんかざい > 中 ちゅう 区 く の文化財 ぶんかざい > 姫 ひめ 街道 かいどう の松 まつ 並木 なみき ”. 浜松 はままつ 市役所 しやくしょ . 2016年 ねん 6月 がつ 13日 にち 閲覧 えつらん 。