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宿やど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

宿やど(かしゅく)とは、おも江戸えど時代じだい街道かいどうわき往還おうかんにおいて駅逓えきてい事務じむ取扱とりあつかため設定せっていされた宿場しゅくば宿駅しゅくえき)において、人家じんかすくなくひとうましにくい宿駅しゅくえき隣接りんせつするむらくわ人馬じんばようおこなわせたもの。このおもとなる宿駅しゅくえきたいして隣接りんせつするむら宿やどう。

宿やど成立せいりつ過程かてい

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東海道とうかいどうは、1601ねん慶長けいちょう6ねん)にさだめられ宿場しゅくばには駅伝えきでんのための人馬じんばすうは36にん36負担ふたんするようさだめられた。その1633ねん寛永かんえい10ねんつぎ飛脚びきゃく御用ごよう1635ねん寛永かんえい12ねん参勤交代さんきんこうたいはじまりとうにより交通こうつうりょうえ、従来じゅうらい負担ふたんでは街道かいどう運営うんえい支障ししょうをきたすこととなり、1640ねん寛永かんえい17ねん駅伝えきでんのための人馬じんばすうは100にん100疋にげられるにいたった。しかし、ちいさな宿場しゅくばではえきれず、幕府ばくふ宿場しゅくばたいべいかね配布はいふによる支援しえんおこなっていたが、それでは常態じょうたいとしての宿場しゅくば運営うんえい改善かいぜんつながらないことから、宿やどけることにより宿場しゅくば機能きのう強化きょうかはかった。東海道とうかいどうにおける100にん100疋と同様どうよう街道かいどう宿場しゅくばたいしても駅伝えきでんのための人馬じんば負担ふたんされている。中山道なかせんどうは50にん50疋、日光にっこう奥州おうしゅう甲州こうしゅう木曽きそ岩槻いわつき例幣れいへい使水戸みと佐倉さくら壬生みぶ諸道しょどうは25にん25疋の負担ふたんさだめられた(宿場しゅくば状況じょうきょうにより負担ふたんおおきい宿場しゅくばもある)[1]

宿やど負担ふたん特典とくてん

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宿やど負担ふたん特典とくてん原則げんそく宿場しゅくばおなじである。街道かいどう交通こうつう円滑えんかつならしむる行為こうい負担ふたんとしてされ、代表だいひょうてき負担ふたん駅伝えきでんのための人馬じんば負担ふたんである。特典とくてんとして、旅籠はたご経営けいえい地子じし現在げんざい不動産ふどうさんぜい)の免除めんじょ荷駄にだちん徴収ちょうしゅうがあるが、いずれも幕府ばくふ代官だいかんとう認可にんか必要ひつようとされる[1]

宿やどれい

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街道かいどうめい 宿場しゅくばまち 現住所げんじゅうしょ 宿やど 備考びこう
東海道とうかいどう 二川ふたかわ宿やど 愛知あいちけん豊橋とよはし 大岩おおいわ わせさき 豊橋とよはし二川ふたがわ宿本しゅくほんじん資料しりょうかん
日光にっこう街道かいどう しば宿やど 群馬ぐんまけん伊勢崎いせざき柴町しばまち なか堀口ほりぐち わせさき 伊勢崎いせざき市役所しやくしょ
中山道なかせんどう 鴻巣こうのす宿やど 埼玉さいたまけん鴻巣こうのす 上谷新田うわやしんでん わせさき 鴻巣こうのす市役所しやくしょ
中山道なかせんどう 塩名田しおなだ宿やど 長野ながのけん佐久さく塩名田しおなだ 御馬寄みまよせ(みまよせ) わせさき 浅科あさしなむら役場やくば 
中山道なかせんどう 下諏訪しもすわ宿やど 長野ながのけん諏訪すわぐん下諏訪しもすわまち 友之とものまち わせさき 下諏訪しもすわまち役場やくば 
中山道なかせんどう 守山もりやま宿やど 滋賀しがけん守山もりやま 吉身よしみ今宿いまじゅく わせさき 守山もりやま市役所しやくしょ守山もりやま歴史れきし文化ぶんかまちづくりかん 
美濃みの おこり宿やど 愛知あいちけん一宮いちのみや 富田とみた東五城ひがしいつしろ西五城にしいつしろ わせさき 一宮いちのみや尾西びさい歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 近世きんせい日本にっぽん交通こうつう 伝馬てんま制度せいど参勤交代さんきんこうたい』(田村たむら栄太郎えいたろうちょ 清和せいわ書店しょてん昭和しょうわ10ねん)25ぺーじ-32ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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