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弁才天べんざいてん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
弁財天べざいてんから転送てんそう
弁才天べんざいてん立像りつぞう(8ひじぞう
京都きょうと木津川きづがわ浄瑠璃寺じょうるりでら伝来でんらい鎌倉かまくら時代ときよ 吉祥天きちじょうてんぞう厨子ずし

弁才天べんざいてん(べんざいてん、ともえ: Sarasvatī[1][2]ともえ: Sarassatī[2])は、仏教ぶっきょう守護神しゅごじんであるてんひとつ。ヒンドゥーきょう女神めがみであるサラスヴァティーが、仏教ぶっきょうまれたである。神仏しんぶつ習合しゅうごうによって神道しんとうにもまれ、様々さまざま日本にっぽんてき変容へんようげた。

概要がいよう

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弁才天べんざいてん坐像ざぞう妙音みょうおんてん
岩手いわてけん盛岡もりおか松園まつぞのてら

日本にっぽん弁才天べんざいてんは、吉祥天きちじょうてんその様々さまざまかみいちめん吸収きゅうしゅうし、インド中国ちゅうごくつたえられるそれらとは微妙びみょうことなる特質とくしつをもち、本地垂迹ほんじすいじゃくでは日本にっぽん神話しんわ登場とうじょうする宗像むなかたさん女神めがみいちはしらであるきねしまひめいのち(いちきしまひめ)と同一どういつされることがおおい。「七福神しちふくじん」の一員いちいんとして宝船たからぶねり、縁起物えんぎものにもなっている。ふるくから弁才天べんざいてんまつっていたしゃでは明治めいじ初頭しょとう神仏しんぶつ分離ぶんり以降いこうは、宗像むなかたさん女神めがみまたはきねしまひめいのちまつっているところがおおい。ひめ弁才天べんざいてんとしてまつられるれいもあるがすくない。

金光かねみつあきらさいかちおうけい』における弁才天べんざいてんは、金光かねみつあきらけいひといたり、他者たしゃからもの智慧ちえ長寿ちょうじゅとみあたえるとされる[1]弁天べんてん(べんてん)または弁天べんてんさんともわれ、弁才天べんざいてん弁財天べざいてん)を本尊ほんぞんとする堂宇どううは、弁天べんてんどう弁天べんてんしゃなどとしょうされることがおおい。

表記ひょうき

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「サラスヴァティー」のかんやくは「弁才天べんざいてん」あるいは「辯才天べんざいてん」であるが、日本にっぽんでは財宝ざいほうしんとしての側面そくめん信仰しんこうあつまり、「弁財天べざいてん」や「辨財天べざいてん」と表記ひょうきする場合ばあいおお[1]

ぞうよう

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サラスヴァティー

原語げんごの「サラスヴァティー」は、インドでもっとふる聖典せいてんリグ・ヴェーダ』にあらわれるせいなるかわとその化身けしんである。みず女神めがみであるが、次第しだい芸術げいじゅつ学問がくもんなどのつかさど女神めがみ做されるようになった。ヒンドゥーきょう創造そうぞうかみブラフマーつまである(元々もともとヴィシュヌつまであったというせつもある)。

他方たほう弁才天べんざいてんは、音楽おんがくしん福徳ふくとくしん学芸がくげいしん性格せいかくくわえ、戦勝せんしょうしん性格せいかくつものがあり、ぞうようは、2ひじぞうと8ひじぞうの2つに大別たいべつされる。

2ひじぞう琵琶びわかかえ、バチをってそうする音楽おんがくしんかたちをとっている。密教みっきょうもちいるりょうさかい曼荼羅まんだらのうちの胎蔵曼荼羅まんだらちゅうにその姿すがたえ、『だい日経にっけい』では、妙音みょうおんてん美音びおんてんばれる。もとのサラスヴァティーによりちか姿すがたである。ただし、胎蔵曼荼羅まんだらちゅうえる2ひじぞうは、後世こうせい日本にっぽんひろ信仰しんこうされた天女てんにょかたちではなく、菩薩ぼさつかたちぞうである。

8ひじぞうは、5世紀せいき中国ちゅうごくえびすじゅうろくこく時代じだいちゅうインドからしん疆へおもむいたくもりが、仏教ぶっきょう経典きょうてんスヴァルナ・プラバーサ・スートラをかんやくした『金光かねみつあきらさいかちおうけい』「だい弁才天べんざいてんおんなひん(ほん)」の所説しょせつによるものである。8ほんには、ゆみかたなほこ(ほこ)、おのちょうきね鉄輪てつりん羂索(けんさく・なわ)をつとかれるが、そのすべてが武器ぶきるいするものである。どう経典きょうてんでは弁才べんさい知恵ちえかみとしての性格せいかくおおかれているが、そのぞうよう鎮護ちんご国家こっかせんしんとしての姿すがた強調きょうちょうされている。

日本にっぽんにおける信仰しんこうみやつこぞう

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ヒンズひんずきょうにおけるサラスヴァティーはかわ名前なまえであったものが女神めがみとなったもので、ほん数珠じゅずなわ、ヴィーナ(琵琶びわ)、水瓶みずがめなどをち、叡智えいち学問がくもん音楽おんがくかみとされるが、かんやく経典きょうてん金光かねみつあきらさいかちおうていまきだいななだい弁才天べんざいてんおんなひんだいじゅう」では、弁才天べんざいてんは「金光かねみつあきらさいかちおうけい」の護法ごほうしんとして登場とうじょうし、眷属けんぞく従者じゅうしゃ)をひきいててん伎楽ぎがくおこなって金光かねみつあきらさいかちおうけい擁護ようごし、しょ病苦びょうくとうのぞ役割やくわりたすとある[3]弁才天べんざいてん陀羅尼だらにしょうせば所願しょがん成就じょうじゅし、ざいもとめればおおくのざいられるともあり、これがのちに弁才天べんざいてん福徳ふくとくふつとみなされる根拠こんきょとなり、川辺かわべ居住きょじゅうするとあったことから、かわみずうみいけなどにまつられるようになった[3]。また、8ほんゆみかたな・矟(さく)・おのちょうきね鉄輪てつりんさくといった武器ぶきつとあることから戦闘せんとうしんとしての機能きのうもあり、これは日本にっぽんの『べつみこと雑記ざっき』(12世紀せいきこころさとしによる図像ずぞうしゅう)や『しろたからしょう』(鎌倉かまくら時代ときよ天台てんだいけい図像ずぞうしゅう)にもえがかれ、これが宇賀神うがじん習合しゅうごうした竹生島ちくぶしまはちひじ(8ほんうで)の弁才天べんざいてん坐像ざぞう江島えじま神社じんじゃはちひじ木造もくぞう弁才天べんざいてん坐像ざぞうなどにつながる[3]

8世紀せいきそういちぎょうによる『大日だいにちけい疏』(だい日経にっけい解説かいせつしょ)では、サラスヴァティーのことを妙音みょうおん楽天らくてんとも弁才天べんざいてんともう、とあり、これをうけて、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき曼荼羅まんだら転写てんしゃほん『胎蔵きゅう図様ずよう』(胎蔵曼荼羅まんだら)や『げん曼荼羅まんだら』(りょうさかい曼荼羅まんだら)では2ほん琵琶びわじんぞうとしてえがかれている[3]

日本にっぽんではこれらの経典きょうてんもとづいて、8ほんうで戦闘せんとうしんてき弁才天べんざいてんと、2ほんうで琵琶びわ弁才天べんざいてんとが形作かたちづくられ、たがいに影響えいきょう関係かんけいちながら変容へんようし、鎌倉かまくら時代じだい宇賀神うがじんとの習合しゅうごうによっておおきな変化へんかげていった[3]

みやつこぞう

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木造もくぞう弁才天べんざいてん坐像ざぞう(1266ねんぶんなが3ねんさく重要じゅうよう文化財ぶんかざい鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう所蔵しょぞう)。ぞう本体ほんたいはだか腰布こしぬの1まいをまとった姿すがたりだしたもので、そのうえ衣服いふくせる様式ようしきである[4]

日本にっぽんでの弁才天べんざいてん信仰しんこうすで奈良なら時代じだいはじまっており、東大寺とうだいじ法華ほっけどうさんがつどう安置あんちの8ひじ立像りつぞう塑像そぞう)は、破損はそん甚大じんだいながら、日本にっぽん最古さいこ尊像そんぞうとして貴重きちょうである。その平安へいあん時代じだいには弁才天べんざいてん作例さくれいはほとんどられず、鎌倉かまくら時代ときよ作例さくれいもごく少数しょうすうである。

京都きょうと白雲しらくも神社じんじゃ弁才天べんざいてんぞう(2ひじ坐像ざぞう)は、胎蔵曼荼羅まんだらえるのとおなじく菩薩ぼさつがたで、琵琶びわ演奏えんそうするかたちめずらしいぞうである。このぞう琵琶びわ名手めいしゅとしてられた太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら師長もろなが信仰しんこうしていたぞうわれ、様式ようしきてきにも鎌倉かまくら時代じだい初期しょきのもので、日本にっぽんにおける2ひじ弁才天べんざいてん最古さいこれいなされている。どう時代じだい作例さくれいとしては大阪おおさか高貴こうきてらぞう(2ひじ坐像ざぞう)や、ぶんひさし3ねん1266ねん)のめいがある鎌倉かまくら鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうぞう(2ひじ坐像ざぞう)がられる。近世きんせい以降いこう作例さくれいは、8ひじ坐像ざぞう、2ひじ琵琶びわ弾奏だんそうぞうともおおられる。

宇賀うが弁才天べんざいてん

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弁才天べんざいてん坐像ざぞう宇賀うが弁才天べんざいてん
滋賀しがけん 竹生たこうとう宝厳寺たからがんじ(1565ねん 浅井あさいひさせい奉納ほうのう
弁才天べんざいてん坐像ざぞう個人こじんぞう鎌倉かまくら時代じだい)。とぐろをいたへび老人ろうじんあたま宇賀神うがじん頭上ずじょういただく。弁財べんざいけいにこうした姿すがたかれる

中世ちゅうせい以降いこう弁才天べんざいてん宇賀神うがじん出自しゅつじ不明ふめいへびしん)と習合しゅうごうして、頭上ずじょうおきなめん蛇体じゃたい宇賀神うがじんをいただく姿すがたの、宇賀うが弁才天べんざいてん宇賀神うがじんすすむ宇賀神うがじんおうともわれる)がひろ信仰しんこうされるようになる。弁才天べんざいてん化身けしんへびりゅうとされるが、その所説しょせつはインド・中国ちゅうごく経典きょうてんにはられず[ちゅう 1]、それがかれているのは、日本にっぽん撰述せんじゅつされた宇賀うが弁才天べんざいてんにせけいにおいてである。

宇賀うが弁才天べんざいてんは8ひじぞう作例さくれいおおく、その持物もちものは『金光かねみつあきらけい』の8ひじ弁才天べんざいてんすべ武器ぶきであるのにたいし、あらたに「宝珠ほうしゅ」と「かぎ」(宝蔵ほうぞうかぎとされる)がくわえられ、福徳ふくとくしん財宝ざいほうしんとしての性格せいかくがよりつよくなっている[ちゅう 2]

弁才天べんざいてんには「じゅう童子どうじ」が眷属けんぞくとしてしたがうが、これも宇賀うが弁才天べんざいてんにせけいるもので、「いちにちよりじゅうにちいたり、日々ひび宇賀神うがじんきゅう使して衆生しゅじょうぶくさとしあたえる」とかれ、平安へいあんふう童子どうじ角髪みずら(みずら)にった姿すがたをとる。じゅうろく童子どうじとされる場合ばあいもある。[5]

名称めいしょう 別称べっしょう 本地ほんじ 功徳くどく
1 しるし鑰童 麝香じゃこう童子どうじ 釈迦如来しゃかにょらい さとりと解脱げだつみちびかみ
2 かんたい童子どうじ あかおと童子どうじ 普賢菩薩ふげんぼさつ ほうまもかみ
3 筆硯ひっけん童子どうじ こうせい童子どうじ 金剛こんごうしゅ菩薩ぼさつ 学問がくもん成就じょうじゅかみ
4 きむたから童子どうじ 召請童子どうじ 薬師やくし如来にょらい 金銀きんぎん財宝ざいほう商売しょうばい繁盛はんじょうかみ
5 いねもみ童子どうじ 大神おおがみ童子どうじ 文殊もんじゅ菩薩ぼさつ 五穀豊穣ごこくほうじょうかみ
6 けいます童子どうじ 悪女あくじょ童子どうじ 地蔵じぞう菩薩ぼさつ 経理けいり経営けいえいかみ
7 飯櫃めしびつ童子どうじ しつがつ童子どうじ 栴檀せんだんほとけ 食物しょくもつ授与じゅよかみ
8 衣裳いしょう童子どうじ じょ哂童 摩利まりささえてん 着衣ちゃくい不自由ふじゆうしないかみ
9 蠶養こがい童子どうじ 悲満童子どうじ 勢至菩薩せいしぼさつ かいこまゆかみ衣服いふくかみ
10 さけいずみ童子どうじ みつあと童子どうじ 無量むりょう寿ことぶきふつ さけかみ
11 あいけい童子どうじ ほどこせねがい童子どうじ 観世音菩薩かんぜおんぼさつ 愛情あいじょう恋愛れんあい成就じょうじゅかみ
12 生命せいめい童子どうじ ほぞ虚空こくう童子どうじ 弥勒菩薩みろくぼさつ 長寿ちょうじゅかみ
13 従者じゅうしゃ童子どうじ ほどこせかしこ童子どうじ りゅういつき菩薩ぼさつ 経営けいえいかみ
14 牛馬ぎゅうば童子どうじ 膸令童子どうじ くすりおう菩薩ぼさつ 動物どうぶつ愛護あいごかみ
15 ふねしゃ童子どうじ 光明こうみょう童子どうじ くすりじょう菩薩ぼさつ 交通こうつう安全あんぜんかみ
16 ぜんざい童子どうじ おつまもる童子どうじ 大黒天だいこくてん じゅう童子どうじつかさどかみ

信仰しんこう

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近世きんせいになると「七福神しちふくじん」の一員いちいんとしても信仰しんこうされるようになる。室町むろまち時代じだい文献ぶんけんに、大黒天だいこくてん毘沙門天びしゃもんてん弁才天べんざいてんさんみこと合一ごういつした三面さんめん大黒天だいこくてんぞうを、天台宗てんだいしゅう開祖かいそ最澄さいちょうまつったという伝承でんしょうがあり、大黒だいこく恵比寿えびすなみまつともに、七福神しちふくじんもとになったとられている。

また、元来がんらいインドのかわしんであることから、平安へいあん初期しょきから末期まっきにかけてふつそう日本にっぽん各地かくち活躍かつやくしたみずかんする事蹟じせき井戸いど溜池ためいけ河川かせん治水ちすいなど)に、また日本にっぽん各地かくち水神すいじんや、記紀きき神話しんわ代表だいひょうてき海上かいじょうしんきねしまひめいのち宗像むなかたさん女神めがみ)と神仏しんぶつ習合しゅうごうして、いずみしま港湾こうわんくちなどに、弁天べんてんしゃ弁天べんてんどう[ちゅう 3]として数多かずおおまつられた。弁天島べんてんしま弁天べんてんなど地名ちめいとしてのこっていることもある。いずれもうみみずうみかわなどのみず関係かんけいしている。

弁才天べんざいてん財宝ざいほうしんとしての性格せいかく強調きょうちょうされるようになると、「ざい」のおとが「ざい」につうじることから「弁財天べざいてん」とかれることもおおくなった。鎌倉かまくらぜにあらい弁財天べざいてん宇賀うが福神ふくじんしゃはその典型てんけいてきれいで、どう神社じんじゃさかい内奥ないおう洞窟どうくつないみず持参じさんしたぜにあらうと、すうばいになってかえってくるという信仰しんこうがある。

日本にっぽん各地かくち代表だいひょうてき弁天べんてん標榜ひょうぼうするものはおおい。

武蔵野むさしのさんだい湧水わきみずばれる石神井川しゃくじいがわ水源すいげん三宝さんぽう寺池てらいけ善福寺ぜんぷくじがわ水源すいげん善福寺ぜんぷくじ神田かんだがわ水源すいげんかしらには、いずれも弁天べんてんしゃ厳島いつくしま神社じんじゃ)、善福寺ぜんぷくじ弁財天べざいてんかしら弁財天べざいてんかれている。

兵庫ひょうごけん六甲山ろっこうざん山頂さんちょうにあるおおきないわをご神体しんたいとする六甲ろっこういのち神社じんじゃ弁財天べざいてんまつる、とされる。六甲ろっこう山麓さんろく周辺しゅうへんには弁財天べざいてん鎮守ちんじゅしんとする寺院じいんおおいが、神呪かんのうてらみなみ神山かみやまの、役行者えんのぎょうじゃ弁財天べざいてん邂逅かいこうしたという伝承でんしょうのある場所ばしょいわには役行者えんのぎょうじゃぞう鎮座ちんざする。役行者えんのぎょうじゃはその天武天皇てんむてんのうともに、てんかわ伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくうあらまつりみや祭神さいじん弁財天べざいてんとしてまつてんかわだい弁財天べざいてんしゃ創建そうけんした。

また、弁才天べんざいてん縁日えんにち干支えとで「」のとされており、60にちいちめぐってくるおのれ」のとく縁起えんぎとされている。

神仏しんぶつ分離ぶんり

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弁天べんてん信仰しんこうひろがりととも各地かくち弁才天べんざいてんまつしゃてられたが、神道しんとうしょくつよかった弁天べんてんしゃは、明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんりさいおおくは神社じんじゃとなった。元々もともと弁才天べんざいてん祭神さいじんとしていたが現在げんざいきねしまひめいのちとしてまつ神社じんじゃとしては、奈良ならけんてんかわだい弁財天べざいてんしゃなどがある。神奈川かながわけん江島えじま神社じんじゃ主祭しゅさいしん宗像むなかたさん女神めがみあらため、弁才天べんざいてん摂社せっしゃまつられる。また、竹生たこうとう宝厳寺たからがんじでは、弁才天べんざいてんまつっていた本殿ほんでんきねしまひめいのちまつ神社じんじゃとして分離ぶんりされ、宮島みやじま厳島いつくしま神社じんじゃでは、弁才天べんざいてんぞう大願寺だいがんじへとうつされた。

以上いじょうのように、近世きんせい以降いこう弁才天べんざいてん信仰しんこうは、仏教ぶっきょう神道しんとう民間みんかん信仰しんこう混交こんこうして、複雑ふくざつ様相ようそうしめしている。

真言しんごん種子しゅし

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  • オン・ソラソバテイエイ・ソワカ (弁才天べんざいてんのろい[8]
    • Oṃ sarasvatyai svāhā.[8]
  • オン・ウカヤジャヤギャラベイ・ソワカ (宇賀神うがじんのろい[9]

種子しゅし種子しゅし)はस(ソ[9]sa[9])、उ(ウ、u),ह्रीं(キリーン、hrīṃ)[10]

弁才天べんざいてんまつおも寺院じいん

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辯天べんてんむねけい寺院じいん

弁才天べんざいてんまつおも神社じんじゃ

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市杵島いきしまひめいのちまつ神社じんじゃについては宗像むなかたさん女神めがみ市杵島いきしま神社じんじゃ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、胎蔵曼荼羅まんだらではそと金剛こんごういん西方せいほうはいされ、りゅうぞくおうでもある水天すいてん眷属けんぞく位置付いちづけられている。
  2. ^ 2ひじ宇賀うが弁才天べんざいてん場合ばあいは、その持物もちものは「けん」と「宝珠ほうしゅ」で荼枳あまてん同様どうようである。
  3. ^ 金光かねみつあきらけい』では「やまふかけわしいところ洞窟どうくつおよび河辺かわべ大樹たいじゅ叢林そうりんじゅうす」とかれる。
  4. ^ 江戸えど市井しせい弁天べんてん信仰しんこうもとづく。本所ほんじょ江島えじま杉山すぎやま神社じんじゃいち弁天べんてん洲崎すざき洲崎すざき神社じんじゃ弁天べんてん滝野たきのがわ松橋まつはし弁天べんてん現存げんそんせず)[7]深川ふかがわ冬木ふゆきべん天堂てんどう上野うえのにん中島なかじま弁天べんてんどう中之島なかのしま竹生島ちくぶしまなぞらえた人工じんこうとうである)、東大久保ひがしおおくぼ厳島いつくしま神社じんじゃ弁天べんてん
  5. ^ 江島えじま神社じんじゃべん天堂てんどう浅草寺せんそうじ弁天山べんてんさん東海寺とうかいじ (かしわ)布施ふせ弁天べんてん
  6. ^ 天川あまかわむら弁財天べざいてん普段ふだん公開こうかいがなく、60ねんに1開帳かいちょうときだけの拝見はいけんとなる。そのときには能楽のうがくはじめ『れい大祭たいさい』がおこなわれ全国ぜんこく各地かくちから観光かんこうきゃく信者しんじゃ天川あまかわむら参拝さんぱいまいる。てんかわだい弁財天べざいてんしゃ芸能げいのう関係かんけいしゃ信仰しんこうおおく、著名ちょめいじん東京とうきょうはじ全国ぜんこく各地かくちからもたくさん参詣さんけいる。最近さいきん開帳かいちょうは2008ねん7がつ18にち

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 定方さだかた あきら弁才天べんざいてん」 - 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)小学しょうがくかん
  2. ^ a b 水野みずのひろしもと増補ぞうほ改訂かいていパーリ辞典じてん春秋しゅんじゅうしゃ、2013ねん3がつ増補ぞうほ改訂かいていばんだい4さつ、p.346
  3. ^ a b c d e 弁才天べんざいてん性格せいかくとその変容へんよう 宿やどしん観点かんてんから山田やまだ雄司ゆうじ日本にっぽん史学しがく集録しゅうろく,17,8-26 (1994-12-01)
  4. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 木造もくぞう弁才天べんざいてん坐像ざぞう 1 - 鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう、2021ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ 長谷寺はせでら弁天べんてんくつ」、2019ねん2がつ16にち閲覧えつらん 
  6. ^ 和漢わかんさんさい図会ずえまきだい79。
  7. ^ [1]
  8. ^ a b 坂内ばんない龍雄たつお真言しんごん陀羅尼だらに」、平河ひらかわ出版しゅっぱんしゃ、2017ねん4がつだい30さつ、p214。
  9. ^ a b c しるし真言しんごんほん」、学研がっけん、2004ねん2がつ、p123。
  10. ^ 坂内ばんない龍雄たつお真言しんごん陀羅尼だらに」、平河ひらかわ出版しゅっぱんしゃ、2017ねん4がつだい30さつ、p326。
  11. ^ 弁財天べざいてんまつ神社じんじゃとおてら

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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